大衆文芸問答

国枝史郎




 問「大衆文芸と純文芸、どこに相違点があるのでしょう?」答「純文芸は叱る文芸、大衆文芸は叱らない文芸。ざっとこんなように別れましょうかね」問「変な云い廻わしじゃありませんか」答「ちっとも変じゃありませんよ。ひとつ簡単に説明しましょう。純文芸の作家連は、こう世間様へ申します。『俺の作はい作だ。お前達よ、読まなければならない。読まない奴はヤクザ者だ』そういう態度で書かれた物が、世にう所の純文芸です。これに反して大衆作家は、世間の要求に応じます。つまり世間の人達の方から、大衆作家に云いかけるのです。『ねえ大衆作家君、僕等の読みたいのはういう物です。こういう物を作って下さい』『はいはい宜敷よろしうございますとも、そういう物を作りましょう』さて其処で作ります。そういう態度で作られたものが、世に謂う所の大衆文芸です」問「どうもハッキリしませんね」答「では語を変えて云いましょう。世間の嗜好を顧慮せずに、書いた物が純文芸で、その反対が大衆文芸です」問「そうは云っても、純文芸の中にも、世間の嗜好を顧慮したものが、随分あるようじゃありませんか」答「それは勿論ありましょうね。要するに程度の問題です」問「世間の嗜好に投じてばかりいるのは、よい事ではありますまい」答「まず嗜好に投ずるのです。それから作者の思う所を、ジワジワと世間へ伝えるのです。――面白可笑おかしく読ませながら、思う所を伝えるのです」問「純文芸よりも大衆文芸の方が、読者の数は多いでしょうか?」答「ええうやら多いようですね。純文芸はルビ無し文芸、大衆文芸はルビ附文芸、これで解るじゃあありませんか」問「また変なことを云い出しましたね」答「ちっとも変じゃあありませんよ。ルビが無いということは、ルビが無くても文章の読める、教養のある人達を、相手にしているということになり、ルビが有るということは、仮名しか読めない人達をも、相手にしているということになります。そうして世間を見渡した所、どうも仮名しか読めないような、そういう人達が沢山あります」
 問「大衆文芸というものは、一体何時いつ頃から始まったんでしょう?」答「それでは貴郎あなたへ反問します。純文芸というものは、一体何時頃から始まったんでしょう?」問「ははあれでは貴郎としては、そういう問題を研究するのは、無駄であり不可能だというのですね」答「まずその辺におちつきましょうかね」
 問「大衆文芸というものは、何時頃から盛んになったんでしょう?」答「これもハッキリとは云えませんね。だが思う所を云ってみましょう。博文館から講談雑誌が出、講談社から講談倶楽部が出た、その頃からじゃないでしょうか」問「しかし其頃は二雑誌共、講談師や落語家の口演速記を、主として載せていたようですよ」答「それはまさしくお説通りです。ところが夫れ等の口演物が、筋としては千篇一律、材料から云えば少なかったので、その不足を補うため、大衆文芸家の作物を、掲載するようになったんですね。――だが勿論その頃には、大衆文芸だの大衆文芸家だの、そういう言葉はありませんでした」問「私の記憶にあやまりが無ければ、大衆文芸は震災後に、非常に盛んになったようですね」答「私もそんなように思って居ります」問「これは何ういう訳でしょう?」答「説明するには及びますまい。震災で人心が険しくなり、浮世が暮らし悪くなったので、其処で慰めて貰おうとして、雑誌や書物を読んだんですね。すると今も申しました通り、純文芸の作家達は、叱ってばかり居るでしょう。そこで人々はおびえてしまい、あんまり叱らない大衆文芸家の、作物へ食い付いて行ったんです。それを見て取った大衆文芸家は、宜敷いというので肌をぎ――鉢巻ぐらいはしたでしょう、続々名作を出したんですよ。そこで盛んになったんですよ。つまり需要と供給とが、程よく釣合が取れたんです」問「去年は随分純文壇の人が、大衆文芸を取り上げて、議論したようじゃありませんか」答「それに対して大衆文芸家は、ほとんど答えようとはしませんでしたね」問「全くあいつは不思議でした。どう解釈すべきでしょう?」答「答えることが無かったのか、答えることを欲しなかったのか、まあこの二つに帰着しましょう」問「もし前者なら不合理であり、もし後者なら利口すぎますね」答「そうです前者なら不合理です。自分のやっている仕事にいては、各自意見がある筈ですからね。そうは云っても大衆文芸家の中には、そういう不合理の心境に於て、書いていた人もあったようです。だが公平にもういう人の作は、世間の人に受けて居りません。そうしてさいわいにも然ういう人は、すくないようでございますよ。さて後者なら利口すぎるという、この言葉もあたっています。つまり貴郎の云おうとするところは、作家が評論を兼ねるということは、往々失敗を招くので、それで避けたというのでしょう?」問「まあ然う云った所です」答「もう一つ突っ込んで云いますと、作家が何等いずれか説を建て、それが不幸にも間違っていたり、あるいはひどく古かったり、乃至ないしは他人に反感を持たれたり、そんなようなことがあった場合、早速作家は裏を見られ、かなえの軽重を問われるので、苦痛であり損だという処から、障らぬ神に祟無し、このイキキで説を建てなかったんだと、屹度きっとこんなように有仰おっしゃいのでしょう」問「それに相違ありません」答「私も夫れに賛成します。しかし私にはもう一つ、別の思惑があるのです。それは他でもありません。大方の作家というものは、断片的には物は云っても、系統立てて物を云うことは、大変下手だということなのです。そこで皆さんがやらなかったのです、ええと、夫れからう一つあります。お互同士何んとなく、遠慮し合ったということです。ええと夫れから最う一つあります。創作の需要が非常に多く、論じる暇が無かったのです」
 問「純文芸家の人達が、大衆文芸を論じ出したのは、一体何ういう理由でしょう?」答「大衆文芸が隆盛になり、一つの社会的現象として、無視することが出来なくなったので、それで止むを得ず不本意乍ら、取り上げて論じたというものです」問「不本意ながらと仰有るのは?」答「大衆文芸というものは、あらゆる階級へ行き渡り、多くの賛成者を持っていましたが、或る一団の人達ばかりが、つい最近まで非常に頑固に、これを軽蔑し無視していました。それは他ならぬ純文芸家です。下等だ、非芸術的だ、嘘っパチだ。こんなものは一切認めない。こう非常に威張ってね。だが其中今も云った通り可成かなり隆盛になったので、『うっちゃって置くことも出来ないだろう、不本意ながら論じてやろうぜ』すなわち恩恵的態度をもって、これを論じたというものです。だからご覧なさい今日に於ても、純文芸家の大多分は、何かと叱ってばかり居りますから。だが勿論或人達は、熱意を以て賛成し、つ是を鼓舞してくれました。菊池寛さん、平林初之輔さん、藤井真澄さん、加藤武雄さん、堀木克三さん、橋爪健さん、なお此他にもありましたが、手許に参考書がありませんので、心覚えだけを記して置きましょう」問「芥川さんが文芸時報で『大衆文芸というものは、むしろ思想を織り込みやすい、そういう型の文芸だのに、どうして思想を織り込まないのだろう』こう質問して居りましたが、これに就いてご感想は?」答「けだし是は名言です。まさしく大衆文芸は、純文芸と比較して、却って思想を織り込み易い、そういう型を持って居ります」問「簡単に説明を願い度いもので」答「純文芸というものは、非常に極端に神経質に、完璧ということを必要とします。ですから思想を織り込むにしても、完璧性を傷付けないように、織り込まれなければならないのです、然るに一方大衆文芸は、勿論完璧は望ましいのですが、純文芸のそれのように、そう極端に神経質に、完璧ということを必要としません。もっとも夫れだから純文芸家達から、長い間外道視されたんですがね。で、そんなように大衆文芸は、完璧性の方面では、今日大いに得をして居ります。即ち思想を露骨に織り込み、完璧性を傷付けた所で、叱られないというわけです。ですから大衆文芸は、寧ろ思想を織り込み易い、そういう型の文芸ですよ」問「それにもかかわらず大衆文芸は、思想を織り込んでいないのですか?」答「これも遺憾乍ら芥川さんの説に、従わなければならないのです。尤も例外もございます。中里介山さんや白柳秀湖さん、それから時々テイマ小説のような、そういう作をする土師清二さんも、その一人として数えられましょう」問「だがしかし他の作家も、思想は織り込んでいるのですが、旨く人情でボカしているので、目立たないのではないでしょうか?」答「これは有りがちな強弁です。いかに人情でボカしても、いかに技巧でくらましても、思想を織り込んだ文芸なら、それが滲んで出る筈です」問「なまじ思想を織り込むと、世間様はいやがりはしませんか?」
 答「それは先刻も云いました通り、世間の人の嗜好を顧慮し、叱らずにジワジワと織り込んだら、まさか厭とは云いますまい」問「所で思想を織り込むとして、どんな思想を織り込むきでしょう?」答「これは一見愚問のようで、案外愚問じゃありませんな。……各作家の各自の思想、これを織り込むには相違ありませんが、さて其思想が現代離れのした――秋田雨雀さんの云い廻わし方をもじれば――『昨日の思想』や『一昨日の思想』では、大いに困るということになります。けっきょく『今日の思想』なるものを、織り込まなければならないのです」問「今日の思想、と有仰ると?」答「それは読んで字の如しです。今日の思想! とこう云っただけで、その内容が解らないような人には、今日の思想を説明した処で、けっきょく矢張やはり解らないでしょうよ」問「では解ったとして置いて、その『今日の思想』なるものは、大衆文芸のみならず、純文芸へも織り込む可きでしょう?」答「それは云うまでもありません。だが併し大衆文芸へは、特に織り込まなければならないのです」問「それはどうしたわけでしょう?」答「大きな声では云われませんが、迂闊うっかり大きな声で云って、純文芸家達に知れようものなら、一喝を喰うのは見たようなものです。だから小声で云いますがね、どうも今日の純文芸は、書斎芸術の境地にあり、大衆文芸は夫れに反し、辻文芸の域にあります、で、書斎へ通るものは、勿論例外はありましょうが、大方は教養ある紳士淑女です。ですから間違って『昨日の思想』や『一昨日の思想』を伝えた所でその人達は取捨選択します。ですから比較的安全です。辻の方は然うは不可いきません。教養の無い連中の方が、一層多く通ります。で然う云う人達へ『昨日の思想』を伝えると、選択をせずに信じてしまいます。ですから辻芸術たる大衆文芸は、特にしっかりと『今日の思想』を、織り込んで置かなければなりませんね」問「織り込んでいる人があるでしょうか?」答「ええ数人はありましょう」
 問「去年からかけて今年までに、どういう大衆文芸家が、活躍したか教えて下さい」答「堀木克三さんがサンデー毎日で、五名ほど上げて居りました。その中四名だけ記しましょう。中里介山、白井喬二、長谷川伸、土師清二、これらの人でございますね」問「勿論この他にもあるのでしょうね?」答「あるともあるとも大有りです。あんまりあるので上げ切れないのです。特に大仏次郎さんなどは、働いた部に属しましょう。直木さんだって抜かせませんね。――だが以上は大衆文芸の中、髷物に関して述べたのですよ。これ以外にも現代物があります。しかし今日大衆文芸と云えば、大方髷物を指すようですね。大衆現代軽快物の方では、森暁紅さん寺尾幸夫さんが、よい物を見せてくれました」問「大衆文芸の功労者は?」答「よく働いてい作を見せた、数多くの大衆文芸家と、大衆文芸を論議してくれた、数多くの純文芸家と、大衆文芸を鼓舞してくれた、大衆文芸物の雑誌編集者です。特に生田蝶介さんは、よい作家を産んでくれましたね。同氏今や博文館を去る。しかし此人は大衆文芸家として、打って出るだろうと思われます」
 問「純文芸の作家連も、大衆文芸へ手を染めましたね」答「叱り乍らも手を染めました」問「これに関してのご感想は?」答「大して感想もありません。だが一言申しましょう。純文芸壇は鎖国主義で、大衆文芸壇は開港主義だとね」問「防ぐだけの実力が無かったので、止むを得ず開港したんでしょう」答「そういう見方も一理あります。しかし夫れより重大なることは、明治初年の日本人達が、西洋人を迷信したように、大衆文芸家その人達や、大衆物雑誌の編集者達が、純文芸家の人々を、迷信したのが原因です」問「菊池寛さんが斯う云って居ります。『或る天分を持った者が、大衆文芸家として成功し、或る天分を持った者が、純文芸家として成功した』と」答「私にもそんなように思われます。しかし大多分の純文芸家は、それとは反対に云っていますね。『純文壇へ来た所で、ウダツの上らない連中が、大衆文芸の畑へ行き、ようやくウダツが上ったんだ』とね」問「それは勿論偏見でしょうね?」答「いまだに象牙の塔に住み、唯我独尊主義を奉じている、偉い人達のご託宣でしょう」
 問「此処で問題を変えましょう、探偵小説が流行って来ましたね。探偵小説時代という、こんな言葉さえ云われて居りますが、これは信じてよいでしょうか?」答「可成り信じて可いようです」問「可なりというのは何ういう意味です!」答「日本の純粋探偵創作壇、これを標準にして云う時は、多少割引が必要でしょう。作家の数から云う時も、作品の量から云う時も、またその質から云う時も、全盛時代とは云えません。ただし探偵創作物が、日本の読書界に現われてから、僅々きんきん数年にしかなりません。これを考慮に入れて云えば、可成り全盛になったなぁと、感嘆しても可さそうです。だが立場を代えて云えば、探偵小説時代という、この掛声は是認出来ます」問「それを聞かせて戴きましょう」答「多くの大衆文芸の中へ、探偵質が織り込まれている。この点から云えば全盛です」問「個々の作家の特徴に就いて、御意見を聞こうじゃありませんか」答「それはいつぞや読売新聞で、一通り云ったつもりです。そうして其後の作家評と、そうして其後の作品評とは、平林初之輔さんが新青年誌上で充分云って居るようです」問「そうして貴郎は其説に、全部賛成しているのですか」答「それより私は斯う云い度いのです、平林さんがああ云って以来、私の云うことが無くなったんだとね」問「それは大変お気の毒ですね」答「いや、ひどく可い気持です」問「純文芸の作家達が、探偵小説へ手をつけましたね」答「大衆髷物へ手を付けたようにね」問「その出来栄えは如何いかがです?」答「それは甲賀三郎さんが、これも読売新聞で、既に批評をしています」問「それに貴郎は賛成ですか?」答「そうです私は賛成です」問「現代日本の探偵小説壇を、一口に云ったら何う云えましょう?」答「叱る人があるかも知れませんが、私はこんなように云い度いのです。『西洋探偵小説の、翻訳時代から一歩進み、創作時代へ這入はいったんだ』とね」問「翻訳にしろ創作にしろ、かくも今日探偵小説は、流行していると思われますが、その原因は何んでしょう?」答「私は探偵小説をも、大衆文芸の其中へあえて加えて居るものです。そうして私は前段に於て、大衆文芸の隆盛になった理由を、説明して置いたつもりですよ」
 問「それは解って居りますが、併し探偵小説という、特殊の名称のある物を、特に手中に取上げて、流行の原因を探るのも、不可能のことでは無さそうですね」答「それは勿論可能です。では簡単に云いましょう。ひどく平凡なことですがね。探偵小説というものは、秘密と秘密の曝露とを、取り扱った文芸です。ところで人間というものは、その二つを好みます。ですから探偵小説が、多くの人に愛読され、流行をきたしたと云いたいのです」問「しかし最近めっきりと、流行はやり出したのは何故でしょう?」答「その事に就いても最う私は、読売新聞や其他の雑誌で、断片的に云った筈です。しかし最う一度繰り返しましょう。『探偵小説新趣味』や『新青年』や『秘密探偵雑誌』これらの雑誌が震災前から、西洋探偵小説の、移植を計ったのが原因の一つ、その中新青年の編集者たる、森下雨村さんと小酒井不木さんとが、優秀なる探偵小説家達を、日本人の中から選び出し、それを世間に紹介し、そうして夫れらの小説家達が、大方の期待に背むかないような、相当の佳作を発表したのが、探偵小説創作熱を、高める原因になったようです。最近に至って春陽堂が、此方面に力を尽くし、一層勢を高めました。見遁みのがすことの出来ないのは『探偵趣味の会』の事業です。最近に出来た会ですが、有益な仕事をやって居ります。孤塁奮闘松本泰さんが、女房役の中野圭介さんと、『探偵文芸』を発刊し、斯界に貢献しているのも、決して見遁してはなりませんね」問「優秀なる日本の探偵小説家には、どんな人達がいるのでしょう?」答「春陽堂から発行された『創作探偵小説選集』これへ盛られた人達を、ず数えてもいいでしょう。尚この他純文壇の人で、数も多く質にも優れた、探偵小説を作って居る人に、片岡鉄兵さんがいるようです」
 問「最近に現われた斯界の名著は?」答「江戸川乱歩さんの『屋根裏の散歩者』これはまさしく好い本です」問「探偵小説の其中へも、思想を織り込むか否かに就いて、一部で論じられているようですね」答「論じる必要も無い程に、明瞭な問題にもかかわらず、矢張り論じられているようですね」[#「ようですね」」はママ]織り込んだ方がいいと云うことも、織り込む可き思想とはどんな思想か? どういう手段で織り込む可きか? これに就いては前段に於て、既に説明をして置きました。それをそっくり探偵小説へも、宛てむ可きだと思いますよ」問「織り込んでいる人があるでしょうか?」答「大衆文芸髷物に於て、思想を織り込んでいる人が、可成り少数であるように、探偵小説の方面でも、織り込んでいる人は少いようです。それのみならず数人の人は、思想質なんか織り込んでは不可いけない。こう云って力んでいるようですよ」問「本格物と変格物、この議論もありましたね」答「私の記憶にあやまりがなければ、たしかこの言葉は甲賀さんが、云い出したもののように思われますね。こういうような範疇をつくり、物を論ずるということは、便利という点で結構です」問「どっちの方が可いのです」答「これは問題になりませんなあ。若槻宰相が云って居ります、エエものはエエとして、ワリエものはワリエとして、是は全く名言です。で私も云いましょう。本格物だってエエものはエエ、本格物だってワリエものはワリエ、変格物だってエエものはエエ、変格物だってワリエものはワリエ」問「貴郎の好きな作家と作品は?」答「云えないこともありませんが、併し是は遠慮しましょう。私が好きだと云った所で、その人とその人の作品が、価値を高めるものでは無し、結果は反対かもしれませんからね。それに第一『私が』だの、乃至は『俺が』だのをブラ下げると、ひどく垢抜けないことになり、田舎者が愈々いよいよ田舎者になります。まあご覧なさい大トルストイだって、あんまり『俺が』を鼻の先へ出すと、ちっとも『俺が』を鼻の先へ出さない、大ドストイエフスキイの人や作へ、親しみを感じるじゃあありませんか。……だが一つだけ上げて置きましょう。牧逸馬さんが新青年へ載せた『短篇集』は愉快なものでした」問「大衆文芸問答も、まず此辺で切り上げましょうかね」答「思うことの十分の一、いや思うことの百分の一も、云われなかったのは残念ですが、どうも致し方がありません。そうして私は思うのです。こんな鳥瞰的の記事に対しても、吃度叱る人がありますとね。どうしてあの作を問題にしなかった、どうしてあの人をオミットしたかってね」問「答えない方がいいでしょう」答「ところが然ういう連中に限って、腕ッ節が強くて執拗でね。こいつにぁ全く降参します」問「それは夫れとして、〆めましょうかね。では、鳥渡ちょっとお手を拝借」答「さあさあ夫れでは〆めましょう」御両人「シャンシャンシャンシャンシャンシャン……さあ、お開きになりました」





底本:「国枝史郎探偵小説全集 全一巻」作品社
   2005(平成17)年9月15日第1刷発行
底本の親本:「新小説」
   1926(大正15)年4月
初出:「新小説」
   1926(大正15)年4月
入力:門田裕志
校正:hitsuji
2019年7月30日作成
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