夕飯の時刻になったので新井君と自分とは家を出た。そして自分の行きつけの――と云っても二三回行っただけの――
「日本人は一人も居ないんだね」
新井君は不意にこう云ったが、自分にはその意味が解らなかった。
「日本人が一人も居ないとは?」
「
「何故?」と自分は訊き返えした。
「特別に料理が
「新聞記者だけのことはあるね……君のいう通り此処の主人は、六十位の支那人だよ」
その時ボーイが近寄って来て、別の料理を置いて行った。
「
新井君はこう云って
「先刻のボーイは
自分は壁に貼ってある
ボーイは自分達がそんな噂をして居ようとは夢にも知らず、正面の壁に背を持たせかけ、水煙草を一心に吸っていた。
その時ゾロゾロと戸口から、どうやら支那の留学生らしい、一群が
「留学生だね、
「君は東京へ来たばかりだから、そんな噂は聞かないだろうが、何んでも
「
「それは
「広東葱って何のこと?」
「広東葱は広東葱さ……ほんとにこの店は感心だ。本場の物を使っている。しかし一体広東葱を何処に保存しているのだろう。それとも支那から取り寄せるのかな。それとも作ってあるのかしら?」などと云って新井君はその葱を珍らしそうに見廻わしていた。
翌日自分が二階にいると、新井君がフラリと這入って来た。
「例の支那料理へ行こうじゃ無いか。今日は一つ僕が御馳走しよう」
「大分お気に召した様子だね」自分は笑って立ち上った。
「本場の料理を食わせるからね」
「広東葱を食わせるからね」茶化すように自分はこう云った。
自分達が戸を開けて這入って行くと、ボーイが支那流に笑い
「例のボーイがいないじゃ無いか」新井君は
美少年のボーイはいなかった。
私達は随分皿を代えた。
「オヤオヤ美少年が出て来たよ」
実際新井君が云う通り料理場の口からそのボーイが水煙草を吸い乍ら出て来たが、自分達には目もくれず正面の壁へ寄りかかった。そうして誰かを待っているように戸口ばかりに眼をやった。
戸口が開いてドヤドヤと留学生達が這入って来た。例のボーイはさも嬉しそうに、彼等の群へ飛んで行き、その中でも特に人目に付く、立派の顔立の留学生と
「素敵な指環を
「千円以上のものだね」自分は
「あの光沢を見るがいい。三千円以上の
外へ出てからも新井君は何か熱心に考えていたが、
「どうも変だよ」と呟いた。
「何が変だい?」と訊き返すと、それには一向返事もせず
「それでは例の事件と、あの支那料理の連中とが関係があるとでも云うのかい?」
「それは明言出来ないがね」新井君は微妙の
二三日経つと新井君から次のような手紙が舞い込んだ。
「あの支那料理には美人がいるね。しかも素敵な支那美人が。君はそのことを知ってるかね? 恐らく君は知らないだろう。支那の美人と美少年! ほんとにあの店はいい店だ! だから今夜また行こうじゃ無いか。誘いに行くから待っていたまえよ」
夜になると新井君がやって来た。
「ほんとに支那美人がいるのかい?」早速自分は訊いて見た。
「たしかに僕は見たんだよ……昨夜一人で行ったのさ。その時僕は料理場を通って便所へ行ったと思い給え。そうすると料理場の横手の方に小座敷が一つあったんだ。その小座敷にいたんだよ。しかも老人と一緒にね。老人はあすこの主人だろう。女は妾だと睨んだが、この眼力は狂うまいよ」
同じ机へ陣取った。
「オイ」と新井君は美少年では無いもう一人の方のボーイを呼んだ「この家に別嬪が居るだろう? 素敵な支那の美人がさ」
「別嬪?」とボーイは不思議そうに「いいえ、別嬪、居りましえん」とアクセントの違った日本語で云った。
「何んの居ないことがあるものか。確に僕は見たんだよ」
するとボーイはもう一人の美少年のボーイと眼を見合わせたが、
「いいえ、別嬪さん、居りましえん」と同じ返事を繰り返した。
その晩に限って新井君は容易に帰えろうとしなかった。午前一時の時計が鳴ると、ボーイ達は店を片付け出した。その時ダイヤの指環を穿めた例の留学生が這入って来た。と
「勘定!」と突然新井君が云った。美しいボーイが飛んで来て「四円五十銭」と計算した。
ボーイが勘定を受取って帳場の方へ行きかけるのを不意に新井君は呼び止めた。そうして五十銭の銀貨を握り、
「チップだ、
「さあ帰えろう」と新井君は満足そうに微笑した。
翌日自分は床の中で朝刊を開らいて読んでいた。社会面にこういう記事があった。
□葱畑の殺人
――支那留学生の惨死――
「今十五日午前四時頃、高田雑司ヶ谷裏手の葱畑にて、学生風の男倒れ居たるを折柄朝出の農夫発見! 附近の交番に届け出でたる――支那留学生の惨死――
探索の結果被害者は×××大学に在学中の支那留学生
「留学生とは可哀そうだ」自分は単にこう思っただけで深い疑問も起さなかった。
夕方新井君がやって来た。
「今日の朝刊を見たろうね?」新井君は直ぐに私に云った。
「見たよ」と自分は云いながら、変にむずかしい表情をしている新井君の顔を見守った。
「葱畑の殺人を読んだかね?」
「支那の留学生が殺された記事?」
「ウン」と新井君は頷いて「広東葱の畑でね」
「え?」と自分は眼を見張った。
「広東葱の畑の中で支那の留学生は殺されたのさ」
新井君は険しく眉をひそめ、
「その殺された留学生は、例の支那料理でよく見かけるダイヤモンドの指環の主だ」
「君は死骸を見たのかい」
「勿論現場へ駈けつけたのさ……僕は社会部記者だからね……ところで屹度取られたのだろうダイヤの指環は穿めていなかった」
自分は
「君はこの事件を
「さあ」と新井君は考え乍ら「
「恋の遺恨とでも言うのかな」
自分は何気なく斯う云った。
被害者が富豪の子息であり、支那の留学生というところから、事件は重大となったと見え、その日の夕刊の社会面は
多くのそれらの記事の
「ホー」と自分は
自分は前夜その学生が、夜遅く黄華軒へやって来て美しいボーイと囁いた後、立帰ったことを思い出した。
「つまりその後で又来たんだ」
自分はなんだか
翌日の朝刊の社会面は半ばこの事件でふさがれていた。
「おや!」と自分は声をあげた。
被害者が指に穿めていたダイヤモンドの高価の指環を、黄華軒の美しい例のボーイがちゃんとその指に穿めて居たので嫌疑者としてそのボーイが拘引されたという記事が、一号活字で記るされていた。
「まさか美少年のあのボーイが殺人罪は犯すまいが、それにしても指環を穿めていた以上何か関係はあるのだろう」自分はなんだかそのボーイが可哀そうに思われてならなかった。昼過ぎに新井君がやって来た。
「これから曲馬を見に行こう」
「曲馬ってどこの曲馬をだい?」
「勿論浅草の曲馬をだが……君が
「久々で浅草へ行こうかな」
そこで二人は家を出た。
中店を一寸右へ這入ると其処にバラックの小屋があった。
自分達は其処へ這入って行った。曲馬と八木節と軽業と、次々に行う曲芸を二人は笑い乍ら見ていたが、
「面白くないから出ようじゃ無いか」と先へ立って小屋の外へ出た。
活動小屋のある方角へ自分達はブラブラ歩いて行った。
「花屋敷へ這入ってみようじゃないか」
そう云って新井君は這入って行った。二人は園内を
「蛇って奴は無気味だね」
蛇の檻の中をすかして見て新井君は忌わしそうに呟いた。
大きい檻の横の方に小さい檻が出来ていたが中には蛇がいなかった。
「その檻には蛇が居ないようだね」新井君はその前で立ち止まった。
自分達は尚もブラツイた。
「君ちょっと待っていてくれたまえよ。僕ちょっと事務所へ行って来るからね」
新井君は自分を置き去りにして事務所の方へ走って行った。
間もなく新井君は帰って来たがその顔はニコニコ笑っていた。
「そろそろ
で又新井君が先に立ち花屋敷を脱けて外へ出た。そして電車へ飛び乗った。
「何のために事務所へ行ったんだい?」
「
神楽坂で自分達は電車を降りた。カフェーオザワでコーヒーを飲みその辺を一廻りひやかしてから別かれるために立ち止まった。
その時
「君々!」
と新井君は呼び止め乍らその男の方へ飛んで行った。そうして
「一体あれは何者だね?」
「僕と親しい刑事だよ」
新井君は心地よげに笑ったが、
「見給え明日あのボーイは屹度放免されるから……それでは此処で失敬しよう……また明日の晩訪ねて行くよ」
立ち去る新井君を見送り乍ら自分は
果して翌日の新聞を見ると黄華軒のボーイは証拠不充分で放免されたと書いてあった。
「ほんとに新井君の云った通りだ」
自分は変な気持がした。早く新井君がやって来て、どうしてボーイが放免されたか、その理由を説明して欲しかった。自分はそこでこの怪しい殺人事件が起ってからの
黄華軒の美少年――料理の中の広東葱――宗社党の陰謀の噂――素晴らしいダイヤの指環を穿めた風采の立派な支那学生――座敷にいたという支那美人――美少年ボーイとダイヤを穿めた支那の学生が夜遅く親しそうに囁いていたかと思うと、そのまま学生が立ち帰った事――その夜起った殺人事件――死骸に傷の無かった事――二人で浅草へ行った事――新井君が蛇のいない檻の前で暫く
事柄はざっとこれだけである。
「誰が一体犯人だろう?」
どう考えても解らなかった。自分は待遠しい心持で新井君の来るのを待っていた。
夜遅く新井君は訪ねて来た。
「僕の予言は当ったね」
新井君はすぐに自慢した。
「どうして君は知ったんだい? ボーイが放免されるってことを?」
「知っているわけさ、この僕自身が、ボーイを放免したんだもの……がまあそんな事はどうでもいいよ。そんな事より素晴らしいものを今夜は君に見せてやろう」
「何んだい夫れは」と訊き返えすと、
「即ち宗社党の留学生達が、ある建物へ集って、密議をしているその有様を、君に見せようと思うのさ」
「いよいよこいつは面白くなった」
「それでは一緒に出かけよう」
自分達は深夜の町へ出た。
自分は新井君の後について、夜の巷をさまよいました。そうして郊外の一箇所に、夜の暗黒に包まれて、ある一軒の洋館に近づいた。窓が一つだけ開いていて
「広東蛇だよ、あの蛇は」その一行が立ち去るのを見送り乍ら新井君は満足そうに言った。そして足許を指さして、「見給え此の辺一面を、広東葱の畑だよ」「それが何うしたというのだね?」自分は愚かにも尋ねた。
「広東蛇は毒蛇だよ」「そして非常に広東葱の味と匂を好むのさ」「それが何うしたというのだね?」「花屋敷の檻を逃げ出した広東蛇が此の畑の葱の間に隠れていたのを、夜遅く
そうすると新井君は笑いました。
「そう言って君を瞞したのさ。君はトリックにかかったのだよ。僕のトリックに
「
「あれはあの辺の教会だよ!」