人間製造

国枝史郎





 大阪の町は寂しかった。
 はもう三時を過ごしている、つまり時刻は真夜中であった。その時一人の労働者が力の無い足どりで歩いて来た。
「今日で俺は二日、飯を食わねえ、いつマア食物に有りつけるんだろう? 一寸先ぁ暗闇だ。何時いつありつけるか知れたものじゃねえ。とると生命いのちの問題だ! へ、人間て云う奴ァ屹度きっと恐らく此様こんな時に盗賊ぬすっと根性を起こすんだろうぜ。何しろ生命の問題だからな。死ぬか生きるかの問題だ。盗みをしなけりゃ食う事が出来ねえ。食う事が出来なけりゃ死んでしまう。そうだくたばって了うのだ! ……くたばる! くたばる? へくたばり遊ばすのだ! おお、いやな事だ真平まっぴらだ! ――死ぬのが厭なら食わなけりゃならねえ。が一体うしたら食えるんだ? 東京、横浜、そして神戸――それから一昨日おとついこの町へ来たんだが、どこの工場こうばでもお断りだ。実は今人減しの最中なんでね……何処も彼処かしこも同じご托宣だ。そこで余り外見みばの好くねえ労働者の乾物っていう奴が、出来かかっていると云うものさね。――ところで此処は何処なんだろう?」
 こんな事をブツブツつぶやながら、大きな建物の角を曲がり、左手の方へ歩いて行った。
 彼の歩いて行く往来の右手に、運河と云ってもよいほどの大阪特有の堀割があって、対岸の大きな建物から、水面へ落す燈火ともしびの光が、虹のように美しく見えていたが、勿論飢えたる労働者には、綺麗だとも素晴らしいとも思われなかった。
 三町あまりも歩いた時、堀割を越して向うへ行ける長い橋があったけれど、彼は渡ろうともしなかった。しかし其辺は海の入口かして、プンと潮臭い生暖い風が、彼の鼻のを吹き過ぎたので、鳥渡ばかり小鼻を蠢かした。
「一体ここは何処なんだろう?……俺にっちゃあ大阪は今度が初のお目見得なんだからな。何が何処にあるんだか解りァしねえ……、ああ本当に厭だ厭だ! 様子の知れねえ町の真中を、宿も取れずこんな夜中に、あても無くウロウロ歩き廻わるなんて――おや、畜生、野良犬までが、迂散に思うかして吠え付きあがらあ」
 往来みちは橋から左へ曲がるので、彼も道なりに左の方へよろめき乍ら歩いて行った。と又一つ橋がある。其橋を渡って少し行くと、洋館ばかりが立ち並んでいる寂しい寂しい街通へ出たが、もう此頃から彼の脚は彼の命令いいつけに従わなくなった。つまり歩けなくなったのである。
「脚まで俺を馬鹿にしてやがる!」
 泣声でうは呟いたものの、さて他にようも無かったので、野宿の場所を探がし始めた。併し其辺には彼の意に適った思わしい隠場所も無かったので、命令いいつけかない二本の脚を、無理に引擦ひきずってた歩き出した。斯うして半町も行った頃、大きな建物の前へ出たが、もう其時は脚ばかりで無く、体も精神こころも疲れ果てて、歩こうにも足が出なかった。
「一体俺は何うなるんだ! ええう何うなろうとままにしやがれ! おや、眼がグルグル廻わり出したぞ。や、胃のあたりが痛み出した。このまま俺はお陀仏かな……」
 斯う云い乍ら、大きな建物へ、彼はドシリと衝突ぶつかった。
 と、其処に鍵を掛け忘れた切戸でもいていたと見えて、ギギーというかすか軌音きしりねと共に、其戸にせなかを持たせかけたまま彼の体は建物の中へまことに自然に辷り込んだ。
 彼はすっかり驚きもしたが、其拍子に精神こころが引締りもした。で彼は素早く眼を配って四辺あたりの様子を窺った。其処は何うやら裏庭らしく桐の木が矗々すくすくと立っている。そして眼の前には大きな建物の入口らしいものが見えている。
「学校かな、それとも役所かな?」
 呟き呟き近寄って行き、入口から内部なかを覗いて見た、長い廊下が通じている。薄暗い燈火が只一廊下の一ところに灯っている、そして廊下の左右には幾個いくつかの部屋があると見えて扉に付いている白い取手が茫然ぼんやりと彼の眼に見えた。全体の様子が非常に陰気で人が居るとも思われない。
愈々いよいよこれは役所だわい。まさか警察ではあるめえな。浮浪人が警察署へ飛び込むなんて余り気の利いた図じゃねえ」
 彼はしばらく考えていた。
 そのうちに彼は眠くなった。そうして益々空腹になった。何より現在いまの彼に執っては、やわらか寝所ねどこと温かい食物――何さ、冷でも結構であるが――この二つが必要であった。
「そこで」と彼は自問自答した「かく此処は役所に違えねえ。とると小使の爺さんぐらいは宿ってるに相違無え。で、お願いするんだね――とっさん誠に済まねえが、飯を一杯振舞ってくんな。掛値のねえところ今日で三日、何んにもおらあ食っていないんだ――すると、人のいい小使なら、おおきに其奴ァ気の毒だな、遠慮はいらねえ食べるがいい。別にご馳走はねえけれど鰹の刺身があったっけ……位いの事は云うかもしれねえ。一つ小使部屋を見つけるとしょうか」


 一引締まった精神こころも、余りの空腹と疲労つかれめに、復もだらけて朦朧となり、虫の好いこんな事を考えながら、彼はフラフラと入口から廊下の方へ這入はいって行った。
 廊下は可成かなり長かったが、さりとて一町もありはしない。ところが彼には其廊下が一里もあるように思われた。はげしい飢餓うえは往々にして酒に酔ったような状態を其人に起こさせるものであるが、すくなくも彼には左様そうであった。
 兎もすれば蹣跚よろけて倒れそうになったり、時々左右の室へぶつかったりして、彼はノロノロと歩いて行った。
 やがて廊下は突当たり、突当たった所から左右に向って、一筋の廊下が走っていた。
「はて、どっちへ曲がろうかな?」
 彼は鳥渡ちょっと当惑したが、次の瞬間には左へ曲がった。そうして二三歩蹣跚き歩いた。
 途端に鋭い男の声が、右側のしつから響いて来た。
「泥棒! 泥棒※(感嘆符二つ、1-8-75) 泥棒!」と。
 すると、左側の室からも、
「人殺!」
 と、叫ぶ声がした。
 彼が何んなに驚いたか、説明するにも及ぶまい。彼は全身汗に濡れ、口と眼をポカンと開けたまま、杭のように廊下へ立ち縮んだのである。
不可いけねえ……」と彼はうめき出した。「不可ねえ、遂々とうとう見付かった! 泥棒、人殺、て云やァがる! 不可ねえ不可ねえ見付かっちゃった……」――この一刹那彼の眼には色々の幻が見えて来た。左右の室々の戸口がく。無数の人間が飛び出して来る。みんな、拳骨を振り上げている――その又拳骨の大きいことは! ――一人の男がじゃのような気味の悪い縄を持っている。みんなが自分をどやし付ける。上句あげくの果に縛られる。そこへ巡査がやって来る。それから警察。それから牢屋! 牢屋じゃァ無い刑務所だ。その刑務所の鉄格子……。
「駄目だ! 不可ねえ! もう駄目だ!」
 彼は突嗟に観念した。縛りいように両手を差し出し、そうして堅く眼を閉じた。
「泥棒と疑われても仕方がねえ。こんな夜中やちゅう弁解ことわりもせず、こんなきたな身装みなりをして他人ひとうちこっそり忍び込んだんだからな……早く縛るがいい何を為ているんだろう?」
 彼はヒョイと眼を開いて見た。と、四辺あたりは静である。戸も開かなければ人も出て来ない。廊下と室々とが並んでいるばかりだ……。
「はてな?」と、彼は首を傾けたが、にわかに全身総毛立った。
「こりゃ、化物屋敷かな?」
 う思うと同時に遠くの室から、
「むーう」とうなる声が聞えて来た。
「助けて! 助けて! 助けて!」
 と、泣叫ぶ声も響いて来たが、両方ながらぷつりと消えて、森然しんと復もや静になった。すると今度は正面の室から、女の笑う嬉しそうな声が「ホ、ホ、ホ、ホ、」と高く聞えて来た。
「わっ!」
 と思わず労働者は、場所柄も忘れて声を上げたが矢庭に廊下をつっ走った。彼は普通の労働者としては、比較的文字のある方ではあったが、併し矢張やはり労働者らしい強い迷信は持っていた。で、深夜に迷い込んだ此気味の悪いがらんどうの家が、化物屋敷だと思い込むや否や、飢えも疲労つかれも忘れて了う程の劇しい恐怖に捉らえられたのであった。
 彼はほとんど無我無宙に広い建物の中を走り廻わった。どうしても戸外そとへ出られない。走っても走っても廊下である。彼はすっかり眼がくらんで、二階の方へ駈け上がって行った。二階にも矢張り廊下があって、廊下の左右には室があると見えて、扉がズラリと並んでいる。
「恐ろしい! 恐ろしい!」と呻きながら、精も根も尽き果たした彼は、扉の一つへ体を持たせかけて遂々両手で顔をおおった。
 と、持たれていた其扉が、復も不思議にも自然にいて、彼は室の中へ転がり込んだ。
 途端に斯ういう声がした……。
「大変お待ちしていましたのよ……さあ早く来て手伝って頂戴」――れは若々しい女の声だ。
 彼は茫然ぼんやり佇んだまま室の中を見廻わした。夫れはガランとした大きな室で、机と椅子とは置いてあるが、人の姿は見えなかった。が併し彼は室の横手に黒い垂幕が掛かっていて、幕の背後うしろにも室があり、たった今彼に呼びかけた、若々しい美しい女の声はその室から来たのだということが、直覚的に解かって来た。
「やっと人間にありついたぞ」
 ……彼は俄に安心し、いくらか肝も大きくなった。化物屋敷で人間と逢う! 地獄で仏に逢ったようなものだ。で、彼はつかつかと、隣室の前まで走って行き入口の垂幕を引き開けた。
「へい、私でございますが、何かご用でございますか?」


 彼の這入って行った其室は、鳥渡予想に反していた。壁も天井も床板も悉皆しっかり純白に塗られている。真中に置いてある寝台だけは鉄製の堅固の物であったが、その上に寝ている人間の上には矢張り白布が掛けてある。そして寝台の左右には二人の男女が立っていたが、是も白い手術服を纏っている。男は外人で其頭髪かみのけは、麻のように白かった。鷲のような高い鼻。鼻下の髭さえ真白である。鋭い大きい緑色の眼、洋人特有の淡紅色の皮膚。――そして其外人は中肉ではあったが非常に身長たけは高かった。
 女の方は日本人で、これも身長みたけは高かったが、肉附は大変悪かった。しかし容貌は美しかった。ただに美しいというよりも、夫れは無類に蠱惑的であった。
 外人の側には硝子製の、長方形の棚があったが、解剖用のメスや鋏が銀色の光を発しながら、幾個も其上に載せてあった。
「おや、役所では無かったのか。……ははあ、此処は病院だな」――労働者はようやく気が付いた。「それじゃ瘋癲ふうてん病院だな! 先刻の恐ろしい叫声はありゃ狂人きちがいの声だったんだな」斯う思うと彼は、自分の周章あわて方が、急に可笑しく思われて来た。で彼は思わず声を立てて、さも愉快そうに笑い出した。外人と日本人の看護婦とは、彼が室の中へ現われた時から、さもさも驚いたというように、幾度も顔を見合わせたが、侵入者の愉快そうな笑声わらいごえを聞くと美しい看護婦は手を振りながら、一足彼の方へ近寄って来た。
「貴郎は一体何人どなたですの? そして何んの為にこんな深夜にこんな所へいらっしゃいましたの?」
「へい、私は労働者なんで……本田捨松っていうんですが……何ね、実は表の切戸が、斯う自然と開いたものですから……それに大変空腹でもあったし、ついフラフラとなかへ這入りますと……」
「ああ解りました。では何んですね、食物がほしいって有仰おっしゃるのね?」
「そうです! そうです! そうなんですよ!」――労働者の本田捨松は飛び付くように斯う云った。
 すると美しい看護婦は、いくらか安心したようにほのかの微笑を浮かべ乍ら威厳のある外人の顔を見た。と外人も微笑を浮かべ、流暢りゅうちょうの日本語で、斯う云った。
「……それでは此人に頼みましょう。そうです手伝っていただきましょう……Aさん何か故障でもあって、来られないのかも知れません……それに時間もありません……麻酔が醒めると困りますからね」
「ええ、それでは左様そうしましょう」捨松の方へ顔を向け「ご覧の通り此しつでね、是から手術を致しますのよ。ところで一人助手の方が、手伝って下さる筈でしたの。それで裏木戸と此室の戸とを、開けたままで置いたのですわ。ところが其方は参らずに貴郎が代わりに来たというものよ……それでね、大変ご迷惑でしょうけれど、貴郎手伝って下さらない? 屹度きっと手伝って下さるわね」――したたるような色気を持った、娼婦のようなものの云い方で彼女は彼に斯う云った。喩え其願いが無理であろうとも、承知せずにはられないような、不思議に魅力のある声である。
「へい」と捨松はへどもどして「一体私に出来ることなんですか?」
「どんな素人にだって出来ますわ」
「でも……」と捨松はなお渋って「私はかつえているんですよ。三日も何んにも食わないんですよ」
「無論、報酬は差し上げる」突然外人が口を出した。
「よろしい。お金を差し上げよう。それで何か食べるがよろしい」
「へ、お金を下さるんですって? そ、そいつァ有難えや! ようがす、どんな事だってやりますよ! 人殺しだってやりまさあ。が、全体どんな事でしょうね? 私のやろうって云う役割は?」
「ここに寝ている此患者のね、ただ両脚を抑えるだけよ」
「成程、こいつぁ何んでもねえや」
「でもね、少しねますから」
「何処かひどく切るんですか?」
「胸の辺へメスを宛てるだけなの」
「そうですか。胸へね。へへえメスをね……」
「そうして心臓を取り出しますの」
「…………」
「いいえ、何んでも無いことですの。大変やすい手術ですのよ」
「だって、心臓を取り出すなんて、そんな器用のこと出来るものですかね?」
「ええ、出来ますのよ。私達だけにはね」
 彼女は微妙な笑い方をして、チラリと外人の顔を見た。すると外人も微妙に笑って、彼女の顔を見返えした。


「それではお願い致しますよ」
 彼女はもう一度念を押してから、手術の用意に取り掛かった。ず白布が刎ねられた。と其下から男の顔が――若い強健たっしゃそうな美しい顔が、胸と共に現われ出た。額に大きな黒子ほくろがある。それがただ一の特徴であった。
「しっかり抑えていて頂戴よ。そう、両脚をね、っかりとね」
 彼女に云われて捨松は、急いで患者の足を抑えた。その時、外人はメスを取り、丁度心臓と思われる辺へ、鋭い刃先をっと置いた。捨松は俄に恐ろしくなり両方の眼を固く閉じて、心の中で呟いた。
「何んて因果な野郎だろう、心臓をえぐり取られるとは。そんな病気って有るもんだろうか?……つまり蛙とおんなじさね。内臓を出して洗うんだからな。おや!」
 と彼は仰天して、足を抑える手に力を入れた。猛烈な呻声と諸共もろともに突然患者が刎ね返したからである。
「畜生! 畜生! こん畜生!」と、無宙むちゅうで彼は抑え付けた。間も無くはげしい衝動は止んで、かすかに幽に痙攣するのが、抑えている手に感じられて来た。
「もう宜敷よろしうございますわ」――看護婦の声が聞えて来た。
 ほっとして彼は眼を開けた。室には是という異状も無い。患者の上にはもうちゃんと白い布が掛けてある、煌々と輝く白色光は室の真中に灯っている。何んの変ったことも無い。
 ただし、一つだけ、捨松の眼に、恐ろしく映ったものがある。看護婦の手に捧げられている、銀の中形の盆の上に、とろりと血にまみれて載っかっている薄黒い色をした物体であったが、彼には夫れは何んであるか大方見当がついていた。
 心臓で無くて何んであろう!
 外人とそうして看護婦とは、一見物凄く思われるような、非常に厳粛な表情をして、銀の盆の心臓を守り乍ら、室の衝き当たりに出来ているう一つの室の戸を開けて、静に其中へ這入って行った。
 後は寂然ひっそりと物音も無い。捨松は暫く佇んで二人の出て来るのを待っていたが、そのうちに何うにも堪えられないような強い好奇心に捉らえられた。「何があの室にはあるのだろう? あの心臓を何うするつもりだろう?」――彼は遂々足音を忍んで其室の戸口まで歩み寄った。戸には錠が下ろして無い。彼は細目に戸を開けて、そっと中を覗いて見た。万事此室と同じように其室も純白に塗られていた。そして正面の壁によせて八尺あまりの箱があった。箱の中には人間がいる。フロックコートを上品に着た、体格容貌魁異極まるまことに堂々たる男である。その箱の中の男の前に外人と看護婦とが立っていた。と、外人が手を上げて箱の中の男の胸に触わり、チョッキとワイシャツのぼたんを外した。と皮膚が露出する。また其皮膚へ手を触れた。すると不思議にも肌の一箇所ひとところが、ポッカリ口を開けたでは無いか! その口の縁へ盆を宛て、心臓をツルリと辷べり込ませた。すると復皮膚の口が閉じた。
 外人も看護婦も佇んだまま、無言で其男を見守っている。
 気味の悪い程静である。
 と、箱の中の人間が、ツカツカと前へ歩き出した。
「ああ!」――と、思わず迸り出たような、感嘆の叫びが看護婦の口から、その一刹那叫ばれた「いよいよ成功です成功です! 私達は成功しましたわ」
「いやいや喜ぶのはだ早い!」外人はぐに遮った「左様、喜ぶのは早いのです!」
「でも歩くではありませんか!」
「が、倒れるかも知れません……おお、ご覧なさい倒れますよ!」
 如何にも外人の云ったように、今迄歩いていた巨大な人間はその時不意に立ち止まり、ブルブルと少しの間ふるえていたが、突然前へ倒れかかった。
「ね、矢っ張り駄目でした」外人は巨人を支え乍ら、物憂そうに呟いた。
「ああ、矢っ張り駄目ですかねえ」女の声は悲しそうである。
「失望しては不可ませんよ。直ぐに最う一つ見付けましょう」
「ええ見付けましょう心臓をね」
「もっと強健つよい心臓をね」


 その翌晩のことである。
 労働者の本田捨松は、ちょいと小綺麗の扮装みなりをして、道頓堀の大きな珈琲カフェー店で、うまそうに料理を食べていた。
 昨晩ゆうべ不思議な病院で、奇怪の手術の手伝いをした為め、思いもよらない沢山の金を、彼は外人から貰ったので、今夜は大変裕福なのである。上等の食物に味のよい飲料、旅宿やども最うチャンと取ってある。これでは不平が無い筈である。
 漸く腹がくちくなったので、懐中ふところから巻煙草を取り出して、彼は旨そうにい出した。そうして側の夕刊を引き寄せ、漫然として文字を辿たどって行った。
 急に彼はピクリと眉を動かし、それから俄に熱心に夕刊の社会面を読み出した。其処には次のような見出しがあった。
「大正の怪事。心臓捕り事件。
又復またまた被害者、川口に浮かぶ」
 特号活字三段抜きの非常に刺戟的の見出しであったが、その内容も夫れに相応ふさわしい、惨忍極まるものであった。
「最近強壮の肉体を持った若い男子が頻々として行衛ゆくえ不明となるということ、そうして夫れらの不幸の男子は、きまって心臓をえぐられて、市中、郊外、海、堀などに、所嫌わず遺棄されて、無残の屍骸かばねらすということは、特に『心臓捕り事件』として、つとに報じた所であるが、今暁復もや其犠牲者が、川口の水面に浮かんで来た。その悲しむ可き犠牲者は、額に一つの黒子があり年齢大略おおよそ二十四五」
 と云うのが記事の概略あらましである。附記として斯うも書いてあった。
「加害者は何者とも解らないが、或方面の噂によれば、異様に美しい痩せた婦人が、憎む可き悪魔の手下として働いているということである。即、婦人は、その美貌を以て、憐れなる若者を誘拐し彼等の巣窟へ連れて行くのでもあろうか云々」
「オイ、勘定!」
 と本田捨松は、大きな声で給仕女を呼んだ。がちゃんと金をほうり出すと、彼は室から飛び出した。外は道頓堀の盛場で、彼は人波に押されながら、宛も無くあちこち歩き廻った。
彼奴きゃつ等悪人であったのか※(感嘆符疑問符、1-8-78) そうとも知らず此俺は、人殺しの手助けを為て了った! ああ堪らねえ堪らねえ! ……おや、眼がグルグル廻わって来たぞ。あっ、脇下わきのしたから冷汗が出る! 俺は一体どうしたらいいのだ? このまま黙っちゃいられねえ。それは良心が許さねえ。と云って迂濶に警察へ行って昨夜ゆうべの事を自白しようものなら、俺迄同類だと思われるだろう! どうしたら可いんだ! どうしたらいんだ!」
「今晩は……本田さん……ご機嫌よう……」
 誰か何処かで呼ぶものがある。
「へえ」と思わず返辞をして、彼は四辺あたりを見廻わした。すでに此処このへんは千日前で、時刻は夜の八時前、人の出盛る真最中、せ返えるような人いきれで、楽には呼吸いきさえ出来ない程であった。
 其人波に揉まれながら、盛装した美人が彼の横手で、彼を見乍ら笑っている。昨夜邂逅いきあった看護婦であった。
「あっ」と捨松は仰天して、たじろぎながら叫声さけびごえを上げた。すると彼女は有るか無しかの、微妙な微笑を顔に浮かべたが、
「あの、あたしといらっしゃいな。今夜も手伝って下さらない? あのね、この方もいらっしゃいますのよ」――斯う云うと鳥渡あごしゃくって、側に引き添っている青年を、彼の方へ紹介した。「あのね、此方このかたはね、学生さんなのよ、商業学校の学生さんなのよ。そうしてオリンピックの選手なんですって、ですから心臓はお強いんですわ。ね、貴郎いらっしゃいよ。そして手伝って下さいよ」
「いいえ、私は、ごめんこうむります」
「あらそう、それは残念ね」彼女はこびるように笑いかけたが、「それではお別れにしましょうか。ごめんなさいよ。左様なら……さあ私達は参りましょう」
 彼女は学生を促し乍ら人波を分けて立ち去った。そうして直ぐに見えなくなった。
 併し捨松は棒か杭のように、人波に押されても押されても、それに屹然と反抗しながら、何時迄いつまでも同じ場所に、立っていた。思案に暮れているのである――。
「可哀そうなあの学生……人身御供にされるのだろう……俺は一体どうしたらいいんだ! 思い切って警察へ密告しようか? 同類と見られるのは恐ろしい。と云ってみすみすうっちゃって置いたら、是からも幾人幾十人かの人が、心臓を抉られるに相違無い。……俺は一体どうしたらいいんだ? 同類と見られずに密告するには一体どうしたらいいんだろう?……」彼は無宙で考え込んだ「おっ、そうだ!」と、何んと思ったか、不意に彼は飛び上がった。「俺はマア何んて馬鹿なんだろう。こんな格好や方法がこんな手近に転がっているのに、一向それに気が付かないとは」
 で、俄に元気付いて、彼は足早に歩き出した。


 翌日未明に配達された、市内のあらゆる朝刊には如何なる冷静な人物をも、戦慄させずには置かないような、世にも不思議な殺人事件、即、心臓捕りの犯罪事件の、いとも詳しい報告が、それこそ社会面の全部を潰して、さも大仰に記されてあって、市民の肝を奪ったが、特に意外に思われたのは、その犯罪の主要人物が、市民一般に尊敬されている、旧居留地に病院を持つ、米国人の医学博士、ジョン・シーボルド・ウィルソン氏で、その相棒は同じ病院の、看護婦長として敬愛されていた仁木園子という日本の処女。そうして是等二人の者にって、心臓を捕られた人の数は約三十人だということであった。
 ところで全体何んの目的を以て、そんな悪事をしたのであろう? いや夫れは彼等二犯人に執っては決して悪事では無かったのであった。
 次に記すは逮捕に向かった市の刑事の談話であるが、それに依って見ると彼等は何うやら狂人きちがいのように思われる。もし又狂人で無いのなら、彼等は実に前代未聞の大科学者でなければならない。――以下刑事の談話……。
「実は昨夜、何者とも知れず、速達を以て警察本部へ、密告してくれた者がありましたので、俄に活動が始まった訳です。で私達は忍び忍びに旧居留地へ参りまして、病院を包囲したのです。それから様子を見る為に、私だけなかへ這入りました。院長へ面会を求めたのです。と直ぐ応接間へ通されましたが、
『暫くお待ち下さいますよう、手術最中でございますから』此様に小使が申しましたので、その手術こそ怪しいと思い、小使が立ち去った其後から、っと応接間を抜け出して、密告者の手紙を手頼たよりにして、こっそり二階へ行って見ました。四辺あたり森然しんと静でした。すると一つの室の中から、如何にも嬉しそうな男女の声が聞えて来たではありませんか。
『何んという今夜はよい晩でしょう! 思いのままに成功しましたわ……』これは女の声でした。
『左様、今夜はよい晩です。私達は成功致しました』斯う云うのは男の声でした。
『貴郎、喜んでもよいでしょうね?』――『左様、今夜こそ、心の底からどんなに喜んでもよいのです』
 その刹那私は戸を叩きました。それから中へ這入ったのでした。博士と看護婦とがたっています。二人の四本の手は真赤です。寝台には学生が寝ていました。勿論殺されているのでした。ああ手術は済んだのでした。私は直ちに身分を明かして、警察へ同行を求めました。
『ははあ警察のお方ですか。よろしい同行致しましょう……併し夫の前に私の仕事を、左様仕事の結果をですね、どうぞ鳥渡ご覧下さい』
 博士は快活に斯う云って一抹の恐怖さえ顔に現わさず、看護婦と共に私を導いて、さらに隣室へ参りましたものです。その隣室には筋肉隆々たる身丈みのたけ殆ど八尺もある、完全無欠の一人の男子が、フロックコートを身に着けて、静に腰かけて居りましたが、私達を見ると立上がりました。
『君――』と博士は呼びかけました。『僕とそうして園子さんとはね、是から警察へ行かなけりゃならない。或は君とは最う是れっきり、邂逅あいみることが出来ないかも知れない。で君は健康たっしゃに暮らすがよい』
 すると巨大な其男は、不審いぶかしそうに斯う云いました。
『なぜ警察へいらっしゃるのです? なぜ邂逅あうことが出来ないのです?』
『それはね』と博士は少し悲しそうに『僕達のやった此仕事はね、人間社会では罪悪なのだからさ』
 それから博士はおだやかな声で斯う云いました。
『貴郎、警察の刑事さん、私の云うことを信じて下さい――此処に居る巨大な此人間、これは私が製造つくったものです。決して婦人のおなかから産れた普通の人間ではありません。様々の物質と色々の薬品と、そして長い間の研究とで、製造り上げた人工の人間です。併し何のように考案かんがえても、心臓を造ることは出来ませんでした。そこで私は止むを得ず、生きている人間の胸をって、その心臓を使いました。幾度も失敗しました。けれど遂々今夜成功し、よい結果を見ることが出来ました。――私の製造した此巨人これこそ完全の人間です。どんな働きを致しますか今に貴郎方にもお解りでしょう。――ではご一緒に参りましょうか』
 そこで私は博士と看護婦とを、それこそ何んの抵抗も受けず、首尾よく警察本部まで連れて来たのでした。云々(下略)」
            ×
「心臓捕りの」物語は、すなわち以上これで終りである。人工の巨人の運命や、博士と看護婦との成行や、本田捨松の其後に就いては、機会おりを見ていずれ語ることにしよう。要するに夫れは後日ものがたりである。





底本:「国枝史郎探偵小説全集 全一巻」作品社
   2005(平成17)年9月15日第1刷発行
底本の親本:「ポケット」
   1924(大正13)年8月
初出:「ポケット」
   1924(大正13)年8月
入力:門田裕志
校正:hitsuji
2021年3月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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