一
一人の年老いた人相見が、三河の国の碧海郡の、八ツ橋のあたりに立っている古風な家を訪れました。
それは初夏のことでありまして、河の両岸には名に高い、
茶など戴こうとこのように思って、人相見はその家を訪れたのでした。
縁につつましく腰をおろして、その左衛門という人相見は、戴いた茶をゆるやかに飲んで、そうして割籠のご飯を食べました。
その家はこのあたりの長者の家と見えて、家のつくりも上品であれば、庭なども手入れが届いていました。
「よい眺めでござりますな」
お世辞ともなくこのようにいって、生垣の向うに眺められる八ツ橋の景色を眺めおりました。
左衛門はその頃の人相見としては、江戸で一番といわれている人で、百発百中のほまれがありました。人相風采もまことに立派で、人の尊敬を引くに足りました。で、山間や僻地へ行っても、多くの男女に尊敬され、いつも丁寧にあつかわれました。
この時も左衛門は名のりませんでしたが、神々しい人相や風采のために、その家――
「
いかさま継橋が見えていました。
八筋の川が流れて居りまして、一筋ごとに橋がかかっていて、継橋をなしているのでした。
継橋の数が八ツなので、そこで八橋ともいうのでした。
「憐れな伝説がございます」
左衛門の前へ穏かに坐って、左衛門と一緒に茶を喫し、
「仁明の
その時十八九にもなりましょうか、美しい娘が菓子皿を持って、奥の座敷から出て来ましたが左衛門の前へ菓子皿を置くと、しとやかに辞儀をいたしました。
で、左衛門も辞儀を返しましたが、
「ああ……これは……ううむ……悪いぞ」
と、口の中でこう呟いて、まじまじと娘の顔を見ました。
人相見の左衛門でございます。何か娘の人相の中に、不吉の形を見たがために、そう呟いたのでありましょう。
が、彦右衛門には解りませんでした。
「私の娘、蘭でございます」
こう左衛門にひきあわせてから作男へ指図しようとして、庭下駄を穿くと裏手の方へ足早に行ってしまいました。
二
で、縁へは左衛門とお蘭と、二人だけが残ってしまいました。
と、左衛門でありましたが、何気ない様子で話しかけました。
「――から衣きつつなれにし妻しあれば、はるばる来ぬる旅をしぞ思ふ――
するとお蘭は
「――一筋に思いさだめず八橋のくもでに身をも嘆くころかな。――有名な
「
と、左衛門はうなずきました。
「で、私は申し上げましょう。物事はすべて一筋に、思い定めてはいけませんな。……とその他に和歌はございませぬかな」
「為家卿がうたわれましたそうで――もろともに行かぬ三河の八橋に、恋しとのみや思いわたらん」
「成程」
と左衛門はまたうなずきました。
「そこで私は申し上げましょう。恋しと思ってはいけませんとな。……その他に名歌はございませんかな」
「読人知らずではございますがこのような和歌もございます。――打わたし長き心は八橋の、くもでに思うことにたえせじ」
「成程」
と左衛門はまたいいました。
「蜘蛛手に思う恋の心が、突きつめて一つになった時に、恐ろしい一筋の恋となります。ご用心なされた方がよろしいようで」
すると、
と、その様子をしばらくの間、左衛門は見守って居りましたが、やおら膝をその方へ進ませ長い顎髭を前へ差し出し、さとすような声でいいました。
「死を覚悟していられましょうな? 正直にお話しなさりませ。私は江戸の人相見の、左衛門というものでございますよ。お前様の顔を一目見た時から、お前様の覚悟を見てとりました。でお前様に申し上げます。正直に私にお打ち明けなされ。何んとか私が取りはからいましょう。……恋でございましょう? 思い詰めた恋で?」
するとお蘭は顔を上げましたがこういうと直ぐに俯向きました。
「はい、そうでございます。……一人のお方でございましたら、何んでもないのでございますが……」
「成程」
と左衛門はその言葉を聞くと、苦しいような笑を浮べました。
「二人の男に恋をされて、それで悶えておいでなさるので」
お蘭は黙ったままでうなずきました。
「そこでお前様には二人の男へ、双方義理を立てるために、入水などなされようと覚悟されましたので?」
お蘭は黙ったままでうなずきました。
「そこで」
と左衛門はまたいいましたが、その声には皮肉がありました。
「そこでもう一つおうかがいをしますが、そのお二人の男の方の、お身分は何なのでございますか?」
するとお蘭は云おうか云うまいかと、躊躇したようでありましたが、思い切ったようにいいました。
「一人のお方は源次郎様と申して、この里を支配なされていられる、大庄屋のご次男様でございますし、もう一人のお方は喜之介様と申して、江戸の大きな絹問屋の、若旦那様にございます。源次郎様と喜之介様とは、お家がご親戚でありますので、久しい前から保養のために、喜之介様には源次郎様のお家へ、参られているのだそうでござります」
「成程」
と左衛門はいいましたが、いよいよその声には
「で、お前様にはお二人の
するとお蘭は物憂そうに、
「私はまことはどのお方をも、お愛ししているのではございません。ただお二人に同じように同時に愛を打ちあけられましたので、どちらの方へ
これを聞くと左衛門はいぶかしそうに、
「二人ともお愛ししていられないなら、お二人へお前様の心を、お打ちあけなされておことわりなされたら、よろしいように思われますがな」
「はい」
とお蘭は申しました。
「でも私にはどういうものか、決心が付かないのでございます。はい、私にはどういうものか。……」
三
と、俄に嘲るような、かれた笑声が起こりました。左衛門が笑ったのでございます。
「――われも見つ人にも告げん葛飾の、真間の手児奈の
とお蘭は直ぐに申しました。
「二人の殿方に恋せられて、どっちへも靡いて行くことが出来ずに、入水して死なれた憐れに美しい、真間の手児奈という娘の墓を、山辺赤人というお偉い歌人が、詠まれた和歌にございます」
「さよう」
と、左衛門はいいました。
「で、お前様が覚悟どおりに、今のお二人に義理を立てて、入水してお死になされたなら、偉い歌人が憐れがって、名歌を詠まれるかもしれませぬな。……が、そうなるとこの八ツ橋の里に、二つの伝説が出来まして、迷惑のことになりましょう。……お前様のお父上がたった今し方私に話して下された、羽田玄喜の妻の伝説と、そうしてお前様の伝説とがな。……で、私は申しますよ。美しい物語にあくがれるのは、若いお前様の勝手ではあるが、その伝説の真似をして、自分自身に行うことは、この上もないつまらないことだと。……それよりもこの里に残されている、羽田玄喜の妻の伝説を、旨く利用なさいまし。……つまり源次郎という若いお方と、喜之介という若いお方とへ、このようにお前様からおっしゃるのです『向うの河岸に
後年左衛門は人にいったそうです。――
「そうだよ、お蘭という娘の顔には、死相が現れていたのだよ。これはいけないと思ったのでだんだん話しをして行くうちに、いろいろの古歌を知っていて、性質がひどく憧憬的だ。二人の男に恋されている。場所はといえば八橋といって、真間の継橋とよく似ている。ははあそれでは手児奈を気取って、二人の男へ義理を立てて、自分は美しく入水して死のう――恋を恋する気持といおうか、伝説を真似る心持といおうか……そういう心持でいるらしい。――と、こんなように思ったので、ああいう手段を教えてやったんだね。……お蘭という娘は実行したそうだよ。と、どうだろう源次郎という男も、喜之介という男も私の予想どおり、川を泳いでは行かなかったそうだ。その結果お蘭という娘は、柔弱の男に愛相をつかし、真面目な田園の逞しい男と、結婚したということだよ」