学生と読書

――いかに書を読むべきか――

倉田百三




     一 書とは何か

 書物は他人の労作であり、贈り物である。他人の精神生活の、あるいは物的の研究の報告である。高くは聖書のように、自分の体験した人間のたましいの深部をあまねく人類に宣伝的に感染させようとしたものから、哲学的の思索、科学的の研究、芸文的の制作、厚生実地上の試験から、近くは旅行記や、現地報告の類にいたるまで、ことごとく他人の心身の労作にならぬものはない。そしてそのような他人の労作の背後には人間共存の意識が横たわっているのであり、著者たちはその共生の意識から書を共存者へと贈ったものである。
 したがって、書を読むとはかような共存感からの他人の贈る物を受けることを意味する。
 人間共存のシンパシィと、先人の遺産ならびに同時代者の寄与とに対する敬意と感謝の心とをもって書物は読まるべきである。たとい孤独や、呪詛や、非難的の文字の書に対するときにも、これらの著者がこれを公にした以上は、共存者への「訴えの心」が潜在していることを洞察して、ゼネラスな態度で、その意をくみとろうと努むべきである。
 人間は宿命的に利己的であると説くショウペンハウァーや、万人が万人に対して敵対的であるというホップスの論の背後には、やはり人間関係のより美しい状態への希求と、そして諷刺の形をとった「訴え」とがあるのである。
 その意味において書物とは、人間と人間との心の橋梁であり、人間共働の記念塔である。
 読書の根本原理が暖かき敬虔けいけんでなくてはならぬのはこのためである。

     二 生、労作そして自他

 書物は他人の生、労作の記録、贈り物である。それは共存者のものではあっても、自分のものではない。自分の生、労作は厳として別になければならぬ。書物にあまりに依頼し、書物が何ものでも与えてくれ、書物からすべてを学び得ると考えるような没我主義があってはならない。実際研究することは読書することであると考えてるかのように見える思想家や、学者や学生は今日少なくないのである。明治以来今日にいたるまで、一般的にいって、この傾向は支配的である。ようやく昨今この傾向からの脱却が獲得されはじめたくらいのものである。
 これは明治維新以来の欧化趨勢すうせいの一般的な時潮の中にあったものであり、自覚的には、思想的・文化的水準の低かった日本の学者や、思想家としてはやむをえない状態でもあったのである。
 けれどもいつまでもそうあるべきではなく、人生、思想、芸文、学問というものの本質がそれを許さない。ヨーロッパの誰某はかくいっているという引用の豊富が学や、思想を権威づける第一のものである習慣は改正されなければならぬのである。
 この習慣の背後には、一般に、書物至上主義でないまでも、過度の書物依頼主義が横たわっている。この習慣は信じられぬほど安易への誘惑を導くものであり、もはや独立して思索したり、研究したりする労作と勇猛心と野望とにたえがたくするものである。他人の書物についてナハデンケンする習慣にむしばまれていない独立的な、生気溌剌とした学者や、思想家を見出すことはそう容易ではない。
 これは学生時代から書物に対する態度をあまりに依属的たらしめず、自己の生と、目と、要請とを抱きつつ、書を読む習慣を養わなければならないのである。
 他人の生と労作との成果をただ受容してすまそうとするのは怠惰な態度である。というのは生と労作は危険を賭し、血肉を削ってしかなされないものであって、一冊のすぐれた著書を世に贈り得ることは容易ではないからである。
 過度の書物依頼主義にむしばまれる時は創造的本能をにぶくし、判断力や批判力がラディカルでなくなり、すべての事態にイニシアチブをとって反応する主我的指導性がえて行く傾向がある。
 知識の真の源泉は生そのものの直接の体験と観察から生まれるものであることを忘れてはならない。「直接にそしてラディカルに」このモットーを青年時代から胸間に掲げていなくてはならぬ。
 けれどもいうまでもなく個人がすべてを実地に体験し得るものでもなく、前にいった人間共生と共働の原理により、他人の体験と研究の遺産と寄与とを受けて、自らを富ますことは賢明であり、必要であり、謙遜でもある。
 この意味においては、書物とは見ざるを見、味わわざるを味わい、研めざるを知得するためにあるものである。それどころではない、思わざるを思うためにさえもあるものである。すなわち、自己独りではとうてい想望できなかったような高い、美しいイデーや、夢が他の天才の書を読むことにより、自分の精神の視野に目ざめてくるのである。
 聖書を読むまでと、読後とでは、人間の霊的道徳性はたしかに水準を異にする。プラトンとダンテとを読むと読まないとではその人の理念の世界の登攀とはんの標高がきっと非常に相違するであろう。
 高さと美とは一目見たことが致命的である。より高く、美しいものの一触はそれより低く一通りのものでは満足せしめなくなるものである。それ故に青年時代に高く、美しい書物を読まずに逸することは恐るべく、惜しむべきことである。何をおいても、人間性の霊的・美的教養の書物は逸することを恐れて、より高く、より美しきものをと求めて読んでおかなければならないのである。
 学術的、社会・経済的ないし職業専門的の書物にあっても、つとめて勤勉して読むことは、非常に必要である。現実の心得としては、おそらくさきに述べたような私の高等的忠言よりも、「読むべし、読むべし」と鞭撻すべきかもしれない。読みすぎることをおもんぱかるのは現代学生の勤勉性を少しく買いかぶっているかもしれない。
 生と観察との独自性を失わない限りは、寸陰を惜しんで読書すべきである。すぎた多読も読まないより遙かにまさっている。
 学生時代においては読書しないとは怠惰の別名であるのが普通である。「勉強の虫」といわれることは名誉である場合が多い。われわれも学生時代に課業のほか、寄宿舎の消灯後にも蝋燭をともして読書したものである。深い、一生涯を支配するような感激的印銘も多くそうした読書から得たのである。西田博士の『善の研究』などもそうして読んだ。とぼとぼと瞬く灯の下で活字を追っていると、窓の外を夜遊びして帰った寮生の連中が、「ローベン(蝋燭の灯で勉強すること)はよせ」「糞勉強はやめろ」などと怒鳴りながら通って行く。その声を聞きつつ何か勝利感に似たものをハッキリと覚えている。
 読書は自信感を与えるものである。読書しないでいると内部が空虚になっていく。読書しない青年には有望な者はいない。天才はたとい課業の読書は几帳面でないまでも、図書館には籠って勉強するものである。
 読書にとらわれる、とらわれないというのはそれ以上の高い立場からの要請であって、勉強して読書することだけにできない者にとっては、そんな懸念は贅沢の沙汰である。
 読書に励む青年は見るからにたのもしそうである。生を愛し、人類を思う青年は読書せずにいられるものではない。孜々ししとして読書している青年たちを見ると、あの中から世を驚かす未来の天才が出てくるのであろうかと心強い気がする。
「予を秀才といふはあたらず、よく刻苦すといふはあたれり」といった頼山陽の言は彼のすなおな告白であったに相違ない。
 つとめて書を読み、しかもそれが他人の生と労作からの所産であって、自分のそれは別になければならぬことを自覚し、他人の生にあずかり、その寄与をすなおに受けつつ、しかも自らの目をもって人生を眺め、事象を考察することのできるもの、これが理想的の読書青年である。

     三 教養の読書と専門職能の読書

 読書には人間教養のためのものと、社会において分担すべき職能のためのものとある。後者に関してはその種類が多様であるのと、技術知の習得に関するので、特に挙げてあげつらうことができない。ただこの場合において一、二の注意を述べるなら、職能に関する読書はその部門の全般にわたる鳥瞰ちょうかんが欠くべからざるものであるが、そのあいだにもおのずと自分の特に関心し、選ぶ種目への集注的傾向が必要である。何事かを好み、傾くということがそのことへの愛と練達との基礎だからである。「この一技につながる」という決意は人間的にも肝要なものである。またそれとともに、職能というものは真摯にラディカルに従事して行けば、必ず人生哲学的な根本問題に接触してくるものである。医者は生と、精神の課題に、弁護士は倫理と社会制度の問題に、軍人は民族と国際協同の問題に接触せずにはおられない。その最も適切の例証は、最近に結成せられた「産業技術連盟」の声明書である。それは純粋に専門的な技術家のみの結社であるが、技術は社会的・政治的問題と関連することなしには、その技術の任務と成果とをとげることができないと宣言しているのである。
 かような事情である故、職能の習得のための読書もまた一般人生哲学的な課題のための読書と結びつかずにはおられないのである。
 がここでは特に人間教養のための読書に重点をおいて説述したい。それは職能の何たるを問わず、何人もその人格完成を願い精進しなければならないからである。
 私は青年学生が人生の重要問題に関する自らの「問い」をもって読書することをすすめたい。生に真摯であれば「問い」がないはずはない。そして「問い」こそ自発的に読書への欲求を促すものである。法然はその「問い」の故に比叡山で一切経をみたびも閲読したのである。
 書物は星の数ほどある。しかしかような「問い」をもってたち向かうとき、これに適切に答え得る書物はそれほど多いものではないのである。むしろそのはなはだ少ないのに意外の感を持つであろう。
 かくして「問い」はおのずと書物を選ばしめる。自らの「問い」なくして手当たり次第に読書することは、その割合いに効果乏しく、また批判の基準というものが立ちがたい。
 自ら問いを持ち、その問いが真摯にして切実なものであるならば、その問いに対する解答の態度が同様なものである書物を好むであろう。まず問いを同じくする書物こそ読者にとって良書なのである。かような良書の中で、自分の問いに、深く、強く、また行きわたって精細にこたえてくれる書物があるならば、それは愛読書となり、指導書となるであろう。かような愛読書ないし指導書は一生涯中数えるほどしかないものである。
 たとえば私にとっては、テオドル・リップスの『倫理学の根本問題』はかような指導書の一つであった。かような指導書を見出したときには、これをくりかえし、幾度となく熟読し、玩味し、その解答を検討すべきである。手垢に汚れ、ページがほどけるほど首引きするのこそ指導書である。
 広く読書することも必要であるが、指導書を精読することは一層大切である。
 それは問題の所在と、その難点とを突き止め、これが解決の方法を示唆するものだからである。たとい満足な解決が与えられなくとも、解決の方法をつくし、その難点と及び限界とを良心的に示してくれるならば、われわれは深き感謝を持たねばならぬ。徹頭徹尾会心の書というものはあるものではない。
 私の場合でいえば、リップスの倫理学も私には充全な満足を与えてはくれなかった。かえって倫理学というものの限界と、失望とを私に与えた。私はこの書を反復熟読し、それを指導原理として私の実践生活を規範しようとさえもしたが、しかし結局はそれも破綻して、私は倫理学以上の、「善悪を横に截る道」を求めて、宗教的方法の探求へと向かったものであった。
 がここでいいたいのは、かような指導書の精読ということである。かような指導書を発見するには、自分の生の問いを抱いて、その問いを同じくし、解決を与えんと擬する書物を捜せばいいのである。
 下宿を捜すにも実際にかような仕方で、要求の条件に適するものを、数多くの中から選んだわけである。
 同一人にとっても、問いの所在ならびに解決方途の異なるにしたがって、かような指導書もまた推移していく。私にとってはそれはカルル・ヒルティの『眠られぬ夜のため』であった時期もあった。『歎異鈔』であった時期もあった。禅宗の普覚大師書であったときもあった。中山みき子の『みかぐら歌』であったときさえあるのである。
 かような時期においては反復熟読して暗記するばかりに読み味わうべきものである。
 一度通読しては二度と手にとらぬ書物のみ書庫にみつることは寂寞である。
 自分の職能の専門のための読書以外においては、「物識り」にならんがために濫読することは無用のことである。識見は博きにこしたことはないが、そのためにしみじみと心して読まぬのでは得るところが少ない。浅き「物識り」を私はとらない。
「物識り」と「深き人」とは同一人であることはまれである。
 特に実践の問題においては、「知る」とは「行なう」ことと不可分である故に、なおさら物識りにはなり難い事情があるのである。
 読書とは単なる知性の領域にある事柄ではない。それは情意と、実践との世界に関連しているのである。特に東洋においては、それはむしろ実践のためにあるものなのであった。
 しかしながら前にも述べた如く、良書とは自分の抱く生の問いにこたえ得る書物のみではなく、生の問いそのものをも提起してくれるものはさらに良書ではある。「いかに問うか」ということは素質に属する。天才は常人よりももっと深く、高く、鋭く問い得る人間である。常人が問わずしてみすごすことを天才は問い得るのである、林檎はなぜ地に落ちるか? これはかつてニュートンが問うまで常人のものではなかった。姦淫したる女を石にて打つにたうる無垢の人ありや? イエスがこの問いを提出するまで誰も自分の良心に対してかく問い得なかった。財の私的所有ならびに商業は倫理的に正しきものなりや? マルクスが問うてみせるまで、常人はそれほどにも自分らの禍福の根因であるこの問いを問うことができなかった。
 天才の書によってわれわれは自分の力では開き得ない宇宙と人間性との奥深き扉をのぞき得るのである。それは最も深き意味での人間教育である。真と美とモラルの高みへとわれわれを引き上げてくれるのである。かような人間教育をなし得る書物こそ最良の書であり、青年がたましいを傾けて愛読すべきものである。
 われわれが読書に意を注がぬことの最も恐ろしいのは、かような人間教育の書にふれる機会を失うからである。仏教の開教偈に、
微妙甚深無上の法は、百千万劫にも遇ひ難し。我れ今見聞して受持するを得たり。願はくは如来の真実義を解かん。
とあるのはこの心である。「あいがたき法」「あいがたき師」という敬虔の心をもっと現代の読書青年は持たねばならぬのである。
 街頭狗肉を売るところの知的商人、いつわりの説教師たちを輩出せしめる現代ジャーナリズムに毒されたる読書青年が、かような敬虔な期待を持つことができないのは同情に値する。しかしながらジャーナリズムはまた需要にこたえるものでもある。読書子の書物への期待が深く、高いならば、そのような書物についにはあうことができるであろう。

     四 書物無き世界

 人間教養の最後は、しかしながら、書物によるものではない。人は知性と、一般に思想とを究竟のものと思ってはならないのである。人間の宇宙との一致、人間存在の最後の立命は知性と思想とをこえた境地である。いと高く、美しき思想もそれが思想である限りは、「なくてならぬ究竟唯一」のものではない。書物は究竟者そのものを与え得ない。それは仏教では「絶学無為の真道人」と呼ぶのである。学を絶って馳求するところなき境地である。「マルタよ、マルタよ、汝思ひわづらひて疲れたり。されどなくてならぬものは唯一つなり」とキリストがいったように、思想そのものは実は「思い煩い」であり、袋路である。はてしなき迷路である。知識階級とは、この意味においては、永遠の懐疑の階級なのである。立命のためには知性そのものを超克しなくてはならぬ。知性を否定して端的に啓示そのものを受けいれねばならぬ。それは書物ではできない。その意味においては、弁証法的神学者がいうように、聖書でさえも啓示を語った書ではあるが、啓示そのものではないのである。
 かように書物と知性から離れて端的に神の啓示につくまでの人間超克の道程に読書があるのである。読書は無意義ではない。啓示を指さす指である。解脱への通路である。書を読んで終に書を離れるのが知識階級の真理探究の順路である。
 現代青年学生は盛んに、しかしながら賢明に書を読まねばならぬ。しかしながら最後には、人間教養の仕上げとしての人間完成のためには、一切の書物と思想とを否定せねばならぬものであることを牢記しておくべきものである。
 キリストのいうように「嬰児」の如くになり、法然の説く如くに、「一文不知の尼入道」となり、趙州の如くに「無」となるときにのみ、われわれは宇宙と一つに帰し、立命することができるのである。

     五 知性か啓示か

 今日この国の知識階級の前には知性か啓示かの問題がおかれている。知性主義は主として現在の文化指導者たちによってとなえられているものである。そして今のところ青年学生はこの知性主義を支持し、それが読書の方向を支配しているかに見える。
 われわれはインテリゼンスの階層である読書青年が今その旺盛な知識欲をもって、その知的胃腑を満たし、また思考力を操練せねばならないとき、知性の拡充よりもその揚棄を先きに説かんと欲するものではない。しかしながら知性そのものにもその階層がある。真理を把握するオルガンとしての知性は、直観となり、啓示となるのでなければ全くはない。今日この国の知的指導者たちの主張するのは主として合理的知性である。「合理的なるもの」を認識するための知性である。しかし生の真理の重要な部分はむしろ非合理的の構造を持ち、それを把握するためにはそれに対応する直観的英知によらねばならぬ。さらに生の真理の最深部は啓示によるのでないならとらえることができぬ。否それはわれわれがとらえるのでなく、とらえられるのである。
 ブルンナーやバルトらの主張する如くに、啓示なくして、理性知のみによって、生の真理をとらえ得るという考え方そのものが、すでに生への要請を平浅ならしめるものである。
 最近にはこの国の知性主義者たちも、その非を認めて知性の改造をいうようになった。それはよろこぶべき転向である。しかしながらまだ、彼らが知性の否定や、啓示の肯定をいうようになる時機はおそらく遠いであろう。
 われわれは生の探求に発足した青年に、永遠の真理の把握と人間完成とを志向せしめようと祈願するとき、彼らがいずれはその理性知を揚棄せねばならぬことを注意せざるを得ず、またその読者の選択を合理的知性に対応する方向のみに向けしむることは衷心からの不安を感じる。
 彼らに祖国への愛を植えつけるためには、非合理的なるものへの直観を要し、さらに彼らに神への帰依を目ひらかしむるためには、啓示への受容を説かなければならないからである。
 人間教育者としてのわれわれの任務を思うとき、われわれは彼ら純真の若き生命に対し、生と人間性とを最高の可能性において、その存在の神秘性において、提起しておかなければならない命令を感じる。
 たとい彼らにとって当面には、そして現実身辺には、合理的知性の操練と、科学知の蓄積とが適当で、かつユースフルであろうとも、彼らの宇宙的存在と、霊的の身分に関しては、彼らが本来合理的平民の子ではなくして、神秘的の神の胤であることを耳に吹きこんでおきたいのである。なぜならいつかは彼らはその霊的の身分に目ざめねばならないから、そして聖なる国と神の街との建設に向かわねばならないからである。
(一九三八・一二・二)





底本:「青春をいかに生きるか」角川文庫、角川書店
   1953(昭和28)年9月30日初版発行
   1967(昭和42)年6月30日43版発行
   1981(昭和56)年7月30日改版25版発行
入力:ゆうき
校正:noriko saito
2005年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について