手紙

一八九三年七月二二日付 チェンバレン 宛

小泉八雲 Lafcadio Hearn

林田清明訳




拝啓

 先に長崎からお手紙を差し上げると申しておりましたが、それはかなわない事になりました。というのは、実際、私は長崎から逃げ帰って来たからです――何があったか、そのいくつかをお話しします。
 七月二〇日の早朝、私は、一人、熊本を出発し、百貫ひゃっかん経由で長崎へ向かうつもりでした。熊本から百貫までは人力車で一時間半あまりの距離でした。百貫は水田の中の、くすんだ小さな村です。土地の人たちは淳朴で善良です。そこで、漢文を勉強している生徒の一人に会いました。そこからは、小舟で蒸気船に向かいます。この舟の舳先へさきは壊れていました。コールリッジの詩にあるような静かな海をゆらりゆらりと四里ばかり進んで行きました。それは退屈でした。そして、停泊して一時間以上も待たされましたが、海面をじっと見ていると、さざ波が繰り返し/\押し寄せて来るので、まるで反対方向に引っ張られて動いているような、奇妙な錯覚を覚えました。他には見るものとてありません。ついに、私は、はるか水平線上にコンマを逆さまにしたような船影を見つけました。それが近づいて来ます。ついに、ボーッという汽笛を聞いたときは、嬉しくなりました。けれどそれは別の船でした。先の小舟に乗ったまま、さらに一時間も待たされたあげく、やっと目当ての船が現れたのです。
 私は、隠岐の蒸気船を除けば、そんな拷問のような道具には不案内です。私が乗った船の名は太湖丸ですが、着物や浴衣の客が座り込むようになっていて、椅子はありませんでした。船室の暑さときたら、蒸気を使う洗濯屋の乾燥室のようでした。お茶の外には飲み物はありません。象の頭を持った唐獅子の面白い絵の付いた薄い牛革の枕と快適な畳の上で横になりました。私が背広スーツじゃなくて、和服だったらもっと快適だったと思います。けれど、ヨーロッパ式のホテルに行くというので、服装の決まりに従って、私は洋服だったのです。――これは、あとで、とても後悔することになりました。
 長崎にはまだ暗い午前三時に着きました。苦力クーリーがホテルまで連れて行ってくれる約束でしたが、一・六キロばかり行ったところで、どこか分からないというので、手荷物を受け取りました。まだ営業していた車屋に出会いましたので、ホテルまで連れて行ってもらいました。けれど、ホテルの門はもう閉まっていました。背中を門塀にもたれかかったところ、それが開きましたので、低い植込みの列と観葉植物が植えられた鉢の列との間の階段を上り、ホテルのベランダまで行きました。そこには、揺り椅子とランプそれに静寂がありましたので、ここで夜が開けるのを待つことにしました。長崎湾の日の出は本当に美しいものでした。――私は古いバラッド詩に謳われているような金色こんじきの光線を見たのです。ついにホテルも起き出しましたので、私はやっと部屋に入ることができました。
 けれど、ホテルの中はひどい暑さでした。私がかつて経験した熱帯のどの熱さよりもひどいもので、太陽が昇るにつれてますます厳しく、死ぬほどの熱さになってきます。車屋を雇って、街の中を走ってみました。私は、最も美しい光の中で、できるかぎりこの美しい街を見ました。丘にも登りました。金属でできた新しい鳥居も見ましたが、今まで日本で見たものの中では愚劣極まるものでした。それは、ひどい格好をしているのです。上部が重いように見えて、優雅さなどはなく、全体が黒ずんだストーヴの色をしていました。こんなデザインをした者は、かたなで成敗されてしかるべきです。
 朝食を摂ると、また出かけました。私の印象では、総じて長崎は今まで見た最もきれいな港です。――それは、画家がエッチングの絵を描き、写真家が写真に撮るような、風光明媚で古風なおもむきで溢れています。しかし、私が欲しいと思っていた品は買うことができませんでした。西洋の輸入品で探したいと願っていた品物のどれも見つけることはできませんでした。ここには外国人もとても少なく、これといった本もありませんし、日用品も大量購入でないと手に入れることができない始末でした。
 しだいに蒸し暑くなるにつれて、スーツを着込んで、このベルヴュー・ホテルに来たことを、ひどく後悔し始めました。西洋式の服や建物の中の居心地といったら、この暑さじゃ、問題外です。ベネズエラの午後の一番暑い時間さえも、これほどまでに暑くはなかったでしょう。このホテルの客たちも暑さで眠られなかったと話していました。暑さに対しては、一杯が二五セントする冷たい飲み物の外には何もありません。私は四円ばかりも飲みました。服を脱ぐこともできず、ちっとも涼しくないので、腹が立ってイライラしていました。
 夕方の六時までには、逃げ出す決心をしました。何と言っても蒸し暑さは地獄でした――私は熱いのは好きなんですが、熱さと愚かな習慣とが一体となったものは、もはや我慢の限界を超えています。もし洋服を着て、ヨーロッパ式の建物の中で一週間も暮らさなければならないとしたら、もう狂ってしまうか死んでしまいそうです。私は、今すぐにでも長崎から脱出しようと思いました。
 日本式のホテルはいつも快適ですし、裸でもいられます。日本のホテルでは、買いたい物があるなら、探して来てくれます。日本のホテルでは、頼めば、あなたやあなたの連れに、船や鉄道の切符を買ってきてくれて、その上、停車場や船着き場まで見送ってくれます。けれど、野蛮な西洋式のホテルでは、誰も質問にも答えてくれません。何かトラブルがあって解決してくれるように頼むときに、出来の悪い日本人のボーイが日本語以外には分からないような場合を除けば、尋ねるべき人もいません。私は、車屋を見つけて、日本の汽船会社に連れて行ってもらい、できるだけ早く長崎から離れる方法はないかと、片言の日本語で頼み込みました。驚いたことに、彼らは同情してくれて、早朝三時に私を迎えに来るという手筈が整いました。私は暑いのが収まって、蚊が刺す力を失う頃まで、ホテルの中で待っていました。――それから出かけようとしたところ、外では良からぬ風体の男たちが、「旦那、がいますぜ」と声を掛けてくるので、――私はまたホテルへ引き返して、むっとしているベランダで三時まで座っていました。そうしたら、日本の汽船会社が男と渡し船を寄越して、連れて行ってくれました。それゆえ、私は彼らに感謝した次第です。
「きんりん丸」(旧知)に乗船して、三時半頃までには長崎港を出ました。三角みすみ港からは、百貫港行きの小さな蒸気船があると言われていました。三角港には朝の九時に着きましたが、あいにくとその日は百貫港行きの船の予定がない日でした。
 三角には、西洋式に建築され、内装された浦島屋というホテルがありますが、――太陽が蝋燭よりも良いように、長崎のホテルよりもはるかに良いものです。また、とても美人で――蜻蛉かげろうのような優雅さがあり――ガラスの風鈴のような――声をした女主人が世話をしてくれました。車屋を雇ってくれたり、素晴らしい朝食を整えたりしてくれて、これら全部ひっくるめてわずか四〇銭でした。彼女は、私の日本語を理解しましたし、私に話しかけたりもしました。私は極楽浄土の大きな蓮の花の中心で突然生まれ変わったような気がしました。このホテルの女中たちもみな天女のように思えました――それというのも、世界中で最も恐るべき場所から、ちょうど逃れて来たばかりだったからでしょう。それに、夏の海霧うみぎりが、海や丘それに遠くにあるあらゆるものを包み込んでいました――神々しく柔らかな青色、そして真珠貝の中心の色たる青色でした。空には夢見るような、わずかに白い雲が浮かんでいて、海面に白く輝く長い影を投げかけています。そして、私は浦島太郎の夢を見たのです。私の小さな魂は、夏の――青い光が滲み込んでいる――海へと漂い始めました。また、妖精の舟には乙女が立っています。この娘は、青い光よりもっと美しく、またもっと柔らかくて、もっと魅惑的です。乙姫様は一千年のときを超えて響いてくるような声で私に語りかけます――「さあ、私の父の宮殿である、南の海の底にある龍宮城へ、ともに参りましょう」「イイエ、ワタシ、熊本ヘ帰ラネバナリマセン――サッキ電報カケマシタデス」と、私が応えます。「それでは、車屋に七五銭だけお払い下さいまし」と乙姫様は言いました。――「この玉手箱をお開けにならないでしょうから、あなたがお望みのときに、また戻ってくることができます。」この白日夢の中に、神々の古い物語についての解釈が浮かんできました。私はその謎と意味が分かったのです。私は、この玉手箱を心の中に深くしまっておきます。それから出発しました。
 私は何時間も有明海の青い世界を眺めていましたし、その素晴らしさに心ときめいていました。また、古い神々とその有り様について考えていました――ただ、道路沿いには電信柱が並んでいましたが。電柱の一番上の電線には、胸の白い小さな鳥たちが並んでとまっています。彼らは私たちが通り過ぎるのを、恐がりもせず眺めているのでした。何百という数です。どの鳥も、海の方を向いて、道路の方には尻尾を向けて止まっていません――一羽たりともです。どれもみな何かを待っているような様子でした。数え続けているうちに、人力車の上で眠り込んでしまいました――幻の舟に乗って、どこかを漂っています――すると、海神の娘の乙姫様が私の枕元に立ち、微笑んで、こう言いました――「車屋には七五銭だけお払いくださいまし」……
 太鼓の音がして目が覚めました――あちこちの村で農家の人たちが雨乞いをしているのです。もうずっと雨が降らずに、白い雲だけが浮かんでいます――千年も昔に死んだ雲の亡霊でしょうか――あるいは浦島の玉手箱から逃げ出した夏の霧かもしれません。(浦島が玉手箱を開けたのは本当に愚かなことだと思います。私もそんな箱をかなり以前に開けたことを思い出しました。そのために、私の魂もこんなにけたのです。)電線の上の小鳥たちは、一列になってずっと止まっており、一羽とて尻尾を道路側に向けているものはいません。絵のような景色が何ヵ所かありました。長浜という村は綺麗な所です。そこには、丘の麓に大きな泉があります。少年少女たちが、一緒になって、水遊びをしていました。私は休息して、しばらくその様を眺めていました。若い娘が車屋に冷たい水を汲んであげました。すると彼女の薄い着物がわずかにはだけて、成熟する前の果実のような、まだうら若いふくらみがのぞきました。どの村からも雨乞いの太鼓を打つ音がずっと響いています。
 車屋は私を置き去りにしました。つぎのにもだまされたのでしょう。水田の真ん中で、ペテン師の車屋を解雇すると、私は自分の鞄を受け取って、一人てくてくと歩き出しました。熊本までまだ三里半もあります。電線の小鳥たちが私を見下ろしています。たくさんの蝉たち――それらは出雲のとはまったく違った種類です――が、少年たちに捕まえられたときに、哀れな鳴き声を出し、また悲しげに断末魔の鳴き声を上げています。もちろん、口で鳴いているというよりは足で鳴いているようでした。救いを求める意思を持ち、また突然の哀れみの目的のためですので、鳴き方はおなじように悲痛なものでした。
 それから、今度は良い車屋を見つけて、やっと家に帰り着いたのはもう影が長くなる頃でした。日焼けして両腕の皮膚が剥けました。朝九時から何も食べていませんでした。それに、都合三日間も寝床で眠っていません。また、服も汗でびしょびしょでした。再びわが家にたどり着いて、まったくもって幸せの限りです。長崎は、私にとっては地獄にあるホテルとして、まさしく悪夢でしかありません。――給仕人らは七つの大罪に値します。私がそこへ行くことは金輪際ありますまい。そこは、行ったり戻ったりするには、世界中で一番困難な場所です。そこに居たときには、熊本が、いくつもの台風をかいくぐり、幾多の山々を越えて行かなければならないような、はるか一六万キロも離れた遠い所にあるように思えました。私は、再び浴衣姿になって――畳の上に座っています――これがしんの日本です。けれども、この旅行にはいくつかの愉しい思い出もあります――それと、山々や夏の海を描いて、「浦島屋」の屋号の入った綺麗な団扇うちわです。これを眺めていると、またあの夏の日の夢と想いとが甦ってきます。私は、これからもおりおりにそれらを眺めるでしょう。だって玉手箱は決して開けられないでしょうから。けれど、私は乙姫様にだ一つ従いませんでした。車屋――三人の車屋に、一円二五銭も払ってしまったことです。もし、連中がこのことを知っていたとすれば、私に百二五円だって払わせることができたでしょうに。
 妻が尋ねます。「長崎のベルヴュー・ホテルにあと一週間滞在しなければならないとしたら、いくらならお承けになります?」
「イヤー、オ金ナンボ積マレテモダメデス。タダ、龍宮城デ千年ノ間、若イママデ暮ラセルカ、阿弥陀様ノ極楽浄土ヘ行カセテモラエルナラ、別デスガネ」と答えました。

敬 具
ラフカディオ・ハーン





翻訳の底本:Japanese letters, edited with an introduction by Elizabeth Bisland (The writings of Lafcadio Hearn in sixteen volumes, vol. 16), Large-paper ed., Kyoto, Rinsen Book, 1988.
Reprint. Originally published: Boston: H. Mifflin, 1922
   上記の翻訳底本は、著作権が失効しています。
翻訳者:林田清明
   2011(平成23)年4月3日公開
入力:林田清明
2019年3月2日作成
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