勇子

一つの追憶

YOUKO: A REMINISCENCE

小泉八雲 Lafcadio Hearn

林田清明訳




明治二四年五月五日 一八九一年


誰か賢き女を見出すことを得んや――その値打ちはなはだ高貴なり
ラテン語訳聖書

「天子様 御心配」天子様が畏れ多くも悲しんでおられる。
 街中が異様なまでに静まり返っており、まるで公の喪に服したように厳粛な雰囲気である。通りでは物売りたちですらいつもよりも低く呼び声を挙げている。普段だと朝早くから夜遅くまで開場している劇場や芝居小屋もみんな閉じている。どこの娯楽施設も同じように閉鎖され、また展示会も――生花の展示ですら例外ではない。同様に飲み屋もみんな店仕舞している。花街にも三味線の響きさえ聞こえてこない。大きな宿屋には浮かれ騒ぐ者さえいなかった。泊まり客は声を潜めて囁きあっている。町の通りで見かける顔には、いつものような微笑みの片鱗すらなかった。案内板には宴会や歌舞音曲は無期限に延期するという張り紙がある。
 国全体を覆っているこのような沈鬱さは、大きな惨劇か国民的な危難――例えばひどい大地震とか首都崩壊や宣戦布告などのニュースの後に引き続いて起こるのが通例である。ところが、実際にはこんな事態は起きていないのである――ただ天皇が悲しんでおられるという報があっただけである。この国の多くの都市においても、こうした大衆の哀しみのあり様や調子は、陛下に対する国民の深い同情を示している点ではいずこも同じである。
 この親密な同情の後に引き続いて広く国民の間に生まれているのは、悪事を正し加えられた損害を可能な限り償いたいという自発的で一致した願いである。これは様々な方法でそれ自体心の底から直接的に表明されたし、またその純朴さに心動かされるものである。ほとんど全国各地から、また一般庶民から哀悼の手紙や電報そして様々な興味深い見舞いの品々が帝国の賓客に送り届けられている。負傷した露国ロシア皇太子に対して、富める者も貧しい者も問わず、自分たちの最も高価な家宝や一番高い家の財産を提供しようと申し出たりしている。また露国皇帝ツアーに対しては、数え切れぬほどのたくさんのメッセージも――市民から自発的に送られている。ある立派な老商人が訪ねてきて、私にフランス語の電文を作ってくれるよう依頼した。それは皇帝の息子であるニコライ皇太子に加えられた襲撃に対して、日本の全国民の深い悲しみを表明する――露国皇帝宛の電報である。彼のために出来るだけのことをしたが、私は身分の高い高貴な人への電報文を書いたことがなかったのでどうすべきか迷った。「いいや、それは大丈夫です」と彼は答えた。「セントペテルブルクの日本大使に送るつもりです。きっと書式の違いなどはそちらの方で直してくれるでしょうから。」私はこの電文を送るのにいくら掛かるかご存知かと尋ねてみた。彼は百円以上くらいでしょうかと値踏みした。その金額たるや、松江の小さな商人が支出する額に匹敵するほどの大金であった。
 ある厳格な古武士たちはいささか乱暴なやり方ではあるが、この事件についての自分たちの気持ちを表わした。つまり大津で露国皇太子の警護の任に当たった高官の一人は速達便で立派な短刀と厳しく糾弾する旨の封書とを受け取ったが――貴公が男らしさを示すために直ちに切腹して、サムライとして遺憾の意を示すべしという内容が書かれていた。
 というのも、これらの人たちは神道の神と同じように様々な魂を持っている。和魂(ニギミタマ)と荒魂(アラミタマ)、つまり優しい魂と荒々しい魂の両方を持っている。優しい神は補償することのみを求めるが、荒々しいミタマの方は罪の贖いを要求するのである。そして、今では人びとの日々の生活を暗鬱にしている雰囲気の中で、あたかも正と負の二つの電流がショートするように、これらの魂どうしの奇妙なせめぎあいがあちこちで感じられた。

 遠く神奈川ではとある裕福な家に奉公している若い少女がいるが、名を勇子という。この名はその昔サムライの名であれば勇敢さを意味するものである。
 全国四〇〇〇万もの人々が悲嘆に暮れているが、彼女は誰よりも憂えていた。ただ西洋人には、それがどんなものであるかや、またなぜなのかなどを十分に理解するのは無理であろう。勇子という存在は感情と衝動とによって支配されているのであるが、この性質を西洋の者たちは極めて漠然としか推測することができない。むろん私たち西洋人にも、日本の善良な娘の心情のいくらかは分かる。そこには愛がある――たぶんとても深くかつ静かな愛である。純潔さ、無垢さがある――仏教ではそれを表わすシンボルは蓮の花である。同様に、感受性があり、それは梅の花の最も早咲の純白の花のように繊細である。死を厭わないこともそこにある――彼女のサムライの血統――それは音楽のように柔和な優しさの下に隠されている。さらに信仰心もある――それはとても現実的でかつとても素朴なものである――信仰心は仏と神を庇護者に持ち、日本人としての節度のあるものであればどんな願いでも憚かりなく願うのである。ところが、これらのそして他の多くの感情を支配する究極の、ある一つの感情が存在する――それは西欧の「忠誠心」などという言葉ではうまく言い表せないが、我々が神秘的高揚と呼んでいるものにどこか近いものである。言い換えるなら天子様への絶対的な崇敬と献身の観念とでもいえようか。しかし、これは個人の感情をはるかに超えたものである。つまり、それは死者たる先祖のおびただしい霊たちの不死なる道徳的な力と意思に他ならないのであり、その脈々と受け継がれる霊魂はこの娘の生命からその背後にあって忘却された時間ときの絶対的な夜の暗闇へと限りなくさかのぼるものである。言うなれば彼女自身は、我々西洋人の観念とは違った過去に取り憑かれた精神的空間にすぎない――その過去とは、数え切れないほどの世紀を通して、すべての者たちが一つとなって生きて、感じ、そして思考してきたものである。西洋ではこんな風に霊魂が一つに連綿と繋がっているなどとは考えてこなかった。

「天子様 ご心配」この乙女は今すぐにでも何かぜひお役に立ちたいという思いで身を焦がしている――彼女は給金からつましく節約した僅かなものを除けば他には何も持っていなかったから、そうした望みはなかったが、それでも居ても立ってもいられないほどの切なる願いであった。この切望は以来ずっと胸中に燻っているため、彼女は寝ても覚めても心が休まる暇はなかった。その夜彼女は思案した。自問してはみるがそれは答えの出ない問である。「天子様のご心痛を安んじ奉るために私は何をお捧げできるだろうか?」すると音もなく「汝自身を」という声がどこからともなく聞こえてきた。「でも私にそれができるでしょうか?」彼女は怪訝そうに問い掛けてみる。「そなたには生きておる親はいない」とそれが答える。「献上すべき品もない身だ。汝、我らのために身を捨てるべし。天子様に一命を捧げることは至高な忠義であり、また愉悦の極みたらん」乙女は尋ねる。「では、どこで?」声なき声は「西京なり」、「古式に則り、その門前にて死ぬべし」と言う。

 夜が明けた。すると勇子は起きて昇る朝日に祈りを捧げる。そして、彼女はいつも通りに朝の仕事をし終えると、主人に暇乞いをした。それから、自分の一番綺麗な服を着て帯を締め、真っ白な足袋を履いた。これらは天子様のために命を捧げるのに恥じない装いであった。その後一時間ばかりして京都へと旅立った。汽車の窓から流れゆく景色を眺めている。この日はとても心地よい日であった。遠くの景色は春風駘蕩といったのどかな趣があり、見晴らしは霞が薄青くたなびいてこの上なかった。彼女は自分の父祖たちも見た同じこの土地の麗しい景色を眺めている。けれど、それは西洋人には日本の古い絵本にある不思議でとても魅力のあるものでしか、残念ながら見ることはできない類のものである。彼女は生命いのちの悦びを感じている。けれども、自分自身の人生において将来起こりうる自分の幸福な時を少しも夢見ていない。自分が死んだ後もこの世界はそれまでと変わりなく美しいままであると考えてみたところで、勇子には格別の悲しみも湧いて来ない。かといって彼女は仏教の厭世観や厭離などの憂鬱さにふさぎ込んでいるのでもなかった。というのも、彼女は古来の神々を信じているからである。神々は鎮守の森の暗がりから、また背後の丘の上にある太古の神社から微笑みかけている。そして、おそらく一つの神が彼女とともにおわす。それは死神と呼ばれ、死を恐れぬ者たちには宮殿よりも墓の方がはるかに素晴らしいところだと思わせる神であり、文字通り死を望む神である。勇子にとっては未来は暗黒ではない。彼女はいつも山の頂に昇る聖なる日輪を拝み、水面に浮かぶ月姫の微笑みを見て、そして四季折々の永遠の幽玄さを眺めるのである。またそのひとは数え切れないほどの年月に渡って、たなびく霧を越え、杉の木陰の静寂しじまの中を抜けて、美しい場所をたびたび訪れるだろう。この乙女は、桜の花びらを雪のように舞い散らす風の中に、また川の流れのさざめきの中に、そして見渡す限りの緑の静寂の中に心地よいさらさらという音がする度に、より穏やかなせいを悟るに違いない。けれども、彼女はまっさきに自分の先祖である血縁の者たちに挨拶するだろう。先祖の霊たちは霊界のどこか幽玄な広間で彼女がやって来るのを待っていて、おそらくこのように言おう。「お前はよくやった――まさしくサムライの娘だ。さあお入り、愛し子よ! 今宵は神々と晩餐をともにしよう!」

 この乙女が京都に着いたのは昼間だった。宿屋を見つけると、さっそく腕の良さそうな女髪結い屋を探した。
「これをきれいに研いで下さいな」と小さな剃刀カミソリ(婦人の身だしなみには欠かせない道具)を渡しながら言った。「研ぎ上がるまで、こちらで待たせてもらいますよ」勇子は新しく買った新聞紙を広げると、首都からの最新の記事を探した。彼女はとても上品な身のこなしであったが、親しげに話しかけるという雰囲気でもなかったので、店の者は不思議に思いながらも当たらず触らずといった風に様子を見ている。けれども彼女の表情は子どものように穏やかだった。やがてまた天子様のご心痛の記事を読んでいくにつれて、その心中では先祖の霊が休みなく動いていた。「今こそ死ぬべき時と乞い願わん」勇子はそう思って心の中で応じる。すると「いや早まるな。時機を待て」と霊が言う。やがて申し分なく研がれた小さな剃刀を受け取ると、言われた金額を払って宿に戻っていった。
 彼女は二通の書状をしたためた。一通は自分の弟宛で、お別れのためのものであり、もう一通は、首都にいる高官宛で、非の打ち所のない嘆願状である。それは、私めの如き卑賤の身なれども、かの凶行の罪を進んで償うために若い一命を捧げること、またこの意を酌まれて天子様がご心痛を鎮め給われんことを切に願うといった内容であった。
 再び勇子が出かけたのは、夜明け前のもっとも暗い刻限である。あたりには墓地のような静けさがあった。灯りとてほとんどない。彼女の小さな下駄から思いがけず大きな音がした。星だけが彼女を照らしている。
 やがて京都府庁の大きな門の前まで来た。すると勇子は門の中空となっている影の中へ入って行き、祈祷を唱えながら膝まづいた。そして、古式に則って、彼女は絹の羽織を脱ぎ、紐の結び目がちょうど膝の上に来るようにそれをきつく自分に巻き付けた。自分の無意識の間の断末魔に何が起ころうとも、武家の娘は取り乱すことなく、礼儀正しく手足を結んで死んでいなければならないからである。それから落ち着いて的確に自ら深く喉を切ると血がおびただしく流れ出した。サムライの娘はこれら一連の事を見事に成し遂げるものである。むろん彼女は動脈や静脈の在りは承知していた。

 日が昇ると、警官がすでに冷たくなった彼女と遺書二通に五円と幾ばくかが入った財布(むろん自分を埋葬してもらうに足る金銭)を発見した。そして彼らは遺体とわずかな身の回りの遺品を片付けた。

 それから、この出来事は電光石火の如くたくさんの都市に伝えられた。
 首都の新聞各社もニュースを受取ったが、皮肉屋の新聞記者たちはあらぬことを想像してこの種の犠牲的行為によくありそうな動機、たとえば人に言えないような不面目とか家庭内の不幸とか失恋などといったものをあら探ししようとした。が、勇子の全き純朴な人生には隠し事や弱みそれに恥ずべきことなどまったくなかった。彼女のそれに比べると、蓮の開いたばかりの蕾すらももはや清らかとはいえないほどである。結局のところ、冷ややかだった記者たちも彼女の唯一高貴な点つまりサムライの娘たるに相応ふさわしいことを書かざるを得なくなった。
 天子様にも聞こえ及ぶと、国民が自分をいかに敬愛しているかをお知りになり嘆かれ給うのをお止めになった。
 大臣たちも聞きつけると、玉座の影で囁きあった。「他の多くは変わっても、この人民の誠の心だけは変わるまい」

 にもかかわらず国家の高度な理由とやらで政府は知らぬふりを装っている。



翻訳の底本: "YOUKO: A REMINISCENCE", in OUT OF THE EAST AND KOKORO, by Lafcadio Hearn (The Writings of Lafcadio Hearn, Large-paper ed., in sixteen volumes vol. 7), Rinsen Book, 1973. Reprint. Originally published. Boston: Houghton Mifflin, 1922.
   上記の翻訳底本は、著作権が失効しています。
翻訳者:林田清明
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2018年4月15日作成
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