銀河のロマンス

THE ROMANCE OF THE MILKY WAY

(「天の河縁起」「天の川綺譚」)

小泉八雲 Lafcadio Hearn

林田清明訳




 日本で古くから祝われてきた魅力的な祭りはいろいろあるが、なかでも最もロマンチックなのはタナバタサマのお祭りである。けれど、今では大きな都会ではほとんど見かけなくなっている。げんに東京ではもうほとんど忘れ去られた有様である。それでも、地方や首都近郊の村に行けば今でも小規模ながら行われている。もし(旧暦)の七月の七日に、地方の古そうな町や村を訪ずれる機会があったら、読者諸氏はたぶん新しく切った青竹が屋根の上に取り付けられたり、あるいは家々の傍の地面に立てられたりしているのを見かけられるだろうし、それらの青竹には細長い色紙がたくさん結びつけられているのをご覧になるだろう。とても貧しそうな村ではこれらの短冊が白色であったり、一色だけであると気づかれよう。しかし、これらの細長い紙は普通は五色か七色である。青、緑、赤、黄色それに白色はよく飾り付けられている色である。これらの色紙にはなべてタナバタとその夫であるヒコボシを讃える短い詩句が書き付けられている。お祭りが済めば、竹は取り払われ、結び付けられた詩句の短冊も一緒に近所の川に流されてしまうのである。

 この古い祭の縁起となっている恋物語ロマンスを理解するには、七月七日には宮中においてこれら星の神々にお供えをする行事が行われてきており、その故事を知る必要がある。伝説そのものは中国から由来したものであるが、日本で一般的に知られているのはつぎの物語である――
 天界の大神には、タナバタツメ(棚機津女)という可愛らしい娘があったが、父なる王のために一日中織物を織って暮らしていた。姫は自分のこの仕事を気に入り、喜んで機織をしている。ところが、ある日、王宮の戸口の織機の前に座っていると、若い農夫が牛を牽いて通りかかるのを見かけた。すると、この若者をすっかり気に入ってしまった。父なる天帝は、娘の密かな願いを察して、若者をその夫とした。けれど、結婚した若い二人は互いを好きで堪らず、天界の神への務めを怠った。やがて機織機のの音も聞かれなくなった。また、牛も放ったらかしにされて天界の草地をさ迷っている。このため天帝は快く思われず、ついには二人を別れさせになった。二人は以後、天体の川を挟んで別々に暮らすようにと申し渡された。ただし、一年に一度だけ、七番目の月の七番目の夜にだけ、互いに逢うことが許された。その夜には――夜空が澄んでいれば――天界の鳥たちがその体と広げた翼とで川に架ける橋を作るのであった。この橋を渡ることで恋する二人は逢うことができる。ところが、その夜が雨だったならば、天の川は水かさが増して川幅が広くなり、橋を作ることがもうできないほどになる。そういう風で、七番目の月の七番目の夜だったとしても、夫と妻が必ず逢えるとは限らない。天気が悪ければ、二人は三年も四年も会えなくなってしまうことがある。けれども、二人の愛はいつまでも若々しく、また一途であったので、それぞれの務めを毎日勤勉に――つぎの七月七日の夜には会えることを願って――励んでいる。

 古代中国人の想像するところでは、天の川とは光り輝く川――「天の川」――つまり「銀河」であった。西洋の作家たちによれば、タナバタつまり織姫はこと座の星の一つであり、彼女の夫である牛飼はこの銀河の反対側に位置するわし座の星の一つである。しかし、極東の人たちの想像の世界では、これら二つの星は他の多くの星の集まりを代表していると言った方が正しいであろう。日本のある古い書物では、この点についてはっきりとつぎのように言っている。「牽牛(牛飼)は天の川の西側に位置して一列に並んだ三つの星で示され、あたかも牛を牽く男の形を示している。織女(織姫)は天の川の東側にあって、並んだ三星は機織機の前に座っている女性の姿のように見える……。牽牛は農事を司り、織姫は婦人の仕事を司る。」

雑和ざつわ集』という古い書物によると、これらの神々はもとは地上の人たちだったという。かつて、この世では二人は夫婦で中国に住んでいた。夫は遊子といい、妻は伯陽といった(a)。二人はとても熱心に月をあがめていた。太陽が沈み、澄み渡った夕暮れにはいつも月が昇るのを心待ちにしている。夕日が沈みかけると、二人は家の近くの丘の上に登って、できるだけ長くお月さまを仰ぎ眺めていた。そしてついに月が消えかかると嘆くのである。妻の方は九九の歳に亡くなった。彼女の魂はカササギに乗って天上へと昇った。夫は、その時一〇三歳だったが、月を眺めては亡き妻を偲んだ。そして、月が昇るのを喜んだが、またそれが沈んで隠れるのを悔やんだ。それはあたかも妻がなお自分のそばにいるかのように思われたからである。
 ある夏の夜、伯陽は――いまでは永遠に美しくまた若いままに――カササギに乗って天上から地上の夫の元を訪ねた。遊子は訪ねて来てくれたことをとても喜んだが、その時から彼は自分も星となることしか考えられなくなり、また天の川を超えて伯陽と一緒になることばかり夢見ていた。ついに遊子はカラスに乗って天上に昇った。そしてそこで星となって神様になった。けれども、望んだようには伯陽と一緒になることはできなかった――というのは彼が割り当てられた場所と妻のいる場所との間には天の川があったからである。天帝が毎日川で浴あみをなされるから、どの星も川を渡ることが許されなかったのである。ましてや橋などはないのである。しかし、毎年一日だけ――七月の七日――、二人は互いに会うことが許された。その日には、天界の大帝(天帝)は決まってブッダの説法を聴かれるために、善法堂に行かれるのだった。カササギとカラスが、それぞれ翼を広げて空中で飛びながら静止して天の川に架かける橋を作ってくれるので、伯陽はこの橋を渡って夫の遊子に会うのである。
 日本でタナバタという祭りが元々は中国の織姫、チニュウ(織女)の祭と同じであることは明らかである。日本の祭は、そのはじめからとくに婦人の祭日であったようだ。タナバタという語にまつわる人物といえば織女を意味している。ところで、二つの星の神様が七月七日に敬われるようになると、ある日本の学者たちはそのありふれた説明には納得せず、それは元々はタネ(種もしくは穀物)とハタ(織機)という二つの言葉から成っていると言い始めた。この語源の説明に賛同する者たちは、単数ではなく複数形にしたタナバタサマという名称を用いて「穀物と機の神々」とするのである――つまり農業と機織を司る神々なのであるという。古い日本の絵画には星の神様はこれらのそれぞれの属性を持つ概念に基づいて描かれている――彦星は天の川に牛を牽いて連れていく農夫の若者として、また、もう一方の遠くの側では織姫が織り機の前に座って機織りしている姿が描かれている。両人の衣装は中国風である。最初にこれらの神様たちを描いた日本の画というのはおそらく中国の原画を模写したものであったろう。
 現存する日本の最古の詩歌集である――西暦七六〇年頃の「万葉集」――では、男性の神はたいてい彦星と呼ばれ、女性の神はタナバタツメ(棚機津女)とされている。しかし、その後になると、両者はタナバタと呼ばれている。出雲では、男性の神はタナバタサマ、女性のそれはタナバタサマと呼ばれている。両者とも多くの名前で知られている。男子はカイボシや彦星とも牽牛とも呼ばれている。女性神はアサガオヒメ(朝顔姫)(1)やイトオリヒメ(糸織姫)とか、モモコヒメ(桃子姫)やタキモノヒメ(薫物姫)、あるいはササガニヒメ(蜘蛛姫)とか呼ばれている。これらの名のうちのいくつかはとても説明するのが難しいが――とくに最後のものに至っては、ギリシア神話のアラクネーを連想させるものである(b)。おそらくギリシア神話と中国の古い昔話にはなにも共通するものはないが、古い中国の書物には関連を示唆するような面白い事実も記されている。中国皇帝の明皇ミンハン(日本では玄宗皇帝)の治世の時に、占朴うらないのために七月七日になると宮廷の女官たちが蜘蛛を捕まえて、香料の箱の中に入れておくのが習慣だった。八日の朝になるとその香箱が開けられて、もし蜘蛛が一夜にして蜘蛛の巣を立派に張っていれば吉であり、何もなければ凶であった。

 こんな話もある。昔、出雲の山の中にある農家をある美しい女性が訪れて、この家のひとり娘に今まで誰もまったく知らない織り方を教えた。とある夕刻、この美しい来訪者はいなくなってしまった。それで家の者や村人たちはあれは天の織姫だったのだと気がついたのだった。農家の娘はその織り方で知られて有名となったけれども結婚はしなかった――というのは彼女はタナバタサマにお仕えしたからである。

 それから、中国のちょっと雲をつかむような話もある。それは、何も知らないまま天の国に行った男の話である。男は、毎年八月になると高価な銘木が自分の住む海岸にたくさん流れ着くことに気づいた。そこで、男は舟に二年分の食料を積むと、たくさんの木が流れてくる方角へ向けて船旅をした。来る月来る月、いつも凪いでいる海の上を航海していると、ついに素晴らしい樹木が生えている美しい海岸にたどり着いた。舟を停泊させて、ただ一人見知らぬ土地に入り込んでいくと水面が銀のように輝いている川の岸辺に着いた。川向こうには東屋あずまやがあって、そこでは、きれいな女性が座って機織りをしている。女性は月光のように白く、光り輝いている。やがて、見目のよい若い農夫が水を飲ませるために牛を牽いてやって来た。男は若者にここが何という国でどんな所かと訊ねた。この若者はこの問いかけに気を悪くしたようで、ぶっきらぼうに答える。「ここがどんな所か知りたければ、国へ戻って厳君平げんくんぺいに尋ねてみろ」(2)。そこで、旅の男は怖くなったので急いで舟のところへ引き返して中国まで戻った。そして、厳君平なる賢人を探し出して、自分のこの冒険譚を話した。厳君平は、不思議な話だったので、はたと手を叩いて言う。「なんだ、お前さんだったのか!……七月七日に、空を仰ぎ眺めていると、牽牛と織女がまさに出会おうとしていたときに――二人の間に新しい星が現れたので、てっきり私は客星かくせいだと思ったのじゃよ。幸運な人だね! お前さんは。天の川まで行って織姫様の顔まで見たんだからな!……」

 牽牛と織女との出会は目がいい人なら誰でも見ることができると言い伝えられている。その出会いのときは五色の光に輝くからである。七夕の神々に五色の供物を供えたり、神々を讃える詩句を五色の短冊に書くのもこの故である。
 しかし、先に述べたように、二つの星はよく晴れた日だけに出会うことができるのである。七日に少しでも雨が降れば、天の川は水かさが増して、恋人たちはまるまる一年も待たなければならないことになる。このために、七夕の夜に降る雨はなみだの雨、「涙雨」と呼ばれている。
 七日の夜、空が晴れていたなら、恋人たちにとっては幸運である。二つの星は喜びで光り輝いているのが見えるだろう。牽牛星がとても光り輝いているならば、その年の秋には豊作が見込めるのである。他方、もし織女星がいつもより輝いていれば、機織やあらゆる女性の仕事に繁栄をもたらすと言い伝えられている。

 昔の日本では、一般に、二人の出会いは人々にとって幸運を意味するものと考えられてきた。今日でさえ、この国の多くの地方では、子どもたちが七夕祭の宵には可愛い歌を歌う――天気になあれ!(「良い天気でありますように!」)伊賀地方では若者たちはまた、恋人たちが出会うと思われる時刻にからかいの唄を歌う――

たなばたや!
あまり急がば
転ぶべし!(3)

ところが、雨のとても多い出雲地方では、反対のことが言い伝えられている。七月七日の日に晴れているならば災いが起こるであろうと信じられている。つまり、二つの星が出会って契を交わすと、そこから悪い神も多く生まれ、干ばつやその他の災いをこの地方にもたらすことになるからである。
 日本で七夕祭が最初に祝われたのは、天平勝宝てんぴょうしょうほう七年七月七日(西暦七五五年)であった。七夕神が中国に起源を持っていたために、おそらくそれまで七夕神の祀りを祭事としては多数の神社では行わなかったということであろう。
 私が調べたところでは、それに関する記録がただ一つ、七夕神社というところにあることが分かった。この神社は尾張国の星合という村にあって、周りを七夕森(4)という森に囲まれていた。
 しかし、天平勝宝以前にも織姫伝説は日本でもよく知られていた。というのは、養老七年七月七日(西暦七二三年)の日に、山上憶良が詠んだ歌の記録があるからである――

天漢あまのがは
相向立而あひむきたちて
吾恋之あがこひし
君来益奈利きみきますなり
紐解設奈ひもときまけな(5)   (歌番号1518 以下同じ)

 七夕祭が日本で確立したのは、一一五〇年ばかり前で、中国の古式にならって宮中の祭式として行われたものであると思われる。その後、宮中のこの例に倣って貴族や武士階級の人たちが至る所で行うようになった。この星祭あるいは星のお祭り――一般にはそう呼び習わされている――を祝うのは徐々に下々しもじもにも広まっていき、七月七日が広く庶民的な祭日となるまでに至った。しかし、その祭のやり方は地域や場所によってだいぶ違っている。
 宮中の儀式はもっとも詳細な特徴を持っている。公事根源くじこんげんには詳細な解説が――挿絵付きで――なされている。七月七日の夕刻には清涼殿の東側に敷物が置かれ、そこに星の神々へ捧げる品々を載せた四つの供物台が置かれる。通例の食物の供物に加えて、酒、香、花を活けた漆器の花瓶、琵琶と笛それに、五色の糸を通した五つの針穴のある針が置かれている。饗宴を照らすために、供物台の傍には黒塗りの燭台が置かれる。庭には水を張った盥がタナバタ星の光を映すように置かれている。光が映ると宮中の女官たちが針に糸を通す儀式がある。これをうまくできた女官はつぎの年は幸運であると言われている。
 貴族(公卿)たちは、七夕祭りの夜には宮廷にしかるべき献上物を捧げることになっている。これらの献物の品と作法は儀式・礼によって定められている。これらは、式服を着た位の高い、また被衣かつぎをかぶった貴婦人が盤の上に載せて、宮殿まで運ぶのである。その際彼女が歩くときには、その頭上には大きな朱傘を供の者が差し掛ける。盤の上には(詩歌を書くために美しく色付けされた細長い紙片である)七つの短冊、七つのの葉(6)、七石の硯、七本の素麺(一種の細いパスタのようなもの)、十四本の筆、夜のうちに集められた露がいっぱいかかったサトイモの葉の束が載せられている。宮殿の庭では儀式は寅の刻――午前四時に始まる。硯は――天帝への賛辞を込めた詩歌を書くための墨を準備する前に――丁寧に洗われてそれぞれの葉の上に置かれる。露で濡れたサトイモの葉の束がそれぞれの硯の上に置かれ、水の代わりにこの雫で墨がられて整えられる。この儀式はみな、玄宗皇帝の御代に中国の宮廷で流行していたものに倣ったものと思われる。

 七夕祭が広く庶民的な祭りとなったのは徳川時代になってからである。その祝のなかでも、文政年間(一八一八年)になると五色の短冊を新しく切った青竹の枝に結びつけるという風習が一般的になった。それ以前の短冊は非常に高価な紙でできていた。昔の貴族の祭はとても贅沢でまた儀式的にも精緻なものであったが、徳川時代になると様々な色をしたとても安価な紙が作られるようになった。祭の儀式はあまり高価ではない形で行われるようになり、貧しい階層の人たちも楽しめるようになった。
 七夕祭のやり方(慣習)は地方によって異なっている。出雲の場合は――武士階級と庶民とでは違いはなくたいていは同じように祝われている――が、とても興味深いものである。それらについて簡単に触れることは封建時代の日常生活の幸福な面の幾ばくかを示唆するであろう。七月七日の寅の刻になると、皆は起き出して、硯や筆を洗ったりする。そして、家の庭先では里芋の葉の露が集められる。この滴は「天の川の雫」(「天の川からの雫」)と言われている。これは新しい墨を擦るのに使われ、それで詩歌が書かれて、庭に立てた青竹に結び付けられる。七夕祭のときには、友人とは互いに新しい硯を贈り合うのが慣わしとなっていた。新しい硯が家にあればそれに新しい墨が整えられて、家族の者が思い思いに詩歌を書きつける。大人たちは、星の神様を讃える詩歌をそれぞれ作る。まだ筆を使えないような幼い子たちも、親や兄姉に手伝ってもらいながら――「あまのがわ」とか「たなばた」「かささぎのはし」(カササギの橋)とかいった、お祭に関連した短い語や句を「短冊」に書きつける。庭先には新しく切ってきた二本の青竹が枝や葉はそのままに立てられている――男性の竹(「男竹」[#「男竹」は斜体])と女性の竹(「女竹」[#「女竹」は斜体])である。これらは一八〇センチばかり離して立ててあり、二つの竹は紐で繋がれており、この綱にも五色の紙を切ったものと五色に染めた糸を巻き取ったものが結び付けられる。切紙は衣服――「着物」を現している。青竹の枝や葉それぞれに家族の者たち書いた詩歌の短冊が結び付けられている。二つの竹の間のすぐ前に置かれた式台の上には星の神々に捧げる様々な供物――果物、素麺、酒、胡瓜とか西瓜など種々の野菜が器の盛られて置かれている。
 しかし、お祭に関する出雲の風習のうちで最も興味深いのは「ネムナガシ」あるいは「眠気覚まし」という儀式である。夜明け前に、若衆たちが合歓の木の葉と豆の葉とを一緒に混ぜた束を抱えて川まで行く。川に着くと彼らは流れの中に葉の束を放り投げて、ちょっとした歌を歌う――

ネム ハ ナガレロ!
マメノハ ハ トマレ!

これらの詩句は二様に解釈される。「ネム」という言葉は、「ねむり」(スリープ)、または「眠り木」や「合歓の木」、「眠りの木」(みもさ)を意味すると取れるし、――他方、「マメ」は「カナ」書では「まめ(豆)」の意味もとれるし、または「活動」や「強さ」、「元気」、「健康」などを意味するからである。しかし、儀式は象徴的なものであり、先の歌の意味はつぎのようである――

眠気よ、流れ去れ!
元気の葉は、留まれ!

 このあと、若衆はみな川に飛び込んで水を浴びたり泳いだりする。これは、来年のために怠け心を洗い落とし、また元気一杯に努力する気持ちを保つためである。

 しかし、江戸の七夕祭はもっとも絵になる面を持っていたであろう。祭の二日の間――七月六日と七日――町は大きな竹林の様相を呈するのだった。新しい竹には詩歌を書いたものが括り付けられて、家々の屋根の上に立てられたのである。農家の人たちにとってはこれらの日は大きな商売となった。祭りに使うためのたくさんの青竹を荷台に積んで町に持ち込んだ。もう一つの江戸の祭の特徴といえば子どもたちの行列である。詩歌を結びつけた竹が町中を練り歩く。竹にはそれぞれまた漢字で七夕の星の名を書いた赤い飾りが結び付けられていた。
 徳川時代にはほとんどどこでも、七夕祭りはあらゆる階層の若者たちにとっては楽しい祝日であった――祭日の始まりには、夜明け前に提灯が飾られ、それは翌日の夜まで続いた。少年少女たちは、この日には晴れ着を着て、お祭のしきたりで友人や近所の人達を訪問し合うのである。

 七月の月は「七夕月」もしくは「タナバタツキ」と呼ばれた。そしてまた、「フミツキ」もしくは「文の月」とも言われた。七月には「星空の恋人たち」を讃える詩歌が至る所で書かれるからである。

 つぎに、読者のみなさんには、古い日本の詩歌から選り抜いた七夕祭を詠んだ歌に興味をお持ちいただけるものと思う。これらはみな万葉集から採っている。万葉集あるいは「たくさんの葉の拾遺」は八世紀の半ばより以前に作られた膨大な詩歌を収集したものである。これは宮中の命によって編纂され、九世紀の初期には完成した。それには四〇〇〇首以上もの詩歌が収められている。「長い歌(長歌)」もいくつかあるが、ほとんどは「短歌」もしくは三一文字で作られている。それに歌の作者も庶民から高い位の貴人・官人たちまであった。最初の十一首は一一〇〇年以上も前に筑前守ちくぜんのかみであった山上憶良が詠んだものである。歌人としての令名は高く、彼の作になる歌の少なからざるものがギリシア神話のエピグラム(短詩や警句)と比較されるほどである。ちなみにそんな彼の歌を取り上げるが、それは自分の幼い息子の古日ふるびの死に際して詠まれたものである(c)――

若ければ
道行き知らじ
まひはせむ
黄泉したへ使つかひ
負ひて通らせ   (905)
〔吾が児はまだ幼いのであの世への道も知りません……黄泉の国のお使い様にお礼をして、どうかあの子をおぶって連れて行ってくださいとお願いしよう。〕

 これより更に八〇〇年ばかり前、ギリシアの詩人でサルディス地方のゾーナスともいわれるディオドロスはつぎのように書いた――

「葦茂る湖をハーデース神のいる冥府を目指して、死者の舟を漕ぐ汝、闇のカローン(三途の川の渡守)よ、キニューラス王の幼子が船梯子ふなばしごを登るとき、手を差し伸べて迎えてよ。彼の児、はじめてサンダルを履くゆえ梯子を踏み滑るやも知れず、また岸辺の砂を素足にて踏むをむずかるゆえ。」

 しかし、ディオドロスのこの素晴らしい短詩はギリシア神話から連想されたものにすぎない――というのは「キニューラスの息子」とはアドーニス(d)に他ならないからである――他方、憶良の歌は私たちに父親の愛し児に対する切なる心情を吐露している。

 七夕伝説は中国からもたらされたものであるが、読者は、以下に引用する日本の詩歌に中国的なものは何も見受けられないことに気づかれるだろう。これらの歌には外国の影響はまったくみられないし、古くからの古典的詩歌を純粋な形で表現したものである。それらが私たちに示唆しているのは、一二〇〇年前の日本人の生活と思想の有りようである。これらの歌が現代ヨーロッパ文学が確立する以前に作られていることを思えば、日本の書き言葉である文語が何世紀も経ているにも関わらずほとんど変化していないことに驚かれるのではないだろうか。なるほど幾つか時代遅れとなった単語はあるし、発音にも僅かに様々に変化しているなどの点はあるものの、今日の日本のたいていの読者ならば自分たちの祖先の歌人たちの時代の発音を楽しむことができる。けれど、英国の読者がエリザベス王朝期の詩歌を勉強するときにはこうはいかない。さらに、万葉集の作品の洗練さといい簡潔さの魅力といい、いまだに今日でも超えられていないし、以後の日本の歌人たちといえどもこれらに並び称せられる者はほとんどいない。
 四〇首以上の短歌を翻訳してみたが、その主たる魅力は、私が考える所では、作者それぞれの自ずと滲み出た人間性を私たちに明らかにしている点であろう。棚機津女タナバタツメは私たちにとっては、実に見事な愛すべき存在である日本の婦人を代表している――ヒコボシは神としては輝くものを持っておらず、中国の倫理規範がまだ生活や文学にその規律を及ぼし始めていない六、七世紀の頃の、日本人の若い夫として立ち現れている。また、これらの詩歌は自然の美しさに対する古来の感情を表現していて興味深い。それらは高天原タカマガハラへと移し替えられた日本の風景や季節を見るようである――天界の川には急流や浅瀬もあり、石ころのある川床では急に水かさが増したり、水音を立てているし、また秋風にそよぐ水草もあって、まるで鴨川のようだ――岸辺にかかる川霧はちょうど嵐山の霧を思わせる。彦星の舟は、木の杭を使った櫂で漕がれるが決して古いものではない。今日でも田舎の多くの渡し場で皆さん方が目にする渡し船は、棚機津女が風雨の強い夜に夫が渡れますようにと祈ったあの「ヒキフネ」(曳舟)――川の上に張られた太綱で人馬によって曳かれる平底の舟――そのものである。そして、穏やかな秋の日には、若い娘や婦人たちは田舎の村のそれぞれの戸口のところに座って、棚機津女が父なる天帝と恋人のために織ったように機織りをしているのである。

 これらのほとんどの歌では、天の川を夫に会うために律儀に漕ぎ渡るのは妻ではなく、漕いでいるのは夫の方であることが分かる。そして、そこには「鳥の橋」へも言及されていない……。なお、私の翻訳に関しては、日本語の詩歌を翻訳する難しさを経験的に知っておられる読者には多大なるご海容を賜りたい。またローマ字式の綴りに従っている(なお、一、二例にはアストンが採用した方法に倣って古い文節法を示した方が適切だろうと判断したものがある)。なお、便宜上補足した単語や句はカッコ書きに入れた。

 天の川
相向き立ちて
 我が恋ひし
君来ますなり
紐解きけな   (1518)
〔天の川に互いに向かい立って、ここで会うのを今か今かと待っている。恋い慕うあなたがもう来られている。……衣の紐を解くのももうきのようだ(7)

 久方の(8)
天の川瀬に
 舟浮けて
今夜か君が
 我がり来まさむ   (1519)
〔永遠の天の川瀬に舟を浮かべて、今宵こそは私の元にお出でになるだろう〕

 風雲は
二つの岸に
 通へども
我が遠妻の
ことぞ通はぬ   (1521)
〔風や雲は天の川のこちらと向こうの岸を通って行くけれど私の遠い妻の言葉は通わない〕

 つぶて(9)にも
投げ越しつべき
 天の川
隔てればかも
あまたすべなき   (1522)
〔小石を投げれば向こう岸に今にも届きそうなのに、天の川であの方と隔てられているので、ああ(秋を除いては)会うことなど望みようもありません〕

 秋風の
吹きにし日より
 いつしかと
我が待ち恋ひし
君ぞ来ませる   (1523)
〔秋風が吹いた日から、いつかいつかと心待ちにしていたあの方がとうとうやって来られました〕

 天の川
いと川波は
 立たねども
伺候さもらひ難し
近きこの瀬を   (1524)
〔天の川の波はそれほど立ってもおらず、また近い瀬なのに渡って逢瀬することもまだできないのです〕

 袖振らば
見も交しつべく
 近けども
渡るすべなし
秋にしあらねば   (1525)
〔(長い)袖を振ればあなたが見えるほど近いのに、まだ秋ではないので川を渡るすべがありません〕

 かげろいの(e)
ほのかに見えて
 別れなば
もとなや恋ひむ
逢ふ時までは   (1526)
〔玉の輝きの(底文では、かげろう(10)を見かける)ようにほんのわずかにお逢いして別れるのならば、来年の七夕まで無性に恋しくてたまらないと思う事でしょう〕

 彦星の
妻迎へ舟
 漕ぎ出らし
天の川原に
霧の立てるは   (1527)
〔どうやら牽牛が妻を迎える舟を漕ぎ出しているようだ。天の川原に(櫓の雫のため)霧が立ちのぼっているから〕

 霞立つ
天の川原に
 君待つと
い行き帰るに
の裾濡れぬ   (1528)
〔霞が立っている天の川原であなたを待って川原を行ったり来たりしているうちに、裳のすそが濡れてしまいました〕

 天の川
浮津の波音(f)
 騒くなり
我が待つ君し
舟出すらしも   (1529)
〔天の川に浮かぶ舟着き場あたりの波音が騒がしくなっています。私の待ち焦がれるあの方が舟を漕ぎ出しになったのでしょう〕

 織女たなばた
袖継ぐ宵の
 暁は(g)
川瀬のたづ
鳴かずともよし   (1545)
〔織女が牽牛と袖を交わして寝る夜は曙まで浅瀬の鶴は鳴かずともよい(11)

 天の川
霧立ちわたる
 今日今日と
我が待つ君し
舟出すらしも   (1765)
〔天の川に霧が立ち込めている……今日か今日かとわたしが心待ちにしているあの方は舟をお出しになったらしい〕

 天の川
安の渡りに
 舟浮けて
我が立ち待つと(h)
妹に告げこそ   (2000)
〔天の川の安の渡しで舟を浮かべて私は立って待っている。ここであなた(12)を待っていると織女に伝えておくれ〕

 大空ゆ
通ふ我れすら
 汝がゆゑに
天の川道かわじ
なづみてぞ来し   (2001)
〔(星の神として)大空を自由に行き交う私ですが、織姫よ、貴方のためにこうして天の川をやっとの思いで渡ってきたのですよ〕

 八千桙やちほこ
神の御代より
 ともし妻
人知りにけり
継ぎてし思へば   (2002)
〔遠く神代(13)の昔から七夕の日にしか逢えない人は私の密かな妻だった(14)が、今では、私が恋い慕っていることから人々に語り継がれて知れ渡ることになった〕

天地あめつち
別れし時ゆ
己が妻
しかぞにある
秋待つ我れは   (2005)
〔天と地とが別れた古えの時からあの人は私の妻。――けれど妻と一緒にいるには、いつも私はこうして秋を待たねばならない(15)

 我が恋ふる(i)
丹のほの面わ
 こよひもか
天の川原に
石枕まかむ   (2003)
〔私の愛しい妻はほほを紅に染めて(16)、私が降りてゆく今宵も、天の川の川原で石を枕にして寝ているだろうか〕

 天の川
水蔭草の
 秋風に
なびかふ見れば
時は来にけり   (2013)
〔天の川の水蔭に生えている草が秋風に靡いている。ついに逢うべき時がきたのだなぁ〕

 我が背子に
うら恋ひ居れば
 天の川
夜舟漕ぐなる(j)
かじの音聞こゆ   (2015)
〔早くあの人に逢いたいと待ち焦がれていると(17)、夜舟を漕ぐ櫓の音が天の川から聞こえる。〕

 遠妻と
手枕たまくらはし(k)
 寝たる夜は
鶏がねな鳴き
明けば明けぬとも   (2021)
〔遠くにいた妻と手枕(18)をして寝ている夜には、夜が明けるとしても鶏よ鳴くな、鳴かないで〕

 万代よろづよ
たづさはり居て
 相見とも
思ひ過ぐべき
恋にあらなくに   (2024)
〔永遠に手に手を取り、顔と顔を合わせていても、私たちの互いの想いに決して終わりはない(なぜに天は私たちを分かたれるのか?)〕

 我がためと
織女たなばたつめ
 そのやどに
おれ白栲しろたへ
縫いてけむかも(l)   (2027)
〔棚機姫がその家で私のために織ってくれているという白栲布はもう縫われただろうか〕

 白雲の
五百重いほへ(m)
 隠り遠くとも
宵さらず見む
妹があたりは   (2026)
〔あなたが遠く、幾重もの白い雲で見えなくとも、夜毎に見ます、貴方が住むあたりを〕

 秋されば
川霧立てる
 天の川
川に向き居て
恋ふる(19)夜ぞ多き(n)   (2030)
〔秋が来たので、天の川には霧が立っている。私は川に向かって(長いこと)、恋しい貴方を待つ夜がなんと多いことでしょう〕

 一年ひととせ
七日の夜のみ
 逢ふ人の
恋も過ぎねば(o)
夜は更けゆくも   (2032)
〔一年にわずか七夕の夜だけ逢う人もいます――ああ、恋しい胸の内を互いに打ち明ける(20)間もなく夜は更けていくのだなぁ〕

 年の恋
今夜尽して
 明日よりは
常のごとくや
我が恋ひ居らむ   (2037)
〔一年に一度の逢瀬も今夜で終わります。明日からはまたいつものように貴方を恋い慕って過ごさねばなりません〕

 彦星と
織女たなばたつめ
 今夜逢ふ
天の川門かわと
波立つなゆめ   (2040)
〔二人が互いに逢う今夜――天の川の渡し場に荒い波よ、ゆめにも立たないでおくれ〕

 秋風の
吹きただよはす
 白雲は
織女たなばたつめ
天つ領巾ひれかも   (2041)
〔ああ、秋風が吹き漂わせているあの白い雲は、織姫の天つ領巾(スカーフ)(21)でしょうか〕

 しばしばも
相見ぬ君を
 天の川
舟出ふなではやせよ
夜の更けぬ間に   (2042)
〔たびたびは逢えない貴方です。夜が更ける前に早く天の川に船出して下さい〕

 天の川
霧立ちわたり
 彦星の
かじの音聞こゆ
夜の更けゆけば   (2044)
〔夜も更けゆき、天の川に霧が立ち渡っています。すると彦星が漕ぐ楫の音(22)が聞こえます〕

 この夕べ
降りくる雨は
 彦星の
早漕ぐ舟の
櫂の散りかも   (2052)
〔この夕べに降る雨は、彦星が急いで漕いでいる舟の櫂の雫なのでしょうか〕

 風吹きて
川波立ちぬ
 引き船に
渡りも来ませ
夜の更けぬ間に   (2054)
〔風が吹いて川波も高くなってきました――今夜は、夜が更けぬ間に、引き船に(23)に乗って渡ってきて下さい〕

 明日よりは
我が玉床を(p)
 うち掃ひ
君とねずて
ひとりかも寝む   (2050)
〔明日からは、ああ!この寝床を片付けて(きれいにしても)、また独りで寝なければならないのですね〕

 天の川
川のさやけ清し
 彦星の
早漕ぐ舟の(q)
波のさわきか   (2047)
〔天の川では川音が清々しく聞こえます。あれは彦星がこの秋に急いで漕ぎ立てる波のざわめきでしょうか〕

 天の川
波は立つとも
 我が舟は
いざ漕ぎ出でむ
夜の更けぬ間に   (2059)
〔天の川の波が高くなろうとも、夜が更けぬ間に私はこの舟でさあ漕ぎ出すのだ〕

 いにしへに(r)
織りてしはた
 このゆうへ
衣に縫ひて
君待つ我れを   (2064)
〔ずっと前から織ってきた布を今夜はもう衣に縫い上げました――なのにまだ貴方を待たねばならないの?〕

 天の川
瀬を早みかも
 ぬばたまの
夜は更けにつつ
逢はぬ彦星   (2076)
〔天の川の流れが速くて渡れないのでしょうか? 夜(24)は刻々と更けていくのに――まだ彦星は来ませぬ〕

 渡し守
舟早渡せ
 一年ひととせ
ふたたび通ふ
君にあらなくに   (2077)
〔渡し守よ、早く舟を渡らせたまえ!――あの方は年に一度だけ、二度は来ない人だから!〕

 秋風の
吹きにし日より
 天の川
瀬に出で立ちて
待つと告げこそ   (2083)
〔秋風が吹いた日から天の川の浅瀬に出て――貴方を待っていますと、彦星に伝えてよ〕

 織女たなばた
舟乗りすらし
 まそ鏡
清き月夜に
雲立ちわたる   (3900)
織女たなばたが舟出したようだ。鏡のように清き月に今雲が立ち渡っていますよ(25)

 しかし、古代の日本の歌人たちは星空にどんな美も見出していなかったと言明されてきた!……
 思うに、七夕伝説は、西洋人の心には、日本のいにしえの歌人たちが理解したようには響かないだろう。しかし、月が昇る前の、移りゆく夜の静寂しじまの中で、昔話のうっとりするような魅力が煌めく夜空から私の上に舞い降りて来ると――科学による複雑怪奇な事実や宇宙空間の途方もなく広がってゆく空恐ろしさを忘れさせてくれる。それだからこそ、私はもう天の川を、おびただしい数の恒星でさえ地獄の闇の底を照らすのに役に立たないと言われている「宇宙の環」だとは思わない。ただ天の川――そう天界の川としか見ない。あの光り輝いてぞくぞくするような川の流れ、それに川沿に沸き立つ霧と秋の風にそよぐ水草を見る。星の織機に座っている白い織姫と向こう岸には牛が放たれているのを仰ぎ見ている――かなたから落ちてくる露は牽牛の櫓の雫であるのだ。そして、天界はとても身近で暖かく、人間的であるように感じられる。私の周りの静寂は変わることのない永遠とわの愛の夢で満たされている――それは変わることなく恋い慕い、いつまでも若く、それに神々の父なる叡智によってすらも永久に満たされることのない――ものである。


原注
〔底本はページ毎の脚注。ここでは連番とした〕

(1)あさがお(字義、朝顔)は私たちが「アサガオ(morning glory)」と呼んでいるツル科の美しい植物。
(2)これは中国名の訓読み。
(3)「おーい! 七夕よ! あまり急ぐと、転ぶよ!」
(4)今日ではそのような村は存在しない。
(5)この歌の訳と解説は、注(7)の付いた本文および同注を参照。
(6)学名:Pueraria thunbergiana. マメ科の落葉つる性植物。なお底本は“yudzu-leaves”とするも〔参考本〕(1)(2)のいずれの Houghton Mifflin 版とも“kudzu-leaves”と訂正している。
(7)この歌の最後の句は非常に古い日本の文学に見られるが、奥床しい慣習を示唆している。恋人たちが離れ離れとなる前に、互いの下着の「」を結んで、つぎに会うときまで解かないことを誓い合うというしきたりがあった。この歌は養老七年――西暦七二三年――、今から一一八二年前に作られたと言われている。
(8)「ひさかたの」は、天界の事柄に関連して、昔の歌人が用いた「枕詞」である。それを翻訳することは難しい。アストン氏は、「ひさかたの」の文字通りの意味は、たんに長く耐えうるという意味の「長くー堅固な」――「ひさ」(長い)、「かたい」(固い、堅固な)――それゆえ、「ひさかたの」は「堅固に安定した」という意味を持つようになったのだろう、と考えている。しかし、日本の注釈者たちは、「ひ」(陽)、「さく」(輝く)、「かた」(傍)の三語から成っていると考え――この語源的説明は「光射す」や「光あふれる」のような表現によって「ひさかたの」の解釈が説明できるとしている。枕詞に関しては、ウイリアム・G・アストン『日本文語文典』(A Grammar of the Japanese Written Language, 1871)を参照。
(9)古い版では「たぶて」。
(10)「かげろい」は「かげろう」の古い形式である。蜉蝣カゲロウをいう。
(11)文字通りでは「泣かないのが良い」の意――だがこの歌の文字通りの翻訳はきわめて難しい。
(12)ここでは妻のことである。古代の日本語では「妹」とは妻と娘のことを意味する。この語は「あなた」とか「最愛の人」とかに解釈される。
(13)ヤチホコノカミには様々の名称があるが、出雲の大神である。また、一般には大国主の命あるいは大国主として知られている。地方では縁結び神として知られていることから、おそらく歌の作者もこれに言及したのであろう。
(14)あるいは、「めったに訪れることのない妻」。古い日本語の「つま」という語は妻あるいは夫のいずれの意味にもなるので、この歌では妻もしくは夫のどちらにも解釈できよう。
(15)古い暦では、七月七日は秋の季節に入る。
(16)「丹のほの面」とは――すなわち「」という一種の口紅・頬紅を施された頬と唇の顔の意である。
(17)古代の日本では「背子」の語は、夫あるいは年長の兄を意味する。この歌の始まりはつぎのようにも解釈される――「密かに夫を恋い焦がれているときに」など。
(18)「手まくら交わし」とは、互いの腕を枕の代わりにすることである。この詩的表現は古い日本の文学に用いられる。「jewel」の代わりの単語「玉」は、しばしば「貴い」「親愛な」などに相当するものとして合わせて現れる。
(19)「恋ふる」の意。
(20)あるいは「それを満たす」か。字義の解釈は難しい。
(21)日本の婦人の服装においては、時代が違っても、服装品はこの名で呼ばれる。現在においては、「ひれ」はおそらく白いスカーフのことをいい、首に掛けられ肩を包み胸に垂れるものである。その端はだらりと垂らしたり、あるいは装飾的に結んだりするものである。「ひれ」は、また今日のハンカチと同様に合図をするのにも用いられる。――この歌に述べられた問は、あれは織姫がスカーフを振っていて――私を呼んでいるのではあるまいか、という意味である。なお、かなり古代には普段着は白色で織られていた。
(22)あるいは「櫓のきしむ音」。「」という語は今日では「舵」を意味する――軸の上で動き、同時に舵と櫓の役目を果して、今日「櫓」と呼ばれている、一本の櫓もしくはスカル(両手に一本ずつの櫓)。天の川を通る霧は、注釈者によると、星の神の櫓からの雫である。
(23)引き船「曳舟」のこと、――人や馬牛などの綱で曳かれる平底の船やボート。
(24)「ぬばたまのよ」とは「ベリーのような暗い夜(the berry-black night)」のようにも表されうる――しかし、意図した効果は翻訳によって失われるだろう。「ぬばたまのよ」(枕詞)は草の「からすおうぎ」(烏扇。檜扇とも)の黒い実(射干玉)のような」を意味する文字で表記される。このため「ぬばたまのよ」という古代の修辞は私たち西欧の「漆黒の夜」とか「まっ黒の夜」などの表現と同じ意味を持っていると言えるだろう。
(25)有名な歌人大伴宿禰家持の作。天平一〇(西暦七三八)年七月七日の夜、天の川を仰いでいたときの懐いを述べた一首。三行目の枕詞(「まそ鏡」)の訳は困難である。


訳注

(a)雑和集「巻の中24―26丁 十六 遊子伯陽事」を指す。底本は夫の名を“Isshi”としている。雑和集は室町時代末に成立したものと言われる。田中重太郎編・古典文庫・第367冊(1977)など。なお、「雑談集」とは異なる。
(b)アラクネーは織物が得意で優れた技術を持っていたが、あるとき機織りを司る女神アテーナーの怒りに触れ、蜘蛛に転生させられた。
(c)底文に従い一首を五行で表記。また、引用の歌に関しては、憶良自身の息子のことではないという説もある。また、二句目の「みちゆき」を Houghton Mifflin 版および Gutenberg.org のウェブ版ともに“Nichi-yuki shiraji”(「にちゆき」)としている。(なお、ここで“Houghton Mifflin 版”というのは下記注記〔参考本〕の(2)を指す)。
(d)アドーニスは、フェニキア王キニューラスと娘の王女ミュラーとの間の子で、美少年として知られる。なお、ディオドロスの短詩は Epigram 7.365. 内容は本文引用のものとほぼ同じである。
(e)底本では一段目の「玉かぎる」を「かげろいの」と表記する。底本と同じく Houghton Mifflin 版のいずれも「玉かぎる」。
(f)第二句「浮津の波音」を底本では“Mi-tsu no nami oto”(「みつのなみおと)とする。Houghton Mifflin 版も同じ。
(g)第三句を底本と Houghton Mifflin 版も同じく“akatoki wa”とする。
(h)第四句「秋立つ待つと」を底本と Houghton Mifflin 版ともに“Waga tachi-matsu to”(「わがたちまつと」)とする。
(i)第一句「わ〔あ〕がこふる」を底本および Houghton Mifflin 版も同じく“Waga koru”と表記する(“o”は長母音。母音字oの上にマクロン(横棒)を付けたもの)。他にも、アストン氏の表記方法などを参考にしたのか、アクセント記号などを用いて工夫を凝らしたローマ字表記がなされている。
(j)第四句「漕ぐなる」を底本および Houghton Mifflin 版も同じく“kogi-toyomu”と表記する。
(k)第二句「交へて」を底本・Houghton Mifflin 版ともに 「交し」としている。
(l)底本・Houghton Mifflin 版ともに第五句「織りて」は“Nuite ken kamo?”とする。
(m)底本・Houghton Mifflin 版ともに第二句・第三句を“I-ho e / kakurite”とする。
(n)第五句「恋ふる夜ぞ多き」を底本・Houghton Mifflin 版ともに“Kru yo zo oki”とする。前注(19)では“For kofuru”(恋ふるの意)とも注記している。
(o)第四句を“koi mo tsuki-neba”とする。
(p)底本は本文のように「明日よりは」を第一句とするが、Houghton Mifflin 版は第一・二句を 「我が玉床を」「明日よりは」の順とする。
(q)一般には第四句「秋漕ぐ舟の」とされるが、底本・Houghton Mifflin 版ともに「秋漕ぐ舟の」としている。
(r)底本・Houghton Mifflin 版ともに第一句を「いにしへに」とする。一般には「いにしへゆ」としている。


注記
・「冒頭の引用文」について
 タイトル(表題)と本文の間に引用文を掲載した版がある。ただし、底本(Atlantic Monthly 版)にはそもそも引用文はない。後の校正者あたりが追加したものだろう。参考まで以下に挙げる。
 Houghton Mifflin 版(下記の〔参考〕の(2)をいう)では、「引用文」は本作品の前の頁に置かれている。本作品の表題〈The Romance of The Milky Way〉のすぐ後に置かれたものではない。ただし、Gutenberg.org のウェブ版は、タイトルと本文の間に置いている。

いにしえの人の曰く「天の川は水の霊なり」 地上の川が時にそうであるように、天の川も年が移るにつれてその川床を移しているのに気づくのである。  ――古学者――」

 なお、Houghton Mifflin 社は雑誌 Atlantic Monthly の出版社である。

・本文引用の和歌に新たに歌番を付した。
・また、底本(Atlantic Monthly 版)では、歌番〔2044〜2059〕の間が、2052、2054、2050、2047の順となっている。Houghton Mifflin 版では、2047、2052、2054、2045の順に変えてある。
・上のいずれの版においても、細かな表記上の相異はあるものの本文テクストに違いはほとんどない。


〔参考本〕
(1)THE ROMANCE OF THE MILKEY WAY, AND OTHER STUDIES AND STORIES, by Lafcadio Hearn. Houghton Mifflin and Co., Boston and New York 1905.
 つぎなどで閲覧できる(2023.5.25閲覧)<https://archive.org/details/romanceofmilkywa00hear>
(2)Lafcadio Hearn, Gleanings in Buddha-fields and, The romance of the Milky Way: The Writings of Lafcadio Hearn in sixteen volumes Large-paper ed (1973, Rinsen Book)〔Houghton Mifflin 社の1922年版をベースとする〕





翻訳の底本:The Atlantic Monthly, vol. 96, pp. 238- 250 (1906).
   上記の翻訳底本は著作権が失効しています。
翻訳者:林田清明
   2018(平成30)年3月20日初訳
   2023(令和5)年5月30日補訂
   2023(令和5)年9月26日公開
入力:林田清明
2023年8月29日作成
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