私は今でもあの夜の
その日の午後十時過ぎになると、果して空模様が怪しくなって来て、
白状するが、私はこの渋谷町の高台から
さてこの自警団は幾日か経ってゆく内に、
さてその夜の話である。十二時の交替頃から
青木は年輩は私より少し上かと思われる人だが、熱心な夜警団の支持者で、兼ねて軍備拡張論者である。松本は若い
「いや御尤もじゃが」青木大佐は云った。「兎に角あの震災の最中にじゃ、竹槍や抜刀を持った自警団の百人は、五人の武装した兵隊に
「それだから軍隊が必要だとは云えますまい」新聞記者は云った。「つまり今迄の陸軍はあまりに精兵主義で、軍隊だけが訓練があればよいと思っていたのです。我々民衆は余りに訓練がなかった。殊に山ノ手の知識階級などは、口ばかり発達していてお互に人の下につく事を嫌がり、
「然し、いくら君でも、地震後軍隊の働いた事は認めるじゃろう」
「そりゃ認めますとも」青年は云った。「けれども、その為に軍備縮少は考えものだなんて云う議論は駄目ですよ。一体今度の震災で物質文明が
私は青年のこの大議論を、うと/\と暴風雨の音とチャンポンに聞きながら、居眠りをしていた。所が突然青木の大きな声が聞えたのでスッカリ眼を
「いや、どうあっても夜警団を廃する事は出来ない。殊にじゃ
大佐は夜警問題で又松本にやり込められたのであろう。その
私は
そして一時三十五分過ぎ、二人は私を小屋に残して最後の巡回に出かけた。暴風雨は正に絶頂に達したかと思われた。
一時五十分――なぜこんなに精確に時間を覚えているかと云うと、小屋には時計があって、外に仕事がないので何かあるときっと時計をみるからである――拍子木を叩きながら松本一人が小屋に帰って来た。聞けば青木は一寸家に寄って来ると云うので、彼の家の前で別れたそうであった。二時に青木が帰って来た。間もなく次の番の人達がやって来たので、暫く話してから私と松本は番小屋から左へ、青木は右へと別れたのである。私達が丁度自宅の前辺り迄来た時に、遙かに吹き荒ぶ嵐の中から人の
二人は走り出した。番小屋の人も走り出した。見ると青木大佐が夢中で火事だ と叫んでいる。私はふと砂糖の焦げるような臭を
大勢の力で火は大事に至らずして消し止めたが、焼けたのは問題の福島の家であった。台所から発火したものらしく、台所と茶の間、女中部屋を焼き、座敷居間の方には全然火は及ばなかったのである。
働き疲れた人々は大事に至らなかった事を祝福しながら、安心の息をついていた。私は家内があまり静かなので、変に思って懐中電燈を照しながら、座敷の方へ這入って行くと、丁度居間との境とも思われる辺に、暗黒な
電燈を照すと確かに一人の男であると云う事が判った。私は次の瞬間に思わずアッ! と声を挙げて二足三足
私の叫び声に、漸く火を消し止めてホットしていた人々がドヤ/\と這入って来た。
人々の
私は
彼は懐中電燈を照しながら、奥の間へ這入り、尚も詳しく調べていた。私はその大胆さには全く敬服して仕舞った。
その
やがて松本は死体の方の調査がすんだと見えて、奥の間から出て来たが、私が側に居るのに目も呉れず、今度は居間の方を見廻した。私も彼の目を追いながら、いくらか明るくなって来た窓を見廻すと、気のついた事は隅の方の畳が一枚上げられ、
みると床板を上げた辺に一枚の
「やあ、あなたでしたか?」私の覗いているのに気のついた松本は、急いで帳面を閉じながら云った。「どうです。火事の方を調べてみようじゃありませんか?」
私は黙って彼について焼けた方へ歩いた。半焼けの器物が無惨に散らばって、
「どうです、やはり砂糖が焦げていますね」松本の示したものは、大きな
彼はあたりを綿密に調べ出した。その中に、ポケットから
「水銀ですね」私は云った。
「そうです。多分この中に入っていたのでしょう」彼はそう答えながら、直径二
「寒暖計がこわれたのじゃないのですか」私は彼にある優越を感じながら云った。「それとも火の出たのと何か関係があるのですか?」
「寒暖計位で、こんなに水銀は残りませんよ」彼は答えた。「火事に関係があるのかどうかは判りません」
そうだ、分る筈がないのだ。私はあまりのこの青年の活動に、ついこの人が秘密の鍵を見出したかの様に思ったのだ。
表の方が騒々しくなって来た。大勢の人がドヤ/\と這入って来た。検事と警官の一行である。
私と青年記者とは、警官の一人に、当夜の夜警であって、火事の最初の発見者たる青木の叫声で駆けつけたものであると答えた。二人は暫く待って居る様に云われた。
男の方は年齢四十歳位で、余程格闘したらしい形跡がある。鋭利な刃物――それは現場に遺棄せられた皮
その外に変ったものは例の
訊問が始まった。真先には青木である。
「夜警で交替してからさよう二時を二十分も過ぎていましたかな、宅の方へ帰りますに」青木は云った。「表を廻れば少し遠くなりますから、福島の庭を脱けて私の裏口から入ろうとしますと、台所の天井から赤い火が見えましたのじゃ。それで大声を挙げたのです」
「庭の木戸は開いていたのですか」検事は訊いた。
「夜警の時に、時々庭の中へ入りますでな、木戸は開けてある様にしてあるのです」
「火を見付ける前に見廻りをしたのは何時頃ですか?」
「二時少し前でしたかな、松本君」青木は松本を振り返った。
「そうですね。見廻りがすんで、小屋に帰った時が五分前ですから、この家の前であなたに別れたのは十分前位でしょう」
「この家の前で別れたと云うのはどう云う訳です?」
「いや一緒に見廻りましてな、この前で私は一寸宅へ寄りましたので、松本さんだけが、小屋に帰られたのです」
「矢張庭をぬけましたか?」
「そうです」
「その時は異状なかったのですね?」
「ありませんでした」
「何の用で帰ったのですか?」
「大した用ではありません」
その時に警官が検事の前に来た。検死の結果殺害が凡そ午後十時頃行われた事が判ったのである。
時間の関係から、殺人と火事とが連絡があるかないかと云う事が刑事間の論点になったらしい。
兎に角、ある兇漢が男の方と格闘の上、枕許にあった皮むき庖丁で刺殺し、子供を連れて逃げ様とする女を
「然し、厳重に夜警をしている中を、どうしてやって来て、どうして逃げたかなあ?」刑事の一人が云った。
「そりゃ訳もない事です」松本が口を出した。「夜警を始めるのは十時からですから、それ以前に忍び込めるし、火事の騒ぎの時に大勢に紛れて逃げる事も出来ましょうし、或は巡回と次の巡回の間にだって逃げられます」
「君は一体なんだね?」刑事は
「見りゃ捕えますよ」松本は答えた。
「ふん」刑事は益々癪に触ったらしく、「生意気な事を云わずに引込んでろ」
「引込んでいる訳には行きませんよ」松本は平然として答えた。「まだ検事さんに申上げなければならん事がありますから」
「わしに云う事とは何かね?」検事が口を出した。
「刑事さん達は少し誤解してなさるようです。私には子供の方の事は判りませんが、あとの二人は同一の人間に殺されたのではありませんよ。女を殺したものと、男を殺した奴とは違いますよ」
「何だと?」検事は声を大きくした。「どうだって?」
「二人を殺した奴は別だと云うのです。二人とも同じ兇器でやられています。そうして二人とも確に左肺をやられています。然し一人は前からで、一人は
検事も刑事も私も、いや満座の人が、半ば茫然として、この青年がさして得意らしくもなく、説きたてるのに傾聴した。
「成程」やがて沈黙は検事によって破られた。
「つまり女はそこに死んでいる男に刺されたのだね?」
「そうです」青年は簡単に答えた。
「所で男の方は自分の持っている武器で、何者かに刺されたと云う訳だね?」
「何者かと云うよりは」青年は云った。「多分あの男と云った方が好いでしょう」
満座はまた驚かされた。誰もが黙って青年を見詰めた。
「警部さん、あなたはその
「そうだ」警部は、
「そうです」青年は云った。「私も当時つまらない探訪記者として、事件に関係していましたが、この紙片はあの『謎の男の万引事件』として知られている、岩見慶二の室で見た事があります」
岩見と聞くと私も驚いた。岩見! 岩見! あの男がまたこの事件に関係しているのか。私も当時仰々しい表題で書き立てられた岩見事件には少からず興味を覚えて熟読したものである。成る程、それで松本は
私は当時の新聞に掲げられた話
この会社員岩見慶二と名乗る謎の青年の語る所は
昨年の六月末の或る晴れた日の午後である。
一体散歩に金はいらぬ筈である。然し
彼はとある洋品店の前に足を止めた。その時にもし彼を機敏に観察して居るものがあったら、彼が上衣の袖をそっと引張ったのに気がついたであろう。それは彼がこの窓の中に同僚の誰彼が持っていて、かね/″\欲しいと思っていた、黄金製カフス
思い切ってその窓を離れた彼は、更に新橋の方へ歩みを進めて、今度は大きな時計店の前に
「余り見かけない奴だが」刑事は岩見に向って云った。「
「冗談云っちゃいけません」これは大変になって来たと岩見は懸命に云い出した。「何が何だかさっぱり判りません。一体どうしたのです」
「オイ/\、好い加減にしないか」刑事は云った。「お前はカフス釦を買ったり、時計を買ったり、それはいゝさ、ついでにダイヤ入指輪を一寸失敬したのは困るね、然しいゝ腕だなあ」
「私は時計も指輪も買った覚えはありません」彼は弁解した。「第一金を調べて下されば判ります」
彼が自分の潔白を証明しようとして、内ポケットから月給の袋とボーナスの袋を出したが、彼は顔色を変えた。封が切れていた。
様子をみて居た刑事は、少し判らなくなって来たので声を
「兎に角庁まで来給え」と云った。
警視庁へゆくと岩見は悪びれずに自分に覚えのない事を述べた。青年の語る所を聞き終って、警部は
白昼強盗事件と云うのはこう云う事件であった。
花ももう二三日で見頃と云う四月の
「曲者はどうした」支配人は叫んだ。何が何だか判らないのは社員達である。岩見は支配人がやられたといって飛び出して来る。次には支配人が曲者はどうしたと飛び出して来る。兎に角も中へ入った所の社員達は三度
漸く判明した事情は、岩見に酷似した又は岩見に変装した兇漢が、正午で
支配人は曲者が逃げ出すと、急いで助かった宝石を金庫の中へ投入れて、金庫を閉めるや否や、曲者を追ったのである。
多くの社員が駆付た時には、兇漢は岩見の風を装い、支配人が負傷でもしたような事を叫びながら、部屋を飛び出したので、社員一同まんまと
急報に接して出張した係官も一寸
銀座街に於ける万引嫌疑者岩見がこの白昼強盗事件の関係者である事を知った警部は、一層厳重に訊問したが、彼は
所が又々一事件が起った。
警視庁は大騒ぎとなった。重大犯人を逃がしてはと直ちに非常線が張られた。然しその儘其夜は明けた。そうして午前十時頃
刑事は無駄とは思いながらも彼の下宿に張り込んでいると、十時頃彼はボンヤリした顔をしながら帰って来たのであった。
彼の答弁は又々係官の意表に出たものであった。十一時近く、巡査が留置場に来て、一寸来いと云って連れ出し、嫌疑が晴れたから放免すると云って外へ出してくれた。夜も更けた事ではあるし、幸い懐に金もあり、
「一体あなた方は」彼は不足そうに云った。「私を逃がしたり、捕えたり、
××巡査はすぐに呼び出されたが青年はこの方ですと云ったけれど、巡査の方では全然知らないと答えた。一方品川の某楼も取調べられたが、時間もすべての点も青年の云う通りであった。知能犯掛りも
然しこの不幸な青年は遂に放免せられなかった。と云うのは××巡査が自分が変装した悪漢の為めに、利用せられたのを憤り、且は自己の潔白を証明するために、岩見の下宿を調べた所、一つの奇怪な符号を書いた紙片を発見したのである。そして宝石事件は証拠不充分で無罪になったが、
* * *
「私は当時一探訪記者として」松本は云った。「この事件に深く興味を持ちまして、岩見の下宿を一度調べた事がありますが、この奇怪な符号は今でも覚えて居ります。この紙片の指紋をお取りになったら一層確でしょう」
検事は彼の意見に従った。検事と警官が打合せをしている所へ、表から一人の巡査に伴われて、でっぷり肥った野卑な顔をした五十近い紳士が這入って来た。これがこの家の主人福島であった。
彼はそこに倒れている死体をみると、青くなってふるえ出した。検事は
「さようです、留守番に置いた夫婦に相違ありません」漸く気をとり直しながら彼は答えた。「それは坂田音吉と申しまして、以前私方へ出入して居りました大工です。浅草の橋場の者ですが、弟子の二三人も置き、左利きの音吉と申しまして、少しは仲間に知られていた様です。仕事は身を入れますし、誠に穏やかな男でした。所が今度の震災で、十を
「昨日二人は、別に変った様子はありませんでしたか?」
「別に変った様子はありませんでした」
「近頃坂田の所へ客があったような事はなかったですか?」
「ありません」
「あなたは何か人から恨みを受けている様な事はありませんか?」
「
検事はチラと青木の方を向いた。
「
「いやそう云う訳じゃないのです」彼は冷然と答えた。「
「青木さん、あなたはそういう事を云われましたか?」
「えゝ、それは一時の激昂で云った事はあります」
「あなたが火事を発見なすったのは何時でしたかね」
「それはさっき申上げた通り、二時十分
「火の廻り具合では、どうしても発火後二三十分経過したものらしい。所があなたはその前に二時十分前に、この家の庭を通って居られる、そうでしたね」
「その通りです」青木は不安らしく答えた。「然し
「いや今は事実の調査をしているのです」検事は厳として云った。今度は福島に向って、「火災保険につけてありますか」
「はい、家屋が一万五千円、動産が七千円、合計二万二千円契約があります」
「家財はそのまゝ置いてありましたか」
「貨車の便がありませんから、ほんの身の廻りのものだけを郷里に持ち帰り、あとは皆置いてありました」
「殺人について、何も心当りはありませんか?」
「さあ、何も覚えがありません」
その時一人の刑事が、検事のそばへきて何か
「松本さん」検事は青年記者を呼んだ。「死体解剖其の他の結果が判ったそうです。これは係官以外に知らすべき事ではないが、あなたの
検事と松本は室の隅の方へ行って、
「え! 塩酸加里の中毒、はてな」松本が云うのが聞えた。
話の様子では机の上にあった菓子折の中には
やがて検事は元の席に戻って再び訊問を始めた。
「青木さんあなたが、夜警の交替時間に間もないのに、家に帰られた理由が承りたい」
「いやそれは」青木は答えた。「別に何でもない事でとりたてゝ云う程の理由はないのです」
「いや、その理由を申されないと、あなたにとって不利になりますぞ」
大佐は黙って答えない。私は心配でならなかった。
「先刻の御話では」福島が云った。「青木さんは火事の時刻に私の
「そんな事は
「やあ、福島さん、あなたは以前薬学をおやりになったそうで、結構な本をお持ちですな、私も以前少しその道をやりましたが、山下さんの薬局法註解は好い本ですな。私はもう殆ど忘れていましたが、この本をみて思い出しましたよ。それも
「何ですか之は?」検事は不審そうに
「私達が最初に火を発見した時、砂糖の焦げる臭を嗅だのです。所で現場を調べてみると、大きな硝子製の砂糖壷があって
「成程」検事は初めてうなずいた。「それでは加害者が放火の目的で砂糖と塩酸加里を混合し、硫酸を滴加したのですね」
「いや、私は多分加害者ではないと思うのです。何故なら殺人と放火の間には可成りの時間の距離がありますし、それにこの薬品の調合は恐らく余程以前、多分夕刻位になされたものと思われます」
「と云うと?」
「つまり
「ふむ」検事はうなずいた。
「これで私は本事件がやゝ解決できたと思います。小児が中毒で苦しみ出してとうとう死んだとします。それを見た父親は先に震災で三児と家を失い、今又最後の一児を失ったので、多分逆上したのでしょう。突如発狂して母親を
「すると放火の犯人は?」
「恐らくこの家の焼ける事を欲する者でしょう。可成り保険もあったそうですから」
「失敬な事を云うな!」今まで黙って聞いて居た福島が怒号し出した。「何の証拠もないのに、
「家に居て放火するなら、
「未だそんな事をぬかすか。検事さんの前でも
検事もこの青年記者の落着き払った態度に敬意を表したものか、別段止めようともしなかった。
「君がそう云うなら、僕が代って検事さんに説明しよう。いや君の考案の巧妙なのには僕も感嘆したよ。
僕は現場で
福島は
検事は青年記者の明快なる判断に舌を巻きながら、
「いや、松本さん、あなたは恐るべき方じゃ、あなたのような方が我が警察界に入って下されば実に幸いですがなあ。……それでどうでしょう、岩見が忍び込んだ理由、毒薬の入った菓子折を持って来た
「その点は実は私も判り兼ねています」
青年記者松本はきっぱりした口調で答えた。
* * *
それから二三日して新聞は岩見の捕縛を報じた。彼の白状した所は松本の言と符節を合す如くであった。しかし彼もまた福島の家に忍び込んだ理由については一言も口を開かなかった。
其の後、私は松本に会う機会がなかった。私はまたもとの生活に
「岩見が捕まったそうですね」私は口を開いた。
「とうとう捕まったそうですよ」彼は答えた。
「あなたの推定した通りじゃありませんか」私は彼を賞めるように云った。
「まぐれ当りですよ」彼は事もなげに答えた。「ときにお聞きしたいと云うのは、あの福島の
「あれですか、えーと、たしか今年の五月頃から始まって、地震の一寸前位に出来上ったのですよ」
「それ迄は
「えゝ、随分久しく空地でした。尤も崖はちゃんと石垣で築いて、石の階段などはちゃんと出来ていましたが」
「あゝそうですか」
「何か事件に関係があるのですか」
「いや。なに、一寸参考にしたい事がありましてね」
それから彼はもう岩見事件には少しも触れず、彼の記者としてのいろ/\の経験を面白く話して呉れた。そうしてポケットから
彼と別れて宅へ帰り、着物を着かえようとして、ふとポケットに手をやると小さい固いものが触ったので出してみると、
私は当惑した、何といって松本に返そうかと思った。それから幾日か松本に返そう/\と思いながら、遂にその機がなくそのまゝ過ぎ去った。
或日一通の厚い封書が届いた。裏を返すと差出人は松本であった。急いで封を切って読み下した私は、思わずあっ! と声を上げたのである。
手紙の内容は次の如くであった。
暫くお目にかゝりません、もう多分永久にお目にかゝらないかも知れません。
私は漸くあの岩見の奇怪な行動と暗号の意味を解することが出来たのです。あなたはこの事件に非常に興味をお持ちでしたから、一通りお話し致しましょう。
先ず例の万引事件からお話し致しましょう。あの事件は多分岩見君は無罪でしょう。何故なら、彼にはあんな巧妙な技倆がないのみならず、前後の事情からするも、彼の取った行動はどうも彼の無罪を証明しています。然らば彼が現在所持して居た品物はどうしたのでしょう。あなたは××ビルディングの白昼強盗事件で、兇漢が岩見に変装していたのを御記憶でしょう。銀座事件でも矢張りこの岩見に変装した悪漢が活躍したのです。この悪漢は岩見が洋品店で立止り、カフス釦 を欲しがるのをみると、岩見の立去った後で、その店に入り釦を買いました。次に同様に時計を買って、岩見のポケットへ投げ込んだのです。芝口 の辺で岩見が始めてカフス釦を見て茫然としている隙にボーナスの袋を抜いたのです。次に岩見が時計を見て二度吃驚 する暇に、袋の中から金を抜き取ると共に再び彼のポケットに返し、素早く万引した宝石をズボンのポケットに投げ入れて退却したのです。それからあとは彼が刑事に捕まり、番頭までに証明せられる様になったのです。この兇漢が一旦 自分が罪に陥し入れた岩見を、夜分に又復 刑事に化 るような危険を冒して、岩見を連れ出したのは何のためでしょうか。それは恐らく岩見のあとをつける為めです。もし岩見が何か不正な事をして、盗んだ品を何処 かに隠しているとしたら、彼が窃盗の嫌疑で捕われ再び放された時に、その隠場所へ心配して見には行かないでしょうか。それが兇賊の目的だったのです。岩見は何を隠していたのでしょう。それはあの有名な事件で紛失した宝石の一つです。商会に入った賊は実に岩見の叫び声のために、一物も得ずに逃げたのです。そして支配人があわてゝ机上の宝石を掴んで金庫に入れる時に、その中の最も価値ある一つの宝石は下へ落ちたのです。
支配人が賊を追って行くと、岩見はその宝石を見つけ、悪心を起し、突差 に敷物の下かなんかに秘 した、そうして仮死を粧 うていたに違いありません。新聞で宝石の紛失を知った賊は、岩見の所為と見たでしょう。そこで兇漢は彼の計画を齟齬 せしめ、あの宝石を奪われたのを知った時、如何 に之を取返そうと誓ったでしょう。無論彼としては出来るだけの捜査をしたに相違ありません。そうしてあの妙な符号はたしかに宝石の隠し場所を示したものであることを、看破したのです。然しそれは単に岩見の心覚えに止 まって、或る地点――それは岩見にとっては容易に覚えて居られる地点であり、それから先を暗号によって心覚えにしたのですから、暗号は解けてもその地点は判らないために、どうする事も出来ないのです。そこでかの兇漢は岩見を一旦官憲の手で捕えさせ、そして自分が之を放免すると云う苦肉の方法を選んだのです。然しそれも岩見の品川行きと云う皮肉な行為で駄目になりました。尤もあとで考えれば、岩見の隠し場所は岩見でさえもどうにもならぬ状態にあったのです。
所が兇漢は偶然宝石の在所 を知りました。それは今回の事件で岩見がある家に忍び込んだと云う事から、宝石はたしかにその家のどこかに隠されていると云う事を知ったのです。それからあとは容易です。長方形の片隅の矢印をした符号は、石段の角を示します。S、S、Eは磁石の南々東 です。31は無論三十一尺、逆の丁字形は直角です。W―15は西 へ十五尺です。即ち石段の角から南々東へ三十一尺の地点から、直角に西の方へ十五尺と云う事です。岩見が宝石を隠した時分には、その土地は空地で石段だけは既に出来ていましたが、一面の草原であった事は、あなたの方がよく御存じです。岩見は万引事件で禁固の刑を受け、宝石を取り出す時機を失している中に、その土地に福島の家が建ちました。そこで彼は出獄すると福島の宅へ目をつけ、機会を待っていましたが、遂に留守番にモルヒネ入 の菓子を送り、麻酔させた上で、ゆっくり宝石を取り出そうと企 んだのです。そして暴風雨 を幸い、忍び込んだのです。ところが相手はモルヒネで寝ているどころか、あべこべに斬りつけられる様な目に逢ったのです。床板の上っていたのはそう云うわけで宝石を探そうとしたのです。
所が宝石は如何 したのでしょう。
それは私がたしかに頂戴しました。もう既に御気付きと存じますが、私が××ビルディング白昼強盗の本人です。
お驚きにならないように、尚一つには私の手腕を証拠立てるためと、一つには私の永久の記念のために、あなたの内ポケットに例の琥珀のパイプを入れて置きました。怪しい品ではありません、どうぞ安心してお使い下さい。
私は漸くあの岩見の奇怪な行動と暗号の意味を解することが出来たのです。あなたはこの事件に非常に興味をお持ちでしたから、一通りお話し致しましょう。
先ず例の万引事件からお話し致しましょう。あの事件は多分岩見君は無罪でしょう。何故なら、彼にはあんな巧妙な技倆がないのみならず、前後の事情からするも、彼の取った行動はどうも彼の無罪を証明しています。然らば彼が現在所持して居た品物はどうしたのでしょう。あなたは××ビルディングの白昼強盗事件で、兇漢が岩見に変装していたのを御記憶でしょう。銀座事件でも矢張りこの岩見に変装した悪漢が活躍したのです。この悪漢は岩見が洋品店で立止り、カフス
支配人が賊を追って行くと、岩見はその宝石を見つけ、悪心を起し、
所が兇漢は偶然宝石の
所が宝石は
それは私がたしかに頂戴しました。もう既に御気付きと存じますが、私が××ビルディング白昼強盗の本人です。
お驚きにならないように、尚一つには私の手腕を証拠立てるためと、一つには私の永久の記念のために、あなたの内ポケットに例の琥珀のパイプを入れて置きました。怪しい品ではありません、どうぞ安心してお使い下さい。
(〈新青年〉大正十三年六月発表)