急行十三時間

甲賀三郎




 箱根山にかかると、車内も大分落着いて来た。午後十時半だ。ただ、私の前に席を占めた異様な二人、一人は五十位の色の黒い頬骨の出た、眼のギロリとした一癖ありそうな男、一人はもう七十近いかと思われる白髪の老翁ろうおうだが、その二人がそもそも出発の始めからのボソボソ話が気味の悪い犯罪の話ばかりだったが、めようとせぬ。それも汽車が午後八時東京駅を滑り出てからしばらくは、車内の喧噪けんそう、騒然たる会話や、座席の上に立って雑然と網棚の上にほうり上げた荷物を整理する人、駅に止るごとせわしく弁当や茶の売子を呼ぶ人、それに車内に濛々もうもう立籠たちこめた煙草の煙、それらの中で杜絶とぎれ杜絶れにしか聞えなかったが、行儀の悪い乗客達が食べるだけ食べて、ちらかすだけ散かして、居睡りを始める頃になると、一言一句がハッキリ耳に這入はいって、私の神経はいよいよ苛立いらだって来た。
「そこがむつかしい所でな」頬骨の出た男が云うのだ。「脅迫と云う奴は、される方に弱味があるので、中々訴え出る事が出来ん。この犯罪は防ぐのが一番むずかしゅうごわしょうて」
「全くそうじゃ」老翁は白髯はくぜんふるわしながら答えるのだ。「これからは悪智慧わるぢえのある奴が益々増えるから、脅迫は増える一方じゃのう」
 私は右隣にすわっている私の護衛の私立探偵を盗み見た。彼は踏反ふんぞり返って、眼をつぶっている。私はしっかり内ポケットを押えた。
 一体この二人は何者だろう。
 私は始めから窓際に席を取る積りで逸早く車内に飛込んだが、もう前に頬骨の出た男はちゃんと坐っていた。それから私立探偵が私の隣へかけると、白髪の老翁は老人とも思えぬ敏捷びんしょうさで、その前の空席を取った。これで四人がひざを交えた訳だが前の二人は間もなく会話を始めた。どうも前から知合った間ではないのだ。それに二人とも遠方へ行くにしては一向荷物らしいものを持っていないのだ。気のせいだが、老翁の白髪や白髯がどうもくっつけたように思える。私は身内が引締るようだった。
 実は私の内ポケットには百円紙幣さつで一万円と云う大金が這入はいっているのだ。どうして私のような一介の学生がこんな大金を持っているのか、これには訳がある。
 之は大阪にいる私の友人のA――に持って行ってやる金なのだ。友人のA――では分らないが、高利貸こうりがしのA――と云えば誰知らぬ人はあるまい。友人は彼の一人息子なのだ。高利貸のA――は人も知る通り、代表的の守銭奴しゅせんどだ。貪欲どんよくで冷酷で狡猾こうかつで、金の為なら人情は切れた草鞋わらじ程にも思っていないのだ。それに反して彼の息子は多血質な感情家だった。だから無論合うはずがない、友人はいつでも彼の父をののしっていた。
 彼と私とが会うと、いつでも如何いかにして彼の父から金を引出すべきかと云う事を講究した。私達の考えによると、彼の父から少しでも余計に金を引出して有用な事に使うのは、非常に必要な事で、彼の罪滅しになり、我々にとっては一つの社会奉仕であると思っていたのだった。二人はいろいろと智慧を絞ったが、どうしてどうして彼は我々ごとき青二才の机上きじょうの計画に乗るような事はなかった。で、いつでも失敗だった。
 夏休なつやすみが始まると、私達はりもせずに、又彼から金を取出す相談を始めた。そのうちに友人は大阪へと旅立ったが、彼はふとある謀計はかりごとを思いついたので、私と東西呼応して事を挙げたのである。
 手品の種は恰度ちょうど友人が大阪に着いて間もなく、そこに二つの大きな脅迫が起った。之は新聞にも業々ぎょうぎょうしく伝えられて警察非難の声も挙った位だから、知っている人もあろうが、ある兇暴な団体(事実は何人なんぴと仕業しわざか分らないが)が脅迫状を送って、二人の富豪から莫大な金を捲上まきあげたのだった。友人はこれに暗示ヒントを得て、脅迫団の名を無断拝借して、親父ちちおやを脅迫しようとしたのだ。私は何だか探偵小説で之と似たような事を読んだような気がする。友人もそれから思いついたのかも知れない。
 そこで友人は自ら脅迫団を名乗って、巧みに筆蹟を隠して、彼の父に彼の身代金を請求して、踪跡そうせきくらました。そうして私の所へは彼自身のふるえた手跡で、生命の危険を訴え助力を乞うて来たのである。
 私の役は彼の手紙を携えて、驚駭きょうがいの表情で彼の父の所へ駈けつけて、彼の父をき伏せなければならないのだった。之は中々大役だ。
 彼の父は流石さすが狼狽ろうばいしていた。彼は警察へ訴える事を主張した。しかし警察沙汰ざたになっては何にもならない。私は脅迫団の兇暴な事を説いて、一人息子の生命いのちには代えられないからと、一生懸命に脅迫団の命に従う事をすすめたので、彼は渋々承知した。そうして脅迫状指定の通りに現金を大阪の某地で渡す為に、私に大阪まで金を持参する事を依頼した。私はそれを快く引受けた。
 百円紙幣の一束で一万円を受取った時には、流石に鳥渡ちょっと顫えた。金らしく見せない方がいと、無雑作に新聞紙に包んでれたので、私はそれをしっかり内ポケットにしまい込んだ。
 私は一時も早く旅立って、友人を喜ばせもし、自分の責任を逃れたいと思って、下宿に帰るとぐ支度を始めた。
 ふと気がつくと机の上に封書が乗っている。私の名が書いてある切りで、あきらかに郵便で来たのではない。裏にも何も書いてない。女中を呼んで聞くと、先刻さっき車夫が持って来たと云う。私は不審に思いながら開封したが、読んで行くうちにあっと声を挙げた。

正義の為に富豪を罰する我が団体の名を断りなくかたりて、私欲の為に肉身をあざむく、その罪大なり。すみやかなんじの得たる金を差出せ、然らずんば我等は暴力をって汝に臨まん。
××団

 ああ、それは××団の脅迫状だった。
 彼等はどうして我々の謀計はかりごとぎ出したろう。どうして私の成功した事を知ったのだろう。そして一体私はどうしたら好いのだろう。
 今更私は警察に訴える事は出来ない。そんな事をしては私達の謀計が現われて終う。かと云ってのめのめ金を差出すのも嫌だ。それに脅迫状にはどこへどうして金を差出すのか指図がしてない。ままよと度胸をめたが、かく一人ではあぶない。私は私立探偵を頼む事にした。
 私はねてから木村清と云う私立探偵の事を聞いていたから、彼の所へ行った。所が生憎あいにく彼は不在だった。私は落胆がっかりして外へ出ると、運の好い事にはバッタリ彼の帰って来るのに出会った。もっとも私は彼の顔を知らなかったのだが、流石に彼は探偵だ、私を見ると、男らしい聡明そうめいそうな顔をニコニコさして、私は木村ですが、私の所へ御出になったのではないか、と尋ねて呉れたのだ。
 木村は私の依頼を聞くと快く引受けて、彼の部下を私につけて呉れる事になった。今私の隣に寝ているのがそれである。(大方おおかた寝たふりをしているのだろうが)
 こう云う訳で私のポケットには一万円の金が潜んでいるのだ。そうして私は八方に気を配らねばならないのだ。
 怪しい二人の男はいつの間にか変装の話を始めている。
「西洋の探偵小説を読みますとな」頬骨の出た一癖ありそうな男が云う。彼は何だかポリポリ喰べている。「変装と云う事がさかんに行われているが、之は日本人には中々むずかしい事ですて」
「左様左様」老人は元気よく答える。「昔はな、まげを結うとったから、何じゃ、武士になったり、町人になったり、多少は姿が変えられたて。俺なども上野の戦争で逃げた時には千住せんじゅで町人の姿になってな、イヤ危い目に会うたものじゃ」
「ほほう、上野の戦争とは古い事ですな」頬骨の男は驚いている。そうして膝の上に置いたちいさかんの中に手を入れてはポリポリ喰べている。見るとそれは南京豆だ。彼の足許あしもとは申すに及ばず、私の膝の上まで甘皮が散っている。「どうです、一つ」彼はやぶからぼうに鑵を老翁の前につき出した。
「いや、そいつはいかん、めん噛めん」老人は手を振った。
「さようかな、わしは之が大好きでなあ、ビタミンを含んどると云う事じゃ」彼は一つつまんで口へ入れた。
 私はふと老翁の横顔を見ると、あっと心のうちで叫んだ。私はる探偵小説に親子兄弟などと云うものは真向から見て似た分子がないようでも、横顔を見ると共通した所があると書いてあるのを読んで、それ以来電車の中などで母娘おやこらしい二人連や、兄妹きょうだいらしい二人連を見ると、横顔を比べては成程と感心していたが、私は今大発見をした。それは変装は横から見ると看破みやぶやすいと云う事である。
 前にいる白髪の老人の横顔の輪郭がなんと若々しく張り切っている事だ。彼はたしかに老人ではない、変装しているのだ。そう思って見ると、いかにもたくみに地の毛のように見せかけてはあるが、どうもかつららしい。私は探偵に注意しようと思って、そっと彼の方を見ると、彼は相変らず頭をうしろの板に押つけていたが、眼をほっそり開けて、老人の方をねらっていた。彼も気がついているのだ!
 汽車は駿河湾するがわんに沿うて走っている。窓外は暗闇まっくらだが、海らしいものが見別みわけられる。涼しい風が汗でネバネバしたはだを気持よくでて行く。
 真夜中の十二時だ。
 やがて汽車はだんだん速度を落し始めた。ガラガラと左右に揺れると、スウーッと薄明いプラットホームに這入った。静岡である。
 乗客は又騒ぎ始めた。プラットホームで売子がやかましく怒鳴りながらせわしそうに走り廻る。私の前の二人は会話を止めた。頬骨の出た男は片手で南京豆の鑵を鷲掴わしづかみにして、腰の辺に当てながら、窓から半分身体からだを乗り出していた。白髪の老人の方は眼を瞑ってウツラウツラしている。
「静岡ですか」
 やっと眼をさました――らしく見せた――探偵は敷島しきしまに火をけながらいた。
「そうです」私は左のひじでしっかり上衣うわぎのポケットを押えながら答えた。
「中々蒸しますな」
「ええ」
「上衣をお取りになったらどうですか。大丈夫ですよ」彼は意味ありげに微笑ほほえみながら云った。
「ええ」私も微笑んで答えた。
 うつらうつらしていた前の老人が鳥渡ちょっと眼を開けたが、直ぐにものうげに閉じてしまった。
 汽車が静かに動き出した。
 頬骨の出た男は身体を引込めると、ドスンと腰をかけたが、独言ひとりごとのように、
「ちょっ、とうとう鯛飯たいめしを買い損ねた」
 と云って隣の老人を見たが、居睡りをしているので、彼は荒々しく南京豆の鑵に手を入れてポリポリ始めた。かと思うと彼は突然鑵を私の前へ突出した。
「どうです君一つやりませんか」
 私は面喰った。薄笑をしながら、
「いや、どうも」と不得要領な挨拶をして終った。
「どこまで行くのですか」
 彼は直ぐに南京豆の鑵を撤回して膝の上へ置きながら話かけた。余程話好きだと見える。
「大阪までです」
「君は若いにも似ず行儀が好いなあ」彼の話は少しも聯絡れんらくがない、「上衣をよく着てられるね」
 私はドキンとした。何と思ってこんな質問をするのだろうか。
「ええ」私は曖昧あいまいな返辞をした。
「君は工科ですね」相変らず質問は突飛とっぴだ。
「ええそうです」
「何科だね」
「機械科です」
「機械科? 富山君はどうしてるかね」
 富山と云うのは機械科の次席教授で世界的学者だ。
「相変らず御研究です。御存じなのですか」
「いやなに、知ってると云う程じゃない」そう云って膝の上の南京豆の鑵に手を入れたが、「君は南京豆は嫌いかね」
「いいえ、そう云う訳じゃないんですが」
「安くて美味うまいものだね、ヴィタミンを含んでると云うよ」
「胃に毒じゃな」先刻さっきから眼を覚してニコニコしていた老翁が口を挟んだ。
に毒じゃない」そう云って彼は老翁の方を向いた。南京豆にはじまった私との会話は南京豆で終いになった。
 汽車は闇を驀地まっしぐらに走っている。
 車内を見渡すと大半はもうさまざまの恰好をして寝入っていた。隅の方で時折大きく団扇うちわつかう音がする。専務車掌がよろめきながら、荷物を並べた狭い通路を歩きくそうに通って行った。
 午前二時だ。
 私の眼は益々冴えるばかりだ。
「日本も近頃は中々奇抜な犯罪が増えたて」老翁が云った。又しても犯罪の話だ!
「さよう、西洋に負けんようになったね」
「こんな事は西洋に負けてもかまわんがな」
「交通機関が発達したからな、日本だけ遅れている訳に行かん。それに日本は人間が多過ぎる。之が犯罪のもとなんじゃ」
「じゃ人殺しを奨励するかの」
「そうもいかんて」
「然し之は人を減らすには一挙両得じゃ」
 老人の癖に乱暴な事を云うのには驚いた。私の隣の私立探偵も眼をパッチリ開いて老人の顔を見た。
「そいつは乱暴だ」頬骨の出た男が云った。「まあうまんようにするのじゃな」
「それは俺は反対じゃ。国が弱わうなるて」
「国が強うなっても、食えなくては困る」
 こう云って頬骨の男は急に思い出したように又南京豆を食べ始めた。
 汽車は轟然ごうぜんたる音を発して天竜川の鉄橋を渡った。やがて速度を緩めて浜松駅に這入った。
 乗客の或る者は睡そうな眼をとろりと開けた。窓から頭を出して駅名を読もうとしている人もあった。
 何を思ったか、探偵がすっくと立って、出口の方へ歩んで行った。彼が出口に辿たどりついた時分に老翁が又立上って、腰をまげながら出口の方へ向って行った。
 二人は中々帰って来なかった。出発の合図が鳴っても姿は見えない。そのうちにそろそろ汽車が動き出した。私は不安でならなかった。
 只一人残った頬骨の高い男は窓に頭を当てて、グウグウ寝込んでいる。私は取りつく島がない。不安を押し隠すように上衣をひしとき合せた。
 汽車がガタンと揺れた拍子に前の男は眼を覚してキョロキョロと四辺あたりを見廻した。
「未だ帰って来ないな」彼は独言のようにつぶやいた。私は素早く機会を捕えた。
「あのお年寄は御友人ですか」
「友人のような、友人でないような」相変ず人を食ったおやじだ。「まあ友人かな。尤も昨夜から今にかけて、友人になったのだが」
「じゃ前からのお知合じゃないのですか」
「そうじゃない」
「あの方は本当にお年寄ですか」
「まあ、そうじゃろうな」
「何だか変ですが」私は思切って云って見た。
「変かね」
「ええ、変です」
「ふーん、君は中々偉いな」彼はじっと私の顔を見ていたが、「君の隣にいたのは何だね」
「私のつれです」
「あれも可笑おかしいね」
「えっ!」
「変装しとるよ」
「そ、そんな事はないでしょう」
 私はあわてて打消したが、考えて見ると、彼は昨夜ゆうべ木村探偵の添状を持って東京駅にやって来た彼の部下で、私を護衛して呉れる事になったので、云わば私には初対面だし、彼は何かの必要があって変装しているかも知れない。
「変装しとるよ。君に分らんかね」
「――」私は何と云って好いやら分らなかった。
「君のふるくからの馴染なじみじゃないね」
「ええ」私は小さい声で答えた。彼の爛々らんらんたる眼に射すくめられて終ったのだ。
「ふん、心理作用じゃな。君は俺の隣の男を老人でないと云った。それはつまり疑っとるからだ。それに君は君の隣の男の変装を看破みやぶる事が出来ない。詰り信じとるからだ。信じているのと疑っているのと程、結果に影響するものは少いな。犯罪の成功不成功も詰りこれだ。信ぜられてると易々と成功するし、疑われていると、失敗するにきまっている」
 彼はこう云いながら、指頭しとうは忙しく例の鑵の中を探っていたが、生憎もう南京豆が残り少くなって、中々撮み出せないのだ。彼はとうとう鑵を斜めにしてのぞき出した。それから黙っている私をじっと眺めながら、
「君は何か大切なものを持っとりはせんか」と云った。
 私は飛上る程驚いた。思わずポケットを上から押えた。
「ははあ、持っとるな。左のポケットの中に、金かな」
 私はあおくなった。ああこの色の黒い頬骨の出張った眼の鋭い男は何者だろう。探偵は何故なぜ早く帰って来ないのだろう。
 汽車は浜名湖を突破していた。午前三時だ。
「ふん、金を持っとるとすると、中々危険だな。君の対手あいては容易ならん奴だよ。君はさっきから上衣を一生懸命押えているが、あるいはもうすり変えられたかも分らんぞ」
 得体の知れぬ男は真面目な顔をしながら云った。私は催眠術者の暗示にかかったようにポケットの上から新聞包を撫ぜて見た。所が気のせいかしらん、何だか手触りが違うように思えるのだ。私は不安でならなかった。横を向いてそっと取出して見たが、矢張やはり元のままだったので、ほっと安心して又ポケットに収めた。
「あったかね、だが上包うわづつみだけでは安心出来んよ。あいつらはうまくすり変えるからね」
 私は又不安を感じて来た。中を改めたくてたまらなくなった。一度ポケットに手を入れかけたが、ふと気がつくと、畜生! と思った。彼は彼の面前で私が紙包を開けるのを待っているのだ。彼の仲間に私の探偵をどこかへおびき出させ、私に不安を感じさせて金包を改めさそうと云うのだ。そうしてその隙をねらって奪おうと云うのだろう。そのに乗るものか。私は額から汗をダラダラ流しながら、右手を内ポケットへ入れて、しっかり紙包を握った。が、何とも云えない不安が襲って来る。すり変えられたか知らん、そんな筈はない、だがあの怪しい老翁はどうしたのだ。探偵は?
 ここで金を改めたって、寝ているとは云え乗客を満載して走っている急行列車の中だ。街頭で小児こどもの手から奪うような訳には行くまい。調べてみよう。その方が安心だ。
 私は横を向いて、素早くポケットから包を引出して封を切った。手早く開けて見ると、中から一束の紙幣が出た。一番上に見覚えのある新しい百円紙幣が代表的に現われている。私は安堵の胸を撫で下すと共に、急に馬鹿馬鹿しくなった。が、未だ不安だ。紙幣の束が何だか違うような気がするのだ。私はバラバラと束を繰って見た。あっ! やられた、束は上の一枚と一番下のほかは巧みに見せかけた西洋紙の反古ほごに過ぎなかった。
 私は狼狽した。私の手は無意識ににせ紙幣の束を繰っていた。ああ、やられた。私はどこですり変えられたのだろう。
「やられた」私は力なく呟いた。
「えっ、やられた?」私に忌々いまいましい暗示を与えた頬のけた男は腰を浮かして低声こごえで叫んだ。その拍子に膝の上の南京豆の鑵がガチャンと床に落ちた。二三人の乗客が私の方を吃驚びっくりしたように見た。
 汽車は再び止まろうとしている。午前三時半だ。
 豊橋駅に止ってそれから動き出すまで私はどうして好いやら分らなかった。駅員に訴えようか。そんな事は無効だ。前の男に相談して見ようか。いやいや迂闊うかつな事は出来ない。私は涙ぐんで来た。大阪駅に出迎えている筈の友人のとがめるような残念そうな顔が眼の前にうかんで来た。
 前の男を見ると、眼を閉じて何か黙想にでもふけっているような恰好をしている。ああ、私の探偵は一体どうしたのだろうか。腹立しさと口惜くやしさとで、私は哀れな私自身を思うさま打のめしたくなった。所へ思いがけなく老人が帰って来た。そして、老人が席につくかつかないうちに探偵が姿を現わした。私はほっと救われたような気がした。
 探偵が近づくや否や、私は立上って低声ですべての出来事を彼にささやいた。彼の顔色は見る見る蒼ざめて、眼は爛々らんらんと光りだした。彼はスックと立ったまま、前の老翁をじっとにらんだ。私は始めてこの探偵を頼もしく思った。
 探偵は無言で老翁の肩を叩いた。そうしてさっさと戸口の方へ歩き出した。老翁も無言でノロノロ立上ると彼の後を追った。
 前の男はどうした事だ、これだけの出来事をまるで知らない振りで、あおむけざまになってグウグウ寝ている。足で蹴飛ばしたと見えて、南京豆の鑵が横倒しになったまま私の足許に転っている。私は彼の隣と私の隣との二つの淋しい空席をボンヤリと見詰めた。
 私達の巧妙に運んだ計画はいつになく立派に成功したのだったのに、私の不注意の為にすっかり駄目になって終った! だが、私はいつスリ替えられたのだろう。金をポケットに入れてから、下宿に帰って、それから探偵の事務所を訪ね、それから停車場に来るまで、大分時間はあったが、その間注意の上に注意して上衣をしっかり上から押えづめにしていたのだ。どこでスリ替えられたのだろう、私はどう考えて見ても分らなかった。
 友人になんと云って詫びれば好いだろう。友人はどんなに落胆らくたんするだろう。探偵は巧く取返して呉れるか知らん。とても難かしいだろう。
 私の頭は取りとめのない事でうずを巻いていた。夜はいつの間にか明けて、すがすがしい朝の空気がもやに閉ざされた窓外そとから飛込んで来た。乗客はざわめき出した。
 午前五時、名古屋駅に汽車が止ると、乗客は我勝ちに車を飛び出して、洗面所に駈けつけたり、弁当売りを包囲したりした。私は何をする元気もなく、腰掛の隅に小さくなって、頬骨の出た前の男がムクムクと起きて、窓の外に頭を突き出し、通りかかった駅員と何か話をしているのをじっと見ていた。
 汽車が濃尾のうび平野を横断して、伊吹山いぶきやまふもと迂廻うかいしながら、近江おうみ平野に這入っても、探偵も老翁も姿を見せない。前の男は平気でグウグウ寝ている。私はズキンズキン痛む頭を抱えてウトウトし出した。極度の緊張から驚駭きょうがいへ、驚駭から失望へ、失望から弛緩しかんへ、私は恐ろしい夢と、金を取戻したはかない喜びの夢を、夢現ゆめうつつの境に夢みながら、琵琶湖のほとりをひた走りしていた。
 大津、京都、私はおぼろにしか知らなかった。
 京都を過ぎる頃から私は少しずつ元気を恢復かいふくして来た。美しい青田の山城やましろ平野、それに続く摂津せっつ平野の向うに、くっきり播但ばんたんの山脈が見えるようになると、野原にき散らされた家の数がだんだん多くなる。新淀川にかけられた長い鉄橋を渡ると、もうあわただしい煤烟ばいえんと油に汚れた都会の裏町が始まる。
 午前八時半汽車は音もなくだい大阪のステーションに滑込すべりこんだ。
 探偵も老翁も遂に姿を現わさない。
 私の前にいた頬骨の出た男は汽車がプラットホームの一角に来かかる時分から、窓の外に頭を出していたが、驚いた事には彼の姿を見て窓の下へ四五人の紳士風の人達と十人に余る白服の巡査が飛んで来た。彼が何か云うと、巡査はさっと二隊に別れて右と左に走った。ふと見ると改札口の方にも二三人の白服の巡査が立っていた。
 さっぱり訳が分らなかったけれども、私は悄然しょうぜんとして汽車を降りた。二三歩行きかけると肩を叩くものがある。振返ると友人のAがニコニコしながら立っていた。
「お早う、御苦労だったね」
「――」私は黙って友人の顔を見た。涙がにじみ出た。
「どうかしたのか君」友人は驚いて聞いた。
「許して呉れ給え、金は盗られた……」と云いかけると、向うの方から例の頬のけた男が二三人の人に囲まれながら歩いて来て、私に声をかけた。
「君、君、悲観しなくてもいぜ。犯人は分っているのだから、そら向うから二人来るだろう、君はどっちが犯人だと思う?」
 彼の指さす方を見ると、大勢の巡査に守られて、探偵と老翁とが連立ってこっちへ歩いて来る。
 私には何の事やらさっぱり分らぬ。友人には尚の事分る筈がない。彼は怪訝けげんな顔をして突立っていた。
 一行は直ぐそばまで来た。
「彼を逃がさないようにして下さい」探偵が叫んだ。
「わしが逃げるものか。お前はわしが金を取ったものと勘違いをして、しきりに山分けにしようと仰有おっしゃったが、どう云うものじゃ」白髪の老人が云った。
「先生、どう致すのですか」
 先頭に立った警部らしいのが丁寧にお辞儀をして、頬骨氏に聞いた。
「わしは脅迫事件に智慧を貸して呉れと云うので、こっちの警察から呼ばれたのじゃが、さいわいに来る汽車の中で、犯人――あるいは犯人の片割かも知れんが――を見つける事が出来たので、名古屋から電報を打っといたのじゃ。で、この二人のうち一人が犯人なのだが――」
 人々は一斉いっせいに二人を見た。
「わしはこっちと推察するのじゃ」
 彼は私立探偵を指した。探偵は身を藻掻もがいたが、たちまち大勢の巡査に押えられて終った。
「そこで、こっちだが――」探偵の始末がつくと、頬骨氏は老翁に向き直って云いかけたが、老翁が忽ちさえぎった。
「私立探偵の木村清です」彼は忽ちかつらひげを取った。私ははっと彼の顔を見たが、私の見た木村清とはまるで違った男だった。聡明そうなキビキビした顔つきではあったが。
「うん、そうじゃろう」頬骨氏は満足そうにうなずいた。
「そうしてあなたは有名な犯罪学者坂田博士でいらっしゃると存じます」
「いかにもそうじゃ。だが、わしは少し説明して貰いたい所があるて」坂田博士は云った。
「承知いたしました。実は私は今回の被害者A――氏から同氏の大阪に旅行中の令息にかかる脅迫事件の依頼を受けたのです。私はA――氏にかく要求だけの金を令息の友人に言伝ことづけて大阪まで持参させる事を勧めたのです。そうして私自身その後をつける積りでした。それで疑いを少くする為にわざと白髪の老人に変装したのですが、偶然坂田博士と隣合せとなり、いろいろ話しかけ且つ試問せられたのには閉口いたしました。黙っていれば格別、ああしゃべらされては、いかに巧妙な変装でも尻尾を出します。
 それは余談ですが、汽車中ではからずも、ここに居られる方に奇妙な同伴者のある事を発見しました。私は彼の行動を厳重に監視しました。途中で一度彼は席を離れて、何か仲間に通信でもしたい風でしたが、私が傍を離れなかったのではたしませんでした。
 私達二人が席に帰りますと、既に金包がスリ替えられていたのです。彼はそれを私の仕業だと思ったのです。彼は私を探偵だと思わず、彼と同じく金包をねらっているものと思込んでいたのでした。そこで彼は私を車外へ誘い出し山分けの相談を持ちかけました。その時に語った所によりますと、彼は大阪の脅迫が成功すると上京しかねてA――氏を覗っていたのでA――氏が私に依頼した事件を巧みに聞き知ったのです。そうしてその脅迫状が偽である事は彼自身が出した覚えがないのにちょうしてあきらかですから、その使つかいであるここに居られる方に再び脅迫状を送ったのです。そうしてその方が私の事務所に相談に来たのに尾行して、私が留守の為に空しく帰る所を、私だと偽称して、部下を警護にやると欺いて帰えし、それから巧みに変装して木村の部下と名乗って同車したのです。金を私が盗んだものと信じて彼は私にすっかり打明けて、山分けを迫ったのです」
「成程そう云う訳じゃったか」坂田博士は感心した。
「で、先生が彼を犯人と定められたのは?」木村が聞いた。
些細ささいな事からですわい。わしはあんたといろいろ話をして善良な人と推察したので、大方探偵じゃろと思うた。所がこの人はたった一度じゃが、こっちの人に上衣を脱げと勧めたわい。尤も上衣に金が這入っている事は、後に二人まで変装した人間がついているからには何か覗っとるものがあるに違いないと思って、それとなく図星を指して云わした事じゃが、その時にははんこの男は学生の上衣の金を覗っとると思ったのじゃ」坂田博士は少しも得意の色を見せないで云ったが、鳥渡息を継いで聞いた。
「わしに、も一つ分らん事があるが、わしは心理反応を研究する積りで金はスリ替えられていると云う暗示を与えたのだがそれが偶然一致したのに驚いた。金は誰が盗ったのじゃろ」
「さあ、それは私にも分りかねますが」木村が静に答えた。「之は推測に過ぎないのですが、金は恐らく、こちらの方の手に這入った時から偽物だったかと思われます」
「え、え」私は飛上った。

 之で急行十三時間事件はお終いである。多分蛇足とのお叱りを受けるかも知れんが申添もうしそえて置くのは、金はやはり木村探偵の推察通り、私の受取った時から偽物だった。老獪ろうかいなA――氏は私達の計画にたぶらかされはしたが、なお幾分の疑を抱いて一方木村探偵に相談すると共に、上下に一枚ずつ真物ほんものの百円紙幣を挟んだ紙束を私に呉れたのだった。私が何でそれを疑おう私は生れて始めて持った大金として顫えながら受取ったのだった。
 事件の後、私とA――氏の令息と木村探偵の三人がA――氏と共に彼の応接室で対談した時は面白かった。
 木村氏はA――氏の偽紙幣を極力非難したのだ。
「あれはいけません。場合によっては犯罪を構成します」
「そんな事ないがな」A――氏はテカテカした額を叩きながら答えた。「脅迫されて出したんやさかい、偽でもかめへん」
「ですがね」木村は押しつけるように云った。「あの場合はまあ脅迫した奴がつかまったから好いですが、もしそうでなかったらですね、令息は監禁せられていたのですよ、(何と有益な嘘だ! 木村はA――氏に真相を話さなかったのだ)そこへ偽札なんか持って行ったらどうです。令息も使いに行った人も生命が危いじゃありませんか」
「そないに云わんでもえがな。むこうも一生懸命や、あわてとるさかい、偽札でもほんまや思うて、取りよるがな」
「そう行かなかったらどうです」
「どうですて、もう済んだこっちゃが」
「いけません、人道問題ですよ。何にも知らないものに偽札を持たせて、虎穴に等しい所へ飛び込ますなんて」
「ほしたらわびるがな」
「詫るではいけません、相当の事をしなさい」
「相当の事てどうするのや」
「私に謝礼として五千円、この方に五千円、合せて一万円お出しなさい」
「え、え、そりゃ無茶やが」
 この時のA――氏の驚いた顔は今でも忘れられない。猿が火中の栗を探って手を焼いたような顔だった。
「お出しにならなければ覚悟があります」木村は譲らなかった。
 で、結局半泣きになりながら、A――氏は一万円の小切手を書いた。
 所で驚いた事には木村氏は直ぐにその小切手をA――氏の令息に渡して、
「お父さんから金を出させる時はもう少し手際よくなさいよ」と云ってニコニコとした。





底本:「探偵小説の風景 トラフィック・コレクション(上)」光文社文庫、光文社
   2009(平成21)年5月20日初版1刷発行
初出:「新青年」
   1926(大正15)年10月
※「ビタミン」と「ヴィタミン」の混在は、底本通りです。
入力:sogo
校正:noriko saito
2018年9月28日作成
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