五階の窓

合作の六(終局)

小酒井不木




22


「それっ!」
 という月並みな叫び声を口々に発して立ち上がりざま一同が逃げ支度にかかると、このとき遅く、いままで艶子たちの腰かけていた長椅子ながいすの下から大黒鼠だいこくねずみが毒ガスをがされたときのように、両手を床の上に泳がせて一人の白い手術衣を着た医員がむくむくとしたので、一同は驚きのあまりその場に立ちすくんでしまった。
 見ると、それは医員に扮装ふんそうしたほかならぬ冬木刑事であった。
「ぴりり!」
 起き上がった冬木刑事が、蜘蛛くもの巣に封印された唇を開いてポケットから取り出した呼笛よびこを鳴らすと、レントゲン室はもちろん、その付近の部屋のおのおのから一人ずつ、同じく医員に扮装した合計数人の刑事が飛び出してきて、あっという間に桝本・舟木・お蝶・艶子、プラス探偵小説家長谷川・新聞記者山本をその時、単身駆けつけた沖田刑事とともに取り囲んでしまった。
 桝本と舟木とお蝶とはそろって苦笑いをらすだけであったが、艶子とそれから長谷川と山本とはこの目にも止まらぬ早業に、値段の下がったセキセイインコのような目玉をした。それまでレントゲン室を物珍しげにのぞいていた患者たちは、寒さのためでもあったろうが、顔をば漬かりそこなった茄子なすのような色にして、このものものしい光景にたまげつつあたふた逃げ去った。ただ、レントゲン機械だけが相も変わらず、ごーっ、ごーっという単調な音を立てているのであった。
 沖田刑事は危ういところで冬木刑事に先手を打たれたけれども、ほとんど同時に有力な獲物のありかを発見したことに、自分もまだ老いてはいないことを意識して多少の得意を感じたらしかった。
「沖田くん、ご苦労さま」
 と冬木刑事はちりを払いながら、早くも平静な呼吸に戻って、笑いを含んで挨拶あいさつした。そうして沖田刑事が返事をせぬ先に、
「さあ、桝本さんに三人のご姉弟きょうだい!」
 と、とくに、
「ご姉弟」
 という語に力を入れて、
「ここではお話ができにくいですから、お気の毒ですがこれから××署へ来ていただきます。おい、きみたち」
 と部下の刑事を顧み、
「さあ、その手術衣を病院へ返上して自動車の用意をし、みなさんに身支度をしてもらって署までお連れしてくれたまえ。なに、病院のほうはぼくがしかるべく取り計らっておくよ。ぼくたちもすぐあとから出かけるから、署長によろしく話しておいてくれたまえ」
 桝本も舟木もお蝶も、またいままでお蝶の後ろに隠れて、幼児が母親の背中から怖いものを見るときのように顔を出していた艶子も、いまはもはや観念したとみえて、刑事たちのあとから素直に歩き去るのであった。
 問題の四人が去ると、沖田刑事は、
「冬木くん、きみの手腕には驚いたよ」
 と決して皮肉でもなく、またお世辞でもなく言ったつもりであったが、その声にはなんとなく一種の寂しさが漂っていた。
「いや、きみこそうまく探り当てたじゃないか。さすがは経験を積んだだけある。ときに、どうしてきみは舟木がこの病院にいることを突き止めたか?」
「ぼくはただ桝本をつけてきただけだ。あいつ、胡散うさんな人物だと思って目を離さなかったんだ。ここに舟木がいようとは思わなかったよ」
「そうか、ときに長谷川さん」
 と、冬木刑事はこの時はじめて長谷川の顔を正視し、そばに立っていた山本に目礼して言った。
「あなたはまた、どうして舟木の居どころを知ったのですか?」
「ぼくらはただ艶子の跡をつけただけなんです。沖田さんと同じく、まさかここに舟木が隠れているとは思わなかったのです。ときに、あなたこそどうして舟木の居どころを突き止められたのです?」
昨日きのう、西村商会の工場を訪ねて、工員を煽動せんどうする首領が舟木であるということを知り、その行方を部下の者に捜させておりますと、この病院へ松本正雄の仮名で入院していることが分かったので、看護婦を買収して様子を探らせていると、今日、レントゲン室の前でお蝶と会う打ち合わせをしたことが分かったので、医員に扮装して長椅子の下に隠れていたのです。いや、扮装といえばぼくはちょっと失敬して、この手術衣を返し、副院長に会って事情を話してきます。どうか、お三人は玄関で待っていてください」
 やがて、ほどなく四人は一台の自動車に乗って××署に向かった。雪は相も変わらずちらちら落ちていた。
「どうしてきみは桝本を胡散な人間とにらんだのかね?」
 と、冬木刑事は自動車が走りだすと間もなく、並んで腰かけていた沖田刑事にたずねた。
「昨日、桝本を訊問じんもんしてからもう一度、西村の遺族を訪ねたのだ。夫人はやっぱり面会しなかったが、取次ぎに出た娘に向かって桝本のことを話しだすと、娘が妙な表情をしたのでだんだん訊ねると、とうとうしまいにちょっとしたことを白状したよ。そこで、ぼくは桝本を監視する気になったのだ」
「それはどんなことかね?」
 と、冬木刑事は目を輝かして訊ねた。
「さあ。そいつはいま、ここでは……」
 と、沖田刑事はよどんだ。
 いままで二人の会話を熱心に聞いていた長谷川はこの時、口を出した。
「もうこうなったら、みんながめいめいに探偵したことをすっかりさらけ出して、協力一致して真実を突き止めることに努力しようじゃありませんか。ね、沖田さん、そのつもりになってください。そこでぼくはまず、その手始めにぼくが艶子と野田に会ってしたことを申し上げます。艶子には秘密を守ると約束しましたが、真実の探究のためには致し方ありません」
 こう言って、長谷川は読者諸君がすでに知っておられる事実――かの長谷川が、同姓なる長谷川天渓氏の『ハムレットの精神分析』を読んで感嘆し、さらに進んでフロイトの説に随喜し、みごとに艶子と野田の夢を分析して知った夢ならぬ事実――すなわち、一昨日、四階の空き部屋なる二十七号室で、艶子が社長のために取り押さえられようとしたとき、傍にあったイギリススパナーで社長の左肩を力任せに打ち下ろしたこと、社長はなおもそれに屈せずして、艶子に飛びかかろうとすると、その瞬間うーんと社長はうめいて後ろざまに倒れたこと、はっと思って艶子が顔を上げると、野田が真っ青な顔をして、早くお逃げなさいと言ったので、そのまま夢中で駆けだしたこと、それからどんなことが起こったかを艶子は少しも知らぬこと、話変わって、野田を訪ね野田の夢を分析すると、野田は庶務係の北川に何か弱点を握られているらしいこと、野田は商会主西村を直接殺していないにしても、その死についてはある程度まで知っているらしいこと、艶子が西村に打撃を与えたのは四時五分ごろで、その次の瞬間西村がたおれたのはあるいは野田の一撃によるかもしれぬが、それによって西村がそのまま死んだとは時間の関係上考えられぬこと、少なくとも共犯者がなければならぬこと、なお新聞記者山本の探ったところによると、艶子の親は府下の大地主だったが、十年ほど前、西村のためにその土地を横領されたということ――などを多少、探偵小説家らしい空想を混じえながらしかも極めて簡単に説明し、最後に付言して言った。
「それにしても、さっき病院で、桝本の口から艶子とお蝶と舟木とが姉弟であると聞いたときには非常に驚きましたよ。しかし、それによって、舟木が社長の死に関係のあることはいよいよ明白になったような気がします。ことに例の将校マントの男が舟木であることが分かってみると、いっそう彼に対する嫌疑が深くなるわけです」
 この話をじっと考えながら聞いていた冬木刑事はこの時、顔を上げて言った。
「しかし、さっき桝本が後ろから西村を殴ったのはきみだろうと訊ねたら、舟木はいいやと強く否定しましたねえ。もっとも、たとい真犯人であるとしても、そんなにたやすく白状するものではないが、それと同時にお蝶の、あの人、人に殺されずとも、自分で首でもくくらなければ立ち行かなくなっていたんですから、という言葉は考えてみなければならぬと思います。西村の家族の者や社員たちが自殺するような理由はないと言いましても、愛人お蝶にはいっそう深い事情が分かっているはずですから、あながち自殺説は否定できぬと思います。それにしてもあの時、舟木がしかし、しかしだねと言いかけて大切な手がかりを述べようとしたときに艶子があなたの顔をみとめ、桝本が沖田くんの姿を見つけたことは返す返すも残念でしたよ」
「いや、どうも、あれは確かにぼくの失敗でした。あまりに重大なことが訊かれると思って、興奮のあまりわれを忘れて振り向いたのがいけなかったんです。ときに沖田さんは、桝本について西村の娘からどんなことをお訊き出しになりましたか」
 沖田刑事は長谷川と冬木刑事との話を聞いて、驚嘆を禁じ得なかった。彼は昨日、掏摸すりの留公から桝本が西村の死ぬすぐ前に西村を訪ねたことを訊き出し、桝本を怪しいと睨み、桝本を署へ同行して訊問すると、意外にも桝本の口から、お蝶と舟木とのことを訊き出し、それでは舟木が怪しいのかと思って工場へ行って訊ねてみると、舟木は今朝から工場へは出てこないというのであった。してみると、桝本が署長の訊問に答えて、今朝ちょっと工場へ出てみましたが来ていたようでしたと言った言葉はうそになる。そこで彼はさらに西村の遺族を訪ねて、桝本のことを訊き出そうとすると、娘からちょっと思いがけないことを話されたので、桝本を監視することにしたのである。が、いま長谷川と冬木刑事の話を聞くと、この事件は自分の想像する以上に複雑であって、もはやこの場になって何事でも隠していることは、かえって自分にとって不利益であると思い、昨日からの行動を手短に物語ってさらに次のごとく付言した。
「で、西村の娘から聞いたことというのは、桝本は先年家内を亡くし、あの年で大胆にも西村の娘に恋慕して直接に結婚を申しいで、むろんみごとにはねつけられたということです」
 長谷川がこれは意外といったような顔をしていると、冬木刑事は、
「ははあ」
 と考え込み、
「そのことを西村は知っていただろうか」
 と訊ねた。
「いや、まったく知らなかったそうだよ。だいいち、そんなことを言い出せば冗談として笑われてしまうに決まっているから、娘だけにあつかましくも交渉をしたものらしい。現に昨日、悔やみに行きながら娘に、も一度考え直してくれと言ったそうだよ」
「なるほどね」
 と、冬木刑事は言った。
「これでさっき、舟木がストライキを起こすよう工員を煽動した張本人が桝本だと言った言葉が理解される。してみると、桝本は社長の死に直接関係がないにしても、間接には関係があるかもしれん。いや、この事件は思ったよりも複雑だ」
「そうですねえ」
 と、いままで三人の会話を黙って聞いていた新聞記者の山本ははじめて口を出した。
「ことによると、桝本は社長と四時ごろに、Sビルディングの四階の二十七号室で会うということをあらかじめ舟木に話したのかもしれませんねえ。それで、舟木が将校マントを着て乗り込んだという次第ではありませんか」
「そうかもしれません」
 と、冬木刑事は言った。
「将校マントで思い出したが、工場の工員たちに訊いてみると、舟木は平素は一度も将校マントを着たこともなければ、鳥打帽もかぶったことがないというのです。してみると、変装して行ったわけですが、どういう理由で変装したのかちょっと分からないのです」
「それはただ、舟木が変装好きな性質だからではないでしょうか。殺人を行うには変装が便利であるし、現にそのあくる日も変装して、着色眼鏡いろめがねをかけていたではありませんか。それにあの古風な貼紙はりがみ悪戯いたずらをしたのは、主義者に似合わぬ道化たところがあります。また、そういう性質であればこそ桝本にしりたたかれて、ストライキを起こそうとしたのでしょう」
「さあ」
 と冬木刑事が考え込むと、その時、長谷川は、
「あ、分かった、変装の理由が分かった!」
 と、大声に叫んだので、さっきから車外の雪景色に見とれていた沖田刑事はびっくりして振り向いた。
 と、その時、自動車は××署の前に止まった。

23


 冬木・沖田両刑事たちがK病院で活劇を演じていたとき、××署では恒藤司法主任の北川への訊問を終わって会計係の野田の訊問に移っていた。野田は熱情的な男であるけれど、今度の事件で心に大きな打撃を受けたとみえ、わずか数十時間の間に顔の色が土のようになり、両眼の周りに輪ができて著しくへこんでいた。
 彼は警察署へ拘引されてから、艶子を思う心でいっぱいであった。だれでも留置場へ来ると平素あまりかわいくない妻子までが懐かしまれるということであるが、彼もその例のごとく艶子のことをたてつづけに考えた。それと同時に、彼は一昨日の午後、二十七号室で行われた活劇のことを考えざるを得なかった。艶子は自分の拘引されたことをどう思っているだろうか。はたして自分が社長を殺して、窓から投げ出したと思っているであろうか。いや、むろんそう思うに違いない。また、そう思われても仕方がない。艶子は自分が「早くお逃げなさい」と言った言葉に従ってそのまま逃げ出していったのであるから、自分を犯人であると思うのは当然のことであろう。しかし、艶子はまさか、あの時のことを口外すまいと思うがどうであろうか。艶子がもし自分を少しでも思っていてくれたなら、たといどんなに訊問されても言うまいと思われる。けれど、この想像は間違っているだろうか。だが、今日、長谷川の話によると、長谷川はどうやら艶子に会って何事かを訊き出したらしい、ことによると艶子は、やっぱり夢のことでも訊かれて、すっかり告げてしまったかもしれない。しかし、たとい艶子があのことを長谷川に話しても、自分の艶子に対する愛情はまさりこそすれ決して減じない。艶子のためだというならば、自分は断頭台に上がることをもあえて辞さない。自分の行為はすべて艶子を保護するために行われたのだ。自分には恋人として彼女を保護する義務があるのだ。自分の彼女に対する恋は真剣だ。とうてい社長や北川の恋とは同日に論ずべきではないのだ。それにしても北川はどうしたであろうか。彼ははたしてどんなことを申し立てたであろうか。彼の艶子に対する恋がまったく遊戯的であって、むしろ艶子を社長に取り持とうとしている様子のあることは自分にもありありと分かっていた。ところが、いまや社長は死んだ。だから、彼は今度は自分自身のために艶子に言い寄るに違いない。こう思うと、彼は北川がもはや放免されたのではないかと気が気でなかった。で、いま恒藤司法主任の前に立ったときにさえ、なお北川のことを忘れかねていたのである。だから、恒藤主任が、
「きみ、いま北川くんから聞いたことだが……」
 と口をとがらして言いかけたときには、腫物はれものへ手を触れられたときのようにぎくりとしたのである。主任は野田の心のうちなどいっこうおかまいなしに言葉を続けた。
「北川くんが一昨日、四時十五分に社長室に入ったら、きみはその時、社長室にいたというではないか。きみはいったい何をしていたのかな?」
 野田はこれを聞くなり、目の前が暗くなるように思った。
(とうとう北川のやつ、しゃべったな。会社および社長のためを思って、あれほど固く口止めをしておいたのに)
 と思うと、野田は腕っ節が鳴りだすように感じた。で、どう答えてよいか、その返答の言葉を探すいとまもないほど、北川に対する憎悪の念でいっぱいになった。恒藤主任は野田の困惑を見てたたみかけて言った。
「答えられないだろう。きみはその朝、北川を通じて社長に渡した二千円の金をその時、ポケットへねじ込んでいたというではないか」
 野田はなおも北川のことを考えて、主任の言葉もいわば上の空であった。
「おい、きみ」
 と、主任はテーブルをこぶしでとんと叩いて、注意を促した。
「なぜ返答をしないんだ。きみはその時、北川に拝むようにして、あとでどんな報酬でもするから、これだけは警察へ言ってくれるなと頼んだというじゃないか」
 これを聞くなり、野田ははじめてわれに返った。
「嘘です、嘘です。そんなことを言やしません」
 野田はついに狡猾こうかつな恒藤主任のかまにかかったのである。これだけは警察へ言ってくれるなと頼んだというじゃないか、という言葉はまったく恒藤主任の創作したものであるが、ああいうふうにきわめて自然に言い出されると、だれしもそのわなにかからざるを得ない。恒藤主任はすかさず、
「では、社長の部屋で北川に会ったことは本当だね?」
 野田は一時惑乱してしまったが、しばらく考えてから決心したもののように言った。
「仕方がありません。北川くんがあれほど固く口止めしたことをしゃべってしまったのでしたら、社長の人格を傷つけることになりますけれどもすっかり申し上げます」
「いい覚悟だ。それで、きみは確かに二千円をポケットに入れたのだね?」
「入れました」
「その金はどうした?」
 野田は上衣うわぎのポケットに手をやって一束の紙幣を取り出し、
「これがそうです」
 と言って、主任の前へ差し出した。
 恒藤主任は百円紙幣の束を取り上げて勘定したが、
「こりゃきみ、十枚だけじゃないか。あとの十枚はどこにある?」
 野田は当惑そうな顔をして、
「どうか、その紙幣をよくお調べ願います」
 と、やさしい声を出した。
 言われて、恒藤主任はそのうちの一枚を抜いて手に取り、しばらくの間、紙幣の表裏を検査していたが、やがて、
「やっ、これは贋造紙幣がんぞうしへいだ!」
 と叫んだ。さすがは、とくにこの道で苦労したことのある恒藤主任、よほどの眼識を持った人でも、容易に区別のつかぬ贋造紙幣を、ものの二分もたたぬうちに見分けたので、野田はいくらか尊敬の心をかした。
「仰せのとおり贋造紙幣です。ですから、社長の名誉のためにわたしが奪い取り、またそれがために北川くんにも口止めしたのです」
「すると、社長がこの紙幣を贋造したのか?」
「いえ、違います」
 と、野田はきっぱり言った。
「じゃ、なぜいったん二千円の金を社長に渡して、それを取り返したのだ。そんなくらいならはじめから渡さないほうがいいじゃないか」
 野田はこの理詰めにはたと当惑した。
「いや、こうなったら一伍一什いちぶしじゅうを申し上げます。西村電機商会は近ごろの不景気のために大穴をあけ、世間の手前および取引先を誤魔化すために先日、社長が五万円の贋造紙幣を買い込んだのです。はじめ社長は五万円の金をあるところから借り入れたと申しましたが、わたしが贋造紙幣であることを発見したので、わたし一人にだけ事情を打ち明けました。しかし、社長はこの贋造紙幣をだれから買ったかということは固く口をつぐんで言いませんでした。また、わたしも追及して訊きもしませんでした。ところが、一昨日までは五万円の贋金にせがねを一度も使用しませんでしたが、一昨日の朝、社長はわたしにそのうち二千円を出してくれと申しました。で、わたしは一種の危険を予覚しましたから、幾度もおやめなさいと忠告しました。が、今日渡す金は贋金でもかまわぬのだと言って、わたしの忠告を耳に入れませんでした。で、仕方なく、北川くんの手を通じて社長に渡してもらいました。しかし、どう考えてみても危険な気がしたので、正午ひるごろ社長室へ行って、いま一度忠告を試みました。しかし、社長はただ笑うだけで、決してこちらへは迷惑はかからぬから心配したもうなと、てんで相手にもなりませんでした。その時、わたしは社長のデスクの上に折鞄おりかばんのあることを見つけました。社長はいつもその折鞄の中へお金を入れる習慣でしたので、こんなところへ放り出しておかれるのは危険ではないですかと言うと、社長はデスクの二番目の抽斗ひきだしを指して、例の金はここに入れてあるんだよと言いました。その場はそれで帰りましたが、まだまだわたしは気になって仕方がありませんので、いっそこれは盗み出して、社長の名誉を暗々裡あんあんりに保存したがよかろうと思って、社長の留守になる機会をうかがって社長室に入り、抽斗を開けて札束をポケットにねじ込もうとしました。その時、運悪く、北川くんが社長に判をもらうために入ってきて見つけてしまいました。北川くんはもとより贋造紙幣であるとは知りませんし、またそれを話しもならず、ただ深い理由があってぼくはいまこれを取りに来たのだ、決してこのことは他人に話してくれるな、いずれ近いうちに万事をお話しするからと言って別れたのです。すると、それから間もなく社長の死体が街路上で発見され、大騒ぎになりました。だから、北川くんはたぶん、わたしが社長を殺して二千円を盗んだのだと申し上げただろうと思います。しかし、それはそれとしまして、その夜わたしは宿直であったのをさいわいに社長が買い込んだ贋造紙幣をことごとくストーブで燃やしてしまいました。わたしよりほかに知る人はありませんから、そうすれば社長の名誉は永遠に救われると思ったからです。けれど、後日の証拠のために、社長室のデスクの抽斗から取った二千円のうち、千円だけをこうして残しておいたわけです」
 恒藤主任はこの長い野田の陳述をマスクのような無表情な顔をして聞いていたが、なにを思ったか、にっこり笑って言った。
「きみの陳述はすこぶる筋がよく通っている。しかし、たったひとところ不審なことがあるよ」
「えっ?」
「分からぬかね。ちょうど四時十五分ごろに、この贋造紙幣を社長室に取りに入ったことさ」
「それがどうしたというのです?」
「きみはなかなか頑固だね。では、言って聞かせてあげよう。この贋造紙幣と、いまのきみの陳述とからしてぼくはこう推定したのだ。きみは社長から二千円を渡してくれと言われて、社長に内証で贋造紙幣を渡したのだ。そうして、きみは階下で社長を殺して街路上へ投げ、その足で社長室へ戻って、証拠をなくするために贋造紙幣を盗み出したのだ。どうだね、これに間違いはなかろう」
 野田はあまりのことに、開いた口がふさがらなかった。
「もしあなたの仰せになるのが事実でしたら、こうして贋造紙幣をお見せするわけがないじゃありませんか」
 と、息をはずませて言った。
「そこがきみの狡猾なところだよ。それに、北川に見られた関係上、後にその弁解をするために、それを保存していたんだ。とにかく、社長を殺して投げ出したことだけは事実だろう」
 野田は、しいて気を引き上げ、恒藤主任の顔を見つめてその心を読もうとした。もしや艶子が、知っているだけのことを白状したのではあるまいか。が、とにかく、この場で自分の知っていることを言ってしまっては、自分一人が落ち度を取らねばならない。これはどこまでも頑張ろう。こう思って、さてなんと答えようかと考えると、ふといいことを思いついた。
「しかし、社長が死なれたのは四時二十分から四時三十分までの間だというのではありませんか。ところが、わたしが社長室へ入ったのは四時十五分ごろです。ですから、わたしが社長を殺して贋造紙幣を奪ったという説は成り立たないと思います」
 この返答を聞いて、恒藤主任はいささか辟易へきえきしたらしい。彼は腕を組んで目をつぶり、
「はて」
 と言って、二つ三つ顔を上げ下げしたが、この時、隣の大訊問室にどやどやたくさんの人の入ってくる音がして、次いで刑事がやって来て、その耳に何事かをささやいたので、それを機会に主任は立ち上がって、その刑事に命じて野田を留置場に連れ去らせ、自分は署長とともに大訊問室へと赴くのであった。

24


 それから間もなく、大訊問室においてこの事件のなぞを解くべき大訊問が行われたのである。大訊問とは読者はおそらく初耳であろうが、××署の山川署長は一つの事件が複雑になった際、その関係者を一人一人訊問するよりも関係者全部を一室に呼び込んで、あまり鹿爪しかつめらしい態度をせずに打ちくつろいで訊問したほうが効果の多いことを知り、これを大訊問と称してこれまでしばしば行ってきたのである。
 さっき、署長は桝本はじめ三人姉弟を送ってきた刑事から、病院での出来事を聞き、次いで冬木・沖田両刑事の一行から事情を聞き、大訊問を行うことが至当であると考えたので、恒藤司法主任を招いて一同が一室に会することになったのである。
 もうその時分、雪の日は暮れかけて、五百燭光しょくこうの大電灯が白昼のごとく人々の顔を照らした。中央に置かれた大きな机の一方には警察の側の人が腰をかけ、他方には事件の関係者が腰を下ろした。隅のほうではストーブが盛んに燃えて室内は春のような暖かさであった。
 最初に冬木刑事が事の次第を述べ、次に沖田刑事、次に探偵小説家の長谷川、次に新聞記者の山本がすでに読者諸君の知っておられることを、互いに相補いつつ述べるのであった。
 その報告が終わると、恒藤主任は艶子のほうを向いて言った。
「瀬川さん、あなたが今朝、長谷川くんに話されたことには間違いはないですね?」
 さっきからお蝶と舟木の間に腰をかけて、なんとなく落ち着かぬ顔をしていた艶子はちらっと長谷川のほうに目をやり、
「はあ」
 と、かすかな声をしてうつむいた。
「それじゃ、野田が犯人だ。おいきみ、野田をここへ連れてきてくれたまえ」
 と、主任は隅のほうに立っていた刑事に向かって言った。
「ちょっと待った」
 と、署長が手で制した。そうして、恒藤主任のほうを向いて言った。
「きみはさっき、北川と野田を代わる代わる訊問したようだが、ぼくはまだその結果を聞いていない。だからまず、それをここで話してくれたまえ」
 そこで、恒藤主任は北川から、野田の二千円着服のことを訊き出し、それから野田を訊問した顛末てんまつを逐一物語って、最後に、
「そういうわけですから、瀬川さんがいま肯定した事実と総合して考えると、野田は二十七号室で西村を殺してその隣室へ死骸しがいを運び、窓を開けてそこから街路上へ投げ、さらに窓を閉め、五階の社長室へ来て贋造紙幣を奪ったのに違いありません」
「ふむ――」
 と署長はしばらくじっと考え込み、それから冬木刑事に向かって言った。
「冬木くん、きみはたしか二十七号室の空き部屋とその隣の部屋とを検査したはずだが、その隣の部屋というのはちょうど社長室の真下に当たって、石垣とかいう建築士の事務所だというのじゃなかったかね?」
「はあ、そうです。ぼくはうっかり、その石垣という人の建築事務所を二十七号室だと思っていましたが、ぼくらの検査した窓のない空き部屋が二十七号室だったのです。その二十七号室と建築事務所とを隔てる壁にドアがついていましたが、他人の部屋に入るのもなんだと思ってそのまま帰りました。ところが、今日刑事に調べさせたところによると、石垣という人はたった一人でその部屋を借りているだけで、十日ばかり前から関西地方に旅行に出かけて留守だそうです。で、明日にでもその部屋を取り調べに行こうと思っていました」
「そうか。してみると、野田が社長を気絶させたのはその二十七号室に間違いないが、それから彼がそれを隣室に運んで窓から投げたという確証はまだないわけだね。それに、野田が社長室に入ったのが四時十五分ごろであるというのに、社長が死んだのが四時二十分から三十分であるとすると、どうも少し矛盾するようだ。恒藤くん、それをきみはどう説明する?」
 恒藤主任は苦笑に近い顔つきをした。
「それをさっき野田自身も申しましたが、西村が死んだ時間なるものがはたして四時二十分から三十分までと断定し得るものか、それをぼくははじめから疑っているのです」
「それもそうだ」
 と署長は言った。そうして隅の刑事に向かい、
「では、北川と野田と、二人とも連れてきてくれたまえ」
 間もなく、北川と野田とが刑事に連れられて入ってきた。二人とも艶子の顔を見て緊張した表情をした。
「野田くん」
 と、恒藤主任は野田が腰を下ろすか下ろさぬに訊ねた。
「瀬川さんから、すっかり事情が分かってしまった。もういい加減に白状したまえ。きみが白状しないと瀬川さんが社長を殺したことになる」
 この最後の言葉に野田はすこぶる面食らって、しばし言葉が胸につかえて出てこなかったらしいが、やがて決心してしゃがれた声で言った。
「どうもお手数をかけて相すみません。一昨日おととい、社長が瀬川さんに暴行を加えようとしたとき、傍にあった棍棒こんぼうで社長の後頭部に一撃を与え、社長を人事不省に陥れたのはわたしです。わたしはとりあえず瀬川さんを去らしめ、およそ七、八分社長に人工呼吸を施しましたが、社長は生き返りませんでした。その間も人が来やしないかとびくびくしましたが、とうとう恐ろしくなり、さいわいにだれにも見咎みとがめられずに五階へ来ました。その時ふと贋造紙幣のことを考えたのです。もし社長があのまま死んだならば、せめて罪滅ぼしに社長の名誉を保ちたいという考えがひらめいたので、入るともなく社長の部屋に入って取り出すと、北川くんが来られたのです。で、北川くんに口止めをして、それからびくびくしていたのですが、意外にもその後、社長の死体が街路上で発見されたのでした。どうして死体がそこに運ばれたかをわたしは少しも知りません」
「すると、きみが正午ひるごろに社長の部屋へ行って、贋造紙幣を使用するなと忠告したというのはあれは嘘だったのか」
「はあ」
 と、野田はうつむいた。
「そういう嘘を言うきみのことだ。いまのきみの話も本当だとだれが保証するか。きみはやっぱり、社長の死体を街へ投げ出したのだろう」
 野田はうつむいたまま返答につまった。
 と、その時、舟木新次郎は顔を上げ、
「いまの野田くんの話の本当であることをわたしは保証します」
 と、大声で言い放った。
 一同は思わず舟木のほうを見た。恒藤主任は余計なところへ口を出すなといったような顔をしたが、その時署長は舟木に向かい、
「それではきみが、その光景を目撃していたのか」
 と訊ねた。
「もうこうなったらわたしも、ざっくばらんに何もかも申し上げます。すでにさっき冬木さんのお話のとおりわたしたち三人は姉弟同士で、わたしと姉のお蝶とは年子としごですが、艶子一人はずっとあとで生まれました。ところが、艶子が生まれて間もなく、父は西村のために土地を奪われて貧困のどん底に陥りましたので、わたしと姉とは他家に奉公するのやむなきに至りました。で、名字を変え、艶子には決してわたしたちの存在を知らせてくれるなと母に頼んで諸所を放浪し、母の死んだときにも帰りませんでしたから、艶子は兄と姉があることを少しも知らなかったのです。わたしと姉とはなんとかして西村に復讐ふくしゅうしたいものと機会をうかがっていますと、運よくその時機が来て、みなさんのご承知のような事情となりました。ところが、わたしたちの身の上をどうして知ったのか桝本職長が嗅ぎ出し、また偶然に西村のタイピストとなった艶子がわたしたちの妹であることを嗅ぎ出しました。わたしたちは艶子にだけは決して聞かせてくれるなと言いましたが、西村が変死してから職長は艶子にすっかり話してしまったのです。そこで話はあとへ戻りますが、職長は何か西村に含むところがあるとみえて、先月末に二十人ほど工員がくびを切られたとき、わたしを煽動してストライキを起こす張本人たらしめ、社長を脅して一万円の金を強請ゆすり取り、それを工員に分配するようにしたらばどうだと勧めました。わたしはかねてから西村に対する復讐の機会をねらっていたところですからたちまち承知して、あのような騒動を起こしました。ところが、西村はがんとして応じなかったので、この上は最後の手段として暴力で脅すよりほかはないと思い職長に話すと、職長はそのことを西村に伝えたとみえて西村も折れ、とにかく工員の代表者に会おうと言いだしました。で、いよいよ一昨日、職長はわたしに向かって四階の空き部屋二十七号室へ社長を呼び出しておくから、四時五分ごろに来るがよいと申しました。わたしははじめ、他の二人の工員とともに訪ねるつもりでおりましたが、ふと気が変わってわたし一人で訪ねることにしました。というのは、西村に恐怖を起こさせてやろうと思ったからです。すなわち、わたしはわたしの父の姿になって訪ねようと思ったのです。で、父の唯一の形見の将校マントと鳥打帽を冠り棍棒を携え、いわば変装して出かけましたが、それやこれやで少し時間が遅れて、四時二十分ごろに二十七号室のドアを開けました。するとその時、西村はその隣の部屋との境にあるドアをちょうど開けたところでしたが、わたしの姿を見るなり、あっ、瀬川! と大声で叫んで隣の部屋へ逃げ出そうとしましたので、逃がすものかと思って追いかけた拍子に、わたしはそこに落ちていた丸い棍棒を踏んでどたりっと倒れました。その時、自分の手にしていた棍棒を離したのです。さて、起き上がって西村はどこへ行ったかと、隣の部屋のドアを開けると、意外にも窓を開けて飛び降りるところでした。あっ! と言ったがもう遅かったのです。わたしは爪先つまさきで歩いて窓にしのび寄って下を見ますと、西村はぺしゃんこになって倒れて死んでいました。さすがにぎょっとして窓を閉め、ふたたび爪先で歩いて二十七号室に引き返し、ドアにかぎがはまったままになっていたので錠を下ろして鍵を取り、さて考えてみますと、死体が知れた暁には自分が犯人と見なされるに違いないから、これはなんとかしなければならぬと思いました。だいいち、Sビルディングを出るのさえ怖い思いがしました。ところが、ふと足下を見ると古ぼけた草履が一足落ちていましたので、これさいわいと嫌疑を避けるために靴と履き替え、靴とその傍に落ちていた棍棒を拾い上げて靴のひもでくくり、なおそれをしっかりと手拭てぬぐいでもって身体からだに結わえつけ、とくに鳥打帽を眼深まぶかに冠り、しばらくの間外部の様子をうかがって廊下へ出たのですが、その間およそ六、七分はかかったと思います。ところが、家に帰ってみると、意外にも棍棒が違っておりました。薄暗かったために、ついうっかり取り違えてきたのです。で、心配になってなりませんから、翌日わたしは別の変装をして取りに行きました。途中で、凶器凶器としきりに口にしながら前日エレベーターの傍で会った二人の男が、しきりに溝渠どぶの中などを捜していましたので、急に悪戯ごころが起きてあのような貼紙をして家に帰り、どうも身辺が危険に思えたので職長に相談すると、病院がよかろうとのことで、すぐさま松本正雄と変名してK病院に入りました。すると今日、職長は病院へ来て、二千円きみは金を取ったのだから出せと言います。そうして艶子と姉のお蝶とを呼び出し、四人で五百円ずつ分けるつもりだとのことでした。ところが、その二千円の金はわたしの手に入らないばかりか、さっきのお話ではどうやら贋造にせで、西村はそれをわたしにつかませて、贋造紙幣行使でわたしを罪に陥れようとしたらしいです。いや、どこまでも恐ろしい人間です」
 山川署長は舟木の語る間、目を光らせて聞いていたがやがて桝本に向かい、
「桝本くん、きみの行動はきみが昨日語ったところとだいぶ違うじゃないか。舟木くんのいま語ったのは本当かどうかね?」
 桝本はさっき沖田刑事から西村の娘を口説いた一件をすっぱ抜かれて赤くなり、いままた舟木に仮面をはがれて、そのつやつやした顔はいっそう激しく光りだした。
「どうも恐れ入りました」
 と、彼は小声で答えた。
「すると、舟木くんの言ったことが本当か。してみると社長は自殺したわけだが、お蝶さん、社長はそんなに窮境に陥っていましたか」
 お蝶はここぞとばかりにさわやかな声を出した。
「はあ、それはもうかなりに窮境に陥っていましたようです。ですから、さっきのお話の贋造紙幣買い入れまでもしたのだろうと思います。それに、あの人は若いときにひどい黴毒ばいどくをやってその毒が抜け切らないのか、お酒を飲んだり心配ごとがあったりすると、陽気な性質ががらりと変わって妙な行動をとったりするのでした。ですから、一昨日もきっとその発作が起こったのだろうと思います」
「しかし」
 と、この時、恒藤主任は署長のほうを向いて大声で叫んだ。
「社長が自殺したということは舟木くんの陳述によるだけで、その証拠がありません。それに、野田くんが社長は生き返らなかったというのに、その社長がドアを開けていたというのはおかしいです。舟木くんは棍棒を携えていったと言っているから、充分殺意を認めることができます。だから、たとい西村がその間正気づいたものとしても、舟木くんがさらに西村を殺して、死体を投げ出したと考えても矛盾はありません。ことに、人事不省に陥っていた者を投げたとすればいっそうよく説明ができます。だいいち、西村が生きて街路上へ落ちたという証拠がありません。それに、西村が他人に投げ出されたのでないという証拠がありません。だから、ぼくは舟木を西村殺害の犯人と認めます」
「ふむ、きみはさっき野田くんを犯人と認め、今度は舟木くんを犯人と認めるのか。舟木くん、きみは何か、きみのさっきの話を裏書きする証拠を出すことはできぬか」
 と、署長はやさしく言った。
「証拠を出すなんてことはできません」
 と、舟木は恒藤主任をじろりと睨んで言った。
「わたしはただ真実を述べただけです。わたしを犯人とするかせぬかは、あなたがたの勝手です」
「よろしい。それではぼくはきみを犯人と認めるよ」
 と、恒藤主任は言い放った。
 署長はすこぶる当惑したらしく、例のごとく、ふむ――と言ったままじっと考え込む。と、この時、冬木刑事が口を出した。
「舟木くんの陳述が真実かどうかは、死体解剖の結果と石垣建築事務所の床の上の足跡を捜査すれば分かると思います」
 これを聞いた署長は急に明るい顔になり、
「おおそうだ。解剖は大学の田上たがみ博士の都合で、今朝行われたはずだ。おい△△くん、ちょっと検事局へ電話をかけて訊いてみてくれたまえ」
 △△刑事が出かけにかかると給仕が入ってきて、署長に向かい大きな声で、
「ただいま折田おりた検事と田上博士とが見えました」
 と叫んだ。
「それはちょうどいいところだ。すぐこちらへお通し申せ」

25


 折田検事は読者諸君のご承知のごとく、西村社長変死の夜、Sビルディングに出張して人々を訊問した検事であって、同検事はその夜西村の死体を大学に送って解剖を依頼したのである。ところが、田上博士は助手を連れて昨日一日地方へ出張していたため、西村の死体解剖はようやく今朝になって行われたのである。
 田上博士はこれまでの法医学者と違って、単に死体解剖を行うばかりでなく、凶行の現場をも捜査して、もってその死の真因を訊ねるというやり方をしたため、今朝解剖によって直接の死因を発見したにかかわらず、西村の死の前後の事情に不明な点があったので、午後検事とともにSビルディングを捜査してやっと終了し、さらに自分の説を完全にするために××警察署を訪れたのであって、博士もここへ来るまで実はまだ確かな説を立て得なかったのである。
 検事が博士来訪の意を署長に説明し、警察の捜査の結果の説明を求めると、署長はいままでの経過を簡単に総括し、四時十二、三分ごろ野田は社長が死んだと思って二十七号室に残してきたにもかかわらず、舟木が四時二十分ごろその同じ部屋を訪ねたときには社長がドアを開けているところで、次いで社長は石垣建築事務所の中へ入り窓を開けて街路上に飛び降りたというのであるが、もしそれを真実と認めるならば西村社長はいったん気絶してふたたび意識を恢復かいふくし、それから自殺したことになるけれども、それはただ人々の口述にすぎないのであって、それを証明するに足る証拠が一つもない。それゆえ、さっき死体解剖の結果を聞かせてもらおうと思ったところであると付言した。
 署長の説明を緊張して聞いていた田上博士は、この時おもむろに口を開いた。その濃い口髭くちひげ顎鬚あごひげとは、博士の顔に冒すべからざる威厳を与えていた。
「よく分かりました。いまのご説明で一、二の疑問点を解決することができました。死体の外表検査の結果は警察医の死体検案書のとおりです。傷は左の肩胛部けんこうぶと後頭部にある鈍傷で、いずれも生前にできたもの。後頭部の傷のごときは、血のたくさん出た様子はなくても、皮膚がかなりに破壊されていましたから、一見致命傷であるかのように想像されますが、内部の頭蓋骨ずがいこつは損傷を受けておりませんでした。ですから、いったん気絶した社長がふたたび意識を恢復したということは充分に可能性があります。
 しかし、そのほかには一つも致命傷はありませんでした。しからば社長の死因はなんであるかと申しますに、それは解剖の結果、大動脈瘤だいどうみゃくりゅうの破裂だと分かりました。大動脈瘤が黴毒のために起こることは周知の事実でして、これはさっきのお話により、社長が過去に黴毒を病んだことがあるというところによく一致します。で、社長が高いところから落ちた際――いや、落ちたと仮定すると、その激動によって、大動脈の破裂することは当然であります。四階とか五階とかの高い所から固い地面へ落ちたならば、身体がめちゃめちゃに破壊されるだろうと想像する人が多いかもしれませんが必ずしもそうではなく、多くは内臓の破裂によって死ぬものです。また、四階と五階とを一概にして論ずることは誤りでして、一階違っても加速度の法則によって、身体に加わる力の差異はずいぶんはなはだしいものであります。いまこの場合において、死体には大動脈瘤の破裂のほかに、別にこれという内臓破裂のなかったところを見ると、もし五階と四階とどちらから落ちたのであるかと問われるならば、常識によって低いほうだと答えるのが当然であります。実際、もし本人が大動脈瘤という病気を持っていなかったならば、ことによると死なないで済んだかもしれません。
 そこで次に起こる疑問は、大動脈瘤は末期になれば自然に破裂するし、また程度の進んだものなら肩胛部に加えられた打撃によってでも破裂するのではないかということですが、今度の場合その壁がかなり厚く、よほどの力が加わらなければ破裂しない程度のものでした。ですから、高い所から落ちたと考えるのが至当であります」
 博士はちょっと言葉を切った。室内は水を打ったように静かであった。と、その時、恒藤主任が口を出した。
「しかし、大動脈瘤はたとえば死骸、または人事不省の者を高い所から投げ捨てても破裂するのではありませんか」
「仰せのとおりです」
 と、博士は極めて落ち着いて言った。
「ちょうどいま、それをお話ししようと思ったところです。本人が高い所から落ちたということは推定されても、生きながら落ちて死んだか、あるいは死んでから、あるいは人事不省中にだれかに投げられたかは、単に大動脈瘤が破裂したという事実からは判断できないのであります。この場合、外部に現れた致命傷がありませんから、本人が高い所から落ちたとき、まだ死んではいなかったと推定し得るとしても、自動的に飛び降りたか、人事不省中に投げ出されたかは、死体解剖だけでは判断がつきません。しかもこの際、これを判別するのがいちばん肝要な問題となっております。で、このことに気づいたものですから現場捜査を行ったわけですが、わたしの現場捜査だけでは残念ながら充分な材料を得ませんでしたから、こうしてこちらへお伺いしたのです」
「すると、どういう証拠をここでお求めになりたいのですか」
 と、署長は博士の明快な議論にすっかり敬服して言った。
「実は解剖の結果、大動脈瘤は肺の組織と癒着しておりまして、それが破裂したとき血液が肺のほうへ入り、気管を経て口のほうまで流れておりました。ところで、もし生きていたときに、換言すれば意識のあったときに破裂したならば血液は咳嗽せきによって排出されます。ところが、もし死んでいた場合または人事不省に陥った場合に破裂したのであるならば、血液はただ機械的に流れ出すにすぎません。ところが解剖台上では、咳嗽によって血液が排出されたか、または単に機械的に流れたかを判断することができません。そこで、わたしは死体の横たわっていた現場を調査に行ったのですが、残念ながら雪が降り積もりなんの手がかりも得られませんでした。もし死体の発見された当時に捜査することができて、もし本人が咳嗽によって血液を排泄はいせつしたものであるならば血は大きな飛沫ひまつとなってたくさんあたりに飛び散り、もしまた人事不省あるいは死体となって落ちた場合には血液は口から流れて、街路上に血溜ちだまりとなっていることが発見されたわけです。ところが、残念にもその痕跡こんせきはいま残っておりません。また現場捜査をした人もおそらくははっきり記憶していないだろうと思います。そこでわたしは、もしや警察に現場を撮影した写真でもありはしないかと思ってお伺いしたのです」
 この言葉が終わるか終わらぬに、新聞記者の山本がゴムまりのように飛び上がったので、署長はじめ一同はびっくりして眺めた。
「あります、あります。ぼくはすっかり忘れておりましたが、その写真をぼくはポケットにちゃんと入れているのです。これがそんな大切な手がかりになろうとは夢にも思いませんでした」
 と言って、山本は写真を取り出し、震える手で博士のほうへ差し出した。
「手がかりになるかならぬかは拝見しなければ分かりません」
 博士は極めて冷静に語りながら写真を受け取り、じっと眺めた。人々は固唾かたずんで博士の顔を見つめた。すると、その顔は唇の周りから崩れかけ、見る間にうれしそうな表情が顔いっぱいに広がった。
一目瞭然いちもくりょうぜんとはこのことです」
 と、博士は底力のある声で言った。
「血液は街路上に、太い筋をなして飛び散っています。経験のない人が見ますと、静かに流れた血に見えるかもしれませんが、これは疑いもなく、咳嗽によって排泄されたものです。ちょうどそのいちばんたくさん固まった血の上へ頭がのっていますから、はじめて見た人はきっと、頭部がめちゃめちゃに破壊されていると思ったに違いありません」
 こう言って博士は写真を署長に回すと、署長はしばらく眺めてさも感心したように大きくうなずき、次いで恒藤主任に手渡した。読者諸君はさだめし、恒藤主任、一言なかるべからずと思われるであろう。いかにもそのとおり、写真を眺め終わるなり主任は、
「しかし」
 と叫んだのである。
「しかし、これで西村社長が生きながら高い所から落ちたということは分かるとしても、自動的に飛び降りたかあるいは他人に突き出されたか、または他人に抱かれて投げ出されたかは分からぬじゃありませんか。しかも、それを決することはこの際重要だと思います。ぼくはさっき、舟木くんが意識を恢復した社長をさらに殺して投げ出したか、または人事不省の社長をそのまま抱き上げて投げ出したかもしれんという説を立てましたが、いま社長が明瞭な意識を持ちながら落ちて死んだと分かったならば、ぼくはぼくの説をモディファイ(修正)して、舟木くんが生きたままの社長を抱えて投げ出したか、または社長を窓際から突き出したと考えたいのであります」
 人々はこれに対する博士の返答いかにと緊張した。さだめし当惑するだろうと思いのほか、博士はふたたびにこりと笑った。
「まことに鋭いお考えです。が、わたしもそのことに考えついて、実はさっき二十七号室およびその隣の留守の建築事務所を捜索したのです。たとい墜落現場の写真があるとしても、写真では決してみずから落ちたかまたは抱いて落とされたか、あるいは突き落とされたか分からぬと思ったからです。ところで二十七号室へ入ってみると、何もかも踏み荒らされてしまってよく分かりませんでした。血痕のごときものは発見することができませんでした。そこでわたしは合鍵を借りて、二十七号室と石垣建築事務所とを境するドアを開けました。この部屋はまだだれも捜索を行わなかったようで、わたしにとってはしごく好都合でした。なんでも事務所の主人公は数日来留守になっていてだれも入らず、たたき床の上にはほこりがかなり溜まっておりました。ところがよく検査すると、その跡が発見されたのであります。ご承知のとおりかような床の上に溜まった塵は、板やリノリウムの上の塵と違って見にくいですけれど、慣れた目にはその上の足跡を観察するのはさほど困難でありません。
 さて、事務所の床の上にどんな足跡があったかと申しますと、そこに二種類の足跡、換言すれば二人の足跡がありました。その足跡は二十七号室との境にあるドアから、街に面した窓に向かって中央のデスクの横を通って、斜めに線を描いてついておりました。一人のほうの足跡は、ドアから窓に向かって比較的早い歩調で歩いておりますが戻った足跡がありません。いまひとつの足跡は爪先のほうだけしかついておらぬけど、確かに戻っております。ところが、前者の足跡は西村社長の靴と一致しておりますが、爪先で歩いたほうの足跡はだれのものか分かりません。しかし、西村社長の歩いた上にも後者の足跡がついていて、西村社長が一度もその爪先の足跡を踏んでいないところを見ると、第二の人は西村社長のあとから窓際へ行ったに違いありません。してみると、その第二の人は時間的にも場所的にも西村社長のあとから窓際へ行ったこととなります。そうして社長の戻った足跡のないところを見ると、社長はそのまま窓から飛び出したことになります。
 そこで当然起こる問題は、社長が窓から飛び出したことが社長自身の単独行為によったか、または第二の人の力が加わって強制的に飛び出さしめられたかということです。ここで第二の人が爪先で歩いたということが非常に重要な解決の鍵となるのであります。まず最初に考うべきことは、社長が窓際に立って戸外を眺めているところを、第二の人が後ろから忍び寄ってやにわに突き出したのではないかということです。ところが、窓枠の高さは二尺五寸ほどありますから、人間一人を突き落とすには、よほどの力を要します。さすれば、第二の人がたとい忍び足で近づいていっても、突き落とすときには両脚を踏ん張るのが至当であります。ところが、第二の人は爪先で歩いていってまた爪先で引き返しております。ですから、突き落としたとは考えられません。同様に後ろから忍び寄って、抱き上げて投げ出したとも考えられません。なんとなれば、抱き上げるためには突き落とすときよりも余計に力を要するからです。
 してみると、西村社長は人事不省中を抱き上げられて投げ出されたのでないことはもちろん、窓際から突き落とされたのでもなく、またその場で抱き上げられて投げられたのでもありません。いわんや人事不省の社長を第二の人がったとか、または強制的に社長を歩かしめて自殺せしめたとかいうことは決して考えられないのであります。また他動的に落とされたとすれば一階と二階の出っ張りに身体がぶつかりやすく、その傷がなければなりません。したがって、どうしても西村社長が自発的に飛び出し、第二の人がそのあとから窓際へ忍び寄って、ふたたび引き返したとよりほかに考えようがありません。
 先刻のお話によると、第二の人というのはどうやら舟木さんらしく、したがって舟木さんがご自分で話されたことは正しいと思われます。この上は、第二の人が舟木さんであるという確証を得ればよいわけです」
 こう言って、博士はポケットの中から紙片かみきれを取り出した。
「これが第二の人の爪先の足跡の描写図です。もし舟木さんが一昨日お履きになったのと同じ靴をいまお履きになっていたら、おそれいりますが左の靴を脱いでお見せくださいませんか」
 舟木は立ち上がってつかつかと博士の傍に歩み寄り、左の靴を脱いで渡した。博士はそれを受け取って描写図と見比べていたが、ついに言った。
「ぴったり一致します。これで第二の人が舟木さんだということが分かり、したがって舟木さんの話されたことは事実に相違ありません」

       *          *          *

 さて、読者諸君、かくてこの事件は西村社長の自殺ということに決まって解決されたのである。田上博士の説によると、会社の窮境よりも黴毒による一時的の精神錯乱が自殺の原因となっているだろうとのことであるが、これは単なる想像にすぎぬと博士は言った。しかし、少なくともその自殺が社長の予定の行動でなかったことは、社長がその日に山田貿易商会へてた手紙によっても明らかであって、たぶん社長は人事不省から覚めてひょろひょろ起き上がり、まだ充分意識がはっきりしなかったので傍にあったドアを廊下に通ずるドアと誤認して開けているところへ舟木が来たので、自分のかつて苦しめた瀬川の幽霊とでも思い、錯乱状態のまま発作的に窓を開けて飛び出したのだろうと想像されたのである。
 これでもう筆者は書かねばならぬことをおおよそ書いたつもりである。桝本と舟木とは社長を脅迫したという点で起訴されいま予審中であるが、それがどう片づくかはもとより筆者の知らぬところである。また、西村がどこから贋造紙幣を買い入れたのかずいぶん厳しく探査されたが、とうとう分からなかったらしい。
 なお、この事件があってから、野田と艶子は非常に親密になったということである。彼らがはたして結婚するかどうかは不粋な筆者には分からない。





底本:「五階の窓」春陽文庫、春陽堂書店
   1993(平成5)年10月25日初版発行
初出:「新青年」博文館
   1926(大正15)年10月号
※この作品は、「新青年」1926(大正15)年5月号から10月号の六回にわたり六人の作者によりリレー連作として発表された第六回です。
入力:雪森
校正:富田晶子
2019年5月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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