東奥異聞

佐々木喜善




街頭に佇てばあまりに騒がしい。
あすの日もないように、なにをあせり
なにを騒ぐのでしょう。おいでなさい。
その騒々しさからそっとのがれて
心おきなく語ろうではありませんか。
語る人の目はほがらかです
聞く人の心はなごやかです。
胸と心はおのずからとけて
春も、夏も、秋も、冬も、
静かに流れてゆくでしょう。


ふしぎな縁女の話





 生まれながらにして、人間以外のものに、すなわち妖怪変化のものの処に縁づくべき約束のもとにあり、その娘がとしごろになると種々な形式でもってそこに嫁いでゆくというような口碑伝説がいくらもある。
 岩手県上閉伊郡釜石町、板沢某という家の娘に見目みめよきものがあった。この娘ある日クワの葉を摘むとて裏の山へいったまま、クワの木の下に草履を脱ぎ棄ておいてそのまま行くえ不明になった。家人は驚いて騒ぎ悲しんでいるとそこに一人の旅の行者が来かかりその訳を聞き、いわく、今は嘆くともせんかたないだろう。じつはこの娘は生まれながら水性の主の処へ嫁ぎゆくべき縁女と生まれ合わせていたので、いまはちょうどその時期がきて、これから北方三十里ばかり隔たった閉伊川へいがわの岸腹帯はらたいという所の淵の主のもとにいったのだ。しかし生命にはけっして別状あるわけではなし、かえっていまでは閉伊川一流の女王となっていることであろう。そしてこれからは年に一度ずつはきっと家人に会いに参るであろうとの話であった。
 この板沢家には氏神に大天馬だいてんばという祠がある。その祭りは秋九月ごろらしいが、その前夜にはかならずその娘が家に戻ってくる。玄関には盥に水を汲み入れその傍らに草履を置くとつねにその草履は濡れ水は濁りてあったということである。後世、明日は大天馬祭りだから今夜は板沢の老婆がくるというような言伝えになったのであるが近年はどうだかわからぬ。
 この腹帯の淵についての伝説はまだまだ後にもある。この淵の付近に農家が一軒ある。あるときこの家の家族同時に三人まで急病に罹った。なかなか直らない。ところがある日どこからとなく一人の老婆がきていうには、この家には病人があるが、それは二、三日前に庭前で赤い小ヘビを殺したゆえだという。家人はそれを聞いていかにも思い当たりおり返していろいろと聞くと、その小ヘビはじつはこの前の淵のぬしの使者で、この家の三番娘を嫁にほしいので遣わしたのであった。どうしても三番めの娘は水で死ぬとのことであった。その話を聞いていた娘は驚愕と恐怖のあまりに病気になった。そうして医薬禁厭の効なくとうとう死んでしまった(その娘が病気になると同時に、他の三人の病人はたちまちに直った)。そういう死にようゆえに家人は娘の死体をば夜中ひそかに淵のほとりに埋め、偽の棺をもって公の葬式はした。一日ばかりたってから淵のほとりにいってみると埋めた処にはすでに娘の屍はなかった。この話は大正五年ごろの出来事である。
 それからはその娘の死亡した日には、たとえ三粒降るまでもその家の庭前に雨が降る。またその淵に石木などを投げ入れてもかならずその家の庭に雨が降るという。この部落では娘の家への遠慮から淵で子どもらが水浴することを厳禁している。どういうことでもこの淵に障るとその家の屋根に雨が降りかかるので、これはその美しかった娘のわが屋へのなにかの心遣いであろうというのである。そしてどこのなんぴとが言い出したともなくその娘はその淵の三代めの主へお嫁にいったのだということが伝承された。二代めには上閉伊郡甲子村コガヨとかコガトとかいう家の娘が上がったといわれている。その家では隣の釜石の祭礼には玄関に盥に水を入れ草履を揃えておけば、水が濁り草履はまた濡れているともいわれ、その日にはかならず雨が降ること今日も同じであるということである。


 岩手県上閉伊郡松崎村字ノボトに茂助という家がある。昔この家の娘、秋ごろでもあったのか裏のナシの木の下にゆき、そこに草履を脱ぎ置きしままに行くえ不明になった。しかしその後、幾年かの年月をたってある大嵐の日にその娘は一人のひどく奇怪な老婆となって家人に会いにやってきた。その態姿はまったく山婆のようで、肌にはコケが生い指の爪は二、三寸に伸びておった。そうして一夜泊りでいったがそれからは毎年やってきた。そのたびごとに大風雨あり一郷ひどく難渋するので、ついには村方からの掛合いとなり、なんとかしてその老婆のこないように封ずるようにとの厳談であった。そこでしかたなく茂助の家にては巫子山伏を頼んで、同郡青笹村と自分との村境に一の石塔を建てて、ここより内にはくるなというて封じてしまった。その後はその老婆はこなくなった。その石塔も大正初年の大洪水のときに流失して、いまはないのである。
 同郡上郷村の某所に一人の容貌美しき娘があって、あるとき急病で死んだ。一郷一村その死を嘆かぬものがなかった。それから三年ほどたってあるとき同村の狩人六角牛山ろっかうしざんという深山に狩りにゆき、カウチの沢というに迷い入ると、たいへんなガロにゆき当たった。さてそれからはどこへもゆきえぬので立ち止まり行く手のほうを見るとある岩の上に一人の女が立っている。おやふしぎだ何者かと思ってよく見ると、それは先年死んだはずの村の娘である。狩人は驚いて、そこにいるのは某ではないか? というと、女もさも懐かしそうに下を見おろして、はいと答う。狩人はどうしておまえはこんな処にきておった。家ではおまえは死んだものとばかり思って嘆き悲しんでいるのにというと、じつは私は死んだように見せかけられて、こんな深山に連れてこられております。私を見たということを村に帰ってもけっしていってくれるなと女はいう。狩人はかさねてそれはどうした訳かと問うと、私は夫との間に幾人かの子どももあったが、夫はみなおれに似ぬからといってどこへか持っていってしまう。たぶん殺して食うことと思います。それがこわくつらくて幾度かこの山を逃げ出そうと思っても、もう心にそう思ってさえすぐに覚られてそれを責められる。いまはもう諦めてここで死ぬ決心をしております。夫は普通の人間とそう違いがないがただどうも疑いぶかくて困ります。そして私には普通の語で話すけれども、ときどき寄り集まってくる朋輩どもとは私にはまったくわからない言葉で話しております。さあこうしているうちにも夫が帰ってくるといけないから早く元きたほうへ帰っておゆきなさい。先刻もいったとおりけっしてこの山で私を見たということを村に帰ってから話してはなりません。もし忘れて話したらその夜のうちにもおまえさんの生命と私の生命は亡くなりましょうといった。これはその狩人が老年におよんで死ぬときに話したことであったということである。
 同郡某村というので、非常に容貌よき一人の若者が急死した。それがまたある狩人がある山にて、ふしぎな山女と連れだって歩いているのを二、三年たってから見たというような話もあった。これは女ではないが同趣向のものである。予の話した柳田國男氏の『遠野物語』にもあるが、女は比較的無事円満に山に住み山男の子どもなどを産んでいることができるらしいが、男は多淫の山女に縁引きされると初めのうちはひどく好遇されるけれども、精力消耗してくるとたちまち殺されて食われてしまうということである。その男子もいま生きていれば五十七、八になるが、十八、九歳のさいに死亡し山で見られたというから、もういまは、とくに殺されてこの世にはおらぬことと思われる。
 同郡大槌町大槌川の付近、正内しょうないという処に一人の娘があった。この娘は生まれながらに土地の巫子から水性のもののもとへ縁女にとられると予言されておったが、やがて十三歳になったときの夏の日、大槌川にて水浴するとて朋輩の女児とも四、五人ずつとともにつねに川にゆくが、この娘のみ一人連れから離れてある岩のほとりに寄り水中にからだを浸していたが、そうすること四、五日してからついにその水中に沈んで死んだ。死体を見ると陰部に粘液が付着していた。たぶんウナギかなにかの仕わざであろうといったと、これはいまより十年ほど前の話である。
 陸前国気仙郡花輪村の竹駒という所に一人の美しい娘があった。あるときこの娘が外で遊んでいるところを一羽のワシにさらわれて同郡有住村の角枯つのがし淵というに落とされた。すると淵のなかより一人の老人が出てきてその娘を背に乗せて家に送り届けた。じつはこの老人はサケであった。そうしてこの老人はしいて娘に結婚を申しこんでついに夫婦になった。その子孫の者はいまでもけっしてサケを食わぬということである。


 こう列記してくると、かの三輪式口碑その他の蛇族や河童かっぱやサル、オオカミに見こまれてさらわれてゆきまたは嫁いでゆく態の事がらとは自然とその根本において異なっている。この話のほうは生まれながらにそうなれとの因縁でもって山河の主に嫁ぐということである。そこに大きな差異があるのである。
 この話例の口碑で注意を要するところは、その誘拐される娘なり青年なりが、われわれの目にはいったん死亡の形式になっていることである。私はこういう例を多く知っていると非常にこうつこうであるけれども、いまはそれを探索する機をえないのもやむをえないことである。けれどもそれに類似の話を一、二記してみよう。
 陸中遠野郷北川目きたがめの者ら五、六人の同行で出羽の湯殿山をかけにいったことがあった。かけ下してきて深林帯の尾根に一行がさしかかるといちばんあとに立ちすこし遅れていた大下某という男、顔色を変えてみんなに追いつき、いまの呼び声を聴いたかという。みんながなんの呼び声かと聞くと、おやそれではおまえたちには聴こえなかったのか、いまこの深沢で女の叫び声がしたが、どうもそれがおれの女房の声のようであったといったが、それから鬱々として楽しまず家に帰るととうとう病み出して死んだということ。その女房というのは三年ばかり前に死んでこの世にいなかった者だということである。この話と似た話はまだ私の記憶にある。
 前と同郷某らという者ども、気仙郡五葉山をかけにいったときにも、その連れの一人が深林中にて前年亡せし愛妻の声を聴いたといったが、これも山から帰る早々病みついて死んだ。
 こういうような信仰は山郷の人々の間には今日でもなお新しく生きている。そしてそういうふうに死んだ者は山男山女の類のうからのなかにゆくといわれている。またそうでなくとも農家の若い息子が急に死ぬることなどがあれば、それに対してもただちに神秘的な想像や噂がたつことがある。前記同郷の土淵村の某所にて、村中にも田の草相撲などにいつも人気をよんでいた私の近所の長命という若者、鎮守の相撲帰りに急に病んで死す。そのときなどもその若者が呼吸を引き取ると同時に、家の後ろの山から一人の大男が飛ぶようにおりてきてその家にはいったのを見たものがあった。これは山男ですなわち長命はいったん眷族の前には死んで山男の族にいったものだろうというのがもっぱらの評判であった。また私の隣家に小町という十七ばかりの娘が流行感冒かなにかで亡くなったときにも、前述と同様な噂がたったこともある。とにかくこういうふうに若い娘や男のある種の死をもって魔物他生へのふしぎな結縁の成るものだとする信仰は古より日本の民族中に潜在していた思想であるらしい。それは古いわれわれの祖先の略奪結婚の変態した信仰形跡の名ごりであるかいなか、または真実に河淵湖沼の主や深山幽谷の山男の族というような他生の魔物が存在しているかどうかは、そのほうの、考証学の諸先輩にお任せするのが適当な礼儀でもあり、また便利でもある。
 ここでは単に以上のような民譚も、この山島民族の伝承のうちにあるということだけを、一言説陳しておくまでである。

 付記。この伝承は前にはああいっておいたが、やはり三輪式伝説や、あるいは人間対蛇獣婚姻の関係伝説とその系統を同じうしているものであるかもしれない。しかしてこういう説話をわれわれの祖先のあるいは祖先と他民族との間に起こった奪略結婚の遺風余話の名ごりその他とみるもよろしい。けれども science といえばぜひ、むりやりにもなんとか結論をつけなければならぬという考えも、ある中毒堕套のことであろう。西洋ではどうかは知らぬが、日本での考証穿鑿の御難事は某々博士たちのお仕事におまかせしようか。そしてわれわれはいまのところ、ここしばらくの間ごくすなおに見せ、授けられたる仕事の形態とそれを信ずる民間の心とを尊重しておきましょうか。


黄金のウシの話





 思想というものに、そう大差がなかろうと思うのは大間違いで、昔の人の心持を今日の常識から考えてみていかにも理解のできぬことが雑多にあります。それはどういう事がらかと言いますと、かれらはまったく思いもよらぬ配合や継ぎ合せをやっていることでありますが、しかしまた人の心の一面にはそういう突飛な思想(想像・空想)を喜ぶ傾向も十分に抱持しているのであります。いわゆる奇想天外からきたものほど、素朴なわれわれの祖先が印象をふかくし、かつ正直に請け入れ、むしろ喜び迎えたかに思われますのがふしぎはないことと思われます。いずれの時代にも平凡な常識で判断のつくものだけ神聖性が薄かったはずであります。巫女寄祈よりきの力の偉大であったことはとうてい今日のわれわれからは想像のほかであります。そういうところに根ざしかつ芽生えした口碑伝説が、あらゆる時間と錯誤と矛盾とを超越して真っ直に成長し、その枝葉を広く繁茂さしてきたことにはすこしも不自然がなかったことであります。なぜなれば民間には、多くのそれらの暗示宜語をただちに受容するによいすべての準備が十分にそなわってあったからであります。
 そのよき例は、奥羽の鉱山地方に広く流布されている黄金牛キンノベココ口碑でありまして、すなわち私はそのことをこれからぽつぽついおうと思うのであります。奥州の黄金の歴史はかなり古いものであるようでありますが、どうしてそれがいささかも似てもつかぬウシとこうやすやすとむすびついたかは真にふしぎな話であります。田舎者の学究には文献に徴すべきいっさいの縁が絶たれております。考えてもらちの明かぬことは世間の長者に問うたほうが学問のためにも礼儀であり、また事の近道でもあります。私はそういう考えからこの小さな報告書を書いてみたいと心がけておったのであります。


 黄金のウシの話は、いずれも墜坑口碑に関係まつわっております。すなわち鉱山師がウシの形態をして親金おやがねに掘り当てたが、それを坑中から外へ取り出そうとするとふいに坑が落ちて、七十五人の鉱夫かねわり、あるいは千人百人の鉱夫かねわりらが惨死したと言い、そのとき、ふしぎな理由でたった一人の人間(それは男もあり女もありますが)のみが助かったというのがこの口碑の構図であります。つぎにそれらの二、三の例を挙げつつ話を進めてゆきましょう。
 陸中国遠野郷(いまの上閉伊郡)小友おとも村に、長者がありまして、その家に一人の下男がおりました。この男はちょっと変り者で、おれは芋を掘るのだといって、年から年中寸暇さえあれば鍬を持って近所の山谷に分け入り、あっちこっちと土を掘っておりました。世間ではこの男のことを愚者だといって笑ったのです。ところがとうとうある年の大晦日の晩がたに、同村字日石ひいしという所の谷合いで黄金のに掘り当てました。黄金の一塊をおのが荒屋に持ち帰って、形ばかりの床の間に供えると、その光が破れ戸を透して戸外まで洩れ輝いたというような話も残っております。それからはこの下男が、世間から小松殿あるいは小松長者といわれるような身分となりました。
 小松殿はそれからはみずから鉱夫どもを督して、そのを掘り伝いゆき、まる三年めのやはり大晦日の日にウシの形をした親金に掘り着けました。小松殿は大喜びでただちに坑外に大酒宴を催して夜を明かし、明くれば元朝のめでたい日の朝日が登るとともに、改めて坑の入初めの式を挙げ、それから黄金のウシの額の片角に錦の手綱を結びつけて歌声もろともに引っ張らせた(1)が、その角がぽきりと折れてしまいました。こんどはその首に綱を結びつけて引っ張ると、ウシが二、三歩動いたかと思うたとき、突然坑が落ちて、鉱夫どもが七十五人惨死したというのであります。
 そのとき炊事男(あるいは時知らせの男とも言います)に、ウソトキ、あるいは、オソトキ(2)と呼ぶ男がおりましたが、親金がなかなか動きそうもないので、おまえも坑中にはいって手伝ってくれといわれて、みんなと同様に手綱に取り付いていましたが、ふいに坑口のほうで、ウソトキ、ウソトキと呼ぶ声がするので、手綱を放して駆け出して坑を出てみるとなんぴともいませぬ。これはおのが空耳かと思って再び坑中にはいっていると、また外で呼び声がする。それから三度めの呼び声があまりに火急で鋭かったのでハッと思って駆け出し、坑口から片足の踵が出るか出ぬ間の瞬間にドンと坑が落ちたのだとも言います。とにかくこうしてこのオソトキ一人のみ助かったのであります。
 話はこれで全部でありますが、その一人助かった者が女(3)であったというほうを申しますと、同郡上郷村字左比内さひちいの奥の金山で、やっぱりウシの形をした親金に掘り当てまして、坑中に千人の鉱夫どもがはいって、その金のウシを引き出そうとしたがどうしても力がおよびませぬ。そこで炊事女のオトタツという娘も坑のなかに入れられて手伝っていますと、ふいに坑口の外でオトタツ、オトタツという呼び声がするので、これは母親の声かと驚いて、坑外へ駆け出る刹那、坑が落ちて、なかの千人の鉱夫が死んだという話であります。
 このオトタツという娘には、盲目(あるいはそうでなかったとも言いますが)の母親がありましたが、非常な母思いの娘でありましたから、鉱山の炊事場の流し下に落ちた飯を拾って帰っては母親を養っておったとも言います。前話と同じように、ここでもこの娘一人だけが助かっているのであります。この金山の墜坑譚には明らかな年代も記録にあり、なおまたその後日譚もあり墜坑惨死の鉱夫どもの追善供養のために建てたという寺までもありますが、いずれもうそっこで、あとで物識りどもの付会したマガゴトだということがなんぴとにも明瞭とわかりすぎますから、私はここにはそんな蛇足は付け加えませぬ。余談ですがこの後日付会譚ほどわれわれにやっかいな困るしろものはありませぬ。よしてくれるといいのにといつも思いますが、村の人たちは、あるいは村の物識りたちは人皇何十代の何の年のと月日由来を付けたがります。そんなヤマカシに惑わされたら、それこそ私らの最後でございます。
 もうひとつだけ例を話して話をつぎに移します。陸中国江刺郡米里村字古歌葉こがよう、この辺にはいまも所々に金山がありますが、昔やはり黄金のウシの形をした親金に掘り当て、坑中で祝いの大酒宴をしていると、坑が落ちてなかの千人が死んだと言い、そこにも一人のオソトキという男がいて、前話などと同様な趣向から、その者だけが生命拾いをしているということになっております。このほかにも所々に(4)じつに金坑のあり、またかつてあったといわれる所には同様の口碑のない所がないといってもよいくらいにふだんにある話でございます。同じ話をいちいち列挙するのもくだくだしいから、地名だけを註記のほうに記しておくことにいたします。

(1)盛岡地方にもこの口碑があるとみえて、同地の金山踊りの唄に左のようなものがあります。「金のウシベココの錦の手綱おらも曳きたい、ハアカラメテカラメテ、シッカリカラメテ、掘った手綱はうっかり放すな」というのや、また本話の小松長者の黄金のウシを曳くときに歌わせたのは、「金のウシこに錦の手綱、おらも曳きたい曳かせたい」といったと言います。
(2)ウソトキ、オソトキについては、これもあとで誰かの解釈でしょうが、この男はあまり正直者で、御飯をきちんと正確な時間にしか出さなかったので、鉱夫どもは逆に偽時だといって諷したとも言い、またこの男は時を知らす役目であったが、あまり正確に時間を守るのでみんなからそう逆諷されたとも言います。これはどこの金山の口碑でもこの助かり役の者をオソトキ、ウソトキということであることに注意を願います。ほかには女をもそう呼んでおります。すなわち陸前国気仙郡竹駒村玉山金山の炊事役は女でウソトキといったとなっております。また同郡唐丹とうに村、今手いまで山金鉱での口碑には三郎となっておりまして、やはり炊事係でありますが、これにはこの男が流し下に溜まる飯粒を克明に拾い集めておき、毎日それをカラスにやったと言い、墜坑のとき呼び出したのはたぶんそのカラスであったろうというような情合い談もあります。同所の山谷の間に三郎墓さぶはかといって、この男の墓まで残っております。その他は青森県でも秋田県でも同様ウソトキで通っております。
(3)女であったというところは本文のほかに、前註の気仙郡玉山金山のウソトキなどでありますが、こちらは同郡広田村の及川与惣治氏の報告ですとオソイトという名まえになっております。また本文の上郷村左比内のオトタツ女なども、同郡釜石方面では男となってよそと同様にウソトキといわれているように、じつに区々であります。
(4)この口碑のある金山およびその跡について私の手帳に控えた一端を申しますと、
陸前国気仙郡竹駒村、玉山金山、ウソイト、ウソトキ  同郡唐丹村今手山金山、三郎  陸中国和賀郡田瀬村、黄金こがね沢、ウソトキ  稗貫郡湯本村字日影坂万人沢、ウソトキ  江刺郡米里村字古歌葉、千人沢、ウソトキ  上閉伊郡上郷村字左比内、千人沢、オトタツ  同郡同村仙人峠の長者洞、ウソトキ  同郡土淵村字恩徳金山、ウソトキ  同郡栗橋村字青木金山、オソトキ  同郡甲子村字大橋日影沢(?)ウソトキ  同郡小友村日石金山跡、オソトキ  紫波郡佐比内村銅ヶ沢金山、ウソトキ(?)  同郡彦部星山赤坂金山、ウソトキ(?)  陸奥岩木山麓百人沢、ウソトキ  羽後国鉱山地方某所、ウソトキ
など親金が黄金のウシであることは、いずれも同様であります。


 私は前述のように黄金きんウシベココの口碑というのが、いかなものかということについてはほぼ言い尽くしたように思います。それで金鉱の親金がウシの形態をしていたこともそれを引っ張り出そうとして千人あるいは七十五人、百人万人と多くの生命が滅びたということも、そのときたった一人のウソトキという者が、他から呼び出されて、すなわち他動的に生命拾いをしたということも、読者のかたがたにはたいがい肯かれましたことと思います。
 そのついでにもう一歩を進めてくだすって、私が前述しておいた疑問すなわち、どうして黄金とウシとがくっついたかということ、それからその墜死した人数の観念のうちの七十五人と決めたのがどういうわけであるかということ、もちろん百人、千人、万人とは単に多数という観念の表象語でありましょうけれども、ここに七十五人と言いきったことは合点がゆきませぬ。この七十五人口がかなり多くありまして、私は聴くたびごとにいちいち奇態に考えたことであります。つぎにはこのウソトキでありますが、これは他にいかなる名まえがあるにあっても、どうしてもその基本はやはりこのウソトキであったらしく思われます。
 さてこう並べてみますと、キンノベココ、七十五人、ウソトキとこう三つの疑問となりますが、これはなにも金のウシでなくとも、ウマでもニワトリでもないしは玉でも茶釜でもよかったはず、またその他も同様でありましょう。しかしこれも今日流行の語原などというものがわかれば、あんがい易々なものかもしれませぬ。だが私の欲を申しますと、どうもそればかりをたよりにすることも、真に不安心なように思われます。でありますからこれはこのまま、生のままでみなさまの御垂教を仰ぎたいと思います。
 それから、話は前後してあいすみませぬが、かつて私が上郷村にこの口碑を収集に出かけましたとき、同地の老人がいうことには、おれが先年釜石から帰村するとき、仙人峠で、秋田の人だという人と道連れになって、はしなくもなにゆえにこの山を仙人山というかという話が、おたがいの間に問題になりましたが、おれはじつはこの山のある沢に長者洞という古い金山の跡があり、そこで金のウシを掘り出そうとして千人の鉱夫が坑が落ちて死んだのから、この山の名も起こったという老人たちの話を言い、それに付け加えてどうしてもいわなければならないウソトキのことまで話すと、秋田人は色をなしていうことには、それはうそだ。その金のウシと言い、千人死んだことと言い、そのオソトキの話と言い、それらはみんなおらが国の金山の話だ。この辺にそんな話はあるものかといったということでありました。
 この話はじつにおもしろい話でありまして、ぜんぜん同様の口碑がこのように所々方々にあり、しかもいずれもみなことごとくおらが所の話だとされて、主張され語られかつ保存されているのであります。こういうところが口碑伝説の本性でありますし、また同時に、ある所にあったとされて物語られる昔話や童話との分岐点でもあります。
 しかしこんなことは先刻みなさまが百も七十五も御承知のことでございます。そのみなさまの知識を目あてに、私はこれらの不明や疑問を述べ、その蒙を啓いていただかしてくだされたいと希う次第であります。


飛んだ神の話





 神たちはおおよそ飛んで歩くものとみえて、西洋の神々の背にははねが生えていたり、東洋の神たちはへんな図案的な雲に乗っている。いずれも飛ぶということの象徴である。しかしここにいおうとするのは、そんな神話や古典などの※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)し絵にあるような神ではなく、現在われわれの間に秘信されている煤ぼけた木像やなにかが飛んだり、または歩いたりした話である。ただ困ることにはこんな類の話が非常に多いのだから、ここにはごくその範囲を狭くして、そんな類話のなかからとくに火事のときに避難して飛んだという神さまのことのみをいおうと思う。
 それについて、第一に言いたいことは、奥州地方に行なわれている秘事念仏宗の最大至尊仏である黒仏くろぼとけさま(1)であるが、この仏は従来地方の民間に偉大な感化と厳格なところの信条とを与えているかたわら、ときどき、ごく優しい童形になって現われてみたり、また御自分のお気に召さぬとかなたこなたに飛び移られたりなどしている。この秘事念仏が奥州にはいってきた時代は、中央部の総本家、渋谷地家の大先生の話だと、いまからちょうど百五十年前のことだという。今年は御先祖さまの菩提かたがた百五十年祭でもやろうかとのことであったから、年表を繰ってみると、安永元年か二年あたりのことらしい。この渋谷地家の御本尊はごく小さな、といっても六、七寸くらいの腰細跪坐の真っ黒なお姿である。この宗門がいったん邪法として、法度禁制されて、宝暦十年五月二十五日、智識御脇(2)の徒輩が仙台の町外れの七木田の処刑場で磔刑にされるとき、故郷水沢横町の山崎杢左衛門という伊達主水の家中小姓組の家の奥座敷に、一族信徒がひそかに寄り集まって雨戸を締めきり、隠れて御本尊の前に蝋燭をともしながら、みなみな拝んでいた。すると、夕方ごろその蝋燭の火がぱっと消えたので、あわやただいま御主人らが御処刑にあい成ったかとみな泣き沈んだが、やがて点火してみると、御本尊の脇下から胸にかけてさっと血潮が飛びかかっていた。真にその時刻こそ杢左衛門らが突き殺されたのであったというが、この人は御脇であったということである。ただこれでは本すじの飛んだほうの話にはならぬが、この宗派の別派に紫波派とも八重畑派とも称するものがある。これは渋谷家よりもなおずっと後年に、総本家京都柳馬場の鍵屋からの直伝だというもので、いまは紫波郡八重畑村佐藤某という家に属しているものだともいうている。この派の御本尊であるか、とにかく紫波派のほうの黒仏は火事のときに、仏壇から飛んで、家の門前の池にゆき、ハスの葉にくるまっていたので、後にはハス葉の黒仏さまと呼ばれたということである。しかし、ここでとくに私は断わっておくが、この宗派はなにかとこんな些細なことにもやかましいから、どこの御本尊だともいわれない。また私のいまのところでは、飛んだことそれが問題なのだから、他にわたったことにはかかわりたくない。これも民間からの聞書きだから、たしかな年代などはよくわからぬが、こっちも法度にふれて、主脳者らは捕われた。しかしよく検糺してみると邪法とは申せ、浄土真宗とあまりの相違もないので、本尊は取り上げて表派の盛岡北山の本誓寺に移し、智識をばおおいに減刑してそこの寺男とした。だが人情はふしぎなもので、正統の住職よりもこの寺男(3)のほうが民間信徒の崇拝の的となって、ますます帰依者をぞくぞくと出した。この男は本誓寺で亡くなったが、今日でもその墓前には線香の煙が日夜絶えぬというが、ただしこれは余談である。さてそれから、その移された黒仏はどうなったかというに、いまでもりっぱにあって有名であるが、この寺にきてからも、火事のときには、門前のハス池まで飛んで、ハス葉にくるまっていなされた。


 これからいよいよ話の本すじに取りかかるが、この火事のさいに飛んだ神の本場はじつはかのオシラサマ(4)であって、奥州では磐城岩代から陸奥津軽の果てにいたるまで真に無数の例をわれわれに示している。もしこれを数字にとったなら百のうち九十余まではそうだということができるだろう。しかしこのほうの研究調査はネフスキイ氏と共同でやっていることゆえここにはその材料を使うのを遠慮して、左にそれと抵触せぬように思う部類のみを二、三例話そう。
 私はこれもじつは秘事念仏の黒仏ではないかと思い、それがなにかの関係で本家を離れて御堂住居になられたであろうと想像するものに、陸奥国三戸郡五戸町の観音堂の御本尊で、黒地蔵(5)と申す丈七、八寸くらいの胸部で合掌し細腰跪坐のお像がある。いまから三十年ばかりも前のことであろうが、なにかのわけでこの観音堂が焼けたとき、この黒地蔵がどこへか飛んでいって姿を隠してしまって、久しく行くえ不明のままであったが、あるとき同町新町の福村某という者が夢枕に立たれて、自分はいま御堂の後ろの竹林のなかに飛んできているのだがあまりに寂しいから元の所に還りたいとのお告げであった。某は翌朝早々に起きてじつは半信半疑の態でその竹林にいってみると、ほんとうにそこにござった。それからは町内の念仏婆さま連中が十五、六人で毎晩鉦をたたいて歩き回って、喜捨を集めその金でいまの御堂を再建し、御本尊さまを守り申したという。これは同町の菊池源吾氏からの報告である。この話で思い出されるのは陸中江刺郡米里村字坂本の山ノ上の観音堂の本尊などの由来で、元この本尊は同村元桂もとかつらという所にあった大カツラの木を伐って、仏像三体を作り諸所の山上に安置したのが、そのうち同村大森山の観音は山火事にあったとき避難していまいるところの同郡玉里村大森に飛んでいったものだという。そこにはりっぱな観音堂があるが、これらの木像のかっこう寸尺はついに聞き洩らしてしまった。
 御神体はまったく違うが、これに似た話がほうぼうの権現さまにもある。元来このゴンゲンサマというのは元蛇体の変化物へんげで、形態はすこぶる似ているけれどもオカグラサマすなわちオシシとはぜんぜん相違している。権現さまは頭にはウマのたてがみなどをむすびつけているが、オシシにはこれは神であるからそんな野蛮な真似はせずことごとく紙を裁ち切って下げている。そこが違う。元オシシはじつは山男であったが、人間に炭焼き方法を教えた恩顧でかような神となったのである(6)という民伝がある。その考証はいずれにしても、とにかく私らの考えでは大ざっぱにこれをいっしょにして、暫時神さまと観ておこう。なぜならオシシが神ならこれと寸分違わぬ行為動作をゴンゲンサマも行なっているからで、なにも頭の毛の本物や紙製が文句をいわれぬからである。元来この頭ばかりの神が子どもらの頭を齧る(7)ほかに能事あることをあまり聞かぬが、ふしぎにも耳取り喧嘩(8)と火消し仕事(9)はなされている。そこでか乾燥はさきの春先にはいずれも太鼓たたいて、火防の舞踏をして村々の家ごとを回っている。しかしながら本職の火防のことも大火なんかでとうていやりきれなくなるとそこを逃げ出す。すなわち飛んでしまうというはなはだもって神さまらしくない無責任な行為をもやっている。陸中遠野郷小友村字高柴の千眼城せんがんじょう山の権現は元外山そとやまという所にいたのであったが、あるときの山火事のときに現在の所に飛んできたのだという。これなども飛んだといえばたいそう神々しくて聞えがよいが本来は逃げてこられたことであろう。また同郷土淵村と栗橋村との境の死助峠の頂上にいる死助権現というのもやはり山火事のときに、頂上から逃げ出して栗橋領分のほうへずっと飛んでいったものだといわれて、いまでは山の麓近くにおられる。なんでもこういうふうな話は、書き出したら実際際限がなかろうからこのほうはこれくらいにしておいて、つぎの話に移りましょう。


 ここまでいうてくると、無形の高等神ならいざ知らず、かかる木像やタケ(10)などまでがそう飛んだのか、またそう飛び歩かなければならなかったか、なおかつ村人がそう信じ、いかにしてそう信じさせられ、信じなければならなかったかという問題に突き当たるが、このほうははなはだ多く飛んだ神のオシラのほうの例をみているうちにすこしの不自然もなく理解がつくと思うから、そんな理窟談はあとでゆっくりさせていただく。ここでは私は単におもしろそうな話を追うてゆくだけのことを能とする。ここで話をずっとはずしてこのたびは神性ではなかろうが、おおかたそれらに近い素質をもっているものの、同じく火事のときに飛んだという話をしよう。陸中国上閉伊郡馬牛村字東禅寺というに、土地の伝説上有名な無尽和尚という人があったといわれている。その人が持った杖が近年まで残ってあったが、寺が焼けるときどこへか飛んでいってしまった。またこの和尚の在世中に、数百人の学徒に飯を焚いて食わせた大釜があったが、やはりそのとき飛び出そうとして大廊下をごろごろ顛倒ころがり回り、大きな音をたてて鳴いたが、あまり重量がありすぎたのでこのほうはついに飛べなかったとていまにある。一つの釜は盛岡へ連れてゆかれるときにゆきたくないといって大喚ぎをたてながら、村の字大洞という所の淵に滑りこんでしまった。いまでもその淵に沈んでいるという。これは前のと夫婦淵であったのである。こういう釜のついでにもう一つ(11)……
 それは陸中江刺郡黒石村の古刹正法寺という寺に起こった話である。この寺の開祖は無底和尚というて前記東禅寺の無尽とは兄弟弟子であったという。余談だらけで気咎めがされてならぬが、すこしその話をすると、下野国河内郡今泉の興福寺の開祖真空妙応禅師という偉い和尚に、無尽、無底、無意という三人の高弟があった。ある日師匠は無尽、無底の両人を呼び寄せて、手に持てる白旗を東方に向かって投げ飛ばしては、無尽に、かの旗の行くえを捜し求めて弘法せよと言い、また同じく黒石を空に投げて、無底にはその石を尋ねて落ちある所に一寺を建立して、諸民を教化せよといわれた。すなわち前者は閉伊郡綾織村字砂子浜いさござわという所まで尋ねてくると、そこの村人は多勢寄り集まって何事か大騒ぎをしている。無尽近寄って聞き糺すと、数日前から村の東北にある枝垂しだれグリの大木にどこからとなく白竜飛びきたりて巻き付き、はためきわたり、その勢い凄じくて近寄るべくもあらず、なんとかしようといまその退治方法を講じているところだと口々にいう。無尽はそこの地勢ようすなどをとくと聞いてどうやら思い寄るふしがありゆきてみるに、それは自分の尋ね求めている白旗であったので、それを納めてそこに寺を開いたという(12)。それから無底のほうは、やはりその黒石を尋ねて諸国を回っているうちに、前記の江刺郡の[#「江刺郡の」は底本では「江剌郡の」]山内という所までくるとその石があった。よってそこに寺を建立したのがこれからいおうとする正法寺であって、なおつぶさに詳しくいうと、大梅桔華山円通正法寺(13)というおそろしい長い名まえの寺である。
 さて昔あるとき、一人の馬喰ばくろうが、この寺に、一個の茶釜を持ってきて、おれは先日町へゆくとある古道具屋の店前にこんな茶釜があったから求めたが、あまりかっこうがよいので、これを和尚さまに差し上げたいという。それは真に近ごろ奇特なことだと、寺ではもらい受けておいた。和尚は小僧に言いつけてその茶釜を磨かせると、茶釜は小僧痛いぞ、小僧痛いぞという、それから火にかけると、熱い熱いといっておおきに荒れ出すという騒ぎである。そればかりか夜になると小僧どもの寝室へいって悪戯をしてならぬので、寺では困って後には金綱を作って庫裡の杜につないでおいた。これは当方で名高き正法寺の文福茶釜(14)であるが、いまはその茶釜には大事の蓋がない。その蓋のなくなった由来こそこの話の大事な個所であるから忍耐して聞いてもらいたい。
 昔陸前国気仙郡、今の猪川村に稲子沢長者という長者があった。数多の下女下男があるなかに、稲子沢の寝手間取りとて、年中ごろごろ寝てばかりいて食っている手合いも多かった。そのなかに某という若者があったが、いまを血気盛りの若者がそうして毎日寝てばかりいるのもつらいことだろうとて、主人はあるときそれを呼んでアワ種五合を預け、これをおまえに与えるからかの山畑にいって蒔き耕せ、この仕事ならそう難儀でもなく、かえって気晴らしにもなることであろう。一年いっぱいその五合蒔きの畑を操業そうごするのがおまえの役目だという。若者はそんならといって畑にいったが、すぐ還ってくる。蒔いたかと聞くと蒔いてきたという。それからやがて畑の雑草を取らねばならぬ季節になったので、主人はまたアワの草は一本立ちに取らねばならぬものだからそうしろと教えて若者を畑に出すと、いったかと思うとすぐに戻ってきて、雑草は綺麗に取ってきたという。肥料もなにもかもそのとおりであったが、じつはこの若者は主人からもらったアワ種をば畑いったいに蒔かずに一つ所におろしてき、雑草を取るにも一つ所のアワ苗をみな抜き取ってしまって、たった一本だけ残しておく。肥料をやるにもその他の仕事も畑一枚分をことごとくその一本のアワに手当をしたから、秋になるとそのアワが大きくなったが、奇妙奇態なアワの大木となってしまった。収穫の秋となって、そんなことをいっこう知らぬ主人は、以前の畑もすでに刈らねばならぬだろう、今日は幸い天気も上々だから、おまえもアワ刈りをしたらどうだろうというと、若者はおれもそう思っていたところだが、なにしろおれの畑のアワはなみたいていでは刈られない。これから出て樵夫の五、六人も頼んでこようというので、主人は不審に思ってそのわけを聞くと、そのアワの大木のことをいう。それではというので樵夫の七人も頼んでやるということになったがその長者の小檀那は、これは珍しいことだと非常におもしろがって、畑にいってみるといかにもアワの大木がいちばん上の梢端には雲を引き懸けらせて突っ立っている。それほどの大木だから樵夫どももほんとうになみたいていではなく、幹の周囲をあっちにゆきこっちに回ったりして、斧でもって一日がかりでやっと伐り倒したが、そのとき稍離れて[#「稍離れて」は底本では「梢離れて」]見物していたかの小檀那が、木の倒れる端風で吹き飛ばされて野越え山越え、ついに遠く江刺の郡に[#「江刺の郡に」は底本では「江剌の郡に」]飛んできて正法寺の屋根の上に吹きつけられた。おりしもお寺の本堂ではいくたの小僧どもがお経の稽古最中のところであったが、なんだか屋根にへんな鳥が飛びついたと思って、ぞろぞろ出てみるとそれは鳥ではなくて人間であったのでおおいに驚いた。それから小僧どもは大騒ぎをして梯子を持ってきて伸べてみたがいずれも短くて屋根に届くものがなかった。そこでやむをえずうちから一枚の四幅風呂敷を持ち出して、その四隅を小坊主が四人して持ちひろげていて、その人はやくこれに落ちてこいと上に向かって呼ばわると、小檀那がごろごろと屋根の頂上からころんで風呂敷の上にドシンと落ちこんだ。その拍子に風呂敷がたわんで四人の小坊主の頭がコチンと鉢合せになるとそこから火が出て、軒下に飛びついてお寺は火事となった。そのときかの文福茶釜が逃げ出そうとあせったが、金綱でかたく繋がれているので自由ができず、蓋ばかりどこかへ飛んだということである(15)。これでひとまずこの飛んだ話はやめにする。

(1)秘事念仏の黒仏は日本に八体あるという俗説である。すなわち総本家京都鍵屋に一体、それから叡山に一体豆腐買いの本尊というのがあるという。奥州には白河大綱の総本家、陸中胆沢郡佐倉川村渋谷地家盛岡北山本誓寺とこれだけはわかっているがあとはわからぬという。渋谷家現代の話だと上幅派八重畑派などにはこれがないから正統とはいわれぬというが、ただ胆沢郡小山村字大畑鈴木十郎兵衛の家には本話中の山崎杢左衛門が磔刑に架かったときに血潮が飛びかかった身代りの本尊というのがあるという。これは元の渋谷地家にあったのだがいまは別になっている。本話中のすじは少々違っている。だがこれらは一般に秘事念仏に関することが、くだくだしいから略す。以上の話は物の本によったものではなくもっぱら民間口碑にもとづいたことであるから、事実の保証はまったく別とする。
(2)智識御脇というのは、この宗門の導師教師であってまったくの民家俗人である。しかしてまことにやかましく一師相続の伝統で、両者ともいわゆる秘事お取上げの法式を司る。この宗門の事がらを詳細記したる書物に『御袖下』『法要草』『菊蕘閑話』『異安心史』等というがありと聞けど、私はいまだ見たことがない。
(3)この寺男となったというは、木下良安という者か(加藤咄堂氏著『日本風俗誌』上巻四九五ページまで参照)。しかしこれは当の本誓寺の墓にでもいってみたらすぐわかることと思うが、私はいまだいってみないからなんともいわれない。
(4)一例をいうと、気仙郡広田唐丹とうに方の村々が先年山火事が延長して全村三、四百戸焼失したときに、同村の裏の竹林に村中にある多くのオシラたちが避難して飛んできていたという。また一個だけの例だと、上閉伊郡甲子村大字大橋の半四郎という家のオシラは、この家の火事のとき、仙人峠を越えて同郡上郷村字沓掛の観音堂の別当の家まで飛んできていたが、後にそれとわかって連れて帰ったという。
(5)この分は奥州の例ではないが、書物に現われていることだから一ついうと、紀州有田郡杉野原の野中に大師山というて昔大きな堂があった。そしてその堂のなかに黒仏という真っ黒な仏像があったが、あるときこの堂の火事のとき、その黒仏が飛んで、同じ野中の川向いである立石という家の屋根の上をオーイ、オーイと呼びながら室川というほうへ飛んでいったという。この話は森口清一君からの手紙で知った。
(6)このことは福島県会津だという、御神楽師の宮沢という老人から大正十年五月二十四日拙宅で聞いた話である。
(7)(8)(9)これらはいずれもゴンゲンサマに関係した話だからいっしょにしていう。自分の村ではこの神に頭や肩などを噛んでもらうとその部分の病気をせぬとて、よく子どもらの額や頭巾などを噛んでもらう、その他の部分の悪いときにも同様である。また耳取り喧嘩というのは、この神が村回りをしているときに偶然二頭が出くわすと喧嘩を始めてそんなことを仕出かすと称される。上閉伊郡松崎村八幡社のゴンゲンと、同郡土淵村字五日市文珠社のゴンゲンとが途中で出くわして喧嘩をして、八幡のほうが片耳を食い取られ、文珠のは舌を取られたとていまでも修繕せんでいる。火防話では同郡宮守村字塚沢の多田某という家のゴンゲンサマはこの家が失火したときに真っ赤になって座敷中を飛び回り火を食っておったと言い、また先年の山形県米沢市の大火のときにも焼け跡の真ん中にふしぎにもたった一軒焼けずに立った家があったが、この家にはオシシ頭があったという。これも前記宮沢という老人の話。しかしこんな話ならこの神にはよけいにありすぎる。
10)タケ切れで作ったオシラサマは旧仙台領に多くある。
11)この話はおもに土地の口碑と、それから東奥古伝という本で見た。この本は写本だがなかなかおもしろい話ばかりを集めている。
12)『遠野古事記』という写本の第三巻、社寺縁起の巻にでもある話だろう。自分は古老から聞いた。
13)この正法寺の伝説は非常に多く優に一冊の書物になろう。この分も民間伝承であるが、しかしこの寺から出ている正法寺誌はまったく別条のことが書かれてある。けれども私はこういう場合、たとい実録には合わずとも、正直な民間伝承のほうを採用する。
14)奥州の文福茶釜は、江戸近くのものとは違って綱渡りなどの芸当はできなかったが、ばか正直に小僧たちなどの悪戯をしたから金綱で縛られた。こういう稚気満々なところを買ってください。
15)この話は、江刺郡米里村の浅倉利蔵という人の話である。このほか本誌中にある江刺郡に関係したことはすべてこの人から聞いたものだ。


磐司磐三郎の話





 山々の主、山々嶽々の支配者で、土地によってはあるいは神とまでなっている磐司ばんじ磐三郎の話(1)は、先年柳田國男先生の著『神を助けた話』にその詳細が尽くされている。自分はその書物のうちに、……今日まで文字ある人の耳にはいらなかったために、忘れ誤り消え砕けた口碑というものが、いくらあるかわからないというような条を読むにおよんで、いかにもそのとおりたまたま残っていた村々の語部の故老が亡くなるといっしょに、ほとんどいままでどれほどの貴重な口碑伝承が数多く墓場に埋められたかということを思ったのである。しかしいまのうちなら、その残り少なのなかからなおさらにわずかに稀薄に残されてあるだろうものを(かくいう言回しをすることがちょっと気とがめしますが便利であるから)秋の田面の落ち穂拾いのように、自分たちはそれを克明に拾い集め、あるいはまた昔の金掘りがしたごとく目当てとてもない山谷の金の脈を探り求めて、一梃の鍬で所々方々の土を掘り回ったりしたような心がけで、それらのものを捜しえようというような心持が起こるのを強く感じさせられる。自分は貧しい百姓を営みながらじつにそういう心持で、いまはすでに消滅した穀物の種子でも求めるように、奥州の山嶽地方に残っているそういう類の話をえたなかから、諸君が「神を助けた話」のうちでは見なかった別種のこの話をしようと思う。
 近ごろ自分が閉伊郡花輪村という所で発見した狩猟の巻物、山神狩人秘法大事という写本にも、磐司磐三郎の発生地を下野国日光山のその麓としてあるけれども、奥羽地方になると陸前名取郡の磐司磐三郎山(2)をはじめ、羽前の山ノ寺縁起(3)など、その他にも諸所に万治、磐治などの住居した所が散在している。かくのごとくこの口碑の分布が諸国にかなり広い範囲にわたっており、かならずしも日光山の麓やその他ばかりが話の根原ではないかもしれぬ。ただしそんな議論めいたことは別として、自分はただちにこの話の本旨に還って、そのおもしろそうなところをぽつぽつ話してみたいと思うのである。

(1)(2)(3)柳田先生の『神を助けた話』の七、磐司磐三郎の一節には諸国諸国のその名の山神あるいは山嶽の記事が充満している。しかしていずれも神かしからざればついには神にまつられた山人のいわれがそれと付随している。しかし私の話ではどこまでも素の山人あるいは狩人としての万治、磐治の話である。そこのところにご注意して読んでいただきたい。


 陸中国閉伊郡附馬牛つきもうし村字生出おいでという山里に万治と磐司という二人の狩人があった。万治は名人で日に幾十とないえものをとりなかなか羽振りもきく男であったが、磐司のほうはどうも仕事が下手で終日山を歩いても一匹のシカさえ捕らぬことがときどきであった。ところがある日万治が狩り山へゆくと、途中に美しい女が産をして血だらけになって苦しんでいる。万治がそこに通りかかると女から助けを乞われたが、狩猟には死日しにびよりも産日さんびの穢れを忌むのであるからすべなくその言葉を断わってそのまま山へいった。そのあとから磐司がそこに通りかかると、やはり女から救いを求められたので、なんのいやな顔もせずなにくれとなく親切に女を世話介抱して首尾よく子を産ませた、産んだ子らは十二人であった、女人はいたく喜んで汝にこれから山幸やまさちを授けてやろうと言い、磐司とおまえの名まえを称えたら、それは山幸の手形であるぞといわれた。それから磐司には日々つづいて大きな山幸がある。それを磐司が記念清浄にするために、月の十二日を休んで女人に対する謝礼の祝日とした(1)。後世では狩人はそれを年に一度十二月の十二日だけを祭日にするようになり、またそれが後世に移って十二月十二日にはいっさい山入りできぬ日、この日に山へいったら禍いがあるというような狩人ばかりではなく農家一般の山に対する忌日のような形になった(2)。すなわち祭日を兼ねた忌日である。
 その女人は山の神さんであったのである。だから山にいって磐司磐司磐司と三遍唱えれば山幸があり、他人の術を呪うと思わば万治万治と唱えたらその人の鉄砲がいっこう当たらぬということである。万治は山の神さんに詛われてそれからいっこう山幸がなかったという由来にもとづいたことである。
 この話は北上山脈のなかの第一の高山早池峰はやちね山に付随した口碑である。生出という所はその山の麓の部落である。この山にはこのほかに種々多くの口碑伝説などがあるので一方有名であるが、単に山の主というものの話だけでもひどく美しく齢若い女性の神であると言い(3)、また大入道であったと言い(4)、矮人の老翁だと言い(5)、老婆だとも言い(6)、それからこれから自分が話そうと思う二面独眼一本脚の二面大黒という怪物だというように言い伝えられている。この二面大黒の話には磐司が主要のすじとなっているから、自分はここへことさらに引き出した。
 前の磐治、あるとき山にゆき小舎掛けして泊まっていると、夜々一本脚二面独眼の怪物がやってきて小舎をのぞきみる。一夜二夜はなんとも得体がわからぬままそのままにしておいたが、三夜めにはいよいよそれが怪物とわかったので、打ち殺そうと用意をする。そうして待ち構えていると、案に違わずその夜もやってきた。けれどもその夜にかぎりてその怪物はすかすかと磐治が小舎にはいってきて、じつは己は汝を見こんでぜひ頼みがあって、いままで毎夜ここに通うたが、今夜は思いきって打ち明ける。それはこの山に三面独眼一本脚のぬしがいてどうも己の思うようにならぬ。そればかりかながい間夜々己を追い回し、殺そうとするのでまったく生きた空もない、己はこの山の主になりたいのだが、彼がいるうちはどうもその望みが遂げられぬ、だからどうか明夜彼を撃ってくれ、頼むというのである。いかにもその翌夜になると、ほんとうに山谷が崩潰するような音響をたてて荒れてくる。何事が起こるだろうと思っていると、昨夜の二面独眼の怪物がやにわに磐治が小舎に跳りこんだ、そのあとから三面独眼一本脚の巨大な怪物が追いかけてくる。それを磐治はただの一打ちにと打ち殺した。二面の怪物は喜ぶことかぎりなくその礼にとて、この山奥にバンジが洞という所あり、そこが総体にキリの林であるからそれを汝にやろうという。磐治はそのキリの樹を伐り、また用いるに尽きるということがなかった(7)。磐治死後、猿ヶ石川にキリの花が流れてくることがあったが、何者もそのバンジが洞を尋ね当てた者がいまだにないという。これは猿ヶ石川流域の里に残っている口碑(8)である。

(1)この口碑は閉伊郡金沢村地方に残っているので、同村出身の角城栄三という男から筆者が町へゆく途中で聞いた話である。
(2)旧暦十二月十二日には山に関係ある人々は仕事を休んで終日祝事する。山神祝いと称する。この日山にゆくとかならずいいことがないという。またこの日山神は自分の山々の樹木の数を数える日であって、もし人間が山へいっていると人間も樹木の数に入れられるからゆかぬ。樹木の数にまぎれ入れられるともちろんいいことがない、山にゆくと二又の木を捩りてあるのをおうおう見るがそれはこの日に山神が何万何千何百何十何本めという数の覚えにそうしておくのだと里人は信じている。こういう俗信は閉伊、気仙の郷土にある。
(3)早池峰山は姉妹三人の女性の神のいちばん末妹であるとされている。美しいがなかなか意地悪で、そのくせ少々盗癖がある。これは、はじめ遠野郷三山すなわち六角牛山、石神山とこの山とを三人の姉妹に分かつに、附馬牛村神遣かみやりという所にある夜寝、その寝姿の上に天から蓮華が降った者がいちばん秀麗な早池峰山を取ろうというのであったところ、いちばん末妹が夜半まで眠らず仮睡していて長姉の上に降った花を盗んで胸の上に置いたのだという。ゆえにこの山の祭日などには路傍などの家々ではナシ、リンゴその他娘、嫁の類まで盗難にあってならなかった。東磐井郡、胆沢郡地方にもその信仰あり、泥坊の神といわれてそれらの徒のひそかに信仰するものだというが、また私の『江刺郡昔話』のうちには同郡梁川村でえた資料でこれとは別種の口碑もある。しかしいちばん末妹であり美しい若いきかぬ気の女神であったということには変りない。
 また岩手紫波地方に行なわれている口碑ではこの山は男神だとされている。往古、岩手山(男神)と姫神山(岩手郡)は夫婦であったのに早池峰山が姫神山に横恋慕して、あるとき女神を欺いてわがものにした。だからいまにいたるまでこの二山がひどく仲が悪い。すなわち岩手山とこの山と同時にけっして晴れたことがない。早池峰山と姫神山が晴れると岩手山が怒って曇り、岩手山と姫神山が晴れると早池峰山が曇るといわれている。また一説にはこの山と岩手山とが一人の姫神山の掠奪戦で毎日毎日おおいに戦ったことがある。ために天地震動していつやむともみえなかったので、神々は痛く心配して二山の間に大きな川流を投げ入れた。しかして二山の戦争を分けてしまった。その河川はいまの北上川であるという。これも岩手紫波郡地方で生まれた地理的伝説である。
 また一説には、岩手山に対する早池峰山は妾、姫神山は本妻である。ゆえに早池峰山をかけてから岩手山をかけるのがよろしいが、同時に姫神山をかけると難にあう。また姫神山のほうにても同断であるというなど。
 またこれは私近ごろ聞いた話であるが、稗貫郡地方における早池峰山発創口碑として、昔天から(あるいはどこからか)三人の神の娘どもきて、同郡八重畠村字呼石という所に日暮れてゆき泊まった。そして明朝もっとも早く目覚めた者はかの秀麗な早池峰山に飛びいってその主神ぬしがみになろうと約束しておいて眠りについた。ところがいちばん末の妹娘がずるくて宵のうちからちっとも眠らずにいて夜半ニワトリが歌うといち早く早池峰山に飛んでいってしまった。つぎに目を覚ましたのは中の娘であったが、見ると妹がすでに飛んでおらぬのに一驚してこれもせかせかと同郡湯本村の麓山権現に飛んでいってそこの神となった。しかしてもっとも遅く目が覚めた大姉が見ると二人の妹たちがそこにおらぬので、妹らよ妹らよと声のかぎり呼んでみたがすこしも返辞がなかった。ただその声が石に反響して自分に返ってきた。それからその土地をいまの呼石と称することになった。そういうようなことで大姉がいくら呼んでみても妹たちがおらぬから、あきらめてその付近の大森山と小森山を重ねて早池峰山よりも高くしてそこに住もうと思って山々を重ねに取りかかったけれども、そのうちに夜が明けるのでそれもできずしかたなく同村の胡四王山に飛んだ。そのときいままで持ち歩いたお鉢箱を抱いて飛んだが、その箱があまりに重かったので途中の老松の木の上にしばし憩いようと飛び降りると思わずその重みに堪えかねて箱を下の田に落とし沈めてしまった。いまでもその田をお鉢田というて神聖な所としてあり、そこから穫れた稲穂の米は胡四王神に初献上するのが例で昔から肥料はせぬという。とにかくそうしてその大姉は同所胡四王山の神となった。しかしてこの神社は普通の神社と異なって北向きなのであるが、それはその山から北向きの方向にある早池峰山を見ようとし、またかの呼石の地が恋しく恨めしくてそうなっているのだという(大正十四年十月二日、同村伊藤イナという人から聞いた話)。
(4)大同年間、あるいはその二年などと言い伝う。遠野郷いまの上郷村字来内らいない斯角東蔵しかくとうぞうという狩人があって、この山を切り開きはじめて峰頂を究めた。この人あるときカラノボウというこの山の中腹に野宿していて、夜食の餅を火にあぶっていると、どこからか巨大白鬚の大入道がやってきて火にあたる。そしてその焼いている餅を一つくれという。斯角もしかたなく一つ取って与えると怪物はさもうまそうに食べ口なめずりなぞしながら引き去る。かくのごときこと連夜であったが、二夜三夜と夜を重ねると斯角もほとんど困りかつ呆れていよいよ最後の夜、餅に似た角石かくいしを多く火に並べて焼きかつ傍らに油を入れた樽を置き酒を装うているところに例の怪物がきてその石を食いまた酒だと思って樽入りの油をたらふく飲む。焼け石に油をかけたのだからたまらぬ。たちまち苦悶し出してああと叫び口鼻の穴から火焔を吹き吐いて谷川のなかにまろびこむ。そしてたちまちのうちに大洪水を出して猿ヶ石川を流れ下った。そのときの洪水は白鬚の洪水というのである。この白鬚の巨人も、この山の主(東奥古伝)。
(5)往古この山に白鬚が膝の辺までとどくような長さの小人の老翁が住んでいた。ある日この翁戯れに一個の石を足で蹴り蹴り山谷をおりると、その跡から水が流れ出て、いまの猿ヶ石川ができた。そうしてこの翁は綾織村字逃石の里までくると、どうしたのかその石が動かなくなった。そこで老翁は山のほうへ引き還した。しかるにその石一夜のうちにそこから逃げていまの和歌郡丹内村のヤツアナのガコという所まで来て止まった。いまだにその石はそこの深淵のなかにあり、権現頭(シシ頭の類)のような形をしてつねに故郷の早池峰山のほうを睨めているという。その矮人の老翁もこの山の主の一(私の収集)。
(6)(3)の話の怪物を老婆に置き替えただけの話。あとは同じすじの口碑である。
(7)二面の怪物について陸奥国岩木山の卍字錫杖というのがいる。これは卍字と錫杖という二個の鬼のようになっているし、そう思われているけれども、かの土地で聞くとそうでなく、一体で二面一本脚の怪物であったようにいっている。これは『江刺郡昔話』の話者浅倉君がかの山麓の村で聞いたという実例。
(8)右の浅倉君が附馬牛青台という所で聞いてきてくれた話である。


 下閉伊郡小国村の山間に行なわれている口碑に、磐次磐三郎というは伊勢の国の狩人である。そこに奥州きっての狩人マタギの達人斯角東蔵がその技倆競べをしにはるばると伊勢の国までゆく。どこをどうしていったかとにかく東蔵は磐次磐三郎に会うと、彼はいわく汝は奥州の東蔵という者だろう、汝の来意は己はよく知っている、およそ狩人は己が捕って食った山のもろもろの獣類をば元の形態のままにみずから口から吐き出し、また口に吸い入れる技倆がなくてはならぬ、どうだ汝にそれができるかといって、みずからかなたの尾嶺の上に向かって気を吐けば忽然としてシカ、サル、イノシシ、オオカミ、ウサギなどその他もろもろの獣類が現じて一生懸命に走る。それをまた同じく気を吸いこむと磐次が口にそれらの物がひょいひょいとみな飛びこみ平気である。奥州の東蔵もわれ負けじと対手が行なったように向こうの尾嶺に向かってふうと気を吐くと、同じくもろもろの獣類畜類が現われたが、磐次がように再びそれを口中に吸いこむ術が能わぬ。東蔵赤面閉口していると、磐次磐三郎はまたいわく、真の狩人はかくのごときことのみにあらず、なおかくあるべきにとて、さらにまた気を吐けば前の尾嶺に忽然として出現ましませしは南無ありがたや三十三観音、金色燦爛、微妙清音、まんじゅしゃげを雨と降らせたまいてダンスをしたもう。それを見てはさすが慢心の東蔵も降参して磐次磐三郎が家来となり、業を練磨してから故郷の早池峰山に帰ったという(1)。こんな話もある。
 このほかにも磐次という名まえの狩人の情けによって首尾よく安産した不浄の女性、じつは山神さんが、その報謝のしるしに豊かな山幸をその人に与えたという話(2)が他にもあるがあまりながくなるから、まずこのくらいのことにしてこの話の終りとする。

(1)この話は村の狩人菊地栄作という青年が、先年小国村で聞いてきたというもの。また自分も他の小国村の人摺石某から聞いた。
(2)秋田県北秋田郡荒瀬村地方に残っている口碑。少々詳しく述べると、あるとき狩山に八人組と十人組のマタギが山籠りしていた。そこに一人の綺麗な女がきて泊めてくれといったが、八人組のほうでは女という語さえ厳禁しているマタギのことなれば、ならぬと断わった。そこでその女人は十人組のほうの小舎にいって頼んだに、その小舎の頭のマタギがこれはただの女ではないと見て取って心よく泊めた。するとほどなく女は子どもを産んだほどに、その小舎に大事にいたわり育てておいたれば、その女はいつとなく小舎から姿を消してしまった。これは山の神さんであった。それからその組には大猟があったという。これは荒瀬村字中村という山間からきたクマの胆売りの鈴木竹治という青年から聞いたものである。


ひょっとこの話





 奥州の昔話に、竈の火焚き男、あるいは単に竈男かまおとこと呼ばれて、ある訳合いから長者の家に下男となって住みこんだ男が、ついにはその家の愛娘に見染められて、立身出世するというすじの話がある。この話の代表的なものともみるべきものに、奥では糠部ぬかべ(1)の糠部長者の竈の火焚き男、アラミの郷々くにぐにでは江刺えさし郡の花若話(2)などがそれである。いずれも若々しい美男の若者が、話の主人公になっているのが同様である。
 この類の話のうちには、上方山城の国の蟹満寺の縁起話からでも系統を引いてきて、結びをちょいと竈の火焚きにしたような、女性を主人公にした話(3)もあるが、それはごく単純に若衆に娘を置き替えたというくらいにすぎなかろうと思っておったが、よく考えてみると話の系統は両者似ているくらいにまったく別物であることがわかったから、ここでは混合ごっちゃにせぬつもりである。誰か奥州の民譚を調査する人のあるときに、これらを混同してはならぬと思ったからかく蛇足しておく。
 だが両話のあい似ていることは、いずれもいつも妙な老婆(じつは古蝦蟇がまの化けたのだが)が出てきて、陰で魔法を使い周囲の調和や主人公にまつわる運命の糸を操っていることがまったく同様である。とにかくいずれも初めは、いわゆる長者の家の竈の火焚き役であって、それがことさらに手面てづらに竈煤などを塗たぐって真っ黒になり、目ばかり光らせつつ、火ばかり吹いているというように語られる。それぞれ、竈男が一生懸命に火を吹く御面相ってのがいったいどんなもんか、想像してみておいてくだされたい。
 これに関してもうすこし大事な話がある。それは奥の村々の神楽道化の狂言に、畠蒔きというのがあって、これは江戸付近でみるひょっとこ舞の仮面めんをかぶって踊る。それが出てきてヤアハア畠蒔きと歌いつつ腰を振り頭振り、種蒔き唄(4)を声高に歌いながらに種蒔きをするが、あとからカラス、スズメの鳥奴がきてほじくる、それには呆れ果てて独白となる。……やいやい、おれはこうして毎日種蒔きしていても、あとからかの鳥めがきてほじくられてはわからぬ。アワ蒔きも能がない(こういうときは指でハマグリを作って、彼らがほじくる動作をやる)。そうかといって、また日々にちにち毎日竈の火吹き役もハアあきあきだ。これから一つ伊勢参宮にでも上ろうか、ヤアハア伊勢の国、そうして伊勢の国へ上ってしまう。その種蒔き男の名まえは、ちょいちょいと舞い手の臨機応変で変えられることもあるけれども、しかしおおむねこれを権助権助というのが普通である。この権助がそちらの権兵衛ではありませぬか、権兵衛はもちろん百姓男であるから、竈の火焚きくらいはせねばもちろんふしぎなはずである。
 なおこのほかにも、種蒔き男、鳥追いの型の舞(5)があると聞くから、ひょっとこ舞は質朴にこちらに残っているごとくに、その根元は竈の火焚きすなわち竈男で、そうして一方種蒔き舞であり、百姓舞であったと思ってはいかぬか。

(1)糠部郡は、いまの陸奥、陸中の二国に跨がった二戸にのへ三戸さんのへ九戸くのへの郡辺の総称である。昔ここに長者があった。それは二戸の口碑にある蜻蛉長ドンプリ者か、あるいは陸奥三戸町の南部氏をこういったものかもしれぬ。いずれにしてもその近郷のことであったろうが、ある里の秋の祭礼場で、一人の侍が多勢の伴を連れた美しい娘から扇子を一本もらった。その扇には、吹けば飛ぶ吹かずば飛ばぬ奥のさとの千本林を右手めてに見て、ひいろろ川に架けた腐れぬ橋を渡って会いにきてほしいというような文句の歌が書かれてあった。若侍は扇の歌がなんとも合点がゆかずながらも、その娘の気高い美しい姿を忘れかねて旅に出た路で六部に会い、その歌の意解きを頼むと、それはこうだと教えてくれる。すなわち吹けば飛ぶ吹かずば飛ばぬ云々は糠部の郷で、千本林とあるからはタケの林のことであろう。そうしてひいろろ川とは鳶川とびかわで、腐れぬ橋はもちろん石の橋である。そこの館の姫君であるぞいと解きくれた。若侍はやがてそこに訪ねいったが、身分の相違やなにかでどうしても名のりうべき術もないので、その館の門前の老婆に頼み入り、その館の竈の火焚き男に住みこんだ。そうして昼は竈の火を焚き手面目顔を真っ黒に炭を塗って働いても夜になれば湯を浴び髪を上げて自分の室に引き籠もり読書をしているので、いつか館の姫に垣間見られることとなる。そして姫は恋の煩いとなってしまう。型のごとく医者や法者の験もない。ところが門前の老婆じつは古蝦蟇の化けた老婆が、その病気の根が館の下男のうちにあると告げたので、長者は七十五人の下男にいちいち身支度をさせて姫の機嫌を取らすが、一人としてその気に入らぬ。最後に残った竈の火焚き男がみんなの嘲笑のうちから、やがて身ごしらえをして出ると見違えるようなりっぱな美男になる。それが姫の心にかない病気がただちに癒える。こうしたわけでその若侍はこの長者の聟君となって立身出世するというのである。
(2)アラミと陸中の和賀稗貫江刺の郡々の一部地方を遠野郷の人がこう呼ぶ。花若話はつぎの嫁子ネズミの話の後段を参照せられたい。
(3)この昔話は、山城国蟹満寺の縁起と同型であるが、ただ説話としては蟹満寺縁起などよりは、はるかに純朴である。娘を三人もった父親があった。ある日父親が庭前に出ていると一匹のヘビがカエルを呑もうとしている。父親は慈悲深い人であったから憐愍の情に堪えずそのカエルの生命を助けたら娘を一人おまえにやろうというと、ヘビはそのままにカエルを放していずかたへか去った。けれどもそれからは父親の心労は甚だしかった。二人の娘はいたく父親の軽率を非難したが、末の娘は父上心配なさるな、私がヘビの嫁にゆこうという。それから縫い針千本に瓢箪に水銀をいっぱい詰めたものを父親からもらい受けて、翌朝迎えにきたヘビの男に連れられてゆく。山の奥へゆくと古沼があって、ヘビはここはわが棲み家だからこのなかにはいれという。娘は針を水の上に浮かべさせ、この瓢箪を水の底に沈めたらいうことを聞くというと、多数のヘビどもが出てきて針を浮かべようとして目を刺され盲となり、瓢箪の水銀を呑んでみな死んでしまう。そこで娘はその沼のほとりを立ち去ったが山が深く谷はきわまって、どこへいってよいかわからぬ。そのうちに夜となる。すると向こうの谷の底に火の明りが見えるのでそこを目あてにたずねゆくと、ササの伏せ屋のなかに一人の老婆が棲んでいる。わけを話して娘はその小屋に泊めてもらったが、翌朝になると、老婆はおまえはそんな美しい姿をしてゆくと、この下に棲んでいる鬼どもにとって食われてしまうから、この着物を着てゆけと自分のいままで着ていたぼろ衣を脱いで娘に着せ、娘の美しい着物をばササの葉に包んでくれる。娘はそうして谷間を下ってゆくと、まことに鬼どもがいて、あれあそこに人間がきたからとって食おうという。すると一人の鬼はなにあれはこの谷の古蝦蟇の化けた婆だ。小便臭くてとても食われぬと笑う。娘はやっとそこをのがれて下るとこんどは大きな川の岸に出る。橋もなくて渡ることができぬ。よって岸に泣き伏していると、またそこに別の鬼どもがやってきて、おやここに見かけぬ石が出ている。力競べをしようとて、娘を川向こうに投げ越した。娘はやっとそのおかげで里辺に出ることができた。それからあとは、前話と同じように、そこの長者の家の竈の火焚き女として住みこみ、その家の息子に見そめられて長者の嫁子となるという話である(遠野郷昔話)。
(4)種蒔きどきに歌う唄、すなわち畠蒔き唄というのは当方では、ただ、ヤイトヤアラ、サイトヤア……という意味をなさぬような調子である。この唄はながめうるだけながめるのが上手であるという。私たちの子どものじぶんに田尻村の新助ヤラというて、この唄の名人があり、その新助が畠で歌うと村中に通りわたったという、ヤラとはこの唄の調子からきたあだ名である。
(5)能の翁立の三番叟、黒色翁に何々明神とやら申して、狂言師のほうではたいへん、もったいぶっている舞がある。それがヒイヤロ、ヒュイヤロウと鈴を振る形(それがあたかも権兵衛が種蒔く型、そしてときどき後ろを振り返って、ホウと鳥でも追うようなしぐさをやる)カラス飛び(カラスの飛びはねるようなしぐさ)などの口伝などがあるので云々(山本鹿州氏談)。


 ひょっとこの話に関しては、まだまだたいせつな民話がある。それは陸前の登米とめ本吉もとよし気仙けせんの諸郡から、陸中の東磐井ひがしいわい、江刺(以上旧仙台領)、その他これらの地方に近接した地方にわたって行なわれている竈神とて粘土や木刻の円眼船口形の怪奇な面を家々の竈前の柱に掛けておく風習があることである。その掛ける柱をこの地方では竈男かまおとこと言い、その面をばヒョウトク、あるいはショウトクなど呼んでいる。そうしてそれをこうしておくという由来については、こんな話があるからひとつ語りましょう。
 昔々、爺と婆があった。爺は山に柴刈りにいって、大きな穴を一つ見つけた。爺はこんな穴にはきっと悪いものが住むものだ。塞いでしまったほうがよいと思って、一束の柴を穴の口に押しこんだ。そうすると柴は穴の栓にはならずに、するすると穴のなかにはいっていった。また一束押しこんだがそのとおりで、それから、もう一束もう一束と思ううちに、三月みつきがほどかかって刈り溜めた柴をことごとくその穴に入れてしまった。
 そのときに穴のなかから、美しい女が出てきて、たくさんの柴をもらったことの礼を言い、どうか一度穴のなかにきてくれという。爺はこんなときだ、キツネに化かされるのがと[#「化かされるのがと」はママ]思って辞退したが、女がたってよけいに勧めるので、ついはいってみると、なかには目の覚めるようなりっぱなやかたがありその家の脇には、爺が押しこんだ柴がちゃんと積み重ねられてあった。
 それから爺はたんと御馳走になって、帰りしまにこれをやるから連れてゆけといわれたのが、一人の子どもであった。なんともいえぬ見ともない顔の、臍ばかりいじくっている子であった。ぜひくれると、たっていわれるので、爺はしぶしぶ連れ帰って家においた。
 ところがその子どもはしじゅう炉にばかりあたって、腹をあぶりながら、あまり臍ばかりをいじくっているので爺は火箸でちょいとお臍を突いてみると、そこからぶつりと金の小粒がこぼれ落ちた。それからは一日に三度ずつそこから小金が出て爺の家はおかげで富貴となった。
 だが婆は欲張り女であったもので、もっと多くの小金を出したいと思って、爺の留守に子どもの臍を火箸でぐんと突くと、金は出ないで子どもは死んでしまった。爺は戻って、これを知って、ひどく悲しんでいると、夢にその子どもが出てきて、泣くな爺さま、おれの顔に似た面を粘土つちで造って、毎日よく目にかかる竈の柱に掛けておけ、そうすれば家がかならず富み栄えると教えてくれた。この子どもの名まえをばヒョウトクといった。それゆえこの辺の村々では今日までも、醜いヒョウトクの面をば粘土や木で造って竈男という柱に掛けておく。これを竈神とも竈地蔵とも、また名まえそのままヒョウトクとも呼んでいる(1)
 自分は好例をあまた挙げる知識をもたぬが、火を司る者が人類にもっともたいせつな役目であった。その必要欠くべからざるものをわれわれに与うる者に福神という考えをもっていったということも自然なことで、そしてそれがまた欲、穢れ、邪心に染まぬ童子であり、老翁であらねばならぬことも至当な思想であろう。
 右の話なども竈というものから、ながい年月をかかって思いついた(空想、想像した)産物であろうし、そして柳田先生がいわれたように(2)火男ひおとこがヒョットコとなり、そしてその醜い童子が死んで神性なものとなったのではないかという説にも賛成する。
 なお、先生の海南小記のなか(3)には、竈神の起原に関した話として、かの炭焼き長者に縁因あることを明かされている。いずれも火に縁がふかい話ばかりである。

(1)この話は江刺郡米里村字中沢、浅倉某女という老婆の話。なお同郡伊手村にても同様の話を聞いた。
(2)(3)柳田國男著『海南小記』「蘆刈と竈神」というに詳しい。


 竈神の話はこうみてくるといずれも福神の由来談になっている。それはこの世の生活の幸不運に関係なく、死後はおおよそそうなっているかと思われる。福神童の話なら、私の江刺郡昔話のなかにもその二、三の話例がある。ただここに、山と川との違いだけで、同様の趣旨から現われ出た童の話に、紫波郡で福神童ヨケナイと言い、和賀郡の一部地方から江刺郡にかけてウントクあるいはウントコ童(1)という福神話がある。この二話は、いずれも己が村での竈の話となって物語られているが、まったく百姓手伝いの童神話(2)である。こういうような話から例のわざわざの農業手伝神の話が生まれたかもしれぬ。つまりこの童などが前話のヒョウトクと縁があるらしく思われるのには種々の類似がある。なんの話でも非常に醜い顔のものであったというから、今日のヒョットコ面のような面であったであろう。そんなふうなかっこうをして種も蒔き竈の火も吹いたことと思う。
 だが自分は単なる資料収集者であって、学者じゃないから、ヒョットコの起原由来などを詮議考究する知恵を残念ながらもたぬ。ただくだくだしく列挙した話例などにこうした連想をひとりで抱持してみよう。似て非なるものも交じっていようが、ただここにはやたらに話を記して、肩の凝らぬおもしろいものとなっていたらそれで自分は事たりるとせねばならぬ。まじめな考証は識者から聴かしてもらいたい。
 終りに臨んで、事のついでにもうひとつおかしい話を追加しようか、これは友人から聞かしてもらったものであるが、なんとかいう落語家が事偶ことたまにやったものだというのに、灰神楽はいかぐらという奴があったそうである。その梗概を述べると、ある神楽ずきの夫婦が、やきもち喧嘩かなにかをおっ始め、夫が、やいこのオカメというと、女もそれには負けていず、なんだね、人をオカメだなんていわれた御面相でもないくせに、サッサとお竈の下でも吹いてやがれ、ヒョットコ野郎メという。「なんだとヤイこのテレツクメが!」「オヤこのドロツクが!」「やいこのテレツク、テレツクテン!」「オヤこのドロツクドロツクドン!」「(やっきとなって)テレツクテレツクテレツクテン!」「(同様で)ドロツクドロツクドロツクドン!」と悪罵が漸次高調に達したとき、傍らに寝ていた子どもが目を覚まし、「チャン、ヨシナヨ!」と細い声で泣き声をたてる。おりふし、七厘に懸けてあった鉄瓶の湯が沸騰して、灰神楽をあげる。子どもは手平鉦式の細い声をあげて一生懸命に、「チャン、シチリン、チャン、シチリン!」とわめく。
 「てれつくてれつくてれつくテン!」「どろつくどろつくどろつくドン!」子ども「チャンシチリン、チャンシチレン!」とわめきたてつつ親子三人ついに手振り臀振りのヒョットコ踊りとなってしまうという。すなわち趣味の同化から和楽しためでたいところで落ちになっているのであるが、このかかあ大明神の、竈の下でも吹いてやがれ云々が非常にいて、痛快でかつ適切でありはせぬか。さあればヒョットコの本来は、前にもいったようにやはり竈男であり、火男であり、同様に種蒔き男であったといっても、一面の真ははずれまい。

(1)ウントク、ウントコ、あるいはヨケナイという語が元来なんの意味か解せぬが、前語なら、ものを持ち上げるときその他の一つの掛け声である。当方には、かの、ばか聟話のうちに、ウントコ食いたい、というような滑稽な話もある。ウントコワラシの梗概をいうと、ある所に爺婆があり、爺は山に柴刈っていると、すぐ傍らの淵の水が、いかにもおもしろく、くるくる回るので、柴を一束入れてみた。すると柴はくるくると回りながら、すうと水のなかにはいっていった。それがおもしろいので、爺はまた一束入れてみたがやはり同様である。そこでまた一束また一束と思ううちに、三月がほど刈り溜めた柴をみなその淵に入れてしまった。そのとき、淵のなかから美しい女が出てきて、柴を多くもらった礼を述べ、ぜひわが家にきてくれという。爺は驚いて、おれがどうして水のなかなどにはいれるかというと、女はなにそんなことはわけがない。妾におぶさって目を瞑っておればよいという。それから淵のなかの館にいって多く御馳走になり、一人の醜い童をむりじいにもらってくるのが、前述のヒョウトク話と同様であるが、ただこの話では、爺が淵の娘におぶさって、淵へいくとき女から、淵の主の妾の父が、おまえに何か礼にやるというから、そのときにはこれこれのものをくれといえとあらかじめおそわってゆくというところがすこし違っている。それから、前話ではもらってきた童がなにもせずに炉傍で臍ばかりいじくっているが、このほうでは、そうでなく非常に働くが人目に触れるのを嫌って、爺に頼んでデイあるいはデコ、すなわち奥座敷の物の陰に隠しておいてもらっている。爺の家がこの童のお陰で非常に福々になるが、爺は野良から還ってくると、かならずデコにいって、にこりと微笑して出てくるので、婆はへんに思い気を悪くする。ある日爺が留守のとき、婆がデコにはいってみると、櫃の陰から、なんともかんともいわれぬメグサいカブキレワラシが出てきたので、箒でもって頭を打ちたたき、外へ追い出した。童はおいおい泣きながら出ていった。それからはまた、家が元の貧乏に還ったというすじの話である。
 この話は一見ヒョットコの話とは縁も由縁もないようではあるが、よく考えると非常におもしろい話である。ヒョットコが一面、福神であるから、これも似ている話くらいのところで引いてきたくらいの程度の問題ではなく、この話には他面の童形の福神性のもの、ザシキワラシの秘密を開く鍵をその懐中ふところにそっと入れてあるようにも思われる。江戸のほうへは遠慮しても、奥州のヒョットコはこんなような種々くさぐさの表情を投げている。
(2)ウントク童の話は、江刺郡では梁川村の某川の淵、紫波郡では南昌山の麓の笊淵からもらってきた童だというように話している。


嫁子ネズミの話



 ネズミの話は、日本の神代史のあたりにも、かの有名な大国主神を火中からお救い上げた話など、ふんだんにあります。しかし、そういう神話などは別にして、私たち祖先の人々、すなわち農民の――平民の――なかから起こった話にはどういうのがあったか、それはかなり多くの民譚がありますが、私はそのうち、奥羽地方の民間のなかに残っているネズミの起原の話をつぎに一、二お話しようと思います。


 羽後の国、北秋田郡荒瀬村という所は、同国のうちでも有名な山郷で、そして村の大部分は狩猟でもって年中の生活をたてている所であります。この村の山中にこだまネズミというて、普通のネズミよりはやや小がらな、焦茶色の艶のある毛色のネズミがすんでおりますが、この小ネズミが、酷寒の樹木の枝などが凍り折れるようにしばれるときなど、木のまたなどにいて、じつに恐ろしい音をたてて破裂してしまいます。狩人がその音響をたよっていってみると、ネズミの背がポンと割れ裂けて死んでいるそうであります。
 私にこの話を聴かせてくれた同所の老人の狩人マタギの話ですと、寒中のひどくしばれる日に、えもののくるのを木陰などでさけしんで(耳を傾けてうかがうて)いると、そのネズミの破裂するのがポンポンとすてきな音をたてて遠近に聴こえるのだということです。なんとなくそれが淋しいものなんだそうです。こだまネズミとはそのからだの破裂する反響からきた名でありましょうが、そんなら数多い獣のうちでなぜひとりこの小獣にかぎってそんな無惨なありさまになるかということについては、つぎのような口碑があります。
 昔、同地の狩山に、七人と六人の二組の狩人が登って小屋掛けをしていました。六人組のほうをばスギのレッチウ、七人組のほうをばコダマのレッチウと呼びました。ところがある夜の夜半に、コダマのレッチウの小屋に若い女がやってきて、私はいま、お産の紐を解きたいのだからどうぞ一夜の宿りをゆるしてくれというのでした。その小屋では狩人が、たださえ女という語を嫌うのに、ましてなによりいちばん忌むのは産火であるから、もちろんその女を小屋のなかに入れようはずがありません。それにこの真夜中に女がただの一人、これはてっきり魔物なんだろうと早合点して、スカリ(組頭)が筒先を差し向けると、女はさも無念そうにすごすごとどことなしに立ち去ってゆきました。
 そのあとその女はスギのレッチウの小屋にいって、前同様のことをいって一夜の世話を頼み入れますと、そこの小屋では、それはさぞ御難渋だろう、さあさ早くはいって火にあたれといって、いろいろと介抱をしてやり首尾よく女にお産の紐を解かせました。女人はひどく喜んでスカリに向かっていうには、おおよく聴けよ。われこそはただの人間ではありません。じつは山神さんでありまするぞよ。今夜のお世話のお礼には明朝三つクマをえさせましょう。夜が明けたならこの下の洞に尋ねいってみなさい。大きなタカスのうちに三匹の大グマがいよう、それを射つにはかくかくせよと教え、また前に情けなく私に当たったかの七人組の小屋にもいってみておくれ、私の怒りが彼らをなんとしておくか、といわれたと思うと、その山神さんの女人はどことなしに立ち去りました。
 そこでスギのレッチウの者ども、女人のお告げの洞にいってみると、いかにもいわれたとおりの大木の朽ち穴があります。その穴を突いて望みの大グマ三匹をえ、それから一つ山を越えてコダマのレッチウの小屋にいってみると、鉄砲諸道具をみなそのままにしておいて、肝腎の人間が一人もおりません。これはどうしたことだろうと思って、四辺を見ると、小屋の梁の上にいままで見慣れぬ毛色の小ネズミどもが七匹ちょろちょろと去ってゆく。それこそすなわち山の神さんにとがめられて、ネズミとなったコダマのレッチウの七人組のなれの果てであったのであります。それでいまでもけっして七人組のレッチウは忌んで、ないことになっております。
 私は老人がたびたび用いるこのレッチウという言葉をまたそのままに用いましたが問い糺すとこれは「連中」ということだということがわかりました。またタカスというのは、山言葉の一で、深山で大木の梢が風雨のために折れたのが、自然と幹に朽ち込み大穴となったのにクマがはいったもののいわれです。このほか、ソラグチ(大木の根に穴があるもの)、ツルベ(これは岩穴でクマが釣桶つるべのように上からはいってゆくようなもの)――まあざっとこんなふうになりますが、しかしこれは主題とは違った余談であります。いずれも秋田の荒瀬村に行なわれている山言葉です。


 私の知っているかぎりで、奥州にはもう一つネズミの起原の話があります。その話は『江刺郡昔話』という私の本のなかにも書いておきましたから、ここでざっとその話の梗概だけをいってみましょう。ただしここでちょっと言いたいことは、奥州ではお正月にかぎってネズミのことを嫁子よめごと呼び、お正月の晩などにはとくに嫁子だちの餅といって、小餅をとって土蔵の大黒柱の下や、その他家のなかの平素ネズミの通うような箇所に置くことがあります。私だちも毎年その季節になると嫁子、嫁子と言いながら、そのわけもわからずにおりましたが、先年江刺郡という土地の民間伝承を収集しているうちに、はからずも左のような童話をえたので、私は非常にうれしかったのです。
 われわれの間にはいま、名称や言葉だけが残っていて、その起原とか由来とかの本話がとんと民間の記憶から忘れられたものが多くあります。私のこのような話などももうすこしの間気がつかずに放っといたなら、すでに取返しのつかぬ運命に落ちいっていたのだろうと思います。そうなったら日本民族の新しい文化のために、まことに大きな損害でございます。皆さまも民間に残っている話にとくに別な愛護と追惜とをおもちくださいまし。
 昔、ある山寺に花若という若衆がありました。その若衆が、和尚さまから勘当をさせられることがあって、寺を出るとき、和尚は夜になったらかならず戸の口一つに一本柱の家に宿かれよといわれました。その夜、花若は山中の草舎に辿り着き、和尚のいったような所に宿づきましたが、その草舎には老婆が一人おります。
 これは年経た古蝦蟇の化けたのでありました。その古蝦蟇の老婆は、花若の身の上話を聞いて、谷下の郷の長者の家に、竈の火焚き男として住みこませました。
 その長者には娘が三人ありました。その娘らが、秋祭りに笛を吹いて通る美しい若衆を見て、いちように深く思いこがれる身となりました。その若衆というのが花若でありました。花若は主人から娘の婿になってくれといわれましたけれども、三人のうちいずれの娘をめとってよいかわかりませぬ。そこでやむなくあの谷の蝦蟇の老婆のもとへいって聞きますと、老婆は花若に三つの試し事を教え、三人のうちそれを首尾よく成し遂げた娘を娶れと言いました。
 三つの試し事とは、第一には一束の麻をんで紡いで機に織って、一すじの縞の帯を作ったもの、第二には畳の上にいちめんに引き伸ばした真綿の上を新草履で、わたってすこしも足に綿を絡み着けぬもの、第三にはスズメのとまった木の小枝をそのまま折ってきて、男の手に持たせてくれたもの、こうありました。二人の姉娘どもはいずれのわざにも失敗をしましたが、三番めのいちばん末の妹は三つの試しをどれもりっぱに成し遂げました。そこでその娘が花若のお嫁さんになりました。
 ところが二人の姉娘どもは、あんまり泣いてそうして恥ずかしがってとうとうネズミになって、梁の上に逃げていってしまいました。長者はそれをかわいそうだと思ってそうでないんだけれども嫁子どもだといってやりました。そのことのあったのが小正月の晩だったというので、いまでもそれを思うてやるために、村の家々ではかならず嫁子だちの小餅をとってやるのだということであります。江刺郡の村に残っているネズミの起原の話がまずこんなふうなのであります。
 私はこれで奥州地方の民間に残っている、二つのネズミの起原の話をいたしました。そうして二つともたいへんすじが違っているけれども、人間の少しよこしまなことが原因で同じくこの小獣になったというように物語られております。ほかにも多くの違った例があることと思います。そのような末々の話を集めて比較してみますと、われわれの祖先の人たちがこんなものに対して考えた、なつかしい心持が今日のわれわれにもあらましながらにわかって参ります。私たち自身の今日の生活によりむずかしい美しい磨きをかけてゆくには、こうした昔の人たちの心の生活をも考え味わってみねばなりません。深く潤いのある心持、真に感じ味わってゆくところの心持ほど今日のわれわれに必要なものはありません。私は間違っていようがいまいが、そういう心持で、まさに滅びようとしつつある、民間伝承を収集してゆきたいと思っております。


巨樹の翁の話





 樹木伝説のうちに、ある巨樹を伐り倒そうとするにあたりその伐り屑が翌日になれば元木に付着していて、どうしても伐り倒すことができなかったが、ある事よりその樹木のために悩まされているものの助けによって伐り倒し成功するという伝説が諸所にある。いまその伝説をわが奥州地方に求めると、自分の手近にある東奥古伝という写本に、稗貫郡高松(1)という所の山に、高松という孤松一樹ありその高さ虚空に聳え重葉四隣を蔽うた。この樹の精霊、時の帝闕を犯し奉りしによって、勅宣下って伐り倒したとの言伝えであるが、時代さらに確かならずと書いてある。この書の著者は、元祿の初めころに奥州に下り花巻城主北氏に寄寓していた京都の画家松井道円(2)という者で、こういう奥の口碑を写しながらも心が故山に馳せていたとみえて、この文のくだりに下のような付説を録している。いわく、ある説にいう人皇十二代景行天皇六十年十月、帝御悩ありて甚だし、ある者は諸寺諸山に祈祷あり医術を尽くすといえどもさらにそのしるしなし、ここに一覚といえる占い者があって彼を召して卜筮をなさしむるにいう、これより東にあたりて大木あり、その木の精霊帝を悩まし奉る。はやくその木を退治せられなば、御悩すみやかに平安ならんと奏す。ここによってその木を尋ねみるに、近江の国に一郡を蔽えるクリの木あり枝葉九里四方にはびこり、その木の囲み数十丈、これぞ尋ぬる木なるべしとて人夫を催し毎日これを伐らしむるに、夜になればその伐り屑合して元のごとくになっている。毎日伐りても右のとおりなので、ここにおいてまたかの一覚を召し出して相談をかけると一覚申すよう、伐るところの屑を毎日焼き捨てたならばかならず伐り尽くさん、われはこれ、かの木に敵対するカツラの精なり、数年彼と威を争うこと久し、その志いま帝にさし向かい奉るとて掻き消すようにその姿は失せにけり。そこで一覚が申すとおり木屑を焼き捨てやっと七十余日かかって、その木を伐り倒したので、かくて帝の御悩御平癒ましましければその樹の生いありし所を名づけて栗田郡と号しけるとなん。……と著者はいってからまたさらにあれと同型同様の伝説はこのほかに、刈田郡、槻郡(3)といえる地方にもありと付記している。
 松井という人は昔の人だから、この近江のクリの木の伝説はなんという本にあることかその出所を明らかにせなかったが、けだしこれは有名な話であろう。奥州の山村には大図書館がないので古典に拠ることが能わぬからこの話の穿鑿はこのまま放っておき、そのかわりに同種同式の新しい話を左におみやげにする。

(1)岩手県稗貫郡矢沢村字高松、いまその跡に一祠堂あり。
(2)この京都の画家、奥州花巻城の松の間、葉の間の絵を書きしをもって有名なる人。
(3)宮城県の磐城国の苅田郡ならん、槻郡というはいまその類書もたぬから自分にはわからず。


 岩手県上閉伊郡栗橋村字古里ふるさとという所に一のマツの木あり、年々枝葉繁伸してついに付近の耕地を蔽い日光をさえぎることおびただしかった。その大きさははるかに笛吹峠からも和山わやま峠からも見えるほどであった。その木の持主の某は惜しい樹木だが耕作物の邪魔には見替えられぬとて、伐り始めたがその日は木の十分の一をも伐ること能わずに夜になって家に帰った。そして翌朝いってみると木の伐り屑がみな元のように元木に付着して切り目がくわっているので伐りまた伐りすること、三十日余になったが、何日も同じことである。その男もほとほとこうじ果てていると、ある夜夢に一人の老翁現われて告げていうことには、かの木の伐り屑を毎夕がた焼き捨てれば成就するだろうという。それからは毎夕切り屑を焼き捨ててついに伐り倒したが、その木が倒れて対こうの川向いの山までも枝梢は打ち靡いた。おもなる幹部の長さばかりも百四十間あったという。あまり幹がりっぱなのでそれで一個の丸木舟を造り鵜住居うのずまい湾に浮かべたが非常に重いので、うまく使用に堪えぬままに片岸かたきし浜というに繋ぎおいたが、それも年数たつにしたがってだんだん腐ってしまった。
 ところがふしぎなことには、その腐朽してあった船体がある一夜のうちに姿を消して行くえ不明になった。その当時橋野川にサケの上る時期であったので、某という漁夫が溜め場を監視しているとこの川のいちばん川上の溜め場の川底に何物ともつかぬふしぎなもの潜みいる。某はそれを大※おおやす[#「木+又」、U+6743、363-下-11]をもって突き刺すと川面かわづらいちめんに血に染まって赤くなった。だがあまりにようすが凄じかったのでそのままにして帰り、つぎの日かに仲間を多勢引き連れてそのもの退治に現場にいってみると何物もおらぬ。ここかかしこか、とやかくというている間にその漁夫が気が狂うてしまった。そのうちに一天にわかに掻き曇ってきて風雨となり大洪水を起こして川々のサケ場も破れたが、一夜またその川口の片岸浜に突如として一の奇巌が現われた。里人のいうことには、その岩こそ前の漁夫の突き刺した怪物の化身であろうといいはやした。そのことがあったのはいまから五、六代も前のことであろうというが、いまでもその岩石が黒色を帯びて川口にある。またそれからはこの片岸村というにはかならず一人の発狂者が出で、絶えぬということである。
 この話は一読してわかるとおり二種か三色の異なった分子が混交されて、いっしょくたにされた口碑である。しかしなんの不自由もなく樹木伝承から生石口碑へ連絡がつきまたそれぞれりっぱな形態を整えている。浜人から聞くとなお付会がされて、すなわちその浜で発狂した者はかならずその岩石にいって上り、かつ撫でそして何事か睦まじ気に語るが必定であるという。またその初代気違いの漁夫の突き刺して血を出させた怪物は、そのマツ樹の丸木舟の化けて川上に登っておおウナギになったもので、そしてまた突き刺されて傷をえたのに腹をたてて洪水を起こして川を下り、こんどは岩に化けたのであるなど俚俗の詩人の作意にはまったく際限がないが、しかしそうかたく信じているのである。



 前の口碑でたった一つ欠所があるように思われることは、樵夫の夢に現われて伐りかたを伝授したものが、その木になんの縁由もないように話されていることである。この伝承の伝統ではそうでないはずであるが、これは話者もながい間には忘れ聞き手も不注意に聞いた罪がある。もっとも自分も又聞またぎきであるから断然とこうであろうとはいえぬが、調査した人はある種の役人であったから、こういうふうな口碑伝説にはおおいに重きをおかなかったかもしれぬ。この役人の仲間にはおうおうそういう人たちが多い。先般地方を巡視された政府すじの史跡天然記念物保存調査に関する考察官(?)とかいう人の演説とか座談とかを仄聞するに、口碑伝説もいいが、ただ取っつかまえどころがなくて困るといわれたとのことである。すなわちこの流儀である。れっきとした大家の古文章古記録に載らず石塊か古墳かがなくてはならず、社寺、堂宇等の縁起書に拠らねばならぬ調査法のみが学問ではなくなった。形態がない思想の探索はどうにも土器や貝塚ばかりを捜し歩いている人たちには取っつかまえどころの見つからぬのがごもっとも千万でむりのない話である。しかしながら心のなかの塚や板碑などをも同様に、いなその同様以上にたいせつなことになってきた。そうしてそれらのいわゆる心のなかの史跡や記念物のほうこそより急務の調査収集を要しなければならぬ問題である。よその風に吹きまくられる石や瓦欠かわらけなどよりは消えやすい憾みがあるからである。それにまた無形なものほど(いわゆる取っつかまえどころのないものほど)自由であり人類的であるから、研究事業もそのとおりでいまに百千のネフスキイ氏が日本にやってきて、人の畑を先取り御免でわが物顔にえてかってに駆けずり回るにきまっている。そうして自分の畑にナスとカボチャがなんぼうあったかと赤鬚先生たちに聞かねばわからぬことになろうか、何事もわが国はそうであるように。だがこのことばかりはそうはさせたくないが、さてどうだろう。
 余談はおいて、前同様式の口碑をもう一ついおう、やはり同郡金沢村に、折合滝(1)という奇観至極の瀑布がある。その滝壺の傍らに五葉のマツとクリの木と、セノ(2)との三巨木があり、梢枝繁蔓して滝見に不便であったかして、真ん中のセノ木のみ残して、あとの二樹をば伐り倒すことになり、伐採かたを所の樵夫の親分に請け負わした。そして日々数十人の樵夫どもが山に上り斧で伐ったが、翌日いってみると切り屑が元木に付着して元のとおりになっているので幾日伐ってもいっこうらちが明かなかった。親分の損はいわずもがなだが、それよりもいかに大木だといっても樵夫の親分がそれを伐りかねたとあっては名にもかかわるので、毎日うつうつとして思案に暮れておったが、ある日山で偶然にも一人の老翁に出会った。するとその老翁は親分にいうにはおれは滝の下のセノ木の精だが、こんどおれが助けられるということを聞いてうれしい。だがおまえの手下の者が毎日ああやってむだ骨をおっているのが気の毒ゆえにおまえに告げるが、あの木どもを伐り倒すには、毎日その伐り屑を火で焼くといいと、いうたかと思うとすでに老翁の姿は掻き消えてあとかたもなかった。それからは親方は人夫どもにその日その日の伐り屑を焼かしたところが、いくばくもなくついに二樹を伐り倒すことができた。ところが五葉のマツはそうでもなかったが、おおグリのほうは倒れながら叫んで、この下村を泥の海にするといったと思うと、たちまち大雨が沛然はいぜんと降り出して大水が出た。その水勢でクリの木は下流へ押し出で角端かどはなという所の出端に横になって流水を押し塞いだ。それが破れなんだらどんなことになろうと村人は騒ぎたてたが、どうともする術がなかった。ところが、ときに川上から大石転倒しきたりその木の真ん中にどしん[#「どしんと」は底本では「どしんと」]突き当たると、さすがの巨木も二つに折れたので、川水がまず無事にそこを流下して、そう大事にはいたらなかったという。こういう伝承である。伐り残されたセノ木はいまでもりっぱに滝壺の傍らにその偉姿を見せているとは、かの村の人の話である。
 これらの伝説では、伐り屑を焼いたために木を伐り倒すことに成功していることを同様に説いている。村の老樵夫の話(3)だと、いまでこそ種々な道具、大鋸や発破はっぱなどが発見されて、どんな巨木でも難なく伐り倒すことができるが、昔は斧一梃でかかったもんだ。化けるような、そんな樹木でなくとも七日や十日には伐れなかったものだが、こういうときには焼伐りといって、夜は木の根付の幹を焼き、昼は斧で伐ると、あんがい速かったものだと。今日はすでにそんなことをする愚かな樵夫がないから、この焼伐りの方法、しかたをも、同様、後には口碑、伝説となるだろう。そんなことを添え記してこの話の筆をおく(4)

(1)折合滝は上閉伊郡金沢村字折合にあり。
(2)セノ木という学名なんというか知らぬが、巨木となり板として白色宛然クルミ材のごとく、目、甚だあらいが、堅いゆえ広縁床の間敷などの板として賞用す。また装飾的の柱としても愛せられる。わが地方の山林に多し(「土の鈴」第十七輯および第十九輯南方熊楠先生のセノ木に関する解説参照)。
(3)村の老人は誰彼となくそういうが、いまはこの焼伐りのかわりにダイナマイトを用いて巨木を伐り倒している。
(4)巨樹の翁の話については本稿に対して南方熊楠先生の懇切該博なる御教示に預かるをえた。その考証は『閑話叢書』のうち「南方閑話」のなかに収めてある。ついて御覧を願いたい。


木の精と夫婦になった女の話





 松島に遊んだとき、円福寺の観音堂のほとりにある一本のウメの木の由来を案内に立った老女から聴かされて、世にも優しい昔の人の心の残りがあるものだと思ったことがあります。
 その話は昔、羽後の国象潟という所の娘が、まだ見知らぬ許婚の小太郎という若者を慕って、はるばるとこの松島の里までたずねきてみると、小太郎は先の日に病死したということ、そうして小太郎の両親のいうことには、これもはかない縁と諦めて、故郷へ帰って立身してくれとの言葉でありました。それを聴いて娘は泣きながら、親々が許してくだされた仲、たとえいまだお目見えもいたさずに亡くなられた人とはいえ、いまだ妹背の縁の尽きましたものとも思いませぬ。いまから亡夫の後生を弔うて世を送りたいと思いますから、どうぞお側においていただきたいといって、この里に止どまり、舅姑に仕えておりましたが、親たちが亡くなられた後は、円福寺の明極禅師というおかたの弟子となり、紅蓮と名乗り専心念仏三昧に日をおくっておりました。
 このお寺の境内の観音堂のほとりに、小太郎が子どものじぶんに植えたウメの木が一本ありましたが、紅蓮は朝夕そのウメの木を見てわが夫としのび、なおそのほとりに庵を結んで心月庵と呼んでおりました。そして日夜亡き夫をしのび慕うあまりに、悲しみに堪えかねて「移し植えし花の主ははかなきに軒ばのウメは咲かずともあれ」という歌をよみましたところが、そのウメの木に、その年から花が咲かなくなりました。それを見て紅蓮はなおさら心淋しく悲しくなって、こんどは「咲けかしないまは主と眺むべし軒ばのウメのあらんかぎりは」とよみますと、こんどは以前よりも多く花をつけるようになったということであります。
 この話は優しい女の人の心持を、後々の私たちにまでいまも物語ってくれております。そうしてどうせ作り話ではありましょうが、ある樹木が人間の夫になった(そういう心持がかよった)という話になっているので、私たちは、どうしてこんなふしぎな話ができあがったものかと目を見はるばかりでございます。この話のついでにこの類のものを一、二お話しいたしましょう。
 羽前の国の国司に陸奥中納言藤原豊光という人がありました。時代は文武天皇の御代と言いますから、いまからざっと千二百年ほどの昔でありましょう。この人の娘に阿古耶といって容色並びないところの才媛がありました。ある秋の宵、この娘が日ごろ手馴れの琴をとり出して弾じておりますと、その音色につれてどこからともなく朗々と、しかも細々しい笛の音が聞こえてまいります。その音色はいかにも嚠喨として人の魂を奪うようなありさまであります。その娘の琴の音色と、その外の笛の音色と、秋の夜更けに幾度通い合わせたかしれません。その笛の主は緑色の狩衣を着た気品のすぐれた若者で、千歳山の麓に住むという名取太郎というものだとのことでした。ついに二人は思い合う仲となったのでございます。
 ある夜、男は娘にいうには、自分の生命も明日一日となった。あなたと会うのも今日かぎりであります。ああ名ごり惜しやというかと思うと、それっきり男の姿が掻き消えて、さっと映ったものは障子に怪しいマツの木の影ばかりでありました。娘はただもうあっけにとられて思い悩むばかりでありました。
 そのころ、この国は洪水があって、名取川の橋が毀れたので、千歳山の麓にある老松を伐り倒してその橋普請の用材にしようとしていました。何事も知らぬ里の人々は、まさかこのマツの木の精が陸奥の守の娘さんの阿古耶の恋人であるとは思いも寄りませんから、多勢の樵夫どもを集めてとうとう伐り倒しました。そして名取川まで持ち運ぼうとすると、いかなることか挽き車はすこしも動きませんでした。阿古耶はこのことを聞いて、男の最後の言葉と合わせ考えて、急いでそのマツの木の側にいきました。そして木に手を触れて先に立って曳き綱を曳きますと、大磐石のように動こうともみえなかったマツの木も、たやすく動き出し、難なく普請場まで運びゆくことができました。
 その後、阿古耶はそのマツの木に操をたてて一生独身で暮らしましたという。その何代めかの老松はいまでも、山形市の近郊の千歳山の麓にあって、阿古耶のマツというてかの国の名勝の一つになっております。


 浄瑠璃で有名な、三十三間堂棟木の由来、ヤナギのお柳の話なども前の話と同系な物語でございます。
 これも似寄りの話で、陸奥国南津軽郡大鰐という所に長者があり、その家に一人の息子がありました。この息子は顔容が美しかったばかりでなく、親たちにはいたっての孝順だから家人は申すにおよばず、村人までにひどく愛敬されておりました。そうすなおに育てられた息子は、十八歳のときに、同じ村の百姓の娘のお萩という同じ年ごろの子と仲良しになりました。娘のほうでは思う人が長者の家の秘蔵息子であり、またなにひとつ欠けたところのない美男のことでありますから、われとわが身の幸運を喜んで、行くすえのことなどまでも考えておりました。ところが、息子の両親はあまりに身分が違いすぎるからというので、二人の仲をこうとしました。そうなるとすなおな百姓の娘は、自分を嘆きかつ非常に落胆のあまり、村の鎮守の森のなかにある大カツラの木にいって縊死を遂げたのでありました。
 その後というものは、長者の息子はいままでとは別人のように、うって変わっての強情張りとなり、両親の選んだお嫁さんをもかたく拒んで承知しませんでした。
 ある晩のこと、村の若者ども多勢会合して四方山の話や、自慢話などをしていましたが、話のすえに息子は、おれはハギの大木を見たことがあると言い出しました。すると連座の若者たちが承知をせず、もしそれが偽りならそのぶんにしてはおかぬぞと息子をおどかしたあげく、それでは明日そのハギの大木を見にいこうという約束をして別れました。
 話の余勢に、思わずあらぬ事を口滑らした息子は、家に帰ってからは、これはどうしたらよかろうと思いあまって、悔い嘆いたがいまはもう取返しがつきません。悶々として寝床にはいりますと、枕辺に怪しい人影がおりました。はっと思ってみると、それはさきに死んだ恋人のお萩であったから、懐かしさのあまり、とりすがろうと思うと、女はにっこり笑って、あなたはなにをそう嘆き悲しんでいる。今夜みんなと言争いをしたハギの大木のある所を私は教えてあげましょう。それはこういう場所にといったかと思うと娘の姿はふっと掻き消えてしまいました。
 翌朝、息子は亡き娘からおそわった場所へいってみると、いかにもりっぱなハギの大木がある。そこでやっとのことで友人らとのかけ事にも勝つことができました。そのハギの大木というのが、あの娘の果てたカツラの木で、それが葉や木肌がよくハギに似ているものだからいちじそうハギに化けたものでありました。それもこれもみな亡き娘の霊魂が恋人を思うあまりの兆であったことはいうまでもありません。それからはこの若者は一生そのハギカツラの木を妻だと思っておくったという話でございます。


 陸中国上閉伊郡金沢村字長谷という所はごく山間の村落ですが、ここの大屋のカクチ(背戸垣内)に曲がりトチというて非常な巨木がありました。このおおトチの木はこの村の始まらぬ前からあったもので、そして村の草分けの家の大屋の守護神木でもありました。この樹木の片ほとりに谷川があり滝がかかってあって、そこをば滝明神と呼んで小さな祠などがありました。
 その大屋という家に美しい一人娘がありましたが、妙齢になるにつれてその容色が近郷に並ぶ者なく美しさが増すばかりでした。この娘があるとき何心なく裏の曲がりトチの木の下で見知らぬ美男に会って話をしましたがそれからというものは、どうしてもその人のことが思い忘れられず、夕がたになるのを待ち焦れていては、そのトチの木の下に走りいって楽しい語らいをいたしておりました。
 ところがその年の秋の出水に、あたりの川々が氾濫して川口の町の大橋が毀れ落ちてしまいました。その橋普請の材料にこの曲がりトチが伐り出されるようにと、時の役人からのお布令が村にお達しになりました。それからはいくら村の守護神木だといってもおかみからの仰せには背くわけにはいかず、日夜木を伐りにかかったが、あまりな巨木でどうしても伐り倒すことができません。だから昼間は村人がかわりがわりに斧で伐り、夜は夜で夜もすがら根下を焼いて、ようやく三七二十一日めで伐り倒しました。
 ここにふしぎなことにはそのトチの木を伐り出すころから大屋の娘が、あの木を伐ってはならぬ、あの木を伐ってはならぬと口走って、悩み悶えておりましたが、巨木が伐り倒されたじぶんにはとうとう気が違ってしまって、毎日毎日ただ泣いてばかりおりました。
 その巨木はそれから山川の水の勢いでだんだんと押し流されて下流に下りました。そして金沢村と大槌町の境のあたり壺桐ヶ淵という所までくると、どんと深淵の中に沈んだまま、どんなことをしても二度と浮かび上がりませんでした。
 大屋の娘は村人とともに、木の流れるのを見送って泣きながら、そこまでついてきましたが、そのありさまを見ると、やにわに深淵のなかに飛びこんでいって、その巨木に抱きついたまま離れませんでした。そしてそのまま永久に木とともにその深淵から上がらないそうです(私の収集資料から)。


千曳石の話





 陸奥の国上北郡、坪村の千曳の石、別名壺の石碑の口碑は古歌などによってもかなり有名な話である。口碑には鬼垣にとてこの石を建てたというふうに言い伝えられている。すなわち境界の石、封じの石、魔除けの標示である。けれどもその千曳という名の起りが、それにしてはいかにもふさわしくなくかつ不審である。東遊雑記には千曳社の神主教岩坊の談なりとて、下条の話を記している。すなわち神代のときに石の札を立て、その石をかぎり北方の国により渡りくる鬼を追い返さんとせしことなるに、悪鬼来たりてその石を土中へ深く隠せしを、神たち集まりて捜し出したまいしところ、今の石文村にてその石の建ちし所坪村にてありしを、坂上田村麿来たりたまい、鬼を残りなく殺したもう。ゆえにこの石をば無用とて、ここに埋めその上に社を建立なされて候。さてその石を坪村よりこれまで引き取るに数千人にて曳きしをもって千曳大明神と申す。歌に、みちのくの千曳の石とわが恋は荷ふはすをりに中やたへせん云々と(加藤咄堂氏『日本風俗志』上巻、奥羽地方)。こればかりではわれわれはどうしてもその石を千曳きせねばならなかった由来を見つけえぬ。そもそもなんのためにその石を曳き動かしたかの話は別に考えてみねばわからぬのである。
 しかしながら無学者がいくら考えたってよき分別も浮かばぬのが道理である。間違っていようがいまいがとにかく臆面なく仮説をたてそれはこんなものだろうくらいのところを云為するのも学問進歩の一程径かもしれぬが、さしあたりの自分にはそんな気持もあいにく出ぬ。そうかというてまた広く類似の資料を収集し展並して諸君によき指示を呈上するというようなことも田舎にいてはできぬ芸当である。けれども人間には古今通じて分相応というものがある。田舎のワラビや草餅が都会の貴人にはまた珍しかろうくらいの心持でわが貧しい手帳を引っくり返すのも、あるいは美食のみなさんには一興であるかもしれぬ。
 どうも昔の神々には御遷座ましますことを平気でやるという悪い癖があった。いわゆる飛んだ神、夜逃げの石、何々越し、何々越しの峠というのがそれらの名ごりの名まえである。それが一人で背負いかつ片手で懐中にでも隠すにいいオシラや権現頭の場合には盗んだようにもできたが、おうおう境の石神などになるとそう手がるにもゆかぬことがあった。自分は子どものじぶんにその真によき例を目撃したことがある。それはいつものとおり自分の村の話ばかりで気がひけるが、資料の価には遠近あるまいとひとりで勇気をつけてさていおう。所は岩手県上閉伊郡の私の村と隣村栗橋村との境の山に死助権現というややピラミッド形のかなり高い山がある。その頂上に石の権現頭が両村を等眼に横眼して鎮座していたのを、向こうの衆はこれはおらが領分のものだといって、由緒をぺらぺらしゃべりつつ村総出でいわゆる千曳きにかけてとうとう自分の村の区域のその山の腰に引き下げてしまった。これではならぬとおらが村の衆もやっきとなり村告げて死助峠に押し出したまではよかったが、どうもよく聞けばもともとあの村の何某という昔の人の寄進の権現だということが台石かなにかに彫刻されてあるのが動かされぬ証拠となっておらがほうの負け、なんだそんな石がほしかったらいくらもやるというておらほうの若者ども頂上から大石をいくつも転倒させて引っ返したということがある。明治二十七、八年の人気がいやに殺気だっていたじぶんの話だ。
 大正十一年五月九日、山本鹿州氏から聞いた話に、ただいま同氏のおられる陸中釜石町の字中妻なかづまという所に松倉さまと称する大きな自然石の神があり、この石神は元の社気仙郡荒川村の山上から一夜のうちにここに飛んできたものだということであると。備考にちょっと話を入れると、この石神は元釜石町と荒川村との境の山上におったに、釜石の者どもずっとその神の位置を移動させて荒川村のほうへ食いこませ、ここまでがこちらの領分なりと言いおったが、あらふしぎや一夜のうちに、はからずも石神飛び出して、とんでもなき方角違いの中妻の里に落ちたものだという。これは千曳きではなくてあるいは千段落しの憂きめにお遭いなされたものかもしれぬ。とにかく石神移動の一例である。陸中遠野郷青笹村字中館なかだてという所の里道の傍らに一の丸石あり、ちょうど通行人の腰掛けて憩いたそうなあんばいの石なので、村の誰彼はなにげなく腰を掛けると、たちまちに気分がへんになり家に帰り病むことちょうど傷寒のような容体であった。これはおかしいと巫女に聞くと、それはもとチビキの石であるからだという。しからばそのチビキとはなんのわけかと問うたらば、チビキは血引きで人の生き血を石に塗るのだということであると話した。これを又聞きした私はどうもよけいに話が壺にはまっているので少々不安を感じ、元のこの石のある付近一体の所有者であった昔の遠野郷の領主、いまの南部男爵の一家老の中館氏の当主の友人にただすと、その石の話はまったくの真実チビキの石であると余の祖母から聞いていたが、人の生き血を塗ったかどうかはわからぬ。ただ祖母の代すなわち御維新前後まではウマが死ねば城(南部家の鍋倉城のこと)から一里余の悪路を青笹村まで持ち運んで首を斬り血をその石に塗ったことは確かなことである。しかしその由来はとんとわからぬというのであった。
 自分はかくあまりに顕著な例を挙げてみると、同じチビキの石でも引っ張るほうの千曳きと生き物の血をいたほうのチビキとの二つの区別があり、また起原があることがあいわかる。この中館のチビキ石はもちろん趣向が別であるから、どこへも曳いて歩いたという話はもっておらぬ。いまでも現にそこにある。ただ無心の人に思いがけぬ禍いをかけるのを恐れられて、わずかに周囲に木柵を回しているにすぎぬ。生き血のほうのチビキはなんのためにわれわれの祖先がそんなことをやったかの判断は先刻諸君の知識と蔵書のほうにおまかせするのが手っ取り早いから、自分はいたずらに贅せぬことにする。
 ものを曳くというほうのことを考えてみても、あるいは甚だおもしろい俗信に出くわすことかもしれぬ。橋曳き、陣木曳きの話もそれであるが、これには種々な哀れな犠牲者の話なども伴っている。地曳きのときの丸石を曳き合うのなども地固めという実利のほかに理があるかもしれぬ。田舎の胴築どうつきの方法は東京辺の、ようえいとこらさのさとはわけが違う。千曳きの綱を結び付ける石をば亀の子石と呼んでいる。この石はきわめて神聖なもので用いる場合には日に幾度か御酒みきを石に注ぎかけてやる。そうせぬと石がけっして動かなくなるものだと信じるからである。またまったく石もそのとおりであるらしい。普請がすめばこの石は村の入口か境かあるいは神社の境内か一定の元あった場所に持ち運ばれる。なにかの理由でもしこのさいその石が不機嫌なときには途中で止まって、こんりんざい動かぬようになる。そんなときに必要なのはいつもの巫女いたこの力である。


 自分はもう一つの資料をあげてこの話を打切りにしようと思う。陸中国閉伊郡船越村字田ノ浜の鎮守に荒神あらがみ神社というのがある。この神社は荒神崎という崎頭にあって、その境内に御本尊さまと呼ばれている子ウシがつくばったくらいの大きさのやや黒色の円石がある。元この石はこの出崎の山裏の黄金浜という渚にあったが、あるとき田ノ浜の女娘どもソエ(磯草採り)にゆき、そのうちの一人の娘がなにげなくこの石に腰を掛けて休んだ。ところがからだが石に密着してついに離れなくなってしまった。それから大騒ぎとなり巫女を呼んできてとにかく離してもらったが、その代弁としての条件はこの山の上に曳き上げて神としてほしいとのことであった。そこで浜人は多勢出てその石を曳き上げようとしたが、いかなこと根を据えてちっとも動かぬ。そこでまた巫女を頼むと、それは前の娘が音頭をとり先綱をとって曳いたらわけないとのこと、そうするとたちまちやすやすと石は軽く動き出して山上に曳き上げられ、いまの所に来座せしものだという。そうしてその娘はそれからは巫女となってその石に仕えてボボラ婆さまといって有名な神女であったと言い伝えている。その婆さまの子孫もずっとつづいていまも巫女だとのことである。
 こういうと、この荒神の本尊石など(ボボラ石ともいっている)が千曳きされての後は永劫そこから動かぬから、あるいは血引きのほうになっていた時代があるかもしれぬ。また他には血引きのほうが先のもあるであろう。いずれにしても石の移転はそんなものであろうかとも想像せられる。それから神の移住には別に問題があろう。私の話はまだそれまでには成長しておらぬから他日に譲ることにする。

* 前掲「千曳石の話」について、その後、『奥々風土記』という写本をみるとその由来が、加藤咄堂氏の『日本風俗志』とは別な話に書かれてあるから追補しておく。
文曰、野辺地村に千曳神社あり、古老伝云往古此辺に碑あり甚だ大なる石なりければ、土人新墾に不便とて、かの石碑を引退かむとするに多人して引たれども得動ざりき。然るを坪村なる壺子と云へる女出て只一人して引きたりしかば、いと心よく思ふままに引かれたりしとなん。如此奇霊事ありしによりて、其石碑を土中に埋めて、其上に宮を立て則ち千曳神と称奉るとなん。世に壺の碑とて歌にも古書にも見えたるは則是なり云々。
それから千曳きの考証としては、この筆者のいわく、
千曳とは凡そ大なる石を云へり、古事記に最後其妹伊邪那美命身自追来焉爾千曳石引塞其黄泉比良坂云々。万葉集巻四、吾恋者千引乃石乎七バカリ繋母カケモ諸伏モロフシなど見えたれば大なる石の事を云へる古言なり、千人して引べき石と云ふ義にて、日本書紀神代巻に、千人所引磐石と書したるも、知昆伎伊波と馴て則礫の意を顕せる書ざまなり云々。
 私考えるに、千曳石は鬼との境石といわれるよりも、壺子に引かせたりするほうが同意であって『日本風俗志』の引例よりはこのほうがすきである。
* 遠野郷に南部家(領主)が入部後のこと、ある武家に美娘あり、その娘ある夕がた、表路を何物か通るとて出ず。他の者も出てみれど何物も見えず、かくしてあるうちに娘の姿はいずこへか消えうせた。すなわち当時しばしばある神隠しにあいたりとて、家人嘆けどもせんかたがない。それより数年後ある人城近くの大日山に狩りにゆきしに、その娘赤き石の上にて朱塗りの櫛にて髪をすきいる態を見、驚き還りしというが、この石「朱塗りの石」とていまにありということである。



赤子抱きの話





 諸国に、大力になりたいことを願がけして、いわゆる満願の夜に、神から球とかあるいは鉄の椀とか、杖だとかいうようなものを授かったと思うと、たちまちに怪力をえたという話が多くあり、そのうちに赤子抱きという一つの型の話があります。
 羽後の国、南秋田郡五城ノ目町という所の産で、横車の大八という力士がありました。土地の伝説によると、この人はじつに天下無双の稀代な大力士となっておりますが、もとは貧困な家の生まれなので、若年のころ、近所の某という豪家に奉公をしておりました。あるとき主人の言いつけで、秋田の町の殿さまのお城に納める年貢米を、小山のように車に積んで、それを引っ張ってゆきました。お城のお米倉の前坂にさしかかると、さすが剛力の大八も、日ごろの力自慢にも似あわず、車が重く地面に吸い着いたようでちっとも動かなくなり、それに主家からそこまでの長道中を一生懸命で引いてきた疲れも出て、汗が流れ呼吸がはずみ、坂の中途に荷車の梶棒を握って両足を踏ん張ったまま青くなっておりました。
 ところが途中からそこまで、大八の車の後ろ前になって、一人の童子がついて参りましたが、大八が坂の中途で絶体絶命になったそのありさまを見て、その童子が嘲笑っていうことには、おまえはなんて弱ん坊だろうとのことでした。
 大八は腹をたてて、おまえはどこのがきめ(悪童)で、そんなことをいう。そんならおまえがこの車をちっとでもよいから引っ張ってみろというと、童子はそんな車ぐらいなら一度に十も引いてみせるといって、小指で梶棒を引いてみせるといって、小指を曲げて梶棒に引っ掛けたとみると、ちょうど空車かなんぞのように、からからとその坂を引きあげました。大八は驚いて、これはただの童子ではないぞと思って、いまの無礼を詫び、なにとぞ御本名を明かしてくだされと頼むと、その童子は、これ大八、よく聴けよ。汝はすこしの小力を自慢して、秋祭り小相撲などをとっているが、そんな小さな料簡では所詮だめ、真の大力をほしくば夜ひそかにわが太平山に来たり籠もれよと、声朗らかにいわれます。これこそわが郷土に名高き三吉神だと思うと、大八はそのまま地上にひれ伏しておりましたが、童子の姿は忽然として、そのまま掻き消すように消えうせてしまいました。
 それから大八は深夜太平山に分け登り、三吉神社の籠り堂に七日七夜の間籠もっておりました。おりから冬の真ん中のことで大八は真っ裸で参籠したのだといわれております。そこで大八は七日七夜、祈念しておりましたが、やがて満願の夜となりましてもべつだんのしるしもありません。さすがに胸に疑念もわだかまりいまさらのように身を切られるような寒気も全身にこたえ出してきた頃合いに、ひょっこりとどこからきたともなく一人の齢若い女が胸に赤子を抱いてきたり、神前にぬかずいて一心に拝み出しましたのです。
 大八はそれを、どこの女人かこの酷寒の真夜中にと思って、つくづくと見ておりますと、女は立ってきて、この子どもをちょっと抱いていてくれという、心よくその赤子を受けて大八は抱いてやると、女はそのまま小用でもたしに出ていったのかそれっきりなかなか帰ってきてくれませぬ。大八は赤子を抱いたきり困っていると、これはまたどうしたことか、その赤子がだんだんと重くなって、とても抱いていきれずになり、しかたなく膝の上にささえると、その膝も砕けるほどの重さとなります。けれども大八は女の手まえもあり、じっと我慢に我慢をしていると、その子はますます大磐石のような重さとなってきて、いまや大八も満面に朱をそそぎ、眉間からはたらたらと汗を流し歯を食いしばって、一生懸命に赤子に押し倒されまいと、満身総体に力を入れみなぎらせ、うんうんとうなっていましたが、もうとても力およばずと思った刹那に先刻の女人がやっと御堂に戻ってきまして、どうもお待ちどうさまでしたと礼を言いつつ、いともかるがるしくその子を大八の手より抱き上げ、そうしてそこの目の前に立ち直ったとみますと、たちまちその母子のからだからは御光がさし、四辺は燦爛たる光明世界、そして声朗らかにのたもうには、これ大八よ、よく聴け、われはこの国一番の守護神三吉大明神なるそよ。汝はよくかくまでこの赤子を抱き耐えた。その力の程を汝に授けてつかわそう。それこそ無際限の力量であろうぞよと仰せられました。大八は、はっとばかりにそこにひれ伏してお礼を申し上げましたが、顔を上げたときにはもはやそこに女人の姿もありませんでした。
 大八は翌朝、太平山頂の御堂を立ち出で、一歩を地に踏み出すと、授かった力量の重さで踵までが土にめりこんだと言います。それからは天下無双の大力士となり、江戸に出て横車大八とうたわれたと申すことです。なんでも詳しいこの人の実録というものがあるそうですが、私はただその赤子抱きによって稀代な力量をえたというその話だけをここにちょっといっただけであります。


 もう一、二、この話と同型の話を述べますと、同国北秋田郡ボウザワという土地に徳という大力者がありました。この男、身の丈七尺五寸、顔の長さ馬面と同じく、アギタ(頤)の長さ八寸あったと言います。やっぱり家貧しく、山子で、山に角材削りにいっていて、オボの神さんから前話同様の赤子抱きをさせられて、大力を授かったということです。
 オボの神というは産神、すなわち山神でまことに美しい女人であったことなども、すべて前話同様でありましたのです。
 この男、十九のとき、主人に納める小作米を四俵ウマにつけ、村端れの山峡の細道にさしかかると、ふいに向こうから殿さまの行列がやってきました。徳は山峡のことゆえに、ちっとも気がつかずにウマを引いて参ったのでしたから、まったくふいをくらってしまい、どうすることもできませぬ。で、しかたなくウマを米俵をつけたまま抱きかかえて谷川を跨いで道をよけました。そのありさまを、お駕籠の内から見られた殿さまがずいぶん驚いて、あの者はなんじゃという。家来がその名を問うと、己はボウザワの徳という者だとのこと、あとでお城にお呼び出されて徳は力士に出世したということであります。そのウマにつけた俵は一俵二斗五升入れ、四俵で白米一石、それにウマ一匹の重さを加え足したものを掻い抱いたというわけです。この者の脚のこぶらにはあばら骨が三枚あったと言い伝えられております。
 赤子抱きの伝説のすじはざっとこんなふうな話でございます。われわれの祖先にはよく神さまが赤子の姿となって現われております。奥山深谷で美女から、じつは山神さんから赤子を抱かせられて、かかる力量やまたは他の幸運、すなわち山幸やふいの宝物などを授けられたという話はだんだんにあります。
 他の器物、すなわち珠とか杖とかあるいは鉄の椀だとか、こういう物を授かって、神力をえたという話のほうにはたいてい女人ではなしに、ふつう何々の神仏がというふうになっております。この赤子抱きの話の、赤子と言いますからには、つねにそれに伴うているものには美しい女人となっているのが当然で、後には稀代の力士ともなるべき若者なら、草深い片山里ながらかならず男のなかの男であったに相違ありません。その美しい勇ましい若者は、これもつねに山神さんの愛を恵まれうる資格がそなわっておったはずでございます。そういうような若者が、神の赤子を抱いたとて不自然な話ではありません。どういうふうに考えてみても赤子は神秘なもので、霊味のすぐれたものであります。われわれのうぶな祖先の人たちの神との親密な交通は、とても今日の私たちからは想像だにもできぬものでありましょう。
 私はもう一つその類話をいたしましょう。陸中国遠野郷青笹村という所に、近年荒滝と名乗った力士がありました。この人若年のころの厳寒に、積雪を踏んで、六角牛山という高山に参籠し、七日七夜めに、ついに山の女神が乳房を露わして、口に含ませられたと思うと、たちまちに大力を授かったという伝説であります。荒滝が真冬のなかを、素足で裸体で、たった一すじの化粧回しを締めこんで、真夜中、お山の頂上のお社に参りますと、女神は肩肌を脱がれて真っ白い乳房まで露わしてくだされる。そういうときには相撲は勝ちましたが、どうかすると、ただ二の腕までしか出して見せませぬ。そうしたときの勝負にはどうも思うようにいきませんでした。しかし彼は土俵の上に登り、六角牛山のほうに向かって四股を踏むと、たちまちにそのからだに神力が通うたということであります。
 この六角牛山の女神がもと三人の美しい姉妹であって、いちばん末の妹の女神は早池峰山という高山です。この末の妹の女神は年齢もいちばん若く、美しく、それに勝気で、ちょっと若い男などには乱暴なことをなされるのだという信仰があります。ですから若くって荒い元気の満ちみちた男を喜ばれて、この山をかけるさいにはできるだけ荒々しく乱暴なことをすればよい。そして路傍の村々の娘子や若い女などには戯れてもよい。そんなことがかえって山の女神の喜ばれるところである。そういうふうな信仰があります。それから盗みの神さまのようにも信じられていますが、これはこの神が遠野郷御出の神分かみなはりという所で三人の娘のうちにその夜、胸に蓮華が天から降ったものがいちばんよい山を取ろうという約束がされてあったところ、この末娘が終夜眠ったふりをしながらうかがうていて、長姉の胸の上にその花が降ったのをそっと起き上がり、盗んで自分の胸の上に乗せておいて、いちばんのよい高山をかちえたという口碑にもとづくことがあります。この女神かどうかわからぬが、この山にも美しい女人の山神さんが、磐司ばんじという狩人のために赤子を産んで、この男を神技に近い狩りの名人とし、非常な山幸をえさせたという主題の話もあります(「磐司磐三郎の話」参照)。
 私は右のような、赤子抱きの話が、諸国ほうぼうにまだまだ多くあることと思い、こういう話をみなさんにも多分に思い出していただき、そうして私たち祖先の経きたった複雑な心の生活のいろいろさまざまな色合いをもろともに考えてみたいと思います。


千把萱の話





 陸前国気仙郡矢作村というに、昔、意地悪い継母があった。どうしても継子を殺したいと思って、自分の産んだ子と二人を連れて、町へゆくとて家を出て、途中けわしい岩山によじ登り、二人の娘にこの断崖がけの上からころげ落ちよといって、千把のカヤを刈って、自分の娘をばそのカヤのなかにすっかりと包んで束ね、継娘をばそのままで岩頭から二人をいっしょに突き落とすと、継子のほうは運よく途中の木の根に衣物の裾が引っ懸かって助かり、実子のほうはカヤたばの重さで下の谷川の大石の上にころび落ちて、からだが千々に砕けて死んでしまった。それを見た継母は、はじめて自分の邪慳を悟り、同じくその崖から身を投げて死んだという。こういう口碑の残っているところを、いまでも「千把萱」という名をつけて呼んでおります。
 この話は数多い継母譚のうちの一つで、そして今を昔に通じて変わらぬ普通の人情を取り扱った口碑であります。ずっと草深い山里の人々のうえの話であるから継子を殺そうというような悪企みにも、毒薬や刃物を用いることを知らず、また自分のかわいい子を無事になし終えるには千把のカヤの束のなかに包んで投げたら助かろうというあさはかな考えもしたのであります。この点なども貧しい農民の生活をありのままに、そのままに映したおもしろい話であります。
 愚かしやな、人情ほど哀れなものはありません。つぎにそういう山奥の人々の間に起こったあさはかな愚かしやかな話を一、二いたしましょう。ある山里に盲目の老婆があって一人の息子をもっていた。この母子二人暮らしのうちはひどく仲良しであったのに息子が大人になり、そこに嫁子がくると、昨日に変わって老婆はよけい者にされるようになった。もちろんそのように仕むけさせたのがこの他人の嫁子で、目が見えぬからなにもせずに老婆がいつも寝床のなかで、シラミをとって噛みつぶしているのを聴いては、あれあのとおり老婆さんは寝ていてあるもない(ありもしないとか、なけなしのというほどの意味)米を盗んで食っているから、このごろ米が不足してしようがない。ああしじゅうやられては盆正月に食う米もなくなる。そしてこれからさき己がよけい貧乏しなければならぬから、はやく老婆さんを奥山に連れていって捨ててこい、捨ててこいと、いやがる息子を急きたてて、とうとう家から老母を追い出すことにした。
 息子は嫁子にそういわれて、老母を背負って奥山にいって、カヤを千把刈って、それで小舎がけをして、なかに老母を入れ、そのカヤに火をつけ放しにしておいて家に帰りました。そうせいと言い付けたのもみんな意地悪い嫁子の指し図だったのであります。
 けれども老婆は焼死しませんでした。どこをどうして這い出したものか、小舎の外にのがれ出て、火にあたっていたが、そのうちに、夜になりました。夜になるとその山の小鬼どもが、あれはなんの火だろうといって、四、五匹そこに寄り集まってきました。見るとへんな汚い老婆がたった一人で大きく踏ん跨がって火を燃やしているので、おかしく思い、そこにいる老婆さんはどこの婆さんだというと、老婆はまた、そういうおまえたちはどこの餓鬼どもだと言いました。小鬼どもはおれはもとからいるこの山の小鬼どもだといってひどく笑うと、老婆はそれはおまえたちはよいことをしてここにきてくれた。いまおれは人間の小ざかしげな悪い者どもを連れてきて、ここでこうして焼き捨てているところだというと、小鬼どもは驚いて、そうかそんなに婆さんは強いのかと言います。強いとも強いとも、どんなにおれは強いんだと老婆はますます両足を踏ん張ると、腹もお臍もみな表わして人間がみたらそれこそおかしい態となりました。けれども小鬼どもだからいよいよ魂消たまげました。すると一匹の小鬼は老婆をうち眺めて、さもさもふしぎそうに、婆さんの内股にあるたいへん怖ろしい口はなんだかというと、老婆は、ああこれか、これはきかない小鬼でも食う口じゃといっておどかしました。と、子鬼どもはいちじにみな仰天して、ふところから打ち出の小槌という宝を取り出して老婆にくれ、おれらはいたってよい小鬼どもだから取って食わぬようにと約束をしてもらいました。
 そこで老婆はその小槌でもって、目明きにもなり、また齢若にもなり、そしてまたその奥山に千軒の町を打ち出し、自分は錦小袖にかいくるまって、その町の女殿さまとなってりっぱな御殿に住んでいます。そんなこととは夢知らぬ彼の息子夫婦はある日近ごろひどく評判の降って湧いたそんな繁華の町にきてみると、そこの御殿の女殿さまというのは、先ごろ自分らがカヤの小舎に入れて焼き殺したはずの老婆なので驚き、かつあきれます。嫁はその夜家に帰ってからひどく気を悪くし、あんな盲目老婆でさえカヤ小舎に入れて火をつければあんなにりっぱに出世する。われもはやく別の奥山に連れていってああやってくれと夫を急きたてて夫婦で別の奥山をさしていきます。そしてこんどは二人で大汗になってカヤ千把刈り、それで大急ぎで小舎がけをして、嫁は自分からそのなかに這いこみ、外から夫に火をつけらせたが、どうも嫁の場合には小鬼どもがきて小槌をもくれず、したがって女殿さまにもなれずにとうとうそのまま焼け死んでしまったという、昔話であります。


 前話と似て非なる昔話をもう一つしよう。発端は前話と同様であって、老母は齢とって仕事ができずいつも寝ていてシラミをとって噛みつぶしているのを、嫁はあれは米を盗んでああいつも食っているのだと思います。夜になって寝ていながら嫁は、婆さんにああいうふうにしじゅう米を噛まれては正月がきてもわれが米の飯を食うことがならぬ。あの人を家においてはためにならぬからいっそのこと奥山に連れていって捨てるにかぎると夫に気をたてさせる。もし嫁のいうことをきかぬと実家に帰るといわれる気遣いがあるので、夫もいよいよしかたなく老母を背負い出して奥山に捨てにいこうと思いました。
 そのとき九つになる息子がありました。父が山さゆかばおれもゆくというてききませぬ。父はいやいやおれは祖母を山奥さ捨てにいくのだから、おまえを連れてゆくわけにはゆかぬ。いい子だから母と家にいろというが子どもはなかなかききませぬ。そんだら祖母をどっちの山へ捨てると聞きます。それは遠い遠い奥山のまたその山奥だと父はいうけれども、それでもいってみたいと言い張ります。母はそれほどいってみたけりゃ、父といっしょにいってこうというので父は老母を背負い、息子を連れて奥山へといったのであります。
 ゆくがゆくがいってやがて奥山へゆくと、父はカヤを刈って小舎を作り、それに老母を入れて捨ててこようとすると、老母は孫を抱き寄せてこれから達者で大きくなれとくり返しくり返して泣きながら掻き口説きます。父はさあはやく家に帰るべえというと、息子はまだまだ待て、おれは祖母が死ぬるところをよく見覚えておきたいといって、あっちの沢、こっちの谷、あの木この岩と見回し歩き木などを数えてみていたが、急にわっと泣き出しました。なぜ泣くのだと父はいうと、息子は泣く泣く、父どはじく(我慢)がよいからよいがおれはじくがないからいけない。父や母が齢をとって、この祖母のようになったら、おれも父や母をこうして奥山に捨てなければなるまい。それを思うとおれは悲しくて悲しくてならぬ。こんな無慈悲なことがおれにはできぬ、できぬ、と草の上をころび回って泣き口説きました。すると父はそれを聴いて、いかにもこの童のいうことがほんとうである。これはおれが悪い。けっしてこの老母をこんな所に捨てるのではなかったと、非常に心に悲しみかつ悔いて、また老母をおぶい直して家に連れ帰りました。
 家にいた女房は、奥山に老母を捨ててしまって、ああああこれでようやく胸がすいた。これから親子水入らずの暮らしをするにいいと思って、祝い事の御馳走をこしらえて親子を待っていると、そこに夫がいやないやな姑をおぶって帰ってきました。それを見て女房はひどく怒ります。けれども夫は山で子どもにいたく泣き口説かれたことを言い聴かすと、さすがに女房も理に詰まり、この老母をあしけなくしたならば、やがてはわれわれもそうされるにきまっている。いままでのわれわれの心が誤っていたと夫婦ともに前非を悔いて、それからというものはともどもそろって老母に孝養をつくしました。そのために後には村内での評判の親孝行者だという名まえをとってすごしたという、こうした話であります(大正十二年二月中、村の老媼から聴いた話)。
 これはずいぶんめでたい話であります。シナからでも渡来したものだろうが、ついでだから申しますが、奥州の辺土にはひどく複雑なくさぐさの話が伝わっております。前話を私に聴かしてくれた老媼の数多い物語のうちには、どうも上方文明の洗練と影響とをうけたあとのあまりにない話と思われるようなものもあり、また私らが少年のじぶん学校の教科書で読んで記憶していた潮吹き臼の話などもリーダーのそのままの形式でそっくりと話されている。こころみに問うてみたら子どものとき祖母から聴いたものだと言いました。老媼の子どものときというのだから六十余年も昔のことであり、そのじぶんの日本にはいまの中学ももちろん絵本童話専門の何月号と銘打ったものが、その前月上旬に家庭に配達されるというような機敏なかつ悪趣味な雑誌があったはずもありません。奥州のそのころには寺子屋の源平藤橘の手習い手本を除いたら、一村に一冊ぐらいのごくごく珍重された三世相大雑書があった程度でありましたでしょう。私の祖父などは百姓の暇々にその大雑書を筆写していたものでした。まさかそんな書物の間に西洋の童話がはさまっていたとも思われませぬ。これにはなにかの取りつぎものがあったことだろうと思います。


偽汽車の話



 かなり古い時代から船幽霊のほうがわれわれの間に認められていたらしい。ただしこの偽汽車だけはごく新しい最近にできた話である。ずっと古いころで明治十二、三年から二十年前後のものであろう。それにしては分布の範囲は鉄路の延びるにつれて長く広い。克明に資料を集めてみたなら奥は樺太、蝦夷が島の果てから南は阿里、台南の極みまでも走っているかもしれない。自分は資料を多く集める機会をもっておらぬが、誰でもこの話はどっかで一度は聞いたことがあるだろう。そこで自分のほうの話から始めにして、つぎには諸君から聴きたいと思うのである。
 よくは聞いてみぬが奥州の曠原に汽車のかかったのはなんでも明治二十二、三年ごろのことであろう。当時俚人は陸蒸気おかじょうきだといって魂消た。岩手県二戸にのへ郡大野村などでは、大野中ほどに陸蒸気出来た、おまえ船頭でわし乗るべ、というような俗謡まで、できたほどである。その大野にもあり、それから四十里ばかりも離れていようか、上って陸中和賀郡の小正月の晩、キツネのお作立てや当年の吉凶予報の野外劇で有名な後藤野にもあり(後藤野は小正月の夜にその年の吉凶をキツネどもが動作してみせる。豊年のときには稲刈充穂をつけたウマが倒れたり、また凶作流行病のある年には餓死や病人の、のたれ死にの態などを雪の上にて数多のキツネどもがやって見せるので有名である)。仙台にはいれば小牛田の広里にもあり、栃木の那須野ヶ原にもあったというのはこの偽汽車の話である。この話はみなさんは名を聞いただけですぐにあの話かとうなずかれるだろうが、自分は念のために諸国どこでも同じだろうと思われるその梗概を一つお話しする。例は自分の所から二十里ほどの後藤野の話。なんでもこの野に汽車がかかってからほど近いじぶんのことであろう。いつも夜行のときで汽車が野原を走っていると、ときでもない列車が向こうからも火を吐き笛を吹いてばっばっやってくる。機関士は狼狽して汽車を止めると向こうも止まる。走ればやっぱり走り出すといったような案配式で、野中に思わぬ時間をとりそのためにとんでもない故障や過ちが出来してしまつにおえなかった。そんなことがしばしばあるとどうも奇怪な節が多いので、ある夜機関士が思いきっていつものように向こうから非常に勢いこんで驀然と走ってきた汽車に、こちらから乗りこんでゆくと、ちょうど真にあっけなく手ごたえがなさすぎる。それで相手の汽車はたあいなく消滅したので翌朝調べてみると、そこには大きな古ギツネが数頭無惨に轢死しておったというのである。どこもこのすじでいっているようだ。たぶん大差がなかろうと思われる。その好例だと思うのに、大正十年十月二十一日の万朝報につぎのような記事が載ってあった。おもしろい記事であるから、その全文を採録する。いわく、中央線松本と篠の井との間の潮沢の大地辷りの区域は昔から鉄道当局が少なからず悩まされたところで、いまもながあめの後には幾分ずつ地辷りをくり返し、俗に地獄鉄道と呼ばれている。いったい信州の鉄道には大小の地辷り場所がほかにも所々にあるが、潮沢は一方が深い谷一方は粘土の山で、その中腹を這わせてある。線路が一夜の間に谷底に消えたことも、また列車が地辷りに乗ってころがり落ちた例もある。それは別としてこの山中でいまでもよく人々が語るロマンスを紹介する。隣家へ何町、臼の借貸しも山坂が急であぶないというこの山間にお半婆さんというのがいた。ある朝新たに誰かが作った道をたどっていると、遙か向こうから真っ黒な怪物が大きな眼鏡をかけ、太い煙管でもくもくとタバコをふかしながら近づいてきた。婆さんは驚いて腰を抜かした。近づいた怪物は大きな息をして、なにかどえらい声を出したが婆さんは逃げる気力がなかった。これは汽車であった。機関士はしきりに非常汽笛を鳴らしたが婆さんは動かぬので進行を止め、おりていって婆さんを線路から引っ張り出した。その後、婆さんは幾度も汽車を見慣れたが、先頭の機関車だけはどうしても生き物だと主張していた。話変わって、雨のそぼ降る六月の朧月夜であった。潮沢山中の白坂トンネル付近に進んだ列車の機関士が、前方からくる一列車を認めた。非常汽笛を鳴らすと同じく向こうでも鳴らした。止まると向こうも止まった。鏡に映すようにこちらの真似をする。機関士は思いきってまっしぐらに進行を始めた。衝突と思う刹那に怪しい列車は影を消した。その後も二、三度あった。いつも月の朧な夜であったが、やがて線路に一頭の古ギツネが轢死した後はその事も絶えた。付近にいまでもそのキツネの祠があるとか、怪しい列車はキツネの化けたものとして土地の人は信じている。月朧の山間には、機関士の錯覚を誘う樹木石角の陰影もあろうが、鉄道開設時代の獣類に関するこれに似た話は各地にもある。
 こういっている。まずおおよそこんな話である。この話がどの辺まで進展してゆくかわからぬが後にはきっと一つのまとまった口碑になろうと思われる。船幽霊の伝説はりっぱな花葉を飾り持っている。そして神秘な海洋という背景が許さぬから、かの話をばいまもっていよいよ不可思議にしている。しかし偽汽車の話ではその結末がいずれもあつらえたように多少のユーモアを交えた狐狸の仕業に帰している。これは広いといったとて高が知れたかぎりの、あの草原の話だからであろう。話者も前話ではどこまでも慎重な表情で話の余韻をばミスチカルにしようとするが、この話ではきっと語り終わってから破顔一笑するのがその型である。これくらいに両話の機縁が違っている。
 しかしこの話はさきにもいったとおりにごく新しい口碑である。それだけまだ十分に完備した強固たる根性と同情とをもっていぬのも致しかたない話である。たとえば自分の最近この話の発生地だと言い伝わっている村にいって聞くと、きまって土地の人はそんなことはあるものですか、知らぬという。いなそんなはずがないがといったって、本場で知らぬものはどうもできぬ。そこで土地の人から反語的にこういう案内を受けるのである。それはおれが所の話ではないが、関東の那須野ヶ原にあった話だそうな。この話をそれでは民間にはぜんぜん不信用のものとして、かりに鉄道当局の記録課(もしそういうところがあったなら)へもちこんだとしたなら、これもかならずいなといわれるであろう。これではこの新しい興味ある口碑は単なるうそとなって立ち消えねばならぬはかない運命のものであらねばならぬはずである。
 ところが事実はまったく正反対の結果である。現に北海道で樺太でと日本人のゆく新領地へはどんどん伸びていっている。なにもそんな遠方の話でなくとも十里二十里へゆく山間の軽便鉄道にまでその悪戯がいつあったと噂されるようになっている。しかしそれはどうも朧月夜の出来事である。真偽いかん、樹木石角の幻影やは井上博士の妖怪学講義でも見たらすぐ片がつくことだろうが、ただそれだけでは片づかぬのは、いつもいうところの、それらの流布的信仰の点である。どうしてそんな話がかく広く多くひろまったであろう。このことについでは諸君にはきっとそれはという、すきなお考えがあるだろうからそれは私は正直に教示していただきたいとして、しからば私はどう考えているかというと、やっぱりいまのところではこれだけのことしかいわれぬように思うのである。それはこうである。「どうも……」


昔話の収集と研究





 一昨年の冬、村の老媼と親しい知合いとなったおかげで、かなり多くの昔話を聴くことができた。私は民間に残っている古譚の収集に心がけてからよほどの歳月をへているけれども、このときくらいの好収穫をえたことはいまだかつてなかった。手帳が二冊三冊とだんだんにふえてゆくのがうれしかった。
 私は老媼の家に、一月の下旬から三月の初めまでざっと五十余日の間ほとんど毎日のように熱心に通った。深雪も踏み分け、吹雪の夜もいった。村の人たちには今日も馴染なじばあさまの所にゆくかといって笑われた。
 ある日などは、早朝から夜の十二時すぎまでもその人と炉傍に向き合っていたことさえあった。なにしろ外はあの大吹雪なので、すこしの隙間からでもぴゅうぴゅうと粉雪が家の内に吹きこんで、見るまに子どもらの悪戯のような細長い白い山脈ができた。雨戸をぴしぴしと締めきっているので、室内が薄暗く、差向いの老媼の顔さえやっとぼんやりと見える程度であった。それに寒いから炉には生木をどんどん焚いた。その火明りが昼間ながら、ちょうど夜更けのような気持をさせた。おまけに木が雪で凍っているので、ブーブーとくすぶった。煙くって目が開かれぬほどであった。老媼は赤ただれした目に涙を止めどなく流し、私も袖で顔をおおいおおい話を聴いた。
 老媼はアサのニソを指の先と口とで巧みに細く裂き分けて、長い長い一すじの白子糸をつくり、それを苧籠おむけに手繰り入れつつ物語った。そうして話に興が乗ってくると、その苧籠をばくるりとおのが背後に回してやった。


 この老媼から聴いた話はすべて百七十種ほどであった。その間には私が昔話聴きにいっているということを聞き伝えて、村の話好きの誰彼が寄ってきて話してくれたのがこれも三十ほどあった。それらを合すると二百以上の数になる。一個所でこれだけの収穫物があるということはたまらなく愉快であった。
 けれどももともと昔話の収集は他の短いすじだけでもよろしい、処の口碑、伝説とは性質を異にしているので、相互のその日その時の気分しだいでその成績にも幸不幸があった。まったく機会の問題であった。私もこの老媼の家にざっと二個月も通ううちには朝から晩がたまでいながら他の話ばかりして、肝腎の話のほうをばほんの一つも聴かなかったことが十日以上もあったろう。物語の収集のまったく容易でないことがしみじみと思われた。いまそのときえた話のなかから、在来日本の童話の古い原型ではないかと思われるようなものを二つ三つつぎに記してみよう。


 ――サルカニの合戦譚の古い型ではないかと想像される話――
 ある山にサルとカニがすんでいた。二人は餅搗きをした。ずるいサルは餅が搗けると臼ごと担いで奥山のほうへ逃げていった。だけれどもあんまり急いだもので、臼から餅が落ちたのも気づかずにいった。カニは口惜しくて、サルどんサルどん、待ちもせ待たれもせえと言いながらあとを追うていった。ところがホオの葉の上に餅がそっくり落ちてあった。一人でそれをしんめりしんめりと食っていた。
 サルは家に帰って臼をおろしてみると餅がなかった。これは事欠いたと思って、元きたとおりに引っ返してきてみると、カニがそのありさまだ。あきれたが、カニどんカニどん、木の葉のついた餅はあまりうまくも無申なもさかべ(ないでしょう)といった。カニは、木の葉吹き払い掻っ払い食えばあまりうまくなくもなえ申すと言い返した。そんだら少々おれにも食わせてみされじゃとサルはいった。そんだは臼の餅を食いめされとカニはいうと、サルは怒って、そんだはおれの餅を食ったといって、カニの頭を打った。カニは甲羅が砕けて死んだ。そのときサブキのなかに隠れていてこのことを見ていた子ガニは、大きくなって親の仇討ちに出かけた。
 子ガニに加勢をしたのは、臼と、トチの実と、ベゴウシの糞と、クリのいがであった。それらがサルの家にいって待伏せしていた。子ガニは水コガのなかにはいり、臼は上戸あがとの上梁に上り、ベゴの糞は上戸に、クリの毬は横座に、トチの実は炉の火戸ほどに潜んでいた。サルは外から、ああ今日は寒々さむさむといって帰ってきて、横座にどかりと踏み跨がって腰をおろすと、トチの実がドンといってはねてサルのふぐりにいって当たった。サルは熱いっと叫んで尻退りすると、クリの毬に尻をじくりと刺された。熱いと痛いので水コガに駆けこむとなかに子ガニがいて、親の仇だ思い知れっといってサルのふぐりを鋏で切り取った。サルは泣きながら水コガから飛び上がって上戸に走せてゆくと、またベゴの糞で滑ってころんだ。そこを上から臼が落ちてきてビチョリと押し潰して殺してしまった(大正十二年一月三十一日[#「大正十二年一月三十一日」は底本では「大年十二年一月三十一日」]。村の古屋敷庄治という青年の話)。
 サルカニではないけれども、前話と同類系の話に、サルと蝦蟇ふるたの話も聴いた。
 ある山麓のお寺の後ろの池に、蝦蟇どもが集まりて、はあすぐに彼岸もくるから、餅でも搗いて上げ申すべといって餅を搗いていた。そこにサルがきて、そんたちはなにしに餅をついているといった。わけを話すと、それでは搗いてすけるという、搗いてすけられているといいかげんごろにサルは餅を臼ごとに引っ担いで奥山に逃げていった。
 蝦蟇はあとを追ってゆくと、餅は山の途中に落ちてあった。それを拾って仲間のところに持ち帰ってみんなで食べていた。
 サルは家にいって臼をおろしてみると餅はない。引っ返して捜してみたがどうしてもわからぬ。とうとう先の池のほとりまできてみると、蝦蟇どもがいま最中食っているところであった。そこでサルは怒って、おまえたちはなにしておれの餅を食っていれぁと、どなった。
 蝦蟇どももおもしろくないので、その餅はいま食ってしまったと返答した。サルはひどくゴゼを焼いて(怒って)その餅よこせえ。よこさねばお前らを踏み潰すぞとおどかした。
 蝦蟇どもは、そんだらみな出してやんべい。この悪ザルめ、それっといって、みんなでいま食った餅をゲロゲロと吐き出して、サルの面に投げつけた。サルの面に餅がくっついて放れなかった。むりに放すべえと思うと皮がたくれていまのように赤くなった(大正七年十一月二十日。陸申閉伊郡綾織村の某媼の話)。


 なおこの話のデテールにわたっては、さきのサルとカニの掛合いの段などでも、なんでえサルっぺのこ掻っ潰されなよとカニがいうと、サルも、なんだカニ甲羅踏ん潰されねえっといったと言い、子ガニが親の仇討ちに加勢を頼みにほうぼうにいっていう言葉も、おら親のサブキの中さ隠れて見ていた、あのごくどう者の山ザルだ。どうぞハア親の仇討ちにすけてたんもれといったというようにも話されている。臼もドンズルスになったり、ベゴの糞もベタクソ、あるいはアワ粥の走り糞となったりしている。


 また別話だが、ある所の藪にスズメが巣をかけて、そのなかに卵を産んでいると、山母がきて、スズメ スズメ、おれに卵を一つくれろ、くれなかったらそっちをとって食うぞといってとって食ってしまった。そのときたった一つの卵が藪のなかに落ちて助かった。やがて日がたってかえって、大きくなって、あちらのイナハセからイナ穂を集め、こちらのイナハセからイナ穂を拾い集めして、団子をこしらえて背負って、背負ったものは米の団子のほん団子だと言いふらして、親の仇討ちの加勢を頼みに歩いた。スズメの子に加勢したのは、トチの実と、針と、ベゴの糞と、カニと、土摺臼どずるすとであった。子スズメはそれらの同勢を引き連れて、山母の家に忍びこんだ。そしてトチの実は炉の火戸に、針は横座に、カニは水がめのなかに、土摺臼は戸の口の上に、ベゴ糞は上戸の踏み台の上に、めいめい隠れていた。
 山母は外から帰ってきて、ああ寒々さむさむといって炉傍にどかりとすわり両脚を踏ん張って火に当たると、トチの実はドチンとはねて山母のふところに飛びこんだ。山母は驚いてあと退りすると横座の針がプチリと山母の臀に刺さった。あっといって水がめに飛びこむとなかのカニが鋏で山母の臍を切った。山母はこれはたいへんだと水がめからね上がって外へ走り出ようとすると、踏み台のベゴの糞でずらのめってステンところんだ。そこを上から土摺臼が落ちてきてビチョリと押し潰してしまった(大正十二年二月一日の夜。前出の古屋敷君の話)。


 こんなふうに、類型の話をいくつも集めて比較してみると、今日ひろく流布しているいわゆる現在のサルカニの合戦譚の古い原型などもだんだんとわかってくる。桃太郎話なども四、五種の類話があって、今日みなさんが知っている話とはだいぶ違ったものである。こんな説話の変遷転化してきた系統や性質を研究するのは、また民俗学者やその他の縄張りに属するから、収集者とはおのずから話が別になるのである。





底本:「世界教養全集 21」平凡社
   1961(昭和36)年12月23日初版発行
   1963(昭和38)年12月20日3版発行
初出:「東奥異聞」閑話叢書、坂本書店
   1926(大正15)年3月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、次の箇所では、大振りにつくっています。
「磐司磐三郎の話」の註釈の「猿ヶ石川」
※「磐治」と「磐次」と「磐司」と「万治」の混在は、底本通りです。
入力:川山隆
校正:阿部哲也
2014年5月22日作成
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●表記について

「木+又」、U+6743    363-下-11


●図書カード