女子霧ヶ峰登山記

島木赤彦




 余は熱心なる女子登山希望者である。さきに三河国の某女が、下駄がけを以て富士登山の先駆をなし、野中千代子が雪中一万二千尺の山巓さんてんに悲壮なる籠居ろうきょを敢てせし以来、奈良朝の昔、金峰山の女尼が、六尺男児をしりへに瞠若どうじゃくたらしめた底の女子が追々増加して、三十五六年頃からは、各地女学校の団隊が追々富士登山を試みる様になったのは、まことに喜ばしい現象である。余の記憶に存して居る者のみにても、此の二三年に、富士登山を試みたのは余程ある。即ち三十六年には女子美術学校の生徒が登り、三十七年には山梨県師範学校女子部、女子体操音楽学校(二十余人中二人疲労)、神奈川県高等女学校等が登って居る。此の外嘉納氏夫人は三十六年に単独登山を行い、板垣伯、原敬二氏夫人はその翌年に登山を企てられたそうである。特に今年は樺山伯の孫女が、垂髫すいちょうのろうろうしさを以て、繊小な足跡を山上の火山灰に印したと聞いては、眉を描き、眼尻を塗り、蘇芳すおうに頬を染める女学生すらある今日に、吾党のため実に大なる援助を得たものと思われてうれしい。もっとも右に述べたのは、皆新聞紙上に表れた者のみであるから、勿論吾人の視聴に触れない、幾多の巾幗きんかく登山者があったに相違ない。此の種のものは今の内によく調べて置いて、他日明治女子登山史を編纂する材料とし度く思う。余は三十六年に女子二十余人を率いて、八ヶ岳登山をした事がある。二泊三日の登山中一人の疲労者をも出さず。採集物も随分豊富、先ず成績佳良の方であった。今年八月又々十五人の女子を引連れて霧ヶ峰に登った。以下記する所はその紀行で、それにまま山案内的のものを交えて、諸君子の登山に便せんと思うのである。

 霧ヶ峰は、八ヶ岳火山彙中いちゅうの北端にある休火山で、地籍の大部分は長野県諏訪郡にあって、一部分は小県郡に跨って居る。高さはやっと二千米突メートル内外で、その上に傾斜が極めて緩慢であるから、上諏訪町附近の人が、春から夏秋にかけての登山は、丁度日曜の遠足に、恰適位な程度である。山の面積の極めて広大なるに比して、高さが前記の如くであるから、一寸見には、根からダラシの無い、不恰好な、何処に主峰があるかさえ分らぬ草山で、云わば火山中の老朽者と云う位置であるが、登って見て、何処までも奥行の知れぬ広さが、他の佶屈きっくつな少壮火山(形から見立てて)と異なったよい感じを与える。余は此の山を一日の遠足地として、非常に珍重して居る。去年は四回、今年は五回登って居るが、未だ霧ヶ峰と云う纏った感じが頭に這入らぬ。つまり不得要領の山であるから、何回登っても面白いのだ。それに比べると南隣の立科山などは、形式が誠に単一で只旧火山の饅頭形の上に、新火山の円錐形が坐って居るのみで、甚だ要領を得て居るが、余は一度登ったきり二度登ろうと云う興味が出ない。猶又霧ヶ峰は植物採集地としても、随分価値のある山で、山麓(上諏訪町下諏訪町方面)より山頂にいたるまで、甚だ多方面の植物を分布してある。昨年頂の北端なる鎌ヶ池で、狸藻の一種を採集したが、これは普通の狸藻、姫狸藻と異なった形態を具えて、捕虫嚢の位置が全く輪生葉群の部分から隔離して居る。某植物学者は、多分日本に於ける新発見だろうと云って居られた。なお此の池の一部ミズゴケ叢生地に、姫石楠花一名日光石楠花なども発見せられたので、本年矢沢師範学校長と河野師範学校教頭と、一日採集して行かれた(八ヶ岳の遭難者大学生十六人を救った帰途)から、余等の如き素人よりも大に得る所があったろうと思う。霧ヶ峰の大体はまずこんなものである。
 そこで余は常に女生徒に向って登山熱を鼓吹している。殊に上諏訪町から往復六里で、一日旅行に極ふさわしい此の霧ヶ峰を、第一に推奨した処が、盛に賛成があって、今年長雨期にも係らず、是非連れて貰い度いと云い出したものが二十人許りあった。その内四五人は都合があって、つまり十五人、それに高等師範校の飯河君等三人と、余とを合せて同勢十九人、八月二十日午前七時、上諏訪町を出発した。
 一体上諏訪から、霧ヶ峰に登るのは、上諏訪町の新殖民地たる、小県郡オメグラ山村に通ずる星糞峠の山道によるのが順路であるが、上諏訪町から一里の角間新田までは、全く霧ヶ峰から流出する角間川の谷に沿うのであるから、両方の連丘が直ちに頭上を圧して、展望の快に乏しい。そこで其の一方の丘陵たる立石山上の細道を経て、角間新田の上に出る事に決した。此の立石山は東北方人の字山から派出された火山集灰岩の小丘で、極点の断面を上諏訪町の背後に現して、諏訪沖積層との限界をつくって居る。丘上は落葉松の殖林地と、未墾の草原とで中腹以下は痩地の桑畠や、粟畠になって、間に数条の作場道が通じて、それが中腹以上から合して一小径を作って居るのである。今朝は雨後の朝露がことに繁くて道ばたの薄や、ワレモコウ、桔梗、ヤマニンジン、ヒメカンゾウなどの花は何れもうつ俯して、初秋の静粛を瀟洒たる風姿に表して居る。数町の急勾配を登れば最う丘の頂上である。足の下は、直ちに上諏訪市街で、町外れから真碧な諏訪湖が、遠く上伊那境の連山まで拡がって、山襞の凹所から、天竜川の日に輝きつつ流出する遠方まで明瞭に見渡される。女生徒等は盛に草原の中を駆けまわって、コウリンカの濃朱色なのや、女郎花おみなえしのひょろひょろしたのやを折り、争って居るので腰から下はもうびしょ濡れに濡れ徹って居る。道は少しずつ爪先上りとなって、次第に落葉松の茂りに這入って行く。ちと生ぬるい南風が出て空は追々怪しい雲脚となったが、木の間から見渡される角間新田の白壁には、未だ鮮かな日が当って居るので、唱歌など謡いつつスタスタと登って行った。何処の谷間だろう、山鳩がほろほろ鳴いて居るので生徒等は首を傾げて立って居る。
 立石山で採集した植物は大略左の如し。
ヒキヨモギ メドハギ イヌハギ ネコハギ マキエハギ アリノトウグサ タチフウロソウ グンナイフウロソウ コウリンカ ハナナヅナ コバノイチヤクソウ ツリガネニンジン フシグロセンノウ トリアシショウマ ムシャリンドウ
 角間新田の上で星糞峠の道に合した。此の辺の湿地は、一面のサワギキョウで濃紫の花が目醒むばかり咲き揃って、猶所々にエンビセンノウの真紅が夜火の如く群落をして居る。サラシナショウマの雪白なる穂状花は、角間川の渓流を挟み咲いて、女郎花、藤袴等と相靡くなど、生徒等の喜びは大したものだ。此処から十町許なるしな平までに採集した植物は、
サラシナショウマ イブキトラノオ クララ エンビセンノウ サワギキョウ マツムシソウ マツバニンジン ニガクサ アケボノソウ ウメバチソウ コトジソウ リュウノウギク ヤマハハコ ヤマゴボウ ツルニンジン アブラガヤ
 科の木平の入口で土橋を渡り、角間川に分れて斜めに右に向うのである。この辺からそろそろ霧が襲い始めた。やや広い科の木平の右、前に当って霧ヶ峰の一峰なるアシクラ山の縦断面が、斧で削った如く突っ立って居る。其の極めて鋭利な断崖が、今天辺から沈降する秋霧の間から見え隠れして居る。草叢を踏み分けてクサボケの純黄色な果実を採集して居るうちに、霧雨と云うのがポツポツやり出した。山上の風も少し劇しくなった。断崖を見れば吹き落ち吹き落ちする濃霧が、すでに其の九分以上を埋了して、わずかに見える頂すら、もう直ぐに隠れてしまおうとしている。このまま登った処で空の晴れるかどうかは、近来の天気では先ず疑問である。雨の中を登るもよいがもし病気でもする者があっては、後の女子登山者に対して多少の障礙しょうがいともならぬとは云えない。今日は一旦引返すことにしようと十五人にこの趣を宣告した。ところが女生徒先生中々承知しない。折角ここまで来て只帰ったでは、他の人に面目ないと云うのである。雨具もなし、おまけに二人は下駄がけと云うのだから、色々勧めて帰らせようとするが、つまり承諾しない。詮方なく、又歩み出したが、これから鎌ヶ池までは(頂を越えて)少くも一里半はある。困った事であるが、ぽつぽつと賽の河原坂にかかった。この坂はアシクラ断崖の北端にあたって、霧ヶ峰登山中第一の急坂であるが、(此の断崖は霧ヶ峰溶岩流冷却の際、板状節理をなしたもので、建築用具の平石と称して、盛に採掘せられる。秋田県からも斯の如きものを産する由、複輝石安山岩だそうな)僅々二三町に過ぎぬのだから、大したものではない。併し今日は雨で道がすべって中々困難である。十五人は道ばたの丈長い萩叢や、菅原にその頭までが埋もれて体一面びしょ濡れである。坂の中途に一つの石が横はって居るので、十九人はこの石に、冷たい腰を下ろして弁当をつかい始めた。雨のために握飯がよい加減にしめって居る。時計は今少しで十二時を指そうとして居る。
 午後一時頃、余等は賽の河原坂の上に休んで、下界にれ行く霧の壮大なる光景を眺めて立った。薄霧の末には遙かに諏訪湖さえ見えている。生徒の喜びは大したものであるが、余はこの晴が一時的のものであると信じて居た。果然一時半頃から大粒の雨がやって来た。もう斯うなっては破れかぶれ、疲れた生徒の手を引いても行ける処まで行こうと決心して、丈長い草を分けて出立した。数町行くと、白檜森が左右に一かたまり茂って、その側に潺々せんせんたる小川が流れている。咽を湿して又出掛けた。これから東股川の谷までが霧が峰の[#「霧が峰の」はママ]尤も雄大を極めて居る処で、広漠たる広原が両方の鈍形峰から斜に裳裾を曳いてその中間に、今飲んだ清流を走らせて居る。晴天ならばこの辺に角間新田から登る草刈が、あちこちと唄いかわして、遙か向うに飼放された馬の群が走るなど、真に悠々たる天上の花野であるが、今日は中々そんな訳でない。やっとの事で通り抜けて東股川の谷に下りた。
 採集植物
シモツケソウ クカイソウ ルリトラノオ キンバイソウ ヤナギラン ウスユキソウ ヨブスマソウ ノブキ バイケイソウ シュロソウ ヒメユリ シラヤマギク オタカラコウ タムラソウ キオン
 谷を上れば、右が霧ヶ峰主峰たる車沢山(?)で、その裾が北方に広がって所謂いわゆる御射山原(古歌に詠ずるものは富士見村の御射山原に非ずして、之なりとか伝う)で、道の左側の草深い中に、石の祠が埋れて居る。その直ぐ側には山梨の古樹が一本立って居るが、草寒き山上の風に吹きたわめられて、下枝は同じく草の中に埋れて居る。諏訪大神遊猟の跡というので毎年九月神事があるそうだ。人遠き山上の草を踏んでどんな神事があるのだろうと尊くゆかしく想われる。猶少し行けば、鎌ヶ地である。真円な池の大半がミズごけに埋れて水の形が新月形に残って居るから、鎌ヶ池と名づけたと云う人もあるが、昔鴨が沢山棲んで居たから鴨ヶ池と云ったのが訛転したのだとも云う。どちらへでも面白いから賛成する。池中のミズ蘚を踏んで中に入れば、跡が綿の如く中へ凹んで、少しじめじめと水が出て来る。ここで立ちながら第二の握飯を開いたが、中腹からの雨で、手がかがんで風呂敷が開けない。雨は未だ中々止まないが、ついでにすぐ並びの七島八島の池をも見ようと、猶北方へ歩を移した。鎌ヶ池よりも広くて水が深い。岸には沢桔梗が一帯に咲き続いて、その紫が澄み切った水に映ったさまはやや凄寥の気味に打たれる。下諏訪町から登れば東股官林を過ぎて直ちにこの八島の池に出るのである。この辺はキンバイソウの群落で、黄金色の花が、歩に従って咲き続いて居る。霧は捲き去り捲き来って、天上山上すべての有象を一擲いってきして、宇宙の永劫に投じ去るかと思わせる。暫くして僅かのひまから鷲ヶ峰の雑木林が、直ぐ目の先に見えたが、倏忽しゅくこつに消え失せた。
 採集植物
コタヌキモ(?) ヒメシャクナゲ ミツバオウレン ツルコケモモ イワゼキショウ ショウジョウバカマ ワレモコウ(小形の一種) ツバメオモト ヤチスギラン
 此の他疑問中にあるもの二種。
 山上の雨も雄大ではあるが実に寒くて寒くて堪らない。生徒も最う目的地を究めたのだから、盛に下山の催促をし出した。頭から足まで濡鼠で、唇が白走った紫色を呈している。走る如くして前の道を引返し角間新田まで来た時、天はそろそろ晴れはじめて、それから角間川沿の大道を辿って午後七時上諏訪町に著いた頃は、全くの青天となって八月の夕日が、諏訪湖に反照して居るのであった。霧ヶ峰方面は未だ白雲裡にとざされて居た。一行十九人の健康で、雨中の登山を仕遂げた勇気は、将に女生十五人に向って感嘆の意を表するのである。
附記 十一月十日。散逸せる記憶を喚び起して、急ぎ纏めて紀行を綴る。零砕れいさい体を為さず。慚愧々々。猶余は、この遠足中、特に日本女子服装の不完全なるを切に感じた。常服を改良するか、然らざれば少くも旅行服について、特別の意匠を用いねばならぬ事と思った。旅行家諸君の研究を望む。





底本:「紀行とエッセーで読む 作家の山旅」ヤマケイ文庫、山と溪谷社
   2017(平成29)年3月1日初版第1刷発行
底本の親本:「赤彦全集 第六卷」岩波書店
   1929(昭和4)年12月20日発行
初出:「山岳 第一年第一號」日本山岳會
   1906(明治39)年4月5日発行
※初出時の署名は「久保田柿村舎」です。
入力:富田晶子
校正:雪森
2020年2月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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