幕末維新懐古談
私の子供の時のはなし
高村光雲
これから私のことになる――
私は、現今の下谷の北清島町に生まれました。嘉永五年二月十八日が誕生日です。
その頃は、随分辺鄙なむさくるしい土地であった。江戸下谷源空寺門前といった所で、大黒屋繁蔵というのが大屋さんであった。それで長屋建てで、俗にいう九尺二間、店賃が、よく覚えてはいないが、五百か六百……(九十六文が百、文久銭一つが四文、四文が二十四で九十六文、これが百である。これを九六百という)。
四、五年は別に話もないが……私の生まれた翌年の六月に米国の使節ペルリが浦賀に来た。その翌年、私の二ツの時は安政の大地震、三年は安政三年の大暴風――八歳の時は万延元年で、桜田の変、井伊掃部頭の御首を水戸の浪士が揚げた時である。――その時分の事も朧気には記憶しております。
十歳の時、母の里方、埼玉の東大寺へ奉公の下拵えに行き、一年間いて十一に江戸へ帰った。すると、道補の実弟に、奥州金華山の住職をしている人があって、是非私を貰いたいといい込んで来ました。父は無頓着で、当人が行くといえば行くも好かろうといっていましたが、母は、たった一人の男の子を行く末僧侶にするは可愛そうだといって不承知であったので、この話は中止となった。
私は十二歳になりました。この十二歳という年齢は、当時の男の子に取っては一つのきまりが附く年齢である。それは、十二になると、奉公に出るのが普通です。で、両親たちも私の奉公先についてよりより相談もし心配もしておったことであるが、私は、生まれつきか、鋸や鑿などをもって木片を切ったり、削ったりすることが好きで、よく一日そんなことに気を取られて、近所の子供たちと悪戯をして遊ぶことも忘れているというような風であったから、親たちもそれに目を附けたか、この児は大工にするがよろしかろうということになった。大工というものは職人の王としてあるし、職としても立派なものであるから、腕次第でドンナ出世も出来よう、好きこそ物の上手で、俺に似て器用でもあるから、行く行くは相当の棟梁にもなれようというような考えで、いよいよ両親は私を大工にすることにした。
ちょっとその頃の私どもの周囲の生活状態を話して見ると、今からは想像の外であるようなものです。現在ではただの労働者でも、絵だの彫刻だのというようなことが多少とも脳にありますが、その頃はそうした考えなどは、全くない。絵だの彫刻だのということに気の附くものは、それは相当の身分のある生活をしている人に限られたもので、貧しい日常を送っている町人の身辺には、そんなことはまるで考えても見なかったものです。早い話が、家のつくりのようなものでも、作りからして違っている。今日ではドンナ長屋でも床の間の一つ位はあるけれども、その時代は、普通の町人の家には床の間などはない。玄関や門などはなおさらのこと、……そういうもののあるのは、居附き地主か、名主か、医者の家位です。住居でも、衣食のことでも、万事大層手軽なものでありますから、今いったような絵画彫刻というようなことに気が附かぬのは当然なことである。何んでも手に一つの定職を習い覚え、握りッ拳で毎日幾金かを取って来れば、それで人間一人前の能事として充分と心得たものです。
そんなわけで、私も単純に大工という職業を親たちが選んでくれたので、私にもまた別に異存のありようもなかった。でいよいよ弟子入りをするということに話は進んで行くのであるが、そのまた弟子入りということも簡単なものであった。弟子入りとして、弟子師匠と其所に区別が附いて相当の礼をして、師弟の関係の出来るのは、それは学文とか、武芸の方のことであって、普通町人側の弟子入りは、単に「奉公」で「デッチ奉公」であります。デッチ野郎が小僧に行くことでありますから、別段特別の意味はないのであるが、ただ、その年期のことが普通一般の定則として、十一歳がその季に当っていたのであります。十二歳になると、奉公盛り、十三、十四となると、ちっと薹が立ち過ぎて使う方でも使いにくくて困るといったもの……十四にもなってぶらぶら子供を遊ばして置く家があると、「あれでは貧乏をするのも当り前だ。親たちの心得が悪い」と世間の口がうるさかったもの――だから、十一、二歳は奉公の適期であって、それから十年間の年季奉公。それが明けると、一年の礼奉公――それを勤め上げないものは碌でなしで、取るにも足らぬヤクザ者として町内でも擯斥されたものでありました。
私は、その頃の幼名を光蔵と呼んでおりました。
「光蔵、お前も十二になった。奉公に行かんではならん。お前は大工になるが好かろう。どうだ。大工になるか」
父の言葉に対して私は不服はありませんから、
「大工は好い、……大工に行きましょう……」
「そうか、それでは好い棟梁を探してやろう」
父はこういいましたが、ちょうど、私の父兼松の弟の中島鉄五郎という人の家内の里が八丁堀の水谷町に大工をやっておったので、他を探すよりも、身内のことでもあるし、これが好かろうと、いよいよ、明日は、おばさんが、私をその大工の棟梁の家へ伴れて行ってくれることになりました。
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