幕末維新懐古談

店初まっての大作をしたはなし

高村光雲




 かれこれしているうちに私は病気になった。
 医師に掛かると、傷寒しょうかんの軽いのだということだったが、今日でいえばちょうチブスであった。お医師いしゃは漢法で柳橋やなぎばしの古川という上手な人でした。前後二月半ほども床にいていました。
 病気がなおるとまた仕事に取り掛かる。師匠の家の仕事も、博覧会の影響なども多少あって、注文も絶えず後から後からとあるという風で、まず繁昌はんじょうの方であった。私がもっぱら師匠の代作をしていることなども、知る人は知っておって、私を認めている人なども自然に多くなるような風でありましたが、私としては何処どこまでも師匠の蔭にいるものであって、よし、多少手柄があったとしても、そういうことは虚心でいるように心掛けておりました。
 師匠は私の名が表面に出て人の注目をくようなことは好まれませんでした。世間の噂に私のことなどが出ても、私の耳へは入れませんでした。

 さて、とかくするうち、明治十年の末か、十一年の春であったか、日取りはしかと覚えませんが、その前後のこと、京橋築地つきじにアーレンス商会というドイツ人経営の有名な商館があって、その番頭のベンケイという妙な名の男とうことになった。
 この人は年はまだ二十四であったが、なかなかのけ者で、商売上の掛け引き万端、それはきびきびしたものであった。私は最初はこの人を三十以上の年輩と思っておったが、二十四と聞き、自分の年齢としに比較して、まだ二つも年下でありながら、知らぬ国へ渡って、これだけ、立派にり廻して行くというは、さてさてえらいもの、国の文明が違うためか、人間の賢不肖によるか、いずれにしても我々は慚愧ざんきに堪えぬ次第であると、私は心ひそかにこの人の利溌りはつさに驚いていたのであった。
 このベンケイが師匠の家に来るようになった手続きというのは、当時菊池容斎きくちようさいの高弟に松本楓湖ふうこという絵師があった。この人は見上げるほどの大兵だいひょうで、紫の打紐うちひもで大たぶさに結い、まちだかの袴に立派な大小だいしょうを差して、朴歯ほおば下駄げたを踏み鳴らし、見るからに武芸者といった立派な風采。もっとも剣術なども達者であるとか聞きましたが、当時、住居すまい諏訪町すわちょうの湯屋の裏にあった。アーレンス商会では同商会の職工に仕事をさせるその下絵をこの楓湖氏に依頼していたので、今の番頭ベンケイがその衝に当っている所から知り合いの中であったから、折々、楓湖氏はベンケイをれて駒形町時代から師匠の店に彫刻類を見に来たことがあったが、今度楓湖氏を介して改めてベンケイが東雲師へ仕事を依頼すべく参ったわけであった。当時の楓湖氏は今日の帝室技芸員の松本楓湖先生のことで、私よりもさらに五、六年も老齢ではあるが、壮健で谷中清水町に住まっておられます。毎年の帝展へは必ず出品されております。
 当日は両人で来て、仕事を頼むというので、どういう御注文かというと、唐子からこが器物を差し上げている形を作ってくれという。それは何に用うるかというと洋燈ラムプ台になるので、本国からの注文であるということ。高さは五尺位で一対。至急入用であるから、そのつもりにて幾金いくらで出来るかつもりをしてくれという。唐子は生地きじだけを作ってくれれば、彩色は自分の方でするということであった。私もちょうど病気全快して師匠の家で仕事をしていた時であるから、これらの応対を聞いておった。

 楓湖氏とベンケイが帰ると、間もなく、師匠は私に向い、
「幸吉、今夜、夜食に行こうではないか」
といわれるので、私は師匠と一緒に夕方外へ出ました。観音様の中店の「燗銅壺かんどうこ」といった料理店で夜食をしながら、師匠は少し言葉を改め、
「幸吉、実は、今度、お前に骨を折ってもらわなくちゃならないことが出来たんだ。一つしっかりやってもらいたい」
 今の洋燈台の注文が来たことを師匠は話されて、一切万事私に製作の方を仕切ってやってくれろという相談に預かりました。
 ところが、今も申す通り、たけ五尺の唐子で一対という注文、今日ではなんでもないが、その当時、徳川末期のドン底の、すべて作品が小さくなっている時代の彫刻界では、丈五尺というと、まずなかなかの大物おおものであって、師匠の店においても、店初まって以来の大作であった。それを私が一個の手でそれを製作するというは容易ならぬ重任、なまやさしいことではこの役目は出来ないのであるから、私も修業のためにもなることゆえ、一層勇気も出て、師匠のたのみを引き受けることに承知しました。
 話がきまれば、早速つもりをして見ると、店初まって以来の大作で、したがってまた店初まって以来の高価な注文品――およそ、どの位の値段になったかというと、それが、よほどおかしい。一つが百二十円、一対で二百四十円という算盤そろばんになった。もっとも、私の手間一年で百円にはなりませんでした。これが江戸でも屈指の大店おおみせを張っている大仏師東雲の店初めての金高でありました。
 さて、私はいよいよ製作に取り掛かることになる。
 唐子の下絵したえは楓湖氏の筆になったもので、それを見本として雛形ひながたを作る。ところが、その唐子というものはお約束通り、ずんぐりとした身長せいのもので大層肥太ふとっている。まずその下絵によって一尺位に彫り上げ、それを師匠に見せますと、これはよく出来たという。これならばベンケイに見せてもよろしかろうというので、その旨をしらせると、或る日、アーレンス商会のその注文主のお客と、それからベンケイとほかに一人で三人が馬車に乗ってやって来ました。で、早速下彫りを見せますと、案外で、どうも先方の気に入らぬような風である。何か互いに話し合って批評をしているが、その客人と覚しき人の表情を見ても気に入っておらぬということが私たちにもよく分る。そしてベンケイの通弁で大体を聞くと、どうも、ずんぐり、むっくりしているのが客の気に入らないのだという。つまり、ぶくぶくしていてはいけないので、もっと、すっきりと丈がすらり高くなくてはというのである。師匠はそれを聞いていかにも不満のていでいられる。やがて彼らは馬車に乗っていずれかへ出掛けて行きました。多分浅草でも見物に行ったことと見える。

 彼らが帰ったあとで、師匠はぷんぷん怒っていられる。
毛唐人けとうじんに日本の彫刻が分るものか。気に入らないなら気に入らないでしたらよかろう。こっちで頼んでさせてもらう仕事ではない。向うから頼みに来たのだ。いやならよすまでのことだ。唐子には唐子の約束があるんだ。しかも、この下絵は楓湖さんがつけたのだ。毛唐人に日本の彫り物が分ってたまるものか」など、そこはいわゆる名人気質かたぎでなかなか一刻である。私も、気を張ってこしらえた雛形が落第とあっては師にも気の毒なり、第一自分もきまり悪い。
「どうも案外な結果になって相済みません」というより仕方ないのでした。ところが師匠は、「お前の粗忽そこつではない。おれが好いと思うからこれで結構といったのだ。俺の責任だ。お前が心配をすることは一つもない。向うの人間が分らず屋なんだ」
と、一時は気をわるくしても、私のことは、こういって、サッパリした人ですから、怒った後は笑っている処へ、二時間ほどして再びベンケイが一人でやって来ました。師匠の不満な顔を見ると、にこにこしながら、
「先刻はお気にさわったかも知れないが、客が素人しろうとで彫刻を見る眼がないから気に入らない風を見せたのですが、実は、いうまでもなく、あの雛形は大変うまく出来てるんです。けれど、単に外見の上から形が少し気に入らないというので、……それは、つまり思惑おもわくが西洋の人と日本の人と違うのです。というのは、こうなんです。西洋人は唐子の約束なんか分らず、人間なら人間のようにもっとすらりと身長せいが高ければ好いので、あんなに、ぶよぶよ肥太ふとって、ちんちくりんでは第一物をささげている台として格好が附かないと、まあ、こういった訳なんですから、今度は当り前の人間だと思って、当り前にやって見て下さい。西洋彫刻の人物は、すべてせて、すらりとしてるんですから、余り短く、でくでくしてると、不具者かたわの人間見たようだって、あの人に気に入らなかったんです。気に入らない処はたったこれだけなんです。仕事のく出来てることは、私はもちろん、あの人たちも充分認めているんです。で、あの雛形を作った人の腕前なら、それを、もっとすらりと痩せて拵えることは何んでもないことでしょう。その点さえ心得てやり直してもらえば今度は必ず気に入りますから、どうか、一つ、気を悪くなさらずにやって下さい」
 相更あいかわらずベンケイの応対は旨いもので、流暢りゅうちょうな日本語でやっている。一本気で、ぷんぷん怒っている師匠もを折って、
「日本人と毛唐人との思惑違いというのなら話は分る。では、もう一度やり直して見よう」
ということになりました。私も傍で聞いておって、なるほど、ベンケイのいう所至極道理もっともであると思わぬわけに行きませんで、よく、先方の意味が了解された気がしました。

 ベンケイが帰ると、師匠はさらに私に向って、もう一度やり直しを頼むという順序となった。そこで、今度は私も一層心配だが、先方の意のある所が充分にも落ちていることでありますから、今度は思い切ってこなして、下絵には便たよらずに自分勝手にやって退けたといっても好い位に大胆に拵えました。つまり思い切りこなしてから唐子の服をつけさせるという寸法に彫って行ったのです。かれこれ半月ばかりって、まず自分の考え通りに出来たから、師匠に見せました。
「なるほど、これはい。これならベンケイが見てもきっと気に入るだろう」
というので、先方へ知らせる。直ぐベンケイが来て、一目見て、
「これは結構、もう客に見せなくても、これなら大丈夫。私が責任を持ちます。有難う」
とすこぶる意にかなった容子ようすで帰りました。
 そこで、いよいよ本当に製作に取り掛かることになったのですが、何しろ、私も、生まれて初めての大作のことで、かなり苦心をしました。
 かくて、十一年の十一月頃、全く製作を終り、店に飾り、先方の検分を終って唐子の彫刻は引き取られて行きました。この大作は私の修業としてはなかなかためになりましたと同時に、また一面には、こうした作をやったことなどから次第に外国向きの注文を多く師匠の店で引き受ける素地を作ったことになりました。
 この時代から、そろそろ日本の従来の仏師の店において外国貿易品的傾向の製作が多くなって行く一転機の時代に這入はいって来たのでありました。





底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2006年9月8日作成
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