幕末維新懐古談
貿易品の型彫りをしたはなし
高村光雲
それから、また暫くの後、或る日私が仕事場で仕事をしていると、一人の百姓のような風体をした老人が格子戸を開けて訪ねて来ました。
その人は、チョン髷を結って、太い鼻緒の下駄を穿き、見るからに素樸な風体、変な人だと思っていると、
「一つ彫刻を頼みたい」という。
「木で彫る方の彫刻なら何んでも彫りましょう」
と答えると、
「それは結構、では今夜私の宅へ来て下さい。能く御相談をしましょう。私は神田旅籠町の三河屋幸三郎というものだ」
こういい残して帰りました。どういう人物か知らないが、とにかく、約束通り、私は、その宿所へ訪ねて見ると、それはなかなか立派な構え、御成道の大時計を右に曲って神田明神下の方へ曲る角の、昌平橋へ出ようという左側に、その頃横浜貿易商で有名な三河屋幸三郎、俗に三幸という人の店であった。
私は、迂闊していたことをおかしく思いながら、通されて逢うと、幸三郎老人はなかなか話が分る。そのはずで、この人は維新の際は彰義隊に関係したという疑いを受けたこともあり、後、五稜廓で奮戦した榎本武揚氏とも往来をして非常な徳川贔負の人であって剣道も能く出来た豪傑、武士道と侠客肌を一緒につき混ぜたような肌合いの人物で、この気性で、時勢を見て貿易商になっているのであるから、なかなか、話も分るわけである。
そこで、老人のいうには、
「私がお頼みしたいというのは、貿易品にする種々の器具の型彫りをしてもらいたいのであるが、今日まで、普通、下絵を絵師にかけてやっているが、どうもおもしろくない。やはり、初手から彫刻師の刀にかけ、彫刻師自身の意匠で型を彫ってもらいたいのだが、一つ勘考して頂きたい。型彫りというものは、鉄へ反対にメガタに彫って、それが型となって、貿易向きのマッチ入れとか、灰皿とか、葉巻入れ、布巾輪、たばこ差し、紙切り、砂糖挟み、時計枠など、いろいろ外国向きの物品を作るのだが、それを一つあなたの意匠を凝らし、絵師の手を借りずに、ジカ附けに彫って頂こう。そうする方が出来が生きて面白く、同じ金属で打ち出したものでも値打ちがあるというもの、一つ自由に腕を振って見て下さい」という注文、そこで、いろいろな用途の器物の見本を見ると、なかなか興味があります。私もこうした新しい試みには以前から気があるのであるから、
「では、どういうものが出来るか、一つ行って見ましょう」
と、引き受けて帰りました。
私の仕事はやはり金型をヘコサに彫る工人の手本になるので、その意匠を考え考えして種々な用途の器具の内面または外側に、旨く意匠づけたものを彫るのであるから、なかなか仕事に骨は折れますが張り合いがある。自分の意匠づけた一つの型が原になって幾万の数が出来て、それが外国へ行くということも考えようによっては面白くもある。そんなような訳で、私はこの仕事を三河屋から請け負い四、五年間も続けてやりました。
それで、生活の方も豊かではないが困るということはなく、まず研究かたがた、ゆっくりと腰を据えてやっておりました。ちょうど、明治十六年頃までこの仕事を続けておりました。その頃三幸の支配人で、現今湯島天神町一丁目におられる草刈豊太郎氏には色々御世話になりました。
かれこれしている中に、内地向きの仕事もぽつぽつあるようになりました。また、私の彫刻の技倆もどうやら世間でも見てくれるようになり、生計の方においても順調の方へ向いて行くような有様となったのであります。で、思うに、明治八、九年から十五、六年頃までの七、八年間は、私に取っては実際経験によって修業の出来た時代で、生活そのものは苦境であったが、個人としての内容を豊富にするにはまことに適当の時代であったのでありました。
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