一葉女史の「たけくらべ」を讀みて

高山樗牛




 本郷臺をサスかけて下りける時、丸山新町と云へるを通りたることありしが、一葉女史がかゝる町の中に住まむとは、告ぐる人三たりありて吾等やうや首肯うなづきぬ。やがて「濁り江」を讀み、「十三夜」を讀み、「わかれみち」を讀みもてゆく中に、先の「丸山新町」を思ひ出して、一葉女史をたゞ人ならず驚きぬ。是の時「めざまし草」の鴎外と、なにがし等との間に、詩人と閲歴の爭ありしが、吾等は耳をば傾けざりき。
 一葉女史の非凡なることを、われ等「たけくらべ」を讀みてますます確めぬ。丸山新町に住むことに於て非凡なることも、又小説家として其の手腕の非凡なることも。
 まことや「たけくらべ」の一篇は、たしかに女史が傑作中の一なるべき也。
 吾等の是の篇を推す所以の一は、其の女主人公の性格の洵に美はしく描かれたるにあり。姉なる人は、憂き川竹の賤しき勤め、身賣りの當時、めきゝに來りし樓の主が誘ひにまかせ、養女にては素より、親戚にては猶更なき身の、あはれ無垢むくなる少女の生活を穢土ゑどにくらし過ごすことの何とも心往かず、田舍より出でし初め、藤色絞りの半襟を袷にかけ着て歩るきしを、田舍もの田舍ものと笑はれしを口惜しがりて、三日三夜泣きつゞけし美登利みどり。男の弱き肩持ちて、十四五人の喧嘩相手を、此處は私が遊び處、お前がたに指でもさゝしはせぬ、と物の見事にはねつけし美登利。額にむさきもの投げつけられしくやしさに、親でさへ額に手はあげぬものを長吉づれが草履の泥を額に塗られては踏まれたも同じこと、と好きな學校まで不機嫌に休みし美登利。我は女、とても敵ひがたき弱味をば付け目にして、と祭の夜の卑怯の處置しうちを憤り、姉の全盛を笠に着て、表一町の意地敵に楯つき、大黒屋の美登利、紙一枚のお世話にも預らぬものを、あのやうに乞食呼ばはりして貰ふ恩は無し、と我儘の本性、侮られしが口惜しさに、石筆を折り、墨を捨て、書物も十露盤もらぬものに、中よき友と埓も無く遊びし美登利。おきやんの本性は瀧つ瀬の流に似て、心の底に停るもの無しと見えしはあだなれや。扨も是の道だけは思の外の美登利。浮名を唄はるゝまでにも無き人の、さりとては無情つれなき仕打、會へば背き、言へば答へぬ意地惡るは、友達と思はずば口をくも要らぬ事と、少し癪にさはりて、摺れ違うても物言はぬ中はホンの表面うはべのいさゝ川、底の流は人知れず湧き立つまでの胸の思を、忘るゝとには無きふた月、三月みつき。秋の夜雨の檐下にしほらしき人の後影見るとはなしに、何時までも何時までも見送りし心の中は、やがて胸倉捉へてほざき散らさむずお侠の本性もあはれや。今は紅入の友禪に赤き心を見する可憐の少女、是より後は中よき友とも遊ばず、衣ひきかづきて一と間に籠る古風の振舞、生れ變りたらむ樣の美登利は、有りし意地を其まゝ封じこめて、こゝしばらくの怪しの態を誰が何時言告ぐるでも無く、格子門の外にかゝる水仙の作り花は、龍華寺の信如が、なにがしの學校に袖の色變へぬべき當日のしるしなり、とはあはれ/\。たけくらべ、あへなく過ぎし昔の夢を思ひやるだに、いと床しや。
 一葉女史いかなる妙手あれば、是の間の情理をかくまでに穿たれしや。是の平淡の資材を驅りて、此の幽妙の人心をくせるは、たしかに女史が「十三夜」以上の作と云ふべし。正太も、三五郎も、信如も、各自の性格に於て洵によく其一致を保てども、かへす/″\も面白きは美登利なり。吾等つら/\是の作を讀みしとき、人情の自からなる美はしき、人生の本末の果敢なさ、くさ/″\の思ひに堪へざりき。見よや女子の勢力、と言はぬばかりの春秋知らぬ五丁町の賑ひに、美登利の眼に女郎といふもの、さのみ賤しき勤めとも思はねば、姉の全盛を父母への孝養と羨ましく、お職を通す姉が身の憂いのつらひの數も知らねば、廓のことよろづ面白く聞きなさるゝ年はやうやう數への十四、習は性を移す世に、是の末如何の運命に到るべき。玉の如く清き少女の初戀は、あはれや露の如く脆く消えて、恐ろしき淺ましき前途の、蛇の口を開いて待ち居るとも知らで、あへなき夢を忍ぶらむ美登利の身の哀れさよ。生れにはなど變りなき人の種。十三四の友どちは、げに無邪氣なる天人の群れとも見るべくも、年經ち、心長けては、濁り江の底なき水に交りて、本の雫の珠の影だにあらず。たけくらべ、あはれ床しく忍ばるゝ吾れ人の昔かな。一葉女史が是の篇は、やがて吾等が懺悔録として見べきに非ざるか。
 是れ吾等が「たけくらべ」を讀みて感ずる所なり。敢て批評とは謂はじ。
(明治二十九年五月)





底本:「日本現代文學全集8」講談社
   1967(昭和42)年11月19日発行

入力:三州生桑
校正:染川隆俊
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
2005年5月17日作成
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