踊る地平線

踊る地平線

谷譲次




   SAYONARA

 がたん!
 ――という一つの運命的な衝動を私たちの神経につたえて、午後九時十五分東京駅発下関行急行は、欧亜連絡の国際列車だけに、ちょいと気取った威厳と荘重のうちにその車輪の廻転を開始した。
 多くの出発と別離がそうであるように、じつに劇的な瞬間が私たちのうえに落ちる。
 まず、車窓のそとに折り重なる人の顔が一つひとつ大きな口に変って、それら無数の巨大な口腔が、おどろくべき集団的訓練のもとにここに一大音響を発した。あああ――あい! というのだ。ばんざああい!
 では、大きな声で『さよなら!』
 さよなら!
 そしてまた『ばんざあい!』
 この爆発する音波の怒濤。燃焼する感激。立ちのぼる昂奮と人の顔・顔・顔。そして夜のプラットフォームに漂う光線の屈折――それらの総合による場面的効果は、ながい長い行程をまえに控えている私達の心臓をいささか民族的な感傷に甘えさせずにはおかない。が、そんな機会はなかった。交通機関はつねに無慈悲にまで個人の感情に没交渉である。彼女が贈られた花束を振り、私が、この刹那せつなの印象をながく記憶しようと努力しているうちに、汽車はじぶんの任務にだけ忠実に、well ――急行だから早い。さっさと出てしまった。私たちは車室へ帰る。
 皿のうえの魚のように、彼女はいつまでも花束とともに黙りこくって動かない。何が彼女の脳髄を侵蝕しているのか、私にはよくわかる。東京と東京の持つすべて、日本と日本のもつすべてから時間的にも地理的にも完全に離れようとするいま、私達は急に白っぽい不安に捉われ出したのだ。それはふたりのすこしも予期しなかった、そして、それだけまた自然すぎる、漠然たる憂鬱だった。
 しかし、この「去るに臨みて」の万感こもごもは、ぼうっと赤い東京の夜ぞらとともにすぐ消えて、かわりに私は、そこに世界地図の上をいまわる二足の靴を想像する。それは、倫敦ロンドンチャアリング・クロスの敷石もアルジェリアの砂漠も、シャンゼリゼエの歩道も同じ軽さで叩くだろうしベルゲンの土も附けばアラビヤの砂も浴びるだろう。私達の旅のすがただ。詩人の墓もでてみたいし、帝王の裾にも接吻したい。西班牙スペインの駅夫と喧嘩することもあろうし、ルウマニアの巡査に小突かれる日もあろう。モンテ・カアロでは夜どおし張るつもりだ。ムッソリニと握手する。一夕いっせき独逸ドイツ廃帝と快諾して思い出ばなしを聞く。ナポレオンの死の床も見たいし、ツタカメン王の使用した安全剃刀かみそりもぜひ拝観しよう。それから、それから、ETC・ETC――出来るだけ多くの大それた欲望を持つことが、旅行者にあたえられた権利であり、義務なのだ。
 気がついてみると私は、汽車の進行に合わしてこころ一ぱい叫んでいた。
 がたん・がたん!
 がたん・がたん!
 歓呼のこ――えに送られて
 歓呼のこ――えに送られて
 何とそれが調子よくピストンのひびきに乗ったことよ! ことによると私は早くも無意識のうちに、自然現象のように自由で無頼な放浪者を気取っていたのかも知れない。
 寝台へ這い上る。
 同時に、さまざまな断片が私のこころへ這いあがる。
 ホテルから東京駅へのタキシのなかから一瞥いちべつした最後の東京。雨が降っていた。窓を打ってななめに走る水。丸ビルを撫で上げる自動車の頭灯ヘットライト
「東京――モスコウ」と朱線のはいった黄色い切符を示したとき、ちょっと儀式張って、善きほほえみとともにはさみを入れてくれた改札係の顔。若きかれのうえに祝福あれ!
 とにかくこれが当分のお別れであろう日本の春の夜を、汽車はいま狂女のように驀進ばくしんしている。下関へ、ハルビンへ、莫斯科モスコウへ、伯林ベルリンへ、やがてロンドンへ。
 朝は、私たち同行二人の巡礼をすっかり国際的な漂泊人のこころもちのなかに発見するであろう。
 汽車という汽車のなかで、その夜の九時十五分東京駅発下関行急行――私がそれに何らの必要もなしにほとんど先天的な約束をさえ見出しかけていると、彼女も眠れないとみえて、下の寝台で寝返りを打つのが聞えた。
『どうしたい、まだ降ってるかい?』
『え?』
『雨さ。』
『いいえ。』
『どのへんだろう此処ここ――。』
『さあ――静岡あたりでしょう、きっと。』

   黒と白だけの風景画

「下関」
 むらさき色の闇黒あんこく。警戒線。星くず。
 無表情な顔をならべて関釜かんぷ連絡T丸の船艙へ流れこむ朝鮮人の白衣びゃくえの列。
「釜山」
 あさ露に濡れる波止場の板。
 赤いまるい禿山。
 あめと煙草―― e.g. 朝鮮専売局の発売にかかるカイダ・マコウ・ピジョンなど・など・など。
 停車場への雑沓。
 バナナを頬張りながら口論している色の黒い八字ひげと、金ぶちの色眼鏡。
 内地人の薬売り――新植民地情景。
「京城まで」
 土塀と白壁。赤土。黒豚。
 小川。犬。へんぽんたる洗濯物。
 教神――水晶洞所見。
 滝頭山ろうとうざん神社のお祭り。
 勿禁院洞もっきんいんどうと読める。
 皇恩浩蕩こうとうとも書いてある。
 長いきせると荷馬車。
 褐色の連続を点綴てんてつする立看板の林――大学眼薬、福助足袋たび、稲こき親玉号、なになに石鹸、仁丹、自転車ソクリョク号、つちやたび、風邪には新薬ノムトナオル散、ふたたび稲こきおやだま号、ナイス印万年筆、スメル香油、何とか歯みがき、& whatnot。
「京城」
 降りて行った亜米利加アメリカの女伝導師と、彼女の靴下のやぶれ。
 午後七時四十分。
「安東まで」
 低い丘。雑木林。
 金泉で雨。
 黙々として黒く濡れている貨車。
 停車場の棚に金雀枝えにしだがいっぱい咲いていた――三浪津さんろうしんの駅。
 秋風嶺しゅうふうれいでも雨。
 見たことのあるような気のする転轍手てんてつしゅの顔。
 鉄道官舎のまえに立っていた日本の女。
 唐傘からかさ。雑草。石炭。枕木。
 日の丸。
 小学校。
「安東」
 税関。鉄橋。驟雨。日光。
「奉天まで」
 ゆるいカアキイ色の起伏。
 展望車に絵葉書がおいてある。唐獅子の画に註していわく。「現今民国有識階級ニおいテハ華国ハ眠レル獅子ナリト言ヒナサレ覚醒又ハ警世ノ意アリテもっとモ喜バル」と。
 なになに聯隊奮戦の地。
 連山関れんざんかんの郵局。
「赤い夕陽」
 ほんとに真赤な、大きな、火事のような入り日だ。
「奉天」
 のりかえ。
「長春」
 のりかえ。
 支那馬車のむれ。
 客桟かくざんで人を呼ぶ声。深夜。
 やすい煙草――大愛国香烟、長寿牌大号、中国出産中俄煙ちゅうがえん公司。
 南京豆の皮を吹く砂まじりの風。
 水菓子屋のあかり。
 午前十二時十分発。
哈爾賓ハルビンまで」
 万国寝台車の一夜。巴里パリーに本社のあるワゴンリイのくるまだ。まるで宮殿のよう――と彼女が讃嘆したとおりに、飴いろに金ぴかの装飾が光っている。
 中華民国のかたではありませんか、と呼びかけられて、下関で高等係の人からかなり長い質疑応答をやらせられた私達――断っておくが、私はながい外套にへんなぐあいに帽子をつぶしてかぶり、彼女は断髪にしかと花束を抱えていた――も、長春では、旅券をしらべに車室へ来た支那の官憲が、一眼ひとめで日本人と白眼にらんだためにそのままに済んだ。――のはいいが、故国の役人には支那人に間違われ、支那人にはすぐに日本人と看破される。やはり、旅だ。
「ハルビン」
 灰色にくすぶる新市街の停車場。
 殺到する支那の赤帽。手荷物略奪戦。
 りゃん・りゃん・りゃん!
 まあやあ・ほいほい!
 てんが・れんが・れん!
 For God's sake, wait ! ――この一種物語的なひびきを持つ都会の名は、私たち日本人にただちに公爵伊藤の死を聯想させる。
 で、これが映画なら、さしずめここでカット・バックというところだ。すなわち、画面全体が見るみるぼやけて、そこに過去の話中話が煙りのように浮かび出る――こんなふうに。
 最初スクリンいっぱいに、疾走中の汽車の車輪を大きく見せて、つぎに字幕タイトル
「明治四十二年十月二十六日午前八時、元勲伊藤公の坐乗せる特別列車は、長春より一路哈爾賓ハルビンをさして急ぎつつあった。」
 食堂車内の景。
 伊藤公が、金の飾りのついた洋杖ステッキをかたわらに、何か書いた紙片を満鉄総裁中村是公なかむらぜこう氏、宮内大臣秘書官森泰二郎氏に示している。漢詩人森槐南もりかいなんが微吟する。
 十月二十五日発奉天赴ほうてんにおもむく長春汽車中作
万里平原南満洲ばんりのへいげんみなみまんしゅう  風光潤遠一天秋ふうこうじゅんえんいってんのあき
当年戦跡留余憤とうねんのせんせきよふんをとどむ  更使行人牽暗愁こうしこうじんあんしゅうをひく
「日露の親和がこの汽車中にはじまり、汽車の前進するがごとくますます進展せんことを望む。」公はこう言って露西亜ロシア側の接待役を見まわしながら、しきりにつづける。「余は露西亜人を愛すヤ・リュブリュウ・ルウスキフ。」
 この「日露の親和がうんぬん」のことばは、公の死後、非常な好意をもって露人のあいだに喧伝された有名な言辞だ。
 ふたたびタイトル。
「そうして午前九時――。」
 と、これから暗殺の場面へ移るのだが、まあそう。
 それよりも同車の満鉄のG氏が、私のひじつかまえて大声に話している。
『列氏零下五度、こまかい雪が降っていましてね、猛烈に寒い朝でしたよ。ピストルの音ですか。いいえ、日本人の一般出迎者はずっと左の端のほうにいたので、何も聞えませんでした。いえ、聞いた人もありましたが、支那人が歓迎の意味で爆竹を打ちあげたのだと思ったそうです。すると伊藤公がられたというんでしょう、さあ大変、みんな滅茶苦茶に飛び出して行って、わいわいごった返しです。露助の兵隊なんか大きなやつを振り廻してやたらに、ヤポウネツ・ヤポンツァ! って呶鳴どなる――。』
『ちょ、ちょっと待って下さい。』私はあわてる。『その、それは何です――ヤポ・ヤポってのは?』
日本人が日本人をヤポウネツ・ヤポンツァ! というんですね。で、わあっと押し出したのはいいが、線路へ落ちるやら兵隊にられるやら――そのうちにぎゃっ! というもの凄い声が聞えましたが、それは人混みのなかで露助の兵隊が安重根あんじゅうこんを捕まえたときに、先生夢中で頸部くびを締めつけたもんだから、あんのやつ苦しがって悲鳴をあげたんです。私も一生懸命でしたよ。爪立つまだちして伊藤公のかつがれて行くのを見ていました――。』
 汽車を降りた私たちは、二十年前に公の狙撃された現場に立った。その地点は、一・二等待合室食堂へ向って、左から二番目と三番目の窓の中間、ちょうど鉄の支柱前方線路寄りの個処だ。が、いくら見廻しても、どこの停車場のプラットフォウムにもある、煤烟ばいえんと風雨によごれたこんくりいと平面の一部に過ぎない。いや、平面と呼ぶべくそれはあまりにでこぼこして、汽車を迎えるためにかれた小さな水たまりが、藁屑わらくず露西亜ロシア女の唾と、蒼穹そうきゅうを去来する白雲はくうんの一片とをうかべているだけだった。
 G氏の案内で構内食堂の隅に腰を下ろす。ここはその朝、外套に運動帽子といういでたちでレスナヤ街二十八号の友人金成白きんせいはく――レスナヤ28は、いま、見たところ何の変哲もない荒れ果てた一住宅だ――の家を出た安重根が、近づく汽車の音に胸を押さえながら、ぽけっとのブロウニング式七連発を握りしめたという椅子である。殺した人も殺された人も、もうすっかり話しがついて、どこかしずかなところでこうして私達のようにお茶をんでいるような気がしてならない。
 ハルビン――不思議が不思議でない町。
 OH・YES! HARBIN。いろんな別称で呼ばれるわけだ。
 あらゆる人種と美しい罪の市場。
 海のない「上海シャンハイ」。
 そうして、極東の小巴里パリー
 さればこそ、どんな冒険にでも勇敢ゲイムであるべく、彼女の口紅は思いきり濃くなり、やけに意気っぽく帽子を曲げる。AHA!

   夕陽に十字を切る

 火酒ウォッカのように澄み切った空気のなかを、うそ寒い日光が白くそそいで、しっとりと去年からの塵埃ほこりをかぶった建物と、骨の高いはだかのどろ柳と、呪文のようなポスタアを貼った広告塔と、塑像のように動かない街角の支那巡査、ぬかるみのまま固化した裏通り、zig zag につづく木柵、剃刀みたいにひやりと頬に接吻して行く松花江しょうかこうの風、そよぐ白楊はくようと巻きあがる馬糞の粉と、猶太ユダヤ女の買物袋と帝政時代の侍従長のひげと。
 過去と未来がきくしく交響する、哈爾賓ハルビンはいつもたそがれの街だ。
 そこでは、朝も昼も真夜中も、すべてが夕ぐれの持つ色とにおいで塗りつぶされて、その歴史もその市民も、坂も空地も商業街も電柱も石ころも、それらの発散する捨鉢すてばちな幻怪味と蟲惑こわくも、音楽も服装も食物も、みんな落日おちびを浴びて長い影を引いている。言わば、小さな暴君にかれて顧みられない玩具。Or ――発狂した悪魔詩人が、きまって毎夜の夢にさまよう家並やなみ、それがこのハルビンである。
 ホテルの三階の部屋から私は下の往来を見おろしていた。女学生らしい赤い帽子の露西亜ロシア少女が、青い林檎りんごをかじりながら手を上げて、泥だらけの乗合自動車を停める。兵卒みたいな腕力家の車掌が荷物のように彼女をつまみあげて行った。蒙古人の皮鞋匠ひあいしょうが石だたみに道具を並べて、眼のまえの通行人の足をぼんやり眺めている。靴直しだ。支那人が鶏を抱いてくる。盗んできたものに相違ない。かれは、三歩ごとにうしろを振り返っては急いでいるから。
 向側は露西亜人の食料品店とみえて、ほこりにまみれた缶詰と青物がほんのすこしばかり飾窓ショーウインドーに散らばって、家の横に貼った黄色い紙が、あやうく飛びそうに土けむりにはためいている。阿弥陀仏、念々不忘、福徳無量と印刷してある。極楽寺とかいう近ごろ出来た支那寺の伝導標語であろう。楽隊がきた。羅馬ローマ字を裏から見るような露西亜語のびらを自動車の腹へ掛けて、三人の楽手が、それでもみずからの貧しい旋律に十分陶酔して疾駆し去った。漢字の旗が板みたいにくうに流れて立っていた。電影子園でんえいしえんというのは常設館のことだろう。「哀憐公子」と映画の題が大きく書いてあった。
 風がひどい。町ぜんたいを引っき廻す気流の渦だ。市街の果ての平原に煙幕のような蒙古風が巻き立ったかと思うと、視界はもう人類最後の審判の日のように、赤く暗くかすんで、色の附いた空気があらゆる隙間から、室内へ、机の上へ、寝台へ、そして私たちの鼻口へ、おそらくは肺の底へまで音を立てて侵入してくるのだ。そのために椅子の背も人の肩も、十マイルむこうの土砂の粉末を載せて真白である。咽喉のどが乾く。冬以来雨というものがないという。
 が、一たびこの大規模な、そして色彩的な風が屋根を包んで過ぎると、あとには、火酒ウォッカのように澄みきった大気のなかをうすら寒い日光が白くそそいで、哈爾賓ハルビンはやはり根気のいい植物のように、じいっと何かを待って展開している。
 グランド・ホテル――格蘭得火太立グランド・ホテル旅館という物々しい支那語の看板をかかげたホテルに、私たちは宿をとっているのだ。三階の自室の窓に立つと、大陸の気層は魔術的だ、けさ着いた停車場ワグザルの建物をすぐ眼のまえに見せて、鬱金うこん木綿の筒っぽのどてらのようなものに尨大な毛の帽子をいただいた支那人の御者が、車輪から車体から座席、馬にいたるまで土とほこりに汚れきった一頭立ての軽馬車を雑然とかためて、高粱こうりゃんむちを鳴らして何か大声に罵りあいながら客待ちしているのが、遠くさわがしいだけにうつろに眺められる。ホテルの玄関の両側には、満洲人の果物売りが朝早くからずらりと歩道に荷をおろして、商売に関係なく暗くなるまで居眠りしている。たまに上海蜜柑みかんの一つも売れようものなら、われながら不審げにきょとんとするが、すぐに忘れてまた眠り出す。そうしてえりへしみる夕風に急に驚いたように籠を片づけて、何人も何人も薄あかりのなかを連れ立って帰って行くのだ。
 おちぶれた貴族が、猥雑な現在の生活においても、なおかつ過ぎ去った豪奢と栄誉を忘れ得ずに、いつか再び同じ日のまわってくることを固く信じてその望みにのみ生きている――といったものの哀れパセティックなこころは、ハルビンとハルビンらしいすべての姿に胸を打って感じられる。この格蘭得火太立グランド・ホテル旅館がそうだ。その入口にはセゾンの終った歌劇の広告が老プリマドンナの白粉おしろいみたいにげかかっていても、ちりめん紙を巻いたごむの木の鉢のかげには、たしか玄関番ドアマンの制服が金ぼたんを光らせているし、安物の絨毯じゅうたんは旅行者のかかとに踏みやぶられようとも、その大広間は赤の一色で装飾され、ジョニイ・ウォカアの広告油絵と、東支鉄道の灰皿と、大阪製の巨大な花瓶とを宝物のごとくに安置し、一九二四年度の加奈陀カナダ太平洋会社汽船案内と近着の巴里パリー雑誌ラ・ヴィ・パリジャンヌとが、隣り合わせにきちんと揃えてあり、食堂は、肥満せる猶太ユダヤ独逸ドイツ人ウンテルベルゲル氏が経営して自ら給仕長として立ち、いっぽんの生胡瓜オグレツ大洋タイヤンの一円五十銭をとり、定食アベイトには、卓上電灯を半暗にして不可思議な舞踏交響楽がはじまり、帳場デスク露西亜番頭ロシアクラアクはたくさんの支那語とすこしの英語とすこしの独逸語と少しの仏蘭西フランス語と、それにすこしの日本語とを話し、浅黄色のわんぴいすを着て頭髪を角刈りにした不柔順な支那ボウイの一隊と、慈善病院の看護婦みたいな不潔な露西亜ロシア女中の大軍とを擁し――以下略――とさえ言えば、いかに「哈爾賓ハルビン」な、あまりにハルビンな火太立ホテルであるかが充分以上に描出されたことになろう。
 窓硝子ガラスをとおしてまだぼんやりと前の通りを見下ろしていた私は、吹きまくる蒙古風といっしょに奇妙な呼び声が揺れ上ってくるのに気がついた。声は、黄色く暮れてゆく街上をだんだん近づいて来る。
ちいやらまた
たんぐうろえ
 またしばらく間をおいて、
ちやらまた
たんぐろえ
 私は上半身を乗り出して真下の歩道をのぞいた。巌畳がんじょうな支那の中年男が、酸漿ほおずきのしぼんだようなものを何本となく藁束わらたばに刺したのを肩へ担いで、欠伸あくびみたいに大きくゆっくり口を開けるたんびに、円い太い声が、心もちふるえて長閑のどかに吐き出されるのだ。
あああう――あ!
ちい――やらまた
たあ――んぐろえ
 ※(「木+査」、第3水準1-85-84)さんざしという木の実である。それを乾して赤く着色したのを、子供の駄菓子として売り歩いているのだが、七、八つ刺した串が一本大洋タイヤンの一銭とかで、終日砂ほこりにさらされて真っ白になっているのを、売れても売れなくても一向平気に、彼は呶鳴どなることそれ自身に生甲斐いきがいを感じているらしく、私の眼下でもう一度「ちいやらまた」を叫んだのちぶらりと通りすぎていった。山※(「木+査」、第3水準1-85-84)子の実は甘酸あまずっぱい味がして、左程さほどまずくもないそうだけれど、そのほこりだらけなのに怖毛おじけをふるって、私達はとうとう手が出なかった。この山※(「木+査」、第3水準1-85-84)子売りはハルビン街上風景の一主要人物である。黄塵こうじん万丈の風に乗って、泣くようなその売り声が町の角々から漂ってくるとき、人は「哈爾賓ハルビンらしさ」の核心に触れる。
 三十分おきにどっちかの発議で、私たちはお茶を飲んでいる。露西亜チャイだ。気候のせいかみんなよくこのチャイをのむ。個人の家ばかりかどこの事務所でも、時間をきめて洋杯コップになみなみといだのへレモンと砂糖を添えて持ってくるが、身体からだが要求するのだろう、さして美味おいしくもないのに、咽喉のどがひりひりして飲まずにはいられない。が、お茶だけでも仕様がないから、勇を鼓して階下の食堂へ降りてみると、いたずらに広い卓子テーブルのあいだに給仕人の襯衣シャツの胸が白くちらほら光って、運命開拓者のあめりか人が赤い耳輪の売春婦と酒を飲んでいるきり、オウケストラのウォルツが寒々しくあふれている。そのうちに、中年の露西亜ロシア婦人が子供をれて這入はいってきた。東京にいるT露西亜大使の夫人だそうだ。それはいいが、ここはハルビンでも料理のいいほうだというけれど、その食物の猛悪なのには降参せざるを得ない。第一に、ボリシチとか号するスウプに類したものには油が玉のように浮んで、二きれの偉大な肉が煩悶の極うなり声を上げている。つぎなるザクシカというのは、早く言えば、若くして悶死した魚の腐肉だ。そのほかガグリシチにしろペテロシュカにしろギザルシカにしろすべて大同小異である。やたらに量が多いばかりでとても口にする気になれない。もっともカトレイタだのビフシュテイキなんかと称して西欧めいたのもあるにはあるが、ガグリシチやペテロシュカの惨状を一見しただけで、他を試みる必要のないほど料理人の腕はわかる。で、色電灯と散乱する音譜とウンテルベルゲル氏の職業用微笑にいくらかの大洋タイヤンを献じたのち、私達は空腹と連れ立って食堂をあとにした。ただビイフシュトロウゲンという奇怪な一皿と、ブルンビアなるアイスクリイムに厚化粧をほどこしたようなデザアトだけは、いささか人類の食に適することをウンテルベルゲル氏の名誉のためにつけ足しておこう。
 ホテルを出た私たちをタキシのむれと宵闇が待ちかまえていた。そのタキシを駆ってその宵闇のなかを東支倶楽部へいそぐ。トルトウスカヤ女史のひきいる露西亜ロシア舞踊団の公演を見ようというのだ。
 倶楽部の演芸場にも「世が世ならば」の群集があふれて、赤を呪う白の人々と、支那政府の眼をくぐって白の動きを見守る赤の密偵と、赤系と白系がりまざってまるで理髪屋の標柱のような哈爾賓ハルビンの社会相が、ここにそのままの縮図を見せているのだった。何というもの淋しい「過去と未来を同時に呼吸する群」であろう! いまだにニコライ・ロマノフの写真を飾って上帝に十字を切る一団、北東の秘密活動本部をここへおく第三国際の宣伝員、すべての主義と世の動きとをよそに在りし日を夢みる階級――それらの露西亜人とその家族たちが、しばらく政治と闘争と謀策を中止して一夜の受楽のためにこうしてあつまっているのだ。これでも大きな社交的出来事ソシアル・オケイジョンのひとつとみえて、タキシイドの男と粗末なデコルテがあちこちに見受けられるが、無理にも場合を作って明るい宵を持とうとする彼等の努力に、なみだぐましい泣笑いがひそんでいる。じっさいこの町に住む露西亜人は、片っぱしから「やりびても」の心意気なのだ。だから、莫大な体躯といかめしいひげと灰色の眼とをもつ格蘭得火太立グランド・ホテル旅館の老小使ポウタアミシェルは、むかし国境防備軍団の旅団長として皇帝と同じ食卓で茶をんだ記憶を秘蔵し、ボルシチの料理人は革命当時にバイカル湖を泳いで逃げた大銀行家のなれの果てだし、路傍に燐寸マッチを売る老婆という老婆は、すべて王女かもしくは宮廷の侍女であったに相違ない。こうして大山鉱業者は街角に靴をみがき、大将軍は貨物自動車を運転し、大僧正が倉庫の番人をつとめているわけで、陸軍中将の御者、大公爵の番頭、帝室歌劇団花形の売子、すべて由緒ある亡命者をもってハルビンは充満している。これらの白い波に、いま欧亜主義ユウロパシフィックなる一つの反動思想、ソヴィエト制度をピイタア大帝以前の露西亜ロシア本来のものとして肯定して、一ぽう共産党現政府を乗っ取ろうとする運動が、全世界にちらばる白系露人と呼応して起りつつあると聞くが、そうかと思うと、じぶんは今まで白のように言われていたけれど、じつは立派な赤なのだと新聞に公開状を発した作家もあったりして、この哈爾賓ハルビンを中心に、赤がどの程度に白を侵すか、いかにして白よく赤を制するか、それは将来にかかる面白い見ものであろう。とともに、その間にあって活躍する両派密偵のかけひきに、幾多の小説的興味が含まれていることはいうまでもあるまい。
 舞台ではトルトウスカヤ舞踏団の公演がはじまっている。五つ六つから二十歳はたちぐらいの三十人ほどの女にまじって、二、三人の男も見える。みな裸体に近い簡単な服装で、おどりは筋肉的な基本的旋律運動だ。最初は教授の実際を示すためとあって、スタンカによる実習、セレゲイナにおける実習、ビオメカニカ、ピラミッドなどエクロバティックなものが多い。そのほかプログラムに眼をとおすとマズルカというクラシック、韃靼だったん踊り、善と悪との争い、東、猶太ユダヤ風、気まぐれ、グロテスク、さすらい――郷土的なものと象徴的なものとを、程よく集めてある。私は彼女とともに観衆のなかにすわって、かろうじて音楽と舞踊によってしばらく故国と自分たちとの問題や労苦から避難しようとしている周囲の人々をかなしいと思った。
 休憩時にクルアシビイリという元露西亜ロシア軍隊の将校で、日露戦争に旅順で奮戦して負傷した老人に会った。かれの勇名は乃木大将の耳にもはいって、敵ながらも天晴あっぱれとあって将軍から感状をはじめ色々の物を贈られたのを、彼はいまだに大切に保存しているという。あまりいい生活もしていないようで、片腕が肩からない身体からだに、すべての勲章や金モウルの飾りをぎ取った色のせた黒の軍服を着ていた、が、どこかに三軍を叱咤しったした面影が残って、その棒のような身長のうえから何ごとをも諦め切ったほほえみがおだやかにあふれている。このクルアシビイリと話しながら、私はそこらの隅から冷たい赤派の眼がうかがっているような気がしてならなかった。
 つぎの日、並木のまばらな田舎路をドライヴして馬家溝ばかこう横川よこかわおきほか四烈士の墓を見た。荒原の真ん中に高い記念碑が建っている。屍体を発掘したのは碑へ向って右横、すこし背後うしろへまわった小高い地点で、日本から横川氏の弟が来たとき、ハルビンにいた日本人医師が多分このへんに埋めてあるはずだとそこを掘ったところが、はたして二つの死骸がかなり綺麗に扱われて葬ってあったのを発見したのだそうだ。射殺されたのは碑のうらで、当時はここに露軍の砲塁があったという。私は、両氏が眼隠しを拒絶して弾丸の前に立ったであろうあたりを見まわした。満目蕭条しょうじょうたる平野に雑草の花が揺れて、雲の往来ゆききが早い。陽が照ったり影ったりして、枯木のような粗林のむこうに土民の家が傾き、赤土にからすが下りていた。
 すべては時間が適当に処理するものだ。当年碧血へきけつのあと、いまはただ野の草がさざなみのように風に倒れて、遠く浦塩ウラジオへ通ずる鉄路の果てが一線を引いて消える地平に、玩具おもちゃのような汽車が黒煙を吐いている。
 かえりにその線路を横切る。踏切に札が立っている。「小心火車」とある。火車とは汽車のこと。さしずめこれは「汽車に注意すべし」ぐらいのところであろう。支那で汽車というと自動車の意味で、さてこそほうぼうに「福特フォウド汽車」なる広告の出ているわけだ。福特フォウドは例のフォウドである。世界中どこへ行っても、いかなる形でか亜米利加アメリカがついてまわるのはうに覚悟のまえだが、この美国汽車福特フォウド号にはちとおどろかされる。
 支那町傅家甸フウジャテンの新世界で、川鮑魚湯せんぽうぎょとうだの葱焼海参そうしょうかいざんだのと呼号する偉そうできたない食を喫したのち、私たちは不可解な腕車わんしゃをつらねて、喧騒と臭気と極彩色と殷賑いんしんと音響のなかを大通りキタイスカヤ街へ出た。途中、笛と跫音あしおとと泣き女のいとも哀しい支那の葬式にあう。失業者の苦力クーリーが棺をかつぐあとから家族らしい一行がうなだれて、長い列が休みやすみ泥棒市場のかどを曲っていった。泥棒市場は、その名の示すとおり、善良な市民が金を払ってじぶんの盗まれた品物を買戻す市場だ。もっとも、どうせ盗んだものだから誰が何を買ってもさしつかえない。ひどく徹底した国民的施設である。
 キタイスカヤには黒い建物とでこぼこの歩道と貧しい商店とが、それでもさすがにメイン・ストリイトの格式をもってつづいて、安価な原色を身につけた女たちが花屋のまえにとまり、いろいろな種族がベンチに顔を並べ、横町の郵便局には代書屋に人が群れさわぎ、地下室の窓からは真白い女の顔が覗き、秋林チュウリンウォルガバイガルなどの百貨店に日本の商品が散見し、喫茶店の卓子テーブルでは松花江スンガリイの氷の解けたうわさがはずみ、アントニオ・モレノ主演「侠勇男子」の絵看板と跳舞大会のびらとがホテル近代モデルンの入口を色どり、しつこい乞食のに夕方の風が吹き、いっぱいの曹達水ソデリヤ・ワダに日露支全極東の味がこもり、肥った淫売婦がいまつかまえた男のひじをとって口笛を鳴らし、その口笛に応じて十七台の小馬車が勇ましく先を争い、新めいせん日本服のハルビンお何が向う側の露西亜ロシア学生に秋波を送り、暗い入口に人のささやきがうごめき、お洒落しゃれな旅行者の捨てた煙草に六本の手が伸び、同じ男と女に何度も会い、めりんす二〇三高地の輸出向日本芸者がしゃなりと自動車から左褄ひだりづまを取り、露西亜人のよっぱらいが支那の巡警に管をまき、それらのうえにぼやけたあかりと北満の夜霧がひろがり、この貧しい都市にも、まずしいなりに感じと動きと流露フィリング・ムウヴィング・パッションとを追う散歩者の行進曲が奏でられているのを知る。が、スピイドのない享楽の狩猟、PEPを欠く狂噪、CHICの見られない街路進歩プロムナアド、何という神さまに忘れられた砂漠がハルビンであろう!
 いま哈爾賓ハルビンの市中をあめりか人らしい夫婦が自動車を乗りまわして、いたるところで車上から銀貨銅貨を現実に撒き散らして歩いている。何かの功徳かそれとも単なるものずきかも知れないが、「見知らぬ紳士ニエイズベストヌイ・ゴスポジン」として新聞も騒ぎ、みんなそのはなしで持ちきりだ。不幸にして私たちは問題の自動車を見かけなかったけれど、見知らぬ紳士のこころもちはよくわかるように思えてならない。誰だってこのみすぼらしい市民が努力して生活を楽しもうと心がけている窮状を見ては、あり余るものならば財布をからばらまきたい衝動に襲われるであろう。とにかく、こんな中世紀的な物語も物語でなく実在し得るのがハルビンだ。なぜなら、それはつねに振り返っている町だから。そして同時に、絶えず爪立ちして何か――何であるかは哈爾賓ハルビンじしんも知らない――を待ち望んでいる都会だから。
 泣き顔に塗った白粉おしろい。死んだ伯父が愛用した古いふるい動かない銀時計。そんな言葉がよく当てはまるほど、私はハルビンを地球上にユニイクな市街だと思う。その光りと影、その廃頽はいたいと暗示、私は哈爾賓の持つ蕪雑ぶざつな詩趣を愛する。
 そこでは、この夜更けにも夕ぐれの色とにおいがくまなく往きわたって、いまこうしてキタイスカヤ街をまがろうとしている私と彼女に、眼のまえの「飯店めしや」の裏口に貼った紙がはっきりと読めるのだ。
閑人免進悪狗咬人かんじんすすむなかれあくいぬひとをかむ
君子自重面欄莫怪くんしじちょうめんらんあやしむなかれ
 はじめの一行は「無用の者入るべからず」。
 あとの君子自重は、其角きかくの「このところ小便無用花の山」に似て、後者の風流を狙って俗なるに比し、ずっと道学的に洒脱である。私が感心して立ちどまっていると、文字どおりに悪狗あくいぬらしいのが、これもたそがれのかげを引いて長くえた。
 日露戦争の癈兵はいへいらしい老人がふたり、ひとりは手風琴を、他はヴァイオリンを鳴らして路傍に物乞いしている。跛足と盲らだ。「無眼之人」と大きく書いたボウル紙を首から下げていた。
 ウチャストコワヤ街の方角から、深夜の紅塵にまじって支那少年の叫びがけたたましく流れてくる。
ちで・ちで!
 夕刊売りだ。
ちで――い!
ちで――い!

   VIA・さいべりあ

 アフガニスタンという国――とにかく国だろうと思うんだが――の王様が、何かの用で――たぶん鬚でもりに――莫斯科モスコウからワルソウのほうへ出かけているために、その宮内大臣、侍従、料理部員等の一大混成旅行団の乗用として、いい車はみんな欧露方面へとられてしまった。万国寝台会社がこういう。どうもへんな話だが、アフガニスタンにしろズズアイランドにしろ、仮にも王さまの御用とあらば致し方ない。で、不平たらたら汽車賃の払戻しを受けて、一等客が全部二等車へ押しこめられ、いよいよ長途シベリアの旅へ上る。このいよいよこそはじつに世にも大変な「いよいよ」であった。もっとも、あふがにすたん国王のおかげで七日間の不便と受難を余儀なくされたのは私たちばかりじゃない。おなじ車だけでも日本人が九人、独逸ドイツ人の男女が各ひとり、あめりかのお婆さん、チェッコ・スロベキヤの青年、支那の紳士――これだけがモスコウへ着くまで一致団結して外敵露西亜ロシア人へ当ることに申し合わせる。何しろ、人も怖れる西比利亜シベリアの荒野を共産党の汽車で横断しようというのだから、その騒ぎたるやまさに福島少佐の騎馬旅行以上だ。ことに本邦人は、知るも知らぬもお低頭じぎしあって、
『や! どちらまで?』
伯林ベルリンまで参ります。あなたは?』
『ちょっと巴里パリーへ。いや、どうも――。』、
『いや、どうも。』
 名刺が飛ぶ。
『こういう者でございます。どうぞよろしく。』
『は。わたくしこそ。』
 なんかと、そこはお互いににっぽん人だ。こうなると黄色い顔がばかに頼母たのもしい。これだけ揃ってれば、なあに矢でも鉄砲でも持ってこいっ! さあ、やってくれ! というので、わあっ! とばかりシベリアさして威勢よく押し出した――とまあ思いたまえ。
 運命をともにする同車の日本人諸彦しょげん――車室順。
 A氏。日本橋の帽子問屋さん。汽車が走ってるあいだは花と将棋。停まるが早いか駅々から故国にほんへ懐しい便りを投ずる。口ぐせ「馬鹿にしてやがら、露助の汽車なんて。」
 M氏。銀座の洋物店M屋の若旦那。Aさんと同伴で商売発展の準備にチェッコのプラアグへ行く途中。かばんから色んなものが出る。山本山やまもとやまの玉露・栄太郎の甘納豆・藤村ふじむら羊羹ようかん玉木屋たまきや佃煮つくだに・薬種一式・遊び道具各種。到れりつくせりだ。「お前、西洋へ行くなら盲唖学校へはいって、あのそれ手真似、あいつを覚えときゃよかった。あれなら、どこい行っても国際語だから、なあんて友達のやつひでえことを言いますよ。あははははは。」ところが御曹子。外国語がぺらぺらである。
 O教授。K大学法学部の若い先生。しきりに沿線各駅で子供の絵本を買いあつめる。おせっかいなのが「坊ちゃんですか、お嬢さんですか。」教授、猛烈な近眼をぽかんとさせて「え? じょ、冗談じゃありません。まだひとりです。」道理で洋袴ズボンのお尻に穴があいている。
 W選手。J新聞社世界早廻り競争の西まわり選手だ。大きな日の丸を胸へつけて、車内随一の元気である。莫斯科モスコウから伯林ベルリンへ飛行機で飛ぶべく、毎日その返電を待っている。一同いっしょになってやきもきしているが、まだ来ない。勝っても負けても、好漢Wはその独特のスポウティな微笑を忘れないだろう。
 Y氏。K造船所の飛行機技師長。口角泡をとばして列強航空力の優劣を討議し、つねに正確に悲憤慷慨こうがいにおわる。独逸ドイツへ行かれるのだそうだが、いろいろ専門の機微に入った使命があるらしい。一日、お願いして私と彼女に飛行機の講義をしていただく。絶えず葉巻を口にして「それあ着々ってますよ日本でも。えらいもんです。」
 S氏。Y氏の同行者。停車中、雪の降る野天のプラットフォウムを外套なしで歩くのは、全乗客中このSさんだけだ。みな驚いている。
 O先生。H高師教授。いつも彼女をつかまえて婦人問題を論ずる。その他の場合には忍耐ぶかい傾聴者。ベルリンへ。
 ほかに亜米利加アメリカのお婆さんは世界いたるところに散らばっている「あめりかのお婆さん」の型。独逸ドイツの女は、見たところ宣教師らしい。チェッコの男は支那の靴を常用し、もうひとりいる独逸人はゴルフ洋袴ズボンに身を固め、支那人T博士は各国語をあやつり一車中の代弁をつとめる。それに私たち夫婦。
 これから九人の日本人がおなじ車に陣取ってひょうびょうたる西比利亜シベリアを疾走するのだから、そのア・ラ・ミカドなこと宛然さながら移動日本倶楽部の観がある。めいめい社会への接触点を異にしているために、ふだんは滅多に顔があわず、会っても社交的儀礼に終始するであろう人々が、ここに各人生の一頁を持ち寄って心おきなくおたがいの生活と人間を呈示しあって行く。旅なればこそだが、こうして旅行中に逢っては離れる「人の顔」ほど断面的にそして端的に印象を色どるものはあるまい。それは私にとっては、忘れ得ない感傷の泡沫でさえありうるのだ。
 さて、新刊西比利亜シベリア旅行案内。
 第一章、地理的概念。
 満洲里マンチュリー――夜中のせいかいやに真暗な町だなんにも見えない。思うにこれも夜中のせいだろう。それでも国境駅だけあって薄ぼんやりした電灯に非常に重大な気分が漂っている。税関検査。案ずるより生むがやすい。
 マツェフスカヤ――町も私も眠っていた。
 カリムスカヤ――オノン河の鉄橋。
 チタ――人口八万。停車場と銀行と学校と博物館とホテルあり。臭い群集。
 ウェルフネウジンスク――一度で言えたらえらい。セレンガ河の岸。ブリヤアト・モンゴウル・ソヴィエトの首府。東洋と西洋の奇妙なカクテルがぷんぷんにおっている。
 スリュジャンカ――小駅。バイカル湖風景車窓に展開し出す。
 バイカル――四十六の隧道とんねる。水色美とハヒルスという魚を自慢にしている。アンガラ河。
 イルクウツク――砂金。ヤクウツクとかへ行く道だそうだが、そんなことはどうでもいい。とにかく学校と銀行と市場と博物館とホテル。OH! それに劇場がある! やはり、皮くさい男と女と子供。
 クラスノヤルスク――エニセイ河。豚の毛の集散地。人もかなり住んでる。
 アウチンスク――白樺にかこまれた町。
 タイガ――これも白樺にかこまれた町。
 ノウォシビルスク――満洲里マンチュリーから五日目。オビ河。シベリア革命委員会。駅の売店で果物だけは買うべからず。オレンジ一個七十カペイカして、よほどの好運児のみが食べられるのに当る。
 バルナウル――羊皮外套バルナウルカ
 セミパラチンスク――イルトゥイシ河沿岸。キルギス人多し。金に光る回々フイフイ教寺院の月章。砂ぶかい大通り。駱駝らくだのむれ。三角の毛皮帽をかぶったキルギス族遊牧の民。カザクスタン共和国の、クリイム。
 オムスク――むかしシベリア政庁のあったところ。車や家のこわれたのがあちこちに見える、革命のあとだ。空は秋の色をしている。
 チュウメン――トウラ河。チュウメン絨毯。土、日ごとに黒くなり、人、日ごとに白くなり、このあたりよりようやく欧露に入る。
 スウェルドロフスク――もとのエカテリンブルグだ。ニコライ二世はじめロマノフ一家が殺された町である。宝石アレキサンドリアを売っている。皇帝のなみだが凝り固まっているようで、淋しい石だ。ウラルの風。
 ペルミ――黒い低い街。
 ヴィヤットカ――おなじく黒く低い街。白樺細工の巻煙草箱一ルーブル五十カペイカより。みんな買う。私も買う。
 ブイ――またもや黒い低い街。
 モスコウ――長い鉄路の果て。七日目に「北の停車場ヤロスラヴ・ワグザル」へ着く。THANK・GOD!
 第二章。シベリア鉄道旅行準備。
 ソヴィエト・ビザ――旅券の裏書である。一週間領事館へ日参し、たくさんの写真とたくさんの金とを献上しなければならない。のみならず、何のために西比利亜シベリアを通過するか、宗教は―― if any 何を信ずるか、たべ物はなにが好きか、朝は大体何時に起きるか、習慣としてお茶をのむか飲まないか、もしめば食前か食後か等々すべての個人的告白を強要される。この一〇〇一の試問と難関をぱすした英雄にのみ西伯利亜シベリア経由の特権が附与されるのだ。
 必要品――まず何よりもさきに勇気、決断、機敏、沈着。入国ならば持物に制限がある。男には帽子一個――一見して帽子の定義に適合する品にかぎる――下着三枚、つけ代えのぼたん五個、靴下留はばインチ半以内のもの一つ、眼鏡――眼科医の診断書ならびに領事館の翻訳証明を要す――一個。女は、髪ピン十二本、靴下、絹二足、木綿三足、飲料に適せざる香水一本、着更え二つ、宝石――にせとほんものとを問わず――三個。但し結婚指輪は唯一つを既婚婦人にのみ許す。その他男女共通に、眼、耳、手、足をおのおの二つ、鼻、口を一個ずつ特に旅行中の便宜のために黙認している。しかし、これが単なる通過トランジトならばよほど寛大だ。が、そのかわり忘れてならない物品を列挙すれば、第一に決死の覚悟と大国民の襟度きんど。つぎに、まさに十日間は支えるに足る食糧。すなわち、ありとあらゆる缶詰、野菜、ぱんの類、および台所道具一切。とは言え、瓦斯ガスストウブは必要あるまい。天幕テント夜具等も汽車のうごく限りなくて済むだろう。ただモスコウまで何日、あるいは何十日かかるか、それはひとえに時の運とそうして汽車の感情テンパラメントによるのだから、復活祭パスハに乗込んでXマスの前夜に着くかも知れない。のみならず食堂車というのも名ばかりで、兵隊みたいな給仕のほか、政府の規則によりあまり多くの食品は積まないことにしているし、これも政府の規則によりときどき勝手に列車を離れるし、同じく政府の規則で、莫斯科モスコウに近づくにつれてだんだん皿とフォウクだけになってしまうし――とにかく欧羅巴ヨーロッパへ行きつくまで何とかして露命をつなぎ、せめては餓死しない算段を上分別とする。身ごしらえ――喧嘩乃至ないしは火事見舞の支度がいい。金銭――については両替、出入国、相場に関して流言蜚語ひご真に区々まちまち、よろしく上手に立ちまわること肝要、とだけいっておこう。何せ相手は露西亜ロシアだ。朝と晩でもう法律が変っているんだから仕方がない。
 第三章。車内「これだけは心得おくべし」。
 停車時間を見るには時計よりも暦のほうが便利なこと。
 そうかと思うと気まぐれにぐ出るから、合図の鐘が鳴ったから逸早く駈け込むこと。
 つねににこにこして、殊に露西亜人のボーイには必要以上の好意を示すこと。
 神仏どっちでもいいから、絶えず安着を祈ること。
 知っていていい露西亜語。
 こは何なりや――シト・エト・タコエ?
 こはいずくの停車場なりや――カカヤ・エト・スタンツィオ?
 ハム――ウェッチイナ。
 バタ――マスロ。
 幾金なりや――スコリコ?
 自余は手まねと表情。悪口には母国語使用のこと。
 以上、新刊しべりあ旅行案内終り。
 念のための格言。
 かんなん汝を玉にす。

   湖・白樺・雪・雪・雪

 車掌は白髪の老人だったが、何をいっても皆まで聞かずにニヤットの一言で片づけるのには大いに困った。そのうえアフガニスタン王のために四人乗りの車室しか取れなかったので、途中の駅から入り代り立ちかわり色んな人物が割り込んでくる。これにも弱らせられたが、このほうはどうやら片ことで会話をまじえて、すこしでも彼らの見方や考えているところに触れる機会を持ち、かえって感謝すべきだったかも知れない。はじめは私たちふたりでのうのうしていたのだったが、満洲里マンチュリーを出て間もなく、たぶんマツェフスカヤからだったと思うが、真夜中の二時ごろ、臭気ふんぷんたる二人の露西亜ロシア兵士が押しこんで来て、長靴をはいた土足のまんま寝台へ這いあがられたのはびっくりした。彼女などはびくびくもので一晩じゅうまんじりともしなかった。あとで聞くと、このふたりは初め隣室の女ばかりの部屋へ這入はいろうとしたのだそうだ。もちろん女達が悲鳴を揚げて抵抗したので、私たちの部屋へ来たものらしい。気はよさそうだが、なにぶん無智で不潔で鼻もちがならない。が、この連中はまだいい。一つ置いてむこうの車室は韃靼だったん人の一行が占領している。兎のような赤い眼をした六尺あまりのおやじとその家族である。みんな円い赤ぐろい顔をして、女は頭髪かみへんな棒をさし、大きな金いろの耳輪を鳴らし、石ころをつないだような頸飾くびかざりをしていた。着物は男女共用らしく、どっちも皮と木綿とけばけばしい色彩とから出来ている。しじゅう眼を見張って私たち、ことに彼女を研究していた。ウェルフネウジンスクでぞろぞろ降りて行く。
 私たちの車室の顔もしじゅう変る。つぎに乗りこんで来たのは村のお医者と鉄道技師、それから今度は将校がふたり、一人は「サヨナラ」「コニチワ」「トキョウ」の三日本語を解し、さかんに振りまわす。うるさい。ペトロフ・イワン・イワノウィチ――偽名にきまってる――と名乗り、国家的秘密機関ゲイ・ペイ・ウの一員だといってジェルジンスキイの肖像のはいった勲章を帯びていた。ブウルジョワと叫んで右手を低く下げ、プロレテリヤと歓呼して左手を高くあげる。そればかり繰り返していた。かと思うと、トキョウ・ブウルジョワとつづけて顔をしかめ、ラシヤ・プロレテリヤと言ってにこにこするのもある。莫斯科モスコウまで同車したのは二十一、二の若い共産党員だった。オムスクの会議に列席した帰りだという。明けても暮れても新聞ばかり読んでいた。トロツキイの失脚なんかについていろいろ話してくれたようだが、何しろ手まね足真似ばかりなのでよくわからない。しゃべっているうちに自分で昂奮して赤くなるほどの美少年だった。彼女の買った白樺の小箱のうらへ露語で何か書いてくれる。モスコウのアドレスも貰ったが、とうとう訪問する機会がなかった。
 食堂にはオムレツのほか空気がある。停車駅で老婆や娘の売っている鶏は油がわるくてむっとする。単調とあんにゅいの一週間を救うには、車外に進展する沿道の風物以外何ものもないのだ。
 哈爾賓ハルビンを夜出た明け方、さわやかな朝日を浴びて悠歩する駱駝とブリヤアト人の小屋を見た。博克図はくこくずから有名な興安嶺こうあんれいにかかり、土と植物が漸時系統を異にしつつあるのを感じる。それからはただ夕陽と白樺ビリオザと残雪の世界である。丸太小屋にねつるべの井戸、サスナも多い。クルツクンナアヤの停車場に、労農政府の政策を絵解きにした宣伝びらがかかっていたのを、後部の車にいるレニングラアド大学教授リュウ・ツシゴウル氏が説明してくれる。カマラの駅には汽車と乗客を見物する土民が異様な服装で群れさわいでいた。カリイスカヤのゴブノビンスクだの、へんな名の村々町々を通過する。汽車はときどき立ちどまって、水と燃料の薪を積みこみ、そうして思い出したようにまた遠い残光をさしてゆるぎ出すのだ。ある朝「バイカル!」の声にあわてて窓かけを排すると、浪を打ったまま氷結したバイカルが、敷布のように白く陽にかがやいて私たちのまえにあった。それは湖というよりも海だった。ところどころに魚を釣る穴があいて、そりのあとが無数に光っている。バイカルは一日汽車の窓にあった。タタルスカヤで粉雪ふる。派手な頭巾をかぶった頬の赤い姉妹が手を引いて汽車を見送っていた。ポクレブスカヤから土がめっきり黒くなって、欧羅巴ヨーロッパの近いのを知る。スウェルドロフスクでは、廃帝ニコライが聞いたであろう寺院の鐘をきいた。夕やけで停車場も家の屋根も人の顔も真赤だった。ヴィヤトカでまた雪。莫斯科モスコウへ着く朝、スポウリエの寒駅で、はじめて常盤樹ときわぎでない緑の色を見る。
 野と丘と白樺の林と斑雪まだらゆきの長尺フィルムだった。
 家。炊事のけむり。白樺。そこここに人。
 吸口のながい巻煙草――十四カペイカ
 白樺・白樺・白樺。
 夕陽が汽車を追って走る。

   赤い日記

 疲弊。無智。不潔。不備。文盲。陽気。善良。貧乏。狡猾。野心。術数。議論。思潮。芸術。音楽。政策。叡智。隠謀。創業。経営。
 これらの抽象名詞――露西亜ロシア人は国民性としてあらゆる抽象名詞を愛する――が、ごく少量の国際的反省のもとにこんとんとして沸騰している町、モスコウはいま何かを生み出そうとして、全人類史上の一大試練エクスペリメントに耐えようとしているのだ。だからシベリアの汽車で会ったと同じ「若い性格」の兵士と労働者と学生をもって充満し、まずしい現実のうえにうつくしい理論が輝き、すべての矛盾は赤色の宣伝びらで貼り隠され、「われらは無産者のために何を思い何をなしつつあるか」が多く叫ばれてすくなく行われ、都会と農村、工業と農業のあいだに救うべからざる不具の谷が横たわり、物々交換がその「新経済政策」であり、「教育」はみんな階級戦士の養成であり、無産独裁がいつしか共産党独裁となり、これがこんどはスタアリン独裁と自然化し、「共産党員にあらずんば人にあらず」であり、新選組ゲイ・ペイ・ウは人ふるれば人を斬り馬触るれば馬を斬り、あたらしい皮ぶくろに原始的な英雄政治が盛られ、民は知らされずしてもたらせられ、イワンは破れ靴とからの胃の腑で劇と文学を論じ、よごれた毛糸の襟巻をしたナタアシャが朝風を蹴って東洋美術の講義を聴きに大学へいそぎ、イワンの父親は辻馬車イズボシクのうえで青空へ向って欠伸あくびをし、ナタアシャの母はそっと聖像をとり出して狂的な接吻を盗み、物資欠乏の背の重い「友達タワリシチ」たちが、うなだれるかわりに理想を白眼にらんで昂々然と鋪道を闊歩し、男も女も子供も犬も街上に書物を抱え、私有財産を認めない掏摸すりがその本を狙って尾行をつづけ、お寺の金色塔に赤旗がはためき、レニンの尊像に空腹が十字を切り、それらを包んでプリズムのように遠近のはっきりする空気、曲りくねった道路、前のめりの古い建築物と、電車にぶら下がる親なし児ベスプリゾウルヌイの大群――莫斯科モスコウは近代のチベットである。
 その悩みと望みと、クレムリン宮殿の外壁と劇場広場テアトラリヌイ・プロシヤトの鳩とに、資本家のない国はあたらしいダイナモのような力と、生硬と、自己期待と、宗教的感激とをもって沈黙のうちに運転している。
 この、地球赤化を使命とする第三インタナショナルのお膝もと、世界じゅうの謎と恐怖の城下に、一九二八年の初夏、ふたりの極東の巡礼が靴の紐をむすび直した。
 つぎは彼らの莫斯科モスコウ日記である。
 第一日。
 新しい寺院フラム・スパシイチラの屋根が、灰色の家の海の上へ、陽を受けてぴかぴか光って、線路にそって大都会の場末らしいごみごみした景色が展開し出した。と思ったらモスコウだった。ばかにいお天気で、ばかに寒い。波蘭ポウランド国境へ直行の人はここで乗りかえてきょうの午後アレキサンダア停車場から出発するんだが、私たちは、さいわい今この莫斯科モスコウ「北部停車場」のプラットフォウムに現実に立っているという好機を利用し、急にしばらく滞在することに決して改札口を飛び出す。また出直して外部から露西亜ロシア入りをするには、じつにうるさい――そのいかにうるさいかは神さまが御存じだ――数々の手続きと極くすこしの可能性しかないというので、にわかに旅程を一変して「赤い都」の何日かを持つべく、保護色のために私たちもせいぜい赤い顔をして赤い群集にまじり、赤い――じつは黒い――石だたみを踏んで最初の赤い空気を呼吸したのだ。mind you 私たちは現世紀を吹きまくる赤色颱風たいふうの中心にいるのだ。気のせいか提げている鞄まで赤くなりつつある。その重みでよろけながら、停車場の石段のうえで私は心中に絶叫した――ははあ! これが莫斯科モスコウか!
“So this is Moscow, the city of hidden hopes and treasured secrecy !”
 そうすると驚いたことには、社会意識にめざめた馬車屋が社会意識にめざめた馬を駆って、たちまち私たちを包囲してしまう。
 イズポシク・ダ?
 クダア?
 ルウブリヤア・カペイカ!
 いろいろに聞える声が雨のように降る。ほんとに赤くなってそのすべてを辞退した私達は、「役人」の赤帽に「役人」の運転手を呼んでもらって政府直営の自動車プロカアトに避難し、政府直営の商店が並んでいるあいだを政府直営の――まあ、とにかく市中へ出た。自動車プロカアトがうごき出しても馬車屋が馬車を下りて追跡してくる。まけるから乗れというのだ。にちぇうぉ!
 何という高い空、なんという中世紀じみた市街、なんという緩慢な雑沓、そしてすべてが何という「無産さ」であろう! 多くの外国人を知らない住民たちが、どこへ行っても私達を見てささやきあっている。ことによるとアフガニスタンの王様がまた来たのかと思ったのかも知れない。移転した旅行局デルウトラのあとをあちこち捜し歩いて、とうとうバルシャヤ・モスコウフスカヤ旅館の隣りに発見する。寝台券の取消しだ。両替は国定相場で一円が九十三カペイカ。ずいぶん虫のいい率である。が、これもにちぇうぉ
 ホテルはバルシャヤ・リュビヤンカ街のセレクト。労農政府の法律に準拠して戸を排すると、労農政府の法律に準拠して番人ドア・マンが案内し、労農政府の法律に準拠して哀訴嘆願の末ひとつの部屋を貰う。すべてが労農政府の法律に準拠して動くのだ。もし法律が足らなければいくらでもこしらえる。こしらえると言ったって法律や組合は金がかからないからどんどん産業的に多量製産している。このホテルだって全露移動人民宿泊便宜組合莫斯科モスコウ支部第何区所属で、略称セレクトフスカヤとか何とかいう実はお役所の一種に相違あるまい。無産の料理を与えられて、無産のお湯へはいり、無産の寝台に寝る。どうせいままで「略取」されて来たと信ずる「階級」の仕事だから、今度はさかんに「略取」する。無産の室代へやだいルーブル。無産の牛酪バタきれ――厚さ二分弱一寸四方――五十カペイカ――牛乳――とよりもいささか牛乳に似た冷水――が一合日本の二十四銭。チョコレイト――わが国において金五十銭ぐらいのもの――が約八円。女の靴最低四十ルウブルより。
 第一日の印象。そ※(濁点付き平仮名う、1-4-84)ぃえと・ろしあに多すぎる物、議論。すくな過ぎるもの、麺麭パン
 第二日。モスコウのあけ方は眼を射るように美しい。新寺院――これはどこからでも見える――をはじめ寺々の尖塔が金に銀に青に光って、金と銀と青を溶かした陽線が室内の大鏡に反映する。そうすると平凡な国の平凡な朝ぼらけと同じに鶏と赤ん坊が泣いて、巷の騒音が油然ゆうぜんと唸り出すのだ。広場へでると煙草と果物の露店が並んでいる。巻煙草はべらぼうに吸口が長い。露西亜ロシア人は冬外套シュウバの襟を立てるのでそのために特にこう出来てるんだそうだが、私の考えでは、これは例の過激派ひげを焼かない用心だと思う。そのほか靴墨やら野菜やらぼたんやら皮帯なんかも大道で売ってる。これらの店は儲けがほそいのでこうして個人にも許しているのだ。大通りの商店――その多くは空っぽであり、ほとんど一軒おきにあき家だが――はみんな言うまでもなく国営で、売子も番頭もここではお役人である。だから歯みがき一つ買うにも、まず政府へ願書を差し立て、何が故に歯磨きに興味を感ずるか、年齢としは幾つか、既婚か未婚か既婚ならば妻もしくは夫の人物・性行・嗜好の一般、家族は何人か――各写真一葉添附のこと――共産党政府に異心なきことの証明。それに生年月日と署名、そして、もちろんほかに七人の保証人を必要とする。髪を刈るにも芝居を見るにもこの手続きを踏まなければならない――なに、ただそれほどぎごちない感じのする「労働者の天地」だといいたいだけだ。と言ったところで、個人経営の商店もあるにはある。が、許可を得るのが難しいうえに税が高く、第一その筋を商売がたきに廻してやって往けるわけがない。だから微々として振わず片っぱしからつぶれちまう。ちょうど私有財産もまんざら認めないではない、六十万ルーブルまでは立派にゆるしているんだが、四十万の相続税を取るといったように――。
 きょうは滞在許可を受けに、旅券と写真と金を持ってホテルの男にれられて莫斯科庁モツサヴェイトへ出頭におよぶ。やたらに速力を出して自動車を飛ばしてゆくと、田舎の中学みたいな建物のまえへ出た。それがモスコウ・ソヴェイトの政庁だった。庭をまわって人事課旅券係といったような別棟へ顔を出す。いかに政府が人のうごきを気にして監視しているかが窺われるほど、ここは不安げな群衆でいっぱいだ。めいめい書類のようなものを持ってうろうろしている。列を作って順番を待つんだが、私は日本人だから――だろうと思うが――特別にさきにやってくれた。第一の机から第二の机、第三第四と引きまわされる。どこの机に控えているのも子供みたいな若い男か女ばかりだ。ばかにつんけん威張っている。女は、べらべらの長着フロックをだらしなく引っかけて乳まで見えそうなのが紙巻をくわえながら判をついていたり、女工のようなのが人民を訊問していたり、裏店うらだなのおかみ然たるのが願書の不備を指摘して突っ返したり、これがみんなお役人なんだから何とも奇抜な光景である。ウクライナのお百姓が韃靼だったん人に、「ちょっくらものを伺いますだが」をやったり、その韃靼人が首を振ってにやにや笑ったり――私のところへも仏蘭西フランス語で何かきにきたやつがある。首をふってにやにや笑ってやる。
『お前は何のためにモスコウで降りたのか。』
 私の前の女中ニウラのような十八、九の女が威丈高いたけだかに声をかける。
『芝居を見に。』
 ホテルの男が代弁する。心得たものだ。これが一ばんいいらしい。
『職業は何か。』
 私がもじもじ困っていると、そばから肥ったお婆さんが口を出した。
芸術家アルチスト?』
 そうだ! 何と便利なことばを思いついてくれたろう!――と私がよろこんでいるうちに、むこうでさっさとそうきめてアルチスト・アルチストと私語ささやきあっている。どうも見たところ比較的好意を寄せてるらしいから、だいたい大丈夫だろう――それから例によってさんざん戸籍しらべみたいなことを繰返したあげく、
『署名出来るか。』
 と肥ったお婆さんがおっしゃる。あとで聞くとこれが上役だそうだ。私はまた洗濯婆さんが油を売りに来てるのかと思った。
 やがてのことに別室へ呼び込まれる。カラハンみたいな大男が鼻眼鏡をかけ直して写真と私を見くらべて首実験をする。ラスコウリニコフの部屋のような暗い陰惨な事務室に、硝子ガラスごしに青葉がうつろい、天井に陽のまだらがおどって、解剖台を思わせる大きな机のうえに、たった一つ、あまりに周囲とかけ離れた物が置いてある。金に宝石をちりばめた高さ一尺ほどの時計だ。革命のときにどこか貴族の家からでも持ち出したものだろう。十時三十二分。ふと見ると正面の壁にレニンの像が飾ってある。
 それからそこに長いこと待たされて、それから何度も同じような質問に返答して、それから、それから、それから――とうとうお前はもう帰れという。滞在をゆるすか許さないか、いずれゆっくり相談のうえで知らせるから――と。
 にちぇうぉ! 仕方がないから帰宿。ぶらぶら町を見物する。
 夜。競売市プラアガへ行く。共産党が宮廷や富豪のやしきから担ぎ出した貴重品類を、革命十年後のこんにちまだ小出しにしてこうして売っているのだ。個人が頼んで売ってもらうのもある。講演会のように並んで掛けていると、競売係の役人が壇に立って色んな物を次つぎに指さしながら饒舌しゃべり立てる。ほしい人は手をあげて、五カペイカ、十哥、五十哥パロビイナ、一ルーブル、二留三留とたちまちあがってゆく。置物・衣裳・煙草入れ・皿・花瓶・傘・でっさん・敷物・時計、何でもある。五留からは二十五哥上り、十留からは一留あがりである。帝政時代にはつねに宮廷に五万人分の大晩餐用食器が用意してあったそうで、だからこうして毎月曜日の夜、プラアガを開いても種がつきないわけだ。貴族の使った長椅子デュワンが十八留で落ちる。何もかも飛ぶように売れていくのを見ていると、露西亜ロシアの財政的困窮がうなずけなくなる。ことによると、食べものをたべなくても芝居見物と買物だけはかかさないのかも知れない。にちぇうぉ!
 私たちもり抜いて二枚の油絵を買った。グジコフ筆「窓の静物」とガボリュボフの「クレムリン」「雪景」。グジコフは人気のある若い静物画家だが、今日のプラアガを当てこみに一晩で塗りまくったものとみえて、まだ絵の具が乾いていない。粗末なアトリエでおなかのへったグジコフがぱんのために徹夜しているところが表現派の映画面のように心描される。東洋の一旅人がそれをりおとしたのだ。なんとぼへみあん莫斯科モスコウの一夜であることよ!
 第二日の印象。古い器物と家具は露西亜ロシアの持つうつくしい幽霊だ。
 第三日。
 小雨。ホテルに閉じこもってやたらにお茶をむ。新寺院―― again ! ――円屋ドームが遠く霞んで窓から見るモスコーは模糊としている。雨のなか、ホテルの前のバルシャヤ・リュビヤンカの大通りを「赤い守備兵」の一隊がゆく。赤旗が濡れて、人の靴は重い。常備六十万、戦時百万と号す。莫斯科モスコウ市史のうえに眠る。「年代記にモスコウの名のはじめて見ゆるは一一四七年にして、一一五六年大公爵ウラジミル・ドルゴルキイ、市の外周に堀と木塁もくるいをめぐらし――。」
 第四日。
 朝飯の献立ザアフトラック。ズワ・チャイ。アペルシナ。ガリャアチエ・マラコ。ヤイチニツァ・ウェッチイナ。ブウロチキ。マスロ――何だか誰にもわからない。食べたはずの私にも判然しないくらいだから。
 第五日。
 トウェルスカヤ街五九番に革命博物館を見る。社会運動者の奮闘と度々たびたびの革命の犠牲を歴史的にみせて、十月革命の成功におわっている。古い刑具と、死体の写真。レイニンの像。呪詛と反感と狂望と歓喜。ゴウルキイの原稿。ゲルツェンの原稿。地下室に監房と蝋人形の囚徒。秘密運動のじっさい。
 この建物は一八一四年に出来たラスモヴスキイ邸宅で、のち英吉利イギリス倶楽部になっていたこともある。露西亜ロシア革命の博物館だが、ろしあ共産党の歴史博物館でもあり、同時にまたレイニンの個人博物館をも合わせているのだ。
 小劇場はきょう革命劇「一九一七年」を上演している。行きたいが今夜はすでに切符が買ってあるのでぐまえの大劇場へまわる。出しものはプロコウヒフの作曲「三つの蜜柑への恋リュボウビ・ク・トリオム・アペルシイナム」。バレイだ。金ずくめの壮麗な殿堂。座席四千百。左右にもとの貴族席、正面に宮廷席のボックスがある。いまはそこに共産党員とその家族が頬杖をついて、今昔の感あらたなるものがある。日本の故老SK氏なども、近くはニコライ二世が観衆の歓呼に答えたであろう元の玉座から観るのだそうだ。舞台のうえに鎌と鉄槌てっついと麦と星のソヴィエトの大紋章が掲げてある。革命成就と同時に共産党員が押しこんで、旧露西亜の鷲と王冠のしるしを下ろし、かわりにこの労農のマアクをあげたのだという。すばらしい音楽と大道具。割れっ返る声量と衣裳美の夢幻境ファンタシイ。幕あいに廊下を歩くと、ここにもいたるところにレイニンの像が飾ってあるのを見る。ハルビンで同じホテルに泊り合わせ、東支倶楽部の舞踊会でも私たちのまえにいた独逸ドイツ人の老夫婦が、こんやも私達の前に掛けている。両方で気がついて奇遇をよろこぶ。
 ねて出ると、高い劇場の破風はふに、有名な四頭の馬がひく戦車の彫刻が、夜の雲をめざして飛ぼうとしていた。露のおりた石の道を馬車で帰る。霧のなかから浮かび出て霧へ消える建物。ひづめの音。半月。第五日の印象。いまのSSSR、コサックと農民と労働者が美装の史書へしるした大きな黒い手のあとだ。
 第六日。
 終日散歩。古物店をまわり歩く。百貨店モストログの入口で、コウカサスの花売娘がすみれの花束を妻のポケットへ押しこむ。おしこんで置いてあとからお金をねだる。苦笑して一ルーブルを献ずる。
 ダイヤモンド一カロット約三百留。九百留も出せばちょっとしたものがある。ウラルの七宝、ことに銀細工がいい。ロマノフ家の紋のついた皿・洋杯コップ・ナイフの類、どこでも安く売っている。
 かえりに路傍に人だかりがしていた。乞食のような男が、生れたばかりの犬の子を売っているのだった。
 第七日。
 昼。トレチヤコフスキイ美術館。
 夜。第二芸術座。
 私の好きな絵はスリコフの「引廻し」とレヒタンの「白樺」、彼女はロコトフ作「見知らぬ人」。
 芸術座ではイフゲニイ・ザミアチンの「ブロハア」をやっていた。
 第八日。
 クスタリヌイ博物館と、夜はメイエルホルド座――「証明書マンダアド」の今年のシイズンにおける何回目かの上演だ。花道と廻り舞台。木の衝立ついたてだけの背景。にせ共産党員の家庭を描いた喜劇で、一枚の額のうらおもてに聖像とマルクスの顔が背中あわせに入れてあったりする。
 第九日。
 トルストイの家――一八八一年から一九〇〇年までの彼の住宅がモヴニチエスキイ通りにある。ツウェトノイ大街のドストイエフスキイ像、農民の家、子供の家、バルチック停車場に近いナポレオンの凱旋門――一八一二―一四年の建造とある。
 夜、カレイトヌイ座にフィヨドル・ゴラトコフの映画「せめんと」を観る。
 第九日の印象。宣伝と革命記念物の洪水。いささか食傷の気味だ。
 第十日。
 猛烈な晴天である。きょうも新寺院の屋根がちかちか光って、モスコウ河に巨大な氷が流れている。電車で郊外雀が丘ブロビア・ガラへ出かける。ここからナポレオンが手をかざしてモスコウの大火を望んだという現場だ。小高い丘の出ばな、真下の野を流れる帯のような数条の川をへだてて、秘都莫斯科モスコウは日光のなかに白っぽくけむっている。色彩的なクレムリンの塔と物見台、二千何百の教会――ナポレオンが踏んだであろう同じ土をふんでいる私に、いつしか過去の夢が取りいていた。私は聞く、寺々の警鐘を。私は見る、合図ののろしと家を飛び出てクレムリンへ逃げこむありのような十二世紀の市民のむれを。このいいお天気に、またしても韃靼だったん人の襲来だ! イワンは石投げの支度にかかり、ナタアシャは小猫を抱いて泣いている。外壁に立って呶号どごうする町の英雄、こわごわ露台バルコニーから覗いている王女の姿が一つぽっちりと見える――時間こそは何という淋しい魔術であろう。草の葉が風に鳴って、モスコウ行きの自動車が砂をまいて通りすぎた。
 しずかな部落だ。ツルゲネフに出て来そうな道ばたの家で、で玉子を食べる。村の人が四、五人、喫煙と「主義の討論」にふけっていた。
 帰途、電車賃の金をよく見ていると、一発見!――カペイカの銀貨にきざんである。「全世界の無産者よ、結せよ!」
 第十一日。
 After all ――莫斯科モスコウの心臓は「赤い広場クラスナヤ・プロシヤチ」にあるといえよう。歴史と風雨で色のついた大クレムリンの石垣にそって、通行人と異臭のなかをイベリアンの門をくぐろうとすると、左の壁にマルクスの言葉「宗教は国民の亜片アヘンなり」が彫ってある。なるほど亜片だけになかなか捨て得ないとみえて、すぐ前の聖なる処女の御堂には蝋燭ろうそくの灯が燃え、おまいりの善男善女ひきも切らない。つい先ごろも復活祭の式の最中に各会堂へ共産党員があばれこみ、口笛に合わしてだんすをはじめ礼拝を妨害した事件があったという。広場に立つと、「恐怖のイワン」がカザン征服の記念に、バルマとポストニクのふたりの建築家に命じて一五五四から六〇年にわたってつくらせた、もざいくのお菓子のようなセントバシルの寺院が南のはしに飾り物みたいに建っている。
 そして、その入口にアレキサンダア大王の首斬台が、石も鉄もさびもそのままに残っているのだ。黒ずんだ円い囲いにこけが枯れ、中央の石柱には死刑囚をつないだ鎖がいまだに垂れさがって、段に立って振り返ると、ちょうど頭のうえにクレムリンの時計台、その前面に、大王が出御して死刑見物を享楽したという高楼が、多くを見てきたくせに黙りこくってそびえていた。
 五月一日が近い。まわりの公共建物に何本もの赤布が長くさがって、広場には兵士の列が、メイ・デイの予行をしている。ろしあの持つ文化と誇示と壮麗と野望を支えて、ここから人類へ一つの辻説法を話しかけようとしているのがこの赤色広場だ。世界のあらゆる隅々からあこがれてくる「無産聖地」の参詣者が、みな高く頭を持して逍遥している。
 私と彼女は、そこから広場を突っ切ってレイニン廟へ這入はいる。
 小兵営のような、立体的な墓の地下室へおりると、硝子ガラスの箱のなかに、死んだレイニンが生きていたときそのままに眼をつぶっていた。コンミュニスト・インタナショナルの旗と一八七一年の巴里パリー共産党の戦旗とが西側に飾ってあり、鉄の柵をめぐらした中央の台のうえに、写真で見たとおなじ百姓おやじレイニンがゴッホの自画像のような赤茶けた無精ひげを生やして死んでいるのだ。屍体に特殊の化学作用をほどこして保存してあるのだという。頬や手なぞ水々して、せてはいるが。いまにも欠伸あくびといっしょに起き上りそうだ。一列のまま左へゆっくりと棺を一周して見るだけで、銃剣の兵が立っていて停まることは許されない。レイニンの手の青い筋を網膜に浮べながら、私たちはもう一度赤色広場クラスナヤ・プロシヤチのあかるい光線を吸う。
 そうすると、曲馬団の天幕テントのような思い思いの建築に沃野よくやの風が渡って、遠く聞える夏の進軍喇叭らっぱに子供みたいに勇み立っているモスコウが意識される。二十万の親なし児がときの声をつくって南部オデッサの方面から、或いは貨車の下に掴まり、あるいは国道のほこりにまみれて、今や市内へ雪崩なだれ込もうとしているのだ。町で彼らに帽子をさらわれない要心が大事だ。
 With its rise and fall, 莫斯科モスコウは何かを予言しようとあせっている。

   “Ville de Li※(グレーブアクセント付きE小文字)ge”

 ワルソオ・伯林ベルリン・ケルン・オスタンド。
 それから数日ののち、私たちはオスタンド・ドウヴァ間のSSヴィユィユ・リエイジュ号の甲板上に、近づく白堊はくあ英吉利イギリスの断崖を見守っている自分達を発見した。
 はるばるも来つるものかな――やがて人潮の岸ヒュウマン・タイドろんどんをさして汽車はドウヴァをゆるぎ出るのだ。半球の旅のおわりと、空をこがす広告塔の灯とが私達を待っているであろう。





底本:「踊る地平線(上)」岩波文庫、岩波書店
   1999(平成11)年10月15日第1刷発行
底本の親本:「一人三人全集 第十五巻」新潮社
   1934(昭和9)年発行
※底本には、「新潮社刊の一人三人全集第十五巻『踊る地平線』を用いた。初出誌および他の版本も参照した。」とある。
入力:tatsuki
校正:米田進
2002年12月9日作成
2003年6月15日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について