松根は五人目の軍治を生んだ時にはもう四十を越えてゐた。子供の間が遠くて、長女の民子はその時他へ嫁いでゐた位だつたが、男の児と云つては、長男の竜一が
松根の身体もそれ以後めつきり弱つた。気管支が悪いと医者に注意されもしたし、雨の日など寝て過したりした。だが、弱つたのはお産のためばかりでもなかつた。神経質で、何から何まで気のつき過ぎるやうな性分が、もうそれまでにすつかり心身を費ひ果してしまつた所もあるのだつた。次女の
松根は気を許したとも見える様子で、時々訪ねて呉れる民子を相手に、立働いてゐる卯女子を見やり、これなら私がゐなくとも大丈夫だ、と、笑つたりした。
その民子が或る日、固い顔をしてやつて来た。
父と幾との噂を聞いたのだつた。苦々し気にそれを言つたのは
その時はそのまゝ帰つて来たが、噂が事実とすれば母の様子も落ちつき過ぎてゐるし、事実無根とすれば何かと耳に伝はることが多かつた。退職官吏で、家名とか、気品とか云ふ言葉を常々口にする舅の土井は、二度とそれを言ひはしなかつたが、時々、鳥羽家の様子を民子に訊き、遠廻しに不機嫌な意向をほのめかした。それが窮屈でもあり、又、父母のことが気になりもして、民子は土井家と鳥羽家との間を行つたり来たりしたが、日が経つにつれ、噂は失張り事実であること、母は何もかも知り抜いてゐて、
松根は其の後も民子に対つては一言もそれに触れなかつた。それに押されて此方で黙つてゐると、民子は不意に腹が立つたりした。何時言ひ出さうか、と思つてゐる中に、母が殊更のやうにこの頃幾と親しくし始めたのが眼についた。天気のいゝ日など、行つてみると卯女子がゐるだけで、訊いてみると、母は中村屋へ行つた、と言ふ。そんな事が何度もあつた。今日も行つたのかな、と民子がぼんやり帰らうとしかゝると、裏口から母が帰つて来たのに会つたこともある。出嫌ひな母にしては変でもあるし、身体の弱つて来たことを考へれば
民子はある時それとなく、父に対する不足を言つてみたのであるが、母はその不足が何を指してゐるのかを考へるやうに、しばらく黙つてゐた後で
「そんなことを言ふものではない」と強くたしなめ、その後で軽く笑に
民子はそれまで、母が何故腹のなかを割つて見せてくれないのかと云ふ気がしてゐたのであつたが、その時は一言も言へないほど胸がつまつた。何ごとも表面にはあらはさないで、自分の中だけできまりをつける母の気質は、あれほどのみこんでゐた積りなのに、いまの母の、さりげなく押しかくしてゐる苦痛に何故気づかなかつたのだらう、と思つた。自分の父に対する不足も、もとはと云へば、舅の土井が自分に向けて父のことを遠まはしに誹難して来る、そのためのものであつて、母の場合にくらべて見れば、それこそなんでもない、と考へられもした。
さう思へば、母のやり方も一々得心が行くのである。母と幾は以前からの知り合ひであつたが、最近になつての親密な往来と云ふのも、父に肩身の狭い思をさせまいとする心遣ひなのであつた。
「私は身体が弱いのだからね」と、母はさう云ふ言ひかたで民子に思はず横を向かせたこともある。
しかし、幾に対して、母は真実どんな心持でゐたのであらう。幾は寡婦になつてからこのかた、老母と二人きりで、出入の多い料理屋をともかく後指をさゝれずにやつて来たほどであるから、柔い中にどこか堅気のある女にちがひないが、かうなつた上は父の顔を汚すやうなことをして貰ひたくないと、母はそれをも考へてゐたのにちがひなかつた。
事実、母と幾との親しさを見て、町の人々も
父は民子に会ふと幾分気まづい顔をしたが、それも最初だけであつて
「変りはないか」と短く訊いたぎり、見慣れてゐる渋味のある顔にかへつて行つた。もともと無口な父は、日常でもさう云ふ調子なのであるが、この場合は、又特別の意味があるやうに民子には思へた。しかし、母が以前にもまして物柔かに父に対してゐるのを見ると、民子は折角の母の心遺ひを無にするやうなことがあつてはならないと思ひ、つとめて父には眼を向けないやうにした。とは言へ、父は昔のまゝの気難しい表情の下で、母の心遣ひを十分感じとつてゐるのは明らかだつた。
すぐ下の卯女子は別としてもまだ年もいかない弟たちは、もとより何も知るわけがないのだが、構はず家中を走りまはつて戯れ遊んでゐるのである。それがいぢらしくもあるし、又母の心を汲んでゐるのは自分だけだと云ふ気持も深くなつて、民子は日によると何度となく実家へ帰つてみるのだつた。
後になつて民子は妹の卯女子とも話し合つたのであるが、この心労がなかつたら母の病気もあれほど悪くはならなかつたのかも知れない、ふと思ふこともあつた。
心なしか母の顔に疲れ切つた様子が薄い膜のやうに出て来はじめたのを民子が気にかけてゐる中に、急に発熱して寝ついてしまつた。肋膜が悪いと云ふことから、肺が侵されてゐると言はれるやうになり、それから又一年近くの間、永い病気であつた。
死ぬ少し前松根はどこかでそれを感じてゐたのか、その頃片言まじりに喋るやうになつた軍治が卯女子に抱かれて、庭先から病室をのぞきこみ、姉の口真似で母を呼んでゐたのだが、ちやうど居合せた民子をかへりみて
「あの児が、気にかゝつてね」と言ひかけて止めた。
民子が胸を突かれながらも
「そんな気の弱いことではいけません」となぐさめると、卯女子も傍へ寄つて来て母の顔をのぞいたが、松根は枕の上で顔をそむけた。
病気が重いと云ふことを誰から聞いたのか、それまで一度も家へは足を入れたことのない幾が見舞にやつて来た時には、卯女子だけが居合せた。幾はそれでも遠慮して姿は見せないで女中の口から見舞に来たとつたへて貰つた。卯女子はどうしていゝか解らないので、そのまゝ通じると母は
卯女子が幾を見たのはその時が始めてなのであつたが、幾は想像してゐたよりもずつと小柄で、白粉気などはなく、おづおづと卯女子に挨拶して病室に通つたのが、まるで噂に聞いた幾とは思へないほどであつた。
民子は後でそれを知つた時には思はず眉をしかめたが
「多少は悪いと思つてるんでせうよ」と云ひながらも憎めない気がした。
しかし母がある時ふいに
「安心なさいましよ、後は私が見てゐますからね」と民子は涙声で言つた。母は頷いたとも見える様子でそのまゝ睡むたげに眼を閉ぢたのであるが、民子は母がやはり自分の言葉に安心したと信じて疑はないのである。
それだけに母の死後半年位たつた頃、それまで何時出るか、と思つてゐた話しが父から持出された時には、民子は無理にもその日のことを思出してみ、心を引きしめたのであつた。幾を後妻に入れると云ふのである。
それが顔に出たかして、鳥羽は民子を前にしたまゝしばらく苦り切つてゐたが、民子が図にのつて母のことを言ひ出すと、矢庭に厳しい面特になつて
「お前なんかに何が解るか」ときめつけた。
幾のまはりの者でさへとやかく言つてゐることは民子の耳にもとゞいてゐた。あれまで通して来た家業を止め、一人きりの老母と別居してまで、何を好んで子供の多い格式高い鳥羽家へ入るのか、まるで
鳥羽の親戚の側ではそれを又特別な見方をしてゐた。それまでにして来る幾の腹の中が解らないと云ふのである。さう明らさまに出しはしなかつたが、あんな女を後に入れるやうでは親類づき合ひは御免
民子は土井から何度もさう云ふ口吻を洩されたのであるが、それが民子を通じて鳥羽に伝はるだらうと考へてのことであるのは、民子にもよく感じられた。しかし、そのままを父に向つて言ふわけには行かないし、さうかと云つて、義父にどう答へたものだらう、このまゝで行けば自分も土井家からかへされるかも知れないと云ふ気がした。すると事の次第はともかく、たゞ無暗に悲しくなつて、その場を動けないもののやうに肩を落すと
「お
鳥羽はじろりと眼を向けたが、
「それは俺から話す。お前は黙つて居ればそれでいゝ」と言ひ放つたなり部屋を出て行つた。
民子は後で一人で泣いてゐたが、やがて弟たちの走り近づく足音が聞えると逃げるやうにして部屋を出た。母が永い間病臥して居り、息もそこで引きとつた離れの横を廻ると裏庭なのである。民子はそこの支那風の水盤の傍で、うつそりと立つたまゝ空を見、畑を眺めたりしたが涙は後から後からと溢れ出た。静かな足音が背後できこえ、民子はそれが卯女子だと知つたがぢつと立ちつくしたまゝでゐた。
曲りなりにも話しは片附いて幾は鳥羽家に入ることになつたのであるが、しかしそれには鳥羽の友人の奔走もあつたのである。
鳥羽は相変らず無口であつたが、それでも多少は安心したのだらう、暫らく投げやりにしてゐた植木いぢりを始めたりした。もつとも鳥羽のやり方はたゞ裾をはしよつて
上の男の児二人はとにかく小学校に通ふ年頃になつてゐたが、末の軍治は母親の晩年に産れた為か身体が弱く、又病気が病気であつたから母親の乳ものませないやうにしてゐたので、なほのこと皮膚から手足まで弱々しい感じがしてゐた。それもこの頃はめつきりいたづらになり頬にも紅い色が現はれて来た。着物を沢山着こんでゐれば、肥つて来たのかなと思はれ、鳥羽はいつも自分で風呂に入れてゐたのであるが、どうにか普通の子供らしい肉づきも実際に出来たやうである。その軍治が兄の歌をうろ覚えに声だけは高く唱ひながら、離れと
湯灌の時、手伝の人々が病気が病気だからと尻ごみしてゐる風があるのを見ると、蒔は自分から先に立つて
「こんな風におなんなすつて、可哀想に可哀想に」と一心に独り言を言ひながら、痩せ細つた死者を抱き上げた。親戚の中には傍に立つたまゝ、それを見て「出過ぎたことをする」といふ顔をした者もあつたが、蒔はそれも眼には入らないもののやうに、残りなく拭き潔めたのであつた。実際卯女子にしても、自分の手に触れるこの死体が吾が母であるのかと思へば、ただただ涙が出るばかりであつて、結局は手をつかねて涙を押へるのが漸くである有様だから、このやうにしてくれる幾の老母に対しては、何とも云へない感謝の念が湧いたのである。
後になつて誰かが
「あの年寄りは
それから又、鳥羽側の親戚が、たゞの
卯女子はさう云ふ風な物の見方を知らなかつた。小柄な幾の肩姿が眼に浮び気の毒な感じがしたが、又何かと自分などには解らない底知れぬことが身のまはりにあるやうな思がした。しかし、姉の民子でさへやはりそれに似たことを言つてゐた。気のせゐか、近所の人との出会ひ
もつとも、幾はいつも身をへり下つてゐるのであつて、子供達から「小母さん」と呼ばれても不足らしい顔は見せなかつた。大体卯女子は弟達の世話を、幾は台所の方を、と云ふ風に仕事の分け方がいつとはなしに出来てゐたのであるが、時々鳥羽が勤め先から帰つて来て小言を云ふことがある場合に、落度が卯女子にあるとも、幾にあるとも解らないことがあつた。すると、幾はきまつて自分の落度にしてしまふのである。そして又、鳥羽はそれが明らかに卯女子の落度であると解つてゐるやうな場合でも、幾に向つて叱りつけるのだつた。
卯女子は幾が父に詫びてゐる背後で顔を
料理屋の方は他人に貸してしまつて、蒔は鳥羽家からさう遠くない場所に家を借り、そこに一人住ひをしてゐたのであるが、よく裏庭から顔を出した。彼女が来ると、
蒔は幾にたしなめられても構はずに卯女子を捕へて、自分がどんなに鳥羽の恩をうけてゐるか又そのためには今までの商売もやめる気になつたのだなどと、いよいよその決心になつたまでの自分と幾との話の模様まで細かく話して聞かせるのだつた。
卯女子は始めの中こそ気恥しくもあり、当惑しながら聞いてゐたが、今ではその話しにも慣れたやうに、やはり下手に出る相手の仕方にも慣れたのであらうか。それとも、今は記憶も薄らぎはじめた母親が、実は頭の底深く沈んでゐて、その生前見聞きしてゐた幾への反感が形を変へて今頃出て来たのであらうか。卯女子は幾の動作の気に入らない部分が眼につくと、露骨に眉をしかめるやうになつたし、又それがあたり前のことになつて来た。
弟達については、もともと母の生前から卯女子が面倒を見てゐたのだから、幾が来ても、別にその点変りはないのだが、それでも弟達の寝床をのべてやつたり、末の軍治を寝かしつけてやつたりする卯女子の様子には、以前とはちがつた何かが加はつてゐるのだつた。言つてみれば、これだけは誰にも指一本だつて触れさせないと云ふ感じがあつた。それが今では卯女子の様子に底意地の悪い感じを加へて来たが、当の卯女子にしても、幾にしてもそれを普通のことにしてゐるのであつた。
しかし、幼くてそれだけに敏感な弟達には、眼に触れる姉と幾との感じが頭の中に特別な形を植ゑつけるのである。もう中学校へ上るやうになつた長男の竜一はとにかく、次の昌平と軍治は、姉や父の口真似をして幾を叱りつけることもあつた。
覚悟はしてゐた積りだつたが、幾も子供達から「小母さん」と呼ばれたときには、
しかし、幼い軍治に対してさへ頭の上らないところが重なると、自分ながらどうしてこんな気になつたのだらう、と思ふことがあつた。たゞ、幾の心を
「お前には済まんな」と短く言ふのだつた。それも時々であつて、鳥羽は相変らず家の中のことは見て見ないふりをしてゐるのだつたが、ある時ふいに卯女子を叱りつけたことがある。
事柄は些細なことであつたが、鳥羽の怒りやうといふものは実際思ひがけないほどで、幾は始め何事かと思つた位であつた。聞えて来るのはやはり幾にも関係のあることなので、とりなすことも出来ずはらはらしてゐた。すると、卯女子は顔を押へながら父の部屋を出ると、その儘台所の方へ走つて行き、物音にぽかんとした軍治が、
だが蒔は別居してゐるだけに何かと気にかゝるらしく、時々顔を見せるのも幾の様子を見に来るのであつた。前とちがつて幾の指の荒れて来たことや、身仕舞なども構つてゐられないところなどは、どうしても眼につくらしかつた。幾はそれを隠すやうにしてゐるのだが、時には母にだけ見て貰ひたいと思ふこともあるのである。しかし蒔がぢくりぢくりそれに触れて来ると、幾は又腹が立つた。
その蒔がある日悪い時に顔を出した。
幾が軍治に殴られてゐた。何を怒つてゐるのだか解らなかつたが、
依然として父からは「可憐児」として扱はれ、母親代りに手塩にかけて来た卯女子からは特別な愛情を注がれてゐたので、軍治は本能だけが鋭敏な子供らしい増長をしてゐたのだつた。言つてみれば、幾は自分のために何でもしてくれるのだし、また自分がどう仕向けても構はない、と云ふ考へ方が自然と軍治の中に出来上つてゐた。しかし乍ら、母親の記憶と云ふものを全然持ち合はせてゐないために
この点は幾にしても同じなのであつて、今では軍治に対して自分でも不思議なほど情愛を持つてゐるのだつた。自分の子と云ふものを持つたことはないのだから、これが母親の気持だと
それやこれや、彼女が今まで想像さへしてゐなかつた気持を少しづつ経験しはじめたのは正しく云へば卯女子が他家へ嫁ぐ前後からのことである。第一、当の卯女子にしてからが、さう云ふ話になると父に向つては直接頼み難い事があると見えて、自然幾が代りに口も利けば間にも立つと云ふ風で、幾と卯女子との仲はいつとはなしに柔かなものになつて行つた。支度や何かで卯女子が忙しくなると、軍治の世話も大抵は幾が見ると云ふ工合になつた。今の中に癖をつけて置かなければと云ふので、軍治は幾に抱かれて寝るやうになつた。そしてこの寂しがり屋の児は幾の乳を探つたりするのであつた。
卯女子の嫁いだ所は町から河沿ひの路を山の懐深く
鳥羽は地方銀行の町の支店の支配人だつたので、
鳥羽は浅黒い顔に心持薄い唇をいつも引きしめて大抵の場合渋い苦り切つた表情をしてゐたが、それを恐れなかつたのは軍治だけであつて、他人には随分厳格に見えるのだつた。実際、用談の場合などには、相手の腹を何から何まで見透してゐると思はれる風な鋭い、迫つた口の利き方をしてゐた。かう云ふ点では随分多くの敵を作つてゐたのであるが、一面には親しくなると気が弱く、位置に似合ず信用貸に類したものが沢山あつて、没落して始めてそれらのものが形をなして現はれて来たのである。
最初、銀行の金で定期に手を出したのが基で、それがうまく行かず、損が次第に大きくなると、それからは自分で自分の穴を掘つて行く有様だつた。
当然来るべき筈のものが来た。検査役の手で一切が明るみに出てしまつたのである。行金費消は数人によつて行はれたのであるが、支払能力のあるのは鳥羽だけであつて、責任と云ふ点もあり、鳥羽は私財の全部を提供することになつたがそれでも全額を償ふには足りなかつた。明るみに出たとは云へ、やはり銀行の内部だけの話しで、友人の心配もあり、示談と云ふことで済みさうになつた。
前から話はあつたのであるが、軍治が幾の家名を継ぐといよいよ決まつたのも、又、次男の昌平が遠縁の家へ養子に行くとなつたのもこの期間のことなのである。最早その時から父は自殺の覚悟をきめたのであらうか。それでなければあゝ云ふ風に一人一人の子供の片をつけて置くわけがない、と後では親戚の者も言ひ合つたのであるが、それはとにかく、家屋敷は銀行に引渡すことになつたので、幾はそれまで他人に貸してゐた料理屋の家をとり戻し、改めて旅館をやることになり、鳥羽は今度こそ幾の世話になる筈だつた。
そのところへ一切を検事局と新聞社に密告した者があつた。検事の家宅捜索に来る前日、鳥羽は幾の家を出て住み慣れた自分の家に行き母の病死した離れで縊死してしまつた。
それは午過ぎの頃で、
「よく働くな」と言つた。それから
「軍治はどこかへ遊びに行つたのか」と訊いた。
昌平が、知らない、と答へると父は片手を懐に入れたままゆつくり裏の方へ行つた。
縊死してゐる父を最初に発見したのは軍治なのである。
遊び疲れて帰つて来た軍治は、幾から父が元の家へ出掛けたと聞いて後を追つたのだが、泥を手足から顔までくつつけてゐる軍治を見ると、兄も姉もからかひ半分に父は此処には来なかつた、と言つた。真に受けてそのまゝ又遊びにとび出したが、「可憐児」の彼はそれだけに父の姿を求めてゐたので、暫くすると又もや引返して来た。今度は、裏庭だ、と云ふので行つて見たがやはり父は見あたらず、大声をあげて父を呼び、答がないので半ば歌のやうな調子から次第に独語のやうにぶつぶつと父を
幾は鳥羽がその前夜遅くまで起きて何か書き物をしてゐたのは知つてゐたが、新しい商売の支度に忙しかつたので、真逆それが遺書だとは気がつかなかつたのである。
最初から、いつもの気質で鳥羽は幾に向つても何も言ひはしなかつた。それでも、多少は耳に入ることもあるし、又急に出入の激しくなつたことや、ますます気難しい眉になつて行つた鳥羽の顔で、大体の様子は知つてゐた。いよいよ身動きの出来ない所に来て、鳥羽は「面目ない次第だがかう云ふ事になつた」と
「何分よろしく頼む」と、自分のこととも軍治のことともつかず、鳥羽が幾に向つて頭を下げた時には、あの他人にはこればかりも弱味を見せたことのない人がと云ふ気がして、幾はその顔をまともに見ることさへ出来ない思をした。
なにか起らねばよいがと云ふ気もして、幾は幾なりに鳥羽の様子に気をつけてゐたのであるが、あれが遺書だと知つたならどんなことをしても死なせるのではなかつたと、思ひ出してはそれを考へ、又、民子などとも話し合つて泣いたのである。
あの朝も、鳥羽は、一寸向うの家へ行つて来ると言つて出かけたのであつた。引渡しの済むまではと云ふので、竜一と昌平の二人は親戚の者と一緒に未だ元の家にゐたのだつた。幾の新しい家の方では器具の整理や部屋部屋の手入などでこれもごたごたしてゐた。
軍治が午過ぎに走りこんで来て、子供らしい頬に息をのみ「お父さんが」と言つた。
気配で、幾はもうびくりとなつてゐたが、
「どう、どうなの」と、軍治の手を捕へて訊いた。そのまま手を引くやうにしながら、下駄をつゝかけて走り出すのと、死んでゐる、と云ふ言葉や場景が頭に入つたのとが一緒であつた。
成長盛りの年齢の加減もあるだらうが、この頃から軍治の心ははつきりと眼覚めて来た。誰も事の次第を分けて言ひ聞かせて呉れる者はなかつたが、
憎い奴だ、
父の費消金の中には信用貸でその男に用立てた部分があり、問題が起るとかうなるからは五十歩百歩なのだから父の負担として呉れ、その代り家族救済として後で支払ふ、と、その男が言ひ出し、父が拒絶すると言を左右にし始め、最後には最早支払済だとさへ白を切つた、と言ふ。遺書を読み上げたのは民子の
又、父の死後一週間目に僅かな額の貸金の請求を葉書に朱筆で
父の墓は
一度は彼の方で此方の挨拶を待つかのやうにぢつと眼を送つてゐたが、さうなると猶のこと軍治達は横を向いたまま通り抜けるのだつた。会ふ時には会ふものと見えて、それからは続け様に二階と墓路との反目を続けたのであるが、彼は上眼で見ては止めたり、又或る時なぞは上手から降りて来る軍治達を迎へて、二階の窓に真正面に向きなほつてゐたりした。
其後暫らく会はないでゐたが、矢張り何かと伝へて呉れる人があつて、彼は益々
だが、それもこれも家屋敷が銀行に引渡される迄のことであつて、もう嫁いでゐて云はば身の固まつた姉達にはともかく、男の兄弟三人の生活と云ふものはそれ以来全く思ひ思ひの方向に絶ち切られてしまつた。次男の昌平は鉱山師だと云ふ新しい養父に連れられて、南の方のK市に行つた。長男の竜一には学資として多少の金が取除かれてあつたが、始の中は止めると云ひ張つてゐた学校の寄宿舎へ、
軍治は一人一人立ち去つて行く親戚の者や姉達から、幾は最早「母」であつて「小母さん」ではないことを
幾から子供用の新しい番傘を渡されたことがある。小学校へ通ふ子供は誰も自分の傘に遠目にも解る程大きな字で姓名を書いて置くのが習慣だつた。軍治の開いて見た傘には黒々と、中村軍治と云ふ字が真新しく浮いてゐた。今でも町の人は彼を呼ぶのに「鳥羽さん」と言つてゐた程であつたから、軍治にはこの新奇な不慣れな姓が恥しかつた。軍治は家の出口で、きまりが悪い、と言ひ言ひ、傘を開き目にしたり閉ぢたりした。すると、それまで笑顔で眺めてゐた幾が不意に恐い顔をし、どこがきまりが悪いの、と言つた。軍治は泣き顔をして傘を肩に
旅館とは云ひ乍ら昔風の大きな家を改造し、建増したものであつて、外見は普通の家と殆んど変りのない格子戸が廻してあり、内部へ入ると広い式台のある玄関から真直ぐに長い光る廊下が奥に伸びてゐた。その廊下は三棟の二階家をつないでゐるもので、戸外から覗いてみると途中にある二つの中庭から、樹木の緑を混へた光が廊下に映り、足音をたてずに忙しく往来する女中達の白足袋などが
初めの中、軍治は物珍らしく、長い廊下を走つてみたり、客用の器具を持ち運びする女中達の手伝をすると云ひ出してきかなかつたりした。朝に晩に、見知らぬ多数の客が出入して、中には度々来るので軍治の顔を見覚え「坊ちやん、来い」と言つて客室へ連れこみ、菓子を呉れる客もあつた。酔ひ
夜は一時か二時に寝、朝は朝で女中よりも先に起き出る幾は、昼間の
忙しくて食事の時間が少しも決まつてゐなかつた。朝学校へ行く前など、軍治はよく一人で食膳に向つた。直ぐ傍の台所で、女中達が拭き並べる客膳の音、板場の罵る声、幾が帳場から台所、客室への挨拶などで小速に踏み歩く足音、それらが高く入り乱れ、間断なく響いた。面倒を省く為に、軍治は客と同じ食事を
兄姉達と戯れ笑ひ乍ら明く楽しい灯の下で食卓をかこんだ頃の事が忘れられず、軍治は幾を待つてゐるのだつたが、幾の来る時には食事が冷え切つてゐたりした。幾は鳥羽家にゐる間は忘れてゐた晩酌を、その頃から始めるやうになり、くどくどと蒔を
ある夜、客が混んで、室が空くまで暫らくの間、二人の男が軍治達の居間に座をとつた。客の商人と、今一人は客を訪ねて来た町の人であつたが、酒を飲み、歌ひしてゐる中にだんだん乱れて来た。冬も夜更けであつたから、軍治は、眠くはあり、隅の
その頃から軍治は来る客来る客に憎しみを覚え始めたのだつたが、それを幾にどう言つたらいゝものか解らなかつた。肩を張り廊下を踏み鳴らす客、傍若無人に女中を叱りつける客、それに対して、女中はもとより、幾も亦
軍治は日に増し癇癖が強くなり、何かにつけてぶつぶつ幾に不足を云ひ「そんなこと構つてゐられるもんですか」と言ひ棄てて立去つた幾が、次の瞬間には襟元を合せ、小柄な肩に控目な様子をつくろつて、小刻みに廊下を客室へ行くのを見ると、いきなり手許の皿などを庭に投げつけ、居間にのけぞつて、手で畳を殴り足で障子を蹴りつけするのだつた。
さう云ふ時に、蒔は不自由な足を引きずつて近づき「これはどう云ふ児か」と老人らしい筋を額に見せると、軍治は大声に喚き出し、蒔を罵り、今度は又立ち上つて手あたり次第に物を四方に投げつけ、踏みつけ、女中達が呆れてゐる前を盲滅法に家の外へ走り出ると、切なさと後悔の念を交へた頭から胸一杯の混乱に唯ぼうつとなつて、うろ覚えの河沿ひの道を歩いて行つた。姉の所へ行く気だつたが、町を離れると路面は埃で白く唯遠くつながり伸びてゐて、山の重り合つた裾に消え込み、瀬の音が急に耳について来ると、軍治は路傍に
夜になつて、疲れ鼻白んで帰つて来ると、幾は奥から走つて出「どこへ行つてゐたの、どこへ」と訊いたが、軍治が黙つてつゝ立つたまゝでゐると、その手をとり居間に引いて来た。見ると、幾と軍治の食膳がいつになくきちんと並べてあり、幾は自分から先に坐つて軍治をも膳につかせ、親しみ深い手つきで飯を盛つた。軍治は甘酸つぱい気持の中で
それ迄は別にこれと云ふ際立つた意識もなく過して来たのだつたが、軍治の脊丈が眼に見えて伸び始める頃になると、彼の中で或る物がはつきりと眼覚めて来た。それは今も猶鮮かに残つてゐる生家の記憶、云はば鳥羽家の気質であつた。
この頃では蒔はますます老いこみ、腰がひどく曲つてゐるので着物の前が合はなかつたりして、子供のやうにだらしなかつた。幾は幾で、小鬢には白髪も少しは見えて来たが、相変らず客を送り迎へする時には見ちがへるほどしやんとなり、いそいそとして客の後になり先に立ちする様子を見ると、軍治はこれが幾の身についてゐるのではないかとも思はれ、又、この商売を楽しんでゐるのかも知れぬ、と疑ふのだつた。
何時誰からともなく、幾のずつと前身は町端れの煮売屋で、他人からでも名前を呼び捨てにされてゐた、と聞き覚えてゐた。「小母さんは
幾の手に引かれ、身の廻りの世話をして貰つた記憶はまざまざと今も残つてゐるのだが、その親身な感じで今の幾を見ると、これがあの幾だつたのか、と云ふ気がした。ここ数年間幾はたゞ客の方に気をとられてゐて、軍治の着物の世話などは全くの他人任せになつてゐたからよく寸法が狂ひ、仕立下しの着物が引きずるほど長かつたり、胴が窮屈で着られなかつたりした。
客に怒鳴られ、平謝りに詫びてゐる幾を見、少しの落度もないやうにと忙しく走り廻つてゐる幾を見すると、軍治は自分が
かう云ふ軍治と幾との間は普通の継母子でもなければ実母子でもなく、相反撥し、又、相引合ふ奇妙な状態であつて、それが軍治に苦痛を与へてゐると同じやうに、幾の中にも絶えず響いてゐるのだつた。
鳥羽が軍治に幾の家の跡目を継がせようと言つて呉れた時には、自分のこれから先が急に開いたやうな気さへしたのだ。同じやうに蒔もこれには涙をこぼして嬉しがつたので、それを見ると、幾は自分も苦労の仕甲斐があつた、と思つた。鳥羽家の子供を晴れて吾が子と呼び、母と呼ばれる楽しさは、鳥羽に死なれ、又以前のやうな商売に入る辛らさを消し慰めて呉れたのだつた。軍治の母になると、鳥羽の親戚の者でさへ以前とは違つた眼で見てくれるのがそれと解る程だつた。
しかし、母だ母だと思つてみたところで、軍治に対する今更らしい扱ひ様があるわけではなかつた。鳥羽の子供だと云ふことが未だに頭にあり、又、下手にばかり出てゐた癖は消え失せず、結局軍治の我儘を通してやることが多かつた。母と呼ばれることにも慣れてみれば、商売の忙しさが身を追つて来て、寝る暇さへない位に働いてゐる中には、気の張りも出るし、人扱ひの面白さも思ひ出して来た。それもどうにか目鼻がついて来ると、面と向つて、女手一人で感心なと言はれる時の励みもあり、商売柄で毎日のやうに現金が自分の手で動かせる楽しみも加はつた。この分ならば軍治にも出来るだけの教育を受けさせ、鳥羽側の親戚に対し引け目を感じないで済む、さうも思つた。
その軍治が時々発作のやうな癇癖を起しまるで手のつけられない事のあるのには、どうしてこんな子供を貰ひ受けたのか、と愚痴と解つてゐて考へたりした。それも中学へ入つたら、少しは大人びて来るかと思へば、
その次の日、軍治が何時になく
こんな風に言はれてみると、それもさうだと云ふ気がするのだが、又一方では、何か自分の
実際幾はかう云ふ種類の商売は娘の時分から慣れて来たものであり、殊に今は歳が歳だつたから、止めると云ふことは頭で解つても事実の感じが身に迫ると、唯空恐しい気持に脅かされるのだつた。軍治の鳥羽家風の気質がだんだん拡がり出て来るのが重荷でもあり、又、憎々しい気さへした。
それを又、軍治の方では、情ないと云ふ気の裏から、幾の気持を右から見左から見して詮索し、向うがその気なら此方だつて考へがあるのだぞ、と云ふ風に底冷い様子を身体つきに
中学も後一年で済むと云ふ時、夏休過ぎて家を立去つた軍治は一月余りで突然帰つて来た。
その時分、唯一の交通機関であつた乗合自動車が二つの会社に増え、新設の会社から運転手や車掌に部屋を貸してくれと申込まれて、客を引いて貰ふと云ふ弱味があり、否応なく承諾させられたのだが、客室を使ふわけには行かず、幾は自分達の居間を提供し、蒔と幾は玄関傍の帳場に寝起してゐた有様だつた。
幾は今にも軍治から激しい権幕で詰めよられるやうな気がして、慌てて、玄関の上にある女中部屋を片づけ、掃除したのだが、その間、軍治は袴も脱がず、縁側にたつて中庭に向ひ、何か押へつけてゐる風な後肩を見せてゐるきりだつた。女中部屋は以前物置になつてゐたのを畳を入れ、天井を張つただけで、狭い急な
二三日すると、軍治は幾に
それも十日許り後には舞ひ戻つて来た。今度は自分で女中部屋の掃除をしたりした。滅多に口を利かず、天気がいいと戸外を出歩いてゐたが、黙つて墓参用の水桶を提げて出ることもあつた。
かうなると幾には軍治のことが気になり始めた。卯女子の家へ行つてどんな事を話し合つたのか、と云ふ気もした。今では軍治にある鳥羽家の感じが、幾には苦痛でもあり、重荷であつた。蒔は老いこんで呆けたやうになつてゐるが、それでも身体は確かで、台所へ出て来ては炊事の手伝をしたがつた。それが一々足手まとひで女中達が嫌がるのを、見兼ねて幾が叱りつけ居間へ蒔を追ひやるやうにするのだつたが、又しても着物の裾を引きずり台所に出て来た。それも出来ないとなると、玄関傍の火鉢の前に坐りこんで、客毎に頭を下げ、場外れな挨拶をした。みつともないから、と云つて手をとり引き立てるやうにすると火鉢にしがみついて、自分の何処が悪いか、と
冬になり、気遣つてゐた軍治はかへつて肥つた位だつたが蒔が寝ついてしまつた。心臓は確かだが、と医者は言つた。老衰だとは誰の眼にも明かだつた。
場所がないと云ふので自動車会社の人には
便の始末は幾が人手を借りずにしてゐたのだが、蒔はそれだけは解るのか、身をもがいて嫌がつた。一度、軍治は見るに見兼ねて手伝つたが、此方の腕からすり脱けようとして蒔のもがく力の強さは、抱きかゝへてゐて共倒れをしかけた程だつた。時々蒔は
軍治は蒔の薄汚い立居には以前にも露骨に顔をしかめなどしてゐたのだが、病気になつて以来の蒔の様子には唯驚き眺める許りで不思議に汚いと云ふ感じが起きなかつた。傍にゐて、すつかり
雪は降らなかつたが風が冷い夜更、誰か玄関で大声に呼び立てるのに眼覚めると、傍には幾も居らず、何事かと出て見ると、玄関の土間に見知らぬ男が蒔を抱きかゝへてゐた。大戸は開いてゐるので、風が吹きこみ、蒔の下半身から水が
幾も軍治も寝こんだ隙に這ひ出て、戸外に迷ひ行き、家の前を流れてゐる下水溝に落ちこんだことが解り、幾は済まぬ、済まぬと何度となく口に出しては詫び乍ら、意識の不明瞭な蒔の身体を撫でさすり、夜通し起きてゐた。
それから急性肺炎になり、三日目に蒔は死んでしまつた。軍治はその時二階の部屋にゐたのだが、幾も客室の挨拶に出て居り、居間には女中が一人附いてゐた。誰か早く来て下さい、と
葬式も済み、急に風の落ちた後のやうな夜になり、居間で軍治は久し振りに会つた姉の卯女子と話し合つてゐた。仏壇の蝋燭をさし換へる度に、仏具が光り、姉の横顔が殊更白く浮いて見えたりした。三人の子の母親になつてゐる彼女は、昔のやうではなく、世慣れた様子で、線香の消え尽きたのにもよく気がついた。幾が入つて来て、軍治に、風呂はどうか、と訊いた。入る、と答へて腰を上げずにゐると、幾も卯女子の傍に来た。蒔の死際の話しが出て
「あの時は
さう云ふ時、死んだ鳥羽そつくりの形が軍治の後肩のあたりに出るのだつた。
(昭和七年三月)