スウィス日記

辻村伊助








 忘却は人間の有する最大の幸福である。私達の目まぐるしい生活が、あらゆる感情のい交じったその日その日が、りのままに私達の在る限り、胸の中にたたまれてあるとしたら、それを負うて歩まねばならぬ人の運命はいかに悲惨なものだろうか。
 雑然たる生活の断片を紙に残すのは、この意味に於て明らかに矛盾である。しかもそれを敢えてするのは私の過去に於てアルプスの雪の間に送った月日が、そのいずれの瞬間を思い出しても何の悔ゆることのない、白日にさらすとも何等不安を感じない生活であったのを確かめているからである。
 山に対する時私は云い知らぬ喜びを覚える。しかし読者はこの日記によって同じ感じを得ることが無いかも知れない、がそれはあながち私の負うべき責ではあるまい。何となれば、山のささやくは自然の声であって、言葉はついに人の心に過ぎないからである。私は明らかにその声を聴く、しかしそれを表わす言葉の無いのを如何いかにしよう。ただこの日記が、偉大なる山岳を汚損する如き傾向を、僅かなりとも読者の心に与えなければ、私はそれを以て充分に満足する。

大正十一年七月
著者
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スウィス日記



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リヨン――シェネーフ(ジュネーヴ)Lyon――Gen※(グレーブアクセント付きE小文字)ve




 ローンを右に見る汽車の窓に、むら消えの雪の間に、霜げたがさすが若草か緑の牧も見えて、丘は赤瓦の百姓屋、川やなぎ、ポプラ、背戸に積んだ刈り草の、空はやわらかにうすらかすんで、南欧らしい気分は、急行の汽車の中までただようている。ふりかえるとリヨンの街は、どんよりともう立ちこめたけむりの中に隠れて、今となれば、さすがもの悲しいフールヴィエの丘の雪も、岸のポプラのむら立ちも、あわただしく別れては来たがこの都も、

別れ路にまた降りそめし川岸のポプラの群のかおる朝雨。

 それもよし、今宵は雪のスウィスである。室にかけたシャモニーの広告もうれしかった。
 私は窓ぎわのテーブルに、スウィスの地図を拡げる。もう一人のお客さんは、入り口の方にりかかってこくりこくりやって御座ござったが、やがて、アヴァランシュのような大鼾おおいびきをかき初めた。汽車は鼾を物ともせず、同じような響をたてて、丘の間を走ってゆく。折り折りテレースの上に小さな村が表われる、南表は雪解けの赤屋根であった。
 川をはなれると、雪はだんだん深くなって、露わなポプラの木立、遠い丘の、これも真白に包まれた上に、尖塔の夕日に閃くのが、何とも云えず美しかった。が、それも暫し、日の沈む頃には、やや谷合いの雪が深くなったと思えば、さらさらと窓に散る、汽車は粉雪に包まれてゆく。アヴァランシュはそのうちふと眼を覚まして、しばらくもじもじしていたが、烟むそうな顔をして出てしまった。あとは一人で気楽である。
 とある停車場でガルソンを呼んで、御茶を運ばせる。空はいつの間にやら暗くなって、雪明りか、うっすらと谷水の見えると思ったのは、あらずそは夕月の光りであった。窓の露をふいて外をのぞくと、狭い谷の空にアクアマリンの夕星を見る。粉雪はやんで、谷の雪は尺をたしかに超えていたろう。又一人の男がやって来て、同じ入り口の席によりかかった、こいつもアヴァランシュかなと横目で見ると、声も立てず、ぐっすりと、彼れは穴籠りの羆熊ひぐまのように眠っている、元より赤鬚の荒くれ男で。
 食堂へ出るまでもない、八時には湖に沿うた街の灯がちらちらして、汽車はシェネーフの停車場に着いた。税関の検査も一寸ちょっと聞くだけで、荷物を自動車にのせて宿に行く、通りの名はリュー・ドゥ・モン・ブロン Rue de Mt. Blanc、ホテル・ドゥ・ジュネーヴと云う家の名も気に入った。何も自動車を雇うまでもない、停車場からは五分ばかり。
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シェネーフ Gen※(グレーブアクセント付きE小文字)ve




 私が水を見たのは。ただ水と云って置こう、湖から朝靄あさもやが立ちこめて、ローエングリンを送り届けた帰りみちの、道草は可笑おかしいが、もとより浮き草もない小波さざなみの上に、靄の色の羽づくろいして白鳥が一羽、おつにすましておよいでいたばかり、レマンの岸に人もなく、空も、波も、ただ一色にぼかされた八日の朝の八時頃、朝飯を待ちかねて――敢えて空腹のためではないが、何となく胸さわぎがして、落ち落ち眠れなかった床をはなれると、山が見えるかと、覚束おぼつかない心頼みに、街をつきぬけて橋のたもとに来たのである。橋の名はモン・ブロン。ローンの水の落ち口である。
 橋をへだてて、南にはプロムナードからサヴォアの岸のクェイ・デ・ゾウ・ヴィヴ Quai des Eaux Vives、北岸はモン・ブロンの湖岸から、クェイ・ドュ・レマン Quai du L※(アキュートアクセント付きE小文字)man につづいていかめしい宮殿作り、一口に云えば、一寸ちょっと入りくそうなホテルがずずと並んでいて、中から出て来た自動車に、雪のとばっちりをしたたか浴せられたのもいまいましい。彼奴はアメリカ者に相違ない。レマンの岸の朝ぼらけを自動車で、しかも変てこな女づれで、ぶち壊す奴は外にあるまい、がその宿のドゥ・モン・ブロンは気に入った。
 何にしても、スウィスの雪を踏むだけで、胸のうれしさは隠くしきれない。デジューネーの、銀の壺に盛られた琥珀の蜜も、煙草の名のハイライフも、紅のように頬を染めたあの北風も、今はなかなか忘れられない。こうして、八日は湖水のふちをうろうろして、水を見て、橋を見て、また真白な霧を見て、ただにこにこしているうちに暮れてしまった。午後は柔かに日はさしたが、湖の靄は、夜明けの窓のとばりのように、夢をつつんで静かに眠った、水鳥の鳴く音をさびしくつたえて。
 次の日も靄が深く、小雨まじりにしっとりして、水の都は名を知られたと云う、紀元の空をそのままに、雪路なれば足音も響かず、静かに明けてまた暮れてゆく。
 ミュゼーにさすが山の画は多い、小路のそこここに、噴水の雪に埋れているのもうれしかった。何だかしんみりして、月夜ではないかと橋まで出たが、雪明りのどことなくうっすらして、ローンの落ち口の水底は、昼よりかえって白く光っている。くいかと見えたのは河波の上に、あわれ浮寝の小鴨である。
 湖ごしに雪の連山を、遠くとも一目見たら引きかえそうと、シェネーフの滞在四日に及んだが、次の日も小雨で、路の雪は解けもやらずそのまま凍って、湖の靄からネーベル・ホルンが、かすかに響くばかり、モン・サレーブの雪の岡はちらっと見たが、その上に表われると云う、モン・ブロンは影も形も見せなかった。
 このままでは義理にも帰れなくなった午後十二時二十分(西欧標準時)、街はずれの停車場 Gare des Eaux Vives から、思い切って汽車に乗った。これからシャモニーへ行くのである。
 ボンヴィユ Bonneville までは平らな路で、堤に紅いウメモドキとも思われるのが、雪をかずいて美しかった。次第に山に近く、右は切っ立ての岩壁に、直下のアルヴ Arve の渓も深く、タンネの林にかささぎの飛ぶのも山らしい。が、電車に乗りかえるサン・ジェルヴェ St. Gervais から、初めてアルヴの美しさが眺められる。
 乗りかえて待つ間もなく発車する、シーをかついだ連中が、一所いっしょになったのも頼もしい。渓は深く、樅の梢がすくすくと屹えているだけで、高い高い崖の雪路までは見えたが、上は同じく真白な雲にかくれて、日暮れに近い渓合いに、花やかなのは電車の明りばかりで、ボッソンの氷河も知らずに、シャモニーの停車場に着いたのは午後五時。日は暮れて、表に出ると、冷やっとする山の夕靄を震わせて雪車そりにつけたシュネー・ロルレンの、あわれ響のなつかしさ、アルヴは何処、雪の中に埋れて、渓川の響はその夜の夢に通わなかった。
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シャモニー Chamonix




 雪車そりに曳かれて着いた宿は、停車場から程遠からぬカルトン・ホテル Carlton H※(サーカムフレックスアクセント付きO小文字)tel で、まだ新築の奇麗な家であった。北向きのヴェランダからは、右にエギュイユが渓の東を東北へ走って、そのはずれのモンタンヴェル Montenvers の蔭から、メル・ドゥ・グラス Mer de Glace がのぞまれる。日あたりの南はモン・ブロンの頂よりも、エギュイユ・ドュ・グゥテー Aiguille du Go※(サーカムフレックスアクセント付きU小文字)ter とドーム D※(サーカムフレックスアクセント付きO小文字)me du Go※(サーカムフレックスアクセント付きU小文字)ter の氷が眉にせまる。が、着いたのは黄昏たそがれ過ぎ、次の日は曇り、そのけの日は大雪で、シャモニーの渓をまのあたり見たのは正月十三日の、それも昼まぢかになってのこと、此宵はサロンのピヤノと、二重窓をあけては、かすかに響くアルヴの水音に耳をかたむけたのである。
 さて翌けの日、山村の日曜を想像して見たまえ。眠っているような小村のもやに、鳴りわたる会堂の鐘の音、アルヴの水も夢からさめたか、雪をもれて、かすかにそれとうなずかれる朝まだき。あすこに、この雪の下に、のウィムパーが眠っていると、朝飯もそこそこに、杖一つぶら下げた身軽にぶらり、その鐘の鳴る方へ雪路を分けてゆく、教会は停車場前、私の室のヴェランダからは、斜めに見える尖塔がそれで、墓は雪の中ながら、誰のわざかしおらしい花束も、雪をかずいて美しかった。どんよりと曇り日の空には、そこここと晴れ晴しい朝空が仰がれたが、山は深い雲の中で、ただほの白い渓の中に、鐘のねばかり鳴りわたる。朝空の雲の窓は、その鐘にさそわれて、南に動き西に揺れて、ある時は、その陰欝な扉の奥に、ああボッソンの蒼白い氷河をさえ仰ぐことができた! ただ思いがけない雲の真中に、これが私の初めて見た氷河であった。
 たまらなくなって、深い雪の中をあたふたと、たとえば一尺でも山に近づこうとするように、ホテルの前は素通りにして、アルヴの橋を、水には眼をくれる暇もなく、つき当りを左に曲ってボッソンの方へかけつけた。村の奴等は変な顔をして見送っている。ようやく村はずれに来た頃は、もういつの間にか見えなくなって、恨めしそうに、ふり仰ぐ空は、おなじ灰色の密雲みつうんである。
 村はずれにも教会がある。女まじりにそろそろ坂道を下りて来るのは、野良着をつけた屈強な大男、夏はガイド、陽気はずれの寒空には、そまか、大工の手つだいもして、こうした日曜には、やさしくも神の御前にぬかずくと見える。山の名は、後の日この手合いに聞いて知った。
 山は見えず、それでも雲の上には、薄日でもほんのりとさしているようなのに我慢がならず、アルヴをさしはさむ二筋の山脈の、西はフレジェール Fl※(アキュートアクセント付きE小文字)g※(グレーブアクセント付きE小文字)re、東にはメル・ドゥ・グラスの南なるモンタンヴェル Montenvers と、二千メートルに足らぬ山ながら、夏場には開けるとあるホテルも見えて、せめてあすこまでと、例の屈強に伺えば、それはシャモニー村の御百姓、かんらかんらと打ち笑い、旦那、なにヨ云うだよ、この大雪のあとだってにねッと、ただ一言に打ち消された。フランスだけに、田舎ながら言葉づかいはおとなしい、旦那はモッシュールの訳と知るべし。ここに述ぶ、フランスなれどサヴォアに税関は置いてない、無税とは云えロンドンから、る携えたシガーは、曇り日でもカサカサに乾き切って、葉の破れを両手に、尺八を吹くような始末でなければ、煙はなかなか口には来ない。
 午後は氷雨、ヴェランダからやや右よりに、メル・ドゥ・グラスの雲に見えかくれするのを眺めて、ぼんやりしながら暮らしてしまった。山里なれば日の暮れやすく、夜は薄月に小雨して、サロンのピヤノは今宵も枕にひびいて来る。
 夜の小雨は、いつのまにやら今朝の粉雪に変っていた、私が二度目に眼をさました、それは八時半頃であったろう、窓をあけてヴェランダに出ると、山脚の樹氷、樅、白樺の小枝小枝は、美しくも飾られて、しんしんと、なお降りつもる雪の中に、朝出されたサヴォアの蜜は凍っていた。
 時々ピヤノが聞える、風淀ながらヴェランダに、雪はたちまち、寸を超えてしまった。路をへだてて、の四月に開業と云うシャモニー・パラスで、大工がとんとんやってるのが、風につれて響いて来る。私のホテルは、その建物に邪魔されて、渓の正面はかくれてしまう、従って向うからは、モン・ブロンは見えるにしても、少なからずさえぎられることと思う。シャモニーに多い宿の中でも、リュー・ナシヨナール Rue Nationale の西側、ル・ブレヴァン Le Br※(アキュートアクセント付きE小文字)vent の麓に、アルヴを前に見下ろすサヴォイ・パラスか、ホテル・ドゥ・ラ・メル・ドゥ・グラスあたりでなければ、思うような景色は眺められない、然しこれは無精者の、日がな一日、ホテルの窓にかじりついてる連中で、何れにせよ、人口八百の山村と云えば、一足出れば、渓の景色は思うがままに眺められる、谷は東西半マイル、長さ十四哩、隅から隅までうろついたところが、足の疲れるおそれはあるまい、雪の日の外、室に拘禁されぬかぎり、展望のきく高い――位置ばかりではない――ホテルに入り込むのは、馬鹿か、貴族か、亜米利加アメリカ人で、なみの人間は、まず便利な安宿に落ちつくを以て、分を知れりと云うべきだ。
 て正午、雪は小やみなく降りしきる山村に、今日は鐘の音もひびかず、給仕はのこらず女中だから、どことなくしとやかで、御客も十四、五人、しんみりして、誰れの業か、昼間からサロンのピヤノが聞えなければ、かえって寂しすぎたかも知れない、食堂の庭は、南表に落葉松の、枝はあらわながら雪に飾られて、背景は雲のたえまに、山腹のボッソンの氷河が美しくも物凄い。
 昼過ぎは、雪も小降りになったので、買物がてら村をうろついて見た。通りと云うのは丁字形の二筋で、停車場からホテルの前を西に、アルヴにかけた小さな橋を渡るアヴェニウ・ドゥ・ラ・ガル Avenue de la Gare がリュー・ナシヨナールにつき当る、これは、アルヴの西側を、南北に延びた街道で、左すれば、私の来た鉄道の線路に沿うて、彼の氷河の麓、レ・ボッソン Les Bossons やタコンナ Taconnaz の村をぬけて、西にレズーシュ Les Houches につづいている。右すればブレヴァンの直下を、アルヴを右に、上流に向ってエギュイユを渓の向うにして、レ・プラ Les Praz de Chamonix、レ・ボア Les Bois、エギュイユ・ヴェールト Aiguille Verte の北に、グラシエ・ダルジェンティエール Glacier d’Argenti※(グレーブアクセント付きE小文字)re のそそぐ所、同じ名のアルジェンティエールから路は二筋に、いずれもマルティニー Martigny へつづくのである。
 ホテルに近く、アルヴの橋の少し手前を左に曲ると、モン・ブロンの登山者ソウシュール H. B. de Saussure の像がある、モン・ブロンの頂を――今日は見えなかったが――望遠鏡片手に見上げてる、下にはガイド・バルマー Balmat が、これも山頂を望んで、花崗岩の台の上に立って居る。
 村はずれにはスケート場やシーフェルトがあって、此の天気にも、気楽な奴等が、中には覚束おぼつかないのも混って騒いでいたが、ジャムプなどは、後の日ノルウェイで見たものにくらべれば、いささか小供だましの感がある。
 かくて日は暮れた。ショムピニヨンとフロマージュの味は今に忘れられない。ヴェランダに出ると、アヴェニウに灯された灯火の蔭には人影もなく、なお降りつもる雪の中に、遠い遠い谷の奥から、折り折りかすかに、しかし底力のあるアヴァランシュを聞くばかりであった、村は、此の大雪に、埋れ尽したと思われて。
 正月十三日、今朝も靄は深かった。何気なく姿見にむかうと、その深い靄が晴れかかって、樹氷に飾られたブレヴァンの山が、くっきりと表われた。大急ぎで櫛を放り出してヴェランダへ出る、靄はまだ思い切り悪く、渓にねばついているが、大空は澄んで、山の、低きは雪に、高きは氷に、そして木と云う木、枝と云う枝、渓を包むすべては真白ろに飾られていた。デジューネーをはこばせて、二重窓を開けひろげてたべる、咽喉にはろくに通らなかった、飛び出すとすぐ、レ・プラの方まで撮影に出かけた。
 エギュイユはまだ雲に包まれて、ただその上に、靄の中をつきぬけているのは、牙のようなドゥリュー Aiguille de Dru であった。昔から御なじみの山岳が、今そのままに眼の前にそびえているのだから、羚羊かもしかのように雪の上を飛びはねて、夢中になってうれしがったのは云うまでもない。メル・ドゥ・グラスの落ち口も、今日は朝靄の上にはっきりと、クレヴァースのぎざぎざに降り置く雪の、上なるは白く、氷は水色に輝いている。
 十時、朝日はモン・ブロンの一角から表われた、それまでも、南の山はまぶしくって、白熱にさえかえった朝空よりもなお白く、雪の輪劃りんかくを僅かに認めえたばかりである。
 昼近くなっても、渓間には朝をそのままの靄がたなびいて、ドゥリューの外のエギュイユは、とうとう姿を表わさなかった。宿に着いてものぼせ上って、食事も咽喉へ入らない、ガイドでなくても、山が飯のたしになるとは、さっぱり気がつかなかったが、伝え聞く宝丹満腹も、此の場合には不用と覚えた。
 さて昼過ぎ、日はうららかにブレヴァンの空に輝いて、瀑のごとく、絶崖を這い上る淡い靄の上には彼のモン・ブロンから東北へ、シャモニーの渓を限るエギュイユのミディ Aiguille du Midi、プラン Aig. du Plan、ブレィシエール Aig. du Blaiti※(グレーブアクセント付きE小文字)re、殊にグラン・シャルモー Grands Charmoz のうしろから、きりのようなエギュイユ・ドゥ・ラ・レピューブリック Aig. de la R※(アキュートアクセント付きE小文字)publique が物凄かった、その直下にメル・ドゥ・グラスが落ちて、更らに北には、ドゥリューと、千八百六十五年に初めて、ウィンパーが登ったと云う、エギュイユ・ヴェールト Aig. du Dru et Aig. Verte が聳えている。此の氷河のうしろには、モン・マレー Mt. Mallet から北につづく、レ・グランド・ジョラッス Les Grandes Jorasses と、モアン Aig. du Moine が頭を出していた。此等の三千五百米を超えた、ギザギザの西側に比して、渓の東側は余程劣っている、ル・ブレヴァンからエギュイユ・ルージュ Aiguilles Rouges の山脈は三千米を超えず、それでも氷河はあるけれど渓からは、ラ・フレジェールの連脈が近く、タンネやフィヒテの密林に覆われて、三千百九米突メートルと称するモン・ビュエー Mont Buet も、村からは見えなかった。
 渓は平坦で、屏風のように切っ立てのエギュイユまで、余り高低は見られない、そしてアルヴの水も勿論今は少ない冬の最中ではあるが、浅く小さく、此の柔かな渓の景色にのしかかる山岳の、余りに凄く恐ろしいのに胸はふるえたのである。
 前に述べた絶崖の間から、たれ下る大小の氷河の、最も盛んなのは、モン・ブロンの頂上から真北に落ちる二条の、近いボッソンとタコンナの氷河であった。
 村はずれに、危険の信号が方々に立ってるので、踏みかためた街道の外は歩けないし、新しい雪でふみ込むから、通路の外に入る事は不可能である。雪の深さは往来でも一米を超えてると思う。私は小さな写真機をぶら下げて街道を南へ行った、村をはずれると、何と云っても、肩のはるほど、渓にのしかかっているのは、彼の四千八百米、アルプスの帝王たるモン・ブロンと、右にエギュイユ・ドュ・グゥテー Aiguille du Go※(サーカムフレックスアクセント付きU小文字)ter、ドーム・ドュ・グゥテー D※(サーカムフレックスアクセント付きO小文字)me du Go※(サーカムフレックスアクセント付きU小文字)ter、左にはエギュイユ・ドュ・ミディ Aig. du Midi の大山岳である。これから更に左に走るエギュイユは、もう美しいのは通りこして、恐ろしいと云う方が適当であると思う、然し登山に縁なき衆生には、ははア中々なかなか急さね位で、一寸ちょっとびっくりして済むことだろう、が、気を沈めて見れば見るほど、先登せんとうの登山をやった人達の、度胆どぎものほどが偲ばれる。大抵たいていの山は登り易そうな絶壁が、どことなく見当がつくものだが、殊にエギュイユ・ドゥ・ラ・レピューブリック Aig. de la R※(アキュートアクセント付きE小文字)publique に至っては、見たところ全く硝子の破片で、触ったら手が切れそうに屹えている。大抵の山は、十九世紀に登山のレコードは残されているのに、この山だけは、千九百四年になってやっと片づけられたのでも、登山の困難なのが想像されよう。
 アルヴに沿うてレ・プラの村へ行く。彼のエギュイユ・ドゥ・ドゥリューの直下から左に切れて、ラ・フレジェールの真下まで撮影に出かけた。もう四時近く、日はエギュイユの蔭に沈んで、やや風立つと、寒くて寒くてたまったものではない。帰りに、スプレンディッド・ホテルに飛び込んで御茶を飲む、山の景色や村の様子は、かえってシャモニーよりもいいと思われる。南の窓からは、谷にもうたなびき初めた夕靄の上に、モン・ブロンが屹えている。

 Power dwells apart in its tranquility
Remote, serene, and inaccessible:

 日の沈みかけて夕空の、灰色に、すっきりぬけ出た氷の山を仰いで、ぼんやり村へ帰って来た。

 Mont Blanc yet gleams on high: the power is there,
The still and solemn power of many sights,
 and many sounds, and much of life and death.

 正月十四日は曇ってしまった。ブレヴァンは靄の上に見えたが、折り折り粉雪が散って、名残惜しさに村をうろついても、昨日の壮観は得られない。私は最初、マルティニーへ出るつもりであったが、冬の間は電車が通わないので、已むを得ず、またシェネーフへ逆もどりすることになった。午後三時五分シャモニー発、サン・ジェルヴェの乗りかえが四時十分、もう暗くなって来て窓には、息が凍りついて、スティンド・グラスのようになっている。
 真っ黒な夜を、汽車にゆられて、再びシェネーフに着いたのは八時過ぎ、湖の湿り気が多いせいか、シャモニーよりかえって寒く感ぜられた。馬車を雇って例のホテルに入る、主人夫婦に喜んで迎えられた。
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レマンの湖岸




 山を出たせいでもあるまいが、の間と同じ角の座敷に、昨夜は落ちついてゆっくり休んだ。眼のさめたのが朝の十時、もやは依然として晴れず、クェイ・ドュ・モン・ブロンをうろついても、ネーベル・ホルンがかすかに響くばかりで、真白な靄と小波さざなみと、そこに浮く幾群の水鳥を見て、あきらめなければならなかった。ローンの落ち口の碧い水に、ポプラの茂った小さな中の島がある、所在なさに橋を渡って、そこにあるルーソーの像などを見た、島は名によってイル・ルーソー Ile Rousseau と呼ばれる。流れをさしはさんだ商店や、名物の時計の工場、山を見た後では、何の興をもひかなかった。
 午後二時十分発車、モントルーへ向かう。右の窓から湖水を見下ろすと、テレースは一面の葡萄畑である。スウィスの酒で第一にあげられるのは、無論ニューシャテル Neuch※(サーカムフレックスアクセント付きA小文字)tel の赤酒であるが、このレマンの湖辺のも、決して悪い方ではない。ヴィルニューヴ Vileneuve、イヴォルン Yvorne なども、ヴァレイの酒に比して、劣っているとは思わない。東スウィス、殊にツューリッヒ附近のは、のライン酒のような酸味があって、決して上等とは云われない。汽車はベルン行の急行で、私達はロサンヌ Lausanne で乗りかえなければならなかった、停車場のビュフェーで休む。
 天気は余り思わしくないが、西の空はほんのりと夕映がして、乗りかえの汽車に入った頃は、もう薄ぐらくなっていた。右はだんだんの丘が例の葡萄畑で、小奇麗なシャレーや、冬枯れのポプラのはずれは、広々とした湖のむこうに、サヴォイの山を仰ぐ筈だが、今は大洋かとも思われる湖をただ見渡すばかり。そして、それもいつの間にか、汽車の灯火に消されてしまって、二度、三度窓をのぞいても、もう私の旅姿が映つるばかりであった。私は地図をひろげて旅程を考えはじめた。
 気まぐれにリヨンを出てシェネーフに来たが、旅行の目的は南欧の海岸を廻って、スペインからアフリカに渡るつもりである、ラック・レマンからモン・ブロンが見えなかったので、シャモニーへ行ったのは、そのままマルティニーから、ブリーク、シンプロンを越えて、イタリヤへ入る予定であった、とかく迷いがちな旅烏で、今はローンのヴァレイ Valais を溯って、ブリークからミラノへ行くつもりになった。然し幸か不幸か、今年はレョッチベルクの鉄道 L※(ダイエレシス付きO小文字)tschberg Bahn が、冬も通っていると聞いて、昔から想像ばかりして居たラウテルブルンネンの冬景色、今は午前十一時過ぎなければ、日の光を仰ぎ得ないと云う、深い深い谷底のことを考えると、矢も楯もたまらなくなって、ロサンヌからの汽車の中で、急にイタリヤ行をのばしてしまった。旅程変更の大原因はシェネーフで買った地図である、殊に水色に画かれた氷河である。スウィスの地図の中で一番いいのは、測量部出版五万分ノ一(平地は二万五千分ノ一)地形図、トポグラフィッシェル・アトラス Topographischer Atlas der Schweiz で、一般にはジークフリート・アトラス Siegfried Atlas と呼ばれている、全国で五百九十三枚、各葉一フランずつであるが、折り本にしたのや、布の裏うちしたのもある、殊に此のシートの数葉をつづけて、特種の登山用に便利なのがある、たとえば、フィンシュテラールホルン附近の如きは、約九枚を合せて折本としてあるし、ユンクフラウの如きは、此の折本中に含まれているが、その外、シャイデック Scheidegg 又はインテルラーケン、ミュルレン、マイリンゲン Interlaken, M※(ダイエレシス付きU小文字)rren, Meiringen 等の折本にものせられてある。山岳党にはこれ等の地図が便利で、山岳湖水などの有名な所はほぼまとまっている。
 ベルネル・オーベルランドでは、此等のほかにフライで出版されたレリーフ・カルテがある、これは千九百十三年の出版で、その当時、スウィス山岳会の年報に附録となっていたのを、諸君も記憶せられている事と思う、七万五千分ノ一で、ローン、ヴァレイ以北、トゥーン、ブリエンツ以南の山岳の大部分を含んでいる、然し実用上の価値は、前者の精密なのに劣っているのは勿論である、地図の名は Ubersichtskarte der Berner-Alpenbahn 又は Relief-karte der Berner Oberlandes und Oberwallis と称せられる、これには特にシーの通路を示したウィンタースポート用のもあった。
 又二十万分ノ一、ベルネル・オーベルランドの地形図 Leuzinger und Kutter: ―Karte des Berneroberlandes は、等高線のかわりに鬚線を用いたので、余りいいとは思われない。
 十万分ノ一スウィス地形図に、ドゥフール・カルテ Dufour Karte と云うのがあるが、私は好まない。シャモニー附近のはフレイ出版の十五万分ノ一で、オー・サボォア J. Frey: ―Haute-Savoie。北イタリヤのは同じ様なレリーフ・マップ J. Frey: ―Reliefkarte der Oberitalianischen Seen があるが、余りいい地図ではないが、外には見当らない。次にスウィス全国のでは、キュンメルリーの四十万分ノ一 K※(ダイエレシス付きU小文字)mmerly: ―Gesamtkarte der Schweiz がある、これには別冊の索引もついていた。
 此等のうち、単に地図としては、無論ジークフリート・カルテが一番であるが、登山用には、シュペック・ヨストで出版されたシュネーフーン・カルテ G. Speck-Jost: ―Schneehuhnkarte という小冊である、これは、一つ一つの山を主にしたむしろ案内記で、その山の地図(ジークフリート・カルテの一部分に登路に赤線を付したるものをそえ、つ山のスケッチに登路を示し、又簡単な解説を付けてある)全部で六十余冊(千九百十四年夏)、ワリーゼル・アルペン、及びベルネル・アルペン Walliser Alpen und Berner Alpen の三十七冊は仏文で出版されたものもある、各冊一フラン半であった。
 て、くらやみの間を走って、モントルー Montreux へ着いたのは午後六時、ホテル・ドゥ・ラ・ペイ H※(サーカムフレックスアクセント付きO小文字)tel de la Paix と云う停車場近くの宿についた、余り奇麗な家ではないが居心地はよかった。荷物を置くとすぐに街に出て、七時の晩餐まで散歩して来た。靄の深い闇の中でも、湖辺と云う感じは充分に味わわれた。
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モントルー Montreux




 南の窓に、ほかほかと朝日がさし込んで、緑いろのカーティンをあけると、や、寝すごした、南は広々と、レマンの湖の朝もやのたなびいた上に、高く高くグラモン Grammont の雪が仰がれる。
 モントルーのホテルから、南表の湖につづく、だらだら路の左には、花園とそのプロムナードに、ひたひたと寄る小さい波の向うには、のグラモンの山々や、ローンの渓の西につづく、ダン・ドュ・ミディ Dents du Midi, 3260m. の雪が望まれる。この丘のテレースに飾られた家が、あたかも南欧のニスやカンを想わせるよう、その広い窓からは、小波さざなみの寄る湖と、こう晴れた朝は、ひろびろと東へ廻るうみ岸のヴィルニューヴ、シィヨンのシャトウも、あれあそこにと指さされる。
 私はシャモニーで撮したフィルムを現像にやったが、それはツァイスのベベーでとったので、あまりちいさくって物たりないから、ついでに、ビー・テッサーのついた、カード形の写真機を買って、そこの娘に教えられた路を東へ、ほかほかさす朝日に、また眠くなって来たレマンの湖を右に見ながら、うすらがすんだなか空にぬけいでて、もやよりはやや白い雪の峰の、眉にせまるテリテーの岸をぶらぶらと、ヴェイトウの麓、シィヨンの城跡にやって来た。
 水は碧玉の、岬の上に聳えている塔の枯蔦かれつたには、折りから、そよとの風も吹かぬ。七百年の永い間の物語りは、私達の知るところではない、ウシーの宿で書いたと云う、彼のバイロンの一節と、湖の空にグラモンの雪を仰げば、歴史は私にとっては、何の感興をも与えない。

 Lake Leman lies by Chillon’s walls:
A thousand feet in depth below
Its massy waters meet and flow;
Thus much the fathom-line was sent
From Chillon’s snow-white battlement,
 Which round about the wave inthrals:
A double dungeon wall and wave
Have made and like a living grave.

 古き香とでも云うのかも知れない、かび臭い広間をいくつも通りぬけて、高塔の石の窓から湖にのぞむ。晴れも晴れた、大空をそのままのレマンの水に眠るバルクの、あらずそはシィヨンの沖遠く、

A small green isle, it seem’d no more,
Scarce broader than my dungeon floor,
But in it there were three tall trees,
And o’er it blew the mountain breeze,
And by it there were waters flowing,
And on it there were young flowers growing,
 of gentle breath and hue.

 と、イル・ドゥ・ペイ Ile de Paix の小島である。このりかかった小さな窓の、空はサヴォイの雪の山、なつかしくふりかえる右手の丘の、それも雪の中なる樅の林の麓には、朝日をまともに受けた家つづきがきらきらして、湖に近い幾村の、そこは小波とかもめの寄るスウィス・リヴィエラ、西から数えてクララン Clarens、シェルネー Chernex、ヴェルネー Vernex、グリヨン Glion、コロン Colonges、テリテー Territer、ヴェイトウ Veytaux の七つを合わせてモントルーと呼ぶ、私の泊っているのは、モントルー・ヴェルネー Montreux-Vernex である。
 昼過ぎは、湖水のふちのプロムナードを、クラランの方へ歩いて行った。岸には鴎が群れて騒いでいる。夕日がグラモンの峰つづきに沈んで、ヴェイトウの街の灯がキラキラ光り初めるまで、船つきの太いくいに腰を下ろして、何を思うともなく、ぼんやりしていた、夕暮はさすがに寒い。
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ローンの谷 Rhone Tal




 十七日、朝のうちは街をぶらついて、十二時四十六分、ブリークへ向かう、汽車はやはり湖水に沿うて行く、今日は曇って、山はまるで見えなかった。シィヨンの城を右に、ポプラの間からちらっとながめて、ヴィルニューヴ Villeneuve、エイグル Aigle。それからローンの流れを渡ると、だんだん谷らしくなって、右の高い切り岸の下に、小さな村が表われた、ここはサン・モリス St. Maurice、レマンの南岸に沿う鉄道の分岐点で、ローンの谷の入口である。
 谷は、地図で想像したより意外に広く、ところどころに葡萄畑がある。その両側は直立の絶壁で、垂れ下った無数の氷柱が、何とも云えぬ壮観であった。そしてやはり平坦な、むしろ柔かな谷底に、崩れのこる城跡や石屋根の小村小村を、のしかかるように見下ろしている雪の山々は、たださえうすら寒い汽車の窓に旅人の胸を冷やさずには置かなかった。
 ローンの水は浅く濁って、進むにつれて、湖水のふちに少なかった雪はますます深く、ポプラの並木、白樺の樹氷が美しい。鋭い絶崖の右左に開いた谷の、南には、グラン・サン・ベルナール Grand St. Bernard への岐れ路マルティニ Martigny、更らにウィルツシトゥルーベル Wildstrubel の直下、ロイケルバートの分岐点ロイク Leuk。ガムペル Gampel、ラロン Raron を経て、のツェルマット Zermat の支点ヴィスプ Visp に着く。行けたらここから乗りかえて、マッターホルンを見て来るつもりであったが、矢張やはり冬の間は不通であった。ヴィスプは西スウィスではヴィエージュ Vi※(グレーブアクセント付きE小文字)ge と呼んでいる。
 気温は余程低くなったと見えて、窓の内側が凍りはじめた。平らな谷底から、絶えず急な山岳を仰いでブリークへ着いたのは日暮れに間もない頃で、停車場前のホテル・ヴィクトリヤに入り込んだ。
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ブリーク Brig




 イタリヤ風に建てられた石屋根の、山ふところに吹きためられた一かたまりの、ブリークはさびしい村である。北はローンの渓の源遠く、フルカの峯は屹えずやと、のび上る空は雪もよいの重く濁って、フィーシュ、ベルワルトと流れに沿うて、グリムゼルの尼寺へも、まだ二日路はあると云う。南にはながながと、イタリヤへ通う街道も、今は雪に埋れて、ドモドソラへの旅人も、シムプロンの旧街道は通らない。
 私はこの街道をたった一人、南の丘の上にぶらぶら登って行った。村路は狭く、スウィスとは思われぬくらいうすきたない松薪の、山のように積んであった上に並んで、もとより日暮れ近い残り惜しさと云った調子で、がやがや岳烏たけがらすのようにはしゃいでいた餓鬼共が、人の顔を見ると神妙に、帽子をぬいで御辞儀をした。私はその下を、あおのきながら通りぬけて南へ出る。夕ぐれは黒衣の袖に宿ると見えて尼僧一人、しょんぼりと立っていた会堂の石の戸には、千七百二十八年とおぼろげながら記されてある。目下になった村からは、犬の声も響かず、寂として、谷よりせまる夕闇は、「死のさとし」と物悲しい。
 シンプロンの路はやはり雲につづいていた。人気の無い丘からブリークへ、雪路に漏れた小屋の灯の間に下りて来たのは、日が暮れて二時間もたった後である。宿には私と、やまらしい夫婦づればかり、シムプロン・エキスプレッスの汽笛も、遠い国から響くようで心細い。
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レョッチベルク L※(ダイエレシス付きO小文字)tschberg




 正月も十八日となった。今日は日曜である、霧の深いローネ・タールに鳴り渡る鐘の音に別れて、シュピーツ行の電車はしずかに動きはじめた。空はどことなく薄明るく、谷を限るベルアルプは、雲の上と思われる、が渓は夜明けをそのままで、線路に近い積雪に、石をのせた百姓家と、霧の絶え間に、これも真白な、渓底を左に見下ろすばかり、電車は昨日通ったローンの崖の上をだんだん登りながら、谷にはなれて北に向かう。ヴィスプを見下ろしてから全くローンは見えなくなって、ますます深い崖の間に入ってゆく、この辺から、ヴィスプ・タールのミシャーベル Mischabel, 4554m. が見える筈であるが、今日はてんで見当もつかなかった。九マイルのレョッチベルク隧道 L※(ダイエレシス付きO小文字)tschberg Tunnel に入る頃は、雲の上に出てしまって、積雪に反射する日光の強さは、話しにならぬ程であった。このゴッペンシュタイン Goppenstein の停車場は、ウィラーホルン Wilerhorn, 3311m. の登路キッペル Kippel、又はビーチホルン Bietschhorn, 3953m. の登り口のリート Ried への分れ路で、この、ローンから東北に深く深く入り込んだレョッチェンタール L※(ダイエレシス付きO小文字)tschental は、数年前スウィス山岳会の年報の附図で、深く印象をのこされた谷である。殊に、その源、同じ名の氷河を溯って、アーネン・グラート Anen-Grat を左にして、エゴン・フォン・シュタイゲルの小屋 Egon von Steiger H※(ダイエレシス付きU小文字)tte から望む、のベルネル・アルペンの第二高峯、アレッチホルン Aletschhorn 4182m. は、巴里パリの旅でも夢に見たくらいであった。晴れてはいたが、車窓からは深い渓と、ロンツァの流れを見たばかりで、汽笛一声また暗やみに入り込んでしまった。
 癪にさわるのはこのトンネルである、カンデルシュテークからフェルデン Kandersteg im Kandertal; Ferden im L※(ダイエレシス付きO小文字)tschental にこえるレョッチェン・パッスの、東はシルトホルンからチンゲルホルンへつづくペテルス・グラート Schilthorn, 3297m.; Tschingelhorn, 3581m.; Peters Grat、西はアルテルス、バルムホルン Altels, 3636m.; Balmhorn, 3711m. の山々には、いつの間にやら頭の上を通りぬけて、やれうれしやと車窓を開けて、キラキラ光る雪の上に首を出した時は、ゲンミ・パッスの岐れ路、すでにカンデルタールに入ってしまった。隧道を出ると間もない、カンデルシュテークに着いたのは十一時半。
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カンデルシュテーク Kandersteg




 ベルネル・オーベルランドからローンのオーベル・ウァリスへ通う峠路は多くあるが、いずれもトゥーンの湖畔シュピーツをたって、シンメンタールをレンクへ出るか、或はこのカンデルタールを溯って、レョッチェン・パッス又はゲンミ・パッスをこえてゆく。そして旅人の身に沁みるのは、ウィルトシュトゥルーベル Wildstrubel, 3253m. の麓、このゲンミ・パッスをこえて、ウァリスの山を谷の彼方に望む時であろう。が、それも真夏のことで、山巡りの天狗なら知らず、旅烏には峠口へも近づけなかった。カンデルシュテークにも、雪は四尺をこえているくらいである。
 私は決して失望はしなかった。停車場についた時は、ここはまた霧でひやひやするばかり、両側の絶壁に、氷柱が滝のように垂れ下って、カンデルの小さい流れを包む白樺には、枝にも、実にも、まっしろに樹氷が咲いている。荷物を雪車につけてヴィクトリヤ・ホテルに行く。
 サロンや食堂の広いのも気持ちがいい、昼飯の間に、霧は次第に晴れて、二階の室に戻った時、第一に、眼についたのは、ヴェランダの正面にのしかかった、ビルレンシュトック Birrenstock, 2511m. の鋭い絶壁であった。その右に谷の開いているのはまだ雲の中で、そこに大きく、ブリュームリスアルプの表われたのは次の朝で、午後はさすがに薄ぐらいカンデルタールを溯って、飛び飛びに建てられた百姓家の間をぬけて、深い雪の上を、ゲンミ・パッスの登り口まで行って来た。カンデルに臨んだホテル・アルペンローゼで御茶を飲む、その間に厚くもない雲は破れて、時々涼しい瞳のような蒼空が仰がれる、そして飛んでもない頭の上に、マッシーフな氷の峰が東に北に表われた、それはタトリスや、リンデルホン Tatlishorn, 2966m.; Rinderhorn, 3457m. の連脈であったろう。この雲の暗い峠路は、夏の旅にゆずって、今日は山麓の撮影に日をくらしてしまった。時々寺の鐘の音が、静かな渓底から響いて来る。
 ホテルはいいが亜米利加アメリカ者が多いから、ディナー・ジャケットこそ着けてはいるが実に厭味だ、女は女で、流行かも知れないが、三段くらいひだのとったスカートで、おつにすましてねり込んで来るのが、亜米利加面がダイヤのブローチよりも鼻につく、並べて見ると、ウェイトレッスの方がよほど上品であるが、いずれにしても、女房ではないから差しつかえは更に無い。かく、食堂のやかましいのは事実であって、ニューシャテルもすっかり頭へ上った。いい加減に切りあげて、スモーキングでカフェーを飲んでると、プロプライターの御馳走とあって、村の人達が合唱を始めた。若い女はやっぱり恥しそうに唱っている、そして最後にスウィスの国歌を歌ったが、同じメロディーでも、英国のよりはるかに感じがいいと思った。そのうちサロンもだんだん賑やかになって、女まじりに三、四人、ピアノのそばにやって来たから、御免を蒙って寝室に逃げ出してしまった、庭のアーク灯は昼間のようで、気楽な連中はまだスケートをやっている。
 例によって眠れない。手紙や日記に暇をつぶしても、頭はますますさえて来て、カンデルの瀬の音の聞えなくなったのは、もう二時に近かったろう。
 次の日は晴れも晴れた、デジューネーは室にはこばせて、ヴェランダで山を見ながらカフェーを飲む。室は東むきで、カンデルタールと丁字に向き合ったエッシネン・バッハ ※(ダイエレシス付きO)schinen Bach の正面に、ブリュームリスアルプの山塊が、手に取るように表われる。最高峰は三千六百六十九メートルのブリュームリスアルプホルン Bl※(ダイエレシス付きU小文字)mlisalphorn、左に雪の尾根でつづいたロートホルン Bl※(ダイエレシス付きU小文字)mlisrothorn, 3300m.、の間にワイセ・フラウ Weisse Frau, 3661m. の雪の山稜が見える。すぐ左はブリュームリスアルプシュトックのギザギザな絶崖で、それにつづいて、ウィルデ・フラウが表われた Bl※(ダイエレシス付きU小文字)mlisalpstock, 3219m.; Wilde Frau, 3259m. そしてこれ等の麓は白雪の間に、水色の光る同じ名の氷河が、懸崖の途中までたれ下っている。
「●ブリュームリスアルプ」のキャプション付きの写真
●ブリュームリスアルプ

 カンデルの谷は、これと直角に、南へ深く入りこんで、ここから見えるつき当り、タトリスの峰つづきで、三つ叉に枝分れして、右に入るのがユシネンタール ※(ダイエレシス付きU)schinental、左はガステルン Gasterntal そしてゲンミ・パッスは真中の、シュワルツバッハ Schwarzbach に沿うて、南をやや右へ登ってゆく。そしてこれ等を合わせたカンデルは、ビルレとフィルシュト Birre und First の間を北に流れて、フルッティゲンにエンクストリゲンタール Engstligental を合わせ、レルヘンバッハにキーンタール Kiental を合わせ、シュピーツの片ほとりに彼のシンメンタールと合して、トゥーンの湖の南にそそぐ。
 ヴィクトリヤ・ホテルの横に、サイン・ポーストがあって、エッシネンゼーまで四キロと記してある。例の機械をぶら下げて、その雪路の踏みかためた上を東へ登って行った。村と云っても通りをはずれると、ここには小屋が二軒、積雪の間に見えたばかり、たちまちタンネの林に入って、路は次第に細く、つま先あがりになってくる、ふりかえると朝の鐘の鳴る教会の尖塔も、ホテルの窓も小さくなって、その村の上にのしかかるフィルシュトの連脈が、折りからの朝日を斜めにうけて美しい。
 が、谷の雪にキラキラと日のさしたのは、十一時を少し過ぎてのことである。林はどこまでもつづいて、その後ろの絶壁に、遠くから見えたまっしろな氷柱が、タンネの枝ごしに仰がれる、左にはビルレの麓が小さな流れにせまって、その斜面の森の中に、猟師小屋かほそぼそとけむりの立つのが物さびしい。地は一面に純白に、これを覆う狭い空は、蒼空とよりはむしろ黒く思われた、もう昼に近いし、フィルムもすっかり撮しきったので、一先ひとまず宿に帰って来た、食堂の広い窓からは今の林の真上に、ブリュームリスアルプが正面をきって並んでおる。
「●ブリュームリスアルプホルン」のキャプション付きの写真
●ブリュームリスアルプホルン

 同じ路を、またぶらぶら登って来たのは午後一時、もうカンデルタールに日が一面にさし込んで、透明な空気の中にブリュームリスアルプは眼の前にあるけれど、いくら登っても、距離は依然として変らない。タンネの森を東にはずれると、路はだんだん急に、雪は次第に深くなって、たびたび雪崩の跡を登ってゆく、雪路は中々なかなか難渋で、一里ばかりのエッシネンゼーまで、二時間もかかってしまった。
 樅はだんだんまばらになって、両側の絶壁は覆いかぶさるように近づいて、やや小高い丘に立つと、ブリュームリスアルプはもう頭の上である。その直下、だらだら道を四、五町下りると、湖水のふちに出る。今は云うまでもなく雪に覆われた氷の下で、その三方を取りかこむ断崖の氷柱は、ブリュームリス・グレッチャーと見わけ難いくらい壮観を極めている。湖のふちにその名をとったホテル、――と云うよりもエッシネンゼー・ヒュッテと呼ぶ方が、真面目な態度だと思われる、――宿屋がある。寒くてたまらないから、飛び込んで御茶にありついた。
 湖は窓から眼の下で、ブリュームリスアルプホルンは湖べりの樅の梢よりも、更に高く屹えている、日を半面にうけた、ロートホルンの牙のような山稜は、氷河の雪に陰をうつして、ここはもう深い日蔭になってしまった、宿の主婦だか下女だか分らない女に、夏時分の様子を聞いたりして、一時間ばかりストーヴのそばにかじりついていた、そしてカンデルシュテークに戻ったのは五時過ぎで、帰りは一時間しかかからなかった。
「●アルペン・グリューン(エッシネンゼー)」のキャプション付きの写真
●アルペン・グリューン(エッシネンゼー)

 ヴェランダに出る。夕闇はもう渓を包んで、しーんとした森の上に、アルペン・グリューンの美しさ! さすがに高いブリュームリスアルプホルンや、ワイセ・フラウの頂は、最後まで薔薇色に輝いている。そしてどこからとも知らず次第次第に薄らいで、灰色の空に消えてしまうと、ただ雪明りにくっきりと見える樅の梢に、ピカリピカリ夕星が光りはじめた。
 夜またヴェランダに立つ、山はうす蒼く、物の精でもあるように、薄ぐらい渓の彼方に屹えていた、そしてその最高峰の右の肩には、星が一つピカッとエメラルドをちりばめたように光っている。山ふところの小村には、そまの焚く火が赤く見えて、死灰の闇に、風の響さえかすかなのが心細い。
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シュピーツ Spiez よりインテルラーケン Interlaken へ




 天気は非常にいい。朝は村の間を散歩して、十一時十三分の電車でシュピーツへ向かう。これからも左側の窓が景色がいい。
 線路は、まもなく大きな曲線を画いて、絶壁の側面をカンデルグルント Kandergrund の谷底に下りる、すぐ左に高い岩山の上に、取りのこされたフェルゼンブルク Felsenburg の塔の上に、数本のタンネが聳えて、ここを曲る時、やはり左の谷奥に、アルテルスとバルムホルンが表われた。フルッティゲン Frutigen から、なおカンデルの流れに沿うて、ニーセン Niesen, 2366m. の登山鉄道を左に仰いで、山の東の裾をぐるっと廻ると、ここにはもうもやがたなびいて、どんよりと暗い雲の底に、トゥーンの湖が鉛色に表われる。シュピーツは静かな町である、トゥーンの南ニーセンの直下にあるから、あおのくと、ピラミッドの雪の山は湖水をのぞき込むように屹えて居る、対岸のベアテンベルクには、重たく雲がたれ下って、フィヒテの森が雪をかずいて美しかった。十二時に乗りかえて、湖水の南ぎしを、水はすぐ左手に、右には、冬枯れの牧場と板屋根の百姓家と、その上にのしかかる雪の、アーベントベルクの麓を廻って、半時間でインテルラーケンに着く。ここもやっぱり冬だ、ホテルと云うホテル、少し気のきいた大通りの店は八分通り閉って、停車場前の雪路は人気もなく静まりかえっている。私は荷をトレーガーにかつがせて、すぐ角のベルネルホーフ Bernerhof に入った。
 宿は例によって私一人で、主人夫婦に女中が二人、気のぬけたようなポルティエと、いつも空腹と見うけられるヴァレーが一人、こう静かでも少々心細い。空は灰色で、シンニゲプラッテ Schynigeplatte, 2060m. やハイムウェー・フルー Heimwehfluh も雲の中。山が見えますと入れてくれた、表二階のソーファによりかかっても、正面のラウテルブルンネンは、両側の山脚に、黒木の梢の外は真白ろな霧の海で。
 ランチが終るとすぐ街に行った、ニクレスと云う写真屋で、現像を頼みがてら、禿頭のおやじに、散々油を売って来た。カフェーをのみながら新聞を読んでると、主人がやって来て、山が見えますよと云う、玄関に出ると、ルーゲン Rugen のすぐ上に、ラウテルブルンネンの霧の間に、のユンクフラウの一角が表われ始めた、それはシルベルホルン Silberhorn, 3705m. とギーセン・グレッチャー Giessen-Gletscher の一部であった。時々雲の間に、ユンクフラウとメョンヒの頂上が見えた、然し今迄、写真や地図で想像したよりは、思ったより遠い。冬の今は、インテルラーケンを取りかこむ山々の、夏から秋にかけての展望台も、深い雪に覆われて、とても登ることは出来ないが、せめて少しでも近くまでと、例の写真機に杖一本、停車場前の通りを南にぬけて、ルーゲンの樅の山に登って行った。ルーゲンは二つに分れていて、その間の低い路が、ウィルデルスウィル Wilderswil の小村をぬけて、南の渓をリュチーネ L※(ダイエレシス付きU小文字)tschine の流れに沿うて、ユンクフラウの直下、ラウテルブルンネルにつづいている。私はこの街道から左にきれて、ルーゲンパルクの森の中を、日暮れまでぶらついて帰って来た。
 トゥーンとブリエンツ Thunersee und Brienzersee をつなぐアーレの南に、北はハルデル Harder の山つづき、前には左にシンニゲプラッテ、右にルーゲン Kl. und Gr. Rugen からアーベントベルク Abendberg の山脈にかこまれた、インテルラーケンの平地は、土地の人達にボェーデリ B※(ダイエレシス付きO小文字)deli と呼ばれておる。インテルラーケンは云うまでもない二つの湖水の中間で、ボェーデリはシュウィーツエル・ドイッチの小さな平野を意味している。この平野は、ブリエンツからトゥーンにそそぐアーレの流れに両分されて、南はインテルラーケンとマッテン Interlaken, Matten、北岸とトゥーンの湖水とにはさまれたウンテルゼーエン Unterseen とに分れておる。そしてインテルラーケン・プロパアは、やはりアーレに並行したホョーエウェーク H※(ダイエレシス付きO小文字)heweg の大通りで二つに分かれて、主なホテルや商店の大部分は、ここに、軒を並べておるわけであるが、今は何にしてもシーズンはずれで、街は軒先の氷柱と共に静まりかえっている。
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ラウテルブルンネン Lauterbrunnen




 ラウテルブルンネンはその文字の示す如く、「泉ばかり」の谷であって、リュチーネの流れをはさむタンネ、フィヒテの林の裏は、すぐ直立の絶壁になっている。インテルラーケンから見るの渓のつき当りは、云うまでもないユンクフラウの大山塊ではあるが、ワイセ・リュチーネは西に折れてチンゲル・グレッチャーにつづいている。此の両側の断崖は無数の氷柱で、直立の岩壁は九百八十フィート、欧洲第一の大瀑布、シュタウプバッハ Staubbach は、この両側にかかって居る。スウィスを旅した人で、この谷に遊ばないものは殆んどあるまい、かつて、ゲーテはここに遊んで上層の雲は破れて蒼空を見る、されど雲はなお断崖にただよえり、仰げば、のシュタウプバッハのかかれるあたりは、薄き霧にぞ覆われたる、おお! ein sehr erhabener Gegenstand.
 Es ist vor ihm wie bei allem Grossen; solange es Bild ist, so weiss man doch nicht recht, was man will……
 と書きかけたのは、千七百七十九年十月九日の午後六時半、彼れがトゥーンの湖を渡り、ウンテルゼーエンに舟をすてて、この大瀑布の下についたのは、同じ日の午後四時三十分であったと云う。
 私は今、雪に埋れた白樺や、トウヒの密林を、汽車の窓から見あげながら、薄ぐらい谷底をのたくる、蒼白いリュチーネの流に沿うて、溯った時、空は晴れていたか、今は頭に残らぬくらい、ただ暗い暗い感じより外は、何物もなかった、そして、やや開いたラウテルブルンネンの村で下りて、かちかちに凍りついた村道を、その滝の直下、同じ名の宿に着いたのは午後三時、谷はもう片蔭になって、見上げる瀑布の絶壁をかざる、一面のつららを仰いで、その紀行を思いだした時、渓の空は濃く深く澄みきって、かすれ雲の一つ二つ、ミュルレンの空にたなびいていたのを覚えている。
 ホテル・シュタウプバッハは洒灑しゃれた宿である。然し本館は九月の末から閉じてしまって、リュチーネに向かったシャレーに、小さな室をあてがわれた、板敷の、低い天井も旅らしくて面白い。すぐそばは会堂で、塔の頂はシュワルツ・メョンヒに対している、下はすぐ墓原につづいて、冬なれば瀑の音はひびかず、暮れてゆく渓谷に鳴りわたる瀬の音がさびしかった。折り折り瀑のつららが砕け落ちて、三、四度両側の絶壁に木魂こだまする。十八ばかりの女中が、ピアノを弾いてたくらいだから、御客は無論私一人、今のは何だいと聞いて見たら、オーベルラントの民謡ですって笑っていた、夜は村の仲間が集まって、トリオをやるんですなんて中々なかなか得意だった、伴奏かいって聞いて見ると、案外かな、アルトだそうな、それはいい処へやって来たねと御世辞を並べたら、咽喉が痛いから唱わないんだそうだ、道理で小さな咳ばかりしている、小供だから大方煙草がきらいなんだろうと思って、平気でいたがこれは少々可愛想な。
 日はとっぷりと暮れてしまう。二重窓に冬の夜をさえぎって、瀬の音の響くサロンのストーヴの、真紅な火を見つめながら、夜は静かに更けて行く。
 旅とは云え実に急がしい、夜になっても通信やら日記やら、案内記の下調べだけでも、随分楽ではないが、てそれも大して苦にもならない、寝床に入ってからはじめて本を読み初めるが、今夜は枕下の灯がないので、早く灯を消して床に入る、中には湯タンポが入れてあった。
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ウェンゲン Wengen よりミュルレン M※(ダイエレシス付きU小文字)rren




 夜明けは中々なかなか寒かった。教会の鐘が鳴りだしたので、窓をあけて見ると、渓はまだ寝が足りないように薄ぐらいけれど、あおのくと、空は蒼く晴れている。室につづいたサロンの窓からは、渓の上流が遠く眺められる。シュワルツ・メョンヒとミュルレンの懸崖でたち切られたつき当りにはグロースホルンから北にながれ落ちる、シュマートリ・グレッチャー Schmadri-Gletscher が水色に光っていた。
 食事がすむと、小さなスゥートケイスを停車場へあずけさせて、雪の深い崖路を、ウェンゲンの方へ登って行った。リュチーネの橋を渡るとすぐ登りになって、ラウテルブルンネンの村は、もう眼の下になってしまう。そして両側の切り岸は、額橡フレームのように偉大な山岳をめぐって、その中心はブライトホルン、そうして左にはシュワルツ・メョンヒの、悪魔のような岩の上に、ユンクフラウの斜めに朝日を浴びたシルベルホルンが白銀よりも美しかった。ラウテルブルンネンの渓底は、無論純白であるが、その両側にきったての断崖には、雪もかからず、まだ日をうけぬまっ黒な岩壁に、無数の氷柱がたれ下っている。ウェンゲンはすぐ頭の上にあるけれど、の渓底との高さの差は、千六百フィートに及んでいる。千鳥がけの雪路は、すべって辷って閉口してしまう、風こそないがこの寒さに、全身に汗を流して登ってゆくのも、随分物ずきな話しで、電車に乗れば半時間で達せられる。然し景色は非常にいい。私は今、東側の絶壁の中段に達した、ラウテルブルンネンタールのつきあたりには、ブライトホルン Lauterbrunnen-Breithorn, 3779m. とチンゲルホルン Tschingel-Horn, 3579m. が屹えている、この山稜を東北につづく、ミッタークホルン Mittaghorn, 3895m. やエーベネフルー Ebenefluh, 3964m. は見えないが、これ等の前にのっしとかまえたユンクフラウは、実にすばらしい山の名前とは似てもつかないがん張り方だが、それも無理はない、ユンクフラウは山の姿を表わした名ではなくて、十三世紀の頃に、インテルラーケンの尼達が、あの山の麓に庵をむすんでおった為で、初めて見えたのは、ユンクフラウベルクと云う名であった、それが果して、この山頂を意味したものかは分からないが、尼達の住んで居った山には、ワインゲレン・アルプ Weingeren-Alp の名が見えておる、それは今のウェンゲルン・アルプ Wengern-alp と想像せられる、いずれにしてもユンクフラウが、明らかに今の山岳を表わしたと思われるのは、十六世紀の頃であって、初めは Junckfraw, 或は Junkfraw と記されてある。とにかく Augustinerinnen. 即ち Jungfrauen から起った名前であって、山の形容からはじまった名では決してない。
 ウェンゲンに着いたのは、一時間半もたった後で、無論、人っ子一人に逢わなかった。朝日はユンクフラウの一角に輝きはじめて、その雪は白熱にさえかえって居る、そして直下、ラウテルブルンネンはまだうす暗く、淡いもやがたちこめていた。崖の上に立つと、渓をへだてたミュルレンの台地に、朝の日をまともにうけたシルトホルンの連脈は実に壮観である。
 私はウェンゲンの村を歩き廻ったあげく、ホテル・アイガーと云うのに入りこんで昼食を命じた。村はラウテルブルンネンの頭の上を、やはり南北にのびた台地にあって、そのはずれはユンクフラウが、樅に覆われた小山の上に半空を領しておる。村の後ろはやはり急な斜面で、雪を浴びた樅の梢が、折りからの朝日に美しい。
「●ミュルレンよりメョンヒとアイガーを仰ぐ」のキャプション付きの写真
●ミュルレンよりメョンヒとアイガーを仰ぐ

 下りは電車に乗った。二時十分にウェンゲンをたって、半時間ばかりで、ラウテルブルンネンに帰って来た。ステーションにあずけた荷物を受け取って、すぐケーブルカーに乗りかえて、崖の上のグリュッチ Gr※(ダイエレシス付きU小文字)tsch にゆく、ユンクフラウとメョンヒ、アイガーは、登れば登るほど高く大きく見えて来る。グリュッチで電車にのりかえると、二マイル半ばかりでミュルレンに着く。停車場に迎いに来ていたポルティエに荷物を頼んで、もううす寒い日暮の雪路をアルペンルーエ Hotel Alpenruhe に行った、私の泊ったのは、ラウテルブルンネンに臨んだシャレーで、ストュディオのデザインにでもありそうな、小ぢんまりした感じのいい建物である。室のテレースは東むきで、ユンクフラウはひさしの上にそびえている、それから南へ曳いた山稜は、エーベネフルー Ebenefluh, 3964m. ミッタークホルン Mittaghorn, 3895m. グロースホルン Grosshorn, 3765m.、渓のつき当りはブライトホルンで、その氷河の半面は、チンゲル・トリット Tschingel-tritt の山稜にさえぎられている。ユンクフラウの左はメョンヒ、アイガーで、その北に切ったての、鋭いアイガー・ワント Eigerwand の左には、ウェッターホルンの三山 Wetterh※(ダイエレシス付きO小文字)rner が見える。晩餐にはまだ間があるので、本館に行ってカフェーを飲みながら、その窓から、またしみじみと氷の山を見つめた。見れば見るほど恐ろしいのはユンクフラウの絶壁である。此のラウテルブルンネンに面したロッタール・ヒュッテ Rottal-H※(ダイエレシス付きU小文字)tte から登るのは、最も危険な登路の一つであって、絶壁の雪がすっかり解けて、岩の乾いている間でなければ、不可能であると称せられておる。
 シャレーに帰って、煙草をくゆらせながらテレースに出ると、驚いたのは、今宵のアルペン・グリューンである、今述べた山々の頂は、まるで火のように真紅である、そして雪の蔭のコバルトを帯びた、その対照が実に美しい。眼下になだれ落ちるユンクフラウの絶壁の、裾は靄がたなびいて、マッテンか知らず、渓底の小村には、小さい灯火が動きはじめた。アルペン・グリューンはたちまち淡くなって、最後までほんのりと赤く見えたメョンヒが消えてしまうと、もう山は暗くなって、三つ星が、ユンクフラウの右の肩に光りはじめた。アイガーの左にちらちら灯の見えるのは、ウェンゲルン・アルプである。
 ニューシャテルの酔に乗じてそぞろあるく。オリオンはすでに高く登って、今、ユンクフラウの雪をはなれんとするのは、大空の星のなかに、私の好きなシリゥスであった。夜は静かに更けて、千八百尺の渓底から、瀬の音がかすかに響いて来る。
 次の日アルメントゥーベル Allmendhubel, 1938m. に登る。朝起きてカーティンをあけると、昨日のような上天気、空は水のように澄み渡って、アイガーの半面に強い朝日がさしていた。朝食をすませると、すぐその足で、村の真中にある停車場から、ケーブルカーでアルメントゥーベルの頂上まで来た。そうして七尺を超えた雪の上に立った。これをとりまく山々は、――私は形容する言葉を知らない、――諸君の想像にまかせるとしよう、ただその景色を想う時、東面の山は日の蔭に暗く、南の山脈は、斜めに朝日をうけた無数の氷河に飾られて、西を取りかこむシルトホルンの連峰は、まともに強い光を浴びて、眼もあけぬくらいであったことをそえて置こう。そうして時のたつにつれて、ユンクフラウの右、グレッチェルホルン Gletscherhorn, 3982m. につづくエーベネフルーの、カミソリのような氷のアレトに、朝の日が登りはじめたとつけ加えて置こう。
 私は、かちかちに凍りついた雪の上に、腰を下ろして茫然としていた。この時、地の底が崩れ落ちたようなすさまじい雪崩アヴァランシュが、アルメントの斜面に起った、なだれ落ちる雪は、瀑のようなしぶきをあげて風もない山の急斜に渦まいている。こう云う晴れた日には、一時間に三、四回のアヴァランシュは必ずある、そしてそれは、まともに日を浴びたチンゲルグラートと、ブュットラッセン B※(ダイエレシス付きU小文字)ttlassen, 3197m. の方面、及び低い雪田につづいて、西から北へ此の山を取りかこむ、ビルク Birg, 2678m. とムットホルン Mutthorn, 2426m. の斜面にしばしば見うけられた。ラウテルブルンネンタールの対岸には、昨日行ったウェンゲンのホテルが雪の間に散らばって、その背にはチュッゲン Tschuggen, 2523m. からメンリッヘン M※(ダイエレシス付きA小文字)nnlichen, 2345m. につづく低い山稜の彼方に、ファウルホルン Faulhorn, 2684m. シュワルツホルン Schwarzhorn, 2930m. などバッハアルプ Bachalp の山々が望まれた、そして山懐と云ったようなアルメンドの村は、直下の雪の中に、ほそぼそと煙の糸のように紫なのが、純白な斜面に美しい。
 私はまだスウィスの山は知らない、しかしまだ日本にいて、毎日毎日ペデカーの案内記や、ボールの山岳案内記 Ball; ―The Alpine Guide Book にうつつをぬかしていた頃から、このアルメントゥーベルの台地と、ツェルマットの山寄りリッフェルベルク Riffelberg シュワルツゼー Schwarzsee はどんなことがあっても、必ず行こうと決心していた、バッハアルプのファウルホルンも望みの一つではあったけれど、今朝、食堂にぶら下げてあった、ユンクフラウの登山鉄道が、クリスマスから二月まで開いてあると云う広告を見てからは、山に離れた展望だけでは、腹の虫が治まらなくなってしまった。しかしミュルレンの眺望に、充分な満足を得たのは事実である。
 アルメントゥーベルの雪の上を、四時間ばかりうろついて、又ケーブルカーでホテルに帰ったのは午後一時である。切符は登り一フラン半、下り一フラン、往復二フランであった。
 食堂に出ても上の空で、カフェーも飲まずに飛び出してしまった。そして例の絶壁の上を、ラウテルブルンネンタールに沿うて北へ、深い雪路をグリュッチに行った。実を云うとミュルレンから仰ぐユンクフラウは余り大きすぎて、メョンヒ、アイガーはその偉大な山容に圧されて、あれども無きが如しと、云った程ではないにしても、あまり釣り合いはとれていない。グリュッチに近づくほど、此の三山がほぼ等距離に並んで来て、谷に絶崖にすくすくと梢をならべた、樅やフィヒテのなか空に屹えているのは、セガンティニでも、ラスキンでも、もう画や筆の問題ではなくなってしまう。殊に眼ざましいのは三つの氷河、右なるはギーセン Giessen-Gletscher、中央はグッギー Guggi-Gletscher、そして左、アイガー・グレッチャー Eiger-Gletscher の、斜めに日を浴びた、澄みわたった冬の午後であろう。この三つの氷河の裾は、シュワルツ・メョンヒの直下に、深い深いゴージを刻んで、トゥリュムメル・バッハ Tr※(ダイエレシス付きU小文字)mmel-Bach の瀑布となる。今、私は昨日の朝、咽喉をつりあげて岩壁の氷柱をあおのいた、あのシュタウプバッハの上流にたって居る。冬の日の風は死して、寂としてはや黄昏たそがれる渓間に、棚びきそめた灰色の靄をゆるがせて、二千呎の深い底から瀬の音が響いて来た。ユンクフラウは斜めに、まだ入日を浴びて、シュネーホルン Schneehorn がカミソリのように光っている。
 ホテルに帰る夕ぐれの路は、風こそなかったが、随分寒かった。室に入ると、窓にぱっとうつるアルペン・グリューンは、昨夕に変らず美しい。ソーファにりかかって、シガーをふかしながら、暮れてゆく空をぼんやり眺めている。村のそこここに灯が入って、渓底のマッテンにも、小さいあかりが揺らぎはじめる。ウェートレッスが食事の迎えにやって来た。
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登山鉄道 Jungfraubahn




 の頃は夜もろくに眠れない。眼がさめたのは八時五分前で、電車の出るのが二十分だから、顔もろくに洗う暇もなかった。朝飯などは論外で、荷物をまとめる、ポーターを呼ぶ、それ会計、それ出発と、足下から鳥のたつようなあわて方で、ポーターと駆けっこをしながら、せいせい呼吸をきって停車場に着くと、乗る間もない位きわどく、それでもやっと間にあった。室におちつくとけろりとして、ず同乗の御連中を見まわした。御客は五人、ネイルドブーツの足ごしらえ極めて厳重に、それぞれシーを携え、ガイド二人までつれている様子が、ただならず見うけられたから、参考の為に聞いて見たら、何のこったグリンデルワルトに行くんだそうな、大袈裟な。どこへ行くんだと云うから、ユンクフラウ・ヨッホへと答えて置いた。何しろ対手はヤンキーだからやり切れない、I guess, と云うような、耳ざわりな言葉を前置きにして、鼻にぬけた胴間声どうまごえで、しゃべるわしゃべるわ、しかも山岳に対しては、M※(ダイエレシス付きO小文字)nch の発音さえ覚束おぼつかないしろ者なんだからあきれかえる。私はガイドの間にわりこんで話しはじめた、が、これにもしたたか凹まされた、スウィス語は文字に表わせばいかにも独逸ドイツ語だけれど、山人の発音と来たら純粋のシュウィツェル・ドイッチで、や、どうも少なからず閉口してしまう。
 電車はグリュッチと、ラウテルブルンネンで乗りかえて、一昨日来たウェンゲンを過ぎると、渓をへだてたミュルレンの対岸をだんだん南へ登ってゆく、ここは一面に雪をかぶった樅、唐檜の密林で、その上に、ユンクフラウが屹えているのは云うまでもない。ウェンゲルンアルプを過ぎて、ややなだらかな山の斜面をぐるっと廻って、クライネ・シャイデック Kleine Scheidegg に着いた。すぐ前はアイガー・グレッチャーで、すっかり雪に覆われた此の高原は、朝日をまともにうけて、眼もあけられぬくらい光っている。今迄の電車はベルネル・オーベルランド・バーン Berner Oberland Bahn で、更にグリンデルワルトにつづいて行く線路であるが、今は雪が深いので、冬の間は、ここが此の線の終点になっておる。ユンクフラウの登山鉄道は、ここからアイガー・グレッチャーに沿うて登ってゆく、客は私を入れて五人しかいなかった。
 十時半に発車、ここからユンクフラウ・ヨッホまで往復二十九フラン、夏の三十二フランよりは、客が少ないだけに割引きしてあるが、五マイル四分ノ三の往復に十二円の電車賃は一寸ちょっと驚く。もっとも工事の大仕事であったのは認められる、工事費の総額は一千万フランに及んで、一哩の平均が約十七万四千パウンドに上っていると云う話だ。そして目下の終点は、千九百十二年に開通になったユンクフラウ・ヨッホで、丁度ユンクフラウとメョンヒの間の鞍部あんぶまで達している。ここから頂上迄はリフトを作る計画だけれど、今の所は全然手をつけて無い。冬の間は勿論のこと、夏の登山でも、この鉄道を利用すれば、余程、楽になるわけで、千九百十年の夏、本会会員の加賀正太郎君が、ユンクフラウの絶頂に立たれた時は、アイスメーヤ Eismeer が終点であった為、ベルグリの小屋 Bergli-H※(ダイエレシス付きU小文字)tte に一夜をあかして、次の日、ウンテレス・メョンヒ・ヨッホからオーベレス・メョンヒ・ヨッホを越え、ユンクフラウ・ヨッホに出てフィルンを横ぎり、これから初めて、ユンクフラウの急斜にかからなければならなかったのだ。私は渡欧前の数日を加賀君の邸で送った。今ここに来ると、停車場の待合から、君の華奢きゃしゃな旅姿が、ひょっくりと表われそうでならなかった。私は知りつつも気になって、たびたび首を出してのぞいて見た、そこには駅長さんがぽつねんと日向ひなたぼくりをして御座る。これも何かの縁だろうと、邪魔になるスゥートケースをあずかって貰った。電車は静かに動き出す。
 ファルボーデンフーベル Fallbodenhubel を廻ると、アイガー・グレッチャーの停車場で、すぐ左はアイガーのグラートになっている、これからはトンネルで、次のアイガー・ワントには停車せずに、標高一万三百七十フィートのアイスメーヤで乗りかえになる、ここも停車場はトンネルの中で、私はすぐ飛び出して、岩壁に穿った窓から頭を出した。
 初めは眩しくてなんにも見えなかった。無理に眼を見ひらくと、第一に気がついたのはアイスメーヤのギザギザに割れた氷河の向うにつづいたシュレックホルン Schreckh※(ダイエレシス付きO小文字)rner の連脈で、殊にオーベルラント第一の嶮山、急な岩角が雪も氷もはじきかえして、真っくろに尖っているグロース・シュレックホルン Gross-Schreckhorn, 4080m. であった。その左は一段低く、グリンデルワルトのウェッテルホルン Wetterh※(ダイエレシス付きO小文字)rner で、よく昔から写真で見うけるハスリ・ユンクフラウ Hasli-Jungfrau, od. Vorderes Wetterhorn, 3703m. よりも、まんなかのミッテルホルン Mittelhorn, 3708m. が立派である、その後はこれも三山の一つなるローゼンホルン Rosenhorn, 3691m. で、此等の山塊とシュレックホルンの中間に、ベルグリシュトック Berglistock, 3657m. がひかえている。ベルグリはドイツ語の Berglein で、「小さい山」を意味しておる、何故にベルグリなのかは、その立派な山容に対して解釈に苦しむ次第である。ベルグリの小屋はこの停車場から行くのであるから、位置は全然その山とは別の方向で、ずっと右手にあたっておる。これらの間、即ち今立って居るトンネルの眼下には、アイスメーヤとグリンデルワルトの氷河 Unter-u. Ober-Grinderw※(ダイエレシス付きA小文字)lder Gletscher がはさまっているから、その小屋は山と同じ名ながら、すぐ右手に近く、ベルグリシュトックはこの氷河を越え、クライン・シュレックホルンをこえて、二日路に余っておる。私は岩にくりぬいた窓に登って、めちゃめちゃに撮影した。車掌にせきたてられて乗換えの電車に乗る。これからトンネルはメョンヒの地中を穿って行くので、硬い石灰岩の洞は、電灯に照らされて光っている。クライネ・シャイデックから一時間二十分ばかりで、終点のユンクフラウ・ヨッホに着いた。
 停車場につづいた、トンネルの中にレストラントがある。名づけてホテル・ユンクフラウヨッホは少々大袈裟な名前で、寝室は二室しかない、寝台が三つずつ、先ず小屋が正直な命名であるが、海抜一万一千三百余呎、しかも冬の真中のことであるから、高くて(標高ではない)まずくとも、あえて食事に不足を云うべきではない。ビュフェーを兼ねた食堂の正面は、ユンクフラウ・フィルンに臨んだテレースで、それをへだててやや右に、久恋のユンクフラウが屹えている、が、まず何よりも眼につくのは、頂上から東に曳く山稜の氷を削って磨きをかけた、ピック・マティルデ Pic Mathilde の一峰であった。左には欧洲一の氷河グローセル・アレッチ・グレッチャー Grosser Aletsch-Gletscher がなそいに低く、そのつき当りは三角形のエッギスホルン Eggishorn から、なお右に曲り込んで、ローンの谷はここからは見えない。
 テレースにはツァイスの望遠鏡がそなえてある。氷河の左には、カンム Kamm, 3870m. の裾に二つの小屋が認められたる、そこはコンコルディヤ・プラッツ Konkordia Platz であった。ここから見るユンクフラウは、決して雄壮とは云えない、ただ頂上から南へひくアレトの、ロッタール・ザッテル Rottalsattel、ロッタール・ホルン Rottalhorn、そしてその背後に崩れかけたようなグレッチェルホルン Gletscherhorn と、いずれも四千メートルに近い山岳の直下に、雪の中から口を開いているベルクシュルントはさすがに恐しく思われた。
 トンネルで更に小屋から北口にぬけると、所謂いわゆるユンクフラウ・ヨッホに出た、ここは平らな雪田で、左は例のピック・マティルデ、右に見上げるようにつっ立ったのは四千百四米のメョンヒである。北は断崖からグッギイ・グレッチャーになって、石を投げればとどきそうな足下に、さっき発ったクライネ・シャイデックの停車場が見える。この方面には高い山は少い、然しラウテルブルンネンの背後に、シルトホルンの峰つづき、のブリュームリス・アルプの群峰は、透明な冬の日に彫刻のように望まれた。渓川の雪に埋れた北のはずれはインテルラーケンで、ブリェンツ、トゥーンの湖が、半分もやの中に見下ろされた。ファウルホルン、シュワルツホルンの如きは、何と云っても三千米突メートルに足らぬ山で、こうして見下ろした目には何等の趣もない。
 チョコレート・ソルディアーみたいな電車の車掌さんが、呼子の笛を勲章まがいに胸高に帯びて、ちょこちょこやって来ていろいろ世話をやいてくれた、なんでも私が果してどこの人間なのか余程興味をもっていると見える、あれがアイガーでこれがメョンヒ、その後ろに見えますのがトゥルークベルクと、人をつけ子供でも知ってるような山の名前を並べやがる、時にあの山はなんだいって知っていそうもない、っぽけな山を指さしたら、左様さよう、あれは、そう、ミュルレンのうしろの山ですがなと考えてた、篦棒奴べらぼうめ、ミュルレンの西にあればミュルレンのうしろの山にきまっていらあ。小屋に帰って昼飯にした。
 食後のカフェーはテレースにはこばせて、そしてひろびろとした氷河を見下ろした、すぐ前のユンクフラウ・フィルンには雪車そりを曳いた北極犬が休んでいる、これは電車でつれて来たんだそうな、小屋の前の雪の上に、シュネーフーン Schneehuhn が舞っていた、私はこれを見下ろす椅子によりかかってつくづくとユンクフラウを眺めておる。「登るんですか貴下も」と、軽く肩をたたいた英人があったが、恥かしながら「登る? 何処どこへ」と聞きかえさざるを得なかった、彼は私の姿をとみこうみしながら、「いや私達はユンクフラウへ登るんですよ、明日の朝」、「ほう、登れますか……」は間がぬけた質問だったが、此の場合どうも已むを得なかった。彼れはグリンデルワルトからガイドを二人つれて来ている、身ごしらえは一寸の透き間もなく、頬の紅い若やいだ姿もうれしかった。私は急に登りたくなった、然しスゥートにウルスター、写真機に杖一本と云った自分のからだをかえりみては、私も登りますよはあんまり推しが強くって、この際、口に出せなかった、大いに考え込んでると、例のチョコレート・ソルディアーがやって来た、膝とも談合と聞いて見ると、案外かな、私のような風来坊も少なくないと見えて、フロイラインに相談したらどうかなるでしょうと答えた、フロイラインは赤面の女である、早速、頼んで見たらこれも万事心得て、ガイドさえ承知しますれば仕度はどうにでも致しますと云った、さあ心がかりはガイドである。三人いた中の一人はさっきグリンデルワルトに帰ってしまった、あとの二人は今、ユンクフラウに登っていて、午後二時過ぎには帰って来るそうだ、聞いて見れば今日も一組、明日も一人、とにかく山登りの御客があるんだから、いくら苦しくても知れたものだろう、気がかりなのはそのガイドである。
「●ユンクフラウヨッホよりユンクフラウ(右)及びロッタールホルン(左)を望む」のキャプション付きの写真
●ユンクフラウヨッホよりユンクフラウ(右)及びロッタールホルン(左)を望む

 私はテレースに出たままで、フィルンの上を眺めていた。アレッチ・グレッチャーにはもう片陰が出来て、クレヴァスが黒く見えはじめた、二時半頃にその雪のはずれ、ロッタール・ザッテルの直下、ユンクフラウ・フィルンの上に黒点があらわれて、望遠鏡でのぞくと、三人の男がシーをつけて、フィルンの雪をけってまっしぐらに下りて来る、此の連中は半時間もたたないうち、白いミュッツェに、グレッチェル・グラスをかけて、潜水器みたいな頭をして小屋の直下に到着した。来る間も遅しと待ちかまえて、明日の計画を話すとすぐ承知したので、私はもう登山がすんだように安心してしまった。
 さてこれからが支度である。何にしてもスゥートに重いウルスターではどうしようもないから、少々汗臭くはあったが、ガイドのスウェターを拝借することにした。白のミュッツェと巻ゲートルはいいが、小屋で借りたネイルド・ブーツは大き過ぎて、いくら靴下を重ねてもパクパクしている始末、アルペンシュトックの方は余り短かすぎて、本当に突いてると腰が二重になりそうだった。が、何を云うにも借物だからあまり贅沢を並べる場合ではない。反射よけのグレッチェル・グラスは小屋で三フラン半で買った。まずためしにこんな道具に身をかためて、小屋の前を下りてフィルンの上に出た、グレッチェル・グラスをかけると、雪の陰影が蒼く見えて、まるで世界がちがったように物凄い。午後の雪はさすがに柔かくて、カンジキ無しではとても歩けないくらいだ。フィルンにつづくアレッチ・グレッチャーには、西側の山の蔭がギザギザに影って、その陰影は刻々に氷河を横ぎって、東の山脈、トウルーク・ベルクからカンムにつづく雪の山に片かげがさし始めた。見上げると小屋は、忘れられたように雪の中に寂として、見渡す南の方、十里にわたる氷河は、人の生れなかった世をそのままにしんとして、彼方の空、ワリーゼル・アルペンにアーベント・グリューンが望まれる。日が入ると急に寒い、雪の斜面を登って小屋に帰る、ためしに歩数を勘定したが、楽に登れるのが先ず二十歩、五十歩ではとても休まずにはいられない、無理に登ったら、百歩にして眼が廻った。
 小屋のテレースに着くと、例のガイドがやって来た、一人はフリッツ・シュトイリ Fritz Steuri、赤っ面の四十男で気軽な奴で面白い、もう一人はフリッツ・カウフマン Fritz Kaufmann、これはだんまりで年は三十位だと思ったら、僕よりも若いんだそうな。
 もう外は暗くなってしまった。日が落ちると、気温は急に低くなって、今日の昼、丁度零度を示していたのが、もう零下十二度に下がっている。
 室に入ると、さっきの英人がアドレッス・ブックを持って来て、日本人がいましたよと教えてくれた、それには片仮名でこう書いてあった。

日本帝国 東京 大関久五郎 地理学を修むる者
 此宿ノ人ノ話ニ拠レバ、コレ迄吾日本帝国民ニシテコヽニ泊ッテ Jungfrau ニ登ツタ人ハ無イトノコトデス、本当カウソカハ私ハ知リマセンガ、かくコヽニ吾邦人ニシテコノ後コヽニ来リ宿ル方ニ対シ御免ヲ蒙ツテ私ノ名ヲ日本語デ書イテ置キマス。
 九月二十四日

 これは千九百十二年のことであった。成る程こう云えば「この小屋から登った日本人」のファースト・アッセントである。
 英人名はリチァード・カリッシュ Mr. Richard Kalisch、マンチェスターの住人で、独逸語、仏蘭西フランス語、伊太利イタリヤ語に、シュウィーツェル・ドイッチまで楽に話すのに感心してしまった、全体、英国人の外国語と来たら多くはなっておらん、独逸語が話せるのわかるのなんて、大きな面をする奴でも、発音と来たらなさけない、第一、同じ国のくせに、スコットランドの地名さえろくにしゃべれない位だが、同君の発音に至っては例のガイド連に、旦那は英語よりシュウィーツェル・ドイッチの方がっぽどうまいやなんて、感心されてた位である。カリッシュは独逸の地名にもあるし、つづりから見ても、或は独逸種なのかも知れない。日本には新婚旅行で来たんだそうな、例によって不二ふじ山のはなしが出たが、新婚旅行だけに果して登ってはいなかった。ハーバート・ポンティング氏 Mr. Herbert G. Ponting の親友で、氏がスコット大佐と同行した南極探検の話しやら、不二山写真帳の話しやら、広重、北斎から京の舞妓の話しまで脱線したのは少々面白かった。
 晩餐はウィスキー・ソーダで平らげた、ネイルド・ブーツの底ではないかと思ったステークも、丸呑みにすれば決して硬くはない。
 飯がすむとガイドをつれて、例のトンネルをぬけて再びユンクフラウ・ヨッホの雪の上に立った。ピック・マティルデは星あかりで蒼白く光っている。そして大空は梨地の星で、メョンヒ、アイガーの巨人のように屹えた左に高く、北斗七星がかかっている。気温は零下十三度、思ったよりは温かい。雪田のはずれに立って、下界を見下ろした、そこには半点の靄もない、足もとにぴかぴか光っているのは、クライネ・シャイデックの停車場で、少し左にはグリュッチュとウェンゲン、真ン中に二つ並んでるのはインテルラーケンとウィルデルスウィルであった。トゥーンの街の灯はずっと左に望まれる、そして更らに更らに遠くぼーっとうす赤くにじんでいるのは、首府ベルンの灯火であった。夜は寂として物の音も響かぬ、しかし私にはこのまわりに集まった三山が、ひそひそ耳こすりでもしているように思われてならなかった、ヨッホの雪の上に半時間ばかり立ってたら、ウィスキーの元気もなくなって、ぶるぶる胴振いが止まない、室に帰ると、やま達がしゃべってるしゃべってる、何しろ箆棒べらぼうな胴間声で、初めのうちはユンクフラウと喧嘩でもしているのかと思った、が、彼等は一揆の下相談でもなんでもない、いずこの山天狗にもありがちな、誠嘘とりまぜた自慢話をやってるんだ。腰かけの下には電気炉がある、空気は乾燥しているし、リョウマチスには持って来いの療養所である。
 リキュールをひっかけて、また山人の仲間入りをした。十時過ぎに此の連中は、私達のガイドを残して、みんな下りてしまった。彼等はクライネ・シャイデックから遊びに来たんだそうな。話もいい加減にきりあげて寝室に行く、私達二人とガイドの一人で一室を占領した、東の窓に白いカーティンがかかってると思ったが、気がつくとそれは小屋を埋めた積雪であった、室は少し暑すぎる位で、何だか落ちついて眠れない、明日の出発は午前八時である、夏ならば雪が柔かいので、午後氷河の上を通過するのは全然避けなければならない、無論、山によっては登りに八、九時間を要し、下山にもほぼ同様、もしくはそれ以上もかかるものがあるが、こう云う登山は最、危険に属するので、いくら夜半に出発しても、午後の危険はまぬがれない、この点に於て冬の方が安全であるが、反対に雪に包まれたクレヴァースに注意しなければならない、そしてアヴァランシュも夏の新しい雪のあとより少ないには相違ないが、現に寝室に入ってからも、遠雷のようにしばしば聞えたくらいで、日の強い間は決して安全とは云い切れない。
 眼を閉じてもますます神経は過敏になるばかりで、昔から想像ばかりしていたユンクフラウに登れると思うだけで、胸の鼓動ははげしくなった、そうそうまだ学校にいた時分、編輯会の帰りだったか、高野君の所に大勢で泊った事があった、暁方の夢に中村君と二人登山をして、私が頂上の写真を撮そうとすると、中村のひょろ長い半身が霧の中に入ってて、いくら待ってても写せなかった、覚めて話したら大変叱られた。天気はどうだと思って西側の窓をのぞくと、ユンクフラウは真白に屹えて、丁度その上に沈みかけるオリオンが見えた。折り折り遠くアヴァランシュを聞く。時計を見るともう三時に近い。
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ユンクフラウ登山

(一九一四・一・二五)



 眠られないと云ってもやはりとろとろしたと見えて、ガイドに起されたのは七時であった。ずカーティンをあけると、晴れ渡ってはいるがまだ日が登らないのは、高山とは云え緯度の高いためであろう。支度はすぐ出来た。朝飯はカフェーにロールとコールド・ミート、昼の弁当にはパンにタングとハム、それからイヴォルンの白葡萄酒を一本携帯に及んだ。カリッシュ氏と二人でテレースに出る、東南の空がもううすあかくなって、グローセル・アレッチ・グレッチャーの果ては、横雲の間にウァリスの山々が紫に見える、風は少しも無いが随分寒い、昨夜の最低寒暖計は零下二十六度を示していた。
 午前八時出発、ガイドは二人ずつ同勢六人である。小屋を下りると、すぐ輪カンジキをつけて、ユンクフラウ・フィルンを横ぎりはじめる。ここから正面のロッタール・ザッテルの取りつきまでは、だらだら上りの雪田で、私達の通る近くにはクレヴァースは見あたらない、雪は凍ってはいるが余り硬くはない、丁度フィルンの半分もこえた時分に日が当りはじめて、もうグレッチャー・グラスなしでは我慢にも歩けなくなった、雪田は決して急ではないが非常に呼吸いきぐるしい、そして手足は凍るように冷たいが、胸からは汗が流れてどうも気持ちが悪い。競馬ではないがとかくはやり勝ちな連中を、ランクサーム! ランクサーム! とガイドに注意されて静々と、やや小高い雪の丘にとっついてロッタール・ザッテルの直下に達したのは八時五十五分であった。
 先ず一やすみする、これからザッテルまではなかなか急で、あおのくと、さか落しの雪の間に蒼く光ったクレヴァースが口を開いてるようで物凄い。煙草をふかしたり撮影したりしている間に、ガイドはリュックザックからシュタイクアイゼン Steigeisen を取り出して、輪カンジキと取りかえてくれる、それからロープですっかり縛られてしまった。先登せんとうはシュトイリ、次が私でカウフマンが後殿しんがりである、私の一行はカリッシュ君の先きに立った。さあこれからが本式の登山である、しかしいよいよ急斜にとっつくとすっかり楽になって、一歩一歩ガイドの足跡を踏んで登るのが少しも苦にもならなかった。途中に大小のクレヴァースが随分多い、大きなのには雪の橋 Schnee-br※(ダイエレシス付きU小文字)cke があるからむしろ恐くはないが、小さな奴を飛びこすと、動悸がして動悸がしてたまらなかった。やがて中腹の一番大きなクレヴァースに達する、思いきって飛びこしたら訳はなかった、深さは三百米突メートル、一番多く人間を呑んだクレヴァースだそうな。苦しみはかく一時間つづいた。そして丁度十時にロッタール・ザッテルの上に到着した。
 登りきった景色はすばらしい、西は直下のラウテルブルンネン・タールを深く深く距てて、一面に雪の山の果てには、ただ蒼空があるばかり、それには一点の雲も浮かばない。アルプスにいくつの山岳があるか私は知らない、諸君も数えたことはあるまい、然しその数の多い山の中で、人に知られた名峰の殆んど全部はここに書き上げることも出来よう、私がこのザッテルに立った刹那、第一に、ああ美しいと思ったのはワイスホルンであった、それから、伊太利亜イタリヤ境のモンテ・ローザ、ワィスミス、これ等はよく見る写真や画はがきで、一目見ればすぐに分かったが、マッターホルンはモンテ・ローザの右にいかにも低くって、いやにとがったちっぽけな山だと思って、あれはクライン・マッターホルンかと聞いたら、驚いた、本物のモン・セルヴァンその者であった。モン・ブロンの山塊は遠いだけに小さく見える、ラウテルブルンネンに沿う山岳は、ザッテルにすぐつづくロッタールホルン、その陰からグレッチェルホルン、エーベネフルー、グロースホルン、ブライトホルン、チンゲルホルン、谷の対岸はシルトホルンからペテルスグラートにつづいて、ブリュームリス・アルプが手に取るように近い。そのうちにカリッシュ君の一行が着いた。
 ふりかえると、眼下にひろびろと横たわるユンクフラウ・フィルンをへだてたトゥルークベルクと、更にその背後エーウィッヒ・シュネー・フェルト Ewig Schnee-Feld をへだてたグリューンホルンの連脈 Gr※(ダイエレシス付きU小文字)nh※(ダイエレシス付きO小文字)rner―Gross-Gr※(ダイエレシス付きU小文字)nhorn, 4047m, Klein-Gr※(ダイエレシス付きU小文字)nhorn, 3297m. の上にフィンシュテラールホルンが屹えている、しかしこれはグリンデルワルト方面から見るように、鋭く尖った様子は見られない。それから更に右につづくのはロートホルン Finsteraar-Rothorn, 3549m. であった。メョンヒ・アイガーは極めて近く、メョンヒの右にはシュレックホルン山塊 Schreckh※(ダイエレシス付きO小文字)rner.; Gross Schreckhorn, 4080m.、アイガーの左にはウェッテルホルンを見る、ユンクフラウの斜面に横たわる無数のクレヴァースは、まともに朝日をうけて水色に光っているのが何とも云えず美しい。
 私は雪の上で雀躍りして喜んだ、そして明日はメョンヒに登ろうと決心してしまった。実際この景色を見ては、二、三年この近所にうろついて、山と云う山をのこらずきわめてしまいたくなるのは、あながち私一人ではあるまい。冬の真中でも、ユンクフラウ、エーベネフルー、フィンシュテラールホルン、ウェッテルホルン等には登れるし、メョンヒにも今月初めに一人登った組があったそうだ、無論、夏よりは危険なのには相違ないが、の山岳の間に立っては、危険とか安全とか考えるのは馬鹿馬鹿しくなってしまう、自動車に曳かれたり、梯子段からすべり落ちる男がある世の中なんだから、危険なのは何も登山に限った訳ではない。死ぬ時さえ来なければ、どんなことをしたって死なないものだ、第一人間はそんなに弱いもんじゃない。理窟はとにかく登らずには置くものか、だが恐ろしいのはそのメョンヒから北に落ちるグッギー・グレッチャーである。
 暫く休んで急なアレト Ar※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)te をステップ・カッティングをやりながら頂上に向かう。危険と云えば危険だが、脇眼さえしなければ大丈夫だし、苦しいには相違ないが愉快だから何ともない。
 私はミシャーベル Mischabel, 4554m. が気になって、時々ふりかえってはさがしたが、少しアレトを登ると、ラウテルブルンネン・タールを限る山稜の上に、実に立派に表われた。中央の突起は云わずと知れたドームである、がアルプの山の中に、最、美しいのは東にオーベレス・アイスメーヤ Oberes Eismeer の上に並んだシュレックホルンと、西南にはのティンダル Prof. Tyndall が、第一の登山をやったワイスホルンの二つであろう。昨日登った連中の足がたが、そのまま凍って足がかりになるから余程楽である、ロッタール・ザッテルから頂上まで四十五分かかった。私達がユンクフラウの頂上に、我がなつかしい加賀君の足跡を踏んで、グリュッセを叫んだのは十時四十五分であった。シュトイリは手袋をはずして握手を求めた。標高四千百六十七米突の氷の上で、天気はよし風はなし、何しろうれしくってうれしくってたまらない。三時間半かかるのが普通なんだが、今日は思ったより早く、二時間四十五分で着いてしまったんでガイドも喜んでいた。写真を撮してからウィスキーを飲んでると、カリッシュ君の一行がやって来た、また山頂の一角に立って、ラウテルブルンネンの山脈を背景に薄いアレトを登って来る一行を見下ろして撮影して、それから頂上で一同記念の写真をとった。歩いてる間はちっとも感じなかったが、こうやってじっとしてると実に寒い、弁当に持って来たパンやチーズはボロボロに凍ってしまって、タングは舌にくっついて痛くって食えなかった。
 ロッタール・ザッテルに下りてから昼飯にすることにして、イヴォルンだけ飲んだが、これも冷たくってちっとも酒らしく思われない。
「●ロッタール・ザッテルよりフィンシュテラールホルンを望む」のキャプション付きの写真
●ロッタール・ザッテルよりフィンシュテラールホルンを望む

 頂上から見る山岳の記載は、とりもなおさず、欧洲の山岳誌である、東はティロールの山々から西はサヴォイ、南はピエモンの山脈からロムバルディヤ、北は独逸ドイツでシュワルツワルトの丘が黒く小さく望まれる。大空は濃く澄み渡って半点の隈もない、ただ見下ろすトゥーンからベルンの台地には湖のように密雲みつうんが閉じている。東北のルツァーンとツューリッヒの湖は湖水の形に綿雲が沈んで、その間からピラトゥスとリギー Pilatus, 2122m.; Rigi, 1800m. と、ウリの湖水の南につづく、ウリ・ロートシュトックの連峰が、置き物のように小さい。ウェンゲン、ウェンゲルンアルプはすぐ足もとに点在しているが、ミュルレンはすぐ下のジルベルホルンの蔭で、ただ台地につづくギンメルワルト Gimmelwald が見えるだけだ、従って数日前、ミュルレンに遊んでいた時、アルペンルーエのテレースから仰いだのは、頂上の一角に過ぎなかったのだ。ラウテルブルンネンからミュルレンに登るケーブルカーの終点グリュッチュは雪の間にはっきり見える。絶頂から下ろす北と東側は、ギーセン・グレッチャーの上まで直立の絶壁で、雪は極めて少い。グリンデルワルトの村はアイガーの裾にかくれて、ただうしろの雪の斜面の間に、小さな百姓家が飛び飛びに数えられるだけであった。
 展望はいいが寒くてやりきれない、一時間ばかり雪の上にいた後、また同じアレトを注意して、ロッタール・ザッテルまで下りて来た、そしてここで弁当を平らげた、ワインの味は格別である。暫くすると、下から三人づれで登って来る連中がある、ガイドはシュトイリの弟で、兄哥あにきにまけないやま然とした男だった、これらは一番の電車でやって来たのだそうな。別れてクレヴァースの多い急斜にかかったが、酒のたたりで苦しくって閉口した、然し御かげで身体だけはぽかぽかしている。ザッテルの直下で、遅れたカリッシュ君の一行を待ち合わしたが、きりが無いから御先きに御免を蒙って、ユンクフラウ・フィルンの上をまっしぐらに辷りだした。粉雪が帽子や手袋に凍りついて、三人とも樹氷のように真白だ、距離は長し、傾斜はあまり急でなく、危険も大してないから、ここは恐らく欧洲第一のシー・フェルトであろう。小屋の下まで辷りつづけに辷って、例のテレースで小屋の連中や見物にブラボーを叫ばせたのが、午後一時二十分、あまり早かったんでガイド連も驚いていた。然しそれは理由があることで、私は二人のガイドの間に縛られているから、先登のシュトイリさえ早く歩けば、それだけ時間は縮小するわけで、あえて健脚たると如何いかんとを問わない。もっとも時々ふりかえって休みましょうかなんて聞くけれど、やすむのは癪だから「うん頂上へ着いてから」と、いつでも答えることにしていた、人間の足に遅速はそう大してあるもんじゃない、休まなければ早く着くのは自然の理である。
 四十分ばかりたつと、カリッシュ君の一行がやって来た。これも随分早かったそうだ。改めて昼飯を食い、改めてワインを飲んだ。同君は、明日アレッチ・グレッチャーを下って、ドライエックホルン Dreieckhorn の直下から右にグローセル・アレッチ・グレッチャーを登って、エゴン・フォン・シュタイゲルの小屋から、レョッチェンタールを辷って、ゴッペンシュタインの停車場に出るんだそうな。私は後、スウィスの旅行を終って、約束の写真を送った、その返事はシチリヤ島のパレルモで受け取ったが、君は計画通り無事に、カンデルシュテークに着いたとしてあった。午後も、夜も、山の話でもちきった、日本で何とか云う人を訪問して、御辞儀の馬鹿馬鹿しいのに驚いたと云ってる。これはあながち同君ばかりではない、日本の年寄りに挨拶する時は、上眼で対手の禿頭に注意して、時期を見計って御辞儀を切りあげるんですと、教えてやったら、「なーる!」って大変感心していた。それから日本人は妙ですね、細君がちっとも出て来ませんねなんて云ってた、「僕ならすぐ紹介しますよ」と答えてやったら、大口あいて笑い出して、結婚したらどうぞ是非、なんて頭から人を若輩にあつかってる、マンチェスターに訪問の約束をしたが、まだ訪ねて見ない。氏の持ってたシーの地図を見ると、エーベネフルー、フィンシュテラールホルン、ウィルデフラウ、ウェッテルホルン等には冬でも登山が出来るとしてある、但しユンクフラウも同様で、山の斜面はシーを利用して、それから上はクライミング・アイヨンをつけるのは勿論である、そして夏より危険が多くって、困難なのは云うまでもない。随分おしゃべりをして、もう十一時過ぎになってしまった。
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メョンヒ登山

(一九一四・一・二六)



 ユンクフラウに登りかけた時、我慢が出来なくなって、いよいよ今日はメョンヒに登る事にした。
 ユンクフラウと共に、メョンヒの名の知られたのも随分古いことであるが、どこの山岳も同じようで、果してそれが今の山頂に与えられた名であるかは、比較的近代まではっきりしていなかった。最初に文字に残された M※(ダイエレシス付きU小文字)nch と云う名は、千六百六年のことで、然しそれはシュワルツ・メョンヒを意味していたと想像される。千七百十六年に、M※(ダイエレシス付きU小文字)nch in Grindelwald と云う語が用いられておると云うが、いずれの山岳を云ったものかはっきりしていない。十九世紀になって表わされたベルンからの見取り図にも、ユンクフラウに並んでシュネーベルク Schneeberg と、ガイスベルク Geisberg と記したのがある、前者はアイガーであって、後者はメョンヒである、そしてアイゲルス・シュネーベルク、及びアイゲルス・ガイスベルクと云う名や、インネル・アイゲルとか、ヒンテル・アイゲル Innereiger.; Hintereiger など、区別されているところを見ると、我がメョンヒはむしろ、アイガー、四千米突メートルに達しないアイガーに属しているような名称を、与えられていたものと考えられる。が、それも無理はない、ユンクフラウの最初の登山は千八百十一年であるが、メョンヒは半世紀も遅れて五十七年の八月十五日になって、初めて山巓さんてんを人に示したとつたえられている。
 登路はいろいろあるが、そのいずれも「危険」の部に属する、殊に冬の登山には、ただメョンヒ・ヨッホから、アレトをつたうて登るよりほかに仕方はない、幸い天気つづきで、の分ならば別に大した困難はあるまいと思われた。
 小屋を出たのは朝の八時十五分、見下ろすアレッチ・グレッチャーの右に、ドライエックホルンの頂は、朝日を少しうけて光りはじめた、私達は小屋の人達に送られて、ユンクフラウ・フィルンの上に立った、そしてカリッシュ君の一行と再会を約して握手した。メョンヒに行くには、フィルンからもう足跡も無い純白な雪の上を左に登って、クレヴァースの間をよけながら、トゥルークベルクの直下を、北へ北へと登ってゆくのだ。雪は思ったより軟かく、輪カンジキのままでも膝まで踏み込んだ。昨日にこりて今日は雪車そりを引っぱって来た、無論登りには重くって仕方がないが、帰り路の面白さは、今から想像される。今、私達が登ってゆくフィルンの右は、前に述べたトゥルークベルクで、左は東ユンクフラウヨッホ ※(ダイエレシス付きO)stliches Jungfraujoch である、ここと、昨日私がオーベルラントを下ろした西ユンクフラウヨッホ Westliches Jungfraujoch とは、小屋の背後に屹えた岩山で境されておる、そして私達の登ろうとするアレトは、メョンヒの頂上から東南に曳いて、その裾はこのフィルンを横ぎって、右側につづくトゥルークベルクに接している、その一番ひくいところがメョンヒ・ヨッホで、特にオーベレス・メョンヒ・ヨッホと呼ばれておる。私達は軟かい雪で苦しんだあげく、丁度小屋を出て一時間の後、そこに達することが出来た。ヨッホから望む東の景は、何と形容していいか、私には適当の文字が見出せない。足下にながながとつづく氷河が、末広がりになったフィーシェル・グレッチャーの正面に、シュレックホルンの群峰が半空を領して屹えている。トゥーンの湖を渡る旅人の、眉にせまるアーベントベルクの黒木の森の上に、朝の日に燃えては、水底に眠る魚鱗の夢を破るかと、かっと中空にきらめく時、心無き旅人も、ちり気だつまでぞっとして、ふなばたにのり出して、じっと見つめる一座の山岳のあったのを忘れまい、のグロース・シュレックホルンである。
 私は茫然として、ガイドは氷に覆われた、とある岩角にどっしと御輿みこしを据えて、ひとしくこの山頂を仰いだ。空は濃く深く澄み渡って、一点の雲もない。そして山と云う山、谷と云う谷、眼のとどく限りのすべては氷と雪に埋れて、ただ塵埃じんあいのように点ぜられたのは、急なアレトの風淀に、取りのこされた形にただずんだ、二人のガイドばかりであった。
 私達は雪車とシーと輪カンジキを、此のヨッホの岩角に残して、シュタイクアイゼンをつけて立ち上った。今日は少し風立って、アレトの雪の吹きまくるのがしぶきのように望まれる。折り折り左側の絶崖にアヴァランシュが起って、粉雪が霧のように吹っ飛んで来る、ガイド達は立ちどまってじっと見下ろしている。とても登れないと宣告されるかとびくびくしていたが、二人とも石像のように、なお黙々としていた。崖の下からしきりにアヴァランシュが聞える。メョンヒ・ヨッホからアレトにかかると、間もなく急な岩壁を登らなければならない、それがすっかり氷で覆われて、アイスピッケルは見事跳返されてしまうし、カンジキもこうなるとあまり役に立たないので、どうも非常に恐ろしかった。岩角を登りきって、またも吹きしきるアレトの上に、きっと絶頂を見上げると、雪のアウトラインは吹雪にうっすらとぼかされて、西の風が直下グッギー・グレッチャーからまともに吹きつけているのが手に取るように仰がれた。シュネーシュトゥルム! 重く濁ったシュトイリの声が、疾風の間にもずんと鼓膜にこたえた。然し、彼はもう何事も云わない、カウフマンも黙して私の後を登って来る、私は勿論、駄目だ! と宣告されるのが恐ろしさに、そ知らぬ顔で息をころして、吹雪の中を登ってゆく。然し風速はあまり変らず、私達の希望した通り、むしろ案外早く、十時四十分には絶巓の雪の上で雀躍りして、グリュッセを叫び、握手をして、さて四方を見廻した。西に近いのは勿論ユンクフラウである。ユンクフラウ・ヨッホの小屋は、ここからは見えないが、ユンクフラウ・フィルンからロッタール・ザッテルと、昨日の登路はありありと見渡される。
 北側はアイガー・グレッチャーの上にのしかかった直立のワントで、右にアイガーがギザギザに割れたグラートにつづいて低くつ小さい。然し何よりも眼をひくのは、ベルネルアルペンの最高峰フィンシュテラールホルンではなく、又、第二高峰四千百八十二米突のアレッチホルンでもない、オーベレス・アイスメーヤの空に高く、フリントのように雪を浴びた、彼のグロース・シュレックホルンであった。
 風は時々思い出したように吹きすさぶ。今日も山と云う山はすっかり見える、ただインテルラーケンからトゥーンへかけて、ちょうど湖のように雲が棚引いて、その厚い敷布の上に、ニーセンが置き物のように屹えていた。すぐ眼の下はクライネ・シャイデックで、ここから唾をしたら、山神の霊雨と麓の人達は思うであろう。グリンデルワルトは村はずれが見えるだけで、アイガーの蔭にかくれておる。
 幸い、風は少し吹きやんで来たが、記念の撮影をする時分には、厚いハントシューに包まれた手先も凍って、思うようにつかえなかった、十一時に下りかける、然しまた、たまらなくなって、再び最高点の雪の上を歩きまわって見廻わした。
 下り路は同じステップを踏んで降りるので、初めのうちは余り恐ろしいとは思わなかった。ただ、困ったのは例の岩壁である、そして山登りは一人に限ると思った、私だけならどうにか注意して降りられるけれど、もし上から石か氷の塊でも落されれば、それを避ける余裕などはとても無い、私は日本の山岳にも随分ひどい場所のあるのを知っている。然し今初めて味わった苦い経験のように、怖気を振ったと云うのは、一歩すべらした場合がもう此の世の御別れで、その恐ろしさに加えるに気圧の減少である、殊に風立った冬の登山は、事実を白状するが、決して決して楽なものではなかった。私はこう云う苦しさの中にも、無事に麓からこの山頂を仰ぐ時のうれしさと、今迄私に対しては想像の外に何物も、ただガイドブックは白紙に似た感じを与えたに過ぎなかった此の山を、親しみのあるものとして、此の後は机に飾った写真にも、登山案内の一節にも、そしてかつてこの山を仰いだ人達の話にも、より多くのなつかしさを味わいたいと云うに過ぎない。
 鋭い岩角を、一足ずつ気をくばって、やっとオーベレス・メョンヒ・ヨッホに帰着したのは丁度正午であった。風はかなり強い。
 私達は、雪車を残した岩角の風淀に休んで昼食をはじめた、パンは例によってぼろぼろになって、味はまるでない、ベイコンも舌に凍りついて、甘いより痛いが先に立つ始末だ。今日はクラーレットにレモナードを混ぜて飲んだ。そしてまたあらためてシュレックホルンを望んだ。オーベレス・メョンヒ・ヨッホの向う側に、トゥルークベルクの山稜が犬の歯のようにつづいた上に屹えているのは、エーウィッヒ・シュネーフェルト Ewig-Schnee-Feld とフィーシェル・フィルンを距てているフィーシェルグラート Fieschergrat から東南につづく、グロース・フィーシェルホルン Gross-Fiescherhorn, 4049m.と、フィンシュテラールホルンで、ベルグリの小屋は眼下の山の蔭になっている。ヨッホの西南は今朝登って来たフィルンで、此の方面で第一に眼に入るのは勿論近いユンクフラウである、その形は北側、即ちラウテルブルンネンの方から仰いだように整った形ではないが、ユンクフラウ・ヨッホの辺から見るよりも遥かに立派である。直下のフィルンはながながと南にうねって、アレッチ・グレッチャーとなるのであるが、ここからはトゥルークベルクにさまたげられて、小屋から見渡すほど、ひろびろと眺めることは出来ない。この方面ではさすがに群を抜いているのはアレッチホルンである。そしてそのすぐ右には、遠くローンをへだてたミシャーベルの真中に四千五百五十四米突のドームが厳然と屹えていた。一口頬張ってはこう云う景色を見まわしている中、一本のワインはたちまち空になって、雪の上にころがされた。気楽なシュトイリは太い声で唱いはじめた、そしてその民謡の終りはドゥエットになって、ガイド達の野太い声が、透明な空に響き渡った。小屋では又アヴァランシュだと思っていたろう。
 日はますます強く照って、二日の山登りに頬がヒリヒリする。岩蔭は風淀で、昼すぎの日をまともにうけても、私はぶるぶる震えていた、クラーレットもこうなると役には立たない。
 宴会は一時間ばかりできり上げて、いよいよ雪車に乗る。はじめは静かに辷った、中程はいささか痛快過ぎた、そしてだんだん急になって、クレヴァースが方々に口を開いている間を縫って、ユンクフラウ・フィルンの上に飛び降りた時分には、よせばよかったと思い初めた。速度はますます加わって、止めようったってどうしようもない、粉雪が全身にふりかかって、三人とも彫刻のようになった。グレッチェル・グラスも凍りついて、もう何にも見えない。フィルンの上の小屋で、盛んにブラボーを叫んでおだててるのに気がついた時は、いつの間にか傾斜のゆるい雪の上に止って、雪だらけなグラスを拭いて、けそけそと廻りを見まわした時であった。
 小屋に入ってガイドと三人、またあらためて飲みなおす、そして杯をあげてプロジットを叫んだ、シュトイリの胴間声どうまごえが、ずんど抜けに小屋の中に響きわたる、折りから御着きの見物は、あきれかえって感心している。
 二時三十五分の電車で、シュトイリと一所いっしょに下山する。ガイドの賃金は、小屋からユンクフラウまで往復四十フラン、トレーガーに三十フランで、メョンヒへも同じであった、それはいいとして、少々驚ろいたのは小屋の払いである、二晩泊って二百フランばかり取られた、両方を合わせて、これに小屋までの電車賃を加えると、かれこれ四百フランに近い。二日の登山に百六十円は、成るほど高いのは、標高ばかりではないと思った。
 私達は地図をひろげて、いろいろ山の話を聞いた。グロース・シュレックホルンは一番危いそうだが、比較的容易で面白いのは、ウェッテルホルンから山越しに、クライン・シュレックホルンを越す三日がかりのプランだと云うが、無論それは夏のことである、冬でもウェッテルホルンの頂上までなら、一日泊りで行って来られるそうだ、然し登山はいずれも天気次第で、雪の模様さえよければ、ウェッテルホルン如きは決して危険なことは無いと云う話であった。
 アイスメーヤで乗り換えの間に、シュトイリとまたトンネルの窓から頭を出して、シュレックホルンを仰いだ。昼過ぎの強い日をまともにうけて、黒く澄んだ大空に肩をいからせた山容は、登れると思うなら登って見ろ! と威嚇しているように思われてならない。
 乗りかえると、山登りとは思われないドイツ面の中老爺がやって来て、うるさくいろんなことを話しかけるんで、山登りのプランもろくに出来なかった。奴は紡錘形のビール肥りで、このまま水に叩き込んだら、河豚ふぐに化けてぶくぶく游ぎ出しそうに思われる。トンネルを出ると、アイガー・グレッチェルで、雪の上には一昨日見た北極犬が、真赤な舌をべろりと出して、珍らしそうに電車を見送っていた。
 私は初め、クライネ・シャイデックからグリンデルワルトへ行くつもりであったが、電車は冬の間運転しないので、このままシュトイリに再会を約して、駅長さんからあずけて置いた荷物を受け取って、同じ線路をインテルラーケンにむかうことにした。大分永くなりましたね、ははあ貴下ですかいメョンヒに御登りは、と駅長殿もチョコレート・ソルディアーに聞いたに相違ない。ウェンゲルンアルプを廻ると、もう片陰になって、雪の中ながら暗い黒木の森の上に、入日を斜めにうけた三山をなつかしく見かえりがちに、ウェンゲン、ラウテルブルンネン、そしてツワイルュチーネのもう灯の入った村々を、ピツェアの森の間に見送って、淡いもやのたちこめたインテルラーケンの町はずれ、オスト・バーンノーフから雪車につけたシュネー・ロルレンを聞きながら、夢見るように、人もない大通りを走って、ベルネルホーフに着いたのである。冬とは云え山登りに汗ばんだ身体を浴場に横たえて、眼をとじてぼんやりと考えていた。湯上りのソーファにぐったりとよりかかって、窓をあけて南をながめると、外は夕闇ながら雪もよいか、ここは仄白ほのじろく靄がたちこめて、山はいずこ、今はなつかしい二つの峰も仰ぐことは出来なかった。宿の人達は、私の顔の雪やけと、初めて知った山登りに、深い興味をそそられたと見える、バーで飲んだキルシュ・ワッサーはうれしかった。夜は次第に更けてゆく。
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グリンデルワルト Grindelwald




 天気はあまり思わしくない。起きぬけに百余枚のフィルムを携えて、例の写真屋を訪ねる、暢気のんき老爺のニクレスはいつもの調子で話しはじめた。山登りに来たんだよと云ったら、妙な顔をして、だから日本人はえらいなんて変なところで賞めてくれた。昨日はグリンデルワルトに行ったそうで、しきりにすすめるから、私も一寸ちょっとその気になって、その足で、オスト・バーンノーフからグリンデルワルトの直行に乗った。
 ツワイルュチーネまでは同じ線路である。ここから左に曲って、狭い谷底を進んでゆく、ところどころに百姓家が雪の中に見うけられる。両側の絶壁は、眼の届くかぎり氷柱で、ラウテルブルンネン・タールのように高くはないが、もっと狭く、もっと暗く、リュチーネの流れに沿うた冬枯の、山毛欅や白樺はまっ白な樹氷に飾られている、そして何となく物凄い谷川は、シュワルツ・リュチーネ Schwarz-L※(ダイエレシス付きU小文字)tschine の名にそむかないと思われた。昼少し過ぎにグリンデルワルトに着く。そしてそこに近づく前から谷が左右にやや開くと、第一に眼にふれるのは折り曲ったリュチーネのつき当りに、緑色に垂れ下ったグリンデルワルトの氷河である、村に近い氷河はグロース・シュレックホルンの峰つづきのメッテンベルク Mettenberg, 3107m. で、右左に分れて、右なるは村に近いウンテル・グリンデルウェルデル・グレッチェル Unter-Grindelw※(ダイエレシス付きA小文字)lder-Gletscher で、やや村に遠くウェッテルホルンのすぐ西側に垂れ下っているのが、オーベル・グリンデルウェルデル・グレッチェル Ober-Grindelw※(ダイエレシス付きA小文字)lder-Gletscher である。この両氷河の間に屹えているのが、マッシーフなメッテンベルクで、山脈は遠く東南に走って、次第に高く、次第に急に、クライン・シュレックホルン Klein-Schreckhorn, 3497m. からネッシホルン N※(ダイエレシス付きA小文字)ssihorn, 3749m. それから最高峰のグロース・シュレックホルン(四〇八〇米突メートル)となる。そして屏風のような薄い峭壁は、更らに第二高峰のグロース・ラウテラールホルン(四〇四三米突)につづいている。しかし、これ等の山岳は、グリンデルワルトから北側につづく丘に登らなければ、望むことは出来ない。村から近く見えるのは、メッテンベルクと、右にアイガーと、そして左に、村には昔からつきもののウェッテルホルンの三山である。が、今日はアイガーの頂は雲の間に隠見して、アイガーワントの急斜には、けむりのようなもやがねばりついていた、そして村はずれに屹えている、のウェッテルホルンの絶壁には、滝のように霧が這い下って来る。空は陰欝な灰色で、樅の裏葉の青黒い外は、空も山も一面にどんよりと沈んだ中に、鳴り渡る会堂の鐘がかえって心さびしかった。
 私は物々しいホテルの間を、眼をふさぐように通りぬけて、村はずれから左の山手に、小さく雪に埋れた百姓家や、厚い氷の間からたらたらと滴り落ちる清水の前を、上へ上へと登って行った、眼界は次第に開けて足もとに散らばったグリンデルワルトの村をこえた前面には、前に述べた山々と、更に氷河の奥にあたって、雲の色と見わけ難くいくらか淡く、フィーシェルホルンの連峰が望まれた。今、私が辿る雪路は、恐らく五尺に近かったろう、急な坂は硬く凍って、まるでフィルンの上を登るような気がする、そしてこの丘を北に登りつめた所が、バッハアルプ Bach-alp からファウルホルンにつづく山脈であって、比較的楽に山を見るには、もっとも適していると云われておる、然しそれは勿論、晩春から初秋へかけてのことで、雪の今はどうすることも出来なかった。私はもう少しもう少しと思いながら、随分高い所まで来てしまった、村はまるで箱庭のようで、リュチーネの流れが真白な渓底に糸のように薄蒼い。
 私はグリンデルワルトの景色に、非常の興味をもっていたけれど、今ここに来て少しく失望せざるを得なかった。南につづく山岳は余り高く、あまりに近く屹えていて、呼吸がつまるような気がする、北側の斜面は反対に、あまりに平凡で、ただ畑と牧場と、その間を点接する小屋の間に、葉をふるった果樹があるばかりで、ラウテルブルンネンのような寥しさはなく、シャイデックのような凄さに乏しく、つミュルレンのような、広々とした打ち開いた景色をそなえているのでもない、殊に村に近いウェッテルホルンは、たとい高さに於ては三千七百米突を越えておるにせよ、カンデルシュテークから東に望む彼のブリュームリスアルプのような、美しい整った形をそなえているとは思われない、が、これは私一人の感じたところである。
 然しウィンテルシュポルトから云えば、シャイデックから村まで五マイル半にわたる急斜は、シーにはもっとも適した場所と思われる。然し多少の不便と危険を恐れぬならば、グローセル・アレッチ・グレッチュルは欧洲第一のシーフェルトである、何を苦しんでアメリカ人の巣のような、の谷底のグリンデルワルトを選ぶ必要があろうか。
 私は、グリンデルワルトと云えば必ず撮される、ウェッテルホルンを二、三枚撮影して、斜面を村はずれに下りて来た、そこにこれも写真にきっと無くてはならない会堂がある。元気にまかせて歩いたもののすっかり腹がへってしまった。会堂の前にグレッチェル・ガルテンと怪しげな看板をかけた、一軒の旅籠はたご屋があった、が、それも中をのぞき込んで、何か昼食ができるかねとたしかめた上でなくては、入れないような粗末なもので、奥からは年の頃は、左様さようまず十九か二十、山女の標本と云ったのがのっしと表われては来たが、食べ物は空腹のせいか、思ったよりも食べられた。例によってカフェーに混ぜるキルシュ・ワッサーは、本場だけに中々なかなかうまい。
 表、と云ってもすぐ前で、もとより浅間な家作りだけれど、女は表まで出て来て山の名を教えてくれた。だんだん話して見ると、驚いた、シュトイリの妹なんだ、往来から見ると、前はだらだらにリュッチーネの流れに下りて、そのすぐ向うがメッテンベルクの裾になっている、その左にはウェッテルホルンに支えられて、逆落しに谷に垂れ下っているのはオーベル・グリンデルウェルデル・グレッチェルである。ここからはハスリ・ユンクフラウの一角が頭の上に仰がれる、氷河の上の方に小屋 Wetterhorn Club-H※(ダイエレシス付きU小文字)tte が見えると云ってるが、私には雪と氷の外何ものも見えなかった、絶壁の裾には明らかに屋根らしいものが見える、それはフニクラールの終点であった。此のウェッテルホルンの絶壁、いく度か下手へたな画や写真に表われた急斜の左は、雪の岡でしきられて、村から街道を東に行けば、その峠をこして、グロース・シャイデック、それからマイリンゲン Meiringen の村に出て、左はブリエンツ、右は山越しにグリムゼルのホスピツから、ローンの渓の源なる、同じ名の氷河に達するのである。
 今にも雪になりそうで、天気はどうも面白くない。降られないうちにと思い切って夕方、今朝と同じく汽車に乗って、インテルラーケンに帰って来た。ベルネルホーフのテレースでカフェーを飲んでると、果して雪になった。
 雪の中にたそがれて、今日も山の姿は見えない。
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ウンテルゼーエン Unterseen




 雪と思ってカーティンをあけると、日がかんかん当っている。朝飯がすむとすぐ表へ出たが、ユンクフラウは霧の中で、雲行きはあまりおだやかでない。私はホテルの角を曲って、アーレにかけた橋を渡って、ウンテルゼーエンの村路を真っすぐに、トゥーンの湖水の方へ行った。右はハルデルの岩山つづきで、樅の林に覆われている。トゥーンの湖の北につづくベアテンベルクや、南岸のアーベントベルクの頂には、どす黒い雲が波のように揺れて、うみ岸のポプラの風は中々なかなかはげしかった。水には幾群の水鳥が枯芦の間に浮んでいて、岸は雪に、あらわな冬枯の木立が吹きしきる風にうなっている。湖をへだてた西の空には、ニーセンが雲の間に見えかくれる。
「●ウンテルゼーエンより見たるニーセン」のキャプション付きの写真
●ウンテルゼーエンより見たるニーセン

 水にそうて南に廻って、雑木林をくぐりぬけると、カナール・プロムナードに出た、もうそろそろ昼に近いので、そのまま右手に見えた城跡の塔へも登らずに、ホテルに引きあげてしまった。
 昼過ぎはクライン・ルーゲンの森をつっきって、ウンシュプンネン Unspunnen の城跡に行った。これも絵はがきに御なじみな景色だが、背景の雪の山岳は、今日は雲の中で、まっすぐに見える筈のラウテルブルンネン・タールは真白な霧のほか、ただ両側に林の裾を見るばかりであった。ルーゲンを一まわりして街に帰って来る。帰り路にニクレスの店に入り込むと、丁度ただ今出来上ったところで、みんな上出来ですよとにこにこしていた。フィルムの包を引っかかえて、大急ぎでホテルに帰って来たが、何事も二の次として、ず包をあけて見る、成る程うまく写っている、現像の調子も立派なものだ、これなら老爺が自慢するのも無理がないと思った。私はフィルムでこれ程に写るとはちっとも知らずに居たんだが、今となって残念に思うのは、結果を危ぶんだものだから、同じような景色が沢山たくさんあるので、このくらいなら、思い切って異った景色ばかり撮せばよかったなんて、考え込むのは少々慾ばりすぎていたかも知れない。かく今夜は安心して寝られる。
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ブリエンツェル・ゼー Brienzer See




 ベルナーホーフの主人は気持ちのいい男だった、の夏また山登りに来る約束をして、待たせてあった雪車そりに乗って、ヘョーエウェークの大通りをオスト・バーンノーフに行った。幸い、例の店先きに、ニクレス老人もいたので、写真は上出来だったとどなり込むと、先生大いに喜んでいた。停車場のすぐ裏はアーレの流れで、ブリエンツの湖の落ち口になる、私と外に三、四人の御客は、深い朝霧の間につながれてあった汽船に乗り込んだ。
 トゥーンの湖水には、汽船のほかに鉄道が、その南岸にはベルンからシュピーツを通って、このインテルラーケンまで来ているし、湖水の北岸には、ここからトゥーンの街まで電車が敷設されて、此の春から開通のはこびになっている。然しこのブリエンツの湖岸鉄道は、まだ敷設中で、私がこれから行こうとするルツァーンからは、湖水の東端ブリエンツの村までしか来ていない、それからは湖の北岸を馬車で行くか、又は今、私が行くように、汽車に聯絡れんらくしているこの汽船に乗らなければならない。然しそれは別に面倒なこともなく、急ぎの旅でない以上は、むしろ選んだ方がいいと思われる、たとい幾年の後、全通したとしても。
 十時、船は静かに動きはじめた、湖水を渡る風は冷く頬をかすめて、雪やけの顔がぴりぴりする。ボェーデリのもやはやや晴れて、ふりかえるとなつかしい平野の中に、ルーゲンの森が現われた。湖水の上には霧が這い渡って、ただ折り折り、曇り硝子を透したように蒼空と、ブリエンツェル・ロートホルン Brienzer Rothorn の峰つづきがあらわれる。外輪の船はがしゃがしゃと、平らな水をきって、湖水の右左に寄り路をしてゆく、暢気のんきな旅にはそれもうれしかった。日はシンニゲプラッテの上に登って、空は湖水のように澄み渡る、そして波の上には、けむりのような淡い霧が風のまにまに流れて来る、然し南の岸は切ったてで、朝の日は湖水のまん中までしかさし込んで来ない。ふりかえると、インテルラーケンはいつのまにか遠くなって、ハルデルとルーゲンにはさまれた低地のはずれに、ピラミッドのニーセンが結晶のように光っていた。北岸はハルデルからロートホルンにつづくリーデグラート Riedegrat で、まともにうけた朝の日に、眼もくらむばかりに光っている。この湖水のほとりにある村々のうちで、一番いいと思ったのは、南岸ファウルホルンの麓にあたる、イゼルトワルト Iseltwald の岬である。そしてそこを過ぎると、同じ岸に、シュワルツホルン Schwarzhorn, 2930m. から流れ落ちるギースバッハ Giessbach の瀑布が、船の右手に仰がれる。
 私は写真機を取り出して、船の上から撮しはじめた。何か話したそうな顔をして、いやににこにこしている男がいると思ったが、それは前年横浜に来たことのある英人で、行く先は同じルツァーンと云うところから、始終一緒にいるようになった、これからウィーンに行くんだそうな、道理で英国人のくせに独逸ドイツ語が達者だと思った。連れがなくちゃさぞさびしいでしょう、まあ此の次は新婚旅行で、またやって来るんですなアなんて、頭から人を若輩に扱うのが癪だから、そんなに若く見えますかねって云ってやったら、奴まじめな顔をして、はあ、奥さんは御国ですかって聞きかえした、可笑おかしくなって吹き出したもんだから、奴も大いに面喰ってしまって、いささか痛快だった。
 中々なかなか親切に世話をやいてれる。そのうちに船はブリエンツの埠頭に着いた。ここは湖水の東端で、小さな船つきの村である。待っていた汽車に乗ると、湖につづいた山合いの平野を過ぎて、間もなくマイリンゲンに着く。ここはグリムゼルの別れ路で、峠ごしにグリンデルワルトへも遠くはない、汽車はここから少し逆戻りをして、今来た平野を下に下ろしながら、だんだん高く登ってゆく、この谷をへだててかなりの山がつづいていたが、それはシュワルツベルク Schwarzberg, -Sch※(ダイエレシス付きO小文字)niwangh※(ダイエレシス付きO小文字)rner, 2448m. の山脈と思われる。そして谷の端には、ブリエンツェル・ゼーが蒼く光っていたけれど、間もなく線路は岩山の中腹を、右に迂回してまもなくブリュニック Br※(ダイエレシス付きU小文字)nig の停車場に着いた。
 私達はマイリンゲンで車掌に話して置いたので、ブリュニックの停車場に着くと、すぐブュフェーにかけつけて、昼飯にありついた。停車時間は二十分、三皿の料理と一本の葡萄酒と、スウィスチースを平げて絵はがきをしたためる暇は充分ある、カフェーにキルシワッサーも中々うまかった。代は全部で三フラン半、日本より余ほど安いと思った。
 ブリュニックは峠の頂上で、ここから短いトンネルをこすと、急な下りになって、眼の下に北側の谷が瞰下ろされる。そしてその雪の中からぬけ出した尖塔の、日に閃いているのがルンゲン Lungen の村で、同じ名の小さい湖水のふちに、しょんぼりと取り残された形に望まれた。が、私の最も美しいと思ったのは、その次に表われたサルネンの湖水 Sarnen See である。
 湖はブリエンツェル・ゼーを小さくしたような形で、汽車はその東岸にそうて、ギスウィル Giswil からサルネンの村へ走ってゆく。東側のアルニグラート Arnigrat, 2031m. も対岸のエンツィグラート J※(ダイエレシス付きA小文字)nzigrat, 1741m. も、とりたてて云うほどの山ではないが、今まで牙のような氷の山を見なれた眼には、風もなく静かに眠った山の湖の、岸に近く一かたまりのギスウィルや、なだらかに雪をかずいたシュウェンディ Schw※(ダイエレシス付きA小文字)ndi の山ふところに、二軒、三軒と、板屋の軒を並べた小村小村が、何とも知れずなつかしかった。水の面はところどころ、蜘蛛の網のように凍りはじめて、岸のシルフにも、湖にも、ため息ほどの風も吹かない、そして氷の間には、向う岸の雪の山や会堂の尖塔が、そのままはっきりと写っている。
 サルネンに着くと、遠くからもそれと知られるピラトゥスが、もう窓に近づいて来る、そして汽車は小さな流れに沿うた平野を、向うにピラトゥス、右手にはシュタンザルホルン Stanser Horn, 1901m. を雑木山の上に見て、アルプナッハの湖水のふちをぐるっと廻ると、うわさに聞いたルツァーンの、平らな水が窓の右に現われた。
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ルツァーン Lucern




 ルツァーンは古びた街である、私が着いた時はピラトゥスの雪が紅く輝く頃であった。停車場から五分ばかりしかないホテル・コンコルディアに、ステイションのトレーガーに荷を運ばせて、室がきまると、すぐ街に飛び出してしまった。横町をいい加減に、うねうね曲ると、ロイス Reus の水の湖からたぎり落ちる、ロイスシュテークのほとりに出る。水底は青貝を沈めたと思われるほど碧く光って、斜めにかかるカペルブリュッケ Kapellbr※(ダイエレシス付きU小文字)cke の、古ぼけたワッサートゥルムの右に並んで、山の名は知らず、峰から峰に、遠く湖をへだてたウリの山が、晴れわたった冬の日に、手にとるように望まれる。そして右手にはひしひしと建てられた古い屋根の上に、ピラトゥスの雪が入日を浴びて美しかった。そしてこれ等の山に囲まれた水の色はエメラルド・グリーンで、折りから風もない水の上に、真白に群れ騒ぐかもめが、ふとアルプの雪を思わせた、が、街も湖もしーんとして、雪路を歩く人達も、描かれたように静かである。私は橋を渡る、橋は鍵の手に折れ曲った木造で、屋根のついた古ぼけたのが、春日の廻廊でもわたるように思われた。そして湖水のふちをぶらぶらしているうちに、ピラトゥスの日は暗く沈んで、空は湖水のように澄み渡った中に、仄白ほのじろい夕月が仰がれた。
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リギ Rigi




 ルツァーンの湖は、ウリ Uri 、シュウィーツ Schwyz、ウンテルワルデン Unterwalden、ルツァーン Lucern の四つのカントンに囲まれているから、フィールワルト・シュテッテル・ゼー Vierwaldst※(ダイエレシス付きA小文字)tter See と呼ばれておる。そして、そのいずれも雪の山が水岸にせまって、狭い狭い切ったての崖が、広い湖水をいくつにも分けている。昨日通ったアルプナッヘルゼーは、西南のはずれで、これと反対に、ルツァーンの沖を東北に入り込んだのがキュッスナハト K※(ダイエレシス付きU小文字)ssnacht の入海である、東の端はブルンネン Brunnen から真南に曲って、深く深く入り込んだウリの湖 Urner See で、これ等の湖は趣きこそ違え、いずれも水は一つにつづいている、のほかに北側にはツーク Zuger See、東にローウェルツ Lowerzer See、いずれもリギの裏山の裾を囲んでおる。
 私がルツァーンに着いた次の日は、湖水のもやにつつまれて、街に出ても何にも見えなかった、悠々と落ちつきこんで、まあ昼前は湖水のふちでもぶらつこうと、何気なくロイスの河ふちに来ると、ウリに通う汽船があるので、ふと気が変って乗りこむと、殆んど同時に岸をはなれた。埠頭のくいが朝霧の中にふうーっと溶けてしまうと、もう一面にまっ白で、外輪車のゆるく波を切るより外に、眼をなぐさめるものはない。船はロイスの川口を曲ると、もう広々とした大海にのり出したような気がしたが、絶えず鳴らすネーベルホルンは、すぐ左から木魂こだまして来る、アルトシュタットの鼻を廻るんであろう。
 間もなくキュッスナッヘル・ゼー K※(ダイエレシス付きU小文字)ssnacher See の沖にかかったと見える、しきりに鳴らすネーベルホルンも、静かな波の上に消えて、船を包む扉の中に、私も夢の心地である。
 室は二つに分かたれている、私の仲間にはシーを携えた身軽な連中で、所謂いわゆる一等室の真ン中には、ノートルダームの塔の上から盗んで来た様な独逸ドイツ人がたった一人、船をわがもの顔にそっくりかえっている。
 ネーベルホルンが、すぐ鼻の先からけたたましく木魂をかえしたと思うと、霧の中から真っ黒な杭があらわれて、船はウェッギス Weggis の岸に横づけになった。岸には何にも見えない、外輪が逆にまわると、とろりとした水底に、緑の泡が渦まいて来る。
 ノートルダームは下りてしまった、ウェッギスから霧の湖を、たえず木魂を左り側の崖から聞きながら、私達はヴィツナウ Vitznau に着いた。船つきのすぐ前に、登山鉄道の終点がある、シーの連中も一緒になって、同じ電車に腰かけた、私達はリギに登るのである。
 リギは南から西にかけて、ルツァーンの湖水につつまれて、北はツーク、東はローウェルツの湖にかこまれて、丁度蝶が羽をひろげた形になっている。ヴィツナウは南側で、登山鉄道が頂上のリギ・クルム Rigi-Kulm, 1800m. まで設けてある。そしてそこからややゆるやかな北側に沿うて、ツーク、ローウェルツの間にはさまれた、アルト・ゴルダウ Arth-Goldau の町まで下ってゆく、然し冬の間は、一日数回の電車が南表から、中腹のリギ・カルトバート Rigi-Kaltbad まで通じているだけで、その他は運転していなかった、又カルトバートから尾根づたいに、シャイデック Rigi-Scheidegg 1665m. にゆく鉄道も、雪のある間は動いていない。
 線路は、初め十五分ノ一の勾配から、だんだん急になってゆく、そして間もなく、四分ノ一の傾斜となって、木立の中を登ってゆく。霧は次第に薄くなって、右側には雪に飾られた樅の木立のうしろに、集塊岩 Conglomerate の絶壁が表われた、電車はその直下にそうて登ってゆく、左は眼界がひらけて、ルツァーンの水を覆う霧の中をはなれると、下は湖なりに沈んだ雲の海で、南から東につづくアルプの山々を背景にして、ピラトゥスやビュルゲンシュトック B※(ダイエレシス付きU小文字)rgenstock, 1132m. が、島のように浮んでいた。雲の上に日はうららかに照り渡って、リギの雪は眼が眩むばかりである。
 五十分にしてカルトバートに着いた。停車場の横に立派なホテルがある、その前を素通りにして、掻きわけた雪路を曲ると、きっ立ての岩の下に芝居がかりの、サンクト・ミカエルの祠 St. Michael’s Kapelle がある。路は西に折れて、なだらかな森の間をぬけると、ケンツェリ K※(ダイエレシス付きA小文字)nzeli, 1407m. の展望台まで、三十分ばかりしかかからなかった。
 私は、山の見取図をとり出して、一々いちいち比較して見た、眼の下はルツァーンの湖をそのままに覆う綿雲で、すぐ近くビュルゲンシュトック、右よりに、スタンザホルンとピラトゥス、その間に深く入りこんだ雲の海は、アルプナッハの湖である。透明な空に、画き出された山と云う山は、ことごとく雪に覆われて、見取図に記されてある通り、一つ残らず数えられる、アルペンの名のある山で、今ここに記されたのが百七十ばかりある。もとより急ぐ旅でもないから、ケンツェリの腰かけに地図を拡げて、一々景色と比べて見た。ベルネル・アルペンはもうここからは随分遠い、然し地平線上にくっきりと、刻みつけられた山の輪廓は、それを覆う蒼空と、はっきり区別されて、此の間、登った山などは、明らかにそれと指さされる。ユンクフラウはアイガーの右に見える、アイガーの左にはメョンヒ、そしてオーベレス・メョンヒヨッホの上にトゥルークベルクがつづいて、これから左に並ぶのが、グリンデルワルトのハスリ・ユンクフラウと、尖ったミッテルホルン、更らにシュレックホョルネルのグロース・シュレックホルンと、グロース・ラウテラールホルン、そして次に、さすが群をぬいているのは、最高峰のフィンシュテラールホルンであった、フィーシュルホルンも中々なかなか立派に見える。
 ワリーゼル・アルペンは、オーベルラントの山脈にさえぎられて、ここからは見ることが出来ないが、ベルネル・アルペンはこれ等の山々の右に、ブリュームリスアルプ、ニーセンからウィルツトルーベルまで数えられる、そしてその右は、近くピラトゥスのマットホルン Matthorn, 2040m. の斜面でさえぎられている。
 ピラトゥスの右はひろびろとなだらにつづく雪の国で、地平線上には、仏蘭西フランスよりのニューシャテル Neuch※(サーカムフレックスアクセント付きA小文字)tel から、ソロトゥルン Solothurn にまたがるユラ山系 Neuch※(サーカムフレックスアクセント付きA小文字)teller, Berner und Solothurner Jura で、西を見渡せば独逸が近く、フォゲーゼン Vogesen やシュワルツワルト Schwarzwald の山脈が、バルデック Baldegger See を覆う雲の上に、ると見渡される。
「●リギより望めるベルネル・アルペン」のキャプション付きの図
●リギより望めるベルネル・アルペン

 此等の、殆んど無数の山岳の中で、特に私の眼にふれたのは、エンゲルベルク Engelberg の谷の上に、左の一角が切ったてに、まるで船のへさきのように見えたティトリス Titlis, 3239m. と、東にあたってグラールスの谷の奥に、一群のグレルニッシュ Gl※(ダイエレシス付きA小文字)rnisch, 2913m. の山塊であった。そしてウリ・ロートシュトックの連峰も、ここからあまり離れていないだけに、雪の日蔭もはっきりして、ぼんやりと看過ごすわけには行かなかった。
 私はケンツェリに腰かけて、丁度三時間を費やした、アルプの主脈から遠いにもせよ、もう僅かの間に雪の国に別れてしまう私には、燧石ひうちいしの破片のように眺められる小さな氷の山でも、このままに別れてしまうのが惜しまれてならなかった。
 麓の雲の中から鐘の音がかすかに響いて来る、オーベルドルフ Oberdorb かウェッギスの寺の鐘であったろう。私は残り惜しげに、一足下りれば樅の林にかくされる此の雪の山々を、見かえり勝ちに、同じ雪路をカルトバートに戻って来た。もう二時に近かった。ホテルの爺さんは愉快な奴だった。昼飯をすませると又電車に乗って、がたがた動き初めると間もなく、霧の中に帰って来た、カルトバートから下ろした時、下界の人達はあの雲に蒸されて、息がつまってしまったろうと心配していたが、ウェッギスは朝のままの静けさながら、やがてネーベルホルンが遠くから響いて、今朝乗って来た同じ船がフリュエレンの方からやって来た。御客は極めて少い。船は今朝のように深くたちこめた霧中を、ルツァーンの川口に着いた。街にはもう灯がともされている。
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アルプナッハの湖 Alpnacher See




 一昨日の午後、汽車で眺めたサルネンの静かな水は忘れることができなかった。私は今朝汽車に乗って、同じ線をアルプナッハの湖にそうて、サルネルゼーの片ほとり、ザクセルン Sachseln の停車場に降りた。湖水は二日のまにすっかり凍ってしまって、もうの間のような山の姿は映らない。ステインド・グラスのように、封ぜられた湖の上を、低くかすめて二羽の黒鴨が、さびしく鳴いて行くのを見たばかりで、岸は雪の中から生え茂げる、丈にあまるシルフの風に乱れるのが物さびしい。
 ザクセルンの停車場から、湖の岸をぐるっと廻って、北はずれのサルネンの村に来た。雪国の冬にあるような、空は灰色に重く濁って、谷をとりまく雪の山の、裾だけが村のうしろに見えるだけで、ここはあまりに陰鬱な景色であった。停車場近くのレストランで、昼飯をすませて、雪路をぶらぶらと、湖から流れ出る小川に沿うて、北へ北へと歩いて行った。谷は平らに雪に埋もれたその間に、取り散らされた百姓家、牧場の柵の横手には、梨か林檎か果物の木が、枝もあらわに並んでいて、この谷を限る右左はなだらかな丘つづきで、その背には左り手にピラトゥス、右にはシュタンザホルンのピラミッドが、雲の中から見えかくれする。
「●サルネンゼー」のキャプション付きの写真
●サルネンゼー

 私はとうとうケーギスウィル K※(ダイエレシス付きA小文字)giswil まで歩いてしまった。小さな停車場で汽車を待ち合わせているうち、何となく青梅おうめ街道でも旅しているような気がしていた。間もなく着いた汽車に乗って、次のアルプナッハシュタット Alpnachstadt まで行く。
 停車場の小さなブュフェーで、一杯飲みながら新聞を読むと、桜島の噴火のことが二欄にわたってのせてあった。ここからぶらぶらとまた北へ歩きはじめる。村をはなれるとすぐアルプナッハの湖で、ルツァーンの湖水から枝分れするこの水は、ところどころに薄い氷を浮かべて、シルフにつつまれて静かにたたえた様子は、まるで変った感じをあたえておる。街道はすぐ水際に沿うてゆくから、私は時々たち止って、シルフの間に遊んでいる水鳥に手頃な石を叩きつけたり、雪の上に腰を据えて煙草をふかしたりした。対岸の枯木に覆われた小山の上には、シュタンザホルンが近く屹えている。
 思ったより路が遠い。湖水の西側を廻って、石切場の下を通って、きっ立ての岬を水についてぐるっとまわると、湖水は両岸がせまって、川のように狭くなったところに、シュタンスシュタット Stansstadt の橋があらわれた。あまり暢気のんきにぶらぶらしていたので、冬の日はもう黄昏たそがれ近く、水はうす暗くなってしまった。
 橋を渡って、シュタンスシュタットの船つきに行く、桟橋のくいの上にのっかって煙草をふかしはじめる、船は中々なかなか見えない。日はくれかけて、水から抜け出したシュタンスの浮き城が、夕闇の中にうす青く仰がれた、城の名はシュニッツ・トゥルム Schnitz-Turm である。
 この町はエンゲルベルクへ通う電車の終点で、ティトリスの登山にはここから行くのが便利である。その中に船がついた、デックに立つと、さすがに寒い夕風に、ふるえながらも、ピラトゥスの空に消えのこる、オレンジ色の夕やけに見とれていた。船はやはり方々の村によりみちして、静かな山の影を乱しながら、カスタニエンバウム Kastanienbaum の鼻をまわると、遠くちらちらルツァーンの灯が見えはじめて、日はとっぷり暮れて、蒼黒い湖水にゆらぐ四日の月が物凄い。ホテルに帰ったのは八時をとうに過ぎていた。
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ルツァーンの湖水 Vierwaldst※(ダイエレシス付きA小文字)tter See




 ルツァーンの滞在のうちに、もう二月の一日となってしまった。今日も湖水の霧が深くって、散歩も何もあったものではない。ロイスの流れの、湖に一番近いゼーブリュッケを渡って、シュワイツェルホーフ・クェイ Schweizerhof-Quai から、左に曲ってレョーウェン・シュトラーセ L※(ダイエレシス付きO小文字)wenstrasse に行った。今日は生憎く日曜である、気の利いた店はみんな閉って、街の中の見物は何にもならない。つき当りの坂路の右にある、有名な獅子像を見に行ったが、冬の間は氷や雪にきずつけられるから、厚い板でその刻みつけた岩壁は覆われておる、ただ、庭からは、今は凍りつめた池に臨んだ岩壁と、像の上下に彫りつけた、記念の文字を見るだけであった。像はトルワルヅェン Thor-valdsen のモデルによって刻まれた、身長二十八フィートの獅子で、背から脇腹へかけて、槍や矢疵をうけてあえぎながら、前足の下にブールボン Bourbon の紋章たる、百合の花を護っている、一千七百九十二年八月十日、トュイルリー Tuileries の囲みに戦死した、スウィス・グワード、二十六名の士官と、七百六十人の士卒の為に建てられたのである、彼等はフランスの傭兵である、国とか民とか云う特別な考えを度外視して、ただ一言の約束のもとに、屍をさらした、そこに私達には、何とも云えぬうれしさを感ぜしめるのである。
 すぐうしろに続いたグレッチェル・ガルテン Gletscher-Garten も、今日は閉って入ることは出来なかった。デンクマール・シュトラーセから、また湖水のふちに戻って来たが、霧は深し、日曜ではあるし、街をうろついても初まらないから、そのままクエイ・ナツィヨナール Quai-National から、真っ白な湖畔のプロムナードを、宛てもなく東へ東へと歩いて行った。岸にはヴィルラが建てつらねられて、霧の中に折り折り眺められる、樅や唐檜の庭も中々なかなか面白く思われる。街道はやはりルツァーンの湖に沿うて、東の方へ行くらしい。途中で二条に別れていたが、私は左に行ってもよし、又は右へ出てもよし、もしなんならこのままやめにしても差支えはないんだから、ず路傍の石に腰を下ろして、煙草をふかしながらぼんやり考えはじめた。もとより街をはずれると、の雪路の霧の朝に、人っ子一人通らないから、眼をとじてぼんやりしても、行路病者のうたがいはかからなかった。
 私は眠くなって来た。吸いかけの煙草をすてて、首をあげると、前には木立の深そうな丘が、ぼんやり見えて、左の路は峠ごしにメッゲン Meggen の方へ通うらしい。ふらふらとその気になって山越しにかかる。森は思ったほど深くはない、二、三軒の百姓家があって、いやと云うほど犬に吠えつかれた。どこをどう歩いたか、自分にも未だにはっきりしない、ただ峠をこすとそのうちに汽車の笛が聞えて、村らしいのに近づくと思ったら、だらだら路の左に小さなホテルが現われた、右に下りると停車場で、村の名はメッゲンである。
 メッゲンはキュッスナハトの湖 K※(ダイエレシス付きU小文字)ssnacher See の西側にある小さな町で、湖水にそうてキュッスナハトの方へ行って見ようか、それもこの霧では仕方がなし、いっそ汽船を待ち合わせてルツァーンへ引きかえそうか、それも帰ったところで日曜ではつまらない、後で考えると馬鹿馬鹿しいが、今日の旅は随分もちあつかったものである。
 いずれにしても、腹をこさえて上のことと、今来た坂路を戻って、さっきのホテルで、少し早いが昼飯を吩咐いいつけた。空はだんだん明るくなって、ちらちらとキュッスナハトの波をさえ、窓のむこうに見下ろした。私は急に気が変って、食事がすむと汽車を待ち合わせて、ウリ湖畔のシシコン Sisikon まで切符を買った。
 キュッスナハトの湖には、時々霧が渦まいて、湖のふちを行く時も、うす暗い波がちらちらするだけで、すぐ対岸のリギも、ここからは見ることが出来なかった。キュッスナハトからリギの裏を、左の窓からひろびろとツークの湖を見渡した時、恋人に別れて舟をこの夜明けの波にうかべて、

  Aug’ mein Aug’ was sinkst du nieder,
Goldene Tr※(ダイエレシス付きA小文字)ume kommt Ihr wieder,
  Weg du Traum so gold du bist,
Hier auch Lieb und Leben ist,

 と唱った、詩人のおも影が胸に浮かんだ、舟には彼の親友がいた、杯をあげて見まわす湖の、

Auf dem Welle blinken tausend schwebenden Sterne,
  Weiche Nebel trinken rings die t※(ダイエレシス付きU小文字)rmenden Ferne.

 はリギクルムの山々であったろう、今日は霧にかくれて、ただ麓にタンネの森のつづくばかり。
 アルト・ゴルダウからロッスベルク Rossberg, 1583m. の山崩れを左にして、右は低いローウェルツの湖にそうて、シュウィーツ Schwyz に近づくと、霧はれて左にはミーテン Gross Mythen, 1903m.; Klein Mythen, 1815m. が現われた、地層の順序がアルプの山々と全く反対になっているので、地質学者の間にはアルプの波のばっちりと考えられておると聞いたが、何にしても先ずその位の小山であって、登って見たいなんて考えは毛頭おこらなかった。
 ブルンネン Brunnen からルツァーンの湖の枝わかれしたウルネル・ゼーに近く沿うて、午後二時半、シシコンの停車場に着いた。私の今まで乗って来た汽車は、サンゴタールの急行である。
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テルス・カペルレ Tellskapelle




 シシコンはウリの湖水の東岸で、停車場のまわりに散らばった、古ぼけた村である。うしろは急な岩山で、すぐ前にはウルネル・ゼーの暗い水をへだてて、仰ぐようにオーベルバウエン Oberbauen の峰つづきが屹えている。
 小さな旅籠はたご屋に入り込んで、カフェーにありついた。どうも非常に寒い、きたないテーブルには、土方らしい先客がいて、キナ臭い煙草をチューチュー吸いながら、じろじろ私を見ていたが、相手ほしそうに話しかけた、聞いて見ると村の男なんだ、成程今日は日曜だった。こうした話相手も、山国の旅らしくてうれしい。
 村をはずれると、平らな雪路は殆んど直立とも思われる崖の中復に[#「中復に」はママ]、棚のようにかかっていて、右は樅や雑木のしがみついた絶壁の麓に、深くたたえた湖の色は、雪空のせいか、何とも云えず物すごい。路は、いくつも氷柱のぶら下ったトンネルをぬけて、南へながながとつづいてゆく、程なく一、二軒、家の並んだ所に出た、ここがテルス・プラッテ Tellsplatte である。
 私はまだ、ロッシニの序曲オーベルトュールに表われるような、の山の湖の夜明けは知らない。空は薄くもり日の物悲しく、バウエンの峰は雲の下ながら、冬なればクーライエンのメロディーも響かず、フェーンの前の静けさは知るよしもなかった。山はウィルヘルム・テルの背景である。私はたまらなくなって、崖路を千鳥がけに下りて、テルス・カペルレ Tellskapelle の前に立った。水にのぞんだ祠には、木立が深く覆いかぶさって、ウルネル・ゼーの波は物すごく、ざわざわと岸に砕けてはまたよせて来る。堂のフレスコはシトュッケルベルク E. St※(ダイエレシス付きU小文字)ckelberg の筆になった、ウィルヘルム・テルの物語りである。私はゆうべ、ルツァーンの本屋でさがしたシ※(小書き片仮名ル、1-6-92)ラーの詩集を、かくしから取りだして、波の音を聞きながら、また幾枚をくりかえして見た。祠は千三百八十八年の建立にかかる、フレスコは無論十九世紀の改造であった。
「●テルス・カペルレよりウルネル・アルペンを見る」のキャプション付きの写真
●テルス・カペルレよりウルネル・アルペンを見る

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アクセンシュトラーセ Axenstrasse




 ウルネル・ゼーの東岸に、絶壁の岩を砕いて、ブルンネンからフリュエレン Fl※(ダイエレシス付きU小文字)elen につづく、八マイル半の街道は、アクセンシュトラーセの名のもとに、リヴィエラのグラン・コルニシュと共に、欧洲名勝の一つに数えられる。直下はウリの湖である、前にはバウエンの上に、氷河にとりまかれた、ウリ・ロートシュトック Uri-Rotstock, 2932m. の群峰が屹えてる。殊に美しいのは、今、私の立っているテルス・プラッテから、湖水の南端フリュエレンまでの三哩であった。
 街道をまた南へむかうと、さすがの名勝も冬になれば、人っ子一人出会でくわさない、景はますます壮大になって、対岸のロートシュトックが眉にせまる。街道はいくつもトンネルをこえて、上は直立の一枚岩、下は三百六十フィートの懸崖の底に、湖の色がもの凄い。この岩壁はアクセンフルー Axenfluh と呼ばれて、摺曲が※[#「にんべん+權のつくり」、164-11]様のように表われている、岩質は石灰岩である。
 フリュエレンが行くてに低く見えはじめた、そのうしろは三角にそびえたブリステンシュトック Bristenstock, 3075m. が、思ったより近い。然し一番注意をひくのは、マッシーフなウルネル・アルペン Urner Alpen である。暢気のんきにぶらぶら歩いてゆくうち、フリュエレンの見覚えのある、尖塔の下についた時は、冬の日は氷の山に落ちて、湖水の波はもうさびしく暮れた。
 船をまち合わせてルツァーンへ帰る。水の上から見ると、更に驚かれるのは、両側に氷柱のたれ下った断崖である。テルス・カペルレの船つきは沖をすぎて立ちよらなかった。フョルトに似た湖はもう暗くなって、ブルンネンに近づくと、オーベルバウエンの雪の上に夕月が仰がれて、ややうち開いた右手にのぞむミーテンには、それでもアルペングリューンが見える。水には夕の闇がせまって、湖に沿う小村小村の、灯火がまたたき初める。コンコルディヤ・ホテルに帰ったのはもう九時過ぎになって、ルツァーンの街は今宵ももやが深い。
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ツューリッヒ Z※(ダイエレシス付きU小文字)rich




 私はスウィスの湖水のなかで、水の色の一番うつくしいと云われているルツァーンに、なお数日を送るつもりであった。然し冬は湖畔はいつももやが深くって、この辺の旅には、あまり適していないとさとって、近いうちに明るい伊太利亜イタリヤよりの、山の中にむかおうと思った。二月も今日で二日過ぎた。
 ツューリッヒから、二時間ばかり汽車で東に行くと、ワーレンゼー Walensee の湖水がある。私はそこに出かけるつもりで、まずツューリッヒまで汽車に乗った。今日も靄が深く、ルツァーンの町をはなれると、いくらか明るいと思ったが、ロートゼー Rotsee やツークの湖水 Zuger See も、まっ白な中に、水をちらりとながめたばかり、ツューリッヒも同じようで、ユトリベルグ Uetlibberg, 862m. の展望台も、登って見る気にはならなかった。ビュフェーで昼飯をすませて、バーンノーフ・シュトラーセをまっすぐに南にぬけると、ツューリッヒゼーの水際で、アルペン・クェイ Alpen-Quai の左は、リムマート Limmat の水の落ち口に、クエイ・ブリュッケと云うのがある。私はまず橋の上に立った、千九百十年の夏加賀が、ユンクフラウへ登山の途すがら、ミュンヘンからわざわざ携帯に及んだと云う、曰くつきのアルペンシュトックを、何に見とれたか知らないが、惜し気もなく橋の上から落したとある、記念の場所で、思わずにやにや笑いながら、水の中をのぞいて見た、底はアクアマリンを埋めたように蒼く光って、杖らしいものは見ることは出来ない。ビュルクリ・プラッツ B※(ダイエレシス付きU小文字)rkliplatz で山の見取図は見たが、湖は霧の海で、かもめが群れていたばかりだ。アルペン・クェイを西に曲ると、トーンハルレ Tonhalle の前に出る、生憎く今は休業で、惜しむべし、大理石の床の上を加賀がしたたか踏みにじったとある、ネイルドブーツの足跡は、撮影して来ることが出来なかった。
 この調子では、ウァーレンゼーに行ったところで何にもならないから、街の中をうろつき廻って、三時の汽車で、またルツァーンへ帰って来た。ツューリッヒは美しい街である、しかし何処となく独逸ドイツかぶれのした様子から、往来の人間も、何だかスウィスの人のような気がしない、町の人達はベルネル・オーベルラントの者を、バールネルトラッピ Barner-trappi なんて云ってるが、私はそのトラッピが、ツューリヘーゲル Z※(ダイエレシス付きU小文字)rihegel よりも、遥かに有りがたかった。同じ国境に近いにしても、バーゼル Basel, B※(サーカムフレックスアクセント付きA小文字)le よりも、遥かにドイツに似たところが、丁度シェネーフが、全然、フランス風であるのと、同じように感ぜられた。
 同じ線路をルツァーンに戻って来る。霧は更に深い。
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サンゴタール St. Gotthard




 私は思い切ってルツァーンの湖を見すてて、南の旅に向おうとした。二月三日はやはり霧の中に明けて、九時四十七分の急行は、の間と同じ路をゆくのであるが、ブルンネンに来るまでは、ピラトゥスもリギも、どこやらさっぱり分らなかった。
 室にはフランスの老人夫婦がのっている、但し老の字は夫の方だけで、細君は極めて若い、従って窓をあけて見たり閉めてみたり、寒くはないかい、眠いかい、あの景色を御覧と云った調子で、喃々なんなんとしゃべりつづけるのが、もとよりあまったるい仏蘭西フランス語だから、とても聞いてはいられない、それも喃々は老人だけで、奥方は厳然と窓に頬杖つきたまい、ウイとかノンとか簡にして明なるおん言葉、平ったく申せば突っかかるような切口上で、禿はげあたまなんか見むきもしない有りさまは、人妻ながら勇ましかった。
 ウリの湖水は右の窓から眼下にある、ロートシュトックは今日は雲の中で、ブリステンシュトックも、氷の裾をながめたばかり、フリュエレンからアルトルフと、ロイスの谷はだんだん深くなって、アムステーク Amsteg、ワッセン Wassen、ウィンテルベルク Winterberg-Dammastock, 3633m.; Rhonestock, 3603m.; Schneestock, 3608m.; Eggstock, 3556m.; Galenstock, 3597m. etc. etc. の山々も雲の中で、麓の谷に雪をあびた、タンネやフィヒテの森のほかは、汽車から何も見えなかった。
 そのうちにゲョッシェネン G※(ダイエレシス付きO小文字)schenen の停車場に着いた。前に車掌に話して置いたので、着くとすぐレストランに飛び込んで、三品の料理で、名の知れない地酒を空にするとベルが鳴った、あわてて室に戻って写真機を持ち出して、停車場から氷柱の下った崖の景色を二枚撮影した、間もなく汽車が動きはじめる。
 ゲョッシェネンからすぐサンゴタールで、アンデルマット Andermatt、ホスペンタール Hospenthal の村々や、ピッツォ・チェントラーレ Pizzo Centrale, 3003m. の雪の山は、トンネルの中に過ぎて、四万九千百七十九フィートと云う、サンゴタールトゥンネルを南へぬけると、ティチノ Ticino の谷に雪は消えた、アイロロ Airolo の村に着いたのである。
 家の作りは全くイタリヤ風で、もとより冬枯れの谷ながら、ティチノの水をはさむ草原は、雪を見なれた私の眼には、余りに色彩が沈んで見えた。そして草も、木立も、枯葉色のさびしい中に、石を並べた百姓家から、ほそぼそと立ちのぼるけむりの糸も物悲しい。汽車はその流れに沿うた崖の下を、ファイド Faido、ジォルニコ Giornico、ビヤスカ Biasca と、谷はだんだんに広くなって、ブレニオの谷 Valle Blenio を南に走れば、ベリンツォナ Bellinzona の町のうしろに、サン・ミケーレの城跡 Castello San Michele が望まれる。
 ベリンツォナはイタリヤ風の町である。ティチノの流れは、いくつにも浅く枝分れして、マガディノの原をうるおして、ラゴ・マジョーレ Lago Maggiore は西に近いのであるが、私達の乗っているミラノ行きの急行は、河原を左に曲って、再び谷合いに入ってゆく、と窓からは急な山の裾に一かたまり、誰かあわてものが汽車の窓から、喰べかけの弁当と一緒に、落して行ったかと思われる小村小村の間を縫って、やがてルガノの停車場に着いた。
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ルガノ Lugano




 今年の雪は元日のヴェルサイユからついてまわった、パリからリョンの汽車の旅も、フランスの野は一面の綿細工で、スウィスでは無論見ることも出来なかった往来の土の上を、久しぶりに靴で踏むのが珍らしかった。停車場はテレースの上で、ルガノの街と、蒼く光った湖は、すぐ眼の下にのぞまれる。
 私は、同じスウィスでも、もうファッキーノと伊太利イタリヤ語に変った担荷夫トレーガーを呼んで、すぐ下のアードラー・シュタットホーフ Adler Stadthof へ荷物を搬ばせた、テレースからはすぐ眼の下で、サン・ロレンツォ San Lorenzo の高塔が、落ちかかる入日を浴びて美しい。
 私はグランド・フローアの一室を選んだ、驚ろいたのは例の老夫若妻で、私がくわえ煙草で散歩に飛び出すと、ばったり玄関で出会でくわした、何をうろうろしていたんだか。一寸ちょっとあいさつして外に出る。棕梠しゅろの葉の青々したのがうれしかった。
 サン・ロレンツォの入り口で絵はがきを買う、おやじはイタリヤ語しか話せない、幸いにしてクワントと金の勘定くらいは分るから、いい加減にごまかすと、Parlate italiano? と聞きやがった、こっちは逃げ支度、Si, Si. ......Buon giorno! で表に飛び出してしまった。空は蒼く晴れて、町の白壁にみずうみがさえ渡る。丸石を敷きつめた狭い通りを下りて、湖水のふちに出る、対岸はモンテ・サン・サルヴァトーレ Monte San Salvatore, 915m. が水にせまって、少し風立った山の湖には、シャヴァンヌの「貧しき漁夫」に見るような、覆のかかった小舟がいくつも波に揺られている。
 ルガノ・チェントラーレから、ピアッツァ・ジアルディノ Pazza Giardino の緑の蔭を通りぬけて、カムポ・マルツィヨ Campo Marzio の方までうろついた。東側はカスタニョラ Castagnola の鼻でさえぎられて、その上にモンテ・ブレ Monte Br※(グレーブアクセント付きE小文字) がそびえている。くねくねした小路を通って、またルガノ・チェントラーレに戻って来た、今度は西の方に水際にそうて歩きはじめたが、風だって埃がひどいので、パラディソ Paradiso の方までは行かなかった。
「●サンロレンツォの塔とルガノの湖」のキャプション付きの写真
●サンロレンツォの塔とルガノの湖

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ラゴ・ディ・ムッツァーノ Lago di Muzzano




 次の日は大分寝すごしてしまった。モンテ・ブレに行くつもりだったが、御蔭で時間の都合もわるし、頂上のレストランも夏場だけと聞いたので、宿の主人にすすめられて、昼前はムッツァーノの湖水に撮影に出かけた。
 ホテルの前の坂路を、停車場前のテレースに登る、左に丘にそうて、ながながとつづく坦道を歩いてゆくと朝の日はほかほかと、路ばたの葡萄畑にさし込んで、左に見下ろすみずうみには、もやが一はけ、帯のようになすり付けられて、その靄からぬけ出したサンタ・マリヤの塔が、蜃気楼でも眺めるよう。路は岡をこえて北側に下りてゆく。北イタリヤには近いが、ここはさすがにまだスウィスである、ムッツァーノの氷の下で、もう春が近づいた草原の上に、少し持ちあつかった外套をほうり出して寝ころぶと、空はやわらかに、かすみとも見える一はけの横雲がながながとつづく彼方には、枯草の丘また丘のうしろに、雪の山がちらちら見える。風は無い、日はあたたかに刈り草の香をまじえて、ああ旅の中に春が来たなとうなずかれた。何の鳥か知らず、水ぎわに餌をあさっている、そしてうち開いた湖から、氷の割れる音がホルンのように響いて来る。ここは私の好きな山の湖と云う、さびしい感じはあたえなかったが、崩れかけた石屋根や、ニレの木立の上に、遠くなだらかな山の並んでいるのが、もうイタリヤに来たようにうれしい。近所の百姓家のあいだをぶらついたら、野良犬に吠えつかれて、あわてて逃げ出した。
 停車場上の丘を、のそりのそり、下りて来るとすれちがいに、挨拶する男がある、誰かと思ったら昨日の絵はがき屋さんで、いやに、にこにこしている様子が、話でもはじめそうだから、また、ブオン・ジオルノで御免を蒙って、急に、いそがしそうに歩き初めた。ホテルに着くと丁度昼飯である。
 食堂では、若い別嬪べっぴんと小さなテーブルでさし向いにされたんで、みんな羨しそうな顔をして、こっちばかり気にしているから気がひけて、何を食わされたんだか、今もって、覚がないくらいのぼせてしまった、相手がイタリヤの女では、一番ハイカラがったところで、十八番のブォン・ジオルノでははじまらない、御蔭でパラディソの酒がすっかり頭にあがった。成るほど、食べ物のやかましい奴にはの手に限ると、独りで可笑しかった。
 そのうち、無事に食事もすむ、思い入れよろしくあって、一礼に及んで、棕梠しゅろの葉の風にそよぐヴェランダで、シガーを吹かしていると、遠くの方からペラペラっと、何かしゃべった女がある、見ると変てこな婆さんで、失礼何ですかと聞きかえすと、貴下は英国人ですかって云やがった、ははあ我輩の英語も中々なかなか上達したんだなと、自惚うぬぼれた上、なるべく流暢なるイングリッシュで、ワタクシ、日本人、日本人、と答えてやったら変な顔をして、あまり御静かにしていらっしゃるからとぬかしやがった、しからん婆だ、英国人でなければ、御静かでは平仄ひょうそくが合わないと思うのがそもそも癪にさわる、第一、面を見れば、忠良なる大日本帝国の臣民とは、すぐ気がつきそうなものだ。ヴェルサイユではイタリヤ人になった、シェネーフではスペイン人だと思われた、しかし怪我にも英国人と思うなんて、あんまり人を見くびっている、此奴の眼球は碧くって、その上いやに窪んでいるから、安い写真のレンズみたいに、アナスティグマートではないんだろう。自慢ではないが、スウィス仕込みの赤ら顔で、鬚は、いやこれはそそっかしい女だから、気がつかなかったなんてぬかすかも知れないが、一歩譲っても、髪の毛は赤くもきいろくもないんだ、そうだ、此奴は色盲に違いない、なんでも病気でリヴイェラに転地にゆくと云ってるから、大方、南欧の気候が色盲によく利くんだろう。
 私はいい加減に失敬して、街はずれからフニコラーレに乗って、モンテ・ブレの頂上へ行った。空は名ごりなく澄み渡って、西の空にモンテ・ローザが屹えている。つづいて見えるのはワイストール Weisstor, 3580m. で、マッターホルンは見当がつかない、カフェーの女に聞いたが話しが通じない、やがて持って来てくれた見取り図を見ると、あったあったワイストールの左に、小さい槍の穂先だけぬけ出しているんだ、山の名はモンテ・チェルヴィノ Monte C※(アキュートアクセント付きE小文字)rvino、マッターホルンではわからないんだろう。私はルガノが、これほどまでもイタリヤ化していようとは思わなかった。
 ミシャーベルやシュトラールホルン Strahlhorn も見えるけれど、何と云っても、立派なのは、モンテ・ローザである、ピエモン Piedmont のグランデ・パラディソ Gr. Paradiso が見ているうちに横雲の上に表われた。此等の山々はここから真西に当るけれど、冬の日はずっと南に沈むから、夕日にもなおはっきりと望まれる、距離はやっと十五里ぐらいなものであろう。いろいろに入り組んだラゴ・ディ・ルガノを取りかこむ、冬枯れの山々のうち、やはり立派なのは、対岸のモンテ・サン・サルヴァトーレである。頂上のホテルもはっきり見えたが、冬の間は電車もなし、汗を流すほどの山でもないから、再遊の折にゆずって、割愛してしまった。南には、湖に渡すポンテ・ディガ Ponte Diga を通る、ミラノ・エキスプレッスのけむりが見下ろされる。そして水にはくっきりと、山の片影が映っている。頂上のレストラントには物見の塔がある、後は入うみが奥深く、モンテ・ブレンツォーネ Monte Brenzone の向うに、湖のつき当りは、東側のコモの湖水の境となる、モンテ・ガルビガ Monte Galbiga, 1697m. や、トレメッツオの山々 Monte di Tremezzo で、この辺にはもう雪は殆んど見えない。
 夕日の沈む頃、ホテルに戻って来た、困ったのは晩餐である。
 昼の女は帰ってしまったと見えて、テイブルの御相手はさっきの婆さんだ。御一人なんですかと変な顔をしているが、例のを連れだと思ったんだろう、それで御静かの意味が了解された。婆さんは英吉利イギリス生れだから、イングリッシュとホームメードが鼻について、気障でやりきれない。日本は同盟国だとか何とか云って、時々御世辞をつかってるが、そんな甘手にのる奴は、山登りなんかに来るもんか、全体英国と云う国は、ろくに高い山もないくせに、いやに威張って外国人を科の異なった動物あつかいにするから癪にさわる。日本にも近頃よくある奴だが、わたくしは同国ですとか、あれは他府県の者だとか、やれ県人会だ町人会だと、騒ぎ立てるのが滑稽だ。
 婆さんは、何とかの大学を卒業したとかしないとかで、独逸ドイツに何年いて、フロリダに何年いて、今は露都で教授を商売にしてると、聞きもしない事を白状した。先生だけに口は中々達者だが、惜しいことには山のことは何にも知らない。退屈で退屈で閉口しているのに、人の気も知らないで、しきりに雄弁をふるっている、これでなくては先生は勤まるまい。よくは聞いてもいなかったが、人間には宗教が必要で、宗教は耶蘇ヤソ教で、耶蘇はプロテスタントに限る、だからわたしが一番えらいんだと云うようなことを、ながたらしくしゃべってる。私は宗教が、山登りのアルペンシュトックほど必要だとは知らずにいた、出来るだけ話をそらして、ユンクフラウの美を説き、ラウテルブルンネンの夕を語っても、こう凝り固まった宗教婆さんには、馬の耳に念仏ほどの効果もない、或いは向うでもそう思ってたかも知れない。今迄宗教と幼年監は、罪の子にだけ必要なんだと思ってたが、婆さんの説によると、人間は御互いに罪の深いものなんだそうな、御互いはどうも人を馬鹿にしている、第一みんなが皆罪人ならば、帳消しでもう罪でなくなりそうにも考えられるが、そうすると婆さん飯が食えなくなるから、それこそ一番の罪悪となるとは、素人にもすぐ了解された。何でも妾達のように、山にも登らないで、御宗旨をひろめていれば、福徳円満と云ったようなことをしゃべっていたが、婆さんの顔は角を抜かれた般若はんにゃみたいで、そんな立派な御面相では決してない。とどのつまりが、そして貴下の御宗教はと来た、先祖代々の御寺は定林山宝安寺、何んでも曹洞宗なんだけれど、翻訳しように困ったから逃げ身にかまえて、宗教はヤマト・スピリットです、では失礼をってんで、ヴェランダに逃げだしてしまった。モンテ・サン・サルヴァトーレの上に銀河が仄白ほのじろく、足もとにパラディソの街の灯が美しい。
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ポンテ・トレーザ Ponte Tresa




 眼ざめると、窓には一杯に日がさし込んで、ちょうど秋晴れと云ったようにのんびりする。カーティンをあけると、庭の蝋梅ろうばいが咲きはじめて、今日も蒼空が澄みきっていた。寝すぎたも寝すぎた、顔を洗って飯をすませると、十二時七分の電車に、半時間とは暇がなかった。私はこれから、ラゴ・マジョーレに行くつもりである。電車はすぐ上の丘から出て、境のポンテ・トレーザまで通じているから、そこからイタリヤ側の鉄道に乗りかえて、ルイノまで行くのである。
 電車は私一人をのせ、間もなくルガノをはなれた。昨日の朝寝ころんだ、ラゴ・ディ・ムッツァーノのふちを廻って、サン・サルヴァトーレの丁度うしろの、うち開いた谷の間を走ってゆく。そこここには、小さな家が散らばって、枯草の間には、低い石垣でしきられたつるばかりの葡萄畑、ニレの木立の向うに、古い会堂の塔などの見える村路に沿うて、三十分ばかりごろごろ走ると、ポンテ・トレーザの湖水のふちに停った。荷物を残して置いて、ステッキをふりながら、小さな村路を湖水について歩いてゆく。この辺では独逸ドイツ語はまるで通じないし、ポンテ・トレーザの橋むこうは、隣り村のイタリヤで、橋のまん中に、国境のポストが立ててある、そしてそのたもとには、交番みたいな番小屋があって、御互いに余り強そうに見うけられないおもちゃ見たいな兵隊さんが、それでもしかつめらしく、鉄砲かなんか持参に及んで立ち番をしている、私はのそりのそり橋を渡ってイタリヤに入って行く、何か云うかと思ったが、てんで気にもとめない様子だ。
 ポンテ・トレーザの湖は、ラゴ・ディ・ルガノの入りうみのようになっている。電車は三時の発車で、まだ大分間もあるし、周りも大して広くないから、湖水を一周りしようと思ったが、乗り遅れると馬鹿馬鹿しいからやめてしまった。村はずれの湖水のふちの草原には、この温さにも雪がまだらに残っている、私はその枯草の上に外套をほうり出して、ビスキットをかじりながら、寝ころんだ。風は少しもなく、小春日のようにうららかで、湖を取りまく山々や、トレーザの村の白壁がはっきりと水に写っている、すぐ向うの山の陰が、サン・サルヴァトーレで、モンテ・ブレからうしろにつづく山々が望まれる。あおのくと、これもみずうみのように、静かに澄んだ大空に、昼の月影は仰がれた。
 すっかりいい気持ちになって、うとうとしてしまった、何だか自分のうちのつい近所でも散歩しているようで、パンの食べかけを犬にやったり、口笛をふいて見たりするうちに、もうそろそろ時間だから、橋を渡ってもとの停車場に戻って来た、すぐ前のカフェーで絵ハガキをしたためてると、遠い街道をゆくから車が湖を渡ってひびいて来る。
 そのうち、駅夫がカフェーの窓をのぞき込んで、それではまいりますと云うから、電車が出るのかと思って身仕度をすると、奴は荷物を手車にのせて待っているんだ、なるほどルイノ Luino 行きは、隣りの村のイタリヤ側から出るんだった。車のあとにくっついて、例の小橋にやって来ると、今度は兵隊さんに呼びとめられた、そこで往来の真中で、税関の検査がはじまるわけなんだが、大した荷物でもないので、御目こぼしにあずかった。さっきは気がつかなかったが、湖水に沿うて、っぽけな停車場がある、ここから汽船がルガノへ行くと見えて、立て札のくいに太い曳き綱が捲きつけてある。どこからとなくピアノが聞えるが、いくらイタリヤだって、停車場でピアノを弾く奴もないもんだと思って、待合室をのぞき込むと、板敷の真ン中にスタンドピアノを据えて、一生懸命で調律している奴がある。なる程イタリヤだなあと感心して中に入ると、駅長殿をはじめとして、電車を待ってる連中が、輪になって見物しているんだ。室は湖に行きぬけで、水際には舟つきの太い棒杭がつっ立っている。周りの壁には、広告のビラがかけられて、ブリュッセルの大博覧会としてあるから、変だと思ってよく見ると、千九百十一年としてある、この調子ではぶらさがってる時間表だって、何年前のか知れたものではない。果して三時は過ぎてしまった、三十分ばかりたつと、ころころっと可愛いらしい物音がして、何がやって来るのかと思ったら、おもちゃ箱みたいな汽車だった、しかもおもちゃにしては薄きたない。電車だとばかり思ったら、これがルイノへ行くんだそうだ。
 御客は私を入れて七人きり、さっきの電車は、二、三等にしきられていたが、今度は、一、二等と記されている。が、どうせ二つにわけるなら、いっそ七、八等とでもしたらよかろうと思われるくらいで、きたなさに於ては、足尾の鉱山鉄道だってこれ程じゃあない。
 そのうち、ぷーっと変てこな笛を合図に、汽車がのそのそ動きはじめる。トレーザの川を流れにそうて、雑木林の谷の間を縫ってゆくと、沿線には、どう云う気か知らないが、兵隊さんがうろうろしていた、枯木の丘が少し開くと、遠くスウィス境の雪の山が見えて、やがて間もなく、車はルイノの町に入る。ここはラゴ・マジョーレの東岸にあって、夕日にむかう向う岸は、もうそろそろかすみだって、カンネロの浮城が夢のように淡い。
 私ははじめ、ルイノに一泊のつもりでいたが、日はまだあるし、ここは見たままの船つきだから、すぐ前に横づけになった汽船に乗って、ラゴ・マジョーレの水に浮かんだ。北は、ると見渡される水の果は、ロカルノ Locarno の丘をこえて、スウィスの雪が望まれる、湖の半面は山の影になって、もううしろになった常緑樹のルイノの町に、サン・ピエートロの高塔が、入り日を浴びて美しい。
 船はさっきルイノの沖に、遠く望まれたカステリ・ディ・カンネロ Castelli di Cannero を右に見て、対岸のカンネロによりこんだ、この浮き城はそのむかし、マッツァルダ Mazzarda の五人白浪の巣になっていたと伝えられるが、こうした昔語りも、さすがはイタリヤである。今は住む人もなく崩れ落ちて、夕日の波に洗われている。
 船は西側の小村小村により路して、最後に、また湖を横ぎって、ラヴェノ Laveno の街に着いた時、もう日はとうに沈んで、空と波は、一と色にぼうとかすんで来た、私の行く先は対岸のパランツァであるが、ここの船つきに小一時間またされた。
 船のへさきに何気なく出ると、西の空は湖の果に、オレンジ色に染められた残んの夕空に、一座の大山岳、頂は五つに分れてマッシーフな、一と目見てそれと知れた、モンテ・ローザの英姿である。
 夜は八時をすぎて、やや膚寒むの湖を、なかほどまではその山の頂を仰ぎながら、西にむかえばイントラ Intra の街の灯が水にゆらめく岬をまわると、サン・ジォヴァンニの小島の陰に、パランツァの灯火が望まれた、すぐ湖ぎしのホテル・ベルヴューに宿をとる。
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ラゴ・マジョーレ Lago Maggiore




 窓一面に、朝日は今日もさし込んで来る、湖には淡いもやがたなびいて、水に浮かぶ島々は、常緑木の森がまっくろに、指されるが、対岸は岸にせまった山の裾がうっすらと、その靄よりやや白く、ストレーサ Stresa の町の白壁が、水ぎわに並んでいるのを見たばかり、みずうみの色はブルーにさえて、朝空の如く静かである。
 北イタリヤで一番大きいラゴ・マジョーレは、南北にのびて長さ三十七マイルと云うが、今、私のいるパランツァ Pallanza は、西に分かれて入りこんでいるから、昨夕、船から眺めたような、ひろびろとした景色はのぞまれない。羅馬ローマ人の呼んだラクス・ヴェルバヌス Lacus Verbanus の、北に延びた一部は、今はスウィス領になって、カントン・ティチノ Kanton Ticino に属しておる。湖水の南方は全部イタリヤ領で、その方面の山はなだらかに、水ぎわに沿うてますます低く、ロムバルディアの平野につづくのである。私はまだ北端のロカルノは知らない、従って緑の水と呼ばれているその景色に対して、一言も云う資格はないけれど、ルイノから望んだ景色から想像すれば、ラゴ・マジョーレの最も美しいのは、パランツァの沖、ことにそこに浮く、イソレ・ボロメエ Isole Borromee の島々であろう。
 ホテルの前の船つきには、棕梠しゅろやコルデリネの繁った花園がある。朝のうちは左のだらだら路を上って、昨夕まっくらな水を渡ったプンタ・デラ・カスタニョーラ Punta della Castagnola の岬を廻って、碧の水に白壁の浮く、イントラの街までやって来た。薄手ながら外套を着ていると暑すぎる。岬には常緑木がまっくろに覆い茂って、すぐ下の小島はサン・ジォヴァンニである。パランツァのうしろは、モンテ・ロッソ Monte Rosso, 693m. の丘つづき、村の半分は狭い石だたみで次第にテレスにのぼってゆく、そして一かたまりの白壁の、村の間から、ぬけ出した、サン・レオナルド San Leonardo の白塔が、西の空に雪をかずいた、ワイスミス Weissmies にむかい合う。
 低く水に這っていた朝もやは、もう温かい日に溶けて、ラヴエーノの沖に、水みちが※[#「にんべん+權のつくり」、186-10]様のように美しい。
「●ラゴ・マジョーレ」のキャプション付きの写真
●ラゴ・マジョーレ

 昼過ぎに小舟を雇って、ボロメエの島めぐりに出かけた、岸をはなれると、すぐ船頭のかいをとって、久しぶりにこぎはじめる、パランツァの街はゆるく流れる波に揺れて、カムパニヤのマドンナの手にとるばかり岸に近いうしろには、冬枯れの山に野火のけむりがゆるやかに立ち登る。西は枯れ葉色の山また山の、空にぬけ出たシムプロンの雪の上に、カステロか、前山の左に見えはじめたのは、モンテ・ローザの尾根つづき、蒼空にきざみこまれた、氷の牙が眉にせまる。舟はゆるく揺れ、ゆるく動いて、南の小島につながれた。島はイソラ・マードレ Isola Madre である。
 私は写真機をぶら下げて、岩の上に飛び移る、船頭は、やっとなと、櫂をおさめて、のそのそあとにつづいて来た。石門の鐘をならすと、石だたみのだらだら路を、白髪あたまの爺さんがやって来て、門を開いて案内する、島はやっと六町歩に少しもある小島ではあるが、月桂や泰山木に覆われた森の間に、セイゴ椰子やしやリヴィストナの茂っているのがうれしかった。庭はことごとく亜熱帯の密林で、椿、夾竹桃きょうちくとう、コルクがしわ、などにまじって、ミモサの花の香が、リヴィエラの春を憶わせた。キプレススやツェドルス・アトランティカ Cedrus atlantica、セクォイヤなどの大木も珍らしい。島のまんなかにパラッツォ Palazzo がある、そのすぐそばのオランジェリにオレンジがっているが、こればかりは露地ではうまく生らないと云うのが不思議でならない。庭の芝原には、ところどころにまだ雪が残っている、今年は寒さがひどくって、珍らしく一週間前に積ったんだそうだが、それにしても、とにかく雪がつもるようなの気候に、青々と生い茂げるココスや、セイゴの椰子の樹の高さは数米突メートルに及んでいる。
 船に戻ってなお南にこぎだすと、ストレーザの沖にまだ二つの島が見える、私達は右側から廻りはじめた。島には小さな家が重なり合って、真中に古い教会の尖塔が見える。岸の岩の上には、島の女が歌を唱いながら洗濯している、水際にさらした網にかげろうがもえて、水草の香のただようのもさすがにもう春である。舟はこのイソラ・デイ・ベスカトーリ Isola dei Bescatori をはなれて、すぐ隣りのイソラ・ベルラ Isola Bella についた。ここもボロメオの伯爵家に属していて、西むきには、十七世紀に建てられたと云う大きな城跡があって、東側の常緑木にのぞんだテレースの上には、いろいろの像をのせた石屋根が陰見する。木立は亜熱帯の常緑樹で、ツェラスス、ラウロセラススのなめらかな緑にまじる、マグノリヤの裏葉が美しかった。
 私はここを一周りして、すぐ向う岸のストレーサには寄らずに、平らな波の上をすべって、イソラ・マードレを左に、パランツァにこぎ戻った、岸はすぐそばに見えて中々なかなか遠い、船はゆらりゆらり、のんびりした水をわけて、無理やりに動いてゆく、右はラヴェノや、チェルロの岬が水にせまって、その山上の一つ家と見えるのは、サンタ・カテリーナ・デル・サッソ Santa Caterina del Sasso の尼寺である。
 日は次第に傾いて、シムプロンの雪の山は、斜めに日を浴びた氷の尾根が、空にぬけ出ているだけで、ああ、今日の日はもう暮れてゆく。
 サン・レオナルドの白塔が、残んの日にかがやいていた。
 私はこの雪の山を見おさめにして、もう山の湖に別れなければならない。楢の落ち葉は、アルプの雪とともに、ながく夢に通うことであろう。次の日は、うみ岸の靄の中を、なごり惜しげに見かえりながら、パランツァ・フォンド・トーチェ Pallanza-Fondo Toce から、ストレーサの岸の湖にそうてミラノに向った。
 根なし雲のただよう山ふところの小村は、もうただ夢に見るばかりである。
……千九百十四年一月七日より二月七日
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コモの湖 Lago di Como




 旅のうちに、いつのまにか、春はなかばを過ぎてしまった。
 数えると、もう先々月になるが、あの朝、北イタリヤのパランツァから、ラゴ・マジョーレの、もやに沈んだボロメエの島々を見かえりがちに、ミラノへ着いたのは二月七日の昼すぎで、今まで、眉にせまったスウィス境の氷の嶺は、もうなだらかな丘に、そして、そのながながと、湖水をめぐる冬枯の丘も、次第にうしろになって、枯草の原に重く滲じむ、灰色の空のロムバルディヤは、南欧とは思われぬくらい旅人の心も重い、まださすがに冬のまなかであった。
 靴さきに、かさこそと鳴る楢の落ち葉も、もう幾年か経ってしまったように心細い。ミラノに着くと、たまらなくなって、まだあの雪の国がなつかしさに、せめて「モーダン・ペインタース」の挿し画にある、「夕日のモンテ・ローザ」を眺めようと思って、停車場に近いホテル・シュミットに荷物をほうり込むと、すぐその足で、コルソ・ヴェネーツィヤの人波を押しわけながら、イル・ドゥオモ Il Duomo へやって来たが、白塔はもとより煤煙に包まれて、入日の雪は、今日は見ることができなかった。その帰りみちに、久しぶりに寄り込んだ、テヤートロ・アラ・スカラのパルシファルも、背景の白樺と、遠山の雪が胸に沁みて、ホルンとチェルロのウニソンももの悲しい。
 そのミラノから、南、ジエノーヴァ、ヴエンティミリヤと、だんだん山に遠ざかるのが、リヴィエラの春ではあるが、心細かった。謝肉祭カルネヴァルの花祭りも、レマンの湖畔モントルーの、ナルツィセン・フェスト Narcisen-Fest ほどに興をひかない。モンテカルロから、モナコ、ニスと、地中海の碧い波を見下ろして、グラン・コルニシユの街道を通っても、ルツェルンの湖畔、アクセンシュトラーセの夕暮ほど、うれしいとも感じなかった。カンとグラースで、またカルネヴァルを見て、アンティヴ Antives に行くとき、ミモサの花の梢に、遠く雪の山脈を望んだが、あれはアルプ・マリティム Alpes Maritimes であったろう。それからまた山に離れてしまった。
 マルセイユから、地中海に沿うて、バルセローナへゆく時、ひろびろと右につづく平原の、丘また丘の西の極に、ピレネー Pyr※(グレーブアクセント付きE小文字)n※(グレーブアクセント付きE小文字)es の雪を眺めたが、シーズンは過ぎているので、近づいて見る気にもならず、ピレネー山岳会へ宛てた紹介状も、無駄に、握りつぶしてしまった。
 大正三年三月三日、春風を追い手に、トラファルガーの海を渡って、スペインの南の端カデイスから、モロッコのタンジエ Tangier へゆく船の上から、北アフリカの岸につづくアトラス Atlas の連山を望んだのも、ジブラルターから、また、スペインの内地へ帰って来たとき、グラナダの、かすみに眠るアルハムブラの城の上に、ながながと横臥おうがす雪のシェラ・ネヴァダ Sierra Nevada も、アルジェリヤのオランから、サハラのオアシスへむかう途中、風通しの悪い汽車の窓から、すぐ近くに眺めて越えた、雪に覆われたアトラスの山々も、またはティレノの波に浮かぶ、シチリヤの島の雨雲に、茫然とエトナ Etna の裾をながめたのも、みんな、旅のなかに画かれた、美しいミラージュに過ぎなかった。
 ヴェスーヴィヨ Vesuvio は別に云うほどの山でもない。ナポリ、ローマ、ピザ、フィレンツェと、イタリヤの春はむなしく明け暮れて、山を憶う旅人の心も、しばらく雪に離れてはいたが。
 そのフィレンツェのことである。
 朝空はうららかに晴れわたって、ゆうべの雨にしっとりと塵も静まった、ピャッツァ・シニョリナから小路を出ると暢気のんきそうに白雲の行ききするアルノの橋を渡って、花園の月桂や、ミルトゥスの間をぬけて、パラッツォ・ピッティ Palazzo Pitti の露台に立つと、北に雪をかずいた遠山を、のどかに浮かぶ地平線の、霞の上にながめたが、あれはガルダに近い、国境の山々であろう。そのかたちは、もう忘れてしまった。
 ボロニヤから、ヴェネツィヤに来たけれど、物語りの多いこの水の都さえ、アルピの雪を憶う旅人を、ながくひきとめる力はない。春の水は、ゆるくめぐるカナールグランデの、水楼に暮らした幾日の、水の香につつまれて、ふと眼をさます暁方あけがたも、または、アヴェ・マリヤの鐘の音に、静かに暮れてゆく夕方も、今、眼を閉じて想えば、涙の滲むほど、なつかしくはあるが。
 こうして、大正三年の四月十四日となった。春の話は次第に山に近づいてゆく。
 私が、あの朝ゴンドラで、ピヤツェッタから、磯臭いカナールの水に浮かんで、フェロヴィアリヤの停車場へ行ったのが、九時過ぎであったから、シルミオーネ Sirmione の小島のかげに白帆の眠った、ガルダの湖ぎしをまわって、ヴェローナに着いたのは、ちょうど昼ごろであったろう。ガルダの水はなめらかにうす霞んで、若草の牧に、崩れのこる城跡をかこむ落葉松や、その草原を、うねうねとのたくる小川の水に沿うた、ポプラの緑の間は、スモモの花が仄白ほのじろく咲いて、そのやわらかな、春の野を前景にして、眼の及ぶかぎりはティロール境の山々が、あると思えばうっすらと、氷の嶺が、のどかに包む霞よりは、やや白く浮き出していた。
 私はそのまま、ミラノを素通りにして、ルツェルン・エキスプレッスに乗りかえると、このコモまで来てしまった。
 羅馬ローマのラクス・ラリウス Lacus Larius はコモの湖で、イル・ラリヨ Il Lario とも呼ばれておる。アルピ Alpi の、南をめぐる北イタリヤの湖水のうちで、殊に美しいと称えられるこの湖は、北は一つ、南は、右ひだりに枝分れして、ちょうど、琴柱の形をしている、そのまんなかにはさまれた岬はヴェラージオで、コモの町は、西南端で、ミラノからとっつきにあたる。
 町に着いたのはまだ日の高い頃で、うら寒い風に吹かれて、白樺の若葉のそよぐ、山また山の折り重なった脚もとに、ぴかっと光るみずうみを下ろした時、今まで、南欧の旅に見ることもできなかったなつかしさを、深く感じたのである。迎いに来ていた自動車で、古ぼけた町をぬけて、ピヤッツァ・デル・ドゥオモへ出ると、まもなくグランド・ホテル・プリニウスに着いた。
 室がきまると、すぐ窓を明け放してみずうみにむかう。コモの町は湖水のとっつきで、両側の山が急にせまって、水は池のように、ちいさく入り込んだ、南の端を見るだけで、何だか鼻がつかえるような気がしたが、その、冬枯の木立もまじる山の裾に、雪の象徴シムボルとおもう白樺の幹の、まともに、雲透きの夕日をうけた美しさ、岸の落葉松には、霧を吹っかけたように柔かく緑が萌えて、水に沿うたヴィルラには、石楠木しゃくなげがもう咲きかけている。
 北イタリヤはまだそれほど人ずれていないし、――もっとも、人ずれているの居ないの、気持ちがいいの悪いのと云っても、日本人なんか余り大きな顔は出来ない方で、南イタリヤやスペインよりは、京浜間の汽車の方が、掏児すりみたいな眼つきの奴が、遥かに多いようだが、――かく、南方よりは人間もよほどすれていないし、二百から室のあるこのホテルも、冬の間は休業で、つい二週間前に開いたばかり、御客と云うのは、ミラノから来た英人の一家族だけだから非常に静かだ、これは娘の病気あげく転地に来てると云ってたが、御茶をヴェランダにはこばせて、庭のアベーテの枝ごしに、ちらちら光る湖を見下ろしたとき、テルラッツオのソーファにりかかった、すき透るほど色白なのがそれなんだろう。
 庭には大理石の像のうしろに、カラタチの花がまっしろに咲いている。私はその下を通りぬけて、庭口から湖水のふちの舟つきに沿うて、ピヤッツァ・カヴール Piazza Cavour へやって来た。
 ブルナーテ Brunate, 716m. とモンテ・デラ・クローチェ Monte della Croce, 535m. にはさまれた、コモの町はまるで、谷底で、ただ西につづく、サン・ジオルジオの方へ来ると、ピヤニ・ディ・ブルナーテの裾が少しひらいて、プンタ・ディ・ジェノのはずれにややひろく、湖水の沖がのぞまれる。公園は、無論、立派なものではないが、水際に植えた、七葉樹ヒッポカスタノの若葉が美しく、二十年ぐらい経った公孫樹や、楓が珍らしい。時々しめやかに小雨が降る。ホテルに帰って、ヴェランダのイージーチェーヤに倚りかかって、久しぶりで落ちついて、新聞や雑誌を読む。こうして今日は暮れてしまった。夜は花曇りとでも云いたいおぼろ月に、向う岸のサン・ジオルジオの灯火が、星のように望まれた。
「●コモ」のキャプション付きの写真
●コモ

 あくる日、眼がさめたときは、靄がしっとりと窓にせまって、庭のアベーテは、梢だけ墨絵のように、浮き出して見える。起きても仕方がないから、また床にもぐり込んだが、それも、朝飯デジューネーの頃には、しとしと小雨が降りそそいで、いやにうすら寒いから、手紙を書いたり煙草をふかしたりして、朝のうちはつぶれてしまった。
 そのうち雨も小やみになって、町の中を散歩するうち、空もよほど明るくなって来た。
 正午、すぐ庭につづいた埠頭から汽船に乗ると、雨はもうあがって、いつのまにか蒼空を見る。コモをはなれると、すぐ甲板の食堂に出て、カプリ・ロッソを飲みながら、水にせまるジェノの鼻をぐるっと廻ると、モンテ・ビスビノ Monte Bisbino, 1323m. の山頂に、四条の残雪が、きらりと船の帆柱に近く仰がれる。
 船は春風の小波さざなみに、なだらかな水みちを残して、チェルノッビヨ Cernobbio、トルノ Torno と、右ひだりに寄り路して、北へ北へと動いてゆく。水に沿うて、または両側の森の間には、いくつも別荘ヴィルラがあって、湖水に臨んだテルラッツオには、覆い茂ったチプレッソや、チェードロの常緑樹の蔭に、眼のさめるような石楠木や、藤の花が盛りである。ローマで見たときも、カプリの宿の窓ぎわに咲いていた時も、藤の花は、日本で見るより遥かにいいと思ったが、ああ云う房咲きの花は、白壁か、大理石の柱にからませて、横から眺めて然るべきで、亀井戸かめいど――私はまだ行ったことはないが、写真で見ると――のように、竹や丸太棒の棚作りにしては、横から見ても仰のいても、花の美しさは完全に利用されてるとは思われない、同じ棚からたれ下るにしても、ペルゴラにした方が、遥かにうつりがいいと思う。北イタリヤ、殊にこの辺では、此ごろ大分、日本式の庭園や植物に興味をもって、ジャルディノ・ジャポネーゼなんて、名のりをあげてるのが少なくないが、矢張やはり日本に於ける洋式庭園と同じくで、すこぶる変てこなのに感心してしまう。出鱈目でたらめな石っころを三つ四つ並べて、石灯籠と公孫樹があれば、日本式庭園になるところは極めて、簡便で、なる程、流行の要素は、簡便にあるとつくづく感心した。兎に角、名前だけは立派なもので、ペデカーの案内記にまでのせてある奴が、素人が見ても、がっかりするような庭ばかりだ、もっとも名前だけ立派なのは、何でも近頃流行と見えて、アルプスがいつのまにか日本に移転をして、この頃は、四国、九州を始めとして、たしか、奈良県にもつい此の間、出張所が設立されたそうに聞き及ぶ、そのうち、いずれどこかの有志者が寄ってたかって、日本ヒマラヤや、ジャパニース・アンデスをこしらえるに違いない。長生きはすべきである。
 西岸のアルジェニヨへ来ると、はじめて湖水がひろびろと見わたされる。右につき出たベラージオの岬の、水にのぞんで、白壁の家が、緑のなかにちらちら望まれるが、船はまだ、両側の小村小村に寄り路をして、ようやくそこに着いたのは、三時過ぎになってしまった。
 グランド・ホテル・ベラージオは、水に近い綺麗な宿で、室の数も二百五十からある。私の選んだ室は、ちょうど、岬のとっさきにつき出した二階で、花園と、碧の水の北のはずれに、スウィス境の雪の連脈が、霞の上にのぞまれる。花園はヴィルラ・セルベロニへつづいて、それもホテルに属しているが、一まわりするのに、二時間もかかると云うから、それは明日にのばして、御茶がすむと、町はずれの湖水のふちに、覆いかぶさった森の中に、しっとりと露を含んだ小路をぬけて、サン・ジオヴァンニの知人を訪ねに行って、夕方まで遊んで来た。ヴィルラ・トロッティは閉っていたが、土地の人達の案内で正門をあけてもらって、入ることが出来た。花盛りの石楠木や薄紅に咲きはじめたアゼレヤの間には、月桂やリヴィストナが茂って、泰山木マグノリヤの柔革のような裏葉が、緑のベトゥラに混っているのもうつりがいい。私達は石階の獅子像のそばに腰かけて、持って来てくれたサン・ジオヴァンニを飲んだ。
 湖の空は、いつの間にかあやしく曇って、西北の風に、椰子やしの広葉が鳴りはじめると思うと、まもなく大粒な雨が、まっしろな水路をつけて、暗い湖水を渡って来た、が、このサン・ジオヴァンニの方へは寄らないで、レノンの沖を、雨雲は、西南へ流れて行った。波は黒く岸にうちつけて、日はとっぷりと暮れかかる、みんなに別れて宿に帰ると、ヴァレンナの灯火がちらちら光って、湖水の波音は、高く室に響いて来た。風はなかなか止みそうもない。
 昨宵の雨はとうに上って、窓からは、からりと晴れ渡ったみずうみの北に、雪の山々は仰がれる。花園には七葉樹の若葉が、眼がさめるよう、紫にからんだパリサイドの藤の蔭には、石楠木が臙脂えんじのように燃えて、牡丹や木蓮が咲き乱れた、コモの春は今が盛りであろう。
 ベラージオの町は、岬のとっさきに建てられて、坂路の石を敷きつめた小路に沿うた白壁の家が、みどりの水と、蒼空と、それを囲む遠山の、スウィスの雪に対いあう。そして町のそこここには、アベーテやチプレッソがまっくろに茂って、会堂の鐘の音も、その木立の中から、湖上に遠く鳴り渡る。
 朝のうちは庭づたいに、ヴィルラ・セルベロニの花園を歩きまわる。リヴィストナなども、露地に茂っているくらいだし、四月なかばに藤が盛りだから、東京よりは温かいには相違ないが、冬の頃は、近くの山に、今でもまっ白に雪が残るくらい降るのだから、こう云う樹木はあるにしても、そう大して暖かいとは思われない、ただ日本のように空気が湿ってないから、暑さ寒さが温度ほど、人間の身体に感じないだけだ。何ぞと云うと、日本は気候がいい、陽気がいいって騒ぎたてて、小学校の教科書にまでもやれ暖流がどうで、島国的気候だからどうだとか、いやに世間見ずの自慢ばっかりするけれど、なる程、大陸的気候でも、蒙古や満洲辺に比べたら、いくらかましかも知れないが、夏のじとじとする蒸し暑さと、寒い中のぴゅうぴゅう吹く空っ風を考えると、所謂いわゆる大陸気候と、どれ程の差があるのか見当がつかない。島国の名物と云うは、年中じめじめ湿っぽくって、かびっ臭い畳表でも云うんだろう、写真の鏡玉に黴が生えたのと、二度レウマチにかかったんで、国の陽気にすっかり愛想がつきた。第一考えてもわかる。上着は一といろで沢山たくさんな筈だのに、夏服に、冬服に、間服なんて馬鹿なものまで必要な国が、気候のいい訳がありよう筈がない。この辺で夏の盛りに、や、どうも暑いですなアと云う意味は、日向ひなたで余り働くと、汗が滲みますよって注意なので、あんまり働かない連中は、てんで汗なんか知らずに済む。麻の一重で尻までまくって、おまけに扇子とハンケチをちゃんぽんに使って、それでもだくだく汗が流れるような篦棒べらぼうな暑中や、夜具みたいに綿の入った着物を何枚もしょい込んで、それでもがたがた胴ぶるいをしながら、水っ鼻をすすり込む寒中が島国的気候なら、大陸的の方がよっぽどしのぎよさそうだ。無論日本のようなサンマー・ハウスとは設備も大分ちがうし、山に近く住んでるときと、平原や海岸に、うろうろしている時とは、ものの感じ方も、相違のあるのはあたり前だが、北イタリヤからスウィスへかけては、黴っ臭い風に障子の紙がたるんで、ぼとりぼとりっと、破れ三味線みたいな、変てこな音をたてる陽気は、まずまずあんまり出会でくわさないと云うことだ。
 何も図に乗って駄々をこねる訳ではないが、景色だってその通りで、日本の山には雪が少なし、氷河の如きに至っては、遺跡があるのないのなんて、なさけない事を騒がなければならない位、心細い始末だから、どこが風光絶美なんだか、今のところ、一寸ちょっと説明の持ち合わせがない、これも、昔の御歴々が、朝鮮、支那、遠いところで、ず、カリフォルニヤあたりの風景を御覧遊ばし、異国、異国ってこんな景色かいってところから、だんだん御まけが加わって、いつの間にか、世界一に出世してしまったんだろう。山の小さな国に、自慢するほど、いい景色のありよう筈がない。日本の景色でよかったのは、渓流と天然の密林、それも何年か昔の話で、大抵の森林は、もうすっかりマッチの軸木と焚きつけに変ったから、今では林学や地理科で取りあつかうより、歴史の領分になってしまった。水の方は、今でもあんまり変るまいが、森がさっぱりと切りはらわれて、薄っきたないそまや炭焼きの食いかけた、沢庵たくあん尻尾しっぽが流れるようになっては、いくらさらさらと麓をめぐっても始まらない。
 昨日会った知人も、北イタリヤの人だけに日本の景色をまっ正直に、広告通り心得て、いろいろ聞くんで冷汗が流れた。行って見たいってしきりに云うから、馬鹿馬鹿しい御よしなさいって忠告して来た、本当にやって来て、愛想をつかされるよりは、いくらか御国のためにもなるだろう。全体日本人は、景色景色って景色を人寄せに使うつもりなら、木なんかあまり切らないがいいし、それとも正直に告白するつもりなら、どこの人間にでっかしても、年中桜が咲いて、何処どこからでも不二ふじ山が見えて、いつでも陽気のいいような、見え透いた虚言はつかないがいい。
 昼少し過ぎに汽船に乗った。対岸のメナッジオ Menaggio は、山ごしにルガーノへゆく岐れ路で、そこへ通う電車の終点である。私は、テルラッツオに、ほうきみたいに、すくすくと蒼空にぬけ出ているチプレッソの木立の奥に、ブレリヤのマドンナの塔を眺めて、東岸のヴァレンナ Varenna に渡った。コモの湖水の、東南へ深く入り込んだラゴ・ディ・レッコがひろびろと見わたされる船つきのカフェーで、次の汽船を待ち合わせて、湖水の北のはずれにある、コリコの Colico の村まで切符を買った。
 そのうちやって来た汽船には、御客はもう少なくって、両側の小村に、神妙に寄り路して行っても、甲板には相かわらずたった二人で、その一人のイタリヤ人がデルヴィヨの村で降りてしまうと、あとは気の毒なほどひっそりして、外輪車の水を切るのが、寂とした湖上に遠く響きわたる。が、船は音の割り合いに速くはない。
 スウィス境の雪の山は、もうマストに近く屹えて、ピオナの鼻を右に廻ると、岸は冬枯れのままの雑木林で、山が近いせいか、空は次第に掻き曇って、吐息でもつくように、思い出してはさっと吹き下ろす夕風も、白樺の香をつたえてうそ寒い。
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コリコ Colico




 湖水の北のはずれは、やや東に折れ曲って、岸の浅瀬には、枯れ芦がざわざわと風に乱れている。コリコはその南側で、ミラノから、ブレガリヤのキヤヴェンナまで通う鉄道が、この小村にも寄ってゆくが、なまじ二すじの軌道と、幾条の電線が、村の細路を貫いてゆくのが、かえって御客に素通りをされそうで心細い。船つきのすぐそばに、ホテル・リジ Hotel Risi と看板をかけた小屋が一軒、船から下りたのも、そこに泊ったのも私一人で、宿の人達も、西の風で舞い込んだ、見なれない旅人に、よほど面喰らったものと見える。
 通されたのは二階の角座敷、と云うといかにも体裁はいいが、薄っくらい無気味な室で、探偵小説には、えてこんなのが引き合いに出される。建てつけの悪い窓を、やっとあけると、葡萄棚の下に鶏が三羽、埃の中に膨らんで、背戸の松薪の、山のようなのも山家らしい佗住居わびずまい、日はまだあるが、鼠に曳かれそうで心細い。
 たまらなくなって、表に飛び出してしまった。入江の空に、雪の山はのしかかって、村はずれの停車場から、キヤヴェンナまで乗ると、もうアルピの雪が軒にせまって、追分けの二筋みちの、右はブレガリヤの谷に沿うて、マロヤ Maloja からサン・モリッツ St. Moritz。左にとればシュプリューゲン、山越しにフールから、滑らかなラインの流れに沿うて、コンスタンツの湖のほとり、墺太利オーストリヤのプレゲンツへ通うのである。
 大陸の南と北を結びつけた街道の、西にはグラン・サン・ベルナール。ローンの谷からドモドソラへ行くシムプロン、またはルツェルンの湖畔から、アイロロの渓へ越すサンゴタールと、中世紀の旅人の往き来したなかで、これほど喜びと悲しみの、それも、今となればただなつかしい、物語りを生んだ街道は少なかろう。ポーデンゼーの片辺かたほとりに、今も僅かに名は残るルックブルヒ。リンダウの、朝の鐘鳴るみずうみを見わたすケメナーテに、日はうららかにさえ渡って、窓を包む山毛欅の梢は、祭り日の朝よりもなお静かに、その緑の上に遠く画かれた、アルプの波へ消えてゆく街道の、プレゲンツよりフールへ、かくてシュプリューゲンを越えて、末はイタリヤへと記された、恋物語を憶い起こす。

Sw※(サーカムフレックスアクセント付きA小文字) sich liep ze liebe zweiet,
H※(サーカムフレックスアクセント付きO小文字)hen muot diu liebe git,
In der beider herzen meiet
Ez mit vreuden alle zit.

 と雲の湧く北を見かえりがちに、峠を越した旅人もあろう。
 トューリンゲンの森を出でて、羅馬ローマへ急ぐ巡礼ピルゲルの、路の長手に行きなやんで、

Ach, schwer dr※(ダイエレシス付きU小文字)ckt mich der S※(ダイエレシス付きU小文字)nden Last,
Kann l※(ダイエレシス付きA小文字)nger sie nicht mehr ertragen;
Drum will ich auch nicht Ruh’ noch Rast,
Und w※(ダイエレシス付きA小文字)hle gern mir M※(ダイエレシス付きU小文字)h’ und Plagen

 と、空を仰いではまた

Zu dir wall’ ich, mein Jesus Christ,
Der du des Pilgers Hoffnung bist!

 をくりかえしたのもこの街道である。モンテ・シュプルーガの麓、メッツォラの湖水のふちを、北へみちびく坦道に白樺の落葉の、風に乱れる夕ぐれも、または芦の葉の鳴る、こうした日の暮れも、タンホイゼルの序曲のように、静かに聞えては、またかすかに消えてゆく、巡礼ピルゲルコールようとして絶えて、今、アルピの雪を仰ぐ行人の、耳にひびくのは、ベルニナ鉄道の汽笛である。
 宿に帰ると、山寺の本堂のように、しーんと静まりかえった食堂に、相客が二人、オーベル・エンガディンの御百姓で、山ごしにこれから国へ帰ると云う、スウィスなまりも、故郷に近づいたようになつかしかった、ろくに話はわからなかったが。
 西の風はなかなかはげしく、水ぎわの芦の葉がざわざわと、もとより浅間な宿に響いて、今宵はおちおち眠れなかった。
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ベルニナ鉄道 Bernina-Bahn




 何時になっても夜が明けないと思ったが、念の為に時計を見ると、もう八時を過ぎている。窓をあけて首を出すと、背戸の畑につづいて、雨を含んだ落葉松が二、三本、小屋の蔭には、昨日の鶏がやっぱり三羽ふくれかえって、さっぱりと晴れわたった昼過ぎでも、庭は蚯蚓みみず蛞蝓なめくじ培養所と云ったようなのが、今朝は雲は暗く垂れかかって、成る程、いつまでも夜が明けない筈である。遠山は雲にかくれて、湖水の色は、イタリヤと思われぬくらい沈んでいた。
 十時に、村はずれの停車場から電車に乗る。アッダ Adda の流れは、雲の沈んだテリーナの谷底をのたくって、石屋根の百姓家、低い石垣にしきられた段畑の、ここに一村、あすこに一かたまりと、犬小屋のような小村にも、朝の鐘は鳴りわたる。
 ポスタレシオの渓奥の、モンテ・ディスグラーツィヤ Monte Disgrazia, 3678m. も、今朝は仰ぐことは出来なかった。テリーナの谷は平らに東へつづいて、ヴァル・テリーナのベルベンノから、カスティオーネを過ぎて、ソンドリオで乗りかえになる。待つ間もなく出た。雲は、進むにつれて薄くなって、国境に近いティラーノ Tirano で、ベルニナ・バーンの電車を待つあいだには、谷の空にはところどころ雲透きができて、ローンのブリークに似た、の谷合いの小村から、北に入り込んだポスキヤーヴォ Val Poschiavo の渓奥には、雪の裾さえ仰がれた。
 折り折り、吹き下ろす風は、なかなか寒く、村路のここかしこに、野の花は咲き初めてはおるが、春は一と月も遅れていると思われる。ヴァル・テリーナは、なお深く東北に走って山の奥、アッダの水の源に、モンテ・コンフィナーレ Monte Confinale、ティロールのオルトラー Ortler も、僅かなみちのりであるが、私の乗った電車は、その渓から枝別れして、ポスキヤーヴォの谷底を、ベルニナさして向かうのである。乗客と云うのはやっぱり私一人、次のっぽけな国境の停車場で、税関の検査があったが、窓からのぞいたばかりで、極めて簡単に済んでしまった。
 こうして再びスウィスに入ると、電車は次第に山の間を登ってゆく、窓をあけて仰のくと、雪の傾斜は、雲の裾から逆落しに渓を圧して、頂は見えないがスカリノの氷河は、窓に近いらしい。が、渓には浅いながら春は来て、路ばたの草は緑に、すみれ土筆つくし、たんぽぽの黄にまじる白のサフランの、丘のうしろは切ったての崖が、雲の脚から谷底になだれ落ちて、今年の冬まではとても保ちそうにもない板張りの田舎家の、背戸のポプラのいく群は、露わながら緑が萌えて、リヴィエラの春、サハラの緑島オアシス、カムパニヤ、エミリヤ、ヴェネートォと、椰子やしの広葉とミルトゥスや月桂の黒ずんだ森に、いたずらに明るく蔽う蒼空をながめた旅の終りに、雲の暗い、この今日のスウィスの旅に急ぐのが、もの悲しくもまた、うれしくも思われたのである。
 ラゴ・ディ・ポスキヤーヴォは美しい湖である。サッソ・モンテルロ Sasso Montello の氷の裾が水に落ちて、その山稜の影を浮かべた湖のふちに、谷は、木立にも、草にも、緑は次第に淡くなって、麓に見ることも出来なかった白雪は、斑らに水づいた原を埋めて、イタリヤの春は、今、スウィスの冬である。進むにつれて、線はますます急になって、だんだん白く覆われた谷のつき当りから、千鳥がけにいくつもトンネルをこして、高く高く登ってゆくと、面覆ヴェールのような霧が、落葉松の森に往き来して、今来た路はもう見えなくなってしまった。
 が、その霧は、四季の絵巻きにえがかれるように、冬と春の区劃をたてて、木立に包まれた崖の中段に渦まいていたに過ぎない。アルプ・グリュム Alp Gr※(ダイエレシス付きU小文字)m の停車場に着くころには、雪――恐らく五尺を超えていたろう――その冬ながらの積雪は、ひるを過ぎたばかりの、強い日光を反射して、眼も開けないくらいであった。ヴェドレッタ・ディ・パリュ Vedretta di Pal※(ダイエレシス付きU小文字) の、犬の舌のように垂れ下った氷河の裾は、このさびしい村からは、手がとどくばかりの近くまで来て、そこに、煙さえほそぼそと立ちのぼらなければ、殆んど見わけられなかった雪の塊りの、木こり小屋の間を縫って、解けて流れるカヴァリヤスコ Cavagliasco は、ピッツォ・ディ・ヴェロナ Pizzo di Verona, 3462m. の直下、これも真白に覆われた山の裾を、今まで溯って来たポスキヤーヴォの谷へそそぐのである。しかし、その谷には、湯気のように霧が巻き上って、水の行く手は見下ろすことが出来なかった。
 氷河ヴェドレッタは、アルプ・グリュムの山村の真西にあたる、そして、その氷の上方は、薄いアレトを形づくって、南のピッツォ・ディ・ヴェロナから、北側のピッツォ・ディ・パリュ Pizzo di Pal※(ダイエレシス付きU小文字), 3912m. まで、極めて大規模な曲線を画がいて、うしろには、氷山みたいに思われたピッツ・アルジエント Piz Argient, 3942m. や、四千米突メートルに僅かに一米突を欠く、ピッツ・ツポ Piz Zupo が屹えている。然しの群山の最高峰、ピッツ・ベルニナ Piz Bernina, 4052m. は、仰ぐことはできなかった。
 アルプ・マソーネ Alp Masone からトンネルを越すと、すぐ眼の前に展げられた雪田に、かっと眼が眩んだが、これは高原ではなく、今は静かに雪の下に眠むる、白い湖と呼ばれた、ラゴ・ビヤンコ Lago Bianco であった。電車はその右側に沿うて、半分ほど廻ると、ベルニナ・オスピツィオ Bernina Ospizio の停車場に停った。標高七千四百尺、線路はここで、始めて、ティラノからポスキヤーヴォを通って、サン・モリッツへぬける街道へ出会うのであるが、ボネッティの小村に面した、東側の斜面に、春先きの今は雪崩アヴァランシュが多くて、非常に危険だと云う話しだ。ベルニナの尼寺オスピツィオは、湖水より右手の、岡のうしろにあたって、その街道に沿うた、ラゴ・デラ・クロチェッタの水際にある。
 アルプスの山上に、行き暮れた旅人が、ちらっと見えた灯火を目あてに、疲れ切った足を無理やりに曳きずって、こうした尼寺ホスピスの前までやっと辿りついて、ひざまずくように雪の上につんのめるとたんに、けたたましい犬の声が闇の奥から響いて、今まで積雪の上に漏れて、赤く滲んだ灯が吸いとられたように消えてしまうと、やがて門口にその灯を手にした、黒衣の尼が表われる。アヴェ・マリヤの鐘のねに、山上の日は黄昏たそがれて、“Wie Todes Ahnung” と唱われたように、黒い面覆が谷を包んで、見わたす氷の頂にアルペン・グリューンの輝く時。または物の音は、渓にあふれる急流の響も絶えて、雲は静かに、蒼空をめぐって、花野の上にただよう時。こういう山の春秋に、誰れに聞けともなく、窓を漏れて――枝から切りとられた薔薇の花が、さらに香ばしくかおるように――消えては、ふたたび見出しがたいオルガノの楽の音は、人間の創造せるあらゆるもののなかで、最も力強く、私の胸には響くのである。
 湖水を平らに覆う雪が小高くなって、いつとはなく水色にぼかされる、カムブレナの氷河 Vedretta di Cambrena の上には、同じ名の山岳 Piz Cambrena, 3607m. が屹えている。今朝アッダの流れについて、雲の暗い麓の路を旅したのが、山は世界が異なったように、すっきりと晴れ渡って、蒼空には二すじ三すじ、長閑のどかに、巻雲が浮かんでいたばかりである。
 湖水のふちは通り過ぎると、だんだん下り坂になって、何処まで行っても、一面にまっ白な山脚を、北へ流れるベルニナの渓へ下ってゆく。ヴァル・ミノル、また、ピッツ・ミノル Piz Minor, 3052m. の北を囲む、ヴァル・デル・ファインの渓をこすと、麓は落葉松やタンネ唐檜フィヒテの、空をしのぐ密林となって、その枝ごしに、または梢の上に、ピッツ・アルブリス Piz Albris, 3166m. や、ベルニナの裾に、ムント・ペルス Munt Pers, 3210m. の山々が望まれた。
 しかし、もっと驚くべきはモンテベルロの曲りかどに来た時、窓のすぐ左に表われた、モルテラッチ Vadret da Morteratsch の氷河である。ベルニナ群山の中心にあたるベルラヴィスタ Bellavista のアレトから、真北に四里にわたって流れ落ちるこの氷河の空には、四千米突に近い山々が、折り重なり入り乱れて、最高峰のピッツ・ベルニナ Piz Bernina, 4052m. も、やや右よりに仰がれる。
 私は、窓から飛び出さないばかりのあわて方で、モルテラッチの小っぽけな停車場に下りたが、何んのこった、一軒家のホテルと云うのが、今は閉ってて、外に泊めてくれる家はないと注意されたんで、もう走り初めた電車を停めて貰って、またそれに舞い戻ってしまったのは、今考えても残念でたまらない。
 落葉松の密林は、下るにしたがってますます深くなって、ベルニナの流れも妙に暗く思われたが、日はまだ高い空には、陰気な雲が動いて、高山にたち切られた大空の半面は、いかにも北の国らしく重く濁って、いやに寒くなり初めた。水はいくつにも分流して、黒木に包まれた山の麓を洗ってゆく、そして、ラ・セルラ La Sella, 3587m. から真北に落ちる、ヴァドレット・ダ・ローゼック Vadret da Roseg の氷河の裾に、水の多いローゼックが、此の本流と合するポントレシナ Pontresina の村を過ぎると、川は大きな三角洲デルタをなして、街道は右岸を、北のサマーデン Samaden へむかうのであるが、線路はそれを対岸にして、フールン Fulun, 1913m. の裾でぐるっと廻って、サン・モリッツの湖水のふちに着いたのである。
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サン・モリッツ St. Moritz




 独逸ドイツ墺太利オーストリヤを貫く、イン河の上流は、のインスブルックから、間もなくスウィスの国境となって幾百の氷河の水を合わせて、六十マイルわたるエンガディンの峡谷を形づくっておる。サマーデンの村の近くで、枝分れする二条の、左からたぎり落ちるのは、今日私が沿うて旅したベルニナの渓で、その辺では、フラッツバッハ Flazbach と呼ばれる。右はインフルッスの本流で、今、私が着いたサン・モリッツの湖、更に西南に、一列に排列された山の湖は、カムフェルゼーからシルヴァプラナのみずうみとなって、最後にイタリヤの国境、モンテ・ロッソの氷河の麓に、絶世の山岳画家、彼のジオヴァンニ・セガンティニ Giovanni Segantini を葬った、マロヤ Maloggia, Maloja のほとり、シルスの湖につづくのである。
 サン・モリッツは遠い羅馬ローマ時代から、サン・ムレッツァン San Murezzan として知られた、オーベル・エンガディンの山村で、人口千六百と称せられておるが、避暑客をあてにしたホテルが多く、三百以上も寝室をもっているのが少なくないから、村と云っても中々なかなか整頓している。今は春先きのことで、ウィンタースポートの連中は、みんな帰ってしまった後だから、大抵たいていの宿は閉まってて、停車場のトレーガーに聞いて見たが、泊ろうと思っていたワルトハウスに行くことが出来なかった。案内記をさがし出して、よさそうなホテルを聞いて見たが、片っぱし御断りで、結局、停車場の東の、すぐ湖水に面した、ホテル・ブリストルと云う小さな宿に入り込んだ。
 湖水は村の南側で、まっ黒に、樅の森に覆われた対岸の丘の上に、ピッツ・ロサッチ Piz Rosatsch, 2995m. と、その氷河ヴァドレットが仰がれる。雲は思ったより低くはないが、半ば氷に埋められた湖水の空は、いかにも雪国らしい陰気な色で、岸に近い氷の割れ目には、波が白く立ち騒いで、西の風がなかなか寒い。二階の窓から、じっとこの景色を眺めていたが、たまらなくなって外套をひっかけると、すぐ表に飛び出してしまった。
 村は湖水の東にそそぐイン川で、今、私のいるドルフ・サン・モリッツと、南にクエルレンベルクの森を背負った、バート・サン・モリッツ Bad St. Moritz とに分たれておる。ホテルの表から見ると、まっくろに濁った湖水の対岸に、点在する家の間に、カトーリッシェ・キルッヘの四角な鐘塔が望まれる。道は北側の水ぎわに沿うて行くから、向い風で耳が切れそうに思ったが、なか程まで来ると、もう山の蔭になって、雪は路ばたに二尺も残ってはいたが、それほど寒くはない。
 バート・サン・モリッツは、夏場だけで、今は宿屋も店ものこらず閉ってしーんとしている。しばらく湖畔をうろうろしたが、よくよく考えて見ると、今日は昼飯を食べそこなったんで、いままでは山に見とれて、それ程までに感じなかったが、気がつくと急に腹がへって腹がへってたまらなくなった。ホテルに帰っては遅くなるから、カムフェルへ行く街道の、あやしげなホテルに飛び込んで、にかく御茶にありついた。聞いて見ると二月頃までは御客もかなりあるそうで、雪をらうと湖水は立派なスケート場になるし、山の麓には、シー・ジャムプなどもあると云うことだ。
 腹をこしらえてから、ゆっくり雪の上を歩き廻るつもりでいたが、往来へ出ると、何だかもう薄ぐらくなってしまったから、予定は明日のことにして、相変らず風の冷たい湖畔を、ホテル・ブリストルへ戻って来た。
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セガンティニ・ムゼウム Segantini Museum




 夏と冬の遊覧地として、外国人殊に英国人の間に有名なサン・モリッツは、ニスの謝肉祭カルネヴァルを見ない者が、宴会であんまり持てないと同様に、ここへ来るのが、まるで流行のようになっている。従って盛り場には、有象無象が寄り集まって、森の間で花火をあげたり、日が暮れると、山の上にサーチライトを点けて見たり、コンツェルトだとか舞踏だとか云って、馬鹿な騒ぎが初まるんだけれど、何しろ今は陽気はずれで、やっと捜し出したホテルに入っても、何しに御いでだってような顔をして、初めはてんで御客あつかいにもされなかった位だから、その静かなことは想像以上である。さびしい森の中をさまよって、ああ静かだなアと感心するのは、日本にいて、陽気が悪いとこぼすのと、余り大差はないが、賑やかであるべき遊覧地に、ろくに人間も見えないで、大きな建物がひっそりと静まりかえって、ポンペイのフォルムが引っ越して来たようなのは、まるで古駅の本陣でも見るような気がする。が、村はそんな薄っきたないものではない。
 日本でも同じくだが、何処の景色はすばらしいから、是非御いでなさいなんて、勧める人があったら、ず相手の身分を確かめた上、もしその人が山岳会員でなかったら、なるべくそこを避けて通るようにすれば、かえっていい景色が眺められる。サン・モリッツも似たようなもので、氷河こそあるが、近所の山はやっと三千米突メートルぐらいなものだから、雄大な景色は求められよう筈がない。倫敦ロンドンあたりの煙突の中から、煤と一所いっしょに吐き出されて、雲の上には蒼空があるのを、始めて知った人間には、多少珍らしいかも知れないが、ここの湖水は、そんなに自慢するほどの景色ではない、サン・モリッツでうれしいのは、セガンティニの美術館ムゼウムと、そこを囲む落葉松の密林だけである。
 これは去年のことだが、ベルリンに遊んでいた時分、ウンテル・デン・リンデンを通りぬけて、川向うのナツィオナール・ガレリーに行ったことがあった。数の多い画の中で、殊に眼をひいた二枚の大作があったが、一つは “Tr※(ダイエレシス付きU小文字)be Stunde” と題せられた暗い画で、一つは有名な “R※(ダイエレシス付きU小文字)ckkehr ins Heimatland” であった。家財を積み込んだ荷車のうしろに、赤犬が尾をたれて、のそのそついてゆく様子が、今も眼に残る、恐らくマロヤ附近の高原の秋であろう、オレンジ色の空には、薄月が見えて、背景は無論、雪の遠山であった。私がセガンティニの画を見たのは、あれが最初であって、それまで単に想像にとどまった輪廓に、はじめて生き生きした色彩が点ぜられたのはあの時であった。画ばかりではない、都会にせよ、又は郊外の景色にせよ、建築物や山川の形だけは、名所絵葉書や写真からでも、すぐ想像はつくであろうが、我々がその景色に面とむかった時に与えられる印象の大部分は、色彩を無視した黒白ブラックエンドホワイトの輪廓からではない、着色のフォトグラヴュールや、石版画に至っては、原画の名誉を毀損せんがために、特に印刷されたものと、私には断定せられる。いわんや、色彩の Juxtaposition に基づいたテクニックに至っては、印刷所の職工の手に画かれたセガンティニは見られるかも知れないが、それをもって原画を想像していた無礼は、今ここにあらためて、この山岳画家に謝さなければならない。
 その後和蘭オランダに入った時、ハークのメスダック美術館で、二枚の単色モノクロームのパステルを見たが、その一つはキヤロ・ディ・ルーナ Chiaro di luna で一つはサン・モリッツにある大作、“Die beiden M※(ダイエレシス付きU小文字)tter” と同じコムポジションであった。
 セガンティニは、ティロールの山をめぐらした、ラゴ・ディ・ガルダの北のはずれ、アルコ Arco の村に生まれたのであるが、彼れの故郷よりは雪の多い、オーベル・エンガディンの山を好んで、ジュリエ・パッス Julier Pass からマロヤにながく住んで居った。その作品も、イタリヤには少なくて、スウィスと独逸ドイツ墺太利オーストリヤに、主に保存されておる。
 今朝、起きぬけにムゼウムにゆく、うららかに晴れわたった、湖水のふちの雪路を歩くと、外套が少し邪魔になるくらいで、向う岸の、バート・サン・モリッツが、手に取るばかりに見渡されて、その上には昨日雲にかくれていたラ・マルニヤ La Margna, 3163m. が望まれた。教会のすぐ横の雪路を登ると、ムゼウムの前に出られる。落葉松の木立の中の、ロトゥンダも非常に感じがいい。
 この森を貫く街道は、インフルッスに結びつけられた湖水から湖水に沿うて、サン・モリッツからカムフェルを過ぎて、シルヴァプラナ、シルス、それからマロヤの村へつづいて行く。その峠を越せば、もう水は南にイタリヤへ流れて、ピヤノ・ディ・キヤヴェンナ Piano di Chiavenna から、コモのみずうみにそそぐのである。
 ムゼウムのすぐ向う側に、トリノの彫刻家ビストルフィ Leonardo Bistolfi の作にかかる、大理石の記念碑グラーベンデンクマールがある。二フランの入場料を払って入る、階下には入り口に、セガンティニのバストがあって、五つに分れたニッシェには、レプロドゥクツィヨーンが一面に並べてある。二階の広間に原画がかけられて、四枚の大作とスケッチが置いてあった。
1. Die beiden M※(ダイエレシス付きU小文字)tter.        2. Werden.
3. Vergehen.             4. Baumwurzel.
5. M※(ダイエレシス付きU小文字)tter und Kind.         6. Schabschur.
7. Am Kamin.            8. Auf dem Totenbette.
9. Die H※(ダイエレシス付きU小文字)tte.            10. St. Moritz bei Nacht.
11. Gli Amanti.           12. Erdarbeiter.
 彼の有名な画のうちで、R※(ダイエレシス付きU小文字)ckkehr ins Heimatland, R※(ダイエレシス付きU小文字)ckkehr zur Heimat と、Tr※(ダイエレシス付きU小文字)be Stunde とは、前に述べた通り伯林ベルリンの美術館にあるし、Kuh an der Tr※(ダイエレシス付きA小文字)nke はバーゼル美術館に、Phl※(ダイエレシス付きU小文字)gen はミュンヘンのノイエ・ピナコテーク Neue Pinakothek に、Die b※(ダイエレシス付きO小文字)sen M※(ダイエレシス付きU小文字)tter と Fr※(ダイエレシス付きU小文字)hlings Weide はウィーンのベルヴェデール宮殿 Belveder-Palast に蔵せられてあった。ここの番をしていた、セガンティニの御弟子がいる、自画像ゼルブストビルトニスの写真を買って、いろんな話を聞いた、ウィーンの貴族、リヒテンシュタインの美術館 Liechtenstein Gallerie にも大分あるそうだが、有名なエーデルワイス Edelweiss とアルペンローゼ Alpenrose は、サン・モリッツの、ドクトル・ベルンハルト Dr. Bernhard が持ってるそうだ。どうでしょう折角せっかく遠方から来たんですが見せてれないでしょうか、と憐れっぽく持ちかけたら、午後一時に御出でなされば、私が御つれ申しましょうと云った。占めた、まずその方は心配なしとして、昼まで大分間があるから、ゆっくりと御輿みこしを据えて、いろんなことを聞いた。自分でかいた画が、今ケョルンの博覧会に出してあるとか云って、その天然色写真オートクロームを見せてくれたが、り先生みたいに、細かい筆づかいで、マロヤの秋が画いてある。
 画かきと音楽家は、どこの国に行っても同じなりをするものと見えて、先生も、「寂しき人々アインザーメメンシェン」のブラウン見たいな、まあよく銀座あたりのカフェーで出会でくわすような、天鵞絨ビロードの洋服を着て、髪もやっぱり画家流に刈り込んで(?)あった。漢学の先生に腮髯あごひげが付きもので、占者に山羊鬚が無くてはならんように、こう云う服装をしなくっては、画がうまそうに見えないと見える、しかし自画像で見るセガンティニは、神武天皇のような顔をして、服はまるで百姓みたいだ。
 一先ひとまず宿に帰ることにして、の岡づたいに村の方へ歩いて行く、どこのホテルも申し合せたように閉って、殆んど人間を見かけない、天気のいいのも、私一人の為に晴れて呉れたような気がして勿体ない。
 昼飯を少し早めにしまって、また例の雪路を登って、丘の上に出るとひょっくり、先刻の御弟子に出会わした。先刻は失礼、名刺も差しあげませんで、と、着かえて来たらしい上着のかくしから名札を出して呉れた、名はコルンハス Kornhas いくら画かきだって、此の天気に天鵞絨の服では暑かったろう。時に、先き程うちに帰る時、一寸ちょっとよったんですが、ドクトルは今巴里パリに行ってて留守でした、どうも残念ですがってんで、御断わりだ、まあ仕方がないから、例の落葉松林を一緒にぶらぶら歩きながら、またムゼウムの前まで来てしまった。幸い、写真機もぶら下げて来たので、このままシルスの方へ行こうとすると、先生も相手ほしそうな調子で、御迷惑でなければその辺まで御一緒にってんで、丘の上の街道を、南にむかって歩きはじめた。
 落葉松の枝ごしに、ピッツ・ロサッチの雪が見える、太い幹は路ばたの雪に埋まって、その麓にはサン・モリッツの湖が、これもまっしろに覆われておる。しかし街道に雪はなく、日あたりの曲りかどには陽炎がもえて、日蔭はしっとりと、露を浴びたように、気持よくぬれている。森はだんだん深くなって、眼の下に湖水の南岸がひろげられるあたりから、だらだら路になって、カムフェルの村まで下ってゆく。インフルッスに沿うて向側に建てられたバート・サン・モリッツは、クェルレンベルクの裾がちらっと見えただけで、流れと、それに併行した此の往還の間には、ところどころ樅も交じる落葉松の密林に、緑はまだ萌えないが、黒味がちな小枝小枝が、押し合い重なり合って、そこを通る旅人は、南に限りなくつづく街道に印せられて、じっと動かない森の陰影と、仰のくと頭の上に、高く高く雲のない蒼空に入り乱れた、板画エッチングのような、静かな森の梢を見るだけである。
 私達が別れたのは、この森のはずれであった。
 カムフェルゼーはサン・モリッツの湖水のやっと半分ぐらいしかない。だらだら路を村へ下りる、ここは雪に埋められた、湖に近い小村で、往来に並んだ一かわ並びの小家も、中継ぎの宿場らしくて面白い、景色もサン・モリッツより遥かに雄大で、前には帯のようにつづく坦道に沿うて、この湖水からシルヴァプラナとシルスのみずうみとオーベル・エンガディンの谷奥がながながと見渡されて、正面にはラ・マルニヤ、対岸の黒木につつまれた山の上には、ピッツ・モルテル Piz Mort※(グレーブアクセント付きE小文字)l, 3442m. とピッツ・コルヴァッチ Piz Corvatsch, 3458m. が並んでいる。余り立派ではないが、百ぐらい室のある宿屋も三、四軒あるし、不便と云えば不便だが、夏になれば湖水の水づたいに、シルヴァプラナからシルスまで、日に六回小舟が往復するし、サン・モリッツの停車場までは、宿屋の馬車も来るのだから、避暑に来るならここの方が余ほどいいと思う。
 三十分ばかりでシルヴァプラナの村に来て、立て場の宿で御茶を命じた。郵便馬車 Swiss-Post, Diligence が日に三回、サン・モリッツの北のサマーデンから、三十五マイル半の此の道を通って、マロヤ・パッスからキヤヴェンナまで通っている。そのうち、遠くから角笛ホルンが聞えて、入り乱れた蹄の響がすると、間もなく宿の前に、きいろく塗った郵便馬車が着いた。乗合馬車と云うと、廃頽した古駅の寂しい中にも、何となくなつかしい感が起るとともに、酒と女と賭博で持ち崩した、一目見ればすぐそれとわかる卑しい顔をした若者が、自棄やけくそに、干からびた馬車馬の背なかを、ひっぱたくのが眼に映るが、スウィスのディリジャンスは、もっとも整頓した交通機関の一つであって、逞ましい馬の四頭立て、ると蹄をあげて走るのが、路はよし、大雨はすくなし、石ころ交じりに草鞋の腐った、信濃の国の片田舎とは、感じに於てもすでに格段の相違がある。グリムゼルでも、グラン・サンベルナールや、サンゴタールでも、自動車の使えない山の奥の往来には、御客ばかりでなく、小荷物も頼めるから非常に便利である。
「●セガンテイニ・ムゼウム」のキャプション付きの写真
●セガンテイニ・ムゼウム

 岸づたいに、シルスの村まで来て、ぶらぶら引きかえした。この辺も一面に真っ白に、野も丘も埋められた間を、日向ひなたには埃さえ少し立って、乾ききった街道が、一すじ長く貫いている。夏は湖水の色の美しさが想いやられるが、今は厚い氷と、更にその上は深い積雪に覆われて、色彩はいささか、単調な感じが起らないでもなかった。
 帰り途にはカムフェルの村から、細道を右手に切れて、樅に包まれた小山の裾をぐるっと廻ると、湖水をつなぐイン川のふちに出た。水は中々なかなか多く、思ったより深い谷を形づくって、すぐその向うはクェルレンベルクの麓になっている、もう此の辺へ来ると、村の人達もまるで通らないから、雪は真冬のまま路を埋めて、日の光で解け初める頃には、うそ寒い夕風が来て、夜はまたかちかちに凍った雪路に変ってしまう。
 バート・サン・モリッツの、人っ気のない村を素通りにして、サン・モリッツの湖水のふちに帰って来た。日はいつの間にか氷の山に傾いて、雪田かとも思われるみずうみの半面には、山の影がうつっている。そしてそのコバルトを含んだ陰影は、見るまに広く大きくひろがって、湖水の全面にかぶさると、どこの山頂か分らないが、二つに分れた峰の影が、麓から折れ曲って、対岸の丘にぼんやり画き出された。しかし日の影は、もう刻々に薄くなって、谷の空気には淡い藍色が飽和されて来る。
 この静かな湖水のふちをあるいてゆくうちに、日はとっぷりと暮れて、ピッツ・ロサッチにあかあかと、アーベント・グリューンが仰がれた。
 夜はなかなか寒かった。晩餐がすむと室にも戻らないで、湖水に面した食堂の出口から、ぶらぶら散歩に出かけた、いく度も通った水岸から、坂路を上って、暗い森の中をムゼウムの前に出る。記念碑グラーベンデンクマールを見るつもりでやって来たが、落葉松の茂みに星明りはさえぎられて、はっきり見ることは出来ない。黒い木立の間に建てられたロトゥンダの下を、南へぬける街道のところどころ、ぼうっと蛍色をはなっていると思ったが、近づけば森の茂みを漏れる星明りであった。夜は黒く静まって、山も木立も息をつめているのかと思われる。千八百九十九年、セガンティニがシャーフベルク Schafberg, 2733m. の山頂に近い小さな宿に客死して、彼の棺は弟子達にまもられて、――その中には今日此の道をつれだって話した、あの好青年もいたのであるが、――雲の暗い街道をマロヤの里にむかったのである、そして此の絶代の山岳画家を葬むったのは、画室の窓に近い墓原で、彼が最後に墓石の上にうつぶした、若い女を画いた、――背景は無論遠山の雪であるが、――その会堂に葬むられたのである。
「サン・モリッツの夜」はかくして更けてゆく、木の間を漏れる星の光りはいよいよ明らかに、風は死して、雪をめぐらした森の夜は、こうして静かに更けてゆく。
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エンガディン Engadine




 午前九時三十五分の汽車は、サン・モリッツをはなれると、オーベル・エンガディンの谷を下って、ツューリッヒにむかった。朝空は朗らかに晴れてはいたが、大きな雲の塊りが、東の山あいから止め度なくいくつとなく溢れ出して、谷の晴れ曇りするのが、気の変りやすい人でも見るような気がする。実際、あるときは谷という谷、それを取りまく山という山が、いかにも晴れ晴れしく陽気にはしゃいで、なるほど春はもう山奥まで近づいて来たなとうなずかれるが、ふと何かのきっかけで、急に機嫌をそこねると、「北の国の冬」と云えば、ただその言葉を聞いただけで、すぐに胸に浮かぶような、暗い、陰気な、沈んだ景色に変ってしまう、そして雪のなかに悶えながら、体をもがき、手足を慄わせて、一と足でも明るい日あたりへ出よう出ようとあせっている山毛欅の木立や、自堕落に雪崩の上に寝そべった、白樺の幹などが、いつも何処どことなく暗い影のつき纏う、山民のわびしい生活を想わせる。
 深い狭谷ゴージをつくって、私達が今まで、樅や落葉松に包まれた蒼い急流を積雪のまだらな下に下ろして旅したイン川は、サマーデン Samaden の附近で東北に去って、汽車はそれとのラインの上流との間を限る山脈、クラスタ・モーラ Crasta Mora, 2937m. と、ピッツ・デ※(小書き片仮名ル、1-6-92)ラ・ピラミダ Piz della Pyramida, 2962m. の中間を貫く隧道をぬけると、深い深い、谷はやはり雪の中ながら、今までとは反対に、西に流れるアルブラの渓谷となって、その急な急な崖を、線路は三度円を画いて、ベルグリューン Bergr※(ダイエレシス付きU小文字)n の村へ下ってゆく。
 初めは窓から頭を出してのぞかなければ見えない深い谷底の、まるで擂鉢すりばちみたいな底の方に、雪のまだらに消えた草原と、一とかたまりの村が表われた、それを取りかこむ東の崖に、大きな弧を二度画いて、だんだん近づくと、村を貫くアルブラの流れのふちに、ところどころ緑の草にまじる、白い花が敷物の模様のように眺められたが、近づくと春のまっさきに咲き初める、サフランの群れであった。
 森の梢もいちじるしく緑が萌えて、なおアルブラの深い狭谷に沿うて下るほど、雪は淡く草は濃く、雲の往き来も静かになって、刻々に春の近づくのが意識される。
 トゥーシス Thusis は、ヒンテル・ライン Hinter Rhein の川岸にある小さな町で、南に流れをさかのぼれば、シュプリューゲンから北イタリヤへぬけられる。汽車は川に沿うて、やや開いた谷の底を、両側にはたえず雪の山脈を仰いで、北にむかうと草原にはキンバイやタンポポが一面に咲いて、百姓家のあいだあいだには、林檎、すももなどの花盛りである、やがて西から流れるラインシュトロームの本流に合した。水はさすがになめらかで、川幅はまだそれほど広くはないが、水にはいかにも底力が籠もっている、その河ぎしには、果ものの花が仄白ほのじろく咲いて、国の春に見るような、派手な色がないだけに、落ちついた、重みのある、一と口に云えば、いかにもライン河らしい、春の感じを与えている。谷はいたずらに深くはない、しかし春の花の梢には、やはりちらちら雪の山岳がたえず望まれる。
 ラインに沿うて、フール Chur の町に着いたのが昼頃で、此間に懲りて、食堂のないこの汽車で弁当を食べさせられるのがいやだから、一時二十分の次の汽車に乗りかえるまで、ゆっくりと停車場のビュフューで[#「ビュフューで」はママ]昼食を食べた。
 フール(Ch は Rachen- Stimmen)は、カントン・グリゾン Kanton Grison の首府で、羅馬ローマの時代に於ける重要な都会であった、当時クリヤ・レトルム Curia Rhaetorum と呼ばれたフールは、プレシュール Plessur の水の、ラインにそそぐ三角州デルタフルールの上に建てられて、水をへだてて森の上に、雪の山脈が仰がれる。西独逸ドイツ、ラインガウの人々が、羅馬へ通うのには多くはこの山奥の町を過ぎたのである。
 フールからサルガンス Sargans まで、ややうち開いたラインの谷について下ると、もう山は余ほど低くなって線路に近い山岳のうち、氷河のあるのは、グラウエの群峰 Graue H※(ダイエレシス付きO小文字)rner のピッツ・ゾール Piz Sol, 2849m. ぐらいなものである、しかし谷にせまる森の上には、飽きるほど雪の山は望まれる。
 陽気は申し分なく、昼過ぎの日が、ほかほか窓にさし込んで来るのが、何んとも云えない気持ちで、今まで山の中で張りつめた気がゆるんだせいもあったろうが、初めのうちは窓にりかかって、こくりこくりやってたが、たまらなくなって本式に仰のけに寝てしまった。
 どのくらい寝てしまったか知らないが、けたたましい汽笛が鳴って、カタン、カタンと殆んど金属性とも思われる反響がしたので、びっくりして眼が醒めた、今隧道へ入ったんだ、暫らくするとぱっと明るくなったので、寝ぼけ眼で窓から見廻わすと、湖水のふちを通ってるところで、碧い水にのぞんだ対岸の切ったての絶壁には、雪の山からしぼれて落ちる無数の瀑がかかっている、山も近い、湖水は深く水の色は極めて美しい。地図をひろげて見るとウァーレンゼー Walensee だ。私は「眼のさめるような景色」を文字通りに経験した。
 此の冬ツューリッヒに行ったとき、ここまで来るつもりだったのが、天気が悪るくてやめにしてしまったが、成るほどスウィスの湖水の中でも、殊に有名であるだけに、寝ぼけ眼でさえこれほど感心する位だから、正気ならたまらなくなるだろうと思って、大急ぎでベデカーをさがして見ると、湖の西のはずれにウェーゼンの停車場がある、ホテル・シュペール Hotel Speer は眺望がいいと書いてあるんで、急にその気になって荷物をかたづけてると、間もなく停車した。
 今日は日曜である、小さな田舎の停車場だが、ツューリッヒあたりから散歩に来たらしい連中が大勢いて、丁度ホテル・シュペールのポルティエも見送りに来ていた、荷物を頼んで置いて、停車場上の岡にあるその宿へ入る。
 小さな門からだらだら上りに、花盛りの林檎の間を、くねくね折れ曲った庭路も感じがいい、その上、出むかえたおやじの顔もすっかり気に入った。
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ウェーゼン Weesen




 東むきの二階に室をきめて着物をきかえるとすぐ下りて来る。食堂のヴェランダは南むきで、林檎の花の上にすばらしい山が見える。カフェーをいいつけて地図をひろげてると、例の主人がやって来た、山の名を聞くとグレルニッシュ Gl※(ダイエレシス付きA小文字)rnisch と答えた、なる程、の冬ルツェルンに遊んでいた時、リギから東に遠く遠く見えたる立派な山塊は、グラールスの谷奥に屹えるこの山岳であったのだ。
 ウェーゼンに着いた瞬間から、クラリヨンが此の春の野から、湧きだすように響いたが、ホテルの裏手につづく岡の斜面にも、すぐ下の果樹の間にも、牛の群れが方々にかたまって、体骼たいかくに応じたクーグロッケくびにぶら下げてるのが、遠近と音の高低が、静かなメロディーをなして、うららかな空に響きわたる。
 スウィスの山の晴れわたった景色や、霧の間に思いがけない高い空から表われては、すぐに吸いとられてしまう氷河や、朝、まだ、うっすらともやのなびいた森の梢に、紅玉ルビーのように光りのある朝紅モルゲンロート、又は夕ぐれごとに、もう、闇に襲われた谷の空に、薔薇の花のように輝くアルペン・グリューンと、山川の景観にともなう楽しさは、ほとんど数えきれまい、そして今ここに響くクラリヨンも、アルプの旅人が忘れることのできない、なつかしい楽の音である。「ウィルヘルム・テル」をひもとくときはじめて記される言葉はクーライエンのメロディーである。反響エコーのようにこれに答える山上の牧歌は、そのヴァリアツィヨーンである。
 宿を出ると、花の間を下りて、牧場みちを左に切れると、リント Linth の水について、ウァーレンゼーの湖畔に出た。ここは湖水の西のはずれで、北から東へかけて取りかこむ、フールフィルシュト山脈 Die Churfirsten は、まだまっ白な氷に覆われて、段丘のようになって、急な絶壁が湖水にすべり落ちる中段には、アムデンの村の板屋根が、緑の草原に点接される。崖には大瀑小滝がたれ下って、みずうみの深い碧色も、滝壺だけは緑に泡だっている。私が乗って来た汽車路は、南岸の岩壁をつらぬいているので、湖水のうち開いたのは、落ちぐちのこのウェーゼンだけである。
「●ウェーゼンよりグレールニッシュを望む」のキャプション付きの写真
●ウェーゼンよりグレールニッシュを望む

 リントの流れの向う岸は、白樺や川楊の茂みのうしろから、すぐひろびろとした高原になって、一面にまったいらな牧場の三方が、鋭い山の傾斜に接している。南の果てに口を開いた、グラールスの谷のとっつきまで、ほとんど高低は見られない。雪は野の遠近に配置された、ポプラ、白樺の、枝ごしに仰がれて、この雪をめぐらした花の野に、クラリヨンが響くのである。
 私の故郷では、波うちぎわを南にして、西から北へかけてぐるっと取り囲む山の斜面は、柑橘の茂った段畑が、下手へたな理髪師に刈り込まれたように重なり合って、東は町はずれからすぐ稲田になっている、その刈田や段畑のあちこちに、紫雲英れんげそう、菜の花などが咲き初めても、「春の野」と云う感じはまるで起らない、赤城、戸隠の原、或は立山の室堂むろどうの高原や、雲の平、五色ヶ原なども、それぞれ趣の異なった景色ではあるが、マドリガル Madrigal を耳にした瞬間に感ずるなつかしさとは、全然趣を異にしておる、シモネッティに於ても同様である、ヴァンサン・ダンディに於ても同様である、またはタンホイゼルの序幕に唱われる、牧童ヒルトの歌やそのシャルメルの曲も、ナポリの夕に波の黄昏曲セレナータがふさわしいように、こう云う山国の雪に近い、春の牧に初めて、想像と合一した景色が求められるのだ。
 日は次第に傾むいて、ブリュンネリ・シュトック Br※(ダイエレシス付きU小文字)nnelistock の頂に落ちてゆく。グラールスの谷には靄がたなびきはじめて、原一面に散らばって響いていたクラリヨンは、あすこに一とかたまり、ここに一と群れと云うように集まって、ポプラの間に建てられた、小村小村の柵に近く動いてゆく、そこにはものうげな煙が、風のない空に円柱のように静かに静かにのぼってゆく。
 宿に帰ったのはもう薄ぐらくなった頃で、南むきのヴェランダで、晩餐をはじめた。アルペン・グリューンはグレルニッシュの尖った山頂から、右に落とす、鋭い雪の斜面からほんのりと染まりかけて、南を限る山々は火のように輝きはじめた、その山脈とウェーゼンのもう薄ぐらくなった草原のはずれから、靄がむくむく湧き上る、原はグラールスの谷よりも小高くなって、雪の斜面との間には、深い渓でも横たわっているように思われる。晩餐のあいだに、日はとっぷり暮れて、静かな山の空気が冷や冷やと膚にせまる。二階に戻りしなにふりかえると、蒼白いグレルニッシュの氷の上に天狼星シリウスがピカッと光っていた。
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ウァーレンゼーの湖畔




 床をはなれた時には、いかにも春らしい朝日が窓いっぱいにさしこんで、ぼーっとかすみだった湖と、そのそばにぬけ出した鐘塔の右ひだりに、雪をめぐらした山々が、庭の梢の眼のさめるような緑の上に望まれた。クラリヨンは今朝も遠く近く響いて来る。
 スウィスの春は、雲雀ひばりの歌のような、あまりにメローディッシュな曲では表わしえない。朗らかな奥にも絶えず、何とも云えない寂しさのただようている、花は高原を覆うても、冷たい風を吹き下ろす山の雪から離れ得ない、たとえばうれしさに躍る胸の底にも、冷やかな思いの絶えない、――綺麗なメロディーに静かな沈んだ伴奏をつけたような――のクラリヨンを以てして、初めてアルプの春は表わせると思う。
 すぐ原に出た。踏切りを横ぎると、アムデンからツューリッヒにゆく街道から南へ折れて、牧場の柵に沿うた坦道を、グラールスの方へあるいてゆく。正面に聳えるグレルニッシュの頂は、三つのマッシーフな岩山に別れて、左の端に見えるのは前山のフォルデル・グレルニッシュ Vordergl※(ダイエレシス付きA小文字)rnisch, 2331m. まんなかがヴレネリスゲルトリ Vrenelisg※(ダイエレシス付きA小文字)rtli, Mittlergl※(ダイエレシス付きA小文字)rnisch, 2907m. 右が最高峰の北に、グレルニッシュ・フィルンをへだてたルーヘン Ruchen, 2910m. で、二千九百二十米突メートルのヒンテル・グレルニッシュ Hintergl※(ダイエレシス付きA小文字)rnisch B※(ダイエレシス付きA小文字)chistock は、この右の端の岩角にさえぎられて居るように思われる。ウェーゼンから見て、一番近く、一番立派に見えるのは、ラウティシュピッツ Rautispitz, 2284m. で、その東側グラールスの谷に対した斜面は、非常に壮観を極めておる。
「●ウェーゼンの春」のキャプション付きの写真
●ウェーゼンの春

 リントの流れを渡ると、一かたまりの小村がある、百姓家の間をぬけて左に曲ると、ひろびろとした牧場で、芽ぐんだばかりのポプラの並木や、村のところどころに仄白い花をつづっているスモモの花の上に、ぼーっと霞みだったなか空にぬけ出した、グレルニッシュの氷の山々が、昨日よりは遠く高く仰がれた。
 杖を草の上にほうりだして、仰のけになって花野の上に寝ころんだ。クラリヨンがやはり遠く近く響いて来る、そして暖かい春の日に照らされて、ポプラやあの西から南を限る雪の裾に、ちらちらゆれる陽炎が薫るのか、何んとも云えない花の香が、野を一面にたちこめている、大空には、ゆったりと羽をのした白鳥のように、根なし雲がたった一つ、ふわりと浮いて、「春の牧」はセガンティニの作に見る如く、その白雲のように静かである。
 日が高くなるにつれて、山にはぼーっと淡い淡い霞が一面にかぶさって、もう冬の時分のように、いくら晴れ渡った日でも、氷河や山稜アレトの削りとられた鋭い輪廓は、立体的には見えないで、薄い、然しフレッシュな色彩で、大空に画かれた蜃気楼ミラージュのように思われた。その蒼空に、時々おもい出したように雲雀レルヘが鳴く。
 ひるちかくなって、牧場みちをぶらぶらホテルに帰って来た、丘の日あたりに、空色の花がなすりつけられたのを、近づいて見ると、もうそこここに咲き初めた勿忘草ミオソティスである。
 グラールスの谷奥は、ずっと南に深く深く入りこんで、グレルニッシュの麓から、二筋にわかれる谷川の、右をどこまでも溯れば、三千六百米突をこえたテョーディ T※(ダイエレシス付きO小文字)di、峠ごしにラインの上流へ出て、この冬通ったサンゴタールのアンデルマットからフルカパッス、又は、右に折れて北へ北へと下ってゆけば、「ウィルヘルム・テル」のアルトドルフ Altdorf から、ルツェルンの湖畔、アクセンフルーへつづくのである。
 が、私は日数のせまった今となっては、此のグラールスの谷をのぞんで、空しく入り口から引きかえさなければならなかった、勿論テョーディに登山の計画もしたのではあるが、雪の柔かくなった春先きは危険が多いから、案内者も山の頂上までは御断りだと云うので、とうとう断念してしまった。そして明日は墺太利オーストリヤの方へたって、ティロールの山でも見ようと思って、今日の午後は、その仕度がてらツューリッヒまで急行した。
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ツューリッヒの再遊




 汽車はリントの流れに沿うて、なだらかな山の裾に、水をたたえた湿原のあいだを走ってゆく。ウンテル・ブーフベルク Unter-Buchberg の丘をこすと、二十五マイルにわたるツューリッヒゼーが、西の端までながながと見わたされる、幅は、一番広いところで、やっと二哩半しかないから、汽車の通う南の岸から、対岸の丘に並んだ段々の葡萄畑や、小村小村の百姓家の間に、ほうきを立てたようなポプラの梢にぬけだした尖塔や、またはその村路をのろのろ歩く荷車などが、手にとるばかりに望まれる。風は殆んど無い。水は蒼く沈んで、しかし夏の暴風の前に見るような静けさではなく、何となくのんびりして、村と云う村、木立と云う木立のはっきりとそのまま写った鏡の上を、遠く近く幾群れのかもめが、ゆったりと羽をのし、またはあわただしく入り乱れて、汽車にそって動くのが、雪国の春とは思われぬくらい温かい景色であった。
 実際スウィスの国のなかでも、ツーゲルゼーの以北では、その湖水にせよ、都会にせよ、またはこれ等のすべてのものを縦横に貫ぬく河の流れも、その住民とともに、山国らしい特徴は失ってしまって、何となく南独逸ドイツの平原が近づくのが明らかに意識される。
 湖水の西北のはずれ、リムマートの水の、落ち口に建てられたツューリッヒの街に着いたのが二時少し前で、通りに出ると、驚いた、何の御祭りだか知らないが、人波に埋められた大通りは、国旗や花で飾られて、あっちでもこっちでもブーブー楽隊がはやし立ててるんで面喰らった。銀行へ行ったが閉ってる、買物をしようと思っても一杯の人だかりで、表からは何の商売だか分らないくらいだ。レョーウェン・シュトラーセから大まわりに廻って、やっとアルペン・クェイに出る、少々気が利かないとは存じたが、往来の奴に問いただすと、大学の記念祭なんだそうな、馬鹿馬鹿しい、何も大学ぐらいの御祭りに、銀行まで休まなくったってよさそうなもんだ、殊によると日曜かなと思って、外套のかくしから念のため本日の新聞を取りだして調べたが、それにはたしかに、四月二十日、月曜日としてある。郵便局で記念絵はがきまで売りだして、変てこな服装をした行列なんかが画いてあるから、クェイを退屈そうに、くわえ煙管でうろついていた白髪の老人をつかまえて、聞いてみると、午後の四時に学生の仮装行列が通るんだって云ってた、大学生なんて者は、どこの国でも変人が多いと見えて、このいい天気に、山にも登らないで、往来をさらし者になるんだろう、気楽なもんだ、これでなくては学問なんか出来ないんだなと感心はして見たが、て困ったのは旅行の準備で、ティロールの案内記が一つ買えない始末だ。今日も、ビュルクリプラッツへ来て、山の見取図とにらめっこをする、かすみが、淡いながらかかっているから、図にあるように、はっきりとは見えないが、静かな水の端をめぐる、やや緑に彩られた丘の上に、アルプの雪が幕のように見わたされる、然しこの辺からは高い山はもう遠のいてしまって、グラールスの谷に並んだ山脈、左の端のグレルニッシュから、南へ波をうってやや高いのがハウスシュトック Hausstock, 3150m. とビフェルテンシュトック Bifertenstock, 3487m. それから群峰の最高点、三千六百二十三米突メートルのテョーディぐらいなものである。
 プロムナードの、プラタヌスには緑が萌えて、この人出さえなかったら、万更の景色でもあるまいに、何しろ騒々しくてやりきれない。そのうちに御寺の鐘が一時に鳴り出した、馬鹿馬鹿しいと思いながら停車場の方へ動いてゆくと、そのうち、もまれもまれて一緒に動いていた人波が、ぱったりと停って一歩も前へ出ることが出来ない。遠くで喇叭ラッパが響いて、耳の端でわーっと騒ぎ出した、爪立ってそっちを見ると、行列が狭い往来を一杯にねって来る。街の奴等は丈が低いから、少しのび上ると帽子ごしによく見える、何でも時代行列なんで、ディオゲネスが桶に入って来るかと、思うと、女学生のはねっかえりが、クレオパトラに化けて大勢の黒ン坊を従えて来る、独逸面のまずいクレオパトラは人を馬鹿にしているが、その奴隷になる学生は尚のこと気が知れない。モーアの建築が馬に曳かれて来る、すぐあとから中世紀の騎士が、楯をかざして乗って出る、衣裳や馬はさぞくたびれたろうと感心はしたが、行列はちっとも面白くはなかった。ものの三十分も待たされて、どうも非道ひどい目に会った。
 扨て、四時半の急行に乗り遅れては事だと、大急ぎで町をつっきって、停車場へかけつけると、すっかり道をとりちがえて、シールの川っぷちに出てしまった、今日は散々な目に会わされた。汽車には見事のり遅れて、次の五時二十五分は普通列車と来ている、それでも湖水のふちを走るとき、遠くからは神妙に静まりかえって見えるツューリッヒの、高塔の浮く水の上に、あすこに一とかたまりここに一とむれと、ちらちら散った鴎の群れは、矢張やはり何となくなつかしい。日はユトリベルクの上に沈んで、向う岸にうねうね並ぶ丘の上には、ほんのりと紅みを帯びた夕雲が、折り重なって湖水の水をのぞき込む。水はやや風立ったのか、小波さざなみがしびれを打って、丘もポプラも村の白壁も、そしてそのすべての上に押し重なるあの雲の影も、一様に融けて、ただ一と色の淡い紅色が、湖水のまん中を西北から東へかけて、帯のように流れてゆく。ツィーゲルブリュッケで、すり違いの急行を待つ間に、日はとっぷりと暮れて、やがて近づいたウェーゼンの高原は、夕闇の奥にグレルニッシュの雪が今宵も蒼く光って、しーんとしたホテルの丘には、ポプラの風にクラリヨンが響いて来た。
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墺太利へ




 四月二十一日も引きつづいて、天気は非常にいい。いくら眺めても見飽きのしないウェーゼンの春景色も、ヴェランダの朝飯を最後として、今日は別れてしまわねばならない。ティロールの山もいいには違いないが、最高峰と云うのが、三千八百米突メートルのオルトラー Ortler、規模から云っても、スウィス、フランスのアルプスとは、比較にならず、高さに至ってはモン・ブロンの四千八百米突は別にしても、スウィスの最高峰ミシャーベルの四千五百五十四米突、スウィス、イタリヤの国境にモンテ・ローザのドゥフール・シュピッツェが四千六百三十八米突、少し離れると石ころのかけらみたいに思われるマッターホルンでさえ、四千五百米突を超えているのに、ティロールでは一番高いのでもその標高とは大分ちがいがある。
 で、私の春の旅はの夏の登山の準備として、もしそれでも気に入るような山があったら、ついでに案内者ガイドの約束をして置くつもりで、比較的高山の多い、ホーエ・タウエルン Hohe Tauern の麓へ旅したのである。まず今日はエョッツターレル・アルペン ※(ダイエレシス付きO)tzthaler Alpen のふもと、インスブルックへの急行に乗った。
 ツューリッヒ発の急行列車は、十時八分にこのウェーゼンをはなれた。線路はこの間来たウァーレンゼーの湖畔から、フールまでは同じ路で、ここから初めて北に、墺太利オーストリヤへ、尚もラインの本流に沿うて下ってゆくのだ。ウァーレンシュタットから、もう此の湖水も、フールフィルシュトの山脈もかくれてしまって、暫くは狭い渓の間を走ってゆくと、やがてサルガンスの辺り、ラインシュトロームの本流に出会った。この前には昼寝をしてしまって、つい気がつかなかったが、河幅はよほど広くなって両岸にせまる黒木の森の裾に、打ち開いた牧場のあちこちから、クーライエンが窓にひびく。
 フールからカナールの多い山間の平野をラインに沿うて北へ下る。国境に近くなると、山が幾重にも重なって、真白な雪に覆われているが、高さは、その様子を見ただけでも、余り高くないのがすぐ知れる。墺太利の境いにつづくレーティコン Rh※(ダイエレシス付きA小文字)tikon の山脈では、シルヴレッタホルン Silvrettahorn, 3248m. やフルフトホルン Fluchthorn, 3408m. は余ほど遠くなって、線路に近いのは、二千九百六十米突のスツェサプラナ Scesaplana ぐらいなもので、地図で見るとそれでも氷河はあるようだが、どうせ大した山ではない。
 十一時二十五分にブッフス Buchs に着いた。税関の検査もただ一寸ちょっと聞くだけで済んだ。ラインは尚北流して、ブレゲンツの辺りにボーデンゼーにそそぐのであるが、インスブルックへの急行は、河を東に渡って、フェルトキルヒからイルフルッス Ill-Fluss の流れをさかのぼって、東南に向かう。インネル・ワルガウ Inner-Walgau と呼ばれる、イルタールは、思ったよりうち開いて、両側には狭い谷が口を開いている、サミナタール Saminatal の奥には、ギザギザのドライ・シュウェステルン Drei Schwestern, 2097m. がちらっとのぞかれた。蒼白い流れに沿うた緑の原に、崩れ落ちた城あとがある。ブルーデンツ Brudenz から真東に、なお上流に進むと、谷はイルの支流のクロシュテルタールとなって、窓から見える山は深くはあるが、次第次第に低く、むしろ平凡な景色になってしまう、スウィスに入るのに、此の方面から来たなら、割合に失望は感ぜずに済むだろう、オーベルラントから、又はベルニナの方からやって来ては、山の低いのに第一に失望するのは当然である。
 谷のつき当りのランゲン Langen から、アルルベルク Arlberg の大分長い隧道をこすと、水は今までと反対に、東に落ちるインの流れとなって、山の形も麓の様子も、よほど面白くなって来る。
 殊に東アルプスの特徴とも思われる粗末な聖像が、雪の山の裾に打ちひらいた緑の原の、野菊やタンポポが咲き乱れた牧場のふちに立てられたのが、あれはテューリンゲンの森ではあるが、タンホイゼルの背景を見るようでなつかしかった。比較的旅人の入り込まない、オスト・アルペンの長所は、山そのものの美しさや、又は物凄さが、私達に、かえってなつかしい感じを与えるのではなく、自然と人間と、山と里の落ち合った、その深い谷奥の物寥ものさびしい有りさまが、人の世を離れ得ない、未練の残る人々に、何とも云えぬなつかしさを与えるのだ。従って山の頂上ばかり目的にする登山者には、岩登りの危険が幾分の面白味をそえるにしても、山そのものの快味は、遥かに少ないように思われる。
 ランデック Landeck でイン河の本流に合する。河幅はあまり広くないが、岸の牧場にあふれるばかりにながれ落ちる水は、いかにもたった今氷河から融けて来たと思われる、底濁りのある蒼色で、その重々しい様子が、キンバイの咲き乱れた鮮やかな川岸の草原と、面白いコントラストを示しておる。山は近いが、鋭い岩角はだんだん少なくなって、一寸、東穂高の街道でも旅しているような気がする。インスブルックに着いたのが午後三時半、今日の汽車は今までたった一人で喫煙室を占領していた。
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インスブルック Innsbruck




 ティロール一の都会、六万四千の人口を有するインスブルックは、登山の中心センターと云うほどではないが、まずオーベルラントのインテルラーケン、信州ならば大町で、案内と荷造りに一日つぶして、て次の日は起きぬけに麓までと云った、山懐の町である。雪は近いが、大通りから仰のくのは、やっと二千四、五百米突メートルそこそこで、シャモニーから見たモン・ブロンの連脈や、インテルラーケンから仰いだユンクフラウ三山と云うような、立派な山は大分遠い。街をぐるっと取りまく雪の尾根は、東西に貫ぬくインフルッスと、南から落ちるシル Sill の渓を隈取りにして、仰のく空の八方は、ギザギザの雪の山稜グラートで限られている、そのいくつにも枝に分れた尾根の端は、タンネ唐檜フィヒテが欝蒼として、街の人家や尖塔の白くひかったのが浮き上って見える。
 中央停車場ハウプトバーンノーフの広場をへだてた、ホテル・ヴィクトリヤに泊り込む。カフェーがすむと早速街に飛び出した。
 インスブルックの建てられたのは、千一百五十一年、十五世紀の初めからティロールの首府になったと云うが、由緒ある都会の割り合いには整っていて、あまりきたなくもない、大通りの突き当りはいずれも山の雪で、折りからの夕日をうけて眼が眩むようだ。
 場所がらで登山用具やローデンの切れ地など、並べた店が大分眼につく、エキセルツィア・プラッツから、サッゲン・シュトラーセの電車通りをまっすぐに北へぬけると、もうじき町はずれで、岸にあふれるばかりにざあざあ流れるインフルッスのすぐ向う側は、ミューラウの小村で、ハーフェレカール・シュピッツ Hafelekar Spitz, 2334m. の直下、ホェッティンゲルの森の間に、ウァイエルブルク Weierburg の城が見える。山の雪は中腹で消えて、青葉若葉の木立の急斜には、あちこちにいくかたまりの人家の、白堊の壁や窓硝子が、雪よりも強く光っている。川のふちのアレーを、ラウフシュテークの橋へ出て、ホーフガルテンに入った、高山植物園があったが、やっと芽が出たところで、花はまるで、咲いてない。街の中をぶらついているうちに日がくれてしまった。夕方はなかなか寒い。
 翌日は起きぬけに、町の南のイゼルベルク Isel-Berg に登る、登ると云ったところで、たかが展望のきく丘に過ぎない、それも街の四方を取りまく山脈が、通りで仰のくよりは、高く大きくなるだけで、要するに大山脈からは大分縁が遠い、どう考えてもインスブルックよりは、郊外から程遠からぬ停車場のフョルスか東側のハルあたりの方が、山の形も渓や牧場の様子も、遥かにいいと思われた。
 イゼルベルクを下りて来ると、一隊の歩兵が軍歌を唱いながら登って来る。山と兵隊はあんまり調和しないが、二部で唱ってるのが、聞いていても気持ちがいい、ハイドゥンを生みモツァールトを生んだ国は、兵隊さんの軍歌まで違うと、一寸ちょっと感心しながら山を下る。町の中をうろついてるうちに昼になった、十二時五十分ミュンヘンにむかう。
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ミュンヘン M※(ダイエレシス付きU小文字)nchen




 インスブルックからミュンヘンに行く線路は、三つあるが、私はイン河に沿うて、クーフシュタインからローゼンハイムへ出て行った。急行で三時間しかかからない、景色はだんだん平凡になって、停車場ごとに山が低くなって行くのは気がひけるが、プラットフォームにビールを売りに来るのが、独逸ドイツらしくてうれしい。
 ミュンヘンの滞在では、別に云うほどのこともない、停車場側のホテル・ドゥ・リューロープから街に出ると、すぐ鼻の先きに火事があって面白かったぐらいなものだが、石造で燃えでがないから見た眼はさびしい。イザールの中の島にある独墺山岳会に行って見た。
 私が今まで入り込んだ、山岳会の陳列場ではここが一番整頓して、建物もフランス山岳会みたいに、人のうちの三階を借りてるのとはちがってるし、規模も英国山岳会のような、狭っくるしいものではない、然し陳列品の中には、ベルンのスウィス山岳会の方に、貴重なものが多いように思われる。建物に附属して、一寸ちょっとした高山植物園があったが、植物はエディンバラの植物園に於ける如き、立派なものは見られない、まず小石川か日光と考えれば大きいにしても大した違いはないようだ。
 ユンクフラウのレリーフは四畳半ぐらいな奴がある。ティローレル・アルペンのはそれほどではない、マッターホルンはベルンのと同様イムフェルトの模型で、高さは二尺ばかりもあったろう。一番注意を惹くのは透明画で、例のアフリカ第一の高峰、ルーウェンゾリ Ruwenzori の探検家、ドゥーカ・アブルツィ Duca Abruzzi の寄贈にかかる、ヒマラヤ、及びルーウェンゾリの写真数十枚で、五千数百米突メートルの露営地からの頂上を霧の上に仰いだ素的なのや、熱帯の密林の間に氷河を望んだ奇抜な写真が非常に多い。
 場所がらだけに、ローデンのマントを一着に及んだ、ものものしいのがやって来る、ティロールのことを聞きたいと思って、事務所で聞いて見たが、そこには絵はがきを並べてる女の番人がいるばかりで、折角せっかく持参に及んだ紹介状も効能がなかった。
 私は三日の後、ミュンヘンを去ってまた山に近づいた。
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サルツブルヒ Salzburg




 ミュンヘンに別れる日、朝のうちニムフェンブルクの宮殿に行った。庭の池には白鳥や鴨が游いで、みず際の白樺の風になびくのが、もう、とうに都会から離れてしまったように思われる。名物のビーヤもシュタインの絶大な奴で飽きるほど浴びたし、これで名残りは更になしと、汽車は一時半発だから、ゆっくり庭の森の間をうろついてると、やがて小雨になった。ひたひたと水を渡って、林の奥に忍んで来る雨の音が、国にいた頃よく遊びに行った、赤城や神河内かみこうちの森の様子を思いださせる、ただ白樺は梢が枝垂れて、風にゆれるのが柳でも見るような気がした。雨あしは次第に急になって、池のふちを正門に出るころには、衣物も大分ぬれてしまった。電車で宿に帰る時分は、とうとう本降りになったらしい。
 サルツブルヒへはローゼンハイム経由の急行で、初雷の渡る南独逸ドイツの高原から、狭い山間やまあいを渓にそうて走るうち、霧も交って雨はますますはげしくなる。サルツブルヒに着いたのは午後四時、空はまっくらで、エリザベート・シュトラーセの七葉樹ウィルトカスタニエンの並木の間を、雨を切ってパルクホテルに着いた時は、何だかいやに陰気な町だと思った。
 喫煙室でカフェーを飲んでるうち、雨は次第におさまって、雲も大分薄くなって来たように思われる、外套をひっかけて外に出ると、メョンヒスベルクの空には、ところどころ雲切れがして、淡い夕日が、玄関のびっしょり濡れた敷石にさし込んでいた。
 サルツァッハ Salzach の流れをはさんで、カプツィネルベルクと、ホーエンサルツブルヒから、メョンヒスベルクへかけて、中世紀の城跡の多い急な岩山に、囲まれたサルツブルヒの町は、その森に覆われた山の景色ばかりでなく、南へかけて開いた、サルツァッハの流れにつづく高原も、その碧く沈んだ水の色も、また青葉若葉に包まれた街そのものも、いかにも感じのいい山間の都会である。アルプは南に近く、グロース・グロックナー Gross-Glockner, 3798m. や、グロース・ヴェネディガー Gross Venediger, 3675m. につづく、ホーエタウエルンから東に曳く、ニーデレ・タウエルンの山脈への発足点である。
 公園からサルツァッハの流れのふちに出る、七葉樹の緑が露をしっとりと浴びて、折りから人通りはまるでない、なみなみと岸一杯に流れ落ちる川むこうには、メョンヒスベルクの崖が、切ったてになって、何だか箱根の湯本あたりへ行ったような気がした。一時間ばかり散歩しているうち、また大降りになった、ホテルは私一人で少々さびし過ぎるくらいだ、晩餐のあとで主人にいろいろ聞いて見たが、彼の云うところによると、御客がよく行くのはの辺では、町の東に当って湖水の沢山たくさん集まったモント・ゼーからカムメルゼーをぬけて、トラウンゼーに行くんだそうな。写真で見ると中々なかなかよさそうだが、御客が多いだけに、氷河のある山からはよほど離れている、南にあたるケョーニッヒスゼーは、ホッホサィラー Hochseiler の山も近し、景色も大分おもしろそうだが、地図で見ると、袋みちの行き止まりで、同じ途を帰るのは馬鹿馬鹿しい。散々考えたあげく、ホーエ・タウエルンの麓、オーベル・ピンツガウなるツェルラーゼー Zeller See のほとり、ツェル・アム・ゼー Zell am See に行くことにした。
 サルツブルヒの展望台ガイスベルク Gaisberg, 1286m. も、登山鉄道は五月一日までは開けないし、歩いて暇をつぶすくらいなら、遠望なんて年寄りじみた真似をするよりは、ずっと近く山へ行った方が気が利いてると思ったから、さっぱりとこれは旅程から取りのぞいた。てそうきまると早いがいい、明日はサルツブルヒに御別れとして、夜は雨の音を聞きながら、地図と旅程に十二時過ぎまでつぶしてしまった。
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サルツァッハ Salzach




 朝になっても雨はまない、時々薄あかるくなって、小降りになるかと思うと、またまっくらに曇ってしまう。雨の中を街をまた一と廻りして、帰るともう十一時、降りしきる雨をついて、停車場へ急ぐ、汽車はトリエスト行きの急行で、街をはなれると、南に開いたサルツァッハの右岸にそうて、カプツィネルベルクの城の下をぐるっと廻ると、ガイスベルクが左手に表われた。谷の間にもう雪はないが、線の右ひだりに、流れをはさむ緑の牧場や、そのうしろからなそいにつづく、唐檜フィヒテや落葉松に、山毛欅や白樺の入り乱れた丘の間から、雨雲の裾にちらちら雪の山が見える。谷はだんだん狭くなって、水の量もいちじるしく減ったように思われる。蒼白い流れはもうらい瀬になって、頂には、春もすでになかばを過ぎた今でも、雪に包まれてあろうハーゲン・ゲビルゲ Hagen-Gebirge と、東に横たわるテンネン・ゲビルゲ Tennen-Gebirge の谷間たにあいを、ビショッフスホーフェンからシュワルツァッハの停車場に着いた。トリエストへは南へガスタインの谷へ入る、私は小さな汽車へ乗りかえて、なおサルツァッハの急流にそうて、午後四時ウンテル・ピンツガウの小村、ツェル・アム・ゼーに着いた。雨は小降りながらまだ止まない。湖水に沿うた停車場のピンツガウエル・ホーフに泊り込む、客は勿論私きりで、室には火の気もないから、外套なしではいられなかった。宿はいなかびた木造で、下には、あやしげなビュフェーを兼ねた食堂がある。丘の上で、森と牧場と、村の田舎家と入り違いになった西の山が、シュミッテンホョーエ Schmittenh※(ダイエレシス付きO小文字)he, 1968m. につづいている。
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ツェル・アム・ゼー Zell am See




 ツェルラーゼーの湖水そのものは、ケョーニッヒスゼーやオーベルゼーに比して、たしかに優っておるとは思われない。ピンツガウタールの落ち口の、南にうちひらいた谷あいに、長さ一里にわたってたたえられた、その水の色も、アルプスの山ふところにくされた湖としては、余り凄みに乏しく、また、それを取りまく山々も、雪は近いが、水ぎわに氷河の垂れ下るような、きびきびした景色とはまるで違う、その湖畔に建てられた、ツェル・アム・ゼーの村も、夏の間避暑に来る町の人達をあてにするだけに、田舎のくせに、いやに開けた風を見せつけた、要するに感じの悪い村である。まあこの近所の取りどこは、シュミッテンホョーエの展望台ぐらいなものだが、それもやっと二千米突メートルに足らないし、第一、見える山と云うのが、一番高いんでさえ、三千七百米突のグロース・グロックナー、その外はやっと三千米突そこそこだから、登るんならかく、遠くから眺めたばかりじゃ物足りない。天気は悪し、疳癪のやり場に困って、雨の中をびしょびしょ水ぎわをうろついて見たが、鉄道工事で掘りっかえした往来は歩けず、よほどこのままウィーンまで行ってしまおうかとも考えたが、何にしても一先ひとまず宿へ帰った上のことと、また停車場に戻って来た。
 そのうちに夕飯になる。食いものは随分まずい、酒も墺太利オーストリヤ流に、水でも割らなければ飲めないような酸っぱい奴で、ラインやモーゼルよりも更にまずい。汽車さえあれば、今夜のうちに発つつもりで室に帰ると、ヒーターに蒸気が通してあって、ぽかっとした室の中に一足ふみ込んだら、もう出かけるのが面倒くさくなって、そのままここに泊り込んでしまった。
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オーベル・ピンツガウ Ober-Pinzgau




 空は明るいが、湖水にはもやがたなびいて、対岸の山は雨の昨日よりなおうす暗い。ウィーンへ行くつもりで、早く眼をさましたが、どうやら天気になりそうなので、写真機一つぶら下げると、停車場へかけつけて、朝飯もたべずにクリンムル Krimml 行きの軽便鉄道に乗り込んだ。六時半と云えば晴れた日でさえ渓の中はまだ薄ぐらい。ホーエ・タウエルンの山脈は雲の中で、その鼠色の空と後ろにつづくシュミッテンホョーエの間だけが、蒼空は見えないがほんのりと山の朝らしい色をしている。
 汽車は湖水のすぐふちをまわって、ツェルラー・モース Zeller Moos の湿原に出ると、サルツァッハの流れをさかのぼって、やや開いたオーベル・ピンツガウの谷底を、西にむかって動いてゆく。地図をひろげると、すぐ前にひらくカプルネルタール Kaprunerthal の源は、カルリンゲル・グレッチャー Karlinger Gletscher、尾根つづきにグロース・グロックナーになっているが、カプルンの村のうしろは森から雲で、氷河らしいものはてんで見えない。
 この谷に並んで、やはり南から直角に、ピンツガウの谷に落ちるのがシュトゥーバッハタール Stubachthal で、「ウッテンドルフ Uttendorf 七百七十六米突メートル、南に開けるシュトゥーバッハタールの背後にヨハンニスベルク Johannisberg, 3467m. とアイスケョーゲレ Eisk※(ダイエレシス付きO小文字)gele, 3439m. の山稜を望む」と案内記に書いてあったが、それもやっぱり雲の中で、シュトゥーバッハの狭い流れを下したばかりである。
 五十三キロに及ぶオーベル・ピンツガウは、ロカールバーンでざっと三時間かかる。いくら行っても同じような、底の平らな谷間たにあいで、サルツァッハの水量も、それをはさむ両側の山も、同じような様子をして居る。昔はウッテンドルフからさきは、湖水になってたそうだが、今でもその跡ででもあるらしい水溜りが、低地のあちこちに見うけられる。
 クリンムルの一つ手前の、ローゼンタール・グロース・ウェネディガー Rosenthal-Gross-Venediger で下りて、ぶらぶら歩き初める。ローゼンタールは小さな村で、停車場の上の岡に、フーベルス・ガストホーフとした、宿屋らしいのがあるから、取りあえず入り込んで朝飯を命じた。室の窓は南むきで、すぐ下には、牧場の柵にしきられて、今上って来ただらだら路が、停車場へつづいてゆく。谷の真んなかはサルツァッハの流れで、丁度正面に開いた二つの谷がスルツバッハ Unt. u. ober Sulzbachthal、この間に屹えたミッテルコッフ Mitterkopf から、急な尾根がグロース・ヴェネディガーの頂上までつづいている。
 朝飯のうちに、窓にも朝日がさしはじめて、左にあるウンテル・スルツバッハの谷奥には、まるで曇り硝子に日がさしたように、淡い霧の中に、氷河か雲か、ギザギザにひび割れた、山頂の一角が隠見する。宿の婆さんは、私が日本から来たと話すと大喜びで、宿帳を持ち出して、名前を書いてくれと云った。停車場の名にまでついてるくらいだから、グロース・ヴェネディガーのすぐ麓だと思っていたが、だんだん晴れたのを見ると、ここから頂上は随分遠そうだ。
 宿を出ると、線路を横切ってサルツァッハに渡した丸木橋をわたって、オーベル・スルツバッハの谷に入る。百姓家が一軒あって、路はそこで終ってしまった。遠慮なしに裏口へ廻ると、牧場の柵になっている、見当がつかないから、それを飛びこして南へ南へと登って行った。原から、上はタンネ落葉松レルヘの交じった密林になって、頭の上の方に見える雪のそばまで、景色に変りはなさそうだ。草の上に寝ころんで、煙草をふかしながら見まわした。
 原には一面に勿忘草が空色に咲いて、野生の三色すみれに、黄色の桜草プリムラがある。それから小さなリンドウ Gentiana verna の、さえた瑠璃色が、何とも云えず美しい。私は誰の画だったか忘れてしまったが、ティロールの六月と題した、マーガレットが原一面に咲きそろった、ブルーの濃い綺麗なのを、テイトで見たことがあったが、山の蔭になった斜面などは、不自然とも思われるような、強い色を出してあると記憶する。春先きの今でも、どんよりと曇った日は別として、ティロールの山麓は、裾を取りまく牧場も、それをつっきって流れ落ちる水の色も、山の絶壁の、氷も、岩も、非常に濃いブルーを含んでいると感ぜられた。
「●オーベルピンツガウの汽車の窓より」のキャプション付きの写真
●オーベルピンツガウの汽車の窓より

 牧場を通りぬけて、もとの路を街道へ出ると、ぶらぶら、クリンムルの方へ歩きはじめた。晴れ曇りした朝の空も、サルツァッハの谷の上だけは蒼く澄んで、ワルトの鐘が、静かな村にひびき渡る。村の人達が、行きちがいに、グリュッセと云いながら坂路を上ってゆくのが、成るほど、今日は日曜なんだ。私は鐘が鳴ると云っては立ち止まり、グロース・ガイガーの氷に、日がさしたと云ってはたち止って、ヒーブルクの崩れ落ちた城跡の下を、西にぶらりぶらりあるいてゆく。
 ローゼンタールからクリンムルまで、やっと五キロしかないが、時間にしてかれこれ三時間もかかった。街道は、あるときは丘の斜面に、キンバイや三色菫の咲き乱れた間をぬけたり、またはさらさらと流れ落ちる、山川の岸に沿う牧場のふちをぐるっと廻って、行き止りになるかと思うと、柵のあいだに小さな木戸があって、また西の方へつづいてゆく。往来のところどころに聖像がある。画や小説で見ると中々なかなか詩的だが、いずれも身体を白くぬって、茨の冠は草色に、胸から手足にかけて血をべたべたぬりつけた奴だから、有り難いのなつかしいのなんて感じはてんで起らない。マリヤの像も路ばたに立ってるが、これも同様で、こう露骨な像は何にしても気味が悪くていけない。サン・セバスチヤノの矢疵やきずだらけなのも、異教徒の迫害の画も、伊太利イタリヤ派の有名な宗教画の大部分は、私には、不快な感じのほかに何ものをも与えない、同じ宗教画にしても、日本の地獄極楽の画などは余ほど茶気があるだけに、滑稽な感じが先きにたって、見ていても気持ちを悪くするほどではないが、こんな聖像よりは、必要だと思うなら、簡単な十字架かサイン・ポストでも建てた方がよさそうだ。
 少し行くと、路の曲りかどにまた立ってる。獄門の下でも通るように、顔をそむけてうつむいてゆくから、知らない奴が見たら、ははあ有りがたがって御辞儀をするなんて、よく有り勝ちな、見当ちがいな解釈をするだろう。どうかすると婆さんなどが、柱の下に丸くなって、しきりに拝んでるが、多分、私達は別に悪いことを致しませんから、こんなさらし者になりませんようになんて、祈ってるのかも知れないと思った。
 暫らく歩くとまた出会でくわす、今度のは絶大な奴で、身体の大きさもず小供ぐらいはある、例によっておんくびがかしいで、血がたらたら流れている、宗教も、平気でこんなのが見ていられるようになりゃ、申し分はないと感心しながら立ってると、向うの方で御早うって云った奴がある。往来には人っ子一人いない、はて変だなと思って見まわすと、居た居た、背広の胸がはちきれそうになって、申し訳けほどの低いカラーを頸につけた、四斗樽どころの騒ぎじゃない、五斗か六斗樽って大男が、牧場の柵の上に乗っかって、日なたぼくりをしながらくわえ煙管で下ろして、いやにげらげら笑ってる、こっちは御早うが咽喉につかえて、吹き出しながらそばに行く。
 対手あいてもおかしかったと見えて、まだげらげら笑いながら、やっとな、柵の上から地響きたてて、ずしんとばかり下りて来た。ははあクリンムルへ、もうすぐですよ、写真ですかな、今は丁度花ざかりでねってんで、ずしりずしり私のあとについて来る。路はまもなく牧場をはなれると、両側の山が狭って、川は南の山の裾に圧しつけられたように、低く小さくなってしまう。谷のつき当りに右側の山がとび出して、街道がその直下でぷっつり切れていると思ったが、急に左に曲って、その麓をぐるり廻って、なお西へつづくらしい。二、三軒の小屋と停車場がある、鉄道の終点でウンテル・クリンムル、て例のビール樽はそこの駅長さんであった。
 クリンムルでどこか見るところはありませんかなと、見たままの村だけれど、参考の為に聞いて見ると、むむそれやクリンムルの瀑でさあてんで、高さ何米突を並べはじめる、瀑なんかあまり珍らしかない、何か山のよく見えるところはないかって聞きかえすと、なーる、私も貴兄の御国に四年いましたがな、やどうも瀑じゃ、世界一のがありますからな、そんならファルケンシュタインですなあって云う。ファルケンシュタインは停車場上の小山のことだ。
「●ウンテル・スルツバッハ・タール」のキャプション付きの写真
●ウンテル・スルツバッハ・タール

 一緒に登ろうってんで、独りで呑み込んで、先に立ってのーっしのーっしと歩きはじめる、春のことで、日が永いからいいようなものだが、の道づれには閉口した、体重何十貫か知らないが、何にしても釣鐘を引っぱり上げるようなんだから、気の短かいものは我慢がなるまい、せいせい息を切って、立ち留っては汗をふく、そしちゃ貴兄の国の話をする、どうも話の様子がとんちんかんで、さっぱり私の国らしくないから問いただして見たら、カナダのことなんだ、人をアメリカ人と思ったのか、アメリカインディアンと間違えたのか、どっちにしても大した違いはないから、確かめては見なかったが、念のため「僕は日本人です」と名のりをあげたら驚いてた、クリンムルの駅長殿も、日本の名前だけはすでに知ってる。
 山と云うのは三方切ったてで、右は頂上の草原から、だらだらに狭い尾根が上ったり下りたりして、北側の山につづいてゆく。山の急斜には、樅と落葉松が蔽いかぶさっている。ところどころに露出した、石灰岩の滑らかな表面を杖でつついて、氷河時代アイスツァイトの遺跡でしょうなんて、知った風をして立ち留ったが、どこの地質の先生から教わったか知らないが、氷河の遺跡だか雨水の遺跡だか分るものか。日本に氷河がありますかって聞いた、ええこう云う氷河なら方々にありますよって答えたら、分ったんだかわからないんだか、変な顔をしてだまってしまった。
 頂上は小さな草原で、ゲンツィヤナと桜草が一っぱいに咲いてる、Himmelschl※(ダイエレシス付きU小文字)ssel に Himmelstern だって教えてくれたが、どっちがどうなのか忘れてしまった。登って来たうしろの方は、木立にかくれて見えない、崖の上に出ると、西はクリンムルの盆地で、カナールの水の二すじ三筋貫ぬいた緑の原にごしょりと一かたまり、人口四百の山村が、捨てられた体にかたまって、行き止りの谷底が南へ曲って、クリンムレル・アーヘンタール Krimmler-Achenthal になっている。例の瀑はその落ち口にあるらしいが、ここからは裾が白く見えるばかり、トリッセルコッフ Trissel Kopf, 3078m. が眼の前に屹えて、村から日がえりに登れそうに思われる。
 アーヘンタールを溯れば、ドライヘルン・シュピッツ Dreiherrn Spitz, 3505m. で、ビルンリュッケ Birnl※(ダイエレシス付きU小文字)cke からアールンバッハ Ahrn-Bach の谷になる、聞いて見ると、駅長殿身振りをまぜて、ウンデルシェーン! と誉めたたえた。駅長さんがほめるようじゃ、大した景色でもあるまいと、急に行く気がなくなった。
 春の花にはあぶがうなって、ゲンツィヤナの空色を見つめてると、気が遠くなるようだ、空にはながながと一条の雲が、クリンムルの谷を西南に横ぎって、そこにはライヘン・シュピッツ Reichen Spitz, 3305m. か、まっしろな山の頂が、トリッセルコッフの左に高く聳えている。私は身仕度をして立ちあがる、駅長殿ものそのそあとから山を下りる、発車は午後二時四十分、それまでひまそうな駅長室に、煙草をふかしながら座りこむ。駅長殿は日給六クローネ、細君に娘が一人で、官舎で電灯がただだから、暮しむきは楽ですって云ってた。
千九百十四年四月十四日―二十七日
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ベルン Bern




 街には、糸の小雨がしとしと降りそそいで、アヴェニューのスズカケノキの青葉若葉、しっとり濡れた石だたみを、行き来の人の靴音も静かに、レインコートではなんだか少し膚寒いものの様子が、ず、春の朝のそれも若葉しぐれのけ方と云った調子、七月も半ばはとうに過ぎた、二十四日とは、まるで感じがちがう。停車場からプラッツへ出ると、もやが深く、オーベルラントの山はもう近いなとうなずかれる。
 汽車の中でも停車場でも、博覧会のびらばかりで、この分では、やり切れまいと思ったが、来て見れば、別に心配したほどの騒ぎでもない。ブリュックフェルトの丘の上に、木立の奥に白い建物がちらちらして、青、白、赤、綺麗な彩をとりまぜた大旗小旗が、風もない街のうしろにだらりとしたのも、アーレの水は緑に冴えて、切ったての崖は昔ながらの鉄城に、敵はもう遠く落ちのびたそのあとへ、朝がけに乗り込んだ勇士のように間がぬけている。
 迎えに来ていたポルティエに荷物をあずけて、朝飯は、白ら白ら明けにたたき起こされた国境のバーゼル Basel のビュフェーで、使い残した独逸ドイツの銀貨で、もうの夏はこちらへ来ないつもりだから、総仕舞にちと大袈裟に詰め込んだし、の天気では、街から今朝は山は見えずと、大通りを落ちつきはらって、雨の中をぶらりぶらり、傘もささないでやってくる有りさまは、我ながら勇ましい。
 第一に眼についたのが登山用具、これは場所がらなり場合が場合で、欲しい奴が大分あるが、有り金残らずはたいても、限りがなさそうだから素通りにする。次は絵はがき屋、これは金はかからないが、集めるとなるとかさ張って、すでにハイランドで四百枚、ノルウェイの五百枚、ベルリンのオペラものが三百何十枚、スウートケイスの一つはフィルムと絵ハガキで、ものの五貫目はあろうという始末、どうせベルンには二度や三度は帰って来るつもりだから、その折りのこととして、ここもさっぱりと素見ひやかして通った。洋服屋の旅行服も、さしあたって用はなし、シュネーフーンの帽子飾りも、一と月から山に入るには邪魔になるばかりで腹のたしにはならないと、て次が本屋、これはまず正面を切って這入り込む、鼻眼鏡のおやじが出て来て、何を買うんだって顔をしている、さあ店には這入ったが、買うものにはまだ腹案がない、何れにしても、地図と教科書が何につけても必要だから、地図はジークフリートの五万分の一地形図、フィンシュテラールホルン群山の折り本、オーベルラントの有名な山は、残らずこれに含まれてある、次にテオドゥルパッス、これにはミシャーベルやモンテローザを始めとして、マッターホルンからダン・ブロンシュに及んでいるから、四千米突メートルを目安にしても、一と月の山登りには荷が勝ちすぎる、扨て参考書だが、帯は愚か、たすきにもならない本ばかりで、あれでもなしこれでもなしと、やっと捜がし出したのがオーベルラントで四冊ものの登山案内、
 Dr. H. D※(ダイエレシス付きU小文字)bi―Hochgebirgsf※(ダイエレシス付きU小文字)hrer durch die Berner Alpen. ※(ローマ数字1、1-13-21) - ※(ローマ数字4、1-13-24) Band. と、もう一つはスウィス山岳会出版の、ウルネルアルペンの案内記で、
 Clubf※(ダイエレシス付きU小文字)hrer des Schweizer Alpen-Club; ―Urner-Alpen. ※(ローマ数字1、1-13-21). ※(ローマ数字2、1-13-22). Band. この両方は記事もくわしいし、記載も極めて明瞭である。ボールのガイドブックは日本からる持ち廻って、バルカン半島をのぞいて全欧洲は云うに及ばず、北アフリカの旅行でも、泊り泊りのホテルの寝台で、暇さえあれば繰りかえして、もう日本へ送り返してしまったから、あらためて買う用はなし、本場とは云うものの、思ったより登山案内はないものだ。
 扨て、本をかかえて四つ角を左に曲ると、宿のモン・ビジュー Mon Bijou、ファウストのエリヤにでもありそうな、ホテルの名前が気に入ったから、バーゼルから電報をかけて置いたが、取ってあった室も、小綺麗な角座敷で、気持がいい、何をしていたんだいって格構かっこうで、絵はがき用のスートケイスが、ポルティエは一時間も前に着いたそうで、室の真中にぽかんとしている。取りあえず、寝起きのままの顔を洗ってしっとりとした衣物を着かえると間もなく昼飯だ。
 酒の上もあるし、汽車の疲れでぐっすり昼寝をする。何しろ、昨日の午後三時三十三分に伯林ベルリンをたって、いくら急行だって、エヤフルトからフランクフルト・アム・マインと、トューリンゲンの森をぬけて、ラインガウを通って、エルザースを素通りにして、国境のバーゼルで一時間待たされて、オルテンを通り越して、さてこのベルンだから、十八時間の乗りづめでは、うっかりソーファにりかかっても、室がごろごろ動くような気がした。眼がさめると二時少し過ぎ、窓に小雨は淡くかすんで、十五分目の時の鐘だろう、どこかの会堂の鐘の音も、京の寝ざめを思い起してなつかしい。
 ベルンで第一に行くべき場所は、クライネ・シャンツェ Kleine Schanze とアルピネス・ムゼウム、キルヘンフェルトの橋のたもとは、今日は山が見えないから、明日のこととして、レインコートに身をかためると、霧雨の中を、気持ちよくぬれながら、また大通りにやって来る。街に出て最初に眼につくのは、大路の四つ角に建てられた、いろいろな形の噴水である。オーベルラントはすでに高原で、ベルンは街を貫ぬくアーレの急流を、絶壁の底に下ろした、丘の上に築かれてあるが、水が十二分に街に行きわたっておるのは、スウィスの都の特徴であろう。噴水の多くは十六世紀の建造と云うが、一つ一つおもむきの異った、古びたのが、どれを見ても由緒ありげに思われる。山岳会の陳列場は、ワイセンハウスプラッツから、右に曲ったツォイクハウス・ガッセで、建てものはミュンヘンみたいに立派ではないが、千八百七十四年に、万国聯合郵便大会が初めて開催されたと云う、曰くつきの家だから、門口にカントンの紋章をうって、表からのぞき込んだばかりでも何となくかびくさい。
 二階に上ると女が出て来た。入場料は五十ソンティーム、階段のとっつきからすぐ陳列場で、室に入ると、第一にイムフェルトのマッターホルンと、シモンのユンクフラウ群峰グルッペのレリーフが眼につく、殊にマッターホルンのは、塗りあげた色の調子が、何とも云えない感じがする。剥製の箱は素敵に大きなもので、シャモアの立派なのが三びき、シュネーフーンに狐やフュレーなどは、冬毛と夏毛をわけて、山草をあしらった大きな台にのせてある。地図にスケッチは、無論のこと壁一面にかけてあるし、大小のレリーフに動植物岩石の標本から、写真、絵画、彫刻。画や写真の大きいのは、博覧会に出品されて、立派なのは少ないが、木彫りに一ついいのがあった。ベルククリスタル Bergkristall と云う題で、水晶の周りに、髯の長い小人ツウェルクが三人かたまって、のみで削ってる置き物である。
 登山用具の陳列室は、まあ一度這入ったら、一寸ちょっと、出られまいと思われるくらいで、ロープにアルペンシュトックは無論のこと、リュックサックに救命用具、食器、食糧、何足あったかつい勘定もしなかったが、ネイルドブーツにカンジキが棚一っぱいに並んで、隅の方に草鞋が一足、疲労つかれたていにぶら下げてある。ロープとリュックサックは、ティンダル博士がワイスホルンの登山に使ったと云う、頑固な奴だの、救命用具では、丁寧に、かつぐばかりにズックの担荷に包んだ、等身大の人形まで並べてある、繃帯の間から蒼ざめた顔を半分だして、御前も気をつけなよって云ってるようなのが気持ちが悪い。そうそう、去年の秋は、伯林で、山から落ちた奴を村へ担ってゆくところを画いた油画を見たが、ティロールの山が画の大部分を占めて、人間のかたまりは下の方に小さいから、画題はちょっと気になったが、感じはこれほど露骨ではない、何もりに選って、山の上から落っこった奴を画かないでも、外に画題は沢山たくさんありそうなものだが、ああやって怪我をしたところでさえ、名画の仲間入りのできるところを見ると、なかなか馬鹿に出来ない、無事に頂上に辿り着けば、名画は愚か、何の題にもなることだろうといささか気が強い。そう云えば、イム・バンネ・デヤ・ユンクフラウ Im Banne der Jungfrau には、アイスメーヤを見物に来た旅の男が、クレヴァスに落ちて、やっと死骸を引っぱり揚げた瞬間の、朦朧とした写真があるが、いくら画や写真の題になっても、こんな担荷で下ろされるのはいやだ。アクシデントは、アルプスだけで年に何百件とあるし、エーデルワイスを採りにいって、下らない山で往生したり、冬の間、村の近所で雪に埋まったなんてのは別にしても、本式の山登りで死ぬものが、山岳会の年報だけで、毎年八、九十人はあるんだから、陳列品に、御前も気を付けなって顔をされても仕方がない。道具は便利かどうか知らないが、まあ、御厄介になることだけは御免を蒙りたい。
 高山蝶の標本もよくそろっている。山草は措葉さくようでは余り見映えはしないが、エーデルワイスは生品と変らないし、その外の色の変るものは、写真に彩色したのがあるからよく分る。アルペンローゼ Alpenrose; Rhododendron ferrugineum とエンツイヤン Enzian; Gentiana acaulis と、雪線近くまで生えると云うソルダネルラ Alpengl※(ダイエレシス付きO小文字)ckchen, Soldanella alpina が、まずアルプの山草の代表者と云う格である。
 三時間ばかりたつと門限で、例の番人が追い出しに来た、戸口にそなえてあった名簿を見ると、日本加賀正太郎と、ゴジックで無くてはとても感じの表われない、平たく云えば、いかにも山登りらしい、達筆にしたためてあったが、千九百十年の秋のことで、シャモニーの帰りに寄ったんだろう。日本なんかに引っこまないで、一緒に来ればいいのにと思うにつけても、なつかしいより腹が立った。扨て表に出ると、雨は上ったが雲はまだどんよりと、街の上に垂れかかって、日の永い頂上だが、もう暮れかけたようにうす暗い。
 ベーレンブラッツから街をつっきって、キルヘンフェルトの橋に出る。雲は暗いが、いかにも高原らしい。ユンクフラウを真ん中にして、ブリュームリスアルプからドルデンホルンまで、オーベルラントの名のある山で、一万尺を超えたのが、三十三も見えると云うが、今日はベルプの裾が、雨雲から滲じみ出ているだけで、雪らしいものはまるで見えない。
 アーレの急流は、深い崖の底に渦を巻いて、氷河の水に特有な、それを思うだけでも胸の躍る白味がちな蒼色が、S字に街を横ぎってゆく。崖の上は、ブンデスパラストが青葉の上に屹えて、クライネ・シャンツェの木立の間に、鐘塔の頂は、雨雲に触れそうになっている。雲はじっと動かない。
 流れにそうて、崖の上を、アーレ・シュトラーセからミュンスターの下を通って、川なりに、ぐるっと大まわりに廻って、大通りに出ると、刻の鐘が六時を報じて、飾りたてた両側の店に灯が入る。登山用具、絵はがき、洋服屋と、さっきの店を門並みにのぞきながら、ヒルシェングラーベンのホテルに帰る。
 晩餐は、酒も登山前だからひかえ目にして、室に這入ると地図と教科書を散らかして、いよいよさしせまった計画に取りかかる……。
 散々考えたあげくだが、案内記を見ると、また計画がひっくりかえって、日本にいた時分は、モン・ブラン、ユンクフラウ、マッターホルンの三つに登って、あとは一万尺内外の、余り金のかからないところで我慢しようと思っていたのが、此の冬思いがけなく一と月をスウィスで暮らして、山登りの見当も相応につくし、ユンクフラウとメョンヒも正月の末に登ってしまって見ると、つい慾が出て、下らない山を数でこなすよりは、いっそ大袈裟にやっつけようかなんて、野心もまんざら起らぬでもない。アルプスに幾座の高山があるか、梅沢君みたいな熱烈な愛山家は、一寸世間に類が少ないと見えて、まだ山岳高度表も出版されないようで、私にはまるで見当がつかないが、四千米突メートルを標準にして数えると、シャモニーの附近で見わたしたところ十一ある。スウィスではイタリヤの国境を含むヴァリスの附近に、よくは数えても見なかったが、四千六百三十八米突のモンテ・ローザを始めとして、三十ばかりは見出される。無論、尾根の突起や、頂上の一角などは別にした話で、それを入れた日には果てしがないが、それ等の中にも尾根づたいには行かれないのが少なくない。オーベルラントには全部で九つ、高さの順に書きあげると、
Finsteraarhorn, 4275m.  Aletschhorn, 4182m.  Jungfrau, 4166m.
M※(ダイエレシス付きO小文字)nch, 4105m.  Gross-Schreckhorn, 4080m.  Gr. -Fiescherhorn, 4049m.
Gr. -Gr※(ダイエレシス付きU小文字)nhorn, 4047m.  Gr. -Lauteraarhorn, 4043m.  Hinter Fiescherhorn, 4020m.
 だから、ユンクフラウとメョンヒを除いて、七座の高山が残っている。やりかけたついでだから、計画は随分大それたものだが、まず此の残りの四千米突を片っぱしから平らげて、まだ期節シーズンが過ぎなかったらミシャーベルのドームに、ナーデルホルンとモンテ・ローザ、暇があればマッターホルンへ登って、気がむいたらモン・ブロンだが、これは此の冬ユンクフラウで、Netネット stotzigシュトツィック, numeヌンマ spatzirtシュパツィールト!” なんて、ガイドの奴が馬鹿にしていたし、危険は余りない方だから、気が向きそうにも思われない。
 登山の期節シーズンは、このくらいの高さになると、雪線はずっと麓になってしまうし、第一、二千米突以上の山では、天気が悪ければいつでも吹雪シュネーシュトゥルムで、真夏だって冬と同じだが、何れにしても、八月一っぱいと限られている。七月も半ばまでは、グリムゼルやゲンミパッスの峠に雪があるくらいで、急な山にはとてもとっ付けない。私は別に日数に制限はなし、懐ろ都合さえ満足なら、今年の冬までこっちで暮らして見たいんだが、山登りの方は時期があるから、そう思うようには登れまい。インテルラーケンで落ち合う筈の近藤茂吉しげきち君は、倫敦ロンドンからやって来るんで、急がしくって急がしくってとか、何とかかんとか体裁のいい事ばかり並べたてて、旅行は一と月限り、九月一日は夕方までに是非倫敦に帰るんだなんて、几帳面なことをしゃべっていた。
 ところで、旅行は近藤君と一緒に、八月一っぱいやることにして、この二十六日に、インテルラーケンで出会でくわす約束になっている。何がさて倫敦で逢ったときも、先生掛け引きがうまいから、グラスゴーから週末ウイークエンドでわざわざやって来たと云うのを恩にきせたつもりで、時に、僕はどうも急がしくって、登山案内記のくびっ引きはとても出来やしないよ、万事君に一任することにしたのだから、どこをどう通って、山に登ろうが登るまいが、すべて君の随意でいいってんで、計画は一切、人におっつけてしまった。山で怪我をしても知らないよっておどかすと、そのつもりで傷害保険をつけて来たから大丈夫だって、飲み込んだものだ。傷害保険をつけさえすれば、危険は身に及ばないと思ってるらしい。それに遺言はちゃんと金庫にしまってあるから、後の心配は少しもないなんて、その用意周到なのには一驚を喫するに価する。そこで右の如く、計画は一切私が引きうけた訳になったんだが、何ぼなんでも相談しないわけにはいかないから、こっちも急がしいし、面倒くさいなかを工面して、幾枚も幾枚も、折り折り変更されたプランを書いて、ノルウェイから送って置いた上、いよいよ此の二十六日に、インテルラーケンで会合と話がきまったのだ。
 登る山はオーベラントで以上の七つ、ウァリスの方を加えて、四千米突の山岳を、此の期節シーズンに、十はどうあっても登ってしまおう、此の次に来ると云っても、おいそれとは行けないから、何でもかんでもこの十だけは平らげようってんで、予算にはすでに五千フランを計上した。次に登路だが、グリンデルワルトから入るとすると、最初がグロース・シュレックホルンで、オーベルラント第一の嶮山と云うのに一寸気がさしたから、みち順は少し悪いが、グリムゼル・パッスからローンの渓へぬけて、コンコルディヤの小屋を中心として、比較的楽なフィンシュテラールホルンを先きにして、足ならしの上で、大ものにとっ付こうかとも考えはじめた、がそれは近藤君と相談の上にしよう。
 昼寝をしたせいばかりではない、山登りが近づくと、いつもの癖だが、居ても立ってもいられなくなって、夜は落ち落ち寝つかれない、いろんな夢を見て、びっくりして飛び起きるのは毎晩のことだ。今夜も会堂の刻の鐘が、一つ打ち、二つ打ってもまだなかなか眼がさえている、と思ったが、いつの間にかとろとろとしたと見える。
 ねむられないと云っても、朝は七時頃まで床に入っていたから、顔を洗うと、眠けはさっぱりとどこかへ行って、気持は今日の天気みたいにはっきりして来る。カフェー・コムプレで朝飯デジュネーが済むと、ひっちらかした荷物を一と通りかたづけて、停車場前のプナッツから電車に乗って、博覧会の見物に行く。
 街はずれだから、場内は思い切って広くとってあるが、陳列場は大したものではない、然しそれに就いて断言は決してしない、何しろ高山植物の陳列と、山岳会館と、狩猟に関する陳列場だけ見て帰っちゃったんだから、余り文句を云う資格はない。山岳会の出品に、木造の小屋クルーブヒュッテがあったが、形もよし、東屋がわりに庭先きに一つ欲しいと思った。博覧会が終ると、いずれどこかへ持ってゆくんだろうが、どの山に建てるのか聞かなかった。場内には写真のいいのが大分ある、日本でもこう云う出品ができるようだといいがなあと、つくづく羨ましい。シーにシュリッテンは、遊就館みたいな気がする、登山服や帽子には、着るには惜しいようなのが沢山たくさんあるが、あんななりで登った日には、気がひけて思い切った離れ業ができまいと、どうせ買わないんだから冷やかして通る。狩猟館の方も非常に面白い、シャモアやヒルシュの首だけ剥製にした飾りものが、場内の壁一面に並べてある。熊なんかも、カントン・ベルンの紋章にするくらいだから、昔はこの辺にも沢山いたに相違ないが、今でも相応に捕れると見えて、大小とり交ぜた剥製がかなりある。漁業の方は素通りにして、御隣りの美術館に入る。山の絵があるかと思ったが、たった二、三枚で、印象の残るようなのは一枚もない、それから、油画のかなり大きな奴で、今だに訳の分からないのがある、何でも男だか女だか、人間らしいのがぶっ倒れて、の胴中から、女が飛び出して宙に浮いてるんだが、何のつもりだか見当がつかない、首をひねって立ってると、可愛らしい子供をつれた仏蘭西フランスの女がやって来て、これはどう云う画なんですって聞かれた、実はこっちから聞きたいくらい、何だかさっぱり分りません、今考えてる最中ですと答えたら、今度は誰の画ですって聞いた、一寸のぞくつもりで出品目録も買わないから、作者の名前も同様に見当がつかない。
 一時頃にホテルに帰って来る。昼飯が済むと、ポルティエに荷物をあずけて、買い物がてら街をぶらついて、その足で停車場へ行く。インテルラーケン行きの発車は、二時三十五分、ミュンシンゲン経由の急行で、この間が一時間と十分かかる。
 アーレの鉄橋を渡ると、ベルンの街は白壁や石造の建物が、青葉の上に遠のいて、線路は、樅の立ち木にしきられた街道に沿うて南へむかうと、ひろびろとしたウィラーフェルトの牧場になって、青々と草の茂った丘の上に、なつかしいシャレーの赤屋根が、林檎か梨か、くだものの青葉の中に見えるのが、空は柔らかに晴れ渡って、セザンヌの画でも見るような気がする。左は、ながながと横たわる丘の木立で、エンメンタールと限られて、南から右手へかけて、残雪のあるギザギザにひび割れた岩山が、トゥーンの岸のシュトックホルン Stockhorn, 2192m. の山脈だから、シンメンタールはあの裏山の蔭になるらしい。
 汽車はミュンシンゲンの小さな町で一と息入れて、なお南へつづく高原をまっしぐらに走ると、シュトックホルンの左に並んで、トゥーンの湖水の南に屹える、ニーセンのピラミッドが頂に雲がなびいておるが、カンデルタールに落とす北側の裾に、残雪が獅噛しがみついてるのが、手にとるように見える、麓は樅の密林で、その山の裾と、高原にはさまれた、トゥーンの水はまだ見えない。
 そのうちに、左の窓から、氷で築きあげたユンクフラウとメョンヒが表われた。乗客は――なり込んで、中には、登山服に身を固めて、アルペンシュトックに頬杖ついたいかめしいのも交じっていたが、――一斉に左の窓にかたまって、あーっと驚きの声が、室の中にみなぎった。実際驚くべきはその雪で、冬見たときと少しも変らない、ユンクフラウの頂上の直下に、ギーセングレッチャーのえぐり取った断崖の左には、シュネーホルンの薄い山稜アレトが強い午後の日に透きとおるかと思われる、氷河の右はシルベルホルン、それも真白で、黒いものは岩のかけらも見当らない、そのうちに左の端にアイガーが表われる。
 この三山とニーセンの間には、むくむくした雲が湧き上って、ブリュームリスアルプの群山は、山頂の氷が、キラリまっしろな雲の上に光っただけで、まもなく隠されてしまった。湖水から流れ落ちる、アーレの急流を渡ると、グリューシスベルグの森の麓に、遠くトゥーンの城が望まれる。
 ハイムベルクの裾を廻ると、町は次第に窓に近づいて、三山は木立の蔭にかくれてしまう。五分停車ですぐ次のシェルツリゲン Scherzligen に行く、ここは湖水のはずれで、インテルラーケンまでは水に浮かんでも行かれるから、乗客の大半は降りてしまって、あとは、大分静かになった。汽車は湖水を西から南に廻りはじめる、シュトックホルンはもう頭の上になって、岩ばかりの尾根が左に尽きたところに、シンメンタールの落ち口がある、左の方はひろびろと見わたす水の上に、三山はもう頂だけが前山の上に見えるだけで、その左には尖ったグロース・シュレックホルンの山頂に、白いフレックが二つ見えるが、二羽の白鳩 Die Zwei weissen T※(ダイエレシス付きA小文字)ubchen がそれである。トゥーンの水は蒼く澄んで、北側から湖水の半面にのしかかったベヤテンベルクの絶壁には、夏草か、緑は岩の間にまだらに見えるが、さすがにもう残雪はない。
 が、この目ざましい景色は、まもなくアウセルベルクの蔭にかくれて、右側の窓にはニーセンの裾が、汽車にすれすれになるくらい近く、左には丘の下にひろびろと見下ろす草原のポプラの果てにひろげられた、湖水の北をかざる山ふところに、オーベルホーフェンの村が、小さく小さく望まれる。丘は緑に覆われて、そのうしろに黒木の森の、山また山のあなたがエンメンタールにつづくらしい。
 シュピーツを過ぎると、もう二十分で、アーベントベルクの樅の木立も、フレッシュな若芽が萌えて、そこに囲まれた野や畑も、冬来た時とはまるで国が異ったようだ。湖水はだんだん狭くなって、ベヤテンベルクの麓には、絶壁の間に、大瀑小滝が糸を乱してかかっている、そしてその頂から、ハルデルに曳くなだらかな斜面には、緑の原に赤屋根の村がのぞまれる。
 こうして再、インテルラーケンに帰って来たのが午後四時、プラットフォームに飛び下りると、人込みの中に、にこにこして、例の気の抜けたポルティエが待っていた、荷物を持たせてベルネルホーフに入る。
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インテルラーケンの五日




 先き程電報を戴きまして、丁度表二階があいておりますからってんで、旅の宿屋も御なじみになると気持ちがいいもんだ。香水の象徴シンボルみたいな細君が出て来て、おや、いらっしゃいまし、又山ですか、今度はどちらへなんて、仏蘭西フランス寄りの生れだけに、しきりに、御世辞を並べている。とりあえず室に通って、着かえた上、庭のテレースに下りて来る、前に来た時は、一面に雪だったが、庭にはプラタヌスが茂って、広葉の蔭に並べたテイブルでカフェーを待つと、葉漏の日かげがちらちらして、陽気は涼しいがどことなく夏らしい。人通りもなかなかあるし。両側の店はどこも綺麗に並べたてて、見ちがえるほど景気がいい。
 空はうららかに晴れ渡って、緑になったルーゲンの森の上に、ユンクフラウはもう片蔭で、今にも溶けて消えそうなかすみの奥に、ぽーっと淡い雪の輪廓が認められる。アーベントベルクの麓、ハイムウェー・フルーの頂には、赤い小旗が風に飜って、ルーゲンパルクの、ユンクフラウ・ブリックにも国旗をかかげた、町の様子は、どうしても避暑地で、退屈そうには見えないが、いかにも用のなさそうな連中がぶらぶら通る。カフェーが済むと、その仲間入りをして、ホョーエウェークの大通りを、御なじみの写真屋にやって来る。娘だろう、これは顔は知らない、絵はがきを見ながら店さきに立ってると、いきなり、後ろから、ヘル・ドクトール、てんで大きなてのひらを出されて、びっくりして振りかえると、例のニクレス老人だ。大きな写真機をかかえてるから、何処どこへゆくんだって聞いて見たら、ナッハ・ルーゲンパルクって云う。うです、一緒に来ませんか、森でナトゥール・テヤーテルがあるんで、これからしまいの幕を撮しにゆくんです。今日はウィルヘルム・テル、ですって誘われたが、まあ近藤君が来れば、誘惑されるにきまってるから、明日のことにして御免を蒙る。
 仕度は、いずれ近藤君が来てからのこととして、何か参考になる案内記でもないかと、郵便局の少し先きのウェーリの店に這入り込む。冬の間もちょくちょく来たんで、肥った主婦おかみさんがにこにこしながらやって来た。本は余り無い、絵はがきを仕入れて、街を一と廻りしたが、どうも大変な景気で、方々のカフェーではコンツェルトがあるし、前には閉ってたクアザール Kursaal の正門にも、人が大勢たかっている。宿に帰ると灯がともされて間もなく晩餐だ。
 亜米利加アメリカ人が多いのを気にしたせいでもあるまいが、主人に案内されて食堂に通ると、テイブルの仲間は、仏蘭西人に英人が二人、こんな町で出会でくわす連中は、どこの国人でも、暇人に相違ない。話しも相応に持てて、カフェーが済むと二階に引きあげる。
 二十五日は、朝から雨が降っている。窓からはルーゲンの森が、霧の間に見え隠れするだけで、終日山の影は見えない、表へ出ると、昨宵の二人が玄関に立ってるヴァレーをつかまえて、しきりに何か聞いているが、相手はオーベルランデル・ドゥイッチ一点張りで、何をしゃべったって、腹がへって口がきけませんて顔をしている。何事かと思ったら下らないこった、トゥーンの湖水の岸にはどう行くんだって聞いてるんだ。初めての国へ来るんなら、地図の一枚ぐらいはずんだって、大した損になるまいが、殊に英国人には、こう云う手合いが少なくない。暢気のんきなのかも知れないが、同じ国の中でも、土地をはなれると、から駄目だ。そうそうハイランドの旅行中、ローデナン Rowardenan から、ベン・ローモント Ben Lomond に登ったが、嵐の中で、霧が真っ向うから吹き下ろして、地図と磁石では少々心細かったけれど、それでもどうにか頂上まで辿りついたが、宿に帰ると、グラスゴーからやって来たハイランダーが二人、私のあとを登って来て、山の中途から散々呼んだそうだが、返事がないから下りてしまったなんて、人を案内のつもりでいた、私も呼ばれたのは知ってるが、待ってるのは厭だし、道づれは邪魔だから、さっさと御免を蒙った次第だが、こう云う「旅行家」が少なくない。
 雨には少々気がひけたが、大した降りでもなし、室にばかり閉じこもって、腹工合もあまりよくない場合だから、案内――と云っても一筋路でわけはないが――ぶらぶら、一緒に湖水のふちへ出かけてゆく、御礼のつもりかしらないが、一人は傘をさしかけてくれる、生憎く先生丈が低いので、骨のとっさきで眼を突っつきそうで閉口した。
 ウンテルゼーエンの村路を左に曲って、くだものの木の茂った、牧場の柵に沿うて湖水に出る。雨足は、次第にしげくなって、水みちの白く乱れた湖には、水鳥が群れて遠浅にシルフの茂るあたりから、墨絵のように霞んでいる。ニーセンは無論見えない。岩の石の上に腰を下ろすと、雨にぬれた外套が冷や冷やして薄ら寒い、山入り前だし、風邪でもひくと大変だから、先きに別れて宿に帰ると、近藤君から電報が届いていた、倫敦ロンドンからかけたんで、明日の昼に着くとしてある。
 午後は雨もひどくなったし、室にばっかり閉じ籠って、頭が少し重くなる。山に這入れば髪も刈れず、幸い、時間つぶしに筋向いの理髪所に行く。おや職人が変ったな、と思いながら鏡に向って、刈りながら新聞を読んでると、親方が出て来て、鏡の中をのぞき込んで、やまたらっしゃいましたねってんで、まだ顔を覚えている。職人と入れかわって刈り初めたが、話はやっぱりルーゲンパルクの野天芝居で、役者はどこのもんで、衣裳がすばらしいなんて、髪結床らしい対話がはじまる。
 頭はせいせいしたが、天気は相変らず煮えきらない。大通りをぶらついて、カフェー・オーベルラントでコンツェルトを聞きながら、暇をつぶして大通りをぶらぶら帰りかけると、ニクレス老人に呼びとめられた、また這入り込んで話しこむ、御蔭で時間もたって、宿に戻ると灯ともし頃、晩餐が済むと、連日の寝不足なり、天気は悪し、思い切って早く床に這入ったがさっぱり、寝つかれない。
 次の日も朝から雨で、起きぬけに湯に飛び込んで、さっぱりしたところで朝飯にする。陽気はずれで素敵に寒い。荷物を始末して、手紙を書いてると、そのうち十一時になる。カレーから来る急行は半に着くから、雨の中をプラッツをつっきって、プラットフォームで待ってると、そのうち汽車が着いたが、近藤君の姿は見えない、ははあ乗り遅れたな、来たら一つとっちめてやろうと、手ぐすね引いて宿に帰る。それにしても、電報までかけときながら、変だと思ってポルティエに聞くと、今のはベルンから着いたんで、カレーの急行は少し遅れたんだそうな。失策しまったと大急ぎで飛び出すと、停車場の出口で、レインコートを引っかけた大男が、杖を振って合図をしている。や、来た来た、今迎えに行ったんだよ、君の事だから、てっきり乗り遅れたと思って帰ったところなんだと説明すると、あれはベルンから来た汽車さなんて、何れポルティエに聞いたに相違ない。
 きめて置いた室は、廊下つづきの裏二階で、アーレの上に、ハルデルのタンネが窓に近い。差しあたっての相談もあるし、馬鹿話しなんて余裕は、薬にしたくもない。それに二人とも、日本に差しせまった用事ができて、電報をかけるやら、手紙を書くやら、近藤君はコード・ブックの首っ引きで、今日はたちまち暮れてしまった。
 二十七日、三日ぶりで眼がさめるように晴れわたった。カーティンをあけると、朝日がさっとさし込んで、正面に聳えたユンクフラウに、中腹のグッギーグレッチャーから、湯気のように霧が湧きあがる。
 メョンヒの頂上は雲にかくれて、ラウテルブルンネンの左につづく、シンニゲプラッテの山腹から上には、雪が真白に積っていた。アーベントベルクの頂上には、綿帽子をかぶせたように、昨日の雨は山では雪であったと見える。
 ウェストン氏の紹介もあるし、取り敢えず、スウィス山岳会を訪問して置こうと思って、事務所を聞くと、主人もよくは知らないが、停車場前のホテル・メルクールで、度々たびたび集会があるようだなんて云ってるから、二人で出かけて訪ねて見ると、会の事務はヘヤ・フィッシャーが引きうけていると云う話だ、フィッシャー氏は郵便局前の宝石屋さんである。ところが主人は留守だってんで、山のことなんか、てんで気にもとめてない女が番をしていたから、午後訪問を約して引きあげる。
 天気もよし、少し街でもうろつこうと云うんで、大通りをぶらついて、一先ひとまず引き上げると間もなく昼飯だ。室にばかり引っ込んでても始まらないから、食堂を出るとテレースの椅子に腰かけて、キルシュワッサーを飲みながらカフェーにする。昨日の陰気な雨に引きかえて、今日はまた、胸の中まで透きとおるような上天気だ、往来にはしっとりと塵も静まって、プラタヌスの広葉をゆするそよ風も気持ちがいい。
 ホョーエウェークを、二人ともくわえ煙管で、のそりのそり、歩きまわる。近藤君は、身の丈一間になんなんとする大男、これでも日本人は小さいって云う気かって顔をして、大股に、寛歩かんぽをはこぶ有様が、そばについてるだけでも気が強い。フィッシャー氏はまだ帰らない、クアザールから、ホョーヘン・マッテの草原を散歩して、帰り途に大通の煙草屋に這入り込む。近藤君がしきりにシガーを撰んでる間に、何気なく入口を見ると、玻璃はり扉にグルンダーと記してある、おやっと思って、貴君は、日本から山登りに来た、加賀って男を知ってますかって、念の為に聞いて見ると、おお、ミスター・カガ、ユンクフラウに登る前にヘッスラーを世話したことがあります、国から二、三度葉書を貰いましたってよく覚えている。無性者の加賀から、葉書が二、三度は奇跡である。
 先ず取りあえず、ヘヤ・フィッシャーのことを話すと、入会なさるんなら、誰か友達と二人で、紹介しましょうって云ってくれた、とにかく出直して来ることにして引き上げる、カフェーで休んだが、天気がいいから、室の中はざっと人類館という体裁だ、往来には、亜米利加人が六分通り、英吉利イギリス露西亜ロシヤがこれに次いで、沢庵たくあん人種はてんで見あたらない。
 四時頃に、又グルンダー君を訪問して、いよいよ正式に入会の件を依頼する。丁度、本宅の方から来ていた弟に店をあずけて、一緒に表に出る、Sektion Oberland(千九百十五年から Sektion Interlaken と改められた)のトレジュレーは、郵便局の向う角の銀行にいるんだ、入会も済み、会員証も貰って表に出ると今度は買いものだ。
 食糧は明日のことにして、アルペン・シュトック、リュックサック、ネイルドブーツ、シュタイグアイゼン、それからスウェターに、スウェターコート、手袋、写真のフィルムはツェルマットへ出るまで買えないから、十六本を用意した。
 宿に帰ると、ポルティエが、Vor emene wyli ischt ※(ダイエレシス付きO小文字)pper cho u het zunach welle. 先刻あなたに面会に来た方がありますと云う。名刺はと聞くと、後程上りますと申して帰りまして御座いますと答える。誰だか見当がつかない、どんな人だ、男か女かって問いただす。えへ……その男の方で、ええ年寄りで……まではわかったが、それから先が、分かるようなポルティエではない。何れ大した用事ではあるまい、ことによると写真屋のニクレス老人かも知れない、そう云えば会員証に貼り付ける、名刺形の写真が必要だ、思いだしたから早速出かける、訪ねたのは老爺ではない、どうしていそがしくって、そんなに早くはとてもなんて、いやに急がしがってる奴を、無理に頼み込んで、明日の午後四時までに出来上る約束をした。
 時にガイドだが、私は初めから、の冬ユンクフラウとメョンヒへ登った、シュトイリを連れてゆくつもりで、まだ交渉はしていないが、グリンデルワルトで逢ってから、定める筈にしていた、ところが、グルンダー君に聞いて見ると、奴は達者だが、少々離れ業をやるんで、どうも安全と云う点から考えると……なんて、余り賛成はしてくれない、いろいろ相談したが、丁度カナダから帰って来てるフォイツ Eduard Feuz というのが、人間もしっかりしてるし、ロッキーでファースト・アッセントもやってるし、あれなら確かだという話になった、そこでグルンダー君の店に、呼んで貰うことにして置いた。
 夕飯が終ると、隣のビュフェーで、キルシュワッサーを飲みながら、いよいよ差し当っての計画にとりかかる。近藤君は、山の剣呑けんのんなことなんか眼中に置いてない、なあにかまうもんか、グロース・シュレックホルンから取っつくのさ、グリンデルワルトからすぐに這入ろうってんで威張っている。案内記は万事、私の受け持ちで、先生、まだ驚かされていないから、しきりに、なァにいいよ、かまわないよを連発している。
 ペデカーには「シュトラールエックの小屋より、シュレックザッテルを経て、登り七―八時間、(ガイド、八十フラン)、極めて困難」としか記してない。
 ボールのアルパイン・ガイドには……
 グロース・シュレックホルン(四〇八〇米突メートル――一三三八六フィート、下部及び上部グリンデルワルトの氷河を境する山稜リッジの最高点。アルプス諸山の山頂のうち、最、壮大なる、最も危嶮なる山容を有す。三面の岩壁は急峻にして、殆んど積雪をとどめず、ただ、ラウテラール・ザッテルに対せる北側の斜面のみは、辛うじて積雪をとどめ得る最急限の長き傾斜をなす。かかる状態にある山岳に於ては、微小なる震動によりても、雪崩アヴァランシュを生じ易し。……
 としてある。アヴァランシュを生じ易しは少々恐しいが、登る奴がみんな死ぬときまった話ではなし、街の中をうろついてても、電車にひかれたり、自動車にはねとばされたり、念のいった奴になると、身体をよくする筈の病院で手当を受けて、御丁寧にいろんな薬まで飲まされても、生きてゆけないのがある位だから、これは死ぬのも生きるのも、場所によったことではない。ことによると山に登らないで麓にいると、かえって、死ぬような目に逢うかも知れない。何だか登らないとかえって危いような気がしてならない。生きて行くには登るに限るとも考えた。いやどうしても登ろう、その方が安全だと、二人の間に解決された。
 で、あとは予定通り、オーベルラントの四千米突を、片っぱしから平らげて、それから、ウァリスの山へ這入ろうと云うことに評議一決した頃には、往来の人通りもちらほらになって、山に近い町は、プラタヌスの上葉を甜める夜の風が、明け放した玻璃扉から冷や冷や吹き込んで、酔いざめの身体は、ぶるぶるするくらいであった。
 七月二十八日、デジューネーに下りてゆくと、ポルティエがやって来た、昨日の御方が御待ちですってから、はて誰だろうと玄関に出ると、胡麻塩の髯男がぶっきら棒に突っ立ってる。物貰いか、それにしては、りに選って、日本人なんか目っけなくてもよさそうなものだと、少々変な心持で、何だって聞くと、今度は名刺を出した、見ると、ベルクフューラー・クリスチャン・ヘッスラー Christian Haesler としてある。ははあ加賀の連れてったヘッスラーだ。
 近藤君を呼んで、朝飯を、庭先のテイブルで食べながら、様子を聞く、奴は懐中から、ガイドの手帳を取り出して見せる。年が年だけに、随分大勢案内したと見えて、中には、とても読めないような名筆も交って、盛んに塗りつぶしてある、あったあった、千九百十年八月二十五日、日本山岳会員、加賀正太郎、文句が中々なかなかふるってる。案内は実に老実なりとしてある。て、いずこのガイドにも有り勝ちのこと、賃金の事はよく始めに定め置くべしと、賞めるんだか、けなすんだか、体裁のいい悪る口が墨黒々と記してある。賃金のことは、始めに約束すれば、その上は欲しいと云ったって、びた一文くれてやる考えもないから、その方の心配はいらないが、こう記されてあると、彼の人格に立ち入って、穿鑿せんさくもちとして見たくなる。山登りの人夫に、人格も大袈裟な話しだが、本で見たり、話に聞いたりするスウィス・ガイドの行為は、時として、同伴する登山家自身より、遥かに立派であり、また、尊敬すべきものが少なくない。登山そのものは、国家の為に利益なんか、あっても無くっても、それはさし当って、私達の知った事ではない、ただ私達の心に、言葉に表わし得ない、満足を与えれば充分である。疲労とか、危険とかいう問題は、今、私の眼中に無い、ただ最高峰に立って、――晴れていれば幸いである、霧の深いのも一興であるが、――或る特種の感じが、胸に湧けば充分である。――私達の行動に対して、登山の経験のない人は、又は経験はあっても、疲労の外に何物をも味わい得ない人は、馬鹿馬鹿しいと嘲笑う。嘲笑うは人の勝手である、私自身も、登山を別に賢いことと賞めて貰いくはない、えらいこととは思って居らん、が、心よいことと信じておる。したがって心よさを味わうべき登山に、心よからぬ人間の御供は真っ平らだ。
 かく一先ずヘッスラーは帰してしまって、前年、加賀に推薦したグルンダー君の説を聞くことにした。
 雨は降らないが、天気は余り思わしい方ではない。遠山は雲にかくれて、その暗澹たる雨雲の裾に、風につれて見え隠れするシンニゲプラッテの樅の林は、麓は黒味勝ちな葉末に、柔かい緑は萌えてはいるが、山腹の断崖に、一刷ひとはけ、なぎの見えるあたりから、雨雲の滲んだ空へかけて、暁方あけがたの小雨が、山では雪になっていたのか、染め上げたように、まっ白になすられて、見るからうそ寒むい。雨外套をまとうて外へ出る。
 グルンダー君の店先で、いろいろ打ち合わせをしているうちに、約束のフォイツがやって来た。短かく刈り込んだあごひげに、白髪の交じった、年の頃は五十余り、何だかスウィスらしくない男だ、英語も少しは話す、先ず我々の計画を話して置いて、扨て賃金の問題だが、一山幾何として計算すると、雨や雪で小屋に滞在する場合は、別に払わなくっても差し支えはないが、残らず積ると、オーベルラントだけで、一寸八百フラン、二人のガイドでは、食糧をこっち持ちにして、六百四十余円に相当する。どうせシーズンが過ぎれば、登りたくっても登れない訳だから、日当で雇うことにした。そこで約束は山岳会の規定通り、一日三十フランずつ、もう一人のガイドは、グルンダー君の説によって、老練なヘッスラーをつれることにして、それもやはり同じ賃金である。随分いい商売だが、まかり間違えば命にかかわることだから、文句を云うべき場合ではない。
 約束がきまると、食糧の買物に出かける、グローセル・アレッチ・グレッチャーの、コンコルディヤの小屋には、小屋番がいて、万一の場合に、食糧は得られるが、それも、馬鹿馬鹿しく高いのは云うまでもない、それまでは、小屋はあっても、番人はいないから、少なくも十日間の食糧、それを少し余分に見積って、二週間分の用意をする。ホョーエウェークの大通りをずうっと歩けば、仕度はすぐにととのえられる。すっかり揃うと、随分な荷物になった。
マッギ(スープ種)、十二連(一連六個)
、六〇法(フラン)
二、半キログラム、砂糖
一、四五
四分ノ三キロ、プルーン Zwetschgen
一、五〇
一キロ、ショコラー・カイエー Chocolat Cailler
四、〇〇
一、紅茶
二、五〇
半キロ、珈琲
二、〇〇
一〇本、蝋燭
一、二五
一、靴油
〇、三〇
一、食塩
〇、三五
四分ノ一キロ、バター
一、〇〇
二分ノ一キロ、チース
一、三〇
パン
一、三五
六個、レモン
〇、六〇
小壜三本、コニャック
一五、〇〇
五、タング
一九、〇〇
五十グラム、胡椒
〇、二五
ビュントナー、フライッシュ B※(ダイエレシス付きU小文字)ndnerfleisch 冷肉
三、五〇
一、腸詰 Zungenwurst
二、八〇
 それから煙草は、John Cotton’s Mix. が一パウンド、全体合わせると随分な荷物で、これに、ロープにアルペンシュトック、シュタイグアイゼン、ランターン、着がえのシャツなんかを加えると、私達の荷物なんか、とても持って貰えそうもない。
 午後も買物の追加やら、会員証に署名して貰ったり、手紙を書いたり、ホテルにあずけて置く荷物を作ったりして、仲々なかなか忙がしい、それでもどうやら片づいて、先ず明日は出発と話もきまった。晩餐には、グルンダー君を招いて、三人で会食する、食後は例によってキルシュワッサーを乾して、いよいよ御別れと云うことになる、し何か危険にでも遇って、再び帰れないような場合には、荷物全部はグルンダー君をわずらわして、日本へ送ることに主人に依頼した。
 これで先ずかたづいた。荷物は一まとめにしてしまったし、手紙も大ていにして、扨て何か用事はないかなと思ってると、近藤君が這入って来る、煙草をふかしながらカフェーを取り寄せて、又馬鹿話を始める。往来が妙にしーんとして気になるから、窓をあけると、街灯の二列に行儀よく並んだ大通りは、人っ気もなく寝静まって、空はまっ暗に曇って、南の風が冷や冷やする、もう十二時を過ぎていた。
 寝床に這入っても、いろんなことが頭の中にごちゃごちゃして、仲々寝つかれない、そのうち思い出したのは、近藤君の遺言で、差しあたって、遺言するほどの用事も思い出せないが、仮にもしクレヴァスに落ちて死んだとする、すると、新聞で書き立てる、――まあ一寸ちょっと想像して見たんだが、――すると、日本の山の気になって、知らない他国の山に入り込んで、見当が付かないで死んだんだ、地図の一枚も持って行けばいいになんて、死人に口がきけないと思って、自分達に引きくらべて、勝手なことを書き立てるに相違ない、死んでしまえば、生きてる奴の文句なんか、聞えないからかまわないようなものの、それでは山岳会や、第一折角せっかく取り調べた、案内記に対して申しわけがない。ぼんやりして死んだんではないぞ、死ぬ気で死んだんだと、云う程ではないが、ことによると、死ぬかも知れないと思って死んだんだぞと、一寸一筆残して置いた方が、生きて帰ったって、別段損にもならないからよかろうと、又灯をつけると、有り合わせの紙っれに、これから山に這入る、無理には冒さないが、危険に出っかすかも知れない、死んだら何分よろしくと、日本山岳会と、宅のものと、国にいる二人の親友に書き置きをした。
 それで、まず、その方は安心だが、寝ようとすると、今度は天気が気になってならない、途中から降る雨や雪なら、いやでも予定の行動を取るから、差支えはないが、朝から雨で、仕度の済んだ上、もう一日滞在は、何とも以て恐れ入る。晴れているといいが、氷河の写真をうんと撮して、こう云う工合に、切ったてになった山の麓に三人をあしらって、雲がパッと山の中段だけに渦巻いて、尾根と麓の氷河にだけ、日があたってるといいがなんて、考えて見ると大人気ないが、何しろ遠くで見たばかり、また、想像の外には材料がないから、いろんな幻を画いているうちに、ウンテルゼーエンの会堂の鐘は、一つうち、二つうち、三つうって明け易い夏の夜は、しらじらと窓掛の隙を漏れて、うすら寒い敷布ベットシーツに、明け方の光はさし初める。
 七月二十九日となった。
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グリンデルワルト Grindelwald




 天気は、思わしくないのは通りこして、これはもうとても見込が無い。遅かれ早かれ雨となるは必然だが、それでも慾目が手伝って、風向きで、少しでも雲が明るくなると、そら大丈夫だ、ね、見給え、明るくなるよなんて、下らない心配ばかりくりかえしている。仕度はすっかりととのえて、食事はカフェー・コムプレに、腹のたしになりそうな冷肉を、例の青葉の下で詰め込んでいると、大通りをロープは肩からはすっ掛けに巻きつけて、御約束の身ごしらえにアルペンシュトック、リュックサックははち切れそうに膨らんだのを背負い込んで、のっしのっしと、一足ごとに力足を踏んで、二人のガイドが現われる。
 発車は八時三十五分、ウンテルゼーエンの古塔の頂は、雨雲につかえそうになって、ハルデルのタンネの森に、湧き上る霧は、いつになっても晴れる様子はない、汽車はアーレの流れに沿うて、街の裏手をつっきると、間もなく終点のオスト・バーンノーフに着く、グリンデルワルト行きの乗り換えは九時発で、切符の買い替えに、初めて会員証を利用して、二割五分きの特典にあずかった。フォイツが見えないんでさがしていると、奴は停車場に店を出してる、娘のとこにいたんだ。汽車はそのうちに、ボョーデリを横ぎって、ラウテルブルンネンタールに入る、左はシンニゲプラッテのすぐ麓で、新しい、昨日一昨日の雪が、雲の間にまだらに見える、ルーゲンの裾をまわって、ヘッスラーの産地、ウィルデルスウィルを通り過ぎると、リュチーネの流れは雲の底からあふれるばかりに、谷を包む黒木の森の、下をうねってたぎり落ちる。樅には柔かく緑が萌えて、ひらひらと、風に乱れる白樺の、青葉若葉の、幾重にも入り乱れた谷奥に、汽車は静かに登って行く。
 ツワイルュチーネで、私達の這入った室だけは、二ダースばかりの、亜米利加アメリカ人をつめ込んだ客車と離れて、本線から左に別れて、グリンデルワルトに向かう、シュワルツ・ルュチーネの、雪解けの水はなかなか多い、両側の絶壁に氷はないが、雲は、冬来た時と同じように暗く、この狭い渓にかぶさって、落葉松や樺の蔽い茂ったのが、谷をなお更深く思わせる、流れをはさむ段丘に、右は切ったての岩壁であるが、心持ちなそいになった北の丘には、石をのせた板屋根の百姓家が、まるで吾妻あがつま川のふちでも旅するような感じがする。
 我慢に我慢していた空は、もうこらえ切れなくなって、ぽつりぽつり、硝子窓に打っつけた雨脚は次第に繁くなって、十時十五分に、グリンデルワルトに着くと、傘なしでは、少しこたえるくらいな降りになって来た。取り敢えず、停車場の待ち合いにかけ込んで、考え込んだが、室に這入ると、急に大降りになったように、屋根を洗う雨の音が骨身にこたえる。
 私達は無論出かけるつもりだが、今日のうちに着く筈のシュトラールエックの小屋までは、ウンテル・グリンデルワルトの氷河をさかのぼって、六時間はたっぷりかかる、が、ここで泊るのも業腹なり、さればと云って相手が天気では、喧嘩にもならず、煙草ばかりふかして、窓に近い氷河の裾をにらめていると、外で立ち話しをしていた二人がやって来た、出かけるのかと思って身仕度に及ぶと、荷物が重いから、トレーガーを今日一日だけ雇ってくれと云う掛け合いだ、荷物は重いには相違ないが、決して背負えない位ではない、素人の私達のリュックサックだって、彼等に対してそう軽いとは思われぬ、私は着がえのシャツ、厚手、薄手を取りまぜて四枚、白のスウェターにスウェターコート、履きかえの靴下シュポルトシュトルムフが二足、地図二部、登山案内二冊、絵はがき形の写真機にフィルムが十六本、帽子ミュッツェ雪除眼鏡グレッチェルグラース、石鹸、歯磨なんて雑物は数えないでも、大形のリュックサックは一杯に膨らんで、もうこの上は押し込めない位になってる。彼等のと比べても、殆んど重さに違いはない、然し、今迄は汽車の旅で、これから雨の中を登るのに、途中で弱り込むようでは外聞が悪い。ガイドが重すぎると云うんだから、苦しいには違いあるまい。かく我々のリュックサックは我々で処分するが、それでもトレーガーが必要だって云うのかと、一応問いただして見た、奴等はまた相談をはじめたがどうも、二週間分で、荷が多すぎるから、シュトラールエックまで雇ってくれと云った。聞いていた近藤君は、何と思ったのか声を励まして、よろしい! と怒鳴りつけた。そしてこれにつけ加えて曰く、我々はすべて、ガイドの言葉に従って行動をとることにしておるから、し御前達が、是非こうしなければならんて云うなら、すぐに実行しよう、責任ある行動さえとれば、それで宜しいってんで、恐ろしい権幕だ、傍にいる私も少々薄気味わるい。
 二人とも顔を見合わせて、一寸ちょっと、氷河の上で暴風雨にでも出会でくわしたような顔付きをした上、どうも今日一日だけは、是非トレーガーをと申し出でた、やがて二人とも人夫をさがしに行く。
 おい、何だって怒ったんだい。
 怒りやしないさ。
 だって怒鳴ったじゃないか、天気のせいかね、僕もちっと気をつけよう。
 いいや、あーやっておどかして置くと、後で正直に仕事をすると思ったからさ、トレーガーを一日雇ったって、身代限りはしやしまいし、怒る奴があるものか、僕は何か掛け合う時は、いつもあの手をやるんです。
 成るほど掛け引きか、商業上の仕事は、何でも剣呑けんのんだってことだが、こう云う談判にも、掛引きがあっちや、その道のものでなくては、うっかりガイドにもなれない。そのうちに、叱られたような顔をして、二人とも帰って来た、あとにのそのそついて来た老人が、その御入用のトレーガーで、なんだこんな爺に背負わせたって、何の足しになるもんかなんて思ったが、年寄のくせに、足はなかなか達者で、アルペンシュトックには、ペーテル・カウフマン Peter Kaufmann と銘のうってあるところを見ると、今はグリンデルワルトの名簿にはないが、昔は鳴らしたガイドの成れの果てかも知れない。ははあ、グロース・シュレックホルンへ、なーる、なんて、自分は小屋までで帰る約束だからかも知れないが、いやしくも、オーベルラント第一の嶮山とあるのを、別に気にも留めない様子、耄碌もうろくしたのか、それともそれ程にも感じないのか、山に千年てなり形が第一心憎くい。
 そうこうするうちに、午前正十一時、降りしきる雨の中を停車場をはなれて、だらだら路を、村の方へ一行五人歩き初めた。両側のホテルから、大勢首を出して見送っている。
 宿は避暑客で、殆んど満員と云うくらい、雨で往来は静かだが、名物の木彫りや、絵はがきを並べた店先きには、ちらほら人だかりもして、昼飯の仕度をしていたらしいウェイターが、セルヴィエットを手にもったまま、窓からガイドに、行く先きを聞くのも、山よりの村らしくて面白い。一行はこれ等の眼に迎え送られて、ホテル・ベーヤの角を右に曲る。路は牧場の柵の間を、だらだらに下りて、もう小さな実を結んだ、果物の木の下をくねくね折り曲って、ルュチーネの流れに出る、川幅はやっと三、四間で、小橋の向うからすぐ、メッテンベルクの麓が、急な傾斜になって、それと右側に逆か落しになった、アイガーの直下、ウンテル・グリンデルウェルデル・グレッチェル Unter Grindelw※(ダイエレシス付きA小文字)lder Gletscher の霧の下から、水色に氷塔アイストゥルムの現われた、頭の上を目がけて、千鳥がけの細道を辿ると、雨はますますひどくなって、つるつる滑る岩角を、一足ごとに踏みしめて行く、荷は相応に肩をひいて、びっしょり濡れた頬を撫でる、岳おろしが冷や冷やと気もちがいい。
 細径は、唐檜フィヒテも交じる樅の林の、下草を分けてうねうねと雲につづく、と、右側に氷河の裾は、いつのまにか眼下になって、ある時は岩の崩れたなぎを横ぎって、やはり千鳥掛けに、上へ上へと登ってゆく。ふりかえると、ルュチーネの流れをはさむ緑の牧の上に、なだらかな丘に建て並んだグリンデルワルトの村が、パッと乱れた霧の間に見え隠れして、その草野のそこここから、遠く、風の絶えまにはクラリヨンがひびいて来る。霧はしきりなしに飛んで、脚もとにすくすくと梢を並べたタンネの森の頂さえ、見ているうちに、すーっと吸い取るように掻き消されて、見る見る私達の立ち止った木立の奥まではびこって来る、その木立には、風になぶられて、垂れ下った下葉の、露にしっとり濡れて、鷹揚にうなずく樅、落葉松の、入り乱れた脚もとに、なつかしきはあわれ、横臥おうがして、露に埋もれたカムパヌラの紫である。私達は花とともに、露を旅服の襟に挿して、また山路に深く分けて入る。
 崖路を登りに登って、木立が尽きると、雲は深いが、左はメッテンベルクの頂らしい、岩の崩れに雪の積った急な崖が、雲から逆落しに、細径の上に覆いかぶさって、右はクレヴァースの多い、アイスメーヤのすぐ向うに、雪も氷もはじき飛ばした、アイガーグラート Eigergrat が屹えている。ややなだらかな、山の斜面に、紅紫とりどりに彩られた、花野の上に、ベールエックのホテルが望まれた、なすり付けたようなアルペンローゼの紅の上に……。
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ベールエック B※(ダイエレシス付きA小文字)regg




 着いたのが、一時十五分前、板敷の食堂に荷を卸ろすと、焚火にあたって、汗と雨で、びっしょり濡れた着物を乾かしながら昼飯にする、窓からはアイガーの直下、アイスメーヤに砕け落ちた氷の山が、手に取るばかり近いが、上は、赤く崩れたギザギザの岩角が、雲の間に隠見するだけで、千六百五十米突メートルのこの宿も、谷底に沈んだようにうす暗い。雨は尚お窓をかすめて縦横に降りしきる。
 簡単な昼飯は、すぐに用意された、が、雨はますます激しくなって、シュトラールエックの小屋までの四時間は、この降りでは一寸ちょっとこたえる、それに雨上りでは、折角せっかく着いたところで、明日の登山は見込みはないから、一同相談の上、このホテルに一泊ということになった。ホテルとはいかにも体裁はいいが、建て物からしてすでに小屋で、天井の低い、建てつけの悪い、寝室と名づけたのが、二階に六つばかりあるだけで、グリンデルワルトから、日帰りで遊びに来る客はあっても、大降りにでも出会でくわさなければ泊り込むものは殆んど無いそうで、宿帳を開けて見ても、知った名前はとんと見当らない。取りあえず、二階の片隅みの一室に這入り込んだが、からかさの下にでも、潜っているような雨の音が気になって、また、食堂に下りて来る、入口に出ると、南の風がなかなか強く、夕立のように小屋を目掛けて、土砂降りに降っているが、空はいくらか明るくなって、アイガー・グラートのヅィクザックは、この時、明らかに仰がれた、トレーガーの爺さんは、明日登って来る約束で、村に引きかえす、きざみ煙草をもう一かん買って来て貰うことにして、てストーブ[#「ストーブ」はママ]を囲んで、落ちついてふかし初めた。倫敦ロンドンでもそうだったが、何が面白いって、国にいる山連の噂ほど、面白いものはない、小島君や梅沢君なんかが、ここにいたらどうするのだろうなんて、質問は極めて簡単だが、想像の結果は大それたもので、やがて手紙になって本人の手許に舞い込む時分には、こっちではとうの昔に忘れてしまって、それからとんでもない頃に、素敵に憤慨した返事が来たりして、何を一人で怒ってるんだろう、大方神経衰弱にでもかかったんだろうなんて、また先生方は憤慨の種が増える。またそこが何とも云えぬ面白さで、幸い今日も、もとより用事はなし、相当に面白い材料がそろって、御茶がすんだら、手紙でも書いてまた一つ口惜しがらせて見ようじゃないかなんて、しからん相談が成立する時分には、天気もよほどなおって、雲は厚いが、雨はもう小降りになって来る。
 そのうちに、外ががやがやして、やがて登山家の一行が下りて来た、背負っているロープや、リュックサックから雫がぽたぽたたれて、見るから佗びしい濡れ姿、グリムゼル・ホスピツから、ウンテラールグレッチェル Unteraar Gletscher を溯ったが、シュトラールエックで病人が出来て、雪の降るのに二日半も滞在した上、病人をのこして今朝小屋を発ったが、雪があまりひどいので、シュワルツエックの小屋に昼過ぎまでいたのだと云う、小屋の附近には、雪はかれこれ、尺近く積って、これからの路も雨でなかなか難儀だなんて云ってた、そのうち仲間の一人が宿帳を見ていたのが、私達の方をむいて、失礼ですがドクターはどなたですかって聞いた、近藤君はたちが悪い。おい、ドクター、御用だよ、なんて澄ましていると、例の登山家は一寸他処よそ行きの顔をして、実は、先刻おはなし申しました通り、友達が腹痛で苦しんで居りますので、是非どうぞ御診察をって掛け合いだ、懐中には、日に焼けない御まじないのグレッチェル・クレーム、それからコニャックは三本持参に及んだが、いくらドクターと宿帳に書いたって動物の薬はついぞ盛った覚えがない、その由つぶさに言上いたすと、すっかり失望してしまって、はたの見る目も気の毒であった。
 雨はもうさっぱりと上って、日こそささないが、表へ出ると、グウェヒテン Gw※(ダイエレシス付きA小文字)chten, 3169m. の岩角から、宿の屋根に落とす草原に、雨を浴びた山草の美しさ、私達は踏めばこぼれる露を分けて裏山にほそぼそとつづく小径を、上へ上へと登って行った。
 眼に映つるのは、山を埋めたアルペンローゼンの紅である。そして暗緑の小さな葉の重なり合ったあいだには、空色の竜胆 Gentiana acaulis や、名は知らないが、白馬アサツキのようなアリウムと、ハクサンイチゲ Anemone narcissiflora や、ゲウム Geum montanum が一面に咲き乱れている。私達は知らず知らず、小山の頂まで来た、宿はもう急な斜面に遮ぎられて、眼下にはアイスメーヤのひび割れた氷河と、そのすぐ向う側に、私達が登れば登るほど、高く高くせり出して行く、アイガーグラートの岩角を見るばかりである。草野の頂は、ややなだらかに南へ開いて、そこに横たわる岩の蔭に、黄金色のアルニカ Arnica montana が立派に咲いている。二人とも、その大きな、灰色の地衣に覆われた岩の上に腰を下して、じっと氷河の南を下ろした。
 アイスメーヤは、この山の麓から左に折れ曲っておるが、シュレックホルンの方面は、ななめに落とすグウェヒテンの裾に遮られて見えない、私達の正面に、もうオレンジ色に染められた夕空にきっと聳えて、氷河の南を限るのは、メョンヒから遠くフィンシュテラールホルンへつづくフィーシェルグラート Fieschergrat で、たった今、雲の中から湧き上った、オックス Ochs. od. Klein-Fiescherhorn, 3905m. の、三方から削りとられた氷のアレトが、私達にはもう、山岳であるとは思えなかった。雲を雲と仰ぎ、今までは流れをただ、渦まく水と感じた私にも、人格化された山を味わう、詩人の心から離れて、なお、何ものか力強く、胸にひびくのを覚える、空は静かに晴れ曇りして、この大宇宙にきっとした高山の思うがままに、地を離れて、雲は、霧は、湧くと覚えた。
 ゲウムの花の露にぬれて、斜面を南へ下りると、山の凹みに幾群の牛が放してある。さっきまで、幻聴と疑っていた、柔かいものの音は、やはりそのクラリヨンの響であった。私は後の世があるかないか知らないが、もし有るならば、今と同じ境遇に生まれたい、然らずばむしろ、いかなる階級に於ける人間の種類をも御免を蒙むって、雪解の野にアルプの雲を仰ぐ、ああいう牛に生れ代りたい。クラリヨンの響とともに、日は次第に黄昏たそがれて、ゲンツィヤナの花は、もう、どれもどれもしぼんでしまった、私達は牧夫のように煙管をくわえて、坂路をとことこと下りて来る、山の夕暮は膚に沁みて、ホテルの窓ごしに、赤い火のちょろちょろ燃えるのがなつかしい。私達はそのまま、表の椅子に腰かけて、アイスメーヤの氷河を瞰下ろすテレースに、静かな夕を味わった。
 西北の空は、日の沈んだのち、湖のように静かに晴れて、氷河の開く向うには、グリンデルワルトとブリエンツの湖水の間を限る、ファウルホルンやシンニゲプラッテの、雪に新しく飾られた岩山が蜃気楼ミラージュのように見わたされる、それ等のふもとは、雪に交じる緑が次第に濃く、樅とも思われる木立から、グリンデルワルトの斜面につづいている。私達は、質素な晩飯が終ると、またテレースの小さなテーブルを囲んでカフェーを命じた、谷はもう暗くなって、グリンデルワルトの村には、あちこち灯が灯された、私達はやはり黙って、いつまでもいつまでも、この静かな景色を眺めている、気がつくと氷河につづくフィーシェルグラートは、灰色の夕闇に蒼白くなお仰がれる、その左、オックスの西のアレトは、星明りか、それとも残んの夕映えが、まだあの空中にただようているのか、蛍光を放っているような、物凄い光が望まれた。
 グリンデルワルトの村の灯は、ちらちらまたたいて、そのたびごとに、灯火の数が増してゆくように思われる、もう風も吹かない、夜は静かに渓から湧いて、この一軒家を包んでしまうと、昼は気にもとめなかった、アイガーグラートの絶壁の、氷を割ってすべり落ちる小滝の、かすかな響が、何か意味のある、私達にも了解のできそうな、話声のように聞きとられた、その言葉は、或る時は耳もとにそっとささやくように、とするとまた森を距てた行人の声のように遠のいてゆく。
 私達が、ほかほかする食堂のストーヴのそばをぬけて、怪しげな板張りの梯子段を恐る恐る上って、寝室と定められた室に這入った時は、もう八時過ぎであった。荒造りの天井の低い、板敷には別に何も敷いてない粗末な室に、二人とも、はすっかけに向き逢った寝台に寝ころんで、別に話をするでもなく、ぼんやりした時は、いやに陰気な感じが起った。ナハト・ティッシュの上には、ただでさえ暗い蝋燭が妙にため息をついて、その度に、私達は寝床ごと、クレヴァースの中に沈んでゆくような気がする、二人とも申し合わせて、思い切って灯を吹き消すと、カーティンも無い硝子窓から、蒼い星明りが、吸い込まれるように流れ込んで来た。
 眠ろうと思って眼を閉じても、頭は変にさえて来て、遥かな、土の底に響くアヴァランシュまで、寝るな寝るな、寝ればもう最後だぞと嚇かすように思われてならない。
 今夜もやはり白ら白ら明けになるまで、まんじりともしなかった、アヴァランシュは時には耳元で続けさまに、または遠のいて遥かな国から響いて来る。しばらくうとうとして、本当に眼が覚めたのは六時頃であったろう、山の朝は仲々なかなか寒い。
 晴れてはいるらしいが、狭い窓の向うは、鼻がつかえるようなアイガーグラートの絶壁で、南へ入り込んだアイスメーヤに面したここは、朝日をグェヒテンの連峰に遮ぎられておるから、夜はとうに明け放れても、日の光りを見ることは出来ない。七時過ぎに、ようやく床をはなれて、旅服にあらためると、すぐ食堂に下りて来た、表へ出ると、晩秋のころに見るように、朝の空気が冷やっとこたえて、身体が引き締まるような気がする。空は名残りなく晴れ渡って、前の細道を左に下りると、露を浴びた山草をわけて、アイスメーヤのほとりに出た。南の空を限るフィーシェルグラートは、朝日を一杯に受けて、蒼空に屹とぬけ出している。アイガーグラートからメョンヒ・ヨッホの方面は、クレヴァースの上に片蔭が出来て、赤黒く崩れた岩の破片が、氷河の上にうず高く盛り上って見えるのが、空気の澄んでいるためか、手にとるように望まれる。
 カフェー・コムプレに腸詰ウルストを食べて、また表に出ると、昨日のカウフマンが、約束の煙草を買い込んで村からてくてく登って来た。九時五分にいよいよベールエックを発って、細道をだらだらに南に下りると、氷河につき出した岩角を左りに曲って、雪解けのじくじく湿った草原から、すぐ急な岩山に取りついた。
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エーデルワイス




 草には人の足跡がある、かすかながら、細道はくねくね折れ曲って、岩から岩にわたってゆく。
 昨日の暮れ方に、山上から下ろした、牛小屋の下を過ぎて、どこまでも氷河に沿うて、南へ南へと登ってゆくと、急ではあるが、別に苦しい道ではないが、十二キロに余るリュックサックが、背負い慣れない肩をひいて、登りになると随分息が切れる。
 ガイド達は、感心に少しも休まない、コツリ、コツリと、アルペンシュトックを衝き立てて、二人は先きに、カウフマンは一足遅れて、私達の後について登って来る、アイスメーヤは間もなく二つに枝分れして、今私達がついて行く氷河は、オーベレス・アイスメーヤから、最後にフィンシュテラール・ヨッホ Finsteraar-joch となっているが、対岸に折れ曲ったもう一つは、フィーシェルグラートの北に横たわる、フィーシェルフィルンで、今、私達の正面には、そのクレヴァースの多いフィルンから、一段下の、このアイスメーヤに落ちる花甘藍シウ・フリュールのようにえみ割れた氷河で、中ノ島と云った形に、黒く盛り上った岩山が、地図にあるハイセ・プラッテ Heisse Platte であろう。
 天気は極めてよく、私達は、高く澄んだ蒼空の下に雪に覆われて長が長がと、その空につづく氷河の麓に、いたずらに点ぜられた、黒子ほくろのように思われる。風はの時死して、岩に咲く山草の、とりどりに美しいのも、露も重げにうなだれて、まだ、夢から覚めぬと見える。氷の上、のアイガーの頂には帽子雲がかぶさって、いつになっても、晴れる様子は見えない。が、その雲を高く覆う蒼空には、磨きをかけて、一点の曇りもない。
 昨日下りて来た人達のであろう、入り乱れた足跡は、たびたび積雪の上を渉ってゆく。右は、時々近くはなるが、その上には下りずに、氷河を瞰下ろして、鋭い岩山の裾を縫ってゆく。と急に、先登せんとうのフォイツが、何か一大事でも話すように、声をひそめてささやいた、言葉は分からない、指さした方を見ると、岩の上を、ちょろちょろ駆けあるく茶色の動物が見えた、夏毛のフュレーである。小心な動物は、敵が近づくとでも思ったのだろう、私達の話声を聞くと同時に、黒曜石みたいな眼をして、ちらっとふりかえったと思うと、べるように、もう岩の蔭にもぐり込んでしまった。
 宿から四十分ほどたつと、ベーニセック B※(ダイエレシス付きA小文字)nisegg, 1773m. の岩角に来た、今まで、東南について来た氷河は、ここから真南に折れ曲るので、私達の前を遮ぎる岩角に、打ち込んだ鉄棒にかじり付いて、ようやく頂上まで来ると、オーベレス・アイスメーヤの上に、グロース・シュレックホルンが、殆んど頭の上に仰がれる。グロース・ラウテラールホルンは、その背後に現われたが、この両山岳をつなぐ山稜――明日の朝、私達がじ登ろうと云う斜面は、ここから望むことは出来ない。
 リュックサックを草の上に投げ出して、私達はベーニセックの頂に近い、草の上に休んだ。後ろは切っ立ての岩壁で、すぐ下は、氷河まで殆んど直立の岩山になっておる。草に寝ころんで、すぱすぱ煙草をふかして居たフォイツは、その懸崖に、一群のエーデルワイスを見出した。スウィスの雪を憶うものが、ヘルヴェティヤとともに、忘れることの出来ない、そのなつかしいエーデルワイスは、ここにと指すことの出来る懸崖に咲いて居る。アルプの旅人が、――幾億と知れない、――いろいろな心をもって、山を仰ぐ幾億の旅人の、果して幾人が、この花を、ずから摘むことができるのだろう。夏になると、停車場の売店や、通りのここかしこに店を張って、花を売るものが沢山たくさんあるが、これ等は云うまでもなく、麓の庭に培れたので、手のとどく限りは、根を採ることは禁ぜられても、大抵たいてい取り尽されて居ると云う。私はいつも、その気高い花を憶うときに、これは手の届かない高嶺の花であると思った。――そのエーデルワイスの群は、氷河にのぞむこの懸崖に咲き乱れて居る。
 私は二人のガイドに、身体に縛りつけたロープの端を、しっかと押えてもらって、絶壁の上にのり出した。岩の角から頭を出すと、遠い下の方に、アイスメーヤの、横にいくつとなく口を開いた、クレヴァースがのぞかれた。カウフマンは、この時私の足を引っぱってくれる、無理に乗り出して、花に手をふれた時は、ただもう無闇にうれしかった。あちこち捜し廻って、漸く十一本のエーデルワイスを摘んだら、頭に血が下って、眼が眩むように覚えた、もう少し下の方にも、一群れあるが、これは宙乗りをやらなければとても採れないから、くわえ煙管で待ってる近藤君に、お譲りすることにして、一先ひとまず上に引き上げると、人の気も知らないで近藤君は、採るなら君が行くさ、妻子のあるものがする仕事じゃないって答えた、そんなら、いっそ山登りなんかめればいいのに。
 私は花を襟に挿して、残りの十の、まだ朝露にぬれたのを、日記の間にはさんで、もう今は世に亡き、高野兄の愛嬢に贈った。墓前に、花はまだ朝露にぬれていよう……。
 何か人声がすると思ったら、向うの岩角から、四人づれで下りて来る、今朝シュトラールエックから来たそうで、聞いて見ると、昨日噂に伺った、御病人の連中であった。腹痛氏は画かきである。草の上で挨拶がすむと、悪い癖でスケッチブックを取りあげたら、これは物騒と、一同出発と云うことにする。
 路は仲々なかなか悪いが、歩けそうもないところには、鉄棒があちこち、手がかりに挿してあるから、別に困るほどのこともないが、日がじりじり照りつけて、日影はさすがに涼しいが、登ってゆく間は、例の十二キロが仲々の荷になる。
 相変らず、登ったり下りたりして、いつまでも崖の中腹ばかり通ってゆく。漸くシュワルツエック Schwarzegg の、小屋に着いたのが十一時四十五分、ここで昼飯の用意をした。
 小屋は、今夜私達が泊ろうと云う、シュトラールエックの小屋が改築されてからは、古さも古し、大きさから云っても、山に登る上から云っても、今では余り重要なものではない。屋根に石をのせた平家で、二人の男が、土間の湿喰しっくいを塗ってるところだが、その半分はベッドに、半分はそのまま、土間に使うらしい。湯をわかして貰って、珈琲を入れて、冷肉にパンとチース、山に這入ると、三度とも同じような食べ物で、珈琲が御茶になったり、スープになったりするので、辛うじて、朝昼晩の区別をつける。
 シュトラールエックの小屋が出来るまでは、シュレックホルンの登山者は、ここを発足点としておった。カステンシュタイン・フィルン Kastenstein-Firn の落ち口に横たわる、大きな岩山の上に建てられて、すぐ後ろは、北にクライン・シュレックホルン、それから、最高峰の、グロース・シュレックホルンにつながってゆく鋭い山稜の間には、ネッシホルン N※(ダイエレシス付きA小文字)ssihorn, 3749m. が屹えている。
 この小屋の付近で、一番眼をひくのは、オーベレス・アイスメーヤの対岸にそびえた、氷の障壁の真上に、更に高く、空に秀でたオックスの英姿である、そしてその障壁は、オックスから幾つも小さい弧を画いて、アガシホルン Agassizhorn, 3956m. から、四〇八九米突メートルの、フギザッテル Hugisattel、それからすぐ、最高点のフィンシュテラールホルンとなって、その以南の山岳は、すべてこれ等の障壁にかくされて居る。
 今まで登って来た方面は、クレヴァースの多い、ウンテレス・アイスメーヤの途中から、アイガーの空にかけて、むくむくした雲が湧き上って、見る見る蒼空にはびこってゆく、その綿雲の、日をうけたところは、雪よりも強く反射して、日影は鼠がかった陰気な蔭が、今にも夕立でも持って来そうに思われる。然し、雲は高く登っては消え、消えては後から巻き上って、いつまでも同じ高さに湧きかえっていると見えて、昼の日は、うららかに小屋の中までさし込んで来る。
 食事がすむと、もう近くなった、今夜の宿に向って出発する。
 シュワルツエックの、石片に覆われた岩山から、足跡は、斑らに雪の消えのこる石から石へ飛び飛びに下りて、とうとう、氷河の上に出てしまう。私達は、用心にシュタイグアイゼンをつけた。氷の上は、新しい雪に覆われて、グレッチェルグラス無しでは、もう眩しくて少しも歩けない。雪は柔かく、一足ごとに踏んこんで、すこぶる歩きにくい、氷河のなるたけ端の方を通るのだが、左はシュレックフィルンが、いろいろな形の大岩石に距てられて、枝に別れて落ち合うから、時によると、何だか、アイスメーヤの真中を、歩いてゆくような気がした。私達の登る路には、大きなクレヴァースは無い、然し右左には、積雪の下から、蒼く口を開いたシュパルトゥンクが、絶えずのぞかれる、そして足跡のあるその氷河にも、雪の間に小さな穴が沢山あって、こころみに氷の破片を落し込むと、響尾蛇がらがらへびのようにかすかに、氷の擦れ合う物音が、深い深い氷河の底から、うす気味わるく響いて来る。
「●シュトラールエックの登山小屋」のキャプション付きの写真
●シュトラールエックの登山小屋

 注意に注意して登ってゆくと、遠い岩の上に、シュトラールエックの小屋がのぞまれた。此の時アイガーの雲は、いつの間にか頭の上に覆いかぶさって、アヴァランシュだと思っていた鈍い物の響を、おお遠雷フェルネスドンネルン! と気がついた頃には、雲はもう真白な霧になって、ひたひたと私達の後ろから包みはじめた、そして間もなく、氷と雪と、真白な霧の間を、サクリサクリ積雪を踏んで、シュトラールエックの岩の上にたどりついた時分には、尾根のうしろに、私達には黒く見えた深い蒼空にぬけ出た、グロース・シュレックホルンの山稜グラートも、もう霧の間にかくれてしまって、汗ばんだ下着まで、冷や冷や沁み透るくらい、寒い風が、氷河の裾から吹き上げて来た。
 霧はますます濃くなってくる、氷河をはなれると、がらがらの岩の間を登ったが、その大小に錯雑した、岩のきまに獅噛しがみついた、サクシフラガ Saxifraga の、星のような花をまたいで、十五分も登ると、立派な小屋の裏手に出た。シュトラールエックの登山小屋である。
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シュトラールエック Strahlegg




 シュワルツエックを発ったのが、一時十分前であったから、ここまでは、ざっと一時間しかかからない。小屋に這入ると、何より先きに、着かえを取り出して、汗にぬれた下着をぬぎえた。霧は絶えまなく小屋を包んで、小さな二重窓からは、真白にただようものの外は、何も見えない。フォイツが床板を開けて、縁の下の薪小屋ホルツガッセから、大束の薪を持って来る間に、ヘッスラーは、テイブルの上に、腸詰や冷肉を並べて、御茶の仕度に取りかかった、肉で御茶を飲んでも、山なればこそ腹に耐えない。
 室は、二つのストーヴを真中にして、広さは十畳もあろうか、大きなテイブルが二脚、板張りの壁の下には、腰掛が取りつけてある、二重戸の入口を、岩の上に下りると、シュトラールエックの氷からしぼれる水が、池のようにたたえている。カウフマンはそれを汲んで、パチパチ勢よく燃え上るストーヴにのせた、煙突は天井をつきぬけて、寝室になっている二階の、広間を温めるようになっている。食堂のうしろには、婦人の寝室があるが、広さはやっと八畳敷ぐらいで、通路で二つにしきられておる。
 室には、食器は一通りそなえてあるし、隅の書庫には、英独仏の聖書をはじめ、小説や雑誌などがなりある、天井には、ベルンで見たような、担荷が二つかけてあった。小屋は、スウィス山岳会ベルン支部に属して、千九百十年八月の建設、その標高、二千六百九十一米突メートルで、会員は無代だが、然らざるものは、泊り賃二フラン、薪代は何れにしても、四キロの束が三フラン八十ソンティーム、二キロの束は一フラン六十ソンティーム払えなんて、いろんな注意がしてある、入口に金箱がぶら下げてあって、代金はそれに投げ入れるようにしてあるが、んな真似まで日本でしたらなんて、心細い心配が起らぬでもないが、これはガイドの手前、※(「口+愛」、第3水準1-15-23)おくびにも出さなかった。
 備えつけの、毛の上靴に履きかえて、壁にかけたジークフリトの大きな地図など見ているうちに、たちまち御茶の用意が出来る、簡単な食事でも、適度の運動と、標高も少しは手伝って、なかなか甘く味わせる。表は相かわらず霧がうず巻いて、シュネーフーンが、折り折り岩の上を飛び廻っていた。
 御茶がすむと、表に出て口笛なんか吹きながら、岩の上を歩き廻る、折り折り霧が絶えると、南に高くアガシホルンと、その後ろに、フィンシュテラールホルンが表われる、裏のグロース・シュレックホルンの方面は、いつまでも霧に覆われて、その下に牙のように口をあいた、シュレック・フィルンのクレヴァースが、透明な緑を含んで、何とも云えない気持ちがする、明日私達が登るのは、この氷河のふちを登るのだが、どう行ったらいいのか、まるで見当がつかない。
「●小屋よりフィンシュテラールホルンを仰ぐ」のキャプション付きの写真
●小屋よりフィンシュテラールホルンを仰ぐ

 空は霧ながら、真白に冴えて、眩しいくらいだが、そのまま晴れるでもなく、下手から吹き上げる霧につれて、さらさらと粉雪が散って来た。室に這入って、窓からのぞいていると、芝居の舞台で見るように、雪は殊さらに、小屋を目がけて降り込むような気がする。たちまちの間に、窓には綿の枠でもはめたように、真っしろに雪が積って、岩の上にも、もう、斑らに白いものが見渡される。此の雪の中を、カウフマンは、二十五フランの日当と、二フランのティップを貰って、グリンデルワルトへ下りて行った、彼が入り口の扉を開けた時には、ストーヴに暖められた別の世界を呪うように、雪は渦まいて板敷の上に乱れ込んだ、が、二重扉がぴたりと閉まると、点々と露を残して、たちまちに消えてしまった。
 私達は暖かい室の中に、別にする仕事もなく、粉雪に暮れてゆく山の静けさを味わっている。アヴァランシュは一時間に三、四回、必ず、遠く近く響いて来る。そしてごーっと尾をひいてゆく響が、あちこちの山岳に反響して、だんだんかすかに消えてしまうと、小屋はものの響から取り残されたように、前よりもかえって寂しく感ぜられる。
 室の隅には、危険信号用の旗がある、昼はこれを掲げるか、又は棒の先に着物をつけて、一分ごとに上げ下ろしする、夜は備付けのランターンを灯すことになっているが、然しここは、村からは見えないし、いざとなった時、信号が役に立つかどうか、すこぶる疑わしいと思う。
 窓の外に足音がしたと思ったが、そのうち一名のガイドをつれた、若い男が這入って来た、先客のあるので非常に喜んだ様子であった、彼はフランス人で、今朝グリンデルワルトを発って、明日は後ろのシュトラールエックを越えて、ウンテラール・グレッチェル Unteraar Gletscher から、グリムゼルに出るんだなんて云ってた、ここで私達は、大分珍らしい話を聞いた、それは墺露の宣戦布告である。墺国皇太子がセルヴィヤで殺されたことは、私がベルリンを出発する前、号外で承知した、そしてそれ等の国交が、危機にせまっていることは、その日の新聞に、盛んに書き立ててあったが、いよいよ本式に戦争になるなんてことは、余りこう云う問題に興味を感じない私には、まるで考えもつかなかった。墺露が開戦となれば、当然、独仏は動員するに違いない。「この新聞は今朝出がけに村で買って来たので、途中で読んでびっくりしたが、折角せっかく登りかけたものだから、大急ぎで一廻りして、グリンデルワルトに戻ったら、ホテルに置いて来た妻子をつれて、すぐ国に帰るつもりだ」なんて、心配でもあるし、と云って山登りもやりたしなんて、両天秤をかけた心理作用が、人のよさそうな顔に表われて、こう云っては済まないが、見た眼には頗る面白い。
 国際関係は、此の際いずれにしても、旅人の表情の外、余りに私の感興をそそらなかったが、さし当り、一番気になるのは、小屋を囲んで降りに降りしきる吹雪である、がしばらくするうちに、窓の外は真白になって、明日の登山はとても不可能となってしまった、そう事が定まれば安心である。
 粉雪の中に日は暮れて、風に乱れて、窓に散るさらさら雪は、静かな、しかし何となく頼りの無い感じを、旅人の胸に運んで来る。そして暮れると間もなく、マッギを溶かし込んだスープ鍋を囲んで、佗しい晩餐は、荒木の食卓の上に開かれた、スープの外の食べ物は、昼も夜も変りはない、しかしその味は、いつも変りない食慾を与えた。どうせ此の雪では、明日は晴れたにしても登山は危険だから、小屋にもう一日滞在と腹を据えて、食後は、珈琲にコンニャックを入れて、煙草をふかしながら話し込む。室は暖かいが、外の寒さは非常である、ほかに御客はなし、私達三人は、婦人室の両側を占領し、ガイド達は二階の寝室に泊った。
 蝋燭を消して、いざ寝ようとすると、例の癖だが、眼が冴えて寝つかれない。窓にさらさら雪は絶えず吹きつけて、一夜の中に此の小屋が、このままクレヴァースに沈んだように、埋りはしないかなんて、下らない心配が、頭の奥にきらめいて来る、と、クレヴァースの緑色にすき透った、物凄い有様や、その氷の壁が一時に崩れ落ちて、吹雪のように巻き上るアイスアヴァランシュやら、今迄見たり聞いたりした、山登りに伴ういろいろの危険が、渦を巻いて頭の中に湧き上った。
 ストーヴはいつの間にか消えてしまって、気息が冷や冷や感ぜられる、備付けの毛布が充分あるから、気温の冷えてゆくのを、厚い毛織りに遮ぎって、スウェターをぬいだままの旅姿で、海老のように丸まって寝た、さんざん寝返えりうって、とろとろと寝ついたのは、無論真夜中過ぎであったろう。
 ふと眼が覚めた時は、みんなおとなしく寝静まって、まだ盛んに窓を打つ、吹雪の音ばかり、骨に沁みるばかりに響いて来る。マッチをって見ると、二時半であった、また毛布にもぐり込む。
 四時頃にガイドが下りて来て、例の仏人を起していたのは、うすうす承知したが、私達二人が起き上ったのは、もう七時過ぎであった。あの連中は、もうとうに山越しにかかったと見える、雪はようやく止んだが、表は気息がつまりそうな濃霧で、風は無いが非常に寒い、ガイドはとうに、次の室に下りて来て、ストーヴには、スープでも掛けてあるらしい。私達はそれでも、毛布の中に丸まって、中々なかなか起きようともしなかった。
 ヘッスラーが戸口からのぞき込んで、何だか天気になりそうですって知らせに来た、私達は漸く起き上る、顔を洗いに表に下りると、霧は淡いが、山は同じ色に真白で、晴れてゆくのかどうかさっぱり見当もつかない。昨日の水溜りは、氷の上に雪がつもって、ふちの方は、薄黄いろく滲んでいるのが、氷河から滴たる為か、を溶かしたように濁っておる。小屋の屋根は、綿細工みたいに覆われて、昨夜の雪は四寸位は積ったらしい。室に戻ると、いやに顔がほてって、かじかんだ指先きが気持わるくむず痒い。
 朝飯はコンソメーに、パンとチースで平げた。そのうちに窓の外は眩しいくらいに冴えかえって、薄い霧ごしに日の照るのが、電灯の火屋ほやでも見つめるような気がする。私達の靴は、もう油にてらてらして、室の隅にかしこまっている、これから明日登る準備に、雪を踏みかために、シュレック・フィルンへ出かけようと云うので、日は照り初めたし、重い荷は残らず小屋に遺して、白のスウェターの身軽ななりで、写真機と、幾巻きかのフィルムを携えたまま、小屋の裏手から、なそいに落とすフィルンの上を登りはじめる。丁度十一時であった。
 グレッチェルグラスをかけて雪を見ると、肉眼に見えないいろいろな細点ディテイルが、顕微鏡をのぞくように浮き上って来る、そして山の輪廓が、恐しいほどはっきりして来る、その山々のうちに、シュトラールエックを訪れたものの、ず第一に驚ろくのは、のグロース・シュレックホルンであろう。小屋の後ろの雪の斜面は、急な岩角でくっきりと立ち切られて、その切り岸の崖の底は、シュレック・フィルンから、ぐっと一段低く落ちこんだ氷河で、私達はその崖のはずれを、岩をつたうて右に、上へ上へと登ってゆく、すぐ眼の下になった氷河には、幾丈と知れない氷柱アイストゥルムが錯雑して、その間は、もうクレヴァースばかりと云ってよい。
「●シュトラールエックより仰ぐグロース・シュレックホルン」のキャプション付きの写真
●シュトラールエックより仰ぐグロース・シュレックホルン

 もう十二時に近い、日は新雪をやけに照りつけて、すでに岩の上は、らえきれずぽちぽち滴り落ちる雪解けの水に湿されて、足がかりは極めて悪い、此の絶壁の上からは、シュレック・フィルンから落ちる氷河の上とは、直立の断崖でたちきられているし、またよし近づけると仮定したところで、その氷河には、十五分目に一度ぐらいの割りで、すばらしいアイスアヴァランシュがくり返されている、したがって登山者はどこまでも崖の上を岩にすがって、「岩登りクレッテライ」をくりかえさなければならない。
 ここから仰のくと、正面にはかの氷河のすぐ上が、ややなだらかなフィルン Schreck-firn につづいて、そのうしろを、ぐるっと取り囲む障壁は、有名なクーロアール Couloir となっている。私達は氷の上に腰を据えて、じっとそのすさまじい絶壁を見あげた。
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グロース・シュレックホルン Gross Schreckhorn




 クーロアールの上は、群峰の最高点、グロース・シュレックホルンから、ギザギザのアレトで、右のはずれに屹えた、グロース・ラウテラールホルンにつづいてゆく、そこには多分、明後日登ることになるであろう。シュトラールエックは、その左の端から、麓の小屋の方面に引く山稜で、私達はこの直下を、左には深い底の方に、シュレック・フィルンの氷河を見て、ぐるっと大廻りにまわって、のクーロアールの下に行くのであった。
 今まで雪の上に点々と残された足跡は、岩壁の下で終って、私達の登るシュトラールエックの方へは行かずに、左に切れて尾根づたいに、シュワルツエックの方向に消えてしまった、多分け方の霧で、山越しを断念したあの仏人は、グリンデルワルトに帰ってしまったのだろう。
 岩登りクレッテライはかなりつづいた、然し大した苦しみは感ぜずに、また、よし苦しいにしても、面白さに打ち消されて、楽々と私達は、ガック Gagg と名づけられる岩山の、雪に覆われた絶頂に達した、ロープで一同数珠つなぎになっていたのは云うまでもない。ここで、強く反射する積雪の上にロープを敷いて、私達は背負って来た昼飯をはじめた。
「●ガックの絶壁とグロース・シュレックホルン」のキャプション付きの写真
●ガックの絶壁とグロース・シュレックホルン

 シュトラールエックホルンはもうすぐ上で、その鞍部あんぶを越して、反対に南に下りると、フィルンの終りは殆んど直角に折れ曲った、フィンシュテラール・グレッチャーから、ウンテラール・グレッチャーとなって、グリムゼルへつづいてゆく、これはグリンデルワルトから通う、比較的容易な路であって、ガイド一人つれて、二日がかりの山越しでゆかれる、その山のこっち側が、急なフィルンになって、もうここからは遠のいて見えない小屋の上に落とす、牙のような山稜にさえぎられて、フィンシュテラールホルンは見えないが、アガシホルンから段になって、ぐっと低く、三千七百米突メートルから五十米突ぐらいな高低しかない長いアレトは、アイスメーヤにながながと平行して、対岸にいくつのクーロアールを形づくって、オックスにつづいている、アレトの後には、これも私達の計画にあるグロース・グリューンホルンや、グロース・フィーシェルホルンが屹えておる、それからずっと右によって、アイガーとの間に、メョンヒが現われたが、ユンクフラウは前山に隠れてここからは見えない。
 アイスメーヤの終りは、低いグリンデルワルトの谷は見えずに、その向うのファウルホルンの連脈が、積雲の間に見えかくれする。氷河の右岸は、メッテンベルクから、クライン・シュレックホルン、それからネッシホルンで、そのすぐ上がグロース・シュレックホルンとなる。
 こう云う山々をくりかえし撮影して、また登りはじめた。午後の日は柔かく雪を融かして、一足ごとに膝までぶくぶく沈んでしまう。日は強く反射して、昨日からの雪焼けで、顔はただれるくらいにびりびりする。今、私達の進む正面に、平らなシュレック・フィルンが拡げられたそれと、切ったてのクーロアールの境には、二条の大きなシュパルトゥンクが横たわっておる、どうしてあれを越すのかと、心配になったからヘッスラーに聞くと、二条が入り違いになったところに、雪橋シュネーブリュッケがあるから、別に危くはないって答えた。
 私達はグロース・ラウテラールホルンの直下、三千三百米突と地図に示した、シュレック・フィルンの上まで来て引きかえすことにした。クーロアールには、絶えず薄い霧が湧き上っては、濃い蒼空に消えてゆく、そしてその左には、じっとその霧の上に屹立きつりつして、シュレックホルンの鋭い岩角が、脚もとのフィルンに、蟻のように集まった私達四人を下ろしている。
 ふりかえると、フィーシェルグラートの背後、トゥルークベルクの上に、ユンクフラウがせり出して来る、私達はここから引きかえして、同じ雪路を、小屋の方に下りはじめた、踏みかえした足跡が高低たかひくになって、時々つんのめったりしてかえって歩きにくい。山の急斜に、アヴァランシュはますますはげしくなって、すぐ下のシュレック・フィルンの氷河などでは、二、三十尺もある氷塔アイストゥルムが砕け落ちて、水沫みずしぶきのような雪の粉が、私達のいる崖の上まで巻き上って来る。だんだん下りて、例のクレッテライを終ってから、小屋が遠い遠い麓の方に、ぽちっと指された。雪は二十度ぐらいな傾斜で、シュトラールエックの麓をめぐって長々と横たわる。私達はロープをはずして、自由な身体になると、深い雪の上をまっしぐらに、小屋を目がけてすべりはじめた、私はいつの間にか、先登せんとうになって、腰に躍る写真機と一緒に握ったアルペンシュトックを後押えにつっぱって、柔かい雪をって、ぐんぐん先きに下りてしまった。
 雪の傾斜は右に下って、末はアイスメーヤに落ちてゆくが、その口元には、島の形に雪をめぐらした岩山が三つある、小屋はその最後の、一番大きな島に建てられてある、私は二番目の中の島まで辷って来て、岩の陰にちらほら咲き初めた、サクシフラガを摘みながら、みんなの下りて来るのを待っていた。
 すぐ下のオーベレス・アイスメーヤには片影ができて、横にひび割れた大きなクレヴァースが、まだ融けきれない新雪の下に口を開いている、対岸の山稜アレト、私が先に、アガシホルンからオックスへかけて、大した高低もなくつづいておると云った、アレトの空に接した線は、眼の迷いか、それとも実際薄い氷を透して、強い日が光るのか、空色よりはやや淡い光りが、例えば日向ひなた光沢つやのある貝でも見るように、二重のアウトラインが画かれておる。
 オックスはむしろ気味の悪いほど頭の上に近い。グロース・フィーシェルホルンは、いつの間にかその陰になってしまって、ここからは右よりにやや遠く、アイガーを望むだけである、その山頂に近く、日はもう傾むいて、コバルトを含んだ淡い色が、瞰下ろす氷河の空に飽和されて来る。南には小屋の屋根の上に、フィンシュテラールホルンの鋭い鉾さきがつき出して、総ての山はそのうしろに影をひそめてしまう。遠くで呼ぶ声がする。ふりかえると、フォイツと、少しおくれて二人が、雪を辷って下りて来た、その斜面の上には、恐ろしい幻のように、鋼鉄で鍛えあげたようなグロース・シュレックホルンが、半空高くがん張っている、見れば見るほど恐ろしい山だ。
 小屋に帰ってからも、私達二人は、雪にぬれた靴下や手袋を岩の上に乾し並べて、またじっとその山頂を見つめていた、小屋の屋根からは、絶えず雪解けの水がしたたって、敷きつめたごろた石にあたってはぽちぽち砕ける、丁度春先き庭の雨垂れ落ちの小砂利に、淡い雪の滴が響くような、暢気のんきな調子が、あのいかつい山岳に、睨みつけられている山奥の小屋と、何のかけかまいもない長閑のどかなリズムをなしておる。
 彼のヴィーッチはハイランドの山を望んで、かつて驚怖の外に、何等の印象をも残さなかった、蘇国民族の山岳観を、不可思議と感じたが、草に寝て、紫だった遠山を、原の彼方に眺めるのではなく、急流をわたり絶崖をじ、いく度か氷河を越えて、初めて、地の底から築き上げた山岳を仰いだ刹那、なお恐ろしさのほかに、何等の感を胸に残しえたものが、果していずこにあったろう、ありとすれば、それはまだ、山岳に対する経験に乏しいのであるまいか、山に住む民族の歴史にも、又はそれをくりかえして山に入る旅人の心にも、――私には遂に疑問である。
 山上の日は静かに暮れて、私達はまだ黙々として、彼の絶巓ぜってんをながめているうちに、小屋の窓をもれて、赤い灯が積雪の上を照らし初めた。
「●クーロアールとシュレックフィルン」のキャプション付きの写真
●クーロアールとシュレックフィルン


 アルプスの旅行記に、マーティン・コンウェイ Martin Conway は、オーベルラントの山名をあげて、その名の優美なのを嘆賞したなかに、シュレックホルンのシュレックを英訳して “Terror” と記しておる(The Alps from End to End.)が、彼れの訳は、 “Berg des Schreckens” として屡々しばしばくりかえされた誤解であって、Sehrecken 又は Schricken は、Springen で、山頂の急に秀でたのを称したのである、驚怖の意味ではない。
 がいずれにもせよ山は依然として、その誤訳の通り、「怖ろしい山」である。千八百六十一年八月十四日の午前十一時四十分に、サー・レズリ・スティーヴン Sir Leslie Stephen の一行が絶巓に立って以来、幾度の壮烈な悲劇は、その山頂に山腹に、絶えずくりかえされつつ、今日に至ったのである。
 夕飯を早や目にしまって、後かたづけが済むと、間もなく私達は床に這入ってしまった。寒さは雪の昨日よりも一層はげしいように思われる、寝室の小さな窓からは、星明りが蒼白く流れ込んで、私達の気息まで、ほーうっと白く見え初めた。風は少しもない、ただしーんとした山の奥に、アヴァランシュは、終日、終夜、遠く響いて来た。
 私はとうとう一睡もしなかった、只、毛布にくるまって、キチキチ刻む時計の針を気にしながら、寝がえりばかり打っていた。
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登山の朝




 八月一日はブンデスタークだ、スウィス開国の記念日である。
 二階の寝室で眼覚しがチリチリ鳴り出した、腕時計の針はちょうど午前一時を示している、いぎたなく寝込んでしまった近藤君を叩き起して、隣りの室に出ると、上からガイドの連中が下りて来た。外は、山稜にたち切られた空に星が冷たくまたたいて、風は無いが非常に寒い。入り口の水溜りは、無論、厚く凍って歯を磨くどころの騒ぎではない。簡単な食事を無理やりにつめこんで、登山服に身をかためて、て一っぷく煙草を吸った上、室の中から、もうロープで数珠つなぎになって、雪の上に下りた。ちょうど午前二時である。
 カチカチに凍りついた雪を踏みしめて、サック、サック、一足ごとにシュトックをついて、星明りに蒼く光る雪の斜面にかかった時、かつて覚えない緊張した気持ちになった。先登せんとうはヘッスラーで、次が私、フォイツは後殿しんがりである、ガイドの持ったランターンが、踏み固めた雪路に赤く滲んで、東へ東へと揺れて行く。昨日の跡が凸凹に凍っていて、非常に歩きにくい、がそれが無かったなら、ぼーっと一面に蛍光をはなって、闇に終る広い雪の斜面に、私達は取るべき路に迷ったに相違ない。
 星明りに登る雪路は、昨日すべり下りた足路を辿ったのではあるが、路が違いはしないかと思われたほど非常に遠く、それに思ったよりも急でなく、どこまで登っても果がないように感ぜられた。然しそれは、比較するもののない夜路と、雪の上で、非常に手間どった為めであったろう、私は危ぶみながら立ち止って見廻わした、ランターンの赤く滲じむ幾尺の外は、沙漠のような灰色のフィルンである。
 雪を散々登りつめると、急な崖に取っついた、北へ切れれば、シュレック・フィルンから落ちる深い氷河で、雪の反射から黒い崖に移った私達は、うす暗いランターンに足もとの幾平方尺を照しながら、石垣の塗土のように、岩のかけらに喰い込んだ氷に杖を打ち込んで、又東へ向って登って行った。
 私達はガック Gagg と呼ばれる岩角に来た。すぐ右手は、シュトラールエックホルンの尾根つづきであるが、頭の上まで薄蒼く、銀河のようにつづいた積雪のほかには何も見えない。
 雪はガックのはずれから、また急に深くなって、右側の急斜に沿うてぐるっと曲って行くと、昨日の足跡はそこでぱったり留って、眼の前にはひろびろとした雪田が横たわる、シュレック・フィルンである。
 蝋燭が惜しいので、ランターンを消してしまって、この昨日踏み固めに来た終点で、曳いて来たロープの上に腰を下ろして一休みした。三千三百米突メートルと、地図に記された地点である。
 ランターンを消してしまうと、眼はようやく暗がりに慣れて、星明りが思ったよりも明るくなる。私達の正面には、クーロアールが胸をつくばかりにつっ立っている。まっくろに屹えたそのアレトに境されて、下はクーロアールの、「辛うじて積雪を留め得る」と記載された急斜で、上は満天の星が、グロース・シュレックホルンの空にばかり集ったように、忙しくまたたいている。アレトの上を斜めに流れたのを、銀河とばかり思っていたが、それは空に凍りついて、じっといつまでも動かない薄雲に過ぎなかった。
「●グロース・シュレックホルン」のキャプション付きの写真
●グロース・シュレックホルン

 もう四時半になった、山は依然として薄暗く、空にはまだ暁の色はただよわない、そしてまた一同に立ち上った折りも、再びランターンの光を借りなくては、クレヴァースの口を開いた、シュレック・フィルンを横ぎることはできなかった。
 ここからもう足形はない、雪は堅く凍って、靴底の釘がガリガリ喰い入るだけで、今迄よりもかえって歩き易い、然し私達は、注意に注意して、大小のクレヴァースの間を縫って、静かに、つま先上りのフィルンを登って行った。
 或る時には、飛び越せると思ったクレヴァースが思いの外広くて、折角せっかく来た暗がりのフィルンを、あと戻りしてぐるっと遠まわりに向う側に渡ったこともある、こうしてクーロアールの直下まで辿りつくと、そこに二列の非常に大きなクレヴァースがある、昨日雪踏みに来た時、遠くから眺めて、あれをどうして飛び越すのかと思ったが、近づくとヘッスラーの云った通り、その二列はフィルンの間に喰い違いになって、狭い雪橋シュネーブリュッケが斜めにクレヴァースを横ぎっている、私達は難なくそこを過ぎて、いよいよ急なクーロアールに取っついた。これからアルペンシュトックをふるって、一足ごとに足形を刻まなければ登れない。
 ネイルド・ブーツを重いと思うのは、平地を歩く時だけで、雪にかかると歩き方がまるで違うから非常に楽だ、急斜にかかって平地と同様に歩いたら、気圧の低い山の上では、とても苦しくて長く続くものではない。ユンクフラウに登った折にも経験したが、草鞋でとっとと登る気で、一息に頂上までやっつけようなんて、野心をいだいたら最後、ガイドより先に息がきれて、空身のくせに吐息をついて、オイ一寸ちょっと待った、写真を一枚なんて、カメラを飛んだだしに使って、休憩の申しわけをするような、不体裁な始末が演ぜられる。急ぎたいは山々だが、せいては駄目だ、一足ずつに踏みしめて、両足が平均に身体の重さを感じた後、始めて次の一足踏み出せばいい、したがって時間は随分かかる、そのかわり休息は二時間か三時間目に一息つけば充分で、結局早く頂上に着くことになる。
 クーロアールは成る程急である、柄を短かくシュトックを握っても、別にかがまないで足形ステップが切れるくらいに、胸を圧している、さすがのガイドも、こうなるとランターンが邪魔になるので、それに夜明けに間もなく、白ら白ら明けとまでゆかないが、空には星の数が減って、ふりかえると谷をへだてたオックスの上に、ピカッと暁の明星が光っている頃で、消したランターンはリュックサックに仕舞い込んで、両手にシュトックを握って、せっせっとステップを切っては、一足ずつ高く高く迫り上った。
 もうの頃であった、オックスからフィンシュテラールホルンへかけて、薄い山稜から斜面にかけて、次第次第に明るくなって、それを見つめていた眼をそらして、初めてロープに縛られた仲間の人達を見まわした時には、違った世の中で出っかしたように、変な感じが起って来た、特にひどいのは近藤君である。
 が無理もない、気の弱いものならびっくりして、クーロアールから真っ倒にころがり落ちたに相違ない、その時の近藤君の顔と来たら、友達ながらすっかり愛想がつきた、雪やけで鼻の頭が真赤にただれて、ところどころは皮がむけて、下の正味が顔を出してるその上に、塗った塗った監獄の塀だってああ汚くは塗らない、一面に雪焼けのおまじないに、グレッチェル・クレームをなすり付けて、それが下手へたこて細工みたいに、桃色の斑になってるからたまらない、何だい君の顔は!
 うしたんだい、君の顔は! 冗談じゃない※(感嘆符二つ、1-8-75)
 二人の声でふりむいたガイドは、声を合わせてウァッハッハと笑った。私達もたまらなくなってウァッハッハと笑った、ウァッハッハはクーロアールに反響して、ゴーンと陰気に木魂こだまをかえす、と、エコーにつれて、夏の短か夜は白ら白らと明けかかる、もう午前五時であった。なだらかなフィルンはもういつのまにか足もとになった。
「●グロース・シュレックホルン頂上よりグロース・ラウテラールホルンを望む」のキャプション付きの写真
●グロース・シュレックホルン頂上よりグロース・ラウテラールホルンを望む

 もうフィンシュテラールホルンはシュトラールエックの尾根の上に、きりみたいに屹えていて、そしてその左に落すアウトラインが、薄紅く光りだした、と思うと殆んど同時に、オックスや、そのアレトの後ろに、頭だけ見えるグリューンホルンにも、さっと朝日が反射した。私達が一様にグレッチェルグラスをかけたのは、それから間もないことで、朝の日の溶け込んだ蒼空の下に、一面に真っ白な楯をついたクーロアールをじ登るには、それ無しには眼がちらちらして、我慢にも歩けなかった。
 頭の上には、雪の禿げた山稜が仰がれる、そのギザギザに崩れ落ちた岩の裾から、末広がりに此のクーロアールが辷っている、その間々には、急な岩角が真黒に背を出して、取っ付けそうな斜面を、いくつにも距てておる、私達は、ヘッスラーの意見で、ずっと右寄りに、グロース・ラウテラールホルンの方に近いクーロアールを登ってゆく、まるで蟻でもって行くように。
 いくら登っても雪ばかりで右へ、右へと、岩に距てられた路をとって、――左側はなおさら急にぐれているので、――もう足下になったシュレック・フィルンから、三時間半も登って、やっといくらか岩の表われた、山稜に近い急斜まで来た。この間には、ふりかえって朝日にきらめく山々を、撮影するために二、三度立ち休みしただけで、ろくに足を動かす余地もない急なクーロアールには、ゆっくりと腰を下ろすような場所は少しも無い。
 岩角にはまだ氷が下っている。私達は手袋をはずして、いよいよ岩登りクレッテライをはじめた。洞穴のようにえぐれた窓の左を目がけて、雪の急斜に飛び出した岩の鼻にしがみつくと、ロープを出来るだけ延ばして、ヘッスラーが這いずってゆくのを、ただ見ていてもはらはらする、随分きわどい岩登りをやって、もうアレトの上に出そうなものだと思ったが、尾根は牙のような岩ばかりで、その西側の岩壁にかじりついて、登ったり降りたりするので、尾根の向う側はまだ見ることが出来ない。
 岩壁の下は、深い底の方から、雪の急斜になって、手をゆるめればそれっきりだ、ワンドを這いずり上って、岩の上に出ると、又その岩と云うのがギザギザに欠けているから、石は落ち易いし手がかりはなし、両手を拡げて、蝙蝠こうもりみたいに岩に喰いつくような格構かっこうで、登ったり降りたりするのは随分たまらない。
 もうこうなると、登路なんて云うのは当てにはならない、先登のヘッスラーが這いずって行くから、すぐ後からロープに縛られて登ってゆくと、岩の向う側は断崖で、行き止りになっている、すると今度は逆戻りをして、フォイツが先登になって別の岩に攀じ登る、Uchiウアヒ! とか、Chumフム uchaアハ! なんて言葉が飽きるほど聞かされた。Uchi は Hinauf! のスウィス語で、Chum ucha は Komm herauf! である、がそれに続いてガイドの間にくりかえされる言葉に至っては、此の岩登りと同様に、私にはてんで見当もつかない。
 岩は崩れてカミソリのように鋭くなっている、随分丈夫な切れ地を撰んだつもりだったが、倫敦ロンドン仕立て下ろしのズボンには、方々に穴が開いて、下から血が滲んで来る、てのひらなどはきずだらけだが、危くて手袋などめてはいられない、ただ満身の力を両腕に籠めて、機械体操の要領で、ずり上るより外は仕方はない。
 小屋を発って、丁度八時間目に、やっと雪の山稜の直下に達した、考えて見ると、余り大事をとり過ぎて、余ほどグロース・ラウテラールホルンの方に片寄って登ったように思われる、そしてそれと、グロース・シュレックホルンとをつなぐ山稜の上は、危なくて通れないから、クーロアールに臨んだ崖に沿うて、這いずっておったのである。
 山稜の上に残った雪の上に、荷を下ろして一休みした、後ろはひどくえぐれた深い崖の底に、ラウテラール・グレッチェル Lauteraar Gletscher がのぞかれる。その向うはベルクリシュトックから、左に並んで、ウェッテルホルンの三山、ここから見ると無論立派なのは真中のミッテルホルンで、左のハスリ・ユンクフラウは、頂上の岩がこぶのように下ろされる。
 朝の一時から何にも食べないんで、一寸休んだらもう我慢がしきれない、頂上は頭の上だが、そこにつづく鋭い山稜は切ったてになってるから、随分骨が折れそうだ、四人とも云い合わせたように、リュックサックと睨らめっこをしていたが、痩せ我慢なんかする奴は、馬鹿だと云うことに評議一決して、氷の角によりかかって、一同早や昼の食事にありつく。ところが昨日今日雪の上で思い切りよく晒らしぬいた顔の皮は、もとより尋常な皮膚のことで、ほてってほてってびりびりするし、こうなるとグレッチェル・クレームなどに至っては、いやが上にけがれなく見せるだけで、何の役にもたたない、それはいいが、くだんの顔で、肉をかじると、厚く切ったベイコンなんか、頬張る程には口が開けないし、無理をすると顔が火のつくように熱く※(「火+(暇−日)」、第3水準1-87-50)ける。
 御茶がわりにコンニャックと雪をかじって、一息いれた後、いよいよここを発って、急な鋭い氷の山稜にとっついた。左はシュレック・フィルンまで切っ立ての崖で、右には深い深い底の方に、ラウテラール・グレッチェルが覗かれる、此のアレトは、千八百六十九年の夏、ここから辷り落ちて微塵になったと伝えられる、のエリオットの名をとって、エリオット・ウェンドリ Elliot W※(ダイエレシス付きA小文字)ndli と呼ばれておる。
「●エリオットウェンドリよりフィンシュテラールホルンを望む」のキャプション付きの写真
●エリオットウェンドリよりフィンシュテラールホルンを望む

 私達は氷に足形を刻んで、静かにそのアレトを攀じ登った、グロース・シュレックホルンの頂上は、氷柱が無数に垂れ下った岩で、もうすぐ頭の上になったが、時間はなかなかかかって、氷から柔かい雪に変った山稜を、胸を躍らせてかけ登った時、腕時計は、丁度午前十一時三十分を示しておった。
 絶頂の氷の上に、近藤君と抱き合って喜んだのはこの時である、グリュッセを叫んで、ガイド達と互いに堅く握手して、日の強い最高点に、躍り上って喜んだのはこの時であった。
 八月一日の、ひるに近い太陽は、グロース・シュレックホルンの絶頂に、私達の影をはっきりと画き出した。影はアレトに立ちきられて、三段に雪の上に辷っている。
一九一四・七・二三―八・一
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グロース・シュレックホルンの頂上




 私は仰のいて、冷たい山の空気を思うがままに吸い込んだ。海抜四千八十米突メートルの尖峰を、更に高く覆う大空には、塵ばかりの曇りもない、そしてこのドームのまわりには、ひたひたと寄せたアルプの山また山が、たとえば、氷洋の波の、泡だつままに凍ったよう、幾重とも知れない渦を巻いて、山はとこしえに脚下に眠り、氷の上にはったと投げた、四個の陰影は、寂として動かない。
 見まわすと、西の地平線上に、うねうねしたモン・ブロンから、エギュイユへかけて、一きわ高くせり出したオー・サヴォアの群山から右手へ曳いて、ユラ山系が書き割りのように続いている。南独逸ドイツの平原は、樅の梢であろう、もう雪は解けて、ただ真っ黒になすり付けた、シュワルツワルトの丘のむこうに薄がすんで、東はティロール、眼まぐるしいほど、重なり合った山の名は、さすがのガイドも知らなかったが、そこからなそいに南へかけて、ヴァレイの山脈のうしろには、ロムバルディヤの雪の山の、重たそうに、ポツリ、ポツリと、頭をもたげた、あの辺が北イタリヤの国境であろう。
「●グロース・シュレックホルン頂上よりウェッテルホルンを瞰る」のキャプション付きの写真
●グロース・シュレックホルン頂上よりウェッテルホルンを瞰る

 晴れも晴れた、雪あがりとは云うものの、の頃には珍らしい、冬の日に似た透明な空に、こうして三度オーベルラントの山上に立って、三度、私はアルプの全山を、隈なく眺めまわした。
 トゥーネルゼーの水の果に、前山の上に、半空に舞う「二羽の白鳩」と、遠く眺めた白いフレック、麓の人は、“Die verdammten Seelen” などと、薄気味わるく思ってると云う、その残雪は、頂上から西北へかけて、欠いて落した、断崖の真下になって、そのトゥーンの湖水は、入り込んだ緑の山の間に、遠く小いさく、ぴかっと冷たい蒼色を埋めている。オーベルラントの人達は、この残雪を “Die Augen” と呼んでおる、実際、うそ寒い日の暮れ方に、ほんのりと薄あかるい空をくぎって、真っ黒に隈どった、いかつい山の膚に、物の精でもあるようにぼつっと二つ、何か知れない、生きものの眼でも光るのか、夕闇の中に、くっきり白く取り残されたのを見たら “Die verfluchten Nonnen” などと、怖がるのも不思議ではない。
 私は眩んだようになって、氷の上に寝そべった。下ろすとクライン・フィーシェルホルンの空に、アードラーが、ゆったり輪を画いていたのも、今思えば、静かな幻に過ぎなかったろう。そのオックスから、左へかけてめぐらした、薄いアレトのうしろには、四千米突をこえた山が、四つまで思い切りよく、空につき出しているが、さすがに、フィンシュテラールホルンは群を抜いて、アガシホルンからフギザッテルへかけた山稜は、氷の冴えたのも、まるで刃物のように思われる。
「●グロース・シュレックホルンの西望」のキャプション付きの写真
●グロース・シュレックホルンの西望

 こうしている間にも、旅程は、その山々を指しては、氷の上にひろげた地図と首っ引きで、くりかえしくりかえし研究された。実際、山は、私達の希望のとおりで、一度達せられる瞬間に、もう更に高いところへ移されて、心はいつまでも、果す折のない望みを懐いて、どこまでもどこまでもさまよわなければならない、そしてその努力が、何とも云えない楽みである。
 明日登る筈のグロース・ラウテラールホルンは、アレトの岩が曲線を画いて、真っ黒な壁に、鋭い氷のひだ獅噛しがみついているのが、手を延せば届くくらいに見えるけれど、ここから、日帰りは無論、尾根づたいにも行けないので、矢張やはり朝は一時に起きて、今朝の通り、ここからは氷壁アイスワントの真下になったから、もううつむいても見えないが、あのクーロアールの直下まで来て、右へ別れて、西むきの雪にとっ付くんだそうだ。
 写真も充分撮し、景色も思うさま眺め、烟草たばこも冷たい舌の痛くなるほどふかして、かれこれ頂上に一時間はいたろう、雪は柔かなり、まともにうけた午後の日は強し、下山のほども気がかりと云うので、頂上を発ったのは、かれこれ十二時半を少し廻った頃、エリオット・ウェンドリの急なアレトは、登りと異って足がかりが悪いから、みんな、たっての苦しみで、びくびくしながらずそれでも無事に、荷を残して置いた、雪の上まで戻って、二度目の昼食をすませて一と休みすると、もうかれこれ午後の二時。
 氷河の通過には、一番危ない時刻だとかねがね聞いてはおるが、と云ってこの山では、別にどう仕様もない、登りだけで八時間乃至ないし九時間、今日は雪の調子で、九時間半までかかったが、て下りはと云うと、この通り切っ立てな雪では、かえってそれ以上に手間どるかもしれない、それだからオーベルラント第一の嶮山で、何と云っても外に方法はない訳だ。午後になるのがいやなら、登らないだけのこと、そんな話は一同初めっから承知の上で、ガイドもそのつもりで詮議の上、雇い入れた訳なんだが、今までの登山者の中にだって、かすりきず一つしないで、無事に下りたのもいるんだから、危険と云ったところで、皆がみんな、死ぬと相場のまった訳でもなし、どうしても助からんと云うのなら、麓にうろうろしていた日には、きっと大病ぐらいには取っつかれてしまおう、ええ危険があるなら、どうとも勝手にして見やがれなんて、心掛けの至極いいのが揃ったし、それに今朝の登りでは、あまり大事をとり過ぎて、かえってアレトの岩で、小ひどく悩まされた経験もあり、それには第一、遠廻りなんて時間はないので、誰の発議ともつかず、エリオット・ウェンドリのはずれから、薄いアレトを右に切れると、雪にのしかかったまっ黒な岩に両手を掛けて、逆か落しに、眼も眩むようなクーロアールに取っついた。
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クーロアール




 私は今まで、時々取りはずしては撮すのに便利だから、写真機は、右の肩からはすっ掛けにぶら下げて、その上にリュックサックを背負っていたが、こうなると、邪魔になって邪魔になって仕方がない、それにもうクーロアールにかかっては、写真どころの騒ぎではないから、今度はサックの中に仕舞い込んで、シャツの上にはスウェターコート、ローデンの帽子とスウェターは、ともの日に熱くてたまらないから、これもその中に押し込んで、しっかと背負うと、ず楽々と、気のせいか、空ら身よりもかえって気強いくらい身軽になる。
 が、登りとちがって、岩の角からうつ向きになって、一足クーロアールへ足形ステップを切ると、何がさて眼が眩むような楯一面、真っ白にすべり落ちる雪の壁に、這いずった先登せんとうはヘッスラーで、奴の鼻が私の踵につかえるばかり、すぐ上の近藤君は、肩のところでアルペンシュトックを突っ張ってると云う物騒なありさま、後殿しんがりのフォイツなんかは、どうしているのやら、仰ぬいて見るほどの余裕などは更に無い。左の手には、シュトックの柄と一緒に、数珠つなぎになったロープのたるみをやけに握って、一足、一足と段を作って、靴のつま先を雪の中に突っ込んでは、そろりそろり這い下りる、で、その雪が、また意地わるく、解けるように柔かい。
 何しろ、うしろむきになって這い下りるんだから、足もとは悪し、雪の急斜で手掛かりはなし、重くはなかった筈のリュックサックまで、いやに意地悪く背を曳いて、気のせいか、もんどり打ちそうで気味がわるくてならない。一足、一足、爪先が痛くなるほど、雪の中へ靴を突っこんで、そろりそろり這い下りてゆく。クーロアールは西向きで、午後の太陽をまともに受けた雪の反射で、ぴったりくっ付けた顔や手先は、しびれるばかりにびりびり痛む。
 が、まずまずどうやら無事に、一時間ばかりかかって、クーロアールの真ン中に、まっ黒に甲羅を干した、一枚岩のとっつきまで辿り着いたが、見ると岩のはずれは、わんぐりと雪がえぐれて、もう下りて行くことは出来ない、もとより腰は下ろせず、矢張やはり背ろむきになったまま、雪の絶壁と、にらめっこをしたままの数珠つなぎで、一息ついたが、今考えてもあまりいい恰好ではなかったようだ。おまけに昼過ぎのせいなのか、尾根ほど風のあてないためか帽子ミュッツェの縁をつたわって、残念ながらどうも冷汗らしい奴が、頬にじとじと滲むのが、顔の皮に稀硫酸でもぶっかけるようにびりびりする。
 どう考えても、の岩からは下りられない、かくも、一枚岩を横に這って、東のはずれまでこぎ付けると、遥かむこうに、今朝登った足跡が、立て掛けた梯子のように望まれた。あれまで行けばどうとかなろうと云うんで、何しろ今いるところは危なくて耐らないから、岩を離れると、又雪の壁を横にからんで、南へ南へと足形ステップを切った。
 でゆっくりと気を落ちつけて、き目もふらず、杖をふるって路を刻みつけながら、その雪の幅は、一町あまりもあったろう、縦板のように走ったクーロアールの真ン中を、かれこれ中ほどまではとっついたろう。新しい雪は、昼過ぎの日に泡のように水づいて、いくら杖を突っ張っても、柄は手ごたえもなく、そのままずぶずぶはいってしまうし、靴は海綿を踏むようで、足がかりは悪いし、一同、途方にくれた気味で立ち止まってしまった。
 と云って、じっとして居れば、一寸、二寸とひとりでに足が沈んでゆくから、ぼんやりしておるわけにもゆかない、先登のヘッスラーは、もう眼がすわって、物を云っても返事もしない。
 近藤君は、さっきからしきりに、頭痛がするって弱りこんでる。
「おい、御山に酔ったね、しっかりしないか、見っともないぜ」
笑談じょうだんじゃない、そうじゃない雪焼けだよ、どうも頭痛がして、それに顔が火のようにほてってたまらないんだ、君は何ともないのかい」
「ははあ雪焼けですか、上品な皮膚だから、そう云やあ真紅だぜ、それで這いずるんだから、先ず蟹さね、それにしちゃ余り足が長いが」
 などと、こうしたなかでも、相互に口だけは、人並みにきけたんだが、ヘッスラーの奴は、苦い顔をしてふさぎ込んでる。
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アヴァランシュ




 二言、三言、早や口にフォイツと話しあっていたが、そんな中にも元気よく、さあ出かけようぜってんで、たった、一足踏みだした刹那である……
 私は二年後の今日、八月一日、この『山岳』の原稿を書きながら、まだ鼓動の高まるのを覚える。
 この時、誰とも知らないが、わっ! というけたたましい叫び声を聞いた、どきっとして振りかえるとたんに、私と近藤君の間に、雪の塊が二間ばかり頭の方から、けむりをあげて、湯滝のようにどっと崩れ落ちるのを認めた、が、それは一瞬間で、もうその時、私達はアヴァランシュの上に乗っていたのである、夢中でシュトックを打ち込んだまま足を下にして、非常な加速度をもって、うつむきになったなりで一直線に、雪の楯をすべってしまった。その時、昔、針ノ木峠の残雪で、足を辷らして怪我をした時の有り様が、焼き画のように頭の中に渦まいたのを今も覚えておる、……と、急に腰に結んだロープがぐっと引っぱられて、目に見えない、ものの力に吸いとられたように、空を切ってもんどり打ったのも覚えている……、もう駄目だと観念した時に、ずしんとばかり、肩先からやけに雪の中に叩き込まれた。占めた! 助かった! と思うと同時に、また空を切って、私の身体はつぶてのようにほうり出された、その時夢中に握っていたシュトックが、何ものにかもぎ取られてしまったのを覚えている。……。こうして、邪見にクーロアールを跳ね飛ばされては、また叩きつけられて、雪崩アヴァランシュの中に巻き込まれつつ、転々として行く間に、粉雪が湯気のように、口の廻りに渦巻いているのを見た、……もう駄目だ……まだ生きてる……まだ生きてると刹那刹那に頭にくりかえされた時に、このまま生きながら、クレヴァースの底に落ちこんで、もがいても叫んでも、永久に出ることの出来ない、氷の底に墜落するのかと、咄嗟とっさの間に、頭の中に閃いたのを、私は今もよく記憶しておる……。
 こうして、次第に意識は不明瞭になって、ただ、何ものとも知らない大きな力にもてあそばれて、山崩れの石塊のようにころがされていった時、ずるずるっと、何かに摩擦されたように、速度が弱って、身体を埋め込んだ雪の山が、そのままじっと動かなくなったのをぼんやりと覚えていたが、それを最後にして何分かの間は、私の日記に、私自身すら書き入れることを許されない、白紙が計らずも挿まれてあったのだ。
 私は最初に気が付いたと思ったが、それより前に、雪崩の中からもがき出た近藤君は、フォイツと、肩から下は雪に埋まったまま、身動きもしないヘッスラーとをちらっと認めたままで、夢中になって、辻村! 辻村※(感嘆符二つ、1-8-75) 辻村※[#感嘆符三つ、370-16] とどなっても、私の影は見えなかった、そしてとうとう殺してしまったのか! と気がつくと、凍えた頭にかっと血の上るのを感じたと、あとでくりかえし話してれた。
 暫くすると、雪をつかんで、私の半身が表われたそうだ。
 雪の上に無理やりにもがき出ると、さっきと同じように、世の中の眩しいのに気がついた、眼の前にはヘッスラーがたおれている、左にはフォイツと近藤君が立っておる、私は周りを見廻して、みんなの無事な顔を見ると、なかば夢中でグリュックリッツヒと絶叫した。
 すると、まだ雪に埋まったままの、ヘッスラーが太いバスで、
「Ach! Nein, gebrochen!」
 と云った、彼の右脚は、ゲイトルをつけたまま、三ツに折れ曲っていた。
「おい! どうした」
「何ともない、君は」
「大丈夫だ、何ともない」
 私達は御互いに、生きたまま雪崩の上に取り残されたのに気がつくと、すぐ取り留めのない頭に、人間は死のうと思わなければ、決して死ぬものじゃないと思った、同時に、ああ面白い経験をした、いい土産話が出来たと無闇にうれしかった、そして最後に、妙に滑稽な感じが起った、もしヘッスラーが、苦い顔をして、雪の中で呻いていなければ、私達は無遠慮にも、の偉大なものの力に反抗して、大声をあげて笑ったに相違ない。丁度小供の時分、悪戯をして、よその叔父さんに追っかけられたような気分であったと思われる、そして最後に、不思議にも落ちついた、冷静な態度を恢復し得たように感ぜられた。
 と見ると、二人のガイドは、いい合わせたように懐中からウィスキーの平壜を取りだして、喇叭ラッパめると、すぐそのまま、大事そうに仕舞い込んでしまった、別に飲みたくはないが、むらむらっと疳癪が込み上げて来た。ふりかえると、切っ立てになったクーロアールからは、すぐ頭の上にたった今築き上げた、雪崩の岡をめがけて、まだざらざら崩れ落ちて来る、幸いに私達は、雪崩の上の方にいたために、下敷にならずに、その堤防のように盛り上った雪をはね飛ばされて、二条の広い氷隙クレヴァースの空を飛び越してしまったものと見える。然し、今いるところが、クレヴァースの上に仮りに積った雪かも知れないと思うと、それに一しきりんだアヴァランシュは、思いだしてはざらざら崩れ初めるので、ここにいてはまたどんな眼に逢うか知れないと気が付くくらいに、私は意識が明瞭になって来た、そして矢張やはり、落ちついたつもりでも、随分上っていたと見えて、グレッチェルグラスが、どうして損なわれなかったものか、縁の金具は折れ曲っていたが、眼鏡も硝子も無事に、妙なはずみで、額にくっ付いてるのにようやく気がついた。
 スウェターコートのかくしに手を入れると、さあしまった、山刀メスが無い、折角せっかく頂上で撮したフィルムを三巻入れといたサックが無い。
「おい! メッサー、メッサー、ザイルを切らなきゃ危いぞ、メッサーったら、早くよこさないか! おい!」
 ぼんやりしていたフォイツの小刀を引ったくって、身体にぐるぐる巻きついていた縄を、ずたずたに引ったぎって、四人とも離れ離れになった。近藤君は足が少し痛むって、鷺のように片足で立っている。見ると右の手先からポチポチ血がしたたって、雪の上に散ってゆく、私は今まで、くびに巻いていた手拭――高野君が物好きに、わざわざ小包で伯林ベルリンまで贈ってよこした、幸四郎の手拭を破って、取り敢えず繃帯をしてやったが、血を拭くと肉が破れて骨が白く表われている。
シュリンゲの紐が巻きついてて、振りちぎったものだから……いいやそんなに痛かない」
 こんな際だから、まさか負け惜しみでもあるまいが、骨が出てるのに痛くないなんて、先生余程面喰めんくらったと見える。ふと気がつくと、人のことは云えない、矢っ張り随分面喰っていたんだ、今迄ついぞ、気にもとめなかったリュックサックは、雪解け水でずぶずぶに濡れたまま、まだ振り切れずに、背中にしっかりっ付いている、早速とり出して、写真機のレンズをあらためると、幸にきずもついていない、フィルムは撮し残りがたった二枚あるだけで、あとのロールはどこかに振りとばしてしまった。取り敢えずその二枚で記念にすぐ撮影した。が、あわてたと見えて、二枚とも同じような位置で撮したのは、今思えば少々気がきかなかった。時間はと思ったが、腕時計は無論めちゃめちゃにこわれて、針が折れてるから遭難の時刻も、大凡おおよそ三時半ぐらいとは思われるが、本当のことはわからない。然しもうこの時には、日は次第に、淡い氷の紫だった、アイガーの空に傾いて、無事な身体でさえ、小屋までの崖路と、水づいた新雪の下山は、一通りなことではなかったのである。
「●遭難の後」のキャプション付きの写真
●遭難の後

 フォイツと近藤君は、大声をあげて麓をのぞんでは、助けを呼んでいる、叫び声はうしろに背負ったクーロアールに反響して、物凄く聞えるが、私達が下ろすシュレック・フィルンには、墓原のように氷塔の入り乱れたのを見るばかり、声はいたずらに消えて、生きたものの答えは聞かれない。私はふと、太洋の波に沈もうとする舟人が、帆綱の端にかじりついて、誰を呼ぶというあてもなく、狂い叫ぶ様子を思い浮かべた。どうせ助からんのなら、どなって見るのもよかろうが、今の私達は麓に残して来た小屋があるのに、下らない叫び声に力を費やすのは馬鹿げておると感じた。
「おい、よせよ、駄目だ! 呼んだって聞えやせんったら!」
 然し、一分間に六回と云う、山岳会規程の危険信号を、二人は血声をしぼってくりかえしている。小屋へはまだ三時間もかかる、仮令たとい私達の声がどうかして、そこまで届くとしたところで、今朝は誰もいなかったその小屋に、折りよく登山者が来ているかどうか疑問である、幸いに誰かいるとしたところで、又、幸いに、声を聞きつけたところで、何処どこでわめいてるか分かるとはとても思われない、万一、幸いに小屋に人がいて、幸いに私達の声を聞きつけて、そして幸いにも、何処と立派に見当がついたとしたところで、小屋からここまでは登り三、四時間、五時半、六時半、七時半、八時半……日が暮れてこの身体で、しかも杖なしで、ガックの岩が下りられるか、四方はヅィクザックの氷と雪で、歩けなければここに助けを待って、そしてこのまま、死ななければなるまい。
「駄目だったら、よさないか、そんな馬鹿なことをして! 声を涸らしたら肝腎な時に役にたたないぞ、僕等が下りなきゃ助かりやしないよ」
 然しすねが真っ二つに折れて、雪の中に横たわってるヘッスラーを見ると、実際、可愛そうで、大きなことは云えなくなる。然し気の毒でも、可愛そうでも、大きな事が云えなくっても、どうしても誰か人里までこぎ付けて、助けを求めて来なければ、此の際わめいたってどなったって、自分で始末しなければ、誰もどうして呉れるものではない。取り敢えず総がかりで、ゲートルをはずして繃帯がわりに、ぐるぐる巻きつけて見たが、折れ目がぎくぎくいって、そのたんびに唸るんだから、どうにも手が付けられない、でその方はフォイツに任せて、ずたずたに切り離したロープを結び合わせると、近藤君とフォイツと三人、杖はいずれも先刻御取りあげになったから、剣を盗まれた軍人みたいな身すぼらしい有り様で、身体をくくる程には長くないロープを握ると、ず懲役人と云った情ない形、恐る恐る氷河の上を下り初める。ヘッスラーも、さすがにガイドの端しくれだ、足は折れても、両手で這いずって、かく私達のあとにくっついて来た。
 近藤君は、右足が痛み出して歩けないって云い出す、私はまた何ともない筈だったのが、左の腕は、肩の付け根から、まるで感覚が無くなってぶらんと下ったままで、別に痛くも痒くも無いが、他人の腕でもことづかって来たようで変でならない、そして、二足、三足、歩き出すと、腰がずきずき痛み出して、右手で膝頭に突っかい棒をしなくては、立ってることも出来ない始末、今まで握っていたロープは足に巻きつくから、思い切りよく捨ててしまって、二人で手を曳きながら、フィルンをはずれると、右は氷河の底に、崩れ落ちるシュネーアヴァランシュの跡ばかり、掘りかえした墓場のようにのぞかれるシュレック・フィルンの崖の上を、左にはシュトラールエックの尾根づたい、この麓はガックの嶮のあると云う、その雪路をよろめいて、死ぬんなら一所いっしょにと云うので、近藤君と並んで、フォイツのあとを辿って行った。
 が、二人とも身体は利かず、雪はぶくぶく水づいて、一足、一足、抜くたびごとに、膝より深く入り込むので、やっとガックの上に出た時は、もう日はアイガーの肩にかくれてしまった。岩にかじり付いて、雪解け水に咽喉のどをしめすと、汗にびっしょりなった身内がぞくぞくして、もうこのまま死ぬんではないかと思われた。
 そして一度岩の上に腰を下ろすと、もう気が遠くなって、そのまま他愛もなく、寝てしまいたいような気持ちになった、然し流石さすがに近藤君は、こうなると強情に私を引っぱって、無理やりに崖の上から下り初めた。私達は十足と歩くと、もうたまらなくなって、片頬を岩にくっつけて、ひるのように雪解け水に吸いついては、また思い出したように、ふらふらと二足三足下り初める。
 何時間かかったか分からない、ガックの絶壁を下り切って、小屋の背ろへ引くフィルンの上に下り立つと、真夏の日もとうに沈んで、空は暗く、雲は灰色に変って、少し離れて跛足ひきひき、波にただよう形のフォイツまで、いかにも影が薄く思われた。
「もう駄目だ、歩けない」
 近藤君は雪の中に座ってしまった。私もそのそばにぼんやり座ってしまった。すると近藤君は、また起き上って動きだした、私も影のようにぼんやりあとについて行く、こうしてどこまでフィルンを歩いたか知らないが、私達は三人とも、いつのまにか、ばらばらになって、フォイツも近藤君も、どこへか見えなくなってしまった、そして私は、フィルンのはずれにある、中ノ島の上まで、どうにか、こうにか辿りついた、近藤君を呼ぶと、後ろの方で、いかにもたよりの無い返事が聞えた。
 岩山のはずれはまた雪になって、遠く向うに、今朝発った小屋が、薄くらがりに将棋の駒のように、ぽちっと雪の間に望まれる、私は小屋が見えると思ったら、もう筋が抜けたように、そのままぐったりと腰を下ろして、後になった近藤君を待ち合わせることにした。
 昨日、今日と、二日かけて踏みかえした雪路は、どんよりした夕闇の中にも、でこぼこに入り乱れて、今下りて来たガックの方から、小屋を目がけてまっすぐに走っているのに、と見ると、たった一筋、掃いてならした積雪を渡って、飛び飛びに岩山のすぐ下から右へ切れて、だらだらにやや小高く盛り上ったフィルンの陰に消えている。
 はてな、誰か来たのかしらん、シュトラールエックはあっちでは無いが、と、変に思いながら、もやを被ったような夕闇に見すかすと、すぐ下のアイスメーヤの氷河の上に、たしかにあちこち動いていた、一むれの人影を認めた、おやっと思って見なおすと、影はクレヴァースの間にじっと止って動かなくなった。私は引き息で、すっくと立ち上る、と胸の鼓動が割れるばかりに高まるのを覚えた。
 確かにあの辺で動いていたが、何だろう、妙なところに居ると思いながら見つめると、思ったより近い氷の間に、横に大きくひび割れたクレヴァースの上に、のしかかるばかりに重なり合ったものの影に気がついた。
「や、あすこに居る」
 見るといずれも、淡い衣の色は、もとよりくらがりで分からないが、着物の着こなし体つき、確かに女だ、クレヴァースをはさんで、右に二人、左側に三人、なかには爪立つばかりに氷の端をつかんで立ってるのもあり、しゃがんでいるのはクレヴァースにのめる様で、一人はその肩につかまって延び上りながら、じいっと底の方を指さしておる。
 はて、何をしているんだろう、誰かクレヴァースへ落ちたのか知らん、声をかけたものか……それとも……耳がかっと鳴って、頭は火のように熱い、そして襟から背筋へかけて、氷でも注がれたようにぞくぞく寒気がする、考えながら見なおすと、どうも耳こすりでもしているのか、どれとは無しに動くらしい。
 いまにふり向くか、どうも何か捜しているらしい様子だが、誰か落ちたに違いない、気になって気になってたまらないから、身体の怪我も忘れて、ふらふらと二足三足、歩いては立ち止り、見なおしては又ひと足、とうとう雪の小山の上まで来た。
 もうとうに暗くなっていたと見えて、衣物の色は灰色の氷と見わけもつかないが、寛やかなガウンかシュミースばかりでいるらしく、ことによると尼達ではないかとも思われる。その中でもクレヴァースに、指の爪をひっかけて、覗き込んでる女が、いかにも薄気味わるく思われた。
 フィルンを廻って崖を下りれば、下はすぐアイスメーヤの氷河である、アイスメーヤの氷の上だ、確かにクレヴァースの上だ、あすこが人間の居るところか、しかも女ばかりで此の日暮れに、思うとたんに総身に冷水を浴びたように飛び上って、ぶるぶるっと身ぶるいして棒のようにつっ立った。私は夢中で近藤君を呼んだ、同時にはじき飛ばされたように、雪の中を岩のはずれまで逃げかえった。ふりかえるとクレヴァースはどれか、もう見わけもつかないくらい暗くなって、確かに居た五人の女は、すっと消えてしまったらしい。
 私はまた気息を切らして助けを呼んだ、そして周りを見まわした、岩を囲むシュレック・フィルンは、一様の灰色で、気味の悪い物の形はもう見えない。
 二声三声、死に身の声をふりしぼって、近藤君を呼びながら、何かに追いかけられているように、息せき切って逃げだした。岩をはずれると、踏みかえした雪路で、でこぼこに掘りかえした靴のあとを、泳ぐような足どりで、振りかえっては何か追いかけて来るかと、暗闇の奥を見つめながら、やっと堤のように築き上げた、雪を乗っこすと小屋の裏手に、雪崩のように逃げ込んだ。そこにも、ものの形が見えた。
「誰だ! 誰だ! あ、フォイツか、誰か来たか」
 小屋の入口に固まった黒い影は、先登せんとうのフォイツであった、彼は近づくと両手にあごをささえて、身動きもしないでナイン! とたった一言答えたまま、まるで呼吸が無いように黙ってしまった。
 駄目だ、小屋には私達の荷が番をしていただけで、とうとう誰も来ていない、こりゃ四人のうち、きっと誰か死ぬなと直覚すると、仰むいて、今辷って来た雪路に近藤君を呼んで見た、返事はない、又声を絞って近藤君を呼んだ、返事はない、私はフィルンの端にかじりついて、延び上って三度近藤君を呼んだが、矢張りしーんとして誰も答えるものはない。私はそのままぐったりと雪の上にたおれて、フィルンから滴り落ちる、水溜りに口をつっ込んで、犬のように冷たい水を吸ったのを、今だによく記憶しておる。
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遭難の夜




 何だか、がやがや騒々しいんで眼が覚めると、周りに裸蝋燭があちこちと動いて、荒くれ立った男が、大勢私のそばでしゃべっていた、気が付くとどれも見知らない顔ばかりで、起き上ろうとする身体を支えてくれたが、身動きするたびに、骨が軋むように痛い。私はいつの間にか寝床の上に寝かされて、近藤君も入口の方に倒れておった。何だか頭が妙になって、そのまま眼をふさぐと、室の中の騒ぎが急にはげしく湧き上って、床をる音や、杖を突くひびきが、ぐわんと後脳に沁みたと思った。
 眼を開くと、大勢の男にかつがれて、真蒼な顔をしたヘッスラーが入って来た、一人は素敵に英語がうまい、其筈そのはずで、後に聞くと亜米利加アメリカ人だったが、私の額に手をあてたり、脈膊を数えたりして、やがて角砂糖にコンニャックをそそいで、口に含ませてくれた。
 意識はまた次第に朦朧として、夢ともうつつともつかず、いろんな人が出入りするのが、閉じた眼の瞼を透して、見えるような気がしたが、その後のことは今は全く記憶にはない、医者が来て、咽喉のひりつくような水薬をくれて、ことによると、有り合わせのブランデーを生一本で注ぎこまれたのかも知れないが、咳込みながら眼をあいた時は、もう夜はとうに明け放れていたものと見えて、北むきの寝室が、眩しいくらいに明るかった、側には近藤君が起きかえっていた。
 医者はヘッスラーの折れたすねを繃帯して後、ぶらりと垂れ下った私の左手をぐるぐる廻して見たり、腕をひっぱって見たり、散々いろんなことをやった揚句、片腕をくの字なりに折り曲げたまま、胸へかけてぐるぐる巻きに繃帯してしまった。
 誰だかカフェーを持って来てくれた、見廻わすと、私達は婦人室に搬ばれていて、ネイルドブーツだけは誰かぬがせてくれたと見えて、昨日のなりで、床の中に寝かされていたのだ。だんだん落ちつくと、腰と踵がずきずき痛むし、繃帯された左の方は、手首から先が氷のようでちっとも感じがない。
 様子を聞くと、昨夜あれから、近藤君がたった一人で、小屋に着いた時、フォイツはやっぱり、入口にぼんやりしていたそうだ、私を捜しに室を明けると、腰掛の下に俯伏せに倒れていたと云う。詳しいことは、近藤君の記憶にもないというが、間もなく二組の登山者が、本当に運よく、小屋へ入って来たのだ、一組は、独逸ドイツ人二人にガイド一人、一組は、米人と和蘭オランダ人で、ガイドが二人、この連中が手分けをして、一人はグリンデルワルトに医者と人夫を呼びに行き、一組はヘッスラーの捜索に、あとは小屋で私達につき添ってくれたのである。
 夜通しグリンデルワルトへ下りた人夫は、医者と十二人のガイドを引っぱって、小屋へ着いたのが今朝の午前十時、白ら白ら明けに村を発って、ベールエックで朝飯をたべてやって来たのだ。
 そのうちに、誰だかカフェーにパンと腸詰ウルストを持って来てくれた、考えて見ると、昨日の昼飯をアレトの雪の上で平らげてから、水の外には一口も食べなかったんだが、その割合にうまいとも思わなかった、近藤君はカフェーが済むと、早速シガーをくわえ込んで、パクリパクリ煙を吹くのが羨しくてならない。
「ドクター、どうだい、煙草でも喫わないか、シガー上げようか」
「シガーはいやだ、パイプがほしいんだが、アヴァランシュの騒ぎで何処どこかへ落しちゃった、村へ出るまで禁煙だ。ひどい目に逢ったよ、煙草はなくすし、折角せっかく撮したフィルムもすっかり落しちゃったし」
「僕は金入れをなくしてしまった。正金の信用状と現金が少しばかり入れてあったんだが、後で捜しにらなきゃ、村へ出ても一寸ちょっと困るから……パイプはそこにあるよ」
 めた、パイプがあれば、二日や三日は煙草を食っても生きてられる、早速近藤君をわずらわして、刻みをつめて貰って、一寸西洋の御大名みたいだが、片手では詰められないから、これも已むを得ない、マッチまで擦ってもらって、一口喫うと、昨日の騒ぎで逃げ出した魂が、やっと宿元へ戻ったように生々とする。見廻すとヘッスラーの蒼い顔が見える。
「ヘッスラー、どうだい、痛むか」
「否、じっとしてればそんなではござりましねえ」
「山を下りたらどうする、グリンデルワルトで療治するか」
「いいえ、ウンテルゼーエンのシュピタールが一番いいだでね、山から来る衆は、みんなそこに行かっしゃるだ、一日六フランだで、そう大してはかかりましねえ」
「近藤君どうする、ベルネルホーフに行くのも気が利かないし、第一不便だから、かく病院に入ろうか、山から来る衆がみんな行くんなら大丈夫だろう」
 御医者の病院説は無論だが、ガイドもしきりにそう云うし、の時はまだそう大した怪我だとは、御互いに気がつかないでいる時分だから、二人で散々相談して、それでは兎に角、一先ひとまず病院に這入って見て、居心地がよければそこに定めるし、さもなければベルネルホーフに宿をとって、通ってもいいと云うことになった、日本の病院の経験があるから、余り気がすすまない、酒は一切いけません、煙草は禁じてあります、それでは先生に伺って……を、毎日くりかえされた日には、白面しらふな者だって、しまいには病人になってしまう、どう考えて見ても、病院は私の性に合わないけれど、何にしても身体の調子を確かめてからでないと、余り我儘わがままも云えない訳だ、それに近藤君の長い脚は、確かに折れてると宣告されているんだから、是れは一と先ず病院に落ちついて、然る上善後策を講じた方がよかろうと云うことになった。
 近藤君が遭難の時なくしたのは、信用状で八千五百円、外に英仏とりまぜて金貨で、六百円ばかりであった、すぐ一人捜しにやったが、とうとう見当らなかった、後に私達が病院に入ってから、二度人夫をだして見たが、フォイツの杖と近藤君の帽子が見つかっただけで、とうとうわからず仕舞いである。
 天気は相変らず申し分がないが、こう成ってはかえってそれが癪の種だ、跛曳き曳き北側の窓から首を出すと、グロース・シュレックホルンは、頭の上から相変らず、小屋を睨みつけている、一枚岩の中腹には、うっすらと雲が這い上って、蒼空と氷とくっきり分れた、エリオット・ウェンドリから南の方は、前山の雪でかくれているから、昨日の場所はここからは見えない、まあ頂上迄登ったのがせめてもで、うなったらあきらめるより外に仕方がない。もう一つの窓からは、フィンシュテラールホルンが見える、日に向かうから眩しくて、ぼんやり一様に真っ白に光るなかに、氷のぎざぎざが、一きわ白く浮き出してるだけで、此のまま、山が半空に融け込んでしまうんでは無いかとも疑われる。
 全体ならば、今ごろはグロース・ラウテラールホルンの頂上で、思うさま写真でも撮してる頃だが、フィルムの十六本が、三分の二も残ってるのに、片腕利かないので、この天気にも撮すことさえ出来ない。そのうちに、おくれて村を出た人夫がやって来る、小屋はがやがや騒々しくって、ちっとも山の中らしくない。昼飯なんか、食ったんだか抜きにしたんだか、今もって思い出せないくらいのぼせ上った。
 そのうちに人夫も揃い、支度も出来て、いよいよ出発となったが、小屋には担架が二つしかない、足の利かないヘッスラーと近藤君がそれに入れられて、私はフォイツと一緒に、ゆっくり歩いて下ることにした、そこで皆より少し早や目に小屋に別れて、がらがらの石の上に出ると、もう腰縄で、荒くれたガイドが縄尻を握って附きそった所、どう欲目に見ても罪人、これからシベリヤに流し者ぐらいにしか受け取れない。私には二人ついてリュックサックと写真機も背負ってくれたし、誰のだかアルペンシュトックも借りて来たが、こうやって見ると無疵むきずな人間は幸福だ、たださえ歩きにくい岩路を下りるのに、片手はまるで感覚がないのに、上からギリギリ繃帯されてるから、胸が圧されて息苦しくてたまらない、この辺に倉庫でもあるんなら、肩の付け根からもぎ取って、癒るまで一寸預かってもらいいような気がした。
 ネイルドブーツで、ゴトリ、ゴツリ、歩くよりも落ちる方が適当な形容詞なんだから、シュワルツエックに来るまでに、もう冷汗びっしょりで、小屋の入口に腰を下ろすと、眼が眩んで、一寸の間は口もきけないくらいになった、ガイドの持って来たウィスキーに咽喉を湿して、汗をふきながら一服喫う。昨夜出っかした女のことを聞いて見たが、別に登って来た様子もなし、第一、女ばかりでいたなんて、どうも変だ、ここかシュトラールエックより外に、泊りどこは無いんだからなどと、話していた。然し不思議だ、確かに動いていたが、今だに私には、時々幻のように眼に映つる。
 クレヴァースの遠くには、蟻のように一群の人影が点ぜられた、それは担架に附きそった連中である。シュワルツエックからの急坂は、人一人やっと通れるだけだから、危険を冒かして氷河の上を渡って行くのだ、時々大きなクレヴァースを廻ってゆくらしく、蟻の左右にうねってゆくのがよく見える。
 一休みして小屋を発つと、坂路は次第に急になって、腰は痛むし、踵がずきずきして力足が踏めないから、借り物のシュトックもガイドの一人に渡してしまって、身体を縛った縄にり下げられて、下りるより下ろされると云う体裁だから、骨の折れることは一通りではない、同じ賃金で働いてるのに、私の掛かりになったガイドは散々な目に逢うと思ったろう、然し彼は忠実に、私が今まで経験した最良の人夫と断言出来るほどの労力をもって、いつも少しも変らずに世話をしてくれた、彼の名は、ペーテル・ブルゲネル Peter Burgener、グリンデルワルトのガイドの名簿には、同じ名が見えるが、これは四十ばかりの、丈は私より三寸ぐらい低い男である。
 岩山には、雪解け水がじとじととして、只さえすべり易いのに、身体は利かないから、今考えると痩我慢を張り通したのだが、人間は外に仕方がないとなれば、どんな事でもやってのけられると思う。ゴツリゴツリ岩角にぶつかりながら、下りて行くのが、一足ごとに脳天迄沁み透るくらいズキズキ痛む。後で見るとあれ程、しっかり打ったネイルドブーツの釘が曲って、三本までどこかに無くなしたくらいで、時間は自分ながら呆れるほどかかったが、それでもどうやらベーニセックの岩山を登り下りして、草原に雪のなだれた、斜面までこぎ付けた。
 登山の前と違って、いささか意気消沈の気味だが、早く村に出て、ビールでもチトローネンワッサーでも、一杯飲みたいと、此時は、そればかりが望みだった。気が付かずに、近藤君のパイプを持って来てしまったのが望外の幸福で、山の空気でカサカサに乾き切った刻みを、何度もふかして居た。
 もう日暮に間もあるまい、四時間余りのみちのりに、彼これ七時間も費やして、ベールエックのとっつきの、牛小屋まで辿り着くと、今迄いやに薄ぐらく、頭の上に覆いかぶさっていると思った夕雲が、いつの間にかオックスからアイガーの裾へ拡がりかかって、そのうち、どっと細引のような大雨になった。
 フォイツの奴は、大した怪我ではないと見えて、ガイドの連中より先に、ベールエックへ行ってしまったが、歩けない私は、仕方がないとして、附きそった二人のガイドは、帽子からズボンまでずくずくに濡れながら、それでも厭な顔もせず、根気よく私を引っ張ってくれる。
 空は真っ黒に掻き曇って、いつの間にかすぐ下の氷河も見えなくなった、その暗い谷合を、斜にって落ちる大雨は、殆んど鋼鉄のような光沢がある、私は雨足に射すくめられたようにくびをちぢめて、ギクリ、ギクリ、痛い脚を曳きずりながら、ベールエックさして濡れて行くと、岩の角から、担架に付いて行ったドクターがやって来た。ヘッスラーと近藤君は、担架のままグリンデルワルトへ運ぶ手筈になっておる、然し貴下はもうとても歩けないから、ベールエックへ泊って、明日の朝村まで御下りなさいと云う命令だ。此の時はもう誰が何と云っても、ベールエックから先に動くものかと、腹を据えていた時で、無論ドクターの仰せのままに従った。
 私は召集されて明朝国境へ行くのですから、ここで失礼をってんで、握手がすむと、すぐまた岩の蔭に下りて行ってしまった。
 軍隊式は差し支えないが、あとで受け取った先生の勘定書に、二人とも一寸驚ろいたが、成る程医者はいい商売だ、少しばかり繃帯をしに、シュトラールエックまで散歩に来ただけで、大枚二百五十フラン、これは戦争中でなくても、余り安い診察料ではない。
 ようやくベールエックの宿の前へ出ると先に着いた担架は、岩のむこうをなそいに下りて、雨の中をしょぼしょぼ湿れてゆく様子、私はふとパルシファルの舞台をおもい起して、杖にすがったままじっと見送っていた。ガイド達に階段を押し上げられて、此の間、近藤君と泊った室の寝台にたおれると、もう生体もない位ぐったりして、ずぶぬれの着物を脱がせて、医者のいいつけで、娘の持って来たコンニャックワッサーの、熱い奴をぐっと飲むと、あとは、たわいもなく寝てしまった。時々、痛いんで眼がさめる、宿の娘は深切しんせつに附きっ切りで、氷河からかいて来たろう、氷を手拭に包んで、頭を冷やしてくれる。
 着いた時には、誰だか蝋燭を持って、先きに立っていたから、彼れこれ夜の八時過ぎだったろう。雨は二階屋根が流れるほどな土砂降りで、陽気のゆるんだせいか、アイガーグラートあたりの、近いところでくり返されるアヴァランシュが、その度毎に頭にこたえる、とまたうとうと眠ってしまう。
 ふと眼を開くと、例の娘が、紅茶にロールを持って来た、頭を上げるとビンビン痛むから、横むきに寝たままで熱い紅茶をすする、ベルネリン型の丸顔で、丈の低いのがいかにも山の女らしい。戦争の噂さは、こんな山の奥まで拡がったと見えて、今朝の白ら白ら明けに、私達を助けに来たガイド連が、下の食堂へなだれ込んだのを聞きつけて、村で戦が始まったと早合点して泣き出したということだ。
 紅茶の御かげで気分も大分よくなった、ことによると空腹のせいであんなに苦しかったのかも知れない、夜中にまた熱でも出るといけないと云うので、フォイツを呼んで貰って、同じ室の隅に寝かしたが、これは横になるともう大鼾おおいびきで、邪魔になるばかりで、何の役にも立たなかった。
 雨は思い出してはどっと降り、と、またぱったりんでしまう。夜は次第に更けて、アヴァランシュの遠く近く土の底から響くのが、もの寂しくもなつかしい。
 腕から肩へ巻いた繃帯が胸を圧して、寝苦しくてたまらないのに、フォイツの鼾がまた底意地わるく耳について、いまいましくてならない。
 たった四日前に泊ったこの室に、今夜、私一人帰って来て、たとい連れ立った人達に、非常な怪我があったにしても、御互いに命生きて麓へ帰る今となっては、幸いにもグロース・シュレックホルンの絶巓ぜってんを極めて、しかも九死に一生を得たと云う、不思議な経験が、いくら考えてもうれしくてならない。人は恐らくそうであろう、生の執着に、よし多少の厚薄はあっても、ふり返って身の上を思うには、余り馬鹿気ている、此の偉大な山岳の間にあって、又人の恐れる死の刹那の、余り急に、余りに不用意な瞬間に襲われて、知覚する暇もない間に過ぎ去ったこの経験は、ただ感謝の眼を以て迎える外はない。幾年の後、あるいは幾十年の後、この八月一日を思い出して、ああ幸いに助かったと喜ぶ折もあろう、或いはふとあの時と思いに死んでいたらと、悲しく思う時があるかも知れない、然しいずれにしても、人間としていつか死ぬものと定められてある以上、私個人としては、此の後、幾百十年生きのびたとしても、此のアルプスの雪に埋めらるべき、八月一日ブンデスタークほど、快い死に様を、或いは恐らく求めえられまいと、残念にも思われる。
 こう思いつづけている間に、風につれた山の雨は、いく度となく窓を叩いて、終夜暴れつづけた。暁方あけがた近くうとうとして、ごとりごとり床板を踏む、フォイツの足音に、ふと眼覚めた時は、枕に近い小さい窓には、朝靄あさもやが浴場の玻璃はり扉のように渦まいておる。風は落ちて、しっとり湿れた山の宿に、夜はほのぼのと明けていた。
 気分は極めていいが、身体の痛みは昨日よりも又更にはげしい、片手わざで顔を洗う間も、踵には釘を打たれるような疼痛を覚える。簡単な朝飯を食べて、七時頃、表のテレースで一ぷく喫って、ベールエックに別れを告げた。朝靄はいつとなく裾から晴れて、空にはところどころ蒼空さえ仰がれる。赤く崩れたアイガーの嶺には、まだ真白な霧がねばついているが、北の谷合には、緑の牧に、絹のような薄日のさすのさえ望まれる。私はグウェヒテンの裾に、紅色になすりつけられた、アルペンローゼンを眺めながら、ぼんやりと立ちつくした、そして手足の怪我のなおり次第、またこの同じ径を登って、今度はグロース・ラウテラールホルンへ登ろうと決心した。
 山の朝はいかにもうれしかったが、昨日のガイド達の朝飯を合わせて、総計八十フランの宿賃には、いささか一驚を喫せざるを得ない。宿のアルペンシュトックを借りて、グリンデルワルトに向かう。フォイツは私のリュックサックは持ってくれたが、まるで頼みにならない。みちは昨日と違って、楽には相違ないが、雨上りの岩角が、力のない足には何より苦しい、一歩一歩曳きずるように足を運んで、麓をさして下りてゆく、そのうち後で女の呼び声がする、ふりかえると、宿の娘で、何か忘れものかと思ったら、ウィスキーの小壜を持って来てれたのだ、有り難く懐中におさめて、ベールエックの岩山を下りる。
 タンネの森はもう脚もとに、すくすくと梢を並べているが、途は雨の中を登ったこの間より、思ったよりも遠い、右の踵がずきずき痛んで、殆んど十歩と歩きつづかれない。僅かな途に、二時間も費やして、前に、カンパヌラの花を摘んだ、森の木蔭に来て、倒木の幹に腰をかけて、例のウィスキーをあおる。
 誰か登って来るなと思って見ていると、二人づれの英吉利イギリスの女がやって来た。貴下ですかアヴァランシュで怪我をなすったのはと、人の顔を見るより先に声をかけた。食堂では、貴下がたの評判と、戦争のうわさで持ち切りですなんて、人を馬鹿にしている、それでも紙づつみを拡げて、チョコレイトとボンボンを分けてくれて、手が利かないから、錫箔ティンフォイルをはがして呉れたりした。
 またそろそろ歩きだすと、途の曲り角で、また二人の女に逢った、これもやはり英国人で、今度はレジンでテルモスの御湯を飲ましてくれる、その次に逢ったのは仏蘭西フランス人、これは何にも呉れなかったが、煙草の火をつけてくれた。身体が達者なら、ろくに挨拶もしまいに、山では怪我はするものだと、心中いささか滑稽な感が湧く。
 然し、氷河の終りに近い、千鳥掛けの岩道に辿りついた時は、身体は綿のように疲れ切って、総身は水を浴びたように汗にぬれた、フォイツは依然としてうつむいたまま、少しも頼りにならない。もう意地ずくで、眼の眩むのを我慢して、一歩一歩ずり下りる、が、ベールエックから五時間もかかって、漸くリュチーネの流れのふちに辿り着いた時には、路ばたの草の上に仰むけに倒れたまま、もうどうしても動けなくなった。
 フォイツは仕方なしに、流れに渡した小橋を渡って、野良仕事でもしていたらしい男を頼んで、村まで馬車を雇いにやった、その間、もう蒼白に日の強い、真昼の日影を、七葉樹の葉かげにさえぎって、私は草の上に、身動きさえも出来なかった。
 半時間ばかりで、一頭立の馬車が来た、それに運ばれて、果樹の間を丘を登って村路に出ると、とっつきのレストランの前に馬をとめて、たてつづけにシュタインでビーヤを浴びて、漸やく人心地がついた。村ではもう評判になってると見えて、いろんな奴が馬車の廻りにたかって、遭難の様子をたずねる、なるたけ馬車を急がせて、グリンデルワルトの停車場に着いたのが午後一時、発車にもう間のない頃で、国境を固めに出る兵士が、私達の着くのを見ると、ばらばらっと客車から飛び出して、荷物を運んだり、私を抱いたりして、室の中につれ込んで呉れた。
 若い連中が大勢やって来て、一人一人握手して、無事を祝してくれる、日本の汽車の中とは格段の相違で、私は故国では、とても味わえない悦ばしさに充たされた身体を、この室の中に横たえることが出来た。そして、汽車はリュチーネの流れに沿うて、白樺の林を走るのであろう、折り折り瀬の音も高く響く車窓に近く、積み上げてくれた外套の上に体をよせて、親友に告げるように、ことごとしく私達の経験を話した。山を理解してくれる此の人達と物語るのは、たとい汽車の響が絶えず疼痛を与えるにしても、私には非常な幸福と感ぜられた。趣味もなく、理解もない人を、同じ国民と呼び交わすよりも、むしろ国を異にし、語を異にし、又習慣に何等の差あるにしても、今ここにある人々の間におることの、遥かに愉快なのを、私はついに忘れることが出来ない。
 汽車は話の間に、二、三の停車場をいつの間にか過ぎて、インテルラーケンのオストバーンノーフに着いた。同室の兵士は、一組は仲間のものの荷物を搬んでやって、その間に他のものは、私を助け下ろして、馬車の来るまで身体を支えてくれた。此の間にフォイツは、停車場に店を出してる娘のところに行ってしまって、馬車が動き出すまで、帰って来ようともしない、私はくりかえし彼の行為を見て、スウィス人らしくないと感じた。
 車はホョーエウェークの大通りを西に向かう。街は戦争のためであろう、往来の人達は昂奮しきって、中には伊太利亜イタリヤの労働者の、昼日中酒に酔いしれてるのさえ二、三見うけられる、いろいろな工事が急に止められたとばっちりであったろう。煙草屋の店先きには、弟のグルンダー君がいて、非常に驚ろいておる、私は車の上から手短かに話したまま、車を急がせる。バーンノーフ・シュトラーセの角で、ベルネルホーフの主人を呼んで、預けて置いた荷物のことを頼んでると、ひょっくりニクレス老人に会った、近藤君の事は誰も知らない、昨夜の終列車に間に合わないで、二人はグリンデルワルトから馬車を仕立てて、夜分に病院へ着いたのであった。リュチーネを下ったその夜の路は、私は今でも羨ましく思う。
 往来は線路とアーレの流れを渡って、ウンテルゼーエンの古塔の下を左に切れると、静かな路に、果ものの樹の蔽い茂った村路に沿うて、ベツィルクス・シュピタール Bezirgs-Spital に入る。
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病院生活




 病院は、静かな村から更に奥深く離れた、石造の洒灑しゃれた三階建てで、前庭は芝生を覆うて、一かかえに余る林檎の樹が茂っておる、人気もないくらい、しーんとした玄関側に車を止めると、白衣をつけた看護婦が待っていた。私はもう下りることさえ出来ない。そのうちに、看護夫が二人やって来て、玄関側の階段をつれられて二階に上ると、一面に敷きつめた人造石の廊下に、ネイルドブーツの足がすべって、しまいには自分で足を動かす力さえ無くなって、三人につかまったまま、東側の角にある、三十五号に助け入れられた、突き当りのベッドには、シガーをくわえて仰むけに、近藤君が寝ている、然し私は暫らくの間口もきけなかった。
 身体は汗に湿れてぐったりしたのを、すっかり拭いてナイトシャツに着かえさせてくれた。繃帯を解くと、借り物みたいな腕は、付け根からだらしも無くぶらり下って、我がものながらどうも気味が悪くってならない、ようやく仰むけに寝かされて、何だか知らない薬を飲まされてから、ようやく落ちついた。
「ドクター、どうだい、少しはいいのかい」
「どうも閉口したよ、君はどんなだ」
「今朝診察を受けて、レェントゲン光線レイで折れたところが分った、こうしていれば別に痛くはない、ドクター、この病院はなかなか居心地がいいよ、酒も飲ましてれるし、煙草も許しを得ておいたから」
「そりゃいいや、途中散々考えたよ、窮屈なんじゃないかと思って、室も中々なかなかいいね、周りも広いし、ホテルに居るより綺麗でいいや、時にヘッスラーはどうしたい」
「彼奴は診察のたびに悲鳴をあげるんでね、それにかみさんや娘がやって来て泣き出すし、うるさくっていけないから、君と同室の約束だって、さっきあっちの室にやってしまった」
「そりゃいい都合だ、君、煙草をもってないか、刻みをすっかり飲んじゃって」
「パイプをなくしたと思ったら君かい、御蔭でひどい目に逢った」
 二人とも丁字にむかい合ったベッドの上に寝たまま、それからそれと、別れたあとの話を語り合う、一日の行程を担架の上で揺られるのは、よそで見るほど楽では決してないそうだ、クレヴァースの上を越す度に冷や冷やしたが、一番弱ったのはザクザクの氷河の上を曳きずられて、ズックを通して衣物もシャツも雪水に濡れたことだと云う、成程そう云えば、風邪でも引いたと見えて、少し鼻声になっている。
 そのうちに、ナースがコッフィーとロールを持って来た、私はあとで考えると、一時何分のグリンデルワルト発に乗ったんだから、午後の御茶だと気がつく筈だのに、何しろ日本で育った御蔭で、病院とは陰気で、まずいものばかり食わせる所の総称ぐらいに心得ていたから、おやおや貧弱な昼飯だ、これじゃ三日と我慢は出来まいなんて、心の中は大いに不平で、君、三度三度こんなものばかり食わせるのかと、念の為近藤君に聞いて見ると、中々御馳走があるよ、どうしたんだい、君、これは御茶じゃないか、余程どうかしてるぜの男はってんで、頭から叱られてしまった。
 誰かノックすると思ったらグルンダー君だ、弟に聞いて驚ろいて駆けつけて呉れたのだ、然し私達の、相変らず暢気のんきな様子を見ると、よほど安心したらしく、ゆっくりと腰をすえて、ナースに頼んで御茶を余分に取り寄せた上、又山の話に夢中になった、そのうち、医者の廻診があって、一時自由をゆるされた私の身体は、また繃帯でぐるぐる巻きにされてしまった、どうも息苦しくてたまらない。
 医者が帰ると、診察の間席をはずしたグルンダー君が入って来て、いろいろの相談や、山の話に花を咲かせた。ガイドの賃金やグリンデルワルトの医者の会計も、まだそのままなので、万事グルンダー君をわずらわすことにする。私達はフォイツの行動に対して、不快を感じておるので、ことごとしくいろいろの出来ごとを打ちあけた。グルンダー君は非常に憤慨したが、ヘッスラーはかく、フォイツ不信任には、いささか驚いていたらしい。更に賃金の問題に立ち入って、此の際、彼等にはガイドとして傷害保険がついておるから、規定の賃金の外、少しも支払う必要はないと云われた、保険と云えば近藤君は、笑談じょうだん半分入って見た傷害保険が役に立つ訳だが、アヴァランシュの騒ぎで、金入れと一所いっしょに証書までどこかへ落したのは滑稽だ。とにかくグルンダー君と相談して、グリンデルワルトのガイドをやって、遭難の場所をもう一度さがさせることにした。
 君が帰った時、間もなく日は暮れて、ナハトテイッシュの上に電灯が輝きはじめる、夕ぐれは真夏と思われぬくらいうすら寒い、晩餐はもとより寝たままで、酒はニューシャテル・ルージュ、白酒ブロンは頭に来るから、晩餐には赤い方がいいでしょうなどと、親切な注意もうれしかった。何しろ二人とも、気分にこれと云う変りはなし、山で食い物にかつえていた揚句だから、フルコースは瞬たく暇に平らげて、リキュールが欲しいなんて、どこまでずうずうしいのか性が知れない。じっとしてさえ居れば、別に痛みもなし、山登りの疲れも手伝って、夜は静かな寝室に落ち落ちと眠った、病室は非常に閑静でいい。
 あくる日も快晴、一たいなら今日あたりは、フィーシェルホルンあたりだが、直ったら早く登りたいなどと思ったが、朝飯がすむとすぐ下の室につれて行かれて、レェントゲン線で、肩、腰、足と、幾度も写真を写されて、二階に帰ると、また繃帯だから、身体の自由は利かず、もうこうなっては浅ましいが、三度の食事と煙草ばかりが楽しみになった。グルンダー君は、毎日かかさず見舞いに来てくれる、そして店を出る前に、きっと電話をかけて、買い物や用達しを聞き合わせて呉れた。
 近藤君の右足は、今日ギッブスで巻かれて、足の裏には、ゴムをつけた燭台みたいな物が付いている、然し乾くまでベッドの上に窮命仰せつけられて、退屈まぎれに煙草ばかりふかしている。廊下を通ると遠くから臭うそうで、ナースが来るたびに窓を明けては風を通す、医者が廻診に来て、鼻をクスクスやってるから、どうです一本、ここは喫煙室ですと、うわ手に出たら、何とも云わずににやにやっと笑った。
 私の怪我はさっぱり埒があかない、全身打撲で、無事なのは顔と右手だけ、背中や腰に紫色のあざが大分出来てる、X線の結果、とにかく骨に傷は見えたが、別に折れてるのでは無いそうで、塗り薬でじっと経過を待つ外はない。二日、三日は昼寝ばかりして暮らしてしまった。その四日目は、うすら寒く空は時雨しぐれて、朝靄あさもやの晴れぬうち、いつかしとしとと小雨になった、東の窓はヴェランダにつづいて、蔓薔薇のからんだ欄干の上に、樅の梢が少し見える。床に起き上れば、晴れた日はウンテルゼーエンの村の屋根をこして、雪の光る遠山が望まれる、それは左の窓にせまるハルデルの峰から、湖水の北を走るブリエンツェル・ロートホルン、更に小さくウリ・ロートシュトックの尖峰が遠山の上にぬけ出ている、シンニゲプラッテの北側の急斜は、樅の林のまばらになった岩山の裾を見るだけで、それから上はここからは眺められない。
 ベッドに近い窓からは、ハルデルの絶壁が、青葉の梢にのしかかって、今日は尾根は密雲みつうんに深くとざされておる。ホテルのポルティエが私達の荷物を届けて来た、ベッドのそばに、絵葉書専用のスートケースを拡げて、朝から山の写真ばかり眺めている、雨の日の暮れ方、ここに着いた日グルンダー君に届けて貰ったフィルムの現像が出来て、ニクレスの娘が持って来てくれたので、これからは二人ともフィルムばかり見ている、そして退屈すると歌を謡ったり、伊太利亜イタリヤ語の試験が初まったり、病院だか何だかさっぱり分からない、看護婦がやって来ると、極東生れのカルーソを聞かせたり、終いにはスウィスの最高峰の標高如何いかん、ユンクフラウの最初の登山者の姓名と年代だとか、シュレックホルンの字義如何などと、知りそうもないことばかり並べて牛耳ったりした。
 室附きのメイドに、マリー、マルタと云う二人の娘がおる、から山出しのお転婆で、用のない時はいろんなことを云ってからかったものだ、菓子なんかやると、独仏を交ぜこぜにメヤッシー・フィールマールなんて云う、おいメヤッシーてどこの言葉だって聞くと、独逸ドイツ語ですって澄ましたものだ、それから今度は調子にのって、御前の言葉は文法がちがう、こう云うんだろうなんて、一々いちいち混ぜかえすと、っかりした根柢はないんだから、散々考えて、やっぱりわたしの方が正しいようだなんて、少々心細い返事をする、年はそれでも十七か八だろう、日本の女でこの年頃というと、人がものを云っても、見ず知らずの男には、ろくな返事も出来ないから、人類だか何だか、眼の悪いものには余ほど気を付けないと分からない位だが、病院生活にはこの二人がほんとにいい相手だった。
 ナースをせびって、時々ビーヤを持って来て貰う、町に散歩に出る時頼んで置いた、ヴェネディクティンとコンニャックを枕もとに置いて、食後には必ず祝杯をあげる、グルンダー君が毎日来てくれるんで、煙草にはことかかず、これで時々散歩にさえ行ければ、申し分はないとさえ思った。
 十日ほど経つと、廊下に出てもいいことになった、近藤君がコツリコツリ燭台で歩き初めたのは、これよりもっと前の話しで、二人とも起きられないうちは、南の窓からアイガーまで見えるだろう、いやユンクフラウとメョンヒだけだなんて、毎日毎日想像して居た景色を、室の前のテレースから正面に見渡した時は、何とも云えないうれしさであった。
 シュピーツから汽車で、インテルラーケンに行く人は、ワイセナウの崩れかけた城跡を見る頃から、ろと左に開く草原のはずれに、一きわ繁る青葉の間から、シュピタールの白い建物を望むであろう。また、もしトゥーンの水を渡るならば、外輪の船が、ゆるやかなカナールの水を切って、まっすぐに東へ、ある時は、岸の若葉と船べりがれ擦れになるくらいになるあたりで、水に近く植えたポプラの並木の枝ごしに、赤瓦の屋根が、時々左のはずれに見えたのを覚えているだろう。私達のいつもソーファにもたれて、本や雑誌を読みながら、のんびりした朝日を浴びたテレースは、その建て物の右のはずれにある、下ろすと、後庭の花園に、デイリヤやスウィートピーの咲き乱れたすぐむこうは、緑の草野とポプラの群で、遠く一列に行儀よく並んだ並木の蔭に、白い湯気を吐いて、折り折り、汽車と、そして、蒸気船は上甲板と黒い煙筒だけが、木がくれに静かに動いてゆくのが見える。そのむこうは、すぐアーベントベルクの絶壁になって、そことシンニゲプラッテの間には、ルーゲンパルクの真黒な樅の木立の後ろに、奥深く入り込んだ、うす暗いラウテルブルンネンのつき当りに、のユンクフラウの三山が仰がれる。
 朝は、こうしてソーファの上にりかかってデジューネーを終った、十時の廻診に室に戻って来ると、留守の間にキチンと掃除が届いて、余り根気よく取り散らすのが、気の毒なくらい整然としている。昼になっても、真夏とは云え、雪をめぐらした山国は、テレースに花の香をつたえて、微風はいつも気もちよく眠りをさそってくれる、覚めると、日は左の窓に藤の葉影をうつして、やがて御茶の時刻になる、そして日盛りに白いシャツ一つになって、大きな草刈鎌をふるう百姓達は、裏庭につづく七葉樹ウィルトカスタニーの蔭に集まって小休みをする、晩餐はかかさずテレースの卓を囲んで、斜に夕日を浴びたユンクフラウを眺めながらニューシャテルをくむ、その終りには、三山のアルペン・グリューンが仰がれて、そして間もなく、室のカーテンを漏れてまっ白な電灯が斜にさすと、卓上に残されたリキュールグラスは、琥珀のように輝いた。テレースの空は黒く、まだ淡く雪の影つるユンクフラウの肩には、ピカリと星が光り初める、と私達はいつも口癖のように、欄干にもたれて、

Da scheinest du, o Lieblichster der Sterne,
Dein sanftes Licht entsendest du der Ferne,
Die n※(ダイエレシス付きA小文字)cht’ ge D※(ダイエレシス付きA小文字)mm’ rung theilt dein lieber Strahl,
Und freundlich zeigst du den Weg aus den Thal,

 とくりかえすのを常とした。夜は膚寒く、ナースにうながされて電灯の眩い室に帰ると、熱いチトローネン・ワッサーを飲んで、漸くのことで床に入る、昼寝の罰で眠れない時は、ナハトウァッヘを呼んで、乳を持って来させて、菓子など食べながら暇をつぶしたりした。
 雨の日のけ方はうすら寒い、洗面の御湯をもって来て呉れるナースの手を取って、ラ・ボヘーメのロドルフォのように、

Che gerida manina,
    se la lasci riscaldar,
Cercar che giova?
    Al buio non si trova.

 と歌うことさえあった。私達は甦えって新しい生活に入る前に、夢ともつかず、うつつともつかぬ静かな日を送っていたものと見える。近藤君は、ある日のこと、卓上の紙にこう記した。

“These days of ours here are glad days of nonsense unredeemed, of unbroken idleness and contentment, of dreaming wanderings from mountains to mountains and from friends to friends. All that was serious in life we had left behind.”

 実際病院生活を煎じつめれば、この日記の外には何ごとも残らなかった。私達がこうしている間に、欧洲の戦争は次第に拡大されて、その日その日のブントやフォルクスブラットの通信は、何のかけかまいもない旅人の心にも、折り折りに不安な思いを運んでくる。インテルラーケンの町と離れたウンテルゼーエンの村から、更にかけ離れたこのシュピタールにも、いろいろな通知が、世の中は今渾沌たる有り様であると、絶えず絶えずおびやかしていた。山に囲まれたインテルラーケンは、もとより一つの城廓である、戦が近づけば、そこにあるホテルの全部は、病院となるべく指定されてあった、かつて千八百七十一年の戦争には、国境からなだれ込んだ仏蘭西フランスの敗兵のために、またそれを追いかけて来た独逸人との間に、ブレヴィンの附近は、計らずも戦場となったのである、スウィスはいち早く中立を宣言はしたが、国民は、独仏の両方面に分れておるし、兵力の全部をこの国境に集中して、最後まで中立を確保するとしても、単にその決心だけでも、非常な努力を要するのであった。
 新聞は、仏、独と、その発行所の近い位置に従って、勝手な都合のいい報告ばかりもたらせた、此の間に、比較的両方面の様子をつたえたのは、ミラノ発行のコリエル・デラ・セルレ、であった。私達は二、三の新聞が、いち早く、グロース・シュレックホルンに於ける私達の遭難を伝えたのを切りぬいて、暢気な旅に於ける出来ごとが、決して夢でなかったと云う証拠にしようとした。
 最後にグルンダー君に見舞われた時は、氏は召集されて、カンデルタールを守りに出征するところであった、氏はかなり強度な近視である、しかしスウィスの国民には、殆んど文字通りに、皆兵主義が行われて居るのだ、私達は日の暮れ方、裏手の原で野良着のまま二、三人つれ立って、歩調をととのえて居る鼓手を見かけた、または、たった一人、青葉の蔭に立って、喇叭ラッパを吹いてる男もあった、彼等の野良への出かえりに、声をそろえて歌う国歌には

Heil dir Helveta!

 が力強く耳に響いた。
 八月も半ばを過ぎて、ここに着いた初め、刈り取られた草原は、いつのまにか、また青々と茂って来た、飲みかけたリキュールグラスには、朝起きて見るといくつも蜜蜂が群れている、つる薔薇の紅い花はもう終って、室は掃除のたびごとに、新しくスウィートピーに飾られておった。私達は、少なくも私は、倦きたというほどの心持はなく、ただ心の充たされた後のものうさを感ずるように、静かに病院の生活を味うている、ベルンに注文したいろんな詩集や小説をひもどいたり、マリーに借りた民謡をみんなで歌ったり、時にはドミノーやカードに日をつぶす折さえあった。
 月の半ばには小雨が降って、二日も三日もうすら寒い日ばかり続いたが、雨上りの山の色は、暗い日の生活のわびしさを一掃して、ゆるやかな、然し寂しい心もちを運んだ、雨雲の晴れてゆくアーベントベルクの頂は、真夏も白く、樅の梢に、雪を頂くことさえある。
 またある時は、澄み渡った蒼空に、ふうわりと根なし雲が浮いて、風のままに湖の空を渡って、ハルデルの樅にかくれるのを仰ぐ。

身は病みぬうす日の窓を開かせて空飛ぶ雲を憶ふ朝かな

 と日記にあるのは、その折りのことと思う。
 私はふと咽喉を痛めて、薬を飲んだり、湿布したりしても、咳ばかり出て少しもくならなかった。オーベルシュウェステルはヤコニッシンである、余り話したことは無いが、私の身体を心配して、ヘヤ・ドクターは非常に御弱いようです、都会にいては身体がつづきません、グリンデルワルトあたりの山の空気が何よりいいのですがと話したそうだ、私には誰の言葉より一番うれしかった、今も私の知己の一人である。室に来る医者の一人は国境に去って、今残っているのは露西亜ロシヤ人だ、余り出来そうな男ではない。廻診に来ると握手して、二言、三言笑談を云って、クアザールの噂をして、チョコレートをさらって、シガーを失敬して出て行くを事とする、書生あがりだから、気の置けないのは事実だが、余り病気の為にはならない、痰の検査をすると云うんで誘われるまま、階下の実験室に入り込んで、メチレンブラウとカルボールフクシンを取り出して、染色してはのぞいて見たが、結核菌は見当らない、今度は隔離室にいる患者の痰を取り寄せて貰って、染めて見たりして暇をつぶす、顕微鏡は私のと同じ型のを用いていた、染料の汚点だらけで、テーブルの汚ないことは御話しにならない。
 時々簡単な手術がある、そんな時は医者のエプロンと、護謨ゴムの手袋を拝借して、手術室に行って見物する、手術と云っても、盲腸炎やヘルニアの切開ぐらいだが、雨の日の退屈まぎれには、目先きが変って面白かった。そのせいかも知れないが、廊下を通ると患者が挨拶するし、庭に出ると、園丁ゲルトナーが丁寧に口を利くんで、少しくすぐったい様な気持になる。チティススの木蔭には、国境よりまわされた兵士が集まって、退屈まぎれに豆をむく手つだいなどしている、私達は日の強い庭から、いつもここに入って来て世間話をした。
 表の芝生に、覆い茂る林檎の樹は、鈴なりのくだものが、枝のしなうばかりにって、草の上にもいくつとなく、もう色づいた木の実がころがって居る、私達はかわがわる杖を振るって、その実でゴルフをやって遊び廻った、しかし三日目には、近藤君は片輪になった足の力を、やけに両手にこめて、貸しといた杖を逆にふりあげ、いやっと云ふ程[#「云ふ程」はママ]力を入れるとたんに、球はそのまま草に残って、土と一所いっしょにセヴィラで買った名木の杖は、敢なく最後をとげてしまった、もうゴルフも已めにして、今度は芝生で歌の稽古だ。
 写し残りのフィルムで、毎日毎日撮影する、グルンダー氏は、時々端書はがきをくれた、そして氏のかわりに、弟と、親友のホテル・ワイセスクロイツの主人が、更わる更わる見舞いに来て、ある時は妻君まで来てくれた、ウェストン氏を知ってるという、実家はクライネ・シャイデックのホテルだと云う、ウェストン氏が曾てユンクフラウ群峰の登山の折に泊って、その後結婚してから、夫人同伴でやって来た時、氏の著書日本アルプスを贈られたなどと話した。
 ある日の朝、うす曇り日のもの寂しいのに、私達は馬車を雇って、インテルラーケンの町に来た、どのホテルもすっかり戸を鎖じて、ろくに人通りもなく、冬のようにひっそりしている。そのままホョーエウェークから、アーレの橋を渡って、ブリエンツの湖水の北を走らせて、とうとう湖のはずれにあるブリエンツの村まで来てしまった。ここも、避暑客一人いない、此の前冬来たときと同じ寂れかたで、板屋根を舐めるばかりに雲の低い、村路を通りこすと、ベーヤ・ホテルの二階に通って、コッフィーを命じて湖を眺めた。対岸の絶壁にかかるギースバッハの瀑布から、むらむらと湯気のような霧が湧き上って、ファウルホルンの連脈は仰ぐことは出来なかった、そのうちに、南の風が水を渡って、しとしとと小雨になって来た、午後の四時過ぎ、うすら寒い街道を、雨をついて馬を駆けさせると、白樺の葉の風にちぎれて飛び去るのも、水際にキ、キ、と飛んでゆく鶺鴒ワッセルシュテルツェの、うら悲しい鳴く音も、もう秋、山国の黄葉する頃を思い出さずには置かなかった。
 幾群の土工が、湖畔に線路工事をやっている、通りすがりに私達を見て、ボンジオルノと云った、寒いなあと声をかけると、足早やにあとを追って来た、国のものと見て、金でもねだるつもりだったろう、そのまま鞭をくれて、一散に駆けて通る。雨はますますはげしく、夏とは云え、外套は用意していたが、湖畔の雨は寒いくらいである。シュピタールに戻ると、廻診に留守を喰った医者が、文句を云いにやって来た、今度もシガーで買収する。
 その頃、うららかに晴れた日の朝、今度はトゥーンの湖に沿うて、馬車を走らせたことがある、ウンテルゼーエンの村路から、ひろびろと水を距ててニーセンを望むと、すぐ右に切れて、だらだら路を北に上る、ベヤテンベルクの、裾を覆う濶葉樹の森をぬけて、街道は、湖水の北側の崖の上を、トゥーンへ通うのであるが、折り折り、逆か落しにそそぐ瀑布の響を耳にするだけで、湖水の水はしばらく路からは見えない、一、二軒板屋の小屋のあるあたりで馬を停めると、木立ちを漏れて、しっとり湿れた街道に、模様のように葉影のさすのが、何とは知らず私たちの胸をそそった。どこまでも木立の中を、右はベヤテンベルクの山の裾で、それについてぐるっと廻ると、坂路になって、すぐ麓に入り江が蒼く眼下に望まれた。
 下り切るとフニクラールの停車場がある、私達はメルリゲンの村を通りぬけて、グンテンまでやって来て、ここで湖水に沿うたホテル・ヒルシェンに入って午餐を命じた、水に臨んだ庭は、七葉樹の木立ちで葉影の美しく画かれたテイブルをはさんでワインをくむ、ニーセンの空には、真っ白な真夏の雲がむくむく湧いて、刻々に湖の上へ拡がって来る、風もない水の面は、沖に白雲をつした二条の縞の外は、池のように冴えて小波さざなみも立たない。
 ホテルの主婦は私達をとみこうみして、負傷の様子や戦場の模様を尋ねたりした、その頃はまだ戦争の初めで、印度インド人の加わらない時分であったが、どこの国民と間違えたかは、今だに二人の疑問になっておる。
 四時過ぎに、同じみちを走らせてシュピタールに帰る、こう云う生活の間にも、私の咳はいつまでも回復しないで、夜通し苦しむことさえ度々たびたびあった、然し二人とも少しぐらいの歩行に差し支えなく、いよいよ退院を許されたのは、八月も末の二十九日となっていた。その折、何よりも私達を喜ばせたのは、感じの余りよろしからぬ露西亜の医者と離れることで、又何とも知らず物悲しいのは、此の思い出の多いシュピタールに別れることであった。その前、二、三度銀行に行って、私の持って居た正金銀行の信用状で受け取ろうとしたが、ベルンにある取引先きの銀行で、ちゃんと指定してありながら、どうしても払い渡してくれなかった、仕方がなしにインテルラーケンのクックの店に行って、買って貰おうと思ったが、余り込んでるから、隣りのグルンダー君の店に入り込んで話しこむ、弟がいた、仔細を話すと、僕の従兄が銀行にいるから聞いて見ようと云うので、一緒につれ立って、郵便局の隣りの銀行に行くと、すぐ金を渡してくれた、この後も始終ここの御厄介になって、不便な、私にはもう不信用状としか考えられなかった信用状をもってしても、尚おつ無事に、金貨を渡して呉れた、この不便は後の日、ミラノ、ジェノヴァ、マルセイユと到るところの銀行でくりかえされた、こう云う際にも容易に金貨で払い戻して居ったクックの信用状の方が、遥かに有効であったと思われる。この時私達の非常に嬉しく感じたのは、近藤君の親友、ミラノに居るアザヴェイ氏である、銀行は、みんなこうなった時に、スウィス、イタリヤ、フランス、英国と、四ヶ国の紙幣を千余フランと買い集めて、書留郵便で、わざわざ、人をる国境のキャッソまで出して、スウィス領内から投函してくれたので、私達はこれと、まだ私の手元に残った、二百五十パウンドばかりの金で、倫敦ロンドンへ出るまでの余裕は充分あった。然しガイド達の払いや、病院の会計は、払えば支払えたが、此の際どんな必要が起るとも知れず、それにまだ当分は余り長い汽車旅行は出来ないので、全部あとで支払うことにした。いよいよ病院に別れる朝、オーベルシュウェステルはすっかり呑みこんでいて、極めて簡単に、金は全部後からで宜しいと云ってくれた。私達は、取り敢えずシュピタールの用紙二枚に、支払いの証書を書いて署名した上、事務のものに渡して置いた、そしてグルンダー君の弟に逢って、ガイドに関して兄さんに一任して置いたことを話して来た、氏はカンデルタールのブラウゼーに居る、多分二、三日うちに帰郷を許されるだろうとの話しだったが、私はグルンダー君に、その後、逢う機会を得ないのは非常に残念である。
 八月二十九日、私達が思い出の多い此のシュピタールを去った時は、空はうららかに晴れ渡って、軽い砂をあげて、音もなく走る馬車の上から、青葉の中に病院の窓を仰ぐと、何となく胸のふさがるような気もちが湧いた。停車場からトゥーンまで切符を買って、からあきの客車の窓によると、もう汽車は静かに動きはじめる、と、ポプラのむら立ちの間から、ちらちらと眺められるあの建物が、今までは気にもとめなかった草原のむこうに、私達には、一生忘れることの出来ない、記念碑のようにも感ぜられた。
 景は次第に移って、ひろびろとトゥーンの水がのぞまれる、ハルデルの樅の緑も、忘れがたい親しみを覚える、私達はさびしい心もちで、一言も交さずじっと移りゆく景色を眺めていた。
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ヒルテルフィンゲン Hilterfingen




 シュピーツを過ぎると、トゥーネルゼーは再び窓に近づいて、水路の綾のように入り組んだ湖のむこうには、小さくオーベルホーフェンの城跡が望まれる、私達が身体の回復するまでいようとする宿は、城に近いヒルテルフィンゲンの小村にある。
 トゥーンの町で汽車を下りて、停車場前から馬車を走らせる、街をはなれると、湖水から流れ落ちるアーレの水に沿うて、うち開く緑の牧場や、そのここかしこに建てられた百姓家の間を、一筋東に貫く街道を、車はかろく揺れながら、気もちのいいそよ風に迎えられて、半時間ばかりでヒルテルフィンゲンに着いた。
 宿はホテル・シェーナウ Hotel Sch※(ダイエレシス付きO小文字)nau と呼ぶ小ぢんまりした家で、往来から常緑木の間をわけて入ると、湖水に面した庭は、街道よりも一段低くいから、すぐとっつきは二階になって、下には食堂や喫煙室、階段を上ると、裏手の庭口からは三階にあたる私達の寝室がある。
 私は小さい室を、隣室の近藤君はホールを兼ぬるつもりで、湖に面した広い室に入ることにした。宿賃は三食を入れて、私のは六フラン、大きい室が八フランの約束である、決して立派ではないが、気もちのいい家で、テレースからは庭の青葉のはずれから、すぐひろびろとトゥーンの水の果てに、対岸のシュピーツとアウセルベルクの深い緑のつづくうしろには、ニーセンのピラミットと、左に、ユンクフラウとの間に、ブリュームリスアルプの群峰が、手に取るばかりに望まれる。
 コッフィーを窓ぎわのテーブルに運ばせて、すず風を思うままに味わった、トゥーン通いの汽船は、シュピーツベルクのむこうを、かもめのように軽く浮いて、が長がと尾を曳いた水路は、銀線のような光沢がある、女中に聞くと、日に六回うみ岸の小村に寄りみちして、トゥーン、インテルラーケンの間を通うと云う、私たちは、近いうちにあの船で、湖水をあちこち渡って見ようと相談した。
 宿の表は、往来のむこうから、すぐだらだらの小山になって、東の窓からは、すぐ近く教会の鐘塔が仰がれる。庭に下りると、すずかけの木の木立ちのうしろは、アムペロプシスのまといかかった欄干で、湖水の波は、ひたひたとその裾を洗っておる。横手の入り江には、小舟が砂に曳きあげてあった、私達はそれを浮かべて、やがて湖水のなかほどまで漕ぎ出すと、東の端に、のグロース・シュレックホルンが、夕陽を浴びて物凄く聳えておる、「白鳩」は、どす黒い岩のひだにくっきりと浮き出して、虚空に光る眼のように、孤舟の旅人を見張っていた。ひるがえって思えば、何と云う変り方であろう、あの下に、骨をさらすべき二人は、蒼空を緑の中に埋めたような、このおだやかな湖水の上にゆったりと浮かんで、二人は離れ離れに物を思うておる。私には、彼の山岳をこういう静かな日に仰ぐよりは、嵐の中に泡立って、渦まく波に揺られながら、まっくらな空にふとかいの手をとめて、眺めやる刹那の感を得たかったのである。計らずも日ならずしてその折りは来た。
 ヒルテルフィンゲンに着いて、一週間はうららかな日ばかりつづいた。九月に入ると、待ちかまえたように、風も野も、空も湖水も秋だって、朝ごとに枕にひびく鐘の音まで、木枯の近いうらさびしさに慄えて居る、そして、ニーセンの頂に湧くとすれば、幾団のちぎれ雲は軽やかに羽をのして、湖水の上を、西北に去る、限りなく雲の消えゆく丘のうしろは、幾重の森と小山にかこまれたトイフェンタール、雲の湧く南の空は、タトリスの峰つづきであろう。ニーセンの西は、シンメンタールの落ち口から、山は一文字に屏風を建てつらねて、シュトックホルンの尖峰が、雪は消え失せた鋭い輪廓を、蒼空に刻んでいる。
「●ヒルテルフィンゲンよりニーセンを望む」のキャプション付きの写真
●ヒルテルフィンゲンよりニーセンを望む

 朝は、いつも四時前に床をぬけ出して、入江につないだともづなを解くと、私は一人小舟を浮かべて、水うみのまん中に漕ぎ出した、オーベルホーフェンの村は、水にのぞむ城の白塔から仄白ほのじろく明けて、岸は薄もやだつ青葉の、むらむらと重り合う丘のふもとに眠って、空も水も夢のようにおだやかである。私はいつも口笛をふきながら、櫂をあやつって、あるときは遠くシュピーツベルクの近くまでも、また次の日は、アーレの流れの落ち口にある、シェッツリゲンのそばまで行った、こうして静かな朝靄あさもやが、いつとなく晴れわたると、東のはてに朝日を浴びて、彼のグロース・シュレックホルンの屹えているのを仰ぐ、と間もなく、ブリュームリスアルプの山々は、斜めに射る朝日に光りはじめて、その影はうすあかく、水の面に文を染める。
 風のない湖も、け方はうそ寒い、五時、六時、七時と、三時間はこうして、静かな水の上に浮かんで、舟底に寝ころんでは、ものの本などひもどいた、帰ると、まだ近藤君はいぎたなく寝ているのを常とした、無理やりに叩き起して朝飯にする、それから昼前は、庭の木蔭か、水にのぞんだ東屋ラウベで、新聞や本を読んだりして、昼食が済むと、一時間は必ず昼寝をする、そして片かげになると、丘の上の野原に寝ころんで、トゥーネルゼーの全景と、それを囲むアルプの雪を、暮れるまで眺めつくした。
 時には、表の街道をぶらぶら歩いて、トゥーンの街まで買いものに行って来たり、汽船でベヤテンブーフト Beatenbucht まで行って見たり、またある日は、モーターボウトを呼んで、シュピーツからグンテンの方まで遊び廻ったりした。その時は、ベヤテンブーフトで舟をすてて、そこにあるフニクラールで、サンクト・ベヤテンベルク St. Beatenberg まで来た日である。山の上には小村がある、湖水はもう森の蔭にかくれて、正面には午後の日にうっすらと、モルゲンロートホルンの雪が光っていた、私達はホテル・アルペンローゼに入って、南むきの食堂でビーヤを命じた。
 村はひっそりして、避暑客らしいのは一人も見えず、大きな宿は静まりかえって、ものの響も聞えない、然し私には、山上の風情ある村と、それをかこむ黒木の森の、何となくなつかしいにしても、ベヤテンベルクは余り気に入らなかった、オーベルラントの山は湖の対岸に見えるにしても、その景は遂にミュルレンの雄大なのに及ばない。村路を東にぬけると、左に小高くせまる山毛欅の林の、うら葉はやや秋づいた下蔭に、エリカの花はまだ紅の花を敷きつめていた、花にはコケモモの紅い果や、カンパヌラの紫が混じっている、私達はその木蔭に寝ころんで、樅の間に下ろされる、ウンテルゼーエンの緑野を眺めた。
 こうしたうららかな日は、ヒルテルフィンゲンに着いて十日あまりもつづいたろう、西の風が急に吹き初めて、湖水の波は、泡立つばかり渦まいて来た日の暮れから、板屋の軒は吹き飛ぶばかり暴れに暴れて、暁方かけて雨となった。私はやはり小舟に乗って、薄くらがりに入江の岸を離れると、漕ぐ暇もなく風に揺られて、またたく間にオーベルホーフェンの城の桟橋に吹きつけられてしまった、そのまま舟をつないで、シャツ一枚、びしょ濡れになって宿に帰ったが、暴風雨の湖がおもしろくて、と云って一人では腕がつづかず、とうとう近藤君をそそのかして、吹き降り最中だった午後の三時、また小舟に乗って、沖をめがけて漕ぎ初めた、風はこの時西北から真西に変って、舟は波のまにまにシュピーツの沖へ流れてゆく。真っ黒に掻き曇った雲から落す雨あしは、泡立つ水の面を射て、岸には宿の人達だろう、手を振って呼んでいるらしいのが暫くは見えたが、舟はたちまち風に追われて、オーベルホーフェンの沖まで流れて行った、私達は今度は風にむかってこぎ戻したが、いつまでたってももとのところで、足の使えない近藤君は、踏ん張りが利かないから役に立たず、仕方がなしに、まともに出城の鼻をめがけて、横波の中をこぎ戻した、ふりかえると、沖には真白に波が騒いで、何とも云えぬもの凄さだ、岸にそうた風淀を、一時間もかかって、やっと宿近く来たが、余りの景色に我慢が出来ず、雫のたれるシャツをぬぎ捨てて、舟から湖水に飛び込んだ、水は非常に冷たい、やっと五分も泳いだろう、向かい風でしぶきを浴びるから、非常に息苦しい、舟に残された近藤君は、仕方がなしにオールをとっていたが、たちまち逆戻りして、城に近く流され初めた。
 十五分も水にいたら、身体が変になって来た、ようやく小舟に泳ぎついて、裸体のまま岸に沿うて、ホテルの横までこぎ戻すと、気のぬけたようになって、岸に着いてもふらふらした。宿では主婦おかみさんからポルティエから、御客まで総出で騒いでいたが、の辺ではこんな時に泳ぐものはないと見える。久しく泳がなかったので、あくる日は節々が痛んで弱ってしまった。
 二日にわたるあらしが、拭うように消えると、景色はもう忘れたようにおだやかに、波の名残の浮草のしおらしく、ラウベの下に露をあびて、ポプラの梢は一葉も残さず葉をふるったのも、秋の寂しさは偲ばれた、アンペロプシスは紅葉して、入日はことに美しい。ここに着いた日の暮れに、鐘塔の上に仰いだ夕月は、雨の後まもなく、待ちに待った明月となった。
「●トゥーン湖畔の夕」のキャプション付きの写真
●トゥーン湖畔の夕

 ブリュームリスアルプの上に満月を望んだのは、この月半ばであった、その日の午後は、シュピーツの親戚のものに訪ねられて、みんなでベヤテンブーフトの森の中を歩き廻ったときである、うす曇り日の、ものさびしい秋の空は、日暮れに近くあかあかとさえ渡って、宿に帰ると間もない晩餐の折は、テレースの軒に、葉をふるった七葉樹の梢を、残んの日はうら悲しくも染めていた。
 食事が終るとモエットの酔に乗じて、待たして置いたモーターボウトで、シュピーツまで送ってゆく、湖は暗く、東の山の輪廓は、薄黄の空に月の出をそれと認めたが、岸にせまるアウセルベルクの峰に遮られて、光はまだ水の面にはとどかない、オーベルホーフェンの、ちらちらとまたたく宿の灯は、入江の波に千々に砕けて、背ろの丘の中腹から上には、もう月の光はさし初めた。
 小波さざなみをたてて、暗い水底にも、どことなく蒼味のある湖を走る、みよしに立てた白十字の国旗に、風は音もなくそよそよとあたって、酔い覚めには少しうすら寒い、半時間ばかりでシュピーツの城の水際に着いて、別れて同じ舟をかえすと、ると見渡される湖水のなかほどから北は、蒼白ろくぼうっと光って、すぐ右手につき出した、ベヤテンベルクの斜面は、草原か、斜めに浴びた月光に、絹帽シルクハットを逆か撫でしたような光沢がある。
 次の日シュピーツの人達に招かれて、また湖を渡っていった。夕方城の下から汽船に乗ると、遅れて来た近藤君をしきりにじろじろ見ていた英人の宣教師があった、やがてそばに出かけて、貴君は日本の方ですかと尋ねた、そして
「横浜におるウォルター・ウェストンを知ってますか」
「古い友人ですよく知ってます」
「おおウォルターは私の弟です……」意外かな、私達はたちまち一つのベンチに集まって、それからそれと話し込んだ、成程云われて見ればよく似た面立ちで、氏の名はロバート・ウェストン、私は国にいる時分、度々たびたび横浜にウェストン氏を尋ねたが、ある夜晩餐の後、氏の書斎で示された絵葉書は、グンテンのパルク・ホテルで、そうだ私の兄が毎年ここにゆくと話したのを覚えている、氏は私達を夫人に紹介して、暮れて行く湖上に、いろいろ日本の話も出た、オーベルホーフェンの船つきで別れて宿に帰る、氏はホテル・モーイに泊っていた。
 次の日の朝ウェストン氏が宿に来て、昼餐に招待した、私達はそれまで上の丘に散歩にゆく。会堂の裏の坂路を上ると、十八、九ぐらいな娘をつれた婦人がやって来た、近藤君は帽子をとってしきりに何か弁じていた、ホテル・モーイに着くと、二人もそこに泊っていたが、軽井沢で逢ってよく知ってると云う、前米国大使館附武官シップレイ氏の夫人と令嬢とであったのだ。
 食事の後、私達はみんなヴェランダに集まって、シップレイ夫人も一所いっしょに、いろいろな話に時を費やした、私はことに、つくづくと世間の狭いのに驚いた。ホテル・モーイはオーベルホーフェンの高台にある、水をへだててニーセンが、水際の私達の宿から見るよりは、遥かに高く仰がれる、室や設備もずっとととのって立派だが、御客の殆んど全部は英米人、いささか窮窟な感じがする、居心地に至っては、パンションで一日六フランの、シェーナウには遂に及ばない。
 時々ベルンまで買いものにゆく、九月の中旬には、そろそろ倫敦ロンドンへ発つ仕度を始めたが、戦争になってから、急に入用の旅行免状の裏書、これは露西亜ロシヤをはなれてからは、何の用事もなく、荷物の底につっこまれてあった奴だが、まず英国と伊太利イタリヤの領事に裏書をしてもらったり、汽車や汽船の都合を問い合わせたり、そんな中でも写真絵葉書や高山植物の種子なんぞをさがしたりして、ヒルテルフィンゲンに来てから、五度ばかりベルンの街まで出かけて行った。
 ある日のこと、何気なくトゥーンの停車場から汽車にのると、シュピタールにいた露西亜の医者に出っかした、戦争で急に国に帰るなんて、妙にそわそわして別の室に行ってしまったが、その時は何とも気がつかなかったが、翌る日またベルンに行って、夕方遅く宿に帰ると、主婦さんがいきなり飛んで来て、私達を自分の室につれ込んだが、何か一大事出来の様、聞いて見ると大したことでもないが、シュピタールから請求書をそえて、トゥーンの裁判所から、執達吏が二度まで留守中に飛び込んだそうだ。
 その晩は、食事のうちにぽつりぽつり降り出した奴が、やがて大雨になった、近藤君の室で、一人待ってると、やがて午後の八時、約束と云う時間に、遠慮深いノックが聞えて、扉をあけると半白の老人が入って来た。手を与えて握手したが、奴はぶるぶるふるえておる、テイブルの側に席を設けると、口も満足にはきけないくらいおどおどして、やがて懐中から二枚の仕払い命令を取り出した、その様子が、時によると気の早い奴に、ピストル位むけられることが間々あるらしい。
 兼ねての打ち合わせだが、鹿爪しかつめらしく近藤君を呼んで、て相談にとりかかる。
 一応私達の経過を話して、病院ですでに承諾しながら、何の通知もなく執達吏をよこすとは、余りに人権を無視している、我々は払おうとすれば、電報で二十四時間内に、ロンドンから取りよせることは容易に出来る、然し戦争中で、外の人達に厄介をかけたくないし、仕払いは後でいいと云うから、そのままにして来たんだ、いずれ明日は直接病院にかけ合うから、今晩はこのまま御引き取りをと申し渡した。
 近藤君の憤慨は、はたで見ても恐ろしいくらい、倫敦に行ったら領事館に行って、いずれ正式に通知する、いやしくも紳士に対してとか何とか、口から出まかせの文句を並べて、正直そうな老人をおどかしていた、彼は実に好人物であった、私は雇われて居るだけで、何のことかさっぱり知りませんが、御話しの様子は分かりました、それでは明日直接御話し下さいましってんで、いささか竜頭蛇尾に、此の一幕は終ろうとする。
 帰りぎわに、何か御所持の貴重品はと聞かれた、近藤君はますますたちが悪い、貴重品はこの指にあるマリエージ・リングです、外にはネイルドブーツに地図と書物が少しばかり、と答えて済している。
 私は可笑おかしくって可笑くってたまらなかった、そして帰りぎわに雑誌の口絵にいれる量見で、その命令書を頂戴したいと思ったが、それはどうしても置いてゆかなかった。近藤君は実際憤慨していた、私だってもし病院の当事者が来たのなら、喧嘩の一つもやったのかも知れないが、彼の好老人に対しては、つ職務とはいえ、此の大降りに、どうせ馬車じゃない、濡れて来たろう、或いは寒さも手伝って、ぶるぶるふるえながら、ろくに口もきけなかったいじらしさを見ては、一寸ちょっと芝居ででも見るような、可愛そうな気が先にたって、憤慨の方はつい二番手にひかえてしまった。そうそう、終りにのぞんで私達は珈琲を呼び、シガーを与えた、彼は漸く安心したらしく、うれしさを満面にただよわせて、そっと熱いコップを唇にふれた。今も尚お思う、好老爺よ健在なれと。
「●トゥーン湖畔より見たるベルネルアルペン」のキャプション付きの写真
●トゥーン湖畔より見たるベルネルアルペン

 雨上りに、晴れも晴れた、次の日は日曜である、起きぬけに電話をかけて置いて、近藤君一人病院まで掛け合いに出かけた。あとで聞くと、約束の時間の間があるので、グルンダー君を訪ねると、幸い、兄さんのエフ・グルンダー君が帰っていたが、昨宵の一件を聞くと非常に腹を立てて、とうとう一緒に病院までやって来た、ず、近藤君が一人で会計の係、名はロイベルと云うのに逢って、どうせ君のことだから、顔いろを変えて詰問に及んだのだろう、理由はさっぱりとわかった、矢張やはり例の露西亜の仕わざであった、然しいずれにしても、病院の方も紳士に対する行為でないと云う責はあるので、散々あやまらせると、待ち切れなくなったか、扉をノックして、グルンダー君は会計の面前に表われた。
 私はキビキビした氏の態度を、今も眼先に浮かべる、いきなりポケットブックを卓上にとんと置いて、ここに僕の全財産がある、僕は此の二人の、一面識もなかった日本紳士のために、ただ山岳と云う趣味を共にしただけで、ガイドに対する多額の仕払いを快諾したのです、貴下は一旦約束しながら、何の理由もなく、執達吏を差しむけると云う行為を、スウィス人として恥かしいとは思いませんか! 請求書を御見せなさい、僕が今即座に払ってあげます。
 ロイベルは行き違いの理由を話して、露西亜がどこから聞いたものか、ハバナのシガーを始終ふかして、何の買物にこんなにつかって、それでも病院の方に払わないなんて云っていたので、と、つい口をすべらした、今度は近藤君が怒り出した、払おうと思えば電報で取りよせると云ったのを、戦争の際だからと打ち消したのは病院の方の責任だ、ハバナを喫おうが何を買おうが、それは個人の日常生活如何いかんで、仕払いを延期すれば、下等な旅宿に泊って、酒も飲まず、汽車は三等に乗らなくてはならんと云う議論がどうして成立しますか、いいや私達の誤でした、露西亜の言葉を信じていたのでと、万事不在の露西亜の責任になって、無事に問題は解決されてしまった。
 宿に帰って来ると大雨になった、シュピーツの人達は家内中で遊びに来て、近藤君が戻ると間もなく、日暮れの汽船で帰って行った。私達は近くシュピーツの家に移る事に約束した、次の日も、また次の日もベルンに行って、買い物やら領事館の訪問やらでつぶしてしまった、九月二十三日、ヒルテルフィンゲンを発って、私達はシュピーツに行った、近藤君は汽船で、私は銀行へ用事があるので、電車で一人インテルラーケンに行く、ベルネルホーフで昼食を済ませて停車場に行くと、出合いがしらに、ロイベルと露西亜に逢った、ロイベルは少し工合が悪そうに、目礼したまま逃げてしまった、馬鹿な奴は露西亜だ、にやにや愛想笑いをしながら、握手をしようと手を延した、私はいきなり右手を後ろに曳いて、貴様には手を与えんと、此の時始めて喧嘩らしい言葉を使って見た、そして思い出せば忘れぬもので、いきなり Sch※(ダイエレシス付きA小文字)men Sie sich! と浴せかけた、これは一高にいる時分、グンデルトと云う独逸ドイツ人が、疳癪を起すときっと使うんで、その時は余り大して気にも留めず、後で辞書を引いて見て、ははあ怒ったのかなんて、一時間もたって気がついたが、今日はなかなか有効だった、露西亜はヘドモドして真赤になるし、停車場からは何ごとかと駅夫が出て来る、奴はろくに口も利けないで去ってしまった。シュピーツに着いて話したら、乱暴な奴だって大笑いになった。
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エッシネンゼー ※(ダイエレシス付きO)schinensee




 近藤君は二十四日に、シンプロン越しにミラノへ発った、私は見送りがてら、レョッチベルクバーンに乗って、カンデルシュテークまで行った、汽車が見えなくなると、静かな村みちをぬけて、の冬泊っていたヴィクトリヤの横を曲って、ぶらぶらエッシネンゼーの方へ歩き初めた、ホテルはすっかり閉って、シーズンもまだ終らないのに、今年は火が消えたような寂れ方だ。
 ブリュームリスアルプは、真冬のように氷につつまれて、村はずれに茂るタンネの森の、暗い梢にのしかかっておる、ビルレの裾は草の斜面に、もう秋づいた花も見えて、森を越すと、だらだらの丘はカンパヌラで紫に見える。ふりかえるとカンデルの谷に、牧は夏をそのままの緑ながら、流れに繁る樺の葉末は黄ばんで、うす霜の来た山里の秋を憶わせる。丘には山羊を野飼いにして、ツィーゲングロッケのからからと鳴るのが、澄み切った空に高く響く。路は花草の中を分けて、やがて、葉をふるった落葉松レルヘの林にさしかかる。
「●ブリュームリスアルプ」のキャプション付きの写真
●ブリュームリスアルプ

 と、なそいに向うへ下りて、また樅の木の枝を交わしたあたりから、下草は、昨日か一昨日か、まだらに消え残る薄雪をかずいていたが、湖水にはさすがに氷はない、しかし断崖の間に、氷柱は、朝の日に解けもやらず垂れ下って、氷河の上にも厚く新雪を浴びていた。湖畔の一つ家からは、ほそぼそと煙が登って、まだ宿は閉め切らぬと見える。
 登り路に少し汗になった外套をぬいで、水にむかったテレースにいこうと、此の前にもいた宿の女が出て来た、昼食を命じて置いて、その間森の中を歩きまわる、断崖の中腹からは、薄い霧が絶えず湧き上って、ブリュームリスアルプホルンの尖峰は、浪にただよう如く見えかくれする。
 名の知れぬ小鳥の群が、森の間に餌をあさるのもうら悲しい。秋空の絶えず晴れ曇りして、どことなく、冷たい影のつきまとう山の宿に、こうしてワイセフラウに湧きかえる雲を仰ぐと、永く故国を離れて、さまようているさびしさが、なつかしくもひしひしと胸に沁みる。食事の間も、スイ、スーイと、沈んだ鳥の鳴く音が、山国の冬らしく耳についた、私は山の雪を仰ぎ、今はシンプロンを越えたろう、眼を閉じて静かに友の旅路を想った、その日記に “Aufget※(ダイエレシス付きU小文字)rmter Berg gab mir keine Trost mehr!” と記したのは事実である。
 その手帳の間に、カンパヌラの花を挿んで、日のビルレの空に傾くころ、静かに山を下った、フィルシュトの頂はもう雪に覆われて、直下に指されるカンデルシュテークは、村の煙がほそぼそと、まだ住む人のあるのを教えている、樅の森をはずれる頃、つるべ落しの日はとっぷりと暮れて、ブリュームリスアルプにあかあかと、アルペングリューンが仰がれた。
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シュピーツ




 ミラノへ近藤君が去ってから、一週間を、私はシュピーツに送った。泊っている家は、城を斜めに見た斜面に、秋草の黄色に白に染め上げられた牧場が、庭につづいてひろげられて、ゼープロムナードのポプラの上にトゥーンの湖が空色に、その東のはてには、グロース・シュレックホルン、右にはアウセルベルクの上にユンクフラウの頂が見えて、グリンデルワルトのウェッテルホルンもその左に、岩山の頂が望まれる。ベヤテンベルクの湖水に面した絶壁は、草の色も、もういつの間にか色づいて、南の窓にのしかかるニーセンには、麓から染め上げて宵ごとに雪が降った。
 この景色を正面に見る客室の窓を開けて、朝はヴェランダにデジューネーを運んで貰い、日のうちは、シュピーツベルクから草山の上を、家の人達とつれ立って歩き廻った。近い山には夜ごとに淡雪が降り、風につれて、かさこそと枕にひびく楢の葉はうす霜にしおれて、城あとの、樅に交じる下葉はのこらず紅葉した。
「●エッシネンゼー」のキャプション付きの写真
●エッシネンゼー

 山の雪に、里近く下りて来た牛の群は、夕ぐれごとに村路をたどたどと、麓の方へ動いてゆく、風のまにまに遠い岡の蔭から、かすかに響くクーライエンは次第次第に近づいて、あちこち灯のともる板屋の窓のそばを通りぬけて、入り乱れた鈴の音は、やがてヴェランダの下を過ぎてゆく、そして木がくれに消えてゆくのが、野を越え山をわけて、私たちの知らない国へ、さまようて行くとように、物悲しくもなつかしい。私はうすもやだつ野を前に、独りぼんやりとこの巡礼ピルゲルを見送って、いつまでもいつまでも、寂しい思いにふけっていた。
 夜はストーヴの前に集まって、三人の子供を相手に、いろいろな話をする、そして熱いコッフィーをすすって、南側につき出た私の寝室に入っても、クーライエンは、いつまでもいつまでも耳について眠れない。宵闇の空に蒼く、星の光は霜に冴えて、ニーセンの雪は、夜目にも白く光っている。風は落ちて、灯のゆらぐ村路のここかしこに、犬の声が響いて来る。湯たんぽの入れてあるベットに入っても、もう別れる日の近づいたの頃は、何となく胸がふさがるようで寝つかれない。
 け方は、窓硝子にしっとりと露を置いて、抑せば冷たい山の空気が、草の香をまじえて流れこむ。南むきの菜園に、朝の日は淡くさし込んで、垣にかれ残る蔓草つるくさの、二葉、三葉しおらしく紅葉したのも、雪の近い佗びしさを思わせる。
 私はいく度も、湖のほとりをさまようた、水際のシルフはうら枯れて、入江の波の、ひたひたと根を洗うより外に、ものの響は聞えない。私はいくたびとなく、シュピーツベルクの上に立った、刈草の香のこもる牧には、まばらに白く、キュムメルが咲きのこって、森かげに、からころと、ツィーゲングロッケの響くのも、もの寂しい。樅の梢に展げられたトゥーネルゼーには、※(「くさかんむり/塵」、第4水準2-87-4)に似た一葉も浮かず、アルプの雪を覆う大空は、湖のように静かである。
 こうした日は静かに明けくれて、シュピーツに来て、早くも七日は過ぎ去った。九月二十七日、ひとひらの雲もうかず、しずかに暮れてゆく夕空を仰いで、最後にあの高原に立った、あかあかと彩どる夕映えの、どこからとなく消え失せて、またしても、いたましいクーライエンの、かすかにひびき初めた時、南の空に引きめぐらす、ブリュームリスアルプの、ふと火のように輝くのを見た、私は草に寝て、ぼんやりと幻のように、アルペングリューンを眺めている。
 夕闇は谷より湧いて、見るまに淡く、美しいミラージュは消えてゆく、私は眼を閉じて、静かにクーライエンを聞いた。
一九一四・八・一―九・二七





底本:「スウィス日記」平凡社ライブラリー、平凡社
   1998(平成10)年2月15日初版第1刷
底本の親本:「スウィス日記」講談社文庫、講談社
   1977(昭和52)年8月15日第1刷発行
初出:序「スウイス日記」横山書店
   1922(大正11)年8月12日発行
   「リヨン――シェネーフ」から「ラゴ・マジョーレ」まで「山岳 第十年第一号」日本山岳会
   1915(大正4)年9月
   「コモの湖」から「オーベル・ピンツガウ」まで「山岳 第十年第二号」日本山岳会
   1915(大正4)年12月
   「ベルン」から「シュピーツ」まで「山岳 第十年第三号、第十一年第二号」日本山岳会
   1916(大正5)年5月、1916(大正5)年12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※画像は、「スウィス日記」梓書房、1936(昭和11)年6月発行からとりました。
※「中々」と「仲々」、「小供」と「子供」、「ウェイトレッス」と「ウェートレッス」、「ピラミッド」と「ピラミット」、「ギーセン・グレッチャー」と「ギーセングレッチャー」、「アイガー・ワント」と「アイガーワント」、「セガンティニ」と「セガンテイニ」、「アイガー・グレッチャー」と「アイガー・グレッチェル」、「グローセル・アレッチ・グレッチャー」と「グローセル・アレッチ・グレッチュル」、「グッギイ・グレッチャー」と「グッギー・グレッチャー」と「グッギーグレッチャー」、「グレッチェル・グラス」と「グレッチャー・グラス」と「雪除眼鏡グレッチェルグラース」と「グレッチェルグラス」、「ブオン・ジオルノ」と「ブォン・ジオルノ」と「ボンジオルノ」、「アイガーグラート」と「アイガー・グラート」、「ウンテラールグレッチェル」と「ウンテラール・グレッチェル」と「ウンテラール・グレッチャー」の混在は、底本通りです。
※「七葉樹」に対するルビの「ヒッポカスタノ」「ウィルトカスタニエン」「ウィルトカスタニー」は、底本通りです。
入力:富田晶子
校正:雪森
2021年8月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について

「にんべん+權のつくり」    164-11、186-10
感嘆符三つ    370-16


●図書カード