私は今現代哲学に就いて、教師風の説明を与えることを目的としているのではない。無論おのずからそういう結果になった部分もあるし、又そうなることを避けねばならぬ理由もないのだが、併しいつも私にとって、もっと遙かに大事な問題は、吾々が実際に生活しているこの現在の社会に触れて発生する処の、時事的な或いは又原則的な問題なのであって、こうした時事的又は原則的な問題をば、時事的で且つ原則的な形で(そしてさし当り之が本当の「哲学的」という言葉の意味でなければならないと思うのだが)解決してみようという企てなのである。ここに集めて分類した論文の内容は決して自信のあるものではないが、併し今云ったその意図に於ては、決して曖昧ではないと思う。
現代の時事的又原則的な問題を哲学的に取りあげようというこの意図を、簡単に云って、哲学的評論又は科学的批判と呼んでもいいだろう。曾て文明批評とか文化の批判とか云われたものも、実はこういう形によって理論としての資格を有てるようになるのではないかと考える。尤も哲学は科学からどう異るかというようなスコラ的質問も出るかも知れないが、私がここで問題とする哲学というのは、文芸や科学又其の他の社会現象と並んで、何かの態度に立って批評される一対象物に過ぎないような云わば哲学プロパーを意味するのではなく、却ってそうした一切の現象を批判の対象とするような、生活の一種の態度そのもの、或いは少なくとも思想の態度そのものを意味するのである。つまりここで問題になる哲学は、統一的な推進力を持った世界観から始めて、普遍的で科学的な、即ち実際的な解決力を備えた方法までを、意味している。哲学プロパーは、こうした「哲学」による処の批判にとって、必要な参考資料ではあるが、他面その単なる一材料に他ならないとも云える。
世間の或る人達は、生活に於ける思想の意義をあまりハッキリと捉えていないようである。だが思想は決して単なる観念や何かではないので、世界に対する吾々の生活反応(それが世界観というものの意味だ)であり、又この生活反応に於て発生する問題の解決の唯一の手段(それが論理というものだ)なのである。哲学はこうした意味に於て思想なのだ。処で、一切の現象に対応する観念には、必ず思想が潜んでいる。この思想によってこうした観念は生き又客観に対応する客観性を持つのである。文芸現象などに於ては近来この点が最も強調されていいのではないかと思う。
統一的な推進力を持った世界観、普遍的で実際的な解決力を備えた方法、と云ったが、俗間の多くの批難と注文とに拘らず、私は今以て、或いは寧ろ近来増々、透徹した唯物論だけがその資格に値いする唯一のものであることを経験しているのである。ただこの書物などに現われている限りでは、唯物論のこの透徹力に追随することが、遠く私の思想的エネルギーの及ばないものであることを示していはしないか、を恐れるだけだ。
ここに載せた論文の内には、今では却って私自身反対しなければならぬような見解も含まれている。例えば第一篇の「自然弁証法」などがその最も著しいものだ。之に就いてはまだ充分に私見を決めかねているが、仕事の上での友人達や敵対者さえの助言を利用して、ひとりこの問題に限らず、フランクに客観的に自分の思想水準を高めることに力めたいと考えている。読者には、この本から充分な問題の解決を期待して貰っては困るのであるが、併しここに緒口を見せているだろういくつかの示唆が読者の眼に止まるならば、その示唆を実現するに役立つような、意味のある批評を下して欲しいと願っている。
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之は曾て二年程前に大畑書店から『現代のための哲学』と題して出版したものの改版である。「世論の考察」・「ファシズムのイデオロギー性」・「共通感覚と常識」・「純文学の問題」の四つは、あまり特殊な問題に渡った小論文なので、之を除いて、代りに「哲学の話」という講話風の文章を入れた。書物全体の表題を『現代哲学講話』と改めるに之が相応しいだろうと考えたのである。
第一篇は主として自然科学に関し、第二篇は主として社会科学に関し、第三篇はジャーナリズム現象の理論的分析であり、第四篇は哲学自身に関するものである。
一九三四・一一
東京
戸坂潤
之は現代に於ける若干の基本問題に就いて試みた、哲学的評論である。曾て文明批評とか文化批判とか呼ばれたものは、現代では、社会の一般的危機の自覚の下に、マルクス主義的イデオロギー理論となって現われている。この理論はであるから、単に社会科学の重大な一問題であるばかりではなく、同時に現代に於ける進歩的哲学に課せられた最も広大な課題でもなければならない。哲学はここで、単に一つの専門領域の科学としてばかりではなく、それよりも先に、進歩的で統一的な世界観として、時代の本当に科学的な批評の道具として、役立つことが出来、また役立たねばならない。こういう点を目指している意味で、この書物の内容は、哲学的評論と呼ぶに相応しいだろうと考える。
無論茲に纏めたものは、私自身の経験が可なり制限されているために、取り上げるべき多数の重大な基本問題を取り上げることが出来ず、又取り上げることの出来た問題に就いても、その触れ方が充分に立ち入ったものとは限らなかった。そればかりでなく、或る論文に就いては、今日の私は積極的にその誤謬を指摘したいとさえ思っている(例えば「自然弁証法」に於ける考え方の如き)。――だが私はこれ等の論文を通して、自分の誤謬を克服し自分の制限を踏み越えようとして来たのだし、又之からもそれを怠らない積りでいる。で読者はこの書物から、諸問題の結論めいた解決を期待してはならない。之は寧ろ問題解決への示唆のために書かれたのだ。
現代のための哲学的評論=科学的批評を行なうために何より必要なのは、理論家乃至哲学者と、各専門諸科学者との、意識的な共同作業である。尤もそういう言葉は誰でも云いそうなことであるが、今云うのには一定の客観的な内容があってのことである。現代ほど諸科学(文芸は云うまでもない)がそれぞれの専門の関心そのものからして、哲学的世界観を必要とし、又その必要を自覚せざるを得なくなった時代は曾てなかった。科学者は理論家乃至哲学者に向かって様々な根本問題の解決方を委任しつつあるのである。処が理論家乃至哲学者はこの委任に役立つにはあまりに不用意であったか、或いはあまりに立ち後れがしていはしなかったか。現代のための進歩的哲学は、この立ち後れを取り戻し、直ちに役立つべき範疇を用意しなければならない。そういう急務を帯びている。だがこの急務を遂行するに必要なのは、他でもない、諸専門科学へ哲学自身の手をさし伸べるということでしかないのである。専門諸科学と哲学的理論とのこの必然的な共働は、哲学的評論=科学的批評にとって原因でもあり又結果でもある。
第一篇は自然科学関係の問題に就いて、第二篇は社会科学乃至哲学関係の問題に就いて、第三篇はジャーナリズムに関する問題に就いて、第四篇はこれ等のものに関する時事的批評と示唆的な試験と時評である。――「社会科学に於ける実験と統計」と「新聞現象の分析」とは新たに発表するものである。
一九三三・一
東京
戸坂潤
[#改丁]第一篇
一 社会に於ける自然科学の役割二 自然科学とイデオロギー
三 ヘーゲルと自然哲学
四 自然弁証法
自然科学は云うまでもなく、少なくとも歴史的社会から区別された限りの自然に関する科学である。だが同時に夫は又歴史的社会の所産であり、歴史社会的な存在の一つである。この関係の裏に吾々の問題の凡てが横たわっている。
夫が一つの歴史的な存在だということは併しながら、決して自然科学自身にとって単に外部的に過ぎないような規定に止まるのではなくて、大事なことには、同時に夫が又自然科学自身の内部的な――即ち取りも直さず自然科学的な――規定ともなって現われる処のものなのである。而もそうやって自然科学が社会から受ける処の内部的な規定は更に、決して自然科学の単に周辺的な規定ではなくて、実は之こそ正に、その中心的な根柢的な規定となるだろう。吾々は今この点を明らかにしようと思う。
自然科学の諸理論は、自然観察・実験・数学的操作・等々という研究方法を用いねばならず又夫を用い得るという処に、他の諸理論とは異った特色があると考えられているにも拘らず、その叙述方法に於ては、他の一切の理論と全く同様に、概念の体系でなくてはならぬ。単なる観察・実験・数学式の運用は、それだけでは、それに沿うて現実的に展開して行く一定の思考を離れては、自然科学にとって何の意味も持たない。思考は処で無論概念の体系による外はないが、そういう概念体系が即ち理論と名づけられる処のものである。実はこういう概念の体系――理論――があって初めて、発達した系統的な自然観察や組織的装置による実験や物質的な意味を持つ数学的操作も行なわれることが出来るのである。波動による所の干渉圏の実験は、科学の素人にとっては単に多彩な色の知覚にしか過ぎない、之が波動の存在を示す実験として成立するためには、すでに波動の一定理論がなくてはならないのである。
だがこの概念の体系――理論とは之だ――は無論、科学者が個々の概念を構成しそしてそうやって出来上った諸概念を更に一つの体系にまで構成するという手続きによってしか与えられない。それは自然科学者が自然に就いて持つ処の広い意味に於ける経験――心理学的な知覚や科学上の知識や学徒としての体験――に頼る外に道はないのであるが、併しそのことは取りも直さず、科学者が自分の(又他人の)経験を追跡し得るような論理を有っていて、その論理の糸を具体化しながら手繰って行くということに外ならない。だから自然科学の例の概念の体系を支持しているもの、即ち自然科学の理論を成り立たせるもの、即ち又概念と概念との間をつないでいる処のものは、終局に於て、具体化され行くこの論理だということになる。
物質とかエネルギーとか場とか波動とか空間とか時間とかいう物理学的諸根本概念は、こうした論理によって構成され又こうした論理によって一体系にまで結合・組織されるのである。
処でこの論理は論理それ自身として又、自分に固有な諸根本概念――範疇――を持っている(普通哲学的な概念と考えられる)。実体とか関数関係とか、因果性とか蓋然性とか、がそういう範疇の例として取り上げられて好いだろう。この論理学的根本概念――範疇――は云うまでもなく自然科学の諸概念の内に、その根柢として、含まれているが、併し決して自然科学にだけ固有なものではない。それが論理学的である所以である。
物理学的な意味での物質とかエネルギーとかの概念は成る程自然科学にだけ固有なものだろう。従ってこういう根本概念をそのまま無条件に、他の科学の領域にまで持ち込むことは許されない。だがそういう諸根本概念を造り出す処の論理的範疇の体系は、即ち論理の道具立ては、もはや自然科学にだけ固有なものなのではない。論理は凡ゆる知識領域に渡って普遍的で唯一のものでなくてはならぬ、認識の一部分にしか通用しないものはもはや論理ではないし、又論理に幾つもの異った論理があっては抑々論理にはならない。「論理」は凡ゆる科学の理論に対して共通でなければならぬ。
だから特殊な一理論に外ならない処の自然科学の概念体系の根柢には、この一般的な論理が、論理学的な範疇の体系が、横たわっている。そういう一般的な範疇体系が処で哲学なのである*。で自然科学の理論は必ず、何等かの特色ある哲学に基いて出来上っているのである。
* 哲学をこうした論理=論理学と考えることに対しては、恐らく多くの観念論的哲学者達――今日彼等を一般的に「生の哲学」者と特色づけて好いと思うが――から、苦情が出ることだろう。彼等は一方に於て論理の生きた概念を有たないと共に、他方哲学が思想の技術である所以を理解しない。だから彼等の哲学は結局、告白文学の体系となるのである。
尤も今云った意味に於ける――論理=論理学としての――哲学も、一般的で形式的な、即ち諸科学の諸概念をそのまま受け取って包括出来る、体系であるにも拘らず、形式的・一般的なりに、それ自身にだけプロパーな概念体系を組織しているのは事実である。哲学には――職業的・専門的な――哲学体系にしか現われて来ないような色々の概念が見出される。例えばプラトンのイデアであるとか新しい処ではフッセルルの「本質」であるとかは夫である(これ等の概念は元来は全く、人間が日常生活に於ていつも使っている日常概念から出来上ったのだが、それがやがて専門的な職業上のテクニカルタームとなり終ったものである)。この点を通過すると哲学はもはや必ずしも形式的な論理の体系ではなくなって、それ自身に一定の内容ある存在論的体系にまで発育し具体化されて行くのである。で哲学にだけプロパーなこういう哲学的専門諸概念は、自然科学にプロパーな前の諸概念と、無論すぐ様一つのものではない。
だがそれにも拘らず、この哲学プロパーの体系に於ける諸概念は、論理の範疇体系と、その兌換価値・キャッシュバリューを一つにしていたわけだから、この――共通な――論理の範疇体系を通して、前に云った自然科学的諸概念の体系と、一定の共同契約を結んでいなければならない。だから自然科学の根本概念乃至範疇と哲学の根本概念乃至範疇との間には共軛の関係が横たわらざるを得ない。二つのものの間には合理的な媒介・連関関係が設定されていなければならぬのである。一方に於て行なわれる範疇体系は、適当な兌換条件の下に、他方に於ても亦行なわれる、という契約が結ばれていなければ、自然科学は自然科学であり得ず、哲学は哲学であり得ない。範疇論的に云って、論理学的に云って、そうなければならない。
このことは併し、自然科学の歴史がすでに物語っている処である。近世自然科学に於ける根本概念は或る意味では大抵哲学(当時夫は形而上学)体系からの所産である。エネルギー不滅則となって現われるエネルギーの概念は、ライプニツにとっては、彼のモナドロジー(夫が彼の存在論だ)によるモナドの表象力に相応せしめるために構成されたものだし、運動量不滅の法則となって現われる運動量の概念は、デカルトにとっては、彼の幾何学的物体観から出て来るものである。このライプニツ主義とデカルト主義との対立――ライプニツはデカルトの幾何学主義に対して力学主義を押し立てることによってその存在論への動機を得ている――は、単に存在論=実体論の上での対立ではなくて、自然哲学(現代の言葉では)=自然科学の上での対立なのである。そしてこの二つともが実は、更に古くスコラ哲学に於ける実体――それは神であり不生不滅の常住者である――の概念の変形したものに外ならなかったのである。
以上のことは又哲学の歴史の側からも知ることが出来る。今日吾々が実際に用いることの出来る哲学は、吾々が東洋人であるにも拘らず(或る哲学の博士の如きはその著書に「我は日本人なり」というリフレーンをつけているが)、決して印度哲学や支那哲学、仏教哲学や況して「日本」哲学、などではなくて、所謂西洋哲学・欧州哲学なのである。西洋哲学は、その学的実質から見れば、西洋の哲学ではなくて今日では吾々の哲学なのである。もし「日本哲学」などと名乗る哲学があるとすれば、恐らくそれは自然科学などからは全く無関係に絶縁された非哲学でしかあるまい。それは馬占山の棲家を爆撃することを主張し得ても、肝心な重爆撃機のエンジンの故障一つ直すことの出来ない哲学に相違ない*。
* 読者は昔我が国で和魂漢才説という重宝な思想のあったことを知っているだろう。維新後になるとそれが士魂商才の説となる。だが教育家が徳育と知育とを区別した賜物であるかどうか知らないが、近頃では哲学の魂と科学の才とが、バラバラに統一される。之は誠に不思議な見事な「統一」ではないだろうか。
さて処でこの欧州哲学が全くギリシア哲学の伝統にぞくするものであることは人の知る通りであるが、印度や支那の高級な古代文化の所産であった哲学の伝統が、何故今日にまで生き永らえることが出来ずに、ギリシア哲学の伝統だけが今日の生きた哲学として残ることが出来たかと云えば、それは外でもない、ギリシア哲学が自然科学との連繋を絶えだえながらも保って行くことが出来たからに他ならない。例えば反自然哲学的なソクラテス哲学も、やがてアリストテレスによって、ソクラテス以前のギリシア哲学――自然哲学――にまで救助の綱を投げ渡すのである。ヘレニズムのギリシア・ローマ期以後からはヘブライ的キリスト教的な非自然科学的体系がこのギリシア哲学に移入され、やがて逆にこの宗教的体系がギリシア哲学の体系を支配して了ったが(プラトンやアリストテレスのキリスト教的改釈)、併しその結果が取りも直さず欧州中世期に於ける「一千年の暗黒」と呼ばれたものに外ならない。暗黒とは外でもない、宗教的教理やゴシック芸術の素晴らしい発達にも拘らず、自然科学的進歩が欠けていたということの外ではない。この間に自然科学はアラビアの自然哲学として発達し、それがルネサンスに至って再び欧州の哲学体系の内に呼びもどされる。封建制度の夜が明けて近世初期の資本主義の朝が来る。之が所謂古典復興なのである。そしてこの古典復興の内から初めて、今日の自然科学が発育することが出来、また同時に今日の理論的な哲学も自由に展開することが出来たのである*。西洋哲学、吾々の哲学、は自然科学との契約・共軛性を守ることによって、初めて哲学として生き還えることが出来たのである。
* 実験の意義を最初に高唱したものはレオナルド・ダ・ヴィンチであり、近世哲学の先駆をなしたものはクサヌスやカンパネラであった。――今日人々が科学的なものに対立させる個性の概念も、実はこの時、之等のものとの連繋の下に初めて生まれた概念だということを注意せねばならぬ。
今日の――観念論的――哲学を人々は広義に於ける実証主義と広義に於ける批判主義とに分ける習慣を有っていると思うが、哲学のこの二つの種類も、哲学が自然科学――それは十八・九世紀に至って思想界を圧倒的に席巻し始めたものだ――に対してどういう態度を取るかによって特色づけられている。今日の哲学は自然科学を中心として態度を決めねばならぬ。そしてこれは古くギリシア哲学の歴史に於ても、その通りだったのである。
さてこうして自然科学に於ける範疇体系が哲学的乃至論理学的範疇体系と共軛的であるとして、同じ関係が、而もより明らかに、社会科学と哲学との間にも横たわる。社会科学の範疇体系も亦同じく、この哲学的・論理学的・範疇体系と共軛性を持っている。否両者の範疇体系は、時としては一見直接に――共軛の媒介を経る必要などなしに――安全に一つであるようにさえ見える場合がある。例えばマルクス主義経済学に於ける範疇体系は唯物弁証法と呼ばれる哲学の範疇体系そのものが歴史観となって具体化されたものに外ならないし、J・シュンペーターなどの「純理経済学」は全く実証主義の範疇体系が具体化されたものの上に立っている。
そこで今度は、自然科学に於ける範疇体系と、社会科学に於ける範疇体系とが、当然又共軛関係に立たねばならなくなる。で例えばイタリアのファシスト社会学者パレートの社会均衡理論(Social statics)は自然科学に於ける機械論の範疇体系と共軛的であるし*、又知られるように、マルクス主義的社会理論は、ダーウィニズム(或いは一般に進化理論―― transformisme)の範疇体系と共軛的なのである**。
* ブハーリンの均衡論的経済学は、社会学的均衡理論の一部分にぞくするわけであるが、之を機械論という範疇体系に引き直すことによって、之と近代の物理学乃至生物学に於ける機械論の行きづまりとを較べて見ることが出来る。――後を見よ。
** ダーウィニズムは無論歴史的にマルクス主義から発生して来たものでもなければ、又その逆でもない。――歴史的発生に於て無関係であり又は同時的であるものの間にも、一定の論理学的な共軛関係が成立することを注意すべきだ。而も之が実は又本当の歴史的な等価関係でもあることを見逃してはならぬ。
哲学・自然科学・社会科学は、その範疇体系の間に共軛関係を持たねばならぬ。そうしなければ、哲学も自然科学も社会科学も、本当は成り立ち得ない。実際、三つのものが世界観的な統一を有つべき義務を負うていることを忘れてはならぬ。世界観的統一と云ったが、世界観は云うまでもなく社会生活を営んでいる人間が有つものに外ならぬ。人間の社会生活の一切の規定は必ずその世界観に或る一定の規定を与えずにはおかない。社会科学がそういう影響を受けることは極めて見易いが、自然科学であっても、影響の受け方こそ違え、一定の影響を受けねばならぬという点では少しも異る処はない。
以上のことは誰でも一応は承認しなければならない処の、云わば判り切った事柄である。だが、以上のことから必然的に出て来る様々な結果は、必ずしも人々にとっては判り切った事柄ではなくなるのである。
哲学・自然科学・社会科学の以上述べた連帯関係を併し、実際に於ては自然科学者自身が充分に明白に把握しているとは限らない。
自然科学者は往々にして一般に哲学と呼ばれるものに対して極めて無頓着である。アカデミカルな又は師範学校式なブルジョア自然科学者の或る者にとっては、哲学的反省などは邪道であるか暇つぶしであるか又は単なる趣味でしかないかも知れぬ。思想的・哲学的な思索が実験的な自然科学に直接には役に立たない限り、それは必ずしも無理とは云えまい。だがこの状態を具体的につきつめて見ると、夫は意外にも、やがて自然科学自身にとって至極重大な不利益となって復讐されるだろう。と云うのは、自然科学者が哲学に無頓着であることによって、哲学者も亦自然科学に無頓着であっても好いことになる。処で(ブルジョア)哲学は之を好い機会にして、特に著しい場合としては、宗教的な性格を帯びて来ることが出来るのである。之は自然科学自身にとって極めて重大な事件となる。
元来宗教というのが単なる信仰――宗教的信念――や宗教的体験であれば、あまり問題はないのであるが、併し実際上宗教は常に必ず一つの宗教的な範疇の体系を持たざるを得ないのである*。そういうものを広義の神学と呼んで好いだろう。神学とは他でもない、神学的な・宗教的な・体系としての一つの特別な哲学体系に外ならないのである。不幸にして今日の哲学――ブルジョア哲学――の多くはそういう神学的性格を担っている。云うまでもなくそういう点では今日の所謂欧州哲学も、その本質に於て、古代印度の哲学や支那哲学とあまり異る処はない。ただ異る点は、自然科学に対して、終局に於て宗教的である処の非科学的な継穂を与えることによって、之を「基礎づける」と称し、わずかに自然科学との連帯の責を塞いでいるということだけである。
* ブルジョア観念哲学者達は、宗教に対する非難に答えて、宗教制度(夫は既成宗教のものである)は非難され得ても、宗教的真理内容は非難され得ないと称する。なる程宗教的体験がその真理内容だと云うならそれは非難の対象にならぬから非難しても意味がない、吾々は石炭の黒いのを非難する気にはならぬ。だが彼等が宗教の真理内容と呼ぶものは、単なる宗教体験ではなくてそれから出て来て神学的哲学体系となる処のものである。石炭の黒いのは構わないが煤煙の出るのが困るのである。――「形而上学」的範疇体系なるものはこういう神学的範疇体系の最も理論的に純化された一つの場合である。
そこで、「基礎づけ」の好きな小カント学徒達は主張する、自然科学は自然科学のアプリオリに立ち、そして宗教は又別な宗教のアプリオリに立つ、二つは夫々別々に基礎づけられるのだ、と。だが一体この二つのアプリオリはどうやって統一されるというのか*。宗教的世界観(単なる宗教意識ではない)=神学的範疇体系は何と云っても、後に見るように、自然科学と共軛的である処の科学的世界観と、衝突しないではいないが、この衝突はどうやって調停されるのであるか。* 人間の経験は統一的なものであるが、反対にアプリオリはその名の通り先天的なものだから、予定調和にでも依るのでない限り、諸アプリオリの間の真面目な統一――例えば「価値の体系」――などはあり得ないだろう。
そこで更に人々は、科学的知識の限界を数え上げて見たり(デュ・ボア・レモンの世界の七不思議)、科学的知識の隙間だと考えられる点にわざわざ興味をもって見たりする(近代物理学に於ける確率=公算の概念から自由の概念へ、そして自由の概念から神秘の概念へ)。だが之等の考え方は、極端な戯画に直して云えば、幽霊が自然科学的研究の対象にならぬという主張から出発する処の例の心霊研究(Psychical research)――エンゲルスが特にそれを取り出している――に帰着するのであって、そしてそうした「サイエンス」は自然科学と何の共軛性をも持たないことをこそ、その特色としている。
なる程自然科学は「精神」上の問題を直接に解決出来るものではない。だが、だからと云って自然科学と共軛関係に立つ科学的範疇体系と並んで、之と無関係であったり衝突したりするような宗教的な範疇体系を立てていいということには少しもならない。
さてそこで例の一般的な連帯性から当然出て来る自然科学の一つの任務は、こういう宗教的世界観の克服、宗教的範疇体系の破壊、宗教批判でなくてはならぬということになる。之は併し、従来通俗的な自然科学者達によってしばしば行なわれて来た処の、自然科学者の自画自讃に外ならないような、所謂「迷信打破」などとは同じでない。元来迷信というものの本質は実は単なる所謂迷信なのではない。迷信とは、一定の社会生活の利害によって規定された限りの虚偽なのである。それは社会生活の利益――「御利益」――のために認識を賭けることに外ならぬ。夫は全く一つの賭けなのである。だから投機業者や人気商売の人間が最も迷信的なのには理由がなくはない。迷信は人々が信じるようにただの無知から生まれて来たのではない。――処で元来宗教的範疇体系なるものが、人間の社会生活に於けるそうした利害関係に対応して存立している最も広範な代表的なイデオロギーなのである。宗教は単に科学的知識の無知から迷信であるのではない、そういう意味では、実際優れた宗教は迷信ではなくて正に真理だろう。だがそれが一つの利害イデオロギーであるが故に科学的範疇体系に対立せねばならなくなるという点に於て、恰も迷信という特徴を表わすのである。で迷信断破は迷信打破ではなくて宗教批判とならねばならぬ。科学的世界観の下に、そしてそういう科学的世界観とのみ自然科学の範疇は共軛的であることが出来たのだが、自然科学は、こういう意味での宗教批判に参加しなければならないように出来ているのである(反宗教運動はそれの実践的形態である)。
自然科学は自分自身が世界観に於て占める位置のために、是非ともまず第一に宗教批判の形を取らねばならぬのであったが、併しそのためにもすでに、夫は単に自然科学の内側に止まることが出来ないのであって、何より先に自然科学と哲学との連帯を固めてかからねばならぬ。だが宗教――宗教的世界観――は人間の社会生活の利害によって規定されて初めて成り立っている社会的イデオロギーであった。だから之を批判するためには是非とも又自然科学は自分と社会科学との連帯関係をも固めてかからねばならないわけである。
実際、宗教は、即ち宗教的世界観の――神学的――範疇体系は、必ずしも自然科学の範疇体系と直接に衝突するとは限らないのであって、却って自然科学者こそややもすれば宗教的な世界観を持って見たがる傾向さえあるのである。実際、現代に於ける相当有力な物理学者の物理学に対する観念論的解釈は、そういう神学的世界観――それを形而上学的範疇体系と云っても好い――への開かれた入口となっている。で、宗教的世界観の範疇体系が本当に直接に衝突するものは、自然科学と共軛的ではあるが併し自然科学自身よりはもっと広い範囲に渡る処の、科学的世界観の範疇体系なのである。特に、そうした科学的世界観にぞくすべきである処の社会科学的認識の体系と、宗教的認識体系とが、直接に衝突するのである。でここまで来れば、宗教批判が例の迷信打破式の自然科学礼讃ではものにならないことが愈々明らかになるだろう。宗教批判をなし得るためにも、自然科学は、社会科学との連帯を明白に把握してかからなければならぬ。――処が多くの自然科学者達は社会科学的認識になると、甚だしく非科学的になって了う場合が少なくない。
云うまでもなく自然科学の根本概念乃至範疇は決してそのまま社会科学のものとはならない、又なってはならぬ。恰も生物学に於ける諸法則――法則というものは範疇体系から出て来る――が、一種の目的論とか新乃至旧生気説的原理とかが、物理学乃至化学の法則ではあり得ないように、人間の歴史的社会生活に於ける法則――夫は社会科学的範疇体系から来る――は、もはや物理学や生物学の法則ではない。例えば適者生存とか自然淘汰とかの法則が生物界に行なわれたとしても、それから社会の法則を直接に導き出すならば、途方もない認識不足と根本的な誤謬とに陥るだろう。生物学者のそういう意味に於ける素人的な社会観は誠に仕末の悪いものであると共に、生物学主義的な社会学(例えばクロポトキンの相互扶助論的倫理学とかスペンサーの進化論的社会学とか)も批判に耐えないものであることは、今日人々の知っている通りである。
だがそうであるからと云って又、例えば多くの独乙の歴史哲学者達のように、人間の歴史的社会を(夫を彼等は文化=客観的精神の世界と呼んでいる)、何か人間乃至動物の生物的生命の生存と、殆んど全く無関係・非共軛的なものと考えることは、拾収し難い不統一な結果に終らざるを得なくなるだろう。W・フンボルトやランケによって代表される観念的歴史学や、ヘーゲルによって代表される観念論的歴史観は、無機的自然や生物界の自然史と、人間の歴史社会の文化史とを、全く非共軛的な二つのものとして絶縁して了う。
歴史社会のこうした観念論的な認識は併し、自然科学と共軛関係に立つべきであった例の科学的世界観と、当然ながら何の契約を結ぶことも出来ない。事実、極端な場合を取ると、人間の歴史は神の世界計画の実現とさえ考えられて来るが、そうした神義論は無論科学的世界観と何の縁故もあってはならない。ここでも、自然科学は自然科学のアプリオリに立ち、社会(歴史)科学は社会科学の別なアプリオリに立たされる*。
* ヘルダーの歴史観はこの点で遙かに合理的で統一的である。彼は「人間の歴史」を地球の歴史・生物の歴史から出発して展開しようと欲する(『人間史考』)。そしてカントの文化哲学も、まだなおこの原理を忘れてはいない。――この頃H・G・ウェルズの世界史がジャーナリスティックな名声を博した原因も恐らくこの点にありはしなかったか。
だが本当の関係はこう考えられるべきものなのである。人間の歴史的社会とは、生物学的自然の自然史的発展の結果現われる処の、自然の一つの特殊な高次の段階なのである。自然と歴史とはオーダーを異にするが、併し矢張り共軛的な自然の二つの段階なのである。人間は一個の動物として食料を獲得し又生殖を営む。だがそうすることが取りも直さず他の高いオーダーに於ては、経済的な生産関係の問題となり、社会的な人口の問題となるのである。
自然と歴史的社会とは、その存在の構造――範疇は之の反映である――に於て共軛的でありながらオーダーを異にする。前者が自然史的に発展することによって、その内部の諸モメントが具体化され止揚されて、後者の内部の諸モメントとなる。両者は機械的に同一なモメントからなるものでもなく、又機械的に絶縁された二群のモメントに区別されるのでもない。だから両者は正に弁証法的な関係に立つということになる。――この意味で社会科学は、科学的世界観の上に立つ歴史的社会の理論は、云わば「社会の自然史」ともなるのである。夫は自然の自然史――そこではカント・ラプラス仮説やダーウィニズムが支配する――とは異って、正に社会の自然史であるが、併し又之と自然史的な共軛関係を有たねばならない。
自然と社会とがその存在上のモメントに於て、こうした弁証法的連関に立つから、自然科学の根本概念乃至範疇の体系と、社会科学の夫とは、当然共軛的であらざるを得ないわけなのである。
処が、実際に於ては、自然科学者は、自然科学と社会科学とのこの欠くことの出来ない共軛性に対して、関心を示すことがあまり多いと云われない。なる程、社会科学的認識を有たなくても、自然科学の研究に一応は事を欠かないだろうから、それも尤もな現象ではあるが、
自然科学者は多く、自然科学の領域に於ては権威ある専門家であっても、自然科学の外へ一歩でも踏み出すと、往々全くの素人に過ぎなくなる。その哲学的見解に於て極めて拙劣又は幼稚な素人でしかない、ましてもっと具体的な社会科学的見解に至っては愈々それが甚だしい場合が多い。権威ある自然科学者であっても政治的意見に於ては一介の村会議員と何の選ぶ処もないかも知れない。
例えば吾々は有名な自然科学者の内に往々一種の憂国の士や国粋主義者を見出す。処が今その常識的な社会的見解を科学的に組織すれば、取りも直さず夫はファシズム理論――もしファシズムにも理論があるとすれば――以外のものには帰着しないだろう。処が科学的な社会科学の教える処に従えば、徹底したファシズム的社会認識の範疇体系は、自然科学的範疇体系との間に実は何の共軛性を見出すことが出来ないのである。極端な例を取れば、この頃持て囃されている権藤成卿翁達の国学的社会説の範疇は、一体どうやって自然科学の範疇と連関されることが出来るか。――蓋し自然科学と範疇上共軛性を有つ社会科学は、即ち之と弁証法的連関統一を有つ社会科学は、マルクス主義的史的唯物論の外には存在しない、之こそが唯一の科学的社会理論なのである。
だが、自然科学者が自分の自然科学と共軛関係に立つこのマルクス主義的社会理論=史的唯物論を、承認するかしないかは、単に自然科学者という個人にとっての問題であるばかりではなくて、自然科学そのものの問題なのである。而も夫は自然科学にとっての外部的な問題や周辺的な問題なのではない。それは却って、自然科学自身に於ける範疇体系の中心問題にまで反射して来る。この点が大切である。
と云うのは、マルクス主義の範疇体系が一般に、唯物弁証法であることは知られている通りであるが、之と共軛関係に立つか立たないかは、取りも直さず、自然科学自身の範疇体系をも(唯物)弁証法的なものとして把握するかしないかということである。処で、所謂近代物理学の諸根本概念は、例えば因果関係とか必然性とか偶然性とか確率とかの概念や、又物質自身の概念さえ、もし物理学者が(唯物)弁証法的範疇体系の採用を拒むと仮定すれば、即ち従来の古典物理学的な範疇体系であった機械論を固執すると仮定すれば、拾収すべからざる混迷に陥って了う、それは人々が今日経験している事実である。例えば因果律は放擲されて了うことになり、物理学否自然科学一般の科学的客観性の基礎が危機に瀕するとも考えざるを得なくなる。
こういう危機を脱するためには、そして自然科学を科学的客観性の軌道の上で前進せしめるためには、人々は、意識すると否と、欲すると否とに拘らず、現に(唯物)弁証法的範疇体系を是非とも採用しなければならなくなっているのである。物理学者の多くが(唯物)弁証法的概念体系の使用を宣言しないのは、政治的な反動意識からでないならば、全く彼等がこの概念体系の使用法を知らないか又はまだ夫に慣れていないか、によるにすぎない。
之がそして所謂「自然弁証法」、かの評判のあまり良く無い自然弁証法の、問題に外ならない。そして又自然科学の社会階級性という、甚だしく反感を招くを常とする関係も、つまる処そうした自然弁証法を承認するかしないかに帰着する。蓋し自然弁証法を自然科学に於て承認しないことは、一般に唯物弁証法としての哲学的範疇体系を承認しないことと共軛的なのであり、そして両者は又社会科学に於ける唯物史観の範疇体系を承認しないことと共軛的なのであるが、この唯物史観を拒否することは、取りも直さず、ブルジョアジーの経済的政治的社会階級的利害を反映するブルジョア・イデオロギーにとって絶対に必要なのだということを、思って見ねばならぬ。――今日の多くの物理学者はその小ブルジョア的「常識」から、徹底した形のマルクス主義的社会理論を、情緒的な理由から、仲々信用しない。それでこの社会理論の骨髄をなしている唯物弁証法をおのずから白眼視せざるを得ない。そうすれば無論、自分の物理学理論の内にそういう弁証法が必要だなどということは以ての外でなければなるまい。こうして彼はあくまでも旧物理学の機械論的範疇に止まるか、もしくは少なくともその仮定の上に立とうと欲するわけである。ごく罪のない政治的な反動意識が、如何に彼の物理学的認識を妨げているかを見るが好い。
哲学に於て唯物論と観念論とが階級的な対立をなすように、社会科学に於ては唯物史観と反唯物史観――観念史観・「第三史観」等々――とが階級的対立をなす。それと全く共軛的に、自然科学に於ては自然弁証法的範疇体系と機械論的範疇体系とが対立するのである。之が所謂自然科学の階級性であり、社会階級自身の優劣がそこでは自然科学自身の範疇体系の優劣となって検出されて来るのである。
自然科学が――尤もどの科学でもそうなのだが――単に一つの理論体系であるばかりでなく、同時に又一つの歴史社会的存在だという点を具体的に分析して見ることによって、この理論体系自身がどんなに歴史社会的な制約を受けているかが、判ったと思う。だが自然科学のこの歴史的社会的制約は、やがて逆に、社会に於て自然科学が受け持つ処の役割に外ならない。
自然科学の唯一の社会的使命は、要するにただ一つの単純なことに尽きている、夫は云うまでもなく自然的諸存在の自由な――科学的な――研究に外ならぬ。だがこの一つの単純なことが、具体的には決してそれ程単純ではない。
自然科学は歴史的社会の所産であることから、それが目指す研究の自由は、実際には社会の種々なる意味に於ける条件によって制限される。一般に自由が問題になる時は、同時に自由の条件が問題になる時である。近代資本主義は自然科学の場合に就いても、曾ては誠に良い母であったが、併し現在ではもはやすでに決して信頼してはならない獄吏に化している。自然科学の研究費の社会的総額は、資本家企業の次から次への救済や特別警察の拡張費や莫大な軍備費や、更に又失業救済費さえにまで、割愛されねばならぬ。自然科学研究のための社会的施設のない処に、多少の学術奨励資金は有名無実となる。それに大衆の貧窮化は優秀な自然科学者の養成に甚だ不利だということは云うまでもない。学術振興――夫は実は発明奨励のことだ――の運動があると云っても、国際的・国内的・な生産過剰・操業短縮・失業者激増の折柄、人間的労働力を節約して生産力を増加させるような、一切の機械の発明は、もはや奨励される処ではなく、禁圧されねばならぬ*。
* 吾々の記憶が間違っていないならば、最近わが国で発明された能率の格段に優秀な紡織機は、失業者を彌が上に増加せしめ、ひいて世相を悪化せしめる廉を以て、特許権を与えられなかったそうである。
之は技術、或いは自然科学に於ける高々技術的な側面、にしか当らない批評で、之によって自然科学の真理そのものは少しも動揺するものではない。そういう人があるかも知れぬ。だが技術を抜きにして何の自然科学もなく、技術的側面を無視して何の自然科学的真理もない。自然科学の範疇体系は外でもない、この技術的なるものによって、例の宗教的・神学的・形而上学的・範疇体系と根本的に対立せしめられるのである。そしてこの技術的なるものによって初めて、自然科学は哲学や社会科学から共軛性・連帯性の手をさし延べられる価値があったのである。
で、社会の発達が停滞して了っている時、もはや自然科学も実際上進歩し得ない、ということが事実である。それは外でもない自然科学の理論そのものが停滞するということである。――だから自然科学の理論の進歩を欲する者は同時にまた社会そのものの進歩的展開を欲しなければならないのである。そこにこそ自然科学が、社会科学に対する例の共軛関係の、実践的な意味があるのである。
自然科学にとっての宗教批判の役割に就いてはすでに述べたが、夫と関係して、今の点から云って必要になるものは、自然科学の大衆化でなければならぬ。科学の大衆化は、科学の俗流化や又ブルジョア啓蒙主義的な所謂通俗化ではない。それは、社会の新しい建設のための自然科学的な広義に於ける諸技術を、大衆にまで植えつけることに外ならないものである。自然科学の広義に於ける諸技術は今、大衆の手に移る。だがそれは単に社会そのものの技術的建設に絶対的に役立つというだけではなく、仮にそうした社会的関心を抜きにして見ても、哲学や社会科学自身のために科学的世界観を用意するための、自然科学にとっての何よりも広い大道となるだろう。
一切の科学、一切の理論は、その範疇体系上のキャッシュバリューから云えば、国際的でなければならぬ。記号――この語感の歴史から完全に抽象された言葉――を用いることが出来ない点で、根本的に国語に支配されている哲学的理論も、翻訳され得るということが絶対に必要だ。処で自然科学が現に事実上優れて国際的であることは、その原因はとに角として、社会に於て自然科学が果すべき一切の役割を、最も端的に示唆してはいないだろうか。
最後に一言云っておかねばならぬ。恐らくブルジョア哲学者達は、吾々の今迄述べて来たような理論を、実証主義に数えるだろう。ブルジョア観念論の範疇の抽斗の内からでは、なる程実証主義でも持って来る外はないだろう。だが恰も実証主義は吾々の範疇技術――唯物弁証法――の正反対物であることを注意して欲しい。吾々は自然科学的範疇体系を――その法則・その方法を――、そのまま哲学や社会科学に持ち込もうとするのではない。必要なのはこれ等一切の諸科学の間の、範疇体系上の共軛関係である。共軛関係とは自同的な同一の関係のことではない、夫は正にそれと正反対な弁証法的な媒介の関係ではなかったか。吾々の主張は所謂科学主義(scientisme)などではない。吾々は自然科学を何か絶対的なものとして信仰しているのではない。
[#改丁]
文化の固有な特色は、文化を上部構造として担っている社会の下部構造の諸部分とは異って、夫が云わば内部的と外部的との二つのモメントから出来上っているという点にある。文化はその内部に於て、それ自身の尺度を以て先ず計られる。文学作品は、その固有に文学的な価値によって人々に真理として迫って来る。その際、多少政治的なトルストイの『戦争と平和』であろうと、甚だ非政治的なドストエフスキーの『カラマゾフの兄弟』であろうと、或る限界の内では殆んど同一の強度と深度に於て、人々を捉える[#「捉える」は底本では「促える」]だろう。文学作品はそこでは云わば、普遍的な人間性に訴える高さに於て計られる。だがこの抽象的な普遍的人間性の概念は、それが抽象的であることから当然、或る限界を超えると、もはや役に立たない、機能を使い尽した、標準にまで低下せずにはいない。作品の批判は、単なる受容とは異って、可能的な制作実践を仮定しているものであり、従って一定の判決を宣告する必要を有つのであるが、この判決を下すに当って、トルストイも人間性を刺激し、ドストエフスキーも亦――無論別な仕方でではあるが――同じく人間性を刺激する、では、何も判決の標準がなくなって了う。だからこの場合必要なことは、普遍的な人間性が、より高度の視角から一定のニュアンス――質的相違・対立――を与えられた人間性にまで、即ち今云っていた意味ではもはや普遍的な人間性でないものにまで、止揚されなければならなくなる。と云うことは併し、文学作品が、もはや単にその内部的な尺度だけで以ては計られなくなるということである。文学作品は終局に於ては、内部的と今云ったものに対しては外部的な、も一つの尺度を以ても計られなければならない。
このようにして文化財は、特有に二重のモメントを備えている。内部的なものは文化財的価値であり、之に対して外部的なものは、文化の社会的又歴史的存在である。――人々は芸術に於てこの対立を、芸術的価値と政治的価値との対立に対応させている。
事実は併し、このような価値と存在と――その一例が芸術的価値と政治的価値――が単純に対立しているのではなくて、この対立物が統一を有っているということである。吾々の芸術理論に就いては、この点に関する認識は、根本的ではなかったにせよ、すでに検討済みだと云っても好い。――だが吾々はこの同じ関係を、科学に就いても具体化して反覆しなければならない。
科学も亦一つの文化である限り、内部的モメントと外部的モメントとを有っている。前者は科学の論理的な真理価値に関し、後者は科学の社会的存在に関する。之は現実の科学が必ず持っている二つのモメントである。この二つのモメントは科学という現物に於てはすでに初めから統一に齎らされている。問題は吾々がこの現物に於ける統一を、どう正しく理論にまで反映させるかに存する。
処が多くの人々は、この現物に於ける統一を、統一として反映させることが出来ない。其は統一としてではなくて、却って単なる対立として、二元的な分裂として、しか意識されない場合が多い。論理学者達は科学を、専らその内部的モメントに於てのみ把握することしか知らない。彼等は科学の本質的な規定をその論理的支柱に、その方法に、しか求めることを知らない。科学の社会的存在に於ける諸規定などは、彼等の科学方法論――論理学――によれば少しも本質的な規定ではない、夫は全く「外部的」な偶然に過ぎない、と考えられる。――之に反して多くの「社会学者」達は、こういう「哲学者達」の思想にはあまり好意を寄せていない、恐らくこういう論理的な分析は社会学にとっては多少辛ら過ぎるのかも知れない。そこで社会学者達は、哲学者の科学方法論はそのままに安置しておいて、その外に、科学の社会的――乃至歴史的――存在のモメントを、之に対抗させようとする。この場合無論、科学は本当には歴史的に取り扱われ得ない。何故なら科学の歴史を叙述するためには直ぐ様科学の方法論的・論理学的・理解が必要な筈だから*。だから社会学者達にとっては、科学を、歴史的現実内容から抽象された意味での「社会的」な存在として取り扱うという道を選ぶのが、賢明である。と云うのは、彼等は科学の――一般には文化の――歴史的発展の諸形式を分類して之を類型化そうと思い付くのである。之ならば哲学者の方法論に立派に対抗出来る科学論に見えるだろう。こうして一般に文化社会学――科学の場合ならば知識社会学――が成立する**。文化社会学は科学を、専らその外部的モメントに於てしか把握しない、恰も科学方法論が、科学を専らその内部的なモメントに於てしか把握しなかったように。
* E・マッハの物理学史である Mechanik は、とも角この点では模範的である。
** Alfred Weber の文化社会学――文化社会学という名前はこの人達の専有物である――は代表的である。
さてこの科学方法論と知識社会学とは、同じ科学の内部的なモメントと外部的なモメントとの意識的反映であるにも拘らず、一向両者の統一に齎らされる気配が見えない。二つは勝手に独立した二つの科学であるようにしか見えない。
こういう事情が甚だしく誤っていることは、すでに初めから明らかだが、次のことを注意すれば夫は一層明らかになる。科学の方法というもの自身が、元来歴史的なものでなければならず、即ち又社会的存在に直接に連関したものでなければならないということ。なぜなら、科学の方法が例えばH・リッケルト等にあってのように、科学的概念構成によって特色づけられるものなら、恰もこの科学的概念の構成が科学の構成であり、成立であり、従って又科学の発展――夫が歴史的だ――であるのだから、方法は科学の歴史的発展の動力として理解されるべきではないのか。そうすれば、方法は元来歴史的なものそのものに外ならぬ。かくて科学方法論は知識社会学に結合しなければならない義務を初めから負わされていた筈ではないか。――だが現存する科学方法論と現存する知識社会学とには、事実到底このような結合を望むことは出来ない。実際そういうことは多少見当違いのことだろう。併し何故見当違いなのか。
外でもない、方法論は方法を、全く固定した事物としてしか理解せず、之を歴史的な動的発展に於て捉えようとしないし、知識社会学は知識――科学――の発展を、科学の内容(それが方法―論理―真理価値だ)の発展として理解せず、従って又科学の真に歴史的な発展として捉えようとはしないからなのである。――で吾々の課題はこうなる、科学の方法を歴史的原形質にまで掘り下げ、同時に科学の社会的(歴史的)存在を方法の核にまで追跡する。この課題はどう展開するか。
一方に於て科学方法論は、科学的諸根本概念構成のイデオロギー的制約の問題として、他方に於て知識社会学は科学に関するイデオロギー論の問題として提出し直されねばならない。見られるように、こうすれば、二つの独立に見えた理論は、誤る余地なく、統一に齎されざるを得ないだろう。――科学の内部的モメントと外部的モメントとの元来の統一は、科学をイデオロギーとして把握することによって初めて統一として理解することが出来るようになる。
自然科学に於ける根本概念の構成、方法が、どうイデオロギー的制約を受けるかを、だから吾々は見て行かねばならぬ。
自然科学は元来、社会科学などに較べれば、様々な点でイデオロギー性から縁遠いように見えるし、又そう一般には考えられているようである。自然科学の研究対象となる自然は、その内に研究者としての人間が含まれていない、それだけ自然科学は超人間的・超社会的・だと考えられる。擬人化から脱却するということが、人間の主観的に規定される感覚や主観によって夫々異る感情からの解放が、自然科学の理想と考えられる。自然科学は社会に行なわれる物の考え方――常識や通念其の他――がどう変ろうとも、又どう異っていようとも、あまり変りがないように見える。だからそれは大部分国際的な性質を有つことも出来るのである。従って亦、自然科学の発達の仕方は、社会科学の発達の仕方や、まして哲学乃至形而上学の発達の仕方とは異って、比較的に漸次的で対立的ではない、その限り革命的でないとも考えられている。
自然科学が、今云ったような様々の点で、社会科学や其の他之に近い諸科学と異っているということは、無論決して無意味な事実ではない。吾々はこの事実を見逃すことなく、正しく分析しなければならない。だが、この事実は何も、自然科学がイデオロギー性を有たないということの根拠になるのではない。元来一つの社会的所産である自然科学であるから、それがイデオロギーという一般的な範疇にぞくする一つの場合でなければならないことは、寧ろ議論の余地のない事実である。問題はただ、この――自然科学という――イデオロギーのもつイデオロギー性が、他の諸科学なるイデオロギーのもつ夫とは、その性質が又は段階が、異っているということだけなのである。
社会科学や哲学は、過去と現在との経験から云っても、頻繁にか間歇的にか、常に危機に臨んで来ている。処が自然科学には、そう云った危機が或る意味では存在しなかったとも考えられるだろう。危機と見えたものも、それが危機として爆発しない内に、新しい秩序にまで、自然的に編制替えされて了ったとも云うことが出来る。実際特に近世の諸自然科学に於ては、一つの体系が破産をしたということを聞かない、自然科学の財産は破産に先立っていつも整理が付いて来たと云っても好い。そういう意味で自然科学には本来危機などはなかったとも考えられる。
処がそれにも拘らず、現在の吾々の眼の前には、現に自然科学の一つの危機が横たわっているように見える。実際人々は之を危機と呼んでいる。物理学は一九二四年以来、極めて急速な進歩と之に従う動揺と困難とに出会ったと云われる*。物質の概念はもはや物質の概念でなくなり、因果律は物理的世界を支配する安全な法則ではなくなった、と云われる。危機というものからは縁遠い筈であった自然科学――物理学――が、かくて今日危機に臨んでいると考えられる。だが一体なぜそれは危機なのか、なぜ人々は夫を危機と呼ばねばならないのか。なぜそれが単純に理論の急変や急角度の発展として済まされずに、特に危機として意識されねばならないのか。危機という言葉は、社会生活や之に直接関係しているイデオロギーからの類推・譬喩ででもあるのか。では一体人々はなぜ、どういう動機で、そういう類推や譬喩を用いなければならないのか。ここには何かがあるのである。
* この年ド・ブロイ de Broglie の波動力学が建設された。
夫はこうだ。物理学の急激な変化や進歩と云うのは、外でもない、物理学が基く処の、最も根本的な概念が(急速であろうと徐々であろうと実は構わない)、変革されねばならないということである。物理学の体系が成り立っていた土台までが変化しなければならなくなったことが、取りも直さず物理学の急激な変化や進歩ということなのである。処が、物理学に於ける根本概念――例えば物質とか因果律とか――は、直ぐ様イデオロギーに結び付いている、それは直ちに世界観に結び付いているから。で、物理学の急激な変化や進歩は、即ちイデオロギーの変革である。そこでは従来のイデオロギーが破棄されて、何か新しいイデオロギーが登場しなければならない。人々が之まで慣れ親んで来たイデオロギーは、人間の生活の精神的な部面は、変革されねばならぬということになる。――そこで人々は之を吾が身に逼る危険として意識せざるを得ない、夫が危機でなくて何であるか。かくて物理学の危機が叫ばれることになる。物理学の変革が危機として意識されるということは、物理学が現実的に、直接にイデオロギー性を有っているということの、云わば無意識的な意識――虫の知らせ――なのである。物理学の危機とは、云うまでもなく従来の物理学にとっての危機であり、即ち従来のイデオロギーにとっての危機に外ならない。なぜ併し従来のイデオロギーにとっての危機が危機なのか、それは従来のイデオロギーを生産した胎盤である従来の社会構造が危機に臨むと考えられるからではないか。
今日、国際世界の資本主義は、日増しに危機を孕みつつある。それは対立的な矛盾物を通して、之を乗り越えて、新しい社会構造にまで蝉脱しようとしている。従って又之に並行して、イデオロギーは旧いものから新しいものにまで、離脱せねばならぬように強圧されている。イデオロギーは危機に押臨んでいるのである。物理学の変革も亦、このようなイデオロギーの危機に参与する限り、物理学の危機となる。
吾々は所謂物理学の危機に於て、物理学が――従って又一般自然科学が――如何にイデオロギー性を顕わにしているかを見ることが出来よう。
併し物理学が、どう危機に臨んでいるかをもっと具体的に見て行こう。即ち「近代物理学」が具体的にはどのような困難に直面しているかを見て行こう。そしてこの危機がどうやれば乗り越されるか、この困難がどうすれば解決されるかをも見よう。――之は同時に、物理学の――一般に又自然科学の――イデオロギー性を具体的に示すことにもなるだろう。
現在、物理学の危機と呼ばれているものは、新量子力学の出現によって呼び起こされた、物理的思想乃至世界像の急激な変革のことであるが、併しより立ち入って考えると、物理学の危機はすでに新しい相対性理論の導入と共に始まったと云って好い。ガリレイ・ニュートンの相対性原理がアインシュタインの手によって、独り空間関係に止まらず時間関係にまで拡大されたことによって(一九〇五年)、そして次に又之が一切の運動現象に就いてまで一般化されたことによって(一九一五年)、空間・時間・運動・物質乃至質量・其の他のポテンシャルの概念規定は、根本的に変革されるに至った。人々はその時、旧力学乃至旧物理学の破産をさえ口にしたものであった。近代の物理学の危機は、実はここからすでに始まっていたのである。――尤も危機の性質がいよいよ本格的に現われるようになったのは、極めて最近の新量子力学に於てであるが。
物理学に於ける根本概念が急激に変革されるに当っては、或る意味で物理学は危機に臨むと考えられる。――処でまず第一に、物理学にとって根本概念であるものは、空間乃至時間である。
空間や時間――普通人々は両者を平行させて問題にする――は、云うまでもなく物理学にとって最も基礎的な概念だろう。その証拠には、これ等の概念は、単に物理学という一つの科学の領域でだけ取り上げられる問題なのではなくて、殆んど凡ての領域的な諸科学に於て、夫々異った側面からではあるが、重大問題として取り上げられる*。様々な科学の領域に出没出来るということは、夫がこの諸科学の結合点に、即ちこの諸科学の母胎に、直接に根ざしている証拠である。即ち物理学に対して、根本的な概念である資格を要求出来る概念であることの証拠である。
* 空間乃至時間は、殆んど凡ての科学の発展過程に於て、画期的な役割を有っている。例えば哲学ではプラトン(『ティマイオス』)の「場所」の概念及び「時」の規定(この時の規定はプロティノスに伝わり、アウグスティヌスに至る)。デカルトやスピノザによる「延長」の概念、カントの「図式時間」、「時空の直観形式」の概念、近くはハイデッガーの時の概念等々。心理学ではブレンターノの「時間の様態」、形態心理学に於ける空間知覚の研究(例えば K. Bhler)。数学に於ては非ユークリッド幾何学の発見等々。――だが当然なことながら、この概念が最も画期的な仕事をしたのは、近代の物理学の内部に於てであった。
相対性理論によって、空間と時間の概念は、根本的に変革されねばならなかった。――第一にこの理論は、物理学者にとっては世界観測―記述の立脚点の相対性を教える、物理学はどのような観測者の立脚点に立とうと、同価なものとして結果しなければならない(物理学的場所――それは空間的だ――の相対性)。だから之は世界に於ける絶対的な空間点――其に基いて世界が記述される――を否定する、だから空間はそれ自身に於て相対的でなければならないということになる。――併し第二に、空間がそれ自身に於て相対的であるばかりではなく、夫は又時間との関係に於ても相対的なものとして見出される。空間は空間だけとして、時間から独立に考えられ又取り扱われることが出来ず、空間の何かの変換は、時間の何かの変換の代価の下にのみ起こることが明らかとなった。この点は重大である。今まで空間は単に空間であって、ただ物理学者の便宜の上から、物理学的記述の座標軸として時間と並べられていたに過ぎなかった。だから時間の規定――例えば同時とか前後とか時の進み(等時性)とか――が空間の規定によって変化を蒙るなどということは無論あり得ないと考えられて来た。処が今は、同時とか前後とか等時性とかいうことが、どういう空間系を採用するかによって別々に決まって来るということになったのである。――で無論之は時間それ自身の相対性(場所時 Ortzeit)をも結果しなければならない。この結果は、人々によれば従来の物理学的諸概念と矛盾する。まして世界の人間が常識的に持っている空間や時間の観念とは、完全に氷炭相容れないものだろう。人々によれば、このような諸観念は、空間や時間の観念を破壊するものでなければならぬ。之は人々が持っているこの諸観念を全く無視し、之から絶縁するものだと考えられる。そこで人々が――往々相当有力な物理学者でさえが――そういう動機から、相対性理論の非科学性を証明しようと企てた場合も決して少なくはなかったのである。――だが、こういうものを空間や時間の新しい概念として採用しなければ、物理学はそれ自身の内部的な必然的連関から云って、そして夫は即ち又物理的世界の現実在性から云って必要なのだが、動きが取れなくなるのである。之が事実である。
だがこの結果は、云うまでもなく、時間や空間それ自身が崩壊した――又は問題として取り上げられなくなった――ということではない。事実は、時間や空間の概念が根本的に変革されたというまでである。ただその変革があまりにも徹底的に見えるので、之が時間や空間それ自身の危機であるかのように、人々には見えたのである。そこで人々は、あのように、弥次馬的な騒ぎをさえ演じたのだった。
アリストテレスの古典的な表現を借りるまでもないが、凡そ事物が変化・運動・発展するということは反対物へ行くということである。そして事物の変化が反対物へ行くという現象を呈するのは、外でもない、この変化の動力が、運動の動力が、矛盾に存するからである。そういう点から説明して見ても、一切の事物の変化は矛盾によるものだと云うことが出来る。人々がこの新しい時間や空間の概念を排斥しようと企てた動機は、この概念の旧いものと新しいものとの対立を、単純に、救済され難い矛盾として意識したからに外ならぬ。だがこれが単純に矛盾の対立に止まるならば、そこには運動は成り立たない、運動の停止しかない。だから人々は旧い時間空間の概念が新しい概念にまで運動することを承認しなかったのは当然である。矛盾は運動の動力であるためには、矛盾は矛盾に止まるのではなくて却って矛盾の解消に赴かなくてはならぬ、矛盾の本質は常にそれが止揚されねばならぬ処に横たわる。こうやって矛盾的対立をなした二つのものが止揚されて初めて、前のものと後のものとが一つの推移――運動――の二つの項として統一され又区別されることが出来る。今この結果だけをその過程から抽象して取り出せば、反対という現象を呈するのである。矛盾とは矛盾を反対に引き直す処のもの、矛盾と反対との統一である。弁証法的発展とは之である。時間や空間の概念は、相対性理論によって、典型的に弁証法的発展を遂げた。――時間や空間の危機とは取りも直さずこの発展を側面から性格づけたものに外ならない。併しこの危機はすでに乗り越された。なぜなら新しい――相対的――空間・時間の概念は、旧い――絶対的な――その概念を、自分の特殊の場合として、又夫々に就いて考えられた場合として*、要するに自分のモメントの一つとして、止揚しているのだから。――時間・空間は崩壊したのではない、その概念が進歩したのである。
* 物体の速度が光速度に比して比較的零化する場合には、ニュートン式の旧力学による空間時間の関係が保たれる。
だから、相対的空間(又時間)の概念は、普通想像されるように絶対的空間(又時間)の概念と、無媒介に、機械的に、対立しているのでは決してない。この場合の空間(又時間)の相対性とは、その絶対性と相対性との統一を意味している。かかる相対性を吾々は一般に弁証法性と名づける。空間(又時間)は、であるから、今や相対性理論によって、弁証法的なものとして理解されたのである。この特色が、空間と時間との間の関係に於ても、同様に見出されねばならぬことは云うまでもない。実際、相対性理論によれば、先に云った通り、二つのものは夫々の独立に於ては理解されることが出来ず、ただ両者の統一に於てしか把握されなかった。而もここで統一される空間と時間とは云うまでもなく混同されたり合一されたりすることを許さない、時間と空間はあくまで二つの対立物として残されている、――空間と時間との間の相対性とは、両者の間の弁証法である。
空間乃至時間の弁証法的把握は、空間と時間とを統一する概念としての運動の弁証法を結果しなくてはならない。相対性理論はそして、恰もこの要求を充している。――相対性理論は元来、運動の絶対性の否定から、歴史上出発している。甲に対して乙が運動していることは、乙に対して甲が運動していることと同一でなくてはならないということがその要請なのであった。甲の運動も乙の運動もだから相対的な優先権をしか持たない。両者はいずれも相対的である。だがそれだけではない、もはや甲の運動とか乙の運動とかいう、孤立した独立の運動は意味がない、運動とは或る意味に於て甲と乙との間の運動でしかない。甲の運動と乙の運動とは、甲と乙との運動として、統一される。この統一を現わすものが座標変換系――空間(又時間)座標の変換によって、甲の運動が乙の運動にまで融通される処の体系――なのである。
運動が或る意味で甲と乙との間の運動だとは云ったが、それは併し、甲とか乙とかという運動の主体がなくなると云うのではない。そういう現象論的な純粋運動――フィヒテによって提出されマッハ主義によって物理学的となった――の概念を要求しているのではない。運動するのはあくまで甲か乙かでなければならない。ただそのどれかで是非なければならないということがない、と云うまでである。甲でなくて乙が運動していると考えられる限り、運動は甲の性質ではなくてあくまで乙の性質でなくてはならぬ。絶対運動のモメントはここに救済されている。相対運動なるものは、実は絶対運動と之に対立する相対運動との統一概念に外ならない。
このことは、運動の相対性が、特殊相対性理論に於てのように等速運動の場合を踏み越えて、一般相対性理論によって、等加速度運動乃至運動一般にまで拡張された場合、愈々明らかとなる。例えば重力による等加速度運動は、ニュートンによれば物質――物体(甲乃至乙)――の固有な性質であったが、それは甲なら甲という物体から離れることの出来ない性質と考えられる。夫が絶対運動である。処が一般相対性理論によれば、之が相対化されるというのである。――だが一般相対性理論によった処で、物質が物質でないものに変換される――消滅する――ことが出来ない限り、重力の場は変換し去られることが出来ないのだから、その意味ではこの運動はあくまでその絶対性を失わない。それにも拘らず、之は相対化される。即ち夫は空間の高度の歪みとして相対化されるのである。運動の相対性が、その絶対性を自分のモメントとして止揚していることが茲に見られないか。
かくて相対性理論によれば相対的運動とは相対運動と絶対運動との対立に於ける統一として理解される(その形式は空間乃至時間の場合と全く同じである)。運動の相対性とは運動の弁証法性のことなのである。
運動の相対性の拡張徹底したものが一般相対性理論であることを云ったが、一般相対性理論によって物質の問題が最も中心の日程に登って来る(尤もすでに特殊相対性理論に於ても、物質の質量は相対化された)。先に重力の問題が這入って来ると云ったが、重力はニュートンによれば物質の固有な性質であった。夫が物質の問題に帰着する所以である。だが問題は、物質と空間(乃至時間)との関係として展開する。
仮にニュートン風の形而上学的な考え方を仮定すれば、物質はその周囲に重力の作用をたえず発散している。近世の物理学で云えばそこには重力の場が張られている。そこで一般相対性理論は、力の場の存在を空間時間の曲率の存在と同価物と見做す。そして物質自身の存在を、更に高度に複雑に曲率を有った空間域と見做すのである。物質の存在と之に直接に基くと考えられる重力は、要するに空間(時間)の曲率と等置される。物質も重力も特殊な空間(時間)――非ユークリッド空間――に外ならない。――だからもはや、何か空間があって、その中に孤立した物質が位置を占めているのではない、同じ空間(時間)が部分々々によって異った歪みを有っているに外ならない。空間と物質とは単純に救い難いように対立しているのではなくて、曲率の変換を媒介として統一的に連関しているのである。吾々はこのように媒介された統一物を、改めて場と呼ぶ。空間と物質とは場の概念に帰着する、場は空間と物質との統一物なのである。従来人々がエーテルと呼んだ存在――それは一切の物質らしい性質を欠いた物質という矛盾そのものであった――も、かかる場の概念によって初めて積極的な意味を得ることが出来る。――場の概念は空間と物質との弁証法的統一を意味する。無論之によって、物質が物質のない虚空間にまで消滅するのではない、物質を含む実空間はあくまで虚空間ではない。場の概念は一つの実空間の概念であるが、この実空間が実は虚空間と実空間との統一物に外ならない。――空間はこの点でも亦相対性理論によって弁証法的にしか理解されない。物質は従って弁証法的なものであらざるを得なくなる*。
* 場の概念は独り重力に就いてばかりではなく、当然、一切の力に就いて成り立つ。電磁気の場に就いても吾々は同じことを繰り返すことが出来る。――処で一方力は一般にエネルギーに帰着するから物質乃至空間はエネルギーと相対的―弁証法的である。電子という物質の空間的存在は、エネルギーの電磁的存在に外ならない。
このようにして人々は、相対性理論による所謂相対性が、実は吾々の言葉によれば弁証法に外ならないことを見ただろう。物理学者が之を弁証法と呼ばなかった理由は、単に彼等が、そういう哲学的範疇を知らないか、又はそういう範疇を用いることによって如何に普遍的で統一的な観点に立つことが出来るかを知らなかった、ために過ぎない。元来所謂相対性とは決してひたすらな相対性ではない、もしそうならば物理学は相対主義に陥る外はなかったろう。処が実は物理学が相対主義に陥らないためにこそ、相対性が取り上げられたのだということを忘れてはならない。と云うのは、空間・時間・運動等々の相対性は、外でもない、物理学的法則の絶対性を成り立たせるために必要だったのである。相対性理論は元来絶対主義――客観主義――を目指している、そして而も一遍に絶対主義に立て籠って了う代りに――そうすれば一切の相対的な見方は永久に放擲される――、相対主義を採用することによって、実践的にこの目標に逼まろうとする企てである。相対主義と絶対主義とのこの(実践的・過程的)総合・統一こそ、相対性原理の精神であった。――相対性理論は全く弁証法理論である。
物理学は相対性理論によって、一定の非弁証法的――吾々は夫を形而上学的と呼ぼう――段階から、弁証法的段階に推し進められた。その際之がどういう範疇の下で事実上意識されたかは今は問題でない。物理学に於ける根本概念――就中空間・時間・物質等々――がその際危機に臨んだかのように思われたのは、形而上学的思惟から弁証法的思惟への転換の、保守的苦痛の表現でしか無かった。弁証法的思惟によればこの危機はすでに乗り越えられた。意識すると否とに拘らず、之に依らない限り、物理学のこの進歩は、進歩として理解されない筈である。
併しながら吾々はこの結論に到着しながら、この結論が既成の物理学者や哲学者の好意と賛同を得るものだとは思っていない。第一に彼等はこう云って反対するだろう。相対性理論の何よりの功績は、夫が物理学を数学化・幾何学化したことである。物理学は之によって愈々方法的となり理論的となり、精密となることが出来た。処で――そう彼等は主張する――物理学が今や夫に帰赴して行く処のこの幾何学的・数学的方法は、決して弁証法的方法ではない。それ処ではなく之こそ最も内容のある形式論理学に依るものではないか。そして形式論理学は弁証法の正反対物ではないのか、と。だが吾々の答えは簡単で明白である。弁証法的思惟――弁証法的論理――は形式的論理と対立するが、決して之を無媒介に[#「無媒介に」は底本では「無謀介に」]排斥しはしない、却って夫は形式的論理をその一つのモメントとして止揚している。ただ形式的論理の無条件な適用を排斥するに過ぎない。だから相対性理論によって物理学が数学的――形式論理学的――方法を愈々著しく活用するということは、何も夫が弁証法をそれだけ排斥することにはならない。却って実は、数学(幾何学)がこういう風に著しく活用されるということが、物理学が著しく弁証法的になることを、事実上結果するのである。形式論理学的な数学の適用は、それだけ弁証法を具体的にこそする*。――もしこういっても人々が承知しないならば、そういう人達は、科学の方法というものを、科学的研究を進歩させる動的な根本因子と見る代りに、科学の何か固定した抽象的な図式と考えているに違いない――前を見よ。
* 数学化すということは云うまでもなく量化のことであるが、科学の方法が弁証法的でなければならないと公式的に飲み込んだ余り、科学の進歩は科学の方法を質化すことによって到達されると主張する者があるとしたら、夫は全く観念的な弁証家である。物理学の現実的進歩はそのような観念と何の交渉もなく行なわれて行くだろう。それはこういう「弁証家」は方法という概念を却ってかの物理学者や哲学者と同じに、全く非弁証法的――非歴史的にしか理解していないためである。
人々はなおまだ云うだろう。相対性理論が弁証法に外ならないと云った処で、夫で相対性理論が新しく展開するのではあるまい。だから之を弁証法と名づけようが名づけまいが一向事物には変りがない。弁証法は全く形式的な無内容な言葉に過ぎないではないか、と。――吾々はこう答える。弁証法は決して単なる言葉ではない。否単なる言葉であってはならない。そして――今の場合であるなら――物理学者がこの言葉を嫌悪する限り、それは言葉以上のものにはなれないだろう。弁証法を単なる言葉に終らせるかそれ以上のものとして役立て得るかは――併し弁証法は本当は科学の研究方法として積極的に役立つ筈のものである――、物理学者がこの言葉に嫌悪を感じるか好意を感じるかに依るということに、事実上なるだろう。問題の解決の責任は物理学者自身にあるのである。――だが物理学者は夫にも拘らず何故この言葉を嫌悪するのか。何故相対性理論を弁証法として性格づけては悪いか。少なくともこう性格づけなければ、物理学はその歴史的発展に於て、又其の他の諸科学との連関に於て、決して統一的に普遍的に把握されないにも拘らず。併し科学者の背後には必ず哲学者が潜んでいる。優れた物理学者の背後には大抵拙劣な哲学者が匿れている。科学者や理論家は、こと哲学的範疇の使用となれば、いつもの統一と厳正との肩の凝りを下す習慣である。そこで彼等は全く悠々と併し途方に暮れて了う。そしてこういう気分に丁度相応したものが、多少与し易い限りの観念論的哲学である。
あり振れた観念論によれば、相対性理論は物理学的世界を幾何学化す。それは即ち物質を空間化すことである。物質はかくて消滅する、だから唯物論の根拠そのものが消滅する。相対性理論は観念論の勝利である。――こういう単純で皮相な推理は全く愚である。吾々は云った、相対性理論によって物質は弁証法化した。物質が消滅したのではなかった。物質が消滅しない限り、彼等に従えば、唯物論は消滅しないということになるわけである。それに、弁証法が観念論に正当には結び付き得ないものだということは、ヘーゲル弁証法の批判を茲に適用すれば充分だろう。
併し物質の危機――唯物論の危機・観念論の名誉――のため、「近代物理学」はもう一つの証拠を加えたように見える。――相対性理論の問題と並んで、そして無論之と密接に結合して、原子構造の問題が従来から物理学者の関心の中心をなしている。ボールの原子構造のモデル――夫によれば原子は原子核を焦点として電子が回転する処の小宇宙的太陽系である――によって、この問題は一応落ち付いたように見える。之はプランクの熱力学に於けるエネルギー量子の説に対応する。処で物質は、相対性理論によればエネルギーと等値物であった。だからエネルギー量子の思想は当然に物質の量子の思想を支持することになるわけである。元来、原子とか電子とかいう最後の不可分の物質―― Atom とは之を意味する言葉である――を仮定することは、物質に就いての量子論的思想に帰着すると云って好い。処が問題は、同じく相対性理論によれば物質とは他方力の場にまで止揚されるべきものであった。そして場は元来、連続的なものでなければならないということである。で今や物質は一方に於て量子的――不連続的――性質を有ち、又他方では連続的な性質を有たねばならぬ、という矛盾に陥るのである。――吾々はこの矛盾を解くことの出来るような、より一般的な新しい量子論を必要とすることになる。
矛盾の解決の鍵は光の理論に関係して見出される。物質は古来(例えば原子説に於てのように)粒子説によって理解された。之に反して光は(ホイヘンスの理論によって)波動説によって説明されねばならぬということに落ち付いたように見える(之に先立ってニュートンは光の粒子説を採った)。前者は云わば不連続観に立ち後者は連続観に立っている。――処がアインシュタイン(乃至プランク)によって、この光(エネルギー)も亦光量子(エネルギー量子)を持つことが証明された。だからここでは光――夫は連続的であるべき波動である――は、何か不連続的なものでなくてはならない。光の理論に於けるこの矛盾を解くためには、そこで不連続的な波動という概念を導き入れる外はない。この新しい波動の概念によって、連続性と不連続性との矛盾は解消する。――さてそうならば、物質の概念に於て先程見た、かの連続性と不連続性との矛盾も、物質を一つの今云った新しい意味での波動現象と見做すことによって、解消されるわけである。で、ド・ブロイ(de Broglie)やシュレーディンガー(Schrdinger)は、その新しい波動力学に於て、物質を物質波だと考える*。実際物質波は、丁度光の波動と同様な殆んど凡ゆる諸性質を備えていることが、実験上たしかめられつつある。之が、新しい量子理論の取るべき形態だったのである。
* ド・ブロイの画期的な仮説によれば、物質の固有エネルギーは、波動現象を成り立たせる振動のエネルギー要素と等値物である。かくて物質と波動現象とが等置される。――物質波は超光速度を持つ波動現象で、物体のもつ力学的な速度はこの物質波に於ける群速度に相当する(A. Haas, Materiewellen und Quantenmechanik, 3 Aufl., S. 24)。なおオリジナルなテキストとしては、L. de Broglie, Einfhrung in die Wellenmechanik(独訳), 1929; E. Schrdinger, Abhandlungen zur Wellenmechanik, 1927. を見よ。
今や物質は、何か実体的な存在ではなくて、振動から成り立っている波動というような、何か実体から遊離した一関係であるかのようである。物質は例えば水自身ではなくて、水の表面に生じる一関係に外ならぬ波に過ぎなくなったかのようである。――だが、物質がその影を薄くされて行くのは、この程度に止まっているのではない。物質の概念はもっと抽象化される――新量子理論――それが所謂「近代物理学」乃至「新物理学」の内容である――は、ハイゼンベルク(Heisenberg)やボルン(Born)、ディラック(Dirac)等によって、更に高度の展開を与えられた。就中若いハイゼンベルクによれば、物質波が更に確率の波に外ならぬと考えられる。――物質が存在するということは物理学にとっては、それが測定され得るということであるが、測定するには光が必要であった(相対性理論も茲から出発した)。処で例えば極めて小さい物質である自由電子の存在に就いて云えば、その存在の位置を明白に測定するためには、相当強い光を之に当てねばならぬ。併し相当強い光は電子に対しては相当大きな運動量を付与するので、夫は電子自身がその時持っていた運動量をすでに変えて了う。だからこの際には電子の存在の状態――運動の状態、即ち運動量――の測定はそれだけ不正確になる。逆に又電子の運動量を比較的変化せしめない程度に弱い光を当てて運動量を測定しようとすれば、電子の存在の位置はそれだけ不明確にしか見ることが出来ない。かくて物質が持つ運動量の測定と位置の測定とは、統一的に連関しており、一方の正確さを犠牲にしなければ他方の正確を期することが出来なく出来ている*。ハイゼンベルクはこの不定関係を不確定性の原理と呼んでいる。――さてそこで、物質の存在に就いてはだから、或る一定の範囲の内の何処かに物質があるということは云えても、どの点に確定的に存在するかということは、今の原理から、終局的には常に決定出来ないことである。物質が存在する可能性のある範囲は、多少狭く限界されることは出来ても、その範囲内のどの点になければならぬかは決定出来ない。だからある一定の点に物質が存在するということは、実は、現実にその点に存在するということではなくて、その点に存在する公算・確率があるということに外ならない。物質の存在は常に確率的なものにしか過ぎない。――処が物質波の思想によれば、物質の存在とは単にそこに物質波なるものの間歇的な振動が起きるということに過ぎなかった。そういう frequency が物質の本質である。ハイゼンベルクがそこで、かかる frequency を確率の波として云い表わしたのは寧ろ当然であった。――物質は今や確率波である。物質とは確率だ、ということになった(こうなればボールの原子構造のモデルはおのずから無益になって了うものである)。
* 電子の存在の測定に於て運動量(I)と位置(L)とは次のような統一をなしている、I.L〜h。但し〜はダイメンションを同じくすること、hはプランクの常数。――この関係は又次のように云い表わしてもよい、Z.E〜h。但しZは時間、Eはエネルギー(II. Winter, La physique indeterministe, Revue de Mtaphysique et de Morale, 1929 参照)。なお又オリジナルなテキストは W. Heisenberg, Die physikalischen Prinzipien der Quantentheorie, 1930.
物質は今や一つの波動であり又遂には単に確率である。物質の物質らしい特色は何処へ行ったか。物質は危機に際会しているばかりではない、夫はすでに消滅したのである。物質は消滅した、唯物論の不幸と観念論の名誉とのために*。併し果してそうか。* 有名な天文学者エディントンによれば物質とは実在ではなくて象徴に外ならない(A. S. Eddington, The Nature of physical World)。ラッセルによれば電子とは点でもなく塊でもなく洞ろな塊でもない、一つの法則に過ぎない(B. Russell, Analysis of Matter)。其の他其の他。人々はかくて新物理学をして理想主義の世界観の正しいことを証明させようとする。
石原純博士も亦「近代自然科学の超唯物的傾向」(『思想』一〇〇号)に於て、同じ目的の下に、近代自然科学に対する唯物論的解釈を排撃することに力めている。併し博士がそこで提出した様々な材料は実は、そのままマルクス主義(弁証法的唯物論)に有利なものであった。ただ博士は、弁証法的な唯物論によって広範に大衆的に用いられている諸範疇を、無視し又は誤解したために、この材料を超唯物的傾向に有利なものとして言い表わさねばならなかったに過ぎない。
これ等の思想家――物理学的観念論者――に対する纏った批判はL・ルダスの”Die Materie ist verschwunden?“(Unter dem Banner des Marxismus, 1929)である。
これ等の思想家――物理学的観念論者――に対する纏った批判はL・ルダスの”Die Materie ist verschwunden?“(Unter dem Banner des Marxismus, 1929)である。
だが物質はどこでも消滅などしてはいない。電子や原子核――それは物質自身である――が無くなったということを吾々は何処にも聞かない。では物質自身は無くならないまでも、物質の概念が無くなったのであるか。併し現にそう云っている物理学者自身が、物質という概念を捨てていないではないか。物質自身でもなければ物質の概念でもないとしたら、一体何が消滅したのであるか。――消滅したものは、従来の物質の概念に過ぎない、ただ夫だけである。従来の物質の概念が消滅して、新しいもはや物質という概念ではない概念――例えばエーテルとか場とかエネルギー・波動・確率等々――が之に代ったように見えるまでである。処が之等の諸概念も新しく把握され替えなければ、従来の物質の概念の代用物にはならぬ。即ち夫は物質の概念にまで把握され替えられねばならぬのである。だから、物質という概念が他の概念に還元されて了うのではなくて、却って他の諸概念が物質概念として、造り替えられたのである。――物理学的な物質概念は新物理学に於ても亦決して消滅していない*。例えばだから、そこから吾々は、プランクの「実在論」――其を吾々の範疇[#「範疇」は底本では「疇範」]に翻訳すれば唯物論となる――が出て来なければならなかった理由を見ることが出来る**。
* 仮に物理学に於て物質概念が不用になり消滅して了っても、それだけで何も観念論の勝利などにはならぬ。物理学的物質が消滅しても哲学的物質はまだ消滅しない。そして又、物理学的物質が消滅しなくても、観念論は何としてでも成り立つことが出来たではないか。
** M. Planck, Das Weltbild der neuen Physik, 1930(之は新物理学に就いての最も優れた通俗講演である)、及び同じく Positivismus und reale Aussenwelt, 1931 を見よ。尤もプランクは近来著しく後退したが。
新物理学に於て、物質が消滅したと考えられたのは、実は物質が消滅したのではなくて、ここでも再び、物質が弁証法的に理解されるに至ったということに外ならない。――物質が波動に帰着したということは、物質が光から独立には把握され得ないということ、物質は孤立して固定した対象ではなくて、他の対象――例えば光がそれである――との連関に於てしか存在しないものだということの、一つの実証に外ならない。物質が確率だということは、存在――それが物質である――が単純に――機械論的に――決定論的なものでないということを告げているものなのである(次を見よ)。――元来量子理論全体の新しい展開それ自身が、存在の量に於ける、連続と不連続との弁証法的統一から動機づけられていた、吾々はすでに夫を見ておいた筈である。
だが観念論が新物理学の成果を利用して唯物論――実はマルクス主義――に備えようとする材料は、物質の問題の内にだけあるのではない。吾々は今まで、物理学に於ける諸根本概念として、空間・時間・運動を経て物質にまで来たのだったが、今度は、それが因果律の問題に這入って来る。物理学的観念論が今日目を付けているのも亦この問題である。
因果律は普通、必然性に帰着すると考えられている、それは決定論の原理だと考えられている。処が先に云った不確定性の原理によれば、存在は終局に於ては不決定のまま残されねばならぬこととなる。だからこの原理によれば、物理学的世界では結局必然性の代りに偶然性が、因果律の代りに蓋然律――確率に基く集団法則――が、支配するということになる。――普通決定論と呼ばれるものは、無限な事物乃至事件の個々の一つ一つが、前後関係から云って、次々に必然的に――原因結果の形をとって――決定されて行くと考えることを指す。処が例の不確定性の原理に従えば、例えば一つの自由電子が今A点にあると仮定しても、次の瞬間にそれがどの方向に向かって進んで行くかは正確には決定することが出来ない、元来がA点に於ける電子の存在自身が或る意味で一つのプロバビリティーに過ぎないのだから、之は寧ろ当然である。電子が存在する独立した個々の位置は、そのものとしては確定出来ず、個々の位置の集合した一つの集団現象として初めて電子の存在は確定出来る。だから個々の場合々々の電子は全く偶然に、因果律に束縛されることなく、云わば全く自由に行動することが出来る、ということになる。
因果律の否定、決定論の放擲、自由の導入、之こそ誠に物理学の危機であるように見える。――観念論的物理学者の或る者は、物理学自身の危機をも顧みず、却って之を善いことにして、之によって神の存在の証明を企てようなどとさえする(A・S・エディントン)。――だが因果律は本当に否定されるのであるか。実は人々は茲で、因果とか必然・偶然とか――自由に就いては無論のこと――或いは又之に連関して法則性等々に就いて、甚だ蕪雑な概念をしか持っていないのである。だから物理学者の間でも、この問題に対する解答は甚だしい不統一と混乱とを呈している*。
* ハイゼンベルクは因果律を否定する。シュレーディンガーは之に追随しようとする。之に対してプランクは因果律がなお依然として物理学にとって欠くべからざるものだと主張する。後の両者の論争に就いては A. Maximow, Max Planck und sein Kampf gegen den physikalischen Idealismus.(Unter dem Banner des Marxismus, . 2)を見よ。――なお M. Planck, Der Kausalbegriff in der Physik, 1932; H. Bergmann, Der Kampf um das Kausalittsgesetz in der jngsten Physik, 1929 を参照。
人々の所謂決定論に於ける因果とか必然性・偶然性其の他は、凡て機械的決定論に於ける夫であることを注意せねばならぬ。実際人々によれば、決定論という言葉は機械論という言葉と同じ内容を有つものと思われている。これ等の概念は尽く機械論――夫を形而上学と呼んでも好いが――の範疇に基いている。一切の困難は――危機は――実はそこに孕まれているのである。機械論的な決定論の何よりの特色は、夫が孤立した個々の事件なり事物なりを想定してかかっているという点にあった。処が不確定性の原理によれば、物理学の世界では例えば個々の電子の個々の場合々々というようなものは、問題になることが出来なかった。だからなる程之は、機械論的決定論の完全な破壊に導く外はなかった。だが決定論は機械論的決定論であるとは限らない。否、決定論は機械論であってはならない。
所謂決定論――機械論――によれば、一切のものは尽く同じ意味で必然的である、そこでは何等の意味ででも偶然性はない、偶然と考えられるものは単に、必然性に就いて認識が不足している場合に過ぎない。必然的なものとして認識されない内は偶然と考えられることもあろう、併し本来存在は尽く必然的なのである。存在それ自身は常に必然である、偶然性はただ存在の認識の側に於てしか成り立たない。――こうやって必然性と偶然性は取り持つ端もなく機械的に対峙して了う。偶然とは要するに誤謬に過ぎない、ということになる。――だが一体人々が事物に就いて、偶然的な規定と必然的な規定とを区別することは、誤謬に基く筈のものなのであるか。然るに実際には、必然的なものと偶然的なもの、言葉を替えて云えば、本質的なものと非本質的なもの、とを区別しないことこそ由々しい誤謬ではないのか。
例えば一切の歴史的現象は必ずしも必然的ではない、クレオパトラの鼻の高さはローマの歴史にとっては偶然的なものでしかなかっただろう。それにも拘らずクレオパトラの伝記にとっては、それは美貌のために必然的な要素でなければならない。偶然とか必然とかの区別は、一切の事物をその個々の場合々々の粒子が並列している処の、何か一枚きりの種紙の平面の上では、与えられることは出来ず又与えられてはならない。二つのものの区別関係は、常に立体的な諸段階のどこか一つを介して初めて与えられる。一つの事物例えば机に就いて云えば、それが木で出来ているか鉄で出来ているかは全く偶然であり、之に反して夫が平らであるかないかは本質的・性格的・即ち必然的なことなのである。処が材木という点から云えばこの机が平であるか無いかは偶然で、それが木であるか無いかが必然的なこととなる。机と材木とは無論同列に並んだ存在ではなくて、存在の二つの段階に相当している。偶然と必然とは平面的に区別されるのではなく立体的に区別される。必然は、偶然と単純に対立するのではなくて、寧ろ偶然の一部分・一面・本質として、之に対立する。或る框を設定すれば、この框は必然性の框であって、その内部では偶然性が支配する。この必然性の框はいくらでも小さく考えられて好いのであるが、併し、もはやそれ以上分割出来ないような、原子的に孤立した個々の単位と考えられてならない。夫は集団をつつむ処の框だと云っても好い。存在は云わば必然性の粒子の集合ではなくて、集団を包む必然性の框の層の堆積だと云って好い。この框の層を充すものが偶然的なものなのである。偶然的なものと必然的なものとは無媒介に固定した機械的・形而上学的・対立をなすのではない、偶然的なものは――理論の実践に於て――必然的なものにまで転化するのである。
所謂決定論は存在を、機械的な個々の場合々々の集合と想定するから、そういう集合を成り立たせると想像される一枚の種紙の上で、必然性と偶然性とがもはや動きが取れないように対立せしめられる。その場合、偶然的なものが必然的になるというのは、専ら存在の認識の範囲に就いてだけ云える事で、存在自身が何も与り知らないことなのであるから。必然性と偶然性とは機械論的――形而上学的に――対立する。今日こういう機械論は、新物理学の根本的な成果――不確定性の原理――と相容れない。だから新物理学は、人々に、機械論的決定論を、従って又機械論的必然性と偶然性とを、擲つことを強制する。要するに夫は機械論の放擲を命じているのである。で吾々は機械論に代るものとして、之に対立する弁証法を、機械論的決定論に代るものとして弁証法的決定論を、機械論的必然性と偶然性との代りに、弁証法的な必然性と偶然性とを、是非とも採用しなければならなくなる。新物理学の事実の圧力がそう命じるのである。
弁証法的に理解された必然性と偶然性こそ、本当の必然性と偶然性である。そしてそういう必然性と偶然性だけが実質的に連関統一に齎されることが出来る。――では、必然性と偶然性との統一は何か。夫が弁証法的に理解された因果律なのである。
必然も偶然も、今や因果的なものとして初めて意味を持つことが出来る。因果的とは単に必然的であって偶然的でないことではない、夫は、因果的必然と因果的偶然との対立の統一物でなくてはならぬ。――さてそこでもはや云うまでもなく明らかである、新物理学の不確定性の原理によって崩壊したものは、因果律自身ではなくて、機械的因果の概念に過ぎない。このことは却って、本当の因果律――弁証法的因果の概念によって理解されるべき因果律――を、初めて明るみに出すことが出来るものなのである*。
* 因果律の概念の分析に就いては、エンゲルスやレーニンの労作がこの場合古典的な価値を有つ。なお L. Rudas, Mechanistische und dialektische Theorie der Kausalitt(Unter dem Banner des Marxismus, 1929)参照。
因果律に直接結び付いているのは、確率の問題である。
機械的な因果の概念によれば、因果性は必然性と一つであるので、之の否定、即ち因果必然的に真理であることの否定は、必ずしも因果必然的には真理でないこと、即ち確率に外ならない。因果は確率と、単純に排他的に固定化されて対立する。実際、機械論的因果の概念によれば、因果は専ら事物乃至事件が個々のものとして取り扱われ得る時の関係であり、之に反して確率は、恐らく人間の認識の不足からして個々のものとしては知ることが出来ず、ただ集団現象としてしか知ることの出来ない場合に適用される、と考えられる。
処が新物理学の成果によれば、物質の存在は、単に吾々が個々の孤立した物体の各瞬間毎の存在に就いて知らない間だけ確率的なのではなくて、永久に常に確率の範囲を抜け出せないのである。何故なら、吾々の認識の客観的手段自身から云って、不確定性の原理によれば、物質の存在は確率的である外はないのであるが、この手段は又客観的な物理学的世界に於ける一事実に外ならないからである。確率は主観の無知から結果するのではなくて、客観の具体的関係そのものに属する性質だと云うのである。存在が集団現象と考えられるということも、吾々が個々の現象を知ることが出来ないからではなくて、そういう個々の現象なるものは実は――特定の抽象を条件とする場合は別として――充分な具体性に於ては、無いのだということに外ならない。
そして確率のこの客観性は、今日の確率論の基礎的理論の方向と能く一致している。元来確率論を多少とも理論的・哲学的に反省した最初の人はラプラスであったが、彼によれば確率とは知と無知との中間に発生するものであった。神ならぬ人間が、個々の事物の一々の場合を尽く事実上知り悉し得ない時、未知のものは大体同等であり得るものだと想像するのが一等公平であろう*。この無知から来る処の場合々々の同等可能性(Gleichmglichkeit)が確率の本質である、というのである。之は確率に就いての主観的――心理主義的――解釈であるが、この古典的理論に対して、其の後の研究は批判の鋒を向けて来ている**。最近ミーゼスはこの同等可能性を、場合々々がもつ無規則性(Regellosigkeit)――及び反覆される場合が無限であること――として規定した***。之は無論、主観が場合々々を無規則的なものと想定するのではなくて、場合々々自身が、本来無規則的であることを云い表わしている。確率は客観的でなければならない。
* Laplace, Essai Philosophique sur les Probabilits.確率は主観の無知に原因しているから、全能なる主観――ラプラスの霊 Intelligence ――にとっては確率はどこの世界にも無い。
** J. von Kries(Die Prinzipien der Wahrscheinlichkeitsrechnung)は客観主義を取り、C. Stumpf(ber den Begriff der mathematischen Wahrscheinlichkeit)は再び古典的な主観説を採用した。
*** R. von Mises, ber kausale und statistische Gesetzmssigkeit in der Physik(Die Naturwissenschaften, 1930, ※[#ローマ数字18、36-下-12], 7.)――之は後の吾々の叙述のための参考にもなる――、及び同じく”Wahrscheinlichkeit, Statistik und Wahrheit“を見よ。
機械論的な因果の概念が、こういう確率の概念と矛盾し、之を理解することが出来ないことは、偶然性に就いての場合と全く同じである。併し之に対応して、機械的な確率の概念――夫は因果と機械的に対立した――さえが、今述べた確率の概念と食い違っていて、之を正当に理解することが出来ない。物理学や数学の教える結果に従えば、確率は客観に由来する、処が機械論の教える処に従えば確率とは主観の所産である。――人々は今や、機械論的な確率の概念が如何に科学の進歩に立ち後れたものであるかを知っただろう。
確率は機械論的に理解されてはならない、云い換えれば、夫は、因果と機械的に対立した固定物と考えられてはならない。因果はすでに本当は、必然と偶然との弁証法的統一であったが、この偶然なるものに於ける因果こそが確率に外ならない。因果的なものは確率的なものの部分・一面・本質である。もしそうでなかったら、統計的法則(次を見よ)――夫は確率に基く――などはあり得ようがない。確率は因果と弁証法的に統一されていなければならない。そしてこの弁証法的統一物は法則の概念である。所謂力学的法則と統計的法則とはだから、矛盾的対立に終るものでもなければ又単に並存するものでもない。それは弁証法的法則に於て統一されてなければならないのである。――さて近代の物理学が以上のように命じるのであり、又たといそう命じられなくても、事実は元来そうなければならない筈だったのである。だから逆に、物理学の進歩に際して、却って吾々がそう命じることも出来るだろう。
統計の概念も、統計的法則の概念も、だからこの弁証法的な確率の概念に準じて考え直されなければならぬ。之は他日の問題としようと思うが、少なくとも注意すべきは、物理学に於ける所謂統計的法則は、法則発見の主観的な仕方が統計的なのではなくて、発見された法則――夫は存在自身の本質である――自身が客観的に統計的・確率的な性質を持っているということである。この点で、物理学に於ける統計的法則は、社会科学に於ける大量観察の結果としての統計的法則とは同じでない*。統計乃至確率は、因果と共に、存在自身――夫は弁証法的なのであるが――の一つのモメントをなしている。そこで例えば、クルノーの確率主義(Probabilisme)は一定の重大な意味を持って来なければならぬだろう**。
* 例えば景気変動理論は統計的法則に基くもののようであるが、こういう実証主義的法則は無論少しも弁証法的法則ではない。それは社会の云わば力学的法則と呼ばれるべきもの――但しかの実証的な社会動学に於ける法則のことではない――と何の連関にも立つことが出来ない。それはだから実は統計的法則でさえないのである。
** A. Cournot, Essai sur les fondements de nos connaissance et sur les caractres de la critique philosophique, 1851.なお Mentr, Cournot et la renaissance du probabilisme au ※[#ローマ数字19、37-下-11]e sicle, 1905 を見よ。
かくて近代物理学の最大の危機、因果律の崩壊、と喧伝されるものの本質が、今や明らかとなっただろう。因果律は崩壊したのではない、実は機械論的な因果の概念が崩壊したのである。因果律はそれ自身の歴史的な発展――そして夫が又論理的な発展を相応せしめることを注意せよ――によって、機械論(乃至所謂決定論)の範疇を押し除け、弁証法的範疇の使用を已むなくする。物理学のこの進歩の仕方が、人々の眼には危機として反映する。何故か。人々が機械論を固執して弁証法を承認しようと欲しないからである。単にそれだけなのである。
吾々は近代物理学に於ける諸根本概念を捉え、それが行き当りつつある困難、臨みつつある危機を点検した。それによれば、困難や危機は機械論――形而上学――に止まる限り、困難であり危機であることを免れない。之に反して、一度弁証法的範疇に立つならば、困難は解かれ危機は救われる、困難や危機は進歩発展の要素にまで転化する、のを見た。近代物理学の進歩は吾々に弁証法的範疇を使用することを、意識するとしないとに拘らず、強制しつつある。同時に又、吾々は弁証法的範疇を使用することによって、近代物理学を進歩させることが出来ることになるわけである。弁証法のみが、理論の要点を指摘し、問題の解決方法を示唆し、科学の展開を予見することが出来るからである。
(生物学に就いても亦、弁証法が如何に必要であり又役立つかを明らかにすることが出来る。すでに之に触れた場合があったから、今は省こう*。同じことは数学に於ける形式主義と直観主義との対立に就いても具体化されることが出来るだろうと想像する。併し之は他の機会に譲らねばならない。)
* 拙稿「生物学論」(岩波講座『生物学』の内)〔本巻収録〕を見よ。
吾々は物理学――一般に自然科学――の諸根本概念を、弁証法に帰着せしめた。弁証法は併し正しく云えば唯物弁証法でしかあり得ない。それはマルクス主義である。そしてマルクス主義は社会機構に於ける上部構造であり、又夫を自覚しているという意味で、優れて一つのイデオロギーである。自然科学の論理的構造に関する、云わば内部的な根本概念の規定は、だから今や、その社会的(歴史的)存在に関わる云わば外部的なイデオロギーにまで連絡する。自然科学の根本規定は、社会生活の規定と、一続きに連絡している。だから自然科学の理論――夫を展開する要素が根本概念と呼ばれる――は常にイデオロギーによって裏づけられている。そこでは、自然科学そのものの成果と、夫に対する哲学的解釈とは、単純に分離出来なく出来ている。二つのものの間の区別がないのではないが、之を機械的に区別して了うことは出来ない。ここでは科学と世界観とが、又しても弁証法的に結合している。
処で今、自然科学に従事する人間、自然科学者を考えて見ると、彼は――恐らく自然科学の研究を手段として――一般的な社会生活を営んでいることを注意しなければならない。そして彼等は多分自分の専門以外の領域では(例えば経済生活や政治生活、道徳や文芸や哲学)、多くは素人に止まっているだろう。処がイデオロギー・世界観なるものは、相手が素人であろうと専門家であろうと容赦はしない。だから自然科学者が全くの素人であるような例えば政治の世界に於て、非科学的に承認された世界観・イデオロギーはいつの間にかそのままその自然科学者の専門の領域に対しても作用を及ぼすことになる。であるから自然科学の専門家と雖も、自然科学の根柢に就いては、往々半ばは素人であることを忘れてはならない。どれ程優れた専門家であっても、こと一度哲学――世界観の理論的になったものが夫である――に関するならば、少しも信用するに足りないのである。――多くの優れた物理学者達が、近代物理学の所謂危機から、他愛もない観念論や神秘学をさえ引き出したということは、少しも驚くに足りないことであると共に、又少しも権威あるものとして通用するに値いしない事柄なのである。
多分多くの学者は考えるだろう。マルクス主義は共産主義である、夫は「危険思想」である、それは「国民道徳」に反する、処がそのマルクス主義の唯物弁証法が吾が物理学の根柢にあろうとは。マルクス主義者は物理学を知らない、知らない物理学に就いて生意気にも弁証法があるとかないとかを口にしている。――今この物理学者を支配しているものは、マルクス主義又はマルクス主義者への政治的反動意識であるか、それとも個人的な反感であろう。そして個人的反感は要するに政治的な反動意識に由来する。そして遺憾ながら之が彼のイデオロギーを決定するのが事実である。だからこそ近代物理学は「超唯物的傾向」を現わしたり、「理想主義史観」を結果したりすることになるわけである。――こういう結果をこの物理学者に許すものは勿論、マルクス主義的範疇に対する無知と誤解とに過ぎないのであるが。――自然科学のイデオロギー性は、こう云った微細構造を有つのである。
物理学――一般に自然科学――が用いる諸根本概念は終局に於て哲学的範疇に立脚している。哲学的範疇こそはイデオロギーの、世界観の、理論的なそして又論理的な組織である。この哲学的範疇は無論どれこれという特殊の科学に限って用いられるのではなくて、普遍的な用途を持っているのだから、之に基く自然科学的諸根本概念も亦その限り、必ずしも自然科学にだけ専用される独特なものだとは限らない。それ故例えば経済学の根本概念は物理学の根本概念と、直接に照応し、之とイデオロギー的交流を有つことが出来る。そのような場合、経済学が有つ著しいイデオロギー性――政治性――は、そのまま物理学のイデオロギー性として反射することも出来るのである*。理論物理学はこうやって、時には言葉通りに反動的である場合が出て来るわけである。実際そういう例を吾々は今まで、いくつも指摘して来た。
* L・ルダスは物理学の諸根本概念を批判することによって、まことに鮮かに、ブハーリンの経済学を批判した。L. Rudas, ber einige Grundbegriffe der Mechanik und Dialektik.(Kritik der Bucharinschen Gesellschaftslehre)(Unter dem Banner des Marxismus, 1930)がそれである。
かくて、自然科学の内部的なモメント――その論理的・方法的構造・根本概念――は、それの外部的モメント――自然科学の歴史的社会的存在――と、イデオロギーの存在を媒介として、初めて統一的に結合することが出来る。近代物理学――一般に自然科学――の危機と呼ばれるものは、実はブルジョア・イデオロギー(機械論・形而上学)の危機に外ならない。そしてこの――元来欠陥に充ちた――イデオロギーの崩壊が何かの危機として意識されねばならないのは、資本主義の崩壊過程を社会自身の危機として意識するからなのである。資本主義の崩壊過程が社会そのものの進歩であると意識される限り、近代物理学には何の危機もない、在るものはただ、物理学の飛躍的な進歩だけである。これが近代物理学の危機なるものの本質なのである。資本主義のいきづまりが愈々増々顕著になって来たこの三四年来、物理学の危機が特別に喧伝されるということは、だから決して偶然ではない*。
* エム・ミーチン「討論総決算に伴う哲学戦線上の当面の活動任務」――一九三一年、アー・マキシモフ「レーニンと帝国主義時代の自然科学の危機」(『マルクス主義の旗の下に』改巻一・二号)参照。
最後に、吾々が述べて来た処が、要するに自然弁証法の一問題に帰着することを注意しよう。だがこの問題は改めて取り上げられる必要がある。
付記 吾々の分析が大体ルダスの水準を大して抜け出ていないことを吾々は認めなければならない。尤もルダスがデボーリン一派の哲学幹部として、ソヴェート同盟の内部で批判されたというようなことは、今の場合、直接に関係のあることではない。
[#改段]意識の進歩は決してなだらかな漸進をするものではない、それは処々に結節点を持つ線の上を歩んで行く。この結節点では旧意識の行きづまりか、又は新意識の勃興かが、見出される。どうして進歩の線はこのような結節点を持つか、その原因は今茲で述べるまでもない。少なくともそういうのが事実である。旧意識の行きづまりや新意識の勃興は、必ず常に、世界観に対する目立たしい努力と結合して吾々に現われて来る。云い換えればそこでは最も古典的な意味での形而上学――近世風の意味に於ける夫ではない――の建設の努力が人々の問題となって来るのである。今日ヘーゲルが問題となるということ、ヘーゲル・ルネサンスとかヘーゲル批判とかいう、これは意識の歴史の必然的な結節点に、而も最も重大な結節点に、今日の吾々が立っていることの一つの証明なのである。
さて、ヘーゲルを自然哲学との関係に於て取り上げようとすると、そこで、問題は二つである。第一は、吾々が自然哲学という概念を予めどういうものとして持つべきであるか。第二は、その自然哲学に対してヘーゲルの哲学はどういう意味を有つか。
ルネサンス以来、自然科学――それは最近に至るまで自然哲学から区別されなかった――は加速度を以て進歩した。現在に於けるそれの進歩の仕方は言葉通りに全く革命的であるが、十八世紀の終から十九世紀にかけてのその進歩の仕方も亦至極著しいものがあった。自然科学は一切の学問を代表し、之に取って代ろうとした、実証主義・科学主義の根本動機は茲に横たわる。そればかりではない、自然科学の精神は、文芸の領域に於てさえ、浪漫派に代る自然主義を植えつけた(当時自然哲学は主として浪漫主義の色彩を有っていたから――シェリングの自然哲学を見よ――、文芸上の浪漫主義と自然主義のこの対立は、自然論に於ける自然哲学と自然科学との対立に対応するものであった)。自然科学に対する世界のこの信頼はとりも直さず、自然哲学なるものに対する世界の不信任となって現われざるを得なかった。
自然哲学というこの云わばタレス以来の哲学的遺産はそこで、哲学それ自身と自然科学とから、挾み打ちにされる運命に置かれることになった。自然科学者にとっては、自然哲学などは哲学者の空想的な自然解釈に過ぎず、仮に自然哲学というものが成り立つことが出来たとするならば、夫は取りも直さず自然科学自身の単純な延長か拡大に外ならないと考えられた。オストヴァルトの『自然哲学』などが後の場合の例であり、ヘッケルの有名な『世界の謎』もこの種類に数えられて好い。又、哲学が意識の学でなければならぬとすれば、正しい意味に於ける自然の哲学はあり得ないと考えられる、そこに可能なものは自然の科学でしかないことになるだろう(ベルグソンを見よ)。哲学がもし又価値の学であるならば、即ち普通云う意味での存在の学であってはならないならば、云うまでもなく、夫は自然などという存在の哲学であってもならない筈である。実際、西南学派の哲学の概念は、自然哲学としての資格を進んで放擲した処にその重大な特色を有っている。
西南学派の方法論的哲学方向は、哲学自身の独立性をば、自然科学の蚕食的な進出から防御しようとする努力から動機づけられたと云わねばならないが、自然科学に対するこの遠慮は、哲学の領域から自然哲学の成立の余地を除くことを余儀なくさせたことは尤もであった。――処が併しこの新カント学派は、カントに於ける批判と形而上学との錯綜の歴史的事実を説明するに際して、何よりも困難を感ぜざるを得なかった。カント自身の哲学精神が哲学を批判に止めることにはなくて、却って批判を通して哲学を――未来の――形而上学にまで到達させることにあったのが、ありのままの史実とすれば、カント自身に於ては少なくとも、自然哲学――自然の形而上学――というものが事実上成り立っていたし、また成り立たねばならない筈であった。ルネサンス以来啓蒙期に至るまでの大陸の形而上学――夫が主に自然哲学であった――を破棄せねばならぬ筈の哲学は、まだ、自然又は自然哲学なるものを思い切って破棄するには多くの抵抗を感ぜざるを得ない。自然科学にとっては、一見自然哲学が何の役にも立ちそうに見えないので、たとえそこで自然哲学が何も問題にならずに済んだにしても、哲学自身にとっては、夫が最も反自然哲学的な哲学――批判主義――である場合でさえ、依然として自然哲学という概念は片づいた問題ではないのである。
広義の現象学とか特定の意味に於ける実証主義とかは、処で、「自然の存在論」とか「自然哲学」とかを可能と考える(例えばフッセルルとか Th. Ziehen とか)。この場合の自然哲学の特色は、夫が自然科学の取り扱う根本素材と顕著な諸結果とを、自然科学からは全く独自な原理に従って、組織し直すという点にある。或いは本質の学の内容として、或いは所与の学(Gignomenologie)の内容として、自然は所謂自然哲学にまで再組織され得る筈であり、又は実際再組織して示される。
この場合自然哲学は、自然科学から完全に切り離されることによって、成立する。自然科学は云うまでもなく通常の経験的科学であるが、自然哲学は之に反して超経験的・先経験的な・或いは根本経験的な・科学であると云うように。――だが、自然哲学と自然科学とをこのような仕方で引き離して了うことは、少なくとも自然哲学にとっては、一見有利らしく見えて実は不利な結果を招く。自然科学に原理的に先立つようなこの自然哲学は、要するに自然科学を自分にとって必要なものと認めないわけであるが、結局それはそれだけ自然科学から無縁になることであり、従って逆に、自らも亦自然科学から無縁なものとして取り扱われる酬いを持たねばならぬだろう。たとえ、自然科学がおのずから自然の哲学を要求せずにはいられぬだろうと、口先きだけで云っていても、実際は、その反対が結果するに過ぎないに違いない。だからこのような――独立的な――自然哲学は必ず、自然科学によって無視されて終うだろうと思われる。
自然哲学なるものを自然科学から完全に引き離すということが、自然科学にとっては何の利益でもなく、而も自然哲学にとっては甚だ不利益であった。之と同じに又、自然科学をそのままの原理だけに立脚して、拡大延長したものと考えられた処の――前に云った――かの自然哲学は、本来自然哲学にとっては何等の利益でもなく、而も自然科学にとっては極めて大きい不利益であるだろう。吾々はオストヴァルトのエネルゲティークやヘッケルの進化論的俗流宇宙論に対して、それが観念論であろうと唯物論であろうと、正に外ならぬ自然科学の信用のためには、之に一定の限界を教えねばならない。自然哲学を自然科学に対する無縁な対立物――併し元来そういう概念はあり得ないのだが――と見ることが誤っていたと同じに、之を自然科学の自己同一的な拡張と考えることも亦誤りである。自然科学は自然哲学に対して、機械的な対立をなすのでもなく、又自己同一的な一致をなすものでもない。――両者の関係は正に弁証法的に把握されねばならないものである。
特殊的分科の諸科学としての諸自然科学は、それが存在を実際的に解明する使命を果すためには、相互の組織的な連関に置かれねばならない筈であるが、そのためには、科学はもはや単なる諸分科としての自然科学そのものの原理にだけ立っていることは出来ない。それは自分の原理をより確実にするために、その原理をより高度の原理にまで高めることを必要と感じなければならない。自然科学的原理――分科的原理――の代りに何か外の原理を持って来て、之とすり替えるのではない、前者を後者にまで展化すると云うのである。だからこの際前者も後者も同一の原理だと云いたければ云っても差閊えはない。それは子供でも老人でも同じ人間に違いはないのであるから。だが原理をそのままにしておいてその適用の範囲を拡大延長すると云うことと、原理自身を拡大延長するということとは、区別されねばならぬということが今は大事である。分科的原理そのままと、分科的原理をより高度な原理へ――組織的原理へ――展化することとは、今区別される必要がある。前者の原理に止まるならば自然論は単なる・直接的な・無媒介な・自然科学に止まる。それは抽象的な自然科学に過ぎない、実際そういう自然科学は世界観との連絡も有たなければ、実際生活への応用をも困難にする。その例はいくらでも挙げることが出来る。抽象的な自然科学は併し要するに真の自然科学ではない、真の自然科学はもっと具体的なものでなければならない。と云うのは、それが諸分科の媒介された連関に這入ることによって、世界観や実際生活へ、より密接に連絡していなくてはならない。こういうものこそ本来の自然科学である。こういう自然科学は処で、高度な組織的原理――もはや分科的原理ではない――に立つ。だからそれはすでに哲学的自然科学である。云い直せばそれが真の自然哲学なのである。――だから自然科学は、夫が自然科学であるためには、自然哲学にまで、弁証法的に組織されねばならぬ。
云って見ればもはや茲では自然哲学という言葉は不用である。だがそれ程までに自然哲学の実質は自然科学の肉と血になる。――之が吾々の有つべき自然哲学の概念である。自然科学と自然哲学との関係をこう考えると、自然科学の批判が自然科学から独立した領域を占めそうに見せる処の批判主義が、どこにその欠陥を有っているかが明らかとなる。欠陥は自然科学のアポステリオリと批判のアプリオリとの機械的な絶縁に存する。実は批判主義はこの絶縁を強調することをこそその特色とする、だからこそ吾々の持つような自然哲学は必然に排斥されざるを得なかったのである。そして当然なことながらこの排斥は成功し得なかった、カント自身に於ける批判と形而上学との錯綜――今は特に自然哲学に関して――と前に呼んだものが、この困難の現象に外ならなかったのである。――批判にとっては自然哲学は成立し得ない、之に反して、組織にとっては自然哲学は成立する。カントによっては自然哲学は充分に成立することが出来ない(但しカントは云うまでもなく単純な批判主義者ではないが)、之に反して、ヘーゲルにとっては自然哲学は成立し得なければならない。
処で第二に、自然哲学に対してヘーゲル哲学はどういう意味を持つか。
従来或る時期の間にヘーゲル哲学一般が蒙っていた不評判の主な動機の一つは、外でもない、主としてヘーゲルの自然哲学に対する不信任から来たものであった。自然哲学は、近来の観念論的ヘーゲル学徒の習慣に従えば、ヘーゲル哲学の最も犯され易い弱点であったし、又現に最も訂正を必要とする部分であると考えられる。それはヘーゲル哲学の内で現在では最も時代遅れのした遺産であると考えられる。そうでないにしても少なく共、論理学や精神哲学に較べて、夫は最も重大さの少ない部分であると考えられる。実際ヘーゲルの自然哲学はヘーゲル哲学の他の部分に較べて、甚だしく無視されている部分であるようである。ヘーゲル自然哲学に限って、その翻訳や文献は決して多いとは云えない。無論ヘーゲルの時代又はヘーゲルの没後の暫くは、吾々が今日想像するよりも遙かに高く、自然哲学一般が評価されていた時代だったので(そして却ってそのために自然哲学の没落を速めたのでもあったが)、ヘーゲルの自然哲学特にヘーゲル学派にとっては、重大な当面的な意義と評価とを見出していたのは事実である。ヘーゲル右翼にぞくする J. Schaller の自然哲学史などでも、そういう関心から書かれたわけである(Geschichte der Naturphilosophie von Bacon auf unsere Zeit*)。併し自然哲学一般がもはや人々の関心をつなぐことが出来なくなった時、ヘーゲル自然哲学も亦思い切って低く評価されねばならなかったのに無理はない。だがヘーゲル自然哲学自身のどのような構造が、夫への信頼を傷けるのに役立ったか。
* ヘーゲル自然哲学を尊重し之を敷衍しようと企てたのは就中 A. Vra である。彼は其の『ヘーゲル自然哲学』なる仏文の訳注解説に於て、ミシュレの注解を補遺しながら独自な編纂と研究とを与えた(之がヘーゲル自然哲学の最初の翻訳であると云われている)。より新しい処では、ヘーゲルの自然哲学に関心を持ち、之を補正しようと企てたものにK・ローゼンクランツがある(K. Rosenkranz, Hegels Naturphilosophie und die Bearbeitung derselben durch den italianischen Philosophen August Vra, 1868 を見よ)。併し両者いずれも単に部分的・断片的修正であって、ヘーゲルの自然哲学に対する統一的な高度の解釈に基いたものではない。だからしてヘーゲル自然哲学はまだ之によって救われることは出来ない。
ヘーゲル哲学の弱点はその自然哲学に於て最も端的に暴露されている、だからこそ自然哲学がヘーゲル哲学全体の運命を支配し得又せざるを得なかった。併し之は、ヘーゲル体系全体に対する自然哲学の無力と無価値とを示すものではなくて、実は却って、全体系に於けるその有力さと高い価値とを示すものではないか。尤もヘーゲル哲学の体系自身がこのことを自覚していたか否かは全く問題である。実は、ヘーゲル体系が之を自覚し得なかったという点にこそ、今云うこの弱点そのものの源があるだろう――後を見よ。とに角、自然哲学はヘーゲル哲学全体のカリカチュアであったが、それ程夫が代表的な意味を持っていることを今注意せねばならぬ。――だからこの自然哲学がどのような構造の弱点によって信任を失ったかを見ることは、同時に、ヘーゲル哲学全体の病源をつきとめることをも結果する、吾々はこの点に中心を置いて考えて行くことを忘れてはならない*。* U. Spirito, Die Beziehungen zwischen Naturwissenschaft und Philosophie in der Geschichte des Denkens von Hegel bis heute(Logos, 1931)参照。
さてヘーゲル自然哲学の不評判を買った何よりもの理由は、要するに極めて単純な次の事実に帰着する。経験的・感性的なる諸自然科学の諸事実を先験的・理性的なる概念乃至イデーからの展開として説明した、という事実である。之は云うまでもなく、一般化して云えば何も特に彼の自然哲学にだけ見出される特色なのではない、ただヘーゲルの他の科学の部門では自然科学に於て程、このヘーゲル的説明法の不当さが、のっぴきならぬ程実証的に証拠立てられるに至らなかったまでである。現に社会科学を真に実証的に――唯物論的に――取り扱おうとすれば、ここでも亦この不当さが指摘され得るわけである。実際、その自然哲学を没落せしめ延いてその体系全体を没落に導いた処のヘーゲル的説明方法の秘密は、自然哲学の領域ではまだただ漠然としてしか意識されなかったのに、すでに社会科学の領域に於ては判然と意識化されたのであった(マルクスの諸ヘーゲル批判)。十九世紀は自然科学が目ま狂わしい発達を遂げた世紀であった。之によって提供された魅惑的に豊富な新しい諸材料は、宇宙思弁的な――ロマンティークを代表とするような――当時の哲学を刺激して、自らをこの哲学の生々しい活きた内容として取り入れさせたが、併しこの材料の集堆の物質的圧力は、やがて却ってこの思弁的な哲学の堤防を割って、ほとばしり出た。自然科学はかくて哲学を、のり越して進んで行かざるを得なかったのである。初め絶対的な観念から演繹されたり(シェリング)展開されたり(ヘーゲル)する事によって活かされ救済された自然の諸現象は、やがて却って、この解釈を自分に対する束縛としてしか見出さなくなるに至った。かくてヘーゲルの中にも自然哲学は、事実を概念によって強制するものの尤なるものとして評価されるに至った。ヘーゲルの初めの一般的な動機は、却って事実を概念によって救おうとするにあったにも拘らず。――なる程事実は一応概念によって救われることも出来る。それも事実に対する一つの解釈である。だが解釈は比較的任意な主観的なものであることが出来る、どの解釈が正しくどの解釈が誤っているかは、ただ実証的――唯物論――実践的な課題の解決に当ってのみ決定されることが出来、またその時決定されても遅くはないのである。ヘーゲルの自然哲学も一つの立派な自然解釈であろう、ただそれが自然科学の実験的な活動の諸結果と撞着するに際して初めて鼎の軽重を問われる運命に立ち至る。少なくともここでは経験的・感性的・事実は先験的・理性的な概念乃至イデーからは説明出来ないことが実証された。ここがヘーゲル哲学全体の傷口である。
すでに今云ったように、その自然哲学に於てばかりでなく、ヘーゲル哲学全体に於ける根本的な意図は、無論概念によって事実を強制することにあったのではなくて、却って概念によって事実を救済することにあった。と云うのは諸事実は単にそのままの事実としては組織立てられることが出来ないので、之を解明するに役立つべき概念の資格を、之に与えることによって、夫は初めて体系化されることが出来るからである。存在は範疇の資格を持つことによって組織的に秩序立てられる。ヘーゲルの概念乃至イデーは無論のこと単なる表象や観念ではなくて、存在の・事実の・解明のための概念である。だからヘーゲルをどのように理解しても、観念から存在を出して見せる哲学や、考えられたものが即ち存在するものだと考える哲学などと、無条件に同一視することは許されない。ヘーゲルに於て概念と呼ばれる処のものは、主観的な観念や表象でもなく、又夫等が実体化されたものでもない、実は夫は存在そのものを云い表わす処のもの自身に外ならない。その意味に於てこの概念を存在と呼んでも好いだろう。それ故ヘーゲルが概念の展開を以てその哲学体系の内容とした処で、それだけの理由によってそれが観念論であるとか無いとかを論じることは出来ない。実際それが哲学である以上、その体系の内容は常に概念の集積でしかある外はあるまい。――問題は併しながら、ヘーゲルに於ける概念(範疇)の展開の仕方・その方法・に存するのである。
概念(範疇)の展開、それはヘーゲルによれば即ち又存在自身の展開に外ならないが、之を必然にする運動はかの弁証法であった。概念は弁証法によって展開する、否概念のこの運動形態をヘーゲル弁証法と名づける。――だがこの弁証法の運動の動力をヘーゲルはどこに横たわると見たか。正に外でもない概念――イデー自身に於てである。そうするから、概念は全く自分自身で、他からの働きかけを俟つことなく、弁証法的運動をせずにはいられない事になる。なる程概念が弁証法的運動をそれ自身に於て持つという事は、ヘーゲルの見た通り真理であるだろう、併しそうであるからと云って、その弁証法的運動の動力が概念自身に横たわらねばならないとは限らない。
なる程概念の一つの根本特色は、それが自己独立を自分で証明する外見を示すのを忘れないという点にある。形式論理学の同一律こそその証拠である。AはAである、即ち他の何物にも依ることなくして、AはAとして自分の概念Aを保持することが出来る。併しこの形式論理的概念Aは何の運動も持つことが出来ない、それが運動しなければこそ自己同一に止まることが出来たのであるから。この点はヘーゲルの弁証法自身が好く知っている処である。概念の自己独立性はその形式論理的自己同一性にこそ存する、之はその運動・展開――弁証法――にこの自己独立性が存することにはならない。実際、論理に於ける弁証法は――吾々は弁証法の根源を論理に置くことを欲しないのであるが――、それが存在から独立し得ないという処に、そして而もそれが論理である以上自己独立的な外見を有たねばならぬという処に、成立する。その動力はもはや論理的な概念・イデーそれ自身にあるのではなくて、実は存在そのものになければならない。
処がヘーゲルは一方に於て存在と概念とを同一視することの結果として、他方、弁証法の動力を概念そのものの内に見出そうとする。かくて概念・イデーは独立化し自由化す、概念・イデーが独立物である以上、事実を概念によって把握することは、取りも直さず事実を概念・イデーの実現として把握することの外ではあり得なくなる。だからこそヘーゲルに於ては、事実が概念によって強制される結果となるのであった。
ヘーゲルに於ける概念・イデーの自己独立化は、概念・イデーの自己完結性に対応しなければならない。概念・イデーは自己完結している、凡てのものはあらかじめ概念的でありイデーの内に横たわる。凡そ現実的なるものは凡て理性的であり、又理性的なものは悉く実現し得べきもの、現実的なものである。凡てのものは合理的であり論理的であることとなる。かくて凡ての存在は概念・イデーから分出する外はなくなるだろう。凡ての存在は概念の・イデーの・所産となる。そうすれば、事実が概念によって強制されることは、この場合、問題にならない程当然ではないか。
イデーはヘーゲルに於ては絶対的イデーであり、神的な精神である。それは神のみが支配することの出来る完全と和解と諧調との世界である。そこには神学としての神義論が、協調の精神が、君臨している。――ヘーゲルのこの平和な願いをかなえるために併し、彼は恰も最も革命的なかの弁証法を用いることによってその哲学を始めた。だからヘーゲルに於ては初めから、弁証法はその適切な応用対象を見出すことが出来なかったのである。そこで弁証法の本来の革命的な本質は緩和され、従ってその動力は、存在と神との中間領域に、概念(観念)自身の内に据えられざるを得なかった。――吾々に従えば、弁証法の動力は概念にではなくて存在に置かれて考えねばならない。処がヘーゲルでは存在が同一哲学風に――非弁証法的に――概念と自己同一であったから、吾々はそのためには、存在と概念とをまず予め分離し対立させねばならない。ヘーゲル弁証法はこのようにして初めて逆転されることが出来る。
ヘーゲル哲学一般に対するこの見解は、その自然哲学に対する見方に最も代表的な影響を与える(吾々はヘーゲル自然哲学がヘーゲル哲学一般の欠陥を最も好く代表することを忘れない)。それはこうである。ヘーゲルは彼自身にとって存在と考えられる処の概念の、勝義に於ける所謂概念に相当する側から、その方法を出発せしめる。なる程体系の一般的な順序は、存在――本質――概念であって、概念は最後の段階に位するようであるが、この存在なるものすらが、実は、存在の概念に外ならない。と云うのはそれが何等かの概念であればこそ、端初の直接態はあのように抽象的でなければならなかったのである。存在の範疇がもし真に存在そのものを――存在の概念をではない――云い表わしたならば、直接に与えられた端初は最も具体的な事物に相応しなければならなかった筈である。概念にとって端初となる存在は最も具体的である、之に反して、存在の概念の端初だけが最も抽象的であることが出来るのである。処が存在と概念とのこの対立を見ないヘーゲルは、存在と概念との一切の端初を概念に置くことによって、端初を単純に抽象的なものと規定して了う。かくて存在の体系は論理学から始まることになったのである。
さてそこで自然哲学が論理学から出発すれば、それは後者の他在でしかあり得ない。元来神のように合理的で透明であるべき存在乃至概念の運動は、ここで最も神秘的な飛躍をしたと見る外はない。真正直に論理学――概念――から出発すれば、自然哲学――吾々は存在の代表者としてこの場合自然を選ばねばならぬ――は神秘化される。ヘーゲル自然哲学に於けるこの神秘的被覆を引き剥ぐためには、その概念からの出発を真正直に受け取ってはならない。存在把握の方法としての概念の体系は、無論概念から出発する、このことは同語反覆的に当然である。だが存在自身の体系としては、この同じことは実は、存在――自然――から出発することを意味している、という風に受け取らねばならない。
かくて第一義的なものは概念ではなくて之から区別され対立させられた存在(自然)である。自然(存在)が概念の他在なのではなくて却って、概念が自然(存在)の云わば他在でもあるだろう。――自然哲学と論理学との端初に関する権利関係はだから、今や転倒されなければならなくなる。でもし従来のヘーゲル解釈が、ヘーゲルの体系の自身の構造に立脚して、その自然哲学を多少とも軽視したとしたら、それは訂正されなければならない。
ヘーゲル自然哲学の全体系に対する意味をこのように訂正すれば、その自然哲学が有つ意味内容はおのずから訂正される。と云うのは、もはや夫は、事実に対して上から強制する自然哲学ではなくて、事実によって下から強制される処の自然哲学でなければならなくなるのである。なぜなら、体系の端初は、従って又方法の真の端初は、理性的概念ではなくて事実的存在(自然)であったのだから。かくしてのみ自然哲学は――そして自然哲学はヘーゲルのそれに於て最も正しい方向に付いたのであるが(後に見よ)――、自然科学に対して初めて弁証法的に連関することが出来る。自然科学はこの時初めて自然哲学にまで――下から――弁証法的に組織立てられる。訂正されたそうしたヘーゲル自然哲学だけが、現在の自然科学に仕えそして然る後に之を指導することの出来る唯一の自然哲学となるだろう。
吾々は最後に、自然哲学史の上に於けるヘーゲル自然哲学の意味を見よう。
恐らくヘーゲル体系の他の部分の圧倒的な卓越のためであろう、彼の自然哲学は自然哲学史の上では必ずしも高く評価されているとは云えないのが事実である。人々はヘーゲル自然哲学を全く無視するか、或いは往々之をシェリング自然哲学の単なる複製と考える*。併し、これがシェリング自然哲学にどれ程多く負う処があろうとも、之は或る意味に於て夫とは全く異った発展系統を定着したものであり、従って之は自然哲学史に於て却って最も重大な地位を与えられねばならない筈のものなのである。
* 例えば C. Siegel はその Geschichte der deutschen Naturphilosophie(1913)に於て、ヘーゲルに対しては何等の独立な位置を与えていない。なおシェリング自然哲学とヘーゲル自然哲学とが異った意味を持つことに就いてはK・ローゼンクランツ(前掲書一三頁)、ヴェラの Introduction la philosophie de Hegel 等を見よ。
ヘーゲル自然哲学を吾々は、さし当りカントの哲学にまで溯る必要がある。カントに於ては、今吾々にとって必要な三つの要素を挙げるならば、第一その理想主義、第二カント自身の見た弁証法、第三カントの与えた自然哲学。理想主義はフィヒテに伝わりそこからシェリングの哲学が出て来たことは周知のことであるが、注意すべきはシェリングの哲学がまず第一に自然の解釈として始められたという点である。そこがシェリングをしてフィヒテとは違った道を選ばせた理由であった。シェリング哲学一般もそうであるが、特にその自然哲学がヘーゲルに決定的な影響を与えたことは誰も知る事実である。だがそうであるからと云って、ヘーゲルの自然哲学は決してシェリングの夫の単なる伝承などではない。現にシェリングの夫はオーケン、K・G・カールス等を経て例えば今日の自然哲学的人間学となって現われている(マックス・シェーラー)と云われているが、云うまでもなく、吾々はヘーゲルの自然哲学をこの線に沿うて理解すべきではない。――ヘーゲルの夫を特色づける線は何よりも顕著な弁証法的方法の内を貫いている。シェリングやカールスにも考えようによっては弱い弁証法の色彩はなくもないだろうが、之がその方法にまで自覚されたのは外でもないヘーゲルに於てであった。処がこの弁証法は、カントに於けるかの第二の要素、カント自身の見たかの消極的弁証法、からの必然的な脱化であったのである。カントはその弁証法に於て、理性が矛盾に陥ることを示すことによって理性に限界――夫が悟性であった――を与えようとしたが、ヘーゲルは却って矛盾に陥ることを理性の本性として取り上げる。カントによって制限された理性は、悟性との有機的な統一に於て、ヘーゲルのためにその翼を拡げられる。弁証法はそこで消極的な意味から積極的な役割を有つものに脱化した。そして夫はヘーゲルの積極的な体系の内部に、そして吾々にとって最も大事なことは、その自然哲学の体系の内部に、成長した。
併しこの点に来るとカントに於けるかの第三の要素、カントの自然哲学、からの影響と交叉する。カントの極く晩年の『物理学』を除いては、カントの自然哲学は、その序説と見るべき『自然科学の形而上学的原理』につきると云っても好いかも知れないが、この書物の内容で最も特色を有つのは、ニュートンの万有引力に対立して物質に根源的な斥力(反発力)をも与えねばならぬと考えた点である。物質は引力と斥力との対立によって初めて「存在」することが出来る、と云うのである。人々は主にこの点を捉えてカントの自然弁証法と呼んでいる(デボーリン)。処がこの根本概念は恰もそのままヘーゲルの物質概念に関係して取り入れられている。ヘーゲルの自然に対する弁証法の適用は、すでにカントの自然哲学の内に、その具体的な先駆を有つ。併し大事なことは、カント自身自然を弁証法的なものとして性格づけてなどはいなかったのに、ヘーゲルは自然弁証法を意識的に樹立したという点である。彼は自然弁証法を確立した最初の自然哲学者であった。
ヘーゲル自然哲学の歴史上に於ける独自の特色は、単にそれが統一的で組織的であったとか、夫が普遍的・全般的な体系の一環をなすとかいうことにばかりあるのではない(ヴェラはそう云ってヘーゲルを推賞する)。そうではなくて恰も、それが初めて自然弁証法を展開して見せたという点にあるべきなのである。夫がシェリング一派の自然哲学とは異った系統にぞくすると云ったのも外ではない、この意味に於てであった。――ヘーゲル自然哲学のこの正しい評価は、恐らくエンゲルスによって初めて与えられたと云って好い。マルクスが社会科学に於てなした処を、エンゲルスはその『反デューリング』乃至『自然弁証法』に於てなしたと云うことも出来る。ヘーゲルが見出した「社会」の概念が前者によって批判され展開されたように、後者に於てはヘーゲルの見出した弁証法的な「自然」の概念が改めて批判され展開された。無論エンゲルス(レーニンも亦)が用いた自然科学の諸材料が今日では或る意味で甚だ時代おくれのしたものだということは、何の困難をも齎さない。エンゲルスの自然弁証法には一定の重大な意義があるのだが、今はその代りとして、この系統にぞくする自然弁証法の最近の展開に注意して見ても好い*。
* ドイツ版『マルクス主義の旗の下に』に載った Rudas や Maximow の諸論文を見よ。
自然哲学は自然弁証法として性格づけられねばならない、そしてこのことは恰もヘーゲルその人から始まった(自然の弁証法が他の存在の弁証法と組織的な連関に立つということ、之は弁証法そのものの性質から云って云うまでもないことである。だが夫がどう連関するかは別の問題としよう)。吾々はヘーゲルの自然哲学に就いて語りながら、遂にその個々の内容に立ち入ることなしに終らねばならない。何故ならば、ヘーゲルの自然哲学に於て、真に価値のあるのは、その具体的な内容や体系ではなくて、その精神と方法なのであるから。それに、その個々の内容に立ち入るためには吾々は全く別種の手続きを用意しなければならないだろう*。
* 覚え書きのために文献の若干を纏めておこう。
Michelet, K. L., Schelling und Hegel. Oder Beweis der Aechtheit der Abhandlung : ber das Verhltnis der Naturphilosophie zur Philosophie berhaupt, 1839.
〃 , Vorrede zur ”Hegels Philosophie der Natur“, 1841.
Exner, F., Die Psychologie der hegelschen Schule, 1842―44.
Schleiden, M. L., Schelling und Hegels Verhltnis zur Naturwissenschaft, 1844.
Weisse, C. H., Hegel und das newtonsche Gesetz der Kraftwirkung (Zeitschrift f. Phil. u. spekul. Theol. Bd. ※[#ローマ数字13、50-下-20], 1844)
〃 , Die hegelsche Psychologie und die exnersche Kritik ( 〃 , 1844).
Vra, A., Introduction la philosophie de Hegel.
〃 , Hegel, Philosophie de la nature (traduction).
Menzzer, C. L., Die Naturphilosophie und Hegelianismus, 1847.
Erdmann, E., Entwicklung der deutschen Spekulation seit Kant, 1853.
Rosenkranz, K., Hegels Naturphilosophie und die Bearbeitung derselben durch A. Vra, 1868.
〃 , Kritische Erluterung des hegelschen Systems.
Bullinger, A., Hegele Naturphilosophie im vollen Recht gegenber ihren Kritikastern, 1903.
Closs, O., Das Problem der Gravitation in Schellings und Hegels Jenaer Zeit, 1908.
Bullinger, A., Die Gtterdmmerung der Radioaktivitt und die Notwendigkeit der Vershung der Naturwissenschaft mit Hegel, 1909.
Spirito, U., Die Beziehungen zwischen Naturwissenschaft und Philosophie in der Geschichte des Denkens von Hegel bis heute (Logos), 1931.
[#改段]
この論文は全く私の過去のものにぞくする。単に時間の上からそうだというだけではなく、人間学的な見解を採っている点で根本的に誤っているからである。私は近い機会に自然弁証法に就いて改めて立ち入って論じて見たいと思っている。之は、今、決して無意味ではない誤謬の記録として載せるものである。
弁証法は人々によって様々な形で語られている。闘争の姿としても又は調和の姿としてさえもそれは語られる。或いは連関の学として又総体の認識として又運動の関係として、それは語られている。肯定の内に否定を見ることが、対立物の同一と同一物内の対立が、弁証法として説明されることも出来るだろう。又それが弁証法的法則の形を取る時、例えば、対立物の浸透・否定の否定・量と質との相互関係・などが掲げられる。思うにこの形の最も俗流的なものは、正・反・合のかの三位一体の説であるだろう。
このような様々な形態の下に弁証法が捉えられる時、人々は弁証法というものが、何か特別な際だった珍奇なものででもあるかのように想像し易い。或いは形而上学的な魔術であるかのように、或いは思想上の錬金術ででもあるように、呪われたり礼拝されたりするのは、外でもない茲から出て来るのである。弁証法の味方も敵も之を何か目立だしい旗印として押し立てていないでもない。かくて弁証法は何か宗派的な聖像となり、神秘のベールを着せられる。――弁証法一般が、もしこのような理由から、問題となるならば、そのような問題自身が粉砕されねばならない。
弁証法なるものは、もっと当り前な、あり振れた、判り切った、当然な、ものなのである。このことを注意することが弁証法を一般に語るに当って最も重大だと考えられる。それが当然なものであるが故に併し、人々は却って之を正当に問題にすることに困難を感じるのである。やさしいものが判らないのに、むずかしいものを判ろうとしたり判ったと思い込んだりするのは、俗物の常ではないのか。弁証法なるものは少しも珍奇なものではない、それはマルクス主義が少しも奇矯な風変りな理論でないのと、全く同じである。マルクス主義者を以て自任することがマルクス主義と何の関係もない場合が多いと同じように、弁証法を口にするということが弁証法と必ずしも関係があるのではない。
吾々は弁証法の諸公式形態を採用するより先に、かかる諸形態がどのような基本関係から生じて来たか、を見ねばならぬ。この基本関係こそ基本的な弁証法である筈だから。そしてこの基本関係は恰も基本的であるが故に最も簡単であり最も当然なものである筈である。
弁証法の最も根本的な特色は、存在が――社会や歴史をも含めての自然が――、観念を、思惟を、決定するという処に横たわる。云い換えれば、論理――それは観念・思惟の自律性を云い現わす言葉である――がそれ自身の自主権を持つためには、実は却ってその自主権を自分以外のものへ、従って存在へ、譲渡せざるを得ない、という一つの関係の内に横たわる。弁証法的論理が形式論理学的自同律――自同律こそ論理の自律性を保証するものである――に従わず、従って矛盾の論理となって現われるということは、このような根本的な特色の必然的な結果の一つに過ぎない。普通、弁証法として指摘されているものは、このような根本的な特色を、又はそれから出て来る一定の結果を、そのものとして多少とも独立化したものであり、或いは論理として、或いは方法として、或いは存在の規定として、云わば学校教師風に定式化したものに外ならない。弁証法をこのようにして多少とも独立化し、定式化・公式化するだけそれだけ、之は話題には値いして来るが、同時にそれだけの危険性を有って来る。ただこの根本特色が充分に又は全く理解されていない時に限って、このような公式化は一定の効果を持つことが出来るのであり、この理解が多少とも展開し始めた後は、公式としての弁証法はやがて、却って一つの桎梏でしかなくなるだろう。このような場合に必要なのは却って、旧公式の解体又は新しい公式の構成でなければならない。蓋し公式はその場合々々の状態に応じて、実践的な必要に従って、形成されねばならない。――このようなものが弁証法の弁証法的把握である。
存在が観念を決定するということ、吾々の思惟は事物が存在するままに之を把握せねばならぬということ、この至極判り切ったことの内に、正に弁証法が横たわる。右翼の或る人々は云うかも知れない、それは素朴な模写説ではないかと。併し模写説の唯一の欠点は、原像と写像との一致によって真理を知るためには却って予め原像自身を知っていなければならぬ、という循環の外にはないのであるが、この循環はただ認識の実際の過程を非実践的に考えるという仮定の上で、初めて成り立つものに過ぎないことを忘れてはならぬ。実践的な模写説は哲学概論的な所謂模写説とは非常に異ったものなのである。又左翼の或る人々は云うかも知れない、弁証法が存在と概念との関係の内に横たわるならば、それは存在そのものの内に在るのではないことになる、そうすれば弁証法は観念的なものとなるではないか、と。併し吾々と全く無関係な存在そのものというような形而上学的――非弁証法的――存在はない。在るものは吾々が知っているこの存在でしかない。人間発生以前に、即ち観念の発生以前に、宇宙は存在していたではないか、そのような宇宙は弁証法的であり得なかったか、そう問われるかも知れない。だが、人間発生以前の宇宙はとりも直さず現に吾々人間が知っているこの宇宙の過去でしかない、その宇宙は吾々人間を産まない限りの自然ではなくして、正に人間を産んだ限りの自然なのであった。人間発生以前の自然の或る時期に、仮に人間があったとすれば、即ちそのような形而上学的――非弁証法的――仮説を設けるならば、そのような人間にとっては自然は――自然そのものは――弁証法的ではあり得なかったかも知れない。このような神話的な人間はとも角として吾々歴史的な人間にとっては、彼等と無関係な存在それ自身なるものは存在しない。――それに観念自身が一体又一つの拡大されたる意味での存在ではないのか(存在概念をこのように拡大し得るということがこの事物の弁証法的である所以である)。ただ観念は、反映されたる、上層建築としての、多少とも条件づきの、存在だと云うに過ぎない。
弁証法をこのように規定することはそれ故、少しも之を観念論化すことではない。そうではなくして正に正反対に、之を唯物論化すことをこそ意味している。何故なら、存在が観念を決定するのであって、その逆ではなかったから(物質と観念との対立のない処に、唯物論はあり得ない)。弁証法は本来唯物弁証法でしかなかった。――唯物弁証法は特殊なる一つの弁証法ではなくして、単純に弁証法なのである。
唯物弁証法によれば、認識の対象たり得ないような存在はない、形而上学的・不可知論的・物自体なるものはない。ここでは認識論的に云って――宇宙論的にではない――存在は常に観念を決定する筈のものとしてしか存在しないのである。そして存在の今云ったこの性質が唯物弁証法に外ならなかった。それ故唯物弁証法は第一に、存在に固有な根本的な性質でなければならない。それが普通考えられているように第一に論理や方法であるのではない。何となればそのような観念的なるものは、たとい之を部分的に見る時一応の自己独立性を有っていようとも、之をあり得べき全体に於て、その意味で究極的に見る時――そして之が弁証法的な見方である――、決定者ではなくして被決定者であったのであり、そしてこの決定の動力に於てこそ、唯物弁証法は成り立つのであったから。繰り返して云おう、存在それ自体が弁証法的ではあり得ない、何となれば存在それ自体なる物自体は元来存在しないから。そうではなくして観念の決定者であるべき存在のみが唯一の存在である。弁証法に於ては之こそが存在であり、従ってこの存在がとりも直さず弁証法的なのである。第一に弁証法的なるものは存在である、観念(論理・方法等々)は之に基いて――即ちそれの反映として――初めて弁証法的であることが出来る。
さてこのような存在は、自然・社会・歴史などであるだろう。問題を自然に限る時、自然弁証法の問題が至極当然な、従って又必然な、問題として現われざるを得ない。
存在は一般に、哲学的な意味に於ける自然――自然科学的な意味での夫ではない――であると云った(この二つの自然概念の区別は、哲学的と物理学的との二つの物質概念の区別に相当する)。それにも拘らずそれは単なる自然ではなくして観念の決定者としての自然でなければならなかった。そこで今注意すべき点は、かかる決定は歴史的過程でしかあり得ない、ということである。存在が物質的であるのはそれの自然性に帰着し、そして存在が弁証法的であるのはそれの歴史性に基く。このようなものが弁証法的唯物論に於ける、又唯物弁証法に於ける存在の在り方であろう。自然弁証法は、であるから、自然のこの歴史性に基く。かくてそれは自然の歴史性又は自然の認識の歴史性に帰着する問題でなければならない。――但し茲で問題になっている自然とは原則としてかの自然科学的な意味に於ける自然であることを忘れてはならない。
之が自然弁証法という問題の一般的な、基本的な――従って之に尽きると云うのではない――提出形態である。処でこの問題は如何に特殊化され展開されるか、それを見よう。
自然の歴史性――自然の認識の歴史性から区別された――の方から分析を始めよう。自然の歴史性は、自然に於ける・又は自然の・運動、即ち自然的運動として現われる(吾々はギリシアの哲学者と共に自然的運動を運動一般の特殊の形態と見ねばならない、何故なら運動ということが一般に弁証法的なのであったから――ヘラクレイトス)。自然に於ける一切の存在は、相互の位置関係に於てあるだろう、存在は相対的に静止又は運動の状態に於てある(相対性理論)、即ち存在は自然全体に於ける個々の存在としては運動という条件の下にのみ存在する。エレアのゼノンが発見しそして実はこの発見に基いて運動を否定しようと欲した処のかの弁証法――云わばギリシア的弁証法――が之であった*。そこで茲に指摘されるものは一点に於ける存在と無との対立の総合という何か論理的な弁証法の関係であるかのように見える。併しかかる関係の保持者は、かかる関係を自分の規定とする弁証法的存在は(弁証法が第一に存在のものであって論理ではなかったことを思い起こせ)、正にこの存在と無との総合としての生成である空間内の運動であった。従って弁証法的なるものはこの場合にも、時間――運動は時間なくしては行なわれない――に関係しなければならないことが見出される。そして時間性は、結局、優越的には、歴史性に帰着しなければならないであろう。今茲ではただこの時間がまだ、自然的な時間に過ぎないと云うまでである。空間に於ける運動は、であるから、既に歴史性への転向を含む。そしてここに初めてこの運動の弁証法的なるものが横たわるのである、何となれば弁証法とは存在の歴史性に基くものであったから。――之を自然弁証法の第一形態と名づけよう。
* ゼノンが弁証家と呼ばれる所以は併しながら、寧ろ、論敵の主張の肯定の内にその否定を見出すという、彼の論法の内にある。
自然に於ける運動の第二のものは存在の変化の弁証法である。アリストテレスによれば変化とは反対物への変化でなければならない。之を自然全体として見る時、かかる運動は自然の運動・自然そのものの変化・宇宙の自然的発展・に外ならない。之が自然史である。さてそうすれば自然に於ける運動は今や自然の運動となったわけである。自然の歴史性は茲では自然の歴史となって現われている。歴史はたといそれが自然の・又は自然的諸事物の・歴史であろうとも、とに角一つの変化(運動)である限り、形式的に云って弁証法的である外はないであろう。――茲に見出されるものが自然弁証法の第二形態である。第一・第二の自然弁証法の形態は併し、全く形式的であったことを注意する必要がある。というのは、如何なる空間内の運動も自然的変化も、夫々単に一つの変化である限りに於て、即ち、それが如何なる物体の如何なる運動であるかとか、如何なる自然物の如何なる変化であるかとかいうこととは全く無関係に、このような内容上の規定を知らなくても、天降り式に押し付けられ得るような性質を有った弁証法で、それはあるのである。恐らく吾々は何等自然に対する内容的な知識を有たなくても、自然に於て云わば先天的にこのような弁証法の存在を証明することが出来るであろう。之が形式的である所以に外ならない。――弁証法が処で形式的である時、それだけそれは存在を遊離する。何故なら存在は常に物質的・実質的・内容的でなければならなかったから。そうすればこのような――形式的な――弁証法はそれだけそれ自身に必要な具体的な条件から遠ざかったものでなくてはならなくなる。何故なら弁証法は第一に存在のそれであって、形式的な――例えば論理とか方法とかの――弁証法では無かったのだから。形式的な――第一・第二形態の――自然弁証法は、本来の自然弁証法の抽象的な形態に過ぎない――後を見よ。
自然弁証法が、このような形式的・抽象的な形態を止揚して、内容的な・実質的なものにまで具体化され得なければ、それは元来何等の弁証法でもなかっただろう。
吾々は自然の認識の歴史性――前の自然の歴史性から区別された処の――を、茲で次に取り上げよう。認識は無論のこと人間が行なう処のものでしかないから、この場合の歴史性は人間の歴史のもつ夫である、処で歴史が最も歴史らしく在る場合は取りも直さず人間の歴史の場合ではないだろうか。社会の歴史は単なる――かの自然科学的な――自然の歴史をば社会科学的な自然の歴史にまで止揚[#「止揚」は底本では「止場」]する(併し之は必ずしもかの哲学的な自然ではないが)。存在に固有な歴史性は社会の歴史となる時最も具体的となる、かくて存在に固有な弁証法は人間の歴史に於て最も具体的となり、最も性格的となるのである。さて認識の歴史はこのような場合の一つなのであり、そして今は問題が自然の認識に限定されている場合に外ならぬのであった。――自然弁証法の具体的なるものがそれ故、自然の認識――単に自然ではなく――の歴史性の内に求められねばならぬということは、ここに必然的な理由を有っている。
自然の認識とは併しながら、吾々が持つ自然的諸概念か又は自然科学(自然哲学との異同は前出の論文を見よ)である。自然の認識の歴史性とはそれ故、自然的諸概念の歴史性又は自然科学の歴史性のこととなる。今、後者から始めよう。
一般に科学の科学らしさは、科学の性格は、その方法の内に存すると考えられる、自然科学の歴史性とは従ってその方法の歴史性でなければならぬ。自然科学の方法は無論歴史的に運動をするだろう、それが一つの運動を有つ限り――第一・第二の形態の自然弁証法に従って――、それは弁証法的であるだろう。だが今茲で問題になっている方法の歴史性は、そのような形式的な自然弁証法に止まる筈ではなかった。そして実際、例えば或る一定範囲の自然科学的理論に於て単純に肯定されたものも、次の時期で拡大された範囲のそれに於ては否定し止揚され得るだろうし、固定したものと考えられた或る一定の関係も新しい発見又は理論によってはその固定性を否定されて、動き得べき・絶対的でない・関係に過ぎなかったことが見出され得るだろう。自然科学――一般に科学もそうであるが――の方法は正にこのような歴史性を、弁証性を、持つと考えられる。そうすれば自然科学――一般に科学もそうであるが――の方法はこの意味に於て弁証法的だと云うことが出来るわけである。――自然科学のこの方法は自然弁証法の(実は自然科学に於ける弁証法の)第三形態であると云って好い。
だが茲には問題が二つある。第一、このような弁証法的方法は何も自然科学に限られはしないであろう、何故それがそれでは自然弁証法と呼ばれるような一つの特殊な形態の弁証法と考え得られるのか、と。併し自然科学に於ける研究方法が果して実際にこのような意味で弁証法的であるか否かは、実地に就いて証明を要することなのである。何故なら或る考え方からすれば事実、自然科学の研究方法はこのような弁証法的過程を踏まないとも考えられ得るからである(例えば自然科学を社会科学に対立させて見よ)。それ故茲では、如何なる点に於て――何となれば凡ゆる点に於てではないから――そのような意味での弁証法が実際に自然科学に於て見出されるかが課題であった。自然弁証法の第三形態は、自然科学に於てその存在を証明されることを求めている。――その限りこの形態は第一・第二の夫のようには天降り式ではあり得ない。第三形態の自然弁証法が単なる弁証法一般とは異り、特に自然弁証法である所以が之である。
第二の問題、人々は科学の方法を就中その論理的構造に求めようとする、そうすれば今歴史性・弁証性を有つと云われた方法は実は方法ではないこととなる。そうならば自然科学の方法が弁証法的だという言葉を吾々は慎まねばならない、と。方法は併し、単に科学の論理の平面図に於て理解されるばかりではなくて、その科学が如何にして発展するかという歴史の立体図に於ても亦理解されねばならない。そして前者は後者の内に於て初めて一応の独立を保つことも出来る。自然科学の数学化は、自然科学の弁証法的方法に於ける歴史的発展の内に於てこそ初めて成り立つことが出来る(相対性理論に見出される一種の相対観は弁証法的思惟の歴史的産物に外ならない)。恰も吾々の一切の具体的な思惟が全体として弁証法的であるにも拘らず、任意の部分々々は常に形式論理的に見えるように。であるから方法はまず第一に、根柢的には、科学の論理構造としてではなく、却って科学の歴史的発展の動力として理解され得、又されねばならない。
方法としての弁証法は――そしてこの方法は論理的なるものではなくて寧ろ歴史的なるものである筈であった――、自然科学をば歴史的変化に於てあるものと見ることを強要する、そこには固定した従って他の自然科学に歴史的に絶対に移行し得ないような自然科学は無い。一切の自然科学は相互に歴史的に浸透する。この歴史的な相互の浸透に基いて科学の分類も企て得られるだろう。この分類――それは方法による分類である――は併し諸科学の絶対的な独立性を証明するためにではなく正に諸科学の相対的な非独立性を確立するためにこそ企てられる。云わばリンネ式なもしくは百科辞典的な分類では之はない(もし方法を科学の論理構造としてのみ理解すれば、そのような方法による分類がこのような種類の分類にならないことは保証の限りではあるまい)。――諸自然科学の在り得べき真に有機的な分類は、自然弁証法の第三形態の一つの変容に外ならないのである。
今、科学そのものに対して科学が取り扱う対象が、そして、方法に対しても亦対象が、思い出される順序である。自然科学(乃至数学)の諸対象の相互の非独立性、茲に自然弁証法の第三形態の重要な変容形態があるのである。かくて例えば断続量は連続量にまで――論理上――止揚されねばならぬ、之が微積分的方法の、微積分学の――歴史的――発生を物語るものである。正数の系列は正数と負数との系列にまで――論理的に――止揚される、歴史的には之が算術から代数学への・算術的方法から代数的方法への発展を意味している。
非独立・連関に於て見られた対象はそれが同一哲学的に同一でない限り、常に対立を含まねばならぬだろう。弁証法に於て対立・否定が語られる所以は茲にある。そこで人々が例えば数学や電磁気現象に於ける+と−との対立に特別な興味を有つのは自然である。併しながら大事なことは対象に於けるこのような自然弁証法的対立は、常にかの歴史性の見地から理解されなければならぬということである。正数と負数との単なる対立はそれ自身としては少しも弁証法を構成しない、ただ正数が負数にまで、――歴史的に――拡張されたという、この歴史性をその経歴としてこそ、正数と負数とは弁証法的であることが出来る。この例を並列関係に引き直すためには、物質の引力と斥力との交互作用が例として引用されても好い。電気や磁気ならば、+が−に、−が+に成る例として、引用されるべきである。勿論歴史的な・即ち一方向を指し示す・運動を並列的な交互関係に引き直すのだから、そこでは多少とも歴史性が忘れられ勝ちなのは尤もである。かくて自然的事物のもつ弁証法的対立は往々にして初めから全く非歴史的なものを意味するかのようにも見える。自然弁証法に対する不信の重大な原因の一つが茲に横たわる。実際かかる関係を自然弁証法の誇るべき特色であるかのように主張するならば、弁証法は単なる言葉となるのであり、それは弁証法の俗流化にしかならないだろう。吾々は単にこのように把握された所謂自然弁証法に対しては弁証法という市民権を与えることは出来ない。何故なら自然が、単に一つの経験的な自然法則であるかのような弁証法を有つと考えることは、概念・理念みずからが弁証法的に発展すると考えることより遙か以上に、神秘的なことであるのだから。ただ吾々は今のような自然弁証法の歴史的である出所経歴を知っているが故に、之を浮浪罪に問う代りに之に保護を与えることが出来る筈である。――自然科学的(乃至数学的)対象の自然弁証法は、他の場合にそうあったと同じく、常に歴史性に於て理解されるべきである。
自然弁証法の第三形態のこのような変容形態を吾々は、次に述べるような理由によって、自然弁証法の第四形態と呼んで好いと思う。
自然科学的(乃至数学的)対象の弁証法を、従って又対象を、歴史性に於て理解すること、今云ったこの注意は処が、「自然的諸概念」を歴史性に於て理解せよということを、従って又自然的諸概念の弁証性を(無論歴史性に於て)理解せよということを、意味するに外ならぬ。――吾々は「自然科学の歴史性」を「自然概念の歴史性」と対立せしめた上で、分析を前者から始めたのであった。であるから今や分析は前者から後者へ抜けて出たわけなのである。之が今掲げた自然弁証法が自然弁証法の第四形態として、特にその第三形態の他の変容から区別された理由に外ならない。
さてこの自然科学乃至自然概念の即ち「自然の認識の」――第三・第四の――弁証法は、かの「自然の」――第一・第二の――弁証法とどう関係するか(吾々は最も初めに「自然の歴史性」と「自然の認識の歴史性」――とを対立せしめた)。だがこの関係はすでに述べられてあったのである。曰く、後者は前者の抽象形態に外ならないと。自然の認識が人間によって始められる以前にすでに自然はあったのであるから、自然の弁証法の方が自然認識の弁証法よりも基礎的ではないか、と云うであろうか。確かにそうである。だが弁証法に於ては又基礎的ということは、初めに来るということは、それだけ抽象を意味しはしなかったか。
以上のようなものが所謂自然弁証法の諸形態である。
吾々は最後に自然弁証法が他の弁証法とどう関係するかを、至極手短かに見よう。自然弁証法は他の一切の弁証法の依り処であるかどうか。
自然弁証法は歴史の弁証法に対立する一つの特殊な弁証法であった。それは一般的なるものの云わば応用だろう。この一般的な弁証法は人々によれば思惟の夫である。弁証法的論理・方法・が之であろう。処が吾々が最初見た通り、弁証法は之よりも先に存在一般の規定でなければならなかった。このような存在は哲学的な意味では自然と呼ばれて好い、だが所謂自然弁証法の自然という意味では――自然科学的な意味では――夫は必ずしも自然ではない。で、もはや吾々の解答は明らかである。唯物弁証法が唯物的であるが故に、その依り処を自然の内に、従って自然の弁証法の内に、求めねばならぬというような考え方は、概念の何等かの混同から結果するものである。
自然弁証法は弁証法一般の依り処では必ずしもあり得ない、ただ自然も亦弁証法的であるということの依り処――証明――に過ぎない。
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第二篇
五 社会科学に於ける実験と統計六 歴史と弁証法
七 イデオロギーとしての哲学
八 日常性の原理と歴史的時間
かつて私は方法という概念を三つに区別した。第一は研究方法(Untersuchungsmethode)、第二は科学的概念構成方法、第三は世界像の形成要素(拙著『科学方法論』〔本全集第一巻所収〕)。この区別は大体今日でも普遍性をもつものだとは思うが、併しこれは元来、自然科学と歴史科学とに(リッケルト教授達が之に最も注意した)問題の中心を置いた上で与えた区別であって、特に社会科学という形態の科学に就いて之の方法を考えて見るためには、そのままではもはや適切でない。で吾々は今の場合、もう少しの別な道を選ばなければならないのである。無論その結果が前の区別と無関係ではあり得ないのであるが。
方法(Methode)を第一に、手段(Mittel)と(狭義の)方法(Weise)とに区別する必要がある。科学とは一般に組織的な統一的な認識であり、従って科学を齎すためには、組織的・統一的な方法(Weise)がなければならないが、併し他方に於て、そういうあり得べき諸ワイゼンの内に含まれた、そして夫々のワイゼの間隙を埋めている処の、断片的な科学手段乃至認識手段も亦なければならない。この手段・ミッテルはそれ自身ではまだ科学方法(ワイゼ)ではなく、具体的な科学方法(ワイゼ)の床の中に定着されて初めて具体的にその方法的機能を発揮し得るものであるが、それにも拘らず、凡ての研究者乃至常識人が日常常に之を用いなければならない処の、抽象的で個別的ではあるが普遍的な、用具である。概念分析・数学的操作・実験・其の他がそういう認識手段乃至科学手段だと考えられる。
これ等の諸手段は、諸科学が相当発達した段階に来て初めて、顕著な意味のある形態を取るものであるから、人々は之等のどれか一つを取って来て、夫で以て一定の科学の方法(ワイゼ)を特色づけ得るかのように考えたがる。或いは少なくとも、夫を以て一定の科学の理想的な方法(ワイゼ)だと考えたがる。例えば人々は経済学が理論経済学として発達することによって、その対象が数量的に、即ち数学的操作を以て、取り扱われ得るのを見て、理論経済学の方法の特色又は理想が、数学的方法だと考える。もしそういう理由から数理経済学の科学的優越性を唱え得ると思うならば、夫は個別的で断片的な認識手段をば、組織的で統一的な科学方法と混同するものである(数理経済学に或る科学的優越性があるならば、夫は他の理由――例えば均衡理論――から出て来なくてはならない)。数量的決定・数学的操作は如何なる場合にでも、集った人間の数を数える場合にでも、用いられねばならぬ。それは何も数理経済学を権威づけるものではあり得まい。
又吾々は、殆んど如何なる場合にも、数学的操作や実験を行なう場合でさえ、概念を用いてしか考え得ない限り、概念分析という手段に依らざるを得ない。数学的操作が結局例の数学的帰納法の原理に立っていると同様に、概念分析は、所謂演繹の原理に立っているが、この原理が普遍性を持っていればこそ、古来論理学と言えば主として演繹論理学に限るとさえ考えられたのである。だがこの概念分析はこのように普遍的であるにも拘らず組織的・統一的な具体性を有つのではなくて断片的・抽象的であるのだから、吾々は之を以てしては、如何なる内容科学をも、従って又如何なる社会科学をも、始めることは出来ない。之は社会科学の組織的・統一的・な科学方法(ワイゼ)とはなれない。で、もし強いて之を何かの科学方法にするならば、その科学はスコラ的となる外はない、アンセルムスの神の存在の本体論的証明のような方法に従って、社会の諸現象は演繹されなければならなくなるだろう。
実験も亦この点では少しも別ではない。吾々の経験的認識はすべて或る意味に於て実験に基いている。けれども之は何も一切の科学が実験をその組織的・統一的な科学方法としているという結果には導かない。世間では実験科学という言葉を使っているが、そして一体実験という言葉は仲々面倒な分析を必要とするものであるが、そういう実験科学であっても実験手段だけで科学方法が与えられるのではない。実験はそれが所謂実験科学に於てのように――実験物理学・実験心理学・実験動物学・等々――発展したものになればなる程、すでに一定の理論の上に立って装置され又解釈される外はないのであるが、そういう理論こそがその場合の科学方法(ワイゼ)であって、実験とはそういう科学方法の床の上に、任意の此処彼処に、浮動して横たわる処の、部分的・断片的な・一認識手段に過ぎないのである。
認識手段乃至科学手段としての、数学的操作・概念分析・実験・等々は、このようにして、或る意味に於て普遍的な手段であるにも拘らず、抽象的・断片的・部分的・な手段に過ぎないのであって、まだそのままでは具体的な・組織的な・統一的な・科学方法ではあり得ない。この諸手段は、科学的方法からは遊離して、見出されることが出来る。この手段が一定の具体性を有って来るのは、夫が一定の科学方法(ワイゼ)の内に、一定の位置を与えられて定着された場合である。そこで初めて手段は、方法の一定部分となるのである。
(尤も数学的操作や概念分析の手段は、数学とか形式論理学とかいう形式的な科学に於ては、そのまま科学方法となることが出来なくはないようにも見えるが、形式的科学は、今の場合――社会科学(乃至自然科学)の場合――問題外である。)
マルクスが『資本論』の第二版序文に於て、科学方法を研究方法(Forschungsweise)と叙述方法(Darstellungsweise)とに分けたことは好く知られている。吾々は今この区別を、もっと分析して且つ具体的にして見ようと思う。
研究方法はマルクスが簡単に指摘する処に従えば、まず第一に瑣末に至るまで材料を習得し、第二にその材料の色々な発展形態を分析し、第三にこの諸形態間の内部に横たわる連絡を嗅ぎ出すことである。即ち材料の収集・材料の整理・材料の関係づけが研究方法として挙げられているのである。――材料は言うまでもなく吾々が現代に於て経験しつつある現在の歴史社会から受け取られる。資本主義社会が示す具体的な諸事実が、研究の端初をなす。之が材料の収集に外ならない。処でこの具体的なる所与の内から、特に幾つかの特徴的なもの――普遍的なる・反覆する・処の――を他のものから区別することによって、之を他のものから引き離し、かくして材料を夫々の諸形態にまで整理・要約する。かかる抽象が即ち分析なのである。処でこの抽象は無論、抽象されたものの間に一定の関係を付け得るように行なわれる外はないから、抽象の結果は、おのずから諸形態の間の連絡を与えることにならざるを得ない。
だが材料の収集と言っても、実際問題としては決して単純ではない。今仮に自然科学において考えて見れば、化学的・地質学的・気象学的・天文学的・な諸観察(Beobachtung)がなければ物理学にとっての材料は与えられない。処がすでに観察は観察という経験の一定の蓄積がなければ有効な観察にはならない。観察の方法自身が経験的発達を有っていなければならない。だから之は決して単純な所与を与えるものではないのである。この点は社会科学に就いても少しも変らない。それは後にして、自然科学(今は物理学)に於ては併し、こういう意義を持った観察であってさえ、それだけではまだ充分な材料の提供者ではない。というのは、単に観察が、度量を示すべき器具による観察、即ち観測・測定(Messung)にまで精密化されねばならないばかりではなく、更に進んで器械を用いて材料そのものを新しく造り出して見るという実験(Experiment)にまで具体化されるのである。実験とは研究対象そのものを人工的に――実践的に――変更して、新しい所与を探り出すということである。
自然科学に於ける実験は、それがどれ程大規模なこみ入ったものであっても、要するに材料を収集するという一つの研究方法に過ぎない。元来実験と呼ばれて好いものには、ピンからキリまであるわけで、観測、測定も実は対象の現象形式を変更して見ることであるから一種の実験にぞくする。本能寺の溝に石を投げて見るということは観測であると共にすでに一つの実験である。ピサの斜塔から物を落して見たのは有名なガリレイの実験であった。それだけではない、吾々が店頭で新刊の書物の頁をハグって見るということからが、すでに実験的性格を有っている。そういうわけで吾々はいつも、何も組織的、統一的な科学認識を目的とすることなしにも、無意識の間にさえ実験という手段を用いている、これは前に言ったことだ。処で今、そういう実験という手段が、自然科学の科学方法の一定部分として、定着されたものが初めて、自然科学の研究方法(ワイゼ)――材料収集――の一つとしての実験なのである。
そこで問題は、社会科学に於ても亦、そうした研究方法(ワイゼ)――材料収集――としての実験が行なわれるかどうかである。認識手段として、断片的に偶然的に、実験的性格をもつ行動を、吾々が社会科学の領域に於ても行なうということは、あたり前であるが、今は、研究方法としての実験が行なわれるかどうかが問題なのである。無論吾々は歴史的社会的存在を顕微鏡や試験管によって観察したり観測したりすることは出来ないが、何もそう言ったものだけが実験ではない筈であったから、この問題は充分意味のある問題であることが出来る。
多くの人々は社会科学に於ける実験は不可能だと考える。無論自然科学に於てと同じ形態の実験が社会に就いて行なわれ得ないのは云うまでもない。だが実験とは先にも言ったように、対象を人工的に変更して新しいダーテンを造り出すことである。その際の手続きがどういう形態を取るかは、即ち自然科学で普通行なわれている形態を取るかどうかは、第二義的な問題だ。併し人々は言うかも知れない、自然科学に於ては、一定の抽象的な自然条件――例えば真空管の内部とか高熱の電気炉とか――の外から、吾々が之を観測することによって実験は可能になるのであって、実験する吾々は実験されるものの、条件の外に立っていなければならない、処が社会科学に於ては実験しようとする吾々自身が、実験されるべき社会そのものの外へ、どうしても出ることが出来ない。と言うことは社会は自然とは異って、任意に抽象して理想状態を造り出すことは出来ないということだ、だから社会科学では実験は不可能である、と。――社会が自然とは異って、任意の都合の好い理想状態の抽出を許さないという言葉には一定の真理がある。だが自然科学に於ても原理上決して本当の理想状態などは抽出され得ない。可能なのは、現在の自然科学の発達に応じた自然的諸条件の客観的な結合の上で許される処の諸状態でしかない。吾々はそういう諸状態の内から特に吾々の目的にかなった状態を所謂理想状態として選択するまでなのである。例えば完全な真空や絶対温度の零の状態は、今の処実験的には不可能なのであって、吾々は適当な低圧のガスや適当な低温の固体の自然的存在を選択する外はないのである。
そう考えれば社会科学も何等この点では自然科学と絶対的に異るのではない。吾々は過去の歴史的諸事件の内から吾々の研究目的に都合の好い理想状態を選択することが出来るし(例えば革命・戦争其の他)、又現在に於ては様々な社会運動や社会政策・社会施設によって、客観的に可能な理想状態を不完全ながらも実現しつつあるだろう。ただこうした実験が自然科学の夫と本質的に異る点は、自然科学の実験が、歴史的な時間条件から自由であるに反して、社会科学の夫が歴史的時間をもう一つ余分の制限としているために、それだけ実験の自由度が狭められている、ということである。だからこそ社会は自然程任意に理想状態を抽象され得ないと考えられたのである。
之と同じことに帰着するのであったが、自然科学の実験が、実験対象の言わば外から加えられ得るに反して、社会科学では実験者が実験対象そのものの内に初めから這入っている、と云った点はどうか。と言うのは、社会科学では実験しようとする対象が、実験の結果単に予定の変更――理想状態の出現――を経て表現されるだけではなく(実験はいつも対象の変更であった)、実験するものが同時に実験されるものなのだから、実験対象Aの実験による変更A′は、同時に実験対象Aのではなくて何か他の実験対象例えばBの変更として、現われて来る。吾々はAを実験しようとしてAの実験の代りにAならぬBの実験の結果を得て了う。だから社会科学では実験は不可能だと言うのである。――だが自然科学に於て、完全な所謂理想状態が原理的に不可能であったと全く同様に、完全に実験対象の外に立って実験を行なうことも亦原理的に不可能なのである。実験的に測定すべき対象は、測定の物理学的手続き(そういう一種の新しくつけ加わる物理現象)それ自身によって、変化を蒙って了う。だからここでも矢張り対象Aを実験しようとしてAならぬB、Bに変ったAの表現をしか得られない。之は近代物理学に於けるハイゼンベルクの不決定性の原理として知られている。それにも拘らず、自然科学の実験は現に堂々として成っているではないか。ただ実験の哲学的意味が最近の物理学者の間に再検討されつつあるまでであって、実験の事実上の可能性自身には何の変化もない。
社会科学にとって、実験というものが、単に断片的な認識手段としてだけではなく、統一的な科学的研究方法として、どれ程必要であるかは別として、少なくとも、社会科学に於ては実験が不可能だという正当な論拠は見出せないように思われる。シミアンなどは実験的操作という概念を至極広い意味に理解している。彼は実験を単に分離・純化・抽象の操作と考え、自然科学ではその操作が物質的であるが社会科学では之に反して観念的であるに過ぎないと主張する。両者に於ける実験的操作は同一性格のものであり、単に程度の差が二つの場合を区別するに過ぎないと言っている*。無論吾々によれば、この区別は決して程度の差などではなくて、一定の本質的な質的相違なのではあるが、同じく実験的操作の性格を有つ点では、二つの場合は質的に同一だと云っていいのである。――一体シミアン等が経済学に於ける実験の可能性を指摘しようとする動機は、その実証主義的社会理論から来るのであるが、之に反して社会科学に於ける実験の可能性を否定しようとする多くの人々の動機は、彼等の特有な――文化哲学的・歴史哲学的・精神主義的な――観念的・観想的・歴史観及び社会観から来ている。社会科学を個性記述的な歴史科学に還元したり、之を了解的手段によって貫かれた表現の世界などと考えたりする、社会科学論乃至歴史科学論を採用すれば、実験的操作は無論高々自然科学の内部だけに限られて了わざるを得ない、夫は至極尤もなことである。
* F. Simiand, De l'experimentation en science conomique positive (Revue Philosophique, 1931).
実証的な自然科学的諸範疇との連帯関係を見失わず、又実践的な歴史理論の地盤の上に立つ処の、マルクス主義的社会科学の研究方法にあっては、実験的操作は一定の積極的な価値を与えられねばならぬだろう。これによって人々は初めて、歴史的諸事件や社会的諸運動・諸政策をば、研究材料として如何に用いるべきであるかを知り得るだろうから。だが社会科学に於ける研究方法に於て、実験的操作よりも更に重大な実質的な意味を持つものは統計的方法である。一体統計的研究方法は生物学の領域から始まったと言われているが、それが最も重大な効用を発揮したのは、却って社会科学に於てであった――社会統計。だから一方に於て統計的方法乃至統計学が自然科学と社会科学との両者に共通な方法乃至科学だという主張があるに対して、他方では、夫は社会科学にだけ固有な方法乃至科学だという主張も成り立っているのである。統計的方法とは、とに角、材料を収集し、整理し、関係づける処の具体的な方法である、だからそれは前にのべた(マルクスの)研究方法そのものを或る意味で代表しているわけである。でその限りでは、何も之を社会科学だけにぞくする方法乃至科学だと決めて了う理由は、まだない。
だが自然科学に於ける統計的方法とはどういうものであるか。メンデルが雑種植物の変種の発生に関する所謂メンデルの法則を発見するのに、統計的方法を用いたというような場合――一般に Biometrie の場合――は、実は取り立てて論じなければならないような統計上の問題をあまり多くは含んでいない。それは出来て来た多数の変種植物を、その異同によって分類し、之を二つとか四つとかの要素の代数的な組み合わせとして説明すれば好いのであって、その個々の材料自身は別に殆んど何の吟味を必要とするものでもない。――だが近代の物理学は、こうした云わば単純な統計関係とは別に、他の或る統計的なものに行きあたっているように見える。ハイゼンベルクの例の不決定性の原理に従えば、物質(エレクトロン)の各瞬間に於ける存在位置は原理上、絶対的に厳密には決定出来ず、或る一定の確率を以て言い表わされる外はない。だからこのプロバビリティーに基くエレクトロンの存在に関する立言は凡て、絶対的確実性を有つことが出来ずに、大体の一定傾向を言い表わすものでしかない。その意味に於てこの立言は統計による立言と性質を全く同じくしている。之が第一に思い起こされる自然科学に於ける統計的なものであるように見える。
だがプロバビリティーに基くもの必ずしも本当に統計的なものではない。統計的方法はなる程その統計解析としては確率論(Homogradstatistik に於て)又は誤差論(Heterogradstatistik に於て)を手段とするのであるが、第一、統計解析という数学的操作手段が統計的方法ではなく、又第二にプロバビリティーに基くことはそれだけでは何も確率論や誤差論に基くことにはならない。でこの場合の確率的なものはまだ本当は統計的なものなのではない。もしここに物理現象の統計性を見ようとするならば、それが熱力学の第二法則・エントロピーの法則のもつ統計性とは、その限り別なものであるのを忘れてはならない。
尤も、機械論的に孤立した個々の現象の存在と認識とが物理学的に無意味であって、物理学的に存在し又認識し得るものは集団現象だけだということが、今言った関係の一般的な意味だという点に注目すると、そして之はこの関係の弁証法性を言い表わすものなのだが、そうすれば問題は大量観察(Massenbeobachtung)に関係して来るので、全く統計的なものがそこに見出されるように見えるかも知れない。――併し物理学に於けるこの種の大量観察(例えば一定容積内の分子の諸運動)は、実はまだ本当の統計的研究方法としての大量観察ではない。なぜなら、直接な材料として観察され得るものは、個々の量、又はより正当に言えば、個々の量が合理的に少数なものにまで省略された個々量、ではなくて、実は初めから大量そのものでしかない。場合々々を一つずつ反覆し(同時的に又時間的に)、或る相当な回数・個数に至ってその平均的分布を求め、そして初めて大量観察を結果するのが、本当の統計方法としての大量観察であるが、今の場合では初めから大量が一つの完結した一個の量として与えられるに過ぎない。物理学に於けるこの大量観察はだからまだ本当の大量観察ではない。その証拠には物理学的実験では、その回数の多少よりもその一回的な確実度が問題なのである、実験は統計的ではなくて一回的だ。だから人々は往々実験的なるものを統計的なものに対立させることさえするのである。
物理学で、大量観察に最も対応したものと見えるのは例のエントロピーの統計的法則である(プランクは之を他の力学的法則から区別した)。なぜならここでは経験し得べき個々の熱現象を平均して初めて現われる傾向律(云わば Trend)――エントロピー(之はそれ自身集団概念だ)の蓋然的増加――が云い表わされるからである(ここでは吾々はL・ボルツマンの名を忘れることが出来ない)。処が大事なことは、この統計的法則も、プロバビリティーに基くにも拘らず決して統計的方法としての大量観察から引き出されたものではないという点である。そうすればここでも亦統計的なものは決してまだ統計的研究方法から来たものではない。一般に、法則が統計的であるということは必ずしもその法則の発見方法が統計的であるということにはならない。
で結局、自然科学に於ける統計的研究方法は、高々例のメンデル法則の発見に際して行なわれた種類のものに過ぎないと考えられる。そしてその場合の材料が、自然物であるために、単純であったから、従ってこの統計的方法にはあまり取り立てて云う程の問題はないと言った。――処が社会科学ではそうではない。
自然科学の研究方法では実験という認識手段が支配的であったに反して、社会科学に於ては大量観察という特殊な手段が支配的である。そしてこの手段が、社会科学では統計的研究方法の最も重大な一定部分となるのである。
一般に研究方法は第一に材料の瑣末に至る迄の習得であった。之が特殊的に具体化されたものが大量観察なのである。材料の習得(Aneignen)は材料の単なる占有ではない、占有された材料が同時に材料として耐え得るかどうかが吟味されていなければならない。材料のこの吟味にこそ、実は社会的量に就いての大量観察の特有な困難と秘密とが横たわっているのである。
例えば失業統計を得るために失業の大量観察をするとする。そのためには無論或る一定程度にまで個々の失業現象の諸場合を集積してかからねばならぬ。だが一体失業とは何であるか。職業を失ったのが失業であるか、初めから職業を持ち得ないのが失業であるか。家族に扶養されているものは失業者であるか。又職業の有無に拘らず生活が一定水準以下にあるものが失業者であるのか。一週間に一度か二度日庸人夫に出る割合になっているカード登録者は一体失業者であるか無いか。それから又抑々職業とは何か、学生という名は職業の名であるかそれとも社会身分の名であるか。又何を所謂貧乏線=貧困の水準とするか。まずこれ等の失業の概念を決定してかからなければ、失業統計は全く出鱈目とならざるを得ない。それは五十万人とも三百万人とも言われ得るような、他愛のない数字になって了うだろう。――一般に統計材料は、材料の表徴する概念自身を社会科学的に分析した上でなければ、得られない。而もこの社会科学自身が階級性を有つ時、それによって得られた材料自身が、更に統計材料としての概念上の資格を吟味されねばならないだろう。
統計材料の各個の単位=要素はこうした社会学的概念分析を経て初めて成り立つのであって、この単位の如何によって大量それ自身の単位も亦決定されて来て、従って夫々異った統計を与える結果になるのである。こうやって与えられた統計が初めて、かの瑣末に至るまで習得された所謂「材料」の特殊的に具体化された形態なのである。――人々はここで見るべきである。前に一つの断片的な抽象的な認識手段(ミッテル)として掲げておいた概念分析なるものが、大量観察というこの統計的研究方法(ワイゼ)に於て、如何に具体化され定着されねばならないかを。
統計的研究方法は次に、大量観察によって得られたこの習得された材料(所謂統計)を、統計解析にかける。之が例の第二の、材料の整理、「材料の諸発展形態の分析」の特殊的な形態に外ならない。材料が時系列(time-series)をなさない時は、主に分布状態が与えられる、即ち大量的に多数な各場合は、いくつかの有限な場合にまで抽象=分析され、この有限な場合がそれぞれ散布度を持った一定の段階的諸形態となるのである。それから材料が時系列をなしている時、即ち歴史的時間がこの材料を制約している時、材料が示す処の事象の時間的変動はいくつかの基本的な変動形態に分布され、夫々の変動形態が析出される(例えば偶然的変動・長期的変動傾向・季節的変動・週期的変動=狭義のコンユンクトゥール等)。で之は全く材料の分析に外ならない。こうやって析出して得られた諸変動形態は次におのずから、夫々の時間的発展形態を示している。そこでおのずから材料の諸発展形態の分析が得られるわけである。
処で第三に、この分析の結果は又おのずから相互の間に一定の連絡関係を示し得る筈である。統計解析は、フリエの解析である調和解析によって、一定の変動形態を、より単純な相互に独立な要素的な変動(サインカーブとコサインカーブ)の合成として分析し得るし、又二種以上の材料の変動形態の間に様々な段階の相関関係を見出すことも出来る。之が例の「材料の諸形態間の内部に横たわる連絡を嗅ぎ出す」ということの特殊的に具体化された形態に外ならない。
さて今大事なことは、この分析・統計的解析が、単なる分析ではなくて一定の具体的な手続きを経た処の数学的操作だという点である。前に一つの断片的・抽象的な認識手段(ミッテル)として掲げておいたこの数学的操作が、今茲で、統計解析という統計的研究方法として具体化され定着されたことを、人々は注目しなければならない。
以上のようなものが社会科学に於ける研究方法の特殊的に具体化された形態である(統計学は研究方法にぞくする社会科学であろうと思う。蜷川虎三『統計学研究』1を見よ)。尤も一切の場合がこのような特殊性に於て具体化された形態を取っているのではなく、又取る必要もない、又取ってはならないかも知れない。ただここまで特殊的に具体化され得べきものであったのが、マルクスの所謂研究方法だというのである。
さてマルクスによれば、この仕事がなし遂げられた上で初めて、歴史的社会の現実的運動は適切に叙述され得るのである。分析され抽象されたものが、再び具体的なものに還元されるのである。ここから叙述方法が始まるというのである。そしてマルクス主義的・唯物史観的・叙述方法は弁証法の外にはない。研究方法は要するに材料の問題に関する。統計的方法は唯物史観的方法に材料を提供するものでなければならない。統計的方法による諸結果は弁証法的認識のための一つの特殊な具体的な材料形態なのである。
だが弁証法自身は決して叙述方法になってから初めて力を現わすのではない。弁証法としてのこの叙述方法は現実そのものに適切に対応したものでなければならなかったが、現実そのものが元来弁証法的発見をなしつつある。だからそういう現実の具体性を抽象し分析する過程であった処の例の研究方法は、実はいつも現実のこの弁証法に導かれているものでなければならなかった。現に材料の吟味一つをするにも概念分析が必要であったが、それは弁証法的以外の手続きでは成り立つことが出来ないし、統計の数学的操作をするにも弁証法的方法による見透しなしには、単なる数学的演算に終って了って何の統計解析の意味も有てなくなるだろう。――ただ研究方法に於ては、この弁証法的方法が、叙述方法に於てのように、云わばヘーゲル風に、形式的に表面へ出て来ないと言うまでなのである。のみならず叙述方法自身も、別に弁証法的図式――もしそういうものがあるなら――に従って行なわれねばならないのではないのである。
叙述方法に立ち入る余裕は今はない。だがそこでは弁証法的=マルクス主義的=唯物史観的方法に対して、恐らく経験的方法(Mitshell や Wagemann の景気変動論のもの)と数学的方法(Pareto や Walras の数理経済学のもの)とを対比させ、これ等のものの相互関係を明らかにしなければならないだろう。
[#改段]
存在論という言葉は、今日の割合新しい哲学では一つの通り言葉になっている。だが吾々はこの言葉をもっと対立的な意識の下に、明晰に使わなくてはいけない。
もし存在論と云うならば、夫は言葉通り、存在の理論でなければならない。存在から区別されるべき存在に就いての観念や概念や理念、存在から区別されるべき存在の仕方や形式又は形相、存在から区別されるべき存在の基底や本体、又最後に、存在から区別されるでもあろう「事実」、等々、凡そそう云った存在からの哲学的分泌物――夫が如何に根本存在と呼ばれようとも――に就いての理論が、存在論であってはならない。――存在とは常に存在する処のものそのものである。
無論、理論は、理論である以上、存在を一般化し、抽象し、その限り又之を形式化す。理論はいつも哲学的――存在論的――範疇と共に始まるのである。併し之は何も、存在を、存在の哲学的導来物で以て置き換えることにはならない、理論(乃至哲学)という生産的な技術は存在という生まの材料を加工する代りに、すでに出来上っている処の加工品である哲学物・哲学固有の専売物を、処理するものに止まるのであってはならない。今理論が、存在を予め、存在に就いての哲学物にすりかえておいて、この哲学物を恰も存在自身であるかのように取り扱って見せると、如何にも哲学(乃至理論)は哲学独特の固有な世界で、自由に振舞っているように見える。哲学には哲学プロパーという絶対的に不可侵の桃源があるように見える。そういうものが所謂形而上学なのである(では哲学はどこで実証科学と異るかと問うだろう。夫には他の機会に語るべき多くの主張がある)。
人々は哲学的範疇と形而上学的範疇との区別を注意せず、従って二つのものを混同する。人々によれば哲学的理論とは、何か超物理的な――先験的とか・本質的とか・純粋なとかの――形而上学的な根柢から出発することだと考えられる、存在という哲学的範疇は、云わば根本存在というような形而上学的範疇によって理解されて、初めて哲学的になると考えられる。哲学的――存在論的――範疇からすれば存在からの哲学的導来物に外ならなかった形而上学的存在は、形而上学的範疇からすれば、却って存在自身をその導来物として従えている処の根本存在ともなるのである。かくて哲学的範疇による世界観と形而上学的範疇による世界観とで、世界の秩序が全く逆に云い表わされるのを、吾々は注意しなければならない。
哲学的――存在論的――範疇の代りに形而上学的範疇を採用しようとすることは一般に、存在の代りに、存在ということの意味の・又は存在というものの持つ意味の・解釈を取り上げようとする、観念論の一般的なテーゼから来る、必然的な当然な結果なのである。存在を真に解釈するには或る一つのことが必要である――夫に就ては後を見よ、だが存在の意味を解釈するには、何物をも要しない、ただ単純に哲学さえあれば好い。こうした哲学としての哲学、純粋哲学、夫が形而上学だったのである。
さて歴史――それは一つの存在である――は、起きた、起きつつある、起きるべき歴史も、又書かれる歴史も、夫が哲学的に理解されるためには、哲学的範疇の下に理解されねばならない。と云うのは、歴史を哲学的に理解すると称して、之を形而上学的範疇の下に理解することは、許されない。と云うのは、歴史(Geschichte)は例えば始原史(Urgeschichte)というようなものによって理解されてはならないのである。それはこうである――
まず一つの回り道をしよう。人々は存在の特色をどういう処に見出すだろうか。少なくともそれは、仮に最も一般的と考えられるスピノザの規定を借りて云えば、それ自身にありそれ自身によって考えられる処のものである、と云って好いだろう。存在はそういう意味で、最後のものだと考えられる。存在の性格を普遍者に置くのも個体に置くのも、こうした最後のものを求めた結果なのである。
近世に於ける存在の概念の特色は、この最後のものをば、特に生乃至生命に見出したという点にあると考えられる。デカルトの自我表象から始めて、ライプニツの表象能力所有者モナドも、カントの自律的自由主体も、フィヒテの自意活動的自我も、自分が自分に還るという形に於ける最後のものを意味し、そしてそういう形の最後のものが、一般的に云えばとりも直さず生乃至生命の形を有つのである。この意味で近世哲学――夫は実はブルジョアジーの代表的哲学であるが――の精華は、要するに生命哲学に帰着すると云うことが出来る。ベルグソンやディルタイの所謂「生の哲学」は、こういう生命哲学の最も特徴的な場合の一つに過ぎない。フランス唯物論が生理学的唯物論として登場したのも亦、だからこの点からしても無意味なことではなかった。
だがなぜ生命が最後のものであったか。存在の性格はなぜ生命にあると考えられたか。人々は生命によって、意識の――自我・思惟・観念等々の――独立を表象することが出来るのである。人々は意識の独立な・自由な・絶対的な活動の内に、本当に生きた生命を感得する。それはのっぴきならない最後の事実だ。世界がどうあろうと、他人がどうあろうと、自分が生きているという意識に疑いはあり得ない。こういう一切の他のものからの自由こそ、疑うべからざる良心(Gewissen)なのである。生命こそ存在である。云い換えれば、意識こそ存在である。
存在を意識として結果するこの生命哲学は、存在の最後の保証者を、感情的な又は理性的な明白性に求めようとする。所謂明白感情や普遍的理性必然性が夫である(現象学の本質直観やベルグソンの直覚、カント学派の普遍妥当性は之に外ならない)。――だが茲で吾々は本道へ帰ろう。
結局に於て生の脈動に興奮している意識哲学は、生命の・意識の・明白性の内にこそ、事実の事実たる所以があると考える。事実は証明することも出来なければ説得することも出来ない、それは単純に、明白に、そうであると云う外はない、それ程事実は直接で無条件なのである、とそう考える。――併し明白なもの必ずしも事実ではなく、又事実必ずしも明白であるとは限らない。少なくともそれが意識の事実に限られないならば。
存在を保証するものは、或いはより正確に云えば、存在に就いての意識を保証するものは、なる程明白性かも知れない。だが存在自身を保証するもの、或いはもっと正しく云えば存在それ自身の性格をなすものは、その事実性でなければならないだろう、そしてこの事実性とかの明白性とは少なくとも別であった。
存在の性格をなすだろうこの事実性は、存在の質料性・物質性の内にあるだろう、そして之こそが存在の歴史性なのである。吾々が住む世界の事実は、それが純粋に自然的な事実であるにしても、常に歴史的事実である。で、存在の性格は、その歴史的事実性の内に存する。歴史――歴史的事実・歴史的資料――とは一般に存在の性格なのである。さて今、この歴史が、形而上学的範疇によって理解されてはならない。
存在のこの事実性、物質性、即ち歴史性は、歴史的因果関係によって云い表わされる。普通、因果律は何か自然科学に固有なものだと考えられている。併し自然科学の法則に於ては、因果は時間の変数を含んだ単なる関数関係となって了うか、単なる傾向律(エントロピー法則)となるか、又は高々 time-series 風なものでしかない。そこでは、時間が事件を惹き起こす本当のエージェントとなるということがない。だから、自然に於てではなくて歴史に於ける因果こそ、却って本当の因果関係でなくてはならないのである(それが例の「個別的因果」であるかどうかは第二次以下の問題である)。歴史的因果とは歴史的時間に固有な関係である。そして歴史的時間こそ、本当の・本来の・時間であった(「日常性の原理と歴史的時間」の項〔後掲〕でこの点をもっと詳しく述べよう)。
かくて歴史と時間とは等値物である。時間の内で歴史が起きると考えることが不充分であると同じに、時間の外へ出るならばそこには何の歴史もない。――処で吾々の問題は、時間の始原の問題に関って来る。というのは、時間には始めがあるか、即ち時間は生じたものであるか、即ち時間は何かの上で初めて成り立つものであるか、どうかの問題である。吾々は之を始原時(Urzeit)の問題と呼ぼう、前に云った始原史(Urgeschichte)は恰もこれと等価関係に立つのである。
人々は考える、時間は時間自身の中では自分の始まりを持つことが出来ない、始まるということはすでに時間の内にあることを意味するから。却って時間は永遠の上で初めて成り立つ。今そういう永遠のグリンプスを得ようとならば、瞬間を見るが好い、瞬間は永遠に這入る
だが仮にそれが本当であるにしても、時間の時間たる所以は、時間の背景に永遠が控えているということにではなくて、逆に、そういう永遠が、なお時間を産まねばならなかったという処に存する。そう云うと又、だからそうやって生まれつつある処の時間、云わば発生期の時間こそが、本当の時間・始原時ではないか、と云うかも知れない。だが、時間が時間たる所以はこういう発生期の時間が発生して了った時間にならねばならないという処にこそ、横たわるのである。時間の性格は時間の始原にあるのではなくて、方向を逆にして、却って時間の行きつく終点にあると云って好いだろう。――そうすれば一体なぜ時間をその始原・始原時から説明しなければならないか。それは事物の秩序を逆にして了うものではないか。
歴史的時間は、それ自身一つの原理である。それは他の諸原理に依存するのではない処の、最後の原理である。永遠も亦或る視角からすれば一つの原理であろう、だからと云って時間という最後の原理が永遠という他の原理に依存せねばならぬということはどこからも出て来ない。吾々はこういう最後の原理を日常性の原理と名づけることが出来るだろう(前掲論文を見よ)。
今問題は、之に平行して、歴史も亦一つの最後の原理でなくてはならないということである。そのために吾々は予め、存在の事実性・物質性の規定を挙げておいた。夫を今取り上げよう。
歴史の原理が事実性にあるということ。だが事実とは一体何か。それは甲でも乙でもあり得る事物が、特に甲であって乙でないということである。否、そういう一般的な説明の仕方では不充分だ、例えば吾々の空間の直観は三次元的であって四次元的ではないということ、或いは例えばナポレオンの最後の流刑地がセントヘレナであって他の島ではなかったということ、或いは又例えばシェークスピアはフランシス・ベーコンではなかったということ、等々が事実である。否、こういう事例は任意に一般的に引用出来るから、それは結局又一つの一般化に外ならない。で結局、あらゆる個別的な事件や事物の総体こそが事実なのである。過去の出来事から事例として拾い上げられたものは、事実からの引例であってまだ事実ではない。事実とは最後の Konkreta の連関的総和にあるのである。
だから歴史から事例を豊富に引用するということはまだ少しも歴史的ではない、歴史の原理は、一切の事件や事物がそのような秩序に於て発生したので、それ以外の秩序に於てではなかった、という処に横たわる。――従って又瞬間の刹那々々に規定される限りの事実は、そういう発生期の時間――始原時――に相当する事実は、まだ少しも事実的ではない。事実とは、すでに発生して了って一応固定した処の、所謂過去との連関的総和に於て、初めて事実となるのである。そこにこそ初めて歴史の原理が横たわる。で、こういう歴史の原理を吾々は当然、物質性・質料性の原理と名づけることが出来る。
事実性は、それ自身一つの最後の原理である。事実は苟くも一般的なものによって置き換えられてはならなかった、そうすることによって、事実はその事実さを増す代りに減ぜられる。それと同じに、物質・質料は、形相的・形式的なものによって置き換えられてはならない、そうすることによって物質・質料はその物質性を増す処ではなく、傷けられる。物質性は形相形式によって原理を与えられるのではない、物質性自身がみずからの原理なのである。物質性はそれ自身一つの最後の原理である。
このように事実性・物質性は最後の原理である。そして夫が歴史的原理なのである。だから歴史的原理は歴史自身がみずからに与える原理である、歴史は歴史以外のものによって原理を与えられることが出来ない最後のものでなくてはならぬ。
で、歴史の始原の問題は明らかである。歴史は歴史を産む処の歴史でないもの――例えば永遠――から生まれるのではない、歴史の始原は歴史自身にしかない、始原史は歴史の原理にぞくするものではあり得ない。
歴史を始原史(乃至永遠)から説明しようとすることは、歴史の原理を否定することであり、従って、結局歴史を否定することである。歴史的な存在は、或いは又歴史という存在は、之によって、その存在性を増す処ではなく、それだけ存在性を弱められ、それだけ存在性から遠ざけられる。――処が形而上学的範疇(始原史などが夫である)によれば、こうやって存在を遠ざかることこそ却って存在に肉迫すると考えられることになるのである。なぜなら一般に形而上学的範疇にとっては、存在とは存在の意味であって従ってそこで歴史と考えられるものは歴史の意味に外ならないのであるが、夫は恰も存在・歴史の反対な対立物に外ならなかったのだから。形而上学的範疇によって成る程歴史の意味は一応解釈されよう――夫が例えば始原史の概念である――、併し之によって、歴史そのもの――夫は事実的・質料的であった――は少しも規定されはしない。規定されない処ではない、歴史は之によって歴史としては消去されて了う外はないのである。歴史の意味を歴史そのものとして解釈することは、歴史の意味自身をさえ解釈出来ないことを意味する。
歴史が形而上学的範疇によって――例えば始原史としてとか永遠によってとか――理解されることは、歴史が単に歴史の概念としてその意味を解釈されることである、だがそれによって少しも、歴史は決定されない。というのは、歴史は少しも実践されないと云うことである。で問題は実践の概念に来る。――なる程、歴史が人間の主観の意志とか行為とかによってしか動かないということ、そういう意味での歴史の実践性、を強調することこそ、観念論が最も得意とする処なのだが、併しそれは単に、歴史が実践的な意味を持っているということを反覆主張していることに過ぎない。之によって歴史が――歴史の概念がではない――実践的に決定されるのではない。ここで問題になるのは、実践そのものではなくて単に実践の意味でしかない。
形而上学的範疇――夫は観念論の必然的結果であった――は、この実践の(形而上学的)意味をば、直ちに実践そのものと混同する。だからそこで実践と考えられるものは、高々倫理的な行為でしかあり得ないことになる。処で、どれ程それが社会倫理的な行為であろうと、倫理は常に個人の道徳性に還元されるように出来ている。かくて実践が個人の自由意志に帰着するのは尤もだと云わねばならない。実際、之こそ実践の(形而上学的)意味でなければならないに相違ない。だがそういう実践の意味は少しも実践という哲学的――存在論的――範疇をなさない。哲学的範疇としての実践とは、即ち存在としての実践とは、単なる個人的な又は社会道徳的な意志・行為の平面に於てはない、そうではなくて正に、歴史的・社会的――生産及び政治としての――実践なのである。なぜと云うに、そこまで行かないと観念に対して実践がもつ物質性が存在論的断面に接触しないからなのである。形而上学的範疇は、存在自身ではなくて意味の独自の世界の内を自己回転するから、遂にそう云った断面に接することが出来ない。そこで精々、抽象的な意志行為が実践となる外はなかったのである。その際この実践の物質性を示す断面は、高々行動の主体としての身体でしかあり得ないだろう。人間の歴史的行為は、云わば身振りによって置きかえられて了うのである。――存在としての歴史が始原史によって理解されなかったと全く同じに、存在としての実践(生産的・政治的・実践)は倫理道徳風の意志行為の範疇によっては理解されない。
形而上学的範疇に立て籠る限り、即ち哲学的――存在論的――範疇を斥ける限り、歴史は歴史的なものとして把握されることが出来ず、従って又歴史は本当に実践的なものとして把握されることが出来ない。――実践という範疇を理解出来るものは、人々が想像するように観念論ではない、そうではなくて却って唯物論でなくてはならないのである。
歴史、従って又実践、の問題は、第三に、弁証法の問題を呼び起こす。弁証法に就いても亦、哲学的範疇が形而上学的範疇から峻別されねばならない。
弁証法は何処にあるか。というのは弁証法の動力は何処で成り立つか、弁証法の動力は普通云われる通り矛盾にあると仮定して、それがどこで成り立つか。――矛盾は明らかに論理学的関係である、それはその限り思惟にぞくする。だがそこにすでに困難が横たわっているのである。
思惟は自同律に基かなくては成り立たない、即ち夫は矛盾を排除しなければなり立たない。処が思惟が矛盾を排除することは、矛盾が思惟の外に置かれることである。で、思惟にぞくするように見えた矛盾は実は思惟にはぞくさない、ということになる。純粋に論理的なものの内に於ては矛盾は成立しない、だからそこには弁証法はない。
弁証法を理解するためにはだから、眼を思惟から、純粋に論理的なものから、その外にまで移さねばならない。併しそこには二つの道がある。
第一の道は、思惟乃至論理の限界を指摘するために、夫の限界的な場合(Grenzflle)へ視線を集中することである。判断は一般的判断から個物の判断にまで追いつめられる。処で個体はもはや純粋に判断的なものではあり得ない、それは判断的一般者によっては限定し尽されない。ここで問題は自覚的限定の場面に来るのである。自覚は一つの意識である。だがそれは意識の奥底から裏づけられた意識である、だからそれは単に意識された意識ではない。意識の奥底はもはや意識とさえ云うことが出来ない。自覚はただ無の上でのみなり立つ。――処で自覚乃至意識に於て事実と考えられるもの、それは云うまでもなくもはや論理的思惟を絶したものだが、夫は、この無が直接に有であるという関係に外ならない、というのである。さてこの無が有であるということ、ここにこそ矛盾が成り立つ、ここにこそ弁証法が成立するのである、と第一の道は考える。
弁証法は単なる思惟の内に存するのではない、それは自覚の内に、意識を意識の背後にまで通り抜けた処に、横たわるのである。――今人々は注意すべきだ、弁証法は、ただ意識の側でのみ成り立つことが出来る、即ち夫は存在の側に於て成り立つのでは決してない。夫は無と意識的な有――だがそれは必ずしも存在ではない――との関係の内に横たわる。一口で云えば弁証法は、ノエシスの側に於て成り立つのであって、ノエマの側に於ては夫は決して成り立ち得ない。
批判はあと回しにして、今之を次の第二の道と較べて見よう。第二の道は弁証法を理解するために、思惟乃至論理自身の限界を指摘する。矛盾は実は思惟乃至論理の内に於て成り立つのでなくて、思惟乃至論理が、自分の対象とする処のものを、従って又思惟以外のものを、自分の内に取り入れようとしながら而も取り入れ尽すことが出来ない、という処に成立する。思惟だけでは矛盾は成り立たない、思惟と存在との関係の間に初めて矛盾があると考えられる。
例えばカントに於ける弁証法は、感性と結合して初めて認識を齎すことの出来る筈だった理性が、即ち存在を自分の内に取り入れることによって初めて役割を果すべき思惟が、それだけで独立に行動すると考えられる時、発生する。之は弁証法が思惟と存在との間に成立するということの消極的な表現であった。之を積極的なものにまで回転したのがヘーゲルの弁証法だったのである。――だがヘーゲルの弁証法は思惟(論理)の外へ踏み出そうと企てながらなおまだ論理の世界に止まっている。夫は概念の・理念の・発展形式に外ならなかった。ヘーゲルの「論理学」以後に於ける弁証法がその『精神現象学』に於ける自覚の弁証法を、思惟の夫にまで集約したものであった限り、茲に踏み止まらねばならないのは当然であった。
思惟から、思惟と存在との関係にまで弁証法の本拠を移さねばならなかったこの第二の道は、更に、この本拠を存在そのものにまで移さねばならない。と云うのは、思惟との関係に於て存在が矛盾を含んで来なければならないということは、何も、始め矛盾的でなかった存在を、思惟が参加することによって初めて矛盾の世界へ持ち出すということではない。もしそうならば、そういう思惟は初めから存在を考えるには不適当な思惟だったことになる。それは存在を考えるべき使命を持つ思惟としては誠に奇妙なことではないか。
そうではなくて、存在は、初めから、思惟との関係に於て矛盾に陥るように、弁証法的関係を顕わにするように、出来ているのでなければならない。存在それ自身が矛盾的である、だからこそそれに関する思惟が存在と矛盾関係に這入り、従って又思惟自身も矛盾を含まざるを得なくなるのである。
存在自身に矛盾があるということは不可能だ、矛盾というからには何か矛盾と思惟されるものでなければならぬ、とそう云うかも知れない。だがすでに、矛盾は本当は思惟の内にはあり得なかった。では思惟と存在との間にか、併し思惟と存在との関係自身は一体、思惟なのか存在なのか。矛盾は本来存在にしかあり得ない。否、存在の一定の弁証法的性質を、吾々の思惟は、論理的範疇を用いて、矛盾と呼ぶのである。存在には矛盾はないと云っても好い、そうすれば併し、弁証法の動力が矛盾だといってはならないという迄である。――弁証法は存在の運動の動力・法則である、それは強ち矛盾によるものでさえない。
第一の道は、弁証法の所在を、自覚を通って無に、之に反して第二の道は、之を存在に発見する。前者は之をノエシスの側に、後者は之に反して(前者の立場から名づけるなら)ノエマの側に、見出すのである。第一の道は、弁証法の動力を矛盾に求めそして矛盾の成立の場処を、意識の背後に於ける無の内に求める、第二の道は之に反して矛盾自身が成立する根拠を存在に求める。
この二つの道を分つ決定的な相違は何処から来るか。夫はこうである。前者は、矛盾という意味の成立する処を、矛盾の根拠と考える、之に反して後者は、矛盾という関係そのものが生じて来る処の根拠を以て矛盾を意味せしめる。だから後者によれば、元来矛盾は必ずしも弁証法の絶対的な動力とは考えられない、矛盾は寧ろ弁証法から生じて来る処のものである。矛盾は云わば弁証法の――無論必然的な――結果であるが、その原因ではない。
さて第一の道は、矛盾というものの意味の成り立つ場処を穿鑿することを通じて(弁証法の所在を突き止める代りに)、弁証法というものの意味をつき止める。而も後者を以て、恰も弁証法自身の所在を指摘したかのように見せかける。そうやって弁証法の所在と弁証法という意味とを等置するために、第一の道は、弁証法の意味の所在を示そうとするのである。だがそうするためにはすでに、意味の宇宙論体系が必要でなければならない。そこで第一の道は、例えばフェノメノロギーの術語を借りて、ノエマ・ノエシス的構造をその体系の竜骨とするのである。こういう意味の体系――解釈の体系――は、なる程そのものとしては全く正しい、だが夫が、存在の体系と代ろうとするならば、即ち存在の意味の解釈を以て存在の規定とすりかえるならば、そこに用いられる理論機関はかの形而上学的範疇以外のものではあり得ない。――第一の道は、弁証法を形而上学的範疇によって理解する。
さて第一の道のようなものが、弁証法の最後の――最も複雑化した――観念論的理解である。従って弁証法の唯物論的理解は、略々第二のような道を選ばねばならないだろう。そこでは哲学的――存在論的――な範疇だけが必要だったのである。
歴史に於ける弁証法は、であるから、決して歴史の言わばノエシス的側面の内に横たわるのではない。歴史の弁証法を自覚や何かに求めるということは、歴史を始原史から理解したり、歴史的実践を道徳的行為に還元したりすることと、全く同じ範疇にぞくする。形而上学的範疇は、こういう一連のイデオロギーに役立つべく、伝承され又拾い上げられる武器なのである。
存在は存在そのものとして理論されねばならない、そのための哲学的範疇は、形而上学的範疇ではなくて、恰も人の云う唯物弁証法の諸範疇に外ならない。
この文章は、最近わが国で発表されつつある有力な観念論的歴史解釈や観念論的弁証法解釈に対する、吾々の態度を覚え書きにして見たものである。読者は、西田幾多郎博士・田辺元博士・三木清氏等々の、意外にも殆んど同じい一つの性格に落ち合う処の最近の記憶すべき諸労作を参照しなければならない。
[#改ページ]吾々が現在住んでいる理論の世界では、イデオロギーという概念を哲学自身へ結びつけるということが、すでに、遺憾ながら説明を負わされた多くの問題を孕んでいる。なぜなら元来、単に哲学に関してとは限らず一般に、凡そイデオロギーという概念を正当に承認するかしないかは、却って人々がどういう哲学を採用するかによって、初めて決定されるものだと考えられるからである。だから哲学を一つのイデオロギーとして規定することは、他のものを一つのイデオロギーとして規定する場合とは異って、二重の自己反射的な関係に行き当ることを意味する。夫は哲学概念自身の自己反省を已むなくする。処で、典型的な独逸観念論者の言葉によれば、人が如何なる哲学を持つかは、人各々の人格の如何によるものなのである。そうすれば、人がその哲学的考察に於て、凡そイデオロギーという概念を正当に承認するかしないかは、人各々の――自由な不羈独立な――人格の如何によることになるわけである。夫を承認するかしないかは、全く人々の人格の自由にぞくすべきだろう。イデオロギーの概念は、之を承認したい者は承認するが好く、之を承認したくない者は承認しなくて好い。だからこれは、云わば倫理的な問題に帰着するものであって、倫理外の強制によって、他律的に、即ち又理論的に、決定出来ることではない、そう哲学者達は結論しなければならないだろう。――況して夫が、哲学自身に就いての問題である時は、愈々、哲学をイデオロギーとして規定したい人にとってのみ哲学は一つのイデオロギーであり、之に反して、哲学をイデオロギーとして規定することを欲しない人にとっては、哲学は何等のイデオロギーである必要もない、そう哲学者達は結論しなければならないだろう。――
だが、吾々が今、哲学を一つのイデオロギーであると主張する時、哲学者達の今のこの結論は、吾々に対して、可なりの寛大を示すものであることを注意しよう。彼等は哲学としての哲学・哲学それ自体・の外になお、少なくとも一応は、イデオロギーとしての哲学をも承認する。彼等観念論者は吾々に対して、恰も帝国議会の政治家の口吻に倣って、公平にも、それは立場の相違だと云って譲歩する。実際、それは全く立場の相違である、実は、人格が社会に於て立つ立場の相違なのである。併しこの公平な寛大な立場のこの社会民主主義は、実は理論上の無責任を意味するに外ならぬことを見逃してはならない。彼等は、吾々との論争をば、それの勝敗を決定する代りに、消極的にも水掛論に帰せしめる。吾々は勝たない、併し彼等と雖も亦敗れない、両者はこの理論的な議場に於て、少なくともとにかく平等な市民権を持つ、精々彼等はそう説得せねばならないのである。だがそれならば彼等は何故吾々に反対しなければならないのであるか、否、彼等が吾々を敗るために、何故かかる譲歩という武器にならぬ武器を用いるの愚をなすのか。真の武器は併し、このような合法的な理論の領野の、外に横たわっている。真の武器はかの立場に、人格に、存する。それは人格の問題である、だから彼等に味方することは善であり、彼等に反対することは悪である、なぜなら彼等の人格が社会に於て占める立場に味方することが善であり、之に反抗することが悪であるから。だからそれが立場の問題なのである。理論は水掛論に終っても構わない、最後の武器は理論外の人格乃至立場という要塞の中に存する。立憲的議会では人々に平等なる市民権を与えておくが好い、真実の立法者は立憲外の「吾々」の階級に存する。――哲学者達の寛大と譲歩と公平とは、このような所謂民主主義の本質そのものに外ならない機構なのである。
哲学を一個のイデオロギーとして規定する吾々は、――それが理論に関する範囲に限り――理論外の非合法的分野に於ては、彼等ほど老獪ではなく却って公平である代りに、理論の範囲内では彼等ほど寛大ではなく、又彼等と同じ意味に於て公平でもない。吾々の主張は理論以外の非合法的武器を援用しない、吾々の理論は合法的に――理論的に――武器をもっている。だから吾々の主張は正直で透明であることが出来る、従って夫は真理であることが出来るのである。だがどう真理であるか。
彼等は吾々の主張を一旦承認し、そして夫をそのまま又拒否する。哲学は一つのイデオロギーである、だが同時にそれはイデオロギーではない、と。之に反して吾々は、彼等の主張を初めから拒否し、そしてただ之に一定の変容を与えてのみ承認する。凡そ哲学はイデオロギーでないということはあり得ない、そして彼等の主張自身も亦一つのイデオロギーなのである、と。吾々が彼等の主張を一つのイデオロギーとして規定することは、全く、彼等の主張そのものを拒否することである、併し彼等がイデオロギーでないと主張する彼等の哲学の内容自身は、却って之によって初めて完全に救済されることが出来るのである。彼等の哲学自身の内容は時には吾々によって承認されるかも知れない、その哲学を包んでいる彼等の哲学概論が吾々によって反転されるのである。――哲学としての哲学は、イデオロギーとしての哲学を、包摂することも出来なければ無に帰せしめることも出来ない。之に反して、吾々のイデオロギーとしての哲学は、単なる哲学としての哲学を、包摂して了うことによって之を無に帰せしめる。この包摂関係を見れば、吾々の主張が理論的に如何に寛大でなくて蚕食的であるかが判るだろう。処がこの同じ力関係が同時に、真理は何れの側にあるかをも示している。
吾々は、イデオロギーとしての哲学も、哲学としての哲学も、之をイデオロギーに帰着せしめる。イデオロギーは――上部構造として――下部構造との連関に於て、イデオロギー相互の間に歴史的・価値的・な立体構造を有っている、諸イデオロギエンの間には一定の客観的な歴史的乃至構造的な秩序が、吾々によれば指摘出来る。処が之に反して観念論的哲学者は、イデオロギーとしての哲学をも、哲学としての哲学をも、単なる立場に帰着せしめる。単なる――理論上の――諸立場は、高々同一平面上に並列される外はない、人々はその平面上の立場を、どういう順序で踏んで行こうと結局同じである。そこには少しも一定の客観的な相互の秩序は見出されることが出来ない。もし今仮にこの諸立場の間に何かの秩序を見出そうとすれば、彼等はこの理論上の立場を産んだ社会的な立場にまで遡る外はあるまい。併しその時は、吾々の主張通り、前の理論的な立場が、とりも直さずイデオロギーに帰着せしめられる時である。――真理は何れの側にあったか。
かくて、凡ゆる哲学はイデオロギーとして性格づけられなければならない。――併し、哲学をイデオロギーとして性格づけることを承認しない人々が、どういう根拠乃至動機によってそうするかを見よう。
世間の人々は往々にして次のような誠しやかな説明を聴いただろう、科学は相対的存在の学であり、之に反して哲学は絶対的存在――実在――の学である、或いはだから、科学は相対的な学であり、之に反して哲学は絶対的な学である、と。科学は一つの知識的労働であり、恰も労働生産物が単に消費されるためばかりではなく次の生産のために利用されるべき運命に置かれているように、科学は次の時代の科学のための土台となるという運命を担っている、その意味に於て科学的知識は付加・累積される処にその特色を有つ、と考えられる。だから科学は――賤しい労働者と同じく――一日としてその成果に安んじることは出来ず、常に営々として変化――又は進歩――して止む処を知らない。昨日まで絶対的真理と考えられたニュートン力学は、新しい相対性理論によってその絶対性を完膚なきまでに打ち破られ、又ニュートン以来アインシュタインに至るまでの権威であった力学的(mechanisch-dynamisch)因果律さえ、今では単に古典的な力学の一信条であったに過ぎなくなったとも云われている。科学の真理は常に覆えされる処の真理・相対的真理・でしかない。処が哲学は、――そうこの哲学者達は主張するだろう――、自己自身の完備に到達する特権を有っている、哲学的真理に於ては、世俗的な時の流れから現われる文明の経験的与件に累わされることなく、一旦確立されたものは、永久に覆えされる心配のない聖域に安置される。哲学の真理は範疇的であり、永遠である、それは絶対的真理である、とそう云うのである。
併し哲学と雖も事実上変化するではないか、プラトン一個人の哲学すらその生涯の間に発展と変化の経験を嘗めねばならなかったではないか、プラトン哲学は又更に何故新プラトン哲学にまで推移しなければならなかったか。だが――そう人々は答えるだろう――変化したものはプラトン哲学の偶性又は現象に過ぎない、この偶性・現象の経験的な事実上の生滅に関ることなく、プラトン哲学の本質は、プラトンがそこまで行くべきであったその哲学の理念は、不変でなければならなかった。哲学は――事実上どうあろうとも――その本質・理念から云って、永遠であることが出来又従ってそうあらねばならないものである、と。――哲学は現象としては変化する、本質としては変化しない、それは現象としては歴史的である、本質としては超歴史的である、そこが科学の本質(?)と異なる所以であると、之が彼等の主張の要約であるように見える。哲学の本質は超歴史的であるから、歴史的一所産を意味するイデオロギーなどが哲学の本質であることは出来ない、と。
併し本質と現象とを、このように使い分けたが最後、凡そ変化する歴史的な本質などはあり得ない筈である。だから科学の本質と雖も、それが本質である限り、超歴史的でなければならない筈ではないか。そうすると科学の本質と哲学の本質とはどこで別になったのか。之は単に変化しないものを仮定してそれを本質と名づけたまでで、何も吾々の問題の解決ではない。問題は本質と現象とを単に区別することではなくて、両者がどのような統一を持つかに存する。この統一の仕方にこそ科学と哲学との相違――それを吾々は決して無視してはならぬ――も横たわるだろう。吾々は科学と哲学とを、相対と絶対、変化と不変、現象と本質、歴史と超歴史、に配することは出来ない。一体そうすれば科学の本質は不思議にも変化する本質でなければなるまいし、哲学の事実上の変化は又却って本質的変化でなければならなくなろう。本質と現象とを絶対的に区別することは、一方に於て変化を全然無意味・無原理な単なる変化として仮定することであり、他方に於て――その当然の対応物として――不変な絶対的な静止として、即ち変化と何の関係もないものとして、即ち不変ですらないものとして、仮定することである。こういう二つの仮定物は機械的にででもなければもはや絶対に統一され得ない。そうすれば一体両者の統一――それがなければ現象と本質とを区別した動機すらがなかった筈だが――はどうなったのか。人々はここで一つの悲喜劇を見ないだろうか。――歴史的変化が無意味でない限り、即ち歴史には歴史自身の原理がある限り、その原理は本質的である、歴史的変化は実は本質自身の現象形態なのである、だからこそ歴史的発展も歴史的進歩もあるのである。で、本質が超歴史的であるなどとはもはや人々は云えないだろう、歴史こそ却って事物の本質である。哲学の歴史的規定は却って哲学の本質である。
哲学のこういう歴史的本質は併し、哲学の理論の真理内容自身とは別ではないかと云うかも知れない。正にそうではない。一体哲学の理論上の真理内容と区別された哲学の本質などはあり得る筈がないだろう。実際、哲学の真理内容自身が歴史的規定をその契機として有っているのである。哲学の真理価値内容は歴史的秩序――変革・進化等々――そのものの或る特定な意味に於ける反映である。凡そ価値は存在の射影なのである。哲学の歴史的規定は真理自身の規定である。それが哲学の本質なのであった。――哲学はもはや超歴史的ではない、それ故之を理由として哲学のイデオロギー性格を否定する根拠は成立しない。
哲学がその本質から云って仮に歴史的であるとしても、なおそれは超社会的ではあり得ないか。もしそうならば哲学がイデオロギーとして性格づけられねばならぬ理由はまだ少しも無いだろう。或る学者達は「社会」と「文化」とを区別する。文化は人間の精神的生活の所産であるが、社会は之に反して自然的生活の形態である。文化は精神であり社会は自然である、文化は云わば観念であり社会はいわば物質である。処で哲学は正に一つの精神にぞくする、だからそれは自然的・物質的な社会から、仮に制約されるにしても、ただごく外部的・偶然的に、制約されるにしか過ぎない。――文化は高貴であり社会は卑賤である、哲学の本質は――アテナイの貴族的哲学者達以来――この卑しい社会によって制約されるような冒涜に耐えるべきではない。民衆は何時の世でもかの民主主義者アニュトス輩によって代表される愚衆である。世間の「人々」は人間としての自主を失った云わば群衆心理の所有者にすぎない。かかる愚衆や群衆によって哲学の本質が制約されるということは、哲学の不名誉であって決してその名誉ではない。哲学を社会への堕落から護れ。――人々はこのような多少感傷的な論理から、哲学のイデオロギー性格を斥ける神聖な義務を痛感するようである。
社会を歴史から引き離して考えてよいという仮定が併し、已に根本的に誤りである。この仮定は、一方に於て社会学的な社会概念を、他方に於て文化哲学的な歴史概念を、この一双の理論的戯画を、結果する処のものである。かくて社会学は不毛の石河原となり、文化哲学は営養なき砂糖菓子となる。哲学が歴史的であるならば、それが超社会的であることは許されない。――併しそれはそれとしても、文化を精神の範疇に入れながら、社会を自然の範疇に入れようということが更に誤りなのである。社会は物理的自然と同じ性格を有つのであるか、それが別ならば、その相違は「社会」と「文化」との相違に較べて、問題にならない程小さいのか。社会と文化とは社会と物理的自然とのこの相違――少なくともそれは零ではあるまい――を相対的に零に消滅させる程、無限大に、相違しているのであるか。精神的(文化的)なものと物質的(自然的)なるものとは、このように無限に、絶対的に、区別され得るか、又されなければならないか。精神は物質から完全に独立にその本質を保つことが出来るか。成程精神は物質から――この一見大まかな概念を使うとして――一応根本的に区別される、併し物質から区別されるということが精神の本質の凡てではあるまい。それとも貴族が賤民から特権によって区別されるということがその唯一の本質であるように、精神の唯一の本質は物質からの区別にあるとでも云うのか。精神がそのような高貴な特権的存在であるとでも云うのか。実は、問題は、この区別された物質と精神、社会と文化とが、どう統一されて存在しているかに存する。問題はここでも――現象と本質との場合及び其の他のどの場合に於てとも同じく――二つのものの間の区別ではなくて、区別の統一に存する。文化と社会とを、精神と自然(物質)とに配することも好いだろう、併しそれであるからと云って、文化と社会とを絶対的に区別して了って好いということは出て来ない。であるから、今や文化がその本質上、社会――この自然的・物質的なるもの――によって制約されない、ということはあり得ない。両者は統一的な連関を有つことによって初めて夫々の本質を示すことが出来る筈であったから。であるから従って、哲学――夫も一つの文化であった――が社会によってその本質を規定されない、という主張は根拠を失う。哲学の社会的規定は哲学の本質である。
人々は、こう云っても、再び繰り返すだろう、哲学の社会的規定は、一個の社会的存在としての限りの哲学の規定ではあるが、まだ哲学の理論内容、その真理価値自身の規定ではない、と。だが吾々はすでに哲学の真理内容の歴史的規定に就いて断った言葉を又茲で繰り返せば好い。社会は単なる社会ではなくて社会的秩序――身分・階級其の他――を有つ、この秩序の位置のエネルギーが哲学の理論の真理価値の秩序の運動のエネルギーにまで変換される。凡そ価値は存在の射影であった。哲学の社会的規定は、哲学の真理自身の規定である、それが哲学の本質なのである。
哲学の本質は社会的存在としての夫の性格の内に横たわる。社会はその物質的下層建築から上層建築としてのイデオロギーを産み出す。哲学の本質はこのイデオロギー性格と共に存する。哲学は思想の学だ。
哲学が社会的に制約される本質を有つことは承認しよう、だが社会は必ずしも階級社会ではない。哲学の本質が階級社会によって、即ち又社会階級によって、要するに階級によって、制約される必然性は必ずしもないではないか、その限り哲学の真のイデオロギー性はまだいくらでも疑える余地があるではないか、人々は最後の譲歩の後に、最後の堡塁に立て籠って、そう弁疏するだろうと思う。なる程社会は今までいつも階級社会であったのではない、社会の概念は階級社会と同一概念ではない、それは言葉が別である通り別である。併し何故それであるからと云って、今日の階級社会に於て、階級が哲学の本質を制約することが出来ないのであるか。もし(社会という)事物の歴史に於て常に反覆する不変者(社会一般)のみが真の普遍者であり、それのみがこの事物の本質をなすものならば、人間の社会は要するに動物の社会に還元されねばならなくなり、動物の社会はもはや社会でないものに還元されねばならぬ破目に立ち至るだろう。社会は社会でないものに、零に、帰着する。で実際、そこに残るものが社会という単なる概念――無内容なる一般者――だけであるのは尤もである。だがそのような概念――併し実は夫は概念などではない――はもはや、存在する社会そのものと何の関係もない一つの観念上の名に過ぎない、吾々はそういう概念を概念として実際的に使用することが出来ない(概念は概念的になる時却ってその概念としての機能を失う)。実際を云えば、社会の本質はそれが階級社会でないという処にあるのではなくて、却って、それが階級社会とならねばならなかった処に存する。――だから社会が哲学の本質を制約するならば、少なくとも現在の社会が、即ち階級社会が、現在の哲学の本質を制約する。だが現在はただ偶然に出て来た現在ではない、夫は歴史の本質的な必然的な帰結であった。で、この現在に於て、哲学の本質は階級によって制約される。
なる程哲学は永久に階級によって制約されはしない、そういうことはあり得ないし、又吾々はそういう事情を止揚せねばならぬ。だが哲学が将来階級の制約を受けなくなるだろうということと、――それは哲学の本質が変るためではなくてそれよりも前に階級が消滅することに依るのであるが――哲学が現在階級の制約を受けているということとは、場合が別である。吾々が哲学に於ける階級支配を止揚せざるを得ず又すべきであるということと、哲学が現に階級支配を受けているという事情を見ないということとは、正反対である。哲学は少なくとも現在――そして今までも殆んど凡てそうであったが――階級的本質を持っている、哲学の本質は現に政治的性格を有つ(哲学が政治的性格を有つということは、併し、哲学が政治学を有っているということと同じではない、夫は哲学が政治的自覚を持つということではない。却って哲学の一つの政治的性格は、それが何等の政治的関心を示さないという点にさえ現われる。二十世紀の有力な諸哲学は――プラトンの『ポリテイア』やアリストテレスの『ポリティカ』のような古典的な手本にも拘らず――不思議にも、政治学を有たないことをその特色とさえするように見える。だからこそそれが客観的にはそういう一つの政治的性格を示しているのである。性格は必ずしも自覚されない、例えば自分の人格のもつ性格は、本当は自分では判らないように)。
哲学は政治的イデオロギーと、意識的或いは無意識的に、連帯関係に這入っている。哲学はであるから社会によって制約されたが最後、現在では階級イデオロギーをその性格とせざるを得ないのである。哲学が一つの階級イデオロギーとして現われる時こそ、夫が最も顕著にそのイデオロギー性格を現わす時である。人々は三たび哲学の階級的規定が哲学の真理価値の上の規定と関係がないと主張出来るだろうか。だが実際は、一つの階級がその階級のイデオロギーとしての哲学を真理にまで導くことが出来、之に反して、他の階級はその階級哲学を真理から遠ざけざるを得ないというのが、事実である。哲学的真理は階級性をもつ。より特徴的に云うならば、哲学は党派性を有つのである。
だが理論は、別けても哲学の理論は、冷静・公平・無私でなくてはならない、それは個人的乃至人間的利害の判断や、好悪や、欲求によって左右されてはならない、別けても哲学は理論的であるべきであって実践的であってはならない、それは「純理」であるべきであって「政治」であってはならない、哲学のこの階級性を好まない――極めて多くの――純理派哲学者達は必ずそう云うだろう(こういう「哲学」は寧ろ却って議会「政治家」の方がより好く体得している、例えばそこには純理派の「是々非々主義」――之は非を是とし是を非とすることの告白に外ならないが――がある)。併し利害・好悪・欲求等々、この関心、Interesse とは何か。もし人類全体が同一の関心を持つならば、人類の哲学から関心を閉め出そうというこの努力は殆んど無意味に終るだろう。之が意味を持つのは、主として、利害・好悪・欲求が夫々衝突する場合に限られる。理論にとって有害なのは、であるから恐らく関心そのものではなくて関心の衝突に外ならぬ。実際、相手の有つ何かの関心を排斥することはこの関心を排斥しなければ不利になるだろうという自己の別な関心からである。排斥されるべきは関心そのものではなくてかかる主観的な関心でなくてはならぬ。一体理論はそれが哲学に関する限り、カントが夫を最も広く適切に理解したように、関心的なのである。客観的な関心は却って理論そのものの生命であるとも云うことが出来よう。手近かな、主観から見て近接した、関心――この主観的関心――は、理論の大局から見た関心――この客観的な関心・真理――への回線を短絡するが故に、初めて反理論的作用を働くに過ぎない。理論は客観的な関心と一致する。
処で政治的関心に限って客観的ではあり得ないのか。個人的な――この主観的な――関心はまだ政治的関心ではない、政治的関心は已に何か客観的である。党派的関心――党派感情――と雖も凡てその限り一応客観的である。ただそれがなお主観的と考えられるのは、実はそれが対立した諸党派の一つのものにぞくするからではなくて、その党派を支持することが再び専ら自己個人の主観的な関心に帰着すると考えられるからに外ならない。個人の主観的関心が党派的関心の名義の下に個人の主観的関心に再帰するというこの主観的関心の輪の秘密を、人々は党派主義と呼んでいる。党派主義的党派は何等の客観的関心を持たぬ、それは党派ではない、だから実際、それは例えば社会階級と意識的に結合することが出来ない。実例を挙げればそれは農民の階級を代表すると公言する地主階級の政党であったりせざるを得ないのである。真の党派的関心は客観的関心である、実際、例えばそれは社会階級の関心を意識的に代表することが出来る(「プロレタリアの党」)。そしてプロレタリア階級の関心・利害は、外でもない、人類全体の関心・利害への一致に向かう唯一の通路なのである。それは党派的であるが故に却って客観的であり、却って党派主義的でない。ここでは関心は――利害と雖も――単なる一個人・一階級の関心に止まらない、なぜならそれは単なる――主観的――利害の判断や好悪や欲求ではなくて、存在の運動それ自身の――客観的な――必然性の表現に外ならないから。凡そ存在の運動の必然性の体験と認識こそ、真に客観的な関心であったのである。関心の主体が幾個あるかなどはそこでは問題ではない。
さて政治的・党派的・階級的・関心は、その条件(例えばその階級が何であるか)によって、客観的であり得ねばならぬ。かかる客観的関心は少なくとも、政治的な理論の生命である。政治的理論はそれ自身、政治的・実践的であることによって初めて理論的となることが出来る。処で哲学の理論が政治的イデオロギーと連帯責任を有ったとすれば、哲学の理論が実践的・政治的・党派的・関心に動かされた階級イデオロギーであり得ない理由は、もはや無い。――
このようにして吾々は、凡ゆるあり得べき階層の諸視角から、イデオロギーとしての哲学を否定する根拠と動機とを批判した。夫によれば、哲学がイデオロギーでないという主張は成立しない。――併し、之はまだ、哲学がイデオロギーでなければならぬということにはなるまい、と人々は云うだろうか。けれども、哲学が一つのイデオロギーであるということは、単純に一つの事実である。ただこの事実の隠蔽と歪曲が、吾々にかくも手数を掛けさせたまでであった。
哲学は、単なる哲学・哲学としての哲学・ではない、それは常に――時には顕著に階級イデオロギーとしては時には隠然と――イデオロギーとしての哲学である。
それがギリシアに於てであろうと印度に於てであろうと、其の他どのような土地に於てであろうと、哲学は宗教から発生した。原始的宗教――一文化として特殊化された今日の文明人(?)の宗教ではない――原始型宗教は、社会的生活を営む人間の生活意識(人生観)乃至世界観の原始状態に外ならなかった。処で人々は、この原始型宗教的な世界観(乃至生活意識)が社会的制約によって歴史的発生をなしたものであることを忘れてはならない。夫は決して人間の意識の独自的な動力によって形成されたものでもなければ、まして神的なものからの
単なる世界観は、であるから併し、まだ必ずしも哲学ではない。そこには多くの撞着と不統一とが含まれるのを常とする。その意味に於てそれは全く神話的であるとも云えよう(神話と哲学とは歴史的に不離な関係に於てある、この関係がそのまま体系の内に編み入れられたものがプラトンの対話篇・例えば『パイドン』や『ティマイオス』の如きであった)。世界観のこの撞着と不統一との、整理と統一、神話からの脱却が事実、哲学の発生であった。哲学の発生は世界観の統一化にある、そこに世界観の理論化が、体系化が成立する。哲学とは統一的世界観・世界観の体系化に外ならぬ。だが茲にすでに哲学の体系が待っているのである。――哲学の体系を云い直せば諸範疇(根本概念)の体系に外ならない、そして諸根本概念の又最も根本的なもの、範疇の体系の出発をなす概念、それは存在の概念でなければならない。だから今や哲学の体系は、一般に存在論と名づけられる。
次に併し、存在論に於ける存在の諸概念は、云うまでもなく存在そのものではなくて存在として把握された存在の概念なのであるが、そこには存在の把握のされ方、存在の取り扱われ方、が、已に予定されていた筈である。存在をどう把握しどう取り扱うかによって、実は、夫々異った存在論が、範疇の体系が、哲学体系が、決定されて来る筈だったのである。体系を産んだものは世界観であった、だがこの体系を支持し合法化すものは方法である。かくて存在論は自分を権利づけるために論理学を産み出す。論理学は存在論の地盤から、夫を支持する必要によって召喚される。
世界観――存在論――論理学。之が哲学がその地盤から根柢づけられる秩序であるが、同時に之は哲学の歴史的発生の順序に略々対応するだろう。そしてこの順序の逆が、哲学の自己合法化・権利づけの順序なのである。――之がイデオロギーとしての哲学の一般的な構造と運動形態とである。
一般的な構造と運動形態とである、何故一般的であるか。世界観は存在論を、存在論は論理学を(又は世界観が直接に論理学をでも好い)発生し根柢づける、だから最も正常な――その意味で一般的な――理想状態の下では、世界観に於て現われる一つの特徴(例えばプラス+)は、そのまま(プラスとして)存在論へも論理学へも伝えられる筈である。一般的にはそうなのである。だが哲学が一つのイデオロギーであるという点から、当然に、世界観――存在論――論理学のこの二つの連絡点には、元来弁証法的な質的飛躍が含まれている。だからそこでは、後の者が前の者の特徴の符号を逆転するような機構も潜入することが出来るわけである。哲学のこの三つの根本契機は決して常に幸福な統一を持つのではない。例えば論理学と存在論との食い違い(方法と体系との乖離)又は論理学と世界観との乖離は、ヘーゲル哲学に於て人々が好く指摘する処であり、存在論と世界観との行き違いはニュートンの自然哲学などで最も有名である。一概に云えば、イデオロギーの歴史的発展の契機的な過渡期に位する諸哲学的思想は、多くそれ自身の内に矛盾を持つのであるが、その矛盾がかかる三つの契機の間の歪みとして現われる。この歪み、この食い違いは、哲学というイデオロギーの歴史的・現実的――弁証法的――発展の真理を物語るに外ならない。だがそればかりではない、例えば物質生活に人間的関心を集中する物質主義的世界観の所有者が、却って精神主義的存在論を不随意に或いは故意に所有し又は之に左袒することは、人々の好く見る人間喜劇である(例えばセネカはこの点で評判が好くない)。イデオロギーは、意識は、嘘を吐くことの出来る唯一の存在である、哲学の存在論的体系は世界観を意識的無意識的に改竄することが出来る、そこには人間的な虚偽が横たわる。――であるから吾々は、同一符号を有つからと云って、すぐ様之を同一系統の世界観――存在論――論理学であると真正直に考えることは、実際には許されない。外部的な・一般的な・公式上の合致は往々吾々を欺く、夫は丁度、排斥されるべき極左的偏向が無意識的に、往々は実に意識的に、反動を代表するのと同じである。
では、哲学のかの一般な構造と運動形態とを語ることは無意味であるのか、それは有害な公式主義ででもあるのか、そうではない。世界観――存在論――論理学の系列を通じて、一見+と−との両側に無秩序に往復するように見えるかも知れない哲学の諸特徴を吾々は、事実を根拠として、+と−との典型的な二列の特徴によって、基本的に・基準的に、要約する権利を有つだろう。恰も、凡ゆる社会的身分や階級が、相互の間に無限の段階の対立をなしているにも拘らず――そして之等の小さい諸対立は歴史が現在に残した諸契機から来るのであるが――、それ等が結局プロレタリアとブルジョアジーとの二階級の対立の内に編制されるべき構造を有っており、又歴史的開展の必然性から云って現に愈々そうなって行きつつある、それと全く同じに、その上層建築として、諸特徴を備えた一切の哲学イデオロギーは、相互の間の無限層の対立にも拘らず、結局二つの根本的な世界観――存在論――論理学の系列にまで、それからの偏差として、編入され得る構造を事実上持っているのであり、而も単に構造上そうあるばかりではなく、これ等の諸対立が歴史の展開に従ってこの二列の哲学イデオロギーにまで愈々顕著に集約されて行くのが現在の事実なのである。吾々は今、この現実の事実の命じる処に従って、この事実自身を抽象するまでである。だから、古来凡ゆる哲学は観念論であるか唯物論かである、という言葉は、決して乱暴な分類に基いた放言なのではない。――このようなものが哲学の一般的な構造と運動形態とである。このような統一的な一般性は併し、哲学をイデオロギーとして規定したればこそ初めて見出されることが出来たということを、忘れてはならぬ。
(場合によっては、哲学の発生と根柢づけの順序を、前とは逆に、論理学――存在論――世界観とする必要が事実生じて来るだろう。即ち世界観が、ではなくて却って論理学が、哲学の構造上及び歴史上の出発点でなければならぬような場合が、特に哲学の歴史が老いれば老いる程、多くなるのは事実である。併し哲学がイデオロギーである限り――そして茲でも亦イデオロギーとしての資格が有効に作用するのを見よ――逆のこの順序は今まで云った一般的な構造と運動形態とではあり得ない。唯物史観――イデオロギーの概念はこれの一特産物である――は存在の上下の構造を交換することを許さない。)
そこで、吾々は、世界観――存在論――論理学というイデオロギーとしての哲学の三つの根本契機を通じて、二系列の哲学イデオロギーの対立を一般的に指摘し、そして一系列がこの三つの契機に相当して有つ三つの性格と、他系列の同等な三つの性格との、夫々の間の対応的対立を、一般的に指摘しよう。――重ねて注意しておかなくてはならぬ、ここで見出されるであろう一般的関係は、決して単なる主観的な抽象ではなくて、哲学の客観的な歴史的発展それ自身がみずから抽出した処の、哲学というイデオロギー的存在それ自身の運動の基本・基準であるだろうことを。吾々はだから、之を基準としてこそ初めて、吾々の分析を行ない得るということを。
プラトンは『テアイテートス』に於て、哲学の動機を賞歎に置いている。というのは(アリストテレスの言葉を借りるなら)眼が見ることを喜び耳が聴くことを喜ぶように、学は学のために愛される――愛知・哲学――と云うのである。だからプラトンによれば哲学の父タレスも、天体を無心に賞歎しながら溝に落ちたと伝えられる(タレスは併し実はもっと実際的な技術家であったように見える、そして又プラトンよりも多少実際的なアリストテレスによれば、タレスはオリーブを買い占めて巨利を博したそうである)。プラトンの世界観――哲学の出発・動機は――全く観想的であった(その見られるイデア、彫塑的なエイドス、その諧調的な構造美を見よ)。この観想的な世界観はまず第一に、アテナイの奴隷経済組織とそれに基く民主主義政治への発展から、第二にはペルシア戦役後の当時のアテナイの経済的・政治的・従って又思想的・動揺から、第三にはプラトン自身の出身階級のこの動揺の内に於ける位置から、説明され得べきものである。之は動揺期に於けるアテナイ貴族の優れたイデオロギーなのであった。之によれば実践生活それ自身さえ結局、観想の・思索の・実践でなければならなかった。観想こそ優れた実践であった。――この観想的世界観に対立するものは、実践的世界観である。吾々はこの代表者を古くは、常に政治的開放を最後の関心としつつあったユダヤ人の信仰の内に、又当面の支配者とその手先とであった皇帝と学者とに向かって抗争した一人のキリストの信念の内に、見出すことが出来るだろう。実際キリスト教はローマに這入ると初めは忽ち奴隷のイデオロギーとなったのである。後にそれが皇帝の手に移り教父達の哲学体系にまで組織立てられた時、夫が元来の実践的性格を失って了ったということは、今茲では問題ではない。――世界観は観想的と実践的との二つの性格として対立する。
存在論に於て観想的世界観に相当するものは観念論――イデア主義――である。茲では存在がイデア的存在によって性格的に代表されるものと考えられる。イデアは第一に、吾々が之を処理し征服し変革し利用すべき存在ではなく、正に見られたる、観想されたる、存在である。観念論によれば見られたるもののみが存在である、存在とは見られてあるということに外ならない。だから第二にイデア的存在は、不変で永遠な存在である、それは動かない静止した存在である。存在が、之に手を触れて変容すべからざるような場合は、存在それ自身に満足している処の、動く必要のない処の、存在である場合に限るだろうから。観念論によれば、存在とは動かないということ、止まっているということに外ならない。だからこの存在は又一定の形態を固持せねばならないわけである。イデアはエイドスである(プラトンに於ける不動な存在としてのイデアの概念は併し、すでにパルメニデスにその先蹤が見出される。その限り代表的な観念論はエレア主義に結び付くと云うことが出来る)。一定形態を有つならば第三にイデア的存在は形式的・一般的存在でなければならず、従って又その限り抽象的でなければならない。この存在論によれば存在とは、特殊であることではなくして正に一般的であることに外ならぬ、だから夫は就中概念乃至観念でなければならないだろう。なぜなら事物の一般的なるものを吾々は概念と呼び、そしてこの概念なるものはとりも直さず一つの観念に外ならないから(概念と訳されているギリシア語は多くエイドスのことである)。そして最後に、観念は何かの意味で、結局主観にぞくするものに帰着せしめられることが出来る。観念論に於ては、存在は主観である。――之に反して、実践的世界観に相当する存在論は唯物論――質料主義――である。茲では存在が唯物的・質料的存在によって性格的に代表されると考えられる。第一に、質料的存在は、吾々が之を処理し征服し変革し利用し得又せねばならぬ処の、要するに吾々が之を形成せねばならぬ処の存在である。それは或る意味に於て、出来上って了った存在ではない、その意味に於て之はまだ真の、或いは寧ろ単なる存在ではない。もしイデアを存在と同置すれば、之はその限り却って無と同置されるのは尤もである。それは単なる存在ではない、観想的に放置しておけば存在ではなくて無である、併し之を観想的に無に放置しておけないということがこのものの本性をなす。之は無から有を生じることそのことを云い表わす処のものである、そして、ここでこそ、無に於てこそ、無からこそ、初めて、存在は成り立って来る。こういうものこそ却って真の存在ではないのか。真の存在は単なる存在ではなくて無と有との――弁証法的な――統一である。これが質料的存在の存在たる性格をなす。存在はそれの生成に於てのみ存在である。だから第二に又、質料的存在は運動・変化をその性格とする。運動し変化するということが存在の概念そのものなのである(唯物論はその限りヘラクレイトス主義に結び付く)。運動変化するものはその形態を固定しない、そこでは固形の形式はあり得ない。だから第三に質料的存在は形式的ではあり得ない、それはとりも直さず質料的でなければならない、だから夫は又一般的でなくて特殊的であり、従って抽象的ではなくて具体的なのである。それ故質料的存在は概念的存在ではなく従って又観念的存在でもない。唯物論的存在論によれば、存在とは感性的従って又物質的であること自身に外ならない。感性はその一面から云えば受容性の能力である、感性的として性格づけることは、であるから、実は之を何かの意味に於て客観にぞくするものに帰着せしめることに外ならない。唯物論に於ては存在とは客観である。――代表的な観念論に於てはイデア・観念が存在である、之に反して代表的な唯物論に於ては、存在の概念はとりも直さず物質の概念である、或る特別な存在が物質であるというのではない、物質ということが存在ということだと云うのである。
処で、観念論的存在論の一つの原理的な作用は、夫が二元論に陥らねばならぬということである。観念論はイデア的・本質的・超現実的・存在を存在と考えるから、之は必然に感性的・事実的・現実的・存在に対立しなければならなくなる。実際、典型的な観念論的存在論はどれも、高貴な存在と卑賤な存在とを仮定する二世界説――理想主義――として出発しただろう(プラトン、カント)。存在概念それ自身が、結局完全な自己運動を与えられることが出来ないから、夫は運動の動力の一部を、他の下位の存在との交渉から受け取らねばならぬのは当然である(フィヒテの自我は自己運動をする、だが自然というもう一つの存在は自我の運動によってでも運動出来たか。何故フィヒテからシェリングの自然哲学が出て来なければならなかったか)。唯物論は之に反して恰も、観念論が卑賤な下位存在と想像するものから出発する。処がこの存在――物質――はそれ自身が運動である。だから之は運動の動力を他の仮定された存在との交渉から借りて来る必要はどこにも無い筈であった。例えば人間の存在を優れて理性的なものとすれば之は感性との二元論を結果しなければならぬ(カント)。人間の存在が初めから感性的に規定されれば、理性も亦この感性から発展されることが出来よう(フォイエルバハ)。――だが、人は問うだろう、感性から如何にして、之と全く質の異った理性が展開され得るのか、感性からどうやって理性を出して見せるか、一般に、物質的存在からどのようにして観念的存在が引き出されるのか。併し、問題はここで、存在論から論理学に移る。この問題はもはや、哲学の体系ではなくて哲学の方法に関わる。
論理学に於て、観想的世界観又は観念論的存在論に相当するものは、形式的論理学である。或いは寧ろ形式論理的方法である。之に反して実践的世界観又は唯物論的存在論に相当する論理学は、弁証法的論理学である。或いは寧ろ弁証法的方法である。今この弁証法が唯物弁証法でなければならないということは、もはや説明を必要としない。ただ、注意すべきは、弁証法が必ずしも弁証法的論理には限らない、ということである。弁証法とは元来、存在それ自身の内部的な必然的構造の機構の名である(人々は往々、弁証法を必然的なものとして指摘出来得るのは、存在そのものに於てではなくて、存在の意識に於てだけであると考える。例えば論理・概念・自我・自覚・階級意識・自覚的実践・等々に於てだけだと考える。もし、弁証法の必然性が存在に就いての明白感の内に横たわるならば、確かにそうである。併し元来存在はこの主観に於ける明白感によって必ずしも決定されるものではない。存在は吾々の無意識の内に運動する。弁証法は吾々が之を明白に意識することによって初めて必然的となるのではない、そこで必然にされるのは弁証法的規定そのものではなくて単に弁証法の意識に外ならないのである)。
形式的論理は同一律A=Aによって成立すると考えられている。之は二つのことを意味する。第一は、Aが何であっても好いということ、従って、無は無であるでも好く、無内容は無内容であるでも好いということである。夫は形式的論理の無内容性・形式性を云い表わす。無内容性は内容からの独立性、形式の自己独立性である。形式的論理に於ては、Aを措定することは全く自己の独立な・他から制肘されない・権利である、AはAに等しくさえあれば構わないのであるから。A=Aはであるから第二に論理の独立性を云い表わす。論理はここでは論理的なるものとして、独立の、他の存在から無関係な、領域をなす。それは存在と無関係である、ここに形式論理の超存在性・非実在性がある(形式的論理は形式的であり非実在的である、之だけで已に夫が唯物論の反対物・観念論的存在論に相当する所以は明らかであろう)。
弁証法的論理は之に反して存在の・実在に関する・論理である。夫は実在を解明し実在を表現するという任務を忘れない、そこに已に存在性・実在性があるだろう。夫は内容的論理である。だからそれは存在から完全に独立して了う権利を有たない、この論理は完全な独立性を持たない、従ってそこでは任意なものの自己同一は論理的な問題とはなり得ない(尤も夫を無下に排除するのではないが)。同一律は弁証法的論理を支持することが出来ない、その限りここでは同一律は行なわれない。かくて矛盾がこの論理の本質をなす。なる程今、弁証法的に物を語る場合、Aという概念がすぐ様Bという概念にすり代えられたり、今言った命題がすぐ様否定されたりしては、元来論理的に語ることは出来ない筈である。その限り、或る適当なその場その場のエポック(停止)に於ては、形式論理的同一律が支配していなければならない。併し之は何も、同一律が、弁証法的論理による言表を一定の意味ある言表として支持している証拠にはならない。論理の云わば精神は実は論理そのものにあるのではなくて却って論理外の存在に在る。この存在の内に横たわる論理の生きた動力を、恰も論理自身の内にあるかのように見ようとするから、そしてそれには同一律が最も手近かな標準なので、この動力を同一律の上に見出そうとするから、正に夫は矛盾として現われなければならなかったのである。この場合、論理が矛盾的であるということは無論、何も論理の不名誉ではない。何故なら、それは却って存在に対する責任に忠実である証拠なのであるから(弁証法的論理は客観的な存在――物質――のための論理である、それが唯物論の直系に相当することは之だけからも明らかであるだろう)。
弁証法的論理は存在を把握するための論理であった。処で、弁証法的論理――それは唯物論の直系・唯物弁証法であった――にとっては存在は物質である。それはそして運動する存在であった。それ故弁証法的論理は運動の論理である。それは事物をその運動に於て捉える論理である。処が事物が運動することは一般的に云って事物の歴史である。それ故この論理は歴史性を有つ。歴史は同時存在に対しては第三次元であるから、歴史性は又立体性とも名づけられよう。実際、立体の上層の面に於てA=Aであろうとも、それが歴史的に推移して、立体の下層の面まで来た時、A=Bとなることは全く合理的――論理的――であるだろう。ここでは同一律が守られながら、而も之を問題にしないで済むわけである。形式的論理は今云った夫々の面に相当する、形式的論理は平面的である、それは歴史性を有たない。――弁証法的論理のこの歴史性・立体性は、存在が人間的社会の歴史そのものである時、当然なことであるが、その面目を愈々著しく発揮する。歴史的社会に於ける人間の実践はただこの弁証法的論理によってのみ指導されて誤ることがない。人々は経済事情や政治的行動の判断に就いて、この論理のみが如何に適確で有効であるかを、之に反して形式的論理が如何に不確かで有害であるかを、験して見るが好い。一切のユートピア・一切のアナクロニズムは形式論理的方法の所産であるだろう。弁証法的論理は実践的論理である、之に反して形式的論理は非実践的・観想的論理である(二つの論理学のこの対立が、二つの世界観のかの対立に相当する所以は茲に重ねて明らかである)。
観想的世界観――観念論的存在論――形式的論理学、実践的世界観――唯物論的存在論――(唯物)弁証法的論理学。之が哲学のこの三つの根本契機を通じて見出される、一般的な・基本的・基準的な、二列の連帯網であった。
さて人々は、この二列の哲学イデオロギーの基本的な連帯網が、最も性格的に現われたもの、それがとりも直さずブルジョア哲学とプロレタリア哲学(マルクス主義哲学)であることを見誤るまい。丁度一切の社会機構がこの二つの階級性格に集中されて行くのが歴史の必然的な趨勢であることに対応して、哲学のイデオロギーも亦、それがイデオロギーであるからには当然、二つの階級イデオロギーの性格を著しくしつつある。之がイデオロギーとしての哲学の現在の世界状勢であるように見える。
だが一つの大事な問題が残っている。論理学と雖も結局世界観から出発した、処でどの世界観を取るかはさし当り人々の又は――仮に階級を設定して見るなら――階級の自由又は宿命である、なぜなら少なくとも世界観が哲学体系にまで組織立てられない内に、それの是非は判らない筈だから。そうすると、結局どういう存在論を有ち又はどういう論理学を採るかは人々又は階級の自由乃至宿命ではないか。哲学の是非は、それがイデオロギーであると考えられる限り、結局決定し得ないことになるではないか。――だがそうではない。世界観は夫が最も洗練されると論理学となる、世界観の是非はだから、論理学に於て最後の審判の法廷に引き出されるものなのである。もし一つの世界観が世界に対する正当な見方でなかったならば、必ずそれはこの世界観に相当する論理学の欠点を証拠として、罰されねばならなく出来ているのである。
世界観の、従って又存在論の、是非は、論理学に於て審判される。では、形式的論理と弁証法的論理と、何れが、存在・世界・の説明に於て優れているか。と云うのは元来、世界観は世界の・即ち又存在の・説明を目的とするのだが、之が洗練されると、取りも直さず論理学となるのであったから。だが之は実は既に決定されていたことである――前を見よ。弁証法的論理は存在の論理であった、それは実践的論理であった。
実際、論理をイデオロギーとしての哲学の結晶核と見ることは、要するに論理をイデオロギーとして規定することであり、従って又論理を下部構造の上に築かれた一つの上部構造として規定することである。云い換えれば、論理を単に論理として独立化して取り扱う代りに、之を論理以外のものへの関係に於て、それとの連関に於て、把握することである。そして論理以外のものとはこの場合取りも直さず存在である。それ故、凡そ論理は存在の論理でなくてはならぬ。――だが、仮に論理が論理以外の存在に関する夫であると云っても、論理と存在とのこの関係――反映・模写・構成其の他――は、なお矢張り論理以内の関係として、論理相互の関係によってのみ、純論理的に、決定されそうにも見えるだろう。併しここでも亦論理の非独立性――イデオロギー性・上部構造性――を思い出さねばならない。と云うのは、論理と存在とのこの関係(反映・模写・構成其の他)を決定するものが、茲でも亦、論理自身ではなくて、論理以外のものでなければならぬ、ということを。論理以外のものはそこで存在か。無論そうである、だが論理と存在との関係を決定するものであるからには、夫はもはや単純に存在であることは出来ない筈である。そこで吾々は実践の概念を導き入れねばならない。論理と存在とのこの連関を確立するもの、論理を存在の論理たらしめるもの、論理をして真に論理的機能を果させるもの、夫が実践なのである。人間の認識の真理標準は、もはやその明白感や素朴的模写性や普遍必然性やにあるものではない、正にその実践性になければならないのである。凡そ論理は実践的論理でなければならない。
論理は、それが存在・世界・を説明し得るためには、存在の論理・実践的論理でなければならなかった、処がそれが取りも直さず弁証法的論理なのである。之のみが初めて存在を存在らしく、取り扱うことが出来る。之によって存在はその対立と統一との現実的な生きた連関に於て、初めて取り出される。そうしなければ存在は収拾し難い単なる「多様」に終って了うだろう。そうすることが弁証法的思惟なのである。ここにこのものの形式的論理に対する優越が公判されただろう。――之は唯物論的存在論――そこでは存在(物質)は運動乃至実践を離れてはあり得ない――の観念論的存在論に対する優越を、合法化す。それは、実践的世界観の観想的世界に対する優越に、応えんが為めであった。
さて吾々は、唯物弁証法的・世界観・存在論・論理学・のこの優越性を、あたかも哲学のイデオロギー性格――やがて論理の階級性――によって、初めて正当に特色づけることが出来る。
観想的世界観――観念論的存在論――形式的論理学。
実践的世界観――唯物論的存在論――(唯物)弁証法的論理学。
この二系列は、イデオロギーとしての諸哲学を貫く一般的にして基本的な線である。だから吾々は之を諸哲学のイデオロギー論的分析の基準として、用意したのである。実践的世界観――唯物論的存在論――(唯物)弁証法的論理学。
[#改段]
日常性と呼んで好いであろう一つの原理に、読者の注意を集めることが必要だと考える。之は可なりに広い領野を支配する原理であると思う、それにも拘らず之は必ずしも、人々にとって日常的に通用している原理ではない。そこで今之を問題にしようと云うのである。
問題は歴史の一般的な――その限り確かに抽象的な――構造に関する。夫は歴史の原理に就いての問題である。歴史の一般的な構造、歴史の原理と云えば、併し問題は時間――歴史的時間――の理論に帰着する。そこで、歴史的時間の性質は何か。――之に答えることによって、日常性の原理の存在と夫の性格とが浮き出て来る。
凡そ――歴史的に限らず――時間というものを明白的(evident)に表象しようとすると、時間の表象そのものを更に、反省的に、表象して見る外はないようである。その意味は、時間の表象が時間的にしか表象出来ないというのである。であるから、時間の表象ということは、凡そ――時間に限らず――事物の時間的表象ということに帰着する。併し夫は意識の問題となるということである。こうなると凡そ時間というものは、第一義的には意識にぞくするもの、意識に於て初めて見出されるもの、ということになりそうである。
こう考えて了えば併し、歴史的時間などは、この意識的――之を仮に現象学的と呼ぼう――時間の、恐らく付属品に過ぎなくなる。そうすれば歴史は自分の原理、その一般的構造――夫が歴史的時間であったが――を、歴史以外の現象から、意識現象から、借りて来なければならない。歴史の原理は歴史自身にあるのではなくなる、歴史的原理は非歴史的原理の応用か何かでしかなくなる、歴史的時間は無くなるか又は非歴史的時間に外ならなくなる。そうして吾々の問題――歴史的時間の――問題は心地好く消えて了う。
之だけを見ても、一体吾々の問題が問題となることが出来、従って又夫が解けるためには、凡そ時間が第一義的には意識にぞくする筈のものだ、などと考えてはならないことが、すでに明らかである。――歴史的時間の問題はこの意味で決して現象学的なものであってはならない。
普通、自然科学が折角の時間を量化して了う、と云われている。夫が本当か否かは何れにしても、こういう云い方に就いて、今少し注意しなければならない。量化すということが、専ら数化す、空間化すと云うことであれば問題はないが、併し大抵の場合には之によって、実は同時に、何か時間に刻みを入れることを一般に表象しながら、人々は漠然とそう云い慣わしているのではないか。刻みを入れることが直ちに、時間を量化すること、と云うのは数化し、空間化することであるかのように。処が刻みを入れるということこそ、普通人々が考えている処とは反対に、正に、時間が時間であり得る所以なのである。
今もし何の刻みも持たないような、又は持てないような、そういう純粋(?)な時間を想像して見るなら、夫こそ最も純粋なる持続であるだろう。何故なら少しでも持続が弛緩して不純になると、そこに初めて持続の間隙が出来て、そこから刻みが這入って来ると考えられるから。そういう純粋(?)な時間は、恐らく、絶えず流れる――そして交流し飛躍する――処の意識の流れである。だが第一普通云うように意識は流れるだろうか。意識が止まっていると云いたいのではない、意識はたしかに推移していると云って好いのだが、夫が流れているであろうか。もし意識の連続というのが――流れとは夫のことであるが――数学的実数の連続のようなものなら、意識の流れの二点間にある質的相違でさえが問題となり得ないだろう。無いと云うのではない。問題になり得ないと云うのである。夫が問題になるためには、意識は連続的に流れるのではなくて云わば量子的に流れる――即ち流れない――外はない。そして之はとりも直さず、意識に於ける時間、現象学的時間、それが純粋な持続と考えられたのだが、それすらが、刻みを持たなければ時間とはなり得ない、ということを告げている。
もしこう云っても、時間が刻みを持たねばならぬことを承認出来ない人があるなら、その人は多分、時間の代りに、時を考えているのである。実際、意識に於ける現象学的時間は、意識無意識の関係に於て、時の問題として取り扱われることが大抵の場合のようである。併しこう取り扱えば時間はもはや時間――時の刻み――ではなくなるのであり、而も大事なことは、時は永遠と全く裏表の関係を持っているということである。永遠なるものは時間的なるものの正反対物である。然るに時は永遠の影であった(プラトン――プロティノス――アウグスティヌス)。時間を、その刻みを忘れて、時として取り扱おうという誘惑は、時間を第一義的に例の現象学的時間と考えることから由来する。之が時間を純化すると称する場合の仕組みに外ならないのである。――時間は併し、時間であるためには必ず何かの刻みを持たなければならない。で例えばアリストテレスに於ては、一息一息の運動(折れた運動は折れた角で一息ずつ休む必要がある)によって、即ち運動間の休止によって、総運動の時が刻みを入れられるから、時間は運動の数であるとも定義され得たのである。――その限り、刻みを入れることを又量化・数化すとも云えるだろう。
ただ自然科学では、この刻みの入れ方が、それ自身として或る意味で徹底しているために、人々は却ってこの刻みだけを独立化して、之を以て時間自身に代えようとする。時間は刻みで以て定義される(時刻――時限)。併し刻みをこのように誇張することは、自然科学が時間を(それの刻み方に就いて)全く等質化すことを意味する。というのは、地球の公転という自然現象を計量の基準とした上でではあるが、その時間の刻みの位置はどこに置かれてもよいのである。どこにどう刻みを入れても好いということ――それが等質性である――は併し(時間の各部分に就いて云えば)刻みを入れても入れなくても好い、ということである。――そうすればこの時間では、もはや刻みはそれの本質ではなくなる。かくて刻みをそのものとして誇張した結果、自然科学に於ける時間の刻みは却って時間の刻みの反対物に転化する。即ち刻みは外面的となり偶然的となる、それは時間の内容とは無関係となる。――之が例の時間の量化・空間化なるものの内情なのである*。
* 自然科学に於て空間化されない(可逆的ではない)従って純粋な時間概念は寧ろエントロピーである。エントロピーの増加は恐らくエネルギー量子以外に何の刻みも持たない。
こういうような次第で、時間の概念からその刻みという要素を取り去ることを誇張すれば、時間は時となり、そして時は直ちに永遠にまで永遠化される、「時は止る」、「永遠なる今」(現象学的時間概念の場合)。併し又之に反して、刻みという要素を孤立的に誇張すれば、時間は空間化されて時間でなくなる(自然科学的時間概念の場合)。蓋しこの二つの時間概念は、部分的誇張から来る時間の二種類のカリカチュアに外ならない。
そして今、二つの概念はどれも歴史的時間の否定を意味しているであろう。何故なら、こういう概念では、凡そ時間なるものが第一義的には歴史的時間などであってはならない、と考えられるから。実際、時間を時にするということは、歴史を永遠にすることであり、歴史を円周にすることである。そこでは歴史は永刧の回帰となる(ニーチェを見よ)。歴史はもはや歴史的なものではなくて何か宇宙論的なものとなる。ダンテの描いた宇宙図はキリスト教的歴史哲学の表現であったと云われている。これ等のことは丁度、自然科学的時間が、天体の運動を基準とする永遠なる週期となることと、全く並行するだろう。春の彼岸が訪れるように、キリストも亦再臨しなければならぬかも知れない。人々は見るべきである、時間を時と考えることは却って時間を空間化すことと同じ方向にあることを。時間を神聖化すことは時間を卑俗化すことと同じ結果となることを。どう同じ結果であるか。歴史的時間を無視するという結果に於て、時間の正常な刻み――夫が何であるかは後に見よう――を忘れるという結果に於て。
歴史的時間こそ凡そ時間なるものの本格的な概念である。そこには刻みが――あまり少な過ぎもせずあまり多過ぎもせず――在るのである。歴史的時間の刻みとは併し何か。
それが時代(Zeit)である。時代とは時代区画(Epoche)によって、刻みを、休止点を、入れられた時間、Periode を意味する。だがこのペリウドはかの自然科学的な週期ではない(寧ろ文法的な意味の方に近いだろう)。何故ならば、この刻みは時間――歴史的時間――の内容自身から来るのであって、もはや、自然科学的時間に於てのように、この内容に対して外面的でも偶然的でもないだろうから(前を見よ)。
歴史的時間はそれ自身の内容によって時代にまで刻まれる。内容はその場合恐らく無限の多様であるが、之が形式化されずにあくまで内容的に止まりながら、なお且つ一定の諸形態の下にぞくするものとして取り出される時、必要なのは性格という概念である。蓋し内容を内容的に――形式的にではなく――把握する概念が性格なのであるから。歴史的時間は様々の性格の統一を単位として、夫々の性格を持つ処の時代にまで刻まれる、分割される。性格は個性、個体(In-dividuum, A-tom)などとは異って、分割されたるもの(それ故もはや分割されないことが明らかなもの)ではなく、逆に、分割――刻み――の基準なのである(このような一定の基準を内容とせずに単純に――形式的に――分割する原理が、個別化の原理であるが)。――時代は夫々の性格を持つ。又は夫々の性格が時代区画を与える。だから性格の性質(質)によって時代の長さ(量)は変って来るのであって、その逆ではない。夫が自然科学的週期と反対な所以である。そしてこの相違は専ら、歴史的時代区画が歴史的時間の内容――それを掴む手段が性格であった――から来たことに由来するのであった。
性格は云わば歴史の至極弾性に富んだ原子だと云うことも出来る。否寧ろ、窓を開けて自由に空気を呼吸しながら膨れたり縮んだりするモナドにたとえても好いだろう。之によって歴史は異質的なものとなり又この意味でのみ連続的なものと考えられる。歴史が個性的だなどと云うのも大体こういうことであるかも知れない。――時代とは歴史に於けるこういう性格が、歴史的時間の形で析出したものである。それはたしかに一種の量にぞくする――刻み。併しそれは質的なるものが量化されて出来た量である。それは週期ではない。
性格は歴史の内容を掴む手段、概念だと云った。この手段は併し人々が考え出したり造り出したり出来るのではなく、歴史そのものが産み出す処のものである。性格は歴史の樹から時が熟すれば独りでに落ちて来る無花果の実のようなものである。人々はそれが落ちる時、あやまたずに之を手に受けなければならない。人々は歴史の内に一定の性格を発見しさえすれば好い。併しこの実をどういう具合に上手に受け取るかはさし当り、全く人々自身の性格に依ると云っても好い。彼の性格が歴史の――時代の――性格とどう繋がっているかということが之を決定する。問題は彼の歴史的感覚に帰着するようである。
併し彼の性格は孤立した彼だけの性格ではない、それは同時代の一般的な性格との相関によってのみ決定される。同時代人の一般的な性格は処でその時代自身の性格の双関物にすぎない。――之が時代の性格と之を見出す人々自身の性格とのさし当りの連関なのである。
だが之だけではまだ性格の真の説明にはならない、一体性格はどういう原因で歴史の樹から落ちて来るのか(原因という言葉は歴史的時間に於て最も adequate に用いることが出来ることを注意せよ)。
事実上、時代は何によって性格づけられるか。政治によってである(政治を時代区画の基準としないという意味での文化史というようなものは、統一的な歴史の一部分ではあり得ない)。併し政治の一定形態は何を最も終局的な――統一的認識のために従って又存在自身にとって終局的な――原因とするか、物質的生産関係乃至生産力によって。であるから、歴史の諸性格は終局に於ては、物質的生産関係乃至生産力を原因として初めて、一定の形態を結果するのである。――之が歴史に於ける性格の系譜図である。時代はこのような性格によって性格づけられるのであった。
そこで歴史的時代の性格と之を受けとる人々自身の性格との連関に話しを戻すと、同時代人――社会――と個人との間に、至極動力に富んだ階級という概念を媒介物として入しなければならなくなる。物質的生産関係乃至生産力を原因とすれば特定の意味での――対立的なる――階級が必然的に結果するのだから。今や、であるから、人々の性格は階級という焦点を通過して改めて時代の性格に連関する。性格という無花果の実を受けとるには、階級という籃が必要だったのである。
歴史はこのような意味で性格的である。歴史的時間――この歴史的原理は時代となって実現する――は性格と同値である。――歴史的時間・時代・性格はこう関係するのである。
歴史的時間は諸時代の一種の連続からなっている。夫々の時代はそれ自身の統一と単位と全体性とを持つ処の、云わば夫々一つの有機体的のようなものであると云って好い(社会が有機体的だと云うのではない、社会のもつ時代の性格が有機体的だと云うのである)。時代という一つの有機体は個体の位置を占め、時代の連続である歴史的時間自身が種に相当する。時代は自分の形態を構成しながら(Formbildung)、そうすることによってその形態自身を転換して行く(Formwechse)。時代という一生活体が生きるということは死に近づくことであり、夫が死ぬということは種が他の生活体に於て若返えることを意味する。歴史的時間に於ける時代の連続は、であるから、特に弁証法的連続であると云うことが出来る。――時代とは歴史的時間のこの弁証法的発展の諸段階に外ならない。
だが、時代とは元来、歴史的連続を成り立たせる原子を意味するのではなかった、逆に、夫は歴史的時間という全体の時代区画によって初めて決定される部分だった筈である。歴史的時間はその全体への関係によって個々の時代にまで段階づけられる。どういう全体を置くかによって、であるから、時代を階段づける仕方が異るのに不思議はない。時代は全歴史的時間に対して Konfigural に定位を与えられる。時代が或る意味で伸縮自在である所以である。――この Konfiguralitt はとりも直さず、歴史的時間が性格と同値であることを云い表わしているに外ならない。元来性格それ自身が、上属性格に関して下属性格を Konfigurieren する原理だったのである。
自然科学的時間でのように、例えば地球の公転というような現象が基準となって、週期を決定する場合には、地球の公転というこの全体が一定に与えられて了っているから、夫と週期なる部分との間には云わば何の距離もない。実際、週期は刻まれたる部分を意味すると同時に、週期の全体的基準をも意味することが出来る。でこの全体と部分との間には例の Konfiguralitt が這入る余地はどこにもない。両者は同一平面で重なっている。週期はこのような意味で平面的であろう。時代――そこには Konfiguralitt が一枚這入る――は然るに、そうではないという意味で、立体的だとも云うことが出来よう。元来性格とは立体的な内容を平面化さずに取り出すための概念であった。歴史的時間が性格と同値である所以はここにも亦明らかである。
吾々がここまで云って来ても併し、歴史的時間の最も大事な特色が云い残されている。
一体、歴史的時間が人々の問題となる動機は、正当には、人々がこの歴史的時間の内で生活しているという事実の外にない。之は吾々の生活の時間である、今改めて之を思い出さなければならない。
吾々は無論、現在に於て生活している、そこで現在は吾々の歴史的時間でどのような位置につくか。
或る人々は現在を永遠にまで拡大する、「現在に於ける過去」、「現在に於ける未来」、「現在に於ける現在」。即ち現在=過・現・未一般=時間一般=時=永遠。かくて「永遠なる今」。又或る人々は現在を幾何学的な一点と考える、現在は長さがない。現在と思われたものはすでにもはや過去である、等。併しこの二つの極端は全く同じ誤った現在概念の裏表に過ぎない。何故ならそこでは現在をばその両端に刻みが這入った一つの時代とは考えないのだから。折衷説としては、現在を微分(点ではない)と考えるか、fringe を持ったものと考える。凡て折衷説が両極端の説と同じ条件に立つことは云うまでもない。微分や fringe には両端の刻みがありそうで実はないのである。こういう現在は時代ではない。
こういうような現在の概念は凡て、現象学的時間概念から来る処のものであることを注意したい。現象学的時間に於て、確かに吾々の意識は生活しているかも知れない、併し少なくとも吾々の身体はそのような時間の内では生活出来ない。
吾々が生活しているのは歴史的時間に於ける現在、現在という一つの時代、正に現代なのである。――吾々の生活しているのが現代であるということは、無論別に新しいことを教えない。ただ云いたいことは、この現代というものが、歴史的時間の刻みによって浮び出て来る一つの時代である、という点である。というのは、現代は有限な(無限小でも無限大でもない)長さを持った、併しその長さが常数ではなくて歴史的時間の性格の関数である処の、特異な一時代だと云うのである。
何故特異な一時代であるか。歴史的時間という全体のもののアクセントが茲にあるからである。歴史的時間の性格が茲にその集約点・焦点を持つからである。歴史的時間の立体は此処を中心とするからなのである。
今や吾々が与えて来た歴史的時間の諸規定が、茲まで来て初めて、結晶の核を見出したことを、読者は見るだろう。歴史的行動や歴史記述すらが現代を座標の原点としなければならないと云うこと、それを事新しく云う必要があるだろうか。
ただ大事なことは、この現代が必要に応じて、伸縮自在だという点にある。現代は場合によっては今日にまで、又は今にまで、縮図される。それにも拘らずこの今が現代と同じ性質を、現在性――現実性――を持つ。現代のもっている原理的意味は今日の持っている原理的意味である。それは今日の原理――日々の原理――である。
こうして歴史的時間は「日常性の原理」に支配されることになる。蓋し日々の持つ原理、その日その日が持つ原理、毎日同じことを繰り返しながら併し毎日が別々の日である原理、平凡茶飯事でありながら絶対に不可避な毎日の生活の原理、そういうものに歴史的時間の結晶の核が、歴史の秘密が、宿っているのである。――歴史的時間と同値だと云ったかの性格は、実はこの日常性の原理となって現われるのであった。
現代は必要に応じて今日にまで縮図されると云った、どういう必要に応じてであるか。実践的生活の必要に応じてである。恐らく至極余裕に富んだ思弁的な「生活者」達にとっては、現在は現代位いで沢山だろう。何故なら、彼にとっては何も今日でなくてならない程押しつまってはいないから。今日で悪るければ明日でも明後日でも好い。之に反して実践的な広い意味での「労働者」にとっては、仕事が是非とも今日でなければならないようにする。だから彼にとっては現在とは、最もつきつめられて、今日となるのである。――で歴史が実践的である限り、現在は今日にまで押しつめられる、そこでこの今日の原理が、日常性の原理が、歴史的時間を統一的に支配する。之こそ歴史の精神である。
日常性の原理は現在性の原理である、夫は現実性の原理、又事実性の原理である。従ってこれこそ実践性の原理である。――重ねて云おう、日常性の原理は、現実性・実践性の原理である、即ち、それが可能性の原理ではないことを忘れてはならない*。
* 普通、原理と云えば可能性にぞくすると考えられる。従って可能性の原理しかあり得ないように想像される。そうすれば併し歴史は全く無原理とならざるを得ない。人々が歴史を非合理的と考える場合は多く之ではないだろうか。
もう少しこの原理の内容を説明しよう。仮に読者は、私自身に就いて語ることを許すであろうか。もし私に果すべき仕事が無いならば、私はかの有名な死を以て限られている私の生活の――時間の――有限性を思い労う正当な倫理的権利を見出さない。それは全く贅沢な労いである。併しもし一旦仕事を持つならば時間の有限性は一日も忘れることの出来ない労いとなる。なぜなら私の生涯が無限ならば仕事は明日に明日にと延ばしてさしつかえがない、私はいつでも失われた時間を取りかえす機会に出会うことが出来るから、寧ろ私は何等の時間を失うことなく毎日寝て暮すことが出来る。それが、死が何時かは来るものだから、仕事は一定の時期の内に片づけられなくてはならなくなる。この原稿の締め切りさえが死の縮図になるわけである。少なくともこの原稿を書くよりも、今読みかけている或る書物を読む方が、同じ条件の下では私にとって価値があるかも知れない。併し書物の方は明日に延ばした処で大した変りはないだろう。之に反して原稿を明日に延ばすことは危険である、明日は友達が遊びに来るかも知れないから。で私は今日、何を措いてもこの原稿を仕上げねばならない。――今日という条件の下では、さきの二つの仕事の価値は転倒して来る。今日という現在性は、今という性格は、それ自身の視界に適わしい価値の秩序を夫々独立に組み立てる。だから私は明日――之はまだ来ない可能性に過ぎない――の価値の尺度を以て、今日の現実性をもった価値体系を計ることは許されない。今日は今日の仕事を、明日は明日の仕事を、片づけて行かねばならぬ、そうすることが私の有限な時間生活の統一の上から、絶対に不可避なのである。私は仕事の計画から云って、何を前にし何を後にするかという組織が組み立てられる、今日という現在はこのような遠近法を与える。――さてこの平凡な日々の持っている原理が日常性なのである(無論私という個人は社会又は階級の一員として、又今日という一日は世界史の一日として、見直されねば不充分であるが)。
歴史的時間は日常性の原理に支配される、そこでは今日と明日、今日と昨日、とを取り替えることは許されない。なぜならそうすることは現実と可能とを混同することであり、従って現実性の原理を無視することであるから。
最後にこの原理がどういう実際上の効用を持つかを示そう。但し今は論理に就いての問題に限る。
形式論理学と呼ばれているものは、事物を同一平面に並べて媒介することを特色とする。この平面内に於て行なわれるものが矛盾律である。即ち例えばAはαであって、同時に例えばβなどではあり得ない。併しながら、他の平面に於てはAはβであり得るかも知れない(但しその平面ではAはもはやαではあり得ない)。そうすると二つの平面の関係――立体――に於てはもはや矛盾律は行なわれないわけである。Aという事物はその第一切断面ではαであるが、もしAが具体的な多様性を有つなら、その第二切断面では無論αであり得ない(例えばβとなる)だろう。Aは矛盾を示すことによって却ってその具体性を示すのである。であるから所謂形式論理はこのような立体的な論理の各切断面に過ぎない。今云ったこの立体的論理、夫は云うまでもなく弁証法的論理に外ならないのであるが、一体この立体性は何を意味するか。
吾々が事物を実際的に処理しようとすると、事物はその諸規定を一つずつ順次に展開して見せる。之は一応勝手な順序であるかのようで実は原理的には、事物そのものの性格に固有なのであり、従って事物がその運動に於て――歴史的に――示す諸規定の展開の順序に対応するものである。だから前の第一切断面と第二切断面との開き――そこに立体性がある――は事物の歴史的推移に対応すると云わねばならぬ。論理が立体的であったのは歴史的時間に対応するからなのである。
今、事物が特に優れて歴史的である場合ならば、即ち、夫が歴史的社会的事物である場合ならば、之を実践的に処理するためには、論理は歴史的時間の今の立体性と完全に一致(単に対応するだけではない)しなければならないわけである。即ち論理はその場合、日常性の原理に支配されていなければならないのである。そこでは時間上の遠近が、前のものと後のものとの区別が、前景と背景との相違が、凡そそのような遠近法が、論理上の価値の相違を意味する。現在与えられている現実と、まだ与えられていない将来の可能性(理想・想像・期待・杞憂其の他)とを同列に――非日常性的に・形式論理的に――並べて取り扱うことは、結局吾々の実践を不可能にする処の論理上の虚偽なのである。この虚偽を人々はユトピアと呼んでいる。――こういうわけでユトピアが虚偽であることを決定して見せるためには、論理を支配している日常性の原理を明らかにすれば好い。実際今日、このユトピアは殆んど凡ゆる観念論哲学を支配しているのである。
日常性の原理の実際上の効用は右の一例に尽きるのではない、思うにそれは歴史的(又社会的)事物の全般に行なわれる一つの根本的な原理だろう。歴史的時間の等価物である性格が、とりも直さずこの日常性の原理であったのだから。
多少大胆な比較をしてもよいなら、恰も物理学的世界像で、相対性の原理(アインシュタイン)や不確定性の原理(ハイゼンベルク)が占めているような位置を、歴史学的世界像では、この日常性の原理が占めはしないだろうか。人々はこれ等の原理の原理としての性質の間に可なりの類似をいくつか見出すことが出来るだろう。そしてもしこの原理が結局、唯物史観の公式と論理上同値物であることを証明したとしたならば、今の比較はそれ程不倫でなくなるかも知れない。
[#改丁]
第三篇
九 新聞の問題一〇 新聞現象の分析
一一 アカデミーとジャーナリズム
一二 批評の問題
新聞人は、当然なことながら大抵の場合新聞の讃美者である。彼等にとって新聞が関心に値いする問題であることは、何も不思議ではない。併しただ夫だけならば新聞はまだ少しも客観的に問題となっているのではない。吾々が日常欠くことの出来ないもので、吾々が問題にしないでいるものは無限にある。私は東京で殆んど毎日省線電車に乗るが、別に省線電車の運転組織や構造や営業関係を問題にしないで結構済ませるのである。
処が我が国では、この一、二年来、急に新聞が人々の問題に、客観的な問題になって来たように見える。一九三一年の夏以来、諸評論雑誌は期せずして同じく新聞というテーマを取り上げているし、近頃の新聞広告には、新しい新聞学校の営業が始められたことも載っていた。之は新聞という問題が、よほど公共化し客観化したという事実を、学校営業者が認識していることを証拠立てる。一方殆んど凡ゆる大学には、大学新聞と新聞の研究会とが設けられていて、それは学生大衆にとって、少なくとも平凡な講義以上の関心をなして行きつつあるように見える。而もこの現象は単に我が国だけではないようである。三〇年の暮ベルリンで行なわれた第七回ドイツ社会学会では、「新聞と世論」という屡々論じられたテーマを課題として、報告と討論とをしている。所謂新聞学――そういう科学が必要であるか存在するかはどうでもいいとして――の専門家である処の新聞学者ではなくて、普通の所謂社会学者達が、新聞を学界の一つの時事問題として選んだことはこの際興味がある。
とに角新聞が、少なくとも今日のインテリゲントにとって、可なり重大な普遍的な問題として、客観化されて現われて来たと見て好くはないだろうか。――かつて新聞記者は社会の良俗からは除外されていたので有名だった。それが又彼等の偽善的な誇りでもあった。実際以前の社会面の記者などには柄の良くないのが多かったそうだし、それでなくとも一体探訪というものが、刑事と同じに、反社会的・反道徳的な性質をもつものだから、彼等が良俗外に置かれたのに無理もない。大学に社会的権威のあった昔は、大学教授や博士は、大臣と肩を並べる程偉かったから、知識と見識に於て優れた一流の新聞記者でさえ、最高学府の権威に較べれば、光が薄かったかも知れない。まして普通の記者の学的素養は一般に低く、大学出身者を記者として一般的に募集し始めたのは、決して古いことではない。だから従来新聞が、インテリゲントの注目を惹く程重大視されなかったのは、この点から云っても尤もだったのである。
それが今日では、新聞はインテリゲントによって、事実、次第に、益々高く評価されるようになって来た。――一体その原因はどこにあるか。
年若いインテリゲントが、自分がインテリゲントであることに充分な誇りを感じることが出来る限り、彼が或る意味に於ける文筆の仕事を志すのが自然である。彼はブルジョア的な経営や管理・支配の事務を賤み、まして労働者的な筋肉労働を侮る。技術や官僚生活さえが彼の高踏的なインテリゲンツを満足させない。残るものは自由な文筆の仕事の外にないと考えられる。一頃圧倒的に存在した文学青年は、当時こういうインテリゲントの代表者だったのである。――だが、こういう高踏的インテリゲンツが存在出来る余裕範囲は、元来之を産んだものであった処の資本が今日の荒々しいギャロップを始めるや否や、次第に狭められて来たことは誰でも知っている事実である。この時、多少とも頭の進んだ、又は眼先の利いた、青年インテリゲントは、もはや自分が単純な文筆業者としては経済的にも延びて行けないことを覚らざるを得なくなる。今や、文筆業者はもはや高踏的な存在ではなくて、出版資本のための労働力売渡し人にしか過ぎないことを、切実に感ぜずにはいられなくなる。自分の立場が、こうやって資本の内へ編制されて行くのを自覚することは併し、取りも直さず文筆の――云わば精神的な――仕事を、たとい当人は夫に無意識的であるにせよ、出版資本の内部構造へまで結び付けることになる。ではどう結び付けるか。
文筆労働は今や、資本主義の線に沿うて云えばより高級な、従って又より資本家的な、文筆技術にまで、即ち編集労働にまで転化されるのである。曾ての文筆業者は、単なる文筆労働者であることが経済的に従って又精神的に不利であるのを自覚して、文筆労働貴族として、編集に従事するのを望む。之によって彼等は或いは出版業者の事実上の顧問乃至店員として、或いは自分自身出版業者として、又出版計画の売込人として、出版資本の内部に潜り込むのである。そこまで行かないで依然として単純なる文筆業者として止まる者でも、その生産品を予め編集労働の対象となれるような一種の加工品として生産することを忘れはしない。文筆業者はその生産品を売り込めるような形態で生産しなければならない。――文筆を支配するものは編集である。
処が編集労働の特色は、第一に、その生産品たる編集物が、一つの作品又は論文というような夫々の特性に基く内容価値の所有者ではなくて、これ等の特性ある内容価値を平均するような輪郭的な価値(夫は例えば目次に現われる)と物的効果に基く外部価値(例えば装釘とか組み方)との所有者だということである。と云うのは、この生産品に於ては、個々の文章の内部価値は、全く輪郭的なもの例えば題と人名とによって置き代えられ、題と人名との結合がそして編集物の特有な価値である報道価値を生産するのである。報道価値の所有者が交換価値を有つことによって産まれるものが広告価値なのであるが、この広告価値は云うまでもなく物的感覚による効果に基かなくてはならない。こういう価値物を生産することが編集労働の第一の特色なのである。――編集労働の第二の特色は、その労働価値がただ一回の労働の内に横たわるのではなくて、持続的な労働系列という形式的な過程の内に初めて横たわるという点にある。編集労働の価値はその週期性に依存することを注意すべきだ。
さてこういう編集労働の形態は単行本に於てよりも雑誌に於て著しい。そしてそれが最も徹底した純粋な場合がとりも直さず新聞の編集なのである。第一に新聞が持つ報道価値乃至は広告価値は、個々の記事の殆んど凡てを匿名にする程個々の記事の内容的文筆価値を止揚して、輪郭的な編集価値を高揚するのであり、又第二に新聞は、定期刊行物の内、最も著しい――細かい――週期性を有つものである(粗大な週期はもはや週期ではない)。――かくて単なる文筆から編集にまで興味を進めて来た今日の若いインテリゲントにとって、新聞が興味の中心の位置を占めるようになって来たのは、だから甚だ必然的なのである。――
この必然性は、そしてアカデミー的学芸に対するジャーナリズムの優勢――之も亦資本が他の格子戸を通った屈折光なのだが――によって益々促進されて今日に至っている。新聞と同じに、同じイデオロギーの機関である大学も亦資本主義的に拡大した。それにも拘らず、インテリゲントは興味の眼を大学から新聞にまで転向しつつある。だから新聞が今日インテリゲントの興味を惹くようになったのは、人々が単純に信じるように新聞の社会的存在が大きくなったからではない。
インテリゲントが新聞編集に興味を持つようになったのは、彼がインテリゲントとしての自負を持つことの出来た時代からの必然的な帰結であったわけだが、併しそこには、インテリゲンチャが資本へ潜入出来るという可能性が仮定されていたのを忘れてはならぬ。新聞編集が興味を惹くのは、それが最も資本家的な文筆労働であるかのように見えたからに外ならぬ。だからこういう本来文学青年風な――尤もそれは今日では云うまでもなく社会的政治的性格を伴ってだが――新聞問題は、結局、既成の新聞への追従・嘆美の態度の告白に外ならないだろう。
だが資本への潜入の見込みのないインテリゲント、資本から見限られたインテリゲントにとって、新聞編集は問題となることが出来ないか。現にそうではない。なる程彼は新聞編集という一つの抽象的な編集には、前に云ったことから当然、具体的な興味を有つ理由を見出さないだろう。併し新聞編集という一つの具体的な編集には切実な関心を持たざるを得ない。新聞の問題はここでは既成新聞への追従・嘆美ではなくて、却ってそれの批判・検討として現われる。そして之こそが吾々にとって、本当の新聞の問題なのである。之はインテリゲントの自負にではなくて、却って夫の自己批判に対応する。新聞は今やイデオロギーの機関として初めて吾々のテーマにまで取り上げられることが出来る。新聞記者・新聞学者・社会学者等々は、新聞を様々な視角から取り上げることが出来るだろう。併し決定的な問題は、彼等が夫をイデオロギー論の問題として取り上げることが出来るか出来ないかである。そして之をイデオロギーとして取り扱う取り扱い方は、一寸見た程簡単には決して遂行出来ない性質のものなのである。
だがいずれにしても、新聞の問題は、単に新聞礼讃の問題としてではなく、新聞批判の問題として、今日のインテリゲントの関心を惹くようになって来たことが事実である、この事実は将来増々促進されて行くだろうし又行かねばならぬ。なぜであるか。吾々は何も今更夫を改めて説明する必要はないと考える。
かくて今日、新聞という客観化された問題に対しては、云わば青眼的興味と、白眼的な興味とが併行し又交錯している。実際今日、多少社会意識のある人々は新聞を可なりの程度にまで尊重すると共に、又容易に新聞に対して自らを許そうとはしないだろう。
新聞は様々な根本的特色を持っている。その週期性と編集性――内容の集合性及び平均性――とはすでに挙げたが其の他に、一般的な通達性とか、公共性とか時事性(actuality)とかを挙げることが出来る。今挙げたこれ等の諸特色は併し、新聞が報道物(Nachrichtenwesen)だということに帰着するが、新聞のこの報道性が元来簡単なものではない。報道の理想がその公平無私になければならぬということは云うまでもないが、併し実際には、報道が編集技術を通過している限り、夫はもはや単純な報道であることは出来ない。報道材料の選択、場面の大小、強調の置き処、標題の付け方、其の他はすでに報道を一つの匿された解釈に基けている。そればかりではなく、新聞の本質は、決して夫が今云ったような意味ででも報道物に尽きるのではない。報道的な部分の外に新聞は、あからさまに解釈的な部分、論説・短評・解説等々――を有っている*。だから仮にどれ程報道物化されても、新聞は終局に於て解釈からの制約を脱することが出来ない、ということがその本質にぞくしている。新聞がだから公平無私であるようなことは、実はその理想ではなくて単純な空想に過ぎない。
* G. Mnzner, Oeffentliche Meinung und Presse, S. 73 参照。
新聞の本質がその報道物である点にではなくて、却ってその報道が解釈された報道物だという点にあると考えられていればこそ、新聞が一般に同時に世論の機関だとも考えられる理由がある*。もしそれが単なる報道に終るものならば、新聞は世論というようなものと関係があると考えられる理由はない筈だろう。世論が何であるかは後にするとして、少なくとも public opinion という opinio は dogma というテーゼに対するアンティテーゼを意味する言葉であって、元来公平無私というような概念の正反対物なのである。夫は常に思想上の積極的な傾向をこそ現わせ、思想上の無傾向を表わすものではない。* 例えば E. Namias, Principes de Sociologie et de Politique 其の他を見よ。
だから新聞は、それ自身対立性を有っている処の思想傾向――世論――と切っても切れない直接関係を有つ。処で対立的思想を吾々は一定の理由からイデオロギーと名づけることが出来る。なぜなら思想上の対立は必ず、思想以外の、思想を産んだ処の、より根本的な対立物に基くと考えられねばならないが、思想をこういうより根本的な思想外の下部構造の上に立つ上部構造と見れば、それが取りも直さずイデオロギーであるのだから。――かくて新聞は一般的にイデオロギーの機関であると云うことが出来る。その限り新聞は一般的に云ってイデオロギー性を有つ。之は何人も承認しなければならない事実である。だが新聞のイデオロギー性を、もっと判っきり規定して見なければならぬ。新聞がイデオロギー性を有つ、ということはどういう意味であるか。人々は往々、新聞のもつイデオロギー性をば、経済関係と言論との直接関係だと考えている。で例えば近代の資本主義的大新聞――所謂大衆新聞――が、単に資本制下の新聞であるばかりでなく、それ自身又一つの資本主義的企業であることから、その経済条件が新聞という商品の言論内容を制限するのを指摘して、恰もここに新聞のイデオロギー性の有無を検出しようと努力する。なる程之は明らかに新聞のイデオロギー性の重大な一面に相当する。だが夫は単なる一面に過ぎない。元来イデオロギーの性格は、それが生産関係乃至社会関係の単なる上部構造であるというだけではなくて、却ってそれ故にこそ生産関係乃至社会関係に向かって有効に反作用出来るという政治的効果――社会的機能――になくてはならない。それであればこそ一般に、イデオロギーが吾々の社会科学の問題となることが出来るのである。だから新聞会社の経済条件が新聞の内容を規定するというモメントだけが、唯一の又は最も重大な新聞のイデオロギー性なのではない。新聞のより重大なイデオロギー性は、寧ろそれの政治的・社会的・機能に横たわっていなくてはならない。
それ故、或る経済記者が銀行家や実業家其の他政府の要路者から買収されたというような、新聞経営の一般的経済機構から云えば云わば個人的な現象が、新聞が商品であるということ以上に、より多く新聞のイデオロギー性を規定するのである。だから又もし某新聞が某方面から買収、恐喝されてその筋が与えるニュースを鵜呑みにするならば、そういう非経済的記事も買収された経済記事と同様に或いはそれ以上に、新聞のイデオロギー性を暴露するものである。新聞のイデオロギー性は、であるから、新聞が単に新聞会社の主体的な財布条件に制限されるということだけではなくて、それであるが故に社会全体の客観的な経済関係に制約され、従って又それ故にその政治的諸勢力に制約されるということにあるのである。
で、ブリンクマン(C. Brinkmann)教授が、近代の大新聞装置が商品新聞の生産を目的としているという事実から、新聞が一切の政治的諸勢力から独立で、「絶対的中立」を保つことが出来ると結論したのは、一段にも二段にも飛躍を見逃した認識なのである。これには流石の社会学会の会衆も異議をまずにはいられなかった*。
* Verhandlungen des liebenten Deutschen Soziologentages, S. 16.
新聞がイデオロギー性を有つか持たないかに就いては、もはや疑問を残さないだろう。だがなお人々は、近代的大新聞が、政党新聞(党派新聞)でなくなりつつあるという事実、特に吾が国に於ける代表的な四大新聞――大阪東京両朝日・大阪毎日・東京日日――が少なくとも外見上政党色を持たなくなっているという事実から、新聞のイデオロギー性を否定しようとするかも知れない。だがイデオロギー性とはそういう意味での政党性(ブルジョアジー内部の党派性)のことではない。政治的性格――夫がイデオロギー性に相当するが――は、ブルジョア的政党対立とは殆んど何の関係もないとさえ云えるかも知れない。一般に政治的とはブルジョア政党的であることには限らない。ブルジョア政党的でないということは、新聞がイデオロギー性を有つということを、何も妨げはしない。さて吾々は、イデオロギーの機関としての今日の新聞を、その本質に従って、即ち夫とイデオロギーとの関係の仕方の如何に従って分類しなければならぬ。この際注目すべきは、この分類の結果が、普通常識的に行なわれている分類と無論完全に同じでないまでも、之と一定の好ましい関係に立っているということである。逆に云えば、新聞は常識的にもすでに、それを自覚するとしないとに関係なく、イデオロギーの機関として把握されているのが事実だということである。
まず第一にイデオロギー性を所有し自覚し且つ標榜する新聞と、そうでない新聞――自覚しても標榜しないか又は自覚も標榜もしない新聞――との二つに分けられる。之は概念上の区別ではなくて事実上の区別である。かつてわが国には、政治新聞を目指した処の所謂――当時の――大新聞と、市井新聞を目指した所謂小新聞との区別が通用していたが、之が恰も今云った吾々の区別に相当する。――元来新聞は、夫が報道物だと一応考えられたように、云うまでもなく広範な読者層を獲得するに最も手近かな仕方は、夫が一般性を有つということにあるのは明らかである。だから大抵の大新聞は、所謂特殊新聞――商業新聞(中外商業)・文芸新聞(読売)・宗教新聞(中外日報)・花柳界新聞(都等々)――ではなくて、一般新聞と呼ばれて好いものにぞくしている(但し特殊新聞も、夫々の限界の内で一般性を有たなければ成り立つことは出来ないのだが)。さてこういう一般性は、人間の日常生活に直接結び付いた場合に初めて得られる。処が、人間の日常生活は、一面に於て含蓄ある意味で政治的であり、他面に於て市井的なのである。新聞が持つべきである一般性のこの二つのモメント、政治性と市井性とに、夫々相当するものが、昔の所謂大新聞と小新聞とであった。今ここで大新聞・小新聞と呼ばれるのは、新聞の量乃至質の大小とは殆んど何の関係もない。丁度それは、どのように大規模の小説であっても、依然として小説に止まると同じである(恐らく小説とは政治的論説を大説として、之に対して小説であったのではないだろうか)。
昔の所謂大新聞はだから、一般的に云えば政治新聞を意味する。それには政党新聞と、政党を背景としない政治的新聞とが含まれている。だからそれは何よりも先にイデオロギーを――特に又政治的イデオロギーを――所有し、自覚し、又標榜しなければならぬ、そうしなければ明らかに政治新聞であることが出来ないのである。
政治新聞に於ては、イデオロギー――特に政治的な――は、そのままイデオロギーとして、例えば単なる世論(とか民意とか)としてではなく、掲げられる。政治新聞は、もはや単なる世論の機関ではなくてありのままにイデオロギーの機関として通用する。世論とは、社会一般の――平均されたる――意見だと考えられるが、イデオロギーは、政治的イデオロギーは、社会一般のではなくて、却って社会内の一部分乃至一党派の意見だと云うことが出来る。そして吾々に従えば、政治的イデオロギーは、終局に於て、階級的イデオロギーに帰着する。だから政治新聞は終局に於て、階級イデオロギーの機関に帰着するのである。政治新聞は社会一般を代表するものではなくて、社会階級を代表する処のものである。それは実は単なる世論――之も亦イデオロギーであるが――の機関ではなくて、正にイデオロギーとしてのイデオロギーの機関なのである。
政治新聞でない処の昔の所謂小新聞は処が、之と全く異っている。今日の資本主義社会に於て資本主義的企業として躍進して来た、今日の意味での近代的大新聞(四大新聞――その内東京に於ける二大新聞は関東大震災によって大新聞へと変質したのであるが)は、元来市井の雑事を取り扱った処の所謂小新聞の発達したものである。新聞の持つ一般性がその政治性と市井性にあると前に云ったが、この政治性の実質は、終局に於て階級性に帰着して了うのであったから、この政治性は一般社会性という一般性の理想を、もはや実現出来なくなる。でその時一般性として残るものは市井性だけだが、この市井性が、更に、元来市井性と政治性とから初めて成り立つ筈であった処の一般性を代表するためには、再び市井的なモメントと政治的なモメントとに分れなければならなかった。かくて後者の政治的なモメントに対立して、市井的な嘗ての小新聞は、依然としてその系統にぞくしながらも、なおかつ政治性を持つ処の、今日の大新聞となったのである。
だから近代的大新聞では、一方に於て特殊社会層としての階級に帰着する筈であった政治性と、他方に於て一般社会に帰着する筈の市井性とが、新しい段階での政治性の下に、統一されようとする。この政治的意識は政治的でありながら、なお階級的・イデオロギー的でないという、一種の不思議な統一である。さてこの意識がイデオロギーとしてのイデオロギーではなくて、正に世論(之も亦実はイデオロギーの一形態なのであるが)なのである。――政治的イデオロギーが社会階級に対応したように、世論――夫も亦政治的だ――は一般社会に対応するものとして意識される。世論はこのようにして超階級的・超党派的と考えられる。要するに世論は一般社会的な政治的意見だと考えられている。
だがこういう世論の性質程、矛盾に充ちた不安定なものはない。世論が一つの政治的意見であるためには、それは必ず階級的乃至党派的とならねばならない筈だし、又もし世論が階級的・党派的であろうとすれば、それは一般社会的であり得なくなる。――元来、社会一般などというものは或る意味では存在しないのである。之に対応して、又世論と云うと何か判ったもののように考えられているが、そして又吾々もそのように云っては来たが、実は之ほど不安定な存在はない。それは市井的なものの上に立った処の政治的なもの、市井性と政治性との直接・無媒介な結合物である。ここでは対立した二つのモメントが無条件に接合されている。それが不安定であるのは尤もだろう。元来市井的新聞であった曾ての小新聞が、とも角形式上政治性を有つに至ったものである処の今日の大新聞が、世論の機関――「社会の木鐸」其の他――だと自負するのに無理はないが、この世論(社会も亦)というものこそ最も捉え難いあやふやなものなのである。
本当を云えば世論と呼ばれるものは、半ば自然発生的な、半ば人工的に製造された、一つの支配的なイデオロギーに外ならない。処が世論は自分が一つのイデオロギーであることを自覚するのを欲しないのか自覚しても之を告白するのを欲しないで、自分の(抽象的な)普遍性を主張する、そういうことが世論の特色である。世論はその普遍性を標榜することによってそのイデオロギー性を隠蔽する。世論の機関としての今日の大新聞が、そのイデオロギー性を隠蔽しようとするのは、だから何も不思議ではない。
政治新聞――特に党派新聞――は社会階級のイデオロギーの機関として自らを自覚した。之に反して、今日の資本主義的大新聞――大衆新聞――は、一般社会の世論の機関として自らを自覚するものである。処が世論は結局一つのイデオロギーでなくてはならない、それは恰も社会が一般社会ではなくて階級社会であると全く同じである。世論はイデオロギーとして自覚されないにも拘らず、一つのイデオロギーである。で、世論のこの矛盾は、世論の機関としての資本主義的大新聞自身の矛盾となって反映しなければならない。どう反映するか。
世論の機関としての新聞は、そういうものとして発達するためには、実はもはや今度は世論の機関などでさえあることが出来なくなる。ここでは世論などという政治的意見は、実はもはやどうでも好い。世論は自分の任じる処のかの普遍性・一般性を獲得するために、出来るだけ政治的なモメントを犠牲にして、市井的なモメントへ移行しなければならなくなる。さて、かくて元来政治的であった世論が、政治的なものから市井的なものへ移行したのが、今日の所謂ジャーナリズムである(尤も今日のジャーナリズムが本来のジャーナリズムの本質をなすものではないのを忘れるな)。世論はすでに甚だあやふやな政治性をしか持たなかったが、現在のジャーナリズムになれば殆んど全く政治的な性格を振り落して了う。現在のジャーナリズムは政治的意見の持つかの意志的迫力を失った処の一般感情にまで抽象された処の、もはや具体的な政治的内容を有たない処の世論である。――かくて資本主義的大新聞は、世論の機関からジャーナリズムの機関にまで移行しなければいられない。他の側から云えば、新聞はその解釈的な部分から報道的な部分にまで結集する。かくて新聞は完全に単なる報道物となるのである。往々人々は新聞を、一方に於て世論の機関だと云いながら、同時に他方に於て報道――夫がジャーナリズムと密接に結合している――機関だと唱える。なる程前にも触れたように、この二つのものは一続きのものには違いない。だがそうかと云って二つの事柄は全く一つではない。却って二つは相反対した事柄であることを忘れてはならない(或る評論家はジャーナリズムを定義して、「対立的社会意識」と呼んだ。そうすれば之は世論と同じになる。処が現在の――本質としてではない――ジャーナリズムは正に対立的社会意識ではない処にその特色をもつのである)。
世論は少なくとも政治的な意志の形態を持っている。之に反して所謂ジャーナリズムは一般感情の形態をしか持たない。そこにはその限り、イデオロギー的構造が欠けている。世論は自分のイデオロギー性を隠蔽したが、今やジャーナリズムは自分のイデオロギー性に対して無関心に見える。だが、所謂ジャーナリズムと雖もなおまだ中枢感覚的な一般感情に立っていた。処がこの中枢感覚がより抽象化され一般化されると、夫は末梢感覚に訴える処のトリヴィアリズムとなるのである。トリヴィアリズムは人間の抽象的諸感覚―― Sensation ――に立っているから、それだけ抽象的な外面的な一般性を有つわけである。市井的な一般性を覘おうとする資本主義新聞が、ジャーナリズムの名の下に、実はこのトリヴィアリズムをも併せ採用するようになっているのは極めて自然でなくてはならぬ。――ジャーナリズムはイデオロギーに対して無関心であった。処がトリヴィアリズムはこの無関心に、末梢的な抽象感覚―― Sensation ――を盛ろうとする。センセーションはイデオロギーに対する積極的な回避であり、イデオロギーに対する阿片的効果を覘う(ここに却って一種のイデオロギー性を見逃してはならない)。かくて資本主義下の新聞は、もはやイデオロギーとしてのイデオロギーの機関でもなければ、世論の機関でもなければ、ジャーナリズムの機関でもなくなって、最も抽象的な非政治的な、超イデオロギー的に見える、良く云えば普遍人間的な、センセーションの機関となるのである。今日、新聞が次第に政党新聞でなくなりつつあるのは取りも直さず、今云ったような運動の結果に外ならない。それはもはや、人々の云うような、新聞の報道化なのではなくて実は新聞の報道価値化(ニュースヴァリュー化)であるが、夫が新聞のセンセーション化の外の何物でもないのである。そして、このセンセーションを単にセンセーションとして徹底したものが、トリヴィアリズムだったのである。かくて所謂世論や所謂ジャーナリズムを未だに信じている処の、大新聞――日本に於ける四大新聞――は、トリヴィアリズムを信奉する処のキング式な低級新聞に於て、その有力な対立物を見出さざるを得なくさえなって来るのである。
さて、イデオロギー・世論・ジャーナリズム・トリヴィアリズム、之等は自分のイデオロギー性の自覚と標榜とを標準にして区別される処の、イデオロギーの発展乃至変形の諸形態である。之はイデオロギーのイデオロギー的乃至非イデオロギー的現象形態なのである。併し、元来イデオロギーの機関であった処の新聞――世論とかジャーナリズムを信奉するのも結局イデオロギーを信奉することなのだが――が、何故このような様々の・非イデオロギー的でさえある処の・現象形態を採用しなければならないか。それは云うまでもなく今日の新聞が資本主義的生産による商品であるということと、そして特に夫がイデオロギー的商品として社会的に機能せねばならぬということから原因する。前者は経済的原因であり、後者は政治的な原因に相当する。そして政治的原因は高次の飛躍を経た経済的原因であった。――イデオロギーをイデオロギーとして提出し得るものはただ政治新聞だけであり、他の一般新聞はイデオロギーを何か他のものの仮面の下に――世論として・ジャーナリズムとして・又トリヴィアリズムとして――しか提出しない。之が政治新聞と一般新聞とのイデオロギー論的な根本区別であった。
だが注意しなければならないのは、一般新聞が、資本乃至資本家的社会の必要に応じては、政治新聞の仮面をつけることが出来るということである。そうやって、元来夫が一定の政党を背景にした機関新聞ではないにも拘らず、その社会的機能に於ては、一定の政治的イデオロギーの機関として活動することも出来るということである。「日本」新聞は別に諸日本ファシスト政党の機関紙ではないが、社会的機能としてはファシストのイデオロギー機関として機能することが出来る(最近社会民主主義者のファシスト化と共に、「日本」新聞は社会民主主義者のイデオロギー機関とさえなれそうに見えて来た)。又先年、英国の労働党は労働組合の機関紙 Daily Herald を一般的なセンセーション新聞に仕立てて、Daily Mail や Daily Express というような一般大新聞に伍させるために資本家団に安心して売り渡したことも今の場合興味が深い。この二つの場合は、吾々が対立せしめた政治新聞と一般新聞との間の交錯を示すものである。だがこの交錯は、資本主義制が許す限界の内に於てしか行なわれないことを注意せねばならぬ。例えば今の処、相当左翼的記事を採用しているように見える読売新聞が、コンミュニスト・イデオロギーの機関として機能することは出来る筈がないし、又嘗ての『無産者新聞』を野間清治に売り渡すことも不可能だったろう。でファシストや挙国一致の社会ファシストのイデオロギーがその本質に於てブルジョアジーの興味と一致する限り、政治新聞と一般新聞とは交流することが出来るのである。――だが、そういう政治新聞や一般新聞は、今日に於てはもはや、実は少しも政治新聞でも一般新聞でもあり得ない。なぜなら今日、一般社会と社会階級とは対立している。というのは今日の社会は階級対立の社会である、処でこの対立という障碍物を無視出来るというのは、その新聞が社会的乃至階級的認識をごまかしている証拠でなければならない。正当な認識として社会機能し得ない新聞は、本来の意味に於て政治新聞でもなければ一般社会新聞でもないではないか。
吾々に政治新聞と一般新聞とを、それがもつイデオロギー性を自覚・標榜するかしないか、又その程度の如何、によって区別したが、それにも拘らずどの場合であっても新聞は斉しくイデオロギーの機関であった。今二つの種類の新聞に於てこの斉しく所有されている処の夫々のイデオロギーが、同じ本質内容をもったイデオロギーであるならば、それを自覚・標榜するかしないかとか又その自覚・標榜の程度とかによる区別は、これ等の新聞のイデオロギー性にとって、根本的な区別ではないだろう。この際、この区別よりも重大なものは、これ等の新聞が同一のイデオロギーを有っているという関係である。で同一のイデオロギーを持つ限り、それが政治新聞であろうと一般新聞であろうと、そのイデオロギー的本質は同一である。その限り政治新聞と一般新聞とは自由に交錯・交流出来るのは当然であるだろう。
それが左翼民主主義であろうと、社会民主主義であろうと、ファシズムであろうと、斉しくブルジョア・イデオロギーにぞくする一環である限り、そのイデオロギー的本質を同じくする。従って今云った夫々のイデオロギーを所有している処の各新聞は、その新聞としての本質を等しくする。政治新聞と一般新聞との区別が本質的でなく、両者の間に自由な交錯・交流が許されるのは尤もである。
だから、今もし諸新聞が所有する諸イデオロギエンが、それの自覚・標榜の、又それの所有の、現象形態の如何に拘らず、同一のイデオロギー的本質を持たずに、却って対立する二群のイデオロギー本質に帰着するならば、ここにこそ新聞の真に本質的な区別がなくてはならぬ。政治新聞であるか一般新聞であるかではなくて、一般新聞と雖も一定のイデオロギーの機関であるのだから、ブルジョア・イデオロギーの機関であるか、又はそうではなくてプロレタリア・イデオロギーの機関であるかこそ、現在に於ける新聞の本質的な区別でなければならぬ。
これは吾々にとっては、極めて当然な、少しも耳新しくなさそうな、区別であるが、新聞の専門的研究家達にとっては、必ずしもそうではないように見える。彼等は新聞を事実として研究する、又それを「世論の機関」として、「政治との関係」として問題にする*。要するに新聞は彼等によって、無原理にか又は常識的な思い付きに依ってかしか取り上げられない、かくて高々、新聞を党派新聞と大新聞等々に区別して済ませて了うのである。彼等は多く新聞を――充分な意味での――イデオロギーの機関として取り上げることを欲しないし又出来ない。で、そうすれば新聞の問題は要するに一つの孤立した、主観的な関心によるか又は思い付きによる処の、話題でしかなくなるのである。
* 第七回ドイツ社会学会報告(前掲)参照。
吾々にとっては之に反して、新聞はイデオロギー論の問題である。で、新聞の最も本質的な分類は、それがブルジョア新聞であるかプロレタリアの新聞であるかに存する。さてブルジョア新聞は、その政治新聞は云うまでもなく、超政治性を標榜する一般新聞――但し資本主義制の下ではこの一般新聞が大新聞なのであるからこの方が今大事であるが――も、又経済新聞や宗教新聞も、その記事内容乃至編集技術を通じて、夫々の読者層に応じて、ブルジョア・イデオロギーを宣揚し又はプロレタリアのイデオロギーを抑制する。そうすることが新聞企業の経営上必要であるのは云うまでもない。――なる程新聞人は好んで政府による言論の自由の抑圧を口にする。恰も政府の新聞検閲さえなかったら、新聞はその完全に自由な社会的機能を果し得られるかのように。だが之は何もブルジョア新聞がブルジョア・イデオロギーによって自由を束縛された機関でないということを意味しはしない。ブルジョア政府とブルジョア新聞は、同じくブルジョアジーのものであっても、名が別な通り別である。この別な二つのものの間に、対立が存在し得るということは少しも不思議ではない。ブルジョア新聞に対する検閲――それは内務省発表の最近の統計によると近年急速度に緩和されて来た――は、そういうささやかな対立の一つの場合にすぎない。それよりももっと根柢的な新聞の自由の束縛者は、新聞の読者――公衆――なのである。これこそ本当の検閲官だろう。処が読者大衆自身は、云って見れば読まされるものを何でも読むような、無定見者に過ぎない。で、彼等を検閲官に仕立てるのは彼等自身ではなくて彼等が共有するイデオロギーなのである。ブルジョア新聞の自由はこのブルジョア・イデオロギーに束縛されているのである。検閲による自由の束縛などは之に較べては問題にならない程小さい。ブルジョア新聞は無論この不自由を不自由として自覚しない。元来ブルジョア・イデオロギーというものがイデオロギーとして自覚される場合が少ないものなのである。それに、このイデオロギーの生産には元来ブルジョア新聞自身が与っていた。夫はブルジョア・イデオロギーの機関であった。
ブルジョア新聞のイデオロギーが受けている束縛は、かくて単に行政上の検閲ばかりではなくて、より多くは、正に読者・イデオロギー自身が行なう検閲である。そしてこの二つのものは、どれも、ブルジョア新聞が資本主義的企業であることから受ける束縛に帰着する。なぜなら、読者の支配的なイデオロギーを迎えないということは、やがて発行部数の減少を意味し、従って又広告収入の減少をも意味することは云うまでもないし、又発売禁止や発行停止は直接に新聞企業の経済的基礎を破壊するから、である。――かくてブルジョア新聞は、完全に、ブルジョアジーのイデオロギー的武器として育って行く。之が今日の大新聞――夫がブルジョア新聞を代表する――の本質である。大新聞がそのブルジョア階級的イデオロギー性を隠蔽して一般社会性を標榜するのは、単に之がブルジョアジーの陰顕砲台であることに過ぎない。実際またそれ程ブルジョア・イデオロギーは支配的なのである。ブルジョア新聞はこの意味でブルジョア大学と並べて取り扱われるべき問題である。
ではプロレタリアの新聞はどうか。それが日本やイタリーに於て、最も苛酷な抑圧の下に置かれていることは人の知る通りである。プロレタリアの新聞がブルジョア新聞に対抗出来る程度に発育しているのはソヴェート・ロシアに於てである。そこでは組織的な検閲の下に却ってそれによって、新聞は曾て昔の我が国に於けるブルジョアジーの所謂大新聞――政治新聞――が理想としたような、社会的・イデオロギー機能を、何物からも束縛されることなしに発揮出来る条件を与えられている。実際ソヴェート・ロシアの新聞は、単に解釈と報道の機能を果すだけではなくて、解釈は、指導にまで、報道は、知識供給にまで伸展される(指導はアジ・プロや教育を含む)。思うに之が、イデオロギーの機関としての新聞の本来の具体的な、社会的機能でなければならないだろう。何故なら、イデオロギーとは、元来今挙げたような社会的諸機能を、凡て包括するものでなければならなかったから。
人々はブルジョア的一般新聞――それが資本主義制の下では代表的な大新聞であった――の最近の特色を、ブルジョア的政治新聞の特色から区別して、世界知識の提供、その百科辞典性に求めるが*、知識――又科学――がブルジョア一般新聞に於てのように、感覚的興味本位に、又は精々云ってジャーナリズム本位に、問題として取り上げられねばならない限り、今云ったブルジョア新聞のこの特色にも、おのずから、制限がなくてはならなかった。知識や科学はトリヴィアリズムや資本主義的ジャーナリズム――ジャーナリズム自体は必ずしも資本主義的ではない――の標準に従って満足に取り上げられるものではなくて、云うまでもなく真理の標準に従ってしか取り上げられてはならない。そして今知識乃至科学の具体的な真理は常に政治的性格を持っているということを忘れてはならない。だから新聞の知識供給の機能は、その政治的な指導の機能と統一されて、初めて社会的機能として完成することが出来るものなのである。之が新聞の理想である。而も之は不完全ではあるとしてもすでにソヴェート・ロシアに於て大規模に実現されつつある理想であるように見える。――吾々は初めに新聞の問題がインテリゲンチャにとっての問題となると云った。今やそれはプロレタリアにとっての問題であり又、なければならない。
* V. Eckardt, Vortrag;(in Vorhandlungen des siebenten Deutschen Soziologentages)S. 38 を見よ。
だが問題はなお残る。検閲と言論出版の自由とのより立ち入った問題が。之は新聞のイデオロギー論にとっては重大な問題であるが、吾々は之を詳しくは他の機会に譲らなければならない。というのは問題は単に新聞には限られなくなるからである。[#改段]
少なくとも今日のわが国に於て、新聞の問題が重大化しつつあること、又事実人々が之を多少とも重大視して来たこと、私は嘗てそれを指摘した*。夫は、ブルジョア社会に於ける一傾向としては、全く、ジャーナリズムへの社会の動向が(主にアカデミズムへの動向に対比して)著しく有力になって来たという、一般現象の特殊な場合の一つの外ではない。
* 「新聞の問題」〔前章〕を見よ。
末期資本制度の内部的な圧力が高まるに従って、一切の資本主義諸経営は次第に露骨に企業組織化を強化し、そしてこの企業組織は極度に合理化されざるを得ないが、この資本主義社会で出版資本の対象となる限りに於てのみ唯一の生存理由を有っている処の、文芸も科学も亦、多聞に漏れず企業化・企業合理化・の影響の下に立つことを、愈々余儀なくされる。そして文芸や科学に就いてのそう云った認識が、文芸や科学自身の内容の内に、当然なことながら、自覚されて来ると、その時から文芸や科学は、意識的に「ジャーナリズム化」せざるを得ないのである。今日の大部分のジャーナリズム――それは資本主義的ジャーナリズムである――の隆盛は、そうやって必然的なものとなる。新聞も亦、もはや新聞企業者や新聞記者、政治家や特殊な新聞寄稿者、にとってだけの問題ではなくなって、文芸家や科学者、又一般に文化活動に従事する雑多な種類の人々にとっての問題にまで、普遍化されざるを得なくなった*。
* 例えばドイツ社会学者第七回大会(一九三〇)では「新聞と世論」を討論に付している。最近わが国の雑誌編集者は新聞の問題に著しく興味を有つようになって来たのは人々が注意する通りである(「新聞の問題」参照)。
そこで、元来感受性と浮動性に富んでいる一部のインテリゲンチャ層は、自分の知能(インテリゲンツ)生活を、このジャーナリズムの問題へまで、そして夫がもっと徹底して局限されれば新聞の問題へまで、結び付けようとするのは甚だ必然的である。インテリゲンチャ層の最も代表的な――尤も之はあまり名誉ある代表者ではないが――ものであった嘗ての文学青年に相当するものは、今日ではすでに小説や戯曲や又評論の紙上発表を欲するよりも、寧ろ、出版者の協力者・編集者等々となることの方を欲しているだろう。新聞・雑誌・記者の志願者やアナウンサー志望者(又多少水準の低い極端な場合になると映画スタジオ労働志願者さえ)などが激増したことは、決して単に一般的不況と一般的失業とだけから、直接に説明されるべきではない。だが之だけではまだ、新聞が吾々の社会にとって重大問題である所以の凡てにはならない。と云うのは、ブルジョア・ジャーナリズムの問題としての新聞の問題の外に、階級闘争に関する一問題として、新聞は今日至極重大な関心の中心をなしていなければならず、又事実そうなって来つつあるのである。左翼の政党・労働組合・農民組合・消費組合・文化団体等々・及び進歩的な分子を持つ工場など・の機関紙としての諸新聞紙、学生新聞紙(大学新聞)の若干、などは無産者階級の利害を代表する処の諸新聞紙であるが、今日では之等のものに対抗して、ファシスト、社会ファシスト、アナーキスト等の機関紙として、夫々の右翼諸新聞紙が大衆にまで次第に接近しようと企てている。
ブルジョア・ジャーナリズムの問題としての新聞の問題・新聞への関心は結局、抽象的な一般社会的な生活意識と、夫に直接伴っている個人的経済利害の峻敏な意識(例えば相場のニュースに就いてなど)とから、取り上げられているのである。が階級闘争の問題としての新聞問題は之に反して、階級的社会生活意識と、夫に直接伴う党派的な政治権力乃至経済利害の意識とから取り上げられる。前者の場合に於ては新聞の問題はまだ何も一定の解決の方程式を与えられていない。処が後者の場合に於ては之に反して、新聞は、資本主義の矛盾の暴露(又は弁護)を通じての階級的啓蒙(又は盲目化)機関として、そして更に之によって大衆の階級的組織機関として、初めて問題となるのであるから、ここでは解決の方程式がすでに夫々の形で与えられている。
併し吾々は注意しなければならない。すでに一般にジャーナリズムに於て、ブルジョア・ジャーナリズムとプロレタリア的大衆化との間には、機械的な限界を設けることが出来ない。例えば階級的な意味に於ける有力「大衆作家」の或る人々が、もはやブルジョア・ジャーナリズムの取り上げる処とならない、と云うことも事実であるが、階級的大衆作家の他の或る者は相当早くからブルジョア・ジャーナリズムによって取り上げられ、それによって却って階級的に有力な活動をなし得た、ということも亦事実である。もしファッショ的所謂「大衆作家」(夫は実は大衆作家ではなくて云わば愚衆作家と呼ばれるべきだが)の場合になれば、今日ではファッショ的大衆化――愚衆化――とブルジョア・ジャーナリズム――之も亦事実上は大部分愚衆化に外ならぬ――とが、完全に平行していることを見ねばならぬ。そして大事なことは、そうすることによって彼等大衆作家がさし当たり現象上では一応階級的な反動力を増すことが出来るという事実である。
一般にジャーナリズムに於てそうだとして、新聞も亦多聞に漏れない。先程見た新聞の(ブルジョア民主主義的)一般社会的問題形態と、階級的問題形態との間には、決して機械的な限界線を引くことは出来ず又引いてはならないのである。一体、ブルジョア・デモクラシー式な一般社会的問題形態そのものが、実は階級的問題形態の一変容でもなければならないということが、この二つの問題形態対立の本当の意味なのである。――吾々の問題はだから、云う迄もなく単に階級の機関紙だけを問題とすべきではなくて、又民主主義的なブルジョア社会の――普通の――新聞紙をも問題としなければならぬ。新聞のプロレタリア的問題は、単にプロレタリア新聞紙(又は之に直接に対立する右翼新聞紙)だけを問題にすることにはなくて、恰もブルジョア新聞学者や社会学者の大きな好テーマである処の、ブルジョア社会的新聞紙をも、亦問題にするという処に、従って又更に一般に、新聞それ自身――単に新聞紙だけではない――を問題とせねばならぬ処に、成り立つのである。
吾々の新聞問題が有つ処の必然性はこうであるが、同時に之は、この問題の提出形態をも決定しなくてはならぬ。それはこうである。
新聞はどういう形態の問題としてでも一応は取り上げられることが出来る。多くの通俗的な又は教科書風な新聞論乃至新聞学では、新聞経営学か新聞記者心得か、そうでなければ素人威しの新聞礼讃かが説かれている。だが吾々の視角から見て第一に必要なのは、そうした対素人的及び対玄人的な教程や教訓ではなくて、それよりも先に、新聞の社会的機能の把握と批判とでなくてはならぬ。実際、もしこの点を抜きにするならば、新聞は新聞人に取っての外、全く解くべき何の問題も有たないだろう。で新聞は少なくともこの限りでは、例えば新聞紙と読者との諸関係というような問題の線に従って、一応社会学的な問題として取り上げられねばならぬ。そしてそのためには、新聞は更におのずから、ジャーナリズムの問題として取り上げられねばならぬこととなる。ジャーナリズムの問題必ずしも、新聞人達が考えるようには、新聞の問題なのではない。後者は前者の或る一部分として下属することによって、初めて社会学的となるのである。
新聞の社会学的取り扱いは併し、あたかもここでその限界につき当る、新聞は社会学的な問題としてはジャーナリズムの問題以上のものとして浮び出ることが出来ない。なぜならジャーナリズムそれ自身が、社会学自身にとってもはや充分には解き得ない問題を含んでいるので、それ以上に問題の段階を進めることは出来ないからである。社会学にとってはジャーナリズムを問題とすることは取りも直さず、再び新聞・雑誌等々を問題とすることなので、問題は推し進められる代りに引き返えされる外はないのである。こうしてジャーナリズムは社会学によって孤立した問題とされて了い、統一的な方向づけを失って了う。
吾々はジャーナリズムをば、社会に於けるイデオロギーの一形態及び一契機として規定する必要を有つ。イデオロギーの問題――イデオロギー論的な問題――となれば、すでにそこには必要な理論的な諸機関の準備が出来ているのだから、ジャーナリズムの問題は之に下属することによって方式的に解くことが出来るに相違ない。だからこの仕方こそ、新聞理論の唯一の科学的な道であるということになる。――社会学はイデオロギー論に移行しない限り、新聞理論のアナーキズムを脱却することが出来ない。
之が新聞問題の必然的な提出形態なのである。
吾々は今、イデオロギーやジャーナリズムに就いて一般的に語る余裕を持たない。ただジャーナリズムがイデオロギーの運動にとって欠くことの出来ない歴史的及び本質的エージェントであることを、注意すれば足りる。ジャーナリズムは単に偶然的な又一時的な現象ではない。夫はイデオロギーの歴史的運動から云って必然的な一形態であり、イデオロギーの本質的動力学的構造から云って恒常な一契機なのである*。
* この点に就いては「アカデミーとジャーナリズム」及び「批評の問題」〔後掲〕を参照。
ジャーナリズムはイデオロギーの一つのエージェントである。処で更にこのジャーナリズムが活動するための機関を人々は幾つか数えることが出来るだろう。出版・ラジオ・キネマ・演台(舞台及び演壇)、博覧設備(展覧会・博覧会・ショーウィンドー・スカイサイン・アドバルーン等々)など*。これ等の諸機関を通じて、文壇・論壇・楽壇・画壇・映画壇等々のジャーナリズムに固有な諸主体が形成される。出版(乃至印刷)は処で更に、いくつもの機関に分類されるだろう。書籍・雑誌・パンフレット・ビラ=ポスター=伝単等々。云うまでもなく新聞紙――必ずしも「新聞」ではない――はここに並べて数えられるのである。* だが広告はジャーナリズムが有つ一機能であって、その機関ではない。例えばショーウィンドーや博覧会は殆んど全く広告がその目的であるにも拘らず、同じ博覧設備にぞくする展覧会は必ずしも広告が目的ではない。ビラやポスターは多く広告として機能する処の、ジャーナリズムの機関である。――なお新聞社組織や恒常的な博覧会組織はジャーナリズムにプロパーなインスティチュートである。恰も大学や研究所がアカデミズム(それはジャーナリズムと対立する)にプロパーなインスティチュートであるように。
で吾々は、新聞紙をジャーナリズムの一機関として取り扱わねばならぬ。イデオロギー→ジャーナリズム→出版→新聞紙。だが新聞紙はまだ新聞の凡てではない。それは新聞出版の凡てではない。問題は新聞紙という社会的機関だけにあるのではなくて、寧ろかかる機関をも通じて行なわれる新聞自体の社会的機能になければならなかった。吾々はそこで、新聞現象乃至新聞出版現象から見てかからねばならない。今も云ったように新聞紙は機関であるが、人々は新聞紙プロパーの他に多くの新聞紙補助機関――号外、及び例えば週刊朝日・サンデー毎日・アサヒグラフなどの類――を数えることが出来るだろう。尤も之は新聞紙そのものに取っての補助機関ではなくて、多くは寧ろ新聞紙販売のための補助機関であり、従って大部分のものはもはや新聞紙としての性格を脱して雑誌の範疇に這入ることが出来るように見えるが(そして今日人々はこの現象を促えて新聞の雑誌化とも呼んでいる)、併し実は之は新聞紙の有っている雑誌的な一部面を独立化したものに外ならず、その意味に於て又広義の文芸欄(Feuilleton)の延長又は拡大であるから、当然なことながら矢張り新聞紙の補助機関の名に値いすることを注意しなければならない。雑誌社の「雑誌」ではなくて新聞社の雑誌である処に、それの一切の特色が含まれている(例えば之は『報知新聞』と『キング』や『講談倶楽部』と、伊藤ハンニ時代に『国民新聞』と『日本国民』とのつづき合いと較べて、少なくともその現象形態を異にしているのである)。
こうして機関乃至補助機関としての広義の新聞紙を発行する――編集・印刷・配布する――ものは、「発行人」が何であっても、要するに新聞社組織のインスティチュートである。だが近代的大新聞に於ては印刷は完全に自分の手元で独立に行なわれるに反して(小新聞は印刷所を所有しない場合があり得る)、編集や配布は必ずしも完全に自社の手元で独立しているのではない。小新聞が他新聞雑誌等の記事を盗載するような場合は今の問題の外として、大新聞になればなる程国内的及び国際的な通信社のインスティチュートが提供する報道を――共通の――編集材料として採用し得又採用しなければならない。広告も亦広義の報道に数えられることが出来るとすれば――後を見よ――、広告取次店のインスティチュートもこの段階に加えられねばならぬ。――処が云うまでもなく、広告は有力な編集材料であるばかりではなく、それ以上に有力な収入源であり(この点で広告欄はラジオ版や婦人欄と区別されるべきである)、従って広告の有力さは販売部数の拡大に制約されざるを得ない(ラジオ版や婦人欄は逆に販売部数を制約する)。広告の問題はかくて最も直接に販売の問題に帰着する。処でこの販売――月極(Abonnement)・店頭街頭・などの有料配布――の多くは大新聞の新聞社が直接行なうのではなくて、販売取次店のインスティチュートを通じて行なわれる。地方に於て中央新聞のいくつかが一群となって同一取次店によって取次販売されるのを見れば、販売取次店のインスティチュートとしての独立は一応現象としては承認されるだろう。
だがこうした一応独立な諸インスティチュートは、結局に於ては新聞社と呼ばれるインスティチュートに依存している。丁度それは新聞諸機関が新聞紙によって終局的に代表されるのと変らない。諸新聞社の間にチェーンシステムが成立しようと、トラストが出来上ろうと、又他企業とのコンツェルンが形成されようとも、この点には変りはないのである。
新聞紙は新聞の主なる機関であり、新聞社組織は新聞の主なるインスティチュートである。この二つのものは新聞現象乃至新聞出版現象に於ける社会的物体と考えられて好い。処で第三に吾々は新聞に於ける人的要素を取り上げねばならぬ。主として新聞のインスティチュートの関係領域に含まれる人的要素は、新聞人(Journalist)――広義に於ける新聞記者――であり、主として新聞の機関の関係領域に横たわる夫は新聞紙読者である。
同じく新聞記者と云っても、ブルジョア新聞に於ては、新聞出版資本家――社長・出版者・大株主其の他――と、この資本家によって雇われる所謂記者とは区別されねばならぬ。又記者の内にも、顧問乃至客員もあれば専属的な所謂記者もあり、職業的なフリーランサーもあれば随時に指命される寄稿者や自発的な投稿者もある。――だがこれ等のものより大事な区別は広義の営業部員と編集部員――所謂探訪から論説記者・主筆に至るまで――との区別である*。前者は新聞社組織にインスティチュートの経済的・資本主義的・物質的基礎に直接に連関し、そうすることによって物質的に、一般経済関係に於ける新聞社――新聞会社――の社会的機能(経営)を実施せしめる者であり、後者は之に反して、直接には新聞者インスティチュートの――新聞紙機関を通じての――観念的(そして又恐らく資本家的)作用力に連関し、そうすることによってイデオロギーの世界に於ける新聞社独特の社会的機能を発揮せしめる処の者である。――だが後者は云うまでもなく、そうすることによって、終局に於ては新聞社インスティチュートの経済的・資本主義的・物質的基礎に貢献することを原則としなければならぬ。
* なお営業部の外に計画部を加えても好い。
(資本主義的新聞企業に於ても、その言論が必ずしも新聞社自身の経済的基礎に貢献しない場合が無くはない、例えば同一資本系統の企業を利益さえすればよい場合や、一般的・社会的(?)資本主義そのものの利益を齎すための言論のような場合がそれである。)だから、新聞記者は、たとえ新聞紙を製作する当事者であっても、結局に於ては、単に新聞社組織インスティチュートにぞくする人的要素に過ぎないのであって、実は充分な意味に於て新聞紙機関と連関する人的要素ではない。実際、新聞記者の種類を分類するものは、新聞社の内部的組織の区別そのものなのである。
読者は之に反して、今日のブルジョア新聞に於ては、凡ゆる意味に於ける新聞社組織――内部組織及び外郭的組織――の外にあるものと仮定されねばならぬ。無論新聞社は自分の新聞紙の読者網を、読者層を、組織することに怠りはないが、この元来無関心な読者の組織は、いかにブルジョア・ジャーナリズムが優勢となったとしても、決して新聞社の経済的又政治的な統制によるものではあり得ないから、夫は新聞社自身の組織として現われることが出来ない。だから新聞紙読者は、新聞現象の同じく人的要素であっても、広義の新聞記者などとは全く資格を異にしている。新聞記者は新聞紙の表面に、そして夫は要するに新聞社の内面に、或る意味では吸収されて了う処の、云わばそうしたインスティチュートからは独立していない処の、人的要素であったが、読者は、そうした新聞社組織インスティチュートから独立な、そしてその限り又新聞紙機関からも独立な、新聞現象に於ける人的要素なのである。で吾々は新聞のインスティチュートと機関とに並べて独立する人的要素を、特に読者の内に見出さねばならないわけになる。
さて新聞現象の内から、吾々はさし当り三つの要素を取り出した。第一、新聞のインスティチュート(主として新聞社組織)、第二、新聞の機関(主として新聞紙)、第三、新聞の人的要素(主として読者と記者、併し独立な要素としては特に読者)。新聞現象乃至新聞出版現象は、こうした物的及び人的要素に依って起こる。新聞そのものの社会的機能は、云わばこうした諸実体の関係の上で行なわれるのである。新聞は新聞紙でもなければ新聞社でもない、まして又読者層でもない。こういう諸項目の或る関係が新聞の現象なのである。
尤も、このような三つの要素を指摘することは、別に変った物の見方ではあるまい。誰でもこういう要素を知っている。だが、であるからと云って、誰でもが、この三つの要素の必然的な関係を指摘しているということにはならない*。と云うのは、新聞社組織(インスティチュート)の要素と読者の要素(独自の人的要素)とを媒介し結合するものは、吾々の見た処によると、恰も新聞紙(機関)だったのである。――で、新聞現象の記述・理解・説明――それが吾々の分析の目的である――のための入口は、外でもない、新聞紙――ジャーナリズムのこの現代に於ける特有な機関――になければならぬことが判る。尤もこの区別の結果も亦、多くの人々が本能的に――非分析的・非方法的に――到達している結果と、別なものではない。
* 例えば Harms の Die Zeitung von heute(1927)は新聞の機関と人的要素とをしか取り上げない。杉村楚人冠『新聞の話』(一九三〇年)――この通俗書はわが国に於ける統一的な新聞論として最も理論的意義を有つものだと考えられる――では、新聞の機関とインスティチュートとが主なテーマであって、人的要素は陰に匿されている。新聞の組織インスティチュートだけを素人に向かって喋々する記者式新聞論(ブルジョア的新聞経営学)乃至新聞学(新聞記者心得)に至っては、世界至る処あり余る程あるようである。――新聞紙と読者との連関(之は新聞の社会的機能から云って最も大事な問題の一つだ)を主題としたもので注目すべきは、小野秀雄「新聞と読者」(東京帝国大学文学部、『新聞研究室第一回研究報告』の内)である。
そこで新聞紙の紙面内容は様々な仕方で分類できる。元来これは新聞そのものの本質乃至概念から決定されるべきものであるように見えるが、実際には新聞紙の内容を経験的資料とするのでなければ新聞の(恐らく又新聞紙の)本質乃至概念などは決して決定出来るものではない。だから又新聞紙の内容の分類は今の場合さし当り、便宜的であらざるを得ない*。
* 新聞紙面は普通、政治欄・文芸欄・商業欄・広告欄に分類される(K. Bcher, Gesammelte Aufstze zur Zeitungskunde, S. 22)。――だが之は新聞紙の紙面内容の云わば空間的な分類であって、内容上の分類としては適切でない。
さし当り最も著しい区別は、広義の報道(Nachrichten)と文叢(Literatur)――広義の文芸――との区別であるように見える。前者はその日一日のために書かれ、一遍読まれればそれで役目を終る処の記事であり、後者は之に反してそれ程急速には時効にかかられない処の、比較的反覆して読んでも価値を失わない記事だと考えられる。前者は現実行動性――時事性(Aktualitt)――之は新聞又はジャーナリズムの概念にとっては最も大事な規定の一つであるが――に基き、後者は之に反して比較的に非現実的行動性(Unaktualitt)を有っている、と人々は考える*。之を報知的部面(Anzeigenteil)とテキスト的乃至編集的部面(Texts-Redaktionsteil)と名づけ分けても好い。* E. Steinitzer, Die allgemeine Beitrag des modernen Nachrichtenwesens (Grundriss d. Sozialkonomie, , 1925, S. 71).
だが報道の内容をもう少し区別して見る必要がある。元来新聞紙に於ける凡ゆる意味に於ける報道は、何かの意味に於て公共的な報道に限られると見ねばならない。純粋に私的な、従ってそれの極端な場合としては秘密にぞくすべきものは、新聞紙の内容となることが出来ず、又なっても何の効果を齎さない。秘密文書と雖も、他人に読ませないものではない。却って或る一定の限られた人々にだけ読ませるものが秘密文書――例えば私信・回文等――の意味なのであるが、それが一般的で不定な読者を予想するものではない意味で、初めて秘密文書なのである。新聞紙に於ける報道はだから、公共的である処の、又は公共的であることを欲する処の、即ち不定読者を想定する処の、報道である。近代新聞(ブルジョア的大新聞)は近世初頭のブルジョアジーが、その商業上の報知を得るために取りかわした消息・往来(Korrespondenz)から発生したと云われるが、それが一定の読者を想定した限りは書翰―― news letter ――の範疇を出ないのであって、丁度ローマの貴族や中世欧州の諸侯が通信奴隷又は通信臣下から受けとった情報がまだ新聞紙をなさないのと一つである。これはまだ一種の間諜組織であるから、その意味では少なくとも使節(Herald)組織にでもならない限り、公共性を表面に現わすことの出来ないのは当然である。――これが自由に回読され、又は読売される(Novelliste, Snger によって)時、書翰は初めて新聞紙(手記き新聞)の性格を持って来るのである。公共的報道と云っても併し決して単純ではない。一般的な不定読者を予想すると云っても、その不定読者の私的――個人的及び市井民的――生活に直接影響を有つような、私的興味に関わる場合と、不定読者の公的――国家的及び市民的又は社会党派的(例えばプロレタリアの党派の如き)(ブルジョア政党は多く私党にすぎない)興味に関わる場合とは区別されねばならぬ。前者はブルジョア大新聞紙の大部面を占める記事であって、市井の諸現象・経済記事・政治記事等々の私的報道であり、後者は官報に於ける通知や、公的政党の機関紙に於ける指令の如き公的報道に相当する(吾々は公私の区別を必ずしも政治学的・国家学的に決定しない)。
官報(官報は世界に於ける新聞紙の始めをなす――例えばカエサルの Acta diurna や前唐玄宗帝の「邸報」の如き)や政党新聞紙(之はブルジョア・デモクラシーの所産と考えられる)は併し、その読者必ずしも不定ではない。成る程一定の限られた読者にだけ限定するのではないという意味に於ては不定であるが、少なくとも国民の凡てに又は党員の凡てには読まれねばならぬという点では(そして当然国民乃至党員以外のものも亦之を読むだろう)、実は或る意味の総体読者を有たねばならぬのである。この公的報道は最も狭い著しい意味に於ける公共的報道である。
だがいずれにせよ、この二つの(公的と私的との)公共的報道は、それが如何に一私個人の件に関する報道であろうと、従って又事実上その記事中の人物一私個人にとってどのように利害関係を齎そうと、又事実上読者一私個人の利害にどれ程関係して来ようと、報道者自身の利害とは、一応切り離されていると予想するのが、その立前である。広義に於ける記者――所謂記者から新聞出版資本家・一般資本家までも考えて好い――の経済的利害や政治上の利害や又個人的好悪さえが、事実上そこに支配していても、之をなるべく隠蔽するのでなければ、この種の公共的報道は真理ではないと考えられる、少なくともそういうことになっている。これがこの種の報道の特色である。
処が今、報道者自身――個人であろうと団体であろうと構わない――の諸利害によって或る報道が与えられるとすれば、そういう場合の公共的――之でも決して公共的でないのではない――報道は、もはや単なる報道――公的又は私的――でなくて、広告となる。
併しながら、いくら報道者自身の利害から出発するにしても、それが公共的な読者の利害と何の共通性も持たないならば、広告も広告として成り立たない。だからこの点では広告は本来一種の報道であらざるを得ないのである。例えばわが国の新聞紙――主として東京の中央諸新聞紙――に特有だと云われる新刊書の広告は、多くのインテリゲンチャ読者にとっては必要欠くべからざる報道であって、之に較べれば学芸欄に於ける新刊批評や新刊紹介の如きは、その知能上の興味が却って甚だ低いというのが事実である。――ただ広告は、結局それが広告者乃至報道者の個人的、主観的な希望や期待がイニシャチーブをなしていたという点で、読者に対する報道の客観的公共的な権威と強制力を多少とも欠く結果を招く。広告は読者に向かって、多少とも関心を押しつけなければならない。尤も一切の報道は(而も之は報道だけではない)読者にアッピールするのではあるが、そのアッピールの受け入れ方に、読者にとって義務意識を伴うものと寛大な恩恵を施すという意識を伴うものとの区別がある。後者が広告の場合に外ならぬ。普通の報道記事は見落してはならぬが、広告記事は見落した処で責はないと考えられるだろう。――そして以上の点は、広告の大部分が、私人又は私団体によって広告料金を支払われたものであることに、対応しているのである。
新聞紙に於ける報道の多くは、他方、元来広告的性格を有っていたことを注意せねばならぬ。例えば新聞社自身が自発的に新聞紙上で行なう広義のプレスカンペーンなどは一種の宣伝であるが、一般に宣伝は一種の広告とも見做されねばならぬ。なぜなら関心に対する刺激を反覆加重することによって、アッピールを押しつけることが宣伝であるが、恰もそれは広告の根本性格と一つに外ならなかったからである。私的利害に立脚した宣伝は、取りも直さず広告そのものであるが、そうでない宣伝でも矢張り広告性を失わない。そしてこういう後の場合の広告性の主体としての宣伝は、もはや単なる広告ではなくて報道として受け取られるのである。
かくて報道と広告とは、別でありながら一続きであり、又一続きでありながら区別されねばならぬ。之が両者の具体的な連関である。或る人々が広告をも報道の内に数えるに反して、他の人々が報道と広告とを区別しようと欲するのは、だから、いずれも理由のないことではない。併し、両者を掲載料金の有無によって区別しようとするのは、両者連関の現象の一面を指摘するだけであって、それだけではこの現象の説明になるものではない。
報道と広告との以上のような連関は、広告を云い表わす諸名辞が能く之を示している。例えば、Intelligenz, Anzeige, Announcement の如きは、広告を意味していながら、この言葉通りの意味が示しているように、報道――通信・告知・通知――をも同時に意味することが出来る。之に反して Inserat, Reklame の如きは専ら広告だけを意味し、それが、報道自体に較べて報道価値が少ない証拠には、夫々多少軽視又は蔑視の意味をさえ含んだ言葉であるのは無理からぬことである。Advertisement は丁度、報道と広告とを兼ねて意味する処の広告を云い表わす名辞であるように見える。
報道の分析はさし当りここで止めておいて、吾々は次に文叢の問題に這入らねばならぬ。之と報道とのさし当りの区別はすでに述たが、それをもっと立ち入って分析する必要がある。
文叢の内に数えられるべきものは、第一には論説(Aufstze)、解説及び注釈(Kommentar, Glosse)であり、第二には評論(Kritik)、批判及び紹介(Rezension, Besprechung)、第三には文芸(Literatur)である。第一のものは主として教導(Belehrung)の機能を果し、第二のものは主として評価(Beurteilung)の、第三のものは主として娯楽(Unterhaltung)の、機能を果す。―― Belehrung と Unterhaltung、Belehrung と Beurteilung との間にはおのずからの推移があるが、従って例えば文芸は必ずしも娯楽ではなくて教導の機能を果すし、評論も評価であると共に教導でなければならないが、文叢――それは文芸欄(Feuilleton)などだけに限られるような狭いものではない――の、甚だ多方面な様々な可能性を含んでいる処の雑多な内容を、分析するにはこの種の区別が必要である。
ブルジョア的近代大新聞紙では、文叢に較べて報道(及び広告)が次第に有力な内容になりつつあることがその大勢である。ブルジョア新聞紙の批判的性能の消滅、世論指導力の喪失、センセーショナリズム化(その極端な場合が黄色ジャーナリズム化)・商品化(それは広告に於て最も露骨である)・等々と呼ばれる現象が之に外ならない。処で之に反して例えばソヴェート同盟の諸新聞紙では、文叢がその重大な内容の一つとなっていることに注目せねばならぬ。――茲に人々は、報道乃至広告と文叢――夫を特色的に一般に批評と呼ぼう――との、新聞紙内容としての本当の区別を、最も端的に見出すことが出来るだろう。と云うのは批評は社会の建設的(乃至破壊的)機能を果すものであるが、報道(乃至広告)は之に反して何もそうした積極的な社会機能を果さなくても好いからなのである。
新聞紙内容の分類は、単に新聞紙欄の上での空間的な区別ではなくて、新聞紙に於て表現されている内容の区別でなければならぬと云ったが、この内容上の区別とは、実は、新聞紙の社会的機能から見た区別の外ではあり得なかったのである。報道が現実行動的であり一回的であり、文叢が比較的反覆に耐え得るというような――前に与えた――区別は、実はこうした社会的機能の上での区別の、インデッキスに過ぎなかった。
さて吾々は新聞紙の内容として、結局三つのものを得た。報道、広告、批評。報道と広告との連関はすでに述べたが、この二つのものと批評との連関を今与えておかねばならぬ。
報道はその選択、形態、仕方の如何によって、おのずから報道者による批評を含んでいる。報道記事は編集者による最も婉曲な批評なのである。元来、社会記事の多くは報道としての資格を有つものと考えられているが、実際は読者が、それを単なる報道として受け取るとは限らないのであって、読者は寧ろ彼自身の欲望が社会という反写鏡によって大写しにされた点に興味を見出すのであり(そしてそういうのが所謂センセーションなのである)、従ってその限り社会記事の多くは読者にとって一種の娯楽にさえ数えられることが出来る。但し之は単なる娯楽ではなくてお互いの間で話題に昇せ、評判し、批評する、ことによって、完成される筈の娯楽である(新聞紙によって与えられる娯楽は多くこの類であろう)。処がそう云った娯楽は、取りも直さず今言った文叢――批評――にぞくさねばならなかった。こういう点からだけ見ても、社会記事は報道記事であると共に批評記事の性格を担うことが出来るのを推察し得る。まして報道が初めから意識的に批評的観点から取り上げられる場合、凡ての報道記事はそれ自身批評記事に外ならない。――逆に批評記事が結局批評的な報道であらざるを得ないことから、批評が、外でもない新聞記事としては、報道に帰着するということは、明らかである*。
* Information という言葉、報道と批評――解説――とのこの結合を云い表わす。
広告が次に、殆んど凡て自家広告であったことを注意せねばならぬ。広告とは広告者が自己の利害に立脚して報道する報道であった。自家広告とは併し、或る条件の下に於ける自己評価、自分をほめ又は他をけなす、の外ではない。それは常に――公平なる――自己批評の外形を装うことによって初めて、効果を収めることが出来る。広告はだからいつも批評――評判――の形式を装う。だが批評の形式を装うということは、広告が批評ではないことを意味するのではなくて、却ってその本質に於て実は批評であるということを示すものである。この点は注目に値いする。広告は本当に内気で正直であるならば成立しないし、又本当に嘘ならば効果はない。それは公平な批評(自己批評)であるかのように見せかけることによってやがて、それ自身公平な批評(自己批評)となる、という関係の内に初めてなり立つのである。だから今度は逆に、批評も実は一種の広告としての性格を有つことが出来る。ただこの場合は、前の場合とは逆に、広告であるようには見せかけないことによって、却って広告的機能を果すことが出来る。と云うのは、ブルジョア新聞紙に於ける批評の多くは、或いは編集者の、或いは新聞社の、或いは新聞社関係の資本家乃至資本家団の、或いは又金融資本家階級の、又国家の、主観的な利害に立脚して、与えられる。それがただこの私的な――個人の又は私的と考えられる諸団体の――利害を表面に標榜しないということによって、わずかに批評の権威を保つことが出来るにすぎないのである。
こうして、新聞紙の三つの内容である報道・広告・批評は、有機的に、或いはより正当に云えば弁証法的に、連関する三つの契機となる。それは新聞紙面欄の空間的区別のように、機械的な差別なのではない。で人々には新聞紙乃至新聞の本質を、或いは報道に、或いは批評に、或いは広告にさえ、見出すことが出来る。新聞紙の内容は単に新聞紙の内容ではなくて新聞そのものの内容を指し示すものだったのである。――処でこうなると、新聞紙乃至新聞の内容の区別は、先程云った通りすでに全く、新聞乃至新聞紙の社会的機能に帰着する。
だが、もう新聞乃至新聞紙の概念を規定しても良い頃である。
普通人々は、新聞、乃至一般にジャーナリズムの概念を、交通関係から説明しようとする。と云うのは、新聞乃至ジャーナリズムを、観念の社会的精神的交通の機関乃至エージェントとして規定しようとするのである*。併しこうした規定は誤ってはいないにしても決して充分ではない。なぜなら、アカデミーや研究発表の諸機関のようなものも亦、観念の社会的精神的交通のエージェント乃至機関でなければならぬからである。一般に、社会的精神的な交通関係に置かれないような観念――イデオロギー――が一体どこにあるだろうか。もしこの交通関係にあるものがすべてジャーナリズム(その著しい場合が新聞現象に外ならない)にぞくすると云うならば、一切の観念の表現がジャーナリスティックなものに外ならない筈であって、そうすればジャーナリズムとアカデミズムとの区別の如きはどこにも無いことになって了うだろう。そう云ったのでは文化(乃至イデオロギー)の二つのエージェントの一つであるジャーナリズム――吾々はジャーナリズムをそういうものと規定した――を全く無意味な概念にして了う。もしそうならばジャーナリズムという概念は何も必要はないのであって、単に文化か精神か社会意識か(又はイデオロギーか)という概念で好い筈ではないか。処が文化・精神・社会意識(尤も之はイデオロギーと呼ばれるべきだったが)の、特別な一契機・一形態だけが、ジャーナリズムだったのである。
* 「新聞学の主要な問題の一つは、人と人との間の社会的精神的交通関係を実現する手段を系統的に理解することである」(小山栄三「原始的公示形態と通信方法――新聞前史の一考察――」、前掲、『新聞研究室第一回研究報告』四六頁)。
「然らば新聞の本質は如何?著者は『新聞の本質は、社会の心的交通機関である』と信ずる」(棟尾松治『新聞学概論』一一頁)。
尤も新聞乃至ジャーナリズムが、他のも一つのイデオロギー形態乃至契機(アカデミズム)に較べて、特に交通関係としての特色を著しくしているということは、無視してはならない事実である。ジャーナリズム(乃至新聞)は他のもの以上に、物的交通諸設備――伝達機関・交通機関・交通路など――に制約されていることがその特色と考えられる。こういう物的交通諸設備の発生乃至発達によって初めてジャーナリズムは発生し又発達した、それは事実である。だが、之によって発生又発達した観念物は単にジャーナリズムばかりではない。一体物的交通諸設備によって発生発達しなかったような観念物は一つもありはしない。ただジャーナリズムだけが最も強くこの物的交通設備に制約されているというまでである。
ジャーナリズムとは元来、本質的には、社会生活に於ける観念――イデオロギー――の運動の一契機であり、歴史的には、今日に於てのような一形態を必然的に取らざるを得なかった処の契機に外ならぬ。それでそうしたものであればこそ初めて、交通関係と特殊に緊密な関係にも立つのである。ジャーナリズムはその内部に於ける契機の対立にも拘らず、アカデミズムに対立しては、一般に現実行動性――時事性(actuality)をその原理としている。それは日常社会生活活動から生じる意識なのである。だからその結果の一つとして、そこでは人々の意識が、特に社会人との社会的交通に這入るという点が強調されねばならぬわけだったのである。――だがこの現実行動性から結果するジャーナリズムの諸規定は、決してこの交通関係の強調だけでは尽されない。現に、日々の条件に制約される常識的生活を意味する処の日常性も、社会生活活動の一般的特色としての政治的性格も、ジャーナリズムのより以上欠くべからざる規定でなければならない。
吾々はジャーナリズムの原理を現実行動性として規定することによって初めて、新聞現象の諸根本概念規定をも浮き出させることが出来る。そこで、新聞現象の根本概念規定の第一はジャーナリズムが有つ日常性の特色に対応する。――新聞という邦語は News の訳語であるが、之は元来新しいもの又は新奇なるもの(Novelle)を云い現わす。昔からあり昔から変らないものは、奇とするに足らぬものであり、従って新しいと感覚されるものではない。特に新しいと感覚されるものは、云わば昨日までないものが今日始まったというものである、或いは昨日もあったのに又しても今日もあるというものである。だがこの新しさの測定は原理的には、こうやって云わば一日一日を条件とすることによって初めて与えられる(尤も実際にはそれが一月一月でも刻々でも好い)。と云うのは、事物に対する観点が、その日その日の特殊の存在を第一条件とすればこそ、新しさということが意味を有って来るのである。そして日々の条件に立つという原理――夫を永遠性の原理に対立させよう――が日常性の規定の大事な一つに数えられる。
尤も、新奇とは通常でないことであるから、ニュースが日常性――通常性――に対応することは不当ではないかと云われるかも知れない。だが真に新奇な――重大な――事件と雖も吾々の日々の生活――日常生活――の内でしか起きはしない。重大な事件の起こったと云われる日の生活は、特別にそれ適当に秩序立てかえられた処の、矢張り一つの日常生活に過ぎない。――それにニュース(新聞・報道)は、最も通常な――重大ならぬ――市井の日常茶飯事に就いてさえ、好んで新奇を見出すことが出来る(センセーショナリズム)。――新しいということは、日常生活の内に於て新しいということに外ならない、それは無論何も超現実的なエクスタシーや「新生」に入ることではない。云わば現世的な常識生活が日々に新たであり而も日々平凡であるということが、日常性の原理――之を超世間性の原理に対立させよう――のも一つの大事な規定である。
ニュースのもつ、この二つの意味の一つ――その日その日の条件――は結局、日常性の(歴史的)時間の上の規定に帰着する。実際 Zeitung とはW・シュレーゲル(シェークスピア・ハムレットの訳者)によって News から翻訳されたものだと云われている。新聞(ニュース)はそこで、第一に迅速に間に合わねばならず(Timeliness, Schnelligkeit)、第二に又週期的に与えられねばならない(Periodizitt)。――報道(ニュース)の時間上の迅速は当然空間上の接近と平行する。近ければ早いし、又早くなれば近くなる(ここに例の交通関係が初めて這入って来る)。だがそれはそうとして、それよりも大切なことは、報道が迅速になればなる程、報道の報道としての有効期間が短縮される結果を招くという点でなければならぬ。報道価値は報道の迅速さと逆比例してその持続時間を短かくする。なぜかと云えばすぐ次の報道が容易に到着して、前の報道をカバーして了うからである。このことは処で、取りも直さず、新聞(ニュース)の週期性に関係する。報道が迅速であればある程、有効時間は短縮され、従ってそれだけ週期は細かくならねばならない筈である*。そうでなければ新聞にはならない**。
* 週期の規定は、新聞紙の法令上の定義に於ても欠くべからざるものである。「本法ニ於テ新聞紙ト称スルハ一定ノ題号ヲ用ヰ時期ヲ定メ、又ハ六ヶ月以内ノ期間ニ於テ時間ヲ定メズシテ発行スル著作物及定期以外ニ本著作物ト同一題号ヲ用ヰテ臨時発行スル著作物ヲ謂フ」、云々(新聞紙法第一条)。――ここで云う新聞紙とは所謂新聞紙だけではなくて実は新聞出版物のことであり、従って雑誌をも含んでいるが、雑誌のように週期があまり大きい場合には、もはやそれは実際上新聞紙ではあり得ない。定期刊行物必ずしも新聞紙ではない筈である。だから諸外国の法令は多く新聞紙と雑誌乃至定期刊行物とを区別する(フランス・イギリス・アメリカ等々)。処でこの区別を与えるものは外でもない、事実上、報道の迅速であるか否かに帰着するのであった。
** 新聞の週期は、日刊(又は月に何回)・週刊・旬刊・月刊等々であるが、随時刊行(timely)の新聞をも顧慮しなければならぬ。一定の重大事件が起きる毎に報道されるわけであるが、之は週期性の最も合理的に変形したものである。――新聞紙編集は普通、事件の前後に渡る統一を欠いており、事件の本当に歴史的な経過を新聞紙報道から期待することは出来ないのが常であるが、之は新聞紙の歴史学的・資料的・価値を零にするものである。タイムリー刊新聞紙はこの欠点を償うだろう。そしておのずからそこでは、単なる所謂「ニュース」の代りに解説的報道が与えられることになる。
新聞現象の第二の根本概念規定は、ジャーナリズムが有つ政治性に対応する。但しここに政治的と呼ぶものは政治学的な概念ではなくて、より根本的に、社会科学的な概念でなければならない。アリストテレスが人間を政治的動物と定義した、その意味での政治をも含む。そういう意味に於て吾々社会人の日常生活――それは日常性の原理の上に立っていた――は、常に政治的性格を有っていると云って好い。所謂政治(政治学的・代議士的な政治概念による)は、こうした社会生活の根本特色をば、一つの領域にまで特に独立化して分離したものに過ぎない(これは単に専門的な政治家の存在によってしか生じない現象だろう)。だから実際、所謂政治は、他方に於て非専門的な常識的なものでなければならぬと考えられている(デモクラシーを見よ)。そこで新聞は狭い――所謂政治としての――意味に於ても、根本的な――社会生活の根本特色としての――意味に於ても、政治的でなくてはならぬ。政党新聞紙は云うまでもなく今云った狭い意味での政治性を持っているが、それだけではなく、一般に新聞紙が、民衆の思想機関だとか世論の機関だとか社会教育の機関だとかと考えられるのは、後の根本的な意味に於ける新聞現象の政治性を云い現わすものに外ならぬ。実際、近代的大新聞がどれ程報道中心に傾いて来ようとも、その報道の本格的なものは、依然として、狭義の又根本的な意味での、政治的事項である。そればかりでなく多くの記事が社会教育的な――即ち又政治的な――視角から取り上げられると少なくとも或る人々は信じている。だからこの場合新聞紙は単に報道の機関なのではなくて、又批評――批判乃至教導――の機関ともなり得なければならぬと考えられているのである。
ジャーナリズムの日常性の規定に対応する新聞の根本概念規定は、新聞紙の報道部面として現われ、之に反してジャーナリズムの政治性の規定に対応する新聞の根本概念規定は、新聞紙の批評部面として現われる。処でこの二つの部面が、外でもない二つの新聞紙内容の区別であったことを思い出さねばならぬ。
さて、新聞現象のこの二つの根本概念規定は、ジャーナリズムの現実行動性――時事性――の規定に対応する処の、新聞に於ける根本概念にまで総合される。新聞はこれ等二つの根本概念規定を持つことによって、要するに時事的性格をその根本概念規定とするのである。報道(ニュース・新聞)は常に時事的な意味を有たなければ報道ではない。報道はその特色から云って、時間的に直ちに時効にかかる、報道される内容は言葉通りに時事でなくてはならぬ。だからこそそれはかの迅速さと週期性とを必要とするのであった。そして、こうした時事的報道内容の内、最も時事的なものは、外でもない、狭義の又根本義に於ける政治事項(所謂政治・経済・社会)だったのである*。
* 「時事ニ関スル事項ヲ掲載スル新聞紙ハ管轄地方官庁ニ保証トシテ左ノ金額ヲ納ムルニ非サレハ発行スルコトヲ得ス、云々」(新聞紙法第十二条)。――これは少なくとも、新聞紙乃至評論雑誌を、学術文芸雑誌から区別するに役立つ、そしてこの区別は週期の大小による新聞紙と雑誌との区別よりも、より根本的な区別でなければならぬ。なぜなら之は新聞紙と雑誌とを区別するのではなくて、新聞現象と他の現象――それが仮に週期的刊行物の現象(アカデミカルな大学紀要の如き)であっても好い――とを区別しているのだから。
新聞の根本概念規定は、ジャーナリズムの夫――時事性・現実行動性――から説明されねばならぬ。だからそれは又、イデオロギーの諸規定に下属して説明されねばならぬのである。――社会的精神的交通関係によって単に直接に――イデオロギー層を抜きにして――説明を与え得るのは、新聞乃至ジャーナリズム現象の、高々原始的な抽象的形態に就いてだけだろう。それだけでは歴史的な新聞現象の説明とはまだなれない。新聞乃至ジャーナリズムの概念は一つのイデオロギー現象として、その特性に従って規定されねばならない、だが、そう云ってもそれは単に、新聞を社会心理学的に説明することではない。イデオロギーは決して単なる心理学的な社会意識などではない。新聞乃至ニュースを本能的な好奇心やセンセーション又は反抗意識から説明することは、新聞乃至ニュースの心理学的動機の説明ではあるが、決してまだ新聞自身の説明にはならない。
吾々は新聞(乃至ジャーナリズム)の概念を定義することは出来ない。と云うのは、之を形式論理的に限定することによって片づけることは出来ない*。蓋しイデオロギーは決して形式論理的には処理出来ないように出来ている。新聞紙に就いてさえ、その概念を定義出来るものは精々成文の法律だけだろう。処がそういう法律的定義さえ常に、時と共に改正されて行かねばならぬ宿命を担っている。
* ニュース――新聞(Zeitung)はその訳であった――の形式的定義は全く滑稽なものに終らざるを得ない。「何でも人をインテレストするものはニュースである」、「ニュースとは少数の人々が知っている事柄を、之を知らない多数の人々のために発表することをいう」、等々。だが、つまる処、「十戒に背いたものは皆ニュースである」、「犬が人に噛みついてもニュースにはならぬ、人が犬に噛みついた時初めてニュースとなる」、等々の類が、その落ちである(杉村楚人冠『新聞の話』一二七頁以下参照)。
新聞の概念は、吾々が分析の最後に来る以前に決定しつくすことは出来ない。併し略々以上のような段階にまで夫を決定しておけば、今の処充分に有効だろうと思う。なぜなら、以上のことからすぐに、新聞の社会的機能――それが吾々の中心問題であった――の端緒が引き出されるからである。
新聞の概念の根本規定の第一は、報道(ニュース)であったが、それは直ぐ様、種々なる意味と範囲とに於ける社会人――国民・民衆・大衆・又は公衆等々――に向かって報道するという、一つの社会的機能を云い現わしている。だからこの報道の種類――その材料選択と或る範囲に於ける報道の仕方――によって、新聞紙が読者に対する関係は、その読者層の如何と影響力の量質の如何とによって、異って来るのであり、それだけそのさし当りの社会的機能を別にするのである。
新聞紙の多くのものは、今日では殆んど一切の事物を報道材料として取り入れるが、併し特に材料種類の選択に於て云わば公平なものと、そうではなくて特定種類の材料に力点を置こうとするものとがあるわけで、かくて新聞紙は――その社会的機能の一つから見て――、普通新聞紙と特殊新聞紙とに区別される。経済新聞紙(例、『中外商業新報』)、宗教新聞紙(例、『中外日報』)、文芸新聞紙(例、『読売新聞』『文学新聞』)、大学新聞紙(例、『東京帝大新聞』)、花柳新聞紙(例、『都新聞』)などは後者であり、その他の多くの中央乃至中央的大小新聞紙、地方大小新聞紙は前者にぞくする。但し政治新聞紙は、政治性がジャーナリズムの根本概念規定の他の一つであったことから、当然、普通新聞紙に数えられて好い。
だが新聞の根本概念規定の第二のものは、その政治的及び批評的特色であった。そこで、新聞は第一に世論を代表し又は世論を指導するという社会的機能を有つと云われている。もはや、そこでは新聞紙は市井のトリヴィアルな雑事を、その報道価値の故に、即ち報道のための報道として、報道するだけではない(Trivialism)。そういうトリヴィアリズム報道の社会的機能を、それだけとして政治的・批評的・機能から引き離して作用せしめれば、それが所謂センセーショナリズムであって(それは新聞――ニュース・報道――の最も末梢的な社会的機能である)、そしてそれの最も特徴的なものが、黄色調(yellow journalism)と呼ばれるわけであるが、今は、もはや単にそういうものが新聞の社会的機能であってはならぬ。機能は世論に関するのであると考えられる。
嘗てわが国に於て大新聞紙と小新聞紙との区別が行なわれたが、後者は市井の雑事をセンセーショナルに報道することを機能としたものであり、之に反して前者が――政治的な――世論を取り扱うことをその機能とするものであった。丁度それは小説と論説――大説――との区別に平行していて、後者は読売の発達したものであり、前者は落書の発達したものに相当する。尤も所謂近代的大新聞は、実は却って、当時の小新聞が資本主義的に発達したものであるから、当然なことながら、実際には世論の機関としてのその機能が今では殆んど全く退化して了って(高々、官吏減俸案反対のような場合を除けば)、至極冷静な――一定の色調はあるが――報道機関をその理想としているかのように見える。
処がそれにも拘らず、近代的大新聞は、依然として世論の機関であることを宣言するのを忘れない。新聞人の主張する処によれば、新聞紙は「社会の木鐸」であるそうである。――わが国の嘗ての大新聞が交渉を持ったものは、たしかに本当の世論であった、それは立憲前後の自由民権論者が懐いた政治的見解であった。だがそれは又本当の世論ではなかったのでもある。なぜならそれは人民の名に於て進歩的な或る社会分子にだけ通用する見解であって、決して民衆そのものに事実通用していた政治的意見ではなかったのだろうから。だから世論が本当の世論であるためには夫はもはや「公正な」世論ではあり得なくなる、処が「公正」なるものこそが、実は又本当の世論であるべきではなかったか。世論のこの矛盾した特色に平行して、嘗ての大新聞――世論新聞――は、嘗ての小新聞――市井新聞――であった近代的大新聞によって、取って代られる。かくて今日の大新聞がもはや実際には世論の機関ではあり得ないにも拘らず、却って正にその故に「世論」の機関であり得るわけなのである。
蓋し世論とは民衆の一般的・代表的・総和的・な意志を意味すると考えられて好いだろうが、こう云った概念は、大衆の総てが何か平面的に平均され得ると考えている機械的な又原子論的なブルジョア・デモクラシーの外から来たものではない。だからブルジョア・デモクラシーが、大して有益でなくなるか、又は相当邪魔になるような発展段階まで来れば、この概念の矛盾と不用役とが暴露されて来ないわけには行かない。無論何時の世でもこの概念を仮定することが出来ないのではないが、之に何か実際上の内容をあてはめようとすると、この概念はたちまち全く無意味なものになって了うのである。事実現在のように、ブルジョア・デモクラシーが色々の方向に於てゆきづまって了った時には、幾つもの「世論」が対立して行なわれざるを得ない。自ら世論と名乗るもの必ずしも世論なのではない。この時世論の公正などはどこにもあり得ない。
新聞の今の場合の社会的機能を世論に関係づけるということは、だから、そのままでは今日では殆んど全く意味を失って了った問題である。世論という概念が成り立たないと云うのではないが、そういう――社会学者が能く好む処の――概念は、そのままでは何の問題の解決の鍵にもならない、従って今の場合、新聞の社会的機能の説明にも役立たない、と云うのである。世論が新聞を決定するか(新聞が世論を代表する場合)、それとも逆に新聞が世論を決定するか(新聞が世論を指導する場合)、というような紋切型の問題には、だから吾々は直接には大した意義を見出すことが出来ない*。
* 世論と新聞との関係に関しては G. Tarde, L'opinion et la foule; O. Groth, Die Zeitung . 1927; Mnzner, ffentliche Meinung und Presse, 1928; Presse und ffentliche Meinung(Verhandlungen des siebenten-deutschen Soziologentages, 1930)等を見よ。――なお世論の問題は「世論の考察」(本著)〔付、一〕参照。
それより大事な機能は政治的見解――之はすでに党派的であって「公正」な世論ではない――を代表し又指導することにあるだろう。新聞紙はこの場合、この党派的政治的傾向の有無に従って、党派新聞紙と一般新聞紙とに区別される。――だが党派的と云う意味は単一ではない、夫は私党的であることを意味する場合と本当に党派的である場合とを含んでいる。従って政治的見解でも私党的に夫々の政治的諸見解が対立する場合と、本当に党派的に対立する場合とは、厳重に区別されねばならぬ。人々は最も直接な主観的利害によってさえ私党を形づくることは何時でも出来るのだから。わが国などの従来のブルジョア政党の合同離散は多く、そうした私党間の、又私党的政治的諸見解の間の、出来事にしか過ぎない。――本当に党派的なるものは、世論にとっても所謂政見によっても与えられない。それを与え得るものはイデオロギー――政治的従って又文化的――の外にはない。で新聞の今の場合の社会的機能は、実は世論や政見の代表や指導にあるのではなくて、恰もイデオロギー(政治的従って又文化的)の代表と指導とになければならぬ。新聞紙は何よりも先に、イデオロギーの機関でなくてはならなかった。
処で、新聞の概念規定から云って、その政治的批評的な特色は第二に、同時に教導的・社会教育的な特色と同伴しなければならない筈であった。実際今、政治的イデオロギーは文化的イデオロギーと同伴しなければならないのである。では新聞はどういう教導的・社会教育的(即ち文化的な)社会的機能を働くか。――人々はこの機能を普通大まかにも、ジャーナリズム(正確に云えばジャーナリズム化)と呼んでいるのである。
報道と批評と――今の場合それが知識と見解とである――は原始時代に於ては支配者乃至支配階級の独占的特権であった。秘儀やタブー・秘伝・階級的科学(例えばバラモン教)・倚らしむべし知らしむべからずの政治方針・等々。近代ジャーナリズムはブルジョア・デモクラシーと共に、かかる独占物の民衆化として機能しなければならなかった。――だが世論がすでにそうであったように、世論の主体であるべきであった民衆なる概念も、もはや決して信頼すべき科学的な概念ではない。だからジャーナリズム化の社会的機能を民衆化に求めることは決して成功しない。
必要なことは民衆概念をもっと実際的なものとすることである。と云うのは、民衆化と云えばすでに何か与えられた一般民衆が考えられている、凡ての個人がそこでは民衆という資格に於てすでに同一となって了っているものとして、仮定されている。民衆化とはだから、そうした出来上った固定した民衆にまで報道や批評を運ぶことであって、無論民衆自身を形成して行くことなどではない。民衆を民衆として組織して行くことではあり得ない。処が実際には、そういう出来上った民衆などどこにも存在しないのである。実際には様々な政治的文化的傾向を持った多数の人々が与えられているに過ぎない。実際的な民衆概念は、出来上った与えられているものではなくて、民衆にまで形成され組織されて行くべきものを意味しなければならない。そうすることが本当の民衆化なのである。そしてこういう民衆化は――正確に概念を用いるならば――大衆化と呼ばれるべきものである。大衆は与えられていない、大衆は大衆にまで組織されねば大衆とはならぬ、大衆は自らを――政治的に――大衆にまで組織する、そしてこの大衆化に沿うて、この大衆化されるべき又化されつつある大衆にまで、報道や批評を――文化的に――持ち込んで行くことが、大衆化なのである。今の場合ジャーナリズム化と呼ばれるものは、実はこういう大衆化を意味せねばならぬ。知識や見解の(文化的)大衆化が、大衆自身の大衆への(政治的)組織化と平行しないならば、そういう大衆化――それは併し実は単なる民衆化に過ぎない――は、結局新聞の教導的・社会教育的――文化的――方面の社会機能――イデオロギー的機能――をも実際的に果すことは出来ないだろう。今日のブルジョア新聞紙は、であるから、その政治的「中立」(世論の公正)の政治的無力と平行して、文化的教導力や教育力に於て殆んど全く無価値であるのは当然なのである。――ブルジョア・ジャーナリズムはもはやジャーナリズムではない(主に専門的な科学乃至文芸上の知識乃至見解を報道及び批評する時、新聞によるジャーナリズム化の社会機能は、通俗化 Popularisation である。通俗化とは一定の成果を他の一切の教養と連関せしめるために、この成果の手続き又は過程の叙述を已むを得ず犠牲に供する仕方を云う。俗流化 Vulgarisation は之に反して無意味に知識乃至見解の水準を低めることを意味する。之は通俗化が陥り易い弊害であるだけに、ジャーナリズム化が往々陥る弊害でもある。新聞は単にこの弊害だけのためにも、その本来の社会的機能を高く買って貰えなかった場合が多い)。
さてそこで、新聞紙は最後に、そのイデオロギー的機能の如何によって区別されねばならぬ。自分でそれを自覚していようがいまいか、又それを故意に標榜しようがしまいが、一切の新聞紙はイデオロギー(政治的従って又文化的)を持っている。で、現代に於ける二つの根本的なイデオロギーに対応して、新聞紙は結局に於て、その社会的機能から云って、ブルジョア新聞紙とプロレタリア新聞紙とに区別されることとなる。単に政治新聞紙ばかりではない、一切の新聞紙がこの基準によって区別されるのである。蓋し一切の事物の一切の社会的機能は夫々、階級的に機能するからである。
だが新聞の社会的機能は以上分析された程度のものに止まってはならぬ。今まで述べた処は、新聞紙と読者との関係からだけ見た社会的機能に過ぎないのであって、新聞紙はその外に、新聞社組織との関係からも見られねばならなかった――前を見よ。そしてそこにこそ、新聞の匿されたる、併し最も根本的な、社会的機能があるだろう。そしてこの意味での社会的機能を通過して、もう一遍先程述べた社会的機能も見直されねばならぬ。元来新聞はイデオロギー的――上部構造的――機能を持つのであった、して見れば当然そうなければならないのである。
新聞紙(乃至新聞)の、凡ゆる意味に於ける社会的機能は凡て、それがジャーナリズムの機関であるという一つの点に帰着する。だが、現代のジャーナリズムに於ては、新聞紙(乃至新聞)は資本主義社会に於ける膨大な商品の一つに外ならない。だから新聞紙は一定の(ジャーナリズム的な)イデオロギー的使用価値を有つ処の近代的商品なのである*。ブルジョア新聞紙乃至ブルジョア新聞は資本主義制度下に於ける一切の経済関係に支配される、商品ニュースに就いての自由競争・独占・等々。で、ここにこそ――現代に於ける――ブルジョア新聞の社会的機能の最も基礎的な諸条件がなくてはならぬ。
* 人々はつけ加えるだろう、新聞乃至新聞紙は、最も腐敗し易い商品である、と。
ブルジョア新聞出版は今日では新聞社による資本主義的企業である。そこで人々が好く口にするように、第一に新聞乃至報道(ニュース)の商品化が行なわれざるを得ない。商品が単なる販売のためのものであって、その交換価値が実質的な使用価値から抽象されると丁度同じに、報道が単なる報道のための報道として強調され、所謂報道価値が報道の実質的な使用価値から抽象されると、それがかのセンセーショナリズムとなる。全くそれは報道の商品化の必然的な――但し多くの内の一つの――結果に外ならぬ。実際、このセンセーショナリズムによってブルジョア新聞出版企業は著しい発展を遂げることが出来たのが事実である。例えば日清・日露・世界大戦などに際して、戦争の報道――それは原始的本能や無馴練な国家意識を最もよく挑発するに適している――によってわが邦の新聞企業は経済的にも技術的にも躍進を遂げることが出来た。だがこのセンセーショナリズムがより極端に徹底されると、報道は凡そ報道の反対物にさえ、捏造記事にさえ、到着することが出来る(このことは所謂エロ・グロ記事――之は人間の最も一般的で抽象的な感覚に訴える――に於て最も著しい)。報道(News)の機能を新聞紙が誇張することは、批評(Views)の機能をそれだけ制限することである。だから新聞出版企業が資本主義的に発達し、その経営形態が資本主義的に合理化されて来れば来る程、新聞紙に於ける批評の位置は低められる。例えば論説は今日では殆んど新聞の格式を表現するにしか役立たない一種の象徴でしかなく、短評は結局紙面内容の象徴的な要約としてしか読まれていないだろう。批評はセンセーショナルな感傷的記事に全く圧倒されて了う(ツェッペリン来・オリンピック・等々)。そうしないと事実、新聞紙は売れないのである。
尤もそう云っても、報道の選択や方法の内に、おのずから新聞紙の一定の見解が、即ち批評的態度が、暗示される。露骨に評論其の他となって現われないにしても、それは所謂新聞紙格(Persnlichkeit)として読者に一定の印象を与える。新聞紙格は、丁度紳士道や淑女道が人物の価値の標準にはならないように、決して人々が好く云うようには新聞紙の最後の価値表現でないのだが、それでも新聞紙の最も手近かな風貌として、読者に最も直接な印象を与えるには役に立つ。
そこで読者は夫々一定の品格の新聞紙を選択しようと欲する、或いは読みつけた新聞紙が最も肌に合うのである。こうして新聞紙が略々一定の読者――固定読者(Abonnements)――、を得るようになると新聞紙はおのずからこの固定読者の意を迎えねばならなくなる。手頃な社会的意識や政治的見解――併し多くの読者はそういうものを単なる好みとして以外にあまりやかましく考えはしないのだが――を随処にほの見せることによって、読者の惰性的な生活意識に逆わないようにやって行かねばならぬ。社会階級や社会自身によって利害や観念形態やが異っているが、そうした利害を擁護したり観念を権利づけたりすることは実は今の場合どうでもよくて(そういう場合は後を見よ)、新聞紙は高々そうした生活の異った好みに投ずればよいのである。田舎には大阪毎日を都会には東京朝日をという具合に、ブルジョア新聞が農民の利害を代表するとか労働者の利害を代表するとか、解釈されたり吹聴されたりするのは、十中八九こういう段階の報道の商品化のことに過ぎない。――新聞紙も人間と同じに、一儲けするには一般に人品が立派でなければならぬ、だが、乞食商売をするには風体をきたなくしなければならないのも亦真理である。
報道の商品化の最も透明な場合は、広告である。広告が一つの純粋な報道として読者に受け取られる場合にも、又多少装飾的な画面として読者に受けとられる場合にも、どういう広告を掲載するかは、今云った新聞紙格にかかわることであるから、従って之は今云った段階の商品化の場合の一つに帰着するが、それより圧倒的に重大な点は、広告料金が新聞紙企業の収入の過半を占めるという関係の内に横たわる。この場合広告は殆んど完全に広告主の利害に制約されねばならぬのは当然であるが、そこから又間接に、一般の報道自身がこの広告主の利害に制約されることとなる、この点が重大なのである。少なくとも広告取引先の明らかな不利益を齎すような記事を新聞社は、自発的にか強制的にか避けねばならぬ。それは丁度、新聞社自身に於けるストライキの記事が決して新聞紙上に報道されないのと同じことに帰着する。そうしないと、売れる売れないに一応関係なく、広告の縮小又は広告料金の低下によって、新聞社営業が困難となり、従って又おのずから(宣伝費の欠乏其の他から)その新聞紙は売れなくなり、従って又広告の注文が段々取れなくなる。広告の縮小はみずからを再生産するように出来ているわけである(広告が政論其の他のような批評的記事を含む場合は、広告自身が直接に一般の報道に干渉する結果を招く)。
以上の報道の商品化は新聞出版がそれ自身一つの企業であることから来る限りの諸結論であったが、そして又実際一つの独立な――他企業の付属事業ではない処の――企業となったことが近代的大新聞の特有な本質なのであるが、之はまだそれ自身の抽象的な一面にしか過ぎない。――資本主義社会に於ける独立な一資本、独立な新聞出版資本なるものはもはや多くは存在しない、金融資本化、企業結合等々を通じて、新聞出版企業は一群の諸企業の一翼として初めて合理的な企業であることが出来る。新聞企業は多く財閥関係に這入らざるを得ないのである。
この場合新聞紙は云う迄もなくそれを経済的に支持する財閥の利害を、観念的に支持する。だがここで一つの限界線を引くことが必要となるだろう。と云うのは、新聞企業が依然として一つの企業として、即ちそれ自身で独立の利潤をあげ得るものとして、財閥と共同の利害関係を結ぶ多くの場合と、もはやそうではなくて、新聞出版事業が――その資本主義的未発達のためではなくて却って極度の発達のために――却って財閥乃至コンツェルンの完全に非独立的な一環となることによって、もはやそれ自身の利潤を産まなくても好く、むしろ他の諸環の利潤を増すことさえ出来れば好いという場合、との二つの区別が必要である(後の場合はイギリスの Belly 系の新聞紙などに見ることが出来るという)。
後者のような場合になると、新聞紙は元来商品であろうとして出発することによって、つまる処それ自身独立な商品であることを止めて、他の一商品の販売機関となって了う。それは恰もビラやポスターのように、読まれさえすれば売れなくても良いものとなる。だが実はこれこそ最も極端な形態の新聞の商品化でなければならぬだろう。
資本組織から来る新聞のこの経済的制約――と云うのは単なる販売関係からくる経済的制約(前に述べた報道の商品化)もあったのだから――は併し、尤も何も今の場合に限られないのだが、新聞記者の個人的な利害と結び付いて与えられることが少なくない。経済記者が財閥の手によって買収されたとしたならば、夫は社会記者が地位ある社会人の私事に関して買収されるような場合よりも、より社会科学的な根本性を有っている。なぜならそれは直接に新聞出版企業の本質に関係している事柄だからである。
ブルジョア新聞の財政的乃至経済的社会機能は、ブルジョア新聞の政党的乃至政治的社会機能を規定する。ブルジョア財閥一般又はブルジョア諸財閥はブルジョアジーの諸政党――ブルジョアデモクラシー政党・ファシスト政党・社会ファシスト乃至社民政党――を対立的にか又は分担的にか支持する。――だがわが邦に於ける最も有力な二つのブルジョア政党は又最も有力な二つのブルジョア財閥によって夫々分担的に――一財閥が一政党だけを支持して他財閥と他政党とに対立するという具合にではなく――支持されているから、この二つは党派的に対立していても、実は政党上の対立というような、政治的色彩を有つ必要が実際にはない。で、その政治機関として、政党新聞紙としての政党新聞紙を持つ必要は必ずしも生まれて来ない。だからブルジョア大政党は、わが国に於ける二大ブルジョア新聞系統の商品新聞紙をして、自分の共通な――非政党的な・ブルジョア財閥共同の――政治的機関として、一応政党から独立しているかのような外見の下に、却って、政治的機能を発揮させることが出来るのである。
わが国に於ける所謂大新聞紙は、元来それがジャーナリズムの商品であったから、政党的乃至政治的色彩を有たないのを特色としているが、このことによって却って、ブルジョア財閥共通の「政党的」・政治的・社会機能を果すことが出来るのである。そして無論之は単にわが国ばかりに於ける事情なのではない(ブルジョア的な所謂政党新聞紙――それはもはや単なる企業新聞ではない――が政党的社会機能を有たねばならぬことは云うまでもない)。
かくて新聞出版企業による近代新聞紙は、新聞社財政経営主体の・新聞出版資本財閥の・資本家政党の・利害イデオロギー機関として、社会的に機能する。――だが単に財政経営や財閥関係や資本家政党だけが、この社会に於けるブルジョア的なものなのではない。大事なことは、社会そのものが本来ブルジョアジーによって支配され又代表されるブルジョア社会だという点である。だからブルジョア新聞の社会的機能はそこまで行って初めてその最も特徴ある段階へ到達する、ブルジョア新聞は、丁度軍備施設や大学がそうであるようにブルジョア社会の一機関となるのである。
ブルジョア新聞はブルジョア経済的及びブルジョア政党政治的利害によって制約されるだけではない、もはや経済的にも政党政治的にも直接の利害関係を持たない場合でさえ、ブルジョア新聞は依然としてブルジョア社会の政治的並びに文化的イデオロギーの機関であり、そうすることによってブルジョア社会の社会的関心――観念上の利害――に制約されざるを得ないのである。すでに述べた所謂報道機関・世論の機関・民衆化の機関・等々の新聞のさし当りの社会的諸機能は、ここで初めて、ブルジョア新聞の終局的な社会機能として、具体化される。
今やブルジョア新聞紙は自分自身の経済的利害――商品化――とは直接には無関係にさえ、何よりも先に、ブルジョアジー一般の経済的・政治的・及び観念的・――之が大事だ――利害を護らなければならないのである。新聞紙は社会の通念とか七千万同胞の信念とか三千万民衆の総意とか国民常識とかいう怪しげな名目の下に、知らず知らず社会倫理的な善と悪とを対立させる。報道や批評は外でもない、ブルジョア社会道徳劇の善玉と悪玉とを踊らせる機会に過ぎなくなる*。支配者によるこういう新聞記事が、後の社会の無批判な歴史資料ともなろうというわけである。ブルジョア的教養に富んだ・或いは又富まない・無知な読者はそして、このイデオロギー機関のジャーナリズム機能を通じて、誠にあざやかに踊らされる。近代的大新聞はブルジョアジーの何よりもの兵器である。それは攻撃用の武器ともなれば防御用の安全弁ともなる(こうして新聞紙対新聞社の社会機能上の連関は、新聞紙対読者の連関にまで移行する――前を見よ)。
* 賭博常習犯の親父を密告した子供は善か悪か、盗賊によって妊娠せしめられた婦人が堕胎するのは善か悪か。ブルジョア新聞紙はこうした社会的善悪が、まるで子供でも信じているように、容易に決まるものだと考えているように見える。新聞記者自身は決してそれ程無知ではない筈だが、出来上ったブルジョア新聞紙自身は、その通り馬鹿げているのである。
だがブルジョア新聞みずからが自分のブルジョアジーのイデオロギー的兵器としての機能を、具体的な隅々に至るまで、自覚しているとは限らない。特にそれが、新聞企業自身の経済的利害と直接に結び付いていない時、イデオロギーはある程度まで、その本来の自由度を示すことが出来る。ブルジョア新聞と雖も新聞自体の本来の社会的機能を、時に応じて本能的に不用意にも露出しようとしないではない。ブルジョア・イデオロギーの器具に於けるこのガタから来る誤差を制限するために、ブルジョアジーはブルジョア政治機構――議会・政府・自治体・軍部等々――を通じて、自分自身の精鋭に向かって合法的又非合法的な検閲を下さなければならなくなる。ブルジョア新聞人は、政府による検閲制度が何よりも新聞紙に於ける言論の自由を傷けるものだと、まことしやかに主張する。もう少し反省ある新聞人は更に、新聞紙の商品化をも之につけ加えるのを惜まないだろう。彼等に従えば検閲制度と商品化とさえなかったら、ブルジョア新聞は(ブルジョア)新聞の真面目に立ち帰えることが出来るかのようである。全くその通りかも知れない。だが報道の商品化がブルジョア新聞の避けることの出来ない宿命であると同じに、当局による検閲制度も亦ブルジョア新聞の本質にぞくすることを気付かないのは不思議ではないか。検閲制度は、ヘーゲル風の口吻を借りて云えば、ブルジョア新聞の記者を通じての自己限定でしかない。要点はブルジョア新聞が常に、苟くも夫が新聞であることを要求する限り当然なことだが、ブルジョア新聞としての真理の自覚にまで到達出来ないという、矛盾の不幸の内に横たわるのである。大衆の或るものは本能的に云って決してブルジョア性を有っていないし又持ち得ないだろう、だのにブルジョア新聞紙は之をもその読者としなければならない運命を有っている。
ブルジョア新聞は一つの商品である、だがただイデオロギーを盛ることによってのみ効用を生じる商品なのである。処でイデオロギーは経済的・物質的・地盤から現実的に決定されていながら、なお観念上の自由度を有っていることを、その特色とする。この特色の内に、ジャーナリズム・イデオロギー機関としてのブルジョア新聞の一切の社会的機能の特色が蔵されているのである。
ブルジョア新聞(プロレタリア新聞に就いてはまだ何も云っていなかった)の社会的機能に就いて、新聞の改革乃至変革が最後に問題となる。蓋し社会的機能は新聞の本質であろう。処でブルジョア新聞の社会的機能は果して新聞自体のこの本質に忠実であるかどうか。之はブルジョア新聞人自身にとってもすでに早くから問題とならざるを得なかった。
そこで報道の商品化――コンマーシャリズム――から必然的に出て来なければならなかったセンセーショナリズム乃至黄色調を、出来るだけ――コンマーシャリズムを破壊しない程度に――、制限するということが、新聞人の道徳的義務だということになる。物質的必然性をくい止めるために道徳を持ち出すことは、ブルジョア・イデオロギーの定石だろう(国際連盟・平和や正義・愛国心・等々)。で新聞学教育の歴史が最も古く又発達したアメリカなどでは、新聞記者の諸大会に於て、様々な云わば至極虫の好い「倫理法則」を申し合わせて設定したものである。――広告の倫理化はおのずからこの新聞記者の倫理化の過程の一つに数えられねばならぬ。
この倫理化運動は、資本主義制度自身の内に於ける資本主義的発達に対する矛盾を表現するものであるが、単にこの矛盾の表現としてばかりではなく更に又封建制度に対する資本主義制度の対立をも表現するものとしては、検閲制度に関する新聞紙法改正の諸運動が過去にも現在にも存在する(藩閥政府による明治初年の新聞弾圧・昭和に於ける某方面による新聞抑圧・等々に関して)。倫理化が道徳的運動であったに対して、之は法律上の運動に外ならぬ。――だがいずれの運動にしても、一つの共通な根本条件の下に立っている、資本主義制度の旗の下に。新聞企業を破壊しない程度に、又ブルジョア的立法の許す限りに於て。だが近代的大新聞の根本的な欠陥は、資本そのものの内に横たわる。だから新聞の改革の問題は、意識するとしないとに関係なく、近代新聞紙のもつブルジョア的性格――資本家機関化・世論の無視・黄色調・報道の虚偽・等々――の批判に集中する。「自由新聞」の運動は、新聞の「社会主義化」とならざるを得ないのである*。
* ブルジョア新聞人は新聞のこの程度の変革をさえ信じることが出来ない程楽観的である。「彼等の企図した『自由新聞』は結局社会主義の『御用紙』になってしまうということになった、かようなものは新聞紙としても同じく跛行的な経営方針を辿るもので、決して健全なものではない、私は新聞紙の資本主義的経営を是認するものであるが、新聞紙本来の使命は断じて忘れたくない。」云々(後藤武男『新聞紙講話』一一二頁)。この意味のよく判らない文章は最もよくこの点を云い表わしている。
新聞の社会主義化は、主として社会主義国家乃至共同体による新聞紙の統制として、さし当り現われねばならぬ*。だが国家乃至共同体という概念が、それだけでは決して社会科学的に具体的特色を与えられたものではない。従って又それだけ新聞の社会主義化にも色々な区別が出て来なければならないわけである。F・ラサールやK・ビュッヒャーの新聞社会主義化による所謂「社会主義新聞」の運動は、決して、レーニン等が実地に行なった「プロレタリア新聞」――それはコンミュニズム的変革の一つの武器として産まれそして現在は社会主義建設の機関として機能している――を通じての運動と一つにはならない。* この際最も目立つ問題となるのは広告である。だから多くの新聞統制案は広告の国家又は共同体による独占乃至専売を提言する。例えば「社会民主的国家にあっては、新聞が何等かの広告を掲載することを禁じ、之を凡て国家又は共同体が発行する官報にのみ譲らしめる法律を制定しなければならぬ。」(F. Lassalle, Die Feste, die Presse und der Frankfurter Abgeordnetentag, 1872――ビュッヒャーによる)。「私の法案は即ち広告の専売を企図したものである、併し国家による専売ではなくて共同体による専売である。」(K. Bcher, Zur Frage der Pressreform ――前掲書四一八頁)等々。――この点はプロレタリア新聞紙に於ても適切な変更の下にそのまま行なわれる。「新聞広告の独占(国家の利益のための)は議論する余地が無い程正しいものである。……この独占は、新聞の自由、全市民の意見を最も自由に印刷する可能性を再与し且つ拡張するであろう」(レーニン「新聞の自由に就いて」一九一七・マルクス主義講座第一巻・『プロレタリヤ新聞論』による)。そして一九一七年一一月八日付のソヴェート法律第一条は、一切の出版物に於ける広告を国家の独占たるべしと布告している。なおドイツに於ける社会主義新聞乃至出版に就いては E. Drahn, Zur Entwicklung und Geschichte des sozialistischen Buchhandels und der Arbeiterpresse, 1913 参照。
新聞の本質はその社会的機能に存する。だから新聞の改革は新聞の社会的諸機能の改革の外にはない。処で、新聞はただ一定社会の諸条件の下に於てのみその社会に適切な社会的諸機能を有つことが出来る。新聞は社会の一所産に過ぎない。新聞の改革乃至変革は、社会自身の変革と対応する外はない、それは社会的変革の原因であり、随伴現象であり、又結果なのである。[#改丁]
ジャーナリズムは近来、ジャーナリズム自身によって、屡々取り扱われたテーマである。今更吾々は之を取り上げて蒸し返す理由はないかのように見える。併し実は夫は少しも片づいた問題ではない。ジャーナリズムが、今日出版資本の勢力の必然的な表現となっている限り、この資本が蚕食的であるだけ、それだけジャーナリズムも亦蚕食的であらねばならない。だからジャーナリズムという問題は、ジャーナリズム自身だけにとっての、ジャーナリズム内部に於てだけの、問題に限られ得ない筈である。ジャーナリズムは蚕食的である、だからジャーナリズムはジャーナリズム以外のものにとってこそ最も目立たしい問題とならねばならないものなのである。ジャーナリズムのジャーナリズム自身による、ジャーナリズム的検討は、或いは既に終ったかも知れない、之のジャーナリズム外的検討はまだ終っていない。――元来ジャーナリズムはアカデミー的なるものに対立していた、アカデミーとジャーナリズムとの対立、この対立の検討はまだジャーナリズム自身によって充分意識的に行なわれなかったようである。吾々は恰もここに吾々の問題を見るのである。
アカデミーとジャーナリズムとの対立の検討は併し、独りジャーナリズムの側に於て意識的でなかったばかりではなく、別の意味に於てであるが、アカデミーの側に於ても亦意識的ではなかった。我国に於て、ジャーナリズムが最も目立って支配的であったのは、始め主として文芸の領域に於てであった。そこでは夙く文壇なるものが形成されたが、之に対立したものは文壇外の個々の優れた作家であって、決して文芸のアカデミーではなかった。之に反してアカデミーが最も目立って支配的であったのは、当然なことながら、初めから主として科学――哲学の領域に於てであった。そこではすでに帝国大学が建設されてあったが、科学的・哲学的諸理論の研究に就いて、これと太刀打ちするのはジャーナリズムの柄ではなかったのである。そして帝国大学と文壇とが、このアカデミーの主体とジャーナリズムの主体とが、互いに空々しい自己独立性を保っていた限り、アカデミーとジャーナリズムとの連関が、正常な視角から取り上げられ得なかったのは必然である。大学の本質の変化と文壇の構造の変化(私大昇格・諸大学の反動化と左翼文壇の形成)、科学的乃至哲学的理論の枝と根への発育と文芸の評論的進歩、これ等一切の其の後の変化に拘らず、出発点に於けるアカデミーとジャーナリズムとのこの冷淡な関係は、近来にまでその影響を強く止めている。だから、これまで、アカデミーにとってはジャーナリズムが問題でなく、ジャーナリズムにとってはアカデミーが問題でなかったのに不思議はない。
アカデミーとジャーナリズムとの連関が、実際に解き得る問題として提出され得るのは、であるから、アカデミーの主体とジャーナリズムの主体とが、夫々の自己独立性を分解し始め、従来からの自己独特の内容を解体すべく急がねばならなくなった時に、初めて起こる必然的な条件の上に於てでなければならない。そして恰も今日が、その条件を充している。
吾々は今問題の領域を主として科学乃至哲学に限ろう。之等諸理論の領域に於て、どのような客観的条件が、アカデミーとジャーナリズムとの連関を、吾々の問題にまで提出し得たか。それは外でもない、世間で所謂、「大学の転落」と呼ぶ一つの現象――或いは寧ろ一つの根本現象の一症状――である。諸大学は或る種の教授助教授を学園から街頭に投げ出すことによって、知らず知らず――実は夫は意識的でもあったのだが――アカデミーに対立する一つの理論的実勢力、理論的ジャーナリズムを造り出したのである。そこでは理論がアカデミー的にではなくてジャーナリズム的に取り扱われ、事物のジャーナリズム的理論が、そのアカデミー的理論と質的に対立することになった。アカデミーは今や、之まで慣れて来たその権威や尊厳を無視され、自己の業績をジャーナリズムによって縦横に批判・評価される運命にさえ立ち至った。而もこの理論的ジャーナリズムは、元来ジャーナリズムの唯一の動力でさえあった出版資本の諸天才によって、云わば紙上インターカレッジの形を与えられて、愈々その勢力の量的範囲を拡大した。今やアカデミーは、その質に於ては自己の反対物を、その量に於ては自己の対立物を、この理論的ジャーナリズムの内に見ねばならなくなった。アカデミーがその固有の理論的勢力を失っただけ、それだけジャーナリズムは新しい之までになかった理論的意義を獲得することとなった。両者は従来の自己の独特の内容を分解し、銘々の自己独立性を失って来た。さてこそ、アカデミーにとっても、又同じくジャーナリズムにとっても、アカデミーとジャーナリズムとの連関対立の問題は、正に問題の資格を備えた問題とならざるを得なく、今日なって来たのである。――吾々は恰もここに吾々の問題を見るのである。
だが問題の鍵は、所謂アカデミー自身の立場にも、又所謂ジャーナリズム自身の立場にもないだろう。又そうであるからと云って、アカデミーとジャーナリズムとを結び付けた何か第三の――公平な――立場に、その鍵があるのでもない。それではどういう立場にであるか。だがそれは吾々が之から見て行く分析の間に、実地に示されて行くだろう。
吾々が現在に見ているアカデミーとジャーナリズムは云うまでもなく、アカデミーそのものでもなくジャーナリズムそのものでもない。之等が夫々の唯一の現象形態ではない。併し現在のアカデミーと現在のジャーナリズムとを吾々の分析の手懸りとしなければ、夫々の歴史を記述することも出来なければ、夫々に対する実践的な態度も決定しようがない。両者の現在の与件を離れて両者の本質を掴むことは無論出来ない。そこで吾々は現在吾々の見ているアカデミーとジャーナリズムから分析を始めねばならない。
この二つのものは元来、常に社会の物質的構造の上にのみ発生し得るイデオロギー的存在である。だから両者の本質的連関は、この両者を制約している物質的地盤にまで掘り下げられない限り決定出来ない。そうしなくて直接に両者を連関させることは、両者の至極皮相的な連関を本質的なものと思い誤らせる結果になるだろう。だがそのことはこの二つのイデオロギー的存在が、イデオロギーとしての独自の、物質的地盤には還元され尽さない処の、連関に這入っているということを妨げない。イデオロギーの問題に於ては常にそうであるが、イデオロギーとしての物質的なるものから区別された、この独自の連関をこそ、物質的地盤にまで掘り下げて、之を本質的連関にまで編制することに今の吾々の問題は存するのである。――さて現在のアカデミーと現在のジャーナリズムとの、イデオロギーとしてのこの独自の連関を、最も手近かに、最も控え目にではあるが併し最も確実に、与えるものは、両者が現在直接にイデオロギーとして夫々持つ作用の、区別である。区別は尤も、まだ連関の全体ではないが、連関の把握への必然的な手懸りをなす。この時両者の区別は両者の概念の区別であると云うことも出来よう、無論この二つのものの概念の区別は、この二つの言葉の区別のことではない。両者はここで概念的に分析(区別)される。吾々は両者の概念的分析を、両者の本質的な分析の発見的な統制原理としなければならない。で両者は如何に概念分析されるか。
ジャーナリズム(Journalism)はその文学が示している通り、日々(Jour)に属するものが一個の原理となったものである。Journal とは、であるから、主観的には日記(アミエルの Journal intime の如き)を、客観的には新聞紙類を指すことが出来る。ジャーナリズムは日々のその日その日の生活と関係している。それは人間の日常生活に根を有っている。日常生活は併しすでに何か社会的な生活である。なぜなら、日の光は個人の頭上を照らしては消え照らしては消えするばかりのものではない、却って夫は人々の社会的交渉の一日を開きそして又閉じる。人々にとっては社会的共同生活に這入ることによって一日が始まり、社会的共同生活から遠ざかることによって一日が終る。単なる一個の個人の内部的生にとっては昼と夜とは事実大した区別を与えないだろう。人々は銘々ならば、昼でも夜でも仕事をすることが出来よう。だからジャーナリズムはすでに何か社会的なものを根柢に持っている。だからその限りそれは又何か外部的なものと考えられなければならない、そこでは個人の内部的な生は殆んど問題になることが出来ない。もし人間の内部的生に価値があり、之に反してその外部的生には虚偽しかないと仮定するならば、ジャーナリズムはこの宗教的な意味に於ても亦、日常的である。この場合、それは何か卑近なトリヴィアルな日常茶飯事に関係したものと考えられなければならないからである。
ジャーナリズムの住む世界は日常的・社会的・外部的時に又卑俗的である。そこでは非常時的な・個人的な・内面的な・時に高遠なものは平均されて了っている。だからジャーナリズムを運んでいる精神的な力は、人間の平均的な知識・日常的知識・常識だと考えられる。それは時に浅薄な又は幼稚な知識を意味し、又時に人間の健全な良識を意味する。とに角そこでは専門的な知識は一応不用であり又時に有害でさえあるだろう。常識は通俗的という意味に於ても知れ渡るという意味に於てもポプュラーであることが出来る。かくてジャーナリズムは公衆(public)によって支持されるのである。
一般公衆が関心を持つものは、いつも時事問題としての資格を有ったものである。時事問題のみが常識によって判断され得る通俗的な問題と考えられる。そして時事問題は概して、言葉通り永久な問題ではない、公衆が健忘症である所以である。ジャーナリズムの取り扱う問題は主として永久ならぬ言葉通りの時事問題である。処が時事問題は常に政治的性格を有つ。蓋し政治の概念とは優れた実践概念であるが、人々の日常生活は凡て実践的性格を有っているだろうから。ジャーナリズムは最も広い意味に於ける政治的問題を取り扱う。
処がこの政治的問題は常に思想と呼ばれるものと結び付いている。人間の社会的実践が政治に於て最も顕著であるとすれば、この実践を顕著に反映する意識が所謂思想であると云うことが出来よう。処で思想は常に哲学的性格を有っている。と云うのは、思想とは世界観の比較的統一された内容に外ならぬと云うのである(政治も哲学的性格を有つ、古来政治学は哲学の重大な一部分であった)。ジャーナリズムの内容は社会人が有っている世界観の一つの直接な表現でなければならない。そこには世相が躍如として現われるだろう。実際、ジャーナリズムが例えば科学的理論を取り扱う時にも、たといそれが最も日常的・常識的・通俗的・時事的・政治的でない部門の科学(例えば数学や物理学)に就いてであろうと、必ず之に何か思想的・哲学的・世界観的な意味を与えることを忘れない。もしそうでなければ、このような云わばむずかしい科学的理論はジャーナリズムの日程に上る理由を見出し得なかった筈である。であるからジャーナリズムは、諸科学の世界観の上に於ける連関統一をほぼ――アカデミー的にでなく正にジャーナリスティックにであるが――把握している必要に迫られる。そして無論このことは諸科学に就いてだけ云えることではない、諸科学と其の他の諸文化との連関統一、要するに一切の人間の文化の連関統一、に就いても亦そうである。ジャーナリズムはかくて「百科辞典」的性格を有ってくるのである。
アカデミーはジャーナリズムからどのようにして区別されるか。アカデミーという言葉がアカデメイヤに建てられたプラトンの学壇から起こったように、アカデミーは教壇という特殊の社会的存在条件を仮定している。之が人々の日常生活の圏外に初めから逸しているのを見ねばならぬ、之は非日常的である。従ってアカデミーが有っている社会性・外部性は一定の――教壇という――特殊な制限を受けている、それは時に何か高貴なものとさえ考えられる。そこでは常識はドクサとして真理の知識から区別される。処がこの真理の知識とは、すでに事物に関する一定の学派的な訓練を経た限りの知識に外ならない。だからこの知識は必ずしも通俗的ではあり得ず、又一般に知れ渡ることの出来るものでもない。アカデミー的なものが往々難解を意味したり、衒学を意味したりするのは茲から来るのである。アカデミーは一般社会の日常的な時事問題とは関係なく、それ自身のより永久的なより根本的な問題を有ち、この問題を次々に継承することによって、やおらその解決を求めようとする。アカデミーにとっては問題は時事問題ではなくて伝統的問題なのである。アカデミーは一定の科学が政治的――歴史社会的・実践的――価値を持って通用するから之を研究するのではなくて、科学それ自身が価値を有つから之を研究する、と意識する。アカデミーの科学研究法は純粋科学的なものとして意識されるのを常とする。
それ故アカデミーは、取り扱う科学自身が、如何に政治的・思想的なものであっても、思想との直接な結び付きから之を引き離す。アカデミーは科学を思想的にではなく技術的に取り扱う。そこでアカデミーは夫々の技術の専門に分化しなければならないわけである。アカデミーは幾つかの講壇からのみ総合され得ることになる。而も講壇の学者達は夫々の専門に立て籠って相互の間の理論的な――事務的・社交的なではない――結合を忘れることが出来る。彼等はその技術を、もはや世界観的なものに結び付ける必要を感じない、哲学と雖もアカデミーでは哲学的――世界観的――に取り扱われなくても好いことになる。
以上のようなものが、アカデミーとジャーナリズムとの概念上の一応の区別である。
アカデミーとジャーナリズムとは全く相反した二つの態度である、両者は、事物に対する人々の意識的・観念的・イデオロギー的活動の、あり得べき二つの態度である。而もこの二つのものの反対・対立は、夫々が物質的存在の上で成り立ったイデオロギー的・観念的・意識的存在であることから、今、必然的なものとして説明出来る。
ジャーナリズムは歴史的社会の本質、その運動、に於ける一つの必然的な役割を持った現象である。夫はこの歴史的社会的存在の発展形式に忠実であることを一時も忘れない、時が速かに流れるのと同じ目まぐるしさで、ジャーナリズムはテーマの送迎に暇がない。だがそれが本源的な歴史的社会的存在の動きにあまりに忠実であろうとする余り、この忠実さが却って直接的な従って又外部的なものとなり、その結果ジャーナリズムはこの存在を原理的に指導する独立の力を失って了う。かくてジャーナリズムは日和見的な無定見に見えて来るのである。処がアカデミーは恰も之に反して、この歴史的社会の運動を却って独自に指導しようと企てる、実際そうすべきでないならばこの存在の運動は盲目的なものになるわけだろう。だがそれが独自の原理と節操とを守る余り、却って、この歴史的社会の運動を促進する代りに之の障碍となる。そこでは運動が固定され惰性に落される。かくてアカデミーは固陋な自己満足的なものと見えて来るのである。――両者は、本源的な歴史的社会的存在の発展形式から来る必然的な二つの動力と二つの制動機とを意味する。蓋し存在はその自己発展によってその発展の促進者と共に却ってその発展の妨碍者をも産出する。アカデミーとジャーナリズムは、両者とも同時に、存在の運動のかかる促進者であると共に妨碍者であるのである。
ジャーナリズムの欠陥はアカデミーの長処に、アカデミーの欠陥はジャーナリズムの長処に、対応する。アカデミーは容易に皮相化そうとするジャーナリズムを好意的に牽制して之を多少とも基本的な労作に向かわしめ、ジャーナリズムは又容易に停滞に陥ろうとするアカデミーを親和的に刺激して之を時代への関心に引き込む。アカデミーは基礎的・原理的なものを用意し、ジャーナリズムは当面的・実際的なるものを与える。――そこで吾々にとって好ましい結論は、至極容易に得られそうである、吾々は両者の長を取り短を捨てれば好さそうに見える。併し事物はそう安価には片づかない。両者のこの概念的な――本来の――規定に、吾々は今度、現実的な条件を入れて見直さねばならぬ。そうしなければ現在のアカデミーとジャーナリズムとの現実の情勢に忠実であることが出来ないから。
さて現実のアカデミーは直接には大学という政治的制度の上に成立している。吾が国の大学はそれが帝国大学であろうと官立・公立・私立であろうと、或いは直接に或いは間接に、実質上もしくは名義上、国家の一機関なのである。このことが吾々の見るアカデミーの本質を根本的に規定しているのである。国家の本質が今日何を意味するかを忘れない人は、曾て帝国大学と対立する特色を意識していた諸私立大学、財閥の経営になる私立諸大学が、何故結局、国家の一機関でなければならないかをも知るだろう。初め国家機関としての大学は、維新制度確立以降の官吏養成所であると共に、なお至極幼稚であった哲学的・歴史的・社会的・諸科学――其の他の科学は無論のこと――の無条件的な研究所であり得た。併し大学自身の理論的進歩によって、特に哲学的・歴史的・社会的諸科学の成果は、もはや国家の必要と一致出来ない結果に立ち至ったのである。大学という――政治的な――制度に於て、その物質的経済的基礎と、そのアカデミーとしてのイデオロギー的活動とは、その間にもはや単純な対応関係を見出すことが出来なくなって来た。大学の物質的な地盤と観念的活動との間に歪が這入った。この国家機関の機能とアカデミーの機能との間に食い違いを産んで来たのである。この食い違いはどう片づくか。人々は注意すべきである、アカデミーの機能がこの大学という国家機関の機能を決定するのではなくて、逆に、国家機関としての大学の機能がアカデミーの機能を決定する、ということを。だから大学のアカデミーとしてのイデオロギー的活動は、それ自身の、本来の、かの概念規定に於て与えられた通りの、性質を当然一定の方向に歪められざるを得ない。その結果はどうなったか。
アカデミーはまず第一に、元来持っていた自己の固定化・惰性化の可能性を愈々促進されただろう。それから次に、やがて国家機関としての「大学の本質」の手がおもむろに伸ばされる。予め固定化・惰性化されて停滞していたアカデミーにとっては、之が誠に願ってもない刺激となるのは尤もである。かくてアカデミーは次第に反動的性格を帯びて来ることによって、その所謂学的価値を発揮する(最近の「大学連盟」「大学教授連盟」等々を見よ)。それはとりも直さず、本来之が持っていたその基本性・原理性の可能性までも失って了ったことを意味するのである。そうなればアカデミーが、ジャーナリズムに対する親和的な牽制力など、もうどこにもありようがない。却ってそれはジャーナリズムの批判・評価の対象とならねばならなくなる。尤もそれさえが恐らく一時的なものに過ぎないので、やがてはジャーナリズムの相手にもされなくなるだろう。このようなものが今日の――少なくとも吾が国の――アカデミーの本質である。
アカデミーが直接に大学という政治的制度の上に成り立ったように、今日のジャーナリズムは出版資本という経済的実体によって直接に制約されている。云われるように資本の生命は利潤の追求にのみ関わる。だから事物に対する一つの意識的・観念的・イデオロギー的・活動の態度であったジャーナリズムが、出版資本に制約される時、そこには初めからすでに食い違いが含まれているのである。資本の目的は、貨幣に換算出来るような物質的な資本の蓄積である、処がジャーナリズムの目的は或る種のイデオロギー的作用の生産・分配・消費である。二つは二つの別な目的に向かっている。それ自身イデオロギー的性格を有っている国家ならば、その目的は、アカデミーのイデオロギー的労作の目的と一時は一致する事も出来た。そこには文化国家の概念も容れる余地があっただろう。処がジャーナリズムと出版資本との間には、初めから一致が見出されないのであった。併しそれにも拘らずジャーナリズムは出版資本なくしては今日の盛大な形態を取ることが出来なかったということが真理である。寧ろ近代ジャーナリズムは全く出版資本の所産なのであった。一方に於て資本と矛盾しながら、他方に於て之と同伴しなければならないということが、ジャーナリズムの運命をその発育の殆んど初めから宿命的に暗くしている。それだけに今日のジャーナリズムの資本による歪曲は根本的なのである。世間の人々が最近ジャーナリズムに対して示して来た不信用は、ジャーナリズムのこの殆んど生れながらの宿命によって説明されるだろう。人々は現在のアカデミーをすぐ様アカデミーそのものと思い誤まるより以上に、現在のジャーナリズムをばジャーナリズムそのものと思い誤まる。実際、ジャーナリズムの歴史はアカデミーの夫に較べて、比較にならない程短い。だがここに現われている現在のジャーナリズムは決して本来のジャーナリズムそのものの唯一の現象形態なのではない。之はジャーナリズムの資本のために傷められた単なる畸形に過ぎないことを、あくまで忘れてはならない。現に或る評論家はジャーナリズムの本質をそれの批判性・革命性――「対立的社会意識」――に置いた。それによれば現在のブルジョア・ジャーナリズムは、ジャーナリズムそのものの可なりな逆転でなければならない。但し現在のジャーナリズムが畸形であるという事実は之によって決して蔽われるものではないのである。
ジャーナリズムが資本によって歪曲されて、その結果はどうなったか。一方に於てジャーナリズムはそれが本来持っていた無定見性の可能性を愈々促進され、極端に皮相的なものとなる、それは尖端的なものとなることによって商品価値を生じる。と共に他方に於て、商品ジャーナリズムはそれが本来持っていた当面性・実際性を或る点に於て限界され、もはや充分に真に当面的・実際的な社会的機能を果せなくなる。ジャーナリズムにはジャーナリズム固有の特別な当面性・実際性――即ち要するに非当面性・非実際性――が生じて来る。こうなればジャーナリズムは、その目まぐるしい事物の送迎にも拘らず、丁度さきにアカデミーがそうあったように、一種の自己満足的な停滞物となる。この時ジャーナリズムの社会的機能は、実質的に云って往々アカデミーにも増して、反動的となり得るだろう。このようなものが今日のジャーナリズムの本質なのである*。
* ジャーナリズムを最もよく代表するものは新聞紙である。雑誌・単行本の順序で之に次ぐ。そこで曾て進歩的であったジャーナリズムが次第に停滞化し反動化した過程は、内務省が発表したものに基く次の統計によって、新聞紙――この代表的なジャーナリズム機関――の趨勢と其の他の出版物の趨勢との開きから証明することが出来る。――一九二一年度に於けるものに対する一九三〇年度に於けるものの比――
単行本
出版数 約二倍
発禁数 約一〇倍
発禁率 約五倍
雑誌
出版数 約二倍
発禁数 約五倍
発禁率 約二・五倍
新聞紙
出版数 約二・五倍
発禁数 約一倍
発禁率 約〇・四倍
吾々は、今日のアカデミーと今日のジャーナリズムとが夫々、如何に本来のアカデミーと本来のジャーナリズムとから曲げられているか、を見た。併し現在のジャーナリズムはなおまだ、今日のアカデミーに較べて、取り柄があるように見える。吾々は今まで両者を単純に並べて来たが、実を云えば、両者は同一段階に並んでいるものではない。今日のアカデミーはすでにその役割の終りに近づき、今日のジャーナリズムは今その役割の真最中に於てある。実際、アカデミーは今日、量から云ったら無論のこと、質から云ってさえ益々ジャーナリズムのために蚕食されつつあるのである。そこには歴史の層の開きがある。それはアカデミーの歴史が古くジャーナリズムの歴史が新しいからでは強ち無い、そうではなくて、寧ろ、両者が夫々基いている社会的地盤の歴史的構造から来ると見るべきなのである。事実、吾が国の大学は、それが国家機関である限り多分に封建的な契機を含んでいる。之に反して出版資本は代表的に・純粋に・資本主義的であるだろう。だからアカデミーとジャーナリズムとの連関は、現代の資本主義社会に於ける封建的契機と資本制的契機との錯綜的連関の一つの場合に相当するものなのである。人々はこの二つの契機の内どれが能動的でどれが受動的であるかをすでに知っている。
現在のアカデミーは、夫がもつ歴史的諸契機の規定が、すでに行く処まで行き着きつつある、夫は略々残る処なく顕われて了っている。処が今之に続こうとしているジャーナリズムは、まだその歴史的諸契機が充分にほぐされる処にまで客観的に来ていない。ジャーナリズムはその一般的な本質が決定されてもなお、様々な方向への可能性を実際に含んでいる。之は云わばイデオロギー的活動の前衛の暫定的な共同戦線地帯であるとも云えるだろう。実際つい最近までは、ブルジョア・ジャーナリズムの一隅には、プロレタリア・ジャーナリズムも発生出来る余地が余されていたかのように見える。この共同戦線はどのように整理されて行くか、又行かねばならぬか。と云うのは、外でもない、現在のこの歪められたアカデミーとジャーナリズムとを、本来のアカデミーとジャーナリズムとに立て直し、それが本来持つことの出来る筈であった社会的機能を滞ることなく発揮させるために、ジャーナリズムに対して、吾々は何をなすべきであるか。――之は一等手近かな問題である、と共に又最後の問題である、之は改めて別の機会に譲りたいと思う*。
* この項及び「批評の問題」に関しては、拙著『イデオロギー概論』(五六頁―八七頁)〔本全集第二巻一一九ページ下段―一三一ページ上段〕を参照。
[#改ページ]アメリカなどでジャーナリズムと云えば大抵新聞紙に関係した事物を指すようである。それは言葉の意味から云えば、甚だ尤もであって、元来 Journal という言葉は世界最古の新聞と云われるローマの Acta Diurna(日報)から来たと云われている。処がわが国では之に反して新聞紙よりも寧ろ雑誌に関係した事物をそう呼ぶように見える。ここにわが国に於ける新聞と雑誌との社会的文化機能の或る対立を感じることが出来よう。それはとに角、ここからも知られる通り、ジャーナリズムとは、単に新聞とか雑誌とか――其の他キネマ・ラジオ・等々――いう何か現代特有の一つの社会的物体の関係物に止まらず、そういう諸物体を一般的に生産し、又そういう諸物体によって一般的に表現されるような、社会的意識の現代に於ける一形態・イデオロギーを指すのである。
今日の所謂ジャーナリズム――ブルジョア・ジャーナリズム――は、欧州商業ブルジョアジーの台頭と共に今日の形態への萌芽を与えられた(近代新聞の発祥地の代表的なものは十六世紀のヴェニスであった、それ以前の新聞物は実は新聞ではなくて多くは広義の官報に過ぎなかったと云っても好い)。――処が一方ジャーナリズムはその本質の最も大切な一つのものとして報道関係(Nachrichtenwesen)でなければならない。処が報道関係なるものは一切の歴史的な、又現今存在する、諸原始民族の生活交通が始まると共に、初めからすでに与えられていたものなのである。で、そう考えればジャーナリズムは決して現代にだけ特有なイデオロギー形態なのではない。
併し、それがどれ程古い時代からあったにせよ、報道や交通と云ったこの後の意味でのジャーナリズムも亦、人間生活の物質を媒介とする生産関係の上部構造だという点で、矢張りイデオロギーに外ならない。――元来イデオロギーとは、社会の上部構造の時代々々によって異る諸形態を意味すると共に、又社会の上部構造一般をも意味しなければならぬ。イデオロギーは云わばイデオロギーであると共にイデオロギーの形態ででもなければならぬ。それを統一したものが実はイデオロギーという――弁証法的な――概念なのである。
そこでジャーナリズムも亦その通りに考えられる。ジャーナリズムはイデオロギーの現代的一形態であると共に、イデオロギー一般の本質的な一契機でもあるのである。前者が今日の所謂ジャーナリズム=ブルジョア・ジャーナリズムであり、後者がより一般的な――昔からある――ジャーナリズムを云い現わす。――ジャーナリズムは、単に現代だけに固有なものではない、だが無論そうであるからと云って又単に一般的な永久不変な要素でもない。ブルジョア・ジャーナリズムという今日の特殊なイデオロギーの一形式にまで発展して来なければならなかった処のイデオロギーの一般的な一契機、というようなものこそが、本当のジャーナリズムなのである。で吾々はさし当りジャーナリズムを一つの社会的意識(イデオロギー)形態の一契機として規定することが出来る。ジャーナリズムをイデオロギー論の視角から取り上げると是非ともそうならねばならない。
ジャーナリズムをイデオロギー論の一問題として取り上げると――外の場合は何であろうと――、之に対立するものはアカデミズムの外にはない。そしてアカデミズムも亦、現在に於ける大学とか研究所とかいう現代の社会的諸物体を生産し又それによって云い表わされる現代に特有な社会的意識の一形態=イデオロギー形態であると共に、又イデオロギーの古くからの一般的な一契機ででもなければならぬ。現代に於けるアカデミズムは、欧州の諸大学(例えばソルボーヌとかオックスフォードとか)が教会の束縛から実質的に脱却したことを地盤として、之に対する近世の諸「アカデミー」の運動から初めて決定された形態であるが、他方すでにギリシアの昔からアカデミズムが存在したと考えないわけには行かないだろう(ピュタゴラス学壇とかイオニア学派とか、プラトンのアカデミー自身は云う迄もなく)。
で吾々は、ジャーナリズムを(そしてそれに対比してアカデミズムをも)社会的意識形態の一契機として、即ちイデオロギー論の課題として、初めて正当に取り上げることが出来ると考える。例えば新聞なるものを組織的に――理論的――に分析するためにも、この外に道はあるまいと思われる*。
* 「新聞現象の分析」及び「新聞の問題」〔前掲〕参照。
さてそこで吾々は、イデオロギー論の今の一つの課題として、社会的意識(イデオロギー)形態のジャーナリズム的契機をアカデミー的(乃至アカデミズム的)契機に対立させ、この対立を分析し展開させよう。だがそうするとおのずから、「批判」とは何であるかという問題に逢着するのである。
批評は現在では、何か文壇の専有物であるかのようにさえ考えられている。だが批判という言葉を思い合わせて見れば、そういう見解が如何に狭いかが判る。それはどうでも好いとして、吾々は批評をば、ジャーナリズムの一問題として、即ち又イデオロギー論の一問題として取り上げる。そうしなければこの問題は決して現実的・理論的にはならないだろうから。批評とは想像されるよりも遙かに影響範囲の大きい根本的な一過程なのである。
文化財生産関係――文化財の生産・交換・消費・過程は併し経済財の生産過程と無関係ではない――に現われる一過程を云い現わす処の一つの根本契機、それが最も一般的な意味に於ける批評(批評性)でなければならぬ。そして今大事なことは、この批評性が、恰もイデオロギー形態の一契機としてのジャーナリズム的契機に該当する処の一過程だという点である。実際、新聞や雑誌はその材料や編集機構から云って、常に批評的――又評論的――性格を失うことが出来ない。今吾々が新聞や雑誌に載った小説を読むとして、その小説の内容を自分の生活――作家として又一般読者として――の営養にしようとするものは、単なる(尤も相当優秀な)読者である。之に反して、この小説を(恐らく読者に読ませるために)評価し又評論する読者(編集者や評論家)は、もはや単なる読者ではなくてすでにジャーナリストなのである。
ではこの場合、アカデミズムに該当するもの、批評性の契機に対立する契機は何か。仮に私は夫を実証(Position)の契機と名づけておこう(なぜなら批評性は一種の――自由な――否定・Negation であるのだから)。文化人は一個人としては文化財を生産し営養にまで消費しそして之を再生産する。アカデミーに於ける研究は丁度そうした過程であろう。之が文化財生産関係に於ける実証の契機を云い現わす。之に反して批評性とは、この生産関係の対個人的・社会的交換過程を云い表わす契機なのである。
アカデミズムの特色は何よりもまず専門的だという点にあると考えられる。之に反してジャーナリズムは第一に常識的だと考えられねばならない。それは日常的である、従って又凡ゆる意味に於て現実行動性(actuality)にぞくすると考えることが出来る。と云うのは、そこでは社会的意識が、時間の現在性・事実の現在性・行為の活動性・実践の政治性・生活の社会性・等々を優れて必要な条件としているからなのである。ジャーナリズムは第二に、かの専門的なアカデミズムに反して、非部門的な即ち総合的な意識の契機でなければならぬ。夫はアカデミズムのように分科的ではないという意味に於て云わばエンサイクロペディックなのである。夫は常識的であったに拘らず、否、常識的――日常的――であったが故に却ってその限り、世界観的統一を、哲学を有つのである。
元来ジャーナリズムは常に話題(Topik)に上り得るものとして言語性を欠くことが出来ない。話題とは凡ゆる部門的な分科的な事物が言葉という市場をめざして集る場合の共通な場処(Topos)に於てあるものを意味する。そこでは一切の知識が交換される、知識は与えられ受けとられ、又その間に訂正され総合され(議論・理論)、そして又誇張もされる(虚偽)。そこで範疇――これは市場に関係のある言葉である――が発生し論理が組織される、それが世界観=哲学に外ならない。哲学的真理は歴史的に云って世論――常識――から発生したのであり、そして世論は神話――即ち原始的世界観――から生れて来た、夫が歴史的事実なのである。――で、ジャーナリズムの以上のような第二の特色を言語論理性(logicity)と名づけるのは、恐らく不当ではないだろうと思う。話題に上り議論されないものはジャーナリズムにはぞくさない。
専門的だと規定されたアカデミズムに対立して、ジャーナリズムは今、第一に現実行動性として、第二に言語論理性として規定されたが、併し両者は実は一続きの規定に外ならぬ。元来言葉や論理は区別の・分割の・即ち又否定の・道具または原理である。処が現実行動性は時間の現在性ならばその消滅の・事実の現実性ならばその変化の・行為の活動性ならば同化の・実践政治性ならば対抗の・生活の社会性ならば対立の・要するに之も亦否定の・過程なのである。両者は否定の、対立の、原理によって一貫されている(論理の構造は歴史の実現過程の構造の表現である)。それは優れて弁証法的なものである(ジャーナリズムが対立意識の表現だという説も茲に成り立つことが出来るだろう)。
ジャーナリズムはこうであるとして、処で批評性なるものが亦、恰もこういう否定の原理に立つ優れて弁証法的のものであることを注意すべきである。批評(Kritik)が危機(Krisis)に対応することは現に好く説かれる処である。そして之に反する限りアカデミズムは却って蓄積の・伝承の、同化に対しては云わば異化の・自己同一の・要するに肯定――それが実証である――の・原理によって貫かれている。
だから、前に社会意識=イデオロギーのジャーナリズム的契機と云ったものは、その実質から云って、今の場合、文化財生産関係に於ける批評性の契機となって現われるということが判る。広義に於ける批評――之は一つの人間的態度の名であるが――は外でもない、文化生産関係に於けるジャーナリズムの契機なのである。
処で文化財の二つの部類、学術と芸術、広義に於ける科学と文芸――認識と表現及び理解――とは夫々、アカデミズムとジャーナリズムとの対立と、特有な関係に這入っている。先ず科学は分科的な研究領域を持つから、それ自身にすでに専門的なアカデミックな特色を有っている、之に反して文芸は、そう云った分科された生産目的を持っていないから(たとい生産様式は詩とか絵画とか音楽とかいうように分科されていても)、それ自身にすでにジャーナリスティックな特色を有っている、と考えられる。だから実際、科学をいきなりジャーナリスティックにすることは、科学の俗流化を結果するし(科学の通俗化は啓蒙上の・教育上の・規定であり、科学の大衆化は政治上の規定であるから、いずれも俗流化とは全く別のものである)、又文芸をいきなりアカデミー化することは、生命を失ったサロン化に陥ることを意味するのである。でそうすれば、今まで述べて来た連関から云って、その限り文芸は元来批評性を有ち、之に反して科学は元来実証性を有つということになる。実際、一般に批評と云えば人々は何よりも先に、文芸の「批評」を思い浮べるだろう(道徳は処罰し宗教は救済する、だが批評するのではない)。処が科学――実証科学――はそういう意味に於て批評にぞくさないことを特色とする。
だがそれにも拘らず、科学はその専門的分科にも拘らず、諸分科の間の理論的な共通性を、と云うのは夫々の分科の範疇体系相互間の共軛性や一貫を、仮定しなければ、科学ではあるまい。そうすればこの点から見て、科学は元来エンサイクロペディックな・世界観的な・要するに哲学的な・総合を仮定して初めて成り立つわけである。科学は科学の批判にまで、そして夫を通して一般の事物の理論的(哲学的とも云う)批判――評論――にまで、根を下ろすことによって、初めて発生出来たのだし、又生長することも出来る。かくて科学と雖も終局に於て、批評性にまで一続きな契機を有っていなくてはならぬ。それが科学に於ける哲学的契機なのである。
この哲学的契機の媒介によって、諸科学は何かの仕方で文芸と結び付くことも出来、またそれをしなければならなくなる。そこにこそ科学の本当のジャーナリズム化が(もはや俗流化や通俗化ではない処のものが)あるだろう。――この意味から云えば、哲学を云わば文学的科学と呼んでも悪くあるまい。英国のかの優れた批評家達――コールリッジやカーライルやラスキン等――はそういう意味での文学的哲学者=真の「詩人哲学者」だったと云っても好い。
で科学は元来、文芸などに較べてそれ自身に著しくアカデミックな実証性――例えば実証科学に於ける実験や事実収集――を有っているにも拘らず、同時に又それ特有な批評性――例えば批判哲学に於ける「批判」の如き――を有っている。そういう二重性を有った一の文化財なのである。
処が、科学に於ける実証性の契機と批評性の契機とのこの対立、従って又その連関、と全く平行した処の(但し云うまでもなく同一ではないが)構造が、文芸の内にも見出されることを、今は注意せねばならぬ。
蓋し科学と文芸とは、通俗的には可なり無関係なまでに隔離した関心の中心であるように思われているかも知れないが、その文化財としての構造から云えば、即ちそのイデオロギー論的構造から云えば、全く平行した内容を有っている。文芸理論と科学論とは、イデオロギー論の指導の下に、初めて正当に平行せしめられ対応せしめられることが出来る筈である。
そこで今文芸に於ける実証性の契機は、制作である。その批評性の契機はそして鑑賞だと云うことが出来る。前者は生産的活動の契機、後者は之に反して消費的受容の契機と云っても好いが、文化財に就いては単なる受容はあり得ないので、あるものはいつも批評としての受容でしかないのである。
鑑賞乃至所謂――狭義の――批評は一種の代表的な理解の仕方でなければならないが、理解は解釈によってしか与えられない。処が解釈が正しくあるためには、夫が、単に歴史的意識の上に、意識的に立つばかりではなく、歴史的認識を、歴史的知識を、仮定していなければならない。鑑賞乃至批評は、単なる直接な感受ではなくて、知識=認識によって整理された感受機関によって初めて行なわれる限りの感受でなければならないだろう。だから、印象批評というようなものは――特にその際人々がそれに対して好意を用意しない限り――何の客観性を持つものとも考えられないわけである。そういう意味に於ける印象的・即ち又刹那的・感傷(Leiden)は、まだそれだけでは何の制作力をも持たない処の、そうかと云って又何の批評力をも持っていない処の、非文化財的な原始的感情興奮であるにすぎない(センチメンタリズム)。
文芸に於ける所謂批評――鑑賞――は、いつも鑑賞者の教養によって制約されている。文学史の教養なくしては文学の正しい――客観的な――鑑賞・批評は出来ない。もし教養なくしても鑑賞し得ると云うならば、そういうものは鑑賞ではなくして単に完全に無力な場合の制作を意味するに過ぎないだろう。尤も教養は一種の知識・科学にぞくするわけであるから、夫は文芸そのものの文化財と科学としての文化財との交叉点をなしており、従って文芸的文化財のための科学的文化財であることを忘れて、単なる科学としての科学的文化財となろうとする自然的傾向を持つ危険が無くはない。それでなくてもアカデミックな科学財の通弊として、知識は恰も物神崇拝性を持つ金貨のように、拝物化され勝ちであるのに、それが文芸の場合であれば愈々耐え難いものとなるだろう。文芸は単なる所謂概念に堕してしまいそうである。だが、この弊害を免れることを口実にして、教養抜きの鑑賞の権利を承認することは出来ない。
無論批評に、教養乃至知識が、即ち歴史的認識が、仮定されると云っても、批評に博識をひけらかすことではない。だが、それにも拘らず、批評に於ては、認識が表面に出て認識の資格に於て機能していなくてはならない。処が制作に於ては、認識は表面に出て認識として機能してはならない筈である。これは云うまでもないことである。なぜなら制作に於てもし認識が直接に認識の資格に於て機能するならば、その制作品は文芸財ではなくて科学財に過ぎなくなって了うから。尤も事実上は、制作する個人主体は又同時には批評鑑賞する個人主体でもあるわけだから、一方に備わった教養乃至知識が他方に拒まれるとか、又拒まれねばならぬ、とかいうことはあり得ない。否、潜在する教養乃至知識――歴史的認識――なくしては制作の動機も内容も又文化財生産の名に値いする何ものもあり得ない。併しであるからと云って、この歴史的認識が制作を機能して好いことにはならない。
制作はそうである限り、認識ではなくして一種の直接な感動的な実践である。それは直接に解釈や理解に基く知識ではなくて、直接には――間接には何であろうと――、感興や本能的直覚や性格的刺激やによって必要にされた意識が、実践へまで動員されることである。だから普通、そこでは社会的歴史的な普遍性の代りに、個人的な個性が支配するとも云われるのである。そこで批評鑑賞は云わば俗人的であり、制作は云わば天才的だということにもなる。批評に於ては批評者の歴史的社会的生活は概念から云えば媒介され具体化されているのであるが、事態としてはそれだけ抽象化され形式化される。制作に於ては之に反して、制作者の生活が事態としては具体化され実現される、そして夫が概念から云えば却ってそれだけ直接的に止まり抽象化されているのである。
文芸に於ける制作と批評乃至鑑賞は一応以上のようにして対立せられることが出来る。それは取りも直さず文芸に於ける実証性と批評性との契機の対立なのであった。そして夫は又実は、文芸に於けるアカデミズム的契機とジャーナリズム的契機との対立の具体化だったのである。この平面に於ては単にジャーナリスティックな制作――例えば出題された戯曲とかにわか造りのファッショ戦争小説其の他の如き――は、他の何かの財の生産であろうとも、もはや文化財の制作・生産ではない。又同様に単にアカデミックな批評――一種の所謂玄人批評とか同人のセクト的批評等々――は、批評としての意味をさえ完全に失って了うだろう。
併しまだ問題が残っている。制作と批評・鑑賞との内的連関が何であるかが。
制作に対立する批評は、制作から一応独立している。実際、優れた創作家必ずしも優れた批評家ではなく、批評家必ずしも創作家ではない。だが、批評が制作から或る意味に於て完全に独立してしまうと、鑑賞はもはや鑑賞ではなくて単なる鑑定となる。批評家は鑑定家となる(或る種の美術史家などを見よ)。鑑定とは、作品という文芸財が歴史的知識乃至教養という科学財と交叉するその交叉点だけを独立化し、そして之を文化財以外の経済財にまで結び付ける骨董屋の仕事である。ここでは批評は、この意味に於て完全に、制作から隔離される。だがそういう批評は実はもはや批評でさえない。だから批評が批評であるためには、当然なことながら、批評活動は常に制作活動と独立であることが出来ない。
実際、批評活動自身がそれ独特な技術の蓄積・伝承による一種の――文芸制作自身とは異る――実証的な制作である。そればかりではない、一人が行なう文芸制作に於ける精神は、そのまま同じくその人の行なう処の批評の枠を通って、批評的作品の隅々までも色づける。批評と制作とは、文芸財の生産関係として、congenial であらざるを得ないのは当然だろう。批評は、単に制作の批評であるからばかりではなく、制作とコンジェニアルであることによって、又それ自身かの制作とコンジェニアルな他種類の制作であることによって、制作と内的連関に編み込まれている。
実際人々は、現実的に制作し得なくても批評は立派に出来る、だが、可能的にさえ制作し得ないような人は、決して批評は出来ない。現実的な肯定・措定・実証である処の制作に較べれば、どうせ批評はおしなべて可能性の外へは出ない。だが更にその可能性の範疇内に於て、制作の可能性と不可能性とが、批評そのものの出来る出来ないを決定するのである。
さてこの内的連関の構造を明らかにすることによって初めて、批評が制作を規定し又逆に制作が批評を規定するという、一見極めて当然な併し実は甚だはっきりしない相互作用の正体を突き留めることが出来る。現実的な制作の平面に於ては、批評はいつも制作の後を追いかけて行く消極的な寄生物と見える。之に反して可能的な制作の平面に於ては却って、制作がいつも批評に追随して行く形を取るのである。だから現実的制作力が硬化して単に可能的制作力に止まっているような場合には、批評が支配的・指導的な力を振うし、之に反して現実的制作力が横溢してくれば当然制作が支配的な指導力を取りもどす。
可能的制作力とは併し、要するにまだ顕わに実現されていない処の潜在的制作力――制作のそういう一種の潜勢力――であるから、歴史的時間の系列から云えば、場合に応じて却って夫は、将来の現実的制作力を約束することが出来る。之は文芸財生産のジグザグ的前進の弁証法に於ける、単に一時的な云わば政策的な退却的・妥協的・消長の契機であることも出来るのである。
(今日のわが国に於けるプロレタリア文芸が、何かの意味に於て――例えば評論の過剰・作品の評論追随・作品の自生的圧力の欠乏・技術の未発達、等々として――かかる退却や妥協に当るように見える硬化を持っているということがもし事実だとすれば、人々はそういう事実が一体、実は却ってより進歩的・前進的・なものの一現象なのであるか、それとも又本当に後退的な本質を云い表わすものであるかを、よほど慎重に、即ち歴史的・政治的な視角に立って、即ち要するに弁証法的観点から、規定してかからなければならないだろう。――人々はこういう課題に当って、恰も批評と制作との内的連関――この吾々の問題――の具体的な分析を最も必要と感じるだろう。)
一系列の諸批評を順々と点検して行くと、多分そこには一種の暗黙な制作――可能的・潜在的・制作――の自然的生長が見られるだろう。それと全く平行して、一系列の諸制作を順々に点検して見ると、そこには一種の暗黙な批評――可能的・潜在的・批評――の理論的発展が横たわる。だから優れた作者は、――尤も之は何も文芸には限らない、科学的理論に於てもその通りだが、――くだらぬ批評に対して下手に泥仕合などをする代りに、次の制作自身によって実質的に答えることを知っている。――所謂模写や改釈(複数のモナリザや多数のファウスト劇等々)は、こうした一種の批評としての制作の意味を持つと考えられるべきではないだろうか。
制作の目的は云うまでもなく、文芸財の何かの意味での消費のための生産をなすことにあると云って好い。では批評――鑑賞――の目的は何か。一方に於て制作を統制し、他方に於て鑑賞自身を統制することがその目的である。それは当り前なことである。
で批評は、肯定的に又は否定的に、制作の動機を具体化し展化せしめる。この際に於ける批評の任務は、肯定的な一面では、まだ見出されず又は忘られているものを発見し、現に発見されているものを促進し、まだ発見されるに至らないものを要望することであり、これに反して否定的な一面では、すでに見出されていたものを黙殺し、現に見出されているものを拒否し、まだ発見されないものに就いて予め警告を与える、ということにある。――この肯定と否定との両面は、制作と批評との対立の、批評自身の内部に於ける反映であり、従って又文芸財の生産関係に於ける実証性と批評性との契機の対立に対応する。夫はジャーナリズム自身に於けるアカデミズムの契機とジャーナリズムの契機との対立、の一つの場合に外ならない。そしてこの対立は取りも直さず、ジャーナリズムに固有な、従って批評性に固有な、従って又批評鑑賞に固有であるべき、否定・対立の弁証法的原理――前を見よ――から来たのである。之は併し寧ろ当然なことであった。
だが吾々が批評・鑑賞に於ける肯定的面と否定的面とのこの極めて当然な対立を特にわざわざ指摘したのは、それからすぐ様、批評・鑑賞の特異な新しい今迄見なかった質的特有性を引き出せるだろうからである。と云うのは批評はここでは評価とならねばならぬのである。
すでに批評は、鑑賞は、単なる受容ではなかった。純粋な受容はその本来の意味から云っても、完全な無傾向・無判別・無選択を意味しなければならない。そこでは一切の価値が、終局に於ては積極的に均等されて了う。処がそれでは鑑賞にも批評にもならない筈ではないか。で今、この批評乃至鑑賞に於て例の肯定的面と否定的面との対立を指摘すれば、批評乃至鑑賞が価値の対立の間に判決を与える一つの機能だということが積極的に強調されるわけである。かくて批評は、評価の資格にまで上昇させられる。
実際、単に批評とだけいうならば、ジャーナリズムの末梢的な一機能が示すように、単に評判することに止まるかも知れない。評判とは一面に於て批評でありながらやがて、単に報道価値をしか意味しない処の、有名さのことである(之は云わば春秋の筆法から下世話の筆致への推移に当る処の、新聞物やジャーナリズムの分析の上で非常に興味のある言葉である。なお所謂「世話物」は、新聞の欠乏を補うため、市井の雑事の報道を兼ねていたとも考えられる)。無論そう云った批評は主に主観的な感情の本能的な吐露――悪口や又稀には嘆美――に過ぎないから、何の客観性も持てない。処が評価となればすでに客観的な価値標尺を基準にしなければならなくなる。だからその限り、評価はいつも客観的な価値評価、その意味に於ける科学的批評でなければ充分でない。
真の批評は単なる批評ではなくて、――客観的価値標尺による――科学的批評である。処が人々は、所謂「科学的批評」――それが恰も科学と文芸との交叉点に当ることを注意せよ――という概念が、どれ程多くの困難と問題とを含んでいたかを、すでに重ね重ね経験しただろう。主に左翼文芸理論家達の努力によって、所謂「科学的批評」の概念は一応解決ずみであるかのように見えるが、併しまだ、この解決の原理的な展望が、この問題の持っている統一的な一般性が、充分に取り出されてはいない。――蓋し之は単に文芸上の一問題なのではなくて、もっと普遍的な問題――例えば科学論的にもぞくする処の――なのである。それは今迄吾々が使って来たイデオロギー論のメカニズムによって初めて統一的に解明されるに相応わしい事柄なのである。
本当の科学的批評が何であるにせよ、所謂「科学的批評」の問題は、人も知るように、文芸の政治的価値と芸術的価値との対立の問題と結び付いて現われた。もしこの二つの価値尺度を二元的に隔離して了えば、科学的批評は不可能となるし、之に反して二つのものが何か真の統一に齎され得るなら科学的批評は可能であり又必要にもなる、というわけであった。――処で吾々の眼目はさし当り、この対立が恰も、今迄吾々が見て来たかの二系列の対立、ジャーナリズム=批評性=批評乃至鑑賞とアカデミズム=実証性=制作との対立、そういうイデオロギー論的な契機の対立、の一つの、云わば偶然的な断面現象に外ならなかった、という点である。
所謂芸術的価値――それが果して真に芸術的な価値を意味し得るかどうかが抑々解かれるべき問題であったのだが――は、文芸財である芸術作品を、そのものだけとして独立させて見た場合の、その限り内部的な、価値である。従ってその内容は、第一に技術的な――描写能力・構想能力・等々による限りの――価値である。処が所謂政治的価値――それが果して真に政治的な価値になるかどうかは後にして――は、同じ文芸財を社会史的所産として従って又社会的機能の所有者として従って又再び社会史的な動力として見た場合の、その限り云わば外部的な価値になる。この価値で先の技術的価値に相当するものは、第一に云わば社会認識的な――テーマの選択・取材の選択・等々による限りの――価値である。それから内部的な「芸術的価値」の第二の内容は、作家の個性と呼ばれているもの――夫は実は性格とか主体的条件とかのことであるが――の持つ価値であり、之に対して、外部的な「政治的価値」の第二の内容は大衆性――一種の(大衆組織化の過程に於ける)普遍通用性とか客観的状勢とかから来る――の有つ価値となる。
さてそれはそれとして、この「芸術的価値」の方は、第一に文芸財の実証的な制作の技術にぞくし、第一に自由なる個性の独自性を尊重するかのように見えるアカデミズムの契機にぞくするだろう。「政治的価値」の方は之に反して、第一に社会認識として文芸に於ける批評性に即ち又批評・鑑賞にぞくし、第二に大衆的であることに於てジャーナリズム契機にぞくすのである。
だがこの二つの価値は、その対立にも拘らず、一括されて云わば現代的価値に包摂される。と云うのは実際、芸術的と政治的とのこの価値対立は、単に現代の外へ出ない限りの価値対立でしかなかったが、今度は之が全体として現代的価値となって、恰も古典的価値に対立するというのである。――この現代的と古典的との、歴史上の二つの対立価値は併し今度は、とりも直さず、順次に夫々前の政治的なものと芸術的なものとの対立がそこに反映、再生産されたものに他ならない。だから従って当然この古典的価値自身の内部に於ても亦、政治的なものと芸術的なものとが対立するわけである。
(併し古典的価値に於ては、現代的価値に於ける政治的なものに対応しては却って芸術的なものが、そして現代的価値に於ける芸術的なものに対応しては却って政治的なものが、対立するという具合に、現代的価値自身の内部的対立とは逆の内部的対立が与えられる。)
一体古典という概念が、文学史上の古典主義は別にして、二つの内容を持っている。一つは代表的な永遠な典型を意味し、一つは代表的な過去の知識財を意味する。前者の方が恰も芸術価値的な・制作技術的な・アカデミー的契機を云い表わし、後者の方が歴史的な・即ち政治価値的な・批評的な・ジャーナリズム的契機を云い表わすのである。
併し更によく考えて見ると古典的価値の所有者は元来、それぞれの時代に於て現代的価値を持っていたか又は持つべきであった処のものに外ならない。それ故古典的価値と現代的価値との対立は、歴史的時間の構造に於ける対立――歴史的・社会的・政治的な――に帰着するわけである。そうするとこれは結局、初めの「政治的価値」の内に於ける内部的対立として包摂されることとなる。――前に「政治的価値」と「芸術的価値」との対立が現代的価値に一括されると考えられたが、今度は逆に、その現代的価値と古典的価値との対立が、前の一方であった「政治的価値」に一括される。
以上のようなものが「政治的価値」と「芸術的価値」、従って又現代的価値と古典的価値、及び前二者と後二者との必要な一般対立諸関係である。――之は要するに、かのイデオロギー論的に見た二列の契機の対立から来る諸対立の適宜な部分的諸断面に他ならない。
さてそこで問題の要点に来る。では、この二列の契機の一般的な対立、従って又それから来る今見たような一切の諸対立、それが単なる対立に止まらずに、どうやって対立物の生きた統一にまで齎され、生きた連関を与えられるか、に来る。そのためには、科学的批評に就いてもう一遍考え直して見なければならない。
だが実はこの問題の解決の伏線を、すでに吾々は用意しておいたのである。批評は可能的制作だったのである。併しそう云うのは単なる言葉の上の気休めではない。と云うのは、吾々によれば、批評とは常に、自分ならば(優れた他人の芸術家がではない)如何に制作しようと欲するか?(但しそれを実行しないと仮定する点で可能的なのだ)によってのみ与えられる、と云うのである。――なぜなら、そういう実践的な視角からしない批評は、高々単に歴史的知識の生硬な――人から習い覚えた――反覆であるか、そうでなければ無責任な思いやりのない主観的印象か思い付きでしかないから。だがこれだけのことに、すでにかの科学的批評の諸規定の凡てが約束されていることになる。それはこうである。
シェークスピアや又少なくとも若いゲーテは夫々、当然隠然と台頭しつつあった若々しいブルジョアジーの新鮮な人間性や真実性を、つかみ出そうとした天才だったと云われている。彼等に対する嘆賞と愛着とが吾々自身の血となり肉となるまでに、吾々は彼等を理解し得なければならないだろうと共に、その作品の技術的・個性的・古典的乃至歴史的・価値を吾々は、充分に高いものとして理解し得なければならないだろう。だが理解し得るということは決してものの凡てではない。吾々銘々が実際にどの程度まで彼等とその作品とを理解出来るかということとは一応独立に、吾々は、世界の歴史がすでに現代にまで営んで来た新しい社会的結果に相応するような、一定の社会認識――一定の階級的・政治的見解――をいやとも今日持たされている、と仮定しなければなるまい。そして之が――当然なことだが――吾々の生活の・世界観の・底の底まで滲み込んでいるとする。さてそういう吾々が仮に――可能的に――芸術家として制作する時、もはや吾々はシェークスピアのようには又ゲーテのようには、即ち十六世紀の庶民の眼や十八世紀の小ブルジョアの眼を以てしては、制作することを欲しないに相違ない。之はシェークスピアやゲーテが偉大であり吾々が之に較べるべくもなく小さいと仮定しても依然としてそうなのである。
文芸を単に理解するということが之を理解することの凡てではない、批評し得るまでに理解するには、吾々自身の――それはシェークスピアやゲーテとは異った時代の又異った民族のそして重大なことは又異った社会階級のものである――可能的制作実践が中心になるのでなければ、何の拠り処もあり得ない。――単に理解し得るものはまだ本当の芸術的価値ではない、本当の芸術的価値は自分自身の制作実践の仮定を中心として初めて最後的に理解されたものとなる。――だがそういう芸術的価値は、もはや所謂政治的価値と反発するものではあり得ない。なぜなら、文芸が所謂政治でもなく政治の手段でもあり得ない限り、文芸は文芸の資格に於ては決して一般的な政治価値を持つ筈がないのだが、併し文芸が全生活の具体的な(何か一種の芸術的生活というような特別な部分又は抽象ではない)一反映である限り、そして人間の生活が一刻も社会的政治的生活を離れ得ない限り、文芸には文芸であることによってのみ生じる固有な形の政治的作用がなければなるまい。之が文芸の本当の――文芸に固有であって決して文芸外にも通用するように一般的ではない処の――政治的価値である。そして之が取りも直さず本当の芸術的価値なのである。なぜなら、文芸が最も具体的に政治的となるためには、取りも直さず文芸は文芸としての機能を最も好く果さねばならぬからである。――制作実践の仮定を批評の中心にすることによって、かの芸術的価値と政治的価値とは統一される。即ち又制作の契機と批評の契機とが連関的に統一されるのである。そしてここに科学的批評が成立するのである。
吾々は今まで、科学的批評を口にして来たが、ここまで来て初めて、それが実は何であったかを見ることが出来る。――科学的批評に於て、文芸に於ける批評のモメントと制作のモメントとが、政治的価値の契機と芸術的価値の契機とが、連関的統一を与えられると云った。そこで、この批評の政治的価値のモメントになるものは、外でもない、歴史的社会の唯物弁証法的認識から来る処のものである。夫はその限り政治的・社会科学的・要するに科学的(政治的)・真理に過ぎない。だが文芸の科学的批評に於ては、この科学的真理がすぐ様芸術的真理に迄、媒介され内面化されねばならない。そうやって内面に迄媒介された結果としてのモメントが芸術的価値のモメントだったのである。――であるから、文芸に於ける科学的批評は、云わば科学的(政治的)真理としての芸術的真理を、促進するのがその役割だったのである。
だが、こうした連関統一を与えることは、単に言葉の上や紙の上で出来るのではない。科学的批評は単に観念の内でだけ成り立つのではない。夫はまず第一に(可能的な)制作・芸術的実践として、そして第二にそれを通して(現実的な)政治的実践として、初めて存在する。――こうした実践的な統一は弁証法的なものであらざるを得ない。
処でこのことは、科学的批評ということが実は、階級的な文化闘争のための一方法形態でなければならぬことを示している。――しばらく前から所謂「唯物弁証法的創作」の問題が取り上げられているが、之も亦制作と批評との(制作のモメントの側に於ける)連関統一を示す処のものである。処が恰も之は、唯物弁証法的批評――それが「科学的批評」のことである――の裏を云い現わすものでなくて何であるか。
文芸の科学的批評の構造によって、批評と制作とが、所謂政治的価値と所謂芸術的価値とが、即ち又科学と文芸とが、文化闘争の一方法形態の下に、実践的に又弁証法的に(吾々はこういう言葉を無意味に反覆するのではない)、統一される。――だが之は同時に、単に文芸だけに於ける批評に限られるのではなくて、一般文化財に於けるかの批評性と実証性との、又より一般的にはイデオロギーに於けるジャーナリズム的契機とアカデミズム的契機との、同じく実践的で弁証法的な統一形態のための、一つの原理的な模型として役立つものなのである。
吾々にとって大事な点はここに横たわる。吾々は文芸理論に於て行なわれる科学的批評――それは実は階級的文化闘争の一形態の他のものではなかった――と全く平行して、科学論に於ける多くの根本的諸問題(科学の階級性・自然科学と政治との関係・自然弁証法等々の問題)を、即ち優れた意味に於ける科学批評の諸問題を、解くことが出来なければならぬ。と云うのは、文芸を単に文芸自体として――専ら内部的に――批評することがその科学的批評でなかったと全く同じに、諸科学を単に科学自体として批評することは、終局に於ては少しも諸科学の批判「科学的」批判ではない。必要なものは諸科学の「科学的批評」なのである。
それだけではない。ジャーナリズムとアカデミズムとは、イデオロギーのこの二つの契機と二つの形態とは、資本主義制度の下に於ては、事実上永久に相容れない二つのシーソー的対立物に終らざるを得ない。この二つのものを将来実際に統一することこそ、階級的文化闘争の一つの目的でなければならないが、そのための普遍的な一原理が、科学的批評となるのである。
「批評」は凡て科学的批評の資格にまで高められねばならぬ。――もし批評家・評論家・等々という高い意味でのジャーナリストというものがあるなら、彼等の何よりもの任務はこの科学的批評の仕事を果すことにあるだろう。之こそ哲学の責任でなければならぬ。
批評はジャーナリズムの問題である。だがそれ故に又イデオロギー論の問題である。蓋しイデオロギー論とは、単にイデオロギーに就いての任意の理論ではない、文化闘争のための武器を生産する理論なのである。
[#改丁]
第四篇
一三 哲学評論一 思想的範疇論
二 京都学派の哲学
三 田辺哲学の成立
四 ソヴェート同盟の哲学
一四 哲学の話
範疇は根本概念の別名である。併し根本概念と云っただけでは、範疇の有っているような、事物に関する観念を組織するという特色が出て来ない。それで吾々は特に範疇という言葉を選ぶのである。範疇と云えば、すぐ様、範疇体系に考え及ぶからである。
範疇を論じる処の範疇論は、古来論理学乃至哲学の重大な一つの部門であった。だから範疇論と云えば何かアカデミカルなペダンティックな言論だとさえ見えないでもない。併しそういう範疇論は、今日では終局に於てあまり発展の余地がないし、又あまり役に立つ必要なものとは思えない。吾々にはもっと外のアスペクトから必要な範疇論があると思われる。どういう範疇論が必要であるのか。
一体範疇という言葉が最も意識的に用いられた最初のものは、アリストテレスである。彼にあっては、範疇とは、人々が公共的に語るに際して、その云い表わし方が則るべき幾つかの範式を意味する。何が、何時、何処で、どれ程、どういう具合に、等々十個のカテゴリーが挙げられている。云うまでもなくこの範疇の数は言葉の約束(文法)から引き出されたもので、その意味では、アリストテレスの範疇は言表(言葉)の形式を指すものである。尤も言葉(ロゴス)は彼にとっては同時に又客観的存在そのものの原理(ロゴス)でもなければならないのではあるが。――だがカントになると、範疇は言葉との因縁を殆んど全く断って了う。人々の知る通り、言葉ではなくて事物の認識が、則るべき幾つかの範式がカントの範疇である。だからカントは、アリストテレスが範疇の表を文法から引き出したとは異って、之を判断の表から引き出した。カントに於ては、範疇は認識の形式である。
アリストテレスも結局はそうなのであるが、カントは、範疇をば、それが根本概念という一種の観念だという点に極めて忠実に、全く観念の側にぞくする処の主観の側にある形式としてしか、把握していない。言葉も認識も、云うまでも無く観念のものであり、主観にぞくするものである。――併し元来、言葉を語り認識を持つのは事物に就いて語り事物に就いて認識することに他ならない。(客観的な)存在に就いて語ったり認識したりするのである。だからそういう言葉なり認識なりが則るべき範疇も、実は観念から独立に存在する事物そのものの性質と無関係であっては、言表や認識の形式でさえあり得る筈がないのである。だから範疇は、もはや単に主観乃至観念にぞくするものであってはならず、寧ろ夫よりも先に、存在の、事物の、有っている諸性質に結び付いているものでなければならなくなる。
そこでヘーゲルは、範疇をば現実性(Wirklichkeit)が夫々の階段に於て有つ諸形式と考える。観念ではなくて現実そのものの有っている諸形態が、ヘーゲルの諸範疇なのである。ヘーゲルのかの弁証法によれば、この現実乃至存在は、単純なものからより複雑なものへ、要素的なものからより高次のものへ、展開し発展し展化して行くのであるが、実在のこの運動に際して実在が遍歴する処の諸段階が、夫々の範疇をなすのである。――従ってこういう範疇の組織体系に他ならないヘーゲルの哲学体系は実在乃至存在の運動の具体的な巨大な法則、を云い表わすものに外ならない。こう考えると、ヘーゲルでは範疇とは存在の運動法則の単位的な要素だということになる。――観念の形式から存在の運動法則の要素にまで変化して来た範疇という概念のこの歴史は、注目に値いする。
だがヘーゲルの体系であり又ヘーゲルの方法である処の、ヘーゲル風の弁証法から結果することでもあるが、彼に於ては存在が実は結局或る意味の観念と同一視されている。存在そのものが、存在の概念と同一視される。存在とはイデー・観念であり、現実・実在は論理性に外ならない。存在の最も具体的なものは他でもない精神(絶対的精神)なのである。だからここでは吾々がいつも見失わない処の、存在と観念との区別対立は至極組織的に無視されて了うという結果になっている。であるから、折角存在の運動法則の単位的な要素にまで具体化されたヘーゲルの範疇も、その肝心の存在が即ち又観念だったのだから、再び観念の形式にまで舞い戻って来て了う。範疇はここでも亦単なる根本概念に過ぎない。
唯物論的弁証法、又はその一部分である唯物史観の方法によれば、存在と観念・意識とは決して無条件には同一視出来ない対立物である。而も意識は一つの特殊な高次の存在として、存在の反映を自分の内容としている。存在と意識とは対立をなしながら一つの統一に這入っている。之が二つのものの具体的な関係だと考えられる。――そこで範疇も亦、之に対応して考え直されなければならない。
範疇は一方に於て存在の形式(運動法則の要素)であると共に、他方に於ては、之を反映する限りの意識の形式でもなければならぬ。一方に於て夫は存在の構造を決定し、他方に於て意識の構造を決定する。元来範疇は存在の構造にぞくする、夫から観念の形式としての範疇が出て来るのである。
処で今、存在を具体的に考えると歴史的・社会的存在になるが、之に対応して、意識を具体的に考えて見ると、歴史的社会的意識・即ち思想となるのである。一切の科学・理論・文化はそういう思想によって生命を吹き込まれているのであるが、この思想のエレメントとなるものが、具体的に考えられた意識乃至観念の形式としての範疇なのである。この範疇は云うまでもなく、歴史的社会的存在そのものの内に横たわる処の、存在そのものが自分で顕わして見せる処の、客観的な諸モメントに対応していなければならない筈である。
存在に対して意識がそれ独特の歴史的発展形式を有つ通り、存在の形式(モメント)としての範疇に対して、意識の形式(思想の要素)としての範疇は、それ独特の歴史的発展形式を有っている。こういう範疇は歴史的に云えば民族・国家・地方・等々によってその発生と系統とを異にしているのが事実である。吾々はギリシア哲学乃至ギリシア神話に於ける諸範疇を、支那の儒教や易、印度のバラモン教や原始仏教に於ける諸範疇と、直接に比較することは許されない。
範疇が原始的には主として民族的特色を持っていることは事実である。そこで人々は、範疇のこの原始的民族性を利用して、特に歴史科学や社会科学の理論に於て、或る民族に固有な歴史学や或る国民の固有な社会科学が存在し得ると信じたり、又存在せねばならないと主張したりする(国学的国史学とか「日本社会科学」とか)。人々はこの事実をこの頃毎日のように経験しているだろう。之が道徳学とか倫理学とかになるとやがては「日本精神の哲学」などを産むに至るのである。
こうした国粋科学の何よりもの特色は、併し、それが或る原始的政治形態に対応するような原始的範疇に立脚していることばかりではなく、少なくともわが国に於いては、その原始的、国粋的範疇が、何等自然科学的――又唯物論的――諸範疇との連絡を持っていないという点に横たわる。自然科学の範疇は欧州のもので好いが、精神科学の範疇だけは日本独特のものでなければならない、之が国粋ファシスト達の論理学なのである。誠に虫の良い論理学ではないか。
この国粋論理学が、夫々の範疇群の間で何の世界観的統一をも与えないバラバラ論理学であることは、一目瞭然であるが、大事なことは、それが自然科学的諸範疇から絶縁したということから来ている、という点である。そして夫は又この論理学が、唯物論の代りに、何等かの理由から、是非とも観念論を採用しようとする処から来たものに外ならない。思うに国粋ファシスト反動論理学は、観念論のための、最も拙劣な不手際な、尻ぬぐいだろう。
国粋ファシスト反動論理学の不手際は、単に之だけに止まらない。この国粋現象は決して国粋現象ではなくて、却って今日正に一つの最大な国際現象なのである。処が真に国粋的なものは、その国に於てしか成り立つ筈がないので、国際的であり得ない筈だ。だからわが国の有力なファシスト団の理論家は、自分達がファシズムを奉じるものではないと主張している。ファシズムとは一つの国際現象であって、決してわが国だけに固有な神聖なる国粋現象であってはならないと云うのである。――だがこの自己に対する「認識不足」は最も質の悪い認識不足であるが、夫も例のバラバラ論理学の人格分裂から来ると思えば、少しの不思議もない。
だが観念論の尻ぬぐいをするための範疇組織は、必ずしもこのように不手際であるとは限らない。ファシズム範疇組織に対しては(ブルジョア)リベラリズムの範疇組織がある。リベラリズム論理学の何よりもの特色はそのデモクラシーにあると云って好い。と云うのは、そこでは各個人の形式的な名目上の平等(galit)が最も大切にされているのである。だが平等が平等であるためには、全く形式的な平等でしかあり得ない。少しでも内容を斟酌してはすぐ様不平等になって了うだろう。だからリベラリズムは形式主義に立って範疇組織を行なわざるを得ない。リベラリズム論理学は形式論理学となる。
観念論のリベラリズム的尻ぬぐいに於ては、一切の範疇が形式論理学的に取り扱われる。国家という範疇、社会という範疇、階級という範疇、歴史という範疇、之等は皆形式論理学的範疇として取り上げられる。他の言葉で云えば、之等が機械論的範疇体系の下に把握されざるを得ないのである。
それ故リベラリズム的反動論理学は、必然的に弁証法的範疇体系を用いることを拒まざるを得ない。弁証法は形式主義と機械論との反対論、そういう形而上学主義の正反対物だからである。――それに又、リベラリズムが少なくとも観念論の尻ぬぐいをしなければならない限り、それが形式的・機械論的・範疇を使うことを固執せざるを得ない根本的な理由があるのである。なぜなら、唯物論は必然的に弁証法的唯物論に導かれざるを得ないのであり、之に反して観念論は誤ってヘーゲルの場合のように弁証法に結び付かない限り、形式論理学に行かざるを得ない、それが近世の哲学史の教える事実だからである。ヘーゲルの所謂観念論的弁証法も亦、必然的に唯物論的弁証法にまで展化しなければならなかった。そこにマルクスがいたのである。
形式論理学的な範疇の使い方が、今日実際どのような困難に陥りつつあるかを、吾々は今更ここに喋々する必要がない。人々はそれを社会科学歴史科学に於て、又自然科学に於て、又一般に文化それ自身に於て、知っているだろう。文化の危機とはこの見方からすれば何でもない、形式論理学的な範疇が、もはや社会的に役に立たなくなったという、範疇論上の根本現象を、多少とも文学的乃至宗教的な言葉を借りて云い表わしたものなのである。
所謂文化危機を打開するものは、唯物論的弁証法の範疇を使うことの他にはない。そして無論それは一定の経済的・政治的・活動に対応して行なわねばならないのが事実だ。――だが夫は又他方に於て、他でもない、思想が自然科学的諸範疇と一定の密接な範疇上の連絡を持たねばならぬということである。ここにこそ現代に特有に必要な、啓蒙がなり立つのである。
加藤弘之・井上哲次郎等の諸氏によって代表された我が邦の官学哲学が、外国書翻読の時代を清算して、とに角学術らしい研究力を持つようになったのは、恐らく大戦のしばらく前と見て好いだろう。すでに前から、大西祝や桑木厳翼の諸教授の手によって、多少とも独特さを持った思想の科学となりつつあった科学的哲学は、西田幾多郎博士が京都帝大に位置するようになってから、次第にその生長が具体化して来たが、それが大戦の直前後には決定的なものとなって来たと考えられる。
一体哲学は技術的な契機と思想的な契機とが兼ね備わっていなければ哲学ではない。使って普遍的に役に立つ範疇と、社会的にも相当な勢力を持てば持てる積極的な世界観とがなければ、哲学は無いと同じである。で哲学の存在が、こう云った意味で、単にアカデミーの哲学自身の温室に於てばかりではなく、とにかく一般文化の外気の中で、客観的な意義を実際に持つことの出来るようになったのは、主に西田博士の思索力によってであったと云っても云い過ぎではないだろう。実際、西田博士の一貫した哲学的諸労作は、諸文化にとっての必要性を充すことの出来た、わが国に於ける最初の、そして最も大きな、記念すべき存在である。それ迄の哲学は、――或いは其の後のもそうかも知れないが――少し極端に云えば、無くても一向困らない玩具のような哲学だったのである。
処がこの哲学――故左右田博士は之を西田哲学と名づけた――は、単に我が国だけに於ける代表的な哲学であるばかりではなく、公平に云って、世界的水準から云っても、指導的な位置を占めると云って好いだろう。最近の世界の哲学者の中で、歴史的に記録すべき人物は、誰よりも恐らくベルグソンとフッセルルであろうが、吾々は之に、一人の西田博士を加えて好いのである。フッセルルは嘗て、当時独乙にいた田辺元博士を労わして、西田哲学に就いて講義をして貰い、之に熱心に傾聴しながら盛んに自分の意見をんだそうである。
で、西田哲学の世界的価値は、吾々が想像しているよりも、もっと大きいものであるらしい。――それに、欧州の、又は主に独乙の、所謂哲学と名の付く哲学が、或る根本的な理由から、全く行きつまって了っている今日では、そして「ハイデッガー」や「ヘーゲル復興」の名を聞いて、溺れる者が藁を掴むように、之にしがみつこうとしている今日の国際的哲学界に於ては、西田哲学の展開と前進とはいよいよこの哲学の優越性を高めねばならないわけである。
こうした貫禄を持った西田哲学を、本格的にそして具体的に立ち入って批判するということは、仮にも哲学者と名のつく多くの世間人の道徳的義務でさえあるのだが、不幸にして、それに値いする資格を有った哲学者は極めて少ないようである。私などは仮にさし当り、無論我が国に於て、三四人のそういう資格者を数えることが出来るに過ぎないようにさえ感じている。だから私がここで仮にも西田哲学を批判し切ろうと企てるならば、夫は実際には不可能なことである。――だがそれにも拘らず私は、西田哲学を観察の対象として取り上げ、その諸特色を指摘せねばならない或る必要を感じるのである。何故か、理由は簡単である。西田哲学が、一口で云えば、我が国に於ける、或いは又世界に於ける、最も雄大なブルジョア観念哲学だからなのである。尤も西田哲学がブルジョア哲学であるということは、恐らく誰でも想像し誰でも知っている事実である。問題はこの哲学がどんな諸特色を示すことによって、ブルジョア哲学として自己確立しつつあるかである。
博士の比較的古い著作の内で、学的に最も重大さを持つものは、世間の多くの読者にとってどうあろうとも、その「意識の問題」である(嘗て博士自身もそう語っているのを私は直接聞いた)。西田哲学の問題は常に、この意識の問題であるか、又はこれが延長された問題に外ならないことを、まず第一に注意せねばならぬ。最もよく読まれた『善の研究』も、学術的精髄と云えばその直接経験に就いての説にあったし、『自覚に於ける直観と反省』は又云うまでもなくそうであった。かくて西田哲学は意識の問題から出発する。尤も意識の問題から出発することは無論、必ずしも意識の問題に止まることではない。実際、後期の所謂西田哲学――「場所」以後の西田哲学――は、意識の奥底に、もはや意識でさえない処の、もはや有ではない処の、底なき無を想定するから、その問題が意識の範囲内に限られているとは必ずしも考えられない。所謂意識の作用としての働くものから、意識作用をも自分の上で成立させる処の見るものへまで、問題を展化したこの哲学は、すでに意識の問題を立派に止揚して了ったかのようにも見える。だが夫が結局に於ては決してそうでない証拠には、之と時を同じくして、最も普遍的な範疇として、ノエマ・ノエシスという一対の概念が使われるようになって来たのである。云うまでもなく之は、フッセルルの純粋意識の現象学が用いようとする処の根本概念であった。こういう根本概念が使われ得る限り、吾々は西田哲学をば、意識現象を完全に踏み越えたものをも取り扱うことの出来る程に高度の、併し矢張り一つの現象学だと呼ぶことが出来る。今日にまで一貫しているその直接経験説は、元来マッハ的なものであるが、それがこの現象学的本質を好く云い表わしている。
フッセルルの現象学を踏み越えた現象学として、わが西田哲学を性格づけることによって、その様々な他の特色を指摘することが出来る。例えば西田哲学が、カントの批判主義の根本精神を継承すると主張出来るのは、その重な点である。なぜならこの主張は、カント的批判主義の内にも、現象学的精髄を見出せるということに他ならないからである。――で、西田哲学は最も高度の現象学でなければならない。之が西田哲学の一般的な方法となるのである。
その方法が高度の意味にしろ現象学的であるということは、一般的に云って、事物が凡てその本質関係に於て分析され区別されなければならぬということである。と云うのは、そこでは諸事物が、超歴史的な場処に於て根本関係を与えられねばならぬということである。そこで西田哲学は、こういう場合の最も高度の場合として、凡ての事物をそれぞれが固有している処の意味関係に於て解釈し、そして相互の間の空間的定位を与えねばならぬ。例えば意志とか行為とか自己とか愛とか社会とか、又は自然とか歴史とか瞬間とか神とか、等々の日常的乃至哲学的な概念によって理解される諸事物は、この哲学によって誠に深く広く性格的な意味を与えられ、そして例えば愛のどうなったものが社会であり、社会のどう解釈されたものが愛に適当すると云ったように、意味相互の間の空間的位置が誠に明白に決定される。諸範疇は誠に明晰に深刻に掘り出され磨き出される。――だが夫が西田哲学の技術の(必ずしも思想のではない)凡てである。そこにあるものは、事物の意味の解釈と意味解釈された範疇の超歴史的体系、とのための努力でしかない。存在はその様々な存在の仕方に従って意味づけられ組織立てられる。けれども現実の歴史的に動いている限りの存在は、それによっては明らかにされず、又どうなるものでもない。まして存在をどう処理し得又せねばならぬかということは、之では少しも決まって来ない。
この方法は、個々の場合々々に現われる処の、西田哲学的やり口を決定する。そこに取り扱われるものは事物ではなくて事物の――主として他事物に対する――意味である、存在自身ではなくて存在の仕方、存在の諸形式であることを忘れてはならない。博士がアリストテレスの『メタフュシカ』に西田哲学の手懸りを見出したのは偶然ではなかった。事物を事物の意味にまで――そして夫が結局事物の意識に迄ということになる――昇華せしめて典型化す処の、この形式主義は、元来、質料的原理を忘れない処の唯物論的やり口の正反対物でなくてはならない。
事物は事物そのものとしてではなく事物の意味としてしか取り扱われない、だからその限り夫は常に象徴的・表現的な性格を脱しない。だから博士は口ぐせのように、「何々という如きもの」という言葉を用いるのである。――そこでこの論理的象徴主義は確かに、一種の唯美主義と関係があるに相違ない。そして多分それは暫く前のわが国に於けるロマンティークから切り離しては理解されないだろう。恐らく現代で一等難解な博士の哲学が、あのように流布して、あのように多くのファンを有つことの出来た理由は、ほぼこの辺にあると想像される。で吾々は茲で、ロマンティークや又唯美主義が、どういう社会的・政治的・意味を持った観念形態であったかを、思い起こせば好い。
解釈主義的・超歴史主義的・形式主義的・浪漫主義的なこの現象学的哲学が、実践の問題に対してどういう態度を示し得るかは、大体すでに明らかであった。西田哲学にとっては、実践とは高々、単に社会倫理学的な行為にしか過ぎない。それは生産とか政治とかいう社会の物質的固有物と、関係があろうとなかろうと構わない。実践は常に個人人格的な倫理性格を脱することが出来ず、実践を社会的だと云っても、その社会自身が、個人がその内に生まれ、その内に死ぬ処の、個人の高々同胞種族的――人倫的――な結合物でしかない。でこの哲学にとっては、凡ゆる事物が結局に於て個人人格的な根柢を有つから、この立場からは一切のものが実践的であり、従って実践的であるかないかは事物に何の区別を与えるものでもなくなる。従ってこの立場自身は没実践的なものとして結果するのである。こういう没実践的・個人主義的・な哲学を刺激している最後の背景は、無論、その特色ある著しい宗教的意識である。西田哲学に於て、それ自身には理論的に至極透明である処の神秘主義は、恰もこの意識を、すでに前に云った諸条件の下に哲学的に直接に翻案したものに相当するだろう。人々は知っている、行とか愛とかを振り回わす宗教的意識が一般に、事実上如何に非実践的で個人主義的であり得るかを、又結果に於て如何に逃避的で利己的でもあり得るかを。
だが今迄云った一切のことにも拘らず、西田哲学自身にとってはこの哲学は少しも観念論ではないのである。観念論は事物をノエマの側に於て見る場合の一例である。夫は事物をイデアの観念的展開として把握して了う(ヘーゲル)。だがそうかと云って、無論西田哲学は唯物論でもない、唯物論も亦事物をノエマの側に於て見ることしか知らない、その点では観念論と同じである。ただイデアの代りに物質が、ノエマ的有として、事物の根柢に横たえられるに外ならない(マルクス)。とそう云うのである。観念論をも唯物論をも止揚した西田哲学は之に反して事物の根柢をノエシスの側に於て見出そうとする。西田哲学は観念論でも唯物論でもない、夫は高度の現象学であった。だからこそそれが最も洗練された観念論である。
で事物の根柢に横たわる弁証法も亦、ただノエシスの側に於てのみ、自覚に於てのみ、一概に云えば広義の意識に於てのみ、成立するわけになる。――だが弁証法というものの意味が成立する場所と、弁証法そのものが存在する場所とは別だ。弁証法というものの意味の成立する場所は、世俗的な存在としての所謂歴史にはなくて、例えば神学的な(吾々は之を寧ろ形而上学的と形容すべきだ)始原的歴史(Urgeschichte)にあるかも知れない。併し弁証法自身は所謂歴史自身の内に成立する。否、歴史の意味は始原的歴史に於て成り立つだろう、併し歴史自身は歴史自身に於てしか成立しない。そういうことが歴史の、非形而上学的・唯物論的・な原理なのである。西田哲学は歴史を産み歴史を包む立場に立つことによって、この歴史的原理を否定する。吾々が之を現象学的と呼んだ所以である。この時弁証法が凡そどんな弁証法にならねばならぬかは想像に難くない。――だからこの頃、某新聞の宗教欄で、西田博士が牧師や僧侶の愚劣な相手をさせられていたのも、必ずしも博士自身に責がないのではない。
西田哲学の是非を決定的に判定する資格は今の私にはないが、ともかくこうやって、一応その性格を描写することは出来る。こうすれば西田哲学が、どのような社会的・政治的・な意味を持った観念形態であるかがすでに判らねばならない筈だ。だがそれだけではない、西田哲学は西田学派にまで、或いは云わば京都学派にまで、現に発展しつつあるのである。それは今や立派に形を持った一つの社会的存在物である。西田哲学を西田学派にまで踏み固めることは、田辺元博士のみ許される尊敬すべき努力であるように見える。田辺博士が、西田博士の哲学をどのように有効に使用することが出来たか(『数理哲学研究』)とか、又最近の田辺博士の理論が、西田哲学の諸テーゼを、如何に忠実に整理し、綴り合わせて行くかを見れば、このことは判ると思う(最近三木清氏の三木哲学が、急速に西田学派の有力な後継者となりつつあることも亦注目に値いする――『歴史哲学』)。
田辺博士の哲学者としての世間的価値は、云うまでもなく非常に高いが、それでもなお夫は不当に低く評価されているのではないかと思う。その知識の豊富な蓄積が自由自在な学的技術にまで高められている処の、その理論的能力は、多くの自称哲学者達には思いもよらないことである。もし西田博士が思想的技術の工場であるなら、田辺博士は理論的技術の市場だとも云えよう。で吾々は之だけでも、是非とも今博士の理論を問題として取り上げなければならない。
一部の人々は博士を左翼の思想に可なりの同情を寄せている人と考えている。だが云うまでもなく之は、博士の思想が多少ともそういう色彩を持っていることを意味するのではなくて、単に博士の頭脳が一般的に認識能力に富んでいることを意味するに過ぎない。マルクス主義に対する田辺博士程度の認容と評価とは、西田博士であっても持っている。二人とも新しい若い生き生きしたものに対して真面目に取引が出来るだけの、脳皮質の軟かさを有っているのだろう。――実は田辺博士こそ、最も理論堅固なブルジョア哲学者なのである。
最近わが国でもヘーゲル復興が流行していて――一体こういう「ヘーゲル主義」運動はその動機からして批判されねばならぬが――ブルジョア哲学は少なくとも数十人のヘーゲル論者を大量生産しつつあるが、無論与太なものが相当多いと聞いている。だが田辺博士はこの間にあって、ヘーゲル哲学を本当に使用(ただの止揚ではない)しようと企てている少数な人々の一人である。近くは三つ四つのそういう本格的な博士のヘーゲル論文が続けざまに発表された(『ヘーゲル哲学と弁証法』)。吾々は恰もこれ等の論文によって、博士の哲学の諸特色を捉えることが出来る。
ヘーゲルを使っての田辺博士の立場は、西田博士の立場とは異って、自らを観念論と名づける。だがそれは主観にのみ、又は客観にのみ、即した観念論ではない、主観と客観との対立関係を成り立たせる絶対者に即した観念論、「絶対観念論」だというのである。でヘーゲルの観念論的弁証法も亦、絶対観念論的弁証法にまで、即ち単に精神だけではなく之を否定する原理としての自然にも即した処の弁証法にまで、単なる観念の弁証法でもなく又無論物質の弁証法でもない処の第三の弁証法にまで、改釈されねばならない。こういう本当の弁証法的なるものと弁証法を超えるものとの弁証法的統一としては「絶対弁証法」であり、単なる観念的弁証法でも唯物弁証法でもない処から「即物弁証法」である。――さてこういう弁証法の意味が具体的に成り立つのは専ら人間という個体に於てであって、そこでは精神が身体と優れて弁証法的統一をなしている。身体性こそ弁証法の最も直接な発現だと考えられる。だからこの身体性を媒介とする人間学的自覚が、この絶対弁証法の具体的内容となる。哲学は――ブルジョア哲学は――人間学にならねばならない。それが博士の予言なのである。
だが主観にも客観にも、自然(身体乃至物質)にも精神にも偏さない哲学が、何故観念論なのであるか。実践が、と云うのは、行為的自由主観の自覚が、この哲学の脊柱をなしているからである。こういう実践は無論唯物論的意味での実践とは殆んど何の関係もない。そこでも亦相不変、個人倫理か、又は個人の社会倫理が凡てである。哲学は要するに人格道徳理論によって支えられる。博士の人間学もそうやって初めて出て来るわけなのである。だからヘーゲル哲学は、カントの「目的論」にまでわざわざ歴史の流を遡ることによって、理解されねばならぬということにもなる。それは外でもない、実践理性が優位を占めるために必要であったからである(博士の『カントの目的論』という著書は最も輝いた小品である)。
田辺博士の理論の至る処につき纒って見える処の折衷主義は(だが夫は無論折衷するために折衷しているのではない、古来そういう意味での折衷主義は未だ嘗て無かっただろう)、哲学のこういう道徳化にその遠因を有っているようである。それで博士の卓越した理論も、非天才的に、生彩なく、平面的に、見えて来るのである。この折衷主義と道徳化を並べて見て、吾々の哲学史的知識は、何か末期的なものを感じないだろうか。特にこういう哲学が有力に活動出来る客観的条件が特に今日備わっていればいる程、吾々はそう尋ねたくなる。では一体、何の末期が来るのであるか。
(アカデミー的態度を持ちながら、曾て文化批判・文明批評に可なり大きな功績を残した人として、桑木厳翼博士と金子馬治博士とを挙げなければならない。尤も之等の人々は今日では必ずしも当面的な意義を有っていないと考えられるかも知れない。それに較べれば紀平正美博士や川合貞一博士などの、特に後者の、国宝的反動哲学者の方が、或る意味ではより活動的であるかも知れない。但しその活動というのが科学的活動とはあまり関係がないのであるが)。
こう考えて見ると結局、今日のアカデミズム・ブルジョア哲学は西田=田辺の哲学――京都学派の哲学――によって代表されるようである。之が今の処わが国に於けるブルジョア哲学の総決算であるように見える。吾々の批判の対象もだから、恰もそこにあったのである。
私は京都学派の成立を祝福した。と云うのは、もし田辺元教授がその後を受けるのでなかったならば、西田哲学も単なる西田哲学に止まってしまったかも知れなかったが、最近の田辺博士の邁進ぶりは全く、西田哲学に厳然たる後継者が控えているということを何人の眼にも明らかにする。そうやって西田哲学は今や京都学派にまで確実に伝承されるのである。
だが私は今又重ねて、この学派の成長を祝福しなければならない。と云うのは、田辺博士は遂に田辺哲学を打ち立てたからなのである。教授のこの独自な哲学の建設過程はその『ヘーゲル哲学と弁証法』によって具さに知ることが出来るが、夫を哲学的常識にまで咀嚼して一般読者に心ゆくまで呑み込ませて呉れるものは、最近の力作「哲学通論」(岩波講座『哲学』)だと考えられる。思うに之はわが国で恐らく今まで決して見ることの出来なかったような、必然的な統一を持った、水準の高い、而も説得力の強大な、哲学概論だろう。私がこう云うのは決して儀礼からではない。それ処ではない、こういうネバリ強い執拗な哲学が、読者がこの抑揚のない坦々とした論調に僻易しない限り、多くの尤もらしい信奉者を見出しはしないかを、実は私かに恐れているのである。
その人の性格からその人の哲学を説明しようとすることには、すでに大きな疑問があるけれども、その点は後から始末するとして、何はともあれ、博士に親しく接した人が一等強い感銘を受けるのは、博士が至極組織的な道徳家だという点だろう。博士は決して実践的な性格の主ではないようだ、それにも拘らず至極顕著な道徳家なのである。博士の(少なくとも外部に現われた)言動には、本能から来るような神秘性や直接さは少しもない、すべてが反省され媒介されてしか現われて来ないように思われる。恐らく絶対者はあまりに精緻に過ぎたこの頭脳を罰するために、反省というプルガトリオを設計したのかも知れない。そこで博士はこの反省の煉獄を抜け出すために、反省の煩わしさを断ち切ったスガスガしい直観界をあこがれる、絶対者は博士の願望の対象なのである。だからして博士の要求は今云ったその宿命にも拘らず、却って神秘性と直接性とに向かって集中されざるを得ない。博士は道徳的反省を抜け出すことが出来ないが故にこそ、絶対者の形而上学を求めなければならない、それが博士の性格的運命だ。
博士という個人に就いて性格論や人間論を云々することは、礼を失する外に多分あまり意味がないだろうが、問題は個人のこうした個性が、超個人的な歴史的社会的な様々の形式の観念体系と、どうディスチャージするかである。併し今云った性格上の動機は、以下、少なくとも田辺哲学の内部的な論理構造の要領をつまみ出すのに有効だと信じる。
人々も知るように元来哲学は一般的に云って、生と論理との結び付き得ない対立に苦んで来たが、わが「哲学通論」はまず第一にこの問題を取り上げる。生とか論理とかいう概念がどう理解されどう批評されようとも、現実そのものである生と、少なくとも多少でもこの現実を遊離するのを立前とする論理とが、容易に結び付けられ得なかったということが、従来の哲学の一様な悩みの種であった。処が博士の例の性格上の構造はそこに独特な結び付きの可能性を暗示する。道徳こそ両者の媒介物でなければならないと云うのである。蓋し道徳は同時に、一方に於て道徳的実践であり、他方に於て道徳的反省である。道徳的実践は現実的生そのものに踏み込むことに他ならず、道徳的反省は論理の人格的運用の外ではあるまい。博士は現に論理的思惟の根柢に我と汝との連関構造を見出すことを忘れないのである。道徳こそ、生の勝義の本質と、論理の生きた核心とを、引き受けるものでなければならなくなるのである。――だがこの道徳的な実践と反省こそ、絶対者の形而上学への鞭となるだろう。
もし吾々の考え方に特有なものがあるとすれば、夫と田辺哲学とを区別する割合直覚的な条件は、第一にこの実践というものの捉え方の根本的な相違の内にある。誰が考えても、云うまでもなく実践とは、単なる客観物の運動などではあり得ない、いつも自己意識によって裏づけられた行動でなければ、実践とは云われない。だが逆に、自己意識によって裏づけられたこうした行動が凡て実践であるとか、同じく実践的であるとか、云うことは出て来ない。この点が原則的に大事である。
田辺博士は実践をば、単に自己意識=自覚によって裏づけられただけのものと想定しているに相違ない。なぜなら、こういう想定だけからして、実践に関する博士の一切の規定が導き出されることが出来るからである。
実践が自覚的であるという、自己意識的であるという、この判り切った命題は、実践を(道徳的な)自由の概念へ導いて行く。自己意識的ということは自己を立てることの意識だ、自己を立てるということは、それだけ他に対する自己の依存関係を断ち切り、之を逆転して、それだけ自主的に他を決定してやることだ、だが他を自主的に決定してやることは取りも直さず、自分が自分を決定することに外ならない。それが自由なのである。但しこの場合問題はあくまで実践であったから、自由を実践の自由に制限して考えなければならぬ。と云うのは、自由とは為すことの自由、なし得ることをなすべきこととして自覚し、之を実際に為す、という自由でなければならぬ。だから実践(夫は実は道徳的実践である)はそれが自覚に裏づけられていることから、同語反覆的に、否自律的に、自由(而も道徳的自由)と同伴せざるを得ない。
道徳的自由は併し善悪の問題に連関してしかその内容を有たない、悪に対して善を選ぶ自由、或いは悪をさえなし得る自由、これが道徳的自由の公式的な内容だ。そして今のは道徳的自由の内容だが、道徳的自由の主体としては他でもない(道徳的)人格が必然的に持ち出されなければならない。自由や人格は道徳的自由や道徳的人格に限られるものではないが、夫が田辺博士によると凡て道徳的なものとなって来る。それは実践をば、単に、自己意識に裏づけられただけのものとして想定する道徳主義的な出発から一義的に出て来ることに過ぎなかったのである。
観念は凡て人間の頭脳を通過する、そのように実践は凡て人格の自由(之こそ田辺博士の道徳の精=スピリットである)を通過する、誰もそれを知らないのでもなく忘れたり無視したりするのでもない。だが問題は、観念が人間の頭脳を通過するかしないかという均一的な総花的な問題ではなくて、観念が夫々どのような特殊の存在に対応し又は対応しないかである、それとアナロガスに、問題は実践が人格の自由を通過するかしないかという形式的で従って無意味な問題ではなくて、実践が如何なる場合に実践的となり如何なる場合に実践性を失うかという質料的な問題が問題なのである。観念は常に観念である、だが単に観念にすぎない観念は少しも存在を観念するという大事な観念性を持たない、それとアナロガスに、実践は常に実践だが、単なる実践(それが田辺博士による道徳的実践という概念把握法の結果物である)は、それだけではまだ少しも実践的ではなく実践性を有つものではない。
なる程博士は、実践を決して形式的にだの抽象的にだの考えてはいない、却って個別を媒介とした内容的具体性に於て、その実践概念を用いている、と云うだろう。それはそうである。併し、そうした博士の所謂即物性なるものは、実はどこにでも任意にどういう風にでも成り立つことが出来る。国民は即物的には忠良なる臣民と不逞の徒とに、而も忠良さと不逞さとの個別的段階を媒介として、内容的具体性に於て、即物的に、自己実現することが出来る。わが国の哲学者は彼の哲学が真理であるかないかによってではなくて、彼が忠良なる臣民であるか不逞の徒であるかによって、即物的に処理される。文部大臣と雖も一種の即物主義者であり得ることを忘れてはならない。
道徳的実践のこの即物性が、決して実践の物質性(又質料性と云っても好い)でないことは、博士自身寧ろ進んで主張したい点だろう。実践が自覚に裏づけられ、人格の自由に基き、その限り善悪の価値対立の関係に集約されるということは、単に実践の形式的な即物性を云い表わすだけであり、そしてそういうものが道徳的実践なのであるから、凡そ道徳的実践としての実践は、物質的・質料的・実践であり得ない。では一体物質的・質料的な実践とは何かと問われるだろうが、他でもない、勝義に於ける実践的実践がそれなのであって、即ち単に感性的――之が道徳的であるなしに関係しないことを注意せよ――であるばかりではなく、歴史的社会的な影響力と意義とを持った処の実践が初めて、実践的な・物質的な・実践なのである。そうでない実践は高々人格の行動でしかない、それが残余としての道徳的実践であろう。歴史的社会的な活動性、従って人格の単なる道徳的自由に帰着するような主観的実践行動には止まらない処の客観的な活動性、それが実践的・客観的・な実践であるからして、実験とか産業とか政治行動とかいう客観的立体性を有ったものこそが、勝義に於ける実践として取り上げられる理由があるのである。だがこうしたものは決して、単なる道徳的実践としての実践ではあるまい。道徳的実践という概念の形式的外延の内にぞくし、又は道徳的実践に還元され得るということからは、道徳が道徳的実践としての実践として特色づけられて好いということは決して出て来ない。
実践をどう考えようと、実践と名の付くものは間違いなく実践だろうが、併しそういう実践概念自身が実践的だという保証は、どこにもありはしない。寧ろ、実践と名の付く非実践的な概念がいつでも可能であるということを注意しなければならないのである。そういう場合、実践の名の下に非実践的なものが、或いは実践の非実践的な従って非本格的なモメントだけが、呼び出される。田辺博士の「実践」はこうした非実践としての実践の段階にあくまで固着しようと欲している。かくて道徳的実践という概念が実際には如何に非実践的なものを云い表わす概念であるかが、判るだろう。なる程実践は、道徳的であろうとなかろうと、実践に違いない、だが、実践と実践の概念とは別であり、又別になり得る。田辺博士の道徳的な「実践」という概念は、決して実践の概念ではない。
博士の実践の概念を、知らず知らずに非実践的なものの概念に変化させたものは、その道徳主義であった。道徳主義とは、一切の人間生活形態をば終局に於て道徳生活という一つの平面に還元する処の態度である。「生」は一般的に道徳的生に引き直される。無論博士によれば、この道徳的生は形式的な抽象的なものなどであることは出来ない、なぜなら元来生自身は内容的・現実的・なもの自身の名だったからである。だが形式的なものがいつも自らを無内容なものとして自覚するならば、形式的であることは何の支障も齎さない。ところが形式的なものが一応内容的なものとして自らを意識出来るということがあればこそ、吾々は形式的なものを用心しなければならないのである。だから現実的であり内容的であると称するからと云って安心してはならない。そういうものこそ往々形式的なものに過ぎないのである。形式主義とは他でもない、形式的なものを内容的なものだと主張する主張である。で、田辺博士の道徳的生乃至道徳が、内容的であり現実的である(それはやがて即物的だということになる)として自覚されるのは、却って夫が一種の形式主義に基いていることの証拠となることが可能なのである。否、今は単に可能に止まってはいなかった。吾々が見て来た処によれば現にそういう形式主義が横たわっていたのである。それが形式主義であったればこそ、博士は唯物論を斥けようとしたのであった――即物主義。この形式主義が例の道徳主義の本質である。実践の非実践化はだから、実践の形式化から結果したわけである。だからこそ「道徳的実践」の概念は物質的な実践の概念ではあり得なかったのだ。
形式主義は併し、いつも何かの形態の形而上学へ導くものである。質料から離れた形式(形相=エイドス)が、それだけとして自己感応することが形式主義であるが、質料=物質から離れて形式だけが自己感応して出来上ったと考えられる永遠不変な関係の固定的・静的世界が、吾々によれば形而上の世界であり、こういう形而上の世界にとって独特な論理の上に立った理論が、吾々によれば形而上学である。マルクス主義に於ては形而上学とは第一にこのような静止固定の範疇体系を意味している。であるから、形式主義(道徳主義)的な道徳的実践を地盤とし、之を生と論理との媒介としなければならない田辺哲学は、その形式主義から規定される限り、当然一つの形而上学の性格をとらなければならない必然性があったということが判る。単に、田辺博士自身がその哲学を、哲学としての哲学という意味で形而上学と呼んでいるからではなく、之と原理上連関しているのではあるが、又吾々の今云った意味に於ても、田辺哲学は形而上学の形を採用せざるを得ない。
前に私が、田辺博士の性格に於て、道徳的実践が形而上学への鞭となると云った予言は、ここに応えられたわけである。
だがどういう形而上学に田辺哲学はなるのであるか。それは、田辺博士の性格に於て、道徳的反省が形而上学への鞭となると云った、あのもう一つの性格悲劇を物語ることになる。
田辺博士にとっては道徳的反省は反省の根本的な特色であるように見える。論理的な又は理論的な反省は個人人格という真の主観に於て行なわれなければならない限り、終局に於て道徳的反省に帰着しなければならない。反省には無論色々の段階があって、単なる所謂反省(悟性による反省)と、反省の反省としての絶対反省とは、区別されなければならないが、単なる反省としての反省はなおまだ抽象的な反省であって本当の即ち又具体的な反省ではない、そう弁証法家である田辺博士は説明する。本当の具体的な、従って絶対的な、反省こそ、反省の反省としての絶対反省だと云うのである。さて反省がここまで来ると、それは自覚の問題となる。処で前にも触れたように、この自覚というものが本来の性格から云って道徳的自覚に帰着することを注意しておかなくてはならない。
反省乃至自覚はだから、田辺哲学の道徳主義から云って、最も根柢的な内容であると共に、田辺哲学の出発点でなければならぬ。だが反省乃至自覚ということは、田辺博士によると主観と客観との絶対的な公約すべからざる対立を想定することであり、而も(之は後々大事な点であるが)主観と客観との同時的成立を仮定した上での対立を想定することである。時間的に云って主観と客観とどちらが先だということはない、否、二つのものの関係が時間的にどうこういうことは、主観と客観との対立によっては全く見当違いな問題である。田辺哲学はそういう意味に於て主客を同時的成立の条件の下に対立させる。読者はこの点を記憶しておいて欲しい。
で、こういう主観と客観とが絶対的に独立的に対立することによって、真の反省乃至自覚は成り立つ。元来反省とか自覚とかは、主観の自己省察であり自己意識であるのだが、それが一面的な抽象性を免れて自らを全体性にまで高め、そうやって自らを具体的に反省し意識するためには、この主観とは全く別な而も之と絶対的に対立した客観を、主観自身の媒介物=手段としなければならない。主観は却って客観に於て自己を見出すのでなければならぬ。こうやって初めて主観は主観としての本来の全体性を(だが与えられた全体性をでなく、否定の否定という絶対否定態によって反射的・反省的に求められる全体性を)、自覚することが出来、それは又同時に客観が主観のこの自覚の媒介=手段となることによって、客観本来の個体性を定立することになる。こうして主観と客観とを同時に、双関的に活かす唯一個の作用が、本当の反省乃至自覚だと博士は考える。博士の主観・客観の同時存在的対立の仮定からすれば、正にそうなければなるまい。だがその点は後にして、さし当っての問題はその次にある。
と云うのは、主観と客観との、反省乃至自覚の名に於けるこの対立の統一関係に初めて、田辺博士によれば弁証法がなり立つと云うのである。弁証法は単なる主観に於ても、況んや単なる客観に於ても、成り立たない。そういう風には成り立たないということが弁証法の本質だというのである。主観だけですでに夫が成り立つと考えるものが観念弁証法であり、之に反して客観だけですでに夫が成り立つと考えるのが唯物弁証法だというのであり、両者は弁証法の抽象的な正と反とに過ぎないのであって、主客という二つの対立を統一するものである自覚の弁証法に至って、初めて弁証法は具体的・総合的・となると云うのである。絶対弁証法は自覚の弁証法としてしかない。博士は之を即物弁証法とも名づけている。
だが自覚を外にして弁証法はなく弁証法を外にして自覚はないと考えて来たわけだから、博士にとっては自覚と弁証法とは何も別のものではない、そうすれば自覚の弁証法とは取りも直さず弁証法の自覚のことである。吾々は弁証法そのものと弁証法の自覚(弁証法の概念・弁証法の意識)とを区別する必然的な理由を用意しているのであるが、田辺博士の自覚の弁証法である所謂即物弁証法は、吾々にとっては弁証法そのもののことではなくて弁証法の自覚のことでしかない。吾々は料理の代りにメニューを与えられたのである。吾々からすれば、そこに成立したものは弁証法ではなくして弁証法の意識であり、そこに与えられたものは弁証法自身の説明ではなくて弁証法の意識された意味の解釈でしかない。
こうした破目はどこから出て来たか。それは主観と客観との例の同時存在的対立の仮定から出て来る。一体主観は博士によれば勝義に於ては個人主体=個人主観であり、客観とは勝義に於てはまず第一に自然物でなければならぬ。ここで哲学者はものを常識的に考えることを思い出さなければならない、自然物である客観は、宇宙時間の上では、人間個人である主観よりも先に成立していたと、今日の自然科学は自然的に説明している。主観と客観という哲学的概念が、こういう日常的な自然物と人間個人との概念から蒸溜されて出来たものならば(それは歴史科学が多分説明を担当するだろう)、両者は決して同時存在的に対立するものではなかった筈だ。それが無条件に宇宙時間から逸脱して同時存在的な対立をすると考えるには、主観乃至客観から、現実的・日常的・常識的・な肉体性(Leibhaftigkeit)を剥ぎ取って、主客を云わば二枚の毛皮のようなものにして了う外はない。実際、カント学徒式な主観客観の概念は、二枚の平面のようなものの概念である。カント学徒である田辺博士(実践理性の優位!)にとって主観客観が、平行して向き合った二枚の鏡のようなものであることは不自然ではない。主体(Subjekt)という言葉が元来今日から云えば客観を意味したのに、今日では夫が主観になって了った、主体が主観とも客観とも考えられたということは、主観客観の概念の非主体性・平面性を証拠立てている(船山信一氏がこの点から田辺哲学の批評を企てているのは注目に値いする。「歴史・唯物論・弁証法」――『思想』〔一九三二年〕十二月号を見よ)。
で、主観でも客観でもない第三者としての自覚の弁証法は、主客が同時的成立による対立をするのでないと考えさえすれば、即ち所謂主観と所謂客観との対立という仮定を捨てさえすれば、もはやその必然性を失ってしまう。主体としての、肉体性をもった、質料的・唯物論的な、自然は、もはや所謂客観などというプロジェクションではないから、そこに於て弁証法の成立を拒まれる理由は、消滅する。自然弁証法の充分な意味は、こうして初めて明らかになるだろうと思う。自覚弁証法からは自然弁証法などというものは絶対に排斥されねばならないだろう。だから少なくとも自然弁証法だけから云っても、自覚弁証法を絶対的に排斥しなければならないわけである。弁証法の意識の代りに、弁証法そのものを掴み出そうとすれば、少なくとも主観と客観との同時的成立の仮定を捨てることが必要である。
所謂主観という平面と所謂客観という平面とを同時的に成立すると仮定する動機は併し、存在の意味上の連関を解釈しようとする企ての内に横たわる。認識目的はこの場合、存在の変更・変革にあるのではなくて、存在の解釈にある。だから、元来技術的な存在変革の用具として役立つべき、自然科学的・自然的・諸主体の範疇の代りに、所謂主体とか所謂客観とかいう哲学としての哲学の範疇から、田辺博士は事を始めるのである。博士は実践を地盤にして考えているから存在変革の精神を忘れないと云うかも知れないが、その実践が前に云った通り道徳的実践としての実践でしかなかったから、それは実践上の実践ではなくて解釈上の実践でしかなかった。そういうわけで自覚の弁証法なるものは解釈の哲学の止むを得ない帰結であったのである。
吾々は一般に解釈の哲学を観念論と呼ぶのであるが、解釈に於ては哲学は哲学としての哲学として、自己満足的な範疇の世界にまで、超越することが出来る。それが形而上学の世界なのである。解釈の哲学であるということが、即ち又その意味に於ける観念論だということが、吾々によれば形而上学の第二の規定である。
こういう第二の意味に於ける形而上学の建設へ、田辺博士がどんなに精力的に邁進しつつあるかは、一例として、先程発表された最近の長篇「図式時間から図式世界へ」(『哲学研究』〔一九三七年〕十一月号)を取れば、よく判るだろう。そこでは、認識の媒介者としてのカントの図式「時間」が、ハイデッガーのカント解釈を通過することによって、結局、形而上学的存在の図式としての「世界」にまで、組織的に引き上げられる。こういう世界とは、外でもない存在の解釈の組織界なのである。図式は形而上学の範疇と認められる、と博士自身云っているのである。
さてこうやって、前に述べた博士に於ける性格悲劇・道徳的反省が如何に博士を形而上学へ鞭打たねばならぬかという点が、見られたことと思う。その形而上学の形而上学である所以は、正に夫が観念論だということ自身の内に横たわる。博士の「哲学通論」は、そこで、哲学が生の反省の学・生の自覚の学であらねばならぬ限り、凡ての哲学は観念論だと道破している。
私は何か、田辺博士の個人的な性格からその哲学の形而上学としての諸特色を説明したかのようであるが、併し私の企ては無論そこにあるべきものではなかった。却って田辺哲学の所謂個性とも考えて好いだろう例の一種の道徳主義が、実は田辺博士自身の性格的個性から説明されてだけ済むものではなくて、今日一定の歴史社会的必然性から生じて来つつある処の観念論の進軍の、特殊な一部隊として編制されているものだ、ということを示すことこそ、私の目的であった。性格による説明を通るというような手続きを取ったのは、そうすることによって却って初めて、田辺哲学をブルジョア・イデオロギーの必然的な一環として具体的に嵌めこむことが出来るようになると考えたからである。
田辺哲学の歴史的社会的等価関係を、こうして決定して行くことが、初めて批判となるわけであるが、その仕事は次の機会に譲らなければならない。私は今、ただ「田辺哲学」の成立を祝福する段階に止まっているに過ぎない。――だが最後に一つのことを付け加えておくことが必要である。哲学者としての田辺教授は、道徳主義者であることによって、形式主義者・解釈哲学者であり、それ故にこそ形而上学者・観念論者であった、だが之に反して、啓蒙家としての教授は、なおまだ依然として唯物論の友である、ということを。今日のわが国のような迷妄主義が時を得顔に横行している社会情勢は、さすがの観念哲学者田辺教授をしてさえ、唯物論の比類のない効力を切実に感じさせずには措かない。
殆んど無にも等しく稀な例外を除けば、今日のソヴェート同盟(又はソヴェート連邦)の哲学は、マルクス主義の哲学である。ブルジョア諸国家の公認非公認の哲学が形式上の大勢から云って結局色々な形の観念論にぞくしているに反して、そして観念論相互の間には収拾すべからざる異同があって何の統一も見出し得ないに反して、ここではただ一つの唯物弁証法=弁証法的唯物論の哲学だけが支配している。
マルクス主義哲学と呼ばれるものに実は色々の種類があり、その最も正統的なものだけが唯物弁証法の哲学なのである。このただ一つの唯物弁証法の哲学だけがソヴェート同盟で支配しているということは、決して、ブルジョア学者達が懼れるように哲学の自由な研究を妨げられるということを意味しない。日本の或る教授が歎いているような「思想のアナーキー」がないということであって、哲学はそうやってこそ本当に自由に統一ある発達を遂げることが出来る。唯物弁証法の哲学というたった一つの哲学しかないと云えばブルジョア学者達は、もうそれで哲学の進歩や発展がないかのように考えるかも知れないが、それは唯物弁証法がすでに出来上って了った公式の上でいつも足踏みしていると仮定するからであって、進歩しないものだと仮定しているから進歩出来ないものだと考えたくなるまでである。
実際は、ソヴェートに於ける唯物弁証法の哲学は歴史的に見て、質的進歩と系統的発達との一定の段階を辿りつつある。実は唯物弁証法という概念も、それだけでは今ではあまりに一般的に過ぎる抽象的な概念でしかないとさえ考えて好い位いなのである。ソヴェートに於けるマルクス主義が云わばマルクス・エンゲルス的段階から、レーニン的段階にまで具体化されたと云われる通り、マルクス主義の哲学である唯物弁証法も亦、様々な歴史的偏向を遍歴した後に、今日ではレーニン的段階にまで具体化された。
この様に哲学が統一ある統制を保ちながら、而もそれ故にこそ一定の客観的に明白な進歩をなし得るということが、ソヴェート哲学を他のブルジョア諸国の支配的な哲学から区別する著しい特徴である。ここでは、丁度自然科学に於て、すでに決定された理論上の諸結果へ客観的な理由なくして舞い戻ることが許されないように、理論の歴史的な歩みをフイにして過去の任意の理論の前進面から出発することなどは許されない。それ程進歩の足跡は歴然と記録されているのである。哲学のこの意味に於ける科学性は全く、ソヴェートに於ける科学的社会主義の建設の一環として、哲学が政治的実践的な標尺に沿うて動いていることの結果に外ならない。そしてここにこそソヴェート哲学の本当の創造性――スターリンは創造的マルクス主義を独断的マルクス主義から区別する――が横たわっている。思弁的煩瑣や空想的な思い付きではなくて、本当に科学的な必然的な客観的な独創性が横たわっているのである。
ソヴェート哲学が社会主義的諸計画――経済的・政治的・文化的――の一環として機能せねばならず又現にしつつある、ということから見て、ブルジョア哲学者の或る者が信じているような独立自存な哲学として哲学ともいうべきものがあり得ないことは、云うまでもない。無論哲学は他の哲学ならぬものから――例えば特に諸特殊科学から――指導的理論として一応は区別されねばならないが、それは社会主義建設を指導するための理論だからであって、社会主義建設から独立した理論だからなのではない。哲学は諸特殊科学の指導理論であるが、それであるが故にそれだけ諸特殊科学の内容へその根を張らねばならぬ。特殊科学はそして社会主義建設のための技術を提供すべきものなのである。この意味に於て、ソヴェート哲学こそは、本当に生命ある一切の内容に浸徹する世界観だと云わねばなるまい。
ソヴェート哲学の最初の建設者を吾々は何と云ってもG・プレハーノフに求めなければならないだろう(彼が今日のロシアの共産党の萌芽である「労働解放団」の組織者の最も有力な一人であったことは興味のあることだ)。彼はその弾性ある独創的な理解力によって、夙にヘーゲルの哲学に私淑し、ここからマルクス主義の哲学的正統が唯物弁証法になければならない事を確実に見て取り、ベルンシュタイン等のマルクス主義修正派に対抗して唯物弁証法の展開を促進し、かくて今日のソヴェート哲学への第一歩を固めたのである。プレハーノフから多くのものを学んだレーニンはだから、プレハーノフの書物を悉く学ぶのでなければマルクス主義を真に理解することは出来ないと云っている。
彼は後にメンシェヴィーキに投じ(一九〇三年)、欧州大戦に際しては極端な社会愛国主義者とさえなったが、そのソヴェート哲学・マルクス主義哲学の歴史に於ける功績は永久に没することが出来ない。だがその政治的見解の動揺が暗示しているように、彼の哲学は今から見れば決してまた今日の意味では充分にマルクス主義的ではなかった。と云うのは、プレハーノフはマッハ主義者に対する批判(之はレーニンと共同戦線を張ったものである)に於て、レーニンがすでに問題として取り上げたような認識論の問題を充分に解明していない。彼はカント主義者やヒューム主義者の認識論上の思想を、訂正する代りに簡単に否定して了っているのである。そこではだから弁証法の問題が充分に力を入れられなかったのは当然である(『マルクス主義の根本問題』・一九〇八年を見よ)。マルクス主義哲学を今日の形の唯物弁証法にまで深化したのはレーニンその人であった。
人の知る通り弁証法をその普遍的な通用性にまで高めた人はヘーゲルであったが、之を唯物弁証法の正しい軌道に乗せたのはマルクスとエンゲルスとであった。併し之を更に政治的実践に沿うて活用し、従ってそれだけ又之を深化したのはレーニンである。レーニンは何よりも先に卓越した政治的実践家、革命家だと考えられているが、それに劣らず卓越した哲学者でもあったことを忘れてはならぬ。それはすでにその『唯物論と経験批判論』(一九〇九年)――之はボグダーノフ等党内のマッハ主義者を克服するための哲学的論争書であるが――によって一般的に承認されてはいたが、近頃ソヴェートで出版されているレーニンの『哲学ノート』によって、哲学者としてのレーニンの実質的な価値が遺憾なく認められるようになった(『レーニンの哲学的遺産』を見よ)。今では代表的なブルジョア哲学史と雖も哲学者としてのレーニンの独自な意義を承認している(エルトマン『哲学史要』・新版を見よ)。
レーニンの頭脳の主観の内ではすでにマルクス主義哲学は所謂レーニン的段階にまで進められていたのであるが、それがソヴェート哲学全体にまで押し及ぼされるまでには、彼の死後なお六、七年を必要とした。この六、七年の間にソヴェート哲学は二つの段階を乗り越えねばならなかったのである。
レーニンが死んだ一九二四年末以来、ソヴェートに於ける弁証法的唯物論は、機械論的唯物論との論争に、その主な精力を集中しなければならなかった。党機関紙『プラウダ』の主筆であったステパーノフ、アクセリロート女史、サラビヤーノフ、A・チミリャーゼフ、ヴァリヤシュ等は、唯物弁証法の名の下に、実は機械論的唯物論を奉じ、そして「国立チミリャーゼフ科学研究所」の自然科学者達の多くが之を支持したが、之に対して「戦闘的唯物論者協会」(後に「戦闘的唯物弁証法論者協会」と改称した)に立て籠ったデボーリン一派(デボーリン、カーレフ、ルッポル、ステン、バンメル、ボドヴォロツキー、アスクス、ユリネッツ、アゴル、ヘッセン、ストリャーロフ、ラズモフスキー等)は、みずから唯物弁証法の正統に立つものとして、之等機械論者の誤謬を指摘することに努めた(デボーリン『弁証法と自然科学』を見よ)。
元来自然科学者達が支持していたこの機械論は自然科学――一般に特殊科学――に対する哲学の原理的な指導性を認めようとしない。哲学は特殊科学に於ける経験的・実証的研究乃至材料の内から原理的なるものを取り出し、之を特殊科学自身の方法にまで高めることによって、特殊科学を促進すべき用具でなければならないのに、機械論者は哲学のこうした弁証法的機能を理解し得なかった。そうするとこれは哲学の否定へしか導かない。だが哲学の否定は特殊科学自身の貧困と困難をしか結果しないのは当然だろう。哲学者達が陥った機械論自身の誤謬そのものがこの困難に他ならない。なぜなら機械論は、現代の国際的な自然科学の進歩の結果として、事実もはや通用しなくなっているからである。生物学では夫は生気説に撞着するし、物理学では不決定論に対立して了う。そしてこの撞着・対立を機械論に止まる限りどうしても脱却することは出来ないのである。
弁証法を機械論的に理解すると均衡理論になるのであるが、均衡理論による社会科学は、マルクス主義――コンミュニズム――の根本的な諸規定と全く矛盾して来る。それは例えば階級闘争の代りに国際的戦争や対自然の技術的闘争だけを社会主義の必然的な行程だと考えるブハーリンの右翼的偏向の如きものを結果するのである(『マルクス主義の旗の下に』に於けるルーダス等の諸論文を見よ)。
機械論に於けるこうした困難、特殊科学的認識の実質的な前進に対する哲学の立ち後れは、デボーリン一派の批判に耐えかねて、次第に克服されざるを得なかった。多くの機械論者は「失脚」するか唯物弁証法の承認を誓約するかしたのである。一九二九年四月の第二回全同盟マルクス・レーニン主義科学機関会議を決算期として、機械論は大勢から云って殆んど全く克服され終ったと見て好いだろう(共産主義アカデミー編『マルクス主義哲学の現段階』を見よ)。
だがすぐ様、更に一九三〇年を境として、ソヴェート哲学は新しい段階に這入る。デボーリン等が機械論に対する批判は実はまだ決して至れり尽せるものではなかったのである。なぜならデボーリン等自身の所謂弁証法的唯物論が或る意味に於ける欠点を暴露されて来たからである。
前に云ったように、機械論の一つの根本特色は特殊科学の他に特に普遍的な哲学の成立を認めないことにあったが、そしてデボーリン一派は哲学のかかる機械論的な否定に対して戦ったのであったが、併しデボーリン一派のこの態度から、一つの重大な弊害として、哲学の形式主義化が始まったのである。
デボーリン等の所謂哲学指導部等は、その数多い哲学史的労作――唯物論史・ギリシア哲学の研究・ヘーゲル研究等々――にも拘らず、ソヴェート同盟の社会主義建設の線から離れて、政治的機能から独立なアカデミー的書斎学派をなすに至った。デボーリン哲学のこうした社会的特色――非政治化――はそれ自身、唯物弁証法の非実践化であり、その限り又唯物弁証法自身の形式主義化となり、それは取りも直さずそれだけ弁証法の形式論理化を意味するわけである。だからその意味に於て、この哲学は弁証法的唯物論の論理化であり又煩瑣哲学化(スコラ哲学化)となる。
この特色の淵源する処は併し、決して浅くはない。元来プレハーノフの優れた弟子であるデボーリンは、甚だ強くプレハーノフ主義的影響を受けているのであって(プレハーノフの有つ制限に就いては前にも触れた)、プレハーノフを通ってフォイエルバハの過大評価に、又プレハーノフ的ヘーゲル解釈に通じている。彼の優れたヘーゲル解釈も要するに、一種の「ヘーゲル主義」――ブルジョア哲学では今日之が全盛である――に帰着すると考えられる。このプレハーノフ主義は当然、レーニン主義の価値を充分に承認することが出来ない。なぜならレーニンはあたかも夙くからプレハーノフに対する批判を用意していた人だったからである。それでデボーリンの哲学史的欠陥は、レーニン主義・レーニン哲学に対する彼の過小評価の内に横たわるということになる。この過小評価が今日では現に不当であるということを吾々はすでに述べておいた。
デボーリン派の唯物弁証法は、こうした意味に於て、まだ哲学のレーニン的段階にまで到達していない。一般にレーニン的段階は文化の党派性――それは最も具体的な階級性だ――の強調にあるとすれば、デボーリン一派は哲学の党派性を充分に承認し得ないわけである。実際夫は、党の政治的活動――社会主義建設――に参加する用意を怠っていた、凡てはそこから始まったのである。この回避的な右翼的日和見主義の故に、遂にデボーリン一派は「赤色教授学院」細胞ビューローとスターリンとによって(一九三〇年十二月)、メンシェヴィーキ化しつつある観念論と銘打たれたのである。
デボーリン自身がぞくしている「戦闘的唯物弁証法論者協会」と「共産主義アカデミー」にぞくする「哲学研究所」との合同会議(一九三〇年四月)に於て、「戦闘的無神論者同盟」のヤロスラフスキーやチモスコ、マキシモフ、ドミトリエフ等は、デボーリン反対の烽火を挙げ、ミーチン等は『プラウダ』に於てデボーリン批判論文を掲げた。之に対してデボーリン一派は『マルクス主義の旗の下に』に拠って応酬したが、遂に敵することが出来ず、一九三一年一月、党中央委員会の決議によってデボーリン一派の誤謬が指摘されるに至った。そして四月には「戦闘的唯物弁証法論者協会」自身この決議を支持したのである。この決議によって同時に、従来デボーリンを責任編集者としていた『マルクス主義の旗の下に』も、その編集組織と構成員とを変更され、新たにアドラツキー(之は「レーニン研究所」及び「マルクス・エンゲルス研究所」の所長である)、ミーチン、数学者コルマン、ユージンが編集者に加えられ、ステンは除名され、責任編集者が無くなってデボーリンは物理学者マキシモフ、ポクロフスキー、チミリャーゼフと共に単なる編集者として残されることになった(『マルクス主義の旗の下に』日本版一七号を見よ)。
ソヴェート哲学は、機械論の克服と形式論の克服との二つの段階を通過することによって、初めてレーニン的段階に、云わば哲学のボルシェヴィーキ化の段階に、到達することが出来た。人々はこの哲学の多難な歴史からも、マルクス主義哲学・弁証法的唯物論が、否レーニン主義哲学さえが、固定した独断ではなくて如何に絶えざる創造の旅を辿っているかを見ることが出来るだろう。それと共に又ソヴェートの哲学が如何に科学的な節度を以て必然的な併し又躍進的な進歩を持たねばならなかったか、又現にそれを如何に持ちつつあるかを見るべきである。
ではソヴェート同盟の哲学は今後どういう形態で展開して行くだろうか。恐らくは新しく獲得され具体化された方針に従って、より方法的により組織的に、そして――之が大事である――より容易に、哲学的諸問題を解決し又発見して行くだろう。夫は資本主義国のブルジョア哲学が解き得なかった問題を解いて行くことが出来るだろう。
だが吾々はソヴェート哲学の将来に於いて、好奇心から興味を有つべきではない。吾々にとって主体的な課題は、吾々の哲学がどうならねばならぬかである。ソヴェート哲学は国際的プロレタリアの哲学である。吾々の歴史的社会的に必然的な部署に沿うて如何に之を主体化するかに、吾々は思いをめぐらさねばならない。そうしなければマルクス主義哲学は、唯物弁証法の哲学は、死んだドグマとなるだろう。そこでソヴェート同盟の哲学は、仮にまだ充分に諸問題を占有してはいないにしても、吾々にとって至極尊重すべき模範とならないだろうか。
この文章は友人某氏による材料に基く点が少なくない。
[#改ページ]哲学というものを早く理解するには「哲学概論」という名のつく入門書を読めば良いと、世間では考えているようである。なる程その通りで、入門書として理想的な哲学概論がもしあるなら、之を読むのが一等好いだろう。
だが、不幸にして理想的な入門書としての哲学概論は事実存在しないし、又或る意味では存在出来ない。多少信頼するに足りるような客観的な立場から書いたものには、特色が最も欠けているし(桑木厳翼博士『哲学概論』の如き)、又最も特色のある独自の体系を述べたものには、偏狭なものが非常に多い(紀平正美博士『哲学概論』の如き)。それから、独自な体系に基いて而も客観的な立場に立つような哲学の叙述はもはや哲学概論というような入門書に止まることは出来ずに、一種の本格的な研究書にならざるを得ない(田辺元博士――「哲学通論」――岩波講座『哲学』の内――の如き)。元来哲学概論は哲学史の要約であり改編であって、その限り哲学自身の自己研究なのだが、実をいうとそういう研究は入門書には盛り切れないのである。
だから哲学の個々の内容を具体的に而も相当一般的に知るための、何よりもの入門書は、本来は哲学史自身だとさえ云わねばならぬ。
私は併し今ここで哲学史の要約というような、極めて重大な仕事を企てようとは考えない。私は寧ろ哲学のごく形式的な諸要点に就いて、単に私見を述べてみたいと思うだけだ。それは、案外その方が、哲学入門として役立つかも知れないと思うからである。所謂哲学概論や哲学史やの教科書は一種の辞引として参考書の役には立つが、それだけでは必ずしも哲学の精神や手口を伝えるものではないだろう。
人間は哲学をどういう動機から持つようになったか、又は、どういう動機から哲学者が生じたか。ギリシアの哲学者自身がこの動機を驚異に置いたことはよく知られている。驚異は、人間の実際生活の利害関係から離れて事物そのものが有態に有っている価値を玩味することである。空の星も人間の道徳も、驚異に値いすればこそ、哲学的に研究される動機を有つのだと考えられる。――だがよく考えて見ると、本当に吾々人間の実際生活に現実的な関係のない事物は、元来吾々人間の注意を惹くことは出来ないだろうから、驚異と云っても本当は利害関係と独立なのではない。却って、その利害関係があまりにも普遍的で凡ゆる場合に浸潤している結果、とり立てて特に利害として意識されないような利害が、「驚異」の対象として選ばれるに過ぎないのである。
星や太陽の運行や変化は、沙漠の旅や航海や耕作生活にとって、一時として忽せに出来ないものであるからこそ、人間に不可思議感をも催させるわけであり、又之と全く同じことが、道徳感に就いてならばもっとハッキリと言えるだろう。ただこうしたものは、あまりに普遍的で凡ゆる場合に浸み渡った利害であるために、この利害を確実に打算するためには、却って部分的にしか影響しないような特殊な「利害」は之を超克しなければならないわけで、そこに実際的な――実践的な――生活から一応離れたように見える哲学的理論の世界が出現すると考えられるようになるのである。
だが、哲学の理論は、それが出て来た動機から云って、現実生活の利害を離れることが目的であってはならなかったので、却って現実生活の総利害を、大きく大局から統一する必要から出て来たのだから、哲学の動機は、実際生活自身の組織的な整理進展という処にあると云う他ない。理論の本当の動機は実践にあるので、所謂驚異は単に、この動機を壮厳に見せるためのゴシックの尖塔や、この動機をアトラクティヴにするためのショーウィンドウのようなものに対する、気分にすぎないのである。
哲学的理論は客観的でなければならないということは誰でも知っているが、この言葉自身は都合によってはどうでも解釈が出来る。例えば相対立する二つの立場に対して、そのどれにも党派的に加担しないということが客観的なことだという考えがよくあるが、もしそうだとすれば、実はそういう第三の第三者の立場自身にも加担しないことこそ客観的な筈だ。二つの対立する立場の銘々の云い分には大抵夫々相当の理由があるのが常で、単純に一方に無条件に加担することは常道ではないが、そうかと云って、二つの他に、いつでも中立の立場が必ずあるものだと決めてかかったり、又いつでも二つの立場の所謂「長を取り短を捨てる」ことが出来るものだと思ったりすることは、哲学的理論の客観性が何物であるかを知らない輩の迷信である。
譬えて云えば、オリンピヤの闘技場で、観覧席にいて競技を見ているものは、丁度之を「客観」している人達になるわけだが、彼等自身は競技に参加していない処の人間に他ならない。ギリシア人は神前の競技を神と共に見ることを「理論」という言葉で云い表わしたが、もしこういう意味のことが理論の「客観性」ならば、理論こそ却って正に非客観的である必要があるとさえ主張しなければなるまい。人間の実際生活の実践的要求というのは、自然を征服するための自然との闘技に於て、是非とも勝たなければならない当事者の要求であって、そこから哲学的理論が生れて来るのだったら、理論は観衆のものではなくて、いつも当の競技者自身のものでなくてはならぬ。
客観性というものは、二人の競走者を眺めながら「公平」な判断を下すことから生じるのではなくて、自分自身がトラックに降り立って、競争相手を走り抜けることから生じて来るのである。或いは、その相手を之やあれの「人間」と考える代りに、一般に自然と呼んでいいような客観物と考えた場合に、理論の客観性というものが生じるのである。或いは、自然という客観物をば相手の人間と競争して戦い取る時に理論の客観性が得られるのだと云ってもいい。
観覧席では驚異したり驚嘆したりしていても済むが、当事者は驚異や驚嘆などしていては負けて了うだろう。客観性を取り逃してしまうだろう。実際の実行者であり実践者である当事者にとっては、驚異よりも寧ろ現実的な欲望が哲学的理論への動機なのだが、この欲望が旺盛であればある程、哲学的理論は真理に対して情熱的になるわけで、それだけ哲学的理論は生きた理想を有って来るわけである。実際的利害を大局から大きく纏めれば纏める程、即ち態度が本当に現実的であればある程、哲学理論は理想的になるのである。
所謂理想主義というのは然るに、実際生活の利害を何等纏める努力を払わずに、而も勝手に或る利益を期待する処の虫の良い理論のことであり、之に対して、所謂現実主義とは、現実的利害を纏めるのに小さく眼先きのことに就いてしか纏めることを知らないケチな哲学理論のことである。「唯物論」は之に反して現実生活の普遍的な大きな利害を最も忠実に纏める処の、最も徹底した現実主義であり、而もその結果から云うと又最も具体的な理想主義者でもある、と云うことが出来る。
哲学的理論が客観性を得るためには、理論への動機が驚異などにあっては都合が悪いので、客観的真理――存在とか自然とか――に肉迫する当事者自身の実行過程の内に実は客観性の素質があるのであって、それが本当に客観的であったかなかったかは、無論、如何にこの客観的真理を多く深く物にしたかで判るわけだが、併し哲学者と哲学理論とは数から云っていくつもあるから、この点を利用して、どの理論の立場が優れているかを、夫々に就いて比較すれば、客観性の最も手近かな相対的な標準が発見されるだろう。即ち多数の哲学者やその哲学理論の銘々がもつ立場と立場とを較べて見て、この主観同志の対立によって却って理論の客観性を実際的に判定することが出来るのである。
理論の客観性は、元来、この言葉が示す通り、客観物への接近、客観物へ次第に似て来ること、客観物との一致(模写)ということに外ならないのではあるが、併しこの客観性の程度を実際的に決めるには、幾つかの主観がもつ諸理論の間に、比較研究を施すのが一等手近かで又頼りになるので、理論の客観性という問題は、理解する主観同志の対立関係に結び付いた時初めて、実際問題となるのである。
で哲学の所謂党派性や階級性と、理論の客観性との関係は、何より先にこういう実際問題としてあるのであって、従って現在の哲学の歴史的与件、例えば夫がある一定の階級とか党派とかに事実ぞくしているものだという歴史的事実、がこの際大切だ。ここでは只の抽象的な原則が問題ではないのである。
併し、幾つもの哲学理論の比較研究をすると云っても、もし理論が驚異に立脚するものならば、銘々は勝手に驚異したいものを驚異していれば良いわけで、それは云わば趣味の問題に帰着するだろう。これではお互いに承認出来るような優劣の決定は下されまい。処が哲学理論は元来が実際問題から生じて来たのだから、いつでも実践に対して負債を支払わなければならないのであって、ここでも実践が理論の客観性の判定者となって現われるのである。
尤も実践で理論の良し悪しを判定するのだというと、往々滑稽な思い過しを招くかも知れない。理論自身が初めから混迷しているために判らないのを、理論ではもはや解決がつかないものだと考えて、それでは実践に訴えろと云うような場合が能く見受けられるが、そういう無能な理論のお守りをしなければならない実践こそいい迷惑である。
実は、理論の代りに実践が出て来て決裁を与えるのではなくて、第一に理論そのものを理論としてよく実践し、それから、経験とか事実とかいうものと接触する感性をして充分に実践的用具の機能を発揮させ、それから、そういう理論と所謂「実践」との相関関係を経験に立脚してよく見極め、そうした上で理論を押し進めるならば、それが取りも直さず、理論が実践によって判定されたという結果を伴うのだ。理論で困ってから出て来た実践ではもう遅いので、理論が初めから、実践という環境に包まれて呼吸していたのでなければならぬ。理論の動機が実践であり、理論の形態が一つの実践であり、理論の手段として一種の実践手段が用いられ、理論の環境が実践であったが故に、初めて、実践が理論の客観性の実際的な決定者となるのである。
で、こういう実践とか実際生活とかによって、人間という主観がもつ処の理論の客観性が判定される、即ち保証されるのである。人間が事実上、社会階級を形成し又政治的党派を結成しているなら、この階級生活や党派生活が彼等の実際生活の特徴になるわけで、こういう実際生活が動機となっている処の、従って夫によって実際的にその客観性が判定出来る処の、哲学的理論も亦、その際は階級的となり党派的となるのである。
処でギリシアの哲学者達が、哲学の動機の他に、哲学研究の社会的条件を考慮していることは注意に値いする。それによると哲学は余暇の産物だというのである。之は哲学の動機をば実際利害を超越した驚異に置いたことと全く一致する考え方であって、その点からすれば至極尤もな考えと云ってもいいのだが、併し当時余暇を有つことの出来た人間は凡て奴隷所有階級にぞくしていたという点を注意すべきで、当時のこの社会階級関係を抜きにしてはこの言葉は無意味になるのである。
本当に哲学が余暇の産物ならば、この際哲学は奴隷所有者の文化的産物でなければならぬということになろう。或いは一般的に云い直して、少なくとも支配者の独占物であるイデオロギーだということになるだろう。
なる程人間は、運動したり労働したりして身体を労している瞬間には、本も読めないし思考や経験を纏めることも出来ない。あまり生活に逐われていては、ユックリ考える暇もないだろう。静かな自由な時間がなければ理論的な仕事は出来ない。けれども又、逆に考えて、少しも働く仕事がなかったり働く必要がなかったりすれば、どんなに暇があっても、理論的な仕事をする必要も生じなければ又その気にもなれない、ということも同様に本当なのだ。
一般に暇な有閑階級の余暇というのは、実際生活の必要性を感じない瞬間ということで、この瞬間には元来何の哲学の必要もない筈である。処が本当の余暇というのは、生活の必要性を大局に立って統一的に充たして行くだけの自由な時間を意味すべきもので、従って哲学が健全に育つ環境は、只の余暇ではなくて、云わば忙中の余暇でしかあり得ないだろう。
哲学が実際生活を指導する用具でなくて、生活のただの表現や只の所産であるなら別だが、もしそうでないとすれば、暇な社会階級は実は意味のある哲学を本当には有てないわけで、仮に夫をもっているとすれば、それは社会全体の需要から見てごく不完全な不経済な哲学でしかないだろう。本当の哲学は多忙な階級によって多忙の中からこそ、産み出される。今日、無産者の哲学はこういう理由から、真理への情熱と理想とに最も富んだ理論を提供しているのである。
だが、どんなに多忙だと云っても、無暗に多忙で全く余暇がないなら、哲学の必要そのものが押しつぶされて了うわけで、それは恰度、極度に圧迫された人間が圧迫に対して一等卑屈であるのと全く同じ現象であるので、今日の無産者の哲学が、無産者の或る程度の経済的・政治的・社会的自由と平行して初めて存在し得るのだという事実を見落してはならない。或いは、無産者の哲学は、やがて無産者自由の政治的運動という形を取って現われるという事実を見落してはならない。
哲学が自分の発生の動機に対してあくまで忠実であり、又自分が呼吸する環境に対してあくまで生きた交互作用を持つために、即ち哲学の理論が自分自身の生命を活かして旺盛にして行くために、実際生活に対する負債を支払うべく実践以外の手段を有っていないということは、以上述べた通りであるが、実際生活と云っても、実践生活と云っても、それだけでは一向抽象的で内容が確定していないだろう。
併し実際生活乃至実践生活は、少なくとも産業を抜きにしては物質的な内容を殆んど失って了う。そしてこの際産業の中でも特に物質的な生産技術に注意を払わなくてはならぬ。だから、実際生活の必要から生れてあくまで之に忠実な本当の哲学は、自分と産業乃至技術との関係をはっきりさせないと、自分自身が判らなくなるだろう。
所謂観念論哲学は、一般に実際生活と呼ばれているものに対して、結局無頓着であるばかりではなく、産業や技術からは積極的に絶縁さえしようと希望している。産業や技術は、物質文明や福利厚生の根柢にはなるが、恰もそういう実際生活の利害からこそ哲学は超越しなければならぬという、だからそうした哲学は寧ろ産業や生産技術の反対側に立つものでしかないだろう。イデア・神の都・人間性・自由・理想・価値等々の合言葉の下に、有産者の観念哲学は、結局、産業と生産技術とに対する一般的な反感を示しているのである。
尤も、こうした哲学が実は却って、一定の産業組織や一定の技術独占者にとって保護され保証されているという事実は、全く現実的な実際問題なのだが、この種の哲学は之を気にかける必要を認めないのである。こういうものでも矢張り或る社会階級の現実的な利害に負債を支払うべく存在しているのだというなら、これも亦哲学の中に数えておかなくてはなるまい。
云うまでもなく産業や技術自身は少しも哲学ではない。又、産業や技術に就いての様々な心得が哲学だと云うのでもない。ヘンリー・フォードはブルジョア産業とブルジョア技術とのために、勤勉・努力・正直などのありとあらゆる「哲学」を説いており、遂には例の余暇の讃美にまで及んでいるが、本当に産業と生産技術との側に立つ哲学はそんなものではない。凡ゆる他の哲学と比較研究して見るとその客観性がよく判る今日の哲学である処の「唯物論」は、産業と生産技術とをわが物にした無産者の実際生活の利害を大局から大きく纏めたものであって、その纏め方の大きさにおのずからその客観性のスケールの大きさも出ているわけで、ブルジョアジーと雖もその真理を事実上は結局承認しなければならないような、哲学だと見受けられる。
実際生活の要求から発生しその要求にあくまで忠実であろうとする哲学は、云わば産業と技術とのために存在する処の哲学である。唯物論が社会自体の発展のために役立つ唯一の哲学である所以は、つまる処ここに横たわるのである。
哲学が実際生活の関心から発生する所以はすでに述べた。実際生活はそれ故、哲学にとって唯一の地盤をなしていると云っても云い過ぎではない。哲学が実際生活から縁遠く、或いは全然実際生活と無関係に見える時でさえ、実はそういうことこそが実際生活の或る要求から云って必要なのだということを見落してはならない。従来のブルジョア哲学で一等実際的な問題を取り扱うものと考えられるのは政治学*であるが、現代の代表的なブルジョア哲学の多くのものは、殆んど政治理論を無視して了って平気でいるのがその特色とさえなっている。処がそういう非実際主義自身が、社会機構の矛盾と支配関係に対する疑問とを封鎖しなければならぬ一部のブルジョアジーにとって、実際上必要なのであって、哲学者自身は夫を自覚しなくても、学の「純粋性」とか「客観性」とかいう外被の下に、世間が哲学に向かってそういう哲学態度を要求するのである。
* 政治学は今日でこそ法学関係の科学と考えられ、而も可なりわが国では虐待されている学問であるが、元来が一つの哲学の分科で、之こそ本当の実践哲学なのである。今日実践哲学と呼ばれるものは然るに大抵が倫理学のことなので、哲学者は大抵政治的な諸問題を倫理の問題に引き直して了う。そうした倫理主義は実際問題に対して観念論が最も好んで取りたがる態度である。
併し、実際生活を地盤とするものは無論決して哲学だけではない。人間の行動やその成果で実際生活を地盤としないものは一つもない。技術や経済や政治はそれ自身実際生活の内に数えられるとして、之を地盤とするものとしては道徳(倫理と呼んでもいい)や芸術やが、科学乃至学問と並べられねばならぬ。哲学はこの科学乃至学問の一つに過ぎないが、この科学乃至学問の内でも、哲学は所謂――狭義の――科学から区別されるのが習慣になっている。そうすれば哲学は道徳や芸術や他の諸科学などの文化と同様に実際生活をその地盤としながら、之を地盤とする仕方に於て、即ちこの地盤と哲学との連関の仕方に於て、他の文化現象と違ったものを持っている筈だ。併しこの哲学に特異な点を説明することは後にして、とにかく、哲学を初めとして、科学、芸術、道徳が実際生活を地盤とするということは、要するにこうした文化(その意味に於けるイデオロギー)が一括して、実際生活の上に構築された観念的な上層建築だということなのだが、それの共通な特色はまず第一に之が世界観に基いているという点に存する。
世界観には色々な資格があって、世界に対して人間が直接に感銘した処の漠然とした併し大体の輪郭の決った直観像という資格を有つこともあれば、それが科学や哲学或いは文芸さえの知識又は認識の組織を通じて一つの纏った体系にまで仕上げられたという資格を有つこともある。哲学にだけ就いて云えば、哲学の始めに与えられた見取図にもなれば、哲学が結果した結論にもなる。併し見取図にしろ結論にしろ、それが哲学的に考えることの眼前に与えられたという直接的な即ち直観的な位相にある時、世界観の名で呼ばれるのである。
処でこの世界観は他でもない人間の実際生活を、人間の経験の歴史を、直観的に要約したものなのである。単に一人の個人の生活経験の要約ばかりではなく、それをするためにもすでに必要なことだが、人類の歴史的経験の直観的要約が世界観なのである。でそうすれば、哲学が実際生活を地盤とするということは、もっと立ち入って哲学の側から云って見れば、哲学は世界観を地盤とするということに外ならない。世界観そのものが、実は実際生活に於ける一つの観念的な結晶であり、従って人間の生活の物質的与件を地盤とするものなのだが、哲学にとっては、哲学の側から云って(実際生活自身の側から云えば別に云い様はあるのだが)さし当りの最も手近かな地盤が、この世界観なのである。
世界観は一つの直観である、即ち世界に対する直観が世界観という言葉の意味である。だが人間の行動や認識は決して直観の段階に静止しているものではない。直観は直接的な与えられた状態を意味するにしても決して或る哲学者達の考えたような受動的なものを意味すべきではない。直観(感性的なもの)は実は行動の一つの必然的な属性であり、従って認識が直観から始まるということも認識が一種の行動・実践であるということを意味している。認識の端初をなすこの直観がこういう能動的な性質のものだとすれば、一般に直観がもっと具体的な認識にまで発展するのは、外から悟性とか理性とかが作用してそうなるのではなくて、云わば直観自身の力によって自分が認識にまで発展すると考えるべきだということになる。悟性とか理性とかは直観即ち感性が、人間の実践的行動を動機として、自分自身の能動性に基いて、発展し変質したものに他ならない。なる程夫が認識に於ける悟性や理性の段階に迄発展して了えば、直観はもはや直観の資格を失って、取りも直さず悟性や理性になるのだが、それは悟性や理性が直観とは別な源泉から出て来たことを意味するのではない(カントはそう考えないために一種の先天主義や二元論を脱し得なかったのだ)。だからこそ、一旦悟性や理性による段階にまで高められた認識も、それがすでに充分消化されたと考えられる場合には直ちに直観の資格を得るので実はそこから知的直観とか直観的悟性とかいう言葉も哲学史上に現われて来るのである。
さて、一般に直観が一般に認識に於て、こうした能動的な役割を果すとすれば、世界の直観である世界観も亦世界の認識に於て、こうした能動的役割を有つのは至極当然だということが判る。――世界観は哲学の地盤であった。併し之はただの土壌ではない。種子を孕んだ土壌である。そうでなければ地盤という名には値いしないだろう。世界観は哲学を産み又育てることが出来る筈であればこそ、地盤だったのだ。で世界観という地盤から、哲学にとって、問題が課せられるのである。世界観はまず第一に哲学の諸問題を提供する。
無論、哲学は抑々実際生活をその地盤とするのだったから、実際生活の一切のことが何かの形で問題にならなければならない筈だ。哲学にだけしか問題にならないようなものはないと同じに、哲学にとって問題にならなくても済むような、或いは哲学にとっては問題にすべきでないようなものは、実際生活の内には存在しない。だが問題は問題でも、どういう形で問題になるかということが問題なのである。初期のギリシア哲学は自然を問題にした。之に反してヘブライ=キリスト思想にぞくする哲学は人間の歴史を問題にした。処がギリシア人にとってもユダヤ乃至キリスト教徒にとっても、云うまでもなく歴史も自然も眼の前に存在していたのだから、ギリシア人が人間の歴史を何等の形ででも問題にしなかったとも考えられないし、又ユダヤ乃至キリスト教徒が自然を何かの形で問題にしなかったのだとも考えられない。要は彼等が銘々、夫々のものをどういう形で問題にしたかに帰着するので、哲学的な形としては、ギリシア人には自然が、キリスト教徒には人間の歴史が、問題となったのである。この際問題にそういう問題の立て方の形を与えるものが世界観なのである。即ち実際生活の諸問題に、夫を哲学的に解消し得る形を与えて、之を哲学に提供するものが、哲学の場合に於ける世界観の第一の役割なのである。その結果或る問題が問題になったりならなかったりするのである。
こうして世界観は哲学の地盤であり、従って哲学に一定形態の諸問題を課するものだ。併し一定の形を持った問題を課すということは、既に夫が解決し得る問題だということに他ならない。即ち夫を解決する方法がすでにその問題提出の形自身によって決っているのである。一定の問題は勝手な方法では解決出来る筈はないが、それではどうやってその方法を見出すかというと、問題は元来問題に過ぎないのであって問題解決の方法=手段ではないのだが、その問題が問題にされた形態が、云わば与えられた鍵の穴となって、一定の合鍵を要求しているのである。この意味に於て、問題は方法を決定するわけで、一定の世界観は一定形態の問題を提出することによって、問題解決の一定の方法を指示するのである。
だから、もし直覚的に一定の世界観が採用されれば一定の問題形態と一定の解決方法とが大体に於て決って来るわけで、観念論的世界観には観念論らしい哲学の問題と観念論らしい哲学の方法とが随伴し、唯物論的世界観には、唯物論らしい哲学の問題と方法とが随伴する。哲学の問題は処で一般的に云えば広い意味での存在なのだから、観念論的思想も唯物論的思想も銘々、世界観―存在論―方法論、という系列を有つので、大まかに云えば観想的世界観―観念論―形式論理、実践的世界観―唯物論―弁証法論理、と云った二つの系列に、哲学系統を分類することが出来るのである。尤も実際の場合の一つ一つが皆この方式にあて嵌まるというのではないが。
哲学の方法のことは次にして、ここでは哲学の諸問題に就いて述べることにしよう。
前に述べたように、哲学は正に実際問題の解決のためにこそ発生した、だからそのためにこそ夫は存在する。だから何等の問題をも解き得ないような哲学には存在理由はないのである。夫は当然なことであるが、併し実際には客観的に見て何等解決に値いしないような問題に力を入れている哲学も存在するので、抑々何が実際問題としての意義を持つかということが世界観乃至哲学、否生活そのものにとって根本問題なのである。哲学は問題の選択に際して充分に客観的に実際的でなくてはならぬ。だがこのことは哲学の問題が何か一定の「哲学的」なものに制限されていることを意味しはしない。単に「哲学的」と普通考えられている問題は、恐らく哲学専門家とも云うべき職業人の同職間に於てしか通用しないもののことで、そういう問題であっても、初めは何かの客観的な世間一般の必要から派生して来たものであるから、その解決は終局に於てそうした世間一般の必要問題の解決に技術的に寄与する筈の目的を持っていたのだが、夫が何時の間にか同職間の生活意識のおかげで問題形態が変転して来て、本来の目的から云って全く無意味な解決を結果して来ることが少なくない。そういう場合には哲学は何等実際問題を解決するものではなくなって了うのである。
で哲学は客観的に必要な実際問題の一切を解決する使命を持っている。だが一つ一つの問題をこの資格に就いて検査することは云う迄もなく不可能なことだから、哲学の諸問題を割合便宜的に分類するとすれば、大体、自然の問題、歴史社会の問題、思惟の問題、の三つに要約することが出来るだろう。この分類は機械的に強行することは許されないが、併し事実の客観的存在の三つの段階乃至分野に依るものだと云うことは出来る。
自然の問題は哲学的にはギリシアの技術家であるタレスによって初めて取り上げられたと云われている。ソフィスト・ソクラテス以前迄は主としてこの問題が自然哲学の名の下に伝承されたことは人の知る通りである。この自然哲学がアリストテレスによって集成され、それがアラビア哲学に伝えられ、欧州中世の闇黒を破ってルネサンスの自然哲学の基礎になったということも良く知られている。併し自然哲学にとって極めて重大な事件がガリレイの実験的な自然観によって用意された。と云うのは、そこから、後に自然哲学に対立するようになる処の自然科学が用意されたからである。尤もデカルトやライプニツでは、後世になって明らかになるような自然哲学と自然科学との対立などはないので、寧ろ数学的操作や実験やの結果が哲学者一流の思弁と混淆して彼等の自然哲学をなしていたのであるが、併しデカルトやライプニツの形而上学的神学的存在論(実体の議論)から、後に近世自然科学の最大の収穫となった運動量やエネルギーの不滅則の萌芽が発生して来たのである。之と並行してケプラーの詩人風な想像からニュートンの原則にまで発展した天体力学乃至動力学の発達や、力学の武器である微積分の建設などの事件が発生する。こうして自然哲学は自然科学を産み出したのである。
だが自然科学が一応独自の科学として存在するようになっても、之が完全に自然哲学の代理を務めるようにはまだならないのは勿論、自然科学が自然哲学とハッキリ区別される迄にも至らない。カントは自然科学と哲学とを合理的に分離した最初の人だと云われるが、彼に於ても自然哲学は不成立になって了ったものではない。そしてシェリングなどになると、実験的な科学的自然研究が一方に於て行なわれつつある際に、自然の統一的な認識の名の下に極めて典型的に思弁的な自然哲学を建設したのである。シェリングのロマン主義的自然解釈法は、ヘーゲルによって、理性乃至イデーの自己外化物としての自己発展として、自然に於ける弁証法として、受け継がれたのである。これを機会として自然科学は全く自然哲学と絶縁することとなり、ヘーゲルの自然哲学に対する自然科学側からの不信任は、ヘーゲル哲学全体に対する致命傷にさえなった。
自然の問題はもはや哲学の問題ではあり得ず、自然科学はその自然研究に於て何等の哲学(所謂形而上学)も必要でないと考えられた。この考え方は実証主義(之は経験主義・機械論・科学主義・等々となる)によって総括されるが、この実証主義それ自身が一つの哲学即ち形而上学であることはとに角として、哲学は自然に対しても、自然科学に対しても、即ち自然に対して直接にも間接にも、全く無力なものと考えられるようになったのである。所謂新カント派の批判主義はこの実証主義の主張に対抗して、哲学が、自然の問題に就いて云えば、自然科学の基礎づけ(方法論)を独立に与える資格を有っているという理由によって、哲学を自然科学の侵略から護ろうとしたが、その代償として、哲学が直接に――自然哲学というような形で――自然を問題とすることを厳重に戒めた。とに角批判主義によれば自然はあまり真面目に哲学の問題にはなし得ないのである。
併し今日と雖もブルジョア哲学者又はブルジョア哲学に立脚地を求める自然科学者の内に、自然哲学の建設を企てる者は少なくない。それに、批判主義に見られる科学方法論は、結局科学自身に対する方法論主義と名づけてもいい形式主義であって、之によっては自然科学と哲学との正当な連関を説明することは出来ない。自然科学・哲学・自然哲学・の連関は、之では一向解決出来ないのである。
この問題の解決は現在、唯物弁証法の立場から、自然弁証法という形で与えられる見透しがついたと見て良いだろう。ヘーゲルの思弁的な弁証法による自然の解釈がエンゲルスの手によって、唯物弁証法を使って、もっと実質的な自然探求の方針として、「自然の弁証法」の名の下に準備に着手されていたのである。自然弁証法の本質に就いては充分慎重な考察が必要だからここで立ち入ることは見合わせるが、少なくとも哲学にとって自然は、自然弁証法という問題形態の下に現われねばならぬだろうということが、要点なのである。
自然弁証法の問題は単に自然と哲学との直接な関係を云い表わすばかりではなく、自然科学と哲学との関係をも亦、ハッキリさせることになるだろう。そこに自然科学の方法と哲学との本当の連関も見出されるだろう。この点は歴史社会の問題に就いても少しも変らない。歴史社会の問題に就いて、自然弁証法に相応するものは史的唯物論(歴史唯物論)乃至唯物史観である。――歴史社会が哲学の問題になったのは一方に於ては、社会を抜きにした歴史の問題としてであって、その特徴的な場合から云えば、ヘブライ思想がギリシア思想と結合した時代からで、之は聖アウグスティヌスの名と離れることが出来ない。爾来この方向では、歴史社会の問題は歴史哲学として、殆んど凡ての哲学者によって取り上げられて今日に至っている。自然哲学が自然の統一的解釈に興味を寄せたように、歴史哲学は人間の歴史の統一的解釈を企てる。世界史の観念(之は併しすでにギリシアのポリビオスから始まったのだがランケで有名になった)や神の世界計画の観念(ヘーゲル)や人類史の観念(ヘルダー)は、後々色々な形で歴史哲学の根本概念になっている。之は哲学乃至歴史哲学と歴史自身との連関の問題なのだが、歴史哲学はこの他に歴史科学方法論としての役目も亦果している(之は恐らくフィヒテから始まるだろう)。
だが歴史社会の問題は他方に於て、歴史哲学の他に更にも一つの形を取って現われた。それを一般にユートピア思想と呼んでいいだろう。なぜならここでは厳密に云うと、社会の歴史的過程を抜きにして社会の問題を取り上げるからである。プラトンの国家論を初めとしてトーマス−モーアやオーエン・サン−シモン・フーリエ等のユートピアが、どれも結局社会主義という一つの非歴史的な理想を掲揚するに止まったものであったことに注目すべきである。
ユートピア思想は立派に一つの世界観に基くのであるが、それが学的に解決の出来るような形で問題を提出しなかったという点から云えば、実は歴史社会を哲学的な問題としたものとは云うことが出来ぬ。元来社会のあり得べき機構をその歴史的過程から抜きにして論じようとすることが、歴史社会の問題に対して忠実な問題提出の態度ではなかったのだ。だが、この点は順序を入れ代えれば、そのまま所謂歴史哲学にもあてはまる。歴史哲学は人間の歴史に就いて統一的な見解を与えると称して、人間生活の社会的機構を無視する。歴史は人間社会の実質的な構造によって説明される代りに、歴史哲学によれば、神の善良な意志や、人間の善良又は
さて史的唯物論は、歴史社会の問題を最も完備した形の下に取り上げるものだと云っていいだろう。史的唯物論の解説には相当信頼出来る書物が少なくないし、又今ここで立ち入るだけの余裕もないから内容的な説明はしないが、史的唯物論の特色は、一方に於て所謂(ブルジョア)「歴史哲学」が取り上げようとして取り上げ得なかった歴史社会の問題を、取り上げ得る形で取り上げたという点に存する。その限り之は所謂歴史哲学に代行するものであるが、それ故に又、之は決して歴史哲学の一部や一種類ではない。もし之が単に一個の歴史哲学に過ぎないなら、同じ理由で之は単に一個の社会哲学だとも云わなくてはならなくなるだろう。史的唯物論は、近世ブルジョア社会科学である所謂「社会学」(形式主義的社会理論)ではないと同様に、何か社会哲学と呼ばれるようなものでもあり得ない。社会哲学は所謂社会学の前身に当るのだが、それが物質的生産諸関係の科学的分析に立脚することによって、社会科学にまで発達したのであって、所謂社会科学であることによって、初めて科学的な歴史科学にもなることが出来るのである。そしてこのことは、歴史社会の問題を、科学的社会主義の立場に立って取り上げるということに外ならない。処が之は取りも直さず、ユートピア社会主義が取り上げようとして取り上げ得なかった形の問題なのである。
哲学は自然の問題と歴史社会の問題とを取り上げたが、最後に思惟の問題が世界観によって哲学に向かって提出される。哲学それ自身が最も代表的なそればかりではなく最も統一的な思惟なのだから、之は哲学の自己反射的な問題と云うことが出来るが、夫と共に、自然は自然科学、歴史社会は社会科学乃至歴史科学、思惟は或る意味に於て数学によって問題にされるのであって、哲学的思惟はこれ等の科学の思惟に対しても亦、一定の連関を持たねばならぬ。ここから吾々の問題は哲学の方法に這入るのである。そこでは間接に、科学の方法をも検討して見なければならなくなるだろう。
すでに私は、哲学が、実際生活に立脚する世界観をば、その最も手近かな地盤とすることによって、夫から一定の諸問題を課せられるという関係を説明した。夫も而も一定の形態を以て提出されるという意味に於て、一定形態の諸問題を課せられるものだという関係を説明した。その際大事なことは、すでに一定形態の諸問題が与えられているということは、同時にその諸問題を合理的に解決出来るだけの条件も亦与えられているということを意味するのであって、従って之を解決する筈の哲学の方法も亦、すでに一定した輪郭の下に、そこに提供されているものだという点である。
尤もそう云っても、何も、問題の種類が異るに従ってその解決の方法が一々異って来るというのではない。哲学にとっては実際生活に触れる一切のものが問題になる筈だったので、それを大別して自然と歴史社会と思惟との三段階乃至三領域にすることが出来たのだったが、例えば仮にこの三つのものが一つ一つ別な解決方法を持っていると仮定したのでは、その間に普遍的な方法は見つからないということになるだろう。そうなると、併し哲学へ問題解決を委任した当の世界観の要求に対して答える所以ではなくなるのであって、世界観は哲学に向かって問題のとに角統一的な解決方法の提出を要求していたのである。
無論自然・歴史社会及び思惟という異った三つの問題が、お互いに解決の同じ結果を齎すというようなことは、あり得ないことだし又無意味なことだ。併しそうだからと云ってこれ等諸解決の方法が一つ一つ別であるべきだということにはならぬ。――私が今云いたいことは、同じ種類の諸問題でも、否同じ同一問題であってさえも、その提出の形態が異るに従って、その解決のための哲学方法が異って来る、という一つの点なのである。そしてこの際この方法の内には色々のものがあると云い条、諸方法と云ってもそう無原理に限りなく沢山並んでいるわけではない。丁度哲学の問題が自然・歴史社会及び思惟の三群に要約されたように、哲学の方法の方も亦、結局対立する二つの群に要約されるだろうということを、今から予め断わっておく。
だがこの最後の点に立ち入る前に問題になるのは、之から見ようとする哲学の方法と特に密接な関係に立っている哲学の或る種の問題、即ち思惟の問題である。無論他の自然や歴史社会の問題でも哲学の方法と極めて密接な連関に立っているのは当然だが、特に思惟の問題になると、その密接さが著しいのである。なぜなら、思惟と云えば、単に自然や歴史社会と併立する限りの思惟ばかりではなく、この自然そのものや歴史社会そのものに関する思惟も亦之に含まれるわけだが、処が恰も哲学なるものが、丁度そうした最も包括的な思惟自身に他ならないからである。従って哲学が思惟の問題に対する関係は、云わば哲学が哲学自身に対する関係、或いは思惟が思惟自身に対する関係になるわけで、従って哲学の方法にとって思惟の問題が特別な関心を惹く理由も想像出来るわけだ。
思惟に関する科学乃至哲学は、自然に関する科学が自然科学で、歴史社会に関する科学が社会科学(乃至歴史科学)だという意味では、或いはそういう段階に並ぶものとしては、寧ろ数学だと云ってもいいだろう。事実、今日の数学の最も有力な或る学派の人達は、数学を最も科学的な思惟の科学だと考えている。だがそれにも拘らず、ここでは実は、思惟そのものが何であるかとか、如何なる歴史的発達を有ち、又如何なる適用を持つものかとか、従って又思惟はどう使われねばならぬものか、とかいう根本問題を取り上げるのではなく、又思惟をその様々な側面や段階やニュアンスやの具体的な肉づけの下に取り上げるのでもなく、単に思惟の形式的な形骸として、或る一定の抽象的な場合に限って、云わば表面的に問題にするに過ぎない。而もその場合、数学は自分のこの対象をもはや思惟の活動として意識出来ないのであって、思惟自身ではなく寧ろ思惟された諸思惟物(Gedankendinge)間の関係として捉えるに過ぎないのである。公理や定義がそう云った関係だ。そういう意味では、数学は実はよく云われているように、決めることの出来ない何物かの科学ではあっても、もはや思惟の科学だとは云いにくくなる。この点が自然や歴史的社会の場合と一寸異っている点なのである。
処がこの点が恰も、思惟が哲学方法に対して特別な関係に立っているという先から云っていることを裏書きしているものに他ならないので、思惟の問題については哲学の方法が食い入っているのであればこそ、一見思惟の科学でありそうな数学が、思惟の科学としての資格を一定限度まで譲歩したわけで、この点から見て昔から哲学と数学とが何か密接な親和関係に置かれていると考えられたのも、却って理由がなくはなかったのである。
数学を思惟の科学だと主張する数学者乃至哲学者は、実はそう主張することによって数学が最も完備した論理学だということを主張したのである。即ちこの種のブルジョア理論家によると、論理学というものはアリストテレス以来の「伝統的」な論理学としてはもはや行きづまって了ったので、夫に代わるものとして「近代的」な「数学的な」論理学を必要とすると云うのであり、之こそが本当の論理学即ち思惟の科学だというのである。彼等によると之こそは形式論理学に代わる内容的な論理学だということになる。
だが之が決して内容的な思惟の学ではなく、従って又内容的な論理学などでないことは、先に言っておいた通りであって、之が依然として所謂形式論理学と全く同じ意味に於て形式的又は形式主義的な論理学に過ぎないことは、この派の論理学=数学が数学上の「形式主義」に帰着することからでもよく判る。
だが吾々にここで必要なことは、思惟の学が論理学という名を以って云い表わされるという一つの普遍的な事実である。論理学をどういうものと考えようと、思惟の学を論理学と少なくとも名づけることは、どの哲学の立場から云っても共通な習慣だと見ていい。
そこで、古来哲学ではこの思惟の科学である論理学に様々な内容を盛る必要を感じて今日にまで来ているのである。最初のものは恐らくプラトンのディアレクティケー(之は最高の学問の名前であった)であるが、所謂論理学を一応組織立てたのがアリストテレスであったことは広く知られている。それがポルフュリオスやガレノスの手を経て所謂形式論理学(演繹論理学)として徹底され、夫がフランシス・ベーコンを経ることによって経験による帰納の論理学と結びつけられたこともよく知られている(J・S・ミル)。――だが丁度数学がそうだったと同じに、こうした論理学は全く形式的なもので、従って思惟自身の根本的な本性を問題の日程に上ぼせる程内容的でもなければ具体的でもなかったのである。無論思惟自身の本性に就いての或る一定の見解を想定した上で夫は物を云っているには違いないのだが、併しまだ敢えて思惟の本性そのものを省察しようとはしなかったのだから、その本性の理解に根本的な不備がないかどうかということを問題にする迄には行けない関係にあったのである。
近世になって初めて之を問題の中心に持って来たのはカントだと云っていい。カントは思惟の本性が他ならぬ認識という機能にあるという観点を念を入れて強調した殆んど最初の人であった。というのは、思惟とは、存在に関する一義的で統一的で客観的で具体的な知識組織を与えるものに他ならぬ、ということに、論理学の問題を集中したのである。彼の先験的論理学による範疇の議論がそれで、この範疇は感性の直観と結合するのでなければ思惟=認識としての機能を果たせないものだというのが彼の認識論の要点であった。
で吾々は今少なくともカントによって論理学=認識論となったという点を注意しなければならぬ。――併し論理学の方も認識論の方も、その後一応、銘々別な道を辿って行ったということも忘れることが出来ない。まず論理学の方はカントに於てすでに、分析論と弁証法とに区別されている。と云うのは、カントによって、思惟をその表から正常な場合に就いてだけ見るのでは不充分で、之を裏から各種の虚偽や誤謬と云ったような正常でない場合からも見なければ、本当の思惟の学である論理学としての任務に欠ける処があるということが示されたわけで、こうして思惟を裏がえして検査するのが、彼が意味した弁証法なのである。カントに於ける所謂「弁証法」は、思惟の本格的な機能を考察するのではなくて、結局その皮肉な裏面の考察に過ぎないから、この弁証法は思惟の機能の中核に触れるものではなく、その意味で消極的な役割しか持たなかったのだが、それが思惟の機能の本性そのものにぞくするものとして、積極的な役割を受け取ったのは、ヘーゲルの弁証法に於てであった。マルクス・エンゲルスの弁証法が哲学の系譜としては直接ここから出ていることは今更断わるまでもないことだ。
論理学の発展方向は以上のようだとして、他方認識論の方は、もう少し複雑なコースを取ったと云わなければならぬかも知れない。元来認識論は実はカントから始まるのではない。論理学を認識論とアイデンティファイしたのはカントであるが、そうした認識論の問題をカントに提供したのはイギリスの経験論の認識論で、それはすでにジョン・ロックから始まっている。ロックの認識論は認識の心理上の発生過程を説明しようとして凡ての観念が経験に由来することを主張したのであったが、カントは認識のこの心理上の発生過程の代りに、認識の理論上の通用条件を問題として、そこに認識論の中心があると云い出したに他ならない。――その後このカント風の論理主義的な認識論は表面上全く忘れられたようで、ヘーゲルなどは認識論という言葉を極端に軽蔑さえしているのである。それが、新カント派の発生と共に「認識論」は一時わが国などでも非常に喧しいテーマとなったが、之は愈々益々認識の発生過程との関係のない問題にまで発展して行って、遂に完全に行き詰って了ったのである(E・ラスク)。
ロックが掲げた課題はカント系の哲学者のおかげで一見見失われたが、之を或る意味で正しく取り上げたものは実はレーニンである。レーニンの認識論というものは併し、決して認識の心理上の発生を問題の中心に置いているのではない。そう見える時でも、夫は実は彼が認識論という名の下に、本来、人類の認識の歴史を問題にしているということの、一結果に他ならないのである。――レーニンによれば人類の認識の歴史の研究が即ち認識論なのであった。処が又彼によると、論理学というのは他でもない、この人類の認識の総和の、歴史的要約に他ならない。だからここで再び、カントとは違ったもっと一般的な根本的な意味で、論理学=認識論となるのである。――処が更に、前に私は、論理学がカントからヘーゲルを経てマルクス・エンゲルスに至ることによって、弁証法となった次第を述べておいた。レーニンが人間的認識の総和の歴史的要約と考えたものは、云うまでもなくこの弁証法に他ならなかったのである。だから認識論と論理学とは、更に、よく云われるように、弁証法と同一だということになって来るのである。
論理学・認識論及び弁証法の三つのものが同一だと云っても併し、もし夫が単に機械的に同一だというなら、三つを元来別な名前で呼ぶことが非科学的な筈だろう。併しこの三つのものが無論機械的に同一などではないということは、三つのものを導き出して来た、さき程からの叙述のコースを注意して見ればすぐ判る。必要なことは、この同一ということが三つのコースの交叉点を意味するということであって、何も同じコースを三遍なすったことを意味するのではないという点だ。三つの規定は論理学・認識論乃至弁証法という一つの思惟の学の、三つの側面又はアスペクト又は契機であったのである。
さてこうした思惟の学は併し、哲学に対して特別な意義を有っている。というのは、これが取りも直さず哲学の方法になるからである。一体思惟の学と云っても、之をただの言葉の上だけから空に理解してはならぬ。思惟というものは元来思考から思想までを意味するだろう。思惟の科学というのはだから、思考の科学・思想の科学を意味するのが当然だ。而もそれは、どの科学の場合でもそうであるが、単に世界の文化の上で、どういう思考乃至思想があるかとか、某々の思考や思想はどういう特色を有っているかとかいう観察風の省察が目的ではなくて、実にそれによって、如何に思考すべきであるか、又如何なる思想が真理か、というような決定を結論するのが目的である筈だ。そう考えて見れば、この思惟の学が、哲学の「方法」だということは極めて自然に理解されるだろう。
思惟の学が人間的思惟の歴史を問題にするものだと云っても、例えば或る時代は人類がどういう思想を持ったかとか、又は之を云わば個体発生的に云って、人間の生涯のどの時期にどういう思考作用が発生するかとか、というようなことに別に第一義的な興味があるのではない。問題は人類の思惟がどういうコースを踏んで、どういう順序で、どういう必然性で、発展して来たか、又之からもするか、という処に横たわる。この場合、思惟の歴史に対する興味は、その歴史の要約に、従ってその歴史が示す必然性に、あるのである。歴史の結論としてこの必然性が出て来ればこそ、どう思考すべきかとか又どういう思想が真理かとかいう実際問題に対する決定も出て来ることが出来るのであって、一体どのような場合の歴史も、必ずそれが合理的な・論理的な・必然性を示すのでなければ、決して科学的な興味の対象となるものではないのだが、特に夫が思惟自身の歴史であれば、その歴史の要約は、取りも直さず厳密な意味に於ける「論理」そのものに他ならないわけである。思惟の歴史は他でもない、論理そのものなのだ。――で、思惟の学は要するに「論理」の学であって、序でに、この点から見て、論理学という言葉が、他の同類の一群の言葉に較べて、一等普遍性を有っているという事実も、初めて理解出来るだろう。
では論理というものは何かというと、それは併し、範疇という諸要素の結合体として現われるものである。思惟の歴史を貫く赤い糸筋は範疇の発展であり、思惟を発動させるメカニズムは範疇の組織なのである。範疇とは、人類の思惟がその感性を通じて営む実際活動によって、工夫されテストされ淘汰され洗練鍛冶されて来た根本概念のことで、之こそ実在を実際的に処理するに役立つ認識乃至模写の単位なのである。
でそうして見れば、哲学の方法は、この範疇組織の構成とその使用とに帰着するものだということが判る。尤も範疇組織を構成するには、単に範疇相互の間の合理的な連関づけだけでは役に立たないので、それが実在の模写の単位として確実で信頼するに足るということの証拠がなければならないが、それには又、単に諸範疇相互の間に矛盾がないと云ったようなことだけでは不足なので、それが歴史的に淘汰されて来た経歴に判定を一任する他はない。それ故哲学の方法は広い意味での哲学史の必然的な発展に従って取り出されねばならぬということになる。
前にも云った通り、哲学は一切の問題を取り扱い得るものでなくてはならぬ。従って哲学の内容の一つ一つを問題にするなら、それだけでも、恐らく哲学は無限のバラエティーを持っているだろう。だが哲学の骨髄はその範疇組織に、その論理に、その方法の内にある。それが論理学・認識論乃至弁証法であった。例えば物質なら物質、存在なら存在という名のついた根本概念即ち範疇があるとする。同じ名でも哲学の方法が異るに従って、この物質なり存在なりという範疇の規定は異る、従って又物質や存在と例えば精神とか観念とかいう範疇との連関自身もそれだけ別になって来る。それから精神とか観念とかいう言葉の方も亦、哲学の方法によって範疇上別な規定が与えられなければならぬ。こうして一定の哲学の方法に対応しては、一定の範疇組織が成り立つものである。この際混乱はただ、範疇上別な規定を持っているタームが、名前の上では同じになっているという一般的な事情から起こるに過ぎない。
哲学の方法と云えば、すぐ様読者は哲学の体系はどうなるかと云うだろう。けれども哲学では方法も体系も別なものを指しているのではない。すでに今方法は範疇の組織だと云った、それは取りも直さず範疇の体系だということであるが、そうすればこの範疇体系は哲学体系の骨格であろうということは、容易に想像出来ることだ。実際、もしそうでなくて、完全に出来上って了った体格のようなものが哲学の所謂体系だというなら、そういう哲学体系はもはやそれ以上発展の余地のない死んだ固形物でしかないわけで、従って本当は少しの科学性も持てない筈である。だが古来哲学は、こうした意味の体系は一遍も持つことがなかったと断言していいだろう。哲学体系とは要するに一定の方法=範疇組織による合理的な哲学設計図以外のものではないのだ。
では哲学の方法に古来どのようなものがあったか。私はすでに方法を特に弁証法と決めてかかって話しを進めて来たのだが、それは弁証法(唯物弁証法)が正しい哲学方法としては唯一のものだからであって、実は、弁証法に対立する哲学方法は、歴史上いくらでもあったし、又現にどこの資本主義国でも著しく横行しているのであって、この事実を無視することは出来ない。普通の哲学概論を見れば、例えば神秘主義・機械論・経験主義・現象主義・先天主義・各種の観念的弁証法、等々の哲学方法が数限りなく並んでいるのを発見するだろう。哲学方法のこうした名づけ方は、歴史上一定の局所的な理由から云って必要な場合もあるのだが、哲学の方法を論理という骨髄から大綱に従って捉えるためには、云わば之を論理的に兌換する必要があるので、それによると結局、哲学の方法は形式主義的論理(形式論理学が立場として要求する立場)と唯物弁証法的論理との二つの群に要約されて対立することになる。このどちらの方の範疇組織が本物かということは、哲学の諸問題を仮に唯物弁証法の範疇を使って実地に解いて見れば直ぐ判るわけだし、それを待たなくても、歴史的必然性から見て、又は比較研究からして、予見出来る筈だが、今は単に唯物弁証法の方が原則的に優越しているという結論だけを挙げておくに止めよう。
処で、形式主義的論理は他の関係から云って形而上学とも呼ばれている。この場合形而上学とはブルジョア観念論でいうように、存在一般の理論という意味ではなく、又一種類の存在論を意味するばかりでもなく、又一種類の哲学体系を指すばかりでもない、そうした体系が基く根本的な論理=方法の一種類の名前を云い表わすのである。それから之は又、観念論という名で呼ばれてもいいだろうと考えられる理由がある。但しこの際観念論も亦世界観の一種類や又存在論の一種類を指すばかりでなく、それが基く論理=方法の一種類の名前を云い表わすものと考えねばならぬ。之に対応して、唯物弁証法的論理は、夫々弁証法とも唯物論とも呼ばれていいのである。――一体、唯物論とはただの一世界観や一存在理論のことをいうばかりではない、この言葉の実際上の活用から云えば、唯物論的に、従って当然又弁証法的に、洗練され組織された範疇体系のことを、即ちそうした哲学法のことを、意味しているのだ。
でこう云って来ると、哲学の方法というものが先の哲学の諸問題や哲学の地盤に対して、どういう風にその責任を果すものかということが判ると思う。
(形式論理学と弁証法との関係、又哲学の方法と諸科学の方法との関係は、別の機会にゆずる。)
[#改段]吾々現代人の常識によれば、世論は最も尊重されるべきものであり、従って世論という概念は又最も大事な重大な概念だということになっている。万機公論に決すべしというテーゼは今日の常識的な社会意識乃至政治意識にとっては絶対的なものとなっている。
こういう常識を疑わない限り、世論という概念は、すでに許された概念として、抑々その概念が問題として上程される資格の検査を抜きにして、考察の対象となることが出来るだろう。と云うのは、この概念は、それが実際に持っている歴史的宿命からは独立に、一般的に形式的に、分析され得るものだと考えられるのである。『世論の批判』(F. Tnnies, Kritik d. ffentlichen Meinung, 1922)と云っても、実は世論の歴史的本質が批判されるのではなくて、世論の形式的な諸規定が、云わば語原学的にさえ、分析されるに過ぎないだろう。
無論こうした形式的な一般的な特色づけはどのような場合にも必要であって、之がなければ吾々は何を語ることも出来ないが、併しそれよりも前に、どういう歴史的な条件から、どういう形態で、この概念が吾々の問題になることが出来たかという、この概念の歴史的本質の分析の方が、より根本的でなければならない。――常識は玉石混淆の知識であるが、常識をそのまま信用することは決して優れた常識ではない。常識的に信用を博しているこの世論という概念を、吾々は信用してかかって仕事を始めてはならない。
世論は単に歴史的に発生して来た概念であるばかりではなく、その歴史的発生が、今日に至るまで、物を云っている、効果を有っている、概念なのである。だからそれを歴史的な宿命を有った概念だと云ったのである。その意味に於て、世論は決して一般的な概念ではなくて歴史的な概念だと云わねばならぬ。
外でもない、世論という概念が発見されたのはフランス大革命を機会としてであった。この歴史的発生が世論という概念の一定の色調と限界とを決定している、そしてそれが今日にまで殆んどそのまま伝えられていることを注意すべきだ。今日から云えば世論という言葉を以て呼んでも好いような現象は、無論フランス大革命などを待つまでもなく、古来存在したのであるが、大事なことはこの世論という概念は決してそのような昔の世論を反映して発生して来たものではないという点である。
Opinion publique 又は public spirit を独逸語の ffentliche Meinung と訳したと云われているT・G・フォルスターは、世論とは革命の道具であり同時に革命の精神であると云っているが、世論(l'opinion publique)という概念に重大な社会的意義を見出したのは、革命当時の財政家J・ネッケルである。「ネッケル氏の世論」というのが当時の合言葉の一つともなっていたのである。この言葉は云うまでもなくネッケル一人が用い出したのではなく、当時の一般的な見解を偶々彼が代表した迄であって(マリ・アントアネットは opinion publique の代りに esprit public という言葉を使っていたそうであるが)、実はフランスの革命的新興ブルジョアジーが見出した処の一つの観念を云い表わす概念だったのでなければならぬ。だから所謂「世論」というものは、実は単に一般的な世論なのではなく、正に「新興ブルジョアジーの有つ世論」だったのであり、それが又今日に迄そのままの規定を以て伝承されているのである。ビスマルクは夫故に之を恐れ(彼はドイツの新聞史に於て検閲時代を造り出した)、又夫故にナポレオン三世は之を唯一のたのみとしたのである。わが国でいう「世論」――「公論」(『中央公論』、『犯罪公論』、『歴史公論』等々を見よ)――も亦、云うまでもなく、こうした所謂世論の輸入品に外ならない(世論の歴史に就いては W. Bauer, Die ffentliche Meinung in der Weltgeschichte が良い文献である)。
さて世論というこの民主主義的概念は、一般にブルジョア・デモクラシーが現在、一方に於て社会ファシズム乃至ファシズムの政治形態にまで変質し、他方に於てプロレタリアートの独裁形態に対立せざるを得なくなったことと完全に平行して、一つの変質と一つの対立関係とを受け取らねばならない。普通選挙(一般投票)――もし完全な普通選挙があるなら――又は、自由新聞――もしそういうものがあるならば――をば、その最も合理的な又完全な発表過程とすべきであった世論は、今や一方に於て「挙国一致」とか「八千万同胞の総意」というような、実証性を欠いた神秘的なものにまで変質し、又他方に於てブルジョア選挙・ブルジョア新聞の形式の下に、プロレタリアートのイデオロギーに対立する一つの特殊部分的な政治的意識形態にまでみずからを限定せざるを得なくなった。世論はそれが有つ筈だと考えられていた合理的な形成過程と普遍的な通用性とを失おうとしている。世論はもはやその世論らしい特色を捨てて、変質した世論となるか又は世論でなくなろうとしているのである。だがそれ故にこそ又世論の概念は特に大切に保護され宣伝されねばならない、というのが事実である。世論は今やクレディットを設定しなければならない。世論に対する現代の常識人の信用とはこのクレディットのことに他ならない。
世論としての世論は、そこで、少なくとも世論ではないものとしての世論と、対立する(世論の変質は今は問題外とする)。世論は一つの矛盾物となっている。そして世論に対する吾々の不信任は恰もここに横たわる。夫故にこそ吾々は世論を問題として取り上げるのである。世論の歴史的宿命とは実は之だったのである。――だが世論としての世論(所謂「世論」)と世論でないものとしての世論との関係を、もう少し分析して見よう。
所謂世論の方はブルジョアの、市民(citoyens)――ルソーは之を peuple や sujets から区別して威厳を与えている――のもつ一般的意見・一般的意志・一般的信念である。之はブルジョア社会に於ける政治的支配者の意見乃至意志なのである(オピニオンとは要望を意味する)。それによって又之はブルジョア社会に於ける支配的な意見乃至意志ともなる。
だが支配者の意見は支配的な意見であるとしても、凡ゆる意味に於ける支配的な意見必ずしも支配者の意見だとは限らない。支配者の意見は、合法的な範囲では無論唯一の支配的な意見だが、合法的な範囲の外にまで立場を拡大して見れば、そこでは支配者ならぬ政治的被支配者の意見も亦、支配的な勢力を有つことが出来るだろう。意見の支配は、政治的支配とは異って、或いはそれに先回りをして、二重支配の形を取ることが出来るのである。でそう考えて見ると、所謂「世論」とは政治的支配と一致した、従って合法的な、世論であり(但しこの場合世論の例の変質から来る諸対立は見落されてはならないが)、世論ではないものとしての世論とは、政治的支配と一致しない、従って地下的な、被支配者の世論(?)となる。で世論はもはや無条件的な普遍性を有つことが出来ない、二つの世論が、支配的な意見が、対立するのである。――テニエスは ffentliche Meinung に対して Die ffent. Meinung を区別する、併しO・グロートのもっと融通性に富んだ定義によれば、世論とは「普遍的な意味を有った或る集団の意見」だとして規定されている(O. Groth, Die Zeitung, ein System der Zeitungskunde, Bd. . S. 96)。
世論の対立というこの事実は、更にもう一つの重大な点を吾々に注意させずにはおかない、G・タルドが群集 foule と公衆(public)とを区別して以来、世論の担い手は多く公衆にあるように考えられて来つつある(G. Tarde, L'opinion et la foule)。世論と Publikum とは殆んど同じものを指すようにさえ説かれているのが普通だろう。併し公衆は Publizitt・出版性・公知性の主体であり、ジャーナリスティックな又公共社会的な内容をもつ主体ではあるが、それだけではまだ狭義に於ける政治に関係したものにはならない。処が世論とは外でもない狭義に於ける政治的活動に就いての概念なのである。J・ブライスによれば「世論とは、之を表示し得る限り、あらゆる方法の投票よりも伸縮自在に、逆用される惧れ少なく、民衆がその勢力を発揮し得る手段又は方法である。」(J. Bryce. Modern Democracies, . 15)公衆は公共性や現実活動性は有っていても、世論に欠くことの出来ぬ時事性や政治性をまだ有っていない。それだけでも、世論と公衆との食い違いは明らかだろう。
だが夫だけではない。公衆はタルドによれば、群集とは異って、空間的条件を以て結合して出来上るものではなく、言論機関――その主なものがタルドでは印刷である――を媒介として結合した処の集団であった。だから公衆はそうした言論機関の恩恵に直接浴している個人同志の間でしか成り立たないわけである。そうした言論機関の上に意志表示をなし得ない人間は、公衆にはぞくさないだろう。そういう人間は処で世論を造り上げる単位とはなれないのであるか。なる程新聞紙やラジオの上に表現された意見だけが、そうした公衆の共有物だけが、世論だと定義して了えば夫までであるが、デモンストレーションやアジ演説――それは公衆ではなく空間的に結合した群集に対するものに他ならぬ――は、プロレタリアの世論を、大衆的意見を、造り出さないのであるか。――社会的表示機関を用いて表示された意見でなければ世論ではないという考え方は、世論としての世論(所謂「世論」)をしか世論と考え得ない処の、ブルジョア政治家乃至ブルジョア思想家達の、迷信である。
そういうわけで、世論と公衆とは相蔽う概念ではない。世論は単に公衆ばかりではなく、夫を含んだより広い群の一般的意見でなくてはならぬ。ではそういうより広い人間群は何であるか。それは群集ではあり得ない、なぜなら群集は公衆と完全に別なものであって、公衆を含むものではなかったから。そこで吾々は大衆(Massen)の概念を思い出さねばならない。
大衆という概念は社会学によると至極呑気で曖昧であるように見えるが、社会科学的範疇としては、科学的に一定の実質的な対応物と厳密な使用法とを有っている。大衆とは数や平均値というような単に量的に規定された概念ではなく、一定の量的な規定から出て来る一定の質的規定を有った実体概念で、組織的プロレタリア階級以外のものを意味しない。こういう大衆にして初めてその内に、次第に増大する(主として左翼出版物を通して)或る公衆を含むことが出来る――プロレタリア・ジャーナリズム。だからここでは唯一つの Das Publikum, das groe Publikum(テニエス)なるものは抽象的な一般概念としてしか成り立たない、現実に存在するものは幾つかの、分裂し対立した諸公衆でしかない。丁度世論が分裂し対立するように。
で次のことが結果する。世論としての世論(所謂「世論」)がブルジョア公衆の一般的意見であるとすれば、之に対立した、世論でないものとしての世論は、プロレタリア大衆の一般的意見だということ。だが世論という民主主義的なこの概念の、歴史的宿命は、このプロレタリア大衆の一般的意見としての世論を、世論として把握することを不可能にしている。プロレタリアートは世論を有たず又有ってはならず、更に又世論に与ってもならない。世論ではないものとしての世論は、「社会の通念」と相反するものである。
かくて世論の問題は、吾々にとって、当然なことながら、階級イデオロギーの、階級意識の、問題に帰着する。この実質的特色を抜きにして一般的に世論を語ることは、形式による虚偽に外ならない。
それでは次に、世論乃至所謂「世論」を吾々はどうやって突き止めることが出来るか。何が今日の世論であるかはどこで証拠立てられるか。例えば人々は好く、満州国が三千万民衆の総意で建てられたと叫んでいるが、ではそういう総意は一体どうやって確め得たのか。その合理的な証明過程がなければ、この種のフラーゼは感傷的なデマゴギーに過ぎないと云われても仕方があるまい。世論はどうやって突き止められるか。
議会に於ける多数が自分達の世論を代表するものだとは、ブルジョアジー自身決して正直に信じてはいないから、之は除くとして、次に来るのは新聞紙である。近代的大新聞紙こそ世論の代弁者と指導者だということになっているのである。処が今日の吾々はもはや夫をさえ実際は信じていない。例えば『朝日新聞』の読者は、一九三二年の五月某日を境として天下の世論がグルリと変ったと信じているだろうか。
だが近代ブルジョア新聞紙を、正直に報道機関や評論機関として利用するのを止めて、ブルジョア新聞紙自身を報道現象乃至評論現象という現代に於ける一つの社会現象として取り扱うならば、夫は明らかに世論をつき止める一つの手懸りとなるだろう。なぜなら人々は、そうしたものが「世論」と銘を打たれて世間に行なわれるという事実を、少なくとも知ることが出来るだろうからである。だがそうすれば、新聞が世論を造るか世論が新聞を造るかという、新聞と世論との関係のあの蒸し返し蒸し返しされた問題は、あまり真面目な問題ではなくなるのである。それは鶏が卵を造るか卵が鶏をつくるかという問題とあまり隔りがない。本当の問題は然るに、恐らく二つの集団(階級)の二つの一般的意見の、どれが一体世論として支配的になり得るかということに存する。そこにこそ初めて新聞紙の世論機関としての機能もあるのである。
新聞紙・雑誌・其の他の出版物及び其の他に表われた言論及び行動を材料としてしか、世論を突き止める手懸りは得られないが、人々がそういう材料を正当に使い得るためには、世論の階級的対立という事実を規範にすることが絶対に必要である。そうしなければ、元来世論は一つのものではなくて対立的なのであったから、二つの対立した世論は相殺し合って何の世論も残らなくなって了うだろう。それでもなお何か世論を掴み出すことが出来ると考えられる場合は、世論は実証性を欠いて神秘的手続きを以てかつぎ出されたものに他ならないだろう。無論そういうものは世論でも何でもないのである。
最後に併し最も大切な点を見落してはならぬ、世論が階級的に対立すると云ったが、単に併存しているものは何も対立などしているのではないので、対立と云えば二つの世論の間の闘争が必ず之に伴わなければならない。世論は階級の一般意見であって、個人の見解ではないから、世論と個人の見解との間にもいつもこの種の闘争があるのであるが、そしてJ・S・ミルはこの点に就いて思想と論争の自由(出版の自由)の必要を説いているが(J. S. Mill, On Liberty, )、今はこの関係が世論同志の間に行なわれる、というのである。でここでは権威は対立し、常識は対立する。そしてこの対立は多くの場合ゼネレーションの対立と織り合わされて現われる。だが対立物を有つものはもはや「権威」ではなく、「常識」でもあり得ない。――所謂「世論」の分解と共に、所謂「権威」や所謂「常識」の概念も亦分解せざるを得ない。かくて権威や常識の概念は吾々によって改めて考察し直されなければならなくなるのである。
[#改段]
マルクス主義乃至共産主義は云うまでもなくプロレタリアのイデオロギーである。なる程どこの国でもこの運動の初期に於ては、それがまず第一にイデオロギー運動・観念運動として自覚される場合が多いから、之を最初に容易に受け取るものは労働者農民自身ではなくて却って、小ブルジョア乃至ブルジョア出身の子弟であるインテリゲンチャであることを通則とするが、併しそれは何も彼等インテリゲンチャ自身のイデオロギーとして自覚されるのではなくて、いつも初めからプロレタリアそのものの持つべき、又持つであろう、イデオロギーとして意識されているのである。マルクス主義(コンミュニズム・イデオロギー)は、個人的主体から云えば少なくとも最初はインテリゲンチャ――それは主として小ブルジョア乃至ブルジョアの出身者である――のもつイデオロギーではあるが、階級乃至身分の主体から云えば、インテリゲンチャのものではなくて正にプロレタリアのものなのである。それは初めからプロレタリアの利害意識を自覚しているのだから、仮に夫を誰が持とうと常にプロレタリアのものでしかない。
処でファシズムは一体何が持つイデオロギーであるか。現在のわが国ではこのイデオロギーを持つものは可なり広範な種類の人間に渡っているのが事実だろう。殆んど凡ての青年将校・一派の政治家・小商人・低意識な労働者農民や学生・等々は、夫を自覚した形で持っているが、たとい自覚しないまでも突きつめればそこまで行くだろう意識の所有者は、そのブルジョア的教養の如何に拘らず、仲々多い。或る一つのイデオロギーの信奉者は無論どういう階級乃至身分にでも散在し得ることは云うまでもないが、ファシズム・イデオロギーの信奉者に至っては一切の階級乃至身分を通じて一貫して存在する一つの地帯をなしている。試みに例えば中年の分別ありげな一紳士を想定して見ると、彼はまず大抵現代の政治家の腐敗と堕落とを説くだろう。恐らく彼は一くさりの尤もらしい満蒙経綸策を付け加えることを忘れないだろう。ファシズム・イデオロギーのこの横断的な一地帯は、必ずしも小ブルジョア身分乃至階級と相蔽うものではないが、このイデオロギー自身が、小ブルジョア階級の自然発生的な一般的なイデオロギーとよく一致する点を持っているのが事実である。小ブルジョアが最も敏感に――失業の危険・生活の低落・等々によって――資本主義の矛盾現象を予感し得ると共に、あまり内実に詳しくない資本主義に最後まで信頼を置くことに慣らされて来たのも亦彼等である。こうした生活意識にとって最も受け容れ易いものは、云うまでもなくファシズム・イデオロギーでなければならないだろう。
だから普通、ファシズムは小ブルジョアのイデオロギーだと呼ばれるのに無理はない。だが之は、マルクス主義がプロレタリアのイデオロギーだということとは非常に異った意味を有つということを今注意せねばならぬのである。と云うのは、マルクス主義とは、単にプロレタリアが所有する処のイデオロギーであるばかりではなく、更に大事なことは、夫が何よりも先にプロレタリア自身の階級的利害を代表する意識だということなのである。処がファシズムは、たとい小ブルジョアが実際上それを有ち、又一見或る程度まで――彼等小ブルジョアに固有な「常識」に従えば――彼等の利害を代表しているにしても、終局に於ては又は第一義的には、決して小ブルジョア自身の利害の意識などではなくて、正にブルジョアジーそのものの大利害をしか代表していない。このイデオロギーを主として所有する階級乃至身分と、このイデオロギーが主としてその利害を大々的に代表する階級とは必ずしも一つではない、ということが現在のファシズム・イデオロギーの最も大切な特色の一つをなしている。
だから、元来末期資本主義の行き詰り、解くべからざる矛盾、を切り抜けるための資本主義の最後の手段である処の、従ってブルジョアジーにとっては最後の絶対的な切札でなければならぬと思われる処の、このファシズムも、特にわが国などに於ては、ブルジョアジー自身のイデオロギーとしてではなくて、却って小ブルジョア的な軍閥――それは農民・官吏・其の他を引き具している――のイデオロギーとして自覚されている。ファシズムは軍閥の手にあることによって、一見資本家――だが必ずしも夫は資本自身ではない――の恐怖の対象とさえ考えられているのである。小ブルジョアにとってはファシズムは自分が実際有っている佯りのない意識であるにも拘らず、結局は自分自身のための意識ではなくて却ってブルジョアジーのための夫でなければならぬ(そして吾々によれば、ブルジョアジーは決して小ブルジョアが願っているような自分の永久の身方ではない)。彼等の意識は彼等の物質的利害から多少ともズレている。――普通、意識が利害と一致する場合、その意識がイデオロギーと呼ばれるのだとすれば、ファシズム・イデオロギーは少なくとも彼等小ブルジョアにとっては彼等のイデオロギーだとは云えないかのように見える。処が彼等は夫にも拘らず之を自分自身のイデオロギーだとして意識せざるを得ない。彼等の意識は、所謂意識の自由によって、彼等のイデオロギーでないものを彼等のイデオロギーだと意識せねばならないのである。処でここにファシズム・イデオロギーそれ自身の特有なイデオロギー性が見出されなければならないのである。――蓋し、小ブルジョアはそれ自身の物質的利害からは一応自由に、ブルジョア・イデオロギーのこの特殊形態を観念的に固執せねばならず又し得るのである。ブルジョア・イデオロギー一般が終局に於てブルジョアジーを裏切らねばならなくなる以上に、この「プチブル」イデオロギーは小ブルジョアジーを裏切らねばならない。
だが之は何も、彼等小ブルジョアが権力に支配されることを喜ぶとか、情緒的感激性に富んでいるとか、その他その他のことによって、心理学的にのみ説明されてはならない。彼等をここに至らしめた何よりもの原因は、彼等が伝統的に「常識」として持っている封建的残滓なのであって、夫がファシズムのテーゼで重大な役割を占める処の国家とか国民とか民族とかいう情緒的な範疇と、至極密接な親和関係を持っているからである。
自由競争の根本観念と共に出発したブルジョアジーは、デモクラシーの政治形態と共に余程のことがない限り、無条件に国家乃至民族等々の観念からの種々なる助力を仰ぐことが出来ない義理がある。積極的な国家的統制は彼等の国内的及び国際的に自由な商品交換過程に一定の限界条件を置くことになるので、夫を有利に利用することはあっても(保護関税・諸種の資本保護法の如き)、普通の与件の下では――「非常時」は別だ――、決して歓迎すべき事柄ではない筈である。処がこうした資本家意識がその日常の生活意識にまで馴練される必要を持たなかった小ブルジョア(官吏・軍人・小商人其の他)達にとっては、国家や民族其の他の意識は、依然として封建時代からの伝統にぞくする、その情緒生活を興奮させるに最も相応しい共存観念であらざるを得ない。それが所謂非常時に際して、ブルジョアジーそれ自身さえが自発的に国家的統制を欲せざるを得なくなるようになれば、その時こそ小ブルジョアの例の諸観念がブルジョアジーの御用をつとめるべく起つ秋なのである。かくてファシズム・イデオロギーの技術的な作成者はブルジョアジー自身ではなくて却って小ブルジョアだということになる。ブルジョアジーはこの作成に就いて単に監督さえすれば好いというわけである。――之がファシズム・イデオロギーの特有なイデオロギー性――観念性――なのである。
ファシズム・イデオロギーに於ける、観念が比較的独立に観念としてのみ活動している処の、その意味に於て自由な、この特有なイデオロギー性――観念性――は、ファシズムが何よりも先に一つの政治形態として第一義的に特色づけられるのを常とするという一つの事実を説明する。例えばマルクス主義は、何よりも先に一つの経済理論であって、その必然的な結果として初めて一定の政治形態を必要とするようになるのだが、ファシズムは一般的に云えば之に反して、まず第一に一つの政治形態の主張――その国家乃至民族理論及び独裁形態説等々――から始まり、その後初めて(比較的偶然に)必要な経済理論を之につけ加える。生産の「国家的統制」と雖も、予めこうした政治形態を想定した上で初めて問題になるのが事実である。イタリア・ファシズムのサンジカリズム系統のコルポラチオン組織は、実は偶然にもファシズムと結合したと云っても好く、現にドイツやわが国のファシズム経済理論は、殆んど全く無理論であるか、そうでなければ資本主義経済組織の焼き直しの理論で間に合わせるより外はないだろう。「搾取なき満蒙の楽土」と云ったような言葉を経済学的な意味に受け取るような低能者はあまり多くはあるまい。
比較的浮動的な、情緒的に自由な、その意味に於て観念的――イデオロギー的――な、例の国家とか民族とかいう根本概念が、そもそもファシズムの理論(?)の動力なのだから、そうしたイデオロギー的・観念的・な動力が最初に連動すべき最も手近かな事物は、元来経済関係に較べてイデオロギー的地位に位する処の政治形態であることは、至極自然ではないだろうか。だから実際、ファシズムと云えば、人々の常識は何よりも先に、ブルジョア民主主義乃至議会政治の否定とか、政治団体的暴力とか、を思い起こすのである。ファシズムは一つの政治形態の名として一般に通用しているのが事実である。
ファシズムのこの情緒的な浮動的なイデオロギー性・観念性は、処で、ファシズム・イデオロギーのイデオロギーとしての事物把握力を貧弱にせざるを得ない。なぜなら単なる観念としての観念は存在に対して殆んど全く無力な筈だからである。だからこそまた、ファシズムは一般的に云えば歴史的社会的存在の根柢としての物質的な生産諸関係の把握――それが経済理論だ――から問題を始めることが出来ずに、偶然にも中途にある政治形態の問題から出発せざるを得なかったのである。で今はその結果、ファシズム・イデオロギーにとっては、事物は凡てイデオロギー的・観念的・にしか取り扱われなくなる(その精神主義・宗教主義乃至神秘主義はこの意識を理論化した哲学の外ではない)。資本主義という客観的な物質的な社会の歴史的矛盾は、資本家諸個人という主観的な精神的な個人の倫理的欠陥としてしか把握されない。悪むべきは資本家だ(資本では決してない)というのである。こうして資本と資本制度とは、資本家の手から国家(ファシズムによれば夫が超階級的な絶対者である)の手に「奉還」されねばならない(国家資本主義)。実際そうしなければ資本主義はもはや一刻も命を永らえることは出来ないのである。処がファシズムの主張の如何に関係なく、資本主義が生き永らえるということは取りも直さず資本家階級(もはや夫は個人資本家ではない)・ブルジョアジーが生き永らえるということだ。それこそ今日寡頭金融資本家達の個人的な願望そのものではないのか。でファシズムはその特有なイデオロギー性・観念性のおかげで、甚だ尤もらしく見える処の――資本家横暴!――而も最も強力なブルジョア・イデオロギーとして奉仕出来るという仕組を有つことが出来るわけなのである。
ブルジョアジーが、そのイデオロギー性のおかげで脆弱であらざるを得ない処のファシズムのようなイデオロギー形式を選ばなければならなかったということは、即ち彼等のイデオロギー一般が今日すでに如何に脆弱なものでしかないかを証拠立てている。
社会的存在の物質的根柢から自由な、この観念的情緒的浮動性・イデオロギー性・を有った、ファシズムは、当然なことながら、その哲学的理論を構成するにも殆んど全く自由である。経済理論や経済組織がどうでも勝手になり得るように、その哲学的理論も亦勝手にどんなものでも之に付着することが出来る。人々は往々ファシズム・イデオロギーの名の下に、イタリアのファッショ哲学者達の思想などを持ち出すのであるが、そうした御用哲学体系とファシズム・イデオロギーとの間には一般的には決して何の必然的結合もあるのではないので、実際には色々の異ったファッショ哲学があり得るのだし、又事実あるのである。ムッソリーニ(及びその哲学的腹心であるジェンチーレ・ロッコ・故パレート等)の哲学もあれば、ヒトラーの哲学もある。わが国では又わが国で、之とは異った無数の毛色の変ったファッショ哲学が流行している。その点から云えばファシズム・イデオロギーにはここでも亦何の普遍的な理論的体系もない。それ程ファシズムに於てはそのイデオロギーがイデオロギー的に無力なのである。夫が却って、特有にイデオロギー的である所以なのだ。
ファシストは告白する、ファシズム・イデオロギーは国粋的な国産品である。同じくファシズムと云っても国家々々によって異っている、否、わが国には元来ファシズムなどというものは存在しない、そういうものは欧米の産物に過ぎないのだ、と。ファシズムの特有なイデオロギー性はファシズム理論――もしファシズムにも理論があるとすれば――の普遍的通用性を犠牲にして、理論的にも鎖国主義を宣言する、それ程ファシズム理論は非理論的なのである。
だが今日、この理論的鎖国主義自身は、国際的に流行している。ファシズムは外でもない、ファシストの好悪に関係なく、国粋ファシズムなのである。ファシズムは理論としては何の国際的普遍性も持たない、だがそれは国際的共通特色を持っている。夫は事実、一通り共通な諸範疇に信頼している、曰く国家・国民・民族・超階級・等々。
わが国に於けるファシズム哲学(?)も亦、こういう国際ファシズムの一環である。だが夫は当然国際的な理論上の統一を有つことが出来ない。実際日本ファシスト達は主張する、在るものは「日本哲学」であって欧米の哲学であってはならない、国家という範疇さえが、日本には古来日本独特な理解の仕方があるのであると。併しそうは云って見ても実際に範疇の上では、国際的にも立派に共通な特色を示すことが出来る。それがどういう仕方で理解されようとも、国家とか民族とかいう範疇は彼等の凡てにとって絶対的な権威があることに少しも変りはない。国内に就いて云えば、ファシズム哲学は一方に於て、国学的(制度学・農村学等々)・仏教的・又は儒教的(王道主義)・範疇から出発し、他方に於て夫はドイツ形而上学的(存在論・人間学等々)・又は神学的(危機神学)・範疇から出発する(後者は無論直接に国際的共通性と通用性をさえ有つ)が、この二つの範疇群は夫々ファシズムと社会ファシズムとのイデオロギーに対応しているのであって、社会ファシストのファシスト化と共に、両範疇群の間に見事な橋渡しがなり立ちつつあるのが事実である。
日本ファシズム哲学イデオロギーの例のイデオロギー性・観念性は併し、例の固有な弱点を、国粋哲学的乃至東洋哲学的範疇の使用に於て愈々露骨に現わして来る。この範疇は社会科学的・自然科学的・範疇と完全に絶縁することによって初めて、幸うじて存立することが出来る。それはだから何等の存在にも対応出来ない処の、その意味に於て全くの観念的・イデオロギー的・幻想に外ならない。こうして幻想はそれ自身に於ては何の合理的な実践力を有つものでもないのだが、併し一旦夫が幻想者その人の手に移るならば、云うまでもなく非常に有力な行動――非合理的実践的な行動――の動力となることが出来る。之は初めはブルジョアジーのイデオロギーによって利用されたが、やがてブルジョアジーのイデオロギーそのものとなる。幻想を利用するものがやがて自分自身その幻想者となったのである。
ファシズム・イデオロギーが、イデオロギーとして、マルクス主義的イデオロギーなどと根本的に異る点は、だから今述べたようなその特有なイデオロギー性・観念性の内に見出されるだろう。ファシズムはこういう意味に於て特に一つの「イデオロギー」でなければならない。これはファシズムの「階級性」――それは寡頭金融資本家と封建的にとり残された小ブルジョアジーとのブロックからなる――から来る必然的な結果の一つであろう。