世界の一環としての日本

戸坂潤






 ここに編纂したものは、必ずしも研究論文ではない。と共に一時的な時評でもない。私は、時代の評論とでも云うべきだと考える。大体から云うと、ごく啓蒙的なものであるから、無用な先入見にわずらわされない読者には、読みよいものかと思われる。
 日本は世界的な角度から見られねばならぬ、というのが私の一貫する態度だ。これは、日本は民衆の立場から見られねばならぬということに基くのである。ここに私が民衆と呼ぶのは、支配者が考えるあの民衆のことではなくて、自主的に自分の生活を防衛して行こうとする民主的な大衆のことだ。
 すでに一旦発表されたものに相当手を加えたものであるが、特に日本型ファシズムに就いての私の予備概念には多少の変化があるのだが、その点に関係する部分を徹底的に書き改める都合がつかなかったのは残念である。
 この本と直接関係のある拙著を三つ挙げておこう。第一は『日本イデオロギー論』(白揚社)、之は大部分理論的なものである。第二は『現代日本の思想対立』(今日の問題社)、之は時評集である。第三は『思想と風俗』(三笠書房)で、日本の教育と宗教との風俗描写を含んでいる。そして本書は第一と第二の中間に立つものだ。
  一九三七・三・一五
東京
戸坂潤
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第一部 日本の社会現象






1 官公吏の社会的地位



 かつて農林省の小作官会議に於て、この頃しきりに小作争議に内務官吏が乗り出す傾向があるというので、非難が出たそうだが、其の後また、労働争議に官憲がのり出して、純正日本主義や皇道経済の名によって、労資協調的労働組合の組織を企てたり、争議の一種の指導に当ったりしたというので、労資(?)の両陣営から非難を招くに至ったのは、新聞が報道する処である。
 社会大衆党は之に対して抗議書を発表して曰く、「愛知県警察部は本年夏頃より県下の労働組合に対して日本主義に転向を強要し、特に日本製陶労働組合同盟に対し執拗に分裂を策しつつあり。又豊川鉄道争議に介在して、必要以上に争議を悪化せしめた事実あり。かかる現象はひとり愛知県のみでなく、青森県の産業組合党設立準備に官吏の関与せるものあり、新潟県下において全農支部に対し県当局より日本主義転向を勧告せる事実がある。これ等は一部官僚がその政治的地盤を築かんがための陰謀であり、又わが国無産階級運動の正常にして健全なる発展を阻害し我等の陣営をことさらに攪乱せんとするものである」云々。
 愛知県下の多数の私鉄の争議に於て、県の一特高主任が争議団側の宣言や要求書を起草し、争議解決後新設された従業員組合の役員選出を行い、従業員に向かって純正日本主義による労働組合の公認とか、皇道経済に立脚せる労資共同委員会の設置とかいう、妙な「政治的要求」(?)をかかげろ、と演説したというのが、問題になった緒口である。
 内務省では云うまでもなく、それは誤解か中傷にすぎぬと云っている。警保局としてはそう云う他はあるまい。だが、この種の事件の一つ一つの報道が、仮に正確でなかったにしても、今日の日本の官憲(官僚・官吏)が一方に於て著しく「純正日本主義」的方針を持つようになったこと、従って又他方に於てこの方針に鬼の首でも取ったような自信を得て、各種の社会問題・争議・其の他に容喙するようになった、という一般的傾向は、到底否定出来ない。現に時の後藤内相などは一国を一大家族に準ぜしめるような大家族主義を切望しており、之によって農村問題でも何でも解決出来ると考えているらしい。
 こうした皇道主義とか純正日本主義とかが一体何物であり、どういう必然性と必需性から現代に発生し、それからそれがどんな内容を有っているのか、ということに就いては、私は今まで方々で触れたから今は夫を反覆しないことにしよう。特にこうしたものが、少なくとも社会思想や政治理論として、どの程度にナンセンスであるかという批判については、一応このことは世間がよく知っていることであって、今更私の説明をまつまでもないだろう。ただ問題は、このイデオロギーがその一半は今日特に日本の官僚(新官僚と呼ばれる)の所有物だという処にあり、そして之が又所謂新官僚の唯一の存在理由をなしているという点にあるのである。

 普通新官僚と呼ばれているものは、主として内務省畑の官吏群の一部(夫に司法省・外務省のも加えて)であり、従って文官にぞくするもののことであるが、併し片手落ちなく云えば、武官であってもその急進的な分子は、丁度文官新官僚が旧官僚に対して占めると同様な内部的地位を他の武官群に対して持っている。ここにも一種の新官僚があるのである。ただ武官群(即ち軍部だが)が全体としてとも角、直接統帥の大権に基く武断的命令系統をもっているために、この急進的な分子とそうでない分子との内部的対立は、全く内部的なものに止まっていて、外部にはその対立の結果を産み出さない建前なので、文官における新官僚群ほどに独自の行動単位の姿を取っては、世間の眼の前に現われないまでなのだ。
 だが云うまでもなく、新官僚と軍部の急進分子とは、そのイデオロギーから見れば略々同一方向、同一程度の内容を有っており、従って又その社会的活動の役割から見ても、方面こそ違え、略々同一の方針を追求しつつあると云わねばならぬ。世間では往々軍部と政府との一種の対立に甚大な興味を懐くが、無論それは誤りではなくて、軍事予算と高橋的健全財政などとの関係は、全予算の上に数量上矛盾を結果しなければならず、そこに日本の資本主義社会の矛盾の官庁的な一表現を見ねばならぬのだが、併し政府はそのまま官僚的なものでないことも忘れてはならぬ。つまり政府と軍部との一種の対立は、必ずしも官僚と軍部との対立ではなく、まして新官僚と軍部急進分子との対立というようなものと関係はないのである。この意味に於て、日本の現在の官吏(文官官僚――その尖端が新官僚)と軍部武官とは、社会的に略々同一の意義を有った部署についているということを、まず注意しなければならぬ。
 従って彼等現代的官僚と軍部とは、ブルジョアジーやブルジョア政治家に向かっても、又無産勤労者・労働者・農民に向かっても、発端に於てはお互いに略々同一の態度を取らざるを得ない。一方に於てはブルジョアジーやブルジョア政治家の堕落と横暴とを叫び、他方に於ては無産者をより以上、社会的に問題にせねばならぬと叫ぶ。軍部のかつての国防パンフレットは一部の社会からは、だから国家社会主義・国家的統制経済・の提唱だと云って買い被られたものだったが、新官僚達による例の皇道主義的労働組合設立振りと云い、帝人事件にからむ「司法省ファッショ化」と云い、「外務省人事刷新」と云い其の他其の他と云い、いずれも同一線上を辿るものであることは今更云うまでもない。――ではどんな線を辿るのか。曰く「皇道主義」・「純正日本主義」・つまり資本家地主を或る程度まで凹まし、労働者農民を多少持ち上げそうに見せかけて、二つを一つのものに協調させ、かくてその間に資本主義を何とか修理しようというのが、意識するとしないに拘らず、官僚と軍部との一貫した糸筋なのである。

 処が修理を必要とするものは相当ボロボロに傷んでいるものであって、決して元通りのものにもなり得なければ、まして元より以上に良いものなどになる気づかいはない。軍部は初め農山漁村の疲弊を口を極めて絶叫したが、後にはそれどころではなく、四割七分の軍備費は日本の資本主義的打開の為には絶対必要であって、農山漁村の匡救などは、政府側で責任をもって適当に按配すればいいではないかと云い始めた。この態度に対して政府――ブルジョアジーの監視の眼は、相当にらみが利いていると見ることが出来る(例えばかつての高橋声明)が、官僚の方は之に対してどういう関係を保って行くのか、極めて不明確なのである。それも尤もで、内閣の庇護化にある官僚は、内閣から独立している軍の権能のようなものは元来有たないのだから、身分保証とか何とか云っても夫はほんの気休めで、結局はより直接にブルジョアジーとの連関に束縛されざるを得ないように出来ているからなのである。
 軍部は資本側の修理伸長擁護(?)のために、敢えてブルジョアジー自身とその方針を争うことさえ出来る。或る限度まで(たとえ「素人」であるにしても)軍部は資本的支配者をリードする実力を有っている。資本家政治家が健全財政とか内政重視とかいう退嬰政策を取れば、軍部は積極財政とか大陸政策とか南方政策とかいう積極方針に出ようとする。――処が官僚新官僚はもはやそれだけの実力はない。でその限り官僚は全く軍部に追随することによってしか、そのイデオロギーと社会活動との権利を享け取ることが出来ぬ。官僚が資本家や資本家関係の諸問題(争議・組合其の他)に容喙し得るのは、全く軍部という虎の威を借りてのことで、そこにおのずから、シッポをつかまれる弱点も残しているのだ。
 だがそれにも拘らず日本の支配機構に於ける官僚の社会的地位、その有力さは、軍部の夫と並んで、特筆に値いするものがあるのである。無論官僚(即ち官吏群)を一つの社会層の問題として見れば、夫は要するに平均すると中間層であり小市民に準ずべきものにすぎないが、今吾々が問題にしているのは、そういう社会層のことではない。この社会層にぞくする官僚が、国家の支配機構に於て支配機関と結合している時の社会的役割が、今云う官僚の社会的地位、その有力さの謂だ。一社会層として見れば軍部(将校群)と雖も平均すれば大体に於て中間層を出でない。処がそのことと軍部の支配機構に於ける地位乃至有力さとは別だ。
 軍部がこのような意味に於ける社会的地位を高め、その有力さを急に増して来たのは、近年では云うまでもなく満州行動以来のことである。それまで、特に軍備縮小(軍事教官の学校への就職・其の他)時代の軍部の社会的地位が決して高いものでなかったのを、世人は忘れはしないだろう。それと同時に併し、官僚の影も亦、決して当時は今日のように濃くはなかった。夫も人の知る処だろう。つまり、だから非常時(満州行動に原因する)以来、軍部と官僚との、社会的地位が急激に高騰したということは、常識にぞくする。
 だがこうした新しい現象は決して、今迄にその地盤のなかった処に、突然発生したのでもなければ、況んや偶然に発生したのでもないということを、今注意しなければならない。というのは日本に於ける今日の官僚と軍部との有力さは、実は今日に始まったことではなくて、日本資本主義の成立条件そのものから来た処の、日本資本主義のタイプに固有な性質に由来するのであって、金融資本の段階に這入ってもその固有性質は本質的な変化退化を被らぬばかりでなく、金融資本段階に於てはその段階に特有な深刻さを以て、この固有性質が却って愈々著しくなって来たのだという点が、重大なのである。

 日本に於ける「ファシズム」の日本特有のタイプを今日決定しているものも、取りも直さず日本資本主義の成立条件に固有する処のものであって、日本型ファシズムの本質は、ファシズムとして見れば日本に於ける封建的条件を地盤として利用することによって初めて成立し得たファシズムであり(一般にファシズムは金融資本主義段階に於ける一つの必然的――但し不可避的だとは限らぬが――な支配形態だ)、又封建的残存要素から云えば、この要素がファシズム的形態を採用せざるを得なくなった処のものに他ならぬ。
 処で、この封建的残存要素は、他ならぬ官僚的・軍事的(又警察的)な強調をもった支配形態として、明治の古くから現われているのであり、夫がその後の今日に至るまでの日本の官僚と軍部との社会的地位を、決定して来ているのである。で今日の官僚と軍部(文官と武官)の社会的地位は、決して偶然ではなく、又決して新しい現象にぞくするものでもない。日本の資本主義成立の特殊な根本条件がそうさせているのであって、従ってここから、広義の官僚(文官及び武官)の地位が有つ、社会的な重大意義が、判るのであり、又今日彼等が何故にかくもその社会的地位について、自信を有ち得るのか、ということの説明も初めてつくのである。
 私は今、問題を特に官吏に限って見て来たが、公吏に至っては、この官吏の有つ特有な社会的地位に準じて考察することが出来る。だが、社会的地位というものを、社会的待遇(例えば俸給・身分保証・恩給・社会的尊敬・其の他)というものと考えない限り、公吏の社会的地位は官吏に較べてものの数ではない。云うまでもなく公吏は国民を指導したり何かをなし得ようとは思わないだろうし、又そう思われてもいない。まして支配者ブルジョアジーをやだ。だが夫にも拘らず公吏が最近府県会議員や市町村議員からの各種の不当なる強制に対して、反抗を試みるようになって来たことは、吾々の今の問題にとって興味がなくはない。なぜなら、之を官吏の場合に移して考えて見れば、新官僚による内閣審議会(之は、素人代議士達の容喙を許さぬために試みたものだ)や、ギャング狩り(之は「有力者」を無視しなければ企てられない)やが、正に之に相当するだろうからだ。でここでも亦、公吏の社会的地位は、多少高騰しつつあると見ていいだろう。
 最後に、官公吏も亦、一介の勤労中間層のものであるという「社会的地位」は、無論忘れられてはならぬ。日本では例えば官吏のストライキというものは官吏の存在原則上、不可能なことになっているが、ここに一つの重大な問題があるのである。社会的役割としての「社会的地位」と、社会的待遇としての「社会的地位」との矛盾を、最も直接に感じ得るものの一つは(尤も実際には彼等の大抵は之を感じる程に鋭くなく良心的でもないが)、官吏だろう。それから又之に準じる公吏であろう。一例として、労働争議にかり出される役割についた下級警官のことを考えて見ればいい。
(一九三五)
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2 日本の官僚



 過去数年来の日本に於ける右翼団のテロ行為、満州事件、上海事変、それから北支事件など、所謂非常時は容易に解消しそうにもない。尤も非常時というものは決して自慢になるものではない。この言葉は非常大権などと云って、人民の各種の自由な権利が一時停止になるという大問題を含んでいるということに憲法解釈ではなっているそうだから、国民としては決して之を自慢の種にすべきものではないのである。たといこの非常時のおかげで、軍需インフレーションとか云って軍需工業が盛んになり、一時失業労働者の数が少しは減ったり何かしても、そういう事情に幻惑されて、非常時の延長などを希望する者があったとしたら、何人によらず之ほど国を誤るものはないのである。
 処でこの非常時風景を世間では漫然とファシズムという名で呼んでいるが、この名のつけ方は不正確であるばかりではなく根本的な誤謬さえも含んでいる。ただの右翼団体、反動団体、国粋団体などは、それだけではまだファッショ団体とは云うことが出来ない。それは大体、封建主義への復古運動(家族主義などがその良い例だ)であるが、本来のファシズム運動はこういう封建主義を離れても立派に成り立つのである。
 併し実際問題として見れば、日本の各種の封建主義運動は事実ファシズムと結び付いており、又ファシズム化しつつあり、又ファシズムの内容を形成しつつあるのである。処でファシズムという政治意識はその本元であるイタリア(ドイツの場合も之に入れる人があるが)に於て代表されている通り、ファッショ当人の考えでは一種の反資本主義運動(そして注意すべきは同時に又反コンミュニズム運動)であるにも拘らず、その実際上の推移の結果から云っても、又その紛れもない客観的な役割から判断しても、全く現代に於ける発達した資本主義のせっぱ詰った矛盾をそらせるための一つの血路なのであり、金融資本と産業大資本とを本物の社会主義からの攻撃から守るために考案された最後の堡塁の有力な一つなのである。ただ之が先進資本主義国ではまだあまり露骨な政治上の形として現われないのは、そういう国の資本主義の発達の経歴には、大して無理がなかったという理由もあるので、之に反して日本はこれら先進産業資本主義国の間に挾って遅れて発達しなければならなかったことにより、日本特有の封建的な残存条件を離れることの出来ぬ宿命にあるので、日本に独特な型の「ファシズム」を産んで来る条件があるのだ。
 で日本に於ける、今日の所謂ファシズム運動の台頭からも判る通り、日本の資本主義は日本固有の形に於けるファシズムをその最後の血路として考え出さなければならぬ程に、元来無理のあった資本主義であるのだが、資本主義に無理があるということは、資本主義の形が資本主義として比較的純粋でないということであり、即ち封建制度からの残存物を可なり沢山に又根本要素として、有っているということを意味する。日本の資本主義が今日他のどのような一等国乃至列強と較べても劣ってはいないと考えられるような世界的水準にまで発達しているにも拘らず、なお典型的な資本主義ではなくて多分に封建の遺制によって束縛されたものであり、或いは却ってこの封建制の残存物を利用することによって初めて生きて行ける資本主義だという点が、今日の日本特有の所謂ファッショ風景を点出させる根本条件なのである(以下日本のファシズムと云う場合、かかる限定された意味に於ける特別な「ファシズム」を指す)。
 処で、この風景を打ちながめるに就いてすぐ様注意を奪われるのは、まず第一に所謂右翼団体の存在と活動と、それから軍部の大きな実際勢力とだろう。尤もこういう人間の集りの動きよりもそういう人間達を蔭から一定のギャップを越して動かしている資本という物質の見えない力の方が、注意の目標に本当はならなければならないのであり、従って同じ人間の動きでも資本家の動きなどの方が終局的な目標として興味があるのだが、併しこの目標もこういう人間の社会的な動きを屈折して、初めて具体的に知ることが出来るのだから、やはり何より軍部と民間の右翼団体(今では右翼労働組合も含めていい)とは重大な問題だ。併し之と並んで官僚の勢力も亦之に大して劣らない重大さを持っているのである。所謂新官僚は日本型ファシズムの新しい段階を代表するものだとさえ云われている位いだ。
 官僚というものが何を意味するかは後にして、所謂新官僚という観念は岡田内閣の成立当時から人の口に上るようになった。世間の噂さによると、その前の斎藤内閣が辞職する数カ月前にすでに後継内閣の首班は岡田大将に決定していたのだそうだが、愈々岡田大将に大命が降下するまでは、殆んど凡ての新聞記者さえが夫を想像することさえも出来なかった。あまり秘密裏に行なわれた意外な現象だったので、政権を横取りされたような気持ちになった政党政治家達が、之は国維会という官僚のブロックの陰謀と策動が成功したものだと叫び、この新しく政治的権力を掴み始めたらしい官僚の精鋭をば新官僚と名づけたわけである。斎藤内閣時代に五相会議という閣議内の特別閣議に於て、時の陸相荒木大将と呼応して大いに名を挙げた農村主義者のファシストとも見做していい後藤農相が、岡田内閣で一躍内務大臣の重職に就いたことが少なからず新官僚の観念をあおったことも事実だろう。無論、後藤内相は国維会の最も有力なスターの一人だったのである(但し後に国維会は表面上解散した)。
 その当時喧しくはやし立てられた内閣審議会はこの後藤内相の腹案によると云われている。之は各省の有力な要職にある官吏を集め、之に実業界のブルジョア代表や政党の代理人を加え、更に民間からつれて来た各種の技能ある専門家を配そうと称するもので、特にそれに属する内閣調査局は官吏だけで固めた新官僚の溜りの観を呈する。国策は大体ここで専門家達の手によって決定されて、議会では素人代議士どもがただ之に賛成さえすればいいという結果にならないとも限らないから之は政党政治の甚だしい制限となり、官僚の政治的支配の機関となる、ということになる。だから内閣審議会は新官僚による政治支配の新設機関で、新官僚によるファシズムの武器だということになる。特にこの審議会で、各種の統制経済政策が確立されるとなると、経済的な理由から云っても、之はファシズムの武器だということになる。
 併し注意すべきは、この所謂新官僚の内閣審議会が、政党と資本家とへの渡りは相当円滑に行なったと見做されるにも拘らず、軍部だけは之に対して積極的な参加を与えなかった。軍の統帥に関する問題は普通の行政とは違って所謂官僚(文官)や政治家が口を入れることが出来ない建前になっているからでもあるし、又予算編成と予算要求の上から云って行政費と軍備費との均衡を保つことを建前とするだろう内閣審議会に、軍部自身の代表者を送っておくことは軍部にとって決して有利ではないからでもある。つまり軍部は審議会の外部に立って之を牽制しようと云うのである。だからこの点から見ても、所謂新官僚は軍部と一応対立関係に立つわけなのである。
 だが軍部も新官僚(一般に官僚)も、云うまでもなく終局に於ては同じ目標に向かって進みつつあることは忘れられてはならぬ。両方ともファシズムという言葉を好まず、ファシズムなるものを排斥さえするが、そういう言葉の問題を離れて両者が目標とする一致点は明らかだと云っていい。例えばかつて軍部も新官僚一派も農村問題という特別な形態の問題の解決を何より重大な殆んど唯一の社会問題と考え、又は少なくともそう喧伝する点に於て、全く一致していた。ただ国家の予算を立てる段になると、その精神に於てはそうでないに拘らず、ただ技術的にだけは対立関係に立つことになるに過ぎない。外国新聞などがことしやかに伝えているらしい外務省当局の方針(当時の広田外相も新官僚のスターである)と軍部(少なくとも駐屯地出先軍部)の方針との対立とかいうものも、やはり右のような形のものに他ならないだろう。新官僚は軍部のように〔積極的〕でないことは本当だが、それだけ又落付き払った日本型ファシズムの指導者である事を見落してはならぬ。
 新官僚なるものは偶々、官僚が他の社会勢力への関係を自分の方から積極的につけようとすることから必然的に取らねばならなかった新しい形態に過ぎないので、新官僚が如何に有力なファシストであろうと、云うまでもなく新官僚だけでこの日本をどうしようと云うのでもなく、又事実どう出来るものでもない。
 日本の今日の政治方向を決めて行くものとして、大衆とか無産者大衆とか労働者農民とか云ったものを、政治の要素に数えないのはどうしたわけかと問われるだろう。併しここで云った政治という言葉には特別な約束があるのである。この特別な約束を有った政治というものが何を意味するかは今更云わなくても判ると思うが、処でそういう意味での政治を行なう責任を表面上担っているものは何かというと、それは資本家でもなければ軍部でもなく、政党政治家でさえなくて、実は取りも直さず官僚なのである。つまり官僚とは国家権力によって行政を行なうもののことを意味するわけなのである。
 処で一体この官僚というものが何であるかを、もうソロソロ考えて見なければならなくなる。官僚という言葉は官吏の一群を或る点から批評した言葉であって、官吏はややもすると官僚的になるということを云い現わす言葉だと見ればいい。官吏群が社会に於て或る一定の勢力を持ち、官吏同志のブロックが出来上ってお互いの間にギルド的な意識が生まれ、排他的になったり傍から特殊群と見做されたりする時、官僚(官吏の同僚関係)という観念が産まれる。官吏が資本家や政党や軍部に対して、又更に国民や社会大衆に対して、特殊な支配者的な政治勢力を意味するのは、全く官僚という資格に於てでしかあり得ない。
 尤もここにいう官吏という言葉は必ずしも正確ではないので、所謂文官ばかりではなく武官や軍部の文官も含むし、警察官も宮内官吏も含んでいる。そればかりではなく、所謂官吏だけではなく一般の公吏や官公庁の雇員までも含むことが往々だ。とに角広くお役人又はお役人に準じるものを、法律上の用語としてはとに角社会上の用語としては、広く官吏と見做すことが出来る。さてこういう広い意味での官吏の数は今から十年前の統計によると百万人を越えている。だから官吏は官吏としてそれだけで日本の社会に於ける特別な階級か層をなすようにも思われるが、併しそれは単に形式的に考えるからそうなのであって、内容的に当って見れば、その内には勅任から雇員人夫にさえ至る階級別があるのである。雇員の下っ葉役人や人夫である小使がいくらお役所を嵩に着て横柄に構えようとも、実際に官僚という資格を有つものは恐らく高等官の一部分のものでしかあり得まい。気持ちは如何に官僚的でも、それだけで官僚という実際の資格は備わらない。官僚という以上国家権力による行政上の実際的な権威が必要なのだ。
 一般に官吏は他の職業人に較べて社会的に優遇されている。黙っていても昇進し又昇給することは当然の約束なのだし、場合によっては形式的にせよ身分保証まで出来ている。割合若くから恩給はつくし遺族扶助料もつく。だがそういう社会身分の優越は官吏の進取の気象を傷けこそすれ官僚としての支配者的政治手腕を産む原因とは考えられない。又鉄道省のお役人のように、国民を支配するよりも寧ろ之にサービスしなければならぬ官吏は、すぐ様官僚とは一寸云えまい。だから官僚というものは、官吏の或る小部分に基いて而も或る特殊な場合に発生する処の特色を官吏全般へ漫然と推し及ぼしたものに他ならない。――処が日本では、官吏は官員様と云って、その出来上りの初めから、官僚としての権威が備わっていたのである。
 前に日本の資本主義が封建制の残存物に基いたものであることを述べておいたが、日本の官吏が初めから官僚として発生したという事実は、直接之と関係があるのである。元来明治維新の社会変動は、初めは徳川幕府下に於ける封建制度のただの編成替えを意味したと云ってもいいのであって、将軍徳川藩に代って有力藩が封建制の建て直しに進もうとしたのであったが、併しこの封建制の編成替えという社会変動の形が、やがて中央集権の形を取るようになり、そこから不完全ながらブルジョア改革、或いはそのための準備の形に移行することになったのである。だから明治初年の政府は全く、旧封建領主から解放された藩士が官吏となって組織した藩閥政府であったのである。この藩士達の官吏が、封建制の遺物を利用して発達した日本資本主義の特別な産物であることが、ここからも判ろう。処でこの藩士こそやがて官僚軍閥との母胎になるものなのである。
 一体日本の資本主義が封建制の遺物を相当完全に整理し終らない内に、大急ぎで資本主義の姿を取らなければならなかったのは、他ならぬ外国の先進資本国に対して対抗しなければならなかったという事情からである。之は殆んど凡ての後進資本主義国の運命なのである。その結果この資本主義は、自然に下からの庶民(当時は大衆をそう云った)の側から萌え出る代りに、上から政府が半ば強制的に助長発達させねばならなかったものであった。だから日本資本主義の初期に当っては、自由主義や民主主義の代りに、国家による干渉主義が採用されざるを得ない。処で、その任に直接当るものは他でもない官吏なのだから、官吏が日本の資本主義発達のために果さなければならなかった支配者的役割は、単に行政的な範囲に止まらずに、甚だ重大なものであらざるを得なかった。そこでこの官吏の背後に控えた国家の権力は、愈々益々官吏の権威を高めたわけだ。こういう権威を帯びさせられた官吏が、所謂官僚なのである。
 明治維新以来の官僚の役割は、殆んど日本独特のものと見ていいだろう(ドイツは割合この点、日本に似た処を有っている)。ブルジョア急進主義や自由民権論に対して闘わなければならなかったのはいつもこの官僚であった。憲法発布後大正の半ばに至るまで、所謂政党内閣は出現しなかった。官僚と軍閥(之も亦一種の官僚と考えることが出来るが)との所謂非立憲内閣が大正七年まで続いてから、初めて原総裁による政友会内閣が現われたという次第だ。
 併し官僚の役割の大きさはいつも同じだったのでは無論ない。「官尊民卑の弊」は、日本の資本主義がブルジョアジー自身の足による一人立ちが出来るようになるに従って、次第に衰えて来る。官僚は段々と元来のただの官吏にまで、単なる行政技術家にまで、他動的で非人間的でその癖横柄で繁文縟礼的な単なる事務の機械的な執行者にまで、萎縮して了った。最近までの官僚は名は官僚でも専門知識を欠いた素人どもの政治家にコヅキ回されていた俗吏に過ぎなかった。――処がこの政治家自身の社会的信任が、所謂ファッショの波によって近時急に洗い去られるに及んで、立ち直り始めた官僚が例の新官僚だったのである。だから新官僚の発生は明治維新式な一種の王政復古の現象なのである。之は日本型ファシズムが遠く明治維新に由来を持っているという事実を物語っている処の日本型ファッショの一翼を意味する処の存在である。そしてこの点、軍部(之又特別の来歴と特別な権力根拠とを有った一種の官僚である)に就いても亦、同様に考えるべきものがあるのである。
(一九三五)
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3 警察機能



 警察が暴力団狩りを徹底的に遂行するということは、警察自身として相当の危険が伴うという意味に於て、必ずしも安易な警察道ではないだろう。併し社会人の日常生活を保護し身辺の安全感を保証することが警察の唯一の使命であるべきだと思われる以上、暴力団狩りは警察としては当り前過ぎる程当り前で、別に感心することも当らないし、本当をいうと特別に感謝に値いすることでもない。警察を感謝するなら普段から常々感謝すべきであって、暴力団狩りに際して特別に感謝するということは、よく考えて見ると筋の通らないことだ。
 併しそれは理屈であって、かくいう私自身も大いに警察のギャング狩り方針に感謝しているのが事実なのだ。併しギャング沙汰は決して今に始まったのでもなければ、又所謂暴力団が特別に最近になって殖えたとも思われないのだから、もし之までもう少し熱心に暴力団狩りに力を入れて来てさえいたら、警察は今更ワザワザ感謝されるような羽目に陥らずにすんだだろうと思う。
 なる程この数年は非常時の連続である。有名な人物が殺されたり殺されかかったりする。十七八の子供までが大人の真似をして人殺し団を組織したりしている。之が所謂非常時なのである。処で軍部あたりに云わせると、一九三五・六年がこの非常時の絶頂だとか、或いはもっと延びて一九三七・八年が本当の非常時だという。そうすると当分この人殺し風俗は続くと見るのが愛国的認識であるかも知れぬ。だがこういう行為の主体は大抵必ずしも所謂暴力やギャングではなくて、却って愛国的な志士や何かなのだ。だから非常時になったから所謂暴力団が特別に盛んに横行するようになったとは云えない。従って警察当局が今更思い出したようにギャング狩りを徹底し始めることによって、不当の感謝をかち得るということは、必ずしも警察当局の名誉にはならぬ。
 警察当局が特別に感謝されればされる程、それはこのギャング狩りが如何に思いつきのように突然であるかを示すもので、この感謝は実は之まで警察がこの最も警察的な仕事であるべき暴力の取締りを忽せにしていたという、過去に対する皮肉に他ならないかも知れない。警察は之まで、思想警察とか風紀警察とかいう極めて形而上学的な警察行動ばかりに興味を持っていて、之に較べれば一般民衆が身辺に感じ得るような経験的な危険を防止することにはそれ程興味を持たなかったが、今度は突然その罪滅しをしようと云うのである。無論大いに徹底的に、自信を以てやって欲しいものである。罪を改めるに吝かであってはならぬ。
 尤も警察に追随する一部の世間人に云わせると、暴力団検挙は決して突然な木に竹を継いだようなものではなく、一定の連続性と必然性とを有っていると考えられるらしい。つまり左翼の方が片づいたから右翼の方に手入れをする順序になったので、それがギャング狩りに他ならぬというのである。ギャング狩りは思想警察の延長だというわけである。
 だが日本の警察が右翼思想運動に対して本当に弾圧を下すなどということは、云うまでもなく嘘である。弾圧されるのは暴力団であって右翼運動ではない。右翼運動は暴力団から今日では可なりの距離に横たわっているのが事実だから、それでこそ暴力団狩りも徹底され得る条件が見出されたのである。所謂暴力団としては主として職業的な又は趣味上の与太や不良などを数えるべきで、暴力を本当に社会的に公然と行使する連中は、暴力団やギャングには這入っておらぬ。
 だがそれにも拘らず、暴力団とかギャングとかいうものをもっと広範に哲学的に理解せよというなら、そしてそうすれば右翼団体の一等過激な(右翼小児病! と呼ばれている)ものもその内に這入るというなら、話は中々面白くなって来る。無論そうした暴力団性、ギャング性、を持つものは、決して所謂暴力団乃至所謂ギャングには限らないのだからである。一体ギャング性とはどういうものなのか。
 単独で暴力を振るったからと云ってギャングではない。ギャングには必ずその背景がなくてはならぬ。即ち何等かのグループがあって、それを代表した暴漢でなければギャングの資格はない。このグループは併し、云うまでもなく暴力行使を中心として形成されるグループで、例えば政友会の代議士が議会で他人をなぐった処で、政友会というグループは暴力団だということにはならぬ。之に反して院外団の壮漢が議会の入口で議員を投げ飛ばせば、その院外団はやや暴力団という概念に入れられ得る資格を世間から与えられるだろう。
 広義の暴力団には暴力を行使する目的から云って色々の区別が存する。渡世稼業の唯一手段として暴力を直接に営業とするものもあれば、又一種の社会的趣味が主になっているものもある。前者が所謂暴力団のようなもので、後者が不良や与太者の類である。無論不良や与太者のこの社会的趣味もその経済上の効果と離れてはいないのだが、併し之だけではまだ暴力団の一等高等な意義が捉えられていない。広義の暴力団の最高の意義は、その暴力の行使が或る何等かのプリンシプルに基いているということにある。というのは暴力の行使が単に懐勘定上又は趣味上の理由からでなく、無論そういう理由と離れてはないが、併しそれ以上に、何等かの観念的なプリテンションに基いているとき、本格的な暴力団の資格が備わるのである。例えば強きを挫き弱きを助けるとか、社会主義のためとか、忠君愛国のためとか、いう大抵ごくステロタイプ的なプリテンションがあって、之が主張ともなり又は口実ともなって、ここにこの暴力団の暴力行使の権利づけが発見されるのである。
 こういう尊敬すべきプリテンション、イデオロギー的自負を、強ち経済や趣味や口実や弁解とばかり見ることは出来ぬ。元来こうした現象には、そういう嘘と本当とのけじめはハッキリついていないので、当人達自身もその区別は判らないのだ。それは今日の多数の右翼団体の内実に少し当って見ればすぐ判る。そこでこういうプリンシプル(政党ならば党是という処)に基いて暴力団の各種の観念的な組織が出来上る、道徳や習慣が出来上る、そして夫が歴史にさえ伝承される。或いは仁義となり或いは何々「魂」となり或いは何々「精神」となる。営業的な狭義の所謂暴力団でも、又趣味上の不良与太でも、こうした仁義や魂や精神を自然的に持つようになることから、やがて一つのプリテンションが、プリンシプルが、生まれることが出来る。だから一般的に云って、プリテンション・プリンシプル・に基くことが、暴力団の最高の意味だと云うのである。
 暴力団のこのプリテンション・プリンシプル・がどこまで本気で、どこから嘘なのか、当人達自身にも判らない位いだと云ったが、同じことは暴力団のもう一つの性質である反社会性に就いても云われるだろう。尤も反社会性などというと、ブルジョア社会学のブルジョア社会に対する忠勤振りを連想するかも知れないが、客観的に見て果して反社会的であるかないかは問題外として、今は当人達自身の意識に於て、反社会的な気持がどこまで本気なのか、自分でも判らないのである。旦那に捉って年貢を納めればスッカリ「社会」と妥協して転向(?)して了うのである。尤も之は乾児を大勢もった大強盗などの場合に局限されているというなら、社会性対反社会性の関係を、公的対私的の関係に直して考えれば、この関係は一般に広範な暴力団現象にあてはまるだろう。元来ギャングは多少とも反社会的と自覚する限り、社会的に私的な立場に立つものだが、処が社会的に公的な立場に立った何等かのグループでも、その公的な立場が実際問題として私的化されると、ギャングの資格を得て来る場合が少なくない。社会や国家の公的乃至半公的機関も、往々にして私的化された公的半公的機関として私的国策権力(?)に基く暴力団化することはいくらでも例のあることだ。そしてそのような場合、どこまでが公的なのかどこからが私的なのか、無論当人達自身にも一向見当がつかない。
 広義の暴力団の著しい特色であるこの公私の不分明は、前に云ったプリテンション・プリンシプルの真摯さの不分明と直接のつながりがあるのである。プリテンションやプリンシプルを嘘にせよ本当にせよ看板に掲げる場合は、必ず之を社会的に公的なものとしてかかげるのである。そこに仁侠とか正義とか忠君愛国とかが叫ばれ、それから銘々の気質や仁義や「精神」が社会的な客観性を要求し出す。殊に何々精神の発揮や発露ほど、ギャング性を帯びたものはないのだ。
 ギャング現象は勿論社会の比較的恒常な一現象であるから、いつの世にもどこの世界にも見受けられるものだろうが、併し平常時の市井の日常生活に巣食うギャング性は、必ずしもギャングの最高本質を顕彰するものではない。高々街の紳士などに見受けられるような低級ギャング性しか見当らない。本当の高級ギャング性が現われるのは、一般に云って社会の自然的社会的又は人工的非常時に於てであって、つまり恰も何等かの何々「精神」が高唱されねばならぬ時期に該当するのである。関東大震災という自然に基く非常時に際して、暴徒の「襲撃」に備えるために自警団的精神が特別に緊張し、そして東京市民の幾十パーセントかが立派にギャング化したのである。同時に××××をやると青年団は国防精神によって手術中の医者をなぐったり何かする。どれも公的乃至半公的なグループが曖昧に私的化した場合に他ならない。
 警察は必ずしもこうした広範な意味での暴力団を弾圧しようとも思わないし、その能力もない。弾圧されるのは低級ギャングでしかない。それはさておき、内務省は日頃、特に警察精神の涵養と発揚とに力を致している。警察部長は警察官の制服で部長会議に出席するよう特に厳命されている。警察の歌も出来るし警官の行進曲も出来た。さてこの澎湃たる警察精神を以て、非常時一たび至る時警察当局はどういう社会的機能を営むだろうか。無論警察自身が〔ギャング〕化すというようなことは絶対に不可能なことである。
 警察当局(独り警察当局に限らず広く検察当局と云ってもいい)はこうしたことが絶対に不可能であることを、今から国民の頭にたたき込むためにも、始めた暴力団狩りは出来るだけ広く出来るだけ深く、又出来るだけ長く、遂行する必要があるだろう。
(一九三五)
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4 膨張する日本



 世間が北支問題に絶大な関心を寄せた理由は、よくよく考えて見ると結局、それが日本とどこかの国との戦争へ導きはしないかという惧れからだった。所謂現地にいるのでもなければ出先意識も持っていない処の普通一般の日本人は、北支那に於ける諸勢力の不埒な排日排満の動きを直接目にしているわけではないから、排日排満の方は余りピンと来るとは限らないので、それより直接心配になるのは国家総動員式な戦争なのである。何より貴重な日本人の生命が大量的に失われたりして而も自分自身もその大量中のあるか無いかの一粒に化しはしないか、という心配なのである。之は云うまでもなく極めて下根な心配であるが、又ごく有態の心配であって、之が直接心配にならぬと云う人間は、余程の嘘つきだろう。そういう人物は万事信用のおけない人間で、公明正大な日本人の風上にも置けない人間だ。
 尤もどうしても必要な場合には、国家のため命を捨てることは必要でもあるし道徳的なことでもあるが、併し国家自身が折角、そういうことになるべくならぬように、万事を犠牲にしてまで莫大な国防費を費しているのに、それが戦争になりましたでは、全く国家に対して申し訳のない話しだろう。世間の普通一般人が戦争を惧れるということの内には無意識の中にそういう忠良な意味が含まれているのである。
 だが幸にして北支問題は戦争へは導かなかった。よく考えて見ると、導く筈もなかったし、導き得るものでもなかったのである。中国中央軍と党部とが河北省を撤退するという中国側の最後の解答によって、日本軍部側の対支要求は都合上全部容れられることになって、ここに河北省をめぐる限りの北支問題は一段落となったわけである(一九三五)。中国国民もそうだろうが、吾々日本人も(軍需工業や戦争に特別な利益を感じる商売人は除いて)之で一まずホッとしたと云っていい。
 アメリカやイギリスの一部の世論には、この北支問題を目して北支独立に導く心算ではないかと憂えた向きもあったようだ。だがそういうことは云うまでもなく無意味なデマに過ぎない。一体そんなに容易に一つの国が独立出来るものと考えるのが間違いの元で、満州がなぜ独立出来たかと云えば、それは満州人種の「三千万民衆」の切々たる懇望に基いたからこそであった。処が北支那の民衆の切々たる懇望は何かというに、却って不埒にも排日排満の形を取って表面に現われたものだったのである。之では仮に独立国が出来ても、満州国に対立するための独立国にはなっても、満州の友邦としての独立国になる筈はない。何のために日本がそんな独立国のために力をかすだろうか。
 日本軍部が目的とした処は、そんな独立運動などではなくて、単に全く日、満、支三国間の平和そのものにしか過ぎず、又その一部分としての北支一帯の和平に他ならぬ。つまり北支一帯に於て、一種の緩衝地区とも云うべき安寧秩序の確保された地域が実現されることだけで満足するものに他ならなかった。満州国のこの方面の外郭にはすでに停戦地域なるものが設けられていたが、その外郭に更に緩衝地区を設けたわけである。そして夫が成功したのだ。この緩衝地区の更にその外郭が次には何という名前のものになる筈であったか、それは知らないが。
 新聞によると、一九三五年六月十一日、即ち河北省問題が一段落ついた直後、軍部の天津会議なるものが催され、そこで「将来の建設的方策」については何れ後から具体的方策を進めようということに決ったそうだが、この建設的方策ということが併し、どういうことだかハッキリとは判らない。当時或る勢力が軍部と相談して北支進出を計画していたそうだから、案外そういうことが「建設」的方策のことだったかも知れない。
 だがいずれにしても北支問題は一段落ついたので、之で安心だと思っていた処、翌日の六月十二日の北平からの通信によると、今度は問題は一転して察哈爾(チャハル)省に向かったというのである。河北省の悪玉であった于学忠が退いて安堵したばかりの処を、この于学忠よりももっと悪質な悪玉はチャハル省の宋哲元だということが判ったから、正直な国民はガッカリすると同時に、向っ腹が立って、八ツ当りがしたくなったのであった。が冷静に考えて見るとこう上手に幕合いの長さを計って現われるような舞台は、よほど筋書きの通った劇に違いないということに気が付く。それに気付いた人は、そこで却って段々興味を覚え始めたかも知れない。どうせ戦争になる心配なしに幕は目出たし目出たしで下りるだろうから。
 さてそこで関東軍がこの宋哲元軍を徹底的に糺弾すべく対策を協議している最中、恰も頃を見計らって、宋哲元軍は、関東軍と国民中央政府とからの警告にも拘らず、満州官吏に対して突如発砲を敢えてしたものである。が、併しこの偶然事は残念ながらこの物語りをあまり面白く展開させるには至らなかった。関東軍の土肥原少将の中国側の秦徳純氏との間の誠意ある会見によって、一、宋哲元氏はチャハル省政府主席と第二十九軍長の職を退き、二、今後省内に於ける排日行為を再発させぬ保証を与え、三、熱河省一帯地区の支那軍隊を他へ移動して同地域内には今後支那軍を駐兵させないこと、等々の覚書を交換する事になったからである。つまりチャハル省も亦、河北省と同様に緩衝地帯だということになったわけである。して見るとこの幕は第一幕のただの延長か繰り返しでしかなかったわけで、興味を有って期待していた不心得な人間達は、やや失望したかも知れないが、併しそれだけに、早く幕になったのは助かったというものである。――尤もその後、同年七月に這入ってからも、宋哲元軍は時々満州国へ不法越境しては、中国側を恐縮させたのではあるが。
 チャハル問題が一段落ついたのは六月二十五日だった。処が一週間の休憩をおいて、七月二日になると、舞台は今度は上海に移って『新生』という中国の雑誌の不敬事件なるものが発生したのである。この雑誌に不敬な文章が載って発表されたというのであるが、その文章の内容に就いては知り得ないし、又吾々庶民は知るべきでもないだろう。だがいずれにしても中国が日本ブルジョアジーの商品である日貨を排撃したり、日本にとっては一種の外国でもなくはない満州の国境を侵したりするのは、日本人としてまだしも我慢するとして、遂には不敬事件をまでも惹き起こすに至っては、もはや赦すべからざるものがあるのである。もし日本のブルジョアジーや日本の軍部の対支対策がまだ充分にかかる行為を防ぐに足りなかったためだったとすれば、恐懼の至りでなくてはならぬ。
 軍部はだから、遠く満州事変や上海事変、又例の河北省問題やチャハル問題の、一貫した劇の筋書きの上から云っても、当然この問題の正面に立って働くだろう、と単純な吾々は考えたのである。処が意外にも外見上は必ずしもそうではなかったのだ。七月二日有吉大使は、外務省の回訓に基いて、唐外交次長と会見し、我が要求を明示して正式の抗議を通告した。その内容は先にも述べたような恐れ多い理由によって、必ずしも明らかではないが、併し問題は、この事件が北支問題とは多少異った特色を有っていることが明らかだという処に存する。
 時の広田外相は同月五日の閣議に於て云っている、「今回の事件は先の北支停戦協定違反事件と異り、純然たる外交交渉案件である故、専ら外交当局をして折衝せしめている。従ってこの交渉に軍部が干与しているものの如く視るものがあれば、それは大きな誤解である」云々。時の林陸相自身も亦之に相槌を打って、「今度の問題は外相の云わるる通り、純然たる外交問題である故、軍部が直接積極の行動に出るべきものではない。よって東京並びに出先の軍憲に対しても、この旨を厳に訓達しておいた。従って出先軍憲の意見が新聞等に表われていても、これは聞かれる故、個人的意見を陳べたもので、軍部としての意見を代表したものではない」と云って他の閣僚の諒解を求めている。――なる程云われて見れば尤もで、この事件に限って珍しく外務省の係りであるらしい。それを他の閣僚までが軍部の仕事と思い違いしていたとすれば、対外折衝は軍部のやることだというような考えが閣僚自身の習慣になった程に、外務省側の独立行動は珍しかったからに過ぎぬだろう。
 併し之を軍部の仕事と思ったのは日本の迂濶な閣僚達だけではない。肝心な唐次長が、軍部の意向を聴取するために、南京へ帰京する予定を延ばして、在上海の日本武官を訪問して歩いた。特に磯谷少将は蒋介石氏直参と称される張、陳、両氏との三時間に渡る会見に於て、支那の不心得を懇々と説いたと新聞は報道している。無論こう云っただけでは軍部がこの交渉に干与していたとも云えるし、いなかったとも云えるわけだが、折衝の名義人は外務省でも、外務省の独立な折衝だと云えないことは明らかだ。軍部の監視の下に外務省が衝に当ったと云った方が正直な云い方なのである。
 無論、事件については中国側に苦情のありようはない。中国側は、党部の名に於て、日本側の要求全部を容認することとなったのだが、之に対して例の磯谷少将は語っている。「今回の事件に関し中央党部はわが方の直接要求条項を逐次履行しつつあり、稍々誠意の認むべきものがあると考えるが、軍としては、有吉大使が希望条項として提示した上海市党部の撤収を事件の根本的解決策と思考し、従来の措置では未だ全的に満足することは出来ない。この実状に鑑み、中央党部が一日も早く自発的に上海市党部の撤収を断行することを期待する」と(一九三五年七月九日『東朝』紙)。だからここで明らかなように軍部は外務当局の交渉振りの監視に任じていたわけである。単なる個人の意見として、右のような言明が出来る筈はない。――それに就中注目すべき点は、党部の撤収なるものは日本の軍部否出先軍部が、北支問題でもチャハル問題でも持ち出して中国側に容認させた根本要求の一つだということなのである。だからこの点で、不敬事件に就いては、北支事件――チャハル事件――不敬事件、という具合に話しがうまく続くのである。
 軍部のこの監視振りは併し、上海に於ける日本人居留民にそのまま反映した。民団各路連合会では緊急会議を招集して当局(即ち外務当局)を鞭撻すべし、という意見が一時有力となり、軟弱外交(之が日本の外務省に関する伝説である)を文書で痛罵する者もあるというわけだ。併し海外に居留する日本人の動きなどは、尊重すべきものではない。現地局地に眼がくれて、それに植民地根性丸出しが多いから、一般社会的な問題にすべき現象ではない。こうした云わば居留民的ショーヴィニズムとは関係なく日本は東洋の平和のために、忍ぶべからざる行為をも忍んで遂行したのだ、ということを忘れてはならないのだ。
 一体北支問題は、広田対支外交に基いて日支経済提携が成り立ちそうになった丁度その時に、不幸にして突発したものだった。吾々は折角出来かけた東洋平和の基礎が、際どい処で覆されたと思って失望したのだが、併し雨降って地固るの喩えもある通り、外務省式の二階から目薬的な日支親善の代りに、北支事件の結果成功しそうに見えたものは、もっと手近かの「北支経済援助」だったのである。一般的な日支親善の代りに、北支那に於ける日満経済ブロックが成り立つことになった。つまり、日満ブロックの北支進出ということだ。之が北支の例の緩衝地域の意味でもあったのだ。――だが北支問題の結果は単に北支に於ける日支親善だけではなく、夫が同時に国民党中央部の多少の勢力編成がえを伴った結果、親日派の権力の増大を来したので、一般的な日支親善の実質も亦段々物になりかけて来たと世間では見た。
 これほど結構なことは、支那にとっても又とある筈はなかった。例えば今まで云わば一種未開の地であった北支那に、鉄道網が敷かれたり、製鉄、石炭、電業、電信、電話等の産業交通が愈々盛大になったり、満州国の貨幣が一律に通用したりすることによって、北支は全く文明開化されるわけだ。イギリスはこうして印度に恩沢を施した。日本はそれを更に親切な仕方でやるのだから、支那側に文句のある筈はないのである。――処が頑迷固陋の中国人は、自分の畑を他人が耕して呉れるのを、どういうわけだか余り歓迎しないのではないかと思われる。例えば当然無条件に支那側が恐縮して然るべき例の不敬事件に就いても、中国国民は必ずしも恐縮しなかったらしい。却って、この事件の責任者の公判廷には、排日宣伝ビラが貼られたり、傍聴人が被告と握手して之を激励したり、弁護人と傍聴の党員とが、計画的に騒擾を起こしたりしたのである。傍聴者達は騒擾を起こしておきながら一人として逮捕されるものがないどころか、凱歌を奏して法廷外に出て行ったというのだ。
 日本側代表と日本国民自身とが同じ意見かどうかは別として、少なくとも中国に於ては所謂親日派なる中国側代表者と中国国民とは日支関係に就いてまるで別な意見をもっているらしい。すると日本は、否少なくとも日本側代表者達は、中国国民そのものとは全く別な何物かと、和平の握手をしたこととなる。すると例の北支の文明開化の聖業なども、果して中国国民(北支那はまだ中国政府の領土なのである!)にとって利益になるのかどうか当てになったものではない。現にこの北支産業開発に際して、一等痛手を蒙るものは従来の蒋介石氏の二重外交を支援する浙江財閥だと見られたが、それでは日満の助力によって北支国民大衆の大衆財閥(?)とでもいうものが支配するのかというと、そうではない。そこに支配するものはより有名なブルジョアジーとより優雅な兵備とである。自分でなくて他人が住んでいる立派な建築や、コンクリートの立派な軍用道路を見て、自分までが幸福になったと思い込む人間は、よほどの田舎者だ。中国国民が悉くこの種の田舎者でない限り、日満的パックス・ローマナ(Pax romana)、ローマの平和も、心細いものだ。
 処がまだまだ、この日満的パックス・ローマナには他に問題があったのである。満州帝国の辺境を侵すものは純然たる支那兵とは限らない。ソヴェート治下の外蒙古軍まで、越境の沙汰に屡々及んだことは周知の通りなのである。ハルハ地方の外蒙兵越境事件に就いて満州帝国が外蒙古と交渉中の処を、又々ハイラステンゴールに於ける同様な事件が惹き起こされた。外蒙代表の散某はソヴェート政府としめし合わせて、故意に事件の解決をおくらしている、という満州国側の発表であった。満州帝国は日本帝国ではないから、ひとの国のことはどうでもいいようだが、併しその頃ソヴェート・ロシアは駐支大使をして北支事情の調査を行なわせ、日本の行動を探り始めたということだった。チャハルに於ける日本軍の進出を検べるというらしかったが、特にチャハルは大分外蒙古に近いのだろう。
 併し日本軍部即ち関東軍側に云わせれば、武装した赤軍が、ソ満国境を越えて満州国領土に侵入したことは、枚挙に遑のない程頻繁だというのである。第一、林陸相が内閣審議会で報告した処によると、ソ満国境には二十万の赤軍を配備して戦略的展開を行なっているというのである。二十万人もいれば十人や二十人時々国境からハミ出すこともありそうなことで、この大軍に対比しては、関東軍はわずかに行軍状態とも云うべき有様だと陸相が説明しているその少数の関東軍さえが、ソヴェート政府に云わせると矢張り時々困るというのだ。
 駐日ソヴェート・ロシア大使ユレニエフ氏は一九三五年六月二十六日広田外相を外務省に訪問して、同年六月三日ソ満国境楊森子付近に於けるソ兵越境問題は、実は日本兵に原因するものだと抗議を申し出たのである。外相は、事件が全く満州国領土内で発生したのだからソ兵側の越境によることは明らかだと反駁し、併し今例の日本式の現地解決主義によってハルピンに於て交渉中だから、その話しはまあ後にしましょうと云い、それよりも日満ソ三国国境委員会設置案を具体化する方が外務省として手頃な交渉ではないかと云い、否それよりもソヴェートの国境軍二十万は多すぎて危険だから、半分か三分の一に減らしてはどうか、という具合に、ユレニエフ氏へ持ちかけた。現地解決ということを知らないユレニエフ大使は、ウッカリ問題を霞ヶ関などに持ち込んで来たので、逆にとんだ負担を負わされて引き下らざるを得なくなった。
 そこでソヴェート政府は同年七月一日同大使に命じて、今度はソヴェート側から、日満軍の国境に対する厳重な抗議を日本政府に対して申し込ませることにした。当時日満軍隊並びに艦船がソヴェート領土及び領内水路に入ること八件もの多きに及んでいるが、之は日ソ国交上重大な結果を孕むものと信じる、日満軍隊艦船が領土水路を侵した場合、ソヴェート政府は日本政府の責任を問うこと、ソ満国境に於ける日満軍当局の行動は危険且つ許すべからざるもので、日本政府はよろしく該軍の挑戦的行動を阻止すべく断固たる処置を宣すべきこと、と云ったような内容であった。つまり広田外相はスッカリ美事に復讐されたというわけなのである。
 外務省当局は、云うまでもなくこの「ロシア側の宣伝的態度」に不満で、第一に事実を虚構するものであり、第二に広田――ユレニエフ――国境問題委員会案を無視したものだ、と言っている。ソヴェート側が日本側の虚をついたように見えるこの抗議は、外国の外交関係者の見る所では、国境撤兵交渉に対するソヴェート側の牽制策ではないかと観察された。――果して当時のモスコーからの情報によれば、国境委員会設定の件に就き、ソヴェート政府に於て応諾の色があると報じられた。之によって撤兵問題が或る程度まで具体化することになれば、北満鉄道問題解決以来の「日ソ親善」の実が挙がることになっただろう。
 処が之は単に外務省式な見透しであって、関東軍が現地的に幅を利かせている満州国自身にとっては、すぐ様そうは行かぬらしかった。同国の外交部は、話を逆に持って行ってソヴェート軍が撤退しない限り国境委員会設置には同じ難いという意味を言明している。と角広田円滑外交に基くものは、北鉄買収問題と云い、支那公使昇格問題と云い、満州国の興味からやるようだが、之は何かに魅入られている結果だと思えば解釈がつく。――処が又広田対ソ外交にとって不利なことは、日ソ漁業関係でソヴェート側がいつも条約無視をやっているということなのである。当時の話ではカムチャツカ東海岸の某地方にソヴェート政府国営の漁区が三つ設定されたという報道だが、漁区の設定は日ソ両国の会議によることになっていて、このソヴェートの三漁区の設定は明らかに条約違反になるという農林省の解釈であった。同省は外務省と協議の上、ソヴェート・ロシアに対して厳重に反省を求める意向を示した。だが漁業問題の解釈のためにだってすぐ日本の駆逐艦がやって来るのを見ても、不敬事件と同じで、矢張り直接軍部に関係しなければ話しはおさまらないのだ。
 さて以上見て来たようなトラブルスは、是が非でも膨張しなければならぬ日本としては、或いはその膨張を同じく合理化させねばならぬ日本としては当然、我慢しなければならぬ処のものであった。だがただのトラブルスならば我慢するのは大したことではなく、単に心懸けの問題に帰着するかも知れないが、そのトラブルスが同時に非常に金のかかる(十二三億円から十六七億円もかかる)困難だとすると、夫は容易ならぬ困難だと云わねばなるまい。日本はその膨張のために、或いはその膨張の合理化のために、今やこの到底普通の民族では忍び得ないような困難を忍んで来ているのである。ソヴェート・ロシアは割合明朗な気持ちで、洒脱に戦機を逸脱して肩をすかしてやって来たらしいが、中国の国民になるともはや決してそのような楽な気持ちではなかった。身をかわすにさえも膏汗がにじみ出たのである。処が日本の国民も亦、同様にこの到底忍ぶべからざる困難に耐え忍んで来たのである。して見ればつまり、日支国民はお互い様ということになるのである。しかしそれにも拘らず日本帝国そのものは膨張して行くのであり、中華民国そのものは萎縮して行くようでもあるのである。――之が日本華かなりし一九三五年の大陸の風景であった。
 尤もあまりの困難に耐えかねて、時々不吉なうめき声を出す不心得な日本人がないではない。併しそんな女々しいうめき声は甚だ豪勢な怒号で一たまりもなく吹き消されて了う。当時東京の某大新聞記者町田梓楼氏は、市内の数カ所と信州の教育会とで「非常時日本の姿」について講演したが、在郷軍人会は之を反軍思想で赤化宣伝だと云って大声で怒号し始めた。該新聞社に町田罷免を迫ったり紙上謝罪を要求したり、果ては該新聞紙不買同盟を決議したりした在郷軍人分会や右翼政党もあるらしい。町田氏は在郷軍人会側の誤解を解くべく心境を吐露した文章によって、日本の対外的活動に対して何故諸外国から文句をつけられるのか、ということの冷静な科学的な認識こそは、困難を出来るだけ少なくして国運の発展を円滑ならしめるものだ、と説いたのである。
 だが凡そそういう弁解はもう役に立たない世の中だ。或いはまだ役に立たない世の中だ。何しろ日本は今、膨張することだけが商売なのだから。農民問題、失業問題、その他何々、それはまあ、後回わしにしようではないか。
(一九三五年)
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5 日本資本の退嬰主義と進展主義



 かつて河北省に於ける農民暴動と夫による自治独立政権運動とが報道された際に、一つどうしても理解の行き兼ねる内容があったのである。それを私は他の機会にも述べたのだが、農民が苛斂誅求を免れようとか平和を得ようとかいう要求と並んで、北支の赤化を防止せねばならぬという要求をかかげて、敢えて蜂起したという云い伝えが夫である。北平や天津を含んでいる河北省に、一体どれだけの赤化の魔手とかいうものが現実に延びつつあったか、又現実に延びようとしつつあったかに就いては、ここに決着をつけようとは思わないが、併し暴動農民の自発的な要求の一つに、赤化防止の項目があったらしいと一二報道されたということは、現代の国際的な社会常識から云って何と云っても妙ではないかと思われたのである。河北の農民大衆が、それまでに、いつの間に防共思想へ善導されたかは殆んど吾々の理解を超越したことだ。

 私は今ここに赤化や又防共の是非を論じようとは思わぬ。だが一体この防共とは何を意味するのか。華北防共自治委員会なるものが出来たそうであるが、之は北支五省の連絡機関であるらしい。それの一部である文化特別委員会なるものは、略々次の五つの目的を持つと見られている。第一は、三民主義の排撃、第二は排日思想の撲滅、第三は共産主義の撲滅、第四は外来思想の打倒と東洋思想の鼓吹、第五は日満支三国の文化的融和。こうしたものが所謂防共政策なのである。之によるとこの防共政策は、赤化防止に名を借りて、親日的反国民政府的文化政策以外の、何ものでもなかったということが少なくとも判るのだ。

 之は北支農民暴動の後から出て来た結論に他ならないので、初めから農民がこうした防共の必要(?)によって蜂起したのではないかも知れないが、併し伝えられる処によると、こうした防共の原則に立つ北支自治政権の樹立は、北支三千万民衆の絶対的要望を実現するものだというのだから、農民に初めからこうした動向が無かったと云い切ることも出来ない。仮に農民運動の初期に於ける赤化防止運動に関する一二の報道が誤報であったにしても、結果から判断して、そのはにかみ勝ちな誤報が、結局は当っていたのだということになる。
 親日運動や反国民政府運動と、本来の赤化防止とが、真面目にどういう必然的な連絡を理論的に又直覚的につけられるのかは、容易ならぬ疑問であり、之によると蒋介石は共産軍の支持者ででもなければならぬ、ということにさえなるが、それは暫く措くとして、とに角赤化防止が農民の自発的要求であったか、又は之と必然的な関係におかれている結果になったのは、何と云っても、思想上の常識から云って理解出来ないことだ。

 抑々、赤化防止などということは、資本制社会に於て、この制度から直接に一定の生活利益を受け取っている人間にとっては、全く現実的な真剣な問題なのだが、そうでない人間にとっては全く概念的な余計な思惑なのであって、そういう人間の実際的な生活、経済的政治的要求、から見れば、極めて空疎な世迷言に過ぎまい。こうした観念的遊戯が仮に北支の農民の自発的な蜂起の原因の一つに数えられるとすれば、北支の農民は、インテリのように観念が過剰であるか、又は農民としての自分の日常の直接利害が何であるかを全く知らないような、想像も出来ない愚民であるか、になる。こんな農民が、自分自身の圧力によって、独立政権を樹立させたということは、到底考えられないことだ。

 すでに北支の独立自治ということと、防共の必要との間には、著しく苦しいギャップがある。まして、北支三千万民衆に含まれる本来の農民の自治運動と、防共の必要との間には、説明すべからざる飛躍があるということを見ねばならぬ。無論北支の「自治政権」と農民の「自治」とは抑々甚だしくかけ離れたものだろう。だがこの二つを、粗雑に一緒にするとしても、夫と防共の使命とでは、木に竹をついだようなものだと云わねばならぬ。全く妙なことなのである。
 だがああいうレッテルのことは実はどうでもいい。レッテルを信用するから、信用問題が起きるのであって、レッテルが中味通りに貼られていると決めてかかることは、正直過ぎるだろう。北支自治政権の独立は、元来農民の赤化防止の要求(?)というような閑問題とは全く関係がないのである。否、実は、華北大衆の安寧秩序そのものとさえ、原則上は関係がないのだ。無論恐らく事実上は之が北支の安寧秩序を確保することは或る限度まで必ず出来るであろうが、それは付帯的な結果であって、本当の目的でも何でもない。本来の意義は国民政府権力からの独立による満州国との、即ち日本との、「親善」の実現にこそなければならぬ。こういう日支親善(北に於ける部分的日支親善)――南に於ては又別な「親善」?――は、日本にとって、従って又満州国にとって、絶対的に必要だというわけなのである。そして日本人は、例によらず絶対的に必要なことを指して、「赤化防止」と呼ぶことにしている。これはここのところ単に呪文にすぎないのである。

 だが、日本と満州国とが、北支に対して感じるこの絶対的必要感、即ちその「赤化防止」感は云うまでもなく、北支の人民を塗炭の苦しみに陥れるものなどではない。否寧ろ、北支はこの日満側からする要求によって、日満側にその資源と企業地盤と市場と駐屯地と植民圏とを提供することによって、却って初めて開発されることになるのである。南京政府治下に於ては、こうした資本主義的開発は決して、これほど容易に、迅速には行くまい。
 北支は北支の政権から独立する事によって、初めて、資本主義への方向をまっしぐらに追うことが出来るだろう。北支でも眼先の利いたブルジョアジーや財閥軍閥は、逸早くこの日満側の利潤にあやかるに相違ない。ライオンが縞馬を倒したあとには、必ずハイエナがわけ前にあずかるものだ。之によって初めて、日支は北支部分に於て部分的に親善を加え、言葉通り共存共栄の実を挙げ得ることになる。日本という先進国の眼の前で、資本主義化されねばならぬ支那、三民主義から始めて蒋介石主義を含む建前から見た支那は、決して一遍に、而も単独で、資本主義化すことは出来ぬ。この資本主義化は部分的に北方の隅から順次に着々とした節度を以て、日本の調教の下に、進められて行く。日支親善は、もはや希望でも言葉でもなくて、現実だ。

 蒋介石を首班とする中国政府が、支那の資本主義化を目標としている限り、日本の資本制との間の関係は必然に右のような形で「親善」を加えねばならなくなる。列強の資本主義の対立は往々にして簡単に戦争を惹き起こした。併し日本と支那との間には、資本主義の対立は、排日行動や支那側のその取締り声明を除いては、このように着々として親善となり、共存共栄の足場を得つつあるのだ。之は日本資本主義との提携である。赤化共同防衛のレッテルも、だから必ずしも看板に佯りばかりあったわけではない。――だがこうなれば、北支の農民運動を起こした農民などが、与り知ったことではなくなる。
 たしかに農民は、この日支提携によって、文明開化されるだろう。だが、この文明開化と農民が要求した自治とは、どこに一致点があるだろうか。農民は今にして、赤化防止などと自分達とを結びつけた(本当は結びつけなかったかも知れぬが)ことの愚を、覚らねばならぬ。
 日本の軍部(及び外務当局)は、北支のこの自治政権の確立を擁護することに於て、極度に熱心である。この問題は云うまでもなく中国国民政府治下にぞくする他国の内政問題なのであるが、その内政自身に初めから関係のある日本にとっては、単なる人ごとではないのである。だが日本のこの隣人愛の行動を、単に日本軍部の衝動的な本能的な盲目活動だなどと考えることは、完全に誤っている。なる程軍部は国粋的で躍進的だ。だが夫は恐らく若干の個々の軍人の云わば趣味か何かのようなものに過ぎないだろう。軍全体の総意は、実はそういうものでは動き得ないのだし、又事実夫で動いてはいないのである。軍部の総体意志とでも云うべきものは常に一定の客観的な必然の要求に沿ってしか発動しない。凡て全体意志の類は、思わずも事物の客観的要求の反映なのだ。ではどういう客観的な必然性の反映なのか。

 ここで私は、一九三六年度予算編成中の出来事に一寸触れねばならぬ。高橋蔵相は予算閣議に臨んで陸海軍に夫々一千万円の予算復活を許して、もう之以上絶対に出せないと云いながら、こう語ったということだ。「世界各国は日本に対し反目し日本は全く孤立無援の状態である、……予算も国民の所得に応じて作らねばやがて国力は疲弊し、国民は塗炭の苦しみに陥り、いざ鎌倉という場合に敵国に対して応戦は出来ない、……殊に最近のわが国内の情勢は、年々災害を重ね民力は疲弊して行くばかりではなく、社会政策的施設等につき多大の考慮を要する時であるから、軍部は充分反省されるべきではないかと思う。今日の軍部に対しては言論機関も、云いたいことをいえないし、財界人も『これは困った事態だ』と思いながらも何もいい得ない。……これ以上軍部が無理押しをすればおそらく国民の怨嗟の府となるだろう。……各国とも決して日本に対し挑戦して来るものではないと思う。よって徒らに外国を刺激するが如きことは慎むべきである」云々、というのだ(『東日』一九三五年十一月二十七日付)。

 この所説の報道がそんなに間違っていなかった証拠は、之を反駁した陸軍の非公式声明(『東朝』四月二十八日付)に見られる。少し長いが念のため全文を引用しよう。
「国防と財政との調整に就いて稍々誤解の向きもあるようで、中には刻下の我国の非常時は主として我が軍部によって作られたものであるかの如き口吻を漏らすものあるは、挙国一致当面の時局に対処すべき現下の情勢において甚だ遺憾とせざるを得ぬ。今や極東の安定勢力として立つ日本の使命は空前未曾有の重大なものである。しかしてこれが達成のための礎たる満州国の独立保全、日満不可分関係の向上強化等のためには、国を挙げてあらゆる努力を尽さなければならぬ。国運の進展を忘れ国策の遂行に遅疑するが如きは、我国家民族の進展を阻止せんとする退嬰の見解であって、断じて同意する能わざる所である。
「しかもこの種国策を遂行し日本の正義を擁護発揚するためには、我が国防力の充実が中心的急務なることはここに多言を要しない。努めて列強と提携し平和的外交折衝により進むべきは軍部も素より望む所である。然れども軍備が不充分なる場合においては外交折衝の威力、実行力を減殺し、戦争誘発の危険を大ならしむるものである。
「陸軍今次の予算は現下の我国の国防の重責を果す為真に欠くべからざる恒久兵備の基礎的事項である。この真に国家国民を思うての従来及び今次の予算要求に対し、これ以上軍部が無理押しをすれば恐らく国民の怨嗟の府となるであろうと云うが如きものありとせば、真に国民に対し軍部を誣うるの甚だしきものと云うべきである。
「尚国民の全段階に渡り人心の安定をはかり真の意味に於ける挙国一致の実を挙ぐるは軍部としても広義国防の見地上最も望む所なるは、既に屡々言明しある通りである。軍費の要求が直に一部窮乏せる国民の負担を加重するが如き懸念は、むしろ為政者の工夫により是正せらるべきものと信ずる。我国の国富の増加は近年著大であり、又日満不可分関係の確立せらるる限り国策遂行のため必要なる諸要素は往年に比し著しく充実せられあるを以て、よくこれを運営して、外、国力の進展に資し、内、国民の要求を満たすため、為政者が更始一新、速やかに我国力の進展に対応すべき財政政策の確立を実現せらるることを切望してやまぬものである。」

 之に対して大蔵省当局は少しも相手にならなかった。とに角陸軍は八百万円以上の予算の第二次復活を得た。だが蔵相の所論が発表された時は、都下の主な新聞紙は揃って蔵相に拍手を送ったことを忘れてはならぬ(之に比べて陸軍の非公式声明が如何に弁解的であるかは、すでに蔽うことの出来ない感触だ)。尤もこの同じ新聞紙は、北支問題になると、一斉に軍部に拍手を送るような手つきをするのだから、全く取り止めがないのだが。蔵相は国力は疲弊するだろうと云うと軍部は「国力は進展」するだろうと云う。蔵相が「民力は疲弊して行くばかりだ」と云えば、軍部は「我国の国富の増加は近来著大」であるという。まるで食い違っているのである。併し互いに完全に食い違ったこの退嬰主義とこの進展主義とは、云わばいずれも同時に正しいのであり、或いはいずれも同時に誤っているのである。と云うのは二つは恰も、日本の資本主義そのものの二つの側面を示すものであり、その二つの側面の解くべからざる矛盾を示すものに他ならないからだ。

 十一億に垂んとする三六年度国防予算(社会政策的意味を有ったものは之に反して総額四千万円程度だ)、全予算の四割七分に相当する軍事予算の額を今後益々拡大することによって、所謂悪性インフレを惹き起こすことは、正に国力の疲弊だろう。それからその予算割あてのおかげで二十五分の一位いしか配慮されない農村(尤も政府は農民とは云わず又失業半失業労働者乃至勤労者のことはあまり考えない)の民力はたしかに疲弊するだろう。だが、逆に考えて日本の事実上の領土が海外発展することによって、日本の資本主義がたしかにそれだけ活気づくのも嘘ではない。この海外発展が軍需工業を盛大にし得ることによって、国内に於ける農村問題もインフレーション問題もおのずから旨く片づくかも知れない、と考えられないでもない。

 処が日本の資本家や政治家や資本主義的自由主義者達の多くは、一も二もなく蔵相側につくのであって、申し合わせたように軍部の資本進展主義を憎んでいるように見受けられる。恐らく夫は、ブルジョアジー・プロパーの技術的知識に対する彼等の信頼が、軍部の素人くさい大まかで皮相な観念を信用させないからであり、又意志発動の形式が、前者は理性によるに反して後者は一種の感情によるように見えるからでもあるだろう。――併し、軍部の感情と雖も、客観的な理性的根拠なしには決して発動しない。いずれも日本の現下の金融資本の客観的に必然にされた夫々の要求に答え、之を反映しているのであって、この点、蔵相も軍部も、国家国民を思う至情に於ては、甲乙あり得ないわけなのである。なぜならいずれも日本の資本制の永久を信じ又は希望することに於て全く軌を一つにするのだからである。

 二つの立場のいずれを採用するかは、だから少なくとも「為政者」の壇場に立つ限りに於ては、原則的にはどっちでもいいことであって、その確率は恐らく半々であるかも知れない。その確率とはつまり資本制を発展させ得る(即ち又させ得ない)確率のことだが。
 して見ると、この二つの立場は、云わば強気と弱気とのようなもので、全くスペキュレーションの領域にぞくするものとなって来る。だから両方が真剣になって論議を闘わすことは、議会のような年中行事の儀式として以外に、あまり実質的な意義はないのだ。――だから又、二つの側の間にギャップを見つけたと云って、二つを対立させることによってこの社会の何かの矛盾を解き得るかのような望みを持つ者が、もし自由主義者というものだとすれば、その限り自由主義者ほど御し易いものはないと云わねばならぬ。資本と軍部との根本的対立ということ程ナンセンスな常識は又とあるまい。日本資本の運命について賭けるに際しては、蔵相側の弱気も、軍部側の強気も、同じ価値を有っていたのである。
 但し之は「為政者」の壇場から見てそうだというのであって、被政者の立場からすれば、必ずしも二つの丁と半とが、同じ価値を有っているとは云うことが出来ない。同じ資本の発展のコースではあっても、大規模な道路をつくるのと、細かい間道を開くのとでは、民草の葉や茎や根の受ける動揺は非常に違うのである。だから自由主義者にも、一理あるとすれば、夫は彼がこの被政者の壇場に立った時に限るというわけである。――自由主義者に二種類あるということが之からでも判ると思うのである(この大道の工事も、この間道の工事も、遂に成功を齎すに至らないだろう点に就いては別に述べたいと思う)。
(一九三六)
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6 不安の二種類



 二・二六事件が何かの意味で、進歩的な役割を持っているものだ、という考え方は今日、色々の形で現われている。無論この事件の当時者が考えているような意味で之が進歩的だとする考えは、論外としよう。これを除いて残るものは第一に、この事件当事者の「革新」という目的が、実は社会改革そのものの目標と終局的には一致するので、ただ彼等は単に之を歪んだ不完全な形で唱え出し又やり出したに過ぎないという解釈だろう。併し事件当時、都市の労働者は云うまでもなく、連中のイデオロギーが当然当てにして然るべきであった農民も、それからこうした事件にはとかく騒ぎまわりたがる市民達も(主に小市民なわけだが)、極めて冷淡であったことは、世間が斉しく認めている処だ。之がだから少しも大衆運動でも何でもなかった証拠で、大衆の下からの要求は進歩的だったのに、之を代表する上部の活動分子が偶々歪められた形のイデオロギーと活動とを取ったのだ、という具合には説明出来ない現象なのである。
 尤もそれにしても表面上の名分だけでも、露骨な形の運動が社会的な承認を得ないことになったのは、とに角一応喜ぶべきことだが、併し之は事態の進歩ではなくて、単に退歩の防止ということにすぎぬ。
 だがこの事件は意外な処に、一種進歩的な(?)役割を演じている。民政党の一代議士の議会に於ける整然たる質問演説によると、この事件に臨んで国民はいずれも「憤慨」したものだという。併し実を云うと、憤慨どころではなく驚いて了ってシッポをまく用意をすることを、季節に適した物の判りのよさだとした者の方が、多かったに違いない。けれども夫と同時に、この事件によって初めて眼が醒めた国民も亦非常に多かったと思うのだ。と云うのは、どこかの国の伝説かおとぎ噺しでしかないように思っていた処の、自称進歩的なインテリやリベラーレンは、この事件で初めて我に還ったのである。こういうことも可能なのだということが、本当の意味で、眼と耳とで、初めて判った。嫌というほど予備知識を持ち回りすぎた連中さえ多分この時初めて判ったのだから、そうした予備知識を信用しなかったり全く知らなかったりした連中が、事件の発生した日の内に、この事件の現実味を呑み込むことが出来なかったというような場合も、きっと少なくはなかったろうと思う。
 処で不安が、社会不安や資本主義的矛盾の一反映だというような見解は、単に公式的なものに過ぎなくて、不安は実は人間存在の本来的な条件なのだとか、不安こそ文学の本質なのだという、小ざかしそうな口を利いていた連中ばかりではない。不安は社会的なものではなくて個人や自我のものだというような考え方を覚えた方が偉いと考え出していた連中も、少し気のつく人間は、この時ハット気が付いたのだ。矢張り現実というものがある、と思いかえしたインテリ・リベラーレンは少なくないようだ。
 こうしてインテリ文学的「不安」はケシ飛んだ。こんな不安は実は不安でなくて却って一つの安心であり、一つのポーズに過ぎなかったことに気がついたと同時にその時夫に代ってインテリを襲ったものは現実界の現実的な不安なのである。肉体保護上の不安、政治的不自由の不安等々なのだ。だが言うまでもなくこの社会的不安に襲われたのは、インテリに限る筈はなかったわけで、之が最も大規模に切実に襲ったものが、一般無産勤労者であるのは勿論だ。事実、テロルその他を最も恐れる権利のあるものが、彼等だからだ。――で例の事件は、もう少しでインテリ向きの観念で以てゴマ化し去られそうになっていた不安の権利を、大衆的に再び確立した。之で折角の不安もどうやら再び世に出るというものである。
 世間の大衆は処が、実は之までに却って、或る一つの不安について断えず説法されていたものである。大衆は不安がるべきものを不安がらないと云って、彼等は鞭打たれた。世は非常時である、不安がらないような者は人でなしだ、と教えられた。――処が大衆は一向不安を身につまされて覚えない、否一向不安になりたがりもしないのである。不安に拍手することによって不安は事実増大しつつあったに拘らず、その不安が大衆の身につかなかったのである。云って見れば、いつも狼が来たと云って人をだました羊飼いは、本当に狼が来ても信用されない。まして本当に狼が来るか来ないかが、羊飼いの叫び声で決まるような時には、羊飼い自身の方が狼の様に警戒されるものだ。
 つまり頑な大衆は、不安の説法が指さす処とは全く別な処に不安を感じていたわけで、この指し示す不安振りそのものが、他ならぬ彼等自身の不安の対象だったのだ。処でそこに事件である。と云うのは、この不安の指示的な身振りは、今度は身振りではなくて、現実の不安を彼等の身近かに醸し出した。観念的に、イデオロギッシュに、観念すべく教示された不安が、一見まるで別な方角に全く別な形態で、感覚的に経験されるということになったのである。夫が事件である。
 だが大衆はこの事件の主人公達によって、表面上は少しもおびやかされなかったということを吾々は聞いている。寧ろ彼等は大衆に媚びた。大衆にアッピールしようとした。寧ろ恐れたのは大衆ではなくて要路者や財閥や「自由主義者」であった。そこにはテロルが期待されたからである。――それだけではない、大衆に対する撫育になれた彼等少数者は、未知の英雄が登場して来て、彼等にとって甚だファミリヤーでない未知の社会活動をすることに、本能的な不安を感じたのだ。異国の風俗が人間を不安に陥れるように、単に風俗が違うというだけで充分敵の名に値いすると同じに、彼等少数者の社会的に馴致された本能は、仮に彼等にとって実質的には何等の不都合も損失も齎さないものにせよ、顔見知りでないというだけの理由から、この事件が惹き起こしそうな多少新しい変った事情に、云わば風俗上の不安を感じた。資本家はたといどのような武断的な革新が行なわれようと、自分の機構に自信を持てるが、困るのは気心も知れない奴が勝手なことをすることだというわけである。
 この贅沢な趣味上の不安は、併し大衆には適用しない。大衆はこの事件の主人そのものからは少しもおびやかされはしなかったと云った。だが事実は、彼等は自分の側から怖えたのである。何を怖えたかと云うと、この事件がどういう風に拾収されるかという、この事件の結果に――対立した二つのあり得べき(事実当時の初めには事実二つとも可能だった)拾収策の何れに相談が決まるにしても――ついて怖えたわけだ。天気が好ければ地面は益々固くなる。そして雨が降れば降ったで「雨降って地固まる」だろう。之が大衆の不安・今日の社会不安・の形なのである。
 大衆のこの不安は実に様々の内容を含んでいる。大衆の組織的活動に就いての不安(現にメーデーを見よ)・利害の自由な表現についての不安(之は流言飛語に関係がある)・職を擲って着役せねばならぬかも知れぬ不安・そして最も手近かなのは経済的消耗品となることの不安(大衆課税、物質騰貴、其の他)・つまりそうした結局は経済生活と肉体生活とに帰着するものに就いての不安の不断の増加が夫なのである。――この基本的な不安に較べれば、社会から進歩的と睨まれているインテリ小市民の社会生活権喪失に就いての不安などは、重大は重大でも、云わば付属品のようなものにしか過ぎないだろう。
 支配者が最も恐れているらしい人心の不安というものは、云うまでもなくこの大衆の不安のことを指しているわけで、夫は決して、単に人心が定まらずに思い思いにフラフラ動揺しているということではない。もしそんな思い思いにフラフラしていることが人心不安の意味なら、不安な大衆こそ、どこからかこの不安な人心を統制して呉れるような強力を待ち望むことだろう。之は当路者に取っては願ったり叶ったりな筈だ。処が人心の不安動揺なるものは、実は大衆の現実日常の物的生活利害関係そのもののことに過ぎないのである。偶々これを人心の不安動揺などという上品な観念的な言葉で呼ぶものだから、不安によって却って益々強くなる勢力と、不安によってグズグズになる文学者風な所謂不安とが、一緒クタにされて了って、肝心な現下の不安の要素がボカされて了うのである(この利害関係を「人心の軽佻浮薄」などと云い出すと、もう何のことかサッパリ判らなくなる処だ)。
 なる程、不安は物質の状態のことではなくて意識の状態だ。切なる生理的要求も肉体的感覚としてはまだ不安ではないので、夫が心配や期待や忍耐や絶望やという意識の緊張や無理な弛緩の不快さになって、初めて不安というものだろう。そして夫が一旦意識の状態だとすると、個人銘々の意識があてどもなくさまよい歩くということも、又は行きづまって動けなくなったということも、もう動かないことに決めて了ったということも、どれも不安にぞくするものではあろう。個人々々だけに就いては確かにそうだ。だがこの個々人の心の動揺は、個々人をある程度まで組織的に集めて見ると、夫に共通な物的な日常現実の利害関係自身をその内に発見するのであって、この利害関係がこの動揺の波を検波して、一定の大きな波の合成を必然的に齎すのである。支配者は恰もこの合成波の振幅を恐れて、夫を人心の不安動揺と呼んでいるに他ならない。之は寧ろ彼等自身の不安なのだ。不安が単に個人の意識のものである限り、夫は他でもない自分自身で潰れるものの機構のことにしか過ぎないので、そんな不安は、現下の不安としてはもはや相手にされる資格を持っていないものなのである。――不安とはつまり社会不安のことなのだ。
 社会不安はだから、将来に一つの約束を、見透しを、有っている。この不安は従って一つの認識であると云ってもいいのである。認識するということが、事情の動きを見透し、明らかにするという事が、云わばこの不安自身の目的のようなものだ。独りこの積極的な役割をもつ社会不安に限らず、一般に不安は諦らめれば収まるものらしいが、恐らく諦らめという言葉は、この頃流行るモダーン国学者式にコジつければ、明らめるということかも知れぬ。事情を明らめることによって即ち又事情を真に認識することによって、この社会不安を解消する。と云うことは、この社会不安が大衆的組織を得て、本能的な段階から社会認識にまで歩を進めることを避け得ないということだ。
 処が之に反して、社会不安でない処の単なる不安、云わば個人不安の方は全くのマイナスなのだ。この不安は決して諦らめることなど出来ぬ。と云うのは之をかもし出す処の事情を、本当に明らかにし認識することは、事実到底出来ない相談だからである。例えば今日この個人不安とでも云うべきものは数多の自殺の原因をなしていると見てよいようだ。その意味はこの個人不安が社会不安におきかえられない限り、自殺希望者を生きるように説得することは事実出来ないだろうと云うのだ。その代り、この個人不安を社会不安におきかえるなら、即ち彼に社会認識の明を与え得るならば、或いは自殺志望者の類は救われるのではないだろうか。認識は見透しである、希望を産むものだからである。
 で、こういうわけだから、実は個人不安などいうものは本当は無いということになる。あるのは大衆の社会不安だけであり、或いはそれに就いての個人不安という虚像だけなのだ。不安は凡て社会不安であり、大衆の不安である。つまり、真の不安は単なる不安ではなくてその解消への力だというのである。私はこういうオプティミズムをこの不安時代に見出す権利があると思っている。
(一九三六)
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7 政情不安の社会的基礎



 一九三七年二月中村陸相が病気のため、突如として陸相更迭が行なわれ、杉山教育総監が陸軍大臣となった。新聞は之を批評して、落ちつくべき処に落ち付いた、と云っている。落ちつくべき処とは何を指すのだろうか。中村陸相就任の意義は何であったのか。杉山大将が陸相に就任したのは、陸軍軍部の要求がとどのつまり貫徹したことだから、落ちつくべき処に落ち付いたというのだろうか。すると陸軍軍部にとって林首相は何を意味しているのであるか。一体、陸軍軍部とは何か。陸軍主脳部と青年将校達との関係はどうなのか。それと新及び旧陸相を通じての内閣との関係は何であるのか。
 宇垣大将の組閣失敗の後を受けた林内閣の成立が、国民を多少面喰らわせたことは見逃せない事実である。特に林内閣の組閣方針の過程に就いて、国民は何と判断してよいか今だに気迷っているように見受けられる。最初陸軍首脳部が宇垣絶対反対を称えた理由については、今日に至ってもその真相は判明していない。政党は議会に於いて、この真相を糾明しようとも云っているが、それがどういう意味を有つことになるかも、吾々にはハッキリしない。当時、世界は、宇垣大将が政党に接近しすぎていて軍全般の革新的な動きを抑える作用をするというので、軍部の反対を買ったのだと考えた。ところが軍部が極めて曖昧に私語的に表現する処によると、大将は某革新的事件の主脳部だったから、それが粛軍中の軍部にとって同大将を肯んじ難い所以だという(但し反対に宇垣では急進的な部内がおさまらぬから困るという理由もあげてあったが)。世間は勿論軍部のこの種の表明を信用しなかった。宇垣大将は所謂、自由主義的で、それが革新的軍部の気に入らないのだとばかり信じていた。
 この見解は、従来の軍部の政治的動向から云って、決して無理でもなかったし、また実質に於いては誤ったものでもなかったろう。だが軍部の述べた理由も、単なる口実だけではなくて、半分本当ではないかというような気がして来た。と云うのは、部内に於ける最も革新的な分子と見做されている板垣中将の入閣に対して、他ならぬ軍主脳部自身が絶対反対を唱えたと云うからである。之によると、林大将の方がズット革新的で、却って軍主脳部の方が或る意味で之を押えようとしたのだということになる。尤も林大将組閣参謀である十河氏の退却と共に、林・寺内の交渉がまとまって、中村=杉山陸相就任となった。して見ると革新的であったのは林その人ではなくて、実は十河参謀子であったということになる。さてその十河参謀と軍部との関係は、直ちに明らかではない。だが之だけで少なくとも明らかなことは、軍主脳部自身が、ウルトラ革新的勢力を押えたらしいという一つの事実なのである。尤も、そうすると、部内がおさまらない、という方が口実に過ぎなかったということになるのだが。
 ところで、こうなると、今まで宇垣大将を所謂自由主義や政党政治の多少の味方として力を入れていた世間、そして之に反対する軍主脳部乃至軍全般を革新的ウルトラ勢力として之に対抗意識を持っていた世間は、やや拍子抜けの観がなくはない。宇垣組閣本部から、宇垣大将組閣拝辞直前に発表された処によると、政情は今や立憲政治かファシズムかの岐路に立ち、軍部は一つの政治団体化したと慨歎しているのであるが、必ずしもそうばかりは云えないということになって来た。――で国民は一体どの見解を採るべきであるか、とそう迷わざるを得ないわけである。勿論ここでも亦、林内閣の成立と同時に発表された軍部の漸進主義声明は、仮にすぐ様は信用しないことにしてだが。
 とに角、軍主脳部の現実的な政治方針が、思ったほど革新的ではないということを知ったので、政党や国民の大多数は多少安心したようなわけである。或る方面から、宇垣反対は「合法的な二・二六事件」としてやるのであるというような不謹慎なおどかしが放送された後だったから、順序はまず、安心する方向に傾く番である。
 だが、それにしても、何か割り切れないものが国民の胸に残っているようだ。拍子抜けがしたり安心をしたりしながらも何か腑に落ちない薄気味の悪い後味がするのを、国民は否むことが出来ないようだ。一応、一時の気休めは出来たようなものの、気持は必ずしも明朗ではない。ということは要するに政情そのものに、何か量り知ることの出来ない不明朗なものの臭みがつきまとっているのである。これは国民の慢性の強迫観念のせいだろうか。そうばかりは云えない。国民は今日、ちょうど犬のようなものだ。尾を振ることや芸をして見せることは人間並みに覚え込んでも、やはり動物としての本能と、臭覚とを、ゴマ化すことは出来ない。国民は本能的に不安を直覚している。この不安の実質は何か。
 不安は認識の不足から来る。一種のインテリの場合は認識の過剰から来るらしいが、民衆の場合は認識の不足から来る。つまり不安とは、より認識を深めようという一つの本能的感情だ。少なくとも軍部に対する認識を、より以上に進めなければならぬというのが、この不安という本能的な感触なのである。それが本当に安心して了うことを許さないのだ。不安は如何なる認識の不足から来るか。
 尤も不安と云っても、それは民衆にとってのことだ。林内閣の拝命・組閣行動・政綱発表に就いて、不安を感じる代りに歯がゆさを感じている一群の人間は勿論いる。それが何であるかはやがて触れるわけだが、今たれより先に、この林内閣の政情に就いて殆んど凡ての本質的な不安を一掃して至極明朗になっている一群の人間もあることを見なくてはならぬ。林内閣、特に結城蔵相新政策に対する「世間」の拍手喝采がその辺から起きるのである。元興銀総裁結城豊太郎氏は、云うまでもなく代表的な形態の金融資本の最も信用のある技師である。それが馬場膨大財政を多少削減して、悪性インフレ・物価騰貴・の傾向を防止し、公債の消化と予算の消化とを可能ならしめようという。三井の元老池田成彬氏を日本銀行総裁にすえて、このため金融統制政策をバックさせるのである。而もそれを出来るだけ円滑にやろうというのだ。この政策によって明朗になり得るものが、さし当り、金融資本の利益であることは、云うまでもない。かくて「財界」は、一斉に林内閣・結城財政によって朗らかになるのである。
 では所謂、業界の方はどうか。いわゆる商工業者と云われる産業資本の方はどうか。前の馬場三十億財政の経済的バックとなったものは日本の産業資本だと云われている。三十億四千万円の四十幾パーセントかは国防費であり、重工業・化学工業、其の他を含む軍需工業の得意先となるものだから、馬場財政の経済的基礎は要するに軍需工業資本であったことは論を俟たぬ。七十議会の初頭に行なわれた軍部誹謗も、だからこの産業資本の反撃だったという見方もあるが、それはとも角として国防費と産業資本との交互作用的因縁には、特に資本主義が軍事的に擁立されて来た日本に於ては宿命的なものがある。それがとに角、総予算の表面に於いて削られるとすると、せっかく操業拡張を楽しみにしていた軍需工業資本家は、多少がっかりするわけだ。だがよく考えて見ると、工業資本家と雖も工業金融からは独立出来ない筈だろうから、日本の資本主義の全般的な必要のためには、多少の処は我慢しなければなるまい。それが恐らく軍需工業資本自身の利益に帰着することなのだろうと思う。――でつまり、結城財政は馬場財政に較べて、可なりに日本資本主義にとって完全な財政であるらしい。民衆は本能的な不安をすて得ないが、資本家は相当に満足である所以だ。
 処で一つ、注目しなければならぬ点がある。それは、結城蔵相が林首相から、財政のことを白紙一任されたのだという噂のあることなのである。もし之が大体に於て本当ならば、結城財政は要するに、林首相乃至林内閣そのものが持つ経済的な意味を云い表わすに外ならぬ。そうすれば又林内閣の政治的意義は、正に、この経済的意義に基礎を置いていると云ってよいことになる。この間柄に食い違いがあるのなら、首相が蔵相に白紙一任する筈はないのだ。して見ると林内閣なるものは軍部が気に入った林大将の下に、軍部に気に入った顔振れの大臣を据えながら、実質は著しく金融資本的な内閣であることに気づくのだろう。政党人の入閣を原則として拒んだという点では、極めて反資本的(又は反地主的)であり、大いに革新的なもののように見えるが、併し中島飛行機製作所の所長や鐘紡の社長や何かが閣僚候補に上った処を見ても、この内閣の本質は寧ろ、従来よりも著しく露骨に資本家的なものなのだ。政党人の入閣に絶対反対する軍部が、軍需工業資本家や金融ブルジョアジーの技師が内閣の椅子を占めることに就いては、遂に一言の苦情も持ち出さなかった。之は何を物語るのであるか。
 要点だけを誇張して云えば、恐らくこうだろう。産業資本、特に軍需工業資本家は云うまでもなく、金融資本家と雖も、例の膨大な国防予算に原則上の削減を加えるようなことは決してしないだろう。軍部にとって何より必要なのは、この国防予算の実施なのだ、社会万端の体系は、之を公理としてその上に組み立てられねばならぬ。それが日本の資本主義の生活の必要なのだ。逆に社会の既成条件を保守することから、国防予算を割り出すべきではないのだ。そういうのが所謂、準戦時経済体制(社会体制)ということだ。ところが事実上、之に反対しているものは、正に既成政党である。そこで軍部が憎むものは、資本ではなくて専ら政党だということになる。悪いのは資本主義ではなくて自由主義だということになる。
 だが所謂、自由主義とは、云わば自由主義時代の資本主義の政治機構とそのイデオロギーだ。この時期に成立した既成政党は、資本家地主の政党であるに拘らず、金融資本独裁乃至独占資本強化の体系の下に於ても、この自由主義をすてることの出来ない理由があることは勿論だ。そこで既成政党が従来の既成政党として止まるためには、何と云っても準戦時体制としての強力統制経済に反対せざるを得ず、従って又、その枢軸である国防予算を「検討」するポーズを取らざるを得なくなる。だが政党人も、資本主義日本の日本人であるから、無下に国防予算の膨大さに反対する口実を見出すことは出来ぬ。そこで膨大な全予算そのものに反対するということになる。即ち既成政党は直接軍部に面接せずに、反政府という態度を取るのを原則にしようとする。たまたま特に地主的な政友会では、浜田氏が軍部に当ることになり、もっと事態が変調で資本主義そのものさえが危いと錯覚された二・二六事件直後には、ブルジョア的政党たる民政党も亦、斎藤氏を立てて軍部に当らせた。だが、いずれにせよ、国防予算そのものを直接に検討することは不可能なのである。
 けれども既成政党が、その自由主義に立て籠ろうとするのは、単に彼等の宿命に従ったというだけではない。勿論、資本の直接圧力だけで動いているのでもない。また、ただの政党の習性や感情の向き方から来るのでもない。既成政党は資本家地主のものではあるが、政党人そのものは資本家や地主としてではなく、とにかく政治家として物を云わなければ話しにならぬ。そこで彼等には、何等かの大義名分と正義とのレッテルが必要だ。そこで世論といい、民衆の声と云い、国民の生活利益というものが武器となる。既成政党の今日の態度を観念的にバックしているものは、一部の、したり顔の、評論家などが何と云おうと、世論と国民の生活利益の観念となのだ。国民大衆が事実、頼みうすい政党と知りながら、なお且つ観念的に政党の肩を持つのは、政党の資本家的本質に左袒して、反資本的革新(?)に対して反対しようというのではなくて、専ら資本家的本質から云って、云わばすでに季節はずれにさえなっているが故にこそ、却って現在、一定の意義で反金融資本主義的特徴を有つとも云うべき、自由主義故にである。そしてこの所謂、自由主義に対立する革新的勢力なるものは、すでに述べたように、軍部によって信任された林首相によって、更に無条件信任された結城金融資本財政に他ならなかった。
 林内閣が落ちつく処に落ちついたと云うなら、正にこの点に落ち付いたということに他ならぬ。これが林内閣に対する一応の認識にもなるし、また軍部に対する認識を深めることにもなるのだ。軍部が決して急進的でないという声明は、本当なのである。徒らなるウルトラ急進主義は決して急進主義そのもの・革新主義そのもの・の要求を満たす所以ではない。粛軍が真剣誠実に実施される所以であり、林粛軍内閣が、落ち付くべき処に落ちついた所以である。そしてそれは又、財界が結城財政で落ちついたということだ。
 民衆が今日の林内閣をめぐる政情に不安を覚えるのは、つまり一種の認識の不足から来ると云ったが、右によってその認識の要求は、一応、充たされたように見える。では政情に対する不安は消滅したか、決してそうではない。一体、林内閣は国民に対して何を約束しているか、それを見ないと、実は認識は深まらないのである。
 林内閣は極めて抽象的な政綱を発表した。その根本的精神は「祭政一致」主義にあるものと、少なくとも儀礼上は受け取る必要があるだろう。広田内閣の政綱では「自由主義排撃」が、声明された根本精神だった。それが「祭政一致」にまで前進した。この前進と、広田曖昧内閣から林金融資本内閣(?)への前進とは、平行しているから注目に値いするが、併しそれは論外としよう。それよりも大切なのは、広田内閣によって国防と国民生活の安定との一致として説かれた処は、林内閣では国防と生産力の一致というものですりかえられて了ったという点である。国民生活の安定、特にまた例の軍部パンフレットで有名な農山漁村対策、の問題は、遂に政綱として触れる処がなく、問題にされずに終っているのだ。
 馬場財政は都市生活者に対する増税と、一般的大衆課税との反面に、とにかくにも、農村負担の軽減を計ったことは事実だ。当時、民政党などでは、増税反対の名目の下に、財産税や取引税の廃止を決議して、世人をして唖然たらしめたが、処が今度の結城財政では、この点、注文通りになっているのである。尤も第三種所得税の免税点引下げは助かり、馬場大衆課税の多少の削減もあるから、実はこの点、都市民衆の実際利害から云って、すぐ様どっちとも云えないのだが、併しとに角問題はこの財政方針の基礎になっている林内閣の政治方針にあるのである。それによると、国民生活の安定という課題は、生産力の増進という課題で以ておきかえられて了った。ここに生産力というのは、もちろん資本主義的運用のキャパシティーのことに他ならないのだ。
 で今や民衆の本能的な不安の内容が、より一層ハッキリして来たわけである。つまり落ちつくべき処に落ちついた林内閣とは、金融資本の強化独裁の軌道の上に乗って、実質的に(決して観念的なウルトラ・ヒロイズムとしてではなく)日本資本主義の「革新」を行なおうとする方向にいるもののことだが、そのためには、民衆の利害などは眼中にない、まして世論などはどうでもよい、という一点にあるのである。尤も実はそのためには、今や世論や民衆の利害を代表するように見える既成政党を決して無視は出来ない。だが実は今日行なわれる政党との妥協や議会政治の尊重そのものが、実はこの落ちつくべき処に落ちついた「革新」の形態に必要な一つの契機に他ならない。あたかも粛軍行程が、この実際的な――持続的耐久的な――革新形態にとって是非必要だったもう一つの契機であると全く同じにだ。
 軍部と政党、内閣と議会、の対立は、民衆の世論の立場から見て、今日、重大な実践的対象ではあるが、それをその現象のまま正直にとるなら、まず誤りである。そういう解釈は単に、事態の本質を不明朗にし、右顧左眄、自分の心を不安にするのが精々の落ちだろう。寧ろ問題は、内閣の政局上の使命が、重臣その他の手によって、最近いつも軍部と政党とを調和するという機能の一点に集中されている、という点に横たわる。之が日本の今日の政局の、あり得べき唯一の実際的形式であり、而もこれこそが、実は最も革新的な、庶政一新的な政治の方向なのである。
 今見たように一見、政局はとにかく安定面に接着するように見える。不安定な内閣であっても、とにかく安定面へ接着するという形式を与えられて誕生する。だが、この安定面自身が、実は、一見緩慢な併し不断の斜面なのである。国民はやっと水平面に降り立ったという気持ちで、一応ホッとしながら、併しこの水平面が実は斜面だということを、身体のどこかが本能的に感知するものだから、軍部がどんなに粛軍しようと、外見上、政党の云い分が通って、多少、自由主義との妥協が見えて来たと云われても、依然として心身明朗たるを得ないわけだ。
 国民から見て、最近政情の陰晴常ならず見えるのは、全く、この斜面に水平面というレッテルを貼ろうとする支配者当局者の手際の無理さ加減に由来するのである。軍部対政党の対立の社会的意味を認識することは、時節柄大事だが、この対立を理論上過信することは、今日の政界情勢をして、いろいろ不可解な相貌を帯びさせて了うことになるのである。
(一九三六)
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8 日本ファシズムの発育




 一九三六年の年頭に際して、私は一九三六年度思想界の展望というものを書いたことがある。本年は左翼の思想界も落ちついて地道な展開をするだろうし、右翼の思想運動も遙かに中和的な形態で進行するだろうというようなことを述べたのである。ところがまもなく二・二六事件が突発して、この予想の半分は完全に裏をかかれたのであった。予想というものが如何に困難なものか、また如何に頼りないものかということを、つくづく感じた次第である。
 だが考えて見ると、この様な事件が起きなければならなかったのも、つまり右翼思想の一般社会における中和形態化を条件としているわけであって、これに対する社会の一局部のヒステリー的爆発がああいう形を取ったのだと解釈することは誤っていなかったようだ。こういう事件は当時の一般社会の条件から見て偶然であったのだが、しかしこの偶然事は要するに全般社会の必然的な動き以外のものをいい表わしたものではないので、従って結果から見ても、結局において民衆そのものをああいうクーデター乃至叛乱的な形としては動かさなかったのである。
 そしてその結果どうなったかといえば、一方において粛軍の工程と、他方において政党やブルジョアに対する自粛の要求とのシーソーによって、結局社会の政治的・文化的・思想的・条件は可なり中和的な、しかしやや確実な、右翼化線の上昇の路を辿ったのである。この大勢は、たとえああした形の事件がなくても、早晩来たに違いないものだった。問題は社会の支配風景のこの本質が、現われることの遅いか早いかだけだ。
 一九三七年度の日本における社会情勢、特に思想を中心として見るべき情勢もまた、この昨年来の中和的右翼化の持久的過程が持ち越され、また可なり円滑に加速度を与えられるのではないかと考えられる。
 内閣がどのような運命に逢着するか、議会がどの程度の政府乃至軍部に対する批判を実力化することが出来るか、支那大陸における日本の事情がどう変化して行くか、これはもちろん今から予断出来ないことだ。しかし、こうした事情の推移によって、日本の社会そのものの具体的な事情が決定されて行くのはいうまでもないのだから、全く社会が今年を通じてどういう相貌を呈するかを予言することは、易断か大本教ででもなければ不可能なことだ。だがこういういわば今から見て単なる可能性に止まっている処の色々の偶然を介して、そこに現われるだろう社会事情の本質や本筋は可なり明らかであるように見える。
 一言にしていえば「日本」的ファシズムの逐次的な発育であり、それと共に日本型に固有なファシズム形態が或る程度まで世界の先進又は先着ファッショ国家の社会的推移の轍を踏んだり、その規格に合致する結果になったりして、一般的なファシズムの形態に接近することだ。但しそこには原則的な限度があるのだ。
 まずこのイデオロギーの下に各種の産業統制が行なわれるだろう。これは単に帝国主義段階における産業資本の独占形態や金融資本の集中化ではなくて、その国防的条件による強化となる。例えば電力統制の如き。この事情が特に日本においては日本型ファシズムの必然的な形態の一側面になるのだということは、日本ファシズムの現実を理解するには大切な要点だと思われる。産業統制は資本の問題ばかりではなく、労働力の問題でもあるから、労働条件もまた国防的統制を受ける。賃金、労働組合活動(組合への加入と団体契約の締結とに必要な活動)その他が、この見地から抑制される。陸軍工廠労働者の組合加入禁止の類は今後一般の軍需工業労働者及び一般普通民間労働者への、一つの模範とさえなる可能性を有っている。労働力の軍隊化は三七年の国家による労働問題対策の一つにさえなるかも知れぬ。
 産業統制の次には議会政治自由の統制である。政党人の真剣な努力があるとしても、議会機能が名目化されて行く大勢は已みがたいだろう。なぜというに当分議会機能を運用するものは、地主乃至ブルジョアジー出身の政党であるが、彼らの経済的・政治的・利害からいうと、ファシズム的支配形態に根柢から反対しなければならぬ絶対的根拠はないのであって、つまりその政治学的形態に反発を感じるに過ぎないのだからだ。膨大な国防予算はこれを本質においてはそのままうのみにしなければならないのが彼らの運命である。して見ればインフレ政策にも増税策にも終局的には反対し得ない計算になるのである。すると残るものは議会の政治上の実質的な自由ではなくて、議会という名目の自由であり、議会という国家学的なカテゴリーの自由だけで、元来あるわけだ。この点、年の内に何べん内閣が代ろうとも、幾遍軍部大臣が交替しようとも、また何べん議会が解散になろうとも、変りはあるまい。
 文化統制は無抵抗と見えるまでに整備されて行くだろう。すでに日独防共協定は政府及び支配主体に一つの展望の利く足場を与えた。勿論これによって日独の政治上軍事上の相互扶助があり得るとは思われない。日本にとってこれが役に立つのは、日本の大陸政策(或いは南方政策も含めていいかも知れぬ)と対内文化統制にとってである。日伊協定(これは経済協定の形をとった)や日本ポーランド文化協会もまたここに帰する。これは明らかに国内的には日本における人民戦線運動に対する先手であるが、この目的はこの一年の内に非常に意識化されて行くだろう。
 検閲制度の拡大、統一、整順、従ってその加圧と微細化はいよいよその実を挙げるに相違ない。だが表面から見れば、恐らく思想検閲より以上に風俗検閲の方が人眼をひくように行なわれるに違いないと思う。
 映画、レヴュー、ダンスホール、カフェー、その他に対する風紀検察は重加される。なぜというに、文化問題をそういう風に道徳問題へ持って行くことは、世界中のファッショ支配の共通な政策なのだからである。言論自由の抑制も単に法規的な根拠にあきたらずに、必ず道徳的根拠を持ち出して来る。日本ファッショ的な卑俗道徳がいやに発達するだろう。
 性犯罪の類は最も口やかましく騒ぎ立てられることと思う。問題は道徳にあるからだ。一般の文化意識も必ずこの道徳へ持って行かれる。理論は国民的思想や国民的信念でおきかえて行かれるだろう。日本人的であるかないかが、理論の正否を決定するという風習が成長されるだろう。そしてファッショ思想家、国粋主義者・などはいうまでもなく、伝統尊重主義者や日本特殊性万能主義者や、民衆習慣絶対主義者や、そうした一切の論理学的日本主義者が、段々いい気持ちになって行くと思う。一種の自由主義者や文芸家なども、この類へ近づくものと私は観測する。こうした擬装日本のファッショ文化(日本ファッショ文化であるのにそうでないように擬装した文化のことだが)は、一つの文化的卑俗常識(デマゴギー)となりそれが何か道徳的な勿体をつけられるようになるに相違ない。
 この道徳文化の猖獗は確かに一種の認識を促進する。日本文化の研究は一応進むだろう。之は役に立つ契機だ。だがしかしこれは同時にそれ以上に文化的バーバリズムへの準備ともなるものなのである。この種の文化の促進はやがて文化そのものの否定を結果するような客観的条件をつくり出すことが出来る。すでに文化の政治的批評の自由は、日本では極めて乏しい。自由の抑圧がまだ文芸批評にまで手をのばさないとすれば、それは偶々現代日本の文芸がそうした政治的意義にも思想的意義にも乏しいからに過ぎない。この点を条件としていう限り、ユダヤ的文芸批評を禁止したドイツの方が進んでいたわけだ。
 だがとに角日本は文化的に世界のファシズム国家群と提携する必然をさえもつようになった結果、文化上でも欧米において政治的意義を多少でも有てるようになった。そこで海外に向かっての日本文化の宣揚は、今後の支配者文化団の一つのお祭り行事として続けられることだろう。その結果、本当に文化の国際性というものに就いて反省する準備も与えられるわけだが、すぐ様そこまで行けるかどうか、信用を置くことは出来ないようだ。
 右翼思想団体は次第に政治団体へ移行する。そしてその或る程度の統一を獲得するものと見られる。だが、どれも綱領に無理と無意味とが多いため、その大同団結ばかりでなく、連絡さえが成功するかどうか疑わしい。到底大衆的地盤を得るものとは思われない。在郷軍人の思想上の役割についても、あまり評価すべきものを見ない。一等きき目のあるものは依然としての上からの官僚的ファシズムの文化支配だろう。
 さて以上のように述べてくるとつまり三七年は三六年の引きつづき、またはその傾向に輪をかけた引きつづきだということになる。だが今述べたのは社会における支配的焦点からのぞいた三七年の日本の予想に過ぎなかったのだ。日本は一つであるが、その社会条件には二つの焦点があるのである。どっちの焦点にピントを合わせるかによって、話はまるで違ってくる。今度は一般民衆を焦点として、一九三七年の日本社会を見ると、どうなるか。
 いうまでもないことだが、日本ファシズムが圧力を加える対象はほかならぬ一般民衆なのである。だから民衆は勿論自分の焦点から見て、一方にこの圧力の受難者だ。だが、他方に於て圧力というのは、常に抵抗を条件として生じるものだ。圧力を加えるものは日本型ファッショ的支配主体であるが抵抗を加えるものはこの民衆の方なのだ。日本の社会をこの抵抗から観測すると、まず考えられるものは、取りもなおさず、この日本型ファッショ支配に対する人民大衆による抵抗そのものなのである。圧力が大きいことは、必ずしも抵抗の弱いことと一致はしない。圧力が大きければ、それだけ抵抗も大きいというのが、社会の一つの力学である(そうでもない場合の力学もあるのだが)。ところでこの抵抗の増大は一九三六年の少なくとも最後の四半期以来の日本社会の一つの特色をなしている。この特色は三七年になってそのまま強められて行くだろうと想定される条件を、沢山見出すことが出来るのである。
 人民戦線という言葉は禁じられたも同様であるが、今後の民衆の一さいの動きで唯一つ可能なものは、欲すると否とにかかわらず、客観的にはこの形を取る結果におのずからなるだろう。無産政党の単一化の方向も避けがたい大勢となろう。政治上の自由主義の気勢も多少はあるだろう。この抵抗力は民衆の文化的常識として行きわたるだろう。露骨な日本主義や連隊長的イデオロギーは片すみにおしやられる、とともに刺激的な形の左翼思想運動もまた勿論あまり行なわれないだろう。だがそれだけに、この理知的な見解が民衆の健全常識として普及するという関係には、拍車がかけられる。抵抗力はそれだけでは攻勢には出られない。併しそうだからといってこの抵抗力の増大や延長をさまたげるものは見出されないようである。
 だがつまり、一九三七年の日本の社会は、これを表面から見る限り日本型ファシズムへの一途としか見えないだろう。以上が私の最も大づかみな観測だ。


 一進一退はあるとしても、ジグザグの形をとるにしても、ここ数年来の日本の大勢が駸々として特有の型のファッショ化の過程にあることは、もはや誰しも疑わない。かつて一部には日本には本来の意味でのファシズムはないとか、日本にあるものはファシズムではなくて単なる封建的残存物の台頭でしかないとかいう強弁が行なわれたが、勿論之は現代の日本の民衆の鋭くなった本能から、信用されずに終ったのだ。なる程日本ではドイツのような又はイタリアのような条件をそのまま具備したファシズムは、まだ成立していないし、又そういうものの成立も約束されてはいない。だがファシズムという今日の国際的な思想、政治、経済、形態は、決して固定した定義ではその実質を捉え得ないことは、云うまでもないのである。
 実に夫々の国には夫々の条件の下に於て、然り凡ての共通な根本特色を備えた処の各種ファシズムが、成立し又成立しかけているのである。日本のファシズムは日本に特有な形のファシズム、即ち「日本ファシズム」であることが、この頃定説となったと見てよいだろう。それだけではなく、最近の優れた見解はファシズムをその出来上った構造から定義する代りに、当然なことであるが、ファッショ化しつつある過程からして定義しようと欲している。すると日本などは何よりも代表的な、ファッショ過程最中の国であることとなる。之が日本ファシズムの意味なのだ。
 日本型ファシズムと他の形態のファシズムとの区別を多少でも説明することは今その紙面を欠いている。だが、少なくとも日本ファシズムはそのファッショ化の過程を辿って行くに従って次第にその固有な日本的特色をば(失うのではないが)ファシズム一般の特色によって蔽うて行きつつあるという風に云うことが出来るだろう。夫々の国に於けるファシズムはかくてその進行する目標から見て略々同一の又相照応した地点を指しているということが出来る。ファシズムの特色の一つは夫が国際的共同性を欠くということにあるが、それにも拘らず、このファシズム現象が全く歴然たるインターナショナルな現象であることは、今日ヨーロッパ及び極東を通じて判然として来た事情である。
 繰り返して云うが、日本ファシズムは日本に固有な形のファシズムだ。併しこの日本ファシズムが有っている根本特色は次第に国際的に共通な特色によって着色されつつある。今や吾々は日本ファシズムも亦之に対抗する日本に於ける反ファッショ的動向も、この国際的共通性の線に沿って考えて行くことが何より必要である。私がこう云うのは、一方に於て日本ファシズムの固有性を不当に強調しすぎて、日本ファシストがみずからファシストではなくて或る他のものだと号する態度を、却って裏書きすることになったりする手違いがないでもないからであり、他方又、反ファッショ的動向を人民戦線という名で呼ぼうとする時、この反ファッショ運動が国際的なものでなくて却って国民的なものであると称して夫はフランスやスペインに行なわれるが日本ではまるで見当違いのものだというような安易な説をなすものを見るからである。ファシズムと人民戦線とは国々の夫々の形態の下に全く二つの国際的現象であり、また、そうなり得ねばならぬ現象なのだ。この点は日本型ファシズムに於ては忘れられてはならぬ。
 日本ファシズムは民間の自発的ファッショ団として発生してはいない。初めから文武官僚のイニシャティヴを以て発生したのだ。そこでは資本家乃至金融ブルジョアジーさえ直接には顔を出していない。代議士や既成政治家も亦そこでは表面に立たないばかりではなく、そうした所謂「自由主義」的分子は、この上からのファッショ勢力によって弾圧される形を採ったため、ブルジョアジーと文武官僚との根本的な対立の方が著しく眼に立ったのである。
 勿論この表面の仮象はファシズム一般としても当然なことで、民間のファッショ団(主として小市民・農民・後れた労働者からなる)から発生した諸外国のファシズムも初めは反資本家的姿態をこらしたものである。だが終局に於てファッショと金融ブルジョアジーとの大局に於ける大団結が、ファシズムの根本条件であることはもっと徹底的に知れ渡る必要のある点で、そういうことがあるから日本でも、ファッショ的勢力は安んじて「自由主義」的分子を圧迫出来るわけだ。それは亭主が女房を圧迫する類であって、実は女房達の生活を支えるためにこそ亭主は外で働いているのだ。女房はどんなにいじめられても或る段階に来るまではどうしても亭主を離れることは出来ない。と共に柔よく剛を制するのは、わが家族制度の美風であり、又わが国の現在の国家の姿でもある。そしてこの「家族制度」的な特色の本質が、日本ファシズムの「日本型」を決定するのである。
 之は日本の国家に於ける支配的勢力内部の経緯であるが、支配されつつある民衆そのものは必ずしもこの経緯の内に立つものではない。否、国民一般はこの経緯から出来るだけ遠ざかるように仕向けられている。言論統制(検閲強化・ニュース単元化・流言呼ばわり・其の他)は、そういう作用を営んでいる。そしてこの言論統制の反面は官製の世論の強制である。民衆は自分自身の意見を持つことを許されず官許のイデオロギーをそのまま拝受することを要求される。そしてこれは民衆自身の独自の思想とは凡そ反対の効果をねらったものだが、民衆は或る程度まではどうにも教育出来るものだから、やがて或る程度まで之が民衆自身の意見のようになって了う。民衆はわが身の裏をかくような観念を本能のように持つに至る。こうしたものがデマゴギーというものなのである。このデマゴギーが、日本ファシズムに於ては特有な名分を有つのだ。
 一般にファシズム支配にとってはデマゴギーは重大な役割を帯びている。民衆の現実の利害感覚を無理に押潰して了うためには、同じく刺激的で麻痺的な観念物であるこのデマゴギーが必要なのだ。デマゴギーは最もセンセーショナルであることを必要とする。それは民衆の無責任な瞬間的情緒と馬鹿な常識とに訴える。処で最も幼稚な常識や感情は、物ごとを何でも良し悪しで決めて了う道徳判断だ。子供はまず良い子か悪い子かを問題とする。良いことと悪いこととを決めれば、子供の世界は秩序が立つ。そこで民衆をして知らしめぬ方針を取る。ファッショ的勢力が、小児となったこの民衆にデマゴギー政策を適用する際、社会を道徳と倫理とで塗りつぶして見せるというやり方を採用するのは、非常に賢明だ。各国のファッショはそれを実行しているのである。日本も多聞にもれぬ。
 日本に於ける風俗風紀の検閲は、眼に見えて著しくなった。単に思想言論の弾圧だけではない。之と直接には関係なさそうに見える単なる風紀が、著しくやかましくなったのである。なる程これは日本の風紀がそれだけ頽廃して来たからだとも云いわけ出来るだろう。だがそれが之までの通念から到底耐え得ない程度にひどくなったとは、どうしても受け取れない。でこの現象は、日本の支配者当局の方がわざと倫理化し道徳家振りし始めたということになるわけである。倫理化や道徳振りを発揮するには、現代の風俗風紀の弛緩頽廃をでも声高かに吹聴するのが、何より民衆の無知な常識に訴えるに効果があることは、少し考えて見ると明白だ。そこで風俗風紀は馬鹿々々しいまでにコセコセして取り締りを受ける。接吻映画・ダンスホール・レヴュー・其の他其の他が内務省からカットを受けている。
 道徳や倫理をファシズム支配が振りかざすことは、大変賢明なことだ、風俗風紀は勿論道徳や倫理にぞくすのだが、ファシズムによると一切の思想・科学・哲学・芸術・其の他が又道徳なのだ。つまり思想には良い思想と悪い思想との区別があるだけなのだ。思想の科学的批判などは問題ではない。夫が「良い」か「悪い」かだけが問題だ。かくて道徳振りと倫理呼ばわりによって、国民の風俗と思想とが同時にうまく統御出来るというのが、どこの国でも採用されているファッショの発明なのだ。日本でも正にそうだ。
 日本に於ける反ファッショ的人民戦線が何でなければならぬかを今説いている余白がない。実はその言葉や名称は何でもよいのである。だがとに角、人民戦線たるべきものの目標の一つは、このファッショ的道徳振りと倫理呼ばわりとの争闘だろう、特に文化運動に於ける人民戦線活動にとっては、この目標は極めて重大な筈なのである。
(一九三七)
[#改段]


9 所謂「人民戦線」の問題



一 人民戦線に於ける政治と文化

 少なくとも人民戦線という声は今日、労働者大衆の進歩的層の凡てに行き渡っているようだ。それからインテリ層にも亦勿論この声は高い。今日の日本の社会に於ける進歩的な分子の中で、広義に於ける何等かの人民戦線に対して冷淡であったり反対であったりするものは、いない筈だ。いるとすれば、少なくともそれは反動分子であるに相違ない。恰もスペインの内乱は、吾々にこの問題に就いて愈々鋭い関心を呼びおこした。或る意味に於ける人民戦線への待望は日本に於ける一切の進歩的な分子の最近の常識となっている。
 だが云うまでもなく、人民戦線は単なる待望の対象ではなくて実行の対象だ。日本の人民戦線の運動、或いはもっと正しく云うと、人民戦線への運動のイニシャティヴを取ろうとしつつあるものはなにか。凡ての進歩的分子は何等かの形態の人民戦線を待望している。だが人民戦線への運動の実行者は今日、どこにいるか、というのである。私は少なくともしばらく前に政党として結成された「労農無産協議会」をこの実行志望者の尤なるものとして挙げねばならぬと考える。少なくとも人民戦線の獲得のために行動しようとあからさまにみずから唱えているものは、この労農無産協議会なのである。
 併し労農無産協議会は思うに、将来成り立つであろうところの日本人民戦線の主導的な根幹となろうというのではないらしい。第一まだ人民戦線なるものは日本のどこにも結成されてはいない。現在あるものは、何等かの人民戦線への運動だけだ。だからその際かりに労農無産協議会がこの人民戦線への運動に就いてイニシャティヴを取り、この運動の主導的な根幹になろうとしたにしても、又なったにしても、それはすぐさま、この政治団体が人民戦線そのものの本部隊になるということにはならぬ。その限りこの団体は人民戦線結成の単なる足場であり、単なる作業上の仮設のようなものに過ぎない。そういう本質を有っている。労農無産協議会は、それ自身では人民戦線自身の一部分ではなくて、それへの仮の手段のようなものだ。労協の主脳部自身がそう考えていると思われる。
 つまり労協という政治団体は人民戦線の母胎ということは出来ないのであって、そのメンバーに於ても影響下にある勤労大衆から云っても決して大きくなく、まだ比較的に大衆性を有っていないこの団体が、最も広範な人民大衆の政治的結成であるべき人民戦線の母胎となるという種類のことは、今日の事情の下では勿論想像出来ないことなのである。もし人民戦線の母胎というものに多少ともなりそうなものを求めるならば、それは寧ろ最近までの唯一の「無産政党」であった社会大衆党でなければならぬ。いや、人民戦線の母胎となり得る唯一のものは、社会大衆党以外にはないのである。だから日本の人民戦線に就いての見透しは、なによりも第一に、この社会大衆党と、今回政党として自分を特色づけたかの労協との、関係の中になければならぬわけだ。
 ところが労協の方が自分の人民戦線的使命をハッキリと強調しているに反して、社大党の方は必ずしもそれ程この点に就いてハッキリしているとは云うことが出来ない。特に社大党の幹部の或る者に至っては純然たる社会ファシスト乃至殆んど完全なファシストであり、彼等自身敢えてこれを隠蔽しようとさえしないような次第だ。――人民戦線の当面の目的が反ファシズムにあるのだから、こうした幹部に率いられる社大党は、決して人民戦線への運動の主体となることは出来ない。社大党とは別に明白な反ファシズム的政党が必要であって、それが主体になってこそ初めて社大党を母胎にする人民戦線も期待出来る、そういうのが労農無産協議会が政党として現われねばならぬ公式な根拠として、挙げるところだ。
 だが労協の政党化が大衆の中に方々の反対者を呼びおこした事は事実と見ねばならぬだろう。これは決して一握りの机上の空論家の反対には止まらなかったのである。反対の理由は、社大党を母胎とすべき人民戦線統一への運動にとって、社大党とは別個な一つの「合法左翼」的政党を打ち建てることが、なんと云ってもブレーキの役目を果すに相違ないということだ。両政党の間に如何に協調一致を保つ方針だとしても、本当に単なる協調一致以外にないならば、二つの政党として出発することが元来無意味なわけで、之が二つの政党である必要があるのは、云うまでもなく二つの政党のメンバーと影響下勢力とが、事実上対立関係におかれる理由がどこかにあると考えられるからだ。そしてそういう理由がある以上、社大党の大衆と社大党の幹部との結びつき方は、社大党の大衆と労協の幹部(ここではまだ大衆は大して考慮に値いしない)との結びつき方に較べて、より強力であり且つ又いよいよ強まる他はない。そうすると労協が社大党の外部から社大党の大衆を獲得することは、単に益々困難になるまでのことだ。労協が社大党外の未組織大衆を獲得しようということも、今日では大して期待出来ないことで、社大党が組織出来なかったものが合法左翼なら組織出来るという風には到底考えられまい。進歩的な分子が社大党に追々と入党しつつある現下の事情の下に、労協の政党化は徒らに合法政党を二重化することによって、統一戦線を弱めることにしかならぬ。労協が社大党と「発展的合同」を遂げるというようなことは、分裂的発展(?)を遂げるということ以外に意味をもつものではない。つまり社大党の幹部に対する反撃闘争を、社大党の内部に於ては不可能だと考えることによって、これを外部から行なおうとする結果、社大党の大衆的地盤そのものに反撃するという客観的結果になりはしないか、というわけだ。――こうしたものが労協政党化に対する大衆による反対の大体の理由のように思われる。
 人民戦線の母胎たるべき社大党以外に、吾々はなぜなおもう一つの合法政党を必要とするのだろうか。人民戦線への運動のためになぜ母胎自身と対立するような政党を必要とするのであるか、なぜこの新党が経済闘争団体に止まっていてはならないのか、というのだ。
 さてこの問題が片づかない限り、日本の人民戦線は単なる思想上の動向に止まっていて、決して政治的な現実とはなり得ない。而もこの政党上の問題の背後又は根柢には、云うまでもなく更に労働組合の問題が横たわっている。そこでは社大党系の組合が労協系の組合との戦線統一を明らかに拒んだ実例もあるのだ。そうなると問題の困難は愈々大きいことが判る。――日本の人民戦線の動きは、思想としてはすでに成り立っている。思想上の目標・拠り処・希望としてはだ。だが政治上の現実としてはそれは単にまだ成立していないばかりではなく、それへの動きそのものさえが、まだハッキリとした客観的現実とはなっていないのが事実である。
 政治上の人民戦線が成立していないところに、本当を云うと人民戦線の真に有機的な一翼としての文化運動は不可能だ。文化活動が終局に於て組織的な政治活動によって制約されるものである以上、そうなのである。だがそれにも拘らず又、文化運動が断片的には政治活動から比較的な独立を有っているということも忘れてはならぬ。特にファシズム反対という否定的な側面から概括的に包括して行く形の政治活動である人民戦線に際しては、文化運動は特にその独立性のモメントをそれだけ強く有つことが許されるわけだ。元来、人民戦線という政治活動に対応すべき文化活動(戦線の一翼としての又その同伴活動としての)の形態は、少なくとも外郭から見る限り文化的自由主義であり、それが最近ヒューマニズムとも呼ばれているものだが(ヒューマニズムというものの意味を批判し限定することが併し大切だが)、この文化的自由主義の一つの特色は、それが政治活動から比較的独立に、独自の活動の形を以て、間接に政治活動に参加又は同伴するということにある。して見ると人民戦線的文化活動は、人民戦線の政治的成立に先立っても、相当の程度に、人民戦線的意義を有つことが出来ると云わねばならぬ。プロレタリアの党のないところに、プロレタリアの乃至プロレタリアの党の文化はあり得ない、というような場合と、多少話が違うのである。
 こう考えて来ると、現在多少とも自由主義的又進歩的であろうと心がけている今日の各種の文化運動は、無意識ながら或る程度まで人民戦線的文化運動の意味を客観的には有っていなくはないのであって、ただそれが人民戦線の同伴活動であり候補者的一翼であり得るということを多くは自覚していないために、その客観的な効用もまだ充分に実力を発揮していないのだ、と見做していいような点が少なくないのである。この際、だから、人民戦線という思想だけでも、文化運動にとっては人民戦線的に多少のプラスを齎すことを忘れてはならぬ。
 人民戦線の一翼としての文化活動に対して期待を表明しているのは、なんと云っても社大党ではなくて労協であると云わねばならぬ。もし文化運動が政治活動の一義的決定と直接関係を或る限度までルーズにすることが許されるとすれば、少なくともそうした文化運動にとっては労協の文化政策はマイナスではない。と同時に、社大党も亦この種の文化政策を即刻実行に移す義務がある筈だ。――こうして政治的にはまだ成立せず、又成立に相当の障害を有っている人民戦線は、必ずしも、人民戦線の一翼たるべき文化運動の情勢を予め齎すことが出来ないのではない。人民戦線的文化運動が政治上の人民戦線の先回りをすることが出来るということは、この場合尊重されていい事情なのだ。
 だが現在の人民戦線に於けるこの文化運動は、実を云うと、寧ろ現下の文化運動に於ける人民戦線のことに他ならないのである。と云うのは、文化運動として、政治活動からは独自に、人民戦線的統一を或る限度に於て有ち得るし、又有たねばならぬというのである。これは文化運動の自由主義的乃至反ファッショ的統一という運動形態に就いての問題であると共に当然又自由主義的乃至反ファッショ的な様式を有つべき文化内容に就いての問題でもあるのである。――今日人民戦線に連関して文化運動を考察するなら、考察の課題は正にこの点に横たわる。文化運動の人民戦線は、政治上の人民戦線の成立を待つことなく、実行に移され得るし、又実行されねばならぬだろう。その実行の内容となるものは、文化活動の公然たる社会的組織化と大衆の壇に立つ文化内容=文化の大衆性とである。
 この二つに就いて私は今までにも書いたことがあり、詳しい分析は別の機会に譲ろうと思うが、とに角、これは常識的にもすでにほぼ輪郭の明らかになっている事柄なのだ。

二 民族精神と文化

 人民戦線の問題が非常に喧しくなって来たについて、之を是非する人の内には、日本の人民戦線への運動と労農無産協議会の運動とを同一視しようとする者も少なくない。そういう理由から人民戦線の重要視そのものを軽蔑しようとする批評家さえあるのである。併し勿論のこと日本の人民戦線運動と労協とが一つのものであるということはないのだから、こうした批評が適正なものでないのは知れたことで、結局、もし本気になって人民戦線に反感を持つものがいるとしたら、それは他ならぬ日本ファシズムにみずから左袒する者といわねばならぬ。
 いずれにしても人民戦線という呼び声は喧しい。駅頭で売っているパンフレットにも二三これを取り扱ったものがある。例えば黒木某氏の書いたパンフレットによると「人民戦線という政治思想の行動を現わす言葉も、新作流行歌の如き魅力を以てせまりつつある」という。「この魔力にしてやられたのがスペインであって、文字通り地上の地獄となり、人類の歴史に泥を塗りつつある」のだそうである。之を読むとスペインの内乱は人民戦線の連中が起こしたことで叛乱軍の叛乱から始まったことでは、更々ないかのようだ。こういう調子で行けば、労働者のストライキも資本家が起こしたことにもなるが、それでいいのか。デマゴギーもここまで来れば愛嬌があるが、処が案外こういう物のいい表わし方が、二流新聞などでは通用するのである。内容のない感傷的な口調で物をいい出す人間を吾々人民は常に警戒しなければならぬ。うっかりしていると目前の事実とまるで正反対なことを平然と説き出すからである。
 之はデマゴギー・ジャーナリズムの模範的な例として適当ではあるが、日本の人民戦線の話しとしては勿論適当とはいえぬ。之に較べて著しく一応の態をなしているのは赤松克麿氏の書いたパンフレットである。氏は日本の人民戦線による反ファッショ運動は、軍部を相手とする運動であると断じた後、こう結論している。
「今や国政を一新し内外にわたる国策を断行し、輝しき躍進日本の姿を以て民族的雄図を行なわんとする時代に当面して、国民は一致団結、熱烈なる民族主義の旗の下に邁進しなければならぬとき、人民戦線の如き民族精神を否定し、国策断行を妨害し、国防を破壊し結局において祖国を亡国的危地に陥れんとするが如き、運動の発生し、成長することは、国民の最も戒心を要する重大問題である」云々。
 人民がその共通の利害の下に統一的な戦線を有つということが即ちその人民を国民とする処の国家そのものの破滅することだとすると、之は何という不可思議な国家であろう。まるで之では国家の利益と人民の利益とは先天的に相容れないかのようだ。そういう国家がもしあるとしたら、実に不思議な国家といわねばならぬ。
 それはとに角として人民戦線が民族精神を否定するということはどういうことだろうか。いや果して所謂人民戦線に対する反対物たる日本型ファシズムは民族精神を否定しないだろうか。一体日本は所謂日本人だけで出来ているのではない。同胞はギリヤーク、アイヌ、台湾土人、蛮人から始めて、半島人の二千余万人を包括しているのである。こういう民族(?)の一つ一つの民族精神を肯定尊重するものが日本的ファシズムであるとでもいうのであろうか。
 朝鮮民族が日本民族から独立した民族であるかないかは、私がにわかに断定出来ることではない。併し吾々は民族というといつも民族の文化を考えるのだ。で話を民族から文化へと移せば、朝鮮文化がとに角日本古来の文化とは異った或る別個のものであることをどうも否定出来ないようだ。之は崔承喜の舞踊一つ見ても判るからだ。そこで朝鮮文化は今日どういう風に仕向けられているか。いや万一朝鮮文化というものが何か骨董品のような価値しか持たぬとするなら、話しを「朝鮮人の文化」という形に直そう。朝鮮人の文化発達に就いて、今日どういう状態が発見されるか。
 朝鮮は日本と合併してから著しく文化水準が高くなったということを誰しも疑うまい。丁度日本が欧米諸国と交通するようになって、その文化が著しく開化したと同じにである。処で日本が外来文化によってその文化が開発された結果、日本古来の文化を全く捨て去って了ったかというと、そうではなくて、却って今日は益々正当に固有文化の保存と生長とが切望されているが、丁度そのように朝鮮文化も亦、日本文化との接触の下に却って増々正常な観点の下に置かれ、朝鮮文化・朝鮮人自身の文化・の価値を認識することが、半島人の切望する処となっているようである。この事情は文化接触に於ける一種の公式として、極めて自然なことだろう。
 つまり日本人による朝鮮人教育が普及すればする程、朝鮮文化は日本文化に同化すると同時に、その反面に於て却って朝鮮文化の独自性が自覚されざるを得なくなる。そして一般にこうした文化の独自性の自覚が、取りも直さず民族精神というもののバックとなる処のものなのだ。――南新朝鮮総督が赴任の途についた時は、半島の文化は正にそういう時期に這入っていたもののように思われる。と云うのはこうだ。
 まずスポーツは民族精神の発露である、という風に考えられていいだろうと思う。そうでなければ、日本民族があれ程オリンピックに熱中する筈はあるまい。ドイツについてもこのことは証明される。処で朝鮮の某大新聞は、不当にも、マラソンで一着となった孫君の成績を以て、朝鮮民族(?)の民族精神の真の発露であり、朝鮮文化の独自の誇りであると考えたらしい。該某新聞に載った写真の中の孫君は、その胸にあった日章旗を抹殺されて現われたのである。この不当な新聞は即刻発行停止の事情の下に置かれ、同時に主な新聞記者は検挙されてしまった、という噂なのである。
 だがそれだけならば大した問題ではないのだが、丁度之をシグナルとしたように、朝鮮人の文化活動者の主なる者は殆んど例外なしにといってよい位い、その自由を束縛され始めたのではないかと想像される節がある。朝鮮語のトーキーは内地で上映禁止の前例を獲得したし、内地の某地方の官憲は朝鮮人の朝鮮語使用をさえ禁止したい意向をもらしていると伝えられる。――この行政方針の良否を私は今茲で問題にするのではないが、少なくともこういう大勢は朝鮮文化の否定へ導き、その限り民族精神の否定を結果するだろう、ということが云いたいことだ。どこの土地にしろ、その民族精神を否定し、やがてその文化を否定する政策だとすると、之は結局斉しくバーバリズムの範疇に這入らざるを得なくなる。ファシズムがどこの国に就いても、文化制限・文化否定・のバーバリズムと見做されているということ、そして民族文化の尊重は一般文化の開発を強調する処の社会にだけ固有な政策であるということ、そういう二つの事実はこの際実際甚だ参考になるのだ。
 併し私は別に朝鮮文化にだけ特に深い関心を有っているというわけではない。問題は日本における文化の一般的な抑制という最近の大勢にあるのである。例えば映画の検閲が、国産品輸入品を通じてにわかに厳重になったと新聞は報じている。仮にそれが本当でなくて、人民の単なる錯覚だとしても、そういう錯覚を持たせるような文化上の雲行きが最近頻に著しくなったという事実の否定とはならぬようだ。こうなると朝鮮文化も日本文化も区別はない。何等かの民族精神の表現たるべき文化が、無惨にもただの便宜のために制限され否定されるのである。これこそ一般に民族精神の否定でなくして何か、と云わざるを得ないのである。
 民族精神の自由なる発達・自由なる表現を妨害するものは何か。何かの型のファシズムであるか、それとも何かの型の人民戦線とかいうものであるか。これは一般に就いての質問であるが、同じ質問を私は、現下の日本に就いても提出したいのである。

三 日本型ファシズムと文化人民戦線

 河野密氏は『朝日新聞』に「眼で見た」人民戦線について書いた。主にフランス、それからイギリス、における人民戦線を眼で見たのである。この帰朝者談を私は色々の意味で面白く読むことが出来た。併し予め断わっておかねばならぬのは、河野氏が眼で見たのはフランスやイギリスの「人民戦線」であって、決して日本のそれではないということである。フランスやイギリスの人民戦線を眼で見るためには、勿論ヨーロッパまで出かけなければならぬ。ヨーロッパは勿論日本とは地球の反対側にあるから、どんな慧眼な目でも日本にいては眼で見ることは出来ぬ。そこで帰朝談となるのである。そして帰朝談というものは、多少抜けていればいる程参考になるものなのである。河野氏によると、アチラの人民戦線なるものは、その国々の特殊事情に基いているのである。ということは人民戦線が必要とされる国と、そうでない国とあるという意味ではない。又、人民戦線が成立する国と、そうでない国とがあるということでもない。それより先に国によって人民戦線という言葉の意味が異っているのだ、ということらしいのである。なぜかというに、もしこの言葉が仮にどこでも同じことを意味しているなら、フランス・スペイン・イギリス、それから日本など(但し日本はやがて問題になるのだが)、夫々人民戦線が日程に上ったり上ろうとしたりしている限り、人民戦線なるものは一個のインターナショナルな動きでなくてはならぬ筈だ。ただこの同じ人民戦線なるものが国によって充分現われたり又は余り甘く行かなかったりするだけだということになる。処が河野氏によると、もし之を国際的な反ファッショ運動として理解するものがあるなら、夫は認識不足この上ない者で、フランスやスペインの特殊事情を眼で見たことのない者の無理解から来るのだという。だから、人民戦線という言葉の意味が、全く国際性を有ち得ないのだ、ということにならざるを得ない。
 併しアチラの人民戦線を眼で見た河野氏は、この言葉に対して特別な注文を有っている。フランスやスペインのように、少なくとも複雑な小政党対立の関係がある時に限って、氏は人民戦線という言葉を使うことを許可するものであるらしい。之は麻生久氏などの観念の内にもあることで、日本でも既成政党がいくつかに分裂した揚句でなければ人民戦線などは出来上る理由はない、と考えている。如何にも代議士らしい人民戦線の観念であるが、之によると人民戦線とは、専ら政党運動や内閣組織活動につきるものであるように感じられて来るのである。
 併し言葉の注文は之だけにはつきない。人民戦線というカテゴリーは、実は専らフランスに固有なもののようでもあるのである。人民戦線は国内のファッショに反対するよりも寧ろ、ファッショ的隣国に対抗しようという国民主義の一環を指すのだというのである。国内問題としてよりも先に、国家対立を整調するという意味での国際主義の光の中で人民戦線は検閲し直されるべきものだという。但しこの場合国際主義というのは所謂インターナショナリズムでは勿論ないという。人民戦線即ちフランス人民戦線は、インターナショナリズムに立つのではなくて、国民主義に立つのだったが、而も人民戦線が国内反ファッショ勢力としての一国の政権を握っても、夫が「国際的な整調」を得ずしては、反ファッショの実力を有つことが出来ぬというのである。つまりフランスの人民戦線はインターナショナリズムに立つことも許されないし、そうかといって一国の国内政権の所有者としても許されないし、又そうかといってファシスト・ドイツと国際的階級闘争の関係に這入ることも許されないというわけだ。結局人民戦線などの立場はないということになる。
 さて之が眼で見た「人民戦線」である。人民戦線はアチラ就中フランス共和国に固有な歴史的(?)カテゴリーであるからこの言葉をどこに使ってもいいというわけには行かない。丁度ファッショというのがイタリアの特殊事情と結合して初めて成り立ち得た歴史的用語であるが故に、ドイツやハンガリーやポーランドや、まして日本などに、あり得ないといわれるように、之が眼で見た地方的範疇としての人民戦線だ。そしてアチラの人民戦線すらその立場はどうも容認されそうにはないのだから、まして日本などで人民戦線々々々々といって騒ぎ回るのは、世界の田舎者である、とこの帰朝者はつけ加えたいらしいのである。
 この「人民戦線」の紹介乃至翻訳は、吾々日本人にとっては勿論甚だ参考になる。だがそれは少しも日本における人民戦線運動の各種の動きを否定すべき根拠の類になるものではない、ということは注意してかからねばなるまい。もし之によって日本の人民戦線の動きの批判になるとでも思うならば、それは可なりの違算なのだ。なぜというに、日本にはそれこそ日本に固有な特殊事情があって、それが日本に固有な人民戦線の動きを醸し出しているのであって、その刺激が、「アチラ」から来たからといって、之を「アチラ」の何かジャーナリストによる模倣か翻訳のように思い込むことは、正に認識不足といわねばならぬからだ。日本の人民戦線は日本の特殊事情に沿うて、その特殊な観念内容を明らかにされねばならぬ。吾々は河野氏に、アチラの人民戦線の話しと、次に日本の人民戦線に就いての意見を聞きたいのであるが、その機会を得ていない。

 私は考える、日本に於ては日本特有の形と日本特有な言葉の意味に於ける人民戦線なるものが必要であり、その動きは乃至それへの動きは、歴然たる事実に属するだろうと。この必然性を認識する点になると、軍部型ファシストともいうべき赤松克麿氏などの方が、却って要点をつかんでいるのではないだろうか。氏によると、人民戦線は日本では大変に必然性を有っているから、それ故に予め之をやっつけて了うことが軍国焦眉の急だというのである。
 だが日本で人民戦線というのは、群小諸政党の最低綱領による反ファッショ的共同戦線というようなことを意味するより先に、とに角人民の反ファッショ的戦線の成立ということを意味するだけで、立派に意義があるのだということを注意せねばならぬ。とに角といわねばならぬ程、日本における特有なファシズムの攻勢は急迫しているのである。之が日本型ファシズムの「特殊事情」であり、従って之に対抗するだろうものとしての日本型人民戦線の特殊事情なのだ。いって見れば之はより未展開なその意味でより一般的な形における反ファッショ運動なのである。だが夫が人民の反ファッショ戦線という意味で、依然として一般的に人民戦線と呼ばれる権利があるわけで、それであればこそフランスやスペインのより限定された形態の人民戦線の動きから、力強い暗示も受け取ることが出来たのだ。人民戦線という言葉を外国から学んだからと云って、人民戦線論がジャーナリストの外来思想受け売りの類だと見るのは、一種アメリカ帰り式な世界観ではないだろうか。
 日本の人民戦線は今云ったように、より一般的な形態を有っているのだから、例えば社会大衆党のただ一党を以てしても、と云うのは即ち、社大党以外の大衆的政党の存在や又は既成ブルジョア政党の大量的小分派への分裂などを俟つことなしにも、立派に人民戦線的活動の任務を遂行することが出来る、といっていい理由があるだろう。日本ファシズム反対の人民的任務を果すことが出来ると云っていいだろう。菊川忠雄氏が引用する文章に従えば、日本における人民戦線は社会大衆党そのものだというのであるが、このやや奇矯な言葉にもこういう風に考えれば意味があるだろう。
 河野氏や麻生氏、又菊川氏にしても、人民戦線という言葉に対して批評を加えねばならぬと感じた動機の一つは、日本の人民戦線運動と労農無産協議会とが何か一つのものであるかのように考えられる処から来る。勿論労農無産協議会は自分が人民戦線の中心部をなすべきだとも考えないし、自分で日本の人民戦線の主役を引き受けるともいっていない。併し労協という新設無産政党は人民戦線の提案を以て社大党に迫ることによって、事実上は労協と社大党との間の或る種の対立を、社大党に思い出させるような結果になっているらしい。私は今、両政党の幹部間における個人的(?)な関係は無視することにする。それを無視しても、両政党の客観的な対立は消えない。対立必ずしも対抗反発ではなく、その点労協の幹部は充分に良心的に注意深いと思われるが、併し対立は矢張り対立たらざるを得ないわけだ。そこで社大党では、人民戦線と労協とが観念連合の習慣に置かれて了って、人民戦線といえばすぐ労協を思い出すのだ。又労協を批判しようとすると、すぐ様人民戦線を一くさりやっつけて見たくなるのだ。勿論之は心理的には尤もだが、論理的には筋の通らないことで、人民大衆は迷惑なしとはしない。
 もし人民戦線という言葉が気に入らないなら名前は何でもよい。とに角人民の反ファッショ的戦線の確立が必要なのだ。社大党がすでに反ファッショ的人民戦線ではないか、今更確立するもしないもないではないか、というかも知れぬ。それならそれでいいのである。社大党が日本人民戦線の機能を充分自覚的に遂行するようにさえすれば話は済むのである。社大党はこの根本的な必要について言を左右にすべき謂われは全くない筈だ。吾々は人民戦線という言葉の穿鑿の代りに、人民戦線の名の如何に拘らず、日本における「人民の反ファッショ的戦線」の確立を社大党に期待する理由があると思うものだ。之は社大党に民衆が課す今後の課題だ。
 人民戦線という合言葉は最近のジャーナリストの空騒ぎにすぎぬ、という意見が、気の利いた又利いた風の、知恵として行なわれているようだが、それは多少当らぬでもない。併し人民戦線という言葉が、合言葉にさえなっているという一つの文化上の事実を之によって見過すことは許されない。人民戦線という言葉の魅力は、政治的にはまだその準備を完全になし得ていないと思わねばならぬ特殊事情にある日本では、相当観念的なものなのだ。だがだから駄目だというのではなくて、却ってそれ程之は文化上の、又文化運動上の、意義を有っていると云うのである。少なくともこの点を見落さぬものが日本のジャーナリストであったのであり、この点に比較的鈍感なのが日本の大衆政治家ではなかったかと思う。いうまでもなくファシズムの本質の一つはその巨大なデマゴギーの内に横たわる。反ファッショ的な人民の戦線にとってはこのデマゴギーに対する批判的で啓蒙的な文化上の意義は絶大なのだ。日本の人民戦線は之を文化運動上からも把握することが、特に必要なのである。このことに就いて、先にすでに私は要点だけを述べた。
(一九三六)
[#改段]


10 民衆論



 西安事変以後の国民政府乃至蒋介石政権は、大体に於て抗日戦線を辿るかのように云われている。政権そのものの方針が果してそうかどうかに就いては、遽かに判断を下す限りではあるまいが、併しその背後にある所謂抗日人民戦線の存在を疑う余地はない。従来からの日貨排撃運動から見ても、又中国学生運動から見ても、政権自身の方針とは比較的独立に、人民乃至民衆の自主的な行動として、抗日気運が存在するのである。私は今併し、支那に於ける抗日問題について述べようとするのではない。話の要点は、この抗日運動が単に政府の方針であるとか、ないとかいうだけではなくて、正に民衆のものである、という点にあるのである。
 実際、今日中国の政権を左右しているものは、浙江財閥乃至外国資本関係や、封建的軍閥勢力はとに角として、社会現象としては全くこの民衆の世論ともいうべき勢力である。張学良も之なくしてはクーデターを敢行する筈はないし、毛沢東等の勢力も之を活用せずには実在し得ないだろう、と私は遠方から推測する。中国の民衆はとに角、その一部でもが事実上の社会的勢力を形成しているのであって、少なくとも、無組織で半ば直接行動的にせよ、政治的役割を握っている。中国の民衆は政治的な意義を、政治上の自主性を、有っているのだ。

 勿論之は少しも不思議なことではない。日本や英米其の他からの直接間接の圧力のおかげで、流石に封建的な軍閥割拠の条件にまだ立っている中国も、一面近代的な都市と交通とのおかげもあって、著しく世論の醸成が可能なのだ。資本主義的に全く無邪気であった、幕末乃至維新当時の日本でさえ、世論というものが台頭した。これがその後二十年ばかりの内に、日本に於ける一時的なデモクラシーの形をとって所謂「公論」となったのである。つまりだから、民衆が政治上の自主性を持つことの出来る場合に世論というものが成立し、又は夫が初めて社会的勢力となるというわけである。近代では資本主義の開花期に起こる現象で、徳川の封建制の下には起き得ない現象ではあるが、併し資本主義の開花に際してどのような封建的な残滓があろうとも、世論というものは成立するのだ。民衆というものが自主的な政治勢力となる時はいつもそうだ。逆に世論というものが充分な意味では存在せず、又は存在しても結局に於て無力である場合は、即ち民衆はそれだけ政治的自主性を有たぬ時であることが、証拠立てられる。夫は民衆という観念が政治的に理解されずに、単に大衆文学式や通俗雑誌的にしか理解されない時だ。
 こんなことは判り切ったことだ。民衆の政治的役割と世論との必然的な同伴関係など、デモクラシーの観念のABCではないか、というだろう。だがABCかも知れないが、そのABCを忘れる者が多かったとしたならば、益々問題にせざるを得ないではないか。ルソーは民衆が国家の主権だと云ったが、日本に於けるその適用の当否は別として、とに角民衆というものはそうした政治的勢力として考察されるのでなければ本当ではない。処が『キング』の読者が民衆というものだと思ったり、政府乃至社会支配層の夫々の代表者達が支配の対象と考えたようなものが民衆だと考えたりしている人間は、今日の日本には極めて多いということをまず注意しなければなるまい。

 日本では明治政府以来、民衆という観念は充分に常識化されなかった。所謂自由民権論も日本の社会構成の基礎に制約されて、要するに清算されて了った。その清算過程は昭和の聖代に於てさえ反覆されるという次第だ。だから日本では民衆というものを例えば民間というようなものと考える。民間とは日本に於ては政府によって指導啓発されねばならぬお荷物と見做されているものだ。之は藩閥内閣から中間内閣や政党内閣になろうと変らないし、まして官僚内閣や軍内閣になったとすれば、いよいよ強まるだけの話しである。
 それは支那のように、日本にとっては明治政府以来国外からの圧迫がないからだ、と云うかも知れない。三国干渉式のものは、今日の支那が受けている圧力と比較するには足りないから、その意味で日本はたしかに、対外的受動に於て平和な国だった。だから日本国民は実はヨーロッパ諸国民程排外的でもなければ敵愾心が強くもない。愛国心だって本物ではない、とさえ云われている。それはとに角として、日本が対外的受動に於て平和であったことが、日本の民衆をして政治的な自主性を必要としない程幸福ならしめたのだ、と云わぬばかりの説もないではない。例えば人民戦線というものはフランス民衆の対ドイツ政策という国策外交事情からして初めて発生して来たのだ、というような説も之に帰着するだろう。対外的受動が人民を駆って政治意識を呼び起こすのだと。
 たしかにドイツのナチ政権の成立などは、一応の外見現象から云ってそうだ。ヨーロッパ大戦に於ける敗北なしには、ナチの民衆的勢力をもり立てるデマゴギーは拠り処を見出し得なかったからだ、だが例えばスペインはどうだろうか。スペインはどういう対外的受動を特に強いられたのか。スペインは殆んど全くその国内的な事情によって、民衆の自主的政治勢力である人民戦線が結成されたのだった。だから日本に民衆がないということ、民衆が政治的自主性として世論の力として、ないということは、日本民衆がそれ程に外敵から幸福に防がれていたことでは勿論ないのだ。日本は民衆がないということは、それだけ民衆の幸福を意味するのではないのだ。
 日本に於て政治的に存在するものは、民衆ではなくして単に人民に過ぎない。人民とは家臣達の関係のアトミズム化したようなものに過ぎない。日本に於て民衆として存在するものは、民俗学的な、土俗学的なものでしかないのだ。市井、巷間に横たわるものが民衆ということである。今日の社会用語で、人民と呼ばれ、民衆と名づけられるものは、民間的のものでなければ、市井的なものだ。民衆には宗教を造り与えねばならぬ、とヴォルテールが云った。あの民衆のような段階の民衆なのだ。だから世論という言葉も結局に於ては社会的に信用を博することが出来ないのであって、日本ではそれが巷説とか甚だしきに至っては流言飛語とかと名づけられている。

 民衆という言葉は最近頻に使われる様になった。云わば之は最近発見された一部の人間達の間の合言葉のようなものだ。民衆は発見されたようだ。だが発見されたと思われる日本の民衆とは、否、彼等一部の人間達が発見したと称する日本民衆とは、右に述べたような民衆でしかない。日本の民衆がいつまでもそういうものであるなら、併し、吾々は今更そんなものを発見した処で何の役にも立たない筈だ。何となれば、そういう民衆は、実は明治二十年代からチャンと存在したのだからだ。彼等一部の人間達――主に社会機構に本質的に無知なブルジョア文士の一部だが――は併し、何と云っても民衆という言葉を新しく発見した、そういう一種の功績がある。民衆という「言葉」は日本でも世界大戦以前に存在した。啄木が「ナロードよ」と呼んだものだ。だがこれは全く社会科学以前の文学的用語でしかなかった。処で現段階の社会事情の下に立つ例の人間達は、この言葉を今日もう一遍持ち出そうという独創性を示しているのである。
 それは社会科学的な用語としてではない。社会科学的の用語としてなら、政治的自主性の問題を抜きにして今日の日本の民衆というものを論じることは出来ない筈だった。併しもし之を社会科学的用語の心算で使う場合なら、それは全くファシスト政治家の範疇を借用する他に道はないらしい。併し連中の中にはそういうファシスト政治意識から来たのでないものがいるとするなら、彼等の所謂民衆は、社会科学的用語でなくして、従来の文学的方言にすぎない。
 尤も現在、民衆と人民では語感が異っている。そして文学的用語としての民衆は政治的用語としての人民とは全く別な或るものを指すようだ。というのは、民衆説は何等かの人民戦線説とは正反対なものを指すのである。文学用語としての人民も亦、政治的用語としての人民とは無関係なものであるらしい。こうした文学的用語で行くと、民衆とはロマンティックなヒューマニストのことであったり、人民とは女出入りなどにかまけている庶民のことであったりするようだ。

 民衆が政治的自主性を有たないということは、日本の民衆の事情であり条件である。だが条件にはおのずから限界があるものだ。条件そのものが変化しなければならぬような限界に逢着することは、決して不可能ではない。日本の民衆というこの非政治的な瓦斯も、シリンダー内の圧迫行程に於ては必ず点火点に達することが出来る。条件は単に常温常圧の場合にしか保たれない。――処が文学的用語としての民衆なるカテゴリーは、日本の民衆のこの条件を変化することを決して肯んじない。日本の民衆をして今日の条件の下に永久たらしめよ、ただその条件の限界内で出来る限り之に親切になれ、革新してやれ、そういうのがこの民衆説だ。否この民衆説は実は人民という言葉さえ気が引けて思い切って使うことが出来ない。前の潮内相などは人民という言葉を大変嫌ったものだから。

 民衆という言葉が合言葉として選ばれたということの独創性は併し、大衆という言葉を使わないことにしようという、一つの動機の内にひそんでいることを見逃してはならぬ。マルクス主義者の多くは、かつて、大衆というものを盛んに口にした。之が公式的であったとかいうので民衆説が出て来たようなものだ。大衆という観念は元来社会学的なもので(社会科学のものというより)政治的なカテゴリーではないが、この社会学的カテゴリーに政治学的意義を発見したのが、現代の社会科学の功績である。そうでなければ之は単に群衆とかモッブとかに過ぎなかった処だ。処が民衆(人民もそうである)の方は、元をただせば旧くから政治的用語として歴史的に由緒のある範疇である。ポプルスとはローマの下層民の一定層を云い表わすものでもあった。処で今日の日本の民衆説は、却って大衆の方をあまりに政治的であるとして、民衆の方を政治的経歴から開放して了った。民衆とデモクラシーとの関係などはスッ飛んで了えというわけである。民衆は伝統的精神や何かには関係があるが、普通選挙にも無産大衆政党にもかかわりがないのだ、という具合である。

 実は大衆とは即ち民衆だったのだ。日本の民衆を措いて日本の大衆はない。と云うのは、大衆は、少数の組織された意識ある労働者、などに限らなかったのである。進歩的な大衆とか反動的大衆とかいう区別も変だったのである。大衆の内に進歩的な分子と反動的な分子とがあり、その限界線が徐々に又は急速に反動分子の領分を狭めて行くというプロセスが、意識ある無産大衆の組織ということだったのだ。そうかと云って大衆は単に数の問題でもない、政治的勢力としての機能の問題なのである。その機能が被支配者としての民衆というものに現われるのだ。

 そして又逆に、民衆とは即ち大衆である筈だ。日本の民衆は日本の大衆以外にはあり得ない。もし政治的勢力としての大衆でないようなものが民衆だというなら、夫は民衆を愚弄することこの上もないデマゴギーであると云わねばならぬ。夫は日本のこの自主性を欠いた今日の民衆に、瞬間よ止まれ、お前はあまりに美しい、と呼びかけることである。日本の「民衆」の名の下に、日本の「現実」を賛美するものが之である。

 元来マルクス主義哲学は文化の大衆性について深く思いを致している。文化の階級性について省察を加える必要があるからである。科学・道徳・文学・其の他と大衆との関係は、この文化理論にとって宿命的なものだ。文学で云えば、マルクス主義は大衆の手による大衆のための大衆の要求を盛った文学を求める。この点誰知らぬ者もない筈だ。
 だがわが国の実情問題として見る時、この大衆はどういうものであるか。元来大衆は単に多数の群衆ということではない。それが少なくとも政治上の独自性乃至自主性を有つのでなければ、文化問題に於て役割を果す大衆や民衆とは云えない。それはすでにのべた。文化上の問題も亦万事、こうした民衆を想定又は予想することから始まるのである。そしてこの事情は日本に就いても少しも変るべきものではない。日本の文学に於ける民衆性・大衆性・の問題も亦、こうした政治的な自主独立性を有つべき民衆をば想定することに立脚せざるを得ない。
 処が日本ではその所謂封建的な残存がその資本主義自身の制約となっているので、ブルジョア・デモクラシーは遂に今日に至るまで正常な形の発達を遂げることが出来なかった。つまり日本では、資本主義下に於て正常であるべき民衆がまだないのである。而も政治的な自主独立性を持った民衆と云えば、すでにブルジョア・デモクラシー発生以後の大衆以外にはないのだから、つまり日本では、文学(一般的に文化)の大衆性・民衆性・の問題が想定する民衆が、お誂えむきには存在していないということになるのである。
 でもし今日、民衆という観念を充分の反省なしにかつぎまわると、それはブルジョア・デモクラシーというものの実現を抜きにして一足飛びに何かの大衆を考えるということにならざるを得ない。なる程いつの世でも人民達は多数に存在している。それは如何なるアブソリュティズムの下に於ても存在するものだ。併し例えばそういうアブソリュティスティックな事情に於ける民衆を以て、今日の文学の民衆性の拠り処とするなら、夫は今日文化の民衆性や一般に民衆性が問題になる所以に、全く相応しないことだ。――日本に於ては民衆の自主独立性が、今日根本問題になっているのだ。夫が一般に民衆性の、又文化や文学の民衆性の、問題の唯一の意味なのだ。この要点をはずして、何等の民衆性も何等の文化の民衆性もあり得ない筈だ。もしあると考えられるなら、その観念は、今日の日本の問題として提出されるものとしてはインチキたるを免れない。
 吾々は考えて見なければならぬ。ファッショ的独裁者と云われるムッソリーニやヒトラーさえ、民衆との日常の連関に於ては表面上極めて民衆的なのである。であればこそ、彼等は民衆のデゥツェでありフューラーである、と宣伝出来るわけだ。日本では平大臣と雖も民衆との日常の接触を知らない。こういう日本の民衆を以て、そのまま文学の民衆性の問題に役立てようというのは、物ごとをあまりに楽観することであり、容易に考えすぎることだ。
 最近の文壇・思想壇・の根本傾向の一つは、民衆の模索にあることは先にのべた。否すでに多くの小ブルジョア文学者達は、民衆を発見したように云っているのである。民衆発見という方向は根本的に健全で大賀すべき現象であり、之で文学もやっと世間のものになりそうになって来たわけだが、処がその発見されたとかいう「民衆」とは何かというと、このブルジョア・デモクラシー前的な民衆がそのまま是とされた民衆のことだ。と云うのはつまり、民衆のブルジョア・デモクラシー的発展やその政治的自主独立性の獲得等々という現実的に面倒な問題は一切抜きにして、ただひたすらに民衆々々なのである。「伝統」と称されているのも往々之だ。
 処が今日の日本型ファシズムが想定する日本民衆なるものが、正にそうした民衆に他ならないということを思い出さねばならぬ。して見ると今日の文学の民衆性論議の多くが、往々にして日本主義の文学的形態なので、吾々はこうした民衆論議から、民衆の真の観念を救い出すことをば、今後の思想界の課題としなければならぬだろう。
(一九三七)
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第二部 日本の文化現象






11 文化の危機とは何か



 文化という観念が、文明という観念から特別に区別されていることは、人の知る通りである。例えば物質文明に対して精神文化という場合に、この区別の或る要点が云い表わされるのである。文明という観念の近代的なものは元来イギリス・ブルジョアジーの観念に由来すると見てよく、野蛮乃至武断に対立するシビリゼーションという意義と共に、啓蒙(エンライトゥンメント)の意味をも持っている。之に対して、文化の方は、主にドイツ観念論を産み出した社会層に由来すると見ることが出来るだろう。
 勿論今日では、文化という言葉は極めて自由な広さに於て国際的に用いられている。それは、フランスに於てもソヴェート・ロシアに於ても、生き生きした意味を持った言葉だ。だが今は特に之がドイツ哲学と甚だ浅からぬ関係にあるものから由来した観念である、という点を注目する必要があるのである。――処でドイツ哲学的なこの「文化」なるものは、一方に於て人間の知能・性格・の涵養という意味に於ける教養(人間形成)を指すと共に、之に基いて客観的に存在する一つの精神的社会現象をも指している。シビリゼーション乃至啓蒙(アウフクレールンク)も、こうした「客観的精神」や、「教養」を基本として初めてその意義を受け取るのだというのが、この「文化」という観念の利き目なのである。
 ドイツの近代観念論の一つの主流は、この文化のイデーをめぐる哲学体系としての「文化哲学」である。之は所謂「生の哲学」とも深い連関を持っている。つまり文化の観念は精神と生(生命)という二つの近親観念によって与えられているわけだ。ドイツのプロテスタンティズム乃至ヒューマニズムと切っても切れない関係にある。そして大切なことは之が又ドイツ哲学による自由と進歩というイデーを条件づけていることだ。というのは、そこでは自由は文化的自由であり、進歩は文化的進歩なのである。その際必ずしも、政治的自由や人類の政治的前進進歩ということは大切ではない。こうしたものがドイツ哲学的「文化」のイデーなのである。だからここに、たとえばフランスやイギリスに於ける考え方と少し違ったものがここにあることを注目しておかなくてはならぬ。
 さてなぜ私はこういう区別を持ち出したか。ドイツ式な文化の観念と、之とは一応別に他の諸国で国際的な用語として用いられているそれとの間の区別、之を指摘して何を云おうとするのであるか。他ならぬ「文化」の祖国であるドイツに於て所謂文化の蹂躙と吾々が呼ぶ処の現象が続々として起こりつつあるからである。
 イタリアのファシズムの場合でもそうだが、ファシズム・イデオロギーの特色の一つが、何より文化呼ばわりを好むという点にあることは、見逃されてならぬ点だ。この点ドイツでも別ではない(日本でも段々そうなりつつある)。イタリアは自分の文化の淵源をローマに求める。もう少し文化史的なリアリティーに恵まれているドイツでは、之をゲルマン文化に求めるのである。之を更に一般化せばアーリア文化の宣揚となりユダヤ人文化の排撃ともなるわけだ。而もこの文化強調主義が、科学や批判力という広義の本来的な文化要素の強調なのではなくて、却って之と相当の程度に牴触せざるを得ない「道徳」の強調に帰していることが、重大特色である。ファシストの文化呼ばわりは端的にいうと道徳呼ばわりだったのだ。文化から科学性や批判性を引き去って、道徳上善いか悪いかばかりで物ごとを決めるやり方に持って行くことが、ファッショ・イデオロギーに特有なイデオロギー性乃至デマゴギー性質なのだ。之は小市民達が大衆的に持っている一つの弱点を利用するもので、何事も善悪の問題に帰着させなくてはおさまらないのが彼等の「常識」というものなのである。
 文化呼ばわりに最も力を入れているドイツのナチ文化が、それにも拘らず、否それであるが故にこそ、吾々から見て文化の蹂躙と判定されるという経緯が、今日注目に値いするのである。

 ナチによって非アーリア的書物の火刑という儀式が行なわれた時、吾々は甚だ驚いたものだ。之はいうまでもなく、野蛮行為の一つであると思われたからである。儒者を坑にした秦の始皇を思い出したのである。だがナチの支配者に云わせるとドイツ文化を純粋にし、高めるためにこそ、こうしたヴァンダリズム(?)が必要だというのだ。たとえばヒルシュフェルトの性科学研究の如き、ドイツ文化の道徳性を傷つけるものであり、マルクス主義の文献の如きはドイツ的に云って不道徳この上ないもので、非文化そのものだというわけだ。
 ゲッベルスによるユダヤ人的自由文芸批評の禁止、文芸批評の法定も亦、驚くべきバーバリズムだと思われた。処がゲッベルス自身によると、これこそドイツ文化の擁護のためには緊急この上のない政策だというのである。卓越した文化人である多くのユダヤ人学者や文芸家の追放も、ドイツ文化の自衛手段なのだという。
 之によるとナチ式な文化の観念、つまりドイツ文化なるものの観念、は排他的でなければ成立しない文化のことを指すのであり、従って国際性を有たない文化のことを云うのである。文化の国際的通用性というものはもう放擲されたと見ねばならぬ。而もそれと同時に文化の自由なるものも亦どうでもよくなって了った。でこういう「ドイツ文化」が吾々の文化という観念ともはや何等の関係もないので、このドイツ文化が正にドイツの非文化・反文化・となるわけであり、バーバリズム乃至ヴァンダリズムとなるわけなのだ。批判的自由と国際的な通用性とは、国際的信念としての文化にとっては不可欠の要素の筈だったからだ。
 だがこのドイツ文化が吾々の文化の観念から云って反文化的であるばかりではない。ドイツの文化哲学自身による文化のイデーから云っても、この「ドイツ文化」は反文化的な筈だった。批判的自由や国際的な(と云うのは合理的ということだが)通用性とは、他ならぬドイツ文化哲学による文化そのものの規定にぞくしていたからである。――処がそれにも拘らず現代のナチ的「ドイツ文化」は、ドイツ観念論の純粋化であるということになっている。之はどうしたことなのか。
 こう考えて来ると、ドイツの文化哲学に於ける文化という観念を再び改めて検査して見る必要が生じて来る。ドイツ的な「文化」の理念は文化的自由や文化的進歩につらなるものではあったが、それが必ずしも政治的自由や政治的進歩と直接関係がなくてもいいものだったという点を、もう一遍思い起こそう。特に自由の問題に就いて云えば、文化的自由は政治的自由から独立にも成立出来るというのが、この文化主義的ドイツ哲学による自由の観念だった。だから政治的自由が失なわれた時でも、文化はなお自由であり得るし、文化上の自由はなくなりはしない、とも考えられる。寧ろこの文化的自由を護るためには(そういう国民道徳か国民的信念を護るためにはだ)政治的不自由こそ現実に必要なのだ、ということにもなる。文化的自由もその実現に於ては一つの政治上の自由になる筈のものだが、処がこのドイツ式文化哲学によると、文化の自由は一切の形態の下に於ける政治的自由とは無関係であり得るわけだ。
 処がこうなると、之はつまり、ドイツ的文化哲学(それがドイツに於けるリベラリズムの代表的な哲学であったのだが)が、やがてそのままナチ的ファッショ哲学に移行出来るということに他ならない。ドイツ的な文化観念はナチ的な「ドイツ文化」の観念の母胎だったわけだ。ナチの文化政策はだから、決して詭弁をばかり弄しているわけではないのである。
 ナチの「ドイツ文化」は、従来のドイツ文化哲学の伝統による文化というものを尺度として計る時、決して文化水準が低いとばかりは云えないのである。問題はそのドイツ文化的哲学「文化」なるものによって計られるべき文化哲学的な文化水準が、果して本当に文化を正当に量り得る文化のバロメーターかどうか、ということに帰する。

 ドイツ文化哲学による文化にとっては、実を云うと、文化的自由とか文化的進歩とかいうことは、何等実質的な意義があったのではないのである。夫は全く名目的な又は全く形式的な商標に過ぎなかったのだ。文化的自由ということは要するに教養があるということであり、文化的進歩ということは要するに学殖があるという類いのことなのである。それをドイツ文化哲学のエティケットとして、自由と呼び進歩と呼ぶに過ぎない。政治的自由は素より、文化的自由さえがどうでもよいのだ。政治的進歩は素より文化的進歩さえがどうでもよい。単に「文化そのもの」が大切なのだ。
 だから、このドイツ文化はナチ政権の下にあっても、その政治的不自由とは全く無関係に、又は却って之によって愈々自分の面目を発揮出来るものとして、大いに文化的であり得るのである。ドイツの深遠らしい哲学の伝統が、このドイツに於けるいまだかつてない文化の危機に臨んで、平然としてナチの政権を讃え得るという秘密は、全くこのドイツ観念論による文化哲学の裏に横たわる。
 吾々日本人は之まで、ドイツの文化を極めて高いものと考えて来ている。アメリカやイギリスは云うまでもなく、フランス文化よりさえ高いものと考えて来ている。特に哲学や法律学のようなイデオロギッシュなものや、医学などについて、そうだと信じて来ている。処がそれは実は文化自身の水準の高さではなかったので、極端に云えば文献学的水準(乃至学究的水準)の高さに過ぎなかったということが、今になって漸く判ったのである。ナチ政権が如何に学芸の自由検討を許さないとしても、ドイツの学芸の既得技能が急に衰えたとは誰も考えないだろう。それにも拘らず吾々はもうドイツを文化国とは見ない。ドイツの文献学的・学究的・水準は依然変らないにしても、ドイツの真の文化的水準の方は一遍にがた落ちをしたのである。
 文化的自由や文化的進歩というのが教養や学殖のことにすぎなかったとすれば、之は要するに思想ではなくて文献学的知識にしかすぎなかったのは当然だ。処が吾々はルーズにも、これまで、こうした文献学的・学究的・水準を思想水準だと考え、従って之こそ当の文化水準だと考えて来たわけだ。で、もし文化水準というものを文献学的水準と考えるなら、思想的に如何になっていない文化でも、やはり文化的に高水準を保つものと見えるのである。従って思想的に非文化的反文化的なものでも、なお文化的に見えることは、不思議ではないのだ。
 ナチ文化の文献学的水準は、果して従来通りの高さと信用とを保つことが出来るかどうか、それさえが実は疑問だろう。本当に文化の政治的な自由がなく、本当に思想水準の高さのない処に、つまり似而非道徳と英雄的センチメンタリズムとの世界に、実証的な有効な文献学的研究さえうまく行くかどうかは、元来問題だ。だがそれはとに角として、ドイツの従来の文献学的水準の高さを以てしても、なお思想的なガラクタ文化に満足出来るものだという点が、教訓に富んでいるのだ。文化に於ける文献学的・学究的水準・と思想水準とは、別なのだ。文献学的な学究的な研究と思想の活動力との間には極めて密接な関連はあるのだが、そしてこの点こそ大切なのだが、併し文化の高さを計る尺度として見れば、文献学的水準と思想水準とは独立だというのである。或いは従来文化水準と考えられたものは、多くは単に文献学的・学究的・技能的・技術的水準のことでしかなかったと云うのである。
 博学な学者で思想的に馬鹿な人間はどこにでもいるものだ。尤もらしい高名な大哲学者が、愚にもつかぬ政治的意見に叩頭する態はあまり見っともいいものではないが、大笑いをしなければならない程珍らしい現象ではないのである。よく学究の非常識と考えられているものが実は之で、アカデミーに対するジャーナリストの不信用も実はこの点に関係があったわけである。
 だが文化に於ける文献学的水準と思想水準とのこの区別、そしてそれにも拘らず、文献学的水準が文化水準そのもののように思われやすいという一つの文化常識(之はドイツ文化哲学の伝統がよく説明している)、この二つの点をおのずから心得ているものに、日本の文化政策があるのである。
 日本の政府が自然科学の奨励には最近相当に熱心であることを忘れてはならぬ。中でも学術振興会などは注目に値いする。それにも拘らず他方に於ては法文経の帝大を私大に払い下げるという観念さえ生じ得る。というのは、そうした社会科学は意識的に継子扱いなのである。これは決して法文経の帝大卒業生が役に立たぬとか社会にとって不用だとかいうだけではない。思想的に困るからなのだ。つまり同じ大学でも文献学的(又学究的・技術的)水準を高めるのに直接関係のある自然科学(それから古典的研究)と、思想水準を高めるに直接関係のある社会科学(それから文学的・哲学的・研究)とは、文化的に区別を置かれているのだ。目的は、出来るだけ思想の進歩つまり思想水準の高まりを抑え、その代りに、又その手段の一として、文献学的水準(特に反動的な役割を持つ夫が便利であろう)を高めよう、というにある。特に軍需科学の発達と思想水準の退化との関係に、この事態は最もよく見て取れる。「科学日本」の類は、こうした哲学に基いた文化政策上のモットーなのだ。
 日本の文化政策は学究的・文献学的・技能的・技術的・水準の方へ文化を偏極させようとする。そのことは日本に於ける文化の思想水準を反動的・復古的・オブスキュランティズム的・に低下させるために必要な「文化政策」なのである。それが現下の日本に於ける文化統制というものの文化政策条件をなしている。日独防共協定は勿論、ここでも充分に現実味を有っているだろう。
 吾々が文化の擁護を叫ぶ時、少なくともこれだけの理論的用意は必要だと私は思う。ナチと雖も他ならぬドイツ文化の擁護のために、文化破壊をやっているのだ。日本とてももとより日本文化宣揚のためにこそ、日本に於ける文化を蒙昧化そうとしているのである。支配者は兵卒に対してと同様に、思想上の出来る限りの無知と、文化技能上の出来るだけの習熟とを要求する。勿論技能上の必要はまたおのずから思想的な反省を伴わざるを得ぬが、それに備えるためには無知の一定形態に思想とか、文化とかという擬似商標を貼らねばならなくなる。ここにファッショ支配に於ける「文化政策」なるものの意義がある、というのである。
 同じ関係は文化の危機についても云われなければならぬ。元来文化の危機とは文献学的・学究的・技能的・技術的・水準の低下の危険のことでも何でもなくて、実は思想上の危険のことでしかないのだ。つまり新しい思想が台頭することによって旧(ブルジョア)思想文化の支配力が弱められ始めたということでしかなかった。だから之は旧思想文化から見て危険であったので、新興思想文化から見れば危険でも何でもなかったのである。
 処がこの文化危機を強調し、之を救済すると称して起ち上ったものが、ファッショ的文化政策に他ならない。所謂思想の混乱、思想不安、其の他其の他という現象がこのファッショ文化政策屋のサクラだったのである。そこでこの思想混乱つまり「文化危機」の救済を果そうとすることによって、ファッショ的文化政策は何を齎したか。そこに却って新しい意味での文化の危機が発生したのである。前の場合の文化危機は思想進歩に対する危惧であったが、今度のは思想後退、蒙昧化、に対する危惧なのだ。文化危機の救済そのものが文化危機になっているのだ。丁度官憲の民衆に対する保護や補導なるものが民衆の不安不幸そのものに転化しつつあると同じに。
 処がこの後の場合の文化危機はもはや思想水準の低下だけには止まらない。文献学的・学究的・技能的・技術的・水準が高まっても思想水準は高まらぬが、逆に思想水準が低まれば必ずいつかは文献学的水準も低下せざるを得ないのだが、そうなると今度の文化の危機は文化や思想の技能的な根柢をまでも危険に瀕せしめることになるのである。――今日の「文化の危機」はここにあるのだ。文化の擁護のためにはこの点を見ねばならぬ。
(一九三六)
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12 神聖文化論




一 神聖科学

 三枝博音氏の文章を久しぶりで読んだという気持ちが私はする(「科学とイデオロギー」――『中央公論』一九三四年六月)。なぜかというと、三枝氏は一方篤実な研究家であるのだが、私はそれよりも一個の思想評論家であるところに、寧ろ氏の本領があるように兼々思っているので、色々の評論雑誌に時々のる同氏の文章に、私は活動的な友人三枝らしさを感じるからである。
 この文章は、イデオロギーという言葉とその実体との変遷を述べ、次いでこれを頼山陽の「勢」と「人」との関係について、又物徂徠や太宰春台の学問観について、説明している中々面白い読物だ。科学を肯定的な意味におけるイデオロギーとして理解しないと、科学の真理の客観性が他ならぬ「科学の運動性」の内にこそ存する、という一つの根本的な真理が判らなくなる、というのがその結論である。科学の有つべき真理性の出処が、形而上学故に固定して考えられた所謂「客観的妥当性」などにあるのではなくて、現実の認識を前進させる処の、もっと実際的な機能の内にあるべきだというのである。
 処で氏がここで或る一つの主張をねらっているということを見落としてはならぬ。学者が学問になずみ、「学の蔽」(山鹿素行『聖教要録』)を覚らず、学が「知の戦」(西周『知論』)であることを忘れるという欠陥が、科学のイデオロギー的性格を忘れたことから来る一つの重大な結果だというのである。氏は科学の本質をイデオロギーだとすることによって、神職的な学者同業組合によって神聖化された科学をば、世俗的な坊間のものにまで引きおろす。天上からこうして地上にまで引きおろされたものが、科学の本当の面目だということになる。
 例として哲学や社会科学を考えていいのであるが、科学というと何かギルド風にきまったテーマの選択や解決法があってそれから又無意味に生硬な言葉や気取った紋切型のいいあらわしで書いたり喋ったりすることでもあるかのような迷信が、今だに専門家にも素人にも共通している。そういうマニエールを離れると、其の実質的に必要な内容如何と関係なく、科学は科学らしさを失うもののように、今だに考えられている。――だがそんなものは科学でも哲学でも何でもなくて、単に超世俗振りで勿体振った悪趣味なそれ自身俗物的な一風俗に過ぎない。科学がそうしたジャンルに陥らないためにも、却って科学を始めから世俗的な「大衆」のものと考えておかなくてはならないのである。
 哲学や科学が一つのジャンルになってしまうということは、哲学や科学が一つの文学に、というのは一つの美文(ベルレートル)に、必要以上に近づくということと一致する。事実文学には文学様式としてのジャンルがあるのであって、このジャンルが意味を有つか持たないかが、恐らく文学と科学乃至哲学とを区別する標準の一つに数えられるかも知れない。
 だがそういっても、日本では文学の方はその世俗性・大衆性・が科学や哲学などよりも遙かに進歩しているのであって、すでにプロレタリア文学という本当の意味における世俗大衆的文学が、或る意味での貴族・僧侶・文学に対抗して、ハッキリとした実際上の出発を遂げている。之に較べれば、哲学や科学の方はまだまだ世俗的・大衆的・な形を取り得ないでいるのである。一頃一寸流行した純文芸復興(実は広義における文士の就職運動)の神聖文芸に劣らず、現今の日本で案外神聖哲学神聖科学が幅を利かしているということは、文化の繁栄と考えていいのか文化の衰亡又は幼稚さと考えていいのか、私には判らない。

二 神聖医術

 科学が神聖化されるのは、特に科学自身が元来神聖化され得る素地を持っているからで、即ち特に科学というものに限って、世俗的な実際生活に対して直接関係を有っていないからだ、と考えられるかも知れない。だが、それは全く間違っている。一体どんな科学でも技能又は物質的な生産技術と直接関係していないものはないのだが、技術といえばいう迄もなく、それ自身吾々の世俗的な日常生活内容の重大要素の一つに他ならない。
 科学が神聖化されるのは、却ってそれが或る一定の条件の下で非常に密接に世俗生活に結合しているからであって、科学専門職業家に特有な一種の世俗性の手によって、即ち超世俗性自身を標榜する分業上の必要を感じる俗物の手によってこそ科学は神聖化されるのである。だから世俗的な日常生活にもっと密接に結びついている技術になれば、それだけ神聖化される可能性が一般に増すわけなのである。
 吾々の生活における物質的生産技術から最も離れて最も独立していると考えられる宗教や道徳は、実は却って最も密接に技術と交錯した内容をもっているのであって、宗教や道徳が必要とする特有な神聖味は、実はそこから出て来ると考えてもいい。支配関係や政治関係という実際上の必要が横たわる処に、初めて宗教や道徳の神聖味が成り立つからだ。
 さて医学乃至医術というものを考えて見ると、夫は所謂科学と技術との独特な結合を示しているものである。たとえば、表面上技術から独立しているように見える純正科学や純正哲学というものがあっても、必ずしも世間の人々の嘲笑を買わないかも知れないが、もし仮に臨床から独立し治療や衛生対策から離れた純正医学というようなものがあったとしたら、夫は今の世間から必ず軽蔑されるに決っている。たとえば中世の大学における医学生の試験は論理学の暗記だったということがスコラ哲学の無能の何よりもの良い証拠だと考えられる。その位い医学は要するに医術に他ならないのだ。
 だから、医学乃至医術は之まで、どこの国でもいつの時代でも或る神聖な部分を必ず持って来たのであって、中世の欧州やアラビアでは外科医学は神聖でなく、支那では漢字が上手な医者でなければ神聖視されなかったというようなことはあったにしろ、いつもどこかに非常に神聖な部分があって、それが医学乃至医術の本格と考えられて来たのである。ここから医者は「先生」として神聖化されることにもなるのである。要するに人命という最も切実な実際問題に処する技法乃至技術の所有者だと、想像され又は迷信されるからに他ならない。医者は魔術師や占星術師や錬金術師が師であり先生である限り、医師であり先生であるのだ。原始的には、医術乃至医学の神聖味が、宗教の神聖味と全く一つのものから出て来たということを忘れてはならぬ。奇蹟のキリストは言わばそうした「師」や先生の新鋭だった。
 処が現代のブルジョア社会になると医学乃至医術の神聖味はもっと複雑に、もっと多様になって来る。現代の官許ブルジョア医学は、それが「科学的」である限り必ずしも宗教的神聖味は有たないと考えられる。尤もそれもどうやら怪しいのであって、医学乃至医術はその認識や実践においてはそれぞれ各種の哲学を想定しているといってもいいのだし、又社会衛生学や整形外科乃至美容術になれば社会科学や風俗美学までも想定しなければなるまい。そこからこの医学が宗教的又道徳的な神聖味と結びつかないとは保証できない。だが一応現代官許ブルジョア医学が宗教的神聖味からは自由になったと仮定しよう。
 処が今度はその代りに、ブルジョア医学はブルジョア社会に特有な、いわば一種下等な神聖味を帯びて来る。山本宣治の従弟である医学博士安田徳太郎氏は、この下等な神聖味を暴露することが兼々得意である。
 ブルジョア社会の官許医学は或る意味では、いわば高級な宗教的神聖味の代りに、物神崇拝的な神聖味を持っている。この医学乃至医術は、ブルジョア乃至小ブルジョア社会の占有物となることによって、極めて高価な商品となり、そこから無限に神聖な価値が生じて来るのである。単に診断や治療技術やアドバイスについてだけではなく、処方投薬においても、ブルジョア社会の法律はこの医学乃至医術の高価な神聖味を保護している。
 こうやって官許医学は、丁度思想問題においてもそうであるように、極めて神聖なものとして、これに反して民間療法は反神聖なものとして、この社会では対立させられる。だが安田徳太郎博士によると大衆はこうした官許ブルジョア医学乃至医術の神聖な高価に到底耐え切れないから、おのずから民間療法に走らざるを得なくなるというのである(「民間療法の総批判」――『中央公論』)。大衆が民間療法の方を案外きき目があると考え勝ちなのは、合理的な根拠のある場合を他にすれば、恐らく民間療法が一見神聖味が乏しくて安いと想像されることが、知らず知らずに彼等の意識に反映する結果だろう。
 だが博士の暴露するところによると、民間療法も案外安上りではないらしい。現に独創的(?)な民間療法の術師(術師ではない!)には巨万の富を致した者も決して少なくない。でそうなると民間療法と雖も、もはや決して神聖でなくては済まなくなる。こうやってブルジョア社会の民間療法は、官許医学とは全く別な、しかし時には官許医学の神聖度をこえる程の神聖味を帯びて来る。
 だが博士によると民間療法の神聖味は、官許医学の夫とは異って、極めて原始的な神聖味だというのである。なぜなら民間療法の療術師先生は、前に述べた魔術師などと全くひとしい神聖性を得るのだから、療術師はシャーマンに迄あがめられる。安田氏は日本のブルジョア民間療法の特有な神聖味をシャーマニズムによって説明している。
 そこで吾々の問題は、この官許ブルジョア科学医学の神聖性と民間シャーマニズム医学の神聖味との間に、どういう神聖な連絡があるか、ということである。官許ブルジョア科学医学は各種のブルジョア哲学をその背景としている。夫はたとえばリフシッツの『臨床医学と弁証法的唯物論』で不充分ながらうかがわれる(安田氏の訳であるにもかかわらず、安田氏はこの本を馬鹿にしているらしいが)。ところで今日のブルジョア哲学のいわば最も窮鼠的形態は、身心論に帰着する各種の人間学なのである。性格学とか哲学的人相学乃至骨相学の名の下に、哲学的治療法又は治療的哲学となって現われるものがこれだ。ところがこれが民間療法のシャーマニズムの背後に直接ひかえている哲学的背景そのものにほかならないだろう。
 で神聖科学乃至神聖哲学とは一つの本質のものなのである。所謂「インチキ宗教」と治療との関係は人の知る処だ。私は、或る高等学校の哲学教授で生徒主事をしている男が、思想善導の活動と平行して或る民間療法の熱烈な使徒として働いているという、典型的な一例を知っている。
 最後に併し、兼常清佐博士が神聖音楽を地上に引き降そうと兼々企てていることを思い出さなくてはならぬ(「音楽の合理化」――『中央公論』)、音楽会の入場料がもし非常に安かったとしたら、官許音楽の神聖味はずっと減って、もっと世俗的な実際上の必要に答える楽しい音楽が聴かれるようになるだろう、という結論になるらしい。無論そうした考え方が、神聖音楽の専門職業組合員から猛烈に反対されるだろうことは、神聖科学者組合や神聖医博組合の場合と少しも変らないのである。このことは兼常博士の「演奏家無用論」の正否に拘らず真理だろう。
(一九三四)
[#改段]

13 自然科学者と生活意識



 現代における知能分子(インテリゲンチャ)にまず注目してみよう。ここで知能分子またはインテリゲンチャと呼ぶのは必ずしもブルジョアジーとプロレタリアートとの間の中間層に結び付いた特殊層全部を意味するのではない。こういう中間層に結び付いた特殊社会層としてのインテリゲンチャは、広く中等または高等普通教育を受けた分子又はそれ以上の常識所有者を包含するので、例えば一般のサラリーマン(中小官公吏・社員等)は当然これに這入る最も目立った要素であるが、今はもっと狭い、或いはもっと高級の、知能分子を考えているのである。
 というのは所謂インテリゲンチャの内でも特に知能の訓練と蓄積とを生活手段としているものを指すので、一方では自然科学者や技術家、他方では各種のイデオローゲン(言論家)がこれに数えられる。
 イデオローゲンとは社会科学者・哲学者・文学者・評論家・文士・ジャーナリスト・政論家などを含む一群の知能分子であり、自然科学者と技術家とはさし当り一つのものと考えて(その区別は別の機会に論じよう)、他群の知能分子をなしていると思われる。
 処で問題は、自然科学者乃至技術家の、社会や文化に就いての意識と、イデオローゲンのそれとの間に横たわる処の相違である。そして個人々々の場合に就いていえば可なりの出這入りはあるにしても、総括的な平均値から見ると、こうした意識の相違は全く、自然科学者乃至技術家としての、又イデオローゲンとしての、彼等の夫々の社会生活条件によって決定されている。このことは、判り切ったことであるように見えて、併しいざとなると色々反対意見が出て来る一つの事実なのである。彼等の意識が彼等の社会生活条件によって決って来るという見解は、元来が一つの根本的な社会科学的認識にぞくすることなのだが、自然科学者や技術家にはこうした認識にあまり重きを置いていない人達が甚だ多いようだし、社会科学者でさえが或る傾向の者は之を承認したがらない場合が多い。併しそれは取りも直さず、彼等のそうした意識自身が、自然科学者乃至技術家としての、また或る傾向の社会科学者としての、彼等の社会生活から来るという証拠に他ならない。
 先ず第一に自然科学者乃至高級技術家(テヒノローゲン)の殆んど総てが、教師・研究所員・官庁又は会社の技師・として生活しているという事実に注意しなければならぬ。それは自然科学乃至技術(又技術学)そのものの性質から当然出て来ることで、学校とか研究所とか官庁・会社・等のインスティチュートを離れて、個人的に仕事をするということは、今日の自然科学や技術乃至技術学に就いて殆んど絶対に不可能か又は無意味になっているからである。
 処がこのような仕事の形式からいっても欠くことの出来ない、また生活の必要からいっても絶対的な条件であるインスティチュートは、或る意味では完全にアカデミカルなものだといって好いだろう。と同時に、そこで働く自然科学者や技術家はまた特別にアカデミシャンの名に値いするのである。彼等は自分の生活と仕事とを夫々のインスティチュート(いわば営利的近代アカデミーを含む)にだけ結び付ければ一応の功績と生活の安定とを得るのだから、インスティチュート又は広義のアカデミーの外に横たわる社会、政治や思想や文学が行なわれている社会、に対しては必ずしも直接の利害関係を有たない。だから彼等の生活意識自身がアカデミックにならざるを得ない。
 イデオローゲンは之に反して大体からいってジャーナリスティックだといって好いだろう。政治家は、とにかく演説ということが仕事の一つだという建前になっているし、文士は文章を売って生活を立てている。どれも社会的表現報道の形式を有った仕事を引き受けているから、ジャーナリスティックだというのである。
 なる程イデオローゲンでも、社会科学者や哲学者になれば、一定のアカデミーの外へ一歩も出ないまた出たがらない、種類の者もいることは無視出来ない事実だが、併し全体からいえば自然科学者や技術家に較べて、ジャーナリスティックな活動は彼等に付きものになっているとさえ考えられている通りで、この点だけを見ても、両者の相違は明らかだろう。自然科学者や技術家でも或る少数の人は優れたジャーナリストである場合を沢山挙げることが出来るが、この現象は自然科学者や技術家が偶々イデオローグの資格を兼ね備えた場合だと見るべきだろう。
 そういう社会生活条件から、アカデミシャンたる自然科学者や技術家は、甚だ往々にして、ジャーナリズム一般に対する筋の通らない漫然とした反感又は軽侮の気持を有つのを常とする。之は法文経の大学教授などにも見うけられなくはない現象だが、多くの科学者や技術家に取ってはジャーナリスティックな活動は「余技」として、或いは一種の堕落として、さえ映じるのである。
 無論科学者や技術家の本格的な研究は必ずしもジャーナリスティックな表現を有てないだろうし、又仮に有てたにしても敢えて有つ必要のない場合の方が多いだろうが、併し一方に於てラッセルやジーンズ又エディトン等が卓越した「文章家」であることも忘れてはならないのである。
 科学者や技術家のジャーナリズムに対する反感は、一寸見ると彼等の意識が純潔で、文化の神聖を尊重しない今日のブルジョア・ジャーナリズムに対する適切な応報であるように見えるが、実際は、そうした批判的な根拠から来ることは寧ろ少ないので、大抵の場合は彼等の歴史観的・世界観的・な一般素養の低いことから来ているようである。自然科学や技術は人間の歴史を貫く文化の流れに結び付いて活動しているのだから、科学や技術の歴史的考察や哲学的省察という多少ともジャーナリスティックな仕事を除外しては、科学者や技術家の仕事の目標自身がどこにも見つからない筈なのだ。処が科学者や技術家は、そのアカデミカルな偏向のお蔭で、そうした顧慮を払うことが常識的にいっても必要であることを、あまり真面目には意識し得ないようである。

 自然科学者乃至技術家の反ジャーナリズム的意識は併し、一定の階級的な性質を帯びていることを第二に注意しよう。これはよく言われることではあるが、わが国の科学者や技術家にはまだあまりピンと来ないように見受けられる。
 彼等のアカデミカルな意識が、歪曲された資本主義的ジャーナリズムに対する反抗意識から来るにしろ、或いは寧ろその歴史観的・世界観的・な一般素養の欠乏から来るにしろ、一種の高踏主義・貴族意識・に結び付いていることは争われない心事ではないかと思う。
 彼等は自分の生活の安定、生活の生き甲斐、仕事の純粋さ(?)等々によって、塵にまみれた下界から自分を引き離す。失業、生存闘争、政治的闘争、等々は自分達にまずまず及んでくる問題ではない。と共に資本家や政治家の営々とした併し無意義な生活も決して同情に値いしない。凡そそうしたキタない生活から自分達は自由だ。自分達は優れた専門家であり、かけ代えのないエキスパートだ。ただの素人とはわけが違う、こうした貴族意識は彼等のかくれた心事であるようである。
 高踏主義・貴族主義・も一つの趣味として或いは尊重されていいかも知れぬ。だが、この趣味が彼等の社会生活を隈なく支配し始めると、それはも早や趣味だといって済ませなくなる。それははしなくも科学者や技術家の階級意識又は階級性の地層をのぞかせることになるのである。
 科学者や技術家の一種の貴族趣味は、彼等に、社会の大衆からの優越従って又超越を意識させる。イデオローゲンもそうした意識を有たないのではないが、科学者乃至技術家はその技術的素養からいっても生活の安定からいっても、ずっと自信を強くしていることが出来る。要するに彼等は抑々無産者大衆とは生活範疇が全く別なのだ。併し彼等は又ブルジョアジーとも異った生活意識を有っている。彼等の多くは有産者の出であり、又自分自身有産者であるのだが、そういう資格によって、ブルジョアジーと同一視されることを肯んじないということが、即ちブルジョアジーと彼等との相違をなしているのである。
 彼等は多くブルジョア又はプチ・ブルジョアにぞくするかも知れない。だがそういう階級的区別とは無関係に、技術家は技術家であり、科学者は科学者なのだ、とそう彼等は考える。だから自然科学者乃至技術家は、階級的な中立を堅持し得る最も信頼すべき分子だということになる。
 だが中立とか厳正中立とかいうもの程、論理学的にナンセンスなものはない。まして社会階級の対立場裏において、中立し得ると思う程、非科学的で非技術的なことはない。今日のブルジョア社会において打ち見た処、これ程までに対立が緊張している階級社会において、安心して社会から優遇を受けているということが、中立の実質だとすれば、中立程便宜なものはあるまい。
 同じく中立であるべきイデオローゲンは、不幸にしてその仕事の性質からいっても、中立を標榜することが最も困難な処から、心ある者は日に日にブルジョア社会の圧迫の下に身を狭めて行きつつあるのに、自然科学者や技術家は国家や大資本のインスティチュートにおいて、資本のための技術や科学に平穏な生涯を捧げているのである。
 多くの自然科学者や技術家の階級的中立とはこうした実質のものだが、それが彼等によって意識されるに際して、例の超然とした貴族主義の形を取るから、何か高価な尊敬すべきもののように受け取られるのである。そこから例のジャーナリズムに対する一般的な軽侮も出て来たわけで、ジャーナリズムの悪いのは、それが資本によって歪曲された社会活動だからではなくて、何にせよ大衆などを相手にした二流以下の活動だという理由からだったに過ぎないのである。
 例えば理論物理学者の専門家が大衆に不親切に見えるのは或いは已むを得ないだろう。高級な理論を数学抜きで結論だけを書いたような物理学のポピュラリゼーションをして見ても、科学の側からも大衆の側からも、今の場合あまり利益でないかも知れぬ。物理学者のイデオロギーはこのポピュラリゼーションの有無にではなくて、その世界観の方でもっと能く現われるのだから、その方がずっと問題としては根本的だろう。現に、今日行なわれている物理学者の通俗講演の類は、科学のポピュラリゼーションに名を借りて、杜撰極まる観念論の鼓吹や信心の告白に他ならないものが多いだろう。即ち彼等の貴族趣味も実はブルジョア・イデオロギーのためならば、いつでも犠牲にして構わないのである。
 併し例えば応用化学者や農芸化学者は大衆に親切なのか、不親切なのか、よほどよく考えて見ないと判らない。大衆は彼等の研究によって安くて使用価値の多い物品を提供されるのだが、併し他方において、それだけより多く資本の重圧は大衆に加わるわけだからである(一般に技術家はこの種の自然科学者である)。貴族趣味が減じたと思うとその代りに資本が口を利き始めるのである。
 日本で一等発達しているといわれている医学になると、関係はもっと複雑になる。日本医学の発達は専ら医学博士の論文によって促されるのだが、ただの医学士が博士になることによって不幸な大衆は門前払いを食わなければならないだろう。医学発達を遍く無産者大衆に均霑するためには、医学博士の数が無限に増大し従って日本医学が無限に発達して了う日を待たねばならぬだろう。
 場合々々を例で示して行けば限りがないが、中立であるべき自然科学者や技術家が、その実際に行なっている仕事から言って、従って又そのイデオロギーから言って、決して中立などでないことはこれで判るだろう。科学や技術は無論第一に科学者や技術家の手中に置かれている、だがそれが即ちブルジョアジーの手に収められていることである。自然科学者や技術家は通則として、それを意識しないか、又は意識しようとしないか、それとも却って意識的にブルジョアジーに奉仕しようと欲している。そして彼等は、私が今云うようなことを云うイデオローグを、本能的に憎むのである。

 私はすでに、自然科学者乃至技術家がイデオローゲンに対する一般的反感、又はジャーナリズム一般に対する敵意、を指摘した。それが一種の貴族趣味の形をとり、そして階級的中立の意識を通して、それが階級性又は階級意識を暴露する点もまた指摘した所である。
 だが前に見たように、一般的なジャーナリズムの世界で活動している自然科学者も決して数からいって少なくないとはいえないので、従ってそういう科学者達は必ずしもイデオローグそのものに反感を有つ理由はないのだ。要点は彼等の殆んど凡てがイデオローゲンが有つ或る特定のイデオロギーに反感を有っているということである。日本に於ては、「権威ある」科学者から最も敬遠され又は最も憎まれているのはマルクス主義乃至所謂唯物弁証法なのである。
 わが国などに於ては有力な社会科学者(歴史家も亦)の殆んど凡ては多かれ少なかれマルクス主義の洗礼を受けている。最もギルド的に意識の固定した文学者や文士さえが、その半ばはマルクス主義を奉じている。処が自然科学や技術家になると、唯物弁証法に就いて真面目に考えて見た者さえ殆んど指で以て数える程しかない。ましてマルクス主義的見地に立ったものは殆んどないとさえ云っていい位いなのが日本に特有な事実である。
 マルクス主義は社会科学や歴史の認識にあて嵌まるだろう。だが自然科学に就いては唯物弁証法などはただのフラーゼに過ぎない、とでもいうかのように、「権威ある」自然科学者や技術家は押しなべて反マルクス主義者なのである。併し技術は一体社会的歴史的な範疇ではないか。そして技術によって促され、或いは技術を促すことにならないような自然科学はどこにあったか。自然科学も一つの社会的な所産だという事実をどう片づけるのか。それに又唯物弁証法は歴史の内には存在しても自然の内にはあり得ないというなら、それは一頃わが国で広く散在していた似而非マルクス主義者の代表的な迷信だ。
 自然科学者の研究対象である自然、従ってその側にぞくする限りの技術家の対象は、社会と別だという点から、従って社会階級の対立関係から縁遠いという点から、自分の研究対象を相当充分にこなした自然科学者や技術家でも他の一般的な社会常識を欠く限り、研究方法をマルクス主義的・唯物論的・に用いるという見解に到着するには永い時間がかかるだろう。
 併しそれだけではなく、既にいったように、自然科学や技術学の研究は、今日では個人的施設によるものは不可能になって、一定のインスティチュートを離れることが出来なくなったから、当然それぞれの社会における支配的な勢力の庇護の下にしか本当の研究は出来にくい。で、単に研究対象の性質から直接に制約されるばかりではなく、研究手段からの制約からいっても、自然科学者や技術家は唯物論的イデオロギーに対して自然と縁遠くなるのは尤もだろう。
 彼等のイデオロギーを今日の多くのイデオローゲンが有っているような社会常識水準にまで高め又は変革するためには、だから、一方において彼等の研究方法そのものに直接唯物論的示唆を与えるばかりではなく、より手取り早くは、彼等の社会意識をかき立てることによって、イデオロギー理論の見解を示唆しなければならないだろう。イデオローゲンは今日こうした役割を引き受けるものでなければならない。
 ソヴェート同盟のように社会の支配的勢力が勤労無産者であり、その支配的なイデオロギーがマルクス主義である場合には、自然科学者も技術家も、その旧来の政治的中立の惰性にも拘らず、自然科学乃至技術の社会主義的意義を理解することは可なり容易であり、従ってそれが自然科学者乃至技術家の研究そのものへ示唆を与えることも亦容易であるが、こうした社会体制に這入っていない諸国では、今云ったイデオローゲンの仕事は決して容易なことではない。
 第一に、イデオローゲンが、自然科学者や技術家のこうした一種の啓蒙の役割を引き受けようなどとすると、自然科学者や技術家の例の貴族意識は甚だ不満を覚えるだろう。専門家である吾々が何だって素人の容喙を俟とうか、と彼等はいうだろう。なる程一般にイデオローゲンは自然科学や技術の世界で素人だが、併し、イデオローゲンとしては一個の専門家・技術家・なのである。之に反して例の「専門家」は一般に極めて薄弱な哲学者であることが今日の事実だといっていい。
 科学者・技術家・とイデオローゲンとの結合、これは科学者・技術家・にとって必要であるばかりではなく、イデオローゲンにとっても同様に必要な結合である。科学者・技術家・側の例の貴族的独尊と、これに対するイデオローゲン側の一種の無意味な無知さえなかったら、この結合は現在のわが国でもある程度まで成功するだろうと考えられる。
 比較的若い自然科学者や技術家は、この点に就いて相当有望なものがあるように見える。ただ彼等は一定のインスティチュートの支配者の意志に背くことが出来ないために、こうした文化的意図を節約せざるを得ないように見受けられる。併し彼等や又色々のイデオローゲンの意志がどうあろうとも、それとは独立に、現実はその圧力を若い自然科学者や技術家や乃至その候補者の上に次第に及ぼそうとしていることを忘れてはならない。
 失業の波は若い彼等の生活を脅かし始めている。之は一時の軍需インフレの類によって是正され得るものでない。彼等は自然科学者としてのまた技術家としての自分の社会的地位に就いて反省し始める。こうして彼等の自然科学や技術は、従来の先輩のそれとは異った色彩を帯びて来るだろう。彼等は必然的にイデオローゲンと握手せざるを得ない。だがその時は彼等が唯一の牙城であるインスティチュートを一時思い切らねばならぬようになる時でもあるのだ。
(一九三四)
[#改段]


14 検閲下の思想と風俗



 映画検閲が厳重になったことは最近社会の各方面で物議をかもしている。内務省では警保局長警務課長以下が協議した結果、大体次のような検閲方針に決定したそうだ。第一には、皇室関係、国体否認、軍隊誹謗、警官侮辱、などの虞れあるものはカットすること。第二は接吻や抱擁、淫蕩なダンスや酒席の場面は通過させぬこと、というのである。国産映画と輸入映画とを問わず、厳重にやることになったそうである。
 外国映画は従来検閲フィルムの約二〇%、日本映画は七%という割でカットされたのが、今年になると日本もの三〇%に及んでいるそうだから、この点から見ると日本映画生産企業家は大恐慌なわけだが、他方から見ると外国映画も、外国の皇室の内面や外国の軍隊におけるユーモラスなシーンまでがカットされるというので、日本の検察官の知能のレベルを知らない外国映画製作者の作品は、それ自身が冒険の塊りのようなものだ。
 例を挙げると「ブラウンの新兵さん」(ワーナー・ブラザース)は軍隊生活が漫画化されているというので、「セシリア」(コロンビア)は宮廷の低俗な描写があるというので、いずれも上映禁止。日本人探偵が間抜けているというので、「姫君海を渡る」はカット。戦争のシーンがいけないというので「来るべき世界」もカット、チンパンジー猿が姦通(!)するので「痴話喧嘩」もカット。日本映画では「接吻の責任」(P・C・L)は内容も接吻という題も作者までもいけないというので、改題改作を命じられたし、「股旅千一夜」(日活)は社会風刺で大カット、「彼の場合」(日活)は貞操観念を無視するからというので、「雷名」(新興)は不孝な子を殺して無罪になるのが道徳に反するというので撮り直し、等々である。
 外国の皇室や国体や軍隊や、又警官までも、日本の場合とは意味が違っているのであって、それであればこそ日本は世界無比で世界と共通性を持たないことが、何よりの誇りであった筈なのに、当局がこの国粋的な大義を忘れて、吾々日本国民が外国のしかじかの事件や風情を見聞することを禁じるというのは、何とした腑甲斐なさであろう。ましてかかる厳粛なるべき事柄を紅毛の痴戯の類と等し並みに検閲の鋏みの対象とすることは、まことに心ない至りと云わねばならぬ。
 だが不幸にして思想警察と風俗警察とは、切っても切れない関係にあるらしい。――警官は服装の怪しい人物をまず不審訊問する習慣がある。警察行政と風紀風俗とは特別な因縁がある。風紀風俗を最も端的に表現している接客商売と、警察行政との深い相互作用は、広く知られている。遊郭、私娼窟、待合、料理屋、カフェー、バー、喫茶店、其の他の飲食店から始めて、最近での好材料はまずダンスホールである。で同じく内務省ではダンスホール弾圧を決定したという話である。それによると、男教師の廃止、営業時間の短縮、坪数によるダンサーの制限、ダンス客の制限、などを断行するそうである。前にはカフェーやバーから学生を追放したと同時に、ダンスホールからも学生を追放した。それが今度は一般民衆をも出来るだけダンスホールから追放しようというわけである。行く行くはダンスホールを全滅させようという方針らしい。
 勿論これは民衆を道徳的ならしめる教育的大方針として持ち出されているのだが、それにしても検察当局はなぜこの頃特にこんなに民衆のためを思って親切にするのだろうか。

 いやこの舎監然たる親切振りは独り映画の風紀検閲やダンスホールの場合には限らない。警視庁はレヴュー弾圧令を度々下しているのである。その詳細な穿った弾圧規則は、ここでは一寸書くのに気が引ける程の気のまわし方であるが、念のため一例を挙げれば「殊更腰を部分的に前後左右に振る所作を為さざること」など、傑作ではないだろうか、と思う。当局の嗜好の堂に入ったことがうかがわれて興味のあることだ。つまりお里が知れるという次第である。
 だがこうした純然たるジェスチュアや服装について気を病むのも、決して単に風紀問題としてではないのである。風紀が舎監風にとや角云われる時は、要するに一方それ程風紀が頽廃した時であるが、その時期は又、他方からすると、そういう風に風紀をやかましく云って見せる或る政治上・思想上・の必要のある時なのである。風紀検閲を勿体振るのは、思想的に圧倒された人間がいて、それがまぶしさの照れかくしに道徳振りで対手をおどしつけようという心理からだ。だから当局のこの親切振りは全く姑が花嫁に対するおためごかしの親切と同じものなのだ。民衆が有難く拝聴する義務のある所以ではないか。
 ダンスホールにしても、それがいけないのは、実は別に特に夫が国民の道徳風俗を傷つけるからではない。もしダンスホールが道徳上いけないなら、遊郭などが今日でもまだ国権的に保護されている筈はないだろう。今日特にダンスホールがねらわれているのは、実は夫が一つの新興風俗だと考えられるからである。男女相擁して踊ったり、又はそこから色々の情事が発生したりするという点は、ねらわれている核心ではなくて、単に恰好の口実であるに過ぎない。いけないのはこの風俗の新興振りであり新興味である。つまりこの新興風俗が、従来の風紀警察で用意してある抽斗のどこにもうまくおさまらないという理由から、それが何か特別に風俗壊乱であるかのような錯覚を、世間の無知な一群の人間へ与えるのである。検察当局はこの一群の無知な常識を利用して、之を特別重大な風俗壊乱現象だと宣伝するわけだ。
 当局が意識するしないに拘らず、終局において目標としている処は、この風俗の頽廃の内にさえほの見える風俗の新興振りであり、そして更に、之といわば分極的にプラスとマイナスとの関係にある処の、社会的・政治的・な新興勢力なのである。新興風俗が反感を有たれたり憎まれたりするのは、それが一つの思想上の危惧を象徴しているからである。頽廃的な風俗も、単にデカダンスを象徴するばかりではない、そのデカダンスと分極をなす新興新鋭な思想の勃興をもネガとして象徴するのだ。だから当局は、ダンスホールにしてもレヴューにしても、又エロ映画にしても、エロ出版物にしても、それに対するヒステリカルな女学校舎監的なコセつき方を、実は一種卑近な思想警察行為として、敢行するのである。
 こういう思想的大背景がなければ、こんなに特別に、検察当局が風紀警察に自信をもつ気持が判らぬのであり、新官僚的な或いはよく考えて見ると軍部的でさえある処の、ハリ切り方をする筈がないのである。――今日の検閲の残酷化に現われた風俗警察は、その本質に於て、だから思想警察に帰着する。早い話しが、この非常時に、外国人の真似などして抱擁したり接吻したりするとは、日本男子として何事であるか、というわけだ。

 警察行為乃至検察行為(その内に検閲行為が含まれているのだ)が、民衆に対して親切振りを発揮し、又みずから道徳面をし、又民衆に道徳振りを押しつけることが出来るのは、全く、風俗警察が思想警察という本質を有っている時である。ここでは風紀上の俗物紳士然たることが、道徳ということであり、そういう道徳を世間に押しつけることが為政者のこの上ない温かい親切ということになる。
 道学者の道徳が鼻持ちならぬ不道徳であるように、又お節介屋の親切が不快この上もない迷惑であるように、この種の道徳や親切はひとの損害は一向かまわない利己的なものだが、こういう利己主義が道徳的な親切としてこの世間で苟めにも通用出来るのは、社会の一隅に之をバックする一種の卑猥な常識が厳存しているからである。
 例えば方々の専門学校程度の学校では生徒に対して断髪令を下している。之は何でもないようなことに見えるが、併しこのどうでも良さそうなことを、なぜ学校当局者がムキになって強要するのかと考えて見ると、問題は決して容易ではあるまい。処で最近の保導協会なるものを参考にして見るといいだろう。中等学校生徒の日常生活を監視することがこの種の協会の意識するしないに拘らぬ一つの客観的な目標だが、夫がやがて専門学校大学の生徒や学生にまで及ぼされそうな形勢となって来た。こうなると之は勿論不良少年の取締りではなくて、学生の思想取締りの意義のものであることは、疑えない。処で之は学生に対する思想警察というものの民間版だが、それに照応する風俗警察の民間版が、かの学生断髪令の意義であるのだ。
 さて、こうした民間常識が一方において助成されている処で初めて官営の風俗的思想警察も一段と張り合いを生じるわけだ。民間常識でも親切と道徳とは有力な切札になっている。この切札を更にオールマイティーに利用し運用するのが風俗的思想警察であり、又思想警察なのである(ではジョーカーはどこにいるか、と聞かれるかも知れぬが、少なくとも二三の風刺詩人は留置場にいるのである)。
 風俗の方はしばらく措き、純然たる思想警察についても、この親切ごかしと道徳振りとは、現代の名物である。一九三六年十一月一日から実施された思想犯保護観察法なるものがこの手本である。立法家は之を少年保護法に準ずるものとしてその独創を誇っているが、例えば元帝大教授法学博士某氏などが出獄後、新宿や銀座の不良少年に準じて保護されるとなるとそれ自身風俗蹂躙とでも云う他はあるまい。
 思想検閲、風俗検閲、そこに現われる親切ごかしの道徳振りは、断髪令にも保導協会にも保護観察法にも、そのまま現われている。それは要するに思想統制の意図に集中するのだ。ただ風俗に対する干渉は最も常識的で、センセーショナルだから、之を通しての思想干渉は一等尤もらしく世間から見られるのである。今日の風俗取締りのヒステリー現象はこの理由から発生する。
 元来思想と風俗とは一連のつながりのあるものだ。思想は風俗となって現われるものだし、風俗は思想を象徴する。処で風俗の自然的必然性を、抑圧せねばならぬということは、実は、思想の自然的必然性を抑圧する必要がある時だ。だからつまり、風俗抑圧は言論上のデマゴギーと兄弟分なわけだ。今日道徳振って、とや角云うのは、デマゴーグの身上である。世界のファッショ達は押しなべて道徳屋であることは有名である。彼等は凡て風紀屋である。服装まで妙な制服にしたがるのである。思想に妙な制服を着せるなどは朝飯前だ。「道徳」振りとは思想のこの妙な制服のことである。
(一九三六)
[#改段]


15 ナチス芸術統制に寄せて



 同盟通信社ベルリン一九三六年十一月二十七日発のニュースは、ナチ・ドイツにおける芸術批評の禁止を報道している。一般民衆は芸術の鑑賞だけが許されて、批評は許されないこととなり、芸術批評は専ら宣伝省の特許を得た、芸術記者のフルネーム署名入りのものに限るというのだそうである。従来の(多分自由な)批評は「ユダヤ的」批評であって、ハイネに始まるという。今度これが禁止になって、アーリヤ的批評が行なわれることになるわけだ。今に「ユダヤ」的鑑賞も禁止されてアーリヤ的鑑賞だけが許されることにでもなるだろうが、とにかくアーリヤ的批評はゲッベルスに始まることになろう。
 アーリヤ的批評の創始者であるこの雄弁な哲学者大臣はいっているそうだ、「過去四カ年間ナチス政権は専ら文芸復興に尽瘁し、芸術批評が逐次ナチスの原則に順応するのを待望した。しかし無責任な批評に対する芸術家からの不満は絶えることなく、宣伝省は批評家と創造的な芸術家とを招集して会議を開き、相互に忌憚なき意見を交換するよう斡旋した席上、私もまた芸術批評の様式につき所信を開陳したが、依然として改善の跡がないから、宣伝省は現在の形式における芸術批評を禁止することに決定した。」
 ユダヤ的批評とか何とかいうドイツ一流の与太はまあどうでもよい。ゲッベルスの云うところからみると、創造的な芸術家はどういうわけかアーリヤ的であるに反して、批評家評論家・の方はユダヤ的傾向が多いらしい。ナチ・ドイツの宣伝大臣から、批評家無用論を聞くことは、非常に教訓に富んでいる。日本でも批評家無用有害論が一つの常識になっている。批評の発達しているイギリスやフランスでも、そういう所信をもった作家は少なくあるまい。批評家無用論はとに角一隅の通俗常識であることを、われわれはゲッベルス君と共に、着眼すべきだろう。そしてそれが、創造的な(?)芸術の崇拝という一種の俗物常識に帰するものであることも、見逃してはならぬ。
 創造的芸術や芸術家の崇拝という、ドイツの小市民の芸術的音痴ぶりを利用して、これこそアーリヤ的であり、これこそナチでなければ果すことの出来ぬ「文芸復興」だというのが、ゲッベルス一流の宣伝ぶりなのである。批評家無用論という通俗常識を、これほど鮮かに利用活用し得たということは、正にゲッベルスの大きい功績だ。と同時に、この一種の芸術至上主義が、芸術の社会民衆による批評を無視することによって、如何に芸術上のヴァンダリズムにいたり得るものかということを、示してくれたのも彼である。

 滑稽なのは「ユダヤ的」批評という観念や、法律で鑑賞を許可したり命じたりすることではなくて、むしろ批評家無用論に帰するところのナチの創造芸術崇拝論の皮肉な宿命である。なぜというに、この芸術至上主義(?)に類するものが、ナチの手によって見事文化上のヴァンダリズムに転化されて了ったからであり、しかもこれこそが芸術に対する至上の尊敬だという名目は愈々立派に立つことになるからである。
 ファッショ支配によって文化が犠牲に供されるという観を呈している間は、まだよい。この支配力が文化の指導者となったり慈悲深いパトロンとなったりし始める時は、もう文化の徹底的な敗北の時である。いって見れば、コンミュニズムが敗北して了ったというので、特高課長連が思想犯人の保護司に出世するような工合である。日本主義もそれが無知な非文化現象である間は問題が一目瞭然だが、それが日本精神文化とか国民伝統文化とかになって、一種の文化崇拝論になるとすでにこれに対する社会的批評は禁止されたようなものだ。芸術に対する批評だって勿論その通りである。
 芸術至上主義につらなるこの創造崇拝論、即ち鑑賞自体の賛美の類は、やがて「批評」の禁止と相呼応するものとなる。だが勿論、批評のない処には何等の芸術も文化もあり得ない。批評のない処に、鑑賞も享受もあり得ようがないではないか。少なくとも社会の大衆による鑑賞と享受の存する処、必ず批評がなくてはならぬわけだ。「批評」がないということは社会の大衆がないということである。ファシズム乃至ナチス党が、大衆のものでない以上、いつか「批評」は一般的に禁止されねばならぬ運命にあった。それが芸術批評であっても例外ではない筈である。今更驚くにも足りないだろう。
 それにしても芸術批評の国定を得意そうに公表する気になるようなドイツ国、つまりドイツの支配者の世界は、何と馬鹿馬鹿しい国であるかと、驚くことに無理はあるまい。その馬鹿馬鹿しさを鹿爪らしく文化的理由を挙げて説明するだけに、馬鹿馬鹿しさはこの上ない。この馬鹿々々しい事件は前記二十七日に発表されたらしいが、それより二日前にはこの札つきの文化国(!)と日本帝国との間に防共協定が正式に締結された。で、まるで日本までがこの馬鹿囃しに責任があるような形になって了ったのである。
 二十五日夜のAKは、外交上重大ニュースの発表があるから寝ずに待っていてくれと云って、十時頃この日独協定を放送した。だが国民のかなりの部分は大分前からすでにこの大体の輪郭は知っていたのであり、更に二十五日にそれが発表乃至記事掲載禁止の解除になることも知っていたのである。大してビックリしたものもない。日本の回教徒が何と思ったか当局へお世辞をいいに出かけて来たくらいのものであった。
 だがそれはそれとして、ここにもすでに批評の禁圧の精神はよく出ている。吾々は有田外相から事前にこの話を聞いたのではない、坊間の消息通から聞いたのである。ところが外国人はすでにこの時悠々とこの話題に批評を下していたのである。この批評の余波は「正式発表」後も後影響として残っていて、それがソヴェートや仏英米の世論を誤らせていると、日本の当局は心外がっている。だがとに角これ等の国ではこの問題について世論というものが存するのだ。ところが日本ではそれが許されない。日本では世論がなく、批評がなく、民衆がない。

 日独防共協定が、当時の対支交渉及び綏遠問題とどういう連絡があるか、また想定し得る第二次世界大戦とどう関係するか、又之が国内思想対策とどういう結合をもっているか、それは充分に見とどけなければならぬ問題だ。関東軍や満州国の新しい声明、日本内地における「人民戦線」という言葉(!)の禁止、などには恰好な口実ではなかったかと思う。
 潮内相の説明によると、人民戦線という言葉そのものが日本の国体に悖るものだそうである。日本では人民が何かに対して戦線を結成するということはあり得べからざることで、この言葉自身が国憲に背馳するものだというらしい。コンミュニズムは勿論国体に反するが故に、之を非合法たらしめるように法律が制定されている。処が人民戦線となると今日の処、之を取り締る法律はないので、合法性をもつように考えられ易い。そこでこの言葉そのものが、文法的に国体に悖り、文法的に非合法だという理論が発見された。法律上の非合法性の問題は、文法上の非合法性の問題にまで進出した。
 非合法性の問題は、法制的なものから、より文化的な段階に進んで来たわけである。処でこの文法から文学へ、やがて芸術へ移行することはただの一歩ではあるまいか。例えば人民戦線の如きは、日本における「ユダヤ的」熟語であり、しかも他方では共産分子全滅の祝杯(弾圧功労者の賞恤)などがあげられる。この相矛盾した事情を参考すべきだろう。日伊協定の声も亦関係重大だ。
 だが真の目標は何であるにしろ、又口実は何であるにしろ、日本がファシスト・ドイツとこれ見よがしの抱擁をしたということは、日本が自分自身ファシズム支持を声明したようなものだが、処がそのドイツにおいて芸術についてまでが「批評」の禁止なのであった。徳孤ならずともいうように、之はやがて日本にも起こる現象だと見当つけねばなるまい。
 かつてドイツに反ナチ的書籍の焚書という田舎芝居が演ぜられた時、日本ではもう少し真面目(?)な滝川教授事件が発生した。今度の批評禁止というもう一つの田舎芝居に対応して、日本では何が起きるだろうか。陰性な日本のことであるから、もう少し燻った形のものでも起きるだろう。例えば前にいった「人民戦線」とかといった一定の言葉、一定のヴォキャブラリーの使用禁止などが、「ユダヤ的」成語であると、ナチならばいう処だろう。
 だがこういう苦しい解釈を採らなくても、事情はもっと簡単なように見える。何も文法や辞典的な根拠をかつぎ出さなくても、日本における人民戦線というものが、「日本そのもの」と相容れないということは、初めから当然で必然な事実なのである(?)。というのは、元来日本には、人民などというものが存在してはいないからだ。世論をなし批評をなす処の人民も民衆も大衆も、日本にはないし、又あってはならぬわけだ。日本の社会は人民などから出来ているのでもないし、又人民のために存在しているようにも見えない。
 日本の芸術批評が批評として重みをもち得ないのも、決して偶然ではない。そこには元来、批評らしい批評、民衆による社会的批評なるものは殆どないのが当然だからだ。日本では禁止すべき「無責任」な芸術批評さえが、ないのではなかろうか。で、防共文化の日独協定の方は多少脾肉の嘆に耐えぬものがあるかも知れぬ。
(一九三六)
[#改段]


16 日本主義の文学化



 儀礼というものがある。これは一元を好むものだ。たとい夫婦喧嘩をしていても、他人に会った時には夫婦一体のような顔をするのが儀礼というものだ。二元外交とか二重外交とかいうが、現実に公式に攻撃する時には相手は一元的なもののように想定される。そうしないと相手の方で相手にならないからである。修身の話を聞いても、修養講話を聞いても、話は思い切りよく一元的だ。下手な形而上学のようにまことにおめでたく出来ている。矛盾などどこにあるかというような顔だ。
 儀礼は勿論道徳の一部類である。本質的に道徳的なものなのである。つまり民族礼式というようなものなのだ。この民族礼式の前で、うっかり民族自身の持っている矛盾や二重性を卒直にぶちまけて見給え。忽ちにして座は白けて、事は面倒になって来るだろう。そこでリアリストとみずから称するものは二つに別れる。一つは民族礼式などにかまけていないで、思い切って矛盾を指摘するやり方である。ただ矛盾を指摘するだけでは仕方がないというだろう。しかし矛盾はただ指摘出来るようなものではない。矛盾を指摘するということは、文化なら文化について、自分の文化を相手の文化に対立拮抗させることによって、そういうことを実行していることによって、初めて出来ることなのだ。二重性とはそういうことなのだ。文化そのものが二重になっているのだ。日本の文化そのものが、そして日本そのものが、文化的ばかりでなく社会的・政治的に、二重性を持っているのである。そして我々がそのどっちにいるか、ということが問題だ。
 文化と精神との二重性、なんかということではない。文化や精神が夫々二重性を有っている、というのが現下の日本の向かって行きつつある姿だというのである。たとい矛盾であっても動いて行く方向から物を考えずに、このまま糞の上に坐り込んでしまう了見なら、矛盾も二重性もありはしない。一切のものはそれがあるということにおいてすでに必ず一元的なものなのだからだ。
 さてもう一つのタイプのリアリストは、現実の糞の上に坐り込んでしまおうと決心する処の部類だ。彼は無限の愛情という礼式を持っている。見境のない愛情である。時々喧嘩をしても大いに愛情を儀礼とする。彼は現実に対して極めて善良であり、気むずかしい顔などはしない。つまり深刻な表情はしないのである。深刻な表情をしないということが、彼のポーズである。もっともそういうタイプに限って使う言葉は身勝手な方言が多くて、世間に対してあまり親切ではないのだが。――とに角このタイプのリアリストは、社会の一切を一元的に見たがるのである。一元的に見れば見れるということが、彼等の身上だ。
 日本の現状は最も深刻な対立におかれている。そういうことは庶民の生活の内に極めて簡単明瞭な矛盾となって現われている。民衆はこれをよく知っている。そういう階級対立は日本の社会の根本的な事実だ。そしてそれがいや応なしに社会の条件を動かして行きつつある。伝統精神だって何だってこの条件の下におかれているのだ。伝統を単に保守派と改革派というような対比から見ることは、日本では不充分この上もないので、日本の社会そのものの特有な基本的二重性(それが封建制と資本制と社会主義との国際的なカテゴリーによって明らかになるのだ)を離れては、日本の伝統の理解は全く無意味になる。――いやそれは散々聞いたことだ、もう古いぞ、などといい出すかも知れぬ。しかし事実は少しも根本的に理解されていないことだ。階級対立を良心的にもスッカリ忘れたり見て見ぬ振りが出来る程に、初めから分ってはいないのだ。それが「順応的」「妥協的」な一元主義のタイプのリアリスト達の一群を、一つのモードとして産み出している。というのが一九三六年あたりからの日本の文化現象だ。
 話しは極めて簡単である。日本の現実における階級対立、経済上・政治上・社会上・また文化上・の階級対立、これを口の先で抹殺しようというのが、この一元主義的文化儀礼の本質だ。仮に文芸評論家自身は自分では気づかなくても、世間ではそういう風にチャンとお膳立てをしている。「善良」な文芸評論家などは、この際利用されるにおあつらえ向きなのだ。特に善良振る愛情主義的評論家達に至っては、最も役に立つだろう。
 主に文学の世界で最近頓に著しくなって来たものがこの傾向であることは前に述べた。恐らくこの傾向は一九三七年度の文学思想界の支配的な表面現象となるだろう。だがこんな傾向が文学に現われて来たのは、勿論決して偶然でもなければ突然なのでもない。文学自身の内部側からいうと、少なくとも不安文学の提唱の頃から、文学主義というべき現象が目立ち始めたのだった。文学主義とは文学至上主義のことではない。寧ろ文学以外のものをさえ文学的性格に引き直して話しをつけようという、一つの論理上の態度を指すのである。
 ここで特色のあったことは、文学的思想内容が科学的理論的な分析とは無関係に、方言的なカテゴリーによって探究出来る、という思い上りであった。この思い上りは文壇的・非文壇的・文芸理論や文芸評論ではいうまでもなく、文化的(?)な相貌をそなえた哲学やエッセイの内にも、横溢した。
 この思い上りはしかし、一定の社会的な需要に基づいたものであったのである。社会文物の理論的分析とは独立した文学的思想の地方界を造ることは(文壇の墻によるとよらぬとに関係なく)、当時文学思想を支配社会に妥協させるためにはまず第一に必要なことであった訳で、ただこの際の文学主義はまだ一種の嬌羞をもっていたから、今日のような幇間性をば「大胆」に告白しなかったまでだ。
 外部からいうと、社会思想における日本主義は、あまりの馬鹿馬鹿しさに、ついにインテリの好みを満足させることが出来なかったが、しかしファッショとか反動団体とかいう、文学インテリとはあまり関係のない世界でたといいわゆる日本主義の体系が恥をかいても、この日本主義はまだ文学思想界に向かっては処女地をもっていたわけである。そこで文学外で恥辱を受けた日本主義は、今度は文学内部へ潜入することによって、一種の復讐をしようということになった。
 処が何より好都合だったことはブルジョア文学と転向「プロレタリア」文学とにおける例の文学主義の横溢だった。――かくて日本型ファシズムの固有なイデオロギーたる日本主義は、駸々乎としてこの文学主義の土壌の上に繁茂し出した。これが今日の文学の、支配層に対する一元主義的な儀礼となり、そのラッパ鼓隊行進となっているものだ。――最近の文学的日本主義に読者は注目すべきだ。
 その心掛けにおいて文化上のリベラリストである文壇人に取っては、ファッショや反動団体は好みに合わぬ。それはモードとして気に入らないのだ。だがしかしこれが一旦「愛情」とか「現実」とか「伝統」とかという名称を帯びて現われると、それにすっかり気を許してしまうのが、この種の文学的文化人(?)の癖であるらしい。で今日の文学者的な文化上の自由主義者ほど、日本ファッショ化の過程にとって有益なデマゴーグはないのである。これを自覚しているものはまだ心配が少ない。自覚する力のないものほど危っかしいものはないのである。
 私は小林秀雄氏のようなタイプの文壇人にこの危険を最も著しく感じるものだ。特に最近の彼は一個の小林としてではなくて「文学」そのものの名において、その危険を吾々に身を以て知らせる心算らしい。
 小林秀雄氏が今日のような思考の公式に陥って行くらしいことは、決して意外なことではなかった。私は数年前からこれを指摘していたし、世間でもこれは「明快卒直」な定評に近かったと見てもよい。しかしあまりにも見事にこの公式の実践者となったことは、少なくとも私を驚かした。彼はもはや、日本の民衆の生活にとって矛盾した二元的な対立が日々の現実であるという一個の事実を考えて見ようともしない。それだけではなく、困ることには、この二元性に対する無知と無視とに身をおくことに、何等かの程度のヴァニティーをさえ感じているのではないかと思われる。なぜなら、それでこそ初めて民衆というものがわかるのだ、といっているからである。
 小林氏のようなタイプに愛される「民衆」を私は衷心から気の毒に思わざるを得ない。特に、そういうような愛し方をやるのが、独り文士に限らず、軍部でも内務省でもやっているこの御時世であるだけにだ。民衆が明快卒直を愛するものであるかのような口吻は、軍部が「明朗」を押し売りするのと少しも変りはしないではないか。

 以前の小林氏の逆説が、単に修辞上の逆説にすぎないことを、曾て私はいった。今日逆説を卒業し出した氏が、だからこの善意に満ちた明朗主義になるのは当然だ。処で一つ質問があるのだが、たとえば議会などで日本の外交の「二重性」が問題になって、そこに対政府軍部攻撃の火の手が上がったとして、一体小林氏はどっち側にその身を置く心算であるか。軍部はこういっている、政党は国内の対立や二重性を激化することによって、日本外交の明朗性を傷つけるべきではないと。この種のいい方は、今日の文学的日本主義にとっては、極めて意味深長なものなのである筈だが。
 尤も私は小林氏自身を相手にして物をいっているのではない。小林氏を一部の代表者と見立てていっているのだ。さてそこで、その小林氏は一般民衆について物を考えている。これは大へんよいことだと思うが、しかしそういう民衆というもの自身を観点として眺める時、私はこの種の評論家等の意義にある疑念を感じるのである。私は民衆を愛するとか何とかより先に、自分自身が民衆の一人であることをもっと自覚せねばならぬと予々考えている。日本に政治的な世論を産むような民衆がないという憤まんも、ここから初めて意味のある言葉になるのだ。そこで文学もまたこうした民衆のもつカテゴリーから見て論議されねばならぬものだ。文芸評論家もまた勿論そうだ。処で小林氏のようなタイプにおいてはどうだろうか。今日の日本のいわゆる文学が一体どれだけ民衆のものであるのかは問わぬとしよう。だが少なくとも今日の文学が、いわば文学の方から民衆を問題にすることによって、それで民衆が自分自身を理解出来ようとは、私には到底信じられない。でこの点文芸評論家の存在理由に関すると私は信じる。
 民衆と文学との関係については二つのものの秩序の逆転ということが今日の課題になっているのではないか。この切迫した宿題をハグらかそうとするのが文学主義であったし、そして、例の善良主義や一元主義はこの土壌に種をまいたものだ。――伝統の観念だってこの秩序の逆転によって逆転するものなのである。現実上伝統から自由になれない民衆こそ、伝統についての生きた観念を有っている筈だ。
 民衆は伝統に甘んじているのではなくて、経済生活上甘んぜざるを得ないのだ。真に甘んじ得る伝統ならば、伝統精神とか伝統主義とかいって騒がなくても、間違いなく保存されるものなのだ。今日の日本文学は日本の伝統の民衆的な意義を知っているとは思えない。
(一九三七)
[#改段]


17 「やまと魂」学派の哲学



 私はかつて「京都学派」の名の下に、西田幾多郎・田辺元・両博士の学的性格を指摘した(拙著『現代哲学講話』)。それで以てわが国のアカデミー派の哲学の代表的な学者を挙げ得て充分だと考えたからである。無論京都学派にぞくする者、乃至は西田系の哲学を奉じるものが、田辺博士等につきるのではない、三木氏や又彼よりも遙かに先輩に当る山内得立博士や美学の植田寿蔵博士こそは、西田哲学の解釈家として、或いは西田哲学の感情的な同情者として、或いは西田哲学の修辞的な後継者として、西田門下の名に相応わしいだろう。
 そればかりではなく、無論のこと又西田系の哲学者ばかりがわが国に於ける優れた哲学者なのではない。例えば東北帝大の高橋里美教授などは、西田博士に対する古くからの批評家であり、学的労働量はこれまでの処わずかに二三冊の書物にしか纏まらない程少ない方ではあるが、その実質から云って田辺哲学に次ぐものを持っている。現象学的頭脳のわが国に於ける最も確実な所有者である東京文理大の務台理作教授――之は京都出身ではあるが――なども見落されてはならない人だ。
 だが今吾々が興味を有っているのは、こうした(其の他多数の)多少とも優れた哲学者達の学説の批評や人物の紹介ではない。吾々はわが国に於ける哲学のイデオロギー的性格を視角として、そこから哲学の人物と所説とを取り上げなければならないのである。批評という仕事の本格から云って、こういう視角が第一義的なのだ。――併しそうすると、随分つまらない学徒までも夫々の場合の代表者として選ばなければならなくなるかも知れない。ことに、すでに二三の最も優れた特色ある人物を取り出した後だとすると、残ったものにあまり大した力を入れる必要はないように見える。
 一応、有態に云って、そうかも知れないが、併し、それは哲学の最も哲学らしいと考えられているもの、云わば哲学プロパー、に就いてだけのことであって、哲学の体系がどうであるかというような云わば条理的な形式的な点からでなく、も少し具体的な諸領域内容から云えば、なおまだ著しい特色を有った有力な哲学者がいないではない。
 論客大森義太郎氏は某誌で「思想善導の哲学」と題して、反動哲学者の陣営を切りまくっている。これはそれ程評判が良くはなかったようだが――例えば石浜知行氏の批評――、そしてこの評判は一般に当っているのだが、併し大森氏の衝いた処は相当正確でもあり充分効果もあったと思う。その際相手の思想を理解するに忠実でなかったというような批評は、大森氏の相手を買い被りすぎているからのことだろう。大森氏が、馬鹿馬鹿しさにテレながら大上段に振りかざしているのを見ると、色々な意味で、私は同情を禁じ得ない。
 だが大森氏が挙げた「思想善導の哲学」者達――川合貞一・河合栄治郎・矢内原忠雄・(故)藤井健治郎・の諸教授――は単に一群の、単に一典型の、「思想善導の哲学」者に過ぎない。他群の、他の典型にぞくする「思想善導の哲学」者達がいることを忘れてはならない。ではどういう諸典型があるのか。
 大森氏の論文を見るにつけて思い出すのはかつての河上肇博士の「国家社会主義の理論的検討」(『中央公論』)である。ジャーナリズム論壇では之も不思議と、評判が悪い方だったが、私は敢えて之を力作だと考える。それはどうでも好いが、この論文も亦、単に一群の、一典型の、所謂「ファッショ」理論家だけを取り上げているに過ぎない。例えば権藤成卿氏や橘某氏――尤も之はその後有名になったのだが――などという他群の、他の典型の、「ファッショ」論客には触れていない。然るに之は誰かによって確実に取り上げられて幻滅されねばならない代物だったのである。

 大森氏や河上博士が取り上げた反動家は、その反動振りにも拘らず、云わば欧州的範疇で物を云っている連中に他ならない。彼等がどれ程精神とか国家乃至国民とかいう根本概念(範疇)に力を入れようとも、その精神とか国家乃至国民とかいう概念が、云わば欧州哲学乃至欧州政治学のものだ、というのである。欧州的範疇――それは根本的にはギリシア的範疇から系統発生したものであるが――の何よりもの特色は、それがどれほど神学的又は形而上学的になろうとも、いつも自然科学的・技術的・認識の諸範疇との取り引きを見失わなかったという点に横たわる。自然科学的・技術的・範疇から離反するにしても、少なくともその離反に就いて一定の反省なしにはいられないのがその特色である。こういう実証性があったればこそ初めて、印度や支那の哲学的範疇が今日では歴史的遺物となって了ったと異って、今もなお吾々現代人の――単に欧州人だけのではない――生活に役立つ範疇として活きていることが出来たのである。
 だから今云った連中が立脚している諸範疇は、少なくとも個々の範疇それ自身としては現代的通用性を有っている。彼等の反動性はこれを諸範疇の体系組織法に、彼等の理論構成法になって、初めて現われて来るのである。でこの連中の理論は、少なくとも曲りなりにも、この批評家達の理論と共通な理論性を有っているから、その批判も直接に、他流仕合でなく、片がつくわけである。之は最も手近かな取り扱い易い――なぜならそれだけ合理的な――反動理論だ。
 処が権藤氏などの文章になると、その理論(?)の構成法が何であるか無いかよりも先に、思考の要素である範疇それ自身が、全く欧州離れをしているだろう。大化改新以後に於ける仏教的(一般に印度的)範疇や徳川幕府成立以後に於ける儒教的(一般に支那的)範疇やの適用に反対して、国学は国史認識に於ける国学的日本的・範疇の適用を主張する。それなりに発達してはいるが質的には依然として原始的である処の、云わばこのトーテム的範疇は、電車が動き飛行機が飛ぶ処の(欧州的な)自然科学的・技術的・範疇と、何の縁もないことは、不思議ではない。然るに、この欧州的な技術的範疇は日本的な道徳・習俗・の範疇と、継ぎ穂されざるを得ない。日本帝国乃至日本国民の生命線を守るためには、重爆撃機や重砲が技術的範疇に従って機能して呉れなくては困るだろう。ここに初めて、この系譜を異にする二群の範疇の不合理な接合に於て初めて、一般にこの種の――国粋的――反動理論が成立する。だからこの種の反動家によれば――例えば国本社の平沼騏一郎氏――ファシズム理論それ自身がファシズムではない、なぜならファシズムという範疇は欧州のものであって日本のものではないから。多分この点は、紀平正美博士なども賛成だろう。

 欧州的範疇で物を云う反動家と、日本的範疇で物を云う反動家とを区別して見たが、哲学者は、哲学という言葉がギリシア語かドイツ語か又はフランス語かの訳であっただけに、どんなに日本的(乃至は一般に東洋的)範疇で物を云おうとしても、さすがに結局之を欧州的範疇に関係づけずにはいられない。
 例えば京城帝大の白井成允教授の念仏趣味(『善の実現』という本が出ている)の如きは、東洋的範疇による宗教的意識を通っての反動形態にぞくするもので(この形態の反動は倫理主義的反動形態と結合して、かつてわが国に於ける多くの反動観念論哲学を統一した)、ここではさし当り間接的な場合に這入る。又前九州帝大教授、日本文化連盟の政治学者・藤沢親雄氏――之は頭脳明晰な藤沢利喜太郎博士の息だそうである――の「満州に王道大学を建設せよ」と云ったような科学(?)はフッセルルやハイデッガーが王道に就いての責任を負わされているだけに、お愛嬌であるが、もう少し正気な国粋哲学に眼を向けよう。
 国粋哲学――之はわが国に於ける反動哲学の最も有力な一典型である――の一般的な特色は、国史上の範疇を欧州の哲学的範疇と結び付けることにある。之は、国史を哲学的に解釈することではない、国史上の範疇を哲学的範疇にまで拡大するか、又は遂に哲学的範疇を国史上の範疇に一致するまで変更することである。この意味で例えば学習院教授紀平正美博士はヘーゲルを古事記や日本書紀に結びつける。博士はその説に対する様々な質問をどれでも同じ一つの説明で受け留める技術を有っている人で、一寸封建的な剣客の概はあるが、その独り呑み込みな尊王哲学の質の悪い難解さが、恰もさる高貴な方の歎息によって報いられたとかいうのは、皮肉と云えば皮肉である。だが博士に就いては他の人が語るだろう。
 紀平博士のスケールを小さくして奥行きを浅くしたものは鹿子木員信博士である。鹿子木博士は九州帝大の哲学教授としてよりも、老荘会や猶存社・愛国勤労党や帝大日の会・の幹部や顧問としての方が有名かも知れない。ギリシア語に通じている博士は、早くからプラトンの崇拝者として、「理想主義的悪戦」とかいうもので苦闘していたが、その多少哲学青年風な興奮の無内容を満たすものが必要でなければならなかった。だが欧州大戦を機会にして一遍に有名になった独乙精神――このドイツ観念論の魂――こそは、この空虚を充たす何よりもの好材料ではないか。日独文化の連絡の任を帯びている博士はそこで、時を得るや更に「日本精神」の哲学者とならなければならぬ。
 博士の「日本精神の哲学」は併しながら極めて凡庸なものだと批評しないわけには行かない。それは先にも云ったように紀平博士の国粋哲学を多少粗雑にしたものに過ぎないと云っても好い。ただ紀平博士に較べて、鹿子木博士は遙かに一種の近代性を有っていて、従ってそれだけ欧州的――哲学的――範疇にからみついている、という点を注意せねばならぬ。というのは、博士の凡庸な哲学体系やそれに基く国史哲学は、明白に現代風のファシズムのテーゼを表面に出すことを忘れないのである。
 博士によれば人間の志――心指し――には色々の種類がある。生物学的志、経済的志、認識的若しくは理論的志、芸術的志、宗教的志、道義的志等。だがそうした志が実現されるのは、力に拠ってである、と考える。それはそうだろう。そして博士は力によって何か物質のようなものを連想しているらしい、それも尤もである。ところがこの力又は物質力とは何であるか。「今日その最も尖端的なる力は何と云っても武力であるが故に、武力は実に今日に於て、重大なる問題であります。」とは他でもない武力――軍隊の・警察の・――である。武力の問題に較べれば、「失業問題」も「其の他不景気の問題」も結局あまり重大ではないのである。この「愛国号」の哲学はそこで、その日本的範疇にも拘らず技術――産業的及び政治的――の尊重を以てその国士論の結論とする。「大和心」という無上の宝を飽くまで保持し進展せしめる唯一の方法は、「技術の世界」に最も能く力を集めることである。そして技術とは、工業・商業・農業・その他凡ゆる産業の上に「我々の魂の熱情に駆られて充実せしめられる」ものであるばかりではなく、「我々の社会的組織を技術的に精鋭有力なるものへと整えなければならぬ」ものである。
 こうやって国粋哲学の日本的範疇は次第に欧州的――哲学的――範疇にからみ付いて来る。日本的範疇と欧州的範疇とを殆んど天才的にまで器用に結び付けるものは、和辻哲郎教授であると云って好い。
 教授の抑々の出発点は、良い発見者としてであった。ニーチェやキールケゴールを哲学的に取り上げた最初の人は、日本では氏であったと云って好いだろう(『ニーチェ研究』と『ゼーレン・キェルケゴール』)。ニーチェはすでに高山樗牛などによってわが国でも非常に有名にされてい、又云うまでもなく欧州ではニーチェは一つのエポックをなしていたから、之を取り上げることはそれ程発見として価値はなかったにしても、少なくともキールケゴールに関しては、全く教授のわが国に於ける独創的発見によると云わねばならぬ。今日様々な意味で有名であるキールケゴールも、当時のわが国に於ては、否、ついこの頃までは、わずかに久保正夫氏と三土興三氏とが之を問題にしただけだったようである(両氏が若くして亡くなったのは遺憾だ)。その先鞭をつけたものが和辻教授の『ゼーレン・キェルケゴール』だったのである。
 だがこの二つの作品を通して何よりも目立つのは、その高踏的に独自な解釈である、人が何を云おうとも自分はそう思うのであり、そして自分の解釈が優れているのだ、と氏は云い放つ。この高踏性は一種の貴族主義から来ている。そこで氏は平俗に通用するものに対しては常に、反抗せざるを得ない。俗間的権威は氏によって誠に好い敵対物だ。『日本古代文化史』はこの反抗の色で彩られている。リッケルトの流行に対してはランプレヒトを担ぎだすのである。
 国史乃至一般に歴史的理論に対する興味と前後して、その反抗性にも拘らず伝統への回顧が始まる、否、実は之は当時の啓蒙運動に対する一つの反抗――反動――に他ならない(之が貴族の封建的な特権としての「遊び」の趣味と結び合うことは決して無理ではない。氏と高等学校以来同級である京都帝大の九鬼周造氏は『いきの構造』という粋な哲学書を書いた)。かくて『古寺巡礼』や又至極つまらない『偶像再興』が書かれる。『日本精神史』はこのやり口の延長に他ならない。
 教授の回顧趣味は、その反抗性乃至反動性は、教授の文化史の研究をして原始的文化史の研究に向かわしめる。一般的には極めて有効で科学的なこの研究方向は、氏によれば、現在に於ける文化の歴史的発展への反抗のための方法として、採用されるのである。氏はアメリカニズムをばローマ主義に歴史的に還元し(之は一種の時間上の反動・反抗・と考えられるべきだ)、このローマ主義に反抗することによってアメリカニズムに反抗するために、「原始キリスト教」の検討を行なう。之はあまり自信もなく又評判も良くなかったが、同じやり口にぞくする『原始仏教の実践哲学』は、痛快なほどセンセーションをまき起こしたものである。
 あまり哲学を知らない木村泰賢氏などが、高々新カント派風な原始仏教解釈でグズグズしていた処を、和辻氏が最新流行の哲学である現象学を甚だ巧妙に使いこなして、パーリ原典を片づけたのだから、僧侶学者達はいくじなくもこの素人に一時はすっかりしてやられた形であった。尤もこの素人には背後に宇井伯寿博士がついていたのではあったが。ここでも氏の反抗本能と貴族趣味とは、心ゆくまで満足させられた。
 読者はまず、和辻教授が如何に器用反作用家であり貴族主義者であるかを覚えておかねばならぬ。

 併しこうした一般的な抽象的な反動性と貴族性とは、いつまでもそのままではいられない。京都帝大に招かれて文化史か精々美学の講座でも持てば好いものを、どう間違ったか、事もあろうに倫理学の助教授になった氏は、御多聞にもれず「洋行」の運命に見舞われる。洋行先でも亦無論のこと反動性と貴族性とは扇動されることを忘れない。西洋料理と洋服は日本のが一番良いということを氏は発見している。処で一等良い筈の日本へ帰って来て見ると、大学生達は一も二もなくマルクス主義に浮かされている。マルクス主義は新しい思想でありながらすでに世の中の大勢をなしている。氏の使命はそこでおのずから、この大勢を逆行して見ようということにならざるを得ないではないか。貴族は容易に流行などに動かされはしない、氏はこの点を身を以て証明しなければならない。
 偶々学生運動に対して特有に懐疑的な皮肉をもらしたのが導火線で、河上肇博士が『社会問題研究』で、之を槍玉に挙げて了った。骸子は投げられたのだ(現在東京の高師の先生をしている某君が、コーエンなどをかつぎ出してマルクス主義を批判することによって教授の御用を務めようとしたのは、笑い草にはなったが、あまり有効ではなかったようである)。癪に触わるのはマルクス主義者である。だから氏は反マルクス主義者にならねばならぬ。生理上の反抗児は、今や政治上の反動家とならざるを得ない。
 だが反動家の歩く道は無限の泥濘である。唯物史観に対抗するために風土史観――之はそれ自身としては良い着想なのだが――が掘り起こされたり、国民性の理論がエラボレートされたりしなければならぬ、これは定石の第一歩だ。氏の「モンスーン説」、人間はモンスーン地帯、砂漠地帯、牧場地帯の三つによって、経済・政治・道徳・文化の形態を決められるという説、はとに角非常に面白いもので、島崎藤村氏などは之を激称したものだ。だが少なく共倫理学の教授にならねばならない氏は、その倫理学――之はハイデッガーの非常に器用な活用であって文理科大学あたりの道徳専攻の先生方の倫理学とは比較にならない――をこのモンスーン説に結びつける他はない。かくて出来た「国民道徳論」はそろそろ唯物史観に代用されそうである。尤もその「倫理学」(岩波講座『哲学』)が中々器用なものであるに反して、「国民道徳論」(岩波講座『教育科学』)の方は可なり苦しいアナロジーによるのでしかないが。
 泥濘は回り道をしても矢張り泥濘へしか導かない。風土史観や国民性理論によっても、反動の終局的な結論への定石の手を脱することは出来ない。今日反動の結論は何等かのファシズムにしかない。果して氏は「大和魂」の哲学へ直行する。日本国民は本来日本国民らしい「国民精神」を持っているのだ。之は日清日露の両役で立派に発揮されたものだ。然るに今では欧州産の町人根性がこの特色を蔽い匿くして了っている。大和魂を資本主義によって歪曲されている、大和魂を資本主義的国難から救い出せだ。が、日本国民を救い出すものは、マルクス主義――之は本当は民族自決を結果する筈であるのだが――ではあり得ない。なぜならマルクス主義者は、日本国民精神を無視してロシア精神を鼓吹するからである。では「国民精神文化研究所」の建設にでも依ってであるか。貴族的で反抗的な氏によればそう単純には行かない。では何によってであるか。他でもない吾々の「くに」という最高の犠牲社会の自覚によってである。――但し読者は早まってはならない、「くに」とは国家の事ではない。国家などは利益社会に過ぎない。自分はファシストなどではない(「現代日本と町人根性」――雑誌『思想』)。処で風土史観や国民性理論は実はこれを云うために用意されていたのである。
 併しファシストは色々なことを云う、政府と国家とは別だ、国家と国民とは別だ。そうすれば同じ調子で同様に国家と「くに」とは別ではないだろうか。だがそれは要するに共産主義と真理とは別だということである。或いは思い切って譲歩して、ロシアの共産主義と日本の夫とは全く別だということなのである。日本に於ける範疇と欧州に於ける範疇とは全く別だということなのである。――この日本ファシズム的結論に就いては、和辻哲郎のモダーン哲学も本質に於て、例の権藤成卿翁や鹿子木員信博士の大和魂哲学と全く一つである。日本的範疇をどんなに器用に欧州的範疇に結びつけても、所詮之が日本的範疇の哲学の落ち行く先なのである。
 だがそれにも拘らずその反作用性と貴族性の故に、氏は世間に流行する日本ファシスト達の間に伍すことを肯んじない、「思想善導」などは趣味に合わない。自分は所謂ファシスト等を――所謂マルクス主義者達と一緒にして――軽蔑する。だから和辻教授は文部省の研究費は貰っても、思想善導官にはなれない。
 和辻教授の反動化過程の心理は之である。だがこの心理が計らずも国際世界の客観的情勢の階級的反映の一類例に他ならないことを読者は注意すべきである。
(一九三二)
[#改段]


18 和辻博士・風土・日本



 私は前に「『やまと魂』学派の哲学」に於て、権藤成卿翁や鹿子木員信博士と、和辻哲郎博士(もっとも当時はまだ博士ではなかったが)とを並べて、和辻博士のモダーン哲学は、ヨーロッパ的カテゴリーと大和魂的国粋哲学のカテゴリーとの絡らみ合ったもので、結局において日本主義イデオロギーの最もハイカラな形態なのである、というようなことを指摘したのである。ところがこの点、其の後になると、ますます判然として来たと見ることが出来る。特に一九三五年の秋に出版された論文集『風土――人間学的研究』は、『人間の学としての倫理学』と共に、和辻哲学の一般的な哲学法と、特定な関心との対象とを明らかにしたもので、翻読に値いするものと云わねばならぬ(『人間の学としての倫理学』の批判は拙著『日本イデオロギー論』に載せてある)。
 すでに書いたことだが、和辻博士の哲学の誕生には、外部的内部的な一つの必然性があって、それが今日の姿を産み出していることを、まず注目しなければならぬ。氏はまず初めにニーチェとキールケゴールとの発見者として現われた。哲学が日本ではまだ充分に思想として、また思想のメカニズムとして発育していない頃、大学を出た氏としては、ニーチェや特にまたキールケゴールを哲学的な学的共感を以て見出すことは、それだけで卓抜な眼の所有者であることを証明するものなのだ。ニーチェやキールケゴールは勿論、イラショナリズムとか、ヴォランダリズムとか、または宗教的形而上学とか、また哲学的文化とか、其の他其の他の普通の哲学概論式命名によっては少しも内容を説き明かされることは出来ない。それは今日から云えば、大体において、人間学という課題として最もよく理解出来るものだったのだ。然し人間学という観点がアカデミックな哲学に於て今日のような意味を得て特殊の優待をさえ与えられるようになったのは、日本ではごく最近のことであるし、ヨーロッパでも極めて新しい現象なのだ。今日、この意味での人間学は、一種の流行哲学である。その代表者の一人が風土史論者としての、また倫理学者としての、和辻博士自身なのだが、この人間学の先駆者としての古典はニーチェ、特にキールケゴールなのだ。古く之を自分の哲学的な関心対象として発見した博士の眼は、決して平凡であったとは云えないしまた決して偶然に基いたものであったとも云うことは出来ない。
 しかし、博士の眼光の力は、さることながら、この眼光が、こういうやり方で働きはじめた心理的動機を見ておくことも亦右に劣らず大切な要点となるだろうと思う。氏の独創的なそして警抜な眼光は、決してそれ自身の内部的な情念の必要からばかり働きはじめたのではない。それは大いに外部同時代者からの影響の結果によるものであり、しかもこの影響に対する反作用(特には之は反動を意味する)や反抗が、精神上の動機力をなしているのである。ニーチェやキールケゴールは、当時の日本のアカデミー哲学の俗物的平板さに反抗するために取り上げられたとも見られる。この点、和辻思想を理解するのに根本的な参考になるのだ。そして、この反抗は、いつも一種の文化人的貴族性によって着色されているという点も亦、参考に必要だ――。『日本古代文化史』は津田左右吉氏等の日本文学史に対抗するために、日本文学の一種の優越性を結論しようとしたものであり、そしてそこに使われた方法論はまた当時流行であったリッケルト一派の歴史学方法論に対抗するために、ランプレヒトの心理学的方法を担いだものだった。アメリカニズム(と云うのは、つまり、資本主義文化の普遍性に相当するもののことだが)に対抗するためには氏がアメリカニズムの原型と考えたローマ主義に対抗する必要があるというので、それを動機として「原始キリスト教」の研究が発表される。
 この貴族的反抗性反作用性の特色と共に、和辻氏の卓抜さに於ては、思想上学術上のモードの新しさを追い求めるという一つの心理も亦、これに劣らず重要な役目をもっている。『日本古代文化史』や『古寺巡礼』や『日本精神史』(また『続日本精神史』)では、日本や古代日本というものを、一つの新しいモードとして追い求めているのを見出すことが出来るだろう。ひとり関心や省察や研究のテーマだけがアラモードであるだけではない。研究・省察・関心・の方法や態度そのものが又、アラモードなのだ。『原始仏教の実践哲学』では、この研究・省察・関心・におけるファッション・アラ・モードぶりは、絶大な威力を発揮した。原始仏教の教義内容をば、当時からドイツで広く行なわれている斬新哲学たる「現象学」を使って、見事に解剖したものである。現象学上の哲学的省察法が、じつは原始仏教そのもののもつ省察法であったという次第である。かくて、とに角、原始仏教は二十世紀の文化人にも極めて理解しやすい文化財となったわけだ。これまでの僧侶的な仏教学者達の思いも及ばぬ古典紹介ぶりであったのだ。
 だが、この頃から、和辻思想には、一つの方法というものが形を取りはじめたのである。たとえば、『日本精神史』などにおいては、まだ何等自覚的な方法が省察されてはいなかった。方法は明らかに見えてはいるが、それの省察がまだ充分に自覚的ではなかった。ところが今や、方法はまず、フッセルル式な「現象学」のそれを利用して、形を取りはじめたのである。
 思考の仕方におけるファッション・アラ・モードぶりというのは、しかし、決して謂わゆる進歩的ということとは一致しない。進歩とか反動とかいう歴史の運動における大局的な必然の動向とは関係なしに、大衆的に、あるいはインテリの支配的な勢力として、大勢をなすものに対する貴族主義的反抗が、じつはこの際のファッション・アラ・モードだ。あまり普及してしまったファッションはもはやファッションとも云うことは出来まい。まして、アラ・モードなものなどではあり得ない。でこうなると、真の意味において、歴史の大勢から云って、新しいということは大して問題ではないので、そこでは新しさよりも大勢への反抗の方が、思考の興味をそそることになるのである。和辻博士は、学生の左翼化を、一つの普及しすぎたファッションと見て取り、この古い流行に新流行の反逆をさせようと思って、みずから右翼化ないし反動化したのである。だから氏の反動家ぶりなるものは、それ以来、常に、敵本的なものであり、いつも多少なりとも、逆襲的で、皮肉な性質をもっているのである。
 さて、この逆襲的反動性を結果する貴族主義的な一般的反抗性(アマノジャク性)そのものがじつは和辻思想の方法を前進させたのだということは、非常に興味のある点である。なぜというに、博士はここで、マルクス主義的哲学方法という一つの方法論上の対立物を、敵手を、いな好敵手を、発見したからである。というのは、詰り、和辻的方法を生長させるに持って来いのいい対手を持ち合わせたからである。――ところが当時ドイツのブルジョア哲学の最も有力な(そしてアラ・モードな)哲学の一つは、フッセルルの『現象学』からハイデッガーの『存在論』ないし『人間学』への移行であった。これの日本における最初の代表者は、三木清氏であったが、三木氏がこれを初めマルクス主義との友誼関係において捉えようとしたとは事かわって、和辻博士の方は之を、ほかならぬマルクス主義反対のための、いなマルクス主義打倒・撲滅・のための、そして、やがてマルクス主義弾圧(政治的行政的弾圧だ)のための、何より有効な武器として自覚したのである。――かくして和辻思想の哲学法は、ここのところ、内部的にも対外的にも、まさにほかならぬ人間学、あるいはもっと正確に云うなら、人と人との間の学(「人」の学)になければならないのだ。それが反唯物論の殆んど唯一の残された道だからだ。倫理学の教授としての氏は、これによって、人の学としての倫理学を建設できる。ところで、そういう倫理学は、国際的に共通なものであるよりも寧ろ「ところ、ところ」によって異る「人間」の、それぞれに特有の倫理学でなくてはならぬ。して見れば、日本には、日本特有の倫理学が之によって見出される筈だ。ところが、そうなると、文化史家としての和辻氏は、一つの飛躍を可能にされる。いったい「ところ、ところ」によって人間が異るとは、どういうことか、という問題へ前進するのである。ここに風土なるものが発見されたのである。――人間学は風土理論に行くことによって、初めて文化史の方法として完備する。そして大切なことは、之によってまた初めて、マルクス主義的な史的唯物論に逆襲を試み、これを皮肉りそれの虚をつくことが出来る、というわけだ。なぜなら「風土」によると日本の特異性を強調することが出来、それによって初めて「ロシア的日本人」(!)の漫画を描けるかも知れないからである。
 こう考えて来ると、『風土――人間学的考察』という本の題はきわめてピッタリとした名づけ方であると同時に、たいへん正直な題だということも判るだろう。この本が和辻思想にとってまた現代日本の支配者の文化理論にとって、いかに重大な意義があるかということは、もはや説明を必要としないのである。痴鈍なるインテリ大衆や人民大衆に反抗する、選良インテリの軒昂たる意気から云っても、その着眼のスマートさから云っても、その方法のファッション・アラ・モードぶりから云っても、そして更に行政上の反動政策の文化的顧問力から云っても、その意義の重大さは、いまは広く認められているのである。

 私がこういうと、読者のある者は、和辻博士の学的労作が、何か出鱈目なもので、取るに足りないものででもあるように考えるかも知れない。あまりに馬鹿々々しい反動論者を沢山見せつけられている読者が、そう思うのも無理ではないが、しかし和辻博士の場合は、決してそうではないのである。博士の眼は常に警抜であり、新鮮であり、そのリーズニングは、はなはだ細心なものがある。それだけではない。博士は木によって魚を求め得るばかりでなく、魚によって木を求めることさえ出来る或る魔術の所有者だ。この魔術あるが故に、一切のテーゼに対しては、いつでもアンティ・テーゼを対抗させることが出来るのだし、常にアラ・モードでモダーン乃至シークな学術を紡ぎ出すことも出来るのである。これはインテリゲンチャにとっては胸のすくような演技である。博士の学術はだから、文化的に非常に水準が高いのだということを忘れてはならぬ。博士の、一見我儘な結論は、常にアカデミックな論証からの結論なのだ。――だがこの魔術の秘密はどこにあるのだろうか。風土とは一体、氏によってどういう概念として持ち出されているか。それを見ればこの点一等よくわかるだろう。
 博士は云っている。吾々が寒さを感じるというのは、客観的な寒さがあって、それを吾々という主観が感じ取るというのではないのだ。「寒さを感ずる時、我々自身は既に外気の寒冷のもとに宿っている。」で、外にあるものは、寒気というような「もの」や「対象」ではなくて、実は我々自身なのである。我々が寒気の内へ、外へ出ている(Ex-istieren)のである。だが吾々が共通に寒さを感じるのは、この外なる寒気が実は吾々自身であるばかりではなく、更にこの寒さの共通が実はまた吾々という相互の「間柄」に他ならないということを意味する。吾々が共通に寒さを感じるということは、吾々が吾々自身を寒さという吾々人間の間柄として、了解することに他ならない。して見ると、吾々が寒さを感じるという現象は、寒さとして吾々自身の間柄を、つまり人間として吾々自身を、そういうものとして自己了解するということだ。寒さを感じることは吾々が自己を了解することだ。自分の人間的存在の理解に他ならぬのだ、というのである。
 ところでこの寒さは「気候」というものの中の一環に過ぎなく、そして気候というものは「ある土地の地味地形景観」などとの連関においてのみ体験せられる。ところでつまり、これが風土というものだ。だから我々は、風土において、我々自身を、間柄としての吾々自身を、見出すのであり、吾々自身を了解するのである。――かくて風土とは、吾々人間存在の間柄が、自己了解される一つの仕方を指すわけだ。人間の自己了解のあり方の一つが風土というわけだ。
 さて注意すべきは、この風土というものが主観でも客観でもないものだという、一つの根本的な観点である。風土が素より主観なのではあり得ないのは当然だ。だが又それは客観でもない。つまり主観に何等かの作用(或いは因果関係)を与えるだろう客観、つまりそれは自然と普通呼ばれているものだが、そうした自然なのではないのである。風土はそういう自然科学的な範疇ではなくて、主客の対立などを根源的に踏み越えたところの、正に人間学的なカテゴリーと考えられている。風土は人間に影響を与えるところの自然現象のことではなくて、かえって逆に、人間の自己了解の一つの現象だというのである。人間を何等か風土によって説明する事は正しいことではない。むしろ人間が自己を了解理解するという現象そのものの一つが取りもなおさず、ただちに風土なのだという。
 風土は、いわゆる自然にはぞくさない。それは人間の自己了解の仕方であった。だがこの自己了解の運動は、同時に歴史的であるのだから、そこで歴史と離れた風土もなければ、風土を離れた歴史もない。が、いずれにしても、人間存在の根本構造からしてのみ、この関係は明らかにされるのであって、自然と社会の発達史的な連関などから説明されるべきではないと云うのである。
 だが、それにも拘らず、風土は、和辻博士によると、いわゆる自然の人間学的代用物としての役目をチャンと帯びさせられている。吾々はこの点を見落してはならないのだ。人間存在の構造(敢えて存在物の構造とは云わぬ、正に人間存在の構造だ)は時間的空間的だと考えられているが、その空間的というものが、この風土に相当するのである。風土はつまり「ところ」にほかならない。元来この空間なるものが、いわゆる空間のことではない。存在物の根本存在性を示す性質でもなければ、存在の形式でもない。まったく人間存在の構造内に宿るところの或る一つの契機を意味する。内なるものが外に出るという関係か連関が、空間(じつは空間性)だ。こうした人間学的な空間概念に関係づけられて、風土は空間的な「ところ」となる。そうすると今度は自然というものも亦(それは空間性をもち処を占める)正にこの風土によって、人間存在の構造に帰着せしめられることとなる。自然は人間存在の一連関のこととなる。こうした自然は、とりもなおさず風土として理解されているわけだ。
 だから、和辻博士による風土なるものは、要するに人間学的に解釈された自然のことにほかならず、あるいは少なくとも、自然の人間学的な代用品にほかならない。つまり風土という観念は、自然を人間学化し主体化するための、一つのカラクリ道具だったわけだ。風土というものを持ち出すことによって、自然はその自然としての特性、つまり人間に先んじて成立しているという特性、を見事に剥脱されて、客体的である代りに、まさに主体的であるものにまで、変貌させられてしまう。こうした魔術の言葉が風土だったのである。――で今や、和辻博士の例の魔術の秘密は風土のこの観念から見当がつくことになった。自然を人間に帰着させるということは、自然を自然としてではなくて、自然でないものとして説明することにほかならない。この調子で行けば黒いものを白いものとして説明することも出来れば、白いものを黒いものとして説明することも出来るだろう。つまり黒も白を意味したり、白も黒を意味したりすることは、事実不可能ではないからだ。それが意味するというかぎりにおいてはだ。と云うのは、事物の連関、ここでは人間存在なるもの、をば、それに与え得るいろいろの意味において解釈するのなら、どういう解釈でもつけることが出来るわけだ。空間については、あるカント主義者はこれを論理学的想定にほかならぬと解釈した。風土観においては単に、それが人間学的カテゴリーとして解釈されたに過ぎない。
 風土は人間学的解釈学の独特の愛用語とされているように見える。いや自然や歴史を人間学的に解釈学的に(同時に又、文献学的にということにもなるが)、片づけるためには、まずこうした風土の観念は大へん必要だったのだ。なぜなら、これによって、人間学や解釈学にとって、元来苦手であるところの自然の客観性というものを、手際よく手なずけて「主体」化すことが出来るわけだからだ。とともに、唯物論の第一テーゼから、見ごとに解放されることになるからなのだ。風土がなぜ和辻博士の特別な興味を惹いたかという理由は、ほかでもない、ここにあるのである。自然を科学的に、というのは唯物論的に、取り上げることは、すでに時代おくれの野暮なやりかただと説明することによって、自然を人間学化し、解釈学化し、かくて又それを主体化して、自家薬籠中のものとして見せる。これこそアラ・モードな自然観だ、というわけだ。風土はだから、唯物論ないし史的唯物論を無用にするために召し出された一つの根本概念であったということがハッキリするだろう。
 もちろん風土というものを述べるのに、和辻博士が用いた方法――人間学・解釈学・――は、ほとんど完全にハイデッガーのものであり、そして、それの東洋的ないし日本的文献学(フィロロギー)による一展開である(人間のというものは東洋的フィロロギーから導かれている)。そしてこの種の方法は、今日、日本のブルジョア哲学の可なりの部分を支配している。が博士のオリジナリティーは之に基いて風土という一種の武器を造り出したことの内に横たわる。この武器の考案は前にも云ったように、マルクス主義社会科学の虚を衝こうという意図から出ている。生産関係や生産力というカテゴリーを辱しめるために呼び出されたものであった。だが、効用はそれだけではない。風土は「ところ」である。それぞれところどころによって異る地方の特異性を強調するのに何より便利であろう。と云うのは之によって、日本や東洋の特異性、日本的・東洋的・現実の特異性、を強調する一つの一般方法を提供することが出来る。特に日本文化・東洋文化・は、史的唯物論では説明できないということを強調するには、之が手頃の効用があるらしく見える。ここが風土と和辻的観念の最後のねらいどころだったのだ。

 和辻博士が、世界における風土の型を三つに分けたことは、相当ひろく知られていると思う。モンスーン、砂漠、牧場の三型である。いまは他の型は論外としよう。日本はモンスーン型にぞくする風土をもつ。いな日本に於ける人間的存在は、モンスーン的風土に於て自己了解し、間柄をもつ、と云うべきなのだろう。とに角、卒直な事実は、吾々が日本という土地に住んでおり、その土地はモンスーン地帯にぞくしているということだ。
 モンスーンは季節風である。この風土的類型にぞくする日本は、さらに、突発的な季節風に見舞われるという意味に於て特に台風的風土をもつ。そこで博士は云っている。「だから台風が季節的でありつつ突発的であるという二重性格は、人間の生活自身の二重性格に他ならぬ」と。台風は自然科学にぞくする気象学的研究対象であろうが、そして、それが日本人の生活に影響を与えるということは、誰知らぬ人もないが、和辻氏によると、台風が稲の花を吹くことによって人間の生活を脅かすというので、この気象学的対象は忽ち人間的構造へと昇格させられる。そこで気象学的二重性格は、すなわち日本人の人間的二重性に他ならぬということになる。事実は単に、自然科学的な台風が吹いて、稲がやられて、農民が生産生活に心配が多いということだが、それが人間的風土論から行くと、台風という自然現象は、人間存在の構造の内で吹きまくらねばならぬこととなる。しかしそれはそれとして、ここでは次のような人間存在の構造が発見される。「豊富な湿気が人間に食物を恵むと共に同時に暴風や洪水として人間を脅かすというモンスーン的風土の、従って人間の受容的忍従的な存在の仕方の二重性の上にここには更に熱帯的、寒帯的、季節的、突発的という如き特殊な二重性格が加わってくるのである」と。
 まず念のために注意しておくのだが、この熱帯的寒帯的とか季節的突発的とかいうのは、動植物や風のことではなくて、「人間存在の仕方」のことだということを。これによって日本の人間の存在の仕方が、つまり俗に云う日本の国民性というようなものが、解釈学的に演繹(?)されるのである。曰く「豊富に流れ出でつつ、変化において静かに持久する感情」、之が日本の人間存在の受容性の特有な内容となる。また「あきらめでありつつも反抗に於て変化を通じて気短かに辛抱する」というのが、モンスーン的忍従性の内でも、日本の人間に固有な特異性だという。でつまり「しめやかな激情、戦闘的な恬淡」が「日本の国民的性格」に他ならない。そしてこの本性は事実上、客観的に歴史を通じていろいろに表現されている。日本の人間存在に於ける男女の間、家族、家、国家、宗教、その他に一つ一つ、それと覚しく解釈できるものが見出される。等々。
 こうした日本の人間の心理の特有性、それの文化上に於ける表現、の考察は極めて興味もあり、示唆にも富んだものだろう。だが吾々の問題はそこにあるのではない。問題はかかる「日本の国民的性格」と、例の台風との関係如何にあるのである。いったいラジオの気象通報で放送される台風の気象学的な二重性から、如何にしてまた演芸放送で放送される日本国民的なナニワ節や軍人の講演に於ける二重性が、発生するのであるか。その因果関係については、和辻博士の細かい叙述にも拘らず、何物を聞くことも出来ない。――しかもそれは実は初めから当然だったので、元来博士の人間学的解釈学は、自然によって人間の心情を説明しようという、そうした何等かの科学的因果づけは初めから問題にしていなかったのだ。これを問題にしないためにこそ、あらかじめ自然と心理とを一緒にして、風土と主体というものになおし、そして風土、即主体という定式を与えておいたのだった。因果的な説明などはいらない。必要なのは解釈だけだ。――しかも、その解釈は実際を見ると、和辻式に警抜なファンタジーとアナロジーと、また時とすると、思いつきと、あて推量と、そして更に、こじつけとにさえ基くことが出来る。しかも牽強付会される個々のタームは極めて実証的な引例や経験に基いているというわけだ。だが、とにかく解釈学と雖も、さすがにここまで来ると、フィロロギーでは役立たぬと見える。
 そして博士は云うのだ、「我々はかかる風土に産まれたという宿命の意義を悟り、それを愛しなくてはならぬ」、「ロシア的日本人」などになってはならないのだと。誰か自分の運命を愛しないものがあろう。自分を愛せよ、と云う場合には、すでに何かの伏線があるのだ。つまり、その愛し方に或る注文をつけているのだ。――だが、なぜ、博士はそういうことをわざわざ云いたくなるのだろうか。風土をああいうような観念として強調したくなるのであろうか。根本的な理由は極めて簡単だ。科学的な分析は日本的現実を分析し得ないという、極めて卑俗な迷信がそれだ。
 この迷信は、しかし決して和辻哲郎博士だけのものではない。今日の大部分の曖昧思想家や曖昧文士のアラ・モードの意匠が之なのであり、粉黛が之なのである。だがこの粉黛こそは却って、日本なる彼女の愛嬌を著しく殺減する随一のものだ、ということを思わねばならぬ。
 風土を見出したこと、風土から日本を見たこと、之は和辻氏の没することの出来ない業績だろう。ただ風土の和辻的観念とその観念適用の心事とが、この業績を濁ったものにしているのである。
(一九三七)
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19 三木清氏と三木哲学



 三木清氏は色々な意味で私の先輩である。一体、一高の出身者が京都の哲学科へ大量的に遊学するということが三木清の影響なので(しばらく敬称を省こう)、私などその影響を間接に受けた者の一人だ。私が京都の哲学科へ入学した時には、彼はすでに大学を卒業して一年経っていた。つまり私より四年先輩になるわけである。まもなく彼は洋行した。と云うよりもドイツのマルクが安い頃だったから、勉強の能率を上げて外国へ出稼ぎに行ったと云った方が当っているかも知れない。当時そういう意味で洋行した者は沢山いたので、村山知義・羽仁五郎・其の他の諸君もそうだ。
 三木は三年程して帰って来た。パスカリザンとして帰朝した彼であったが、福本和夫の台頭を見て忽ち一種の野心を起こしたらしい。俺でも福本位いなことは出来る、と傲語していたように覚えている。勘のいいことでは当時他に並ぶ者がなかったから、福本が新しい思想界に占めていた約束ある意義を逸早く見抜いたのである。京都の哲学畑にいてこの点に気づくだけでも、並々ならぬことであったという点を忘れてはならぬ。でやがて彼はみずからマルクス主義者を以て任じることになった。その「マルクス主義」なるものが私をいたく動かしたのである。三木清の影響で左傾(?)した恐らく最初の一人が私かも知れぬ。して見れば彼は私にとって非常に大切な(?)先輩と云わねばならぬ。
 帰朝者の彼を取りまいてアリストテレスの講読会が始まった。私もそこへ顔を出した。この会合には三木にとっては或る特別な意味があったらしいが、私はそんなことには気がつかなかった。アリストテレスを彼に学んだという点からも、彼は私の先輩なのである。――その内、岩波の或る出版計画が発表されてその世話役が三木となった。彼は私に一冊の著述を勧めた。それが『科学方法論』という私の処女作である。この点から云っても亦、彼は私の有益な先輩だ。
 京都帝大の講師の就任が望めなくなって法政大学の教授となったが、シンパ事件で之も一時やめねばならぬようになった時、その後任のような意味で私が法政の講師になった。ここでも亦だから彼は私の先輩なのである。
 さてこういうように、全く色々の意味で三木清は私の先輩に当っている。三木と私との関係は私が今日感じているよりももっと深いものがある、と云った方がいいかも知れないと思う。そしてこのことは必ずしも彼と私とが似た本質の者だということにならぬ。この点もまた大切なのだ。彼と私とが、哲学をやって評論をやるというような点から、殆んど同じような種類の人間として一括して取り扱われる場合もあったし、又私が彼の子分であるかのように云う男さえもいるのであるが、それは勿論私の独自性を否定することによって私を三木に帰着させることになるわけだ。実を云うと今日では、私は殆んど全く三木清に似てはいない。例えば彼はヒューマニストとなろうとしている。私は唯物論者となろうとしている。そしてここに私自身彼に対して大きなギャップを感じているのだ。
 して見ると私は、之までに、もっと早く、三木清論を書く必要があったのかも知れない。それ故に又、却って今更三木清論でもあるまいとも思うのだ。併し考え直して見ると、矢張り三木清という人物は今日の日本の思想界にとって意義の深い存在だし、最近また或る特別な意義さえ持って来たように思われるので、大いに書かなくてはいけないかとも思う。
 結果から見ると三木清は豹変の術に長けているように見える。ハイデッガーがドイツで注目されると直ちに之に傾倒し、マルクス主義が日本で有力となると忽ちマルクス主義者と名乗り、マルクス主義が所謂退潮期に這入ったと世間で云い出す時には、すでにマルクス主義反対者の口吻を以て語り出す。西田哲学が愈々力を伸ばして来ると今では西田哲学のマネージャーのように振舞う。だから彼には思想上の節操とかいうものを感じることが出来ない、という人がいるかも知れない。だがこの点は必ずしも当ってはいない。必ずしもと云うのは、彼は「悧口」な男という通り相場を持っている通り、極めて聡明で要領のよいというのも事実だから、彼の豹変の心理には何物かがないとは断言出来ぬ。だが少なくともこの際、それが凡ての実質ではない。
 谷川徹三氏の批評であったかと思うが、三木清なる学者は、優れた独創家というよりも寧ろ優れた解釈家だ、という言葉があって、それが比較的世間に通用している。もしそうだとすると、凡て新しく現われた支配的な事情を逸早く呑み込むことこそが、三木の本領でなければならぬわけになる。でその結果だけを見れば、マルクス主義時代にはマルクス主義、西田哲学時代には西田哲学、ということになるのも決して無理ではない。必ずしも豹変するのではなくて、時代の趨勢を追うて行く思想の牧人と云った方がよく、まして変節漢などの類ではないのだ。
 彼が優れた独創家でない、ということは或いは当っているかも知れない。無から何かを創り出すというような意味での独創家ではない。彼が唱え出すものは、すでにそこに現われているものに限る。或いは彼は好んで既に与えられたものを巧妙に活用し利用する。だから彼の思想の内容は実はいつも既に知られたものであって、彼に云われて世間の一同が、そうそうそうだった、と気がつく底のものなのである。彼の文章が時々空疎であり、又時には可なり持って回って難解であるにも拘らず、その思想が案外、通俗性と常識性とを備えているのは、この点から来る。彼は発明家というよりも発見家であり、又大抵の場合達者な応用家なのであるから、本を原書で読める婦人から、時々剽窃なるものを指摘されることにもなる。つまり彼はそれ程博学であり又結局に於て勉強家でもあるということになる。ただ多少文章上の気取り屋であるために、原著者の名前を省略したり何かするのである。
 独創家でないからと云って、併し思想家の恥でも何でもないことは、云うまでもない。下手に独創的な思想家はあぶなっかしいものだ。寧ろ勝れた解釈家の方が、有益な思想家だろう。解釈家というのは、最高の意味に於ける翻訳家のことでありそしてこの翻訳なるものに文化的な意義を認めることを、世間は全く知らないのだ。世界的文化の大である所以はまずそれが翻訳され得るという点に見られるのである。翻訳して価値の減る文化はロクな文化ではないのだ。但しここで云う翻訳とは文章の翻訳のことではなくて文化の翻訳のことだ。例えば三木清の解釈家たる所以に通じる処のもののことだ。
 処が解釈家もすぐれた者は全然独創的でないのではない。優れた解釈家は解釈の体系を有っている。この体系はあまりそんなにクルクル変るものではあり得ない。三木は優れた解釈家だ。彼には解釈の体系が予めあるのである。このシステムが彼の思想と考えられ彼の独創とさえも見做される処のものなのである。そしてこのシステムになると彼は決して水草を追うて移って歩くわけではない。彼は豹変さえしないのである。彼は初めから殆んど全く変ってさえいない。夫はこうだ。
 三木は学生時代から有名な秀才であった。一種の学生名士でさえあった。尤も決して律気な又は細心な勉強家ではなかった。彼は一党を引き具して四条通りを遊弋し、深更下宿に帰ることを習慣とした。一党の方はそのまま寝て了うのだが三木だけはそれから本を読むのである。おかげで一党の方は一向学業が成就しない。三木は主任教授西田先生に呼び出されて訓誨を施されたという。之は京都哲学科の伝説にすぎないが、そういう種類の才走った秀才だった。――それはどうでもよいが、この秀才が卒業前に発表した最初の学術的論文は「個性の問題」というのである。卒業論文はカントの歴史哲学に関するものであった(この学術論文? には当時のロマンスを語る序文が付いていた)。それから私が初めて聞いた講演は矢張り個性や非合理性の合理化というような問題であった。――つまり彼は初めからドイツ古典哲学的な意味に於ける歴史哲学者なのである。之が今日に至るまで一貫して動かない彼の思想上の節操なのである。
 この態度から見ると、彼の思想とその変化の一切とが、一貫して説明出来る。ハイデッガーに心酔したのはディルタイの歴史哲学を通じてである。ドイツから帰って間もなく、どういう方向に研究を進めるのかと私が尋ねたら、ディルタイからその固有な制限を取り除こうと思っていると答えていた。彼がパスカル研究の論文を続け様に発表して新鮮な設題と美文を以て人を驚かせたのも、実質は必ずしもパスカルにあったのではなくてディルタイ=ハイデッガーにあったことは云うまでもない。「パスカルに於ける生の存在論的解釈」というドイツから『思想』に送った論文に始まるのがそれである。尤もパスカルに就いて別に云わねばならぬ処があるが、それは後にして、彼がパスカルからマルクス主義へまで「左傾」したのも、単に歴史哲学の一発展にすぎぬ。
 当時マルクス主義(福本主義)と呼ばれるものは主としてマルクス主義的社会科学のことを指したのである。日本ではまだ本当にはマルクス主義哲学はなかった。あったにしても極めてマルクスボーイ臭い素人臭いものであったようだ。処が三木は哲学、而もアカデミー哲学、の側からマルクス主義に接近した。マルクス主義的社会科学に接近したのである。そこで世間ではこの三木的なマルクス主義社会科学的哲学を以て、マルクス主義哲学自身であり得るかのように考えたものである。河上肇博士なども、ディアレクティックという哲学法を福本からなげつけられたので、多少哲学的狼狽の態であったから、早速三木の哲学をマルクス主義哲学として役立てようとしたのである。三木自身も自分の思想をマルクス主義哲学だと考えていたらしい。
 之が後に三木哲学と呼ばれるものになったのだが、その特徴は例の人間学であった。人間学がハイデッガーの存在論からの殆んど直輸入であることは今日では明らかだが、併し三木に於てはそれだけのものではなかった。人間学の背後に三木特有な歴史哲学があったからである。そしてこの歴史哲学はもはやディルタイでさえないのであって、それが唯物論的(?)に改装された唯物史観であったのである。つまり、当時の三木のマルクス主義哲学なるものは、哲学ではなくて唯物史観に過ぎなかったのであり(だから自然弁証法は否定され続けた)、その唯物史観も実は唯物論ではなくて、正に歴史哲学だったわけだ。
 三木哲学はマルクス主義に哲学的基礎を与えると称して、例の基礎経験(之はディルタイから借りた言葉である)というものを回る人間学を持ち出したが、それも実は歴史哲学の一つの亜種としてであったのである。三木哲学という近代的な歴史哲学が、初めからマルクス主義でなかったことは、今にして見ればあまりに判り切ったことだが、併し数年前までは、服部・秋沢(秋沢君は初めは三木哲学を擁護したものだ――私なども本当はそうだった)・永田の諸君の三木哲学批判も中々骨が折れたわけである。そこへ三木のシンパ事件が起きた。彼が検挙されると、その前から通告してあった三木批判が、プロレタリア科学研究所で一斉に始ったのである。之は三木をいたく傷けたのが事実らしい。
 元来プロ科学研究所なるものは、三木が河上肇博士等と計画した「マルクス学会」というものと、「国際文化」のグループとが合体して出来たもので、三木がその産みの親の一人であるし、それに三木が東京へ出て来て間もなく出版した『新興科学の旗の下に』というマル旗〔『マルクス主義の旗の下に』誌〕ドイツ版そっくりの雑誌(羽仁五郎君と一緒に鉄塔書院から出した)も、これを機会に廃刊にした位いだから(尤も財政上続かなかったかも知れぬ)、三木の心事も同情に値いするだろう。上京以来、北※(「日+令」、第3水準1-85-18)吉と組んで『学苑』であったかを編集して、アカデミーの哲学者を嫌がらせたり、又新興科学で切りまくったり(被害者は故土田杏村氏や田中耕太郎氏其の他多数に及ぶ)、プロ科の哲学研究をリードしたり、其の他高畠訳資本論に対する批評によって物議をかもしたり、其の他其の他でやるだけやったということが、せめてもの本懐だと彼は述懐していたらしい(元来三木には敵が多いのである)。
 三木哲学が批判され、マルクス主義哲学の本来の面目が世間に多少徹底した頃、彼は執行猶予によって出て来たが(この間約半年)、その頃から彼の転向は段々に目立つようになって来た。大乗起信論を紹介したり、西田哲学を再びかつぎ始めたり、人間学主義を益々徹底して不安の文学を唱え始めたりする。その頃は又丁度、世間でもそういう時代が訪れて来たのである。彼は完全にマルクス主義を捨てたように見える。少なくともマルクス主義的テーゼに対しては単に儀礼的なウィンクを送るに止まるようになった。時にはマルクス主義者に対する非難にさえ興味を有つようになった。
 だがこの転向は必ずしも三木の保身上のアダプテーションの結果ばかりではない。この転向の可能性はプロ科時代の宗教論の内にすでに現われていた。それというのも彼はあくまで歴史哲学者であったので、初めからマルクス主義者などになったことはなかったのである。彼がマルクス主義=唯物史観に接近したのは単に一人の烱眼な歴史哲学者の同情心からに過ぎなかった。三木が最も私淑しているのは今は知らぬがしばらく前までは波多野精一博士である。博士のプロテスタント的歴史哲学と歴史観とが、三木の歴史主義の大きな動機になっているが、この波多野博士が夙くから、三木君のはマルクス主義ではないと云って、その愛弟子のために誤解を悲しんでいたものである。市谷刑務所の藤井教誨師なども、この点をそれとなく感じているのだろう、三木君の転向は本物だと保証しているそうだ。だが元来、三木に於ては転向でも何でもないので、要するに本来の三木に戻ったのであり、そして別に、マルクス主義者としての三木清と撞着するようなものになったのでも何でもないのだ。彼は終始一貫歴史哲学者である。彼の『歴史哲学』という本は、著しく西田哲学の影響を表わし始めた作品だが、とに角この意味に於て代表的な著作として現われたものである。
 三木がマルクス主義者であった時代というのは、実は彼の歴史主義と相対主義との時代であったということに過ぎない。彼は唯物史観を相対主義的歴史主義として理解した。だがこの相対主義的歴史哲学で不都合を感じて来たので、絶対的なものを歴史哲学的に探索し始めた。そこに西田哲学があったという順序なのである。之が彼の所謂転向の真相だ。
 彼の歴史哲学は併し、歴史形而上学と云った方がいいようだ。そこにはキリスト教的神学の臭いの多少が常にただよっている。人間学というものが元来そういうものだ(パスカルを見よ)。三木にはパスカルのような一種の暗さがある。三木に於ては夫が軽度の躁欝症とさえなって現われる。三木のゲミュートは教育的本質のものだとさえ云えそうだ。とに角彼は、理知的ではあるが、決して合理的な人物ではない。セルフィッシュではあるが決してエゴイストではない。そこがこの人物の不思議な魅力の一つをなすらしい。彼の形而上学的な神学的な歴史観は彼にとっては宿命的なものだと見ねばならぬ。彼がヒューマニズムを唱えるのも、又この歴史哲学の一結論に他ならない。東洋的な「自然」主義(この自然とても実は歴史形而上学に運用するカテゴリーに他ならぬが)に対立するものがヒューマニズムだというのであり、ヒューマニズムとは、人間が歴史から生れて歴史を動かし歴史の内に消えて行くことを夫として知ることだ、という風に説明している。だから彼のヒューマニズムは勿論、決して転向の窮余の一策として持ち出されたものではないのだ。寧ろ自分のエレメントに息づいた時の叫びだろう。だが、それだけこのヒューマニズムの症状徴候は蔽うことが出来ぬ。人間と云いヒューマニティーというもの自身が、人間やヒューマニティーの「歴史哲学」というカーテンに写った影なのだから。
 この形而上学的な歴史哲学はとに角として、そういう世界観を宿命として選ばせた三木の資質である歴史観や歴史主義は事物の解釈には仲々役に立つものなのだ。彼は今迄の処決して歴史記述家ではなく、いつも理論家の資格で物を云って来ているが、併し彼の言論は理論というよりも寧ろ理解か解釈の表現と云った方がいい位いだ。彼とても理論能力に於て優れていないのではない。と云うのは分析力に於て不足があるとは思われない。彼の初期のペダンティックな論文はそういう才能を充分過ぎる程証明している。だが最も得意なのは論証でも証明でもなくて、事物の特色づけなのだ。特色を色々と指摘してその間に尤もらしい連絡を見つけ出すのが三木の論文の人を捉える点だろう。要するに彼が解釈家であるということが彼の真実なのである。
 三木は立派な一個の文章家である。その文章は非常に整っているし、文献上の連想を伴いながら、概念を使っているから見る者が見れば含蓄も多い。だがそれにも拘らず多くの文章がレトリックに堕しているとも云うことが出来よう。と云うのは彼の書き方には普通の意味での論理的な関節がないのである。最初にやや神秘的な、人の心を惹きそうな、整った形のテーゼが、突如として掲げられる。後はそのテーゼの説明であり納得づけにすぎない。之は科学的論文というよりも文学的な記述に近い。この点文章家としての三木の強みでもあり又弱みでもあるだろう。強みと云えば、この渾然たるスタイルは、前に云った観念の通俗性と相俟って、一種の大衆性を有つということだ。とに角一通り読み過ごすことによって読者を尤もに思わせ、納得させ、その気にならせる力を有っていることだ。名調子なのである。だがこの名調子にいつとはなくやきが回ると、もはや我慢のならぬマンネリズムとなる。レトリシャンにはマンネリズムはつきものだからである。このマンネリズムを破るものとして、最近西田哲学の語法などが、チョイチョイ這入って来るが、之亦同じ理由から気をつけねばならぬ症状ではないかと思う。
 三木清はであるから分析家というよりも寧ろ主張家と云うべきだろう。これが思想家として俗受けする要点にはなっている。事実時々、いいイデーが主張される。そしてただの野蛮な主張家と異って、その主張には一つ一つ特色づけが用意されているのだ。そうでないと予言者になって了う処だが、ただの予言者になって了わない処が彼の学究的資質のある所以である。この歴史哲学者は全く本来の学者の質であるらしい。そういう点から見ると、もはや主張家だと云って了うことも出来ないようだ。彼は分析家でもなく主張家でもない、要するに解釈家だったのである。
 解釈家は今日の学究なるものの大部分をなしている。ジャーナリストには案外分析家が多いが、之に反して学究には案外分析家が少ない。多いのが解釈家である。解釈家は文献が主な相手であって文献をいじくり回すことが学究の主な仕事であるのは、どこの国でも大差ない処だろう。三木はそういう解釈家であり、学究であることをその本質としている。事実彼の評論家としての腕はその大きな解釈能力にも拘らず、光ってはいない。特に時評になると三木の良い処は少しも出ないで、凡庸で気が抜けている退屈なものとなる。彼は時評家でなくその限り評論家ではない。実は思想の学究という意味で、正に哲学者と云った方が正しいだろう。この点は先にも云った彼の文体にも現われているので、その文章は事物の刻々のアクチュアリティーを捉えるには、何かお上品に過ぎたり間が抜けていたりして、鈍いのである。もし三木清が詩を書くなら、恐らくクラシシズムの詩しか書かないだろう(詩集の原稿があったそうだが、どこか見えなくなったという。私は学生時代の作品を四五行読んだことはある)。
 重ねて云うが、彼の本質は要するに解釈家を出ない。そういう意味に於て彼は自然人ではなくてあくまで文化人である。もし三木説に従って、自然主義を東洋的乃至日本的な人間態度とするなら、三木自身は反東洋的な一つの新しい日本人の類型であることを認めてよいかも知れない。尤も彼は東洋人ではなくてゲルマン人のようなものだと私は思っている。と云うのは彼の文化人振りの内には実は可なりの野性がひそんでいるからであるが、その野性が文化的人間性の内にまき込まれている処が文化人たる所以であり、そこから三木一流の容貌や態度や性格に於ける愛嬌と破綻とが約束されているとも考えられる。とに角彼はみずから希望しみずから定義する通りヒューマニストなのである。そしてそのヒューマニズムは解釈家的ヒューマニズムとして「限定」されるだろうと思う。
 ヒューマニズムの絶対性を主張する最近の三木は、之に就いての限定を極度に嫌っている。併しヒューマニティーそのものは之を色々と限定することが出来るもので、三木説によるヒューマニズムも説明を聞いていると、その一種の限定に他ならない。して見るとヒューマニズムが絶対的で限定を許さぬということ自身、つまりそういう特別なヒューマニズムに決めてかかっていることを証拠立てているわけだ。三木説によるヒューマニズムというイデーを私は尊重しようと思う。だがそれを私に限定させれば、文化的自由主義の一種として限界づけなければならぬと考える。ヒューマニズムは文化主義ではない、文化ではなく人間が主体が問題だ、と三木は説いているが、その人間たり主体たるものの観念が初めから文化的人間を約束するのであって見れば、それまでではないだろうか。文化的人間などというその文化的というのは何かと反問されるに相違ないと思うが、それは他ではない、解釈家に相応わしいという意味に於て文化的だということなのだ。
 こう考えて来ると、ヒューマニスト三木清を目して、文化自由主義者であり文化主義者であるとすることは、大して見当違いではあるまい。三木哲学の文化的内容から云ってそうだというのでは必ずしもなくて、三木清という人物の人間的特徴がそうだというのである。だから彼が仮に自分の学説か思想がそうではないのだと云っても直接反駁にはならないわけだ。
 処で私の見る処では、一般に文化的自由主義や文化主義、つまり解釈主義や解釈の哲学のことにもなるが、そうしたものは、その思想内容そのものから見る限り、大体、中庸で凡庸なものなのである。尤もそう云ってもそういう思想を持っている人間そのものが中庸的で凡庸だということにはならぬ。少なくともそういう思想を自分でつかんだ本人は決して凡庸な人物ではあり得ない。三木の如きそういう人物だ。併し性格や頭脳のブリリヤントな三木ではあっても、その懐く三木哲学の今云ったような特徴の方は、あまり天才的なものではない。従って三木哲学のファンには人物として凡庸ならざる者は殆んどないと云ってもいい位いなのは、不思議ではないのである。凡庸な思想の追随者は、凡庸な人物以外ではあり得ない筈だからである。
 だがこういう社会の凡庸層ともいうべきものは、実はインテリ層に非常にひろがっていることを見落してはならぬ。それであればこそ三木思想は、一種の通俗性と一見大衆性に近いものとを持つことが出来る。所がこの通俗性の通用範囲、この大衆性の持主である大衆らしいもの、之は実は凡庸で鋭さを欠いた或る種のインテリ層だったのだ。三木思想はだから、元来真の大衆の思想的根柢とはなれないのではないかと私はひそかに思っている。三木的ヒューマニズムに就いても亦私は、その本当の大衆性を信じることが出来ない。之は優れたイデーである、だがどこかに鮮かでないものがある。
 最後に三木清の人となりは何か、と聞くだろう。そうした人身問題に就いて論じることは何よりムツかしいことである。勿論彼は善人でもなく悪人でもない。善良なようで悪党であり、悪党のようで善良である、と云って見たところで無意味だろう。だが一言にして云うなら、彼は一人の小英雄の特徴を有っていると云っていいかも知れない。運命を信じ運命を疑い運命を賭け、得意と絶望との交錯に生きる、というタイプの人柄ではないかと思う。但しそう大きくないスケールに於てである。その正直さも権謀も、決して大きくはない。
 私は今日では三木思想に決して同意出来ないものであり、或いは対角線的な対立をなすものかも知れないと思っているが併し三木思想の有つ時代的意義に就いて之を尊重しなければならぬとは、かねがね考えている所だ。彼は最近評論家から段々と再びプロフェッサーに逆もどりしようとしているように見えるが、夫は三木の本質に忠実な所以であって、三木の場合には却って前進ではないだろうか(岩波書店顧問・日大教授・等々も悪くはあるまい)。ともかくこうすることによって、三木清という思想家は少しずつ確実に伸びて行くのだろう。
 さてわが親愛なる三木清氏は、わが思想界に於て、北斗星のように輝かないにしても、明星のように光っている。この自由主義者は他の自由主義者の多くの者とは異って、相当抵抗力のある進歩主義者であるように見受けられる。少なくとも「自分」があるということが、この解釈家を生きた市民たらしめているのだ。
(一九三六)
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20 現代に於ける「漱石文化」




 今日の吾々から見て、漱石の有っている意義は、勿論第一には大正期の代表的な作家としてである。それがどういう作家であったか、所謂低回趣味や何かの作家であったかどうか、又ヨーロッパ大戦後まで生きていたならば日本の思想的変動からどういう風な影響を受け取ったろうか、というようなことは今の処論外としておこう。とに角彼は第一に作家として思い起こされる。
 だが漱石を一個の作家としてだけ見ることは、云うまでもなく側面観に止まっている。尤も人間漱石を見ろとか何とか云う意味ではない。今日島崎藤村が徹頭徹尾作家であるというような形に於ては、漱石は単に作家であったのではない。彼は勿論、有名な学者であった。イギリス文学史の大家であったばかりでなく、一般に極めて博学な文芸学者であったことは人の知る通りである。
 だが又この側面も之を単に学究という側面としてばかり片づけることは、正当ではないようだ。彼がただの文学的学究ではなかったことは、オイケン流の理想主義哲学を愚弄したり、ウィリアム・ジェームスの心理学に感心したりするその仕方の内にも、その気概の中にも見出されよう。思うに漱石はイギリス風の実証家であった。そのことは『文芸論』に現われた思弁の内によく出ている。だが、それというのも、実は漱石が学究ではなくて、その本質に於ては評論家であり、批評家であったからだろう。新聞記者となることを帝大教授になることよりも意義があると考えた、あの当時としての先見もここと無関係ではあるまい。
 尤もこう云った処で、漱石が第一に作家であったということを、少しも変更するものではない。寧ろ評論家であり批評家であり、又時とするとジャーナリストでさえありそうなこの文学者は、イギリス文学の流れから云うなら、作家としても当然至極なコースにあったことを知らねばなるまい。作家の本質と評論家の本質とが割合大きく結合した資質は日本の文学では乏しいのだが、少なくとも漱石はそうした資質の代表者であった。彼を大きく見せ、彼の影響が、後に見るように今日まで綿々としてつきないのも、ここに大いに原因していると考えないわけには行かぬ。例えば上田敏もこのタイプに近い処の大をなした人だったろう。処が厨川白村は遂に作家ではなかったが、同時に大きな勢力は有たなかった。しばらく内容は抜きにして、形式上の資質から考えるとすれば、作家と評論家との資質を兼ねそなえることが、作家として又評論家として、必要かどうか、善いか悪いか、それは別として、とに角二つの資質を兼備したものが、大をなしたということは、注意すべき一つの法則のようだ。少なくとも吾々の近代日本人の文化意識から云って、大きな文学者という範型はそういう範型であるらしい。
 これは勿論常識で、少し文句をつけようとすればいつでもつけられるが、併しこの常識がとに角一応常識として通用しているという事実は、吾々日本人の近代的文化意識から云って、大切な参考資料ではないだろうか。とに角、漱石に対する尊敬・信頼・傾倒・崇拝・ファナティズム、それから敬遠・不満・不快・憎悪・も亦、漱石のどこかしらに持つ重さに対する反応なのだが、この重きをなし大をなす所以をよく考えて見ると、どうしても例の二つの資質の結合の内にあるようだ。学者が書いた小説だということが(学者という意味が何であれ)無知な人間にも文化人にも、大きな文化的魅力だったのだ。
 だが私は夏目漱石論をやろうとするのではない。現代乃至最近の日本の文化的相貌の内に、云わば「漱石文化」の遺産や発達をさえ見出すことが出来る、ということが、指摘したいのである。而もこの現代漱石文化なるものは決して単純な意味での文学の世界に限られないことも、前に云ったことから当然だ。文化全般に於ける漱石的要素なるものが問題だ。そしてここに「学者であって小説を書いた」漱石ということが、深い関係を有つのである。


 もし漱石が思想家であったかという問題が提出されたら、私は充全な意味では思想家ではなかったと答えるべきではないかと考える。漱石は思想家ではなくて寧ろ文化人である。という意味は、他ではないので、思想の自由というものは新しい文化を創設するにしても、必ずしも既成の文化の尺度・標準・を与える役目を有つものではないからである。思想は新文化を産み出すものだが、新しい文化はそれが極めて新しい限り、従来の尺度から云って決して文化人には見えないものだ。その意味で思想文化の否定という性質をさえ持つことが出来るものだ。
 処で漱石の場合、その重きをなし大をなした所以は新しい思想の誕生や旧文化に対するヴァンダリズム文化の創生などではなくて、あくまで既成の、常識的に許容された意味での「文化」の高水準にあったのだ。で彼は思想家であるよりも寧ろ文化人だ。彼は文化の批判者ではなくて、文化の王座であり、或いは文化の模範であった。ここが漱石の偉大さである。世間の博学から無知に至るまでの人間達が、漱石について感心し、之にあやかろうと考える点は、文化の内容の批判者としての彼ではなくて、文化の形式的な最高標準としての彼である。多少語弊はあるが、天才としての彼ではなくて、秀才としての彼なのである。
 漱石が天才か秀才かなどを論じているのではない。「漱石文化」が繁栄するのは、文化の秀才としての漱石に淵源しているのであるというのだ。
 さて今日、漫然と「教養」と呼ばれているものが、この文化の秀才らしさと、直接の関係があるのである。芥川的教養ということも云われないではないが、それは勿論、漱石的教養に遡らねば説明出来ないことだ。つまり今日普通、教養と考えられているものは、漱石的教養であり「漱石文化」の意識に由来する教養の観念なのだ。だから前に云った処から、この教養は思想としてではなくて文化として、文化の批判者としてではなくて既成文化の高水準に立つものとして、尊重される。それであるが故にまた、今日この漱石的・漱石文化的・教養は、何となく疑問を持たれたり、信頼されなかったりもするのである。
 漱石がその作品に於てシンセリティーを欠いているという説は、大部分一種の伝説にすぎぬようであるが、併し彼が思想家ではなくて文化人であるという意味に於ける「教養」人であったことは、この説の無意識な動機をなしてはいなかったかと思われる。寧ろ漱石位い真剣なモラリストはいないだろう。特に『それから』や『門』以後の、エゴイズムとの取り組みは歿後当時赤木桁平(今の右翼的代議士・池崎忠孝氏)が解説した通りだろう。だがそれを裏づけるものはあくまで、つき破り打ちつける「思想」ではなくて、文化的「教養」の高さであった。文化の変革の意識ではなくて文化の享受の意識であった。
 新しい教養は旧い教養を打ち破らねばならぬ。これは文化についてと全く同じことだ。処がこういう破壊的再構成的な教養は、現象としては却って教養なく見えるものだ。教養が既成文化の享受(又はその批判的享受であってもだ)である限りはだ。――ここに漱石的教養漱石文化とに於ける、所謂シンセリティーの欠如と称されるものの、本質がある。
 私はひそかに考えているのだが、例えば谷川徹三氏の如きは、漱石文化圏の選手であり、漱石の云わば三代目ではないだろうか。勿論オーソドックスの文学史から云えば、作家でない谷川氏は漱石の後継者ではないし、又氏自身の立場から云えば、何も特に漱石ばかりが自分のエレメントでも由来でもないと云うだろう。だがそれにも拘らず、「漱石文化」という文化史(?)から云うと、両「アベ」や和辻氏が二代目か二代目半とすれば三代目は谷川氏あたりであろう。そしてこの三代目は「斜に貼る」三代目ではなくて、大いに「漱石文化」の家を興す三代目であるようだ。処でこの谷川氏が時々、つまらぬ某々の男からであろうと、そのシンセリティー[#「シンセリティー」は底本では「シンセテリィー」]を云々されるのは、漱石文化史上、意味がなくはないのである。


 漱石自身がどうであったかということが、ここでの問題ではない。漱石流の文化・漱石流の教養・が何であるかが話題である。漱石的教養がシンセリティーを欠くようにも言われるのは、教養が単に教養に止まっていて、まだ本当に思想にまで昇っていないという点からだ。と云うのは、まだ文化・思想・そのものを変革する処の思想となっていないからだ。つまり広範に理解された世界の変革への思想とは独立に、教養がただの教養として、例えば古代のある時代に於ける情熱としての宗教が文化と区別されたような意味での文化として、ただの文化財として、価値を持っているからである。
 個人主義かエゴイズムかの限界をつきつめて見ようとした漱石自身の文学上の精神が、社会問題や文化問題に対してどういう態度に出るべく用意したであろうかは、文芸史家の研究に一任しよう。それがどうあろうとも、ここで見ている漱石的文化・漱石的教養・は、そういう関心とは食い違ったものであることに、私は注意を促したい。漱石文化は例えば社会主義やマルクス主義と対蹠的な反対物、その意味で反動的だ、というわけには行かぬ。対蹠や反対や対極というように、同一線に並ぶのではなくて、二つはお互いに縦と横との関係なのだ。それが実際上のエフェクトから云って進歩的な役割をもつか反動的な役割をもつかは、一概には決まらないが、とに角、興味は進歩や反動にあるのではない。あくまで想定された「文化」なるものの水準の高さ一般という抽象物が関心の対象だ。
 実は今日に於ける漱石文化のエージェントの一つは、岩波書店の存在なのだ。岩波書店が漱石自身と如何に深い関係があるかは、誰でも知っているが、私の指摘したい点は、岩波書店による出版物の一般的な特色が、正に現在に於ける漱石文化を、如実に物語っている、という点なのである。――そこで言葉は少し妙になるが、岩波出版活動が進歩的か、反動的かということになると、一寸答えるに困るかも知れない。勿論岩波書店の本は大体に於て、政治的意識及び文化的意識をつき合わせて見て、決して反動的とは云えない。寧ろ進歩的なのだ。では社会に於ける進歩性というものだけを主な標準にして見て岩波出版物の品質を充分理解出来るかというと、又決してそうではないのだ。岩波出版物のねらっている点は、所謂進歩的であるか所謂反動的であるかではなくて、それより先に、文化一般という抽象物についてその水準が如何に高いか、ということにあるのだ。
 岩波書店がマルクス主義にぞくする名著を出版するとすれば、それはマルクス主義思想の真実という資格を買ったのではなくて、その文化財としての価値を買うからに過ぎぬ。如何に愚劣な思想内容のものでも、文化的な威容さえ持てば(例えば学殖・学界常識・既成文化圏内の文化的好み・文化的テクニックの発達・等)一つの文化財として尊重される。――かくて岩波臭という一つの好みが、芸術や哲学や社会科学や自然科学の内にさえ発生しているわけなのである。
 文化財として価値があれば、それは真実を持つことだから、思想として愚劣であることなどはあり得ない、と云うかも知れないが、そうではないのだ。なぜというに、ここで文化財と評価されるものは、既成文化をそのまま標準化した際の文化財のことで、無条件に、既成のブルジョア文化の力一杯の精華に他ならぬからだ。学究的実力もあり文化的気品もあるに拘らず、一種思想上の卑俗感を与えるのはこれだ。
 阿部次郎(及び安倍能成)を二代目漱石文化の代表者だとすれば、和辻哲郎教授は寧ろ約二代目半の代表者である。前に云ったように谷川徹三氏を三代目とすればだ。処で例えば雑誌『思想』などは、漱石=岩波文化の長処と短処を、最も要領よく現わしているだろう。次郎氏が最近「新思潮」的活動をしなくなったのは、現代の漱石文化が、すでに二代目と三代目との間へ来ているせいだろう。或いは「ケーベル」文化(?)が邪魔をしているのかも知れないが。


 こうした漱石=岩波文化が、今日の学芸文芸の世界に於けるアカデミーの標準と、可なり一致していることは、不思議ではない。漱石文化に立つ岩波的ジャーナリズムは、それ自身アカデミックなものだからだ。ここに岩波書店出版物の学界其の他に於ける信用と名誉とが約束されているのも、又決して不思議ではない。と共に(本屋のことはどうでもいいが)現在に於ける漱石文化なるものが、学界・一部の学芸界・又一般文化界・高尚な常識界・などに於て占める威容ある地位も、容易に理解出来る。
 つまり今日の日本の文化人の世界では、而も高尚な文化人の世界では、高級常識から云うと、漱石文化が文化そのもののスタンダードになっているのである。科学でも芸術でも、時には宗教さえが(但し邪教はいけないが)、このスタンダードに照して評価される。之は現下の、日本の意外に強靭な、高級大常識なのである。このスタンダードは、高い文化水準を意味している。だがそれは高い思想水準と一つではない。又は(文化という言葉をもっと将来のあるものとして使えば)高い技術水準を意味しているが、高い文化水準は意味していない、と云ってもよい。
 現在の日本に於けるアカデミシャニズム、及び云わばアカデミック・ジャーナリズムの、最も優れた形態が殆んど総てここに帰着するように思われる。アカデミシャニズムは往々滑稽なもので風刺の対象であるが、ここのアカデミシャニズムは、最も隙のない形のもので、決して滑稽視される心配のないものなのである。にも拘らず世間からは、色々と不満を持たれているものだ。世間はその不満をうまく云い表わせない。手強い相手なのだ。
 でこういう風に漱石文化の特色を展開して来ると、それはもはや漱石自身の文化的伝統とは必ずしも関係のない現象ともなる。要するに夫は、現代ブルジョア日本の文化圏に於ける形式上の高水準、というものを意味するに他ならない。そういう「文化」・「教養」・「気品」・「好み」・を、そしてそれに対する忠実な秀才徒弟の賞揚を、意味するのだ。――がまず漱石門下の漱石文化者だけでも数えて見よう。
 哲学では今の処一寸見当らぬ。実証家であった漱石は、あまり「哲学」は好きではなかったようだ(彼は少なくともエルトマン『近世哲学史』の英訳は読んだと思うが)。阿部次郎氏も安倍能成氏も普通の範疇としての専門哲学者ではない。谷川氏もそうだ。西田幾多郎博士の西田哲学は勿論漱石自身とは全く関係がない。尤も西田哲学の社会的意義は、全く(漱石門外の)漱石文化にぞくすると考えられるのだが。続いてあげれば倫理学の教授となることに決心した和辻博士位いだろう。
 だが之を文芸評論家乃至文芸研究家として見れば、門下的漱石文化のエージェントは、日本の文化の世界に、実に手広い地盤を有っている。両アベを始めとして、小宮豊隆・野上豊一郎・和辻哲郎・其の他の諸氏は、動かすことの出来ない勢力を占めている。又更に直接声咳に接しない半門下的漱石文化人としては谷川徹三・林達夫・本多顕彰・其の他の諸氏を数えることが出来る。どうもこう考えて来ると漱石文化圏の外にいる文化人は何か品が悪いような気さえする。それ程漱石文化は文化的紳士のスタンダードなのだ。
 作家では勿論芥川竜之介が、代表者である。久米正雄氏は門下であるが今日ではもはや漱石文化の圏外にある。通俗小説を書くからである。松岡譲氏は門下で家系にさえぞくすると云っていいようだが、文化史上漱石物かどうか研究をまって決めるべきだ。現在の門下的漱石文化人の異色のあるのは、内田百間氏であろう。氏の随筆の隆盛は漱石文化の小スケールな示威運動だ。漱石門下で漱石文化の批判をやらねばならぬ位置におかれている変り種は左翼の作家評論家江口渙氏である。そして池崎忠孝氏はもはや「文化人」ではない。――自然科学関係では寺田寅彦の随筆が、今や一世を風靡している。津田青楓氏は「日本画」に多忙である。等々。
(一九三六)
[#改段]


21 現代日本のヒューマニズムと唯物論



 ヒューマニズムを人間的教養に結びつけることによって、之を要素的ヒューマニズムというようなものと考える事は、恐らくヒューマニズムに就いての一応最も無難で安全な規定だろう(例、谷川徹三氏)。勿論こういうヒューマニズムの重大さに就いては誰にも異論がないだろうからである。尤もそこで教養と考えられるものが一般的に何であるのか、或いは寧ろそれが元来一般的に考えられて片づけられ得るものかどうか、寧ろ教養と云っても、単にそれが指す内容ばかりでなく、教養という観念乃至カテゴリー自身が、分裂し対立に置かれているのではないか、ということが問題になるが、今は之を論外としよう(この点に就いて私はかつて論じたことがあるから)。之を論外としても、併し、要素的ヒューマニズムというものは何と云っても、色々の意味に於て要素的素材的・な意味以上には出ないのである。
 之が歴史的社会的に色々の形態を受け取って実際のヒューマニズムとして現われるのだという風にばかりは考えられない点がある。なぜならこの要素的ヒューマニズムそのものが、要素的に又云わば元素的に、いつでも同じものだとは断じることが出来ないからである。尤も予め各種のヒューマニズムから一般的共通的な処だけを取り出して、之を要素的ヒューマニズムと名づけることは、一向さしつかえのないことであるが、併し逆に、そういう要素的ヒューマニズムが色々の歴史的社会的形態を受け取るのだという還相的な説明になると、それは一つの仮定を出ない。吾々はこうした場合、ノミナリズムの真理を忘れてはならないだろう。
 要素的ヒューマニズム自身が、つまりもしヒューマニズムをそういう元素の形で取り出せるならそのヒューマニズムの元素自身が、決して単数のものではないだろう。例えばルネサンス的ヒューマニズムは一つの元素であって、之はルネサンス以来のブルジョア社会(欧米の)に於て色々の歴史的形態を取って現われている。古典復興――之はキケロに従って古典的教養が唯一の人間的価値と考える、ブルジョア文人的ヒューマニズム(ローマ的な「名声」―― fama ――による芸術家生活の経済的保証に立脚する)、其の他其の他のイタリア的な形態を初めとして、トルストイ的人道主義の変種に至るまでは、一束にして、ヒューマニズムの一元素と考えることが出来るだろう。処がキリスト教以前のギリシアに於けるヒューマニズムとも云うべきものは之とは多少異ったヒューマニズムの他のも一つの元素である。なぜならイタリア・ルネサンス的ヒューマニズムが実は神秘的な宗教的な運動に始まると云われるに反して、ギリシアの夫は真実に対するヘドニックな賞歎によって特徴づけられるからだ(プラトンの『テアイテートス』)。一方が中世的接神術(テオゾフィー)や錬金術に関係ある処の自然に対する人間による征服という一面を失わぬとすれば、他方は人間が自然に於て彫塑的な表象としてのイデー・形象・を見出そうとするものである。之はすでに人間的教養と呼んで了うことさえ出来ないかも知れないのだ(イタリアのルネサンスに就いては、便宜上、K. Vosslep, Italienische Literaturgeschichte を参照)。
 日本の文化的伝統(少なくとも自然主義文学以前)ではヒューマニズムというものがないとも云われている。その意味では東洋的自然主義がヒューマニズムの対立物だという見解は優れたものだ(例、三木清氏)。併しこの場合の無いと云われるヒューマニズムとは、略々ルネサンス的ヒューマニズムという一元素としての夫を意味しているに他ならぬ。他の元素としてのヒューマニズムとしてならば、むしろ独特の東洋的乃至日本的ヒューマニズムが考えられ得る、というのが常識だろう。東洋乃至日本に於ては自然に対立拮抗する意味での(之はブルジョア社会の成立と共に発生する現象だが)人間性は重きをなしていない。却って初めから、自然が即ち人間性であり人間性が即ち自然だとされている。日本文化に於ける直覚性とか直観性とかいうものが之だ。
 処で之も亦一つの独特な元素としてのヒューマニズムなのである。夫とルネサンス的ヒューマニズムとの相違は今云った通り明らかだが、ではギリシア的なものとの区別はどこにあるか。人によっては、日本文化とギリシア文化との本質的な同一性とは云わないまでも、日本文化のギリシア的特徴を好んで指摘する(例、和辻哲郎氏)。だが日本文化に於ける直覚性乃至直観性とギリシア文化に於ける所謂直覚性乃至直観性とは一つであろうか。純粋な日本的なものと云い得なくても日本文化の伝統的な本質と考えられている文化の直観性は、例の有名な情緒的な無限定性の謂であるのだから、ギリシア的な表象的な限定性とは凡そ反対なものだ。――して見ると日本的乃至東洋的ヒューマニズムは又一つの別なヒューマニズム元素だということになる。
 かくて要素的ヒューマニズムという観念はヒューマニズム一般の解明には案外無力であることが判る。ヒューマニズムを一般に人間性の恢復とすることも(例、古在由重氏)、人間性の自然からの独立を有たない東洋的ヒューマニズムに就いては意味をなさないだろう。社会機構による人間性の疎外とは無関係な東洋的人文主義についてもそうだ。単に人間性がどこかに浸潤しているというだけで之をヒューマニスティクだと呼ぶことも出来るわけなのだ。つまりヒューマニズムはヒューマニティー現象かヒューマニティー主義だという一種の同語反覆が、最も無難な、一般的な規定だ。だが之は何物をも規定しないことと同じなのである。
 問題はだから、現在問題になるヒューマニズムは、一体どういう要素的ヒューマニズムを素材としたものか、ということが第一である。現在日本で問題になり得るものは併し云うまでもなくルネサンス的ヒューマニズムである。処ですでにここに明らかなことは、日本文化の伝統によるヒューマニズムと、現在日本で問題になるべき、又なっている、ヒューマニズムとが原則上別なもので、対立さえしたものだという点である。現象上の事実としては勿論没交渉ではないが、原則上両者は別なのである。その限り「ヒューマニズム」を振りかざすことが日本文化の伝統を振り翳すことと原則上反対の態度であることを忘れてはならぬのだ。ヒューマニズムとは文化上の日本主義の延長ではなくて、却って日本文化的伝統の止揚の問題なのだ。伝統主義的乃至回顧的なロマン主義はヒューマニズムと凡そ反対なものだということを、特に注意しておかなくてはならぬ。
 第二の問題は併し、このルネサンス的ヒューマニズム元素が、現在の日本に於てどういう形を取っているか、又取るだろうか、又取るべきか、である。だが夫には現在の日本に於て所謂「ヒューマニズム」と呼ばれるものが少なくとも一時(之はこの主題の名の下ではそう何時までも続くとは考えられない――或いは一年経たぬ内にこの言葉が魅力を失って了うかも知れない)台頭して来たのが、どういう条件に立脚したものかを、見るのがいい。
 ヒューマニズム(寧ろヒューマニズム論議)の流行は云うまでもない、何等かの特定な意味でのヒューマニズムの最近に於ける提唱は、何と云っても「マルクス主義思想の退潮」に基いて生じた。マルクス主義思想の退潮なるものは、思想的装飾のモードとしてのマルクス主義が流行らなくなったということで、実はその裏面から云えば、この思想がそれだけ日常化し常識化したことに他ならぬ。その証拠には、軽薄な文化人達によると、マルクス主義はすでに「常識」で、もう飽き飽きしたと云うのである。
 処がよく考えて見ると、マルクス主義思想のこの常識化も、実はまだ本当の常識化ではないのだ。真の常識は、常識であるという理由を以て、無視される筈はない。少なくとも之を自分の常識になったと考えている人間にとっては常識になっていないのだ。マルクス主義の根柢をなす哲学は近代的唯物論以外の何物でもないが、この人間達はこの近代的唯物論によって物を考えて行く代りに、何かの文化的虚栄心を以て逆にこの唯物論を考えて行こうとする。それを用いるためではなしに却って単に夫をながめるためにあるような、思想も常識も、あったものではない。之は常識となったのではなくて、文化の一意匠となったに過ぎない。常識を発展させ展開させるべき使命をもつ文化人が少なくとも日本の中間層的インテリ達が、博大な民衆の常識となるべきものを、インテリの思考のファッションの一種の意匠にして了った。
 であるから「マルクス主義思想の退潮」は、唯物論的世界観の独自の生長を伴わずに、之を一つの常識的な平板に退化させて了った。マルクス主義の退潮が唯物論の退化をまで結果した。文化人は物質というもののもつ哲学的な又文学的な観念を知らずに、フラフラとマルクス主義を「卒業」(?)した。詩人は物質の語るものを聞き取ることを知らずに過ぎた。かくてマルクス主義的常識は、その常識的普及は、却って思想上の真空を造り出したのである。そこではこの常識を無視出来るような何か新しい思想上の意匠が待ち設けられる。ここにマルクス主義思想の退潮なるものの、秘密があるのである。
 常識はそれが平板化されれば平板化される程、先取権をもつものであるから、之は民衆の観念上の抵抗力となる事が出来る。現に平板なマルクス主義的常識と雖も、大衆の日常利害に直接する日常的な社会常識としては絶大な社会的抵抗力を与えている。これがなければ現在の無産大衆の組合も政党もあり得ない。だが夫にも拘らず、文化上の問題として云えば、平板な常識のもつ抵抗力は要するに消極的なものに他ならない。そこで何かの新しい思想上の意匠がつまり何かの積極的な思想原理となる。文化上に於ける思想形象の真空状態はそこで、何らかの新しい思想をば積極的な指導力をもつものとして待望する。だが救世主が待望される時は、限りなく色々の群小自称クリストスが現われる時だ。油そそがれたる者の出現の姿は、決してインチキ宗教には限らない。
 まず、日本に於ける行動主義が思想上に於けるメシヤの第一号であった。イエスが単にメシヤの一人に過ぎなかったように、日本的行動主義もメシヤでなかったのではない。併し残念なことにはこのメシヤは充分に権威のある旧約を用意していなかった。それにもっと悪いことには行動主義はかつてムッソリーニの下に文部大臣をつとめたジェンティーレの行動主義(Aktivismus)と現実的に紛らわしかったばかりでなく、ナチス哲学の部分品の一つであるフィヒテの純ゲルマン的な事行(Tathandlung)とどう絶縁したものかも判らないものだった。尤も行動主義という文学運動は単に一種の創作技法のことであったらしく、一つの抽象的な(時にエロティックな)文学上の意欲の提唱に他ならなかったが。
 日本行動主義が思想上の積極性を有ったということは、先程の説明からすれば当然のことだった。之は当然のことだったから褒めることも貶なすことも出来ない。だが注意すべき点は、それが想定したマルクス主義的常識に対して、その抵抗力を強める代りに却って多少とも之を弱める方向に働く可能性をば著しく有っていたということにある。抵抗力を刺激して、平板なものを強力なものにまで高める筈であったこの積極的新思想は、実際の態度としてはそういう役割はいつかすっかり忘れて了ったようだ。
 さてそこで第二のメシヤとして現われたものがヒューマニズムなのである。之は前に云ったようにルネサンス以来の権威ある旧約に応うものであった。人間性の恢復ということがその予言であった。恰も日本は、今ではもはや何人も疑えないような形で「ファッショ化」の過程(日本型に特有な持久性を有つ処の)を刻々に辿りつつある。それに対する抵抗力がマルクス主義的常識である。して見れば、ファッショ化による人間性の喪失(少なくとも大衆の側に於て)から人間性を恢復するものが、即ちこのヒューマニズムだということになるだろう。一応そう考えられるのだ。――処がヒューマニズム論者は正直な処まず何を考えたか。人間性を何から恢復しなければならなかったか。それはファシズム的統制化からの人間恢復ではなくて、意外にも、リアリズムからの人間恢復だったのである。であればこそロマン主義者や主体主義者がまずヒューマニストを以て名乗り出たのである。
 こういう側面から見る限り、この第二のメシヤも例の行動主義という第一のメシヤの再来にしか過ぎない。その積極性や指導性そのものが、抵抗力としてのマルクス主義的常識の、低下者にしか過ぎなくなる。
 尤も之はヒューマニズム提唱者の主観的な意図に即してそうなのであって、この現象の客観的な動力は必ずしもここにあるのではない。それが少なくとも多少の大衆性を有てそうに思われるのは、要するに日本ファッショ化過程に対する抵抗力の予防的な高揚として役立ち得るという条件を客観的には持っているからだ。だがそれにも拘らず注目すべき一つの事実は、ヒューマニズムが現在の日本では殆んど完全に単なる文化問題に止まるものとして取り上げられているという、一つの点にある。現代日本の文化的インテリゲンチャは大衆の社会生活意識からは思い切って独立なので、従って事物を文化問題として取り上げることは、話題をそれだけ大衆から切り離すことをさえ意味している。ファッショ化過程に於ける人間性の剥奪からの人間の恢復は、だから現在の日本では民衆の社会生活の原理としてのコンムニスムスの如きものとはならずに、特にひたすらなヒューマニズムとなる理由がある。之はソヴェートに於けるプロレタリア・ヒューマニズムというものとも異るし、ジイド風のコンミュニズム=ヒューマニズムとも別なものだ。このヒューマニズムは文化運動の課題ではあるが、それ故に社会運動の課題ではない、ということになっている。――でここに、ヒューマニズム提唱者の主観的意図(尤もその意図が自分自身にハッキリしているなら問題はもっと簡単だがどうもそうではないらしい)を離れても、なお且つ、客観的に、現代日本に於けるヒューマニズムの制限があるのだ。制限は二つである、ジイド風のものにまでも行き得ないということと、ましてジイド風のものを越え得ないということと。
 だから仮にプロレタリアの人間的解放も亦ヒューマニズムだと云うにしても、それを以て直ちに現代日本の「ヒューマニズム」を律することは出来ない。と云うのは、プロレタリアの人間的解放の体系が何故今日、ヒューマニズムという名で呼ばれねばならぬかが、遂に説明出来ないということにもなるのだからだ(古在由重氏の理論の最後の弱点はここだ)。
 現代日本のヒューマニズムは一つの動きであり、まだ限定を有たぬものであり、従って今遽かに限定すべからざるものだというのが日本の文学者達の常識であるようだ(例、窪川鶴次郎氏・阿部知二氏・又他大勢)。(岡邦雄氏は初めヒューマニズムを社会主義的リアリズムに限定すべきであるとなし、最近では之を人間的教養に帰属させようとするらしい)。併し限定という言葉についてはその際何等の検討は加えられていなかった。ヒューマニズム理論を展開することも限定なら、之を既知の何物かに(例えば社会主義的リアリズム)に還元することも限定だと考えられている。だがそれより先に、現代日本のヒューマニズムが、まだ定形をもたぬ一つの動きだということは本当だろうが、その動きそのものが、今の処ひたすらな文化運動としての動きに止まっているということから来る制限は、ハッキリさせておかねばならぬ。この種の限定なしには、ヒューマニズムについて一言の口を利くことも出来ない筈だ。
 ヒューマニズムを動きと見るにしても、之をヒューマニズムそのものの動きとして見るべきではなくて、ヒューマニズム論議という現象の動きとしてしか見ることが出来ない、という意見もなくはない(例、本間唯一氏)。だがそういう意見が成り立つためにも、すでにヒューマニズム自身が一つの動きであって、その動きにこうした制限・限定・がある、ということが必要だろう。この制限あるが故に、ヒューマニズム論議そのものに一定の制限が生じて来て、夫が一定の傾向を有つ一束の現象ともなって現われるのだ。
 で、現代日本のヒューマニズムの一般的な制限は、つまりその文化主義的特色にあるわけである。この制限を破らない限り、民衆の社会常識に立つ反ファッショ的抵抗力と所謂ヒューマニズムとの間には、永久の食い違いが残らざるを得ない。之は結局は現在の日本の文化人が、自分自身を民衆の一員として自覚し覚悟しなければならぬというモラルの問題にもなるが(実際生活上の問題としては文化人が市民としての生活擁護の社会的地盤を造るということにもなるが)、その時このヒューマニズムは更に或る特別な限定を受け取るだろう。というのは、政治上に於ける文化的スローガンとなるのである。
 ヒューマニズムが単に文化上に制限された方向や動向ではなくて、社会生活上の民衆的要求をば裏づけまとめる一つの合言葉となると共に、そのことが意識化されて、今や政治上のスローガンとなるのである。いや政治的スローガンは沢山あるが、政治的社会的活動に呼びかける文化上のスローガンとなれそうなものは、恐らくさし当り現在の処、「ヒューマニズム」の右に出るものはないように考えられる。――事実、こうした限定を有つ「ヒューマニズム」は、今日の日本の所謂ヒューマニズムにとって決して無縁なものではないのである。人々がヒューマニズムをフロンポピュレールの観念的な支柱にしようとして様々に論じていることは、決して誤っているのではない(例、徳永泰氏・森宏一氏等)。
 だが夫がスローガンであるためにはヒューマニズムという言葉が真に民衆性を有っていなければならない筈だ。フランスでは之は大革命以来の民衆の愛用語だ。進歩の観念と共に、豊富な示唆と連想と形象とを具備した言葉なのだ。処がヒューマニズムという今日では邦訳すべからざるこの言葉は決して日本の民衆の用語でもなければ、まして愛用語でもない。この点瑣末なようで極めて重大な要所ではないかと思う。尤も之まで日本の民衆は政治上の文化的スローガンを有った例しがなかったとさえ云えるだろう。尊王攘夷も自由民権も、主として単に政治上のスローガンであって、優れて文化的な・道徳的な・スローガンではなかった。忠君愛国も民衆の文化意識の表現としては決して切実さを持ちはしない。
 でつまりこういうことになる。もしヒューマニズムを真に政治上の文化的スローガンとするならば、恐らくもはやヒューマニズムという言葉従って又概念では、間に合わないのではないか。フロンポピュレールの観念的背景をなすものがヒューマニズムだという説明も、だからここから一種の間隙を生じて来るわけだ。要するにヒューマニズムという言葉と概念とが日本ではあまりに文化主義的であるからだ。
 では文化的スローガン乃至文化理想として、ヒューマニズムの代りに自由主義でも持って来るべきであるか。私は今ここで何を持って来ればよいかを決める心算はない。だが少なくともここで自由主義と呼ばれるものは実は文化主義的な自由をめぐるものであり、その意味で文化的自由主義のことに過ぎないのである。之こそが元来、今日の日本に於ける文化人の文化意識の共通な特色をなす。民衆の社会的生活から切り離された文化人の自己意識に基く現代日本の文化のポーズが、この文化的自由主義なのであり、現代日本の文壇的文化人が、そこから文学主義を導き出す母胎であるのである。するとこれは所謂ヒューマニズムと少しもその効用に於て変ったものではなくなる。否、元来ヒューマニズムの動きの例の制限というものが、実はこの文化的自由主義から来たものだったのだ。現代日本のヒューマニズムの動きは、今の処完全に文化的自由主義の軌道に沿って動いていたのだ(田辺元氏はそのラショナリズムに立って現今のヒューマニズムの――私の言葉で云えば――この文化主義を衝いている)。
 文化的自由主義は併し、もはやヒューマニズムの動きというような具合には、単なる動向や蠢めきではない。それは一つの系統的な世界観であることを忘れてはならぬ。体系化するのに多くの困難はあっても、とに角唯物論や何かとは別な、別個の、独自な、世界観であり、その意味で哲学なのである。処でヒューマニズムを例の制限のまま理論づけしようとすれば夫をこの文化的自由主義によって体系づけようとすることが極めてありそうなことになる。一体文化的自由主義は、そうでなくても、ヒューマニティーをめぐりヒューマニティーを中心とする世界観という特色を有っている。それが直ちにヒューマニズムの世界観となることは、全く睡りに落ちるように誘惑に富んだことだ。そしてその際、現在の日本で最も役に立つのは例えば人間中心主義としての人間学の類の哲学的立場だろう。――かくてヒューマニズムは今日往々にして人間学の変貌としての実質を受け取る(例、三木清氏)。そして人間学が唯物論の代用物であり、マルクス主義に代わるべきものであるとか、人間学が唯物論の哲学的基礎であるとか、考えたくなる処から、今やヒューマニズムは唯物論に代わる新思想・新原理であるとか(例、藤原定氏の類)、ヒューマニズムによって初めて唯物論も成立し得るのだとか、ということにもなる。こういう哲学体系としての「ヒューマニズム」は現在の日本では一つの暗黙の想定にさえなっているようだ(F・C・S・シラーの「ヒューマニズム」は、ヒューマニズムという言葉の人間中心主義的・相対主義的・尚且つ反インテレクチュアリズム的・ニュアンスを最も露骨に告白している。彼は自分のプラグマティズムを「ヒューマニズム」にまで一般化し、之をソフィストのプロタゴラス――人間は万物の尺度――にまで溯らせる。今問題にしている「ヒューマニズム」の薄弱さを誇張したカリケチュアをここに見ることが出来るだろう。―― Schiller, Studies in Humanism)。
 だが手品の要点は簡単である。ヒューマニティーというテーマを重大視する事は、ヒューマニティーを中心として一切の問題を片づけるということとは別な筈だ。ヒューマニティーの強調と哲学体系としてのヒューマニティー主義とは別だ。唯物論にとって今日何より大切な課題の一つは色々の点から云ってヒューマニティーである。だがそれ故に唯物論がヒューマニズム(実はヒューマニズム主義)になって了うとか、ヒューマニズムが唯物論の基礎だとかいう事にはならぬ。そういうことを考える時は、ヒューマニズムが民衆の抵抗線上の課題であったという根本の約束を忘れる時か、そうでなければ初めから、ヒューマニズムという思想装飾の新意匠によって民衆の抵抗線を弛緩させる心算であった事を暴露する時かである。――もしヒューマニズムが民衆の反ファッショ的抵抗力の増進と無関係なものならば、大衆は之に何等かの期待をかける筈はないのである。如何なるヒューマニストも民衆を裏切ることは出来まい(ナチ・ドイツに於ける文芸学上のヒューマニズムが如何にドイツ・ファシズム文化理論の典型の一つであるかに就いては、F・シラーの『文芸学の発展と批判』を見よ)。
 ヒューマニティーというテーマを切実に焦眉の急として取り上げる身のこなしが、今日必要なヒューマニズムだと云ってもいいだろう。そういう現象なり動きなりが、ヒューマニズムのイズムたる所以である。だがもし之が主義や思想体系としてのイズムとなるなら、そういうヒューマニズム主義は徹底的に排撃されねばならぬ。のみならずそういうものに陥ろうとする一切の傾向は予め警戒を必要とする。ヒューマニズムは唯物論上の課題であるべきであって、その逆ではないのだ。つまり平板常識としての唯物論が、こうした主題の積極性を盛り上げねばならぬ要求に迫られているということが現在日本の社会的真実なのである。
 ヒューマニズムを教養と考えることも好いだろう。之をモラルやロマンティシズムに関係づけることも悪くはない。だが要点はあくまで、こうした一連のアンサンブルが唯物論の展開として展開されるのでなければ、抵抗線上の進歩性を体系的に齎すことは出来ないという点に懸る。ヒューマニティー乃至ヒューマニズムが、ヒューマニティー主義の犠牲に陥ることを警戒せねばならぬ。――だがそう云うなら、夫は今云われているヒューマニズムではないだろう、と云うだろうか。そうなら、吾々はそういう「ヒューマニズム」を信用してはならぬと云うだけの理論上の又実社会上の、理由を有っているわけだ。かくて問題は唯物論による文化理論の根本に来るだろう。

 併し、現在日本の場合を離れて一般的に考えても、普通、ヒューマニズムと呼ばれているものが実は単にヒューマニティーのテーマを高調するある必然的なポーズを指すに止まらないことは、そうありそうなことである。ヒューマニズムは多くの場合、それ自身一つの独自の哲学的立場と、特有な文化理論とを意味する。それは多くの場合ルネサンス以来のブルジョア日本主義を意味している。従って之に正面から対立するものはカトリック主義である場合が珍しくない。T・E・ヒューム(『芸術とヒューマニズム』)やT・S・エリオット(Selected Essays ―『エリオット文学論』)などがその例だ。前者はヒューマニズムの人間中心主義という弱点を衝き、真実のもつ客観的な硬質性の姿を超人間的な場所に求める。後者はヒューマニズムが(I・バビットの民主主義的反宗教的意図に反して)矢張り宗教に接続しないでは止まないという矛盾を暴露しようとしている。この二つは、ヒューマニズムと唯物論との関係に就いて、夫々の側面から示唆を与えるものを有っているだろう。――つまり、ルネサンス以来、ブルジョア唯物論の発育にも拘らず、文化のイデーは結局に於てヒューマニズムであったのだが、広い意味に於ける現代こそは、文化のイデーが唯物論へと転化する時代に当っているのではないか、そういう根本的着想に意味があるのではないかと考えられる。勿論之を以て直ぐ様今日のヒューマニズムの事情に擬することは出来ない。併し特に文化の問題は大局から見定めなければならぬものにぞくする。
(之は拙著『現代唯物論講話』中の「現代唯物論と文化問題」で取り扱った一部分の内容の補足である。)
(一九三七)
[#改段]


第三部 日本の報道現象






22 ジャーナリズム三題



一 ジャーナリズムと大衆

 世間の一部で行なわれている常識観念によると、ジャーナリズムというのは一つのイズムであるかのように考えられている。センセーショナルな言論を印刷出版することによって金を儲けたり、新聞や雑誌に雑文を書いて生活費の足しにしたり名を売ったりする一つの態度、という意味に於て一つのイズムだ、という考え方である。この観念は一隅の真実を伝えなくはない観念だが、併しジャーナリズムに関する最も低級な観念であることを注意しなければならぬ。処がジャーナリズムをこのような意味に理解して物を云ったり、甚だしいのになるとこれに基いて論文を書いたり議論をしたりする者がいるのである。本質的な教養のない人間にあることだ。
 丁度例えば、唯物論が唯物的に(?)物を考える主観的態度のことであるよりも先に、事物そのものが客観的にまずそうあることでなければならぬと同じに、ジャーナリズムも若しその事象に何か積極的な意義があるものなら、まず第一に客観的な一つの現象のことでなくてはならぬ。この客観的な現象に基いて初めて、一つの人間的態度としてのジャーナリズムということも考え得る順序になるのであって、そうしない限り、ジャーナリズムは一つの道徳上のイズムか何かと考えられてしまうのだ。ジャーナリズムでだからイズムであり主義であると思うのも、丁度、マグネティズムを磁石主義と考えるように、滑稽なことだ。リューマティズムは主義ではあるまい。この際の何々イズムとは勿論客観的に行なわれる夫々の現象を指すということを銘記すべきである。
 私はジャーナリズムを広く表現報道現象として理解するのが妥当ではないかと考えている。新聞現象(新聞紙、新聞社活動、新聞記者、等々の有機的結合の現象)や雑誌現象ばかりがジャーナリズム現象ではないので、ラジオもあれば演壇現象もあり各種展覧現象もあるからである。「ジャーナリズム主義者」とも云うべきイズムとしてのジャーナリズムのひそかな賛美者や外面上の反対者の例のスノッブ的観念が困るのはいうまでもないが、ジャーナリズムに就いての新聞記者風の職業的観念も狭隘である。ジャーナリズムは一つの社会科学的カテゴリーでなくてはならぬ。――そしてもし之をイズムや何かという具合に主体的に理解したいなら、矢張りジャーナリストという主体的現象を根柢にして考えて行かねばならぬ。そうでないとジャーナリズムというのは科学的用語ではなくて道徳的な用語になって了う。吾々はこのような道徳的なジャーナリズム論に、これまで屡々出会ったものだ。道徳は、科学に対する心のまぶしさから発生する。
 一頃ジャーナリズムに対してアカデミズムというものが対置されたものである。私はかつてアカデミーとジャーナリズムとを対比したのだが、世間ではいつの間にか之をアカデミズムとジャーナリズムという風に云うようになった。そこで私も亦この用語例を借りたこともあるが、併しよく考えて見ると、アカデミズムという言葉が第一に外国語として変であり、それから観念としても変なのである。ジャーナリズムという現象に対比されるべきものは、アカデミズムという変なものではなくて正にアカデミーそのものなのだ。もしジャーナリズムを一つの人間的態度の名として取れば、之に対比されるべきものはアカデミシャニズムとでも云うものである筈だ。アカデミズムという造語は一つの社会現象として理解するに欠ける処がある証拠なのだ。
 ジャーナリズムを表現報道現象とすれば、古来社会機構の変化に沿うて、ジャーナリズムの社会科学的規定が与えられる。少なくとも資本主義化以前のものとそれ以後のものの、本質的な差別が重大視される、つまり表現報道が一種の資本主義的商品であるかないかでジャーナリズムの歴史的規定が変って来る。今日の資本主義社会で行なわれているものは勿論資本主義的ジャーナリズムだ。だが之だけがジャーナリズムではない。ジャーナリズムは古来から存在した社会現象だ。今日のジャーナリズムのブルジョア階級性に注目する余り、ジャーナリズムと云えばブルジョア社会のものだと考えるのはナンセンスだろう。凡そプロレタリア・ジャーナリズムという観念も之では成り立たなくなるし、社会主義的出版現象や其の他を説明する包括的なカテゴリーがなくなってしまうだろう。
 さてこうしたジャーナリズムが、原則に於て、古来常に大衆の存在を条件にしていたことは、何も不思議なことではあるまい。尤も或る時期のジャーナリズムは王侯や大商人の特別情報機関であったとも考えられるが、それは偶々、今日のブルジョア・ジャーナリズムの萌芽としてのジャーナリズムのことであって、その時代にも大衆は自分達の間に別のジャーナリズムという大衆的現象を持っていたのだ。――今日のブルジョア・ジャーナリズムが大衆を観客とする商品の生産販売以外のものでないのは、人の知る通りである。
 だが大衆というカテゴリーも亦、極めて多くの問題を含んでいて、簡単には使えない点で有名である。少なくともキング式観念(「大衆」雑誌や「大衆」小説)とウルトラ的観念(プロレタリアだけが本当の大衆であるという類の)との対極があるが、どれも困る。前者は大衆が質的に低いものだと決めてかかることによって事実大衆を低める効果を有っているし、後者は大衆の質的な高さを仮定することによって大衆が多衆であるという量的規定を忘れて了っている。大衆の社会科学的観念は、大衆の質を高めることから離れてはあり得なかった筈だのに。
 処で大衆乃至大衆性に就いてのこの各種の規定方が、ジャーナリズムの機能の規定方となって来るのである。キング式大衆の観念はキング式ジャーナリズム(野間イズム?)となり、ウルトラ的な大衆観念は福本イズム(?)的ジャーナリズムとなるのである。福本主義(?)的ジャーナリズムは今日の野間イズム的ジャーナリズムの内にもなお、部分的に存在し得るのだということは見逃してはならない。ブルジョア・ジャーナリズムで固めた評論雑誌が、なぜ一見大衆性を全く欠いたような学術論文めいた「論文」をかかげ得るかを、見ればよい。――だがジャーナリズムが現実に社会主義的意義を有つためには、勿論こうした意味での大衆性では仕方がない。社会主義的ジャーナリズムは今や自力で大衆とは何か、大衆性とは何か、の問題を解かねばならぬ。
 でこうなると、社会主義的ジャーナリズムは啓蒙活動にまで追跡されねばならぬのである。社会主義的ジャーナリストとも云うべきものは大衆に於ける啓蒙活動の役割を担う。之はあたり前のことのようだが、決して判り切ったことではない。一体大衆とは何か、そして大衆の啓蒙とは何か。之はジャーナリストが身を以て解決しなければならぬ問題だからである。ジャーナリスト達は、自分を本当に大衆の一員として自任し得なければ、この問題は現実には解けないのだ。処が今日の所謂ジャーナリストは知能上の特権意識があったり職業的な誇りがあったりして、決して大衆の一員としては安住していない。社会主義的ジャーナリストは正に台頭しようとしつつある、併し(この点が大切だ)まだ現実にはみじめであることを免れない、大衆の一員となることを、その足場とし予想としなければならぬ。処が之はブルジョア社会に於ては最大の芸術家や文学者さえが行こうとし遂に行きつき得なかった境地なのだ。――進歩的ジャーナリズムと進歩的ジャーナリストの困難な使命がここにある。

二 現下のジャーナリズム

 敢えて定義を下すわけではないがジャーナリズムというものを広く夫々のインスティチュート乃至オルガンを通じて現われる処の、表現報道の現象だと考えよう。と云うのは、今日の常識的用語としてはジャーナリズムとは精々新聞や雑誌の現象のことであるが、併し単行本でも勿論ジャーナリズム現象に数えられなければなるまい。それからラジオをジャーナリズムに数えていない場合も見受けられるが、ラジオが新聞と全く別な社会的機能の本質を持つものでないことは、誰知らぬものもない。だから総てこうした表現報道現象を一般的にジャーナリズムと考えることが出来るし、又そう考えなくては困る理由があるのだ。なぜなら、そうでないと、どのジャーナリズム現象一つも他との連関に於てその本質をつかみ得なくなるからである。例えば今日新聞現象を論じるのにラジオを問題にせずには根本的に何等の断定を下すことも出来ないのである。
 ただ、そういっても単なる風評や噂の類は、表現でもあり報道でもあるにも拘らず一定のインスティチュートなりオルガンなりと結び付いて現われないから、この際多少便宜的に、ジャーナリズムのカテゴリーから省こう。所謂流言飛語の類はジャーナリズムに於ける役割からいって極めて大きな意義を持っているが、別に新聞社=新聞紙とか放送局=ラジオセットと云ったようなインスティチュートなりオルガンなりがないのだから省くのである。――それから同じ報道現象でも広告は、色々の斬新新奇な乗具を用いるが(例、アドバルーンの如き)今は言論の表現報道だけに話を限定しよう。政治的言論に限らず、文学乃至純文学的表現発表までも含むが併しアドバルーンやチンドン屋は入れないことにするわけである。
 さてこういう風に問題を持ち出す限り、ジャーナリズムの本質はその社会的機能になくてはならぬことは、云うまでもない。ラジオ、新聞、雑誌、単行本乃至パンフレット、等々のジャーナリズム現象をその社会的機能、つまり表現報道という社会的機能を標準にして較べて見ると、色々な意味に於ける社会的統制に服するその服し方や程度に夫々の差があることが最も興味のある点となるだろう。社会的統制は広義のビューロークラシーによる統制(例、官報、公報、ラジオの類に見る)と、出版資本家的必至から来る統制(新聞や雑誌に於ける編集スタッフや出版業者の営業方針の拠り処)と、行政及び司法上の統制(出版法、新聞紙法、によるもの)とに区別されるが、併し夫々の間には交互作用や三体関係が横たわっている。このような社会的諸統制の総和から云って、最も統制の厳重なものから比較的軽いものへの順序に並べて見ると、今日の日本では、ラジオ=新聞=雑誌=単行本(乃至パンフレット)という次第になるだろう。
 筆者や出演者の側から考えて見れば、最も自由に好きなことの云えるのは単行本で、最も不自由なのはラジオである。勿論、云いたい人が誰も云えるという意味での自由も自由の一つの場合だが、併しその場合だけに就いてならラジオでも随分多数の人に時間を与えているし、単行本だからと云って勝手に誰の本でも出版屋が引き受けて呉れるのではない。ここでだから今自由不自由と云うのは言論内容に就いてのことであって、言論の主体たり得る人間の資格とは一応関係がないように見えるのだ。処が実はここにも問題はあるので、ラジオの如き、或る一定の人間には決して放送をさせないのだし、新聞なども又別な範囲に於て同様な限定をおのずから持っている。
 言論の内容上の自由の制限は、自然、言論の主体たる筆者や出演者のジャーナリズムに於けるチャンスの自由の制限に、直接関係しているのである。
 日本放送協会のラジオは以前は政治放送を行なわなかったが、かつて一遍各政党の代表者を選んで伸び行く日本を語らせた。之は云わば画期的な政治放送だったのである。だが日本のラジオにとって「政治」と考えられるものには、ある制限が存する。所謂既成政党の有名な無内容な大言壮語だけがこの際の政治的言論であって、之に少しでも内容が這入って来ると、之はもう政治以上のものとなる。「政治」は政党のものだが、これは国家のものとなる。日本では国家はもはや政治を行なうものではない。「マツリゴト」を行なうものだ。でAKは「政治放送」は出来ても国家の実際のマツリゴトに関する言論を放送することは許されない。社会民主主義者の言論でも社会ファシストの言論でさえも許されないのである(但ししばらく前までは国粋的ショーヴィニストは大威張りで講演をやったものだが)。
 こうして社会大衆党の放送代表に選ばれた安部磯雄氏の放送は要するに結果に於て許されなかったのである。安部磯雄事件は日本のラジオ放送に対する社会的統制力のバロメーターとして極めて鋭敏な感度を有っていたわけだ。
 二・二六事件を一期として、『東京朝日新聞』を初めとして都下の大新聞は、その「自由主義」なるものを著しく引き込めるようになって来た。その限り著しく反動化したことは有名な事実である。特に『東朝』に就いてはその批難が高い。之に反して都下の二流新聞は却って相対的に「自由主義」振りを発揮するというような奇観をさえ呈した程である。この新聞紙反動化現象は社内幹部の自発的な決心によるものでもあるが(例えば自分の新聞紙以外のジャーナリズムに於て記者は言論を発表してはならぬという箝口令が社内で下された――恰度軍人は軍部大臣を通じて大蔵省の官吏は蔵相か次官を通じてしか物を云ってはならぬということになったように)、それと並行して通信社の合同によるニュースの単源化と、その当然な結果としてのニュースの御用化とによって、之は裏づけられている(同盟通信社の成立)。
 国内ニュースの重大なものの大多数は官許のステートメントのように、画一的でディクテートされている。このようにディクテートするものを恐らくディクタトールと呼ぶべきかも知れない。とに角社会的関心を惹きそうな事象に就いてのニュースはどの新聞を見ても全く同じだという場合さえ少なくない。例えば、所謂コムアカデミー事件などがそうで、同じ日の各新聞に全く同じ内容で殆んど全く同じタクトに基いた記事が現われたのである。偶々取引所改革案のような自由な記事らしい記事が載ると、夫は流言浮説であるという流言が行なわれて、新聞記者は社自身によって馘首されたりするようなわけなのである。
 近頃の東京諸新聞紙の著しい傾向はスター・システムの強化であろう。ジャーナリストの独占は勿論企業上優れた方針であろうし、有力なジャーナリストを社内に編入するのだから、新聞ジャーナリズムの社会的機能を高める意義を一面に於て持っているのだが、処がスター・システムの事実上の条件は、他新聞乃至他のジャーナリズム機関一般に於て自社のスターに対する箝口令を敷くことにあるのである。でこのスターたる社会的ジャーナリストは自分のぞくすることになった新聞紙上に於ては社内・紙上・の約束に絶対的に束縛されるし、社外に於ての自由な言論活動は封じられる、ということになる。だから所謂スター・システムも、一面に於ては新聞の反動化と直接の連関を有っていると云わねばならぬ。
 今日のフリーランサーの自由というものも実は取るに足りないものだろうから、特にスター・システム下のスターの不自由だけを論じるには当らぬという者もいたが(読売新聞の匿名評論氏)、問題はジャーナリスト個人の問題として提出されるべきではなくて、新聞というジャーナリズム機関の社会的機能の問題として提出されねばならぬ、ということを見落しては困るのである。
 新聞の営業上の問題としては、東京地方版のような、読者にとって不快で退屈で迷惑な競争の愚や、学芸方面では匿名評論や短評の問題も面白いが、それは省略するとして、言論の自由の退潮は雑誌界に就いて特有な姿を現わしている。満州事件以前に較べて所謂左翼出版物としての雑誌は種類と量とを減じたことは勿論だが、併しその点ならば最近特に頽勢にあるとは云うことが出来ない。寧ろ問題は所謂評論雑誌の内容にあるのである。大雑誌に於けるマルクス主義の基調は可なり衰えた。
 これに代わる何等かの基調を編集者は模索しているように見える。或いは自由主義のごく思いつき的な悪質の論文をバックに持って来て見たり、ヒューマニズムをあてがって見たりしようとしているかと思えば、青年論や恋愛論という形に於て、全く違った道から評論の可能性を求めようとしたりする。青年論や恋愛論が一般に興味を有たれるようになって来たことは別に説明を要するが、夫が評論雑誌に於ても有力な内容とされつつあるのは、こうした必然性からなのである。――とに角マルクス主義の基調を離れた評論雑誌はにわかに言論的魅力を失い始めたことが事実で、評論雑誌は面白くなくなったのが事実だ。評論雑誌の編集方針は帰趨に迷い、危機に臨んでいるとも云うことが出来る。
 だが単行本は必ずしもそうではない。所謂左翼出版物としての単行本は大して衰えないどころではなく、多少は実質的な発展をさえ遂げつつあるのではないかと思われる節があるようだ。
 とに角おびただしい伏字や外国語交りの翻訳ではあっても、相当読まれている左翼出版物に限らず、特に翻訳ものの読書量は圧倒的だということが近頃の通説になっているが、このこと自身が読者の一般的な漠然たる進歩性と何等かの関係を有つものであることは推定していい点だろう。尤も近時の出版界の新しい現象は(駅売り又は頒布用の)パンフレットの洪水である。之は言論の強圧に対する反作用として流言飛語的な魅力を目当にしているものが多いのだが、そういうのを見ると、多くは小市民の末梢的な政治感覚に訴えるデマゴギーの役目を負っているもので、大体に於てファッショ化的本質を有ったものといわねばならぬ。修養物や出世法を説くものの類も亦、本質に於て之と同じ社会的機能を持つものだ。

三 ジャーナリストの問題

 同人雑誌の声明書のような箇所を見ると、吾々同人はジャーナリズムの束縛から脱して自由な文学的精神の発揚に努力する、というような意味のことが往々書いてある。なる程今日のジャーナリズム、つまりブルジョア・ジャーナリズム企業によるジャーナリズムは、文芸的価値とは原則上別な価値尺度を持っていて、決して、良いものが好く待遇されるのでもないし、悪いものが不当な好遇を受けないのでもない。それは本当なのだが、併し冷静に考えて見ると、失礼ながらああした同人雑誌作家諸氏は果してブルジョア・ジャーナリズムによって妨害排撃される程の、反資本主義的なプリンシプルを持った作家であるかどうか、それが私にはいつも疑問なのである。
 真に進歩的な、又ラディカルな思想や思想表現の持ち主ならば、ブルジョア・ジャーナリズムの束縛を脱するということが本質的な意義をもつのだけれども、大体に於てブルジョア・イデオロギーのスケールに於て、而もブルジョア・イデオロギーのマンネリズムに於てさえ、右往左往している諸同人作家達が、ジャーナリズム攻撃をするということに、私はなにか妙なものを感ぜざるを得ない。既成のジャーナリズム自身のもつマンネリズムのために折角実力と意義とのある作家が文壇に進出出来ないというなら、怪しからぬのはブルジョア・ジャーナリズムの現在に於て示しているそのマンネリズム事情であって、決してブルジョア・ジャーナリズム自身ではないのだ。だから、現在の特定なジャーナリズム事情が気に入らぬからと云って、直ぐ様(ブルジョア・)ジャーナリズムそのものがよろしくないというような口吻は、少し口が過ぎはしないかと思う。寧ろ同人雑誌に立て籠ることによって、ブルジョア・ジャーナリズムの現状を打破するとか現在のブルジョア・ジャーナリズムを改革するとか、号した方が、合理的で堂々としていて、そして又正直ではないのかと思う。
 文芸同人雑誌作家の多くのものは、必ずしも資本主義との闘争などに本当の関心を持っているとは見受けられない。今日のジャーナリズムそのものが悪いと云うためには、今日ブルジョア・ジャーナリズムのブルジョア的性格が悪いのだという論拠に立つ他はなく、そうでなければ、偶々今日のジャーナリズムの与えられた二三の偶然な現象が悪いということに過ぎないのだ。本当にブルジョア・ジャーナリズムが怪しからぬと云い得るためには、今日の多くの文芸同人雑誌はまずみずからを一つブルジョア・ジャーナリズムとの関係に於て、ハッキリとさせてかからねばならぬだろうと思う。今日の同人雑誌の多くは、それ自身ブルジョア・ジャーナリズムの新種か亜種だということをハッキリさせておくべきだと思う。つまり、ジャーナリズムという観念のもつリアリティーを、もっと認識した上でなければ、ジャーナリズム云々というようなことを軽々に口にすべきではないというのだ。
 実際、同人雑誌に現われる程度の、社会的規範からそれたという意味に於て勝手な思想表現ならば、普通の雑誌は大いに採用し得るものなのだ。社会的普遍性さえ持っていればだ。ブルジョア・ジャーナリズムが閉め出すものは、そうした意味での自由な思想表現ではなくて、正に資本主義機構そのものと相容れない思想表現なのだ。そこまで行かなければ、何人もブルジョア・ジャーナリズムそのものを非難する資格はない。
 実は私は、今日の同人雑誌が、今日支配している所謂ブルジョア・ジャーナリズムのただの新種や亜種だとばかりは考えていない。今日のブルジョア・ジャーナリズムそのものを脱却しようという主観的な気持ちの内には、無意識ながら真に大衆的な(無産勤労者的な)立場に立ったジャーナリズムへの予想が含まれているだろうことを見落さぬ。もしそうでなければ今日の同人雑誌ぐらい無意味なものはないだろう。ただこの関係が極めて無意識であるということ、そしてそれが文学活動そのものの消極性となって現われているということ、を云いたいのだ。でこの点に無意識的であるかないかは本質的で大切な処なのだ。それに、今日の所謂ジャーナリズムでも、必ずしもブルジョア・イデオロギーだけの発表機関ではないので、丁度ジャーナリズム企業の形態を取らなくてもブルジョア・イデオロギーの発表機関であれば矢張りブルジョア・ジャーナリズムであり得るように(同人雑誌がそれだ)、今日ではまだ一部分ブルジョア・イデオロギーばかりを載せなくても、ブルジョア・ジャーナリズム企業として成立する条件が現実にこの社会に存在しているのだ(其の他ブルジョア・ジャーナリズムと所謂プロレタリア・ジャーナリズムとの交流形態を二三分析する必要があるだろう)。――だが要点は、今日のブルジョア・ジャーナリズム企業の必要から、ブルジョア・イデオロギー(ファシズム・イデオロギー其の他一切の変種も含ませてだ)以外の思想傾向は、原則的にジャーナリズムから排除されねばならず、そして現に又、最近特に急速に排除されつつあるという、一つの根本事情にあるのである。
 云うまでもなくこれは、第一に、社会に於ける思想活動そのものにとってなにより重大な事情なのだが、併しそれは又おのずから、思想活動の人的(寧ろ個人的)主体である処の、各種のジャーナリストの生活問題としても重大な事情だ。もっとも生活問題と云っても、単に食えるか食えないかではなくて、一定の自主的な思想発表活動をしながら食って行けるかどうかなのだ。
 処でジャーナリストの生活形態には二つの極端なタイプがある。一つは今日の新聞記者(所謂「ジャーナリスト」)であり、もう一つは今日の「文士」である、昔の新聞記者は思想家に類する者が少なくなかったから今問題外だが、今日の新聞記者大衆のジャーナリストとしての状態は、殆んど全くジャーナリストとしての自由(言論の自由)をもっていない。それがこの種のジャーナリストの職業的宿命のように考えられている。幹部や特殊な記者は、一応別として、普通の記者はそうだ。これに反して、何と云っても一等自由なジャーナリストは(同人作家の見解とは異って)今日の文士なのである。文士はジャーナリストではないというような横槍は相手にしまい。筆で食っているものはジャーナリストでなくて何か。出版企業からの有言無言の注文はとに角として、とに角云いたいことが、或る限度まで云えるという自由は、新聞記者大衆には殆んどなくて、文士(特にブルジョア文士)には殆んど総ての場合に存する条件だ。
 この二つのタイプの中間にあるものは、文士側に近い方では評論家であり、新聞記者側に近い方では編集者(新聞幹部・雑誌記者等)だろう。評論家は文士に較べて思想の直説体に於ける文筆家だから、思想表現による生活が、今日ではそれだけ文士より不自由だ。と云うよりも文士よりも評論家の方が思想らしい思想を持った者が多いからだと云った方が、正しいかも知れない。編集者は普通の記者よりも多少は表現に於て自由であり、自分の意向を多少とも製品の上に匂わせることは場合によってはできなくもない。そして無論、評論家は編集者に較べて、可なりに自由なのだ。少なくともこれまでは自由であり得たのだ。
 ところが、問題は評論家の生活問題になる。と云うのは、元来思想の貧弱を極めている日本近代文化に於て、批評や評論というものの社会的勢力はおかしい程貧弱であり、従って元来評論家の生活はそれだけ「社会的地位」が低い処へもって来て、満州事変後及び二・二六事件後のこの反動期である。今日多く新しい評論家は大戦後に於けるデモクラシー及びコンミュニズム思想の台頭を動機とするか、又はこの動機に随伴するかして発育したものだから、彼等の生活にとってこの反動期がなにを意味するかは云わなくても明らかなのだ。
 こういうわけで数年前から、評論家乃至評論家的文士の編集者への戸籍変更が続々と行なわれつつある。例は挙げなくても読者は知っているだろう。『東日』、『朝日』それから最近では『読売』、『国民』(?)等々の場合がそれだ。大新聞はこの現象を称して「論陣の強化」という風に云っている。だがこれは新聞の論陣の強化(それも後に見る通り怪しいのだが)ではあっても、社会に於ける言論の殺減であることは云うまでもない。評論家は「フリーランサーとしての言論の自由」をすてて「大企業機構の一破片としての言論の自由(?)」によって生活しなければならなくなったのだ。
 ところがこの現象は一般社会に於ける言論の殺減であるばかりではなく、正に評論家の言論の一般的封鎖を意味して来るのである。評論家は社外の社会に於て自由に思想表現する生活必要を持たなくなっただけではなく、新聞社によって社外の言論を原則的に禁止されるに至ったのである(『東朝』の場合が著しい例だ)。ということは又、彼等の社内的言論活動も亦、それだけ精密に不自由になったということだ。評論家は編集者に戸籍変えしたが、その編集者に相当する社内の勢力は、単なるジャーナリズム株主の使用人としての普通記者の段階にまで著しく殺減されたのである。論陣の強化どころではないのだ。
 無論『東朝』なら『東朝』は、それに固有な特別な事情を持っているようだ。だが、これは単に一般的現象の偶々魁になったということにすぎないのだ。これはブルジョア・ジャーナリズムの今更驚くに足りない基本法則の現われに過ぎない(もしジャーナリズムの束縛を脱し、自由なる文学的活動を問題とするというなら、ブルジョア・ジャーナリズムのこの化物をこそ料理する気がなくてはなるまい。「化物」は同人雑誌作家の頭の内になどはいないのだ)。
 では一体なぜ、新聞社などはこの評論家達をわざわざ採用する必要があったのだろうか。無論そこにはスター・システムという営業方針があるのだが、そのスター・システムがその際なにを意味しているのか。私はこう推定する。つまり、最近の新聞紙は名目上形式上、以前よりも却ってなにかの言論化らしいものの必要があるのだ。大衆が漠然とこれを要求しているから、いやでも已むを得ないのである。言論化のためには無論評論家を雇うことが必要なのである。併しこの言論化を名目的形式的なものに止めるためには、この評論家に出来るだけ注文をつける必要がある。そしてこの注文づきで評論家を抱えることはさっきのような評論家の生活事情から云って、今はまことに易々たるものなのだ。
(一九三六)
[#改段]


23 書物六題



一 書物の私的擅有

 かつて、多少私が知っているある富豪が有っている本を一部見たいと思って、貴下の文庫の之々の本を見せて頂きたいと思うが、貴宅に参上して簡単に閲読させては呉れまいかと申し出た。元来押しつけがましい申し出ではあるのだが、しかし相手の富豪が一応学徒という資格を有っている以上、市民の風習としては押しつけがましくても、学問の公共性からいって多少とも寛恕されることだと思っての申し出でだったのである。
 その豪富青年学者は早速返事を呉れた。その本は相憎く自分の手許にはなく私が知り得ないようなある他の場所に保管してあるからお見せすることは出来ぬ、ということである。それから、世間で自分の手許にあると思っているらしい文庫のことについて、今後も自分をわずらわしては呉れぬように、というような意味を遠まわしににおわしているのである。
 しかし私はこの返事を受け取って反覆読み直しながら、ただならぬ気持ちがわき上るのを禁じ得なかった。というのは、その手紙を受け取る丁度前日、偶然にもこの富豪青年学者とごく親しくしている私の友人から、くだんの本がこの富豪青年学者の手許に特別に丁重に保管されているという話を聞き込んだ処だったからである。私は兼々、学問上のフェヤプレーという空想を実地上において仮定することにきめているのであり、学問に関する限りフランクであることをブルジョア道徳として尊重することにしているのだが、この手紙を読んで、この仮定は考え直さなくてはならぬと思った。と同時に、白面の青年といえども、ブルジョアの一族に属することによって、如何に常識的にガッチリし得るものか、ということを初めて身近かに知ったわけだ。
 だが考えて見るとこうしたことはごく当り前のことなのである。手許にあるがお見せすることは出来ぬ、というような返事を思い切って書ける程大胆な社会人は、そう滅多にはあるまい。だからそれはそれとしておいていいのであるが、問題はもっと根本的なもっと本質的な点に横たわっている。こうした私一個の小問題も、つまりは書籍の社会的所有関係という処から持ち上ったわけだったのだからである。
 私はごく僅かな本しか持たず、その少ない本の大部分も店頭であり振れたものや、安本や駄本の類で、研究用具としてはほとんど役に立たぬものと思うのだが、それでも私の本を借りに来る人が相当ある処を見ると、私の友人達が本の占有において如何に微力であるかを思うのである。処がある時ある問題を検べたいと思って近所の友人の宅を二三軒回って見ると、一通りの見透しをつけるに足るだけの本は結構集めることが出来た。だからこれで見ると、例えば友人達の持っている本を一緒にすれば、相当の役に立つ文庫が出来るだろうということがわかるのである。本の所有の問題は後回しにしても、本の貸借関係が円滑に行くことによってだけでも克服される困難は決して少なくない。

二 書物の貸借関係

 処がこの書物の貸借関係というものが中々円滑に行きにくいものと見える。借りた本や貸した本を正確に記録しておき、そして貸した本の代りに板か紙の薄い函でも書架へ※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入しておくようにでもすれば、一応安心なのだが、それが中々面倒なものだから、つい貸した本を忘れたり借りた本をなくしたり、それからまた返してもらったことを忘れたりするのである。だが何より大事な点は、本を借りた方の人間の負債意識の如何にあるのである。本を借りた人間は案外金を借りた程に負担を感じないのが事実ではないかと思う。
 もっともその他に、借りる方でも貸す方でも、いろいろ複雑な心理が働くものだ。一般に他人の有っている本は借りて見たくなるものであり、借りてしまえば一種の安心を覚えて中々読みに掛らなかったり、返すのがちょっと惜しいような気もするものだ。それに貸す方でも、自分が読む代りに他人が読むのだから、人によってはかえって好い気持を持つ人もあろうが、残念に思ったり各種の不安を持ったりする人もあるだろう。こうなると本の貸主と借主とは敵味方のようなものだ。
 こうした色々の心理を通じて、併し少なくとも借りる方では、何か本を単に読むためのものとばかり考える傾きがあるようである。多分読んだらすぐ返さなければならないという意識から、書物のそうした観念が自然に発生するのだろう。いうまでもなく本は単に読むためのものばかりとは限らない。というのは、読まれつつある時だけ本の効用があるのではない。いつでも読み得るということ、否いつでも楽に見ることが出来るということが、本の効用なのであるから、読まなくても何か所有するということに書物の意義があるのだ。本は手回りの道具であり材料なのである。夫を用意することが本の所有の価値である。この判り切ったことが併し、借主の側に立つといつの間にか忘れられるように見える。
 書物の借主側において、書物のこの手回り品としての意義を尊重するようになれば、貸借関係の主な困難は消えるだろう。貸す方でも安心して有意義に役に立て得るのだ。かかる私有の図書についてばかりではない。広く一切の図書館の書物についてもいわねばならぬことだ。書物貸借の儀礼をもう少し発達させることによって、社会に存在する広範な私有公有の書籍の利用が今日よりも遙かに公共的な学的習俗となり得るかも知れない。
 だが、こういう道徳的希望や道義的な処方には判然とした限度がある。一体右のような見地は学問の公共性と研究上の好意ある連帯性というイデーを仮定しての上のことだが、しかし学問の社会的条件は決してこういう仮定に忠実でないという事実を至る処に示している。科学は社会的公共物でありながら、それにも拘らず一種の私有財産であり、場合によっては稼業の機密にぞくする対象でさえあるからだ。

三 玄人の書物と素人の書物

 極端な話にすれば、お茶や活花の師匠が、斯道の知識を一般に向かっては制限しながら、特殊な場合に限って伝授することによって、斯道を稼業となし得るように、ある種の学問になると書物乃至一般に資料を偶然または故意に独占することによって、初めてこれを稼業の対象となし得るものがないではない。たまたま自分の祖先代々の家にあった資料を使うことが出来たとか、また資料に嘱目する機会を社会身分上沢山有っているとかいうことが、他人が真似の出来ない歴史家を造り上げることもある。
 つまり同じ学者であっても、財産や社会身分や研究機関に対する関係の如何によって、科学上の仕事の能不能が決定されるのである。大抵の学者は生活費は切りつめても、研究上他人と太刀打ちの出来るだけの研究の武器(?)は用意するのが普通だが、それもごく手近に限度のあることで、この限度を越えれば、金のある専門家にはいうまでもなく、気まぐれに金にあかして書物を買って有っている素人にさえ、到底かなわない。もっとも今日までの学者は多く社会的にも有利な地位におかれていたから、専門家といえば相当な研究上の労働用具の所有者であった場合が多いが、しかし今日では既に、ある程度の専門家も、最早専門的な労働用具から切り離されてしまっているから、たとえば書物所有の関係からいえば、この専門家と一般の素人との区別が、ほとんど無意味にさえなってしまっているのである。
 書物の例ではないが、かつて三井家の家宝の陳列会が行なわれた時、国史の権威者も存在を知らなかったような出品があったので、この富豪は大いにその功徳を讃えられた。だが文化上の問題として見ればこれ程不らちなナンセンスはあるまい。三井家に限らず、社会的に公共性を有つべき研究資料を、単なる稀少品として反文化的占有をあえてしている富豪や大政治家は決して少なくないようだ。所有さえすれば自分の所有物に関係ある眼識が肥えるのは当然なので、こうした稀少品所有者の内には素人抜けのした知識と見識とを有っているものも少なくない筈だが、そうはいっても、この素人達が学術上の公共的な専門資料たるべきものを隠匿する結果を伴なうことによって、文化的進歩をさまたげているという事実は決して消えない。書物についてもその通りだ。
 処が科学的な公共資料たるべきものの封鎖は決して資料の言葉通りの私有ばかりに限らない。数年前、ある専門学校の某教授は収集癖の偏執の古墳の発掘という罪を犯したが、この犯罪の文化上の意義については当時誰もいい及ぼしたものはいなかったようだ。いうまでもなく古墳はある適切な本当の尊敬を以て発掘される限り、古代史の研究にとって替けがえのない至宝の資料でなくてはならぬ。無論解剖学の研究をするからといって、活体の解剖などは人道上許す者はないが、しかしデッサンの研究のためには、同意の上なら裸体の婦人を美術学校の教室に立たせることも、社会的に許されているのだ。書物についても変りはない。

四 書物の文化政策

 書物の退蔵の現象については実例はいくらでもある。私有図書の退蔵ばかりではなく、却って公有官有の図書の退蔵の方がいちじるしい現象でさえあるように見える。一般庶民には全く見せないものも多いし、また見せても引用することを許さないものさえもある。むしろこの点では私有図書の退蔵の方が社会的に恕すべき点が多い位いだろう。
 例えば内務省には日本における凡ての出版物が一部ずつ納本になっている。この日本の出版物を網羅した書庫は今日どの程度に整理されているか私は知らない。しかし少なくとも今日までこれを社会的に利用しようという企てを有った官僚のあることを聞かない。最近これに基いて図書館を造る計画があるそうだが、それが単に官吏のためのものや何かであっては社会的意義は極めて乏しいといわねばなるまい。それに一体、今になってからこの膨大な数の図書を整理し始めるのだとすると、官吏の文化的努力における怠慢に吾々は驚き入る他はない。書籍の退蔵などは驚くに値いしないのである。
 図書やその他の資料の権威ある収集を企てることは一国の文化政策の最高の内容の一つをなすものだが、日本ではそういうことはほとんど顧みられていない。その意図においても実質においても反文化的な文化干渉だけが日本の唯一の主なる文化政策であるように見える。いつか議事堂に図書室設置の案が出たそうだが、代議士連でどれ程本を読む興味を持っていないかがこれで以て却って明るみへさらけ出されたようなものだ。確かに新刊の世間並の書物を読まないことが、今日の代議士達の社会常識を水準以下のものにしているのである。日本の盛大な出版現象が日本の大衆の代表者である代議士諸氏とあまり関係がないらしいことは、これは一体どうした国柄を語るものだろうか。このジャーナリズム上の反社会的傾向はしかし、無論代議士達だけのものではない。やがてそれは日本の支配者一般の傾向を語るものなのである。だから日本程図書館などが変なあるいは滑稽な形を取っている大資本国はまたとないのである。
 適宜の資金さえあれば楽に買える筈の日本における毎日の出版物は、一体どこの図書館へ行ったら、間違いなく保存されているだろうか。遙々上野の図書館へでも行かない限り安心して読みに行くことは、この忙しい世の中で一つの冒険のようなものだ。一流の図書館へ行って見て、私の持っている平凡なあり触れた日本語の本の内、一体幾冊を見出すことが出来るだろうか。日本人が一流の図書館で日本の平凡な出版物を読むのに、運を天にまかせて行きあたりバッタリにこれあれの本に眼を通すということは、全く文化上の悲喜劇に数えられねばなるまい。
 たとい本はあっても入場することが容易でなく、入って見ると研究書を借りるためではなくて受験勉強のための椅子を占めるために、押しかけている生徒で満員なのである。これは何といっても国際的にも恥かしい現象の一つだ。

五 玩具としての図書館

 日本の図書館の大部分は研究のための施設として用いられずに、受験勉強や閑つぶしや娯楽のための施設として用いられる。これも確かに図書館の用途の重大なものの一つではあるが、しかしこれは決して図書館の名誉となるものではない。図書館と読書館との区別、それから研究図書館と学生用図書館との区別位いは、あってもいいのではないかと思う。自分の本を一日ユックリ邪魔されずに読める室の施設は、図書館の他に必要なのだ。
 日本の図書館が受験生の読書室に化していることは、無論世間に読書館という施設がないからであるが、その他に、図書館自身が大して研究図書館乃至学術図書館としての実質と価値とを認められていないことが、有力な理由となっている。日本語の書物さえ、学術的な問題観から見て系統的に買ってない。まして外国語の書物になると、ほとんど完全にあてにならないのが現状のようだ。処が日本では今後といえども益々外国語の書物が研究資料として必要欠くべからざるものなのである。この点から見れば日本のいわゆる図書館と名のつくものの全部が全部、素人的な子供用の玩具のような図書館だといっても過言ではない。こういう図書館だけを用いて一人前の研究上の仕事を仕上げることは、特別な場合は別として一般に出来ない相談だ。否研究を仕上げるだけではない。何か時事的な評論一つ書こうとしても、図書館は一向たのみにならないのである。
 これは何も図書館だけの特色ではない。日本の博物館もまた、大体お上りさん式の見物に行く処であって、研究に行く処ではない。論文をまとめるために博物館通いをするというようなことは、日本では奇異な現象とさえ見える位いだろう。きまり切った場合を除いてはほとんど実用にならないということが、日本の博物館の多くに一種玩具のような性質を与えているのである。つまり図書館でも博物館でも、日本では大体何か子供のためのものであるかのように出来ているのである。日本では一般の国民が「赤子」に見立てられているからだろうか。
 大学の図書館(帝大官公立大学及び二三の私大)はいうまでもなく学術図書館でありそして実際に研究用具として役立っている。多分今日の大学で学問上意味のあるのはその図書館だけだろう(ただ不思議なのは、ここでは逆に日本語の学術書が馬鹿馬鹿しく乏しいということだが)、処が大学の学術図書館は一二の例外を除いては、一般に公開されていない。多分これは、大学の講義が公開されなかったり、大学の研究室や教室が廿四時間の大部分空であったりすることに負けないための、特権者の不経済趣味に基くのだろう。
 今日必要なのは、民間における総合的な学術研究大図書館の設置である。無論研究用の図書館だから一切の傾向の学術書を自由に集め自由に読ませなくてはならぬ。私はこの問題の考慮を、インテリ諸君の日常闘争の問題の一つとして提出したいと思う。

六 読書経済学

 読者というものをごく普通に考えると、要するに出版物を読む処の人のことだろう。読み飛ばして了う者もいれば、熱心に読んで感想や批評を発表するような人もいるし、読者カードに所感を書く人間もいるが、とに角読む処の人のことだ。処が之は出版物を中心にして考えて行く限り必ずしも正確な考え方ではないのである。出版物という商品から見れば、所謂読者なるものは、読む人のことではなくて買う処の人のことだ。買う人が多ければ読む人も多いのだし、又或る場合には、まず読み手があってから買い手が発生するのでもあるが、とに角読む読まないとからは一応別に、買う買わないということがある。
 尤も結局、読者の多い本が余計売れるわけだから、読者と購買者とは同じ単位と見做してもいいわけで、之をシチ面倒に区別することは遊戯に類するようにも思われるかも知れない。出版業者の直接の興味から云えばそれでもいいのだが、併し実は読書という問題から云うと、却ってこの区別が重大な意義を有っている。一体出版物は読むために買うのだろうか。読者とは出版物を「読む」人のことなのか。読むというのは、事実どういうことなのか。
 理論的な研究をするには本や雑誌新聞を読む必要があると考えられる。だがそれだけが研究に於ける出版物利用の代表的なやり方ではないことを注意しなければならぬ。読むだけではなく見るということが、大切な場合が極めて多いのだ。参考文献や資料としての出版物はまず第一にこういう役目を有っているのだ。辞典やハンドブックの類はその極端な場合に他ならぬ。いや見るだけではない、所有しているということが、研究の上では極めて重大な利用価値を生じるのだ。実際或る本を持っているというだけで、従ってそれについての注意を用意しており又いつでも見られ又読めるという用意だけで、どれ程研究に弾力が生じるものかということは、所謂読書氏の或る者には案外知られていないかも知れないが、多少纏まった読書氏や研究家ならば、誰でも知っていることだ。
 従って学者や評論家は、さし当り要らないような、又読みもしないような本を、機会にまかせて買う心がけを有っている。この点マメであるなしは心眼の発達に影響する処少なくはない。予め興味を有っている多数のテーマに関して、多少でも参考になりそうなものを、ポツポツ買い集めておくのである。之は単純な意味での読者から云えば、多分に贅沢なことだし、又不経済なことだ。併しこうした不経済、贅沢が案外思考上の助けになることを見落してはならぬ。つまり不断のポケット・モニーが要るということであり、そういう意味で経済的に億劫でないことが必要なのだ。
 読むだけならば早く読んで古本屋に売れば、まず定価の四五割以内で読書が出来るわけだ。人から借りても相当用は足りる。そういう読書には思った程金はかからぬものだ。一月に普通の社会人が読める頁数には制限があるものだ。死んだ土田杏村は一日平均百頁の本を読んだと云っているが、日本の本にして三千頁は三百頁の本約十冊に当り、平均一冊一円五十銭として、一カ月十五円にしかならない。之はそう大して経済的負担ではあるまい。社交上の一種の飾りとして読んでおく場合は、今の経済学の範囲外だ。そういう生活の余裕のあるそして馬鹿げた場合は別だ。併し多少研究的な「読書」の場合には、実際に読む以上に、買わねばならぬ。純然たる研究の場合だけではない。所謂教養のためや修養のための読書の場合でも、いつの間にか之に似た事情が発生する。
 かくて本を読むことと本を所有することとは別なことであると共に、非常にデリケートな精神生理上の関係があることだということを強調したい。読書は購買上の多少のムダがなければ、好い結果が得がたい。
 新刊紹介や新刊批評というものがある。それの需要の一つは、このムダや不経済を防ごうという処にあるようだ。つまり役に立ちそうに見えて役に立たない本を買い込んだり、又読み終らねばならなかったりするような失敗を予防する機能にあるようだ。だが実際を見ると新刊紹介批評はそういう機能を充分発揮出来る程に組織的で目録的ではない。紹介批評の筆者にもこの点はあまり自覚されてはいない。最も組織的な新刊紹介は却って東京新聞の第一面における出版広告であるが、之又空疎な言辞を並べたものが多くて、一向信頼出来ない。
 著者自身が自己紹介(ゼルプスト・ダルシュテルング)を載せる習慣が望ましい。そして外国書店式の新旧刊カタローグは目録という意味で中々尊重されていることに注目すべきである。之を見て、後に役に立ちそうなものをボツボツ買っておけるからだ。
 大抵の出版業者は新刊本がその場で売れることを当然としている。実際、数カ月前に出た本は、もう新本屋の店頭にはない。時間をつぶして古本屋をあさらねばならぬ。之は委託販売制度の馬鹿げた非文化的結果の一つである。読者=買手の側から考えると、新刊書を一々買ったり読んだりするように、うまく興味が動くものではない。店頭で影をひそめた頃、急に必要を感じ出したり何かするものだ。それに新刊書を無原則に読んで行っては何のことはない女がデパート製の流行を追いかけることと別ではなく、勉強にも研究にもなったものではない。金も時間もつづかない。本はポツポツ売り得るよう億劫でない制度が望ましいのだ。
 新刊書の追撃をまぬかれる方法として、読者層は所謂総合評論雑誌を選ぶ。総合評論雑誌が有勢な原因の一つ(他にもっと重大な原因がある――取次店制度の如き)はここにある。だが例えば四大雑誌を克明に読破して見給え、まず大勉強でも月の四分の一や三分の一の日数はかかろう。だがそういう読者はメッタにはいない。つまり雑誌もその一部分だけを読めば結構なのだが、その序でに(必ずしも不平は云わずにだ)他の文章も見られるので、一冊のまま買う気になるのだ。例の読書の不経済と贅沢が、ここにも現われている。
 読書はそれ自身不経済なやり方を必要としている。あまりに経済的な読書は、云って見れば師範学校教育のようなもので、人格教育の上で案外「不経済」(?)なものだ。
 読書(本の所有)を浪費しているブルジョアや地主の学殖ある馬鹿息子と、読書の不当な「経済」を強制されている無産者の現状との代りに、必要な不経済を条件と出来るような読書の世界が来て欲しいものだ。民間用の図書館だって日本のは極めて「経済的」に出来ているのだ。
(一九三五―七)
[#改段]


24 出版現象に現われた時代相



 一九三一年の満州事変を契機として、マルクス主義的社会科学の出版は著しく衰えて来たと称されている。之に就いての正確な資料は一寸見当らないのだが、併し一例を挙げれば、有力な左翼出版物の出版屋で営業を止めたものが少なくない。希望閣、更生閣、鉄塔書院其の他は三四年前にやめたし、最近ではナウカ社も受難時代に這入った。残った二三の左翼的出版業者も決して楽な商売をしているとは想像されない。処が警保局の統計によると恰も一九三一年を中心にして、社会関係の普通出版物(雑誌と官庁出版物を除いた出版物)の数は最高潮に達しているのである。して見ると所謂右翼出版物が、この時期を中心として、どんなに盛んに出版されたかということが判る。
 だがその後「社会」関係の出版物数は著しく減少して今日に及んでいる処を見ると、この所謂右翼出版物が又如何に急速に顧客を失って来たかということも判るのである。従ってそれに対比して、左翼的出版物はそれだけ多少は盛り返して来たと想像されるわけで、少なくとも所謂「マルクス主義華かなりし時代」に較べてずっと地味な落ちついた形のものではあるが、却って堅実な弾力を見せて来たと見ていいようだ。一九三四年の末から三五年の上半期にかけてそういう調子が見られたと一般に云われている。「社会」関係の書物が満州事変以後再び下り坂になったに反して、社会問題の基礎的な問題をなすべき経済関係の出版物の口数は、一九三五年になると一九三一年の約一五〇パーセントにまで続騰して来ている。つまり皮相な関心が引き潮になった代りに、基本的な関心が著しく地道に伸びて来たことを示すことになるのだ。特に統計関係の出版物の如きはこの四年間に二倍以上も出るようになった。日本主義を云々するフラーゼオロギーやデマゴギーに全く飽きて了った読者は、そうしたものに懐疑の眼を向け始めたために、再び出版界乃至読書界は社会機構の堅実な分析に沈潜し始めたわけだ。
 この事情は独り社会科学関係に限らず、哲学に就いても推測されるのだが、併し云うまでもなく哲学書(それも亦四年間に二倍になっている)の増加は、反社会科学的出版物の擬装物を多分に含んでいるわけだから、この統計だけからは何とも云うことは出来ない。
 特に之は宗教物と密接な関係があり、宗教物は出版口数としては三一年と三五年とを較べて五〇パーセントの増加であるが、一口の出版部数を考慮して見ると数量は極めて大きいのだ。だがそれにも拘らず、一二の例によっても、マルクス主義的出版が哲学の形に於てその元来の地味な発達を遂げつつあるということは推定に難くない。『都新聞』(一九三六年八月十八日)によると「かかる読書界の混沌たる中で、『唯物論全書』が相当の読者を引きつけていることは注目に値いし、たとえマルクス主義の実践運動が衰えたとは云え、その反面に於て、時代的懐疑をつきぬけ、文化の各領域に渡って根強く唯物史観的研究を理論的に深めている層の存在を明らかに示している」というのである。この全書は私自身と関係が深いから、この際あまり適切な引用ではないかも知れぬが、取りあえず一つの資料として引いておくのだ。
 とに角、満州事変以来数年間続いた無内容な右翼出版物が、読書界によって整理されつつあるということは疑えない処で、右翼出版物に数えるべき性質のものでさえも、従来より少しは工夫のある形のものにまで落ち付いて来たと云うことが出来るだろう。その意味に於て、最近の二三年来の出版界はややノルマルな状態に帰ったとも云うことが出来る。勿論この二三年来の日本の社会情勢がノルマルな状態に復したなどとは誰も考えないだろう。事実は全くその反対だ。仮にこの数カ月来二・二六事件の結果、雨降って地固るというような事情が見て取れるにしても、社会全体のアブノルマルの傾斜は一眼見て判ることだが、そういう社会事情を既知の条件とした上で、出版界はややノルマルになったというのである。というのはつまり、出版界に之と云って目をそばだたせるような珍しい偏位現象は一寸なくなったということなのだ。
 例えば円本洪水時代を取って見ると、社会の一般事情は別にアブノルマルではなかったのだが、出版現象は確かに尋常ではなかった。一体出版現象は必ずしも一般の社会事情をすぐそのまま反映するとばかりは限らぬ。現に一九二七年は人も知る金融パニックの画期的な年代だが、出版界の営業状態はとに角として、出版物の数量や品種の上では大した特色は統計の上に出ていないようだ。で流石の宗教出版物の大量生産にもすでに限度がおかれた今日、社会の一般的なアブノルマルな傾斜の上で、比較的ノルマルな出版現象が行なわれていると云うことは出来よう。
 だが、日本は満州事変以降、日本特有な型式に於けるファッショ化の決定的な傾きを逐いつつある。この一般的な傾向は無論出版界の一般的な情熱となって鮮かに眼に写る。その各個の事象に就いては追々検討して行くが、之に連関して、最近の著しい一つの新現象は、パンフレットの洪水だということを注目しなければならぬ。一九三四年と三五年とに於ける普通出版物中のパンフレットのパーセンテージを較べて見ると、二七パーセントから三三パーセントに激増しているのである。之に対応して単行本の方は六四パーセントから五五パーセントに激減している。之は最近の時局を反映するジャーナリズムの新特色なのだ。
 パンフレットは数年来しきりに問題を巻き起こした。最も有名なのは一九三四年の陸軍パンフレット「国防の本義と其強化の提唱」で、広義国防の名の下に国家社会主義的経済政策の綱領を発表したものとして、内外ともに物議を醸したものが之だ。之はイギリスの新聞でも外交問題として問題になったが、国内では之によって政友と民政との協定に拍車をかけられることになったと見られている。広田二・二六事件内閣は組閣に次いで自由主義の排撃を声明したが、自由主義の排撃が半公式な表明を持ったのは、すでにこのパンフレットに始まっている。十月一日に発表されたこのパンフレットは二日の株式市場の諸株を反落せしめた。嘗ての『朝日新聞』のニュース(東株改組案)による株式市場の混乱は立会い停止にまで導いたけれども、併しその影響の仕方の社会的意義から云えば、該パンフレットの方が遙かに深刻だったと云わなければならぬだろう。
 機関説排撃(三五年四月)に際して、気勢を揚げた尤なるものの一つも亦、帝国在郷軍人会本部が偕行社記事録として発行したパンフレット「大日本帝国憲法の解釈」に関する見解であった。之は全国に実に十五万部配布されたと伝えられる。而もこのような反自由主義的パンフレット戦術は、美濃部問題に局限されはしなかった。六月になると帝国在郷軍人会本部は再び、総選挙に先んじて「国防と総選挙」というパンフレットを発行し、之を全国三百万の在郷軍人に配布したのである。被選挙人としては自由主義者を排し、国防強化主義の人物を選び、以て反軍策動を撃滅せよ、というのがその主旨であった。そして既成政党は之に対して、一言の批評も加えることを敢えてなし得なかった。これはそれ程重大性と威力とを持っていたわけである。
 云うまでもなくパンフレットは、普通のジャーナリズム様式とは違って極めてセンセーショナルな様式なのだが、他方に於て、夫は云わば白昼に於ける堂々たる出版物だと云うよりも一見目立たずに而も絶大な的確な効果を持つ処のやり方なのである。この頃駅頭で沢山売られている各種のパンフレットも多少はそういう意味を持っているが、右に述べたようなパンフレットはその配布の様式から見て決して普通の形の公共的商業的ジャーナリズム活動ではない。発売よりも寧ろ配布を主眼としたものだからである。だから之を一歩転ずれば、やがて夫は怪文書に近づくことが出来る性質を有っている。処が怪文書こそこの一二年来の不気味な出版現象の本尊なのだ。パンフレットは偶々こうした不気味な出版現象の合法的な地上の形態に他ならないと見てもいい。
〔二・二六〕事件が怪文書を最も有力な動機としていたことは、軍部の公表によって広く知れ渡っている。床次逓相に絡まる五十万元事件は、元憲兵曹長他一名の手によって作製配布されたものであり、両名は出版法違反で罰金五十円を求刑されたが、併し議会戦術としては、之によって充分に効果があがったわけで、やがて怪文書の全盛時代を招いた概がある。時の町田商相・山崎農相・某上席検事・其の他其の他が続々として被害を被った。怪文書は五・一五事件当時も盛んであったが、今度のは目的意識がもっと深刻で、当事者一身の政治的乃至行政上の活動を牽制する底のものだ。そこで政府は怪文書取締りに就いての法の不備を補うために出版法・新聞紙法・の改正を意図していたのであるが、広田内閣によって三六年の議会に提出された「不穏文書等取締法案」がその精神に基くものだったと一応云うことが出来るだろう。
 処が人も知るように、この法律案は政党の殆んど全員一致による修正によって、辛うじて議会を通過することが出来たのだ。元来所謂不穏文書なるものは、大体に於て反自由主義者達の間から流布されたものであるから、政党にして見ればこの法案に賛成しないのは可笑しい筈だが、処が政府案は、不穏文書等という名の下に、所謂不穏文書の他に不穏な私信や会話までをも含めようとしたのである。不穏文書と所謂流言飛語とを本質的に一緒にみて弾圧しようというわけだ。文書というとに角一種の出版物と、流言飛語という単なる一種の肉声的発音とを一緒にするのは一寸変だが、そればかりではなく、不穏文書が反自由主義者の物であったに反して、所謂流言飛語の方は当時却って自由主義者が反自由主義者に就いて放つデマゴギーだという次第で、社会的に全く相反した方向を持っていたわけだ。だから政党は流言飛語の取締りの一項を修正削除することに全力を傾けたのである。――とに角こうした根本的な修正の揚句に辛うじて不穏文書取締法が実施されることになったが、その際興味のあるのは、この実施に先立って、郵便局が怪しげな郵便物はその受取人又は差出人に開示を命じるよう通牒を受けたことだ。今や出版物の取締りは、封緘内の私信にまで強化され徹底された。
 一方に於て私信にまで取締りの眼が行き届いているのに、他方に於ては依然として不穏文書出版物は後を絶たない。例えば三六年七月には東京商大の某教授が謄写版刷りの不穏文書を配布して召喚された、等々。
 不穏文書と密接な関係のあるものは、古典文書である。近年この方面に於て著しく事件の数が殖えつつあることは特に注目に値いする。一九三四年の十一月日本精神協会(その会長は美濃部機関説排撃のパイオニーヤとなった菊池武夫氏である)は、謡曲(蝉丸)の不敬を指摘して内務省図書課に廃曲方を陳情した。その結果蝉丸は謡曲としても能としても一時上演禁止となったらしい。日本の光輝を伝える筈の古典そのものさえ、二十世紀になってから急にこういう運命に立ち至ったのだから、その他の古文書の類は推して知るべしで、例えば日蓮上人の御文章の或るものとか、其の他各種の記録がやおら蒼惶と取締りを受けることになった。不穏不敬な文書出版物の責任が、悠久の過去に徐むろに溯源する姿を思えば、美濃部博士如きがその過去の著述上の責任を、今日突如として問われる運命にめぐり合わねばならなくなったのも、少しも不可思議ではないのである。時代の事情は人に関係なく変わるのである。人はただひたすらに時代の事情に順応さえすればよい。
 だが何と云っても不敬な文書乃至出版物の代表者は、所謂邪教の夫から発見される。大本教を始めとして神政竜神会の秘密出版物や、天津教の不敬古文書(狩野享吉博士が之を暴露した)など、枚挙に遑がないだろう。いずれも国体や皇室に触れ奉るという形を取るもので、極めて悪質なものと云わねばならぬが、所謂邪教即ち新興宗教の多くのものが、敢えてこうした形の不敬行為に及ばねばならぬということには、或る深刻な経緯があるのである。と云うのは、この種の新興邪教をしてただの民間治療や所謂迷信に止まらずに、日本の政治的本質の付近に興味を有たせるものは、他ならぬ現代日本の或る寵愛されたイデオロギーのなす悪戯だからである。
 だが、不敬出版物は決して日本国内だけの問題ではない。吾々は伸び行く日本のために眼を海外に転ぜねばならぬ。上海の雑誌『新生』の不敬事件は、わが官憲をいたく刺激した。中国の検閲責任者は罷免され、検閲委員会は改組され、中央党部は謝罪文を日本に提出した(三五年七月)。支那ばかりではなく、殆んど時を同じくしてアメリカの社交雑誌『ヴァニティ・フェアー』の不敬絵画は日本の外務省の厳重な抗議を受けた。そしてこの雑誌は日本では勿論、支那でも発売禁止となった(同年八月)。然るにアメリカ漫画家某は傲然と嘯いていたという。――海外出版物輸入取締りに就いて、内務・外務・逓信・拓務・大蔵の関係五省は協議を開くことになった(同年十二月)。勿論不敬出版と共に議題に上ったものは、不穏文書や左翼出版物の件でなくてはならぬ。
 一九三五年度内に発売禁止又は一部削除となったものは、単行本で四十数冊であり、雑誌で七十数件である(東京堂編『出版年鑑』昭和十一年版)。両者ともその八〇パーセント以上が思想関係によるものと判定され、残りが風俗壊乱によるものと推定される。正確な根拠はないが、この八〇パーセント内の、少なくとも三分の二以上は、右翼的思想以外の思想上の理由によるものと見ることが出来はしないかと考える。風俗壊乱による発売禁止も、実は多分に思想的背景を持っているので、例えば印刷物ではないが、レコード出版物五種類が発禁になったのも、検閲の背後には国民精神作興とか「非常時を忘れるな」とかいうイデオロギーが横たわっていたからである。
 内務省警保局の田中事務官は語っている(『都新聞』一九三六年八月十一日)、「結果から見れば最近多少厳重になっていることは否めない。――第一には十年程前迄は検閲の係が小さかったのが、最近では整備されて隅から隅まで行き届く[#「届く」は底本では「屈く」]ようになったので、従来洩れていたものも洩れなくなったわけで、別に検閲の標準が厳格になったのではない」云々。内務省は図書検閲人件費三万円の特別予算を取ったのである。――尤も日本に於ける発売禁止の数は大して莫大だとは云うことが出来ない。或る筆者によると、世界で一等発禁の本の数の多いのはアイルランド自由国だとかいうことだ。日本はより一層の自由国だということになる。併し発禁の数だけでは何物を語るものでもない。出版物は出版企業の商品だ。出版屋は素人でない限り、発禁になりそうな出版物をそんなにむやみに出す筈はないのである。雑誌ならば出版資本家そのものの手に渡る前に、賢明なる編集者達の手によって技術的にチャンと発禁は防止されるような機構が完備している。『改造』の山本実彦社長によると総合雑誌の売行きは発売の三日間に六五乃至七〇パーセントだから、たとえ一部削除でも打撃は徹底的だというのである(『ブック・ガイド』一号)。だからして、実際に発禁に会うような場合は、余程何か新しい事情が発生した時に限ると見ねばならぬのである。
 例えばレーニン勲章受領作品として有名なオストロフスキーの『鉄は如何に鍛えられるか』が発禁になったが、之は二つの出版業者から殆んど時日を同じくして出版されたものであり(一方は『鋼鉄は如何に鍛えられたか』となっている)どっちも出版営業上自信たっぷりだったものである。少なくともそれ程安全と思われたものが、意外にも発禁となったのである。田中事務官の言葉によると、「あれは単に記録に過ぎないとは云え、影響が余りに生々しいから禁止したわけで、禁止する迄には四五回も慎重に審査し直したのだ」ということだ。だが聞く処によると別にどこがいけないというのではなくて、全体としての影響がよくないという理由だそうだから、之は今迄の発禁の際の不良個所指定の習慣から云って、新しい例外に類するものなのだ。大体こうした斬新な検閲方針が、偶々出版業者の虚を衝いて、発禁の憂目を見せるに過ぎないのである。
 尤も美濃部博士の著書のように、永年の間高等試験委員の著書として、殆んど公定の教科書のように思われて来たものが、或る日突如として発禁又は改訂の処分にめぐり合ったような場合もあることを忘れてはならぬ。一九三五年四月同博士の三著書は発禁となり、二著書が改訂を命じられた。――又某氏の日本資本主義分析に関する名著は、同氏が警察官立会いの上での希望によって絶版にすることになったと伝えられたが、併し一方、その時立ち会った出版元の店員は、店に帰ってから主人にひどく脂をしぼられたとも聞いている。無論、内務省では合法的に発売禁止を命じもしない本を同氏が勝手に絶版にする社会的権利(?)はなかろうという次第である。
 さて、〔二・二六事件〕以来、都下の新聞が一斉に意識的に反動化したということは、あまりに著しい毎日の現象で、今更思い出すまでもないことだ。このショックは従来自由主義的乃至進歩的な建前に立っていた大新聞ほど強くこたえたわけで、その結果、従来あまり言論の自由を標榜しなかった都下の二流新聞の方が、相対的に報道の自由を持ち始めたのではないかというような、錯覚をさえ起こさせるものがある位いだ。少なくとも一頃は、東京や大阪の一流大新聞だけを読んでいては、日本の社会のことは殆んど呑み込めなかったと云っても云い過ぎではないのだ。
 尤もこう云っても何も二流新聞は新聞らしい使命を果しているということにはならぬ。一体従来対立していた連合通信社と電通とは外務省・軍部・其の他の肝煎りで三六年に這入ってから、合併して同盟通信となったのだから、日本の通信社は単元化されて了ったわけだ。外国特派員や外国通信社によるニュースは別として、それ以外の要点に触れたニュースは事実上官報のように統制されて了ったのだ。それでなくても、今日の新聞は大体どれを見ても同じニュースが同じ調子でしか書いていないので、その著しい例は「コム・アカデミー」の検挙に関する報道であって、どの新聞を見ても言葉つきまで一致しているのである。之は明らかに検察当局が通信社の記者にディクテートしたに相違ないのだが、それから見ると通信社提供のニュースの官報振りなどは、無理ではないので、而も二流新聞であればある程、この点利き目があるわけだ。それにこの同盟通信なるものが、スペイン動乱のニュースを聞いてもよく判るように、甚だ立場が公平でなく、いつも反軍の建前に沿った報道ばかりを心掛けている底の代物なのだ。こうなると却って著しい反動化したと云われる『朝日新聞』も、古垣特派員が送って来るようなフレッシュなニュースによって、時々は尖光を放たぬものでもないのである。
 処で大新聞が所謂スター・システムを採用し始めたことは、世間が問題にしている通りだが(『朝日』の佐々・杉山・笠・大仏、『東日』『大毎』の菊池・大宅・高田・木村・久米・横光、『読売』の石浜・馬場・其の他夕刊執筆の諸家)、実は之は必ずしも新聞の言論上の自由を高める意味を有っているのではなく、逆に個々のジャーナリストの言論の自由を新聞社の大機構中に逐い込んで了う結果になることを注意する必要がある。ジャーナリストはフリーランサーとしても今日甚だ無力であるので、こういう結果にもならねばならぬのだ。フリーランサーとしての評論家は、この新聞の反動化に抗するだけのジャーナリズム上の実力を有っているとは考えられないが、そうかと云って新聞企業の専属スターとなることによって、少しでも新聞反動化を阻止出来るように思うならば、勿論大きな誤りだ。
 新聞界が二・二六事件から受けたショックは、云うまでもなく雑誌界、特に総合評論雑誌も、之を受けずにはおかなかった。尤も思想的指導性を有たねばならぬ筈の総合評論雑誌も、その大部分がすでに銘々のやり方で夫を放擲する工夫を始めていた処だったので、例えば『経済往来』は『日本評論』となると一緒に室伏高信一流の支那大人式編集を始めたし、『中央公論』は大分前から高級娯楽雑誌――社会的エンターテーンメント――に変質を遂げていた。比較的に旧方針を護ろうとしている『改造』も、そうかと云ってハッキリしたプリンシプルを持ち出すことも出来ないから、半分思想雑誌で半分ニュース雑誌だというような中間的存在に陥らねばならぬ。そこに二・二六事件である。――こうしたわけで取り上げられるテーマも亦目立ってあたりさわりのない円滑なものへと移行し始めた。青年論や恋愛論、それからヒューマニズム論の台頭などは、評論雑誌ジャーナリズムの右に云った必要を最もよく充して呉れる社会意識の動きだったのだ。一般社会思想の或る意味に於ける文学への転向、文学的哲学や文学的宗教のルネサンス、之亦ジャーナリズムの要求を充たすことによって勢を得たものだが、それと之とは無論全く平行した動きであると云わねばならぬ。
 日本の雑誌全体の出版売行情況は種々の事情があってあまりハッキリしない。雑誌と新聞とは社会的には全く別なものであるに拘らず、法規上は新聞紙法による雑誌が多いから分類を精密にしないと実情が判らぬ。内務省図書課では一九三四年来、雑誌分類の台本を作製しつつあるということだ。だが今日、総合評論雑誌についで特別の興味のあるのは恐らく同人雑誌だろう。出版法による雑誌(之は大体評論雑誌を含んでいない)は三五年九月現在で一二、四九七種に及び、内東京府だけで三、五九八種を占めている(新聞紙法による新聞雑誌は一二、四〇二種)。この内主なる同人雑誌は四五三種、或いはもっと瑣末なものを勘定に入れれば八〇〇種以上に及ぶのであり、そしてこの四五三種の内の四割以上(一八七種)が一般文芸雑誌であり、残りは詩・短歌・俳句・其の他の文芸雑誌だという話しだ(一九三五年九月二十二日『読売』)。つまり同人雑誌は取りも直さず文芸雑誌に他ならぬという次第だが、この文芸同人雑誌の数は、近年著しく殖えたにしても恐らく決して減ってはいないだろうと想像される。
 勿論この種の文芸同人雑誌の各々は出版現象としては取るに足りないものだが、少なくとも文芸物読書界の衰えていないことを示すには足りる筈で、最近著しく出版され又読まれるものは翻訳小説や通俗小説の類の文芸物であると云われている。だが問題の要点はそこにあるのではない。この同人雑誌の運動が全体として最近おのずから持つようになって来たと思われる処の、一つの新しい社会的意義が要点だ。と云うのは、同人雑誌の多くのものは、多かれ少なかれその意図に於ては進歩的な社会思想に接触したものであるらしいことを注目すべきで、この点既成の文壇の単なる縮小再生産だとばかりは云うことが出来ない。同人雑誌から文壇に引き上げられた懸賞作品の多くは事実之を裏書きしているだろう。固よりそれだけとして見れば、大して重大視すべきものでもなく、大いに期待すべきものでも何でもないのであり、寧ろ世間の批評家が心配する通り大部分無用な費えに過ぎぬかも知れないのだが、併し社会的意義から云ってただの零ではないものを含んでいる。私は曾て指摘したことがあるが、今日サラリーマンは同人雑誌以外にグループを造る道を有たないのだし、又地方の同人雑誌同人は今日では多くは一定の職業を持った人間であるようだ。文壇進出を唯一の念願として一生を賭している悲愴にして凡くらが文学者志願者に限るとばかりは考えることは出来ない。
 そこで全国の同人雑誌の連絡の問題が当然起きて来るのだ。尤も菊池寛式に経済上生計上の理由から、同人雑誌合同を説くこともいいが、それだけではなく社会的文化運動の形式としてこの連絡が問題になる必然性があるだろう。だからプロレタリア・ジャーナリズムの問題なども日程に上ったのだが、処が新聞によると、左翼文化活動の新しい形態として同人雑誌合同運動が計画され、それが新人クラブとかいう名の下に党外郭的な組織を持ちそればかりではなく、この組織を指導するものが「コム・アカデミー」なる存在であり、而もこのアカデミーはコミンテルンの指導下に立っているのだというようなことが誠しやかに宣伝された。同人雑誌の社会的意義に対する尊敬もここまで来れば、少し薬が利きすぎて、どうやらニュースの信用価値さえが怪しくなるのだが、とに角之を見ても、当局が同人雑誌に気をつけ出したということは、客観的事実のようだ。或いは当局は之を一種の人民戦線運動に数えようとするのかも知れず、又は寧ろ之によって人民戦線運動の最も手頃の奴を培養しておいて採取する心算かも知れぬ。
 それはさておき注目すべきものは、出版界乃至読書界が当局と支配社会との擁護の下に、この数年来広範な思想善導戦線を意識的無意識的に愈々拡大して来つつあるという点である。宗教復興は一時思想善導戦線の何より有力な武器と考えられたが、最近は多少頽勢に向かって来た。友松円諦師の論文剽窃問題は初め教学新聞で暴露されたが、それが『東朝』紙上に現われることによって一遍に普及して了った。友松師はカブトを脱いだり嘯いたり、被害者大島長三郎氏を七百円で買収したり(?)(但しこの点大島氏の代理者からの抗義が[#「抗義が」はママ]私の手許に来ている)、問題の論文を岩波講座から削除されたりしたが、そういうことがなくても、真理運動は内部的な崩壊に臨んでいたのであり、この種の事情は又其の他の新興宗教に於ても今日珍しくはないのである。――同様世間を驚かせたのは、朝日融渓師の吉田絃二郎随筆剽窃問題だったが、聞く処によると師は吉田絃二郎のファナティックな崇拝者で、自分と吉田絃二郎との区別が判らなくなる程、思想も文章も吉田張りになった結果だというのだから、之は寧ろ信仰的センティメンタリズムに関する一つの美談に数えていいかも知れぬ。
 だが本式の為政者の企図する処の善導的感激は、決してそんなセンティメンタルなものではない。政府は一九三五年七月著作権審査会官制の実施の旨を公布した。之は改正著作権法に基くもので、『大菩薩峠』の※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵著作権問題のもつれもあったことだし(之は告訴取り下げでウヤムヤになった)、非常に結構な法律改正ではあったのだが、それにも拘らずこの著作権審査会なるものが思想善導の新しい陰険な武器を意味するものと世間は判定したのである。この官製の機関は文筆業者の著作権擁護というよりも寧ろ、日本に於ける文芸出版物の統制指導の機関を意味するのだというのが、世間一般の解釈であった。松本学氏の手になる文芸懇話会の官許版だというわけだ。この文芸懇話会の文芸統制の社会的役割が、文芸賞第一回授賞問題をめぐって、佐藤春夫によって暴露されたことは世間の記憶に新しいことである。又松本氏の本質に就いては、その邦人主義第五インタの主張を見れば明らかである。所でその官許版が著作権審査会だという風に考えられたのだ。
 翻訳権問題協議会の成立(三五年十二月)、日本ペンクラブの外交官まがいのジェスチュア、科学ペンクラブの成立、其の他、国定教科書の改正及び値下げの問題、中等学校教科書国定の問題。図書館「閲覧者大会」(三五年二月)・議院図書館設立問題・内務省納本による官吏のための図書館計画・上野図書館増築・二千六百年祝賀記念大図書館建設運動・等一連の図書館に対する関心。それから、高野長英蘭語遺稿の翻訳・清朝秘録の出版・モラエス遺著の翻訳・西源院本太平記の刊行・聖徳太子憲法のドイツ語翻訳・愚管抄の英語翻訳・大日本外交文書の編纂出版・『御堂関白記』の複本作製・『帝王学』の刊行・国体明徴用書冊編纂(文部省)・『帝室制度史』編纂着手・等々一連の国粋文化宣揚運動など、思想運動として検討すべき現象は少なくないのだ。
 以上、一九三四年―六年間約二年にわたるわが国の出版読書界を通じて見た世相の一端である。
(一九三六)
[#改段]


25 文化統制と文化の「自粛」



 三六年度来の対支外交は一つの珍しい現象を呈している。成都事件・北海事件・を初めとして支那の所謂侮日事件は数え切れない程重なっているのであり、しかもその報道は細大もらさず吾々の耳に這入っている。処が新聞の論調を見てさえ、所謂世論なるものは至って冷静なのである。支那撃つべしという種類の民間ショービニズム商売人も商売にならぬと見えて、大して動き出さない。之は日本としては珍しい現象である。特にこの五年来の日本としては不思議な現象でさえあるのだ。それに一層不思議なことは強力外交を以て鳴っている軍部、強力外交のジェスチュアによって国民の人気を博している軍部が、なぜかその切り札を容易に出そうともしないことだ。
 処が大抵の軍の真相が吾々日本の民衆には殆んど判らないのが常である。どういう方針で何をやろうとして夫がどう進捗しているのか一般の国民には全く判らない。一般の国民どころではない。代議士さえが、本当の処を知ることが出来ないのである。或いは大臣さえが皆が皆まで、事の事情を知っていないのではないかと思われる。併し何と云っても最後の負担は国民大衆の肩の上に落ちて来るのだから――戦時的奉仕・大衆増加税・物価騰貴・其の他を含めて――、国民たるもの一日も晏如としてはいられないわけである。そこから様々の所謂流言飛語も民衆生存の必要上、発生するのであって、之は云うまでもなく社会が明朗性を欠いていることの何よりの証拠なのだ。
 それはとに角として、近時支那の抗日戦線を硬化させた原因の一つは、日独防共協定であると見ていいようだ。少なくとも之によって、蒋介石政権は、イギリス、フランス、アメリカに接近し、ソヴェート・ロシアとの連関を促進し、中国共産党との提携さえを企てるに至ったと見ていいだろう。而もこの協定が全く思想問題上の協定に過ぎなくて、軍事上の意義を有つものではないというのだから、当然国民の世論に謀って然るべきであったのに、相談は愚か、すでに外国人にいや程判っているにも拘らず、日本人自身には風聞としてさえ伝えられなかったのである。之は世界に於ける日本国民の名誉から云って、正に国辱物という他あるまい。この国辱は而も今回に始まったものではないのだ。
 だが之は別に政府当局に特殊な悪意や何かがあってそうしたのではない。日本の官僚(政府も亦日本では従来常に官僚的役割を果して来たことを注意しなければならぬ)のただの一つの習慣がそうさせたのである。勿論之は単なるビューロークラシーの特色ではなくて、主に明治の変革以来日本のビューロークラシーが有たねばならなくなった特色なのだが、それが今日段々清算される代りに、愈々助長されて来たわけだ。この習慣が助長されねばならなくなったことには、又一つ他に原因があるわけだが、併しとに角、日本的ビューロークラシーのこの習慣が、こうした日独協定の「発表」の仕方をば、何か当然なことのように行なわせたということに、変りはない。之が日本の文武半官僚政府の、言論文化に就いての社会常識なのである。この官僚的常識は官僚の秘密主義とか官僚の独善主義とか、呼ばれて、今まで問題にされて来たし、又現在大いに問題にされているが、併しこの官僚常識が有っている処の、文化統制上に及ぼす根本的影響や制約との関係については、あまり注目されていない。それというのも、官僚のこの秘密主義や独善主義を攻撃する直接の勢力が、野党政治家やブルジョアジーや又新聞の類なのだが、この連中は文化問題については何等の見識を持っていない場合の方が多いので、日本に於けるこの官僚主義が如何に日本に於ける文化統制の前提となり地盤となっているかを、認識出来ないのだ。官僚の独善主義には反対するが、日本流の文化統制には大賛成だというのが、この連中の頭のタイプをなすのだ。
 日本の文武官僚の所謂秘密主義は、云うまでもなく日本のデモクラシーの未発達と不具とを意味する。日本のブルジョア社会では本当の意味に於ける民衆(プープル)も市民(シトワイヤン)もない。民衆の総意というものもだから元来存在しないのである。日本に於て民意とか世論とか呼ばれるものは、実は一種のアナロジーに過ぎなくて、それは日本の「極東の平和」や何かと同じである。広田前首相が排撃を声明した所謂自由主義とはこのアナロジーに他ならなかったわけで、従って民意暢達などということが日本では如何にアナロジーに過ぎないかを証明したものだったのである。
 民衆(之は国民大衆だが)も民衆の世論もただのアナロジーとしてしか存在し得ない国情の下には、民衆による政治上の批判というものも亦あり得ない。民衆の自己批判さえもあり得ない。対他的な批判も自己批判もない処に、文化というものは決して社会的意義を持つことは出来ないのである。文化は文化ではなくて一つのデコレーションに過ぎなくなる。夫は文化ではなくて文化のアナロジーだ。だから、日本文化の数々を見るがよい。どれも何より先に装飾と玩具とを意味するだろう。日本に於ける美術や工芸や、音楽文学に至るまで、この基本的な特色によって貫かれているではないか。日本では文化それ自身は犠牲にされても、文化が他のものを犠牲にしなければならない程の真剣さを有つ理由が存しない。文化愛好者や文化趣味の傾倒者は圧倒的に多数であるが、実は文化の観念などは理解されていないのである。
 批判の渇望のない処に、文化の意義は成り立たない。思想が要らないからである。日本文化が如何に思想に乏しいか、そして之は技術の末に走るという風に云われるが、これは著明な事実だが、その社会的な根本原因は民衆と世論と批判との欠如であるのだ。文化が思想に乏しいのではなくて、文化自身が乏しいのである。今日デモクラシーの基礎に立たない文化は、真の文化と云うことは出来ない。文化の生命はその自由の内にある。自由とは批判の、又批判を介しての創造の、自由のことだが、この自由は特に民衆の大衆の政治的自由から発する。この淵源が、日本にはないのだ。いやあってはならぬと云われているのだ。所謂自由主義排撃なる広田内閣の声明は、このことを極めて下手くそに、曖昧に証明したものに他ならぬ。
 文化のない処は、自由というものの本当の姿が現われ得ないばかりでなく、元来進歩ということさえが疑問とされねばならぬのである。だから日本では何が本当に進歩なのか、一向判っていないだろう。革新というものが何であるかさえ判らないのだ。日本の支配者は、革新ということは良いことだと云って見たり、あまり良くないことだと云って見たりするのである。反動が革新的だということになったり、進歩が現状維持だということになったりする。
 文化と進歩の観念のない処に、ヒューマニティーの観念もあり得ない。日本に於けるヒューマニティーはアナロジーでさえないのであって、元来ヒューマニティーというものがなかったのだ。もし今日の日本のヒューマニズムというものが、こうしたヒューマニティーの観念の提起を意味するなら、それは全く意味の深いことと云わねばならぬ。と共に、こうしたヒューマニティーの新発見が今時必要とされるのも、進歩と文化と、批判と思想と、そして世論と民衆故にである、ということを忘れてはなるまい。つまり文武官僚の所謂独善主義と呼ばれる一連の規定に対立するものとして、初めてヒューマニティーの社会的意義が存すると云ってもいい位いなのだ。
 さて日本に於ける民衆の自主性の欠如、之は日本に於ける文化統制に対して、特別に有利な条件を提供する。ナチスの宣伝相ゲッベルスは、文芸のユダヤ的な自由批評を禁じて、ナチス的な公認批評の制度を敷いたが、日独防共協定が日本の毛筆で署名された歴史的事件(※(疑問符感嘆符、1-8-77))の二日後でもあるので、日本の民衆を少しばかり刺激した。無論日本には民衆は存在しないのだが、併しそれは日本やドイツに於て次第に失業者がいなくなるという、ああいう仕方に於て、官庁的に見ていないというのだ。だが考えて見ると、日本に一体どれだけの文芸批評が存在するのか、文芸の本当に民衆の立脚点からする批評が、どれだけ存在するのか、ということが問題だ。最近文芸批判というものの文芸上の意義が多少知られるようになって来て、色々の文芸批評の新しい試みがなされるが、どれを見ても文芸の社会大衆による批評へ向かって進むものとは見えない。批評ではなくて、多少とも主観的な偏極した解説の類が、この種の文芸批評の主流のようだ。そしてそういう性の評論がチヤホヤされている。して見ると日本に宣伝大臣が出来て「自由主義」的や「人民戦線」的な批評を禁止するにしても、少しも心配する必要はないようである。そして事実は日本では宣伝官庁の組織はまだ全く未完成なのだが、民衆的批判のない国に、そういう国家機関も不必要だからだ。日本には禁制されるべき程の文芸批評さえないのだ。
 日本の支配者、特に政府当局が直接関心するものは、言論である。之は主として内務省と陸海軍省との方針に出る。之は云うまでもなく言論取締りのイニシャティヴを取るのであるが、実を云うとその取締り方は必ずしも暴力的だとは云えないのである。と云うのは、単にそのやり方が都合のよい法律の施行を前提するという意味で(改正出版法、新聞紙法、治安維持法、不穏文書取締法、治安警察法、其の他)合法的であると云うだけではなく、その取締りと同時に世間の常識を牽制することを忘れず、又世間の一般常識に多少でもアッピールすることを忘れないからである。又単に世間の常識だけが目安ではなくて、一つの大義名分という公定の観念的儀礼をも頼りにするのである。日本では名目上どうしても反対したり批判したりすることの出来ないものが存在する。この神聖なタブーを最初に宣言した方が勝つわけだが、之によって民衆は一定の道義の礼服を着て物を云うことを強要されているのである。うっかり平服で物を云おうものなら、民衆は道義的お節介の好きな相棒から、中傷されるのだ。一般常識はお人好しの小市民層のものだが、この中傷ずきのお節介屋は右翼反動団体を以て随一とする。かくて民衆の言論は、社会的に最も(社会は民衆自身から出来ている筈なのに)強制されている。政府は之を適当に利用すれば、言論統制に於て大過ないというわけだ。
 言論の道徳的統制、之が自主性のない事大的な日本民衆の自発的(!)統制だが、処が言論上特殊な社会的地位にあるもの、編集者、出版者、筆者、其の他にはまた、もう少し別な自己統制が行なわれている。日本の放送協会のラジオが初めから官定放送の機関であることはよく云われる割合に民衆の憤激を買ってはいないらしい。国民がラジオを以て言論機関とも報道機関とも見做していないからで、娯楽用具と見ているからでもあるが、それ程国民は馬鹿なのである。そこでラジオ編集に於ては、統制という言葉の必要がない程、初めから指導的教化的に出来ているのである。ラジオ技術が民間の手によって発達しなかったことがこの状態を招いたのだ。
 ラジオに於ける言論統制は政府による統制に帰着するのであって殆んど経済的な統制に服していないが、新聞・雑誌・単行本・の場合には言論統制は大部分、営業上の利害を介して行なわれている。つまり出版法や新聞紙法其の他による発禁と、それに準じる社会的中傷とを、営利上恐れるからなのだ。従って之は一応、出版者側の自発的な統制にまつのである。政府はこの点極めてよく心得ているので、かつて寺内陸相が政党に向かって期待したような「自粛」をば出版関係者と筆者とに期待しているらしく見える。之は云わば言論報道(ジャーナリズム)の上での「自力更生」のようなものでもある。
 言論自粛に最もいそしんでいるのは日本の大新聞だ。単に記事掲載禁止が多いからではない、新聞はみずから進んで多くの記事を掲載禁止している。その有様はすでに政治的な恐怖や経済上の思惑さえも離れて殆んど道徳的な良心かマニアにさえなっているように見える。一つの趣味の問題でさえある部分が多いようだ。その証拠には二流新聞の或るものには可なりハッキリ云うべき処を云っているものがあるからだ。
 尾去沢ダム決潰事件は、その後裏面の事実が一向新聞に載っていない。聞く処によると、例の決潰に先立って数カ月前から二回もその危険に瀕し、工夫達が歎願書さえ提出していたという。それに当日の決潰に先立って、当事者の中には財産を予め山の中へ何辺も運んだ者も少なくなかったという。それから惨事発生と共に会社側は暴力団に武装をさせようとさえしたという話しだ。之は一つの噂であるが、こうした噂の真偽が判明しないのも、新聞がその社会的義務を充分果さないからなのだ。で一体なぜ新聞はこの事件、この重大な社会事件に就いて沈黙するのか。この種の統制はどこから来たか。どこからの経済的統制か、それとも政府のさしがねででもあるのか。――だがいずれにしても、新聞が平然とこの種の言論(?)自粛をなし得るというのが、抑々読者たる民衆の日本流の忠良さを利用したり夫に適応したりすることから来るわけだ。
 日本政府は一方に於て言論集会を極度に制限している。そうすればおのずから民衆は、公共的に物を云ったり書いたり出来なくなるから、私語私筆することとならざるを得ない。処が又日本政府は他方に於て流言飛語を禁止している。新聞記事の最も重大なものさえ、流言飛語の類とされる。例えば議院制度制限軍部案のニュースは日本中の新聞に殆んど例外なくのったものだが、それが文武官僚の公式発表でないが故に私語私筆となる。集会言論もいけなければ私語私筆もいけないという矛盾した方針は、一体どこから合理的に出て来るかというと、民衆がいないということを仮定するからである。民衆はいても之を無しとする、無視する、という心がけからでなくては発生し得ないロジックなのである。
 出版の検閲が注意深くなったと共に、映画検閲の発達はすばらしいものである。だが之を単に圧迫とばかり理解しては不充分だ。なぜというに、こういう場合となると実際には、政府は民間に対して相当相談づくなのだからである。政治の方針は、まず映画業者なら映画業者の自粛に俟つのだからである。之が映画統制の日本的形態である。演劇、レビュー、漫才、ダンスホール、等々の統制、皆この手に帰する。丁度官営労働組合を造るように、映画人の協会、役者興行主の協会、漫才師の協会、其の他其の他が出来る。文芸方面でもこの種のものがなくはない。――つまり指導の名の上に於ける弾圧、之がこの文化統制の特色で、而もそれが極めて円滑に「合法的」に穏和に持久的に、ジワジワと行なわれるのが、日本に於ける文化統制の特色なのである。民衆は自主性がなくて事大的だから、之が容易に出来るわけだ。
 イタリアに於ては労働組合は凡て官営組合に編成がえされた。処がドイツに於ては一切の労働組合が無条件に解散された。こういうドイツに於てこそ文芸批評や焚書という「野蛮な」文化弾圧が必要となる。日本の場合は今の処、大体イタリア型にぞくするようだ。そこの文化統制に見られるものは大体に於て慈悲深い指導なのである。思想犯の関係に就いて云えば特高課は本質的に思想犯保護観察所に転化し得るのである。尤も日独協定により日本の文化統制はナチス型に伝染するかも知れない。その時ひどい目に合うのは支配者とともに民衆の存在を無視しつつある文化的企業者でなければ幸いだ。
 処で最後に、文化統制に役立つ一般的原則は何か。世界的に共通なものを取って見ると道徳なのである。文化統制は一切の文化内容を道徳の名に於て弾圧し道徳の名の下に強要指導する。道徳振りこそ文化統制の、即ちファッショ化文化政策の、つまりファッショ化的デマゴギー文化の、切り札である。ナチ法律の新しい道徳的解釈法を見るがよい。又日本の治安維持法の「改正」の要点を見るがよい。どれも解釈の自由の余地を充分に残すべく「改正」されるのだ。之を法律の社会化などと考えてはならない。法律の道徳化なのである。こうなると何が合法的で何が非合法的であるのか、合理的には判らなくなる。道徳で決める他はない。非合理性で決めるというのだから、この道徳には反対も反駁も出来ないわけだ。そこで初めに、この道徳をかつぎ出した方が道徳的となる。かつぎ出された方は従って反道徳的になり即ち非合法な人間となって了うという仕組みだ。道徳ほど恐るべきものはない。特に夫が国民的信念というような法定常識によって裏づけられたり何かすると、もはや不可侵なタブーとなるのである。
 日本文化統制方針の、最近の道徳化振りは観兵式か演習かに、おさおさおこたりない。風俗警察がニヤニヤと舌なめずりをしつつあるのも之なのである(ダンスホール、レヴュー、其の他への弾圧、等々)。風俗の弾圧は思想の統制のジェスチュアなのである。文化の自粛の演習には之が手頃なのだ。
(一九三六)
[#改段]


26 その後の『朝日新聞』



 二・二六事件で東京朝日新聞社が襲撃されたが、当時の情報によると『東京朝日新聞』が都下の新聞紙の代表者として選ばれたものらしい。他の新聞社へは、気をつけないと『朝日』のような目に合わせるぞと云って歩いたそうだから、『朝日』はまず代表者であったわけだ。この名誉はまことに迷惑なものではあったが、併し必ずしも見当違いであったと云うことは出来ないだろう。とに角世間の通念から云うと、『朝日』こそ大新聞の代表者格である。それは色々の点に現われている。その社屋・記者・部数・内容の量質・其の他からそう判定されることは必ずしも誤ってはいないだろう。
 だがそれより大切な点は、該紙の所謂「自由主義」にあるのである。日本の現在までの新聞は何と云っても、官辺や軍部に対して自由主義の建前を取って来た。単に政治上の一綱領としての自由主義のことばかりでなく、それよりも寧ろ政治や支配現象に対する批判的な態度としての自由主義が、この際意義を持っているのだが、それが日本の新聞の一つの誇るべき伝統だったと云ってよい。勿論現代の新聞をこういう伝統の下にばかり理解することは、途方もない間違いで、今日の日本の新聞は批判や言論などはどうでもよくて、ひたすらニュースと末梢的センセーショナリズムとの追求に汲々としていることは誰しも認めていることだが、併しそれにも拘らず、矢張り多少とも批判的な自由主義で以て貫かれているという、古川に水の絶えぬ基調があることを忘れてはなるまい。吾々はそういうことは頭から当然のこととしているから、批判力の欠乏ばかりが気になって、批判力の常識的な発露に気をとめないまでのことだ。デマゴギー政府の宣伝御用新聞と較べて見れば、この点卒直に認めねばならぬだろう。それであればこそ今日、世間では新聞の衰え行く批判力にいまだに未練を持っているのだ。処で今日までの新聞のこうした自由主義を代表するものが、『朝日新聞』なのである。『朝日新聞』が日本の新聞紙の代表だと云われる点は、吾々にとってはここにあった筈である。
 従来批判的意識を持ったものは、日本では(勿論大抵の外国でもそうだが)インテリゲンチャである。無産者はブルジョア教育の水準が低いし、この教育上の不遇を蹴飛ばすだけの独自の文化意識もまだ持っていなかったから、要するに批判的知能は低かった。また日本の支配機構の枢要な椅子を占めるブルジョア・地主・政治家・軍閥・官僚・其の他は、日本では社会の文化の発達とはあまり関係なしに、伝習的な又は旧常識による便宜に於てしか知能生活を持っていない。之は日本に独特な滑稽な現象と云わねばならぬが、それで結局、批判的知能の所有者たるインテリゲンチャは、今はその大部分を中間層の中に見出すわけだ。処でこの中間層インテリの最も高級な分子が『朝日』の読者をなしている。だからこれだけでも明らかなように、『朝日新聞』特に『東京朝日新聞』(なぜなら文化の社会的に独自の勢力を持っているのは換言すれば東京だけだから――東京に於けるインテリ市民の重要性を見よ)は、中間インテリの少なくとも知能よりする利害感を代弁し、又それに基いて支配機構に対する批判の役目を果しているのである。而も『朝日新聞』の一般社会を通じての社会的信用によって、この代弁と批判とにはかえ難い権威があったわけだ。インテリ層に訴えるべき新聞が、全社会と社会の支配機構分子とに断然たる弾力を持っているということが、『朝日新聞』の交換すべからざる強みであった筈だ。『朝日新聞』の所謂「自由主義」とは之を指すのである。
 処が人も知るように、二・二六事件の直接の結果として、『朝日新聞』はその所謂「自由主義」を著しく控え始めた。之は紙面を目睹したものの詐ることの出来ない印象である。当然堂々と大々的に取り扱われるべき記事が、それが「自由主義」的な印象を与えそうだという理由だけで出来るだけ小さく取り扱われたり、骨抜きにして伝えられたりした。而も同じ事件に就いての他の新聞を見れば、『朝日』よりも遙かに卒直大胆に振舞っているというわけだから、『朝日』のこの態度は少なくとも一時は極めて腑甲斐ない印象を読者に与えずには措かなかった。一例を挙げれば六十九議会に於ける民政党代議士斎藤隆夫氏による対軍部質問批判演説だ。他紙では氏の言論を可なり忠実に言葉通りに伝えたに反して、『朝日』だけは処々要点や利き目のある言葉を抜いて、報道したものだ。之は一例に過ぎないが、一事が万事であったのである。
 紙面の編集方針の一変とも云うべき現象の背後には、勿論編集乃至全営業上のスタッフの交替と一般方針の変化とがある。下村海南氏は思わぬ事情から引退を余儀なくされたが、これは社内の自由主義的(例の意味での自由主義)勢力の退潮を物語るとも伝えられている。之を機会に社員の社外に於ける言論活動に箝口令が下された。否箝口令が実施されるに至ったと云った方がよいだろう。そして幹部による官僚的統制は極めて著しくなったとも伝えられている。果して『朝日新聞』は折も折、その宣伝版に自社の編集方針なるものを公表した。その内に含まれた綱領は全く、「自由主義」とは関係のないものであるばかりでなく、私の記憶に残っている処は、忠孝の道を教えようという種類の約束でさえあったように思う。
 推察するに、この編集方針の変化は、云うまでもなく単にファッショ的勢力に対する個人身辺の危惧によるばかりでなく、又営業上の不利益を想定したからばかりでもなく、却って単にこの機会を利用して知能上より下層の読者を捉えようという営業方針に出たものであろう。格調を落しても、根が『朝日』であるから従来の読者は他紙に乗りかえる心配はなく、同時に新しい下層読者も獲得出来ようという算段であったろう。この算段が果して当ったかどうか、私は知っていない。だが少なくとも従来の読者からは思い切り非難されているということは、私自身屡々出会う事実なのである。又こういうこともこの際、考えて見なければならぬのである。重要ニュースの大部分は今日官庁の公表であったり同盟通信を通したりすることによって、画一化されていることをどんな読者でも知っているから、天下の大勢を知るには必ずしも『朝日』を必要としないのだということを、思い合わせねばならぬ。して見ると批判的要素で以て押して行けば独自の王座を占めるべき『朝日』が、その批判的格調を落すとなれば、どっち道、重要ニュースは同盟や官庁発表のものを主とするのだから、もっと市井的な『東日』や『読売』や『報知』の方がよいということにもなるのである。事実私の友人には、半分裏切られたひいき読者としての感情も伴って、『朝日新聞』お断わりの貼札を出したものが、決して少なくはないのだ。
 尤も『朝日新聞』がこうした転身を少なくとも一時遂げねばならなかったのは、実はつまり『朝日』が代表的な新聞らしい新聞であったからである。出た釘が打たれたのである。その反動として二流紙以下の自由主義に引き退ったのである。実際二・二六事件直後から、二流新聞の方が却って比較的自由な言論を載せ得るだけの条件を持っていた。特に『報知』などはそうだったが、もし最近『報知』が多少営業上進出したとするなら、その原因の一つはここにはなかったろうか。新聞の発達の歴史は、新聞営業なるものが如何に戦争を契機として飛躍するものであるかを教えている。これは単にセンセーショナリズムによるのではない。社会事象に就いてのニュースと批判とに読者が信任と期待とを持つからだ。
 今日の読者の要求を考えて見るのに、新聞の格調が「自由主義」的であることは少しも読者を失うことではあり得ないだろう。之によって読者は殖えこそすれ、減少する心配はなかろうと思うのである。この際自由主義的であることは色々の内容を含んでいるが、まず第一に暴露的なニュースを提供するというのがそれだ。処で最近位い暴露的パンフレットの旺盛な時代はないだろう。この現象は新聞のニュースに対する一般読者の皮肉な冷笑を意味しているのだ。それ程読者は新聞紙の「自由主義」を要望しているのである。
 暴露ニュースと云えば従来私的な又は単に市井的な事柄を主としたものだが、今日一等興味を持たれているものは、正に政治的な暴露ニュースなのである。偶々『朝日新聞』記者による暴露記事のヒットとして、東株機構改革大蔵省案なるものが物議をかもした。恐らくこれは最も優秀な特ダネであり、その証拠には東株の立会停止にまで及んだのだが、処が恰も当時、何によらず官庁の公式発表以外のものは流言飛語浮説の類と見做される勢であったから(不穏文書等取締法案などがその宣伝となった)、社会的エフェクトの利きすぎたこの特ダネは、忽ち記者の為めにする処ある流言だということに、世間ではなって了ったのである。当時の事情から云えば、流言飛語のためにこそ戦わねばならぬ義理合いにあった新聞紙であるのに、『朝日』は社内的にはこの特ダネが根拠あるものであることを認知しながら、世間の浮説に和して、この優秀な記者を退社せしめている。後でこの記者達の正義は司法上明らかとなったが、『朝日』のみずから採った処置は事実上未だに取り返しがついていないらしい。
 この一事から見ても、『朝日新聞』(に限らぬ)が如何に自発的に自己の信念を世間的に割引きしているかが判るだろう。前に云ったように読者の要求がこういう態度を取らせるのでないことは明らかだ。それから又発売禁止其の他を実際に食う程度の内容の新聞紙が印刷される心配もない。もし恐れる処があるとすれば、一二方面からする社内身辺の危惧であろう。処で或いは、そういう危惧と営業上の打撃のようなものとが、表象の上で混同されて、社の幹部の意識に上っているのではないだろうか。とに角強制的というよりも寧ろ極めて道徳的に、『朝日』はその「自由主義」を自ら進んで、放擲して来たように見えてならぬ。――本当にそういう程度の謹慎が営業上現実的に必要なのか、それとも一種の思い過ごしや一種の賢明振りに基く新聞営業人らしいマンネリズムから来るのか、まだ検討に値いする余地は充分にあるものと、私は素人なりに考えている。『朝日』自由主義の中間インテリ的階級性を条件として見ると、益々そうなのだ。
 新聞社自身及び新聞紙面自身の相貌が、新聞記者達自身の意図と可なり別なものであることは注意しなければならぬ点だ。最高幹部乃至幹部級、幹部級乃至中小記者、との間にも又そのイデオロギーの開きがある。ばかりでなく縦断的にも亦イデオロギーの距たりがあるのである。実際どこでもそうだが、特に『朝日』は多数の社会的見識に於て優れた記者を擁している。だがその言論は極めて部分的にしか紙上に反映しない。例えば社説などは依然として『朝日』としての格調を失わぬと見ていいようだ。併し夕刊の「今日の問題」になると、恐らく大衆性を有っているだけに、ズット調子が変って来ている。利いたようで見当が違っているものが少なくない。中にはどういう心算でわざわざこんなことを云わねばならぬのか、判らぬことさえ時々ある位いだ。云わなくても済むことを、わざわざお世辞みたいに云い足すことは品の良くないものだ。
 それにしても、ひいきの読者が歯がゆがっているように、社内の記者の多数のものも自分の『朝日』に不満であるに相違ない。新聞記者は今日ほどその言論の自由を新聞社自身によって自発的に抑制されたことは少ないだろう。併し新聞記者に対する圧迫は、社内からばかりでなく、勿論直接社外の社会からも来るのである。この頃の官庁の記者クラブの記者は大体に於て官庁自身の発表をば掲示を待つようにして待っていなくてはならぬのではないだろうか。特に陸軍省海軍省の記者は大部分単なるラウドスピーカーたるに止まっているように想像される。記者は独自のニュースを手に入れることを許されないばかりでなく、発表のニュースの取捨選択の権利さえ、遺憾ながら持っていない。少しでも余計に報道することが必要だからだ。かくて新聞紙は重要ニュースは官庁のディクテーションに俟つ他ないということになる。軍関係の要路者には個人的にインターヴューが出来なくなり、合同会見しか許されないようにも聞いている。大演習に出張した新聞記者は、軍事的な制服を着せられることとなった。而もあてがい扶持のニュースを与えられるだけだ。何のことはないただの伝令に過ぎないのである。これでもなお新聞記者としての役割を果しているのだと思っているなら、吾々は新聞記者の不見識に驚かねばならぬだろう。之は何も『朝日』に限った話しではないのだが、併し『朝日』はこの際徒らに携行電送写真機の独占ばかりを誇っているべきではなかったろうと思う。――尤も記者団が、某軍部閣僚の車中談の態度に誠意がないというので、合同会見を打ち切って引き上げて了ったという事件もあったそうで、その音頭取りは『朝日』の記者だったとか聞いているが、之は寧ろ例外の場合と見ねばなるまい。とに角今日の新聞と新聞記者とは支配者から思い切り抑えられているのである。事ここに至ったについて、新聞代表『朝日新聞』の社会的責任は決して小さくはなかったのである。
 だが併し、その後、『朝日新聞』は、ややその本来の面目へりを戻した感がなくはない。勿論或る時期の所謂「自由主義」の水準はうかがうことも出来ないが、併し格調を落したなりにとに角一種の自由主義的水準を打ち樹てつつあるのではないかと思われる。他紙との差異は従前程目立たぬが、併し『日日』や『読売』に較べて見ると矢張り多少は自由主義新聞の意識を気にかけているらしい点が、まことにわずかであるが、感じ取ることが出来よう。少なくとも、支配層に迎合していることをわざわざ見せびらかすためらしい口吻は、著しく減って来たのである。
 尤もその後は少なくとも言論の上だけから云えば、新聞紙の本来の自由主義的色調に多少潤いを与えるような条件がなくもないからであろう。民政・政友・社大党・議院制度調査会・其の他による憲政擁護運動や、国会議事堂落成などが、今日一時的に新聞紙的自由主義を利している。憲政擁護運動がもし大衆的な支持を得且つ議会期にまで持ち越せるのだったら、或る程度意味のある運動になったろうが、併しこの動きを執拗に刺激出来る位置にあったものは他ならぬ新聞なのだ。新聞は新聞自身による憲政擁護運動を始めようと思えば、いつからでも始めることが出来る。私が思うに之は単に観念的な決意一つにあることではないだろうか。そう簡単に行かぬという新聞人があるなら、それは単に職業的マンネリズムから来る習慣的な反射作用なので、普通の社会的にはあまり通用しない無意味なエティケットに過ぎなくはないか。現代新聞が言論上無力である原因の一つは、専ら著しい事象にその出現当時だけ注意を集中して、それの後作用を執拗に刺激したり追求したりしない、ということだ。だから例えば仮に政治の憲政擁護運動が少し下火になりそうになれば、それより先に新聞の方がこの運動に見切りをつけて了うのだ。――所で動きを、特にこの種の割合穏当な形に於ける「自由主義」的動きを、執拗に追求し又反覆刺激し得るものは、依然として『朝日新聞』でなくてはなるまい。『朝日』にかけられている期待は今日でも依然として大きいのだ。
 以上私は『朝日新聞』について書いたが、それは新聞代表としての『朝日』について書いたことだ。だから要するに以上一切のことは多かれ少なかれ、一切の現下の新聞紙に適用するものに他ならないのである。
(一九三六)
[#改段]


27 言論の自由と統制



 言論というものは要するにイデオロギー活動に帰着する。吾々は今日の社会でイデオローグと呼んでいいような一群の人々を持っているが、今云ったような意味で之を言論家と呼んでいいだろう。例えば文士や評論家や政治家や又一種の学者など、対社会的な文筆演説の活動で生活している種類の人間が夫である。こうした言論家や、又新聞雑誌等の言論機関は何等かの意味での、又は何等かの範囲での、諸社会のイデオロギーをみずから代表して言論をなすのである。
 この際、その文筆出版活動なり演説活動なりがその背景になっている夫々の何かの社会集団の命令に基いているにも拘らず、矢張りその言論家乃至言論機関自身の独自な独創的な対社会的な意志から発動したという条件がなければ、そうした活動も少なくとも言論の名には値いしないのであって、例えば他人からディクテートされた書き取りなどは、自分自身の対社会的意志の発動とは無関係だから、言論ではないということになる。政治カブレした地方青年の政談演説や、雄弁大会の弁士の弁舌は結局物真似の動機に基くのであって、独自の主張を社会に向かって示そうという必要を何等意欲していない点で、本当は言論の内には這入らないものだ。だから言論というのは一定の個人なり機関なりの主体のイニシャルな主張を離れては成り立たないので、その意味から云っていつも言論は自由でなければならないのである。丁度、倫理学者や哲学者が考えるように意志はいつでも自由でなければ意志でないと同じ意味で、言論はいつでも自由である他はないのである。だがこういう「言論の自由」は言論が事実上どんなに圧迫され蹂躙されている時でも、依然として自由であることを失わない自由であって、従って実際問題としての言論の自由とは全く無関係なのである。夫は凡そ言論という観念にはつきものの先天的に見出されるただの名目上の自由に他ならないのであって、言論は「自由意志」の問題と全く同じに、同義反覆的に自由なのだ。従ってそこからは言論の自由について何らリアルな解決は期待出来ない。
 実際には、イデオロギー活動に帰着する筈であった所謂言論が、一定の社会集団を背景とし、そこから一定の指令を受けているという関係が、言論の本質的な点をなすのであって、この点から考えて行くと、言論はもはや決して単に自由なのではないということが判る。言論が言論である限り夫は自由だが、併し言論がイデオロギー活動である限り、夫はいつも不自由なのだ。という意味は(他の場合でもそうなのだが)言論は単に無条件に機械的に自由であったり、又不自由であったりするのではなくて、一定の与えられた客観的な条件に照して、それが自由であるか不自由であるかが初めて正当に問題にされ得るのである。丁度ある特定の与えられた主張や思想に就いて初めて真理と虚偽との区別があり得るのであって、之を離れたただの「真理」やただの虚偽が実際問題としてはナンセンスであることと之は少しも異らない。
 だから言論の自由という問題はいつも実際問題としてしか意味がないのであって、之を何かアプリオリなトランセンデンタルな一般的な論拠から論じようとすれば、議論の結果は必ず滑稽なユートピアになって了うか、それでなければシニカルな無力無抵抗主義に陥るほかはないだろう。
 さて、一切の言論は歴史的に決められた社会的常識から出発する。社会的常識というのはその社会の物質的根柢に基くイデオロギーの平均値に他ならないが、之から出発する言論なるものは仮にそれが出発以後、この社会的常識の水準を越え、或いは逸脱し或いは此の社会的常識の一種の否定になる時でさえ、この社会的常識の地盤である社会の物質的根柢によって制限されている他はない。そういう意味で言論はさしあたり、いつも社会全体から社会的常識によって、統制を加えられている。
 だが、こう云った限りの段階に於ける社会的常識は、それ自身が一方では固定した観念を引きずっていると共に、他方では云わば自然発生的な進歩をするものだという一つの事実を忘れてはならない。従って此の段階に於ける社会常識による言論統制は、決して首尾一貫した不変な内容のものでもなければ、まして意識的に計画的なものでもない。この段階では、非常識な言論は、高々「変な」考え方として、社会から疎遠感を以て報いられるに止まるだろう。
 だが実は社会は決して単元的なものではなかった。第一に全体社会の内にはいくつもの小社会が並立しているのであり、第二にそのどれか一つの小社会が社会全体に対する関係の意識は、夫々の小社会に取って別々であるし、更に第三に社会階級の対立を観点に入れて来ると、今云った之等の小社会の間の経済上政治的支配上の対立の意識が極めて明らかになって来る。
 こうした特殊小社会(尤も之はどれも結局は階級的な対立を結果するのだが)になると、社会による言論の統制――制限は愈々狭く窮屈になると共に、その統制――制限が次第に意識的計画的になって来るという点が大切である。第一に、例えば宗教団体などの内部では一般の社会で問題にならない程度の反宗教的乃至非宗教的言論が極度に真剣な問題として意識される。アカデミーの内部では一定の学派的伝統があって、之を少しでも外れたテーマやスタイルはそれが真理であるなしに関係なく、一概に悪いことになっている。
 第二に、宗教団体やアカデミーのような特殊の小社会の内部にだけ問題を限らずに、特殊な小社会相互の間の関係に問題を持って行くと、ここでは全体社会の内部の対立関係が、社会全体に於ける言論統制の最大の要素になるという点が、ハッキリして来るのであって、商品ジャーナリズムに於ける言論の統制などがその好い例である。この言論界では社会的常識を著しく越えたり逸脱したりした言論は、絶対に無視され沈黙させられて了うが、それは云うまでもなく出版資本乃至一般資本の経済的又観念的な要求に従わねばならぬからであって、而も社会全体の言論自身がこの資本による統制によって制約される結果となるのである。
 第三に、この特殊な小社会相互の間の対立関係が、更に社会の政治的な支配関係をもった階級対立関係にまでハッキリして来ると、言論統制は最も意識的で計画的となる。ブルジョア社会の政府は法律によってこの統制を企てるのであるが、ここでは、統制に服さない言論が単に無視されたりするだけではなく、処罰されねばならなくなる。だから之は言論の統制の名目の下に実は言論の圧迫を企てるものに他ならなくなる。内務省が一時目論みつつあったニュースの国家統制案(ニュースは凡て内閣の情報部を経なければならぬという)や軍部が計画したと云われる通信社の合同、また出版法の改正計画などは、言論界統制の名の下に行なわれようとしている言論の抑圧なのである。言論に対する現在の検閲制度臨監制度とは、言論界統制の名の下に言論抑圧を企てようとするこの関係を、最も露骨に物語っている。
 最後に大事な点は併しながら、この行政上の言論抑圧が、単に刑事上の処罰と逆行して行なわれるばかりではなく、或る意味では当然なことながら、之が直ぐ様言論界のジャーナリズムに、夫々の小社会圏に、又一般の社会常識自身に反作用することであって、こうして例えば一般的な社会常識が、仮に自分自身の立場からは忍ぶことの出来る程度の「自由」な言論でも、政治的支配の一定の必要から来るこの行政上の言論抑圧に倣って、之を抑圧しなければならなくなったり、或いは又社会的常識自身が我慢できない固陋な言論も、行政上から来る一種の奨励に依って、之を奨励しなければならなくなるという点なのである。
 こうやって社会常識は分裂を余儀なくされておのずからコラブトして来るのであるが、こうした「言論統制」の社会に住む市民達は単に行政上の必要から刑事処分を受ける危険にさらされるばかりでなく、そこから直接間接に来る結果として社会的便宜や社会道徳圏から見放され、従って社会的経済生活からも見放されることになるという、決定的な危険に著しく曝され勝ちなのである。
 でこうなると、言論の統制というものはもはやただの言論活動の統制などではなくて、人間的生存そのものに対して生殺与奪の力を振るう云わば牧畜的統制にさえなるのである。「言論の自由」と云う実際問題はこの点に横たわるのである。
(一九三四)
[#改段]


28 日本のラジオ



 ラジオ、無論日本のラジオ(私は之に日本ラジオという敬称を与える)であるが、このラジオの放送の内で最も尊重すべきものは正直な処音楽だと思われる。娯楽としては云うまでもなく、教育の観点から云っても、ラジオ放送が音楽の世界に多大の貢献をしていることを認めないわけには行かない。この点に就いては、亡くなった須永克己君が中々よく説明を尽している(同氏遺著『明日への音楽』参照)。処で音楽に次いで優れたものは時事解説と産業ニュースだろうと思う。少なくともAKの放送(AK以外の放送は云うまでもないだろうと考える)の凡てを、腹立てずに聴き尽すことはムツかしいのだが、時事解説と産業ニュースとだけは、大体好意を以て聞く気になれる。
 処で私は或る日偶然、経済学博士牧野輝智氏の時事解説「列強国防費の状勢」というのを聴いた。非常にくどい話しで時間の割に内容の分量が極めて乏しく、要するにイギリスの国防費は約三十二億円で、アメリカの夫は三十五億円でソヴェート連邦の夫は三十七億円とかであるに対して、日本の国防費は当時十億五千万円にすぎない、というのである。年度別を比較することによって、如何にこの四列強の国防費が年々増加しつつあるかを示す以外には、内容は全く右の他へは出なかったのである。
 無論内容の分量が乏しいということは苦情にはならぬ。問題はその内容の質にあるのだ。だが私が不審でならなかったのは、列国の国防費の円単位数量と日本のとを単純に比較することによって、一体日本の国防費に関する何か意味のある観念が得られるのだろうかという点である。物価も違い労賃もまるで違う国の円価単位の国防費のただの比較が、一体日本の現在の国防費が大きいか大きくないかを決める何等かの理由になり得るだろうかと思うのだ。それに列国の総予算の内で占める国防費のパーセンテージも示されてないのである。日本の国防費が外国の国防費の三分の一にも足りないと云った処で、殆んど何等の意味もないではないか。――だが勿論、博士は一つの主張を有っている。と云うのは、日本の国防費は莫大であるかのように云われているが決してそんなものではなくて、実は列国の三分の一にしか過ぎないのだ、という政治的結論がその主張なのだ。之は明らかに政治的意図を以てなされた時事解説である。而も甚だ説明の不親切な、疑問百出するだろう処の時事解説である。
 私は今別に牧野博士の所説自身をとや角いう心算ではない。興味は日本ラジオの時事解説なるものに於ける政治的言論にある。いや一般に、日本ラジオ放送に於ける政治的言論にある。処で時事問題は本来全く政治的なものだ。夫がただのニュースであっても政治的本質を有っている。まして之に就いての解説は、それ自身、元来が政治的言論なのである。このことは新聞紙法によっても出版法によっても実証出来ることで、時事問題を取り扱う新聞雑誌は、政治的言論をなすものとして一定の保証金を納めねばならぬ。つまり代議士や府県会議員の候補者が保証金を納めねばならぬのと同じ政治上のモティーヴによるのだろうと思う。処が日本ラジオ放送に於ける時事解説なるものは、実は却って、政治的言論から殆んど全く離れて了っているということをその大切な特色としているのである。この解説には一見たしかに何等の政治的意見も含まれていないのが常だ。そしてこの時、解説が超政治的であることこそ、実は時事解説の価値のある処だ。他の日本ラジオ放送の内容のように政治的でないことこそ、時事解説の聞くに耐える唯一の理由なのだ。
 政治的であるべき時事解説が一等政治的でないということは、皮肉でもあり、不自然でもあるが、併し実際からいうと、講師の各々は可なり上手に、云わば客観的に、事実を事実として述べるに止めるというやり方を心得ているのである。だから之だけはあまり腹を立てずに聞くことが出来るのだ。――だが何と云っても不自然なものは不自然である他はなく、時事解説に政治的意見を入れずにやるということは、本当は極度に困難であり殆んど全く不可能なことだということを見逃してはならぬ。多くの講師は聴衆を上手に欺くのである。だが夫は政治的言論を全く抜きにしたような外見を装うことが上手であるというに過ぎぬ。だから一寸油断すると、すぐ様時事解説の政治的本質の鎧が、衣の袖の下からはみ出すことになる。牧野氏の場合など、こうした不手際の単なる一例に過ぎない。だがそれにも拘らずラジオの時事解説がその政治的本質を露出したら、それで時事解説の唯一の取り柄はなくなって了うのだということを、覚悟しなくてはなるまい。全くつらいことだ。
 併しこのつらい兼ね合いは、実は決して単に時事解説の場合だけではないのである。日本の放送局の放送全体が、このつらい兼ね合いの上に成立を強制されているのである。娯楽(文芸部)はまあ後にするとして、社会教育(教養部)やニュース(報道部)は元来が政治的な本質のものだ。ニュースが政治的・時事的・な本質のものであるということはさっきも述べたが、社会教育も亦日本のラジオのように初めから厳重な統制化と単一化の下に置かれている場合、完全に政治的機能に他ならぬことは云うまでもあるまい。実は娯楽でも厳密に云うと政治的に統制されるのであり、少なくとも統制が出来るように支度されているもので、つまり放送一般が元来、政治的なものなのだ。之は尤も何も不思議なことではないので、ラジオ放送というものが、ジャーナリズム形式の内で一等大衆的普及性を持っているものなのだから、ジャーナリズムなるものが一般にそうした政治的言論的本質のものである以上、当然至極のことだと云わねばなるまい。
 処がこの政治的本質を持っており、従って当然自分のこの政治的本質を正直にいつかは告白しなければならぬ宿命に置かれているラジオ放送が、日本では超政治的な仮面をかぶることを強いられているのである。之が日本ラジオの特色である。逓信省や放送協会の根本方針は、何よりも放送を政治から切り離すことであり、或いは切り離したように見せかけることである。所謂政治放送は広告や宣伝と同じに、禁止されているわけだ。でこの兼ね合い位い神経をつかれさせるものはない。放送局は云わば不抜の神経衰弱症に初めから陥って生まれついている。生まれるとから自分を佯り大衆に嘘をつき、而も積極的な嘘だけではなくて、云う必要のあることをわざわざ云わずにおくという種類の嘘をもつかねばならぬという、因果な身の上なのだ。
 勿論この身の上は日本の官許単一統制放送制度に由来している。だがそれだけがその充分な原因をなしているのではない。なぜというに単一統制放送制度の国でも、政治放送は行なわれているのであり、寧ろそういう国でこそ政治放送が強化されているのだから。して見ると日本ラジオの例の因果な身の上は、日本の政治事情と政治観念との特殊性に実は由来すると云わねばならぬので、一体日本の政治の特色は民衆を政治から、或いは政治という観念からさえ、出来るだけ遠ざけようとすることに存するらしい。出来るなら民をして知らしむることのないようにするのが、日本的政治、マツリゴト、の本質のように見える。この日本的マツリゴトの道具としては、日本のラジオは殆んど理想的な条件を備えている。――日本の新聞はその起源から云うと、之とは全く反対な性質を有ちながら生まれて来た。今日のように単一ニュース源に基いた政治支配層の御用紙となったのは無論ズット後のことで、又最近のことだが、初めはそれは正に政治的観念のラウドスピーカーであった(明治の初めの所謂「大新聞」が夫だ)。雑誌、評論雑誌、も亦新聞のこの政治的機能とからみ合って発達して来た。だからどれもマツリゴトには都合のよいものではない。之は仕方がないとして、その代り今から十年程前に出来た日本ラジオだけは、初めから「マツリゴト」用のジャーナリズム機関だというわけである。そこで日本の放送なるものは、凡そ政治とは独立なものでなければならぬという原則が確立したのである。
 だが注意しなければならぬのは、政治という観念が、この場合には或る特別な意味を有っているということだ。いやこの場合に限らず一般の場合にも往々政治というものは日本ではある特別な意味に理解されている。一言で云えば、政治というのは、政党政治のことなのである。と云うのは支配者が被支配者を支配するということは必ずしもまだ政治ではなく、夫は要するにマツリゴトの類なのであって、政治という熟語は自由民権式な形態に於けるブルジョア・デモクラシーの議会政治を指すものであったのだ。そういう意味に於ける政治から、独立せねばならぬと考えられたものが、半封建的な日本のブルジョア官僚であり、特に武官官僚の一群であった。軍人の政治からの独立とは実は之だ。処で日本ラジオは日本軍人と殆んど全く同じ意味に於て、政治から独立である。ただ後者の政治からの独立が明治の初年に成り立ったに反して、前者の夫は昭和の初年にぞくするというだけが違っている。満州事件以後二・二六事件の時期に至るまで、日本ラジオが日本軍人に並々ならぬ好意を示したということは、だから決して偶然ではない。
 軍人の政治的権限に就いては近時の議会で色々問題になったように、実際は、単に政治から独立だ、という見方では片づかない。つまり政党政治から独立だということが、政党政治が政治の原則であり得なくなったと考えられようとしている場合に、決して政治全体からの独立を意味しないことは理の当然だろう。その際政治という観念が予め明らかにされていないのだから、軍人が政治的権利を有つか持たないか、に就いて、思い切った断定は事実上許され得なかったのは、無理ではない。――処でラジオだが、ラジオの場合には、単に政治という観念が明らかでなく曖昧極まるものとされているばかりでなく、実は却って政治という観念をそういう風に曖昧な触るべからざる祟り物として敬遠する必要が特にあったのだ。なぜなら、軍人の政治的権限の問題の場合には、政治的支配者自身の主体が話の主人公だったが、ラジオの場合には政治的支配者の道具が話のテーマなのだ。主人にとっては政治という観念は必要だが、主人達の使う道具の分際では政治などという観念は有害無益なことだ。忠犬が一々主人の命令の理由を質問しては困るのである。それで日本ラジオでは、さし当り政党政治もマツリゴト政治も一緒くたにして、どれもうけつけないという建前になっているのである。日本ラジオがその政治的な本質、政治的な使命、を自覚しているかいないかという判定は甚だムヅかしいわけだ。どこまで夫を自覚してよいか、どの程度に自覚を止めておくべきか、という例の兼ね合いが、ムヅかしいのである。丁度命令によって人を殺した者が殺人の責任者となり得るかどうか、ということと同じにムヅかしいのである。そこで、ラジオの政治放送なる問題は、特別に厄介な問題を孕んで来なければならない。
 日本ラジオは、あれでもとに角ラジオというジャーナリズム機関である以上、どんなに超政治的な限定を強制されても何とか政治放送の類をやって見たいのは自然である。そこで一九三五年の総選挙に際して、AKは国民の政治的認識を高めるためと称して各政党の選挙放送を企てた。之は内務省の諒解を得たに拘らず、直接の監督官庁である逓信省の許可を得ることが出来ないので、お流れになったのだったそうだ。で今度は一歩を譲って、各政党の代表達をして、「伸び行く日本」という題で思い思いに話しをさせるということを試みた(一九三六年七月三十一日「政治家の夕」)。之は、日本ラジオとしては確かに括目に値いする現象と云わねばならぬ。民政党の山道襄一、政友会の安藤正純、昭和会の内田信也、国同の清瀬一郎、社大党の安部磯雄、の諸氏が政治を語ることになった。
 この政治家という種類の人間が、銘々一体どういう話しを喋ったか、私は不幸にして聴かなかったから判らない。中野重治氏によると(『都新聞』)その内には俗論聞くに耐えぬものがあったそうだが、私は別に驚かない。だがやや驚くべきことは、一等興味を有たれていた社大党の安部磯雄氏の講演がやらない内から中止になったということである。都下の各新聞が伝える処によると、放送開始一時間半前になってから、急に安部氏に草案の改訂を要求したとも云うし、又他の放送を要求したとも云うのである。色々注文をつけて書き直させた上で草案を受理しておきながら、間際になって急に改訂してくれと云って来たので、安部氏は党議にかける余裕もなし、書き直す時間もないので、断然断わったが、夫が正にAKの思う壺だったのだろうという観測だ。社大党が憤慨して逓信省と放送局とに釈明を求めたことは、人の知る通りである。
 教養部長の小尾範治氏(之は紀平正美博士と兄たり難く弟たり難い人物である)によると、安部さんの原稿は社会大衆党の政策に触れたり電力統制問題など政局の批判にわたる処があったので、逓信省の命令によって再訂を要求したのであって、原稿の届き方が遅かったので時間が間に合わなくなったのだという。とに角改訂の理由は草案が政治に(と云うのはつまり政党政治に)触れてブルジョア・デモクラシーの政党としての社大党の主張が這入って来るという形式的な点と、それから社大党の社会政策的な政治的見解の内容とにあるらしい。安部氏は語っている(『東京日日』)、要するに「資本主義をやめろというのがいけないんですよ、『伸び行く日本』という題でやるなら私は資本主義をやめなければ日本は伸びないと思っているのだし、それがいけないというのなら止めるより仕方がありません」。――ブルジョア・デモクラシーの政党の政見の方はもはやこの際大した問題ではない。社大党が憤慨する処によると、他のブルジョア政党の人達は政治的意見を述べなかったのではないじゃないかという。問題はだから社大党にほの見える資本主義修正という社会的見解なのだ。つまり安部氏に語ることを許さなかった点は、所謂「政治」的な政見、政党の意見の方ではなくて、多少とも社会主義的な本来の意味に於ける政治的見解の方なのである。この「政治家の夕」の企てによって、AKは「政見」は放送してもよいという前例を獲得した。だが同時に「政治的見解」の方は、決して放送してはならぬということを自覚したわけである。
 この夕べを機会にして、日本ラジオはその政治という観念に就いての一つの自覚を得ることが出来た。所謂「政治」としての政党の与太お喋りは、まず放送に適する。だがこの政見的お喋りと政治的見解との間には画然と引かねばならぬ境界の一線がある、ということが分析されるに至ったのである。之は政治に犯されることのない筈の日本ラジオの、処女の身の上にとっては喜んでいいか悲しんでいいか判らない経験だ。
 だが話しをそう正直に取ってはならぬ。日本ラジオを政治的に無垢だなどと思っていると大変な間違いなのである。日本ラジオはずっと以前から、所謂政治(政党的政治事象)と本来の政治(支配者による支配)との区別などは、チャンと心得ていたのである。政党物としての所謂政治に色眼を使わないというポーズによって、一般に政治なるものに対して無垢だというように、世間に向かって何食わぬ顔をしていたのだが、夫は実に或る一定の支配者政治にひそかに秋波を送るための擬装に他ならなかった。この秋波の相手が何であるかは今更ここに云う迄もなく、世間に知れ渡ったことだ。それは朝の修養の時間から所謂講演に至るまでを一二日分聴けば判ることである。ただこの相手は、社会大衆党派の資本主義修正案の内にさえ、民衆の政治的動向を気づかずにはおけぬ程に、嫉妬深い旦那なのである。ジャーナリズムとしての独自性を殆んど全く有つことなしに生きているこの日本ラジオは、実に悪い旦那を有ったものである。
(一九三六)
[#改段]


29 ラジオと大学教育



 ラジオが教育と直接関係を有つのは、教授手段としてである。講演も一つの教育乃至啓蒙の目的を有つものと考える限り、一切の講演はラジオという手段でその要点は用を足すことが出来る。講演者の顔や姿を見たいという場合はこの際問題外で、それは講演の本質にぞくするよりも寧ろ演技か何かの一部分だろう。少なくとも教授手段としての講演の要素ではない。講演者のジェスチューアなども実は無視出来ない要素だが、演説でない限りそれ程重大ではないだろう。尤も日本人の学術的又は教育的な講演がジェスチューアに乏しくて生彩を欠いているといわれる点は、注意に値いするが、併しそれだけに日本流の講演はラジオで充分に教育的効果を挙げることになるとも云うことが出来よう。親しく声咳に接することによって聴講者が受け取る講演者の人格的影響というようなことになると、どの程度に信頼していいものか私には疑問だ。特に講演の内容が学術的で理論的である場合は益々そうだ。
 テレヴィーにまで発達していない今日のラジオで、講演を再生するに欠けている重大な要素は、併し、終局に於て云わばチョークによる解説が不可能だということにあるだろう。コレとかアレとか、コッチとかアッチの方とか云いながら、指で指しても判る筈の、直観的な省略方法が、ラジオでは一々不自由な言葉に直されなくてはならぬ。もしこうした直観的解説の仕方もまた講演者のジェスチューアだというのなら、その限りジェスチューアも亦決して無視出来ない講演の要素だと云わなくてはならぬ。
 処でラジオ講演の持っているこの欠点が、ラジオによる講義の場合には一層重大な意義を持って来る。敢えて図解でなくても、名称や人名をチョークで書くということは、聴講者に対して便宜上の要点々々を印象づけるのに何よりであり、又この印象づけを機会にして講義に抑揚をつけるということは、非常に効果のあることだ。之は少し専門的な講義をした経験のある人が、斉しく認める処だろうと思う。この便宜がラジオによる講義には全く欠けているのであって、之を補う代理のものも大部分は之に匹敵した価値を持たない。――尤も大学の法学部に於ける講義の類は、主に教授の原稿朗読とそれの速記者的筆記につきるから、この欠点はあまり重大ではなく、プリントで間に合わせている学生が沢山いる位いだが、プリントに較べればこの講義のラジオ放送の方が遙かに効果的だろう。併し第一こういう速記的聴講法は決して尊重出来ない教授法であることを忘れてはならぬ。恐らくこの伝統は日本の大学の法科万能主義とその意味に於ける官僚万能主義とに関係があるだろう。法律について理解し考えるということよりも、法律とその解釈とを矛盾のない形で覚え込むということが、官吏養成の急務であったために、大学の講義がそういうものとなっても誰も怪しまないのである。日本では今日でも法律書生の伝統の残存物が強い影響を有っているので、法科の学生の数は圧倒的に多いから、いつの間にかこの種の講義様式が大学の「講義」の仕来りと見做されるようになった。それにこれ程聴講の精神に反した教授方法はないので、書いている間の聴講者は、自分が何を書いているのか、本当は少しも判らないものなのだ。私は考える。一切講義は聴きながら理解して、その理解した処を学生独自のその場の工夫でノートしなければいけないものだと。
 で法科的な筆記式講義は大学の講義の代表者どころではなく、却ってその最もナンセンスな形であって、官僚の条文至上主義と同じ本質に帰するものだが、これならばラジオ放送で充分に用を足すことが出来る。現に大きな大学の講堂や講義室にはマイクがすえつけてある。之はやがてこの種の大学講義がラジオ放送に移行出来るものだということを証拠立てているだろう。
 だが原稿(又は著書)の朗読とそれの機械的速記録作成とは論外として、とに角大学其の他の講義が一部分でもラジオ放送化し得るということは、文化史上極めて重大な意義を有っていることは云うまでもない。ラジオは前に云った直観的方法を欠いているにも拘らず、あまり直観的手段を不可避な条件とはしないような講義ならば、ラジオ放送で充分その目的を達することが出来よう。この点問題は大学講義の大衆的解放ということに関係しているのだ。日本の大学は徹底的に非大衆的であることをその特色としているし、又その矜りとさえしているのではないかと思われる。なる程どの大学でも夏季大学式の庶民向きの講座は開講する。だが学生向きの講義そのものを許す範囲で大衆に聴かせるということは、あまり考えられていない。庶民向きだから講義の調子を下しているという風にばかりは云えないが、庶民向きの講座は夫として、別に学生に対する講義を或る程度に大衆に公開するということは、学術の大衆化にとって重大な意味のあることだが、それをあまり大学当事者は心がけていないらしい。勿論それには無理からぬ理由がある。学生は少なくとも一般の市民に較べて聴講の優先権を享受しなければ不合理だろう。もし無条件に大衆に一般的に講筵の座席を公開するなら、確かに大きな不便を来たすかも知れない。だが、そこにこそラジオ放送の有用な処があるわけだ。少なくとも講義の一切のものはラジオ放送として不充分であろうとも、一向に不都合のあろう筈はないからである。大切で立派な講義ならば之を聞かせおしむということは筋の通らない話しだし、学生には聞かせても庶民には聞かせてはならぬという講義も、あってはならぬ筈だ。而も教授も、独り学生のみならず、一般市民がその講義に立ち会っているという意識から、世間に出してはずかしいような馬鹿げたことはあまり云わなくなるだろうし、優れた教授ならば講義の仕栄えも一段とあるわけだ。
 一般の専門外の聴衆を相手にすると思えば、初学者に高級な学術を説明する場合のように、講義がしにくくなるということは考えられるかも知れぬが、併し一般大衆に向かって話しをする心算になれというのではなくて、学生に対する専門の講義に一般市民の立会いを許せというのである。専門の講義に、専門の予備知識のない素人を立ち合わせて何の意味があるかと反駁するかも知れぬが、決してそんなものではないのである。専門的な理論の可なり大多数のものは、その内で常識の卓越性が演じている役割が極めて大きいものだという、一つの事実を知らねばならぬ。有態に云うと法科などの講義の可なりのものは常識に帰する。であればこそ、私立大学などへ行くと、学部の学生も、専門部の生徒も、同じ講義を一緒に聴くということが、事実上不可能ではないわけだ。常識的だから無価値だなどと云うのではない。却って常識的であればこそ、この種の理論や学術は特有なムツかしさを持っているのであって、このムツかしさをマスターした教授達は、恐らく素人市民の立会いが自分自身の授業内容や研究や、学生への刺激にとって、何を意味するかを知っているだろう人達だ。
 こういう学術の大衆化、民衆に向かって通俗化された学術を恩恵的に分ち与えることではなくて、学術への接触の機会を大衆に解放するということ、そしてそれに連関してその学術自身の真実をもおのずから陶冶出来るという微妙な関係、この関係は特に社会科学に就いてはフェータルなものなのだが、この学術の大衆化について殆んどハッキリした認識を有っていないブルジョア大学のアカデミー振りは、ラジオ放送化によっていつかは動揺する時を有つだろう。尤もその時、講義がその学術的価値を保てるかどうか、寧ろその被覆のない真価を暴露して俗流の講話の段階に堕するものがないかどうか、それは保証の限りではないが。――この時大学はその可なりの内容をどの家庭の内にも移し入れることが出来るようになるわけである。今日の大学は随分不経済な存在だ。二十四時間中の大部分は、その建物なり施設なりが遊んでいる。ラジオはこの不経済な大学を相当に大衆にとって経済的にすることも出来るわけだ。
 もしテレヴィジョンが発達して今日のラジオ程度に普及したならば、この種の大学講義の放送は殆んど全く非の打ち処のないようになるだろう。アカデミシャンと雖も、学生に対する講義の大部分が同時に大衆へ放送されるということを、拒む名目に苦しむに至るだろう。それとも大学は依然として神聖なものとして止まらねばならぬだろうか。
 だが以上の話は単に、大学に於ける講義という形態の授業についてだけであり、而も例の法科風の朗読講義についてだけであった。要するにこの種の「講義」は講演と大して別なのではないのである。そう考えて見れば、ラジオ放送によるこの種の講義の大衆化が、愈々当然になるのだが、それと同時に、これ以上の授業様式になると、すでにラジオ放送という手段の欠陥が段々目立って来るだろうということにもなるのである。すでに朗読式講義以外の場合の講義では、その直観的方法やその意味でのジェスチューアの役割が如何に大きいかを説いた。そして講義の朗読式なものは何と云っても学術授業の形としては間違っているのだと云った(他の便宜のためならば恐らくこの形式が一等役に立つのだったが)。講義がラジオ放送によってどうしても再生出来ない場合は、講読乃至ゼミナール式演習だ。之は今の処、テレヴィー式電話によってもその代用物を発見出来そうにないものだ。而も演習や講読こそ、大学に於ける講義の最も大学らしい、大学に特有な形態でなければならぬ。
 それから、ラジオ放送によって決して代位出来ないものが、実験と実習であるのは云うまでもない。実験や実習に関する講義ではなくて、実験や実習自身のことである。或いは之は大学の講義乃至授業プロパーに這入らないものと考える人もあろうし、這入っても片隅のような位置にしか置かれないものだと考える常識もなくはあるまいが、そういう常識は勿論ただの無知をしか意味しない。言論的な講義、というのはつまり演説式な講義、が大学の講義の代表物であり得ないことは、常識のある人間の当然の常識だろう。そこで物理や化学、数学などの講義が一体ラジオ放送で代行出来るだろうか。独り実験や実習に限らぬ。各種の記号や式は聴覚に訴えて放送することは出来ぬ。可視的記号を利して理論を推して行くということが自然科学的な科学の歴史的な宿命だ。之を言論に翻訳したり抄訳したりすることは出来る。それならば充分に放送出来る(学術講演などの場合)。だが講義そのものをラジオが代行することは出来ないのだ(科学映画や幻燈の方がまだその可能性があるのである)。
 つまりラジオの有つ制限は、第一に少なくとも対話的な教授法(ソクラテス的イロニーやディアレクティックと云っていいかも知れぬ)や、ポレミック的授業方法には、すでに不向きなのである。そして第二に、視覚に訴えることを可教授性(レーヤバールカイト)と可学習性(レルンバールカイト)の本質的条件としている莫大な科学的財産の、直接な管理人にはなれないのである。そればかりではない、第三に肉体的技能を条件とした実践的作業については、単にそれの言論的コピーを与え得るに過ぎない。――こんなことは当然至極のことなのだが、日本では高等教育は往々云わば文人主義的に理解され勝ちなので、大学へ行けば授業内容は所謂「講義」によって代表されるというような観念がなくはないのである。従ってそこから、大学教育に於けるラジオの意義は、やや見当違いの方面へ多少誇張して考えられそうに思われてならないので、この当然なことをもう一遍ハッキリさせておく必要があるように思う。見当違いの方面へ誇張されそうな気がする一方、ラジオが真に誇って然るべき大学の講義の大衆化の方は、それ程ハッキリと認識されてはいないような気がしてならぬのである。
 私は併し空なものに就いて、意見を述べているのではない。今まで云って来たのは、現在ある処の日本の大学が、その講義をラジオによって放送する場合についてであった。今度は反対に現在ある処の日本のラジオがそれ自身独自の大学講座としての役割を果しうるかどうか、ということが問題だ、勿論現在の日本の大学のアカデミシャニズムが、必ずラジオ放送によってその講義に大衆の陪聴を許すようになるに相違ないとは云えない。実はそれ自身一つの空想か夢であるかも知れない。だがこれは社会からの要求としては、恐らくいくつかは提出されるに相違ない理想だ。処が放送局そのものがこれまでのアカデミー大学と同じ意味での独自の纏った大学講座を開くということは、全くの夢想だろう。大学のアカデミックな講義乃至講座の内容となるものが如何に大衆からの接触を、大衆的に許容すると云っても、すぐ様大衆が一切の専門の最高学術上の知識の要求者となるということにはならぬ。この点学術の大衆性なるものと、芸術の大衆性なるものとの多少違う点でもあるが、それは別として、とに角大衆のごく一般共通な要求に答えるためにその限られた時間とサイクル割当てとを活用しなければならぬ。ラジオが独自の体系立った所謂大学の講義を開講することは恐らく不可能だし、又殆んど意味がないことでもあるだろう。
 技術的研究はなるべく狭い範囲のサイクルによって検波出来るように進められようが、その時は又莫大な数の放送局が全世界にひしめき合う時でもあって、それにそういうこととは関係なく、社会は今日の大学に代わるようなものを恐らくラジオ放送局に求めるようなことはないだろう。まして、ラジオでは本質上放送不可能なような授業内容は問題外だ。――だから要するに、従来の所謂大学がラジオによってその大部分のものが置き換えられて了うという心配(?)はどこにもないわけだ。大学教育全体に於けるラジオの役割には、本質上の制限がある。夫は丁度映画が決して文学の代理になれないと同じようなものだ。
 併しそれにしても、ラジオはラジオに固有な範囲に於て、独自の高等教育の機能を持とうとすればいつでも持てるという点は、見落されてはなるまい。尤もそれは従来の形態に於ける大学の講座の代わりではあり得ないので、そういうものとは可なり別なものとなるに相違ないが、併しつまり新しい意味に於ける一種の大学教育機関として、発達出来る可能性を、充分に備えている。この機能ならば社会はラジオに向かって大衆的に要求するようになるだろう。そこに将来のラジオによる新しい意味の大学教育機能があると想像される。
 だがこの新しい意味での大学(ラジオ大学講座?)は殆んど凡て言論的科学についての大学に限る他なかった筈である。近世初期に於ける学術の徒弟的伝授習得に現代的な教室講義が取って代わったように、この現代的な大学教室講義はラジオによる放送講義によって取って代わられるかも知れない。それはそれだけ現在の所謂大学の言論的な学科に於ける講義を脅かすことになることは、相当な制限は認めるとしても、肯定しなければならないだろう。つまり今日の法文経の大学講義の一部分は、「ラジオ大学講義」に席を譲らねばならぬことになりそうなのだ。こう考えて見ると、法文経大学の私学への譲渡説も無意味ではないだろう。教室の講義に較べてラジオ放送講義には多少の不便はつきものだろうが、そういう些細な不便などは問題にならぬほど、このラジオ大学は大衆化すかも知れない。放送協会が必ずそういうことを始めるというのではない。そういう可能性が社会自身の内に存在しているというのである。処でそれだけ法文経の学術は世俗化されるわけだが、それがただの卑俗化に終るか、それとも真の大衆性を有つ結果になるか、それは将来社会の放送局の階級社会に於ける教育的課題が決定することだ。
(一九三六)
[#改段]


30 ラジオ講演について



 ラジオ講演が吾々の問題であるが、その内容に関係して一等大切な点は、ラジオ講演の、一般には又ラジオというジャーナリズム現象の、ジャーナル的効果に就いてなのである。即ちその宣伝力・影響力・教化力・其の他の根本問題なのである。
 云うまでもなくラジオは最も発達した形態のジャーナリズム施設である。無論単に新しく出現したから発達しているというのではない。第一にラジオ装置が一旦据え居かれた処では、誰でもが自由に、人数などに制限なく之を聴くことが出来る。そしてこのラジオ装置は容易に移動出来るし、又携帯出来る。そればかりではなく、或る一定の範囲と条件の下では、任意のラジオ源からの放送を受け取ることも出来る。言葉を用いる放送では、つまり印刷物に固有な文字に関わることなく、本や雑誌や新聞が読めることになるわけだし、又実際の出版物を買いに出たり注文したりする労も省けよう。音響の放送は、特別な割合乏しい施設である劇場や音楽堂までわざわざ足を運ばずに之を耳にすることが出来る。尤もラジオは今の処、トーキーなどの形とは違って、例えばテレヴィジョンというようなものと結び付いていないから、眼に訴えるセンセーションは全く断たれているわけで、それだけ耳に這入る這入り方も不自然に歪曲されている。丁度初期のトーキーが録音を無意味に強調したために、映画自身を歪曲したように、今日のラジオは音による思わせ振りなどが多くて、耳への印象自身を傷けてさえいる。がそれは聴覚の自然的制限による弊害で今の処如何とも仕方があるまい。
 聴覚と視覚とを較べて見れば、夫々に特有な感覚能力の自然的な質の上の相違は無論取り換え難いものではあるが、この自然条件を云わば社会的な条件から見ると、聴覚の方が確かにより普遍性を有った感覚であることに気づくだろう。と云うのは、光や色に較べて、音は遮断される可能性が遙かに少ないのである。現に、光の進行が直線的であるに反して、音の進行は任意に屈折する。なる程視覚の方が遠距離に達するし、又明るくさえあれば見える限りは物は明快に見えるのであるが、吾々の日常生活は、必ずしもそうした遠距離に興味を有つとは限らないし、又明快に見えるかそれとも全く見えないか、というような潔癖を必ずしも必要としていない。不完全でもいいから手近かなものが何でも感覚出来るというのが日常生活の必要であって、この点から云うと聴覚の方が日常生活にとって遙かに有効なものを約束している(それに視覚は外部の光線の有無によって完全に制限されているが、聴覚にはそういう制限は殆んどない)。だからこの意味に於て、聴覚の方が日常的な社会的な普遍性を有っている。之は言葉乃至それによって云い表わされる観念の問題にも直接関係している点で、一般につんぼよりもめくらの方が知能が進んでいたり社会的な能力が優れていたりする所以である。
 だからラジオが仮に今の儘で視覚と結合することが遂に不可能だとしても、人間の自然的条件だけから云ってさえ既に最も社会的普遍性を持ったジャーナリズム施設になれる素地を有つものなのである。この聴覚の機能が実際には更に普及化されるのだからラジオのもつジャーナリズム機能の社会的普遍性に及ぶものを吾々は他に持たない訳である。ラジオはだからさし当りこの意味で一等発達したジャーナリズム施設だと云わねばならぬ。――ジャーナリズムの一般的な特色はさし当りその日常性とそれに基く社会的大衆性とにあるが、今日そうしたジャーナリズムの特色を最も多く備えているものが他ならぬラジオであろう。それだけラジオのジャーナル的効果は、即ちその宣伝力・影響力・教化力・其の他は絶大だと考えられている。
 尤もジャーナリズムのジャーナル的効果にはいつも特別な条件がつきものである。つまりその効果は色々の程度の差こそあれ、概して印象的で刹那的だという条件だ。この点から見れば、ジャーナリズムの宣伝力・影響力・教化力・其の他に一定の制限があることは注意されねばならぬ。処でラジオは、この点に於ても亦典型的なジャーナリズム施設であるわけで、その効果はいつも最も印象的・刹那的・な形態を以てでなければ与えられない。聴きのがせばそれきりだし、夫を記録しておくことは簡単には行かぬ。ラジオのテキストというようなものがあってこの不利を部分的に償っているのであるが、ラジオがジャーナリズムとして最も特色のある点は、取りも直さずラジオの効果が特に刹那的・印象的・な形態を取らざるを得ない、という点に一致しているのである。同じジャーナリズム現象でも出版物になれば、その効果はラジオ程に社会的普遍性を有たぬが、その代りに、ラジオのような単なる刹那的・印象的・なものには止まらない。新聞・雑誌・単行本・という順序に、段々と刹那性・印象性・が薄くなって、多少とも恒久的な持続する効果を有つことが出来るようになる。それだけ単行本などは、ジャーナリズムとしては未発達な段階にぞくするものだが、併し又それだけ単行本などの宣伝力・影響力・教化力・其の他には強靱なものがあるだろう。つまり出版物としてのジャーナリズム物は、それ自身記録されたものであるので、反覆その効果を新しくすることが出来るからである。
 処が又、ラジオの方は、その一回一回の効果が刹那的・印象的・なものに過ぎないに拘らず、之が極めて日常的に又普及的に反覆されるという一種の特権を有っている。だからラジオ放送のプログラムに何か一定の効果を狙うような方針でも定まっていれば、この方針に基く効果は、終局に於てもはや単に刹那的や印象的なものに止まってはいない。この点単行本の効果よりも総和に於て却って大きいものを期待してもいいだろう。こうした機能は云うまでもなく新聞(この従来の代表的なジャーナリズム機関)が今日まで狙って来た処のものであって、嘗てラジオ・ニュースの問題を繞って、都下の新聞社と放送協会との間に対立を見せていたように伝えられたが、問題は独りニュースの範囲に限られるのではなくて、今日では一般に新聞全体が、ラジオに対立せざるを得なくなって来ているのである。
 近代新聞の表向きの内容は、ニュースを中心とすると云われている。尤もニュースと云っても所謂ビュース(批評)と機械的に区別され得ないので、ニュースの本質が何かはまだ必ずしも世間一般に徹底していないのであるが、とに角、ニュース中心主義が近代市民的大新聞の一般的特徴だということになっている。従ってここでは、単に所謂ビュース・プロパーにぞくするものだけではなく、解説や読物の類は、付録のような意味を持たされて特殊待遇に甘んじなければならぬことになっている。つまり随時に載ったり曜日を決めて載せられたり、特別な欄として又は特別な欄に続載される。之が今日の新聞に就いて世間一般が懐く通念なのだが、処がラジオになるとこの点大分様子が変って来る。
 今日のラジオは決してニュース中心にはプログラムを編成されてはいない。第一に目立つ――否耳立つ?――ものは娯楽である。その次は講演・講義・の類であり、最後にニュースが来るように見える。ラジオに対する今日の通念としては、ラジオはニュースよりも娯楽か何かを目的とするものだ、ということになっているらしい。実際ラジオを引く市民達の大部分はラジオにこの値段の安い娯楽を求めているのだろう。そこでニュースを中心としようと志している新聞社側も、ラジオがニュースに進出することを、新聞機能の畑違いな侵略と見ることになるのだと思うが、之は無論ラジオがジャーナリズム機関であることを否定でもしない限り、筋の通らない見解だ。寧ろラジオが娯楽中心のように見える現状は、ラジオに固有な極大量の大衆性というものを考えに入れないとすれば、却ってラジオにまだラジオというジャーナリズム機関として発達の時間が充分経っていないことを示しているので、やがてラジオは新聞のニュース機能の可なりの大部分の代理をし、又は夫々とって代わるように、方向が向いて来るだろう。
 にも拘らずラジオは、単に現在の新聞が営む諸機能(ニュース・ビュース・から始めて解説・読物・其の他一切)をラジオ自身の条件の下に包含するばかりでなく、現在見られるように、雑誌(娯楽雑誌から評論雑誌・学術雑誌・にまで至る)や単行本の機能の一部分をさえマスターしようとしている。そして特に注意すべきは、演壇的ジャーナリズム(聴覚による演技・講演・講義)の機能の根本的な部分を殆んど凡て自分の内に取り入れて了っている点である。そしてこの機能は決して新聞の内には見られない処のものだ。
 処が例えば講義というようなものが、実は単行本と非常に近い関係にあるものだということはすぐ判る。ジャーナリスティックによく読まれる本の多くは実は教科書の意味を有ったものだが、教科書は講義のプリントの一種に過ぎないだろう。ラジオは凡そ単行本とは反対なジャーナリズム機能のもので、それ故にこそ特に発達したジャーナリズム機関だと云ったのだが、そのラジオが講義(又講演)という形でこの単行本の代理を好んでやるというのはどういう意味か。――そこに実は吾々の根本問題へ行く入口があるのであって、ラジオ的講義乃至講演の本質的条件が見て取れるわけなのだが、その前に一寸注意しておくべき問題がある。
 と云うのは、茲に近代新聞が表面上ニュース中心主義に立っていると云ったが、実は之は全くの表面のことに過ぎないのであって、そして矢張り前に、ニュースは普通の仕きたりに従ってビュースと対立させた際、二つのものが機械的に、区別出来ない本質のものだと云ったが、ニュースの本質は単にビュースにだけ関係づけて考えられるべきものでもない。近代市民的大新聞の機能がその標榜する表面の面目にも拘らず、その紙面の表面から云っても、又更にその商品新聞物の生産から云えば尚のこと、広告というものを大半の内容にしていることは改めて述べるまでもないことだ。そして広告は現在の事実から云っても、またその歴史から云っても、立派に一種のニュースでもあり又ビュースでもあるのだ(だから広告をかつてドイツでは Intelligenz-Intelligenzbl※(ダイエレシス付きA小文字)tter というような一見不可解な名を以て呼んだのである。Intelligenz は、本来知能を意味する)。処が今日のラジオは全くこの広告を欠いている。
 放送協会で曾て「味の素」が固有名詞かどうかが問題になったことがあるそうだ。もし固有名詞ならば味の素本舗の広告になるから、逓信省が放送を許さないことになるというのである。今では本舗「味の素」の特許権も切れたそうで、味の素は現実的に固有名詞でなくされつつあるが、当時放送局は思索の揚句調味料と呼ぶことにした。こうして今日の日本放送協会のラジオは広告の放送は厳禁してあるのである。商業上の広告でも一身上の広告でもだ。――之はラジオに慣れている吾々に取っては余りに当然なことのように思われるかも知れないが、併しラジオと新聞と、どこにそんなに社会的権威の相違が吾々に事実感じられているだろうか。現在吾々はラジオも新聞も全く同じ信用と不信用とで以て聴いたり見たりしている。日本放送協会が唯一のものだから権威があるというなら、日本の大新聞はどれも之も本質的には同じ記事しか載せないのだから、つまり日本新聞協会が唯一のものだと考えれば済む訳だ。それに放送局は大新聞の数に劣らず多数存在している。もし又日本放送協会が事実上半官半民の法人で日銀や満鉄の様なものだから広告がいけないと云うなら、官報さえが広告を載せていることを思い起こすべきだ。
 こう考えて来ると、なぜラジオで広告を許さないかが一寸判り兼ねるのだが、よく考えて見ると、つまり之は私的な報道や見解を許さないという言論統制の大精神から出発しているということが判る。尤もラジオ側は之を言論統制などという不景気な特徴では云い表わしたがらない。放送の客観性と中立性、普遍的通用と一般的関心、と云ったようなことが目標なのだと云うに相違ない。之で見ると、つまり主観的な放送はいけないのだということに聞えるだろう。だがそうは云っても、例えば或る人に講演を依頼すればその人はその人なりの主観的な意見を吐く他はない。ラジオ・ニュースに於ても、本当に純然たる客観性や中立性・普遍的通用や関心・というのはどういうことか、忽ち疑問にならざるを得ないのだが、まして講演や講義になればこの点甚だ面目薄弱となるのである。
 尤もラジオ放送者は予め放送局の検閲を受けた内容だけを放送するらしいから、そこで主観的な要素は振るい落されるのだと云うかも知れないが、そうならば之は決して客観的になったり中立的になったりすることではなくて、そうやって得たものが普遍的通用や一般的関心ならば、ラジオの講演や講義は、いつも生気のない遠慮でいじけたものであらざるを得ない。実際また少し突き込んで聴きたいと思うものに限って、いじけた放送なのである。併しなぜ、何に遠慮してそんなにいじけるか、又いじけさせるか、と云えばそれは取りも直さず放送協会と放送局に君臨する言論統制の権威のおかげであることは云うまでもない。処で言論統制というものは独りでに成立するものでなくて、いつも統制の主体が、統制の主観があって、その意志発動として成立するのである。して見れば放送内容の非主観性というのは、実は却って、単に言論統制の主観の主観性のことでしかない。この主観がさし当り逓信省にあろうが、又一部分文部省にあるべきだろうが、又もっと言論統制の正直な本筋から云って内務省にあるべきだろうが、とに角そうした言論統制主観のその主観性が、大衆の夫々の要求から結果する客観性と一致するかどうかということは、一向保証されていることではない。ラジオが広告を禁ずる精神は、之を拡大して検査して見ると、主観的な宣伝を禁じる精神に他ならない。大いにいいだろう。だがここで主観的という意味は、例の言論統制の主観と矛盾する限りの主観にぞくすることを云うのだ。そういう宣伝はいけないというのである。処がこの言論統制の主観そのものが宣伝することは一向さし閊えがないことになっている。統制下の思想の宣伝は寧ろラジオ講演などの伏在した目的であるように見える。こうした統制的宣伝が大衆の要求する客観性や中立性や普遍性を有つかどうか、誰が一体その証人として立ち合うことを今日許されているだろう。――尤も最近になってからは、少なくともJOAKの放送には、こうした宣伝講演がズット減ったことを認めていいので、AKも大部自重してオッチョコチョイでなくなったことを喜びたいと思うが、併し肝心の一九三四年あたり迄は、吾々はAKの背後に一種の宣伝省の魔の声を聞いたように思う。
 さて、単行本とラジオ講演乃至ラジオ講義との本質的な差にもどるが、それは全く、この言論統制の形と程度の差に帰着する。第一単行本は、その販売・頒布・は統制されていても、納本までの生産過程は完全に出版屋の自由に一任されている。だから多少とも大衆の要求している内容のものは、その要求が何であろうとも、大部分は出版行為によって一旦事実上は世間に現われるのである。処がラジオの方は事実上検閲当局の出店に近い(必ずしもすぐ一つではないまでも)編集部自身が放送内容を生産するのである。これが言論統制の上の形の相違であるが、この形の相違から当然出て来ることは、単行本の言論統制が事実上受動的にしか発動しないのに対して、ラジオ講演乃至ラジオ講義の夫は能動的に発動するという区別である。従ってその結果、後者では前者よりも言論統制を遙かに決定的な程度に遂行し得るということになる。そして事実一般にラジオが最も発達した形態のジャーナリズム機関であり、従って一般的にその日常性と大衆性とが発達していることから、発達の未熟なジャーナリズム現象である単行本に較べて、ラジオ講演やラジオ講義は遙かに決定的な統制を加える必要があることになる。――新聞や雑誌の編集部もそれ自身一種低度の能動的な言論統制機関ではあるが、広告の問題からも判っているように自由営業体の一部分にぞくしているので、半官的な即ち半国家権力的程度にまでその言論統制機能が高まっていない迄だ。それさえ併し最近では、軍部の中介で、ニュース源の統一という形で、そろそろ高められつつあるのだが。
 今日の単行本には或る程度までの言論の自由はないではない。そして雑誌の方も之と大同小異だ。之は単行本による個人主観の多少周到なそして反覆的な影響力が、雑誌記事の簡単な且つ一時的な影響力に匹敵すると見積られているせいだろう。だがいずれにせよこの言論の自由そのものは、根本的な点になると全くのカリカチュアなのだが、それに較べて、ラジオ講義やラジオ講演の言論自由は、更に比較にならない程のカリカチュアなのである。――所が之を聴く人間は、吾々初め、実際あまりこの不自由を感じていないのはどういうわけか。一つには誰もラジオに向かって自由な言論などを要求するような野暮な人間はいないからであるが、吾々がラジオとはそういうものだとしてラジオ開設以来教育されて来た習性にもよるのだ。ラジオ自身は元来最も発達したジャーナリズムの形態だったから、本当を云えば理想状態としては最も自由で批判的なものにならねばならぬ理屈だが、今日の日本のラジオは凡そそういう理想とは全く別な点から出発して別な線の上を別な目標に向かって歩いているのであり、而もそのラジオの発達がまだ日が浅いので、一般世間ではラジオに精々娯楽か何かを(或いは同様に触発的な相場ニュースでもいいが)、求める程度に要求が謙譲なのである。
 だが、吾々がラジオに言論の不自由を感じない何よりもの原因は、一体自由な言論を吐きそうな人間が初めから登場して来ないという一つの事実に存する。喋る人間自身が主観的に不自由を感じないから、聴く方でもウッカリ不自由を感じないのである。無邪気に聴いていれば、ラジオ講演の略々半数は相当有益だし又面白い。併し少し期待と要求とを持って聴きにかかると、全部が全部不満であり、その一部分は非常に腹の立つものだ。賢明なる放送道は、凡そ聴き手に真面目な期待や要求を起こさせるような講演は、初めっからやらないことであるようだ。
(一九三五)





底本:「戸坂潤全集 第五巻」勁草書房
   1967(昭和42)年2月15日第1刷発行
   1968(昭和43)年12月10日第3刷発行
底本の親本:「世界の一環としての日本」白揚社
   1937(昭和12)年4月
入力:矢野正人
校正:Juki
2013年5月15日作成
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