辞典

戸坂潤




1 『経済学大辞典』



ディーツゲン ヨゼフ Josef Dietzgen(一八二八―一八八八)

 ドイツのプランケンベルクに生れた。父は鞣皮業。一八三二年父と共にウッケラートに移り、従前通りの事業に従事しつつウッケラートの小学校に通学、後ケルンの高等小学校に暫く在学した。其後半年程厳格なる教育のために語学校に送られた。幼年期には至極粗暴であったが、少年期に入るに及んで温順となり鞣皮工の労働の傍ら文学、経済学、哲学等の研究にいそしむ。一八四五―四九年の間独学でフランス語を学び、フランス経済学者の研究を通じて社会主義に傾倒し、後マルクス・エンゲルスの共産党宣言を読むことによって明白な階級意識を有った社会主義者となる。一八四八年の革命に参加したために一八四九年アメリカに亡命せざるを得なくなり、其処で鞣皮工、ペンキ職、教師等の労働にたずさわりながら各地を放浪し、英語を修得した。一八五一年故郷(ウッケラート)に帰り二年後愛妻を有つ。ウィンターシャイトで貿易商、鞣皮工等の職を営む。一八五九年再び渡米して南部地方に住む。間もなく南北戦争の際北方に同情する彼は故郷に帰る(一八六一年)。そこからセントペテルスブルクの官営製革場の監督としてロシアに招かれ、やがて又ドイツに帰来、ジークブルクで独立の鞣皮工場を経営す。後再びセントペテルスブルクを訪れた。ロシア滞在中主著『人間の頭脳、労働の本質、一職工の書ける。純粋理性及び実践理性の再批判』(Das Wesen der menschlichen Kopfarbeit, dargestellt von einem Handarbeiter. Eine abermalige Kritik der reinen und praktischen Vernunft, 1869―山川均訳、弁証法的唯物観)を書く。これは絶筆たる『哲学の実果』(Das Akquisit der Philosophie, 1887―山川均訳、哲学の実果)とともに、彼の哲学の基礎的叙述であり、ヘーゲルおよびヘーゲル以後の弁証法、唯物論的弁証法、唯物史観、階級闘争等の基礎的検討と解明とである。人間の精神に真に固有な思惟方法は、感性的事物に即したそれであり、即ち経験的な帰納的な夫れである。それが事物の連関と交互関係との理論としての弁証法に外ならぬ。思惟を存在から絶対的に引き離して了えば、カントの物自体という如きものも生じて来るが、之は同語反覆に外ならない先天主義の結果にすぎない。論理学は形而上学の領域を去って自然科学の領域に移されねばならない、と。エンゲルスの云うように、マルクス、エンゲルスやヘーゲルからさえ独立に、この独逸の一労働者は弁証法を再発見したのである。尤も、彼の弁証法には多分にシェリング風の同一哲学やスピノザ風の汎神論が混入しているのであり、対立の代りに調和を、絶対的なるものの代りに相対的なるものを強調し、従って或る意味に於ては唯心論と不可知論とを許容するかのように見える。夫にも拘らず其核心は全くマルクス主義的な唯物論的弁証法に帰着する。彼はセントペテルスブルクに在って「カール・マルクスの資本論」なる論文を Demokratisches Wochenblatt 誌(一八六八年)に寄せている。マルクスは一八七二年のハーグのインタナショナルに於いて派遣委員たるディーツゲンを「吾等の哲学者」として紹介し、資本論二版の第一巻序文(一八七三年)には彼の名を挙げ、一八七五年には自らジークブルクに彼を訪問している。フォイエルバハも亦彼に大きな影響を与えた友人であり彼との交通もあった。フォイエルバハが貧困のうちに死んだ(一八七一年)のを聞いてディーツゲンは泣いたとさえ伝えられている。一八七八年ヘーゲルとノビリンクの独逸皇帝狙撃事件の折、ケルンに於いて彼がなした扇動演説「社会民主主義の将来」の廉で逮捕され、三ヵ月間投獄された。なお又当時は事業に失敗したので、長子をアメリカに送って生活資金を得ているような次第であった。一八六九―八四年間のジークブルク居住中、経済と哲学とに関して多数の論文を書き、Volksstaat, Vorw※(ダイエレシス付きA小文字)rts, Sozialdemokrat, Neue Gesellschaft, Neue Zeit, New York Volkszeitung 等の諸誌に之を発表し、又多数の冊子を出版した。その主なるものは「社会民主主義の宗教」、「市民社会」、「国民経済」、「ハインリヒ・フォン・ジーベに対する公開状」、「無信仰者の信仰に就いて」等である。之等によれば宗教は社会民主主義の精神に基いて改革されるべきであり、又倫理学も社会的な基礎に立って研究されねばならない。一八八〇―八三年に亘って、二連の書信の形を有つ『論理学書翰、特に民主主義的プロレタリア的論理学』(Briefe ※(ダイエレシス付きU小文字)ber Logik, speziell demokratisch-proletarische Logik)を書いている。之の後半はプロレタリア的見地から、経済学を取り扱ったものである。
 一八八四年三度渡米、ニューヨークに於てアメリカ社会党の機関紙『社会主義者』の主筆となる、一八八六年シカゴに移るまで其位置に止まる。一八八六年シカゴで『社会主義者の認識論の領域への進撃』(Streifz※(ダイエレシス付きU小文字)ge eines Sozialisten in das Bereich der Erkenntnistheorie, 1887―石川準十郎訳、マルキシズム認識論)を書き、翌年絶筆たる『哲学の実果』を脱稿した。同年シカゴ無政府党事件によって『シカゴ労働者新聞』の編集者達が逮捕されるに及び、社会党は無政府党と絶縁しようと欲したが、ディーツゲンは却って自らその主筆となることを申し出てその位置に就いた(当時社会党のゾルゲと交わる)。彼は同誌に拠って社会主義者と無政府主義者とが必ずしも相容れないものではないと説き、ために一部の社会主義者の反対を買った。併し、元来彼の哲学によれば、「ただ適度の区別だけが二つのものの矛盾対立を解くことが出来る」、絶対的な本質的な区別は形而上学に陥るものであった。無政府主義を社会主義から絶対的に区別して、之を単に排撃するのは正しい政策ではない。なる程無政府主義を終局目的とするのは愚の至りであるが、併し之が社会主義の前段階として価値を有つことを忘れてはならぬ。無政府主義の背後に之を超えて、社会の共産主義的秩序を欲する者こそ真正のラディカリストである、この場合自分が無政府主義者であるか社会主義者であるか又共産主義者であるかは、単に言葉の綾に過ぎない。そう彼は云っている。
 政治的活動家としてのディーツゲンはアメリカの社会党のためには忘れることの出来ない恩人であるが、学徒としての彼が弁証法を高調した点で哲学の領域に於ける功績が大であったことは前述の通りである。併しそればかりではなく、彼は経済学の領域に於ても之に劣らぬ学的功労を有っている。彼の烱眼はつとに近代資本主義的生産方法の帰趨を洞察していたのであり、アメリカを目してブルジョア社会の「未来の土地」であるとなし、之が何時かは全ヨーロッパの脅威となるだろうと云っている。「全ヨーロッパはアメリカ人の遊山地となり、アメリカに向ってヨーロッパから労働者が送られ、之に反してヨーロッパに向ってはアメリカの大ブルジョアが押し寄せるだろう」と。云う迄もなく今日此予言は、可なりの程度に迄応えられつつあるのである。全集は息子のオイゲン・ディーツゲンによって編纂された Josef Dietzgens Gesammelte Schriften, 1922, 三巻である。


ディルタイ ウィルヘルム Wilhelm Dilthey(一八三三―一九一一)

 ドイツの哲学者にして歴史家。歴史哲学、精神科学論及び文化史等の卓越した研究によって、直接間接に諸方面に有力な影響を与えている。主にシュライエルマッハー(F. E. D. Schleiermacher)の思想を継承する。ヘッセンのビープリッヒに生れ、ゲッティンゲンではリッター(H. Ritter)、ロッツェ(H. Lotze)等に学んだ。ベルリンではランケ(I. Ranke)、トレンデレンブルク(F. A. Trendelenburg)等に就いて歴史・神学・哲学を研究した。シュライエルマッハーの研究に傾倒したのはこの時期である。一八六六年バーゼルの教授となり後キール、ブレスラウ諸大学を経て、一八八二年ロッツェの後を襲うてベルリン大学の教授となった。ツェラー(E. Zeller)、エルドマン(J. E. Erdmann)、ディールス(H. Diels)等の哲学史家達とともに Archiv f※(ダイエレシス付きU小文字)r Geschichte der Philosophie の編纂に与り、またナトルプ(P. Natorp)、シグワルト Ch. von Sigwart)等と共に Archiv f※(ダイエレシス付きU小文字)r systematische Philosophie の編集にも参加した。アカデミー版カント全集の編纂委員としての功績も大きい。
 彼によれば形而上学は現実的存在の夫々の或る一面のみを取り出して整合にもたらすものに過ぎず、経験的所与を絶対化するものであるから、形而上学相互の間には二律背反と解決不能な問題とが生じて来る外はない。夫故哲学はかかる形而上学的体系を有つべきではない。哲学の出発点となるべき現実的存在又は之から来る吾々の根本経験は凡て歴史的に制約されているものであるから、哲学は形而上学とは反対に、まず第一に歴史的方法に依らなければならない。ディルタイは茲でヴィンケルマン(J. J. Winckelmann)やヘルダー(J. G. Herder)、ヘーゲル(G. W. F. Hegel)やシュライエルマッハーに極まる歴史主義の精神に於て、又ニーブール(B. G. Niebuhr)、グリム(J. L. Grimm)、ザヴィニー(F. K. v. Savigny)等に依て代表される独逸歴史学派の精神に動かされてそう考える。併し此歴史的方法としてディルタイが、初めて独特な意味に於て精細に規定したものは解釈学と呼ばれる一つの哲学方法であった。元来解釈学とは文書解釈の技術のことであり、従ってフンボルト(K. W. v. Humboldt)等の言語哲学の発展としてシュライエルマッハー、ボェック(A. Boeckh)等に依て大成されたものなのであるが、ディルタイは之を単に言語解釈上の技術には限らず、広く現実的存在たる人間生活一般の精髄(生)の解釈の方法と考えた。夫が哲学の方法となる所以である。今、解釈とは理解(了解)と普通呼ばれる事柄の具体的学問的なものを指す。理解の概念から説こう。吾々は正当な意味ではただ精神的なるもの(生)のみを理解することが出来る。自然科学で取り扱うような自然は之を説明すると云うことは出来ても之を理解すると云うことは出来ない。自然は因果的に説明され構成され得る。之に反して生はただ記述され分析され得るのみである。理解とは生の理解の外ではない。併し、生を理解し得るためには初めから生の内に生きているのでなければならない。生は生の外から理解されようがない(外から理解されれば夫は精神的な生ではなくて自然となって了う)。それ故理解とは「生を生それ自身から理解する」ことに外ならぬ。併し生とは何か。まず第一に「夫を生きること」(体験)でなければならない。そして而も体験とは意識現象に通じるものである外はない。凡そ現実的存在は吾々の意識を通路としてのみ生として生きてあることが出来又体験されることが出来るからである(現象性の命題)。併し、かかる意識(又はその意味にしば々用いられる処の理性)は単なる意識ではなくて歴史的意識(歴史的理性)でなければならない。何故なら現実的存在が歴史的なのであったから。で体験としての生は、その意味に於ける意識は、決して個人の主観の範囲内にのみ閉じ込められて終るものではない。体験は直観のようにはそれ自体の直接性に止まることが出来ない。体験するとは、外なるものを内なるものに取り入れることであるが、やがて生は逆に内なるものを外なるものとして表現せざるを得ない。かくて表現は生の第二の規定である。一応主観的な精神(生)と考えられた体験は、自己を客観的な精神(生)として客観化す。そうすることが生の事実なのである。人間の歴史的社会的所産たる科学・哲学・道徳・芸術・宗教等の文化や国家・教会・家族等の外的諸組織が取りも直さずかかる客観的精神としての生の表現なのである。生は外部的に表現されて、初めて却ってその見えない奥底を示すことが出来る。さて内なる体験を外部化したこの表現をば、もう一遍体験の内部へ取りもどすこと、之が理解ということの意味である。歴史的である生が具体的に即ち又歴史的に、体験され理解されるためには、生は自己の歴史的所産たる表現を通って来ねばならぬ。かくて理解は生の第三の規定である。生の以上三つの規定は併し同時に生の解釈の三つの規定でなければならぬ。生を生それ自身から理解するとはそれ故、このような三つの規定を具えた生の自己解釈の謂である。処で哲学そのものが、あたかもこの生の自己解釈に外ならない。ここから哲学の方法は解釈学でなければならないのは当然である。哲学が歴史的方法に従わねばならぬ理由であり、従って又夫が形而上学的体系を持ち得ない所以である。形而上学的体系に代るべき哲学は、寧ろ形而上学の基礎たる諸世界観の類型の検討を試みる世界観説の如きものであるべきであろう。夫は云わば哲学である。
 以上の諸関係は実はそのまま同時に精神科学の基礎であり、その方法を決定するものである。カントが自然科学に就いて行った処をディルタイはその所謂精神科学に就いて行った(精神科学とはリッケルト等の文化科学に対応するがその概念規定を異にする)。彼の歴史学的乃至哲学的労作はかかる精神科学の基礎づけに集中されている。その意味でディルタイの哲学は、何よりも歴史哲学としての性格を担っていると云うことが出来る。ディルタイの生と呼ぶものは云わば全人間的な夫である、人間はそこに於て表象し感情し意志する全人として生きている。人間は自己の環境との間に、かかる全人的交渉をなすことによって作用連関を有ち、彼は之を通じて歴史的・社会的連関に密に入り込んでいるのである。この諸作用のどの一部分を取って見ても全体(総体)への関係を含まないものはない、その意味で部分は常に全体に対して合目的的な意味を有っている。だから精神科学の対象たるこの歴史的・社会的生は、分脚を具した全体として、全体的な構造連関として、現実的に存在している。かかる全体は部分の単なる集合でもなく又内的分節を有たない単なる一般者でもない。であればこそ一対象をその諸要素から原子論に構成することは出来ず、従って要素と要素との関係を因果的なものとして説明の対象とすることも出来ない。吾々はただ之を一つの全体として分解し記載する外を許されない。唯、かくしてのみ生は理解(解釈)され得るのである。処で生の理解、生の自己解釈には、体験、表現、理解の三規定があった。それ故精神科学にとっては、この夫々に相応した三つの基礎が横たわるわけである。体験に対応しては意識の研究としての心理学、表現に対応しては歴史の研究としての歴史学、両者の総合に当る理解に対応しては心理学と歴史学との結合たる解釈学。この三つのものが乃至はこの最後のものが、精神科学の基礎であり又方法である。そして之が取りも直さず哲学の方法なのであった(但しこの心理学はディルタイの所謂「記述的分析的心理学」であって、自然科学的な観念連合心理学のことではない)。ディルタイの精神科学論は、その重心を、心理学の理論から次第に解釈学の理論の方へ移したように見える。かくて精神科学の基礎理論は歴史哲学としての元来の性格を愈々著しくして来たわけである。
 ディルタイは所謂生の哲学の代表者としてフッセルル(E. Husserl)等の厳正科学としての哲学から批判されたが、晩年の彼はフッセルルから多くの示唆を受けたように見える。ハイデッガー(M. Heidegger)等は丁度この二人の立場を媒介する位置を占めるとも云われるであろう。ディルタイの方法から決定的な影響を受けた者の中では、シュプランガー(E. Spranger)、フリッシャイゼン・キョーラー(M. Frischeisen-K※(ダイエレシス付きO小文字)hler)、ノール(H. Nohl)、ミッシュ(G. Misch)、トゥマルキン(A. Tumarkin)等が著名である。併し元来体系を組織することに努力しなかったディルタイの哲学は通常の意味での後継者を持っていない。
論著――De principiis ethices Schleiermacheri, 1864; Leben Schleiermachers, 1870; Einleitung in die Geisteswissenschaften, 1883; Die Einbildungskraft des Dichters, 1887; Ideen ※(ダイエレシス付きU小文字)ber eine beschreibende und zergliedernde Psychologie, 1894; Die Jugendgeschichte Hegels, 1905; Wesen der Philosophie, 1907; Das Erlebnis und die Dichtung, 1910-31. Briefwechsel zwischen W. Dilthey und dem Grafen York, 1923; Gesammelte-Schriften, 8 Bde., 1923-31.


フィヒテ ヨハン・ゴットリープ Johann Gottlieb Fichte(一七六二―一八一四)

 カント哲学から出発してシェリング(F. Schelling)、ヘーゲル(G. W. F. Hegel)に直接に影響を与えたドイツの有力な哲学者であり、独逸観念論の典型的な代表者と看做される。ザクセン州のランメナウの貧しい織紐工の息子として産れ、道徳的・宗教的情操の持主であった。年少にしてレッシング(G. E. Lessing)やクロップシュトック(F. G. Klopstock)、ルソー(J. J. Rousseau)等に影響され、人間社会の良き教師となることを希望した。一豪族の援助によって一七八〇年イェナ大学に入り神学を専攻の傍ら言語学、古典学等の研究に従い法律学には特殊の興味を有った。後ウィッテンベルクを経てライプツィッヒ大学に転じチューリッヒでは家庭教師となる。フランス革命に際会し、モンテスキュー(Ch. d. S. Montesquieu)やペスタロッチ(J. H. Pestalozzi)から動かされ、又ゲーテ(J. W. v. Goethe)やウィーラント(C. M. Wieland)等の詩人に傾倒した。併し自ら詩才に乏しいのを知って斯の道を断念した。未来の忠実なる妻ラーンを得たのはチューリッヒに於てである。
 一七九〇年私講師としてのフィヒテは一学生からカント哲学の講義を求められ之を機会としてカント哲学の研究を始めた。その結果、彼は従来彼を苦しめて来た決定論と自由意思論との対立がカントによって始めて解かれることが出来たと考えた。そこで翌年彼はカントの神学の立場に立って、『あらゆる啓示の批判の試み』(Versuch einer Kritik aller Offenbarung)を書き、ケーニヒスベルクのカントを訪ね、其周旋によって匿名の下に之を出版した(一七九二年)。世人は当時之をカントの作と評判したがカント自身の言明によってフィヒテのものであることが知れ、彼の名は一時に挙った。一七九三年の第二版ではすでにラインホルト(C. L. Reinhold)からの影響が著しい。一七九三年シュルツェ(G. E. Schultze)の著『エネシデムス』に対する評論を発表し、カントとラインホルトとを弁護した。この評論はすでにフィヒテ自身の意志とは独立に、この二人の先輩の立場を踏み越えているものであって、後のフィヒテ哲学たる「知識学」の萌芽をなすものである。其後直ちに『知識学又は所謂哲学の概念に就いて』(※(ダイエレシス付きU)ber den Begriff der Wissenschaftslehre oder sogenannten Philosophie, 1793)を書き、認められてラインホルトの後を襲ってイェナ大学の教授となる。翌九四年大著『全知識学の基礎』(Grundlage der gesamten Wissenschaftslehre, 1795)に著手した。当時大学に於ける学生に対する彼の影響は極めて大きく、そして彼自身之に重大な意味を認めていたのである。人類の道徳的教育こそが『学者の本分』(一七九七年の著書)だと考えられたから(一八〇五年には『学者の本質』※(ダイエレシス付きU)ber das Wesen des Gelehrten を講演した)。さて彼の主著によれば、カント哲学の欠点は統一と体系とに乏しいことに存する。カント哲学は原理によって組織的に「発生的方法」に従って展開されねばならぬ。併しそうするためには知識の根柢、諸学の基礎を論ずる「知識学」こそ真の哲学でなければならない。かくてカントの所謂物自体は絶対自我の概念にまで変更されるべきであり、そしてこの自我とは外でもない行為的・実践的な事行(Tathandlung)そのものに外ならぬ(カントに於ける実践理性の優位がこれ)。絶対自我は自己を自ら措定することによって初めて自我であることが出来、この措定作用の過程の中に存在の諸範疇が展開して来るのであるが、併し自我が理論的な領域で自らを措定している限り、夫はどこまで行っても「非我」に撞着せざるを得ない非我は茲では却って自我を制限するものとして現われる。併しこの非我も実は自我の作用の所産の外ではあり得ない筈であるから、自我は非我を克服して自らのものとなすべき努力の当為を負わされて来る。この時自我は理論的領域から実践的領域に移り、そこで初めて非我との対立を解消して自我本来の面目に到着する。之が道徳の世界である。処でこの叙述の体系は現実そのものの構造と一つであることを注意せねばならぬ、と云うのは之は現実に関する思想ではなくて、この思想そのものが現実だと云うのである。かくしてこそ初めて哲学は真正の意味での体系を有つことが出来る。こう考えることが観念論の典型たる所以である。但し茲でいう自我は決して個人的な経験的な自己でもなく又所謂意識という如き主観でもない。その限りフィヒテの立場は寧ろ客観的であると考えられるべく又より正しくは主客の対立を絶した絶対的な立場と考えられるべきである。一七九六年『知識学の原理による自然法の基礎』(Grundlage des Naturrechts nach den Prinzipien der Wissenschaftslehre)を出版。『知識学序説』第一及び第二(Erste und zweite Einleitung in die Wissenschaftslehre)は九七年、『学者の本分』(Bestimmung des Gelehrten)も同年、『知識学の新敍述の試み』(Versuch einer neuen Darstellung der Wissenschaftslehre)も同年に出た。
 一七九八年の『道徳論』(Das System der Sittenlehre nach den Prinzipien der Wissenschaftslehre)によれば、吾々の唯一の信仰の対象は人格の自由と義務とである。之こそが神の世界支配ということの唯一の意味である。活きた道徳的秩序がそれ自身神なのである。この同じ思想は、同年フォルベルク(F. K. Forberg)の論文への序論としてフィヒテが書いた「神的世界支配への我々の信仰の根拠に就いて」にも現われた。処が彼は、この論文が無神論を説くものであるという理由で、フォルベルクと共に訴えられ、かねての同僚との不和や政府に対するフィヒテの強情も手伝って、一七九九年彼はイェナ大学の教職を失い、ベルリンに移ることを余儀なくされた。之がフィヒテの無神論争と呼ばれるものである。一八〇〇年『人間の招命』(Bestimmung des Menschen)、『封鎖的商業国家』(Der geschlossene Handelsstaat[#「Handelsstaat」は底本では「Hanhelsstaat」], ein philosophischer Entwurf als Anhang zur Rechtslehre)を書く。前者に於て吾々は、彼の『知識学』の中に、平素の宗教哲学的研究が如何に次第に実を結びつつあるかを見ることが出来る。一八〇四年以降の彼は新約のヨハネ書の研究によってこの傾向を愈々著しくした。一八〇四年の『知識学』によれば従前の知識学に出ていた自我の概念はもはや単に倫理的な努力という規定を持つものではなくなって宗教的な諦観の色彩を以て描かれている。自我は絶対的実在としての神となる。世界の根柢には愛が横たわる、人間的自由の目的は絶対知としての浄福である。一八〇六年には『聖浄生活への指針又は宗教論』(Die Anweisung zum seligen Leben od. die Religionslehre)が出た。同年『現代の特色』(Grundz※(ダイエレシス付きU小文字)ge der gegenw※(ダイエレシス付きA小文字)rtigen Zeitalters)が出ている。吾々の存在の根拠たるこの神的愛に於て初めて吾々は団体の一員として活動することが出来る。自己は団体に於て初めて自己の目的を見出す、神的愛に基いた此真の団体は神の啓示である。で今、祖国という団体の内に現われる神的なるものを愛することが真の愛国心でなければならぬ。かくて「独逸国民に告ぐ」(Reden an die deutsche Nation)が仏軍侵入の際(一八〇七―一八〇八年)ベルリンに於ける講演となった。フィヒテはすでに一八〇五年エルランゲン大学の教授に任命され、翌年亦ケーニヒスベルク大学の教授として仮の任命を受けたが、一八一〇年ベルリン大学が建設されるに当って該大学教授となった。フィヒテに対する社会一般の信望は日に日に大となりつつあったのである。一八一二年に再び『道徳論の体系』を書いているが、以前の道徳論と比較して宗教的色彩が濃いことは云うまでもない。個人の性格は団体へ関与することに於て初めて成り立ち、団体意識こそ真の道徳的意識である。義務や当為は従前とは異ってもはや道徳の内的本質ではなく、その根柢には之を規定するものとして愛が横たわっていると説かれている。――フィヒテの知識学の諸叙述が次第に論理的なものから宗教的なものに移行して行ったことは興味ある事実でなければならない。従って始め当為や努力の裡に考えられていた意志の弁証法は、後に到ってはもはや現実自身のもつ規定ではなくて絶対者たる現実に関する体系的叙述のみが有つ規定にまで限定されたことは注目に値する。――祖国のために全力を挙げていたフィヒテは、ベルリンの衛戌病院に特志看護婦として働いていた忠実な妻がチブスで倒れて間もなく、妻の病気が伝染して死んだ。
 カント自身は夫を承認しなかったが、フィヒテは初め自分の哲学が全くカント哲学を原理によって組織化するものに外ならぬと信じていた。この組織・体系の概念はヘーゲルの観念論の体系に到って最も具体的な形を取ったものである。併しフィヒテの観念論がカントの夫と異なる特色はそれが何よりも専ら倫理的或いは宗教的であった点に存する。と云うのはフィヒテにとってはカントが実は最初の問題となし、後にはまたシェリングが取り上げた処の自然という概念は、至極軽い位置をしか与えられていないのである。フィヒテの全集は同じく哲学者である息子の小フィヒテによって出版された(本集八巻、遺稿三巻)(一八三四―五年)。メディクス(F. Medicus)の編纂にかかる選集(六巻)(一九〇八―一二年)がある。
参考文献――Hase, K., Tenaisches Fchte-B※(ダイエレシス付きU小文字)chlein, 1856; Loewe, J. H., Die Philosophie Fichtes, 1862; Lassalle, F., Die Philosophie Fichtes und die Bedeutung des deutschen Volksgeistes, 1862; Windelband, W., Fichtes Idee des deutschen Staates, 1890; Rickert, H., Fichtes Atheismusstreit, 1899; Fischer, K., Fichtes Leben, Werke und Lehre, 1900; L※(アキュートアクセント付きE小文字)on, X., La Philosophie de Fichte, 1902; Lask, E., Fichtes Idealismus und die Geschichte, 1902; Fuchs, E., Vom Werden dreier Denker, 1904; Medicus, F., Fichte, 1905.


プレハーノフ ゲオルギー・ヴァレンチノヴィッチ Georgii Valentinovich Plekhanov(一八五六―一九一八)

 ロシアに於けるマルクス主義の卓越した理論家であり同時に実践家である。今日のロシア・マルクス主義のために哲学的基礎を固めた点と、ロシア共産党の成立及び発展に与って極めて有力であった点とで、忘れる事の出来ない人物。就中政治的指導者の第一人者としてレーニンを推すならば之に並ぶべき理論家はプレハーノフ[#「プレハーノフ」は底本では「プレハノフ」]を措いて外にない。タンボフ県に生れ、学生時代から夙にナロードニキ(人民主義者)の群に投じて革命運動に参加し、後『土地と自由』誌に拠って有力な活動を試みた。一八七八・九年のペテルスブルクのストライキに刺戟されて同誌上にロシア労働運動に関する論文を発表しているがそこに於てはまだナロードニキ風のイデオロギーを捨て得なかったに拘らず、すでにマルクス主義的鋒芒が現われているのを見逃せない。之はまだ彼がマルクス・エンゲルスの文献を読んでいない時のことである。マルクス・エンゲルスの著述に親しんで愈々真正のマルクス主義者となったのは、一八八〇年西ヨーロッパに亡命した以後であり、この時始めてナロードニキのイデオロギーを完全に脱することが出来た。一八八三年『社会主義と政治闘争』を著す。翌年アクセリロート(P. Akselrod)、ドイッチュ(L. Deutsch[#「Deutsch」は底本では「Deutseh」])、ザスーリチ(V. Zasulich)と共に、ロシアに於ける最初の社会民主主義的組織である「労働解放団」を組織した。之が今日のロシア共産党の母胎たる社会民主主義労働党の前身である。
 彼は単にマルクス主義の優れたる弘布者であったばかりでなく、マルクス・エンゲルスの根本思想の正統を継ぐ深刻にして独自な理論的闘将であり、正統マルクス主義の展開擁護のために誠に輝かしい独創を示した。彼は夙にヘーゲル哲学に親しむことを知っていたのである。就中ベルンシュタイン(E. Bernstein)の率いるマルクス修正派が有力になって来た時(一八九〇年)、彼は何が真正の正統マルクス主義であるかを示すことに於て絶大な理論的功績を示した。修正派が当時の現実の経済並びに社会状勢を理由としてマルクス主義を補正すべきであると説いたに対して、プレハーノフは之等自称批判者達の非弁証法的思惟方法が何等マルクス主義の補正ではなくてその歪曲に過ぎないものであるとして一蹴した。国際的「日和見主義」或はロシアに於けるその分派たる「経済主義」と「ストゥルーヴェ主義」とに対する、又「ロシア社会学派」の主観主義や又はナロードニキ主義やに対する闘争に於ても、彼の右に出た者を見ない。彼はかくてマルクス主義哲学を組織的に遂行することによって国際的な社会主義運動のために稀に見る大きな実践的影響を与えた。それ故レーニンはプレハーノフの著述を能く学ぶのでなければマルクス主義を根本的に理解することは出来ないと云っている。実際この時期に於て書かれた凡ゆる領域に於ける彼の理論的労作は世界的文献として通用したし、又今後もそうなければならぬであろう。『無政府主義と社会主義』は一八九四年フランス語で書かれ、間もなく英・独語に飜訳された。『チェルヌイシェフスキー研究』も同年に出版、哲学的著作として最も重きをなしている『一元論的歴史観の展開の問題に対して』(川内唯彦訳、史的一元論)は一八九五年ツァーリの検閲の網を潜ってロシア語で出版された。一八九六年には『唯物論史のための寄与』(恐らく母語で書かれたもの)が出版された。
 彼は一八八九年以来第二インタナショナルの主導者として、エンゲルス、カウツキー、ベーベル等と共に活動していたのであるが、中でも彼とレーニンとの関係は最も宿命的であったように見える。後輩レーニンの台頭と共に十数年来のプレハーノフの権威はすでに多少の動揺を免れなかったが、それでもロシア社会民主党の第二回大会(一九〇三年)を経るまでは、この二人の代表的闘士は恰も各々の分担を協定したかのように夫々政治闘争と理論闘争とを以て相寄りながら活動することが出来た。両者は機関紙『イスクラ』(火花)と『ザリャー』(黎明)とに拠って経済主義への偏向の克服と中央集権的革命党への結成とのために戦ったのである。第二回大会に当ってボリシェヴィキとメンシェヴィキとが分裂するに到った時、『イスクラ』をボリシェヴィキの指導の下に編集すべく選ばれたのもこの二人であった。之に拠ってプレハーノフは昔日の才能をボリシェヴィキとして再び思うままに発揮することが出来た。処がその後数ヵ月を出ない中、彼はイスクラ編集者としてメンシェヴィキの人々をも迎える事を提言するに到ったが、レーニンは之を却けてイスクラを脱退した。かくてイスクラはメンシェヴィキのものとなり、レーニンと袂別したプレハーノフは爾後暫くの間全くのメンシェヴィキとして止まった(『吾等の批判者の批判』が一九〇六年ロシア語で出版された)。併し社会民主党がその苦難期(一九〇七年後の数年間)に入るや、プレハーノフは結果に於て再びボリシェヴィキの味方となり党のために計り知れぬ功績を立てた。彼は再びレーニンと共に一方に於ては党内の経験批判論者に対して、他方に於いては党清算主義者に対して、奮闘を続けた(レーニンの『唯物論と経験批判論』は一九〇九年に出ている、そしてプレハーノフの『マルクス主義の根本問題』は一九〇八年に出た)。特に当時依然として、メンシェヴィキの権威であった彼が、メンシェヴィキとして止りながら、メンシェヴィキの党清算主義者に対して破壊的な演説を敢行したことは、レーニン等ボルシェヴィキにとっては百万の味方に値したことである。ボリシェヴィズムへの彼の接近は一九一二年まで続いたと見ることが出来る。
 然るに欧州大戦に臨んではプレハーノフは極端なる社会愛国主義的立場を取り、一九一七年の三月革命を経てもその立場を棄てなかった。彼は死に到るまでソヴィエト権力を承認しなかったのではあるが、十月革命(一九一七年)の成就した後はボリシェヴィキ及びソヴィエト政府に対して公然の敵として現われることを躊躇した。一九〇五年(党ボリシェヴィキ第三回大会・メンシェヴィキ第一回大会の年)以来、『ロシア社会思想史』の著述に取り掛り、一九一四年第一巻を出版したが、この書物に於ける研究方法の中にすでに、何故彼が祖国防衛主義者とならねばならなかったかが暗示されているとも云われている。
 上記以外の労作は多く Neue Zeit 誌上に発表されたが邦訳となった著述は『階級社会の芸術』(蔵原惟人訳)、『芸術論』(外村史郎訳)、『文学論』(外村史郎訳)、『マルクス主義宗教論』(川内唯彦訳)等である。何れもマルクス主義的文化理論の典型と看做される。全集(リヤザーノフ編集、ロシア版二六巻、一九二三―二五)が出ている。


弁証法 ベンショウホウ 【英】Dialectic【独】Dialektik【仏】Dialectique.

 ギリシア語 dialektik※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字) に基く。弁証法とも訳す。本来会話の技術又は弁論の仕方を意味する言葉であったが、哲学上の一定の用語として用いられるようになってからは、様々の変遷を経て今日に至っている。一応の哲学史の上では弁証法は、特定の幾人かの併し多くは非常に優れた哲学者の、思想の内にだけ現われるかのようであるが、併し実は之は意識すると否とに拘らず、殆んど凡ゆる思想に於て見出すことの出来る根本的な一関係であると云っても好い。
 弁証法は一切の存在と一切の思惟とに関する根本的な規定であったし、又現にそうなければならない。であるから存在を根本的に思惟しようとする場合、問題がおのずから弁証法に関係して来るということは自然である。実際、存在に関する思惟の比較的特色ある場合を、吾々はエレア主義とヘラクレイトス主義との典型的な対立に於て持っている。そして之がまた同時に弁証法の様々な出発の仕方を決定したのである。エレア学派の祖であるパルメニデス(Parmenid※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)s)によれば、凡そ存在するということは一者であるということであり、存在は常に一つであり且つ同じであることをその性格としている。従って存在は多であり得ず差異を有ち得ない、従って又変化・運動なるものも存在には在り得ない。エレアのゼノン(Z※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)n※(サーカムフレックスアクセント付きO小文字)n)はこの主張を裏から証明するために、吾々が経験上信じている運動及び多の概念を仮定した上で、之を理性によって分析して見ると様々の逆説が生じて来ることを指摘した。之等の逆説は無論要するに逆説に過ぎないのであるが、この逆説を指摘するということは結局、運動及び多が平面的な理性によっては構成出来ないということを無意識的に気付いていることに外ならぬ。即ち運動及び多は(吾々の言葉で云えば)ただ弁証法的にしか把握出来ないことをたま々裏から告げているのである。ゼノンによれば存在は矛盾を含むことが出来ない、然るに運動及び多は矛盾的にしか把握出来ない、だから運動及び多は存在しないというのである。彼にとっては矛盾のあり得る場所は決して存在ではない、あるとすればそれは主観的な思惟に於てである。かくて彼の意図に反して彼自身が指摘せざるを得なかった所の弁証法は、主観の内にその位置を持つ(後にアリストテレスはこの点からゼノンを弁証法の鼻祖だと書いている。ゼノンは運動及び多の概念を一旦肯定する事によって其の否定を導き出した、この点に於ても亦彼は弁証法的であった)。ヘラクレイトス(H※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)rakleitos)はエレア学派と全く正反対な存在の概念を有っている。彼によれば存在は一者ではなくて多であり、従って分裂であり闘争である。存在は相互に闘争することによって初めて生成するのであり(「闘争は万物の父」)、従って存在は変化、運動をその性格とする。存在するということは生成、変化、運動することに外ならない。存在は運動するものであって固定したものではない。人々はこの点から、ヘラクレイトスを弁証法の祖と呼んでいる。彼の弁証法はゼノンの夫とは異って存在自身の内に位置する所の客観的な弁証法である。云うならばゼノンのは思惟の弁証法であり、ヘラクレイトスのは存在の弁証法である。この二種類の弁証法は存在に対する二種類の態度から結果したのであり、後々の諸弁証法の二つの典型の源をなすものである。
 経験的知識の客観性を疑った点でエレアのゼノンと同じ態度を取ったソフィスト達は、ヘラクレイトスが存在に与えた矛盾性をば思惟に付与して相対主義を取り(「人間は万物の尺度」)、之を主張するために詭弁を用いて論敵を破った。この弁論術を自ら弁証法と名づけたのである。プロタゴラス(Pr※(サーカムフレックスアクセント付きO小文字)tagoras)に対立して彼自身恐らく最大のソフィストであった所のソクラテス(S※(サーカムフレックスアクセント付きO小文字)krat※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)s)は併し、却って真理の絶対性の信念の下に、世人の持つ誤った独断的知識の粉砕につとめ、対話、問答を用いて知者と自称するソフィスト達を追求した。この対話術が彼の弁証法である。ソクラテスの対話術の精神はプラトンの諸対話篇となったのであり、プラトンは其等対話篇を通じて、諸概念の帰納と演繹とを極めて理論的に展開した。この彼独特の概念分析をプラトンは最高の知識の形式(哲学)と考え、この学乃至方法を弁証法と名づけた。弁証法はプラトンに至って初めて哲学的方法の名になったのである。弁証法がプラトンに於てかくも積極的なものとなりかくも質量あるものとなったにも拘らず、之が結局の処存在それ自身には関わりない主観の概念分析の内側に留まっていた弁証法であることを注意しなければならない。成程弁証法は存在という対象を明らかにするための方法に違いないのであるが、併しプラトンによればこの存在それ自身が全く固定した、地上から浮き上って凝結した、イデアなのである。見られるものを意味するイデアの概念は、それに就いての近代風の解釈がどうであろうとも、要するに何か幾何学的図形を表象させるようなそういう一定形態(形相、形式、エイドス、本質)を指し示す。それは生成変化するものの正反対物であり、又それであればこそ感性界の有為転変の彼岸としてプラトンが召し出した所のものである。もし仮に存在自身が弁証法的であるならば、その存在は仮現の世界であってまだ真の存在界には属さないであろう。イデア自身は、であるから到底弁証法的ではない。かくてプラトンの弁証法はかの主観的弁証法に属する峻峯でなくてはならない。夙に対話篇的な労作を脱して実証的な諸材料を科学的に整理しようとしたアリストテレスは併し、プラトンの理論のもつ弁証法の意義を、単に学問の準備的手段・思惟の訓練と論争との手段に過ぎぬものにまで堕した。プラトンの主観的弁証法が積極的であるならばアリストテレスの夫は消極的と呼ばれて好い(積極的と消極的とのこの区別は後に夫々、ヘーゲルとカントとの弁証法に就いても一応通用するであろう)。
 以上の一連の主観的弁証法に対して客観的弁証法を取ったものは、新プラトン学派の最後の代表者プロクロス(Proklos)であるように見える。師プロティノス(Pl※(サーカムフレックスアクセント付きO小文字)tinos)によれば真の存在たる神性は一者であり、この一者が形相(形式)から初めて質料に至るまでの凡ての範疇をば自らを損ずることなく分出するのであり、而もこれ等諸分出は終に一者の内を出ないのであるから結局一者への復帰を意味する。かかる一者の一般から特殊への展開過程(分出過程)をプロクロスは弁証法と考えた。云うまでもなく之は思惟乃至方法としての弁証法ではなくて実在の過程としての夫である。併しこの客観的弁証法は新プラトン学派自体がそうあるように単に東邦の宗教意識に動機されている意味でばかりではなく、理論的解明を容れ難い点で神秘的であることを免れない。実際客観的弁証法の最も重大な要点は如何にして凡ゆる意味での神秘主義を脱却するかにあるだろう。今の場合は然るに却ってこの困難の最も著しい典型である。ニコラス・クザーヌス(N. Cusanus)等の所謂「反対の一致」は、実は弁証法(無論客観に於いての)の神秘主義的断念に外ならない。
 ギリシア哲学乃至ギリシア・ローマ哲学以来、弁証法をその体系に上程したのはカント(I. Kant)である。カントの批判主義の精神は、従来の形而上学の批判、又は真の形而上学のための理性の批判に外ならないが、そこで第一に問題となるのは従来真の存在と考えられて来た在りのままの物(物自体)である。カントによれば物がそれ自体に何であるか、如何にあるか、ということは理性(但し理論的理性)によっても決定され得ない。理性はただ、感性に現われた、経験的材料と結合して初めて、経験という一定内容ある認識を有つことが出来るに過ぎない。この経験界を超越した物自体に就いて理論的理性は何物をも決定することは出来ない。併し事実上理性は物自体の存在を仮定する要求を捨てることが出来ない、そこで物自体に就いて何等の内容的な規定をも与え得ない理性が、経験界を超越したこの物自体に就いて何かを規定し得るかのような仮象を産むのが事実である。この超越的(先験的)仮象の論理(批判)がカントの名づける先験的弁証法である。彼の先験的弁証法は(特に二律背反の如きは)批判哲学の生成のための最も有力な槓杆として役立ったものであるが、体系上の秩序から云えば、消極的な位置を与えられているに過ぎない。之を弁証法と名づけた所以は、仮象の常として相反する主張の対立と抗争とを伴うからであるが(弁証法的仮象)、かかる対立と抗争との由って来る構造を明らかにすることは、とりも直さず従来の形而上学を批判することの消極的な一面に相当するのである。併しこの弁証法の実質上の意味はより積極的なものであると考えられる。理性が単独に理性として使用されれば、即ち感性と結合しないで超越的に使用されれば、かの仮象が生じるのであったから、弁証法とは茲では、理性が完全には独立性を有ち得ない、ということを言い現わしているものに外ならない。もっと限定して云えば、弁証法とは形式論理の論理としての完全なる独立性を否定することである。それであればこそ弁証法はカントに於て先験的論理学(形式的一般論理学に対して)の内に属している、そして、実際先験的論理学とは感性と理性との結合の(独立のではない)理論であった。それにも拘らず弁証法が先験的論理学の消極的な部分に止まらねばならなかったのは、論理の独立性の否定がまだ、論理自身の内に論理性の否定である矛盾が含まれるという形に於て意識されるまでに至らず、矛盾は全く論理外にあるべきものとして単純に斥けられて了ったからであり、要するにカントの先験的論理学はまだ弁証法的論理学にまで行かなかったからである。実際彼の先験的論理学の中心概念たる範疇はなおまだアリストテレスの判断表からの引用に外ならず、その限り先験的論理学(この存在の論理学すら)はまだ形式的論理学の支配を脱却していないのである(弁証法を分析論と区別して使うカントの用語も亦アリストテレスに従ったものである)。
 カント自身が呼んだ弁証法は以上のように、吾々の区別に従うならば主観的弁証法に属しているが、客観的弁証法もまたカントの体系の内に見出され得ないのではない(尤も彼自身は何も之を弁証法と呼んでいるのではないが)。自然哲学に於ける所謂自然弁証法【本書二六ページ】の認識が夫である。ニュートン(I. Newton)が物質に引力を付与したに対してカントは更に之に対抗する斥力をも付与し、この相抗争する二力によって初めて物質とその運動との概念の構成が可能になると考え、之をその自然哲学の根柢とした。後にシェリング(F. W. J. v. Schelling)がその自然に於ける分極の概念を引き出した所のものが之であり、又ヘーゲル(G. W. F. Hegel)の自然哲学(自然の弁証法)の見本として役立ったのも実は又之である。
 カントは第一批判に於て理論的理性から排除した物自体の占める位置を、第二批判に於て実践理性の対象界としての道徳の世界に与えた。理論的な経験の世界と倫理的な実践の世界とがかくて二元論的に対立する。両者は判断力批判(第三批判)を俟たなければ統一され得ない、両者は直接には統一を持てない。カント哲学を統一的に独特の原理を以て展開しようと企てたフィヒテ(I. H. Fichte)は、カントの物自体をば事行(Tathandlung)としての自我にまで純粋にし、理論的自我としての事行が必然的に実践的自我としての事行にまで移り行かざるを得ない所以を示した。かくてフィヒテ自身の信ずる所によれば、カント哲学はカント自身の実践理性の優位という精神に従って一元的に叙述され組織立てられた。この叙述乃至組織の仕方(哲学)がフィヒテの弁証法なのである。処がフィヒテにとってはこの哲学自身が恰も事行自身の展開に外ならない。であるから彼の弁証法は単に哲学的方法であるに止らず又同時に事行というものそのものの根本特色となる。併しそれにも拘らずこの弁証法は依然として結局主観的であることを免れない。何となれば、フィヒテの事行である自我は、如何に個人的な夫ではなくて超個人的な純粋自我又は絶対自我であるとしても、そもそも自我という言葉自身が示しているように、優れて特に主観を意味する概念であることには変りがなく、又この自我の性格たる実践もまだ決して感性的な真の実践ではなく、意欲、当為、努力等の内容として倫理的に意味づけられた限りの解釈された実践にすぎないからである。フィヒテの実践が結局考えられた実践でしかないことは注意されるべきである。それに、晩年のフィヒテが純粋自我を絶対者として前弁証法的なものと看做し、弁証法を単に之の哲学体系に於ける叙述にすぎぬと考えたのを見れば、彼の弁証法は存在(フィヒテは初めこの概念を避けるために事行という言葉を造ったのであるが)の側にではなくて単に哲学的方法の側にのみ行われ得るものとさえなるだろう。そうすればフィヒテの弁証法が愈々主観的であったことを暴露して来る。
 併し浪漫派の思想にとって欠くことの出来ないものは自然の概念である。専ら主観を主題としたフィヒテの知識に対して客観(自然)を主題とするシェリングの自然哲学がその権利を要求したのは当然そうあるべきであった。分極を通じて自然の内容は順次にその勢位を高める、之がシェリングに於ける弁証法的なるものである。併し所謂自然哲学時代のこのシェリングはやがてそれが本来落ち付くべきであった場所に、同一哲学に、移り行かねばならなかった。差別が直接に何等の媒介なく取りも直さず同一であるという関係は、正に弁証法の正反対物に外ならぬ。弁証法に於ける同一は差別を通っての同一であって、差別を抜きにしての同一ではない筈である。弁証法は安易に考えられると往々同一哲学となる、然るに凡そ同一哲学は弁証法の正反対物なのである。ヘーゲル哲学を批評したと想像されるシェリング哲学の最高潮期(自由意志論時代)を支配するものは、弁証法一般に関する限り、矢張この同一哲学であったと云えるであろう。
 唯物弁証法に就いては、ただ次の事だけを語っておこう。之はマルクス及びエンゲルスによって、そして又ディーツゲン(J. Dietzgen)によっても明白にされた所の、一般に弁証法なるものの最高の帰結である。ヘーゲルの観念論的弁証法が真に弁証法的となれば取りも直さず之になるのである。さてこの場合弁証法は相互に連関した三つの部門を有つ。(一)、弁証法的論理、(二)、唯物史観、(三)、自然弁証法。
 なお近来バルト(K. Barth)、ブルンナー(E. Brunner)等は、神学をば、人間の達し得ない実在たる神と人間との間の根本的な矛盾を取り扱うべきものとなし、弁証法的神学を主張している。ここでの弁証法はキールケゴール(S. Kierkegaard)の弁証法(「之かあれか」)の系統を引いているのであり、シュライエルマッハー(F. E. D. Schleiermacher)の特色ある調和的な弁証法を斥ける意味を有っている。キールケゴールはシェリングを見限ってヘーゲル風の思想(弁証法)に走った思想家である。
参考文献――(一)古典―H※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)rakleitos 及び Z※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)n※(サーカムフレックスアクセント付きO小文字)n von Elea の Fragmente(Diels, H., Vorsokratiker); Platon, Sophistes(Parmenides); Kant, I., Kritik der reinen Vernunft, 1781(天野貞祐訳『純粋理性批判』); Fichte, J. G., Die Grundlage der gesamten Wissenschaftslehre 1704(木村素衛訳『全知識学の基礎』其他); Schleiermacher, F. E. D., Dialektik(Gesamtausgabe, 3. Abtl.); Kierkegaard, S., Entweder-Oder, 1843; Hegel, G. W. F., Ph※(ダイエレシス付きA小文字)nomenologie des Geistes, 1807; Derselbe, Wissenschaft der Logik, 1812-1816; Derselbe, Enzyklop※(ダイエレシス付きA小文字)die d. philosophischen Wissenschaften im Grundrisse, 1. Aufl., 1817, 2. Aufl., 1827; Marx, K., Rheinische Zeitung, 1842; Derselbe, Briefe an Ruge, 1843; Derselbe, Zur Kritik der Hegel'schen Rechtsphilosophie, 1844; Derselbe zur Judenfrage, 1844; Derselbe, 11 Thesen ※(ダイエレシス付きU小文字)ber Feuerbach, 1845; dito, La mis※(グレーブアクセント付きE小文字)re de la philosophie, 1847; Derselbe, Das Kommunistische Manifest, 1848; Derselbe, Zur Kritik der politischen ※(ダイエレシス付きO)konomie, 1859; Derselbe, Das Kapital, 1. Bd., 1867; Marx, K. und Engels, F., Die Heilige Familie, 1845; Dieselben, Deutsche Ideologie, 1846; Engels, F., Herrn Eugen D※(ダイエレシス付きU小文字)hrings Umw※(ダイエレシス付きA小文字)lzung der Wissenschaft, 1877; Derselbe, Naturdialektik(Marx-Engels-Archiv, ※(ローマ数字2、1-13-22). Bd.); Lenin, N., Materialismus und Empiriokritizismus, 1925.(二)、特に自然弁証法―笹川正考訳、デボーリン『弁証法と自然科学』。(三)、特に弁証法神学―Fricke, P., Dialektische Theologie, 1927. 尚 Cohn, J., Theorie der Dialektik, 1923.


唯心論 ユイシンロン 【英】Idealism【独】Idealismus【仏】Id※(アキュートアクセント付きE小文字)alisme.

 唯物論に対立する所の一種の存在論。世界観としては理想主義とも訳され認識論としては観念論と訳されるのが従来の習慣になっている。最近は一概に観念論という言葉によって代用されるに至った。
 唯物論にもありとあらゆる形態があり、夫々の間には絶対的に相容れないようにさえ見える距離と対立とが見出されるように、唯心論に於ても哲学の歴史は様々な種類を示している。同じく唯心論であっても、例えばバークレー(G. Berkeley)の所謂唯心論とカント(I. Kant)の所謂理想主義とではその理論的効果が全く正反対であるとも考えられる。併しそれにも拘らず、古来の一切の哲学は、終局に於て、唯心論かそれでなければ唯物論かに所属する。何故ならば存在は最も含蓄ある意味に於ける精神と物質とに区別されるのが普通であるが、吾々はこの二つのものに対する第三の項を知らないから、存在の説明は是非とも、精神によって物質を説明するか、又は逆に物質によって精神を説明するかそのどれかの場合でなければならないからである。後の場合が、唯物論であり、前の場合が唯心論である。だから唯物論にとっては、もはや精神と物質とが存在ではなくて、物質こそ存在であり、存在ということが物質ということである、と同様に、唯心論にとっては、存在ということが精神ということである、存在は何か精神的なものでなければならないと考えられる。そしてあらゆる哲学は、このどちらかの存在の概念を自分にとっての存在の概念として、選ぶと云うのである。唯心論は観念を其中心問題として、選ぶのである。
 処が注意すべきことは、存在という言葉は、哲学史の発生当時の条件から云っても、又吾々の日常的な思惟の約束から云っても、元来精神的なものを意味するよりも、寧ろ物質的なもの(それは主観を超越して独立に存するものである)を意味し勝ちだという点である。ここで、唯心論は、存在を存在として云い表わす代りに、之に対立する何かの言葉を選ぼうとする。唯心論によってはだから、存在なるものは存在ではなくて例えば観念であると呼ばれなくてはならなくなる。唯心論が今日一概に観念論と名づけられる所以である。だが、観念論という邦語は元来存在論に関するよりも寧ろ認識論に関する。夫は認識論上実在論から区別されて観念論と呼ばれるのである。そこでは実在―存在―そのものではなくて、実在に関する認識が―観念が―まず第一の課題として取り上げられねばならないと考えられる、存在よりも観念の方が、認識論上、先である、と云うのである。併しこの認識論上の観念論が存在論上の唯心論に、直接に対応する事は云うまでもない。――存在は、実在は、吾々の生活にとっては、現実である。で吾々の生活を指導する筈の世界観としては、存在乃至実在を原理とする唯物論乃至実在論に対応して、現実主義(之は色々不都合な連想を持つが仮にそう呼んでおこう)がある。これに対立する世界観は、理想主義と呼ばれている。そこでは現実―存在・実在―よりも先に、之を支配している、又は支配すべき理想が、原理であり又なければならぬと考えられる。世界観上に於けるこの理想主義が、存在論上に於ける唯心論と等価物であることは明らかである。
 吾々は、かりに哲学一般の構造を三つの段階に分けることが出来よう。第一に最初に来るものは世界観、第二に存在論、第三に最後の認識論(乃至論理学)。そこでこの三段階に相応して、唯物論は夫々、現実主義・唯物論・実在論となる。之に反して唯心論は、理想主義・唯心論・観念論の一列の系統をなすと云うのである。
(多くの哲学者は吾々が先から「存在論」と云って来た箇所に、「形而上学」という言葉を入れ換える。併し吾々は形而上学という言葉を、も少し外の連関に於て用いる必要があるので、特に存在論という言葉を選んだ)。
 欧州の哲学――そしてそれが今日の吾々の哲学である――に於て、唯心論(以下特に断らない限り観念論、理想主義を含む)が最初に最も意識的となって前面に現われたのは、ソクラテス(S※(サーカムフレックスアクセント付きO小文字)krat※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)s)に於てであった。自然の代りに人間が、社会が、道徳が、哲学の名に値いする中心問題でなければならぬと、この偉大なソフィストは考えた。この理想主義的(それは当時のギリシア社会の行き詰りからの反発なのだが)世界観は、プラトン(Plat※(サーカムフレックスアクセント付きO小文字)n)によって唯心論的存在論にまで、体系化された。プラトンは現実世界と理想世界との対立を鋭く意識せざるを得なかったその世界観を、まず第一に感性界と超感性界との対立として組織立てた(二世界説)。感性界は物の世界であり、超感性界は観念―イデア―の世界である。前者は転変極まりなき世界であり、後者は永遠の世界である。前者は却って固有の形をもたぬ質料(後世の言葉で云えば)の世界であり、後者は固有の安定した形が成り立つ形相(エイドス―イデア)の世界である。秩序なき質料の世界は、彫塑的な形相によって初めて調和ある秩序を与えられる。そこに初めて、真と美と善の―価値の―世界が拡げられる。で感性界の事物は、超感性界のイデアに、のっとらねばならぬ。現実の事物は、イデアによってのみ、存在することが出来る。存在の原理は、存在は、単なる存在ではなくて、観念・イデアであるということになる(Idealismus なる名は茲から出て来る)。
 プラトンのイデアは併し、それが主観的なものでなければならぬことを少しもまだ自覚していない。イデアこそ却って世界の彼岸に存する客体であると考えられた。イデア・観念を主観にまで結び付けたものは(多くの変遷を辿った結果であることは抜きにして)、聖アウグスティヌス(St. Augustinus)であった。キリスト教的信仰の体験にまで来て初めて落ち付くことの出来たアウグスティヌスは当然なことながら、事物の価値の判別を、それが内面的であるか外面的であるかに置いた。蓋し内面的なもののみ宗教的体験の名に値するのである。だが内面的なもの、それは意識である。かくて観念は意識となる。イデアは意識にまで主観化される(今日の欧州語 Idea, Id※(アキュートアクセント付きE小文字)e は茲から来る)。かくて変質された唯心論はスコラ哲学の底を潜って、近世の初めにデカルト(R. Descartes)に現われる。デカルトの有名な哲学方法によればまず一切のものは疑われてかからなければならない。だが疑うということ自身、即ち私が疑うということ自身、は疑うことが出来ない。私が意識するということ(我考う―cogito)は疑えない。そうすれば少くとも私がある(sum)ことだけは確実でなければならない、そういう結論に到着する。今や意識は単なる意識ではない。それは意識する自我の有つ限りの意識でなければならない。観念の概念は自我の概念に集注する。
 しかしデカルトの「我考う」に於ては、自我は単に表象しているに過ぎない、それはまだ判断する自我にはなっていない。観念は意識であり自我が有つ意識であるが、その意識がまだ判断意識にまで行かずに単に表象意識に止まっている。自我はまだ真理の定立という大切な任務を与えられていない。カントはそこで、この意識を意識一般にまで改造する。蓋し意識一般とは、客観的な真理を(夫は併しカントにとっては、唯一な自然界と等値物である)、成立たせる資格を有った意識である。意識はもはや単なる表象ではなくて表象の多様を統一する統覚であり、それが客観の規準として機能する点で、先験的統覚となる。このように先験的意識の論理的機能に専ら任じるものはカントの諸範疇なのである。之は客観にぞくするのではなくて、正に主観にぞくするものであるが(観念性)、併しそうかと云って、主観の任意に委ねられるのではなくて、主観自身が自ら則るべき規則を意味するから却って客観性を有つ。凡そ認識の(又カントに従えば存在成立の)客観性は、意識の、主観の、自我の、持っている観念性にのみ、根拠を見出すことが出来る。之がカントの先験的(批判的)観念論なのである(観念論は先天主義 Apriorismus に結合する場合が多い。カントやライプニツの例が夫である)。
 観念はフィヒテ(J. G. Fichte)の自我に至って恐らく最高の王座に据えられる。彼に於ては自我はもはや単なる表象意識でもなく判断意識でもなくて、行為意識となる。観念は、意識は、自己意識(自覚)となる。ドイツ観念論は正にフィヒテの事行(Tathandlung)の概念に至ってその極点に達する。之によれば存在は・事実は真の存在ではない。真の存在は存在ならぬ活動である。この活動は存在という主体を持たない純粋な活動であり、働くこと自身の外に存在ということはない。だから事実即行為(事行)だというのである。そしてこのフィヒテの自我の体系は、カントの先験的観念論の必然的発展なのであった。ヘーゲル(G. W. F. Hegel)によって、フィヒテの自覚は神的な世界精神に、宇宙理性にまで発展せしめられる観念は、ここでは最も含蓄ある意味に於ける精神(Geist)として把握される。だがそれと共に観念(Idea)は従来何と云っても之に付き纒っていた主観という意味を脱して却って客観的なものにまで転化する(客観的精神)、否、観念は終局に於ては主客の対立を具体的に止揚して――フィヒテやシェリング(F. W. J. v. Schelling)は主観の対立を抽象し去ったに過ぎなかったが――絶対的となる(絶対的精神)。之は観念がその行く処まで行き着いて了ったことを意味するだろう。ここにはすでに観念自身の譲位が、観念論の終焉が、用意されている。人々は之をドイツ観念論の終焉として、ヘーゲル哲学体系の崩壊として知っているのである。蓋しヘーゲル哲学はドイツ観念論の総決算であり、そしてドイツ観念論は従来の観念論の総決算であったから――かくて唯心論は唯物論にまで必然的に転化しなければならなかった。
 併し吾々は残余の唯心論の二三の特色あるものに就いて語っておく必要がある。第一はライプニツ(G. W. Leibniz)の単子論(Monadologie)。単子(モナド)は意識(表象)的乃至精神的単位であり、夫々の個性をもつ。ここから観念論は個性の哲学として後世に伝えられる。アリストテレス(Aristotel※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)s)から系統を引くこの個性の哲学は、ヘーゲルに於ける理性の現実化の思想によって消化される。第二はバークレーの独我論(Solipsismus)である。大陸のライプニツの対蹠の位置にあったイングランドのロック(J. Locke)から始まる経験論は、ベーコン(F. Bacon)やホッブズ(Th. Hobbes)の唯物論の発展であったにも拘らず、バークレーの徹底的な唯心論を結果した。彼によれば存在するとは知覚されるということである。知覚の結合を外にして存在や世界はない、一切のものは観念(Idea)に過ぎないというのである。之は観念論の戯画として特徴的であるだろう。観念論をこの戯画から救け出したものはカントの先験的観念論(批判主義)であった。第三に今日有力な観念論を吾々は、ベルグソン(H. Bergson)の形而上学、フッセルル(E. Husserl)の現象学、新カント学派の価値哲学、ディルタイ(W. Dilthey)の生命哲学、などに於て持っている。今日の代表的な唯物論―マルクス主義哲学―は之等の唯心論と対峙し、之に対する批判を課題として課せられていると考えられる。
 最後に、観念乃至意識は、知的なものと考えられる場合と意志的なものと考えられる場合とがある。前者は主知主義(Intellektualismus)の観念論であり、後者は主意主義(Voluntarismus)の夫である。プラトンを初めデカルト、ライプニツ、バークレー、カント、ヘーゲル、フッセルル等は前者にぞくし、ショーペンハウアー(A. Schopenhauer)、メヌ・ド・ビラン(M. d. Biran)などは後者にぞくする。そして、また主知主義は直観主義(Intuitionismus)に結び付いている。フッセルルやベルグソンがそれである。


唯物論 ユイブツロン 【英】Materialism【独】Materialismus【仏】Mat※(アキュートアクセント付きE小文字)rialisme.

 存在論の一つの立場で、唯心論と対立する(「唯心論」の項参照)。世界観としては理想主義に対立し、認識論としては観念論に対立する。世界観としては、理想が現実の必然的発展でなければならないことを強調し、もしそうでない理想をかかげる立場があるならば、夫はユートピアを夢想するものだとして斥ける。現実から出発する点に於て現実主義とも云うことが出来よう。この現実主義が不当に極端化されると併し、夫は現実との妥協主義又は物質生活の無条件的尊重主義ともなることが出来る。俗には往々唯物論という言葉をこの最後の意味に用いる。併し之は真正の唯物論とは殆んど何の関係もない。却って唯物論的世界観は、思想が希望に燃えている時や(ギリシアの自然哲学)、新しい理想に駆られる時(フランス啓蒙期の唯物論)にこそ、発生したのが事実である。認識論としては、唯物論は多く経験論(Empirismus)に結合したり(ホッブズ Th. Hobbes の場合)、感覚論(Sensualismus)に結合したりする(エルヴェシウス C. A. Helv※(アキュートアクセント付きE小文字)tius の場合)。(無論経験論や感覚論自身は唯物論ではない。ロック J. Locke の経験論はバークレー G. Berkeley の唯心論を結果したし、コンディヤック E. B. Condillac の感覚論はメヌ・ド・ビラン Maine de Biran の唯心論を結果した。)唯物論が之等のものに結合出来るのは、之等のものが実在論に帰着する場合に限る。認識論としての唯物論は―観念論に対する―実在論である。さてこのような現実主義的世界観及び実在論的認識論は、存在論としての唯物論の等価物でなければならない。
 唯物論的存在論は一般に、物質を以て精神を説明する原理と考える。或いは同じことに帰着するが、物質が即ち狭義の存在だと考える。種々なる唯物論の相違は、この物質の概念の如何によって、又物質を以て如何に精神をも説明するかによって、与えられる。
 古代ギリシアの哲学――人々は夫を古代ギリシアの自然哲学と呼んでいるが――は唯物論として始まった。タレス(Thal※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)s)に於ては存在の原理は水であった(尤もこの水は今は吾々の持つ水の概念ではないが)。それは何と云っても何かの意味の物質に外ならない。水は存在の原理であると共に、否あるが故に、又存在の生成の原理でもなければならぬ。存在の運動を与えるものも亦この水である。この物質は運動の動力を自らの中に持っている。人々はこの唯物論を物活論(Hylozoismus)と名づける。物活論的唯物論はギリシアに於ける代表的な唯物論者デモクリトス(D※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)mokritos)の単位物質―アトム―の思想となって現われる。アトムは自らの運動を固有している。ソクラテス以後ギリシア哲学の中心は自然哲学を離れ、その限り唯心論に傾いたと普通考えられているが、プラトンの晩年の思索は専ら自然哲学に向けられ、質料の概念に集注される。質料(プラトンは夫を場処―空間―と呼んだ)はプラトンによれば観念乃至形相(イデア・エイドス)の反対物だったのである。吾々はプラトン哲学―この代表的な観念論―に於てさえ結局質料主義としての唯物論を見ることが出来る。さてデモクリトスのアトム主義はエピクロス(Epikouros)の倫理説となり、やがてストア学派の唯物論を結実した。普通デモクリトスの場合を例にとって、唯物論は機械論(Mechanismus)と同一視される。併し唯物論が寧ろ機械論に止まり得ないものであることは、マルクスの学位論文によるデモクリトスとエピクロスとの比較を見れば好い。
 近世の唯心論がデカルト(R. Descartes)に始まったに対応して、近世の唯物論はベーコン(F. Bacon)から始まる。ホッブズは之を機械論的唯物論として徹底させた。ホッブズの唯物論の動機となったものは、当時の斬新な思想であったガリレイ(G. Galilei)の力学観であったが、ホッブズの唯物論は、恰もこの力学的見地によって支えられている。それが機械論的唯物論の形を取らねばならなかった所以である。
 ホッブズを以て代表者とする十七世紀のイングランドの唯物論は、やがて大陸に移って、十八世紀のフランス唯物論となる。茲では唯物論が生理学的根拠によって支えられる。ラ・メトリー(J. O. La Mettrie)やエルヴェシウス等が之を代表する。精神作用は感覚を以て始まるが、この感覚は全く物質的機能に外ならない。感覚は脳中に分泌作用を引きおこし、この分泌作用がとりも直さず意識なのであると考える。この云わば生理学的唯物論は十九世紀のドイツに這入って最も徹底した形を取った。之を代表するものはフォークト(K. Vogt)である。彼に従えば精神は全然脳髄なる物質の所産である。恰も肝臓から胆汁が分泌され、腎臓から尿が分泌されるように、脳髄から分泌されるものが精神作用に外ならないと云うのである。モレスコット(J. Moleschott―オランダ人)も亦この派の代表者の一人であるが、モレスコットは更にこの唯物論に化学的根拠を提供して、意識は脳皮質に含まれる燐に依るものだと説明した。この生理学的乃至化学的唯物論は併し結局力学的唯物論に帰着する外はない。何故なら生理学も化学も力学の特殊の場合に過ぎないだろうから。ビュヒナー(L. B※(ダイエレシス付きU小文字)chner)はそれ故、その唯物論をエネルギー不滅則に基けた。
 十七世紀から十九世紀にかけてのこの唯物論は、物質の力学的・機械的作用を集積することによって、生命乃至精神が成立すると考える。その限り悉く之は機械論的唯物論の範疇を出ない。その際物質と考えられたものは、そして悉く物理学的範疇としての物質の範囲を出ない。物質はどのように運動しても、それ自身の質を依然として変えない所の、その意味では動かない、死んだ存在でしかない。これは精神との間に永遠の溝を有たざるを得ないのである。
 フォイエルバハ(L. Feuerbach)は併し、この種の唯物論者からは非常に距っている。彼にとっては、存在とは物理学的な物質ではなくて、より哲学的な概念としての自然であった(人々は唯物論が自然主義に結び付く場合の典型をこのフォイエルバハに於て見るべきである)。自然が最も具体的な内容ある存在だというのである。自然は本来の存在であり、意識は二次的の存在に過ぎないと考えられる。併し彼による自然は、恰もシェリングの絶対者のように、永遠にして不動な自己同一者と考えられる。そこにあるものはシェリング風の自己同一であって例えばヘーゲル風の弁証法的運動ではない。之に相応してフォイエルバハは、人間をば、単に自然を受容する能力たる感性によって特色づける。と云うのは人間は自己の実践によって自然に働きかけるものではなくて、単に自然をそのまま受け容れれば好い、この受容の能力が感性なのである。この人間はであるから歴史――それは人間的実践の足跡と軌道である――を有たない。之は存在(自然)が、自己同一的な静止者であったことに相応するものである。でこのような自然(物質)は、それに如何なる運動と変化とを与えたにせよ、精神乃至意識にまで媒介されることが出来ない。だから、丁度十七世紀から十九世紀にかけての唯物論がそうであったと同じく、フォイエルバハの唯物論(吾々は之を自然主義的唯物論と呼ぼう)も亦、機械論的唯物論の範疇を出ない。ただ後者が前者と異る点は、後者が物質の概念を同一哲学風の広汎な範疇に於て理解したという所に横たわるだけである。
 機械論的唯物論に対するものは弁証法的唯物論(又は唯物論的弁証法)である。マルクス主義の哲学が取りも直さず之である。機械論的唯物論は、物質をその運動に於て、その発展形態に於て、その歴史に於て、把握しなかった、物質とはここでは固定した形而上学的存在に過ぎなかった。弁証法的唯物論は之に反して、物質をその歴史的発展過程に於て理解する(だから之は又歴史的唯物論とも名づけられる)。物質はその運動・変化に於て、一定の量的変化に際して質的変化を引きおこす。物質の発展は質的飛躍を有つ。併し一つの質から之に対立する他の質への飛躍は、物質なるものが同一でありながら[#「ありながら」は底本では「ありがら」]なお且つ起きると考えられねばならない。物質は自分自身に止まりながら、自分でない対立物に転化する。そこには同一物の対立と、又対立物の同一とがある。存在のこの関係を一般に弁証法と呼ぶ。だから物質はこの際弁証法的なものとして把握される。この唯物論が弁証法的唯物論である所以が茲にある。
 併しこの場合、物質とは何か。それは、十七世紀乃至十九世紀の唯物論に於てとは異って、単なる物理学的物質ではあり得なかった。物理学的物質をその特殊な現象形態とするような、一つの哲学的範疇として吾々は之を把握せねばならない。処で物自体の概念は比較的之を能く捉えている。夫は主観から独立な、主観からの関与に関係する事なくしても独自の運動法則を持つ所の、客体を意味する。尤も物自体をカント風の形而上学的概念と考えてはならない。形而上学的物自体は結局カントが指摘したように、不可知論的な存在であり、吾々は夫に就いて何ごとをも語る事が出来ないだろう。実際は主観が認識を―感性を介して―開拓して行くことによって凡ゆる側面から之の認識に迫ることが出来ねばならぬのである。この物質は事物の外廓的な又は天降り式な形式ではなくて、内容の圧力によって自己の形態を形成して行く質料であり、事物の具体性の最後の拠り処である。夫は物理学的認識に於て物理学的物質の概念を与えるばかりではなく、人間の歴史的社会に於ては、物質的生産力の範疇を与える。之が社会のさし当り最も手近かな物質的根柢となるのである。――だが、物質に対する主観の関係は、物質の単なる認識に止まることが出来ない、それの単なる認識であってもすでに実践的性格を有たねばならぬ。実験が夫である。物質は元来、主観にとって実践の対象である、主観を実践的たらしめるためにはこの物質が最後の逢着物としてそこになければならないのである。吾々は実践の尤なるものとして、産業や政治を数えることが出来る。
 では物質は物質以外の存在、意識(観念・精神)にどう関係するか。精神物理学的乃至心理学的な概念としての個人の意識は、物理学的物質の極めて高次の質的飛躍として之を理解する外はない。無論併しそれは、従来の唯物論に於てのように、物質の機械的作用として、又は物質からの機械的延長として、説明されることは出来ない。弁証法的唯物論に於ける物質と意識との関係は併し所謂イデオロギー理論に於て最もその特徴を明らかにする。イデオロギーの理論によれば、意識が存在を決定するのではなくて、人間の社会的存在が意識を決定するのである。意識は、物質的生産力から結果する物質的生産関係を基礎構造として、その形態が決定される。意識はそのような上部構造―イデオロギー―だと云うのである。物質生活から精神生活迄の一切の人間の生活を包括する歴史は、終局に於て、物質的なるもの――それが物質的生産力乃至生産関係という普通経済的と呼ばれるものである――を原因として説明される。唯物論はこの場合、唯物史観として登場する。唯物史観は広汎な弁証法的唯物論の特殊な部分的な場合に外ならない。だからこそ夫が所謂経済史観などとしては性格づけられないのである。
 弁証法的唯物論の根本的主張はマルクスによって残る所なく把握された。エンゲルスは之を補足して広汎な適用にまで齎らし、レーニンは之を、マルクス自身に劣らぬ天才を以て追跡した。レーニンの理論を準備したものとしてプレハーノフ(G. V. Plekhanov)が与えた唯物論の円熟[#「円熟」は底本では「円熱」]した解明と適用とを忘れてはならぬ。今日共産主義者乃至ボリシェヴィキによって展開されつつある弁証法的唯物論は、かくして成長して来たのである。最後に大切なことは、この唯物論が唯心論乃至観念論(ヘーゲルが之を代表した)の、必然的・正統的な徹底と発展とであったということである。
参考文献――Lange, A., Geschichte des Materialismus, 2. Bd., 5. Aufl., 1896, 7. Aufl., 1902; Feuerbach, L., Geschichte der neueren Philosophie von Bacon u. Verulam bis B. Spinoza, 1833.


自然弁証法 シゼンベンショウホウ 【独】Naturdialektik.

 自然に於ける弁証法(自然の弁証法)をいう。弁証法は古来、存在そのものの弁証法(客観の弁証法)と認識・思惟・乃至意識の夫(主観の弁証法)との二つに分れて伝承されて来た観念であるが、唯物弁証法によって、この二つが初めて正当に結びつけられ、まず客観的存在そのものが弁証法的発展をなし、之の主観への反映として人間の認識・思惟・乃至意識内容に弁証法の連関が写され、且つこの主観そのものが又一つの存在として弁証法的発展をなす、と考えられるに到った。かくて弁証法は存在の夫と思惟の夫とに区別され且其両者が相連関せしめられる。思惟の弁証法は論理学乃至認識論であり、存在の弁証法は自然の弁証法と社会の弁証法とに分けられる。後者は史的唯物論(唯物史観とも呼ばれる)であり、之に対して前者が自然弁証法である。
 観念論的弁証法の立場からすれば、自然弁証法は成立しないとも考えられる。弁証法は広義に於ける意識自身の内にか、又は意識と存在との交渉に於てしか成立しないと考えられる。なぜなら弁証法というものは何等かの意味に於けるロゴスに関係して初めて意味のある観念であり、この点を外にして吾々は之を自証する術はないので、意識から独立した限りの自然に本来弁証法が固有であるという主張は、証拠立ての術がないことに就いて天下りの主張をなすという意味に於て、神秘的命題だと考えられるからである。この立場から云えば客観的存在にして弁証法的であり得るものは、歴史的社会だけだということになる(コルシュ―K. Korsch やルカーチ―G. Luk※(アキュートアクセント付きA小文字)cs 等が之を代表する)。又自然が弁証法的であることを認めるも、自然そのものが主観的契機や意識としての或る意味を有つと考え、従って所謂自然そのものには弁証法を拒否する者もある(田辺元、西田幾多郎の諸氏)。――併し之に対する反駁は唯物論そのものの主張から行われるべきで、必ずしも自然弁証法の問題に限った論点ではない。
 広く自然弁証法を理解すれば、この観念の歴史はギリシア自然哲学に遡る(ヘラクレイトス、アリストテレス)。だが特に問題となるべきものは十八世紀以降に属する。一方に於てビッフォン(Georges Louis Leclerc de Buffon)やサンチレール(Saint-Hilaire)の生物乃至自然の進化の思想(之は実証的検証を経た主張というよりも寧ろ単なる思想に過ぎなかったが)、他方に於てカント(I. Kant)の天体発達史乃至宇宙発達史の観念が、自然弁証法の先駆となる。之は後にライエル(C. Lyell)を経てダーウィン(C. Darwin)の進化理論となり生物界に於ける自然弁証法の礎石を築いたものである。併し所謂自然弁証法は之とは独立に発達した。カントの引力と斥力との対立の観念やシェリング(Schelling)の自然哲学の分極の理論に基いて、ヘーゲル(Hegel)の自然哲学が組織されたが、之は自然が弁証法(但し概念の弁証法)によって貫かれていることを主張するものであった。かくて自然弁証法は、ドイツに於ける自然哲学のテーマとして発達した。デューリング(E. D※(ダイエレシス付きU小文字)hring)は一応唯物論の立場から、「自然的弁証法」という自然哲学を試みた。
 今日の自然弁証法はエンゲルス(F. Engels)に基く。之は明らかにデューリングの業績と関係があるが、エンゲルスに固有な特色は、この自然弁証法が完全に唯物論のものであって、観念論乃至形而上学のものでなく、従って自然の真の弁証法だという処に存する。もはや之は自然哲学ではなくて、却って自然の自然科学的研究に於ける個々の問題(テーマの立て方、概念の構成法、概念の使用法、理論の立て方、其他)に就いて、その統一的な解決指針を見出すことを目的とする。自然科学の外に自然哲学の弁証法的体系を立てるのでもなく、又自然科学の成果の単なる総合に弁証法を持ち込むのでもない。自然科学の研究の過程そのもののうちに弁証法が必然であることを証明し、自然科学的研究そのものを意図的に促進させることを目的とする。この事はおのずから、弁証法の自然に於ける証明ともなるのである。――マルクス(K. Marx)はダーウィンの進化理論を以て自然界の歴史の唯物弁証法を証明するに外ならぬものと見做した。彼の史的唯物論はその意味に於て社会の自然史(博物学)だと説明される。かかる史的唯物論の本質(唯物弁証法)を自然に於ても貫こうとするものがエンゲルスのこの自然弁証法である。
 自然弁証法の一般的な特徴は、自然が一つの歴史的過程であることの認識である。従って自然には絶対的に固定したものはなく、又他から絶対的に孤立した部分もない。一切の自然諸現象、諸事物は、歴史的に変化するものであり相互に連関あるものである。之は諸事物、諸現象の相互浸透即ち又対立の統一ということに他ならぬ。この意味に於いて又自然の一切の事物現象は矛盾と矛盾の自然的棄揚(否定の否定)とに基く。以上は自然という主観から独立した客観的存在そのものの根本法則に他ならぬ。―次に此自然そのものを研究する自然科学は、自然に関して弁証法的な諸概念を持たねばならぬ筈であり、事実また自然科学の歴史は逐次に自然の弁証法的観念に向って発達しつつあるのを告げているのが事実である。自然科学者自身は弁証法の観念を自覚しないが故にこの点の自覚が欠けているのがこれまでの多くの場合だが、自然弁証法の観念を意識することによって、科学的研究方法は意図的に促進されることが出来る。現代の所謂自然科学の危機や新物理学に於ける諸変革は、恰も自然と自然科学的諸概念とが、弁証法的なものでなければならぬということを、告げているものに他ならぬ。之こそ現代に於ける自然弁証法の証明だと見做される。以上は自然科学的研究方法が自然弁証法によらねばならぬことを示す。
 自然弁証法の観点に立つことによって初めて、自然は社会や観念界との世界観統一を得、自然科学は他の諸科学との方法論上の統一を得る、と考えられる。
参考文献――エンゲルス『自然弁証法』(岩波文庫上・下)。『自然弁証法』(唯物論全書)。


実在論 ジツザイロン 【英】Realism【独】Realismus【仏】R※(アキュートアクセント付きE小文字)alisme.

 広く観念論乃至理想主義に対す。観念乃至理想でない処の事実乃至現実を以て、思考乃至情意の出発点乃至根拠とする思想。但しこの事実乃至現実が何であるかによって、実在論には無限の種類が含まれている。少くとも文化乃至学問の領域如何によって、問題となるべき事実乃至現実なるものが夫々異る。例えば芸術に於ては写実主義となり、倫理乃至道徳に於ては現実主義となり、神学に於ては実念論となる。哲学で実在論と呼ばれるものは、主として認識理論の一つの立場を云い表わす。又哲学でも数理哲学では数学的実在論となる。問題を哲学乃至認識論に限定しよう。
 実在論の最も典型的な模型は、素朴実在論である。之は、人間の認識は与えられた客観的事物をそのまま模写するものであるという主張に立つと云われている。処が観念論者は之れを批判するに際して様々の改釈を施すのであって、或いは客観的現実そのものが、全体的に一遍でありのままに模写されるという主張に直したり、或いは逆に、人間の意識にのぼるものがそのまま実在に照応するという主張に直したりする。前の場合ならば認識の発達・誤謬の発生というものの説明が出来なくなり、後の場合ならば、空想や妄想と現実性のある観念との区別はなくなる、と云って非難する。のみならず、実在が主観に対立する客観のことであるとか、又認識とはこの客観を鏡のように写すものだとかいう考え方は、全く常識的な観点を出ないもので、批判と反省とを経ない素朴な認識論にすぎないと非難されるのである。自然科学者は往々之を採用すると云って非難される。
 併し実際に観念論からするこの二群の非難に相応する実在論は、恐らく哲学体系として未だかつて無いのであって、之は観念論によって非難されるべき模型として、観念論者自身によって考案されたものに過ぎない。素朴な常識や自然科学者の観念と雖も右のような注文の通りには出来ていない。客観的事物をその儘模写するということは、その全体を一遍に写すことが出来るということとは無関係であるし、また夫を逆にして、意識された通りが実在そのものの姿であるという主張とも関係がない。実在そのもの、物自体、を順次に科学的な手続を経て歴史的に模写して行く過程を考えれば、この第一群の非難は無意味となる。―次に実在を客観と考えることには実在論固有の理由があるので、主観的恣意から独立な処に哲学の根拠を求めようとする必要から来る当然の帰結でなければならぬ。各種の実在の内でも特に客観的存在が就中実在としての資格を有っているという主張であって、もしこの主張に根拠がないとすれば、同様に観念論の存在観にも根拠がないということになる。それから認識は模写だという模写説は実は認識そのものの一つの説明というよりも、認識ということの同語反覆的な云い直しに他ならぬ。認識は一切の実践的理論的手続を介して成立するのであるが、併し認識と認識される客観的事物との直接関係は、全くの直接関係であって、その間に何等の媒介物を有たない。それがありのままに写すという言葉の意味である。之が丁度現物がエーテルという虚空のみを介して鏡に像を結ぶ関係にたとえられて、認識するということを写すというのである。従って所謂模写説に対する非難は本末が顛倒しているのである。
 さてこういう風に弁護された限りの所謂素朴実在論とは、要するに唯物論の認識論のことに他ならない。事実唯物論はそれが素朴実在論であるということによって非難されて来た。処がその素朴実在論とは、観念論者が唯物論の実際の主張とは無関係に仮想敵として造り上げた勝手な改釈によるものでしかなかった。常識や自然科学者が信頼すると云われる所謂素朴実在論とは、正確には唯物論のことに他ならない。この唯物論の哲学的権利については今日一般に知られている。
 だが素朴実在論とは区別しながら、自分の体系をなお実在論と呼ぶことを欲している哲学者は可なり多い。「新実在論」や「観念的実在論」(Ideal-Realismus)等が夫である。併し之はいずれも、観念論にもあきたらず、さればと云って唯物論を名のることにも一種の羞恥を感じる処の、実際の意図に於ては唯物論に向っているが意識された意図に於ては之を承認することの出来ない処の、一種の観念論者の自己弁解のための名称と見ていい。即ち実在論(それには無限に様々の種類があるが)とは唯物論とみずからを名のる勇気のない場合の、唯物論の代用物に外ならず、曖昧にされいつも抜け道を気にしている処の唯物論である。
 実在論と直接関係あるものに他に経験論がある。経験論は先天主義(先験主義乃至合理主義)に対立するのであるが、カント(I. Kant)の特徴的な表現を用いればカントの体系の如きは先験的観念論であると同時に経験的実在論であると云われる。ここでも見られるように経験論の立場に立つ時、認識理論はおのずから実在論とならざるを得ない。―併し経験論は必ずしも唯物論的なものに限らず(フランシス・ベーコン F. Bacon の唯物論とバークリ Berkeley の観念論、唯心論とを比較せよ)、経験は主観的なものとも主客合一のものとも考えられる。従って実在論にも亦、それが経験的意識の事蹟乃至現実を実在と考える限り、主観的乃至主客合一的な型のものが存する。先きの「新実在論」の或るものやまた「実在的観念論」(Real-Idealismus)が之であって、之は云わば羞恥はにかめる観念論と呼ばれるべきだろう。
 羞恥める観念論[#「観念論」は底本では「親念論」]又は羞恥める唯物論としての実在論は、今日では更に実在論という名称にさえ羞恥を覚えるのを通例とする。事実実在論という名称は普通過ぎるので一定の哲学体系を特色づけるのに有効ではない。そこで現在では存在論という名称が選ばれる。「実在」という中世的形而上学的実体の観念の代りに、「存在」というギリシア的観念がおきかえられる。かくて実在論が云い表わそうとする唯物論的同感と同時に又観念論への気がねとが、特に特徴的に統一されて、表現されるのである。


プラグマティズム 【英】Pragmatism【独】Pragmatismus【仏】Pragmatisme.

 普通実用主義と訳すが適訳でない。この言葉は、プラグマ(身廻りの用具)という言葉から導かれ、パース(C. S. Peirce)の書物“How to make our ideas clear? 1878”に由来する。ウィリアム・ジェームズ(W. James)によって著明となる。ジェームズによれば、この哲学は特に新奇な哲学体系を意味するのでもなく、又新しい見地を意味するのでもない。古来の或る考え方に名づけた名にすぎぬ。単に知識を獲得するための方法を説明するものに過ぎない。之は一定の定説や独断でもなく、研究の結果を意味するのでもなくて、却って新しい真理の発見へ導くための考えであり、より以上仕事をするためのプログラムであるという。彼はプラグマティズムを、一切の知識が一旦そこへ出なければ動きが取れないという意味で、多くの個室に通じる廊下に譬えている。
 プラグマティズムに於て最も特色のあるものはその真理の概念である。真理とはそれ自身に価値があるのではなく、それによって初めてよりよく理論的実践的な仕事が選ばれ促進展開されるような、そういう底の性質を持ったもののことを意味する。人間の生活は理論的なものも実践的なものも結局実際的なものに他ならぬが、人間のこの実際生活を助けるものが真理ということである。即ち真理とはこの意味に於て有用、有益、有利な手段であって、道具の如き性質を有つと考えられる。但し注意すべきは、この主張が決して、何によらず都合のよいものでさえあれば真理であるという結局真理否定に他ならぬ一種の懐疑論ではないということである。主観の得手勝手な都合に一致するということは何等真理を意味しない。何故ならそうした全く主観的な態度を以てしては実際上決してやって行けないからである。従ってジェームズが真理を生活に有用なものと規定する場合の生活とは人間の社会的な実際生活のことでなければならぬ。この社会的生活を実際的に促進させる用具が真理というものだというのである。彼によれば真理とは、「吾々の経験のどれか一部から他の一部分へ、吾々を成功的に持って行って呉れるような一切の観念」のことだと主張する。彼によれば、このような真理でなければ「実在を変革する」ことは不可能だというのである、つまり実践的な真理ではないというのである。
 プラグマティズムに於ける卓越した観点は、真理のこの実践性への着眼にある。その意味に於ける真理の道具性、有用性を強調した点にある。しかしこの実践の観念は、それが個人的な主観的主体の実践ではなくて社会的な(その限りでは)「客観的」な人間の社会生活に於ける実践であるにも拘らず、本当は客観的な性質を有っていない。と云うのは、真理が実践的に実在を変革するためのものだと云っただけでは、その実在とこの真理との関係は一向判っていないわけで、もし真理がこの実在に基く(それの模写や反映として)のならば、それは唯物論になるわけだし、そうでないとすれば結局この実在なるものが何を意味するかが判らなくなる。唯物論でないとすれば少くともこの実在は客観的ではない。そうすればこの実践性=真理性は何等客観的な実在との関係に於いて客観的であることは出来ず、単に人間の主観相互間に社会的な合致があるという意味で客観性を有っているにすぎない。夫は要するにインターサブジェクティヴ(主観相互的)なもので結局主観的なものにすぎぬ。夫故プラグマティズムによる真理は、其実践性にも拘らず、主観主義のものであらざるを得ない。真理が道具であり有用性であるという事も、結局インストルメンタリズムや、便宜的功利主義のもつ主観論を脱することは出来ぬ。
 それ故プラグマティズムは、真理に就いて(又その哲学観全般についても)自から称する通り、相対主義なのである。真理は絶対的なものでなく人間社会に即して人間的に(「人本主義」)相対的なものに過ぎないという。世界乃至宇宙も、亦、絶対性を有たず即ち唯一性(一元性)を有たず、多元的な宇宙として相対化されねばならぬという。之は云うまでもなく真理なるもの又実在なるものの観念を無理に強制するものであって、真理の実際性を強調するに際して、その実際性・実践性なるものを初めから客観的実在と無関係に規定し得ると思ったことから発生した処の、避け難い不始末だったのである。
 ジェームズが好敵手として選ぶ者はヘーゲルの哲学、その体系・形而上学・絶対主義である。彼によればヘーゲルの範疇組織というものほど真理としての有用性を欠いたものはない。哲学は閉じた体系ではなくてどこまでも閉じることのない方法でなければならぬ。従って夫は何等の形而上学(閉じた体系)でもあってはならぬ。かかる絶対主義を結果する所以はヘーゲルに於いてのように正に、主知主義に存する。知識を実際的行動なるものから引き離して夫から出発するが故に、知識自身が少しも実際的なものとして把握出来ないばかりでなく、知識が実際的行動の一部に過ぎないという点が、遂に見失われるのだという。この反主知主義はイギリスの経験論に由来する処の少くないのは云うまでもないが、認識と生活とに関する進化論的思想に基く処が極めて多い。現に同じく進化論に由来するマッハの思惟経済説は一種のプラグマティズムに数えられているのである。場合は可なり異るが、同じ仕方でニーチェも亦一種のプラグマティストに数えられ得る。
 ジェームズのプラグマティズムを発展させたものはアメリカのデューイ(J. Dewey)とイギリスのシラー(F. C. S. Schiller)とである。前者はジェームズに於けるインストルメンタリズム(道具主義)を徹底し、後者はその人本主義(ヒューマニズム)を誇張する。シラーによれば「人間は万物の尺度」である。(プロタゴラスのこの懐疑論的命題は近代ブルジョアジーの能動的命題となった。)かくてプラグマティズムに於ける主観論、観念論は次第に露骨となりつつある。
参考文献――James, W., Pragmatism, 1907; Dewey, J., Reconstruction in philosophy, 1920; Schiller, F. C. S., Studies in humanism, 1907.


マッハ エルンスト Ernst Mach(一八三八―一九一六)

 オーストリアの物理学者(数学者)、感覚生理学者にして哲学者。キルヒホフ(Kirchhoff)に酷似した現象主義(実証主義の一規定)が彼の思想の一つの特色をなす。人間の感覚は同時に「世界の要素」であり、この感覚の結合を離れて世界がそれ自体にあるのではないという(所謂マッハ主義)。例えば原子も実在性を有つのではなく、単にかかるものを思惟することが思惟のエネルギーを経済的にするが故に、初めて原子を思惟することも真理であり得ると考える(思惟経済説)(この点プランク(M. Planck)との論争が歴史的)。併しマッハの最も優れた他の一つの特色は、自然科学に関する歴史的認識の意義を重大視したことにある。之は進化論の思想を介して、さきの思惟経済説と現象主義とに結びついているが、物理学の理論的歴史をこの立場から書き得たことは恐らく彼の永久の功績である。
主著――Die Geschichte und die Warzel des Satzes von d. Erhaltung d. Energie, 1872; Die Prinzipien d. W※(ダイエレシス付きA小文字)rmelehre, 1886; Die Mechanik in ihrer Entwicklung, 1883; Die Analyse d. Empfindungen, 1885; Erkenntnis und Irrtum, 1905.


模写説 モシャセツ 【英】Imitation-theory【独】Imitationstheorie, Abbildtheorie.

 一般に認識は、客観的実在の主観乃至意識による写し(コピー)(模倣・反映)であるという認識理論を指す。唯物論による認識理論は之に立脚する。観念論哲学の多くの場合は、之を客観的実在をそのまま一遍に全部的に模写し終ることが認識であるという主張だとして説明しているが、この説明には説明者自身の方からの誤った独断が※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入されている。実在は一遍にはその全貌をありのままに写され得ないことは明らかであり、もしそうでなければ認識の進歩発達ということはあり得ないことになる。この独断に立脚する者は、その条件を具えた限りの模写説が立脚する処の唯物論を素朴実在論と呼び、之れを最も常識的で非哲学的な認識論に立つ哲学体系だと主張するが、かかる「模写説」もかかる「素朴実在論」も、本来の模写説と本来の実在論(即ち唯物論)とからは、かなりかけ離れたものなのである。
 唯物論の認識論としての本来の模写説は、実在が意識によって全体的に一挙に模写し尽せるものとは考えず、常にその模写作用の歴史的過程に注意を集中する。之によれば、客観的実在は、まず第一に、感性(感覚乃至知覚)によって捉えられる。だが無論之はまだ実在の全部を捉えたのではない。感性は経験の最も端初的な形態であるが、経験の歴史的蓄積と整頓とはやがて理論を生みいだす。之が普通悟性乃至理性の仕事と考えられているものである。理論は経験から経験的に発生したものであるが、併し一旦理論という形にまで経験的に抽象された以上、この理論はその後の経験の指導に当ることが出来る。経験の一つ一つは其後と雖も無論理論的なものではないが、そういう経験が進行する軌道を導くものが理論であるので、そうでなければ理論は経験から区別される理由を見出し得ない。理論的な原則・原理が経験的なものでないと考えられ、従って先天的乃至先験的なものと考えられ易い所以である。
 故に模写とは常に認識構成の過程に即してしかあり得ない。処がこの認識構成の原動力は、それが感性から始まった通り、思考的なものではなくて実践でなくてはならぬ。処で実践は感性から始めて実験・産業などの内容を含んでいる。その意味に於ける実践を媒介として初めて認識は成立、発達するのであり、そしてそれが実在の模写ということである。併し模写説は元来特別な認識理論を意味するのではなく、寧ろ認識ということは模写ということに他ならないという、一つの端的な事実を云い表わすに過ぎない。認識は無論真理でなければ認識ではない、処が真理ということは実在がありのままに捉えられた状態を云うのである。実在をかくありのままに捉えるという直接性を云い表わすべく、原物が何物の介在をも許さずに直接に鏡面上に像を結ぶことで之を喩えたわけである。認識という観念の意味は常に、写すということである。そしてこの写すということの実際が実践に俟つのである。
[#改段]


2 『教育学辞典』



イデオロギー 【独】Ideologie【仏】id※(アキュートアクセント付きE小文字)ologie【英】ideology

 【意義】 観念形態と訳す。この観念は異様な変遷と変化とを有っている。
 (一)語の起りはフランスのデステュット・ド・トラシー A. L. C. Destutt de Tracy(1754-1836)やカバニス P. J. G. Cabanis(1757-1808)等の観念学(イデオロジー id※(アキュートアクセント付きE小文字)ologie)にある。観念学によればあらゆる問題は観念哲学的研究に基いて解決されねばならぬと考えられ、観念の起原発生を感覚論的に研究することが哲学的方法と考えられた。この学問は感覚論的である限り一種唯物論的な特色を有っていたが(コンディヤック ※(アキュートアクセント付きE). B. de Condillac の感覚論から由来する限り)、併し他方例えばメヌ・ド・ビラン Maine de Biran(1766-1824)の内部的人間学へ連なるものを有っている。と云うのは、問題の出発点が観念の問題に限られ、事物を観念の関係に於て処理しようとする結果、問題の解決自身が観念的となり、即ちまた観念論的とならざるを得なかったのである。その結果、この学問によって、事物は現実的に解決される代りに、哲学的な単なる言葉によって解決されるという弱点を将来することとなり、空疎な言辞と大言壮語の類がイデオロジーだと考えられるようにさえなった。同時に哲学的空言家がイデオローグ id※(アキュートアクセント付きE小文字)ologue と呼ばれるようになった。ナポレオンがデステュット・ド・トラシを「イデオローグの巨頭」と呼んだことは有名である。以上は十八世紀のフランスのイデオロギーであるが、哲学的空言という意味のイデオロギーなる語はやがてマルクス K. H. Marx によって用いられ、爾来今日に至るまでこの言葉の有つ意味の一部分をなしている。
 (二)マルクスはドイツのヘーゲル左派の社会主義乃至唯物論者・無神論者が、結局一種の哲学的空言家であって、社会の現実的革命にとって殆ど全く無用であることを示すために、フォイエルバハ L. A. Feuerbach(1804-72)・バウアー B. Bauer(1809-82)・シュティルナー M. Stirner(1806-56)・グリューン K. Gr※(ダイエレシス付きU小文字)n(1813-87)等に対する批判を展開して之を「ドイツ・イデオロギー」と名づけた。今日我国などでイデオロギーと呼ばれる観念は主としてここに由来する。これは前述の云わばフランス・イデオロジーに対比してドイツのイデオロギーと呼ばれたもので、イデオロギーとはここでは一種の誤謬又は虚偽な意識を意味する。だがマルクスがここで同時に意味する所は、一方に於てこの虚偽意識が主として社会の問題に関する社会意識であると共に、他方に於て一定の社会的原因によって発生した社会意識のタイプだということを暗黙の間に想定している点にある。
 こうした虚偽な社会意識の類型の常として、この意識は一方に於てその誤謬を自覚し得ないと同時に、他方に於てその誤謬を自覚することを決して欲しない。だからこれは単なる誤謬ではなくて正に虚偽であり、而もただの嘘とは異って一人又は数人の個人が故意に偽った結果であるとは限らないので、却って社会の多数者によって支持される結果それが嘘であることを自覚し得ないような虚偽である場合が極めて多い。主に社会に関する虚偽なのだから、社会に於ける政治的関心によって動機づけられがちであるため、群集心理や社会に於ける支配権威に動かされる場合が甚だ多く、純論理的・科学的・理論的・理性的であるよりも先に、先論理的・情意的であることをその特色とする。
 (三)右のような虚偽意識としてのイデオロギーの他に、マルクスはもう一つの規定を与えている。『経済学批判』の序論に於ける唯物史観の公式の条に見られる社会の上部構造としてのイデオロギーの観念がそれである。人間の意識が存在を限定するのではなくて、逆に社会的存在が人間の意識を限定する。と云うのは社会の物質的な現実的な地盤である生産関係が、終極に於て社会に於ける人間の意識の形態を決定するのである。この際前者の物質的地盤が社会の下部構造で、後者の意識の形態が社会の上部構造と名づけられる。そしてこの上部構造がイデオロギーと呼ばれるのである。マルクスは之をイデオロギーともイデオロギー的形態とも呼んでいるが、元来イデオロギーはイデア(観念)の理論という語の意味であったことを参照して、我々はこの際社会の上部構造としてのイデオロギーを観念形態と訳すことが出来る。この訳語は相当行われている。
 次に上部構造(観念形態)と前の虚偽意識との二つの意味の間の関係であるが、相反した主張を有つ二つの観念形態はお互に他を虚偽意識と見做すのを常とする。所が観念形態の内には社会の下部構造を忠実に反映したものもあり得るわけで、そうしたものは実は虚偽意識に対比して却って真理意識の資格を有つことが出来る。マルクス主義に於てはブルジョア・イデオロギーや封建的イデオロギーは現代に於ける虚偽意識を意味するが、之に反してプロレタリア・イデオロギーは正に真理意識を意味する。イデオロギーという語の意味がもつ真理意識と虚偽意識とのこの対立は、云うまでもなく社会階級上の対立を意味する。イデオロギーは従ってこの際、思想・観念・意識・真理、其他の社会的な階級性質を意味するわけで、今日文学や科学に就てイデオロギー性と云われているものは、この階級的性質乃至階級政治的特色を指す。
 【イデオロギーと教育】  前述の最後の意味に於けるイデオロギーが教育に於て占める役割は絶大である。教育が一定の階級乃至国家、或は階級的社会の支配の下に行われる時は、その標榜する教育理想や教育方針の如何に拘らず、実際に於ては、良い意味に於ても悪い意味に於ても、イデオロギー教育であることを出でない。この点、所謂修身教育・公民教育・徳育・精神教育、其他に於て極めて顕著であるが、それだけではなく、一般的な所謂知育・職業教育・産業教育・技術教育、其他に於ても根本的な影響を有っている。支配的勢力が教育に於て採用するイデオロギーが、虚偽意識であった場合(そしてこれは今日極めて普通に存する場合である)、その教育が真理と原則的に全く無関係であることは不可避な必然なのである。
 【イデオロギー論】  史的唯物論によるイデオロギーの概念を模倣したものは知識社会学乃至文化社会学による「イデオロギー論」である(マンハイム K. Mannheim やフライアー H. Freyer 等)。マンハイムは、歴史の推移に於て存在が意識を追い越した場合をイデオロギー、その逆の場合をユートピアと呼んでいる。
文献――A. Bogdanov, Die Entwicklungsformen der Gesellschaft und Wissenschaft, 1913(林房雄訳『社会意識学概論』昭和五年)。K. Mannheim, Ideologie u. Utopie, 1929. K. Marx, Die Deutsche Ideologie, 1845-46, hrsg. von Marx-Engels-Lenin Institut, unter Redaktion von V. Adoratskii, 1932(唯物論研究会訳『ドイツ・イデオロギー』三冊、昭和十―十一年); Zur Kritik der politischen Oekonomie, 1859, hrsg. von K. Kautsky, 1924(河上肇・宮川実訳『政治経済学批判』昭和六年); besorgt von Marx-Engels-Lenin Institut, 1934. G. Salomon, Historischer Materialismus und Ideologienlehre, ※(ローマ数字1、1-13-21)(Jhrb. f. Soziol., ※(ローマ数字2、1-13-22), 1926). M. Scheler, Die Wissensformen und Gesellschaft, 1926. H. O. Ziegler, Ideologienlehre(Arch. f. Sozialwiss. u. Sozialpol., 1927)。新明正道編『イデオロギーの系譜学』第一部(昭和八年)。戸坂潤『イデオロギー概論』(昭和七年)。【本全集第二巻所収】


仮説 【英】hypothesis; supposition; assumption【独】Hypothese; Voraussetzung【仏】hypoth※(グレーブアクセント付きE小文字)se; assomption

 【一般的意義】  この言葉の古典的な意味は、「下に置く」であり、根柢に置くとか根柢を置くとかいう意味である。根拠・理由を与えるものの謂であり、推理・理論・学を成立させる原則を一般に指す。併し特に実証科学乃至自然科学に於ける仮説は、既成の諸経験的事実を統一的に、必要にして充分な形で、説明し得るように案出された或る仮定を云う。これはまだ実験的に検証され実証されない仮定であるから、臆説とも呼ばれる。かかる仮説は科学の前進によって、実験的に検証されて行くべきものであり、その検証が成功すればこれはもはや仮説ではなくて一つの事実の資格を得るが、この検証によってこの仮説に反する結果を得るならば、云うまでもなくこの仮説は捨て去られねばならない。そして更により合理的な新しい仮説を必要とするに到る。仮説はかくの如くして、科学的研究の途上に於て仮に設けられる仮定の意味を失うものではない。
 併し云うまでもなく科学に於ける仮説は決して主観的な任意的な又は便宜的なものではない。何故ならばこれは常にやがて実験的に検証されることを必要としているのであって、これが実験的検証の必要は、科学の対象界に於ける実在的関係を何等かの形で言い表わしたものであるからである。科学は探究する世界自身の客観的関係の一表現である限り、仮説は単に主観的なものではあり得ない。のみならずこれは与えられた既成の知識を根柢的に組織立てる筈のものであるから、無論決して任意的なものではなくて、何人もその段階に於ては認めねばならぬ筈の客観性を有っている。そして又、それが単に研究の便宜のために一時的に採用されたという意味にすぎないことも当然であろう。仮説は常に実験的にそれが真理であることを実証されることを要求している。即ちこれはまだ実証されるには到らぬにしても、多分やがてはその真理たることが実証されるだろうと希望する合理的理由を持っているのであって、その限りに於てこれは単なる便宜ではなく一種の客観的な真理に属する。
 【作業仮説】  単に研究の便宜だけのために設けられた仮説は作業仮説 working hypothesis と呼ばれ、研究の便宜のために役立ちさえすれば目的を達するのであって、それ自身が客観的真理を表現するものであるか否かは問題でない。従って之の実験的検証も亦必要ではないし又無意味でさえある。
 【仮説と理論】  本来の意味に於ける仮説は、客観的真理の一表現である限り、一種の客観性と真理とを有っていることは忘れられてはならないが、併し又他面に於てそれが何と云っても主観の産物であり而も主観の主観的案出による産物であることに変りはない。この意味に於ける主観性は仮説の免れない特色をなす。ポアンカレ H. Poincar※(アキュートアクセント付きE小文字) などは、仮説を或る部分的事実認識からの拡大・拡張だと考える。特定の経験的事実を、思考的に一般化することによって、他の経験的諸事実をもその一般物の上に含ませようとするのが、仮説構成の目的でありまた手続であるという意味である。仮説を今、このように経験的事実の一般化だとすれば、我々は仮説なるものが理論に於て演じる役割に注意せねばならぬ。なぜというに、理論こそ恰も、経験的事実を一般化し普遍的な場合にまで拡大・拡張したものであるからである。
 理論は経験的諸事実から抽出され抽象された所のものであるが、理論も亦やがて実験的検証を受けることを要求する義務と権利とを有つ。この点理論なるものと仮説なるものとの間には殆ど何等の区別がない。ただ科学に於ける理論は何等か特殊の仮定なしに、全経験的事実を統一的に説明し得る又は得そうに思われる所のものを指すのであって、これがなお何等か特殊の仮定を置いてしか許されない場合に、その仮定が仮説に他ならない。故に仮説とは、経験的事実から一般的理論(原則)を抽出導来するに際して、まだそこに理論上多少の偶然性が横たわっているような段階に、必要に応じて発生する所のものであって、理論への途の恐らく不可避な一中間段階に他ならぬと云うことが出来る。燃素説・光粒子説・原子論又原子小太陽系説・エーテル等々はかかる性質を有った仮説であった。
 所でまだ理論としての充分な必然性を有たず、理論的に偶然性を含んだ段階に仮説が発生すると云ったが、この偶然性は多くは広義に於けるモデルの利用となって現われる。と云う意味は、理論的説明を仮託するものとして、多くの場合我々は、人間が日常経験しつつある所の影像 Bild を用いるものであり、特に視覚に訴える像を選ぶものであるが、事実の理論の譬喩的説明は多くかかる直観像に訴える。この譬喩的直観像がもはやその譬喩的意味を脱却して、説明されるべき事実そのものに本質的な直観像と考えられる時、それがモデルなのである。燃素説・光粒子説・原子論、其他に於ける微小粒子の直観や、波動の直観や、ボーアの原子理論に於ける太陽系的直観像などは、凡てこうしたモデルである。理論はこのモデルを用いて各種の経験的現象を説明するのを普通とする。(但し最近の物理学に於ては直観像モデルが成り立たないような理論が必要になったと云われる。つまり空間的時間的な表象ではこの理論にモデルを与えることが出来なくなったと云われる。)かくモデルは仮説と直接関係を有っている。
 物理学に於けるエーテル仮説は極めて特色がある。これは物理的認識の極限を意味する(質量の極小無・抵抗の極小無等々)。だからこれは物理学的仮説としてはたしかに無理な内容のものではあるが、経験的事実と理論的認識との連絡づけが仮説であるという意味を※(二の字点、1-2-22)たまたまよく物語っている。つまり理論を経験の極限として導き出すわけだからである。ちなみに仮説が哲学体系乃至認識方法に於て占める意義を最も重視したのはコーエン H. Cohen である。彼によれば仮説とは経験へ根柢を与えることだ。認識はこの根柢から生産される。この生産点が、所謂極限や微分と呼ばれる所のものだという。


技術 【英】【仏】technique【独】Technik

 【意義】  技法・手法と呼ぶべき場合もあり、技能と呼ぶべき場合もあり、又技術学又は工学・工芸・工芸学と呼ぶべき場合もある。併し此等のものは夫々区別されねばならぬ。
 (一)技術と技法 最も本来的な意味に於ける技術は技法又は手法から区別される。技術とは本来、物質的生産の技術のことであり、一般に非生産的な技術又は観念生産の技術(例えば創作技術)たる単なる技法や手法は、この技術の観念のアナロジー・拡大・応用・其他と見られねばならぬ。
 (二)技術と技能 この物質的生産の技術は、物質的生産の技能と其他の技術部分とを含んでいる。元来物質的生産は物質的生産力によって営まれるのであるが、この生産力には人的要因たる労働力と物的要因たる労働要具の体系とが含まれる。所でこの労働力の一つの資格が技能であり、この労働要具(機械・道具)の体系が其他の技術部分である。
 技能と機械体系とは併し分離して考えることは出来ない。機械体系は人間の機械的な直覚・熟練・其他を基準として設計されると共に、逆に如何なる機械体系が社会的に存在するかによって人間の技能は歴史的にその性能を強制される。だがこの際技能の方は労働条件の如何によってはその分担が労働力にとって一応自由であるに反して、機械体系の方は物質的必然性によって労働力を強制するから、終局に於て機械体系が技能を決定すると云わねばならぬ。併しこのことは機械体系と技能とが全く別な二つの現象であるという事実を蔽うものではない。この全く異った二つの現象が同じく技術と呼ばれる。二つのものを媒介する概念としての技術は、社会に於ける技術水準とも云うべきものだと想像される。この点まだ定説がない。
 (三)技術と技術学 かかる物質的生産の技術は技術学(工芸・工芸学・工学)と往々混同又は同一視されているが、二つの言葉は区別して使用される必要がある。社会の技術的水準とも云うべきものが技術で、それと結びついていた機械体系としての技術に関する科学が技術学なのである。
 【経済的・社会的範疇としての技術】  一般に技術は人間の社会生活が直接自然と結びついた領域に成立する。だからこれは一方に於て自然に属すると共に他方に於て社会に属する。自然に属する限りに於て技術は自然科学と不離な関係に立つ。技術乃至技術学は自然科学の母胎である。社会に属する限り技術は経済と不離な関係に立つ。機械も決して単なる自然科学的・技術学的範疇ではなくて、経済的・社会的範疇である。
 併しこのことは技術(まして機械)が社会の根柢であることを結果しない。社会の根柢は物質的生産力であるが、技術は少くともこの生産力の一部分にしか過ぎなかった。従来技術の哲学なるものが少くないし(例えばデッサウアー F. Dessauer)、テクノクラシー technocracy などもあるが、それがどれも技術至上主義である限り科学的認識とは云えない。だが技術が単に人間の物的生活に対してだけでなく、人類のもつ諸観念に対して如何に根本的な限定力をもつものかという点を注目しなくてはならぬ。技術から完全に切り離された観念・思想・哲学は終局的な客観性と通用性とを有つことが出来ないのが事実だからである。
文献――K. Marx, Das Kapital, Bd. ※(ローマ数字1、1-13-21), 1867. M. Rubinstein, Science, Technology, and Economics under Capitalism and in the Soviet Union, 1932. W. Sombart, Krieg und Kapitalismus, 1913. A. Espinas, Les origines de la technologie, 1897. Beitr※(ダイエレシス付きA小文字)ge zur Geschichte der Technik und Industrie, hrsg. v. K. Matschoss, 1909-. O. Spengler, Der Mensch und Technik, 1931. F. Dessauer, Philosophie der Technik, 1927.


社会科学 【英】social science【独】Sozialwissenschaft【仏】science sociale

 【歴史的概観】  広汎な意味に於ては社会に関する理論乃至科学を指し、主としてギリシアにはじまる。その第一の形態は政治学であり(プラトン・アリストテレスにはじまり今日に及ぶ)、第二の形態は経済学であり(ギリシアに於ては家計理論であったものが十六世紀以来今日の経済学の形をとるようになった)、第三の形態は、歴史記述であり(ヘロドトス H※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)rodotos・トゥキュディデス Thoukydid※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)s に始まる)、第四の形態は法律学である(但しこれはローマに発する)。十九世紀の初めに至る迄、この種の諸形態が混合して漠然と社会科学と呼ばれた。それは歴史哲学乃至社会哲学とあまり区別を持たない。だが近代科学的な社会科学は二つの方向に分離した。一つは人類学犯罪学(ベッカリーア C. B. Beccaria)、更に特に社会学(コント)であり、一つはマルクス主義的社会科学である。マルクス主義的社会科学は、サン・シモン C. H. de Saint-Simon・フリエ F. M. C. Fourier・オーエン等のユトーピア社会主義から発達して、科学的社会主義として成長した。
 社会学が一般に諸社会現象の形式的乃至現象的な体系を組織するに対して、マルクス主義的な(厳密な意味に於ける)社会科学は諸社会現象を貫く内容的実体的な本質を組織する。
 【社会科学の構成要素】  厳密な意味での社会科学として今日広く承認されている殆ど唯一のものはマルクス主義によるそれであり、史的唯物論(歴史の唯物論)即ち唯物史観である。唯物史観には三つの契機が含まれている。(一)唯物論。これは十七乃至十九世紀のイギリス・フランス・ドイツの支配的な近代哲学の一つに淵源する。(二)弁証法。これは近世ドイツ古典哲学の結論である。(三)歴史観。これはイギリスの古典経済学とフランスの社会主義理論となって現われたもの。この三つの契機をもつ史的唯物論は所謂自然弁証法と合わせて、弁証法的唯物論をなすものであり、一般に漫然とマルクス主義の理論と呼ばれるものの内容をなす。
 【社会科学の方法】  まず社会科学は社会をその歴史的運動に於て観察分析する。社会とは常に歴史的社会の謂でなくてはならぬ。この社会の歴史は併し、単に人類の文化の歴史として始まったのではなくて、自然自身の歴史的(自然史的・博物学的)発展の結果発生したものに他ならぬ。故に恰も自然科学者が自然の歴史を博物学的に研究するように、社会科学者は社会の歴史を自然史的に研究し得なければならぬ。こうして初めて、社会の認識は科学的となる(人類社会の自然史)。併しこのことはすでに、社会の歴史の唯物論的分析と弁証法的分析とを想定している。従来の非理論的な社会史は、歴史的現象の単なる発生消滅を羅列し乃至適当に区分するか、そうでなければ、終局に於てこれを人類の精神乃至観念の展開・発達・変遷の結果として説明する態度を抜け出なかったと云っていい。社会の自然史は之に反して、社会の歴史的展開を社会の現実的な物質的地盤から説明する。社会の物質的な発展が社会全般の歴史的発展の終局原因として発見される。ここに社会の自然史が唯物論を分析方法とする所以がある。所が更に、社会を如何に自然史的に分析すると云っても、社会は云うまでもなく自然とは別である。社会は物質的自然の歴史的な物質的な発展であるが自然自身とは異った発展段階に属する。それ自身の発展がそれ自身とは異った新たな性質を生み出すという、事物の歴史的発展の事実が、一般に唯物論的な弁証法なのである。そこで社会の自然史とは、社会の弁証法的発展を想定して初めて意味を持つことが出来る。社会の自然史の分析方法は又、だから弁証法(形式論理に対す)でなくてはならぬ。
 歴史的社会の唯物論的弁証法的分析方法が社会科学の一般的方法であるが、注意すべきはこの方法の出所自身が、他ならぬこの歴史的社会という存在そのものが物質的で弁証法的であるということにある点である。唯物論的弁証法的方法の強みの一つは、この方法自身が事物の物質的弁証法的性質の避くべからざる結果だということである。この方法の強みは而も、歴史的社会の社会科学的分析に際して最も判然と現われる。
 【社会科学の内容】  社会科学的分析によって明かになる主な点は、第一に社会の活きた動的及び静的な構造である。社会科学によれば、歴史的社会の基礎であり従ってまた社会の歴史的発展の終局的な動力を含むものは社会の物質的な生産関係である。これは社会に於ける物質的生産力が一定社会に於て受け取る形式であって、普通経済機構と呼ばれるものに相当する。社会のこの現実的地盤の上に、社会のこの下部構造の上に、上部構造としてイデオロギー観念形態が成立するのである(法律・政治・道徳・科学・哲学・芸術)。下部構造は上部構造との間に交互作用を営んで互いに規定し合うに拘らず、終局に於て下部構造が上部構造を規定する。以上は社会の静的構造であるが、この同じ社会構造が又社会の動的展開を惹き起す。物質的生産力は終局に於て個人乃至人間の意志とは独立に客観的に発達して行く必然性を有っているが、その発達の結果、この生産力が旧来の生産関係と矛盾に陥る。かくて社会の生産関係は生産力の発展の形態から、その桎梏へと逆転する。生産力の発展はこの桎梏を打開して新しい生産関係を自分に適した形式として造り出す。かくて社会の基礎構造は、矛盾と矛盾の克服との機構によって、必然的に変革される。これに従って、上部構造も亦変革されざるを得なくなる。これが社会の歴史的発展なるものに他ならぬ。
 これに関係して注意すべき第二の点は、社会科学が社会の歴史的発展の必然的法則を与え得る唯一の社会理論だということである。尤もここで云う法則とは単なる自然法則とは異って社会の歴史的発展と共にそれ自身も亦発展し具体化して行く法則であり、そして必然的と云っても機械的な必然性ではなくて正しい偶然性を貫いて自らを活かして行く弁証法的な必然性のことをいう。更に之に関して第三の要点は、社会科学的な社会の歴史的発展の必然性の認識が、当然社会人の社会的行動・実践の客観的科学的な有効な具体的指針を与え得るということである。ここで理論実践とが不離の関係に立つ。実践のない処には歴史的社会はあり得ないから、歴史的社会の科学的認識は同時に実践の客観的な内容となるのは当然である。それ故社会科学は、無産者による社会革命、プロレタリアの独裁的支配という綱領にまで具体化される科学的社会主義・科学的コンミュニズムとなり、又この観念がプロレタリアのイデオロギーとなる。かかる階級性乃至党派性は、例えば社会学や歴史哲学が決して自覚し得ない点である。
文献――E. R. A. Seligman (ed.), The Encyclopaedia of the Social Sciences, Vol. ※(ローマ数字1、1-13-21), 1930. K. Marx, Zur Kritik der politischen Oekonomie, hrsg. von K. Kautsky, 1924(河上肇・宮川実訳『政治経済学批判』昭和六年); Das Kapital, 3 Bde., 1867-94(高畠素之訳『資本論』新改訳版昭和二―三年)。F. Engels, Herrn Eugen D※(ダイエレシス付きU小文字)hrings Umw※(ダイエレシス付きA小文字)lzung der Wissenschaft, 11 1921(長谷部文雄訳『反デューリング論』二巻、昭和六―七年)。ミーチン・ラズウモフスキー監修『史的唯物論』(広島定吉・直井武夫訳、昭和九年)。


社会哲学 【英】social philosophy【独】Sozialphilosophie【仏】philosophie sociale

 【意義及び歴史】  この言葉は少くともトーマス・ホッブズ T. Hobbes(1588-1679)にまで遡る。フランスではデュロソア Durosoy(1745-92)の著書にまで遡るという。今日に至るまでその一定の明確な内容規定は与えられていない。結局は、社会・社会問題・社会生活等々に就ての先験的・超越的・形而上学的・思弁的、其他の研究・考察の謂いだと一応考えてよい。例えばグンプロヴィチ L. Gumplowicz(1838-1909)(『社会哲学綱要』)によれば、社会を実証的に考察するものは社会に関する科学としての社会学であるが、之に反して社会を先験的・超越的に考察するものが社会哲学だと考えられる。社会が如何なる意義をもち、何のためにあるかをそれは省察する、一切の社会事象のあり得べき理性的な結果・目的を問題とするのが社会哲学であるという。元来今日社会学と呼ばれる科学は実は社会哲学が科学的に純化限定されて発生したものであるから、その限り社会哲学は社会学と直接の繋りを持っているが、併し現在では社会学なるものの性質は多くの異説があるにも拘わらずほぼ共通な科学的特色を有っている(形式社会学はこの特色を最も露骨に代表する)。ところが所謂社会学者の内でも優れた学者の多くは、多少とも社会哲学的な根柢を持っているのである。社会学という言葉と概念とを提唱したと一般に云われているコント、之を受け継いだスペンサー、之をアメリカに於て発展させたウォード L. F. Ward(1841-1913)等は、その社会的洞察が包括的で統一的である点で社会哲学者に数えられていい。ホッブハウス L. T. Hobhouse(1864-1929)の形而上学的社会理論、ルードウィヒ・シュタイン L. Stein(1859-1930)の哲学的社会問題の取扱い、テニエス F. T※(ダイエレシス付きO小文字)nnies(1855-1936)の主意説的な社会分析、ミヘルス R. Michels(1876-1936)やグンプロヴィチの社会生活の根本問題の検討、リットやフィアカント A. Vierkandt(1867-1953)其他の現象学的社会学、ウォルムス R. Worms(1869-1926)の『社会科学の哲学』、バルトの『社会学としての歴史哲学』など、いずれも社会哲学の名に値いし或は自らかく名乗る処の社会学に属する。
 併し社会哲学はその名の示す通り、一種の哲学或は哲学の一部門に他ならぬという意味を有つ。古来有力な哲学の殆どすべては必ず社会に関する哲学部門をその体系の重大な部分として有っている。プラトンの国家・政治理論、アリストテレスの政治学・国家論・倫理学を始めとして、近世ではホッブズの『レヴィアサン』(Leviathan, 1651)、スピノザの政治論、ロック・モンテスキュー de Montesquieu(1689-1755)・ルソー等の政治思想を経てカントの『永遠平和のために』(Zum ewigen Frieden, ein philosophischer Entwurf, 1795)やフィヒテの『封鎖商業国家論』(Der geschlossene Handelsstaat[#「Handelsstaat」は底本では「Handelstaat」], 1800)に到るまで、社会哲学は著名の哲学の大部分を一貫している。特にヘーゲルはこの点で重大な位置を占めているので、そのブルジョア社会と国家の理念とに関する説は社会哲学の典型と見做されてよい。現代ではシュパン O. Spann(1878-1950)が全体性に基いた範疇論に立脚して全体主義的社会哲学を代表し、シェーラーは生命論的で且つ精神主義的な社会生活の形而上学を試みている。
 又社会哲学は歴史哲学と不離な関係に立っている。蓋し社会は現実には歴史的社会であり、人間の社会生活は取りも直さず人間の歴史に他ならぬからである。歴史哲学という言葉を最初に使ったと云われるヴォルテール Voltaire(1694-1778)の理念は、ヘルダーの人間史の哲学の理念となって今日に到るまで展開されているが、この系列に属する所謂「歴史哲学」は何れも同時に社会哲学の名に値いする。一方ヴィーコ G. B. Vico(1668-1744)は歴史哲学の始祖に数えられるが、其系統に属する現代の社会科学者には社会均衡論の代表者パレート V. Pareto(1848-1923)がいる。多少評論家風の歴史哲学的な社会哲学者を挙げるならばシュペングラー O. Spengler(1880-1936)が代表的である。なお歴史哲学を一般化して広く生の哲学者に及ぼし、又評論的な傾向を押し拡めて文学的な思想家に及ぶならば、今日ニーチェは社会生活の哲学にとって重大な地盤を提供すると見られている。
 歴史哲学に直接関係あるものは社会思想乃至広義に於ける社会主義である。デモクラシー・ファシズム・共産主義・無政府主義・科学的社会主義の主張乃至研究は、社会哲学の最も重大な且つ※(二の字点、1-2-22)ほぼ共通な内容をなす。カント主義に属する社会理想主義として、ナトルプやシュタムラー R. Stammler(1856-1938)の社会哲学があり、カント的マルクス主義(オーストリア・マルクス主義)にはアドラー M. Adler(1873-1937)やレーデラー E. Lederer(1882-1939)の社会哲学がある。クーノー H. Cunow(1862-1936)はラサール的な傾向を持ったマルクス主義的社会哲学者である。併し厳密に云えば、マルクス主義的社会理論たる唯物史観=史的唯物論は、決して歴史哲学ではなかったと同じに又決して社会哲学の名に適しない。現にそれは社会哲学や社会学から区別されて社会科学と呼ばれていることからもこれは明かである。併しその内部に最も優れた社会哲学的見地が潜んでいることは忘れてならぬ事実である。
 なお、政治学や社会学は云うまでもなく、経済学、特に古典経済学も亦一種の社会哲学から発生したことを忘れてはならぬ。ケネー F. Quesnay(1694-1774)もスミス(アダム)も社会に於ける人間の本性の研究から出発している。現代経済学者で社会哲学に親しいものとして例えばマクス・ウェーバー M. Weber(1864-1920)を挙げることが出来る。
 【教育的意義】  以上のように社会哲学なるもの乃至社会哲学的な要素は、特色ある殆ど凡ての社会理論の中核の一つをなしていると云っていい。したがって今教育が社会理論の一対象となる限り、あらゆる社会哲学が夫々教育に就ての一定のイデーを示唆することが当然である。プラトンによる哲人政治家の教育の理想(彼のアカデメイアやシラクサの学校やはこの理想の実現を目的とした)はその古典的な典型であろう。ルソーの自然主義的教育理論は勿論、彼の固有な社会文化理論にもとづいている。又例えばフーリエ F. M. C. Fourier(1772-1837)のコンミュニスト的ファランジュ phalange の試みは、幼稚園の起原の一つに数えられている等々。更にまた二十世紀の教育理論は社会学的・社会哲学的な基礎の上に立つことを特色としている。ナトルプの『社会的理想主義』やデューイの教育理論は今日の代表的な社会哲学的教育説と見做されている。社会学の成果を教育乃至教育学に適用した教育的社会学なども、元来社会哲学的観点に立っているが故に発生したものに他ならない。

文献―L. Gumplowicz, Sozialphilosophie im Umriss, 1910. L. T. Hobhouse, The Metaphysical Theory of the State, 1918. L. Stein, Soziale Frage im Lichte der Philosophie, 1892, 3u.41923. R. Michels, Probleme der Sozialphilosophie, 1914. T. Litt, Individuum und Gemeinschaft, 1919. A. Vierkandt, Gesellschaftslehre, 1923, 21928. R. Worms, Philosophie des sciences sociales, 3 vol., 21913-20. P. Barth, Die Philosophie der Geschichte als Soziologie, ※(ローマ数字1、1-13-21) Tl., 3u4.1922. O. Spann, Kategorienlehre, 1924; Gesellschaftsphilosophie, 1928. M. Scheler, Wesen und Formen der Sympathie, 1923, 31926. V. Pareto, Trattato di sociologia generale, 2 vol., 1912; 3 vol., 21923. O. Spengler, Untergang des Abendlandes, 2 Bde., 1918-22(村松正俊訳「西洋の没落」二巻、大正十五年). P. Natorp, Sozialidealismus, 1920, 21922. R. Stammler, Wirtschaft und Recht, 1896, 51924. M. Adler, Kausalit※(ダイエレシス付きA小文字)t und Teleologie im Streite um die Wissenschaft, 1904; Das Soziologische in Kants Erkenntnistheorie, 1924; Kant und Marxismus, 1925. E. Lederer, Grundz※(ダイエレシス付きU小文字)ge der ※(ダイエレシス付きO小文字)konomischen Theorie, 1929, 31931. H. Cunow, Die Marxsche Geschichts-, Gesellschafts- und Staatstheorie, Grundz※(ダイエレシス付きU小文字)ge der Marxschen Soziologie, 2 Bde., 1920-21, 41923. M. Weber, Gesammelte Aufs※(ダイエレシス付きA小文字)tze zur Wissenschaftslehre, 1922; Wirtschaft und Gesellschaft, 1922, 21925.


ジャーナリズム 【英】journalism【独】Journalismus【仏】journalisme

 【意義】  ジャーナリズムを一種の資本主義的商品生産現象とのみ見ることは誤っている。それは高々近代市民社会的ジャーナリズムに就てだけ云えることで、近代的所産であるプロレタリア・ジャーナリズムに就てはすでに大部分当て嵌らない規定であるし、原始社会のジャーナリズム現象に就ては殆ど全く通用しない規定になるからである。ジャーナリズムは例えば文学とか法律とかが古来の各歴史的社会に共通な現象であるように、一つの共通な社会現象であって、之を表現報道現象と呼ぶことが出来る。単に表現するだけではジャーナリズムではないが、併し単に報道(公示・通信)するだけがジャーナリズムではない。報道の意図の下に表現することがジャーナリズムである。この意味に於ては文学も哲学も一般言論と同じくジャーナリズム的意味を有っている。教育も亦之と同じにジャーナリスティックな機能を果す。この点は極めて明かで、主に学校乃至大学に於ける教育に就て云えば、講義・演習・ゼミナール・講読・其他のアカデミー的形態自身がすでにジャーナリズムの一部分であることを示している。此等は演説・説教其他と並ぶ一連のものであって、観念を表現し且つその表現を公示通達する形態に他ならぬからである。近代資本主義的学校教育ではこのジャーナリズム機能が特に著るしく商品生産の形式を取っていることは云うまでもない。
 【教育的機能】  併し最も重大なのはジャーナリズムの教育機能である。この際主として社会教育を考えるべきであるが、近代はこの社会教育が主として新聞・雑誌・単行本・冊子・ラヂオ・レコード・ステージ・スクリーン等ジャーナリズム・プロパーの乗具を通して与えられている。ジャーナリスト(記者・寄稿家・評論家――これは夫々別な規定である)は学校教育者と一般文筆家に跨って存在し得るが、学校乃至大学の教育にこの社会教育の主力たるジャーナリズム・プロパーを利用することは今日まで決して充分だとは云うことが出来ない。その原因の一つはブルジョア・ジャーナリズムが学校乃至大学に於てのような目的意識的な教育機能を有たずに殆ど全く社会に於ける自然発生的な所産であることにある。つまり市民的学校教育はブルジョア・ジャーナリズムをさえ敬遠しなければならぬほど、社会に於けるジャーナリスティックな使命から浮き上って行くという法則を持っていることが判る。
 ブルジョア・ジャーナリズムは之まで多くの場合、一つの矛盾を含んでいる。イデオロギーをその商品とすることによって、ブルジョア・ジャーナリズムはその本来の社会的使命であるブルジョア・イデオロギーを或る限度に於て犠牲にせざるを得ない。ここに各種の反ブルジョア的(自由主義的・社会主義的)イデオロギーの表現報道の余地が残される。ここに現代資本主義的ジャーナリズムの特有な教育機能の一応の進歩性が横たわる。だが之は無論まだ所謂プロレタリア・ジャーナリズムではない。ソヴィエト・ジャーナリズムは進歩的教育機能に於て著るしく発達していると見られている。


進化論 のうち
 【進化論と社会学】  生物学及び古生物学・地質学等の博物学(自然史)は十九世紀の後半に著るしい進歩を遂げたが、その結果第一に発達したものは社会の生物学的有機体説である。一般の社会有機体説または全体説は旧くから広く行われていたが、それが特に生物学的な実証的根拠を与えたように見える。リリエンフェルト P. v. Lilienfeld(1829-1903)・シェフレ A. E. P. Sch※(ダイエレシス付きA小文字)ffle(1831-1903)・ヴォルムス R. Worms(1869-1926)・ノヴィコフ J. Novikov(1849-1912)等によれば、社会現象は一種の生物的有機体の現象に他ならぬ。だがこれは結局、社会を生物体に類推したものに過ぎない。第二は人種論的社会理論である。人種・淘汰・遺伝等が社会の最大な決定要因だというのであってゴビノー J. A. de Gobineau(1816-82)やラプージュ V. de Lapouge(1854-1936)等が之を代表する。この理論によると世界の人種の間には先天的に優劣の差があるのであって、今日の人種的排外主義の理論的根拠の有力な一つとなっている。だが元来、社会関係がこのような生物的関係に還元出来ないことは論を俟たない。第三は生存闘争(生存競争)に関する生物学的理論を任意に社会機構にあてはめる場合であって、ノヴィコフやヴァッカロ M. Vaccaro が之を代表する。今日社会ファシズムの一支柱となり好戦主義の根拠となるものの一つである(例えばヘッケル)。だがクロポトキン P. A. Kropotkin(1842-1921)やバジョット W. Bagehot(1826-77)の相互扶助論が指摘しているようにこれは生物界の事実にも合わないし、又元来ダーウィン説の非科学的な濫用に他ならない。
 進化論・ダーウィン説の科学的核心は、自然界の歴史的発展の思想に実証的な根拠を与えたことであるが、之を最も正当に社会理論に適用したものはマルクス主義に他ならない、その意味で唯物史観は「社会の自然史(博物学)」と呼ばれている。
[#改段]


3 『現代哲学辞典』



自然科学
  (英 natural science, 独 Naturwissenschaft, 仏 science naturelle)

一 自然科学の概念
 自然科学とは社会科学から区別された一群の諸科学を指す。社会科学が人間の歴史的社会を研究対象とするに反して、自然科学は、この歴史的社会の自然物的基礎となり又その歴史的発達の先行段階である処の自然を研究対象とする。自然科学が或る一定の共通な研究方法に基くことを理由として、逆にこの一定の研究方法に基くものを凡て自然科学と呼び、之を之とは異った研究方法に基くものと考えられる文化科学に対立させる種類の見解は、色々の形で相当広く行われている(例えばドイツ西南学派)。併し之は科学の単なる研究主体側の主観に由来する研究方法だけを目標として科学を分類することを意味するので、一般に科学の、従って又自然科学の、特色を人工的なものの内に認めることを意味する。処が自然科学の特色は云うまでもなくその人為的な研究態度や観念上の観点に集中され得るものではない。自然科学はその研究の対象を自然とするのであればこそ自然科学の名に値いするのである。
 云うまでもなく自然という観念は多義であり、従ってこの言葉によって云い表わされる所謂自然なるもの自身が何であるかは単純には判明でない。人間や動物の心理現象や人文地理現象などは果して自然であるかないか、単純には断定出来ないというだろう。だが之は実は、最もプロパーな意味に於ける所謂自然と、自然ならぬ而も自然からの発展である処の人間史的社会との、中間領域又はその中間領域から抽象された諸断面のことであって、従って却って之によって自然なるもののプロパーな意義が明示されていると云うべきである。(哲学者が古来様々に考えて来たフュージスとかナトゥーラとかをこの際問題にする必要はないだろう。)今日の所謂自然科学が対象とする自然なるものがどういう領域のものを指すかは、寧ろ常識的に知れ亘っている。吾々はかかる所謂自然を頭の中心に置いて、この自然に関する多義な諸観念を整理することが出来る。つまり吾々人間の存在とその意識の成立とに関係なく運動する世界が広く自然なのである。その意味に於てこの自然は哲学的範疇としての物質と呼ばれてよいものである。――自然科学とは、であるから第一義的に物質と呼ばれるもの(第二義的以下に物質と呼ばれるものは沢山あるが)を研究対象とする科学である。
二 諸分科科学の関係
 自然科学はその研究の対象である自然の種類に従って、即ち自然の夫々の発展段階に従って、分類される。第一に有機体を除く限りの無機界を考えることが出来る。(但しここでいう無機界とは所謂無機物の世界のことではなくて有機物質もそれが有機体の組織から離れてある限り無機界にぞくする。)有機界と無機界との区別は、自然科学が進歩するに従って段々不分明になって行くだろうと考える人が或いはあるかも知れない。併し実はそうではないので、之は例えばかつて有機物質と考えられていた尿素が無機物から無機的に製造されるようになった、というような場合と問題は根本的に異っている。(有機体は単なる有機物ではない。)有機体と無機物とを区別するものは生命現象のある無しである。原生動物を無機物から人工的に造り出すことは現在すでに不可能ではないが、之は一種の原始的な生命現象を生じるような無機体の高度の結合を発見出来たというまでであって、生命現象が無機界現象に還元されたことを意味するものではない。生命現象はその生物学的解釈、即ち機械論又は活力説による解釈の当否に拘らず、生命現象であって、之と無機現象との区別がこの解釈の如何によって消滅するのではない。少くとも生命現象と無機現象との間には根本的な区別があるのであって、生命現象の一つの特徴である有目的的に見える行動的運動現象が、仮に単に極めて高度に複雑な原因に基く機械的運動に他ならぬとしても、この高度の複雑さそのものが、生命現象を他の無機現象から区別する本質的な契機なのである。
 さてこの無機界の自然を対象とするものが物理学である。尤も常識的に云えば化学現象と物理現象というように、物理学は化学から区別されているが、夫は全く常識的な便宜に基くことで、化学プロパーの発達は実は、物理学を具体化することによってみずから本来の物理学に帰着しつつあるのが周知の事実である。物理学と化学プロパーとは今日では本質上全く同一の自然科学である。特に無機自然界の基本的な問題である物質、特に又物質構造・原子構造の理論に就いて考えれば、この点最も明らかだろう。ただ物理学の方が物質の一般的なそして本質的な関係から問題を出発させるのをその歴史的な伝統とするに反して、化学の便宜上の目標は物質の夫々特殊な場合のそして現象上の関係を、さし当りのテーマとして取り上げる、という区別は認めることが出来る。だがこの事実は二つの科学がその本質を同じくするということの証明にこそなれ、二つのものの根本的な差異を意味するものではない。
 だがこの点に連関して、物理学乃至化学と数学との関係を明らかにしておく必要がある。物理学の対象は物質の一般的の本質関係に関し、之に対して化学の対象は今の処何と云ってもさし当り物質の夫々特殊な現象関係に関すると云ったが、少くともこの区別は、物理学が化学に較べて数学の応用に於て卓越しているという事情となって現われている。一体物理的と云えば数学的ということに対立するのであり、単なる数量的空間的なものではなくて正に物質的な性質を云い表わすのであるが、それにも拘らず物理学の根柢或いは頂点に力学なるものが控えている。力学(Dynamics, Mechanik)は元来物質の持つ力関係乃至運動関係を最も一般的に対象とするものであるが(運動論の方は特に Phoronomie とか Kinematik とか呼ばれる)、併しその実この力関係乃至運動関係を物質の其他の物理的性質から抽象して了っているので、一見非物理的な従って可なりに純数学的な部門となって現われる。数学はこの力学を通じて最も原則的に組織的に物理学に適用される。之は化学プロパーに於ては必ずしも常にそうだとは云えないことだ、尤も理論化学=物理化学なる化学の特別な部門は別として。
 或る哲学学派はそこで、物理学が化学などに較べて何等かアプリオリな立場を含むものだと主張する。数学は理性や悟性からアプリオリに由来すると考えて、従ってこの数学が数量的に又空間的に適用される処の力学を根柢とする物理学は、それだけ先天的=先験的なものだと云うのである。だが力学が数学の殆んど完全な支配下に立つのは、数学が理性や悟性からアプリオリに由来するからではなくて、実は単に力学が物質の抽象的で又最も一般的である諸属性(数・空間・時間・運動)を専ら対象とするからなのである。そしてこういう物質のより一般的な又より抽象的な関係を取り上げることが、他ならぬ数学なるものの所謂先天性だったのである。(但しこの点多くの異論を期待しなくてはならぬが。)だからつまり物理学乃至力学が数学の適用を受けねばならぬということは、物理学が物質の最も一般的で又最も抽象的な関係から問題を提起して、之を次第により特殊なより具体的な物質の属性に及ぼすものだということであり、それを末端の方から見れば化学となるというわけである。
 だが云うまでもなく一般的、抽象的な物質の属性から問題を発足させることは、その発足をいつもやり直さなければならぬということを約束する。より特殊なより具体的な物質の属性にわけ入って行った結果、もう一遍物質の一般的、抽象的な属性を抽象し直さねばならぬということが必ず出て来る。この現象は物理学の革命とか危機とかとして云い表わされる。相対性理論による空間・時間の観念の変革や、量子理論による因果律の観念の変革やが之である。
 物理学乃至力学が最も精密な自然科学だというのは以上の消息を指すのであるが、化学となればもはやこの精密性は信用されていない。というのは他ではないので、化学は物質の諸関係を従来単に現象的にしか定式化し得なかったからである。処が生命現象、有機体を対象とする生物学になれば、愈々その精密性を失うものだと見られている。生命現象は極めて高度な複雑な物質の特殊な属性だから、その連関の研究はなおまだ現象的な観点に止まらざるを得ないのはやむを得ない。だが困難の原因はそれだけではないので、ここに新しく登場する個体という範疇があるからである。
 物理学乃至化学のプロパーな場合には、個体という観念は何等科学的な範疇ではない。物理現象や化学現象は一つ一つの個体に単位をおく現象ではなかったからだ。物理学や化学が個体という範疇を必要とする場合は天文学や地理学となる。そこでは個々の名をつけられた物体が(もはや単なる物質や物質塊ではない)、太陽や火星や地球が、問題となる。(思うにかかる物理的、無機的、個体を個体なりに最も抽象的に一般的にテーマとするのはトポロギーなる幾何学だろう。)処が生物学になるとこの個体がその個体らしい特色を前提として登場して来る。生命現象とは之である。ここに生物学がすぐ様には精密になり得ず、又有機体が無機的自然と区別される標識も発見されるのである。
三 社会科学との関連
 さて以上のようなものが自然科学の諸部門であるが、自然科学はすでに云ったように社会科学に直接隣接している。終局に於て社会衛生の問題に帰着する医学技術上の諸問題は、云うまでもなく基礎医学に科学的根拠を有っているが、その基礎医学の可なりの部分が生物学(乃至広義の生理学)にぞくしている。そして特に生物進化理論は社会の生物学的基礎に直接連っているから、進化理論と社会理論との間には緊密な連関が横たわっている。例えば産児制限問題や優生学上の問題や、更には人種問題、人口問題までが、何等か生物学的解決に俟つと考えられ易い。社会法則さえが往々進化法則によって説明され得ると考えられ易い。併し云うまでもなく社会は自然の必然的な発展物ではあるが、社会の運動法則は決して自然法則そのままでもなければ、又それの単なる変容でもない。だから医師風の社会観や社会政策論や、社会ダーウィン主義などは、社会科学としては根本的な誤りから出発するもので、生物学の社会科学への無条件的な侵入は甚だ重大な結果を産む誤謬であるが、併しかかる誤謬が比較的安易に発生出来るということは、この二つの科学領域が如何に直接な連絡を有っているかを示している。
 だから例えば生物学と云っても、之を物理学(乃至化学)から切り離して問題に出来ないのは云うまでもないばかりでなく、之を社会科学と切り離してさえ充分な観点を失って了うということを注目しなければならない。だがこの自然科学と社会科学との連関は、決して生物学にだけ特有なものではない。一切の自然科学が社会科学と或る根本的な連関に立っているということを、特に今注目しなければならない。ここで技術学(乃至ルーズに云えば技術)と自然科学との関係が最も重大となる。
 数学―物理学―化学が狭義の技術学(Technologie)即ち工学(Engineering)と事実上密接に結合していることは何人も知っている。だがこの結合に就いての理解は、必ずしも同じではないし又根本的でもなければ正当でもないのが常である。普通技術学は自然科学の応用だと云われている。というのはまず自然科学が原理的に研究されて、それがその後発見された必要に応じて実際問題に応用された時、それが技術学というものだと考えられている。なる程一応そういう風に外見上は見えるのであるが、自然科学者自身がその研究の主観的な意識に於てどう意識していようと、自然科学の原理的な研究は、概括的に云えば凡て直接にか或いは間接にか、社会の技術的従って又技術学的必要と目的とによって、客観的に要求されたものであって、自然科学一般の発達の歴史は、実は社会に於ける生産技術の要求に従って、技術学的な目的に沿って、それから又技術学的な与件に立脚して、初めて展開して来たことを示している。ただその要求なり目的なり与件なりが、自然科学の研究や発見や創意にまで機械的に露骨には反映しないから、自然科学者自身さえが之を主観的には自覚し得ない場合の方が多い、というまでなのである。だから自然科学は技術学へ単に偶然に付けたしのように応用されるのではなくて、初めから応用されるべき約束の下に応用されるに他ならない。
 生物学と雖も之と少しも異るものではない。生物学の発達は主として農業技術学上の必要と目的との下に、農業技術学の発展段階を与件として、初めて行われる。ダーウィン主義乃至進化論も、それがダーウィンによって実証的な根拠に立った科学的理論となるためには、この農業技術学上の発達に依存しなければならなかった。
 自然科学は一般に産業技術学を離れて理解されることを許さない。云うまでもなく両者のこの関係は決して簡単でなく又単純ではないのだが、この関係への注目を一貫することによって初めて、自然科学の生命が、その本質と運動とが、実質的に理解出来る。自然科学の発達が、個々の天才人の天才的能力や、又は人間一般の理性や悟性やそう云った精神の発現に負う処は大きいに相違ないが、そういう精神力の発現自身が、なぜそういう内容となって又そういう時に、行われねばならなかったかが、技術学上の根拠に立つのである。そしてここにこそ自然科学の具体的内容があるのである。もしそうでなくて、単に精神的な表現だと云うならば、自然科学はなぜ自然科学となって芸術や何かにならなかったかが説明出来ないだろう。社会主義も日本主義も同じく頭脳の産物には相違なかろう。だが頭脳の所産だということは何等社会主義の説明にもならず日本主義の説明にもならぬ。社会主義が日本主義と異る所以ゆえん、即ち社会主義が一つの思想である所以は、それが頭脳の所産であることにあるのではなくて、正に社会人の生活の物質的根拠に照応している処にあるのである。
 処で技術学は云うまでもなく社会に於ける生産技術自身の内容に直接関係した理論乃至科学である。そして社会に於けるこの生産技術を、社会の生産力と生産関係との連関に於て、又社会に於ける観念的上層物との連関に於て、取り上げるものが他ならぬ社会科学であった。そこで自然科学は一般に、技術学との連関を通じて、社会科学と本質的な連絡を有つことが明らかとなるのである。之は実は自然科学が要するに社会に於ける一個の観念的上層物=イデオロギーだということの一つの結果であり、その科学論的な断面に他ならないのだが、併し事実、技術学乃至技術理論は、一面に於て自然科学的な科学であると同時に、他面社会科学的な科学なのである。生産技術とは元来、自然と社会との切り合った領域だったからである。
 以上は自然科学自身の部門間の連関と、自然科学と他の諸科学との連関であったが、次に自然科学が一つの社会的な存在だという点にまで問題を拡げて行こう。まず始めに生産技術と自然科学との関係である。――自然科学が技術学と最も密接な連関にあることはすでに述べたが、その際触れたように、自然科学の発達は窮局に於て社会に於ける生産技術そのものの水準・与件に負うているのであった。処で、この生産技術なるものが何かに就いては、多くの異論があるのである。観念論的な哲学者や文明批評家達は、概して人間の理性が一定の実際生活上の必要を目標として目的論的に切断されたり形象づけられたりしたものを、漫然と技術と呼んでいる。だが之ではまず何より先に困難なのは技術と技能との区別を発見することだろう。技能は比較的に抽象的な人間能力の一つに他ならないが、技術の方は社会の一定の物質的与件(道具・機械・工場・交通設備・其他)と明白に結びついていなければならぬ。でこの生産技術(技能ではなく恐らく技能の客観的な実際的尺度となる処のもの)なる観念も亦、唯物論的観念から見て初めて、科学的な概念となることが出来る。
 処がこの生産技術に就いての唯物論的な概念であっても、まだ必ずしも一定の輪廓を得ているものとは断定出来ない。大体唯物論的通念によれば、技術とは「労働手段の体系」だというのであるが、その体系ということの実際的な内容が何であるかが問題であって、もしこの労働手段の「体系」なるものが、結局労働手段自身であるならば、夫は社会の技術的基礎ではあっても、世間で云う所謂技術なるもの自身のことではない。もし又体系という観念が単なる労働手段の総体以上に何かをプラスしたものならば、そのプラスの秘密はつまり技術という観念そのものの秘密に他ならぬ。この問題の解決は今その処ではないが、仮に技術という観念自身が問題を含むとすれば、「社会の技術的基礎」でも、又は「社会の技術水準」でも、今の場合の役に立つ。とにかくこうした技術的なものが、自然科学の社会的基礎をなしているのである。技術学的知識や技術学的技能は、云うまでもなく自然科学と夫のこの社会的基礎とのつながりが具体化され主体化されたものに他ならぬ。
 処が生産技術なるものは、社会機構に於て、一般的に、根本的な役割を占めている処のものの一つである。なぜと云うに、この技術的基礎と、更に人的・社会的・政治的・結合をなす労働力とは、生産力の二つの内容であり、社会の生産関係を決定する物質的内容だからである。そして労働力が人的な主体的な要因であるに反して技術的基礎の方は物的な客体的な要因であることは明らかだから、労働力に較べて技術的基礎の方が唯物論的に根本性を有っているということも明らかだろう。で、この点だけを取れば、社会の歴史的発達を技術(機械其他)の発達に帰着させ得ると考え、甚だしきに至っては社会的実践に於ても技術家が支配すべきであるとしたり、又専ら社会の技術的、メカニカルな、自然的変革を待たねばならぬと考えたりする、所謂技術主義が発生するのであるが、これは技術主義なるものは又一種の「科学主義」(実は自然科学主義)を結果するのが常である。
 だがこのような技術主義の根本的な誤りは、社会の物質的生産力に於ける労働力の重大な役割を忘れたことであり、社会の技術的基礎によってだけ社会機構を説明出来ると考えたその機械論にあるのだが、所謂科学主義(自然科学的思想の万能)も亦、そうした自然科学的機械論に帰着する。――まして唯物論をこうした技術主義や科学主義と混同することは出来ないので、唯物論の本質の一つはディアレクティックであり、凡そこうした機械論を克服する処にこそその特色があるのである。
四 自然科学と文化
 そこで問題は第二に、自然科学と文化との関係に移る。ここでも亦、技術と自然科学との関係が注目されねばならぬ。技術的なものは社会機構の一つの根本的な基礎であったが、この社会機構に基いてその上に発生、建設されるイデオロギー乃至文化は従って、いつも或る関係に於て技術的基礎に基いているわけである。而も文化乃至イデオロギーが技術的な基礎に基いているということは、文化乃至イデオロギーの内容機構が技術的なものによって一定の特色を与えられているということである。処で今この技術的基礎と自然科学との元来の密接な連関を思い起こせば、文化乃至イデオロギーの一般を自然科学的内容が如何に特色づけ得るかということが判る。自然科学自身が一つの文化乃至イデオロギーなのだから、従ってこの関係は、自然科学とその他の文化、イデオロギー一般との内面的交渉に他ならぬ。
 今日の文化乃至イデオロギーは大体に於て二群に分けられる。第一のものは技術乃至自然科学との連帯関係に忠実な文化(イデオロギー)乃至文化概念(イデオロギー概念)であり、第二のものは技術乃至自然科学との連帯関係を積極的意識的に又は無意識的に破棄したり自らそう称したりする処の夫である。後者は反技術主義・反合理主義・神秘主義其他の形の下に、今日のブルジョア・ファッショ・哲学の観念論の多くのものを含めている。之に反して前者は大体に於て、意識的無意識的に、唯物論の側にぞくしている。――ここで一般に哲学と自然科学との関係を明らかにする必要がある。
 近代の文化史上の特色の一つは自然科学と哲学との分離である。自然科学は哲学から独立し、哲学を俟たずに発達・通用し得るものと考えられた。之に応じて一方に於ては、哲学一般の否定と、自然科学(乃至広く科学)の体系そのものこそ哲学に他ならぬとする機械論に通じる文化理論とが、発生すると共に、他方に於ては却って又、哲学を如何にして自然科学乃至一般に科学から独立させて「アプリオリ」化すかという試みが行われた。自然科学(乃至一般に科学)と哲学とのこの分裂を正常な必然的連関に齎したものは云うまでもなく現代の唯物論である。現代唯物論によれば、自然科学は哲学(唯物論)的な世界観と範疇組織とを持たずには、その方法を確立し成果を要約し研究を目的意識的に促進させることが出来ない所以を明らかにすると共に、哲学も亦、自然科学の健全な立場と具体的な成果とに注意を払うのでなければ、観念論的乃至神秘論的な逸脱を免れることは出来ないと考える。蓋し哲学とは或る特定な意味に於ける論理学乃至認識論のことに他ならず、人間的経験と認識との総決算と要約とを意味するのだが、人間的経験乃至認識に於て最も基本的な段階にあるものが自然科学的知識だからである。尤もその際、すでに述べたように、自然科学と社会科学との原則的な区別とその連関とを見落すことは、再び例の科学主義や技術主義や機械論に陥ることだが。
 この場合まず注目すべき要点は自然科学の方法に関してである。普通自然科学の方法は、説明にあるとか因果づけにあるとか法則の付与にあるとか、と云われているが、そういう規定よりも大切なものは、一体自然科学の方法とは何を指すか、である。独り自然科学に限らず一般に科学の方法とは何か、ということである。方法(Methode)の科学手段(Mittel)と狭義の科学方法(Weise)とに区別されなければならぬ。自然科学はまず観察実験したり統計を取ったりして材料を占有吟味した上で、この材料の間の法則的な関係を惹き出すべく数学的解析操作をしたり概念上の分析操作をしたりする。と云うのは、実験や統計の出発点としても又その整理のためにも、すでに自然科学的諸法則を云い表わす公式の方程式的処理や、根本概念の分析定着が必要であると共に、逆にこの方程式や概念を決定するものが、又元来実験や統計だったのである。(社会科学に於ては実験という操作は一応大した役割を有たぬと考えられているように、統計と操作は自然科学に於ては今の処事実重大ではないが)。さてこうした観察・実験・統計・数学的解析・概念分析などが自然科学の科学手段である。
 科学方法は之に反してかかる科学手段を夫々の必要な操作として選択・結合・活用する処の総体的な組織的な処理を指す。かかる方法は一口で云えばオルガノン(論理)である。この論理=科学方法は又研究方法(Forschungsweise)と叙述方法(Darstellungsweise)とに区別される。前者は論理が自然科学的研究材料を征服して行く前進の過程であり、後者はこの過程を逆に辿って整頓することによって論理的・表現的な形態を之に与える仕方を指す。この往相と還相とが一環となることによって、自然科学(一般に科学)の方法の目的が完成するのである。表現形態を取り得ない研究は何等実質的な研究でなく、科学の発達に資する筈はあり得ないからだ。――この研究方法と叙述方法とを貫いて論理が研究用具(オルガノン)として一貫するのであるが、この論理に形式主義的論理(形式論理学)と弁証法との二つの対立した立場があることはよく知られている。事実の問題として、自然科学に於ける科学手段の操作や科学方法の用途に於て、自然科学者が意識するとしないと、又彼等の自分自身の作業に対する自己解釈の如何とに関係なく、直線的に又廻り途をしながら、方法は弁証法を追跡しつつあるのである。之は「自然の弁証法」(所謂自然弁証法)に関する重大な一側面である。
 自然科学のかかる方法=論理は、それ自身すでに哲学を意味していたが、自然科学の方法=論理は又一方に於て世界観に連っている。そして世界観とは他の意味に於ける哲学のことを指すのであるから、今度はここでも亦自然科学は哲学に接続している。蓋し哲学の側から云えば、論理と世界観とは切実に連絡しているのであって、世界観を整理した結果が論理であり、理論によって構成されたものが新しい世界観である。自然科学は哲学のこの構造に、恰も陥ち込みでもするように当て嵌るものなのである。――自然科学は歴史的に見れば元来哲学そのものであったし又哲学の一種となることによって夫から分離して来たものであった。之は哲学的世界観の検討・整理として、又更に新しい哲学的世界観の根拠を提供するものとして発達した。之が自然科学の歴史的発展であり、その論理方法の発達なのである。従って自然科学は、今日でもなお哲学的世界観によって[#「よって」は底本では「よつて」]指示され動機づけられて、そして之によって意識的に促進されたり阻害されたりしていると共に、同時に又夫々の哲学的世界観を具体的にし、豊富にし、之を確固にし進展させるに重大な寄与をなしている。
 観念論的哲学の世界観が、ブルジョア文化圏に於て一半の勢力を占めている国々に於ては、物理学者や生物学者達が、如何に観念論的な自然科学的「結論」を導き出しているかを見るがよい。曰く物質の消滅・因果律の否定・活力説・神秘的な形を取った全体説など、之によって自然科学の科学的発達は名目上阻害され、廻り途をしなければならなくされている。そしてこの自然科学的「事実」が如何に又観念論的世界観の支柱となりつつあるかも見ればよい。曰く唯物論の陥落・自然科学乃至科学の無能・必然性の否定、信仰主義等々。之によって世界観そのものが歪曲され、例えば社会科学的認識などが極度に妨害されるのである。――処が実は、この自然科学的「事実」や「結論」は之を唯物論的にありのままに見れば、単に物質とその属性としての時間・空間・運動との連関のより以上の具体化や、実験的操作の実践活動と実験対象の夫による変化との統一的なより忠実な記述ということに過ぎないのである。実は唯物論的世界観は、自然科学の発達、その論理的発達(之は而も社会の技術的基礎と技術学の発達水準に依存するのだった)によって、却って愈々支持されて行きつつあるのに他ならぬ。蓋し自然科学は元来、自然科学者自身の素人臭い「哲学」を抜きにして考えれば、常に唯物論的な自然的立場に立っているのであった。
 自然科学と文化との関係に就いて次に問題になるものは、例えば自然科学と文学乃至芸術だろう。主に文学を中心として考えて見れば文学も亦一つの思想だということを注目すべきである。と云うのは文学は夫々一つの世界観に基かざるを得ないのであり、之を文学的方法(普通創作方法と呼ばれている)によって芸術的表象にまで具象化するのである。この構造は形式的には自然科学と全く同じであって、ただ自然科学の方法が所謂論理として、一般的な可移動的な通用性をもつ公式を取り出すのに反して、文学的方法は局部的な通用性に束縛された性格や典型を取り出すだけである。にも拘らず自然科学が基く処の世界観と文学の基く世界観とは、そのアスペクトや光線の当り方やは別として、その実質に於て、同じ代物の世界観だということを忘れてはならぬ。だからここにこそ自然科学と文学との本当の連なりがあるのであって、自然科学的文学(実験的立場に立つ文学や自然科学の知識を材料とした文学)や、自然科学のエッセイ的表現や、自然科学に就いての文学的・文筆的評論や、又一般に文筆的評論の自然科学への立脚や、そうした両者の間の本質的な連絡がここから説明出来るわけである。――蓋し文学は哲学と同じく、文化一般に亘る文化の一部門であって、自然科学が文化一般に対して有つ関係を求めれば、必ず夫と文学との関係に行きあたらざるを得ないのである。だが今日一般の世間では、自然科学のこの「文学的」な社会規定が自然科学自身の本質の一つに属することを、必ずしも意識はしていない。
 五 結論 さて第三に自然科学が一つの社会意識・イデオロギーとして有つ特色を明らかにして結論に代えよう。問題は自然科学の階級性乃至党派性に集中するのである。元来階級性がより一層限定されたものが党派性であるのだが、用語例から云えば両者の間には多少場合の相違がある。階級性とは主として社会階級人の主観に基く主観的規定を指すのを常とし、之に反して党派性の方はより一層理論の客観的な論理的潔癖と首尾一貫性とを指すのを常とする。だが党派性も亦一つの主観性(但し客観性を有った処の)であることは云うまでもないと同様、理論乃至科学の階級性も亦一つの論理的規定であることを見失ってはならぬ。
 理論乃至科学の階級性(乃至党派性)は、普通理論乃至科学の比較的外部的な規定でしかないと考えられ易い。理論乃至科学が歴史的社会に於て、云わば偶然に外から受け取る現象形態に於てのみ、その階級性が認められるので、理論乃至科学の本質そのものには階級性はない。従ってプロレタリア科学とかブルジョア科学とかいう言葉は本来無意味なのだ、と往々云われている。だが自然科学に於てもテーマの選択一つにも、理論の組み立て一つにも、科学的成果の解釈一つにも、又理論の発達条件にも、凡てイデオロギーが口を利いているのである。自然科学の歴史的発達の促進阻害に就いてだけは階級性が見出されるが、自然科学の理論内容(即ち論理)には階級性を見出し得ないという考えは、自然科学がその理論内容と独立に発達し得ると考えるナンセンスに帰着する。自然科学の歴史的発達にもし階級性があるなら、この発達を必然ならしめた自然科学の内部的論理機構そのものに階級性がなくてはならぬ。もしそうでなければ、自然科学は全く偶然的に外部的な原因によって歴史的変化を遂げるものだということにならざるを得ないからである。
 尤も自然科学は社会科学や哲学に較べて、その階級性乃至党派性が或る意味に於て原則的に稀薄であることは認めなくてはならぬ。それは自然そのものと之を科学的に認識する人間活動そのものとの間に比較的間隙があるからに過ぎない。だが自然科学と云っても、之を社会の技術的基礎や社会機構全体、又他領域の文化乃至イデオロギーから切り離して取り扱うことは許されなかった。この連関は自然科学にとって偶然な外面的なものなぞでは決してない。でこの連関に於て自然科学の階級性を取り上げて見るなら、この階級性の積極的な意義はハッキリと浮き出て来る。自然科学の階級性を原則的に否定しなければならぬと考えさせるものは、科学至上主義となって現われる一種の管見的「哲学」の影響に過ぎないのであって、それ自身、自然科学論の社会階級性の最善の或いは最悪の見本に他ならない。


新聞
  (英 news-paper, 独 Zeitung, 仏 journal)

 単に新聞紙に限らず、広く新聞現象を指す。人間社会のイデオロギー交通の一つの契機であり又一形態である処のジャーナリズムは近代的様相としては、出版、ラヂオ、キネマ、演台(舞台及び演壇)、博覧設備(展覧会・博覧会・陳列台・ショーウィンドー・ネオンサイン・スカイサイン・アドバルーン・其他)等の現象をその乗具とするが、この内出版(乃至印刷)現象にぞくする書籍・雑誌・パンフレット・ビラ・ポスター・伝単・等々と並んで、近代出版現象の代表的な一つとして新聞現象を数えることが出来る。一般にジャーナリズムというと近代ブルジョア・ジャーナリズムだけを考えたり、また極端な場合には新聞紙と連関した行動だけを考えたりするが、ジャーナリズムは近代ブルジョア・ジャーナリズムや新聞に較べて遥かに一般的な又歴史的に古い規定である。
 近代新聞紙が発生したのは十七世紀前半のヨーロッパ各国の大都市に於てである。之は初めグーテンベルク(Johannes Gensfleisch Gutenberg, 1394(-99)-1468)の手押機械を用いた四六版数頁の週刊新聞紙に過ぎなかったが、十九世紀の中葉までに資本主義の発達と政治的自由主義の伸張とに沿って極度の発達を示すに至った。併し近代新聞紙に限らず一般に新聞現象として見る限り、その起源は遥に古い。新聞紙の初めと看做されているのはシーザー(Gaius Julius C※(リガチャAE小文字)sar, 100-44. B. C.)の Acta Diurna や前唐玄宗帝の『邸報』の如き官報類似のものであったが、ローマ貴族及び中世ヨーロッパ諸侯は、通信奴隷や通信臣下を用いて情報(間諜制度や、使節制度による)を収集したが、之が自由に回読されたりノベリスト等やゼンガー等によって読売されることによって、やがて手書き新聞となった。更に近世初期のブルジョアジーはその商業上の報知のために消息・往来を交換したが、夫が今日の近代新聞紙の初めをなす。
 新聞紙は新聞現象の機関乃至乗具である。之を発行するインスティチュートは新聞社であり、新聞社にあって新聞紙を編集・発行するものは新聞記者(広義の)であり、新聞紙を購読する者は新聞紙読者である。新聞現象はこの四つの要素の間の具体的な関係に基いて社会的機能を営む一つの社会現象なのである。――新聞紙プロパーの他に多くの補助新聞紙(例えば号外を別として週間朝日・サンデー毎日の類)もあるが之は新聞紙が含む広義の文芸欄(Feuilleton)の延長独立したものに過ぎない。又新聞社組織の外に付属的な組織や副次的な組織がある。通信社・広告取次店・販売取次店等々。又新聞記者と云っても社長・出資者・株主其他の出版資本家と記者とは区別されねばならず、記者の内にも顧問客員や専属記者や寄稿者や投稿者もある、がより大切なのは編集部員(探訪・論説委員・主筆・其他)と営業計画部員との区別である。後者は新聞社組織の経済的・資本主義的・物質的基礎に直接関係し、前者は之に観念的作用力を通って間接に関係する。ブルジョア新聞社組織が行う資本主義的新聞企業に於ても、その言論は必ずしも直接新聞社自身の経済的基礎に貢献しなくてもいい場合がある。同一資本系統の企業を利するとか、一般社会の資本家的利益を齎すとかすれば足りる場合が、決して少くはない。――読者は併し特別な要素である、と云うのは読者は新聞記者其他のように新聞社組織に組み入れられたものではなくて、一応之から独立した人的要素であるから。
 新聞紙の紙面は普通、政治欄・文芸欄・商業欄・広告欄に分類される(ビュヒャーによる――Karl B※(ダイエレシス付きU小文字)cher, 1847-1930)。だがこれは、新聞紙の空間的分類であって、新聞現象の社会的機能による分類ではない。新聞現象は内容的に報道(Nachrichten)と文叢(Literatur)とに分類される(E・シュタイニッツアァー)。前者は時事性・現実行動性(actuality)を著しい特色とし、後者はこの点あまり顕著でない。これは報知的部面(Anzeigenteil)とテキスト的・編集的・部面(Texts-Redaktionsteil)との区別とも云われている。
 報道とは私信・廻文などと異り公共的なものを云い、或る一定の限られた読者でなく、一般的に不定な読者を想定するものを指す。併しその内でも、私的・個人的・市井的・私党的な興味に基くものと、公的・国家的・市民的・社会党派的な興味に基くものとを区別しなければならぬ。前者を私的報道、後者を公的報道と呼ぼう。だが又この報道は公私ともに、報道者の個人的な利害に直接立脚しないことを建前とする。そうでなければ報道は公平と真実との外見を失うからである。報道者自身の個人的利害に直接立脚する特殊な報道は広告と呼ばれている。広告も明らかに一種の報道=ニューズであるが、ニューズ・プロパーと異る点は、ニューズが読者に一種の読む義務を負わせるに反して、広告は読者の好意ある閲読を希望するということである。普通広告は有料のニューズであるという風に規定されているが、その区別は寧ろ今云った点から派生するものである。報道と広告とのニューズとしての差別と同一性は、之を云い表わす各種の言葉の内にも現われている。Intelligenz, Anzeige, Announcement はどれも広告の謂であるが、その言葉の本来の意味は寧ろ報道を指している。
 文叢とは第一に論説、解説及び注解を含み、第二に評論、批判及び紹介を含み、第三に文芸を含む。第一は主として教導の機能を、第二は主として評価の機能を、第三は主として娯楽(Unterhaltung)の機能を果す。無論この三つのもの夫々の間に、又三つの機能夫々の間に、一定の連関と移り行きがあるが、文叢を広く批評と呼ぶことが出来る。さてそこで、報道と広告との連関はすでに述べた通りであるが、報道乃至広告とこの批評との連関を述べることが必要である。実は報道それ自身がその意図と効果から云って一つの批評的機能を有っている。ニューズの選択、書き方、載せ方などは、すでに一定の批評的態度に基かざるを得ない。逆に批評記事が一つのニューズに他ならぬことは云うまでもない。又広告の本質は元来自己推薦にあるが、そのためには一定の自己評価を下して見せねばならぬ、云わば之は一種の自己批評であり、或いは少くともその形を取らねばならぬ。批評自身は逆に又、広告の機能を営む場合がある。夫は主に新聞社組織或いはその背景をなす一定の資本、或いは広く資本主義社会そのもののために、宣伝の役割を与えられた時などである。
 新聞現象の根本規定は時事性にあると云われている。時事的とは世界の刻々の歴史的運動に現実的に沿うた活動的な観点を意味する。時事性の内容は第一に日常性である。日々(刻々・年々・月々)条件を新たにする事物の動きに就いて、その日々の特殊性を指摘するためには、日常性の原則が必要である。之は超時間的な形而上学的原則の[#「形而上学的原則の」は底本では「形面上学的原則の」]よくする処ではない。時事性乃至その第一規定であるこの日常性は広くジャーナリズム現象の根本規定なのだが、新聞現象の場合には夫が報道の迅速さの問題となって、第二の規定として現われる。間に合う・時宜に適する、ということが新聞現象では極めて大切な時事性乃至日常性の内容となる。ここから新聞現象の週期性なるものが見出される。新聞現象に関する各国の法制は、寧ろ逆に、一定の週期性ある刊行物を、新聞紙と定義している。新聞現象の週期性は交通の物質的条件によって決定されることは云うまでもない。交通機関の発達はこの週期を細かくする。
 だが新聞現象の根本規定である時事性は、単に日常性につきるのではない。或いは、日常性そのものが、単なる迅速さや週期性につきるのではない。時事性のもう一つの大切な規定はその政治性に存する。尤も政治性と云っても広く社会性を意味する場合と狭くブルジョア的或いはプロレタリア的政治活動を指す場合とは区別されるが、新聞現象にとっては、いずれの場合も必要である。新聞現象の時事性がもつ社会性に就いて、新聞紙は普通新聞と特殊新聞とにその社会的機能上分類される。経済新聞・産業新聞・宗教新聞・大学新聞・文芸新聞・等々は後者にぞくする。之は社会性を発揮する部面が普遍的か特殊的かの相違であるが、時事性が社会性に止まるか或いはプロパーな意味での政治性を発揮するかの区別は、日本の例で云えば、小新聞と大新聞との区別となる。小新聞は主に社会の市井事を報道することを目的とし、之に反して大新聞は政論の用具であったが、独り日本に限らず今日はこの小新聞が資本主義的大新聞として発達し、政治的批評機能に富む所謂大新聞は、ブルジョア新聞紙としては事実上は小さい新聞紙となっている。かつて大新聞にはブルジョアジーの社会的政治的「輿論」を代表するという政治的役割があったが、今日のブルジョア新聞に於てはこの役割は全くの単なる扮装としてしか残っていない。そして最後に、社会性政治性そのものの内に、近世の階級社会に於ては判然とした対立があるので、そこからブルジョア新聞紙とプロレタリア新聞紙との区別が現われる。ここで問題になるのはもはや単なる輿論や何かではなくて、新聞紙とその読者層との政治的文化的イデオロギーなのである。現代の新聞現象に関する最後の問題はここにあるのである。
 ブルジョア新聞の特色は新聞紙という商品の製作販売による利潤の追求という過程の内に存する。かかる制限をほぼ或いは完全に脱却しているプロレタリア新聞は無産者階級の組織・啓蒙・宣伝・アジテーション・指令其他の機関として機能することによって、却って新聞本来の一般社会的使命に立つことが出来る。ブルジョア新聞に於ては曲りなりにも新聞本来の使命に立ち帰るべく新聞の「倫理化」を説くのを常とするが、云うまでもなく倫理は利潤の前に何等の権威でもない。ブルジョア新聞による「自由新聞」運動も、少くとも「社会主義新聞」運動(F・ラサールやK・ビュヒャーによる)にまで転化するのでなければ積極的になれない。「プロレタリア新聞」はコンミュニストによって始められ、今日ではソヴィエト連邦(『イスクラ』に始まる)は云うまでもなく、イギリス、アメリカ(『デーリー・ワーカー』)等に於て大きい勢力と絶対な意義とを持っている。尤もプロレタリア新聞紙は歴史的にも、理論的にもコンミュニスト・パーティーの機関紙に限るとは考えられないが、之は今日プロレタリア・ジャーナリズムの最も有力な一部分をなしている。
参考文献――K. B※(ダイエレシス付きU小文字)cher; Gesammelte Aufs※(ダイエレシス付きA小文字)te zur Zeitungskunde, 1926. E. Steinitzer; Der Allgemeine Beitrag des modernen Nachrichtenwesens(Grundriss d. Sozial※(ダイエレシス付きO小文字)konomie ※(ローマ数字4、1-13-24). 1925). O Groth; Die Zeitung, 1927. なお詳細は戸坂、新聞現象の分析(『現代哲学講話』【本全集第三巻】所収、一九三四年)を見よ。


日本精神

 一般的に云えば、日本民族の歴史が何等かの精神の表現であるとか、又はその表現自身がこの精神であるとか考える立場に立つ時、この精神が日本精神と呼ばれる。之によって日本民族の歴史がもつ本質が云い表わされると考えるのである。精神という言葉が通俗的に、ものの本質乃至生命を意味する限り、日本精神なるものは日本民族の本質を通俗的に云い表わす言葉として不都合なく用いられてよい。併し日本民族の歴史そのものが日本精神なる表現であるとか、又は日本精神の表現であるとか考えられる場合は、夫はもはや通俗的な語法ではなくて、一定の哲学乃至世界観上の体系を想定した上での一つの理論的説明を意味する。即ち解釈学的な歴史哲学乃至歴史観へ夫は立脚する。ここにすでに日本精神という概念自身の理論上の疑問が含まれている。この意味に於て、日本民族乃至日本の、歴史的現実を解明乃至解釈する一つの原理として、日本精神なるものを持ち出すことは、一種の哲学的観念論に立脚するものである。
 日本精神の提唱は、云うまでもなく今日に始ったのではない。併し之が一定の意図の下に、広汎に提唱され又強調され又流行し始めたのは、武力的侵略による満州国独立と、之をシグナルとする処の日本ファッシズムの急速な台頭以来である。日本精神は日本ファッシズムの諸イデオロギーの共通な根本観念であり、又実にその合言葉又はスローガンである。無論一般にファッシズムはその本質と名目上のレッテルとが一致しないという著しい特色を有ち、そのイデオロギーは何等その本質に相応するとは限らないのが常であるが、その意味に於てファッシズムはそのイデオロギーを一種のデマゴギーとしてしか持つことが出来ないのであるが、日本精神なるものも亦、日本ファッシズムのためのそうしたイデオロギー=日本主義の根本観念なのである。
 元来ファッシズムは様々な形態と条件との下に高度に発達した諸ブルジョア国に於ける独占・金融・大産業・資本主義の行き詰りと内訌と腐敗との必然的な一つの著しい所産であって、無産者大衆の社会主義的組織が鞏固に社会変革的に発達していないにも拘らず、無産大衆の社会変革へのエネルギーが横溢しているような国に於て、各種の社会民主主義者の認容の下に、中農・小商人・軍人・官吏・意識の遅れた労働者、其他等の層の意識を通じて、独占・金融・大産業・資本がこの無産者の変革的エネルギーを強力的に抑制して自らの解体を延引しようとして用いる政治形態である。日本に於ては、その資本主義が世界的発達水準に達しているにも拘らずなお著しい封建制の残存物(軍閥・官僚・国家的家族制度・其他)に依存しているのであるが、そこで日本のファッシズムはこの封建的残存勢力を利用することによって初めて、純然たるファッシズムの道を開拓する他はない。そうでなくてもファッシズムは民族主義・国粋主義・ショーヴィニズム其他を介して封建化・原始文化化・其他を最後のイデオロギー内容としなければならないのであるが、特に日本ファッシズムはこのイデオロギーに特別に都合のよい根拠を付与することが出来る。日本の封建的残存勢力を利用して、ファッシズムが必然に赴かざるを得ない一種の封建化的イデオロギーを、強化し権威づけるものが、正にこの日本ファッシズムのイデオロギーとしての日本主義であり、そしてその中心観念が日本精神なのである。
 それ故日本精神の各種の主張は、まず第一に日本精神を高唱する一つの精神主義という共通特色を有っている。唯物主義・唯物思想・唯物論、乃至科学的態度・技術的文化、そして最後に個人主義と資本主義、之に対するものが精神主義でなければならぬという。尤も之は決して日本精神主義に就いてだけに限る現象ではなく、各国のファッシスト独裁国のファッシスト・イデオローグの共通な云い草であるが、特に日本精神主義はこの精神が特別に日本的であることを強調する。と云うのは、ヒトラーもドイツ的精神を、ムッソリーニも亦イタリア的精神を強調するのであるが、日本精神主義者は、国粋的な国学の範疇を用いて独特な国史認識の方法を用意しているのであり、或いは民族神話的、或いは儒教的、仏教的或いは却ってヨーロッパ哲学的、言辞を援用することによってさえ、固有に日本的なものを導き出す。その結果、日本精神主義による日本精神なるものは、その国家封建主義的乃至封建主義的な国史認識の方法とその認識の対象との二重の関係から云って、根柢的に封建的な乃至は原始的でさえある処のものとならざるを得ない。所謂日本精神のこの封建性乃至原始性を利用することによって、現代日本の資本主義の露骨な矛盾は、合理的に解決される代りにこの矛盾が無かったかのような原始的な諸条件の讃美にすりかえられる。
 日本精神主義の一つの変形はアジア主義乃至大アジア主義であり、日本精神に基く日本はアジア有色人種の代表者・指導者として、ヨーロッパの唯物思想・個人主義・資本主義等々に対抗しなければならず、つまり満州及び支那其他は日本を盟主として甦生しなければならぬと説く。この際日本精神に基く政治理想は法治国家の観念の代りに古代支那の封建イデオロギーの一つである王道主義でなければならぬ。――それから日本精神主義の一つの特殊な形態は、一種の農本主義となる。日本の封建制残存の一つの物質的地盤でもある処の農業労働(特に零細農業労働)人口の圧倒的多数という事実に仮託して、農業中心主義而も低技術的な農業中心主義が日本精神の主なる内容であるとし、唯物論・マルクス主義、或いは自由主義・個人主義・資本主義等々が想定すると考えられる工業中心主義は、絶対に日本精神と相容れないと説くのである。つまり日本精神は非資本主義的であるから、ヨーロッパ的社会主義は日本精神にとって有害無益だということになるのである。資本主義の矛盾を資本と労働力との社会的対立にあると見る代りに、都市と農村との対立にあると見るのは、この農本主義の広く行われている結論の一つであり、日本の金融ブルジョアジー自身がこの農本ファッショ的結論に対して絶大な信頼を懐いていることは注目に値いする。
 日本精神の内容如何に就いては日本ファッシスト達の間に初め必ずしも完全な一致はなかったが、一九三四年(昭和九年)以来、右翼政治思想諸団体間の戦線統一がおのずから行われると平行して、夫は遂に国体明徴に帰着統一されることとなった。日本の国体の本義はこの絶対主義にあるのであって、日本精神とは取りも直さずこの国体意識だということに結着した。事実右翼諸団体の統一運動は、軍部・ブルジョア政党・反動諸団体の表面上強調する国体明徴の運動によって、にわかに促進された。処が国体意識なるものは実は主として国家理論的な乃至は政治学的な技術上の観念であり、主として憲法の法律学的解釈の問題に結びついていたのであるから、各種の内容の日本精神は反自由主義的憲法解釈に於て、共通な一致した三角点を発見することが出来る。従って日本精神の内容は又この点に集中加重される。アジア主義や王道主義の声は衰え農本主義の教説は無用となり、独り絶対主義・国体観念だけが日本精神の中心に置かれることとなる。
 日本精神の提唱は一見自由主義に対する抑制であるかのように見える。事実又夫は封建的勢力の高揚に他ならぬように見える。だがもし日本主義を目して単なる封建的勢力の高揚だとしか見ない者があるとすれば、それは日本主義の本質を見誤り、それの処理法を誤るものでなくてはならぬ。日本精神は明らかに日本に強力に残存しつつある封建的勢力を材料とするものであり、もしこの材料に頼らぬとすれば全く成立し得なかったものであるが、併し問題は、何故に、何の目的のために、何の意義に基いて、かかる封建的勢力が日本精神の材料とされたか、という点にあるのであって、ここに日本精神の意義と本質とがあるのである。単なる封建制の高揚は反資本主義的反動でこそあれ、資本主義の矛盾の隠蔽としては何等の用をなすものではない。そういうものが日本の資本主義の特別に危険なクリシスに際して遽かに高揚する理由はない。それが高揚し得たのは他ならぬ資本主義そのものの焦眉の急に夫が何より役立つものと意識的無意識的に資本主義自身によって認定されたからなのである。即ち日本型ファッシズムの何より有力な而も不可欠な材料としてこそ、封建的残存勢力がこのクリシスに際して特に遽かに動員され始めたのである。日本精神はだから日本ファッシズムのイデオロギー=日本主義の根本観念であり合言葉である。
 日本のブルジョアジーは決して純資本制的なブルジョアジーではなく、それがブルジョアジーであること自身の内に、封建的残存物に依存しなければならぬという二重性の統一を有っている。従って日本では徹底的なブルジョア・デモクラシーは未だかつて[#「未だかつて」は底本では「未がかつて」]実現されたことはなかったし、従って純正なブルジョア自由主義も充分に根柢的な伝統を有っていない。日本に於ける自由主義そのものが、封建性に依存して初めて高度に発達し得た資本主義の、かの二重性の統一という烙印を帯びている。従って日本精神の提唱即ち日本主義が自由主義の打倒を叫ぶにしても、夫は寧ろ自由主義の(日本に取っては)一つの誇張に他ならぬ処の純正なブルジョア自由主義を打倒すことではあっても、日本ブルジョア自由主義自身の打倒を決して意味するものではない。日本的ブルジョアジー[#「ブルジョアジー」は底本では「ブジョアジー」]は殆んど何等の転向と改心を経ることなしに、おのずから自由主義者となり又は初めから日本主義者であることが出来る。極端な戯画的な形態をさえ取らなければ、日本主義こそその本質と真髄から云えば、日本ブルジョアジーの、又は日本ブルジョア社会の、常識であり通念である。この常識と通念が誇張されたものこそ、正に日本精神なのである。主観的な意図に於て自由主義の精神と日本精神とが如何に対立対抗しようとも、その客観的な本質に於ては、二つの間におのずからの移行と連絡と協定とが横たわっている。特に自由主義の精神に立脚するブルジョア民主主義者は、迅速に日本精神へ傾斜して行くことが出来る条件を持っている。


論理学
   (英 logic, 独 Logik, 仏 logique)

 通常論理学と呼ばれるものは、アリストテレスの「オルガノン」(研究方法の機関・用具を意味する)から始まる、と云われている。之は認識の手続・学問研究の方法・議論の仕方、其他に関するアリストテレスの諸考察を、集成したものであり、テオフラストス、ポルフィリオス、ガレノス等の手によって仕上げられたと見られている。アリストテレス自身は、この諸考察を実地に移すことにとって、その第一哲学たる『メタフィジカ』(形而上学)其他を展開したと推定されている。
 アリストテレスは、例えばその動物学的研究などに於ては、観察や実験という実証的な研究態度を採り、又政治学其他の社会科学的考察に於ても実地の報告と歴史的検討とによって実証的な研究を行ったのであるが、併しこれ等の研究の基底に横たわる哲学的省察自身に就いては、その文献学的態度を別にすれば、必ずしも実証的な方法を用いてはいない。夫は第一にロゴス(言葉)を通じての概念の分析による事物の分析である点に於て、概念分析的な論理であって、近代の科学的研究法の精神と全く異っている。第二に夫は、従って又演繹の論理を中心とする点に於て、(但しアリストテレスのオルガノン自身に於ては決して演繹だけがオルガノンの全部ではないことを注意する必要がある)、近代自然科学の自然観察の精神に基く論理と相対立したものを示している。
 尤も彼の所謂論理なるものは、後世普通に理解されているような意味に於ては、そして又そういう極端な形に於ては、決してただの分析論理でもなければただの演繹論理でもない。寧ろそうしたものと、総合論理・帰納論理との、複合・混合物だったと見ていい。之を純然たる分析的演繹の論理にまで仕上げたのは、実はスコラ哲学なのであった。実際スコラ哲学は主としてカトリック教理の組織立てとそれの解釈を中心課題としていたから、この哲学乃至神学に必要なオルガノンは、アリストテレスの名に於ける分析的演繹論理で充分だったのである。――所謂形式論理はそれ故実はアリストテレス自身のものではなくて、スコラ論理から始まると見るべきである。アリストテレス自身は存在を運動に於て捉えようとする根本的な試みに於て、(彼自身の用語に反するが)弁証法家の一人であったと見ることが出来る。そのオルガノンも存在に対するこの弁証法的な見解から離れては無意味だったわけである。
 形式論理学の一般的な特色は、後にヘーゲルが、それから之に従ってマルクスとエンゲルスとが明らかにしたように、事物をその固定性に於て把握することに存する。従って形式論理は、諸事物間のひたすらの区別と対立とを、無条件に絶対的に墨守する建前を持っているのであって、同一律(AはAである)、矛盾律(Aは非Aに非ず)、排中律(AはBか又は非Bであってその他のものではあり得ない)、がこの立場を最も端的に表わす論理法則となる。事物をこの論理によって認識しようとすれば、勢い、単に諸事物の精細煩瑣な区別と機械的な関係づけしか、その内容となることが出来ない。こうした機械論は形式論理学の最も著しい特色であるが、そのための方法が極めて精細に又大規模に発達したのがスコラ哲学に於てであった。そこでは概念の分析方法と既知概念からの演繹の方法とが、唯一の問題となる。一例を挙げれば三段論法の格(Figur)に関する形式的な整備などが夫であった。
 スコラ哲学の解釈哲学(聖書・教理・文献の解釈)に反対し、従ってその方法たるスコラ的形式論理の分析的演繹の論理に反対したものは、自然を支配するために実験によって之を認識することこそ、唯一の知識乃至学問の途だと考えたフランシス・ベーコンであった。この場合ベーコンは、云うまでもなくエリザベス王朝によって云い表わされるイギリス新興ブルジョアジーの論理学的代表者である。彼によれば聖書やドグマの代りに自然そのものを認識することが必要なのであって、そのための唯一の手段は、実験・観察に他ならない。処が之によって得た諸結果を総合するためには、例の概念分析的・演繹的・論理では何の役にも立たぬ。必要なのは従って、帰納という方法であり、この帰納法こそ新しい研究機関でなければならぬ(その著『ノヴム・オルガヌム』――新方法機関)。
 この新しい形式論理は、一方に於てガリレイによって代表される自然の数学的研究方法との疎遠を別にすれば、全く近代科学乃至近代自然科学の根本的な認識目的に照応している。だが之によって、従来の所謂演繹論理学が成立しなくなるのでもなければ、又全く無用になったわけでもない。爾来形式論理学の教程は、演繹論理学と帰納論理学との二つの部分(主として論理法則・論理要素の教説の部分と研究法の教説の部分)を併せ含むものとなったのである。
 こうした形式論理の一応最後の形のものを、後に整頓し統一して大成したものは、J・S・ミルの A System of Logic である。ここではこの段階に立つ立場から取り扱える限りの一切の論理学的諸問題を網羅して、組織立て、その間往々独自な研究と見解とが※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入されている。特に社会科学に於てその総合乃至折衷の才をほしいままにした彼は、形式論理学を如何に社会科学に適用すべきかという社会科学方法論を、おのずからここに展開することになった。之は社会科学方法論の古典的な成果の代表的なものと看做してよい。
 だが、この時までに、所謂論理学(形式的論理学・一般論理学)以外の領域に於て、すでに一種の根本的な論理上の問題が、多くの哲学者によって提起されていたのである。フランスのデカルトは如何にして確実疑うべからざる認識を得ることが出来るか、ということに就いて、その方法論上の懐疑説を提出した。その結果彼は観念の先天性の主張に帰着している。イングランドのJ・ロック(ホッブズを経てベーコンの後裔でありヒューム、アダム・スミス等を経てミルの祖先に当る処のこのデモクラット)は之に反して、観念が凡て経験に由来するものであって、生具観念はあり得ないと主張する。大陸のライプニツはロックのこの人間悟性に関する経験論的エッセイを、一つ一つ先天主義=ラショナリズムの立場から反駁した。
 なお、デカルトとスピノザとは、夫々認識の方法と知性の改善とを問題とする。――そしてライプニツは、真理に就いて、永久真理と事実真理とを区別し、前者が数学的真理であるに反して、後者は物質的な、そして特に歴史的な真理だと考える。前者は必然に立脚する真理であり、後者を偶然に立脚する真理だという。(ポール・ロアイヤールの僧院の論理学なるものがあるが、この僧院に暮した一人であるパスカルは、幾何学的精神と繊細な精神とを区別した。夫と之との間には一脈共通なものが発見されるかも知れない。)そこからライプニツは、この事実真理を成立させるために、形式論理学に新しい法則をつけ加えた。充足理由の原理が夫である。ここにすでに従来の形式論理学に対する或る根本的な修正の動きを見て取ることが出来る。
 このようにして、所謂論理学の領域外に於て、論理上の根本問題が、認識理論が、展開され、当時(十七世紀)の科学の水準に照応して、課題の提出と解決とを要求されていたのである。認識に関する論理的省察は実は遠くルネサンス(ニコラウス・クサヌス――クーエのニコラス)以来、系統的に発達して来つつあったのである。――さてそこで、前に述べた大陸のラショナリズム乃至先天主義とイギリスの経験論との、認識理論上の例の対立を総合すべく、新しい論理学の方向を開拓したのがカントである。
 カントがこの認識論上の問題を論理学という軌道に乗せて提出しなければならなかった根本的な理由の一つは、ニュートンの自然科学に就いての論理的考察を必要と感じたことからである。元来ニュートンの科学上の功績とその組織的な方法(夫は『自然哲学の数学的原理』という主著の名称がよく説明している)は、広く当時のイギリス、フランス、ドイツ其他の啓蒙学者を、動かしたものである。多数の啓蒙学者はニュートンに就いての考察を書いた。カントも亦その一人に数えられる。だが恐らくカントは誰にも増して最も深くニュートンに動かされた十八世紀の哲学者であろう。と云うのは、ニュートンの数学的方法による自然研究は、それが数学によって支配される限り、疑うべからざる必然的で普遍的な認識(認識をカントは経験という言葉を辿って理解している)を与えるものであるが、この経験の必然性と普遍性との説と、例の経験論乃至それに由来するヒューム的懐疑論とが、如何に折り合うことが出来るかが、カントの何よりの関心を集中した問題である。
 従来の論理学の常識によれば、先天的な判断を下し得るものは分析的(演繹的)判断だけで、総合的な判断は凡て経験的な通用性しか持たない。処がニュートンの数学的方法による自然科学の根柢には、先天的で総合的な判断が横たわっている。そこで、こうした判断を理解し得るような新しい論理学が必要でなくてはならぬ。之をカントは先験的論理学と名づけた。
 先天的な而も総合的な判断はまず第一に数学に於ける諸判断である、とカントは主張する。数学の判断は概念だけでは出来上らない。それが構成されるためには、まず直覚=直観(それは全く感性に属するもので悟性やその概念には属さない)がなくてはならぬ。三角形という概念からは、その内角の和が二直角だという判断は分析的には出て来ない。三角形の直観が吾々に三角形という形の表象を与えることによって、この判断は総合され得るのである。処がこの直観は感性に属するにも拘らず、カントによると先天的(アプリオリ)な直観なのである。即ち経験を俟たないところの直観である。であればこそこの総合的判断は経験的な通用性に止まらず、経験から独立した通用性を有つところの先天的な判断であることが出来たのである。
 こうした数学が適用される限りに於ける、一切の経験的認識の根柢も亦、総合的でありながら、単なるその場その場の経験によってはもはや制約されない処の、先験性を有つことが出来る。こうして初めて、一般に認識(経験的科学)の客観性が保証される、というのである。
 カントが問題にした論理上の課題は、だから、もはや従来の形式論理学のように単に学問の手続や思惟の法則に局限されたものではなくて、科学的認識の客観性を如何にして保証し得るかということであった。之は科学的認識という具体的な内容をその論理学の内容としている。従って、もはや単なる従来の形式論理学ではなくて、云わば内容的な「具体的論理学」なのであり、その意味に於て形式論理学から区別されて、先験論理学なのであった。
 之は従来の形式論理学に対する一つの決定的なショックであったことを見逃してはならぬ。少くとも形式的に止まっていた論理学に改めて内容を入れるということは、単に之にそのまま内容を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入することではなくて、この形式そのものを変改する必要を意味している。――だがそれにも拘らず、カントの先験論理学は矢張一種の形式論理学に止まっていることを見ねばならぬ。なる程カントの論理学は形式論理学の形式性を一応打破した。例えば同一律とか矛盾律とかいう極めて形式的な論理法則の代りに、図式(シェーマ――認識が構成されるためのプラン)とか原則(経験を成立させるための諸根本命題)などが提出される。この論理学の問題はその限り形式的ではなくて、科学的認識という具体的事情に照応している。だが之は、何も同一律や矛盾律そのものの批判でもなければ制限づけでもなくて、単に之とは殆んど全く別な課題を選んだということに過ぎない。形式論理学の根本的な最後の立場そのものは、カントの先験論理学によっては少しも疑問とされていない。――現に彼はその有名な範疇の表を、判断の表から導いてテーマとして提出するのだが、この判断表は、アリストテレス以来の形式論理学が整備したものに他ならなかった。
 カントの先験論理学が依然として一種の形式論理学であり、形式論理学の根本想定の上に立っている所以を、克明に指摘したのはヘーゲルであるが、それは後に弁証法的論理学の場合に見よう。――カントの先験論理学の課題(認識の客観性を如何に説明するかの問題)を、近代に於て再び取り上げたものは、新カント学派である。その一派であるマルブルク学派のH・コーエンは『純粋認識の論理学』に於て、論理なるものが夫自身の根源から、みずからのための「方法」を生産し、それが「体系」を展開すると考え、ここに科学的認識の成立と客観性との根柢を発見しようとした。他の一派の新カント学派、バーデン学派(西南学派)は、一方に於て認識の対象が実在ではなくて客観性という一個の要求された価値であると見て、先験論理学を徹底させると共に、他方に於てはこの先験論理学の立場に立って、歴史学的認識の方法論を展開した。カントの論理学に於て欠けていた課題は歴史学の方法の問題であって、カントは多くの代表的な同時代者と同様に、科学一般の典型を自然科学に於てしか見なかった。そこを補ってカントから来る文化理論を論理学に結びつけたものが、この歴史学の方法論であった。(ヴィンデルバント、リッケルト、ラスク等。)――かくて新カント学派によれば、先験的論理学は、内容から云って認識論乃至科学方法論・乃至科学論と呼ばれることになる。(この「認識論」の意味については後に。)
 西南新カント学派はH・ロッツェの『論理学』(特にその「認識に就いて」の部分)に由来している。ロッツェは判断の問題を、判断の対象の内に求めた。ここで注目すべきは判断が心理的判断作用というようなものから問題にされるべきではなくて、そういう主観的な観点に立つ代りに、客観的な立場に立って、判断の対象に論理学の最後の目標をおいたということである。従来の多くの近代的論理学が云わば主観的論理学であったのに対して、之は客観的論理学となる。この立場は云うまでもなく前述の新カント学派の凡てを貫いている。
 最も徹底した客観的論理学は、B・ボルツァーノの Wissenschaftslehre のそれである。カントの先験論理学は彼の経験理論を一貫して、実は極めて精緻な意識の分析によって裏づけられている。之は先験論理学に対してカントの先験心理学の部分と呼ばれているが、ボルツァーノは之に反対して、徹底的に問題を客観的な観点へ持って行った。心理学的な表象に対しては論理学的に表象自体なるものを考えなければならぬ。之はそれ自身真理でも虚偽でもない。之が結成されて生じる命題自体にして初めて真偽の区別を生じる。真理も心理的な意識とは独立な真理自体でなくてはならぬ。こうした「自体」の世界は一般に意識からも形而上学的な実在からも独立な意味の世界に他ならぬ、とボルツァーノは主張する。
 ボルツァーノのこの客観主義を認識作用に照応する対象一般に適用したものは、マイノングの「対象論」であり、之を却って再び心理学に適用したとも看做されるのはF・ブレンターノやE・フッセルルである。後の二者によれば、意識作用の本質は、主観にぞくするにも拘らず対象を客観的に指し得るという点に存する。――この系統の論理学乃至論理研究は大体に於て反カント主義的であるが、カント主義自身から出発して、矢張徹底的な客観的論理学に到着したものは、E・ラスク(西南学派)である。論理学は真理価値を問題とするものであるが、真理と云えばまだ何等か主観的な観点が混入するので、真偽を絶した無対立の価値が最後の論理学的なものだ、と彼は考える。
 其他近代の論理学に数えられるものには内在論者のシュッペや、ヴント、ランゲ、リール、其他を数え得るが、最後に、形式論理学の最も徹底した形態として、数学的論理学を挙げねばならぬ。形式的論理学本来の形式性と機械的性質とを、最も露骨に強調したものは恐らくW・S・ジェヴォンズだろう。彼はW・ハミルトンやG・ブールの影響を受けて、論理学上の操作を数学的な記号によってひたすら矛盾律のみに手頼って行おうという思想を展開し、遂に論理学的計算機までも設計するに至った。この種の論理学は一般に記号的論理学とか数学的論理学とか、乃至は論理計算とか Logistik とか呼ばれる。(ジェヴォンズ自身は之を純粋論理学と呼んでいる。)現代に於てこの立場を代表するものはB・ラッセルやL・クーチュラー等であり、ラッセルの如きは従来の一切の論理学を伝統的論理学と名づけて、之を自分の近代論理学から区別する。所でこの種の論理学者は多く数学者であるが(ハミルトン、ブールを始めラッセル、クーチュラー)、現在数学の新しい運動としてこの論理計算に結合しつつあるものはD・ヒルバートの数学的形式主義である。
 併し同時に注目すべき現象は、ラッセルもクーチュラーも斉しく現代の優れたライプニツ研究家だということである。それは連続や無限に関する数学的論理学的研究がライプニツに出発していることにも根拠を持っているのであるが、実は夫と直接の繋がりのあることなのだが、数学的論理学はライプニツの「普遍文字」の思想に基いているからなのである。ライプニツは国語の相違によって論理の普遍的な通用が妨げられるのを不合理として、論理的表現をば、最も普遍的に国語を超越して通用する代数記号で以て、云い表わそうと企てた。之は一面に於て、言語学上ではエスペラント運動の観念の先駆でもあるが、他方に於て今日の所謂「近代論理学」の先蹤をなすものなのである。――論理学が機械的に形式的に合理化された極端な形が之である。
 さて以上は広義に於ける形式論理学の、系統と諸分派の特色とであったが、之に対立するものは、弁証法的論理学乃至簡単に弁証法である。(弁証法という言葉を一般的に広義に取れば、何も論理学のことに限らないのであって、事物の順序から行けば寧ろ存在の法則を意味する方が本来なのだが、併しこの言葉の歴史と普通の使用習慣から云うと、本来論理乃至思惟法則の名なのである。で思惟の論理以外のものを弁証法と名づけるのは、言葉の上からだけ見れば、アナロジーだと云ってもいい。尤もこのアナロジーに却って最後の真理があるのであるが。)
 弁証法を広義に解すれば、事物の存在法則そのものをも含むのだから、そうした云わば客観的なディアレクティックは、遠くヘラクレイトスにまで溯る。こうした客観の弁証法はやがて重大な問題とはなるのであるが、併し今一応所謂論理(思惟の法則)に問題を限定するとすれば、そこに必要な云わば主観の弁証法は、最初プラトンによって形を与えられたと云ってよい。矛盾を克服することによって真理に到達する科学的方法がプラトンのディアレクティックである。プラトン的ディアレクティックは、他面に於て例の客観的な弁証法を持っていたアリストテレス(存在は生成変化する)によって、却って矛盾に充ちた常識的信念に特有な非科学を意味するものとして斥けられた。プラトンがまず掲げた弁証法に、或る意味でその裏面から近づいたのは、プラトン主義者であるカントであった。
 カントがその認識論の構造の示唆を受けたものは、彼がアンティノミー(二律背反)と呼ぶ一つの論理学的現象であった。宇宙の無限や最後の単位部分や其他に就いては、人間の悟性乃至理性は、全く同一の確実さを以て、全く相容れない肯定判断と否定判断とを、同時に下すことが出来る。この特有な矛盾が二律背反である。カントによれば、之は理性が経験乃至感性的直観との協定を必要とするという認識手続の上の約束を無視するから起るので、この約束を守る以上、元来今云ったような宇宙論的な観念はそも々認識なるものの内容となり得るものではない、そういう意味に於てこうした宇宙論的諸観念はイデーに他ならない、という。――処が悟性乃至理性のこの不当な使用法から生じる幾多の論理的矛盾を、検討し、之から免れるには理性乃至悟性を如何に適切に使用すべきであるかを研究するのが、カントの謂う処の、ディアレク、ティックなのである。
 でつまりカントにとっては、弁証法なるものは、アリストテレスなどでもそうであり、又その言葉自身が元来往々そう使われて来たように、論理の云わば消極面、否定的な面を云い表わすもので、夫は論理学の正面に位置するものではなかった。処がそれにも拘らず、もはや従来の所謂形式論理学に止まることの出来なかったカントにとっては、この弁証法は、論理学の正面を云い表わすその「分析論」と並んで、その裹を[#「裹を」はママ]検討するために、表面に出て来る必要があったのである。――この現象は、カントの先験的論理学に於ける根本的な不整頓を意味するわけで、先験論理学が形式論理学の欠陥をこういう形で云い表わすという点を、無意識ながら判然とさせたのは、カントの卓越した見識に数えていい。
 処でカントのこの云わば消極的な弁証法を積極的なものと考え直したものが、取りも直さずヘーゲルである。ヘーゲルによれば、弁証法は決して単に論理が矛盾に陥ることを憂慮する処の論理ではない。形式論理学の矛盾律に従えば、論理は常に一切の矛盾から超越していなければならないわけだが、それは論理を全く形式的に無内容に考えるからで、実際の事物に相応するような内容を持った論理を考えれば、事物が運動し変化し生成消滅する通り、その論理的把握としての概念は、決して同一の内容に止まることは出来ない。従って同一律は無条件には通用しないから、従って又矛盾律もそこでは無条件には適用されなくなる。寧ろ矛盾することこそ、現実性を持った理論の本性なのであって、この矛盾を止揚するために動き出すことによって、初めて論理は活きて働くのである。論理は矛盾を通じてでなければ統一にも真理にも到着出来ない。否定に初めから触れないような肯定は、極めて薄弱な肯定であり、従って実は何等の活きた肯定でもない。否定を一旦通過することによってこそ初めて、この否定そのものが否定されうる。そこに初めて本当の肯定が生じることが出来る。――真理は具体的だ、と云うのは否定を否定して到達し得たものこそ、偏局しない全体的な真理だ、というのである。ヘーゲルによれば弁証法とは矛盾・否定・対立によって媒介された処の、真理に向っての論理の運動のことだ。
 形式論理学(機械論的論理)は事物を固定化し、絶対化し機械的な区別と結合とを与えることしか出来ない。だが弁証法的論理は事物をその運動発展に於て見るから、事物が固定化され絶対化されるということ自身が、この立場から見れば之を流動化し相対化すことを意味する。機械的な区別の代りに生きた相互浸透があり、機械的な結合の代りに、対立したものの間の統一がある。――つまり弁証法は形而上学の反対なのだ、とヘーゲルは説くのである。(但しここに形而上学というのはカントが批難しようとして果し得ず又徹底的には排除しようと欲しなかったあの形而上学の意味であるが、併し新カント学徒達が、認識論に対立させている処の哲学の暗黙に公認されている一分科としての、あの形而上学ではない。)
 ヘーゲルによれば形而上学を批判しようと試みたカント自身、依然としてこの形而上学の立場(即ち形式論理学・機械論)に立っている。その著しい例はカントの物自体の概念であって、之はカントによって現象から絶対的に隔絶されて了っている。物そのものはカントのように機械的に之を現象から隔絶孤立して了えばこそ、形而上学的観念となるので、物そのものとその現象との関係をこのように絶対化すること自身が、形而上学的だったのだ、というのである。
 ヘーゲルの弁証法を今茲に詳しく説明していることは出来ない。併し注目すべきは、多くのヘーゲル主義的論理学者が、一種の全体主義に立ち、弁証法的論理を全体主義的論理で以て置き換えている、という現象である。B・ボーザンケトやB・クローチェ等がその代表者である。(一般のヘーゲリヤンや新ヘーゲル学派は今は論外である。)即ちこの種のヘーゲル主義的論理学者は、ヘーゲルの弁証法の内に、弁証法というよりも寧ろ有機体説を見るのである。そして之はヘーゲルの弁証法自身に責任があるのである。
 ヘーゲル弁証法の体系――それは往々汎論理主義とか論理学的発出説とか云われている――は、決して卒然として思いつかれたものや何かではない。その前に、代表的なドイツ古典観念論者のフィヒテと、そのロマン派的な強調としてのシェリング(その後期は別だが)とがあった。フィヒテは自我の自発的な必然的展開の内に、彼の弁証法を見たし、初期乃至中期のシェリングは自然の分極性と自然の勢位の上昇過程の内に、彼独特の弁証法を見た。だが何れも之は全く解釈の上のディアレクティックでしかなかった。と云うのは、自我や自然はこうした弁証法によって、単に解釈されただけで、何等現実的な説明を与えられたのではなかった。この解釈のための観念論的弁証法が、ヘーゲルの論理を制約しているのである。
 ヘーゲルは元来事物そのものの運動を弁証法的に把握しようと欲した。その把握には概念を必要とする。従って弁証法は概念に固有なものでなければならない。処が元来ヘーゲルには事物を現実的に処理することよりも、事物の持っている意義を、世界の有つ意味を解釈することを目的としていたのである。世界史はだから彼によると、神の世界計画が如何に合理的に実現したかという神義論だというのである。世界の現実の始まりは、神の世界計画などにはなくて、星雲の横たわる空間か何かであったに相違ない、それを神の世界計画に始まると考えるのは、世界に向ってキリスト教神学が押し与えている処の意義をば、始原の問題とするからこそだ。
 処で事物の意味を明らかにするものは、云うまでもなく例の概念であるが、今この意味の解釈だけがその認識目的だったとすれば、当然この概念の解釈が唯一の認識手段となるだろう。事物そのものではなくて、事物の意味を云い表わす概念そのものが、テーマとなり主題となり主体となる。かくて概念は観念的な主体にまで独立化せざるを得ない。――こうやってヘーゲルの弁証法は、概念の独立な(事物そのものからは独立した秩序界にぞくする処の)運動の法則となるのである。論理はかくて論理それ自身として他の一切の事物から独立化する。そうすれば、現実の事物も亦、この体系から云えば論理そのものの自己発展の所産だということにならざるを得ない。これは明白すぎる形をとったカリケチュア化したナンセンスだが、このナンセンスの一つの内容が例の有機体説だったのである。
 それは当然なことなので、事物の動きを云い表わす概念ではなくて、概念それ自身としての概念であるならば、正反の総合としての合は、無条件な全体でなくてはならぬ。即ち凡ての対立や矛盾はそのままで組織されたことになり、論理的な有機体が出現する他はない。なぜなら純論理的に、即ち概念そのものの解釈だけから云えば、合の内には常に正と反とがそのまま這入っているのであり、従ってそうである以上、何と云っても正と反とは調和ある妥協を保っているに相違ないからである。
 ヘーゲルの弁証法的論理は、だからまだ純然たる弁証法ではない。そして先に、論理学が弁証法的である必要があった以上、この観念的弁証法は論理学として決して充分ではあり得ない。解釈の弁証法、独立の主体に化した概念それ自体の弁証法の代りに、必然的に要求されるものは、現実の弁証法、事物を現実に把握する限りの概念の、弁証法でなくてはならぬ。かかる弁証法的論理は、マルクス及びエンゲルスによって徹底された処の、唯物論的弁証法なのである。
 唯物弁証法的論理は、単にヘーゲルの弁証法を観念論的な夾雑物から純化したに過ぎないと云ってもいいかも知れない。だが結果に於てはヘーゲルの論理組織を根本的に逆転させることになる。ヘーゲルでは夫は所謂汎論理主義となって現われた。併しマルクス・エンゲルスでは、概念の独立主体化、即ち論理学の絶対的独立化は、許されない。所謂論理学は、だからここで実在そのものとの限界に逢着せねばならず、又その逢着の必然性を豫め論理学自身の機構の内に蔵し自覚していなければならぬ。論理学が本当に論理学であるためには、却って自分自らの制限を自覚しなければならぬ。之が弁証法的論理学の弁証法的である所以であり、真の論理学の宿命なのである。ここで弁証法的論理は存在そのものの弁証法的法則に接するのである。つまり例の云わば客観的な弁証法の世界に結びついて来るのである。
 マルクス・エンゲルスの弁証法的論理学は多くの自称マルクス主義者によって色々に歪曲された。或いは之を社会の歴史の運動に於てしか適用例を見出し得ない関係であると云って、之を主観主義化したり(ルカーチ・コルシュ等)、或いは之を単に事物の客観的法則に過ぎぬものとして、之が人類の実践と共に進んで来た認識の歴史の要約である点を無視したり(プレハーノフ、デボーリン等)、之が人間の目下の思惟の論理学的な用具であるという方法論としての役割を忘れたり(プレハーノフ)して、之を客観主義化したりした。併しレーニンの哲学的労作が次第に公表されるに及んで、弁証法とは論理学のことであり又認識論のことであるという点が、再び明らかにされることとなった。弁証法と論理学と認識論との同一のこの再認識は、今日「哲学に於けるレーニン的段階」と呼ばれている。
 問題はこの三者の同一ということの意味である。之を本当に絶対的な同一と見るならば、議論はそこで打ち切りになる。そして単に、改めて、認識論や弁証法や論理学が夫々何であるかという、旧に帰った原始的な疑問の出るのが落ちだろう。思うにこの三者は本質に於て同一なのだ。従ってその言葉の上での区別は何でもいい。併しそれにも拘らず、弁証法的論理(即ち弁証法)に、認識論としての契機と論理学の契機とを認めるならば、一切の論理学的問題は極めて系統的に理解出来ることになるだろう。
 もう一つの問題は、弁証法的論理学と形式論理学との関係である。もし前者が正当ならば後者は成り立たない筈である。全くその通りで、弁証法的論理学という立場は、形式論理学という立場を許すことは出来ない。だがそうだからと云って、同一律や矛盾律が誤謬だということにはならぬ。之は弁証法的論理――矛盾の論理――の一断面、一契機を云い表わす限り、真理なのである。ただこの形式主義的論理法則が、一つの形式主義という立場の支柱に数えられる時、その法則の運用が誤謬となるのである。
 最後に問題になるのは、哲学と論理学との関係である。エンゲルスは今後哲学は形式論理学と弁証法だけになるだろうと云っているが、この弁証法(夫は形式論理学の法則を止揚し保持している筈だった)なるものが今まで述べたように、内容の極めて豊富なものなのである。豊富な哲学の根本原則は、凡てこの弁証法的論理学の内容として初めて生命を与えられ得るだろう。つまり論理学は最も厳密な意味に於ける――科学性を有った――哲学と、哲学的世界観の科学的立脚点に他ならない。――さてそこで、人が如何なる哲学を採用するかは、或る観念論者の有名な言葉のように、人々の性格による、のではない。それは何より先に彼が如何なる社会階級と如何なる階級文化とにぞくしているかに依るのである。従って人が如何なる論理学を採用するか、形式論理学を固執するか、弁証法の立場に立つかは、彼のぞくする社会階級と階級文化と、そして実は又彼の心理的素質の高低にさえ、よることである。
(論理学の歴史に就いては、K. v. Prautl; Geschichte der Logik im Abendland. F. Enriques; L'Evolution de la Logique. イタリヤ原文、其他)。





底本:「戸坂潤全集 別巻」勁草書房
   1979(昭和54)年11月20日第1刷発行
初出:「経済学大辞典 第四巻」岩波書店
   1931(昭和6)年10月
   「経済学大辞典 第五巻」岩波書店
   1932(昭和7)年1月
   「経済学大辞典 追補」岩波書店
   1936(昭和11)年10月
   「教育学辞典 第一巻」岩波書店
   1936(昭和11)年5月
   「教育学辞典 第二巻」岩波書店
   1937(昭和12)年2月
   「現代哲学辞典」日本評論社
   1936(昭和11)年9月
入力:矢野正人
校正:Juki
2010年4月4日作成
2010年11月8日修正
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