映画芸術と映画

――アブストラクションの作用へ――

戸坂潤




 今日普通映画と呼ばれているものは、大体映画芸術のことである。厳密な意味に於て芸術としての価値があるなしに拘らず、ともかく芸術という部類に入れて然るべき映画を指すのである。勿論「芸術映画」というような意味ばかりではない。尤も例えば「文化映画」というものを芸術映画に対するものと考えることも出来るなら、文化映画は必ずしも映画芸術ではないから、結局芸術映画などが映画芸術の代表者のようなものとなるが、併したれとしても所謂芸術映画だけを以て映画芸術の全般を尽すことの出来ないのは、あたり前である。
 私は所謂「文化映画」という観念について、よく理解出来ない点を発見する。之は文化映画――つまり文化的内容を盛った映画――というよりも、寧ろ文化政策の手段としての映画という意義の方を余分に有っているのではないかと思う。而もそれが、所謂「宣伝映画」というような露骨な意図暴露を伴わない処の、そういう意味で初めてそれこそ文化的な映画のことであるようにさえ思われる。そしてその実際の内容から云うと、主な教育材料風のものが多いらしいから一種の「教育映画」ということが出来るかも知れない。ただ教育映画としても修身風の教育目標教育方法ではなくて、科学的理科的教材のものが多いらしいから、一面また「科学映画」であると云っていいかも知れない。一種の教育映画にせよ、又一種の科学映画にせよ、とに角それが文化政策上の線に沿うていることが特色であると考えられるが、併し文化政策として見れば、之は仲々高級な文化政策の観点に立つものと云わねばならぬ。科学映画風の材料などを使って文化的政策を遂行する一助にしようというのは、手近かな文化政策の能くし得る処ではないだろう。
 文化映画というものに、だから私は容易に心を許さないのであるが、それと共に、そこに見えかくれしている映画の或る計り知るべからざる能力には注意を怠ってはならないと考える。と云うのは、文化映画というものの現在の現実が何であるにしても、少なくともそれは所謂芸術映画のようなものとは対極にあるものだということは疑えないのであり、従って或る程度まで、映画芸術の範囲を脱出したものであるからである。芸術も亦それ自身芸術政策的な本質を有ち得るものであるとも考えられるし、又は少なくとも芸術が政策上の一手段として役立てられることも一応は常に可能ではあるが、併しそれならばあくまで映画芸術という観念だけで以て充分なわけで、それだけで充分に文化映画たり得る筈である。映画芸術の一応の代表者たるべき芸術映画(之を好意に理想的な内容に於いて考えるとして)などの類から区別される必要もないわけだ。処が事実上それが区別されている処を見ると、やがて、文化映画の如きものが、所謂映画芸術というものから食み出すということに気がつくのだ。
 教育映画や科学映画というもの(それから宣伝映画、記録映画、ニュース映画、その他)になれば、それが所謂芸術映画と峻別されることは勿論のこと、所謂映画芸術というカテゴリーからも峻別され得るということが明らかである。この点文化映画についてよりも一層明らかである。文化映画は一面芸術と――観念上――ごく接近した観念とも云うことが出来るだけに、映画芸術なるものの制限を感得するには手頃の材料なのだ。
 だが私は文化映画を問題にしようというのではない。映画芸術なるものの、映画全般から見ての制限について、まず注目したいからである。つまり世間では、映画と云えば何より映画の芸術を思い起こすわけだが、それは当然なことととしても、だからと云って、映画が即ち取りも直さず一種の芸術以外のものではないというような常識は、勿論間違っているわけだ。街頭で文化的商品として吾々に提供されるものは大部分映画芸術としての映画であるが、云うまでもなく最近では、ニュース映画の価値も極めて高く評価されているのが街頭の事実であって、ニュース映画はもはや全く、芸術としての映画ではなく、映画芸術ではない。戦争が新しい美を産むのだというようなことを主張する馬鹿者もいないではない、すると戦争ニュースも大いに芸術になるわけだが、馬鹿者は相手にすべきではない。それに、ニュース映画の映画価値に対する認識は、実際を云うと、戦争ニュースの登場以前から用意されていたのであって、映画の一般的な根本機能が世間で段々反省されるような段階に到着したことの、当然の結果であったに過ぎなかった。――でニュース映画のことを考えて見ても、映画が決して芸術につきないことが判る。
 こんなことは判り切ったことのように見えるが、併し仮にこの関係を文学の問題に比較して見ると、意外な問題を孕んでいることがわかる。と云うのは映画ニュースは云わばルポルタージュ文学又はルポルタージュに比較することが出来なくはない。すると映画芸術対ニュース映画(映画ニュース)の関係は、従来の普通の文学作品対ルポルタージュ文学乃至ルポルタージュの関係と平行しているようにも見える。処がここでは文学とルポルタージュとが甚だ厄介な関係に立っているのである。ただのルポルタージュは勿論「文学」ではないのであるが、併しルポルタージュが真実な角度を持つためには、少なくとも文学的でなくてはならぬ、と云うことは出来る。ルポルタージュ必ずしもルポルタージュ文学ではないが、併し本当のルポルタージュが文学的でなければならぬとすれば、一体ルポルタージュとルポルタージュ文学との区別は、どこにあるか。無理にフィクション化したのがルポルタージュ文学の方で、フィクション化したりお咄化したりしないのがルポルタージュ自身だとでも云う他ない。だがそんな区別は、結局芸術上大した区別ではない。すると単に何か文筆上のジャンルの区別に過ぎないことになる。併し小説と戯曲とはジャンルを異にするが、だからと云って、一方が文学で他方が之に比して文学でないなどとは云えない。するとルポルタージュとルポルタージュ文学とが文筆上のジャンルの差に帰しても、一方が文学で他方が文学でない、という証明にはならぬ。
 之に似たことが映画芸術と映画ニュースとの関係にも生じて来るのである。二つは映画のジャンルとして別であることは明らかだが、一方だけが芸術で他方は芸術でない、という証明としてはそれだけでは不充分だ。ジャンルは芸術によって決定されるが、芸術であるかないかをジャンルの方から決めることは出来ない。もしそんなことが行なわれるなら映画発達の初期に戻って、映画という新しいジャンルは抑々芸術ではない、と云ってもよかったことになる。
 勿論私は映画芸術と映画ニュースとが別であることを否定しようというのではない。一方が芸術であり他方が「芸術」から食み出した別なものであることを、否定しようというのではない。寧ろそのことこそを主張したいのだ。だが、それにも拘らず、一方が芸術であり他方が芸術でない、かどうかということよりも、要するに両者とも映画であるということの方に、意義の重さを認めようとするのだ。私は芸術と非芸術とをまず第一に区別して、その上で映画芸術を前者に、映画ニュースを後者に、含ませようという分類には、すぐ様は賛成出来ない。その位いなら寧ろ第一に、例えば映画と文学とをまず区別する。そして映画の内へ映画芸術と映画ニュースとを区別した方がいいと思うのだ(文学の内には芸術的文学=文芸と文献学=古典学とを区別する)。
 芸術という文化の「ジャンル」は文化史的には最も直接な所与の現象を示すものだが、之を分析的に分解するためには必ずしも分解の要具とはならぬ。分解のための工作機械は、文学とか映画とか美術とか工芸とか建築とかいうような区別であって、夫々が芸術のジャンルにぞくしたものとぞくさないものとを持っているのである。建築は一体芸術であるかそれとも住居の用具であるか。工芸品は道具なのか芸術なのか。――でこういう意味に於て、映画は芸術であると否とに拘らず、まず第一に映画だということを強調しなくてはならない。そうすることによって初めて、芸術としての映画や芸術でない映画の区別も出て来るわけで、と云うのは映画は断じて文学や何かという偶然な先蹤芸術からの類推から独立しなければならないのであって、そのためには自分自身で何が芸術的であるかを決定しなくてはならぬ。之は芸術であるかないか、こう決まることではなく、逆に、映画であるのかないか、こう決まる他ないことだ。
 ニュース映画の場合はルポルタージュ文学などと類推される恐れがある。映画芸術とそれから食み出した映画との関係を割合純粋に問題にするためには、だから一見明瞭な「映画芸術的映画ニュース」の関係を見るよりも、一見曖昧な「映画芸術対文化映画」の関係などを見た方がよかったわけだ。
 それ故、映画芸術という観念には二重の検閲を必要とする。第一は、映画は何よりもまず「芸術」であるという常識に導かれていはしないかという点。第二はその「芸術」なるものが映画以外の常識からステロタイプとして映画に持ち込まれたものではないかという点。前者については、問題は簡単なように見える。誰しも少し考えて見れば、映画が芸術だけでないことを知っているからだ。併し後者については、問題は依然複雑である。映画芸術と芸術外映画とを区別する「芸術」なるものは、勿論映画自身の建前から規定されるべきであって、劇や小説の建前から規定すべきものでない、というのは今日の誰しもの常識だ。処が、では映画に於ける「芸術」とは何か。そうなるとあまり決った定義がないのである。それもその筈で、映画には之まで殆んど知られていなかった特有の機械的で感覚的な機能があるわけだから(主にカメラとフィルムの移動とに基く)、芸術と非芸術との区別は全く新しい要素を加えてしか決定出来ないのである。つまり、映画ニュースと雖も、之を無下に芸術外と決めてかかることは、多少危険を免れないとさえ考えられるかも知れないのである。
 この点を一歩進めると、芸術的であるかないかは、映画に於ては特に困難な区別であると共に、従来の場合に較べて映画に於ては、「芸術」的であるかないかはそれ程重大問題ではないかも知れない、とも考えられて来るのである。何等かの芸術的なるものと、非芸術的なるものとが、特別な交流を必要とするのが、映画というものの物理的機能の特色であり、又社会的存在条件でもあるとさえ考えられる。――でここから、映画に於ける芸術性なるものが、もっと根本的に考え直されねばならぬのだが、それはやがて、一般に芸術性全般に渡る観念の再検討の動機ともならねばならぬ。
 映画に於ては、「芸術」より先に「映画」が問題なのである。つまり映画というものの認識上の機能全般が、第一のそして根本の問題なのだ。之が多少とも決定しない限りは映画の芸術性が何であるかは、ゴマ化さない限り、決定され得ない筈である。映画芸術と非芸術映画との区別や交流も分析出来ない。一体芸術というものは文化史上に現象する文化的ジャンルの一つであると共に、又認識理論上の一つの大きなカテゴリーだ。と云うのは、芸術とは文学や美術や劇等々の文化現象の総和を意味すると共に、一群の認識の名なのである。芸術は科学と並んで認識の様式をも意味している。処が他方、映画は、映画芸術であるとかないとかよりも、もっと根柢的な規定として、人間の一つの新しい認識能力を意味しているのだ。映画は認識手段認識機能かの名なのである。処で、認識様式が認識手段乃至認識機能によって決まって来るということは、当然である。その逆でないことは常識だ。従来の美学は之を乗具(例えばT・フィッシャー)と呼んで来ている。言語(又文筆)を乗具とする認識は、文学だ。之と比較して、映画というメカニズムを乗具とする認識が所謂映画なのである。
 で私は、映画理論の根本問題は、映画という文化史現象や芸術現象等々に関するものとしてよりも先に、まず認識論的なものでなければならぬと考える。映画の芸術性も認識の様式として初めて、映画固有の形の下に捉えられるだろう。根本問題は、映画が芸術であるかないかとか、又如何なる映画が芸術であるか、というようなことより先に、映画という認識手段が、人間的認識の歴史に於て如何なる役割を果しているか、ということの現実的な分析にあるだろう。単に映画には映画特有の芸術性や又一般の機能があるからそれを尊重せねばならぬ、と云うだけではないのだ。映画が人類の進歩的な認識機能であるということの、認識理論上の充分な自覚が必要だというのである。――映画が芸術として又(実は同じことに帰着するが)娯楽として通俗に理解されていることは、勿論健全なことだ。だがそれが映画理論の原則の出発点となってはならぬ。吾々の問題は、一般に芸術や娯楽というものの認識理論上の意義を的確に把握することになくてはならぬ。映画はそのための最も有望な対象なのだ。
 併し実は、映画の機能は大体に於てすでに広く知られている。抑々の処は、今更事新しく私が説明するまでもない。かつて私は多少理論的に之を説明しようとした。そこでは風俗との結合が特徴あるものと見られた。映画の物理的機能が風俗というような社会的要因と直接結びついていることを認識理論的に指摘した。だがそれはそれとして、他の方向に於て認識理論上興味のあるのは、映画に於ける「アブストラクション」の作用であろう。
 アブストラクションは一切の認識に於ける根本作用の一つである。科学が之に基くことはあまりに知られすぎているために誤解を招いてさえいる位いだ。と云うのは、科学は芸術とは異って抽象的である、と云った風な俗説を産んでいる。だが芸術こそ又最も抽象的なものだ。之なくしては文芸に於けるスタイルなどは無意味になるし、絵画などは成立しない。ただその抽象=アブストラクションの相違が、科学と芸術の区別、芸術の内に於ける諸ジャンルの区別を与える。従って吾々は諸芸術の区別を検討する一つの尺度として、このアブストラクションを検討してかかることが必要なわけだ。
 併し単に諸文化様式(認識様式)の区別にとって必要なばかりではない、それというのも、認識機能・認識手段・の内にアブストラクションの作用の地盤があるからのことだ。認識機能乃至認識手段としての映画(文化様式の一つとしての所謂「映画」では必ずしもない)にとっては、又特有なアブストラクションがなくてはならぬ。恐らく之が、映画と他の認識手段とを連関づける媒介ともなる。それについては何れ。
(一九三七・一二)





底本:「戸坂潤全集 第四巻」勁草書房
   1966(昭和41)年7月20日第1刷発行
   1975(昭和50)年9月20日第7刷発行
入力:矢野正人
校正:小林繁雄
2001年8月23日公開
2012年12月10日修正
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