〔付〕唯物論研究に就て(戸坂潤手記)

戸坂潤




(付記)  本篇は唯物論研究会の中心人物たる戸坂潤が書いて東京地方裁判所検事局に提出したものである。本篇の内容中日本共産党と同研究会との関係等重要部分に於て嘗てこの「思想月報」第一号に掲載した「唯物論研究会経過」の趣旨と必ずしも一致しない点がある。然し本篇は戸坂潤が全く任意自宅に於て執筆して提出したものであって、検事は之に対し何等反問等をしていないから或はそういうことの為に右のような結果となったのではないかと思われる。それは兎に角として執筆者戸坂潤は現に同研究会の中心人物であり又同会のことを相当詳しく述べているから参考の為茲に之を掲載する。

一、起源


 唯物論研究会の創立は昭和七年十月であるが、その準備工作は同年四、五月の頃から着手せられた。それに先立つ昭和六年十月頃戸坂潤、岡邦雄等は、現代が一種の科学(哲学・社会科学・自然科学等を含むひろい意味の)総合期なることを感じ、フランス百科全書学派或は明治初期に於ける福沢諭吉等の例に倣い学問研究の本流が専ら専門的分科的に分散しているに対し、別に総合的なる方向を開拓する意図を以て五、六の同志(山崎謙、本多謙三等)と謀り、『エンサイクロペヂスト』なる雑誌の刊行を企てたが、出版者その他の事情のため具体化せずして止んだ。超えて昭和七年に入り、岡の友人で従来ヘーゲル弁証法研究に専心していた三枝博音、三枝の友人服部之総との個人的会談が偶々現代一切の科学(「学問」と殆んど同意義)の研究が全く、現実の歴史・社会・技術・自然と没交渉なる観念論的な土台(生活意識)の上に行われて居る点に触れ、一切の科学を総合的に研究するために唯物論哲学の上に立つことの急務なることに就て語った。かくして同年四月以降数回に亘り、戸坂、本多、三枝、服部及び岡の五人が岡の私宅其の他に会合し、かかる研究に着手する具体案を練った。その要旨は最も広汎に各科の専門家(特に自然科学者に重きを措く)を糾合して一つの研究会を組織し、その内部に各部門別の研究会を組織し、機関誌を発行して研究活動の成果を発表すると共に、かかる研究に必然伴わざるべからざる啓蒙(唯物論的な諸科学研究への途をひらく)に資せんとするに在った。そこで先ず「唯物論研究会準備会」を組織するに決したが、当時の世話人としては前記五人の他にソヴィエト同盟の哲学を重視する意味に於て、その方面の造詣深くロシア語に堪能なる永田広志を加え、また長谷川万次郎、小倉金之助両氏の賛同を得た。かくて八月、長谷川、小倉、三枝及び戸坂の連署を以て、各方面の専門家に発起人としての協力を希む旨の手紙を送り、小泉丹、羽仁五郎、舟木重信、兼常清佐等四十名の発起人を獲得し準備会が組織された。そこで九月二十五日、日比谷三信ビル東洋軒に於て在京発起人会を開き(参加発起人十九名)、長谷川を議長とし、規約草案の上程、機関誌の発行、会員の推薦、総会の準備等の議事を進め、即刻発起人の名に於て創立趣意書を起草し、各自の推薦した会員候補者に入会勧誘状を送り、十月二十三日、建築会館に於て創立大会を開いた。出席者約五十名、小泉を議長とし、規約を決定、次の十七名の幹事を選衡委員会によって選定した。
小泉丹 長谷川如是閑 小倉金之助 本多謙三
三枝博音 富山小太郎 丘英通 服部之総
斎藤※(「日+向」、第3水準1-85-25) 戸坂潤 岡邦雄 内田昇三
石井友幸 並河亮 清水幾太郎 羽仁五郎
林達夫
 その席上、一部の会員から研究活動を機関誌上に反映せしめる方法、即ち機関誌所掲の論文は尽く研究会に於ける討論、論究を経たものとするか否か、言換えれば、研究活動の組織統制の問題からひいて従来の所謂左翼文化団体、特にプロレタリア科学研究所と如何なる関連あるか、たとい具体的な関連はないにしろ、本会の研究及び啓蒙活動がかかる団体の研究活動とその本質に於て如何なる関連(相似点及び特異点)ありやという如き質問が提出せられた。準備会時代からの謂わば「創立委員」はこれに答えて、本会創立の契機が全く個人的な友人関係であり、従来ならば一種の同人組織ともなすべきものであるが、時代の現状は特に広汎な領域に亘り、従って広汎な知識を必要とする唯物論研究の如きに対しては局部的・朋党的なる同人組織の如きを全く無力のものたらしめていることを知るが故に、ひろく社会全般にわたって専門家を糾合しようとしたのであり、そしてその目的に対して組織上少しでも左翼文化団体との関連があってはその糾合も不可能な実状である。従って吾々はその旨初めから何等左翼文化団体との関連を意図せず、また希望もしなかったのである。従って本会の構成メンバーはただ専門家であるという資格に於て共通点が認められるだけであって、その専門が千差万別であり、その社会的地位、職業等も多様であり、左翼的傾向に対して有っている政治的関心も区々である。故にかくの如き会員に向って一定の研究方針を与え、研究プログラムを課することは不可能であり(第一かような「方針」は存在し得ないが故に)、よし仮りにかような方針が存在し得、与え得るとしても、その方針に従って会員全体が研究に従事する等のことは個々のメンバーの個人的事情を重視する本会としては到底望まれない。研究活動は、だから最初から組織性を欠いている。その研究成果のみが機関誌に反映されるという如きことも困難な事情に在る。即ち研究組織部と機関誌編集部との統一、連絡も亦或る程度以上に出ることができない。機関誌編集部はその独自の方針に従って、或は研究組織部からその成果の供給を受け、或は特に依頼して会員及び会員外の個人的な研究や寄稿をも求めねばならぬ旨を述べた。
 本会はコップ特にプロレタリア科学研究所の事実上の壊滅直後に創立せられたという偶然の事実からして、何か左翼組織の一層外廓に在ってそれに代行するものではないかという風な臆測も行われ、その臆測の上に立ってこういう団体の発生は左翼的運動の全体から見て寧ろ障害であるという如きデマも行われると同時に、適当なる指令を之に与えて利用すべきであるという如きデマさえもあったということを聞いた。後に研究会関係以外の事件に坐して検挙された某々会員が、成立以来の会の具体的事情に無知な為、甚だ主観的にもかかるデマの或るものに意味を認める如き言をなしたという事実がもしあったとすれば、正に苦笑を禁じ得ないものである。甚だしきに至っては、これはずっと後に耳にしたことであるが、プロ科が本会の成立に反対し、その反対を共産党が抑圧したという如き噴飯に価するデマまで飛んだという話である。だが本会はかかる一切のデマは全く之を冷眼無視して来た。かくの如きコセコセしたことを他に、本会は哲学・自然科学・歴史等、広汎な意味に於ける科学が現在如何に行詰まっているかに不変の関心を集中して来た。学校の講壇から講ぜられている諸科学が如何にいま科学性を喪失しているか、ひいては学生乃至青年学徒の究知心、言換えれば学徒としての倫理性が如何に稀薄になっているか、吾々の多くが学校教師を職としている関係から、現代の学者、学生の研究生活なるもののかかる行詰りが直接には如何なるところにその理由を求むべきかを考察し、その結果、諸科学に対する唯物論の関係が少しも明かにされていないところに在るのではないかという結論に到達し、唯物論研究者の一団(唯物論者も無論含まれる)を組織しようとしたこと以外、本会の本質に何等他意なかったのである。だから多くのデマ、誤解を受けながらそれを意に介しなかったばかりでなく、又何等の対策を講じることさえもしなかったのであるが、それは吾々が政治的であるにはあまりに素人であり、また「政治的」となることによって唯物論研究の促進そのものを妨げることを欲しなかった為でもある。

二、経過


 かくして本会は成立し、その年十一月を以て機関誌『唯物論研究』を創刊し、また十一月二日第一回講演会を保険協会に開催して四百余の聴衆を得た(この際、当時合法団体として存在していたサヴエート友の会の宣伝ビラを会場内に於て頒布したものがあり、これに対して所轄署の厳重な注意を受けたことは場内世話係の不慣れに基づくもので、一大失態であった)。続いてその月二十日、建築会館に於て第一回の総合研究会を開いた。この会合は予め幹事会の決議により、研究内容及び方法に関する意見及び希望を会員から募ったものを参考として組織部案を作製し、これを提出して会合後の研究組織を決定する為のものであった。その結果、研究活動は次のような組織によって行われることになった。
a 自然科学関係
 (1) 自然科学一般研究会
 (2) A部門(数学、物理学、化学、技術学、地理学)研究会
 (3) B部門(生物学、医学、心理学)研究会
 (4) C部門(自然弁証法、自然科学史)研究会
b 「社会科学、文化に於ける唯物論」関係
 (5) 史的唯物論部門研究会
 (6) 歴史研究会
 (7) イデオロギー論(宗教、道徳、芸術、その他)研究会
 (8) 経済学批判研究会
c 哲学関係
 (9) 唯物弁証法研究会
 (10) 唯物論史研究会
 (11) 現代哲学批判研究会
他に総合研究会(ab及びcの共同)、合同研究会(aとb、aとc、或はbとcの共同)、研究年会、公開研究会等。
 この組織により十二月から着々研究プログラムを定めて研究活動に入ったのである。参加者毎会三十乃至四十名、会場は初めは如水会館、学士会館を使用したが、経費の関係から昭和八年以後は研究会事務所(麹町区内幸町一ノ三東北ビル)を充てることにした。
 しかるに創立後僅かに二、三ヵ月、昭和八年二月に入り不幸にして会員中に数名の共産党シンパ嫌疑者並に一両名の党関係者を出すに至ったが、吾々幹事のこの現象に対する認識は普通の官衙・学校・会社・工場等の職場に於てその種の被疑者を出す場合に、かかる種類の職場の管理者が有つところのものと聊かも異なるところはなかったのである。越えて四月に至り、第二回講演会を本郷区仏教青年会館に開催したが、長谷川の開会の辞半ばにして突如臨監の警官から解散を命じられたことは吾々主催者として最も意外とするところであった。それが翌日の新聞紙に報ぜられた為に、寺田寅彦、小泉丹等十余名の有数な専門家会員を失うに至ったことは、本会の遭遇した最初の打撃であった。この解散を命じた当局の意図は今以て吾々の理解に苦しむところであるが、第一回講演会に於けるビラ事件といい、また会員中より二、三名の被疑者を出した直後ではあり、余程慎重に考慮し、事前に当局に対し十全な諒解を求むべきであったのではないかと考える。次に吾々は従前機関誌の発行を書店(木星社、後隆章閣と改称)に委せていたのであるが、その書店の財政状態思わしからず、会財政部に、ひいては会各部の活動に事毎に影響するところ大なるに鑑み、会員中の有志からの少額宛の出資(返済期限一年内外、利子年一割)を得、機関誌を会出版部の手によって発行するようにしたのは六月号からであった。七月号には付録として『学問のすすめ』なるパンフレットを添付し、本会の趣旨を更にひろく表明するところあった。夏に入って、主としてインテリ層の間に全国的に多数のシンパ嫌疑者を出したが、本会員中にも二、三の検束者が出た。被検束者は間もなく釈放せられたが、会は吾々の主観的認識にも拘らず、客観的・社会的認識の点に於て、ここでも亦多少の打撃を免れなかったのである。
 この年第二回総会は十月二十九日、事務所に於て開催せられた。出席者約三十名、舟木重信を議長とし議事を進め、各部の事務的な報告、機関紙原稿料改正、その他についての会員からの議案提出等あり、新幹事の改選に入ったが、この際夏季中に起った事件の影響が現れ、従来の幹事中、相当数の辞任者を出したのは誠に余儀なき次第であった。新幹事名は左の通り
戸坂潤 岡邦雄 服部之総 清水幾太郎
富山小太郎 小倉金之助 羽仁五郎 内田昇三
並河亮 丘英通 林達夫 舟木重信
内山賢次 田代三千稔 松浦喜久太郎 船山信一
相川春喜 堀真琴 永田広志 早瀬利雄
三浦恒夫 石川湧 石原辰郎 中村平三
秋本佐夫 相沢秀一 玉城肇 刈田新七
森宏一 新明正道 喜多野精一 山田章
 一方に於て毎週数回開催し来った研究会は、既に述べたように当初に於ては三十人乃至四十人の参会者があったが、この年の春以来漸次減少し十数人を普通とするようになった。これも主として外部的な条件によるもので、研究そのものは相当レベルも高く、討論も活発に行われたのである。
 次に機関誌の出版は、さしあたり会の対社会的事業として唯一のものであり、又わが国に於ける唯物論哲学の研究に一歩前進的な貢献を為しつつある唯一のものであることは明かであるが、印刷部数三千、販売部数約千、会員その他への配布三百五十という現状に於ては、生産費と事務所経費の一部を支弁し得るに止まり、到底寄稿者に対し謝礼を支出する域に達せず、従って寄稿者を広く会員外にも求め、優秀なる原稿を得て雑誌の内容を充実せしめ、傍らジャーナリズムチックな編集をも敢てして販路を拡張することが急務なるに、その実行が中々困難な事情に在り、そしてこの状態は今日に於ても依然として継続している。
 越えて昭和九年に入る。この年単に研究組織を次のように改めた。
a 研究組織部を自然科学、社会科学、哲学の三部より構成し、その下に部門研究会を属せしめる。但し自然科学部には部門別を設けない。
b 社会科学部をイデオロギー部門、経済学部門及びその他の部門に大別する。
 この年また二、三の会員が検束せられたる事件があり、対外的にも、実質的にも有害な影響を及ぼしたのは遺憾であったが、いずれも会員個人の事情によるものであり、会としては不可抗の現象であった。夏期にはプロパーの研究会を休み、特別研究会を組織し、幾分低い水準に於て比較的基礎的・啓蒙的な方面の開拓に従ったが、秋になって通常の研究会が復活するに及び、研究活動は多少の活気を呈し、参会者数も従前よりは幾分の増加を見るに至った。十一月に開催せられた第三回総会に於て更に研究組織部が次のような構成をとることとなった。
a 自然科学部、社会科学部及び哲学部の三部を単位とし、各の部門別を廃止する(即ちこれによって社会科学部及び哲学部も、従前の自然科学部に傚うこととなったのである)。
b 凡てを総合研究会とし(部門研究会、合同研究会を廃止し)、各部をしてそれぞれ主催せしめる。
c 研究会は毎週一回土曜日に開催する。
d 特別研究会(哲学、経済学等)を常設し、土曜日以外の日に開催する。
 以上の研究組織部組織の改変経路が示すように、本会の研究活動が漸次整理、縮小の途を辿って来たことは否定すべからざる事実である。これは主として会創立後に於ける客観的情勢に余儀なくされて研究力ある会員の漸減を来たしたことを物語るものである。
 一方、財政状態を顧れば、昭和九年は会財政部にとって全く失敗の一年であったといえる。即ち三月頃より前年の出資者中資金の返済を迫るものを生じ、已むを得ず機関誌生産の為の融通資金より返済した為に、忽ち雑誌生産に支障を生じたが、当事者はこの難局を機関誌の発行を再び書店の手に委ねることによって突破しようとした。しかるにこの発行を引受けた大畑書店の経営状態が矢張り思わしからず、発行僅か一ヵ月にして会は又もやその発行を自らの手に取戻す他なかったのである。かくの如き「擾乱」と損害とは全く財政当事者が資金の調達乃至機関誌生産費の融通方法にいま一段の努力を払わなかったことに起因する。
 この年の第三回総会は十一月十一日日比谷東洋軒に於て開催せられた。出席者二十九名、堀真琴を議長として議事をすすめ各部の報告があったが、研究組織部に於ては過去一年の研究成果に就て、山岸辰蔵が哲学関係、相川春喜が社会科学関係をそれぞれ受持って多少概括的な経過報告を試みた。また銓衡の結果選ばれた新幹事は次の通りである。
戸坂潤 岡邦雄 相川春喜 石原辰郎
森宏一 小田一夫 石井友幸 中村平三
徳永郁介 秋沢修二 刈田新七 田中康夫
内山賢次 堀真琴 永田広志 山岸辰蔵
神近市子 平田小六 皆川宗橘 丘英通
小倉金之助 小西栄治 辰巳経世
 この第三回総会後に於て多少の衝撃を与えた事件は、当局の如何なる意図に基くか吾々として窮知すべくもないが、各警察署特高係員が所轄管内の会員を歴訪し、甚だしきに到っては退会を勧告強要することをさえ敢てしたという事件である。元来本会の構成メンバーは主として学校教師、官吏、会社員等のインテリ、小市民層に属するものであり、警察官の単なる事務的な行動に対してさえそれがただ警察の手によって行われたというだけの理由によって、何等かの疑念と危惧とを抱くところの極めて温良なる職場関係、家族関係乃至親戚関係等に囲まれている。従って警察官の単なる歴訪も本人の地位、職場に影響を及ぼすかの如き臆病な誤解を抱き、本人よりはその周囲を驚かし、本人また純良なるインテリなるため、容易くその周囲の意見に服するを普通とする。今度の歴訪事件によっても、その結果四十名に上る退会者を出すに至った。本会としては非常に打撃であるが、かかる衝撃を受け易い層に会員を求める他なき本会としては、これ又不可抗の現象なのである。

三、現状


 創立以来三年、その間種々外部的な影響を受け、それが内部的な擾乱を惹起し、研究活動は創立後三ヵ月位を頂点として漸次不振、縮小、整理の一途を辿り、機関誌活動も未踏の境地に足を踏み入れたというだけで、学問研究そのことの困難の他に、社会状勢からの制限を受けて漸く現状を保持しているだけの状態にあることは自ら認めねばならぬところである。しかし外部状勢の如何なる変化にも拘らず、本会が果さんとする目的は創立当時と少しも異なるところがない。即ち科学や哲学が一部の特権階級に属する学者たちの為のみならず、一般大衆にもっと密接な関係を保ち、各自の日常生活に於ける指導原理を確立する上に助言を与え得る為には、各大学の教室を中心として組織された謂わばアカデミックな学会と並行して吾々自由研究家によって組織される総合的な科学の学会が是非とも必要なのである。科学や哲学の健実な発達の為に必要だということは、換言すれば吾々自身の研究を進める上に於て必要だということである。何となれば吾々の唯物論研究は方法的に言っても一つの総合的研究であらねばならぬ。その為には、個人の書斎裡に於ける孤立した研究では決してその目的を達し得ないからである。吾々の研究は団体的方法により、相互の協力によってのみ達成し得られるのである。
 本会は一学科、一大学に限られない、一個の民衆的学術団体である。反覆強調したように之は何等政治的色彩・傾向を有たないし、又もってはならない。吾々の研究すべき唯物論中の一つ、例えばマルクス主義は、なる程明かに政治的実践を重んずる。併しだからと云って吾々唯物論研究家が各自の研究を政治的実践に結びつけねばならぬという必然性を一向有たないことは理の当然である。そればかりではなく、実際問題から言っても、吾々の一人一人はそれぞれの家族を擁しているところの一市民であり、この生活条件が吾々の研究の基礎的条件となっている。だから吾々が研究目的を実際に果すためには、言葉の十全な意味に於て市民権を完全に保証されねばならぬ。ここに吾々の研究の「政治的」限界が横たわるのである。かくて吾々の研究には学問研究の一般社会条件が不備なる他に以上の如きに類する政治的な限界が他にまだ多々あるのである。吾々の多くは自由主義的意識の所有者であり、従って一般に研究の自由に就いては断然たる要求を有つものではあるが、併し右に述べた政治的限界に就いては之を承認せざるを得ないものである。要するに吾々は幾多の誤解に曝されつつ、生活を脅かされつつ、而も窮屈、困難、不自由なる唯物論研究の為に一生を捧げる決心を有つものに過ぎないのである。何故にそれほど困難を敢てして尚お唯物論の研究は必要であるか。他でもない。ギリシャの昔から哲学は帰するところ、観念論と唯物論との二派に分れるのであるが、処が今日世間の抱く興味は殆んど尽く観念論の側に傾いていて、唯物論固有の真理は著しく無視・誤解されている。インテリ層に於ける「宗教復興」、より知識水準の低い階層に於ける淫祠邪教の流行等はそのわが国に於ける最近のその実例である。政府当局は又その上に立って一種の思想統制を行おうとさえしているかに窮知せられる。しかし若し人間の有つべき基礎的な世界観が、何等の公正な研究をまたずに無批判に取り入れられ、又更にそれを基礎として強力的に単一化され了るならば、人類の理性と情性とを進歩せしめる動力は事実上全く失われることは火を睹るよりも瞭らかである。吾々はこの二つの思想・世界観の対比に於て初めて双方の思潮の価値を科学的に知り得るものであり、そしてかかる比較研究の立場の正しさは古来の思想史の検討によって確認せられていると信ずる。之が本会の建前なのである。重ね重ね注意すべきは、吾々の仲間の凡てが唯物論者なのではないという事実である。寧ろ可なりの大部分の者は自由なる立場に立つことを建前として、この二つの世界観を対比・比較し、その間の複雑な交互作用に於ける夫々の意義を歴史的に科学的に商量する為に、身を以て、いま世に容れられざる「唯物論の研究」に従っているというのが事実である。そして本会にぞくする少数の唯物論者も亦本会の建前に従って、かかる自由なる立場に向って一致協力の義務を課せられているわけである。本会のこの建前は相当徹底的であって、内部に対しても外部に対してもそれ以外の出来合いの解釈を一歩も許すべきものではないのである。本会に入って本会の財政状態も漸次落ち着いて来、今後の経営状態の見通しもつくようになったので、近く一定の予算を各部に振りあて、活溌な活動に這入ろうとしている。研究活動の参加者も少数ではあるが、みな篤学・熱心の徒であり、漸次充実した研究を進めようとしている。本年はおそらく本会にとって意義ある発展と充実の一年であろうと期待している。
以上
昭和十年一月
唯物論研究会
事務長 戸坂潤
東京地方裁判所検事局検事宛





底本:「戸坂潤全集 別巻」勁草書房
   1979(昭和54)年11月20日第1刷発行
初出:「思想月報 第九号」司法省刑事局
   1935(昭和10)年3月
入力:矢野正人
校正:Juki
2012年7月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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