一
天誅組がいよいよ
侍従中山忠光は
「ああ、水が飲みたい」
「水が欲しい」
村とはいうものの、ここは十津川
「川岸まで戻ってみようか」
眼を見合せて
「それはよせ、さいぜん鉄砲の音が聞えた。拙者の考えでは、これをずっと向うへ横に切って、紀州の日高郡をめざすが無事だと思う」
「
「風屋――小森――平松――三本磯と行って、紀州日高郡の竜神へ凡そ十三里」
「その間の
「さあ、それが……」
一同は口を
「おのおの方、あれを見られよ、煙が
沈んだ声で後ろから言い出したのは、あの時以来、何をしていたか、ともかくここまで傷一つ受けずに来た机竜之助でした。
「なるほど、煙が立つ、拙者が様子を見て来よう」
村本伊兵衛というのが出かける。
「よし、
「諸君、仕合せよし」
村本と荷田は欣々として帰って来て、
「山小屋がある、その中には、猟師と見えるのが、
「ナニ、獣の肉を?」
肉と聞いて、うまそうな
「敵の
「いや、そうではないらしい、たしかに
「おしかけろ」
「行ってみろ」
村本と荷田は案内する。九人はそれについて行って見ると、山腹のやや平らかなところを程よくこなして、そこにかなり大きな
「頼む……」
「うあ……」
中で妙な調子の返事がある、面を出したのはまさに猟師に違いない。ずっと前に、はじめて三輪の
惣太は面を出して見ると、都合十一人、
「やあ、お前様方は何だ」
「驚くことはない、これから紀州の方へ通る者だが道に迷うた、暫らく休息させてもらいたい」
「へえ、よろしゅうございます、こんな
惣太は杉板を三枚合せて綴った戸をあけて、中へ一行を
「お前様方は、あの天誅組のお方様でございますか」
「何でもよろしい、そこを締めろ」
「へいへい」
「さあ、猟師、何か食うものはないか」
「別に何もございません、なにしろ、この通りの山小屋でございますからな」
「それは何だ」
「これは
「猪! それは
「お売り申してもよろしゅうございます」
「よしよし、それでは買おう、鍋もそのままにして、味噌か醤油もあるであろうな」
「エエ、ただいま出して上げまする」
思わぬところで意外の
「猪の肉とは有難い――猟師、もっと大きな鍋はないか」
「へえ、こちらにございます」
惣太は、いま炉にかけてあったのより、やや大きい三升焚きぐらいの鍋を押入の中から引張り出して、それから上り口へ寝かしておいた猪の
「大きなやつだな、この辺には、こんなのがたくさんいるか」
「へえ、大分いるにやいますがね、近頃は戦争で鉄砲の音がやかましいものですから、みんな紀州筋へ逃げ込んで、やっと五日もかかって、こいつを一つ
「そうか、なんにしても有難い、
「では、こうして丸切りにして、鍋の中へぶち込んで、ぐつぐつ煮立てて進ぜましょう」
「それがよかろう、よかろう」
惣太はよく働いて猪の肉を煮てやります。気味が悪くてたまらないけれども、ぐずぐず言えば、どんな目に
「おいおい、猟師、黙っていてはいかんぞ、ここに有難いものがある」
磯崎という浪士が、寝ころんでいた自分の
「やあ、それを見つけられてはたまりませんな」
「何だ、酒か」
それだけは隠しておきたかった。惣太がいま猪の肉を煮ていたのは、実は取って置きのその
「うむ、猟師、人が悪いぞ、これを隠して一人でこっそり飲もうなどは
肉の煮える間、一升の濁酒は十一人の口を
それを
それをみすみす人に飲まれて、自分は指をくわえながら、料理方を承わっている
「猟師、猟師」
肉の煮えた時分に惣太の姿が見えなくなっていました。
「猟師、どこへ行った」
呼んでみたけれども返事がない、一同は少しばかり怪しんだけれども、さして気にも留めず、それから寄ってたかって猪の肉を突く。
「猟師はどこへ行った」
「逃げたかな」
「逃げたようじゃ、逃げて
「いいや、訴人したとて恐るるに足らん、藤堂の番所までは六里もあるだろう、ゆるゆる腹を
「よし十人二十人の討手が向うたからとて、かくの如く
「とかく
「古いけれども、それが動かざる道理」
「それにしても、中山侍従殿には首尾よく目的のところへお落ちなされたかな」
「こころもとないことじゃ」
「十津川を
「その通り」
「中山殿はじめ、松本奎堂、藤本鉄石、吉村寅太郎の
「彦根の間者が早くもそれと
「そこを落ち延びると、
「その日の夕暮、またも行手に大敵が現われて、松本総裁は
「さてさて、天命是非もなし、我々こうして永らえているも、
「それも、どうやら望みが絶えたわい――」
このなかでは最も重い、組の監察をしていた酒井賢二郎が言い出でた一語は沈痛に響きました。それは絶望の叫びであって同時に覚悟の決定を
「それに比べては
「いかにも……」
「もはや、いずこへ落ちたとて袋の鼠、飢え疲れて名もなき者の手にかかり、縄目の恥なんどに
「
一同は更に異存がない、異存らしい面色もない。死すべきところに死ななければ、死せざるに
「御同意で
酒井賢二郎は一同を見渡して念を押すと、静まり返った中から、
「いかにも酒井氏の申さるること、道理至極、死すべき時に死せざれば死するに
水野善之助というのがこう申し出でる。自然これが一同の意志を
「拙者一人だけは――」
ヒヤリと
「切腹は御免を
「何と言わしゃる」
「拙者は、まだここで死にたくないから、一人でなりとも生き残って落ちてみるつもりじゃ」
「死にたくない?」
浪士たちの眼から
「ふーん、死に
ほかの浪士は、憤激と
「拙者は死にたくない」
竜之助は冷やかなもの。
「忠義を忘れたか!」
忘れるにも、忘れないにも、竜之助には忠義の心などはないのです。前に申す通り、幕府を助けたいとか朝廷に尽すとかということは、少しも竜之助の胸には響かなかったのです。今、どこへ行っても諸国の浪士が勤王佐幕勤王佐幕で騒いでいるのがばかばかしくてたまらないのでありました。忠義のために腹を切る――楠正成が
「机氏」
酒井賢二郎は
「貴殿一人は死にたくないと言われる、もとより
酒井はまた一座を見廻して、
「申し
彼等は紙と
もはや、机竜之助の方は誰も相手にしなかった。竜之助が、こんなふうにつむじ曲りの人間であることは、この連中がもうよく呑込んでいるものと見えて、一旦は憤激してみたけれど、今は取合いませんでした。
竜之助は黙って、自分だけは
そのうちに、余の十人は、それぞれ辞世の詩歌、妻子へ申し遺すことなどを書いてしまいました。
水野善之助は、二の腕の創 をよく結び直しながら、
「宮の御鎧 に立つ所の矢七筋 、御頬先 二の御腕 二箇所突かれさせ給ひて、血の流るること滝の如し」
朗々と太平記を口ずさむ、それを荷田重吉が引受けて、
「然れども立ちたる矢をも抜き給はず、流るる血をも拭ひ給はず、敷皮の上に立ちながら大盃 を三度傾けさせ給へば、木寺相模 、四尺三寸の太刀の鋒 に敵の首をさし貫いて宮の御前に畏 り……」
木村清太郎は長い刀を抜いてそこへ跳 り出でて、
「戈剣戟 を降らすこと電光の如くなり、盤石 岩をとばすこと春の雨に相同じ、然りとはいへども天帝の身には近づかで、修羅 かれがために破らると……」
「宮の
朗々と太平記を口ずさむ、それを荷田重吉が引受けて、
「然れども立ちたる矢をも抜き給はず、流るる血をも拭ひ給はず、敷皮の上に立ちながら
木村清太郎は長い刀を抜いてそこへ
「
二
猟師の惣太は、
十津川の岸へ出て
「やれやれ怖ろしいことじゃ、命拾いをしたようなもの。しかしこうなってみると、
もう安心と思った時分に、惣太は汗を拭きながら
「や、また来やがったぞ、待てよ、敵か味方か、ここへひとつ隠れて様子を見てやれ」
岩と木立の間へ惣太は
「宇津木氏、その机竜之助とやらは、日頃この天誅組の一味に気脈を通じていたような形跡がありましたかな」
「いや左様なことはありませぬ、聞けば江戸へ下る途中、伊賀の上野にて、これらの浪士の一行に加わり、それより吉野へ出で、いったん
一行の中の大将分と見えるのと話をしているのは宇津木兵馬でありました。
藤堂の
「この山中へ追い込めばもはや袋の鼠である、いずれへ行っても紀州領、帰れば我々の追手が
こういったような話をしてこの一隊が、心して川の岸を進んで行った時に、
「申し上げます、もしあなた様方は紀州様でございますか、藤堂様でございますか、申し上げます」
岩蔭から
「その方は何者じゃ」
「猟師でございます、惣太という猟師でございますが、ただいま悪者を見つけましたから御注進申し上げます、ただいま、私共の
「ナニ、十一人の浪人?」
「ええ、ただいま、酒を呑み、肉を食って休んでおります」
「よく訴人した、案内せよ」
惣太を先に打立たせ、やがてその山小舎のあたりへ来た時分に、前後の様子を
「惣太」
「へえ」
「気の毒だが、その方の小舎へ火をつけてくれまいか」
「焼くのでございますか」
「そうじゃ、あとで不服のないように
「よろしゅうございます、焼きましょう」
「しからば、これを持って行け」
新八郎は、腰にさげたやや重味のある袋を出して惣太に取らせる。
「これは何でございます」
「それは火薬である、その方はそれを持って、なにげなき
「よろしゅうございます、やってみましょう、ずいぶんあぶない仕事ですが、なあに、やってやれないことはござんすまい」
落武者は十一人と数が知れても、それが
藤堂方の討手は小舎を遠巻きにしていると、惣太は心得て、火薬袋を腰にぶらさげて小舎へ戻って来たが、このとき、小舎の中はもう薄暗い。
「皆様方、帰って参りました」
戸をあけて中へ入ると、
「おお、猟師、どこへ行っていた」
「はい、米が切れたから里へ取りに参りました」
浪士らは、深くも惣太を怪しまぬようでした。惣太はおそるおそる炉の傍へ寄って、
「今、米を
いま猪の肉を煮ていた鍋を惣太は取り下ろして、提げ出そうとする途端に、腰に下げていた、さっき新八郎から授けられた火薬袋の紐が解けて火薬はドサリとそこへ落ちました。
「猟師、何か落ちたぞ」
「へえ……」
惣太の唇の色が変ってしまいます、鍋を持った手がワナワナと
「これはその……」
鍋を下に置いて、あわててそれを拾い取ろうとする挙動があまりに
「それは何だ」
「これは――ゴウヤクでございます」
「ゴウヤクとは何だ」
「何でもございません」
拾い取ろうとする惣太の手首を荷田が押えて、
「ちょっと見せてくれ」
「ええ……
「貴様、まだ何か隠しているな、ゴウヤクとは何だ、出して見せろ」
荷田も、これが火薬袋とは知らないが、惣太の挙動があまり仰山なので、ついついそれを取ってみる気になると、惣太は
「こりゃ猟師、貴様はただいまどこへ行った」
「里へ米を買いに」
「黙れ、この近いところに米を売るようなところはあるまい、貴様は
「ど、どう致しまして」
「その袋が、いよいよ以て怪しい」
荷田は力を
「やあ、これは火薬じゃ」
「おのれ!」
一人の浪士は抜打ちに惣太を斬ろうとする。惣太は絶体絶命で、眼の前に転がって来た火薬を一つ
「ソレ合図だ」
遠巻きにしていた藤堂の討手は、意外に早く火があがったのを怪しみながら
この場で即死した二人のほか、焼け
しかし、このうち六人はその
十一人のうち、十人まではこんなことで運命が定まったに
三
紀伊の国、竜神村の温泉場で
山村とは言いながら、客には慣れたはずのこの里で、こんなに犬の吠えるのは珍らしいことです。
時はもう秋に入るのであるから、
犬も、それを心配して空に向って
「犬が吠えてますなあ」
「そうでございます、よく吠えますなあ」
竜神村は、日高川の源、山と山との間、東西二里、南北五里がほどに二三十町ずつを隔てて、八カ所に家がある。その八カ所のうちのここは湯本といって、温泉宿が今では十九軒もある。その十九軒のうちの
もう少したつと客がドッと多くなるが、今のところは、夏と秋との移り変りであるのと、近国に戦乱があるのと、そんなこんなであまり客はないのです。
「まだ吠えてますなあ」
「あちらでも、こちらでも、吠え立ておるわい、どうしたものじゃろう」
二人の客は湯槽から這い上って、隠居の方は軽石で
「何か、悪い獣が山から出てうせはせんかな、狼か、山犬か、
「近頃は、トンと左様な
二人が犬の吠えるのを
「もし、お客様、恐れ入りますが、急にお湯をお上りなすってくださいまし、あの、お調べのお役人が参りましたから」
「ナニ、お調べのお役人が――」
二人は面を見合せて、
「わしらは、別に調べられるような筋はごわせんが……」
湯から上って、もう寝ようとする今時分に事改めて、調べの役人が向うなどとは、今までに例のないことで気味の悪い話です。二人は面を見合せて、
「何でごわすな、いったいお調べというは」
「はい、あの十津川筋とやらから、こちらへ悪者が落ちて参りましたそうで、それがため
「ああ、天誅組の
犬の遠吠えもそれでわかった。
この晩、調べに来た役人というのは
それがために、温泉宿とお客とは大迷惑で、入浴中を引き出されたり寝込みを叩き起されたり――それが引取ってしまうと、大風の吹いたあとのように、胸を
お豊がこうして帳場へ納まっているからには、もう相場がきまったものと見てよろしい――お豊は帳合をしてしまうと、
「年齢三十三四――
痩形 の方、身の丈 尋常、
顔色蒼白く、
鼻筋通り、
眼は長く切れて……白き光あり……」
お豊はハッとしたのでありましたが、
「甲源一刀流の達人――」
「あ!」顔色蒼白く、
鼻筋通り、
眼は長く切れて……白き光あり……」
お豊はハッとしたのでありましたが、
「甲源一刀流の達人――」
人相書を持った手が
「元新撰組――机竜之助」
机竜之助……これでよかった。違う。しかし気にかかるは竜という文字……お豊の胸には急に熱鉄が流れるのでありました。また犬が吠えて、この家の前で足音が止まる。
いま締めたばかりの表の戸をトントンと叩いて、
「もしもし、室町屋さん」
「はい」
お豊は返事をする。
「済みません、夜更けになって」
「ただいまあけますから」
あいにく誰もいなかったから、お豊が立って戸をあけると、殿貝老人が
「今晩は、どうもはや、度々お騒がせ申してお気の毒だが、お
後ろを顧みて老人は、
「十津川からお越しのお武家様でござります」
お豊は
「はい、よろしゅうございますとも、どうぞこれへ」
「さあ、お武家様、どうぞこれへお入り下さいまして」
老人が丁寧に案内すると、
「御免」
と言って入って来たのは、太刀を横たえ、陣羽織をつけた
「あの、これは藤堂様の
「見苦しいところでございまして、それにこんな
お豊は入って来た武士のために敷物を取ってすすめながら、女中を呼び、
「お
「いや、食事はもう済みました、湯に入れてもらい、直ぐに休むと致しましょう」
若い武士は
「お内儀さん、金蔵どのはまだ帰らぬかな、えらい
「まだ二三日は、帰るまいと思われますのでございます」
「そうか。なにしろ近国では、あのような騒ぎ故、早く帰ってくれないと困る」
「左様でございます」
「では、お頼み申しましたよ。それから、あのな、
「ええもう、委細承知致しました」
この時、若い侍は草鞋を解き足を洗い終る。
「さあ、どうぞ、これへ」
お豊は、さきに立って案内する時、いままでは蔭であった行燈の光でよく見れば、まだ前髪立ちの少年で、これは申すまでもなく宇津木兵馬でありますけれど、お豊は、まだこの人には近づきがなかったのであります。
四
温泉寺の鐘が九ツを打つ。
兵馬は、いま枕について、まず頭にうつるものは、いま自分を案内してくれたこの宿屋の若い女房のことでありました。思いなしか、自分がいったん姉と慕ったお浜の
兄の無念を思いやって、歯を
兵馬は純良な少年である――まだ世の
取返しがつかない、悔やんでも及ばない。兵馬は、これが浅ましくてたまらないのです。憎い者の罪は憎めるけれど、憎めない者の犯した罪はどう憎んでよいかわからぬ。兵馬は常にお浜のために、その罪を憎まんとしてかえってその人のために泣きたくなるのです。
兵馬には、女の心の浅ましさがわからない。けれども要するに、自分の身の廻りの言わん方なき苦しき
今、自分の枕元へ丸い行燈を
そんなものがあるわけはないが、兵馬は、あの芝の松原の、お浜の
竜神村の夜は静かで、犬も
お豊は兵馬を二階の座敷へ案内して、廊下を渡って来ましたが、かの人相書のことがどうも気になってならぬ。
帰りがけに、
夜更けての温泉村の風景は、土地に住み慣れた人をさえうっとりさせる。今は草木も眠る
なんの気もなく空を見れば、
東から西に流れる雲、或いは西から東へ流れる雲。それが細長くつづきさえすれば、赤であっても、白であっても、ほかのどんな色でも、色合いにはかまわず、土地の人は一体にそれを「
いま、お豊が見たのも、その「清姫の帯」であって、
お豊は、この土地へ来て、「清姫の帯」を見るのはこれがはじめてですから、ただ、まあ珍らしく細長い雲と思ったばかりですけれども、もしこの土地に永く住み慣れた人ならば、
ことに、東、鉾尖ヶ岳から、西、白馬ヶ岳までつづく「清姫の帯」は、土地の人にいちばん怖れられています。
三年に一度あるか、五年に一度あるか、とにかく、「清姫の帯」が現われることはあっても、この二つの山までつづくということは
今、土地の人はみんな眠っている。おそらくこれを見たのは、お豊一人であろう――お豊の、そんな言い伝えを知らないことは、この村の今夜のためには平和である。しかし実際は、同じ夜の同じ時に、この怪しい雲を見た者が、この竜神村においてお豊のほかに、まだ一人あるにはあったのであります。
その晩、お豊のほかに「清姫の帯」を見たものというのは、ほかではない、この竜神の社に籠る
この修験者は、三年ほど前から、ここへ来ていました。それがお豊と同じ時刻に水を浴びて、
竜神の社があるところは、お豊のいる温泉場よりずっと高い――修験者は雲の起るところから終るところを
日高川の
修験者が扉をあけて社の中へ身を隠してしまった時分には「清姫の帯」は全く消えて、わずかに切れぎれになった笠ほどのが三つばかり、白馬ヶ岳の上あたりに
仮りにこの「清姫の帯」を、お豊でないほかの村の人が見たことならば、それこそ大騒ぎで、さきの修験者が小半時も村の方を見下ろしていた時分に、ほとんど総出で、この社へつめかけて来ねばならぬはずのところを、今まで来ないくらいだから、誰も見た者はないにきまっています。
そうすれば、誰も知らない間に、怖ろしい
修験者は、村の人に頼まるれば、村の人のためにあらたかな
さあ、伝説が真実であったら、この村の頭の上に大悪魔が手を出しているわけであります。それを知っているのは修験者一人、知って知らないのはお豊一人――修験者は天地が八つ裂きになろうとも自分からこうとは言い出さぬ。いまや竜神村の安否はお豊の口一つにかかっているはずなのに、そのお豊は怖ろしい言い伝えの前には無智であるだけに、それだけに大胆でありました。「清姫の帯」は念頭になく、ただ人相書が気になって眠れないのでありました。
五
その次の日の宵の口、室町屋の店先には、竜神街道や
「今年も、よくよく
全くその通りで、十津川騒動の余波を受けた竜神温泉の不景気たらない。
温泉のほかに、この土地では薬種が採れる、
世話役は引っぱり出され、人足は駆り出され、宿屋宿屋には厳しいお触れがある――馬子や駕丁もうっかり客を載せられぬ。
「ねえ、お内儀さん、こちらにおいでなさる、藤堂様の御家中だとかおっしゃるお若いお方は、まだお帰りになりますまいね」
これは
「ええ、朝早くおでかけになったきり……」
「殿貝の旦那から聞くと、こちらへお泊りになった若いお侍は、あれは
「敵を?」
「そうですよ、親の
「はあ、親の敵、なるほど。まだお若いに
「豪いものじゃ。早く見つけ出して、立派に討たせて上げたいものじゃな」
「なるほど、十津川からこの竜神へは、落ちて来そうなところじゃ。しかし竜神といっても、人家はこれ僅かなものにしてからが、あの山、この谷をさがすとしたら容易なものじゃあるまい」
「まあ、当分は御用心のことじゃ。落人じゃとて一人に限ったものでもあるまい、どこにどんな人が幾人かくれていることか、なんにしても今年は災難な年じゃ」
「でもまあ、よく『清姫の帯』がお出ましにならないことよ」
「左様さ、これで清姫様の帯でもお出ましになったら、それこそ竜神村の世の終りだ」
「左様でござんすなあ、清姫様の帯も、もうここ五年がところもお出ましにならぬが、なにぶんにも、このままで無事に済んで下さればなあ」
「いや、もう大丈夫ですよ、清姫様の帯が出るのは、おおかた夏にきまってますからな、もう早や秋の分だから心配はない」
「そうでがすなあ」
しきりに「清姫の帯」、「清姫の帯」という。それが帳場にいたお豊の耳へは妙にひっかかって、今までの無駄話のように聞き捨てておけない気持になりました。
「あの、皆さん」
お豊は帳場の方から言葉をかけて、
「何でございます、その清姫様の帯と申しますのは」
集まっていた無駄話の連中は、一斉にお豊の方を向いて、
「清姫様の帯とは何だとお聞きなさる……なるほど、お前様はこの土地ッ子では無え」
六助はいま
「それでこそ、そうお聞きなさるも無理はない。清姫様というのはね、それ、能狂言にある
「ああ、そうでございますか」
その清姫ならば、どんな他国者でも
「その清姫様の帯が、どうしたのでございます」
六助は話し好きです。今日は人足に駆り立てられて半日をつぶし、エエあとの半日もつぶしてしまえと、ここで無駄話をしているくらいですから、お豊から
「それは、こういうわけなんでございますよ」
六助は
「ようございますか、お
「まあ、それは
六助が、あまり力を入れて話すので、お豊は少し笑いかけると、
「いや、笑い事じゃござんせん、全く以て昔から今まで紀州の女は、執念深いで評判じゃ、いったん思い込むと、それ鬼になった、
六助は
「ホホ、それでは紀州の娘さんは、お
「それは男の出様次第さ、なんでもかでも蛇になるというわけではございませんよ」
「そうでしょうとも、そういちいち鬼になったり蛇になったりされてはたまりませんね」
「そうとも、そうとも、みんな男の出様次第なんだよ。つまり、そのくらい執念が強いのだから、可愛がられると、また無茶苦茶に可愛がられる」
「それも危のうございますね」
「ナニ、この危ない方は、ずいぶん危なくなってもよろしいのでございます」
「ハハ、わしらもそんな危ない目に遭ってみたい」
聞いていたものは一度に笑い出したが、六助だけは大まじめ、
「笑っちゃいけない、大事のことだ、つまり男の出様一つで、鬼にもなれば蛇にもなる」
六助の話しぶりで一座に花が咲いたので、六助も得意です。
「お内儀さん、お前さんの前だが、女というものは受身で、男と比べたら一枚も二枚も割が悪い」
「さようでございます」
「女に
本問題の帯の説明はどこへか飛んで、六助の序論はなかなか大したものです。
「それが証拠にはね、女に欺された野郎は、どうにかこうにかウダツが上るがね、男に欺された女は、どうもまあ十人が九人まで浮む瀬がないね」
「なるほど」
「だから、
「なるほど」
「清姫様などがそれだ。つまり清姫様が悪いのじゃない、男の方が悪いのだ。女に
「やあ、わしらがうちでも、引っ掻いたり、噛みついたり、毎日、清姫様の祟りでとてもやりきれねえ」
夫婦喧嘩をすることにおいて有名な
「笑い事じゃない、わたしは実地に、女の
「お化けを見たのかい、女の」
「ああ、見たよ、女のお化けを
「どこで見たい、聞きたいね」
「わしが、和歌山の御城下のさる
お化けの話。
「その御大家に一人のお嬢様がおありなすった……それはそれは、よい
六助は、自分で
「
紀三井寺の入相の鐘の
お豊は六助の話を、あんまり身を入れては聞いていなかったが、この時、
聞いていたほかの連中も、なんだかこう、少しものすごくなってくる。
「六助さん、まあ、そんな怖い話はよして、今の帯の
お豊は、言葉をはさんで、和歌山の大家の娘が
「なるほど、ではそのお嬢様の幽霊話はあとにして、清姫様の帯の
ようやく話は本問題に入るのである。
「まず――紀州
「なるほど」
六助の物語に
「その庄司のお嬢様を清姫という――一説にはお嬢様ではない、まだ水々しい若い
「お嬢様と後家さんでは少し違う」
「なにしろ、
「安珍――清姫」
「その安珍がまた、山伏のくせにばかに好い男なのだ、そうして熊野
「それが間違いのもとだ」
「清姫様が、スッカリこの安珍殿に打込んでしまいなすった。さあ、そこが紀州女の執念で、食いついたら放すことじゃない」
「やれやれ」
「ところが、その安珍殿というのが、この上なしの
「それは大変だ」
「そこで、安珍殿も弱りきって、ぜひなく、清姫様を
「なるほど」
「そうしておいて安珍殿は熊野へ参詣を済まし、その帰りには、この家の前を笠で
「泊ればよかったに」
「清姫様は
「うむ、うむ」
「角が二本……雪の
「鬼になった、蛇になった」
「角が生えた、毛が生えた」
「そうして、この日高郡をめざして
「なるほど」
「それから安珍殿が、道成寺の大鐘の下へかくされる、追っかけて来た清姫様は、もうこの時は本当の蛇におなりなすった、鐘のまわりをキリキリと巻き上げて、尾でもって鐘を
これで、安珍清姫様の物語のあらすじは一通りわかったから、今度は帯である。
「六助さん、そしてその清姫様の帯というのが、まだどこかに残っているのですか」
「ああ、それそれ、その清姫さまの帯というのは、それとは全く別の話だ。まあ、いま話したようなことは、能狂言を見たり物の本でも見た人は
お豊の聞こうとする本題は、ここまで来てやっと
「それはね、帯というたとて、
「雲のこと……」
「それだけでは、まだわかりますまいね。なにしろ、それぐらいの執念ですから、この日高川の上、日高郡一帯には、まだ清姫様の
「怖いことでございます」
「その怨霊が雲になって、この日高郡の空へ現われる、それ、あちらに見える
「まあ、鉾尖ヶ岳から、白馬ヶ岳まで……」
「そうそう滅多にそんなことはないがね、五年に一度とか、十年目とかに、それが現われる」
「それが現われると、どうなるのでございます」
「それが現われたら、大変だ、この竜神村一帯に大災難が起る」
「それはホントでございますか」
「ホントにも嘘にも、昔からの言い伝えで、その時は、村中の
「その雲は夜でも……」
「夜でも昼でも、それが現われたが最後じゃ……それをいちばん初めに見た者が、あの竜神様へお告げ申して、お祈りをする、それを隠してでもいようものなら、その人には、きっと清姫様の怨霊がたたって、生きながら蛇になる」
「そんなことがあるものでしょうか」
「あるかないか、昔からの言い伝えじゃ。お
六
竜神の
幅が狭いだけに
「おや、お豊ではないか」
「まあ、金蔵さん」
金蔵は旅の姿である、今どこからか帰って来たばかりである。そうしてここへ通りかかったものであります。
「お前、一人でどこへ行くのじゃ」
「竜神さまへ参詣に参りました」
「なんと思って、こんな夜分――まあ信心はどうでもよい、わしと一緒に帰ろう」
「はい……あの」
「お前を喜ばせようと思って、これこの通り和歌山の御城下から、お
金蔵には恋女房である、この女一人を喜ばさんがためにはどんなことでもする、土産をひろげて女の喜ぶ
「金蔵さん……」
「何だ」
「わたし、この竜神さまへ心願をかけましたから、どうぞ、参詣をさして下さい」
「心願をかけたと……何か願いがあるのかい、何か不足があるのかい」
「いいえ、そういうわけではありませんけれど、急に信心ごころが出ました」
「そうかい、せっかくの信心ごころを
金蔵は何でもお豊の言う通りです。
「けれども金蔵さん、神仏への信心は、ついででは罰が当ります、わたし一人で参りますから」
「なるほど、ついでの信心ごころはよくないかな。それでは、お前の拝むのを傍で見ていよう。さ、手をお出し、手を引いてこの石段を上らせて上げよう」
金蔵は手をとって、お豊を引き上げてやろうとするのです。
「ようございますよ、わたしは一人で参詣をして参ります、人に助けてもらっては信心になりませぬ」
「それもそうだ。それでは、わしはここで待っていよう。早く、いや、ゆっくりでもよい、お前の思い通り信心をしてくるがよい、夜明けまででも、わしはここで待っている」
金蔵は、
「そんなら、待っていて下さい、御参詣をして参ります」
お豊は石段をカタカタと踏んで竜神の社へのぼり行く。金蔵は我を忘れて見上げ
竜神の社には八大竜王のうち、
こんな山奥に竜神を祀ることが、奇妙といえば奇妙である――今を去ること幾百年の昔、この地に竜神
竜神の姓はその人以前からあったものか、その人が来て、竜神の社の名によってその姓をつけたものか、その辺はハッキリしません。ハッキリしないところに竜神の秘密がいろいろと附け加えられました。
八大竜王の八という数が、ちょうどこの竜神村の
天にもし清姫の帯が現われた時は、遠からずこの八つの竜王が、八所の谷から、
お豊は事実、清姫の帯を見た――聞いてみれば怖ろしいことである。どうやらその怖ろしいものを見たのは、自分一人だけであるらしい。
お豊が今ここへやって来たのは、その修験者に向って、自分の見たところを
修験者のいる所は本社の右手の高い森の中で、そこまではまだ八町ほどある、そこへ行くまでに大師堂を左にと下れば
大した滝ではありません。幅が五寸に高さが二丈もあるか、それが岩の間から落ちて一
それでお豊は、すぐに修験者のいる護摩壇へは行かないで、その大師堂を左にと御禊の滝まで来かかったわけでありましょう。
月もあるにはある、夜も更けたわけではない。それでも、このところ、この道は決して気味のよいものではありませんでした――
お豊は、その通りにここまで来てみると、もうかなり勇気が出て、
人に見られてはいけぬ、人に見せるべきものではない――しかし、そんな心配はてんで無用、ここへは決して人が来ないのである。
お豊は滝の傍へ進んで、かの水が日高川へ逃げて行く弁財天の小さな
頭の中で、ごっちゃになっていた血の筋が、一すじずつに解けて、すんなりと下にさがって来る、いつまでもこの水につかっていたい――こんな気持になるくらいですから、頭の上の木の
こうして後、森の中の修験者へ行って
その時分、この滝壺へ、また左の方のきわめて細い道、この道を伝わって行っても護摩壇へは行けるのであるが、これはここに籠る修験者のほか
そうして、前の弁財天の
この人は、やっと細道を辿って来たのが、ここはやや平らになったので、杖で行手をさぐりさぐり歩みはじめました。
お豊は、この時も一心ですから、少しもこの人に気がつきませんでした。
七
歩んで来た白衣の人は、しばらく、弁財天の
闇の中に白衣ですから、うすら
「あれ――」
ようやくに気のついたお豊は
「誰かいる――」
白衣の人は、ほとんど聞えぬくらいの小さな声で
してみると、今までお豊がここにいたことは気がつかなかったので、お豊が
「誰かいる――」
と小首をかしげた上で、お豊の方に向き直って眼をつけるかと思うと、そうでなく、白衣の人は、そのまま杖で地面を叩き、極めて
お豊は、ホッという息をつき、大急ぎで引っかけた着物の
「
これは、やっぱり六助がそう言った。
そんなら、たとえ修験者であろうとも、山伏であろうとも、人の眼に触れてしまった上は、もうもう水垢離の信心はフイになった――お豊は気が抜けたが、急に腹立たしさが込み上げて来ます。帯を結びながら、その白衣の男のあとを
この時、お豊の
その、背丈、恰好、肩つきや、身の聳えを見て、俄然として
お豊は、二足三足、小走りにして、追いかけたくらいでしたが、
「もし――」
「ナニ……」
先へ行く白衣の人は、お豊に呼びかけられて、すっくと立ってしまいました。
「あの、あなた様は……」
お豊は、白衣の人の突いた杖にすがるほどに近寄って、下から笠の中をのぞき込むくらいに見ましたが、
「
吉田とも竜太郎ともたずねてみなかったのは、もう一ぺん、
「いいや、修験者ではない」
もう充分である、修験者でなくてもよい、誰でなくても、その声の持主であればよいのである。
「それでは、あの吉田様……」
「吉田?」
かぶっていた笠がこころもち
「竜太郎様――」
「竜太郎?」
「あの三輪の植田丹後守様においでになった――」
「三輪の植田丹後守?」
「間違いはござんすまい」
お豊は、その白衣の
「違う、拙者は吉田竜太郎とやら、そんな人は知らぬ」
「まあ、知らぬとおっしゃいますか――」
疑うべからざるものを疑う、お豊は、しばし
「そなたは
「お忘れになりましたか、豊でございます。三輪の薬屋におりました……」
「豊……お豊……」
白衣の人の姿勢はこの時くずれた。
「うむ、その声に違いはないようじゃ、珍らしいところで会った」
「ああ、左様でござんしたか」
お豊は、その人にすがりつくように身をその
「まあ、あなたは……」
お豊は何から言い出して、あの驚き、喜び、つづいて来る怖れを表わそうかを知らないのであります。
竜之助は、よりかかるお豊の身を両手に受けたが、何を思ったか、
「危ない、このまま別れよう」
背を向けて、そうして杖で
「どうぞ、お待ち下さい」
お豊は、あわててその袂を
「なぜ、そのように
それでも竜之助は振返らない。
「いや、こうしているのはあぶない、拙者の身も、お豊どの、お前の身も」
相変らず寒の水が石を走るような声です。けれども、その冷たい声が今以てお豊の
「それはよく存じておりまする。あの、あなた様は十津川からこちらへお落ちなすったのでございましょう」
「うむ――」
「そうして、あの、あなた様のお名前は、吉田竜太郎さまではございますまい」
「…………」
「机竜之助様とおっしゃるのでございましょう」
「それが、どうして知れた」
「もう、人相書が廻っておりまする」
「人相書が?」
「紀州のお役人や、藤堂様のお侍などが、毎日、あなた様をたずねておりまする」
「それ故、あぶないと申すのじゃ」
竜之助はまた杖を取り直します。
「まあ、待って下さい」
お豊は竜之助の行手にふさがるようにして、
「それに、あの、あなた様を兄の仇じゃと申して
「兄の仇? そんなことは……」
なんと言っても動かない声で、ふっつりと言い切って、行こうとする方へ歩み出すのを、お豊は、その杖を奪うようにして、
「竜之助様、あなたは、あの時のお約束をお忘れはなさりますまい、わたしをつれて、江戸へ落ちて下さるあのお約束をお忘れはなさりますまい、あの時のお約束通り、江戸へつれて逃げていただきたいのでございます」
「江戸へ逃げたい?」
竜之助の
「わしと江戸へ逃げたい? お豊どの、お前は亭主持ちのはずじゃ」
「ええ……」
お豊は竜之助の前へその事情を自白しようとするところでした。それをどうして竜之助が知っていたのか、
「それは余儀ない事情でございます……」
「余儀ない事情?」
「あなたは、あなたには、わたしの心がわかりませぬ……」
「わからぬ」
「どうぞ、下にいて、ここへおかけなすって、わたしの苦しい事情をお聞き下さいまし」
お豊は手近の岩の上を払って、竜之助の手をとってそこへ腰をかけさせて、
「竜之助様、おっしゃる通り、わたしはいま亭主持ちでございます……この温泉宿の金蔵というのが、わたしの夫でございます……その金蔵というのは、西峠の原で、わたしたちに鉄砲を打ち掛けた悪者でございます、その悪者のために、わたしは自由にされているのでございます……
「見えない、見えない」
竜太郎は面をそむけて、
「拙者の眼は見えない」
「エエ!」
お豊は、それを
「お豊――お豊――」
遥かに呼ぶ声は、階段の下に待たしておいた金蔵の声であります。
八
宇津木兵馬もまた、この夜、宿を出て、ただひとりこの竜神の社内へ出て来たのであります。
今日で、この地に留まること三日、まだ机竜之助の
十津川で
兵馬は十津川から追いかけて来る間、山中の
たしかにそれ。そうしてどこかに負傷している。眼を洗っていた――かの火薬の烟に眼を吹かれたのでもあろうかと、兵馬は直ちに想像しました。
兵馬はこれに力を得て、息もつかず竜神まで追いかけ、さまざまの人の手を借りて、今日まで三日さがしたけれども、更にその行方が知れないのであります。
竜神八所を
そうしてかの七兵衛は、お松をつれて近いうち、ここへ来るはずになっていました。
兵馬は、尋ねあぐんでもなお気を落さない。今宵も、この境内を抜けてみようとするのは
「お豊、おお、そこにいたか」
といって、いま思案に
「おや、これは違いました。はて、お豊はどこへ行ったろう」
その旅の男は、兵馬を尋ねる人でないと知って、
兵馬は、それに
「おや、宇津木様ではござりませぬか」
女の方から言葉をかけたので、
「おお、これは室町屋の
その女はお豊でありました。
「どちらへお越しでございます」
「いや、どこというあてもなく、この社内をぶらぶらと、あの奥の森の方まで行ってみようと思います」
兵馬が指したのは、
お豊は、やはり森の方を見上げて、急に不安の色が
「あの護摩壇へでございますか。あれは、あそこへは、おいでにならぬがよろしゅうございます」
「何故に?」
「あれは、この土地で、きつい信心をなさる修験者がおりまして」
「修験者が?」
「はい、その修験者が、あれで護摩を
「修験者が護摩を焚いているから行くなと言われるか」
「はい」
「
「いや、それがこの土地の習いで。
「水垢離をとった上で?」
兵馬は小首を傾けて、
「それほどまでにして信心にも及ぶまい」
彼は、その護摩堂へ行くことを思い止ったものらしい。
お豊は挨拶をして、かの階段を下りて行きました。
兵馬は、またそぞろ歩きをはじめたが、ふと思うよう、あの女は、たった一人で何しに、この淋しいところへ来たものであろう――さいぜんの自分を呼びかけた旅の男は、お豊、お豊と、女の名を呼んでいた、或る種の女にはよくある迷信じみた信心から、ここへ
兵馬はこんなことを考えて、社殿の前へ来ました。そこで社殿の背後を見上げるとかの護摩壇の森。そこへは、行ってはならない、行かないがよいと
兵馬は一文字に森をめがけて進んで行くのでした。無論、かの御禊の滝の水垢離などには頓着せずに――
九
机竜之助が隠れているところこそ、その護摩壇のうしろでありました。
それを隠しておくのは、かの修験者であります。
「御浪人、眼はどうじゃ、眼は」
窓を隔てた次の間から、修験者は、この世の人でないような声で尋ねてみると、
「うむ、よくない、だんだん悪くなるようじゃ」
机竜之助は、
「それはいかん、滝の水で洗うて来たか」
修験者は言う。竜之助は答えて、
「さいぜん、滝まで下って行った、どうやら人がいるようだから、やめにして帰って来た」
「ナニ、人がいた? 滝に人がいたか」
「うむ、一人の女が滝を浴びていた」
「女が? 滝を?」
修験者は言葉をきって、何やら考えているようです。
「修験者殿、雨が降って来たようじゃな」
「左様、雨じゃ」
「なんとなく、木の葉も騒ぐようだ、風も出て来たと見ゆるわ」
「おお、風も出て来た」
しばらく静かであって、室外はポツリポツリと雨の音がする、サーッと風の騒ぐ音もする。
「さて、修験者殿……」
竜之助は、やや改まった声で、
「いつまでもこうして
「待て待て、その眼を充分に
「
「治る、信心一つじゃ」
「うむ――」
竜之助は、また黙った。
「しかし、その信心ができぬ。拙者にはこうなるが天罰じゃ、当然の罰で眼が見えなくなったのじゃ、これは
竜之助は
「眼は心の窓じゃという、俺の面から窓をふさいで心を闇にする――いや、最初から俺の心は闇であった」
竜之助の面には皮肉な微笑がある。窓の外の闇はいよいよ暗くして、雨は相変らずポツリポツリ、風もザワザワと吹いている。
心の闇に迷い疲れた竜之助は、こうしたうちにも、うつらうつらと
ちょうどこの時分は、金蔵とお豊も室町屋へ帰っていようし、宇津木兵馬は、お豊の言い分も
竜之助は
「おお、何を泣いている、お前はどこの子じゃ」
いたいけな男の子、道の真中に立ち迷うて、さめざめと泣いているのを、竜之助は傍に寄って、その頭を
「泣くでない、お前はよい子じゃ」
竜之助の眼はハッキリとこの子供を見ることができるのを、自分ながら不思議に堪えないで、
「もう、日も暮れる。さ、わしが送って行って上げる、お前の家はどこじゃ」
「坊には家がない……」
子供はしゃくり上げて言う。
「家がない? では、お父さんはどこにいる、父親は……」
「知らない……」
子供はやっぱり
「知らない? お母さんは、母親はどこにいる」
「知らない、知らない」
「はて、お前には、家もない、父も母もないのか」
竜之助は、この
「坊や、では、どうしてお前はここへ来た、誰につれられてここへ来た」
「知らない……」
「困ったな、この夕暮に、この淋しいところへ子供をひとり捨て置いて……よしよし、
「いやだ、おじさんは
「怖い? 怖いことはありはせぬ、さあ、このおじさんが里まで抱いて行って上げる」
「いや! 坊は、おじさんは嫌いじゃ」
「嫌い? では誰がよいのじゃ」
「与八さんが好き。与八さんが来るまで坊は、ここに待っている」
「ナニ、与八さん?」
竜之助は、この声を聞いて身の毛がよだつようになります。
「坊や、お前の名は何というのだ……うむ、名前は忘れはすまい、言ってごらん」
「坊の名は
「ナニ、郁太郎?」
竜之助は
「いや! いや!」
子供は竜之助の手を振りもぎって、あちらへ逃げて行きます。
「お待ち……坊や、お待ち……」
竜之助はそのあとを追いかけて、
「郁太郎……お前の父親はここにいる」
竜之助は大きな声で呼びかけたが、郁太郎は小さな首を振って、
「
小さい足どりで一散にかける。
「与八さん――与八さん――」
どこかで返事があって、
「おうい、郁坊やあい」
竜之助は立ち止まって、はふり落つる涙を払った手を見ると、涙と思ったのは悉く血だ。
竜之助は立ち尽して、その子の駈け行く
「おうい、郁坊やあい」
その声は
「与八さあん――」
父を知らず、母を知らずと言った児は、父と母とを一緒にしたよりも強い
「おお、郁坊、ここにいたかい、よくいてくれたなあ」
温かい手で、すぐ抱き取って、
「
「怖い人ではないよ、坊やのお父さんはあの人だよ」
「嘘だ!」
子供は、どうしても承知しません。
「嘘ではない、あの人は坊やのお父さんだけれど、坊やはあの人の傍へは寄れないのだよ」
「でも、坊には、お父さんはないと言ったじゃないか」
「
「お母さんもあるのかい……どこにいるんだい」
「それはなあ……」
「早く、そのお母さんのところへつれて行っておくれ」
「うむうむ、つれて行くとも」
抱き上げた子を、ゆすぶって、与八と言われた男は、竜之助の方へ、そのなんとも言えない慈愛の
「与八――」
竜之助は、あわただしく呼びとめてみました。
「与八――待ってくれ」
足が動かない――
「与八――郁太郎」
声の限りに呼ぶと、二人の姿は見えずして、
「与八――郁太郎」
「誰だ、そこへ来たのは何者だ!」
修験者の地を
十
「誰だい、誰だい――おお痛っ」
金蔵は、しばらく起き上れないで、腰のあたりをさすると、兵馬は丁寧に
「お
「いや、もう大丈夫。お前さんは……お豊ではなかったね」
起き上れないうちから、もうお豊のことです。
兵馬は
「これはどうも――ナニ、もう大丈夫でございます」
お礼もろくろくに述べず、傘を受取ってまたも石段をめがけて上りはじめようとしたが、
「あの、もし、あなた様、この
「女の姿を?」
「はい、この室町屋の女房のお豊という女を」
「ああ、お豊どのならば」
「はい」
「さきほど、この石段を下へおりて行きました」
「石段を下へでございますか」
「いかにも」
「そんなら、行違いに家へ帰っておりはせんか」
金蔵は上りかけた足を石段から引いて、
「それでは、帰ってみましょう」
もと来た方へ引返して大急ぎで駈けて行きます。
兵馬は、そのあわただしさに笑いを禁じ得なかったが、そんなことは別に兵馬の気にかかることではない、気にかかるのはあの護摩壇のことだ――堂の傍へ近寄ると、中から修験者の声で、
「何者だ!」
と呼ばれたが、
こう心をきめて室町屋まで帰って来ると、家は思いのほかヒッソリしていました。雨が降っているから、障子を立て通しにしてあったのをあけて入ると、帳場のわきに金蔵が
「お帰りなさいまし」
と言ったが張合いのない声でした。苦り切った金蔵と兵馬とは、ふと面を見合せると、兵馬は、いま石段から転げ落ちた人が、どうやらこの人らしいと思ったが、そのままにして、自分は
床を
兵馬が二階へ上った時分、金蔵の眼が一層
「喜六、今のはありゃ、うちのお客か」
「へえ、左様でございます」
「いつごろから来た」
「旦那様が、和歌山へお出かけになって間もなく」
「そうか……」
金蔵は番頭からこれだけ聞いて、また兵馬の通って行ったあとを睨みつけて、
「一人か」
「へえ、お一人でございます」
「侍のようだな」
「左様でございます、十津川騒ぎからこちらへお越しになりました、藤堂様の組だそうでございます」
「何しに来たのだ」
「
「兄の仇?」
金蔵は、また苦り切って
「聞いて来い、今のあの若侍に聞いて来い」
突然、
「何でございます、何をお聞き申すのでございます」
「あの若侍が知っている、お豊の行きどころを知っている」
「あの方がでございますか。あの方がお内儀さんの……」
「知っている、聞いて来い」
金蔵は、
番頭は、何のことだか一向わからないけれど、まあ言われる通りに聞いてみようと、怖る怖る兵馬の部屋をさして出かけて行きます。
「そうだ、それに違いない――」
金蔵は、ひとりで歯噛みをしています。
「前髪立ちの
金蔵の眼は、みるみる火のように燃えてゆきます。
金蔵は英雄でも偉人でもないけれど執念深い――執念のためには命を投げ出して悔いない男である。思い込むと蛇のように
「覚えてやがれ!」
この
兵馬が旅日記を書き終って、いま寝ようとするところへ、金蔵がやって来ました。
「御免下さい」
言葉が荒っぽく、眼の色が血走って
「これは、どなたじゃ」
「へえ、金蔵と申しまして、ここの亭主でございます。お
「左様、貴殿が御亭主でござったか、留守中お世話になりました」
「時に、あなた様――」
金蔵は眼に
「お前様のおっしゃるには、わしの女房のお豊は、うちへ帰っているはずでございますが、まだ帰っておりませんぜ」
「なに、
兵馬は金蔵の言いがかりぶりが無礼に見えるので、少し向き直り、
「まだお帰りがない? 拙者は、あの
「いったい、お豊のあまは、何のために、この
「何のためとは」
兵馬が、そんなことを知るはずはないのを、金蔵はからみつくように、
「お前様は、それを御存じであろうと、わしはこう
「なんと、拙者がそれを知っている?」
「そうでございます、あの、人も行かない
「うむ」
「ですから、わしは、お前様とお豊とが、しめし合せて、なにか人に聞かれて都合の悪い話を、あそこで、おやりなすったものとこう思うんだ」
「
兵馬は
「ナニ、滅多なことが、どうしたんだ。さあ女房を出せ、おれの女房のお豊を出せ。前髪のくせに、ふざけたことをしやがる。どこへ隠した、早く、おれの女房のお豊を出せ!」
金蔵は、持って来た
「無礼にもほどがある――店の衆――誰かおらぬか」
兵馬は金蔵を組み敷いておいて、声高く店の者を呼びました。
金蔵は家族や店の者が総出でつかまえて、
父の金六は兵馬の前へ頭を下げて
明日は宿を換えようと心に決めながら浴室へ行く、寝る前に一度、湯に入ることがきまりになっている。そこから浴室までは大分ある。
兵馬は手拭を持って長い廊下をしずしずと歩んで行く。お客が少ないから
怪しい奴! 兵馬は直ぐに泥棒だと感づきました。見のがせることではない――今しも、開け放してあった雨戸の口から外へ出ようとする盗賊の
兵馬であったからよい、ほかの者ならば、けたたましく、泥棒! 泥棒! と鳴りを立てるところです。兵馬に無言で引き下ろされて、泥棒の力のまた
「どうぞ、御勘弁下さいまし、お見のがし下さいまし」
賊は手を合せて拝むと、兵馬はかえってそれに驚かされました。
「おお、そなたは……」
「何もおっしゃらず、どうぞ、お見のがし下さいませ」
「
この泥棒はお豊でした。兵馬には、なんだか実にわからなくなってしまいました。
「これには深い
面をかくした手拭をとりもせずにお豊は、一生懸命で兵馬に見のがしてくれと歎願するのです。
「そなたの夫、金蔵殿とやらは、そなたを探しておられますぞ」
「はい、金蔵に知れますと、わたしは殺されてしまいまする、どうぞ、お慈悲に、このままお見のがしを願いまする」
見逃すべきであるか、
「どうぞ、お見のがし下さいませ、決して、あなた様のお身に御迷惑のかかるようなことは致しませぬ、一生の御恩でございます」
お豊は包みを拾い上げて、戸の外の闇へ飛び下ります。
兵馬はそれを追いかける気になりませんでした。
十一
兵馬はその翌日、宿をかえた――兵馬には、こんなばかばかしいことにかかわっていられない。金蔵が恨もうと、お豊が帰るまいと、別に心に残ることはなかったが、兵馬が去ってから後の室町屋には大変が
その晩のこと、金蔵が
父親の金六も手を負わされた、母のお民も斬られた。
それから、台所に飛んで出て、火を焚いていたおさんどんを
血に
金蔵が血刀を引っかぶって通りへ飛び出して、
「お豊、兵馬」
と名を呼んで二人を求めんと狂い廻る。兵馬はこの時、こんなこととは知らずに神木屋というのへ宿を替えて、その朝は、昨夜のあの
兵馬も宿には大事のものが残してないではない。心にかかるからそのまま引返して湯元へ来ました。
火事は室町屋から出たので、今しも台所を吹き
兵馬は神木屋へかけ戻って、店の若い者と一緒に始末をしている。
「室町屋の若主人が、急に気がふれ出した……」
兵馬は合点した。あの金蔵という奴が
けれども、金蔵は三輪でやらなかったことをここでやるのですから、どのみち金蔵としては、やるべきことをやってしまいました。お豊もまたあの時、金蔵を捨てるはずのを今ここで実行したものですから、お豊がなくなって金蔵の執念が
兵馬は、それを知らないで、ただ無茶な乱暴男もあればあるものと思っています。
この火事は人家の方へ出なかったけれども、それより悪いことは、山へうつってしまったことです。人家の火事は消しようがあるが、山の火事は消しようがない――室町屋の裏手へつづく杉林に、それが燃えついたからたまりませんでした。
目通り何尺、高さ何丈という大木に火のついたほど始末に困るものはありません。登るには登れず、水をかけようにも下からは届かず。
それを防ぐには、伐り倒すばかりであります、と言って、それほどの大木を
いよいよ杉山に火がうつった時、
人が手を束ねて見ていれば、火はいい気になって延びる、この山を焼き抜いてあの山へと、遠慮なく延びる。
それでも竜王社の方面は消防に力をつくしたために火の手が鎮まったが、これはかえって一方に火勢を追い込んだようなもので、山の手に向う火の手は更に一層の勢いを加えることになりました。木がなくなるところまで焼け抜いておのずから止まるか、そうでなければ、天の池が乾くほどな大雷雨でも
「遅い、遅い」
と冷淡に言ってのけた。
「昨夜、人知れず、
さては、女の身でこの神聖な竜神の霊場をけがした者がある。その女を
土地の人は
その女というのは誰――火を出した室町屋の女房、昨夜から行方知れずになったというお豊が怪しい。お豊はどこへ行った。室町屋の内儀はどこへ行った。
兵馬はこの時、ぜひなく神木屋にとどまって火を心配していた――今日あたりは七兵衛お松がこの地へ着くはずであるのに、あの火が道をふさぎはすまいか。
昨夜から降ったり止んだりしていた雨が、この時分になって、だんだん大降りになってきた。
その翌朝、山火事はいよいよ盛んに燃えている。雨もどんどんと降りつづいている。お豊を探すべく八方に飛んだ人がまだなんとも報告を
「河原に人が殺されている」
それを見つけたのは里の子供でした。村の人が駈けつけて見ると、昨夜来の雨で日高川の
「室町屋の金蔵さんだ!」
「斬られてる!」
それはたしかに金蔵である、斬られていることも確かである。
宇津木兵馬は宿の人に頼まれてその検視に行った。
兵馬が金蔵の
右の肩から真直ぐに、それは力任せにやったのでも何でもない――冷笑しきって軽く一振り、
十二
眼の前にあっても、時が
今、ここに竜神村の災難、七兵衛やお松がどうしてここへ来るかを知らねばなりませんけれど、兵馬はそれを顧みている
竜之助の落ちて行く方面は、日高川に沿うて四十余里の屈曲を塩屋の浦まで出て、船でどちらへ行くか、または
兵馬が竜神村を立った時も、まだ竜神村の火は消えませんでした。