一
伊勢の大神宮様は日本一の神様。
伊勢の人は
「伊勢乞食」という渾名がどこから出たか、それにはいろいろの説があります。第一、参宮の
そんなことはどうでもよろしいが、伊勢の国に乞食の多いことは争われないので、そうしていま申す
源氏車や
それも寒風の松並木のあたりへ来ると、グッと静かになって、昼の人出はどこへやら、
「夕べ、あしたの鐘の声……なんだかお玉さんのようだねえ」
並木の蔭に立ち止まって、後ろを振返ったのは、片手に三味線を包んだ袋を抱えた、まだ年の若い女の子であります。
「どうしたのでしょう、呼んでみようかしら、お玉さあ――ん」
お玉さあ――んという声が並木の
「ほんとに、どうしたのでしょう、わたし淋しくなる、もう一度、呼んでみましょう」
二
古市を知るものは伊勢音頭を知る。
「お玉さあーん」
「あいよ」
女にしてはキッパリした声で、向うの闇の間から返事をして、駈足の気味でこちらへ来るのは、やっぱり同じ年頃の娘姿であって、
「何をしていたの」
「
お玉はお杉の立つところへ追いついてから、少し息を切って、それから二人は肩を並べながら、松並木を東へと歩んで行くのであります。
「今日は少し遅いよ、父さんが怒るだろう、かまやしないけれど」
お杉はこう言って空を仰ぐと、その頭の上を驚かすように、
「まだ、烏が飛んでいるよ、
お杉は口が軽い、歩きながらも何か言ってみねば納まらない
「あの烏はどこへ行くのでしょうね」
お玉は黙って、烏の過ぎ行く方をながめていたが、
「
「鳥は古巣へ帰れども……お玉さん、お
「そうですねえ」
お玉は、にこやかに笑った。
「けれども陰気だねえ。わたしはあんな陰気な歌よりは、投げさんせ、
お杉はお玉の
「それでも、お玉さんがあの歌をうたうと、お客様がみんな感心してしまうのだからね。わたしだってなんだか悲しくなって、気を引かれてしまいますわ」
「今は
お玉は申しわけのように、これだけを言った。それから二人の間には、話の
「あれ、ここは
「あ、そうでしたねえ、さよなら」
お杉とお玉とはここで別れる。お玉に別れたお杉は、スタスタと
お玉は少しのあいだ立ち止って、お杉の行く後ろ影を見送っていましたが、
「わたしも急ぎましょう、今日は帰ってから
前より少し急ぎ足になって、例の黄八丈の大振袖の前を胸に合せて、袋に入れた三味線を
三
それから、いくらもたたない後、お玉の姿を古市の町の通りで見かけることができました。
姿は前と同じですけれど、今度は笠をかぶらず、笠の代りに頭から手拭をかけて後ろへ流し、
「ムクよ、もうここでよいからお帰りよ」
やさしい言葉をかけられたのは、拝田村の
ムクは、お玉に頭を撫でられながら尾を振ってその
「今夜は、もう家へ帰ってお休み」
お玉は、ここから犬だけを帰して、自分ひとり、めざす
いつも
「ムクや、お帰りというのに」
少し言葉を強めて叱るようにして追ってみたが、犬はどうしても帰ろうとしませんので、お玉は石を拾って打つ
「困るねえ」
お玉は仕方なく、追わんとした犬に導かれて、古市の町の
「あれは間の山のお玉ではないか」
町の人は早くも、お玉の姿を見つけ出して、
「お玉に違いない、お玉が、また
土地の人は、よく知っていて見逃さない。お玉が通ることが、特に町の人の眼を
「あれ、案の
お玉を
古市の町には、茶屋があり遊女屋があり見世物もあり芝居もあるのに、そのなかで、通りかかるお玉の姿が人の口の
そうして、お玉が行けば、間の山節を唄いに行くものと思われ、お玉が行くと言えば、ムク犬が跟いて行くもののように、土地の人には覚えられております。
「お玉可愛や、ムク犬憎や」
誰やらが言い出したのを、子供が覚えて、
「お玉可愛や、ムク犬憎や」
と言って、ムク犬を見かけると、最初は棒を出したり石を投げかけたりしたものでしたが、
「そんな
と言って、お玉がいつもムク犬の前に立ち
そうかと言って、ムク犬がひとりでいる時には、子供はかえってそれに近寄ることを致しません。
ムク犬はこの
お玉はよく間の山節をうたい、ムク犬はよくお玉を守る。
この二つの主従は、いまや古市の大楼、備前屋の前へ来て立ちどまりました。
四
古市の大楼には
「これは
備前屋の主人は、この五人連れの若い侍たちを見て、こんなふうに
その頃、どこの色里へ行っても、やはり江戸の者がいちばん通りが良かったそうであります。諸大名の
音頭はいま一踊り済んだところで、上の
「間の山節はまだ見えぬかな」
中程にいた
「はい、もうこれへ参りますはずでござりまする、どうぞ、もう一つお過ごしあそばされませ」
名物の伊勢音頭を見たから、その次にこの五人連れの若い侍たちは、もう一つ名物の間の山節を聞こうというのでありました。それを承わった備前屋では、使を拝田村へ立てて、お玉を呼びにやったのであります。呼びにやった時からは、もう大分たっているから、来なければならないはずなのであります。
「遅いではないか」
「昼のうちは間の山へ
間の山節の来る間を芸妓や仲居が取持っているのでありますが――お客様が待っているほどに
「お杉お玉も、昔からこの土地に幾代もございまして、今のお杉お玉はその幾代目に当りますことやら、わたくしどもでさえよく存じませぬが、お玉だけは、今までのお玉とお玉が違うのだそうでございますよ」
万のに似た仲居は、気が進まないながら、客の問いによって、お玉の来歴を少しばかりでも説いて聞かさねばならぬ義務があるのであります。
「声がよいのと、三味線が上手なのと、
「いや左様ではあるまい、間の山節を昔ながらの調子で聞かすものは、
「その、なんでございます、おっしゃる通り間の山節というのを昔の型で聞かすというのが、あの子の売り物でございます、それは、母親から
かざり車や、御車 や、御室 あたりの夕暮に、花の顔 みるたのしみも……
歌でさえ、この通り花やかなものでございましょう。それにあなた、あの子の唄う間の山節の文句と言ったら、
夕べあしたの鐘の声、寂滅為楽 とひびけども……
こうなんでございます、まるでお経ではございませんか、合の手にはチーンとか、カーンとかお「うむ、それそれ、その夕べあしたの鐘の声というのよ、それがほんものの間の山節ということじゃ。今は
「左様におっしゃれば、そのようなものでござりましょう、殿様方もさだめて左様なお物好きでいらせられればこそ、お江戸の美しい花にもお見飽きあそばして、古市くんだりまでこうしてお
この仲居、なかなか口が達者です。この時、程近いどこかの大楼でまた賑かな伊勢音頭の
「ヨイヨイヨイヤサ」
五
「今晩は、間の山の玉でございます、有難うございます」
ムク犬を連れたお玉は、ちょうどこのとき備前屋の前に立って、片手で源氏車の
「あ、お玉さんかえ、お客様がお待ち兼ねですよ」
奥へ沙汰をすると、例の万のに似た仲居が出て来て、
「さあ、お玉さん、裏口へお廻りよ、いつもの通りあの石燈籠の蔭からね。中から木戸をあけて上げますよ」
「ハイ、有難うございます」
万のは
「間の山のお玉が参りました」
仲居の万のが
「今晩は、間の山の玉でございます、有難うございます」
縁側の前で、お玉は正客の若侍の方と、取巻きの連中の方へと御挨拶を申し上げます。
「間の山のお玉か、待ち兼ねていた、さあこれへ」
黒羽二重の若侍は、気軽に座敷へ呼び上げようとすると、お玉は遠慮をして縁より上へは
「早う、お玉の席をこしらえてやるがよい、その
お客の方から催促されても、お玉もそれきり上へあがろうともしなければ、取巻連中もまた客から言いつけられたように、席をこしらえてやろうとする
「いいえ、こちらでよろしゅうございます、こちらの方がよろしゅうございます」
お玉が辞退しますと、それを
「お玉さんの勝手なのだから、あそこへ敷物を敷いておやり」
「承知致しました」
万のより一段下の仲居は、もうちゃんと心得たもので、
「お玉さん、席が出来ました」
「有難うございます」
お玉は大事そうに三味線を抱えて、草履を
ここにおいて、先にお玉を座敷へ上げようとして席のテレかかったのを不思議に思った若侍たちは、
「ははあ、なるほど」
と感づきました。お客がお玉を聞くには、いつでもこうして聞くのである。楼でお玉を聞かせるには、いつでもこうして聞かせるのである。結局、お玉は縁より上へはあがれぬ身分か。
お玉はおもむろに袋から三味線を取り出しました。黒ずんだ色をした三尺の
帯の間から
「
万のは
「あの
侍たちの間での
「後ろにあるのは、
「ははあ、なるほど」
先刻の黒羽二重のは、何かまた一人で感に入って膝を
「趣向だな、座敷へ上げないで庭で聞かすところが趣向だわい」
先刻、お玉が座敷へ通されないことを、身分が違う、つまり
夕べあしたの鐘の声
寂滅為楽と響けども
聞いて驚く人もなし
ここへ合の手が入る。寂滅為楽と響けども
聞いて驚く人もなし
花は散りても春は咲く
鳥は古巣へ帰れども
行きて帰らぬ死出の旅
し――で――のたび、人を引張って死出の旅へ連れて行きそうな鳥は古巣へ帰れども
行きて帰らぬ死出の旅
この時、いずれかの大楼ではまたしても
「ヨイヨイヨイヤサ」
遠くでは賑かな音頭、この座敷では死ぬような間の山節。
この死ぬような間の山節を、死ぬような
中庭から向うへ張り出した中二階の一間が、
間の山節が始まる前に、この一間で墨をすり流して、巻紙をもうかなり長く使って、
古市の遊女は、
ここにいま文を書いている女も、病に悩む女でありましたが、素人風がこうしているとまでに取れないほど、それほど女の
朱塗りの
夕べあしたの鐘の声
寂滅為楽と響けども
聞いて驚く人もなし
書きさしていた筆をハラリと落して、じっと耳を澄ましていると、お玉の寂滅為楽と響けども
聞いて驚く人もなし
花は散りても春は咲く
鳥は古巣へ帰れども
行きて帰らぬ死出の旅
と来たものです。鳥は古巣へ帰れども
行きて帰らぬ死出の旅
「ああ、間の山節が聞える、死にたい死にたい、いっそ死んでしまおうかしら」
ついと立って障子の破れから庭をのぞいて見たが、
広間では五人づれの若侍が、風流の気取りで聞いている。取巻きの連中は、
野辺より彼方の友とては……
この時、表に待っていたムク犬が、低くムク犬の吠える時は、お玉にとっては、きっとそれが何かの暗示になります。
二声目を聞こうとしたが、それはそれだけで納まって、それからムク犬は吠えませんでした。
お玉は、いくらかの紙包を貰って備前屋を出た時分は、もう夜もかなり
「ムクや、ムクはどこへ行ったろう」
お玉は呼んでみましたけれども、ムク犬は声も形もあらわしません。ムク犬が、お玉と一緒に来て、一緒に帰らぬことは今までにないことであります。ことに
「ムクや、ムクや」
呼びながら、この備前屋の裏の方へ廻ってしまいますと、
「もし」
暗いところから声があったのは、尋ねるムク犬の声ではなくして、細い女の声でありました。
「はい」
お玉は足をとどめますと、裏の木戸をそっとあけて、
「お前様は、あの、お庭で間の山節を唄いなすったお玉さん」
「左様でございます」
「お見かけ申して、お頼み申したいことがありまする」
「何でございますか、
「委細はこれに
夜番の
女は一封の手紙と、金包とをお玉に渡してしかじかと頼んだきりで、ふいと木戸を締めて身を隠してしまいました。
お玉は、そこはかな物の頼みようと思いましたけれども、遊女衆などの間には、こんなことはないことでもない、あれほどの頼み、引受けて宛名のところへとどけて上げるも
「御安心なさいませ、きっとお届け申し上げますから」
「ムクや、ほんとにムクはどうしたのだろうねえ」
お玉はいま、女から受取った手紙と金とを懐中に入れて、しきりに犬を尋ねて、備前屋のまわりを廻ると夜番に
「間の山のお玉さんではねえか」
夜番の男もまたお玉を知っていました。
「はい」
「なんでこんなところをウロウロしているだ」
「ムクが見えませんから……夜番さん、ムクをどこぞで見ませんでしたか」
「知らねえ」
「左様でございますか」
お玉は夜番にまでムクのことを聞いてみたが、やっぱり知らないというので失望して、とうとう備前屋の
いくらムクを尋ねても、ムクは声も形も見えませんから、お玉は
来た時と同じように、町の隅の方の人目にかからないようなところを、手拭を頭から
今宵はお客様の
「お玉が帰るじゃないか」
「お玉が帰るよ」
「ひとりで帰るねえ」
「ムクがいないや、ムクを連れないでお玉が帰る」
「送ってやろうか」
「危ない」
「でも一人で拝田村まで帰すのはかわいそうだ」
「ムク犬の代りをつとめるかな、犬の代りに狼、送り狼」
「まあ、ムクかえ、どこにいたの、どこを歩いていたの」
お玉は嬉しくてたまらない、腰を
「何だえ、お前、何か啣えているね」
頭を撫でながら、ムクの啣えているものを取りはずして見ると、それは思いがけなく一組の
「おや、結構な印籠が……」
お玉はそれを、町の方へ向けてなるべく明るいようにして、仔細に見ると、
「こんな結構な印籠を、お前どこから持って来たえ、拾ったのかえ、どこで拾ったの」
犬は神妙に首を
「これは
お玉は、その印籠をまた懐中へ入れますと、前に備前屋で女衆から頼まれた手紙と金包とに気がついて、今宵は懐の重いことをいまさらに感づいたようでした。
「おや、足の方は泥だらけになって。それにお前、
大した怪我ではないが、ムクはたしかに怪我をしている。
「洗って上げるからおいで、そこの流れで洗って、
六
お玉が帰ってからその晩は無事でありましたが、朝になると、備前屋の楼上で二つの大変が持ち上りました。その一つの大変は、ゆうべ音頭を見て、間の山節を聞いて、酔うて寝た五人づれの侍が朝起きて見ると、一人残らず懐中のものを奪われていることでありました。
さすがに腰の物だけは残されてあったが、懐中物の全部と、印籠までも
あっと
お客の方が困るばかりでなく、店の方ではなおさら困ります。伊勢の古市のこれこれへ行って盗賊にやられたという
「あればあったでよし、なければないでよいから、表沙汰にしてもらいたくない」
彼等には彼等の身分というものがあって、表向きにされた時に、かえって金銭には換えられない恥を取るという
別段に他から賊の入った様子が見えないこと、これが第二の不思議であります。
備前屋の主人は、家族から雇人、芸妓遊女の
「どうもなんとも困ったことで、全く以て申しわけがないことじゃ」
備前屋の主人が
「昨夜わしが夜番をして、こちらの裏の方を廻ると、あの間の山のお玉が、その
「あ、お玉……」
と言って、主人を囲んでそこに集まるほどの者がみんな眼を見合せました。宵からここへ出入りをした者で、ここに
「お玉がなにかえ、この家の裏の方を……」
「へえ、お玉さんが裏の
「ははあ、お玉がかい」
一同は、お玉の名を言い合せてその眼が怪しく光りました。その時に、
「タタタ大変でござりまする、離れの
仲居の一人が第二の大変をその場へ知らせて来たのであります。
「大変とは?」
「あの離れの中二階で、お
「どうして?」
仲居の女はこうしてと言って、血相が変って口が
「お登和が咽喉を突いたと!」
盗賊は大きくとも物品に関することであるが、ここに報告されて来た第二の大変は人命に関することでありました。
「みんな早く……」
主人は先へ立って飛んで離れの中二階へ来て見ると、
「ああ、やったな、危ないとは思ったが、とうとうやったな。早く脈を見てみるがいい、気味の悪いことがあるものか、血だ、血だ、血で
「あっ!」
主人が
「飛んでもないことをしてしまった」
「
それが
今度こそは生き返る心配はありませんでした。遺書は主人へ宛てた一通だけで、ほかにはどこを探してもそれらしいのがありません。
よくよくあの歌につまされたものでしょう、遺書の書出しに記してあるのは、
花は散りても春は咲く
鳥は古巣へ帰れども
行きて帰らぬ死出の旅
鳥は古巣へ帰れども
行きて帰らぬ死出の旅
七
お玉の家のあるところは、拝田村の中の一部落であって、その部落は特殊の
因縁つきの部落とは、あからさまに言ってしまえば「
一口に穢多とはいうけれども、ここの穢多は
人間の祖先と猿と同じいということは学者がいう、蠅が人間の先祖だということはここよりほかには聞かないこと。
けれども、それはわざとそんなことを言って軽蔑したがるので、蠅はすなわち
隼人をその後には
それですから、お杉お玉のうちにはどうかすると抜群の美人が出る。「好色伊勢物語」という本に、
「その容姿麗 はしくして都はづかし、三絃 胡弓 に得 ならぬ歌うたひて、余念なく居りけるを、参詣の人、彼が麗はしき顔色 に心をとられて銭を投掛くること雨の降り霧の飛ぶが如くなるを、かいふりてあてらるることなし」
お杉お玉が旅人の投げる銭を受けるのは、三味を弾くことの練習と一緒に、銭を受けることの練習をも子供の時分から精を出していますから、天性
水になりたやお伊勢の水に
お杉お玉が化粧 の水
こういってあやかりたがるほどのお杉お玉が
近寄れるけれども、触れることのできない美しさ、美しい
今のお玉の母が、やはりこの部落から出て、お玉を勤めている間に、この苦しい瀬戸を越えて今のお玉を産み落したのでありました。そこに悲しい物語があって、今のお玉は現在自分の父が何者であるかを知らないのでありました。お玉の母はその後、やはりこの部落の中で味気ない一生を早く終って、間の山の正調と、手慣れた
お玉は今朝、いつもより早く起きて朝飯を済ましてしまい、
「ムクや、これからお役所へ行くのだよ」
昨晩ムクが
字が読めなくっても、今までに不自由を感じたこともないし、それを恥だともなんとも感じたことのないほど、それほどお玉は周囲の狭い天地で育っているのでありました。
「まあいいわ、この印籠の方だけ届けておいて、この手紙の
お玉は手紙だけを懐中へ入れて、次にそれと一緒に頼まれたお金。
「お金のことがいっそう心配だわ、お金を預かっているのはなんだか心持が悪い」
その時に、
「お玉ちゃん」
子供の声。
これは、ついこの隣りから、同じ間の山へ
「金ちゃんかえ、おや、もうお仕度が出来て。お母さんは」
垣根の外にお母さんがいる。
「お玉さん、お早う」
「お早うございます。おばさん、わたしはいま出がけに、お前さんのところへちょっとお寄り申そうと思っていたところなの、まあお掛けなさいまし」
お玉は包みかけたものをそのままにして、金ちゃんの母親を縁側へ招いて、
「おかみさん、昨晩、わたしはこんな拾い物をしたのですよ、まあごらんなさい」
包みかけたのをワザワザ解いて、ムクが
「おやおや、たいそう結構な印籠――
「あんまり結構な品ですから、お役所へ届けなくては悪かろうと思いまして、それで今日は少し廻り道をして山田の方まで……」
お玉は、昨晩これを拾った始末を話そうとしている、金ちゃんの母親は目をすまして、その結構な印籠をながめていると、この時まで
ムク犬が竹藪を見込んだことは、なにか仔細がありげで、お玉にはそれが気がかりにならないことはありませんけれど、話しかけた筋は通さねばなりませんから、
「そういうわけで、わたしは山田へ廻りますから、もし
お玉が、金ちゃんの母親を呼び込んだのは、この
「へえ、よろしゅうございますとも」
この時に、竹藪の中を見込んでいたムク犬は、急に起き上ると
「どうしたんでしょう、ムクが落着かないこと」
お玉もまた竹藪の中を見込んで思案顔。
「狐が出たのでしょうよ」
「そうかも知れません」
ムクはしばしば狐を取り、狼を追いかけることがありました。ムクが出動をする場合は、大抵この二つの場合でありましたが、その狐も今は絶えてしまったようだし、狼もムクを怖れて、幾年にもその影を見せませんから、この村には、今ムクを起すべき非常のことが一つもなかったのです。無論、それと知ってこの村あたりを犯す盗人の
「狼が来るはずはありませんね」
金ちゃんの母親も、ムクの走り込んだ竹藪を見込んで
「ムクや、ムクや」
お玉は縁側へ立ち上ってムクを呼びますと、しばらくして物を
その木戸口から今、一人の人が入って来る、よくこの辺に見える薬の行商
行商体の男は、タジタジとしましたけれども、犬をなだめるようにして、お玉のいる方へ近寄って来ようとします。それをムクは近寄らせまいと肉薄しているようにも見えます。さすがにまだ噛みつきも、食いつきもしませんけれど、ムクの気勢を見れば、絶えて久しく現われなかった狼を追う時の眼の色が現われておりますから、
「ムク、人様を吠えてはいけませんよ」
お玉はこっちで犬を制したけれども、ムクは決して柔順になりませんでした。その男が一歩進めば一歩進むほど、ムクの気勢が荒くなるのでありました。
いかなる人が、どんな異様な
「この犬は気が違ったのではないかしら」
お玉も来る人に気の毒でたまらない。
「お早うございます」
「お早うございます」
人間同士はあたりまえの挨拶をしたけれども、犬は人間の間に立ち
「たいへん強そうな犬でございますねえ」
行商体の男はお世辞を言って、縁側へ腰を下ろしてしまいました。
「いつもこんなに吠えるのではないのですけれど……ムク、なぜそう聞きわけがないのです」
お玉は言いわけをしたり、叱ったりしながら、いま金ちゃんの母親に見せた印籠やなにかを包みに
「ちょいと拝見、結構な印籠でございますね」
行商体の男が手を差伸べると、なお
「ちょっ、どうしたと言うんでしょう、あっちこっちで吠え廻ってさ」
お玉はムクの吠えている裏口の方へ身をよじらせて、
「ムクや、ムクや」
烈しく吠えていたムクはこの呼び声で、また
「
「そうでございましょう、松がよく出来ておりますね」
お玉は、行商体の男が見たいというのだからその印籠を見せると、男はそれを
「それに紐と言い、根付と言い、安い品じゃございません」
「うちなんぞにある品ではございません、拾い物でございますよ」
「拾い物、とおっしゃると、ちと心当りがありますね、どちらで拾いました」
「昨晩、古市で」
「古市で……そうでございましたか。あのもし、あなた様は間の山へおいでになるお玉さんというのではございませんか」
「はい、私がその玉でございますが」
「そうして昨晩、備前屋へお
「へえ、あそこはたびたび
「昨晩もあの、おいでになりましたか」
「お伺い致しました、その帰り途にこの印籠を拾いましたものですから、これからお届けに参ろうと存じます。そうして、あなた様にお心当りとおっしゃるのは……」
「まあ、騒々しいことといったら」
お玉は、どうにもムク犬が制し切れないので困っていると、行商体の男は、ジロリとお玉の
「お玉さん、お前さんこのお家に一人かね」
なんだか
「ええ、ここは一人、向うが叔父の家」
「そうしてなにかえ、ゆうべ備前屋から帰りに連れがあったのかえ、それとも一人で仕事をして帰ったのかえ」
「連れがあったかとおっしゃるのは……」
「とぼけるな、お玉御用だ!」
懐ろから飛び出した
「あれ――」
お玉の細い腕を逆に取る時、雷電の一時に落つるが如く飛び
「まあ、どうしたと言うんでしょう、わたしにはわからない、わたしにはわからない、わかりやしない」
お玉はあまりのことに、飛び上って、突っ立ったきりです。
行商体の男の有様こそ
「御用」
表でこの騒ぎを知るや知らずや、今度は
「わたしは何も……わたしは何も、お役人様に召捕られるような悪いことをした覚えはありません、それだのに、何もわけをお話し下さらずにわたしを
お玉はオロオロ声で
「わたし、逃げるわ、何も悪いことをしないのに捉まっては合わないから逃げるわ、あとでわかることでしょうから逃げるわ」
お玉は無分別に、
「それ、お玉が逃げる、逃がすな」
お玉が逃げ出したと見た捕方が追いかけようとする、
「あっ」
「憎い犬め!」
次のが十手で一撃を加えるのを、その手を
「斬れ斬れ、叩っ斬れ」
あまりの猛勢にぜひなく
獣にも攻める獣と守る獣とがあります。山野における猛獣はすべて攻める獣であって、もし
それがために、お玉は捕えられずに逃げ出すことができましたが、逃げ出したことが、お玉にとって幸か不幸か、それはまだわかりませんでした。仮りにも役目で向った人たちに、かかる猛烈な正当防衛を試むることの理非は、悲しい
八
十七姫御 が旅に立つ
それを殿御 が聞きつけて
留まれ留まれと袖 を曳 く
それで留まらぬものならば
馬を追い出せ弥太郎殿
明日は吉日 日も好いで
産土参 りをしましょうか
これはしごくそれを
留まれ留まれと
それで留まらぬものならば
馬を追い出せ弥太郎殿
明日は
「また来やがったな」
とんぼ口から飛び出したのは、一人の子供……身の丈は四尺ぐらい、
しかしよくよく見れば、子供ではないのでありました。
ことにおかしいのはその頭で、
「こん畜生」
いきなり手に持っていた長い竿を秋草の植込の中へ突っ込んで引き出すと、その先へ
「ざまあ見ろ」
揚々としてその竿を手元に繰り込んで来ると、その竿の先に田楽刺しになった黒い物は一疋の
「かまあねえから突っついて食ってしまえ、食ってしまえ」
竿の先を
それを殿御が聞きつけて
留まれ留まれと袖を曳く
これがこの先生の得意の鼻歌であると留まれ留まれと袖を曳く
それで留まらぬものならば
馬を追い出せ弥太郎殿……
この時、裏手の方で、馬を追い出せ弥太郎殿……
「
息を切った女の子の声。
「誰だい、玉ちゃんかい」
「米友さん」
この子供のような年寄のような
「どうしたんだい、玉ちゃん、
「米友さん、大変なんだよ、大変が出来たんだから、わたしを隠して下さい」
「大変というのは、いったいどうしたんだい」
「わたしは何も悪いことをした覚えはないのに、お役人が来てわたしを
「玉ちゃんを役人が捉まえるって? おかしいなあ、何かの間違いなんだろう」
「間違いなんだよ」
「何の間違いだろう」
「何だか、それがわかるくらいなら間違やしない、こうしている間にも
「ここへ来れば大丈夫だよ、お前あの戸棚へ入っていれば、俺がここで仕事をしている、役人が来ても知らないと言うよ」
「早く、それでは戸棚へ入れておくれ」
「まだいいよ、足音が聞えてからでいいよ」
「だってお前」
「もし役人がぐずぐず言えば、この竿で
「だってお前、役人に手向いしちゃ悪いよ」
「ナニ、嚇すだけだからいいよ。そりゃそうと玉ちゃん、ムクはどうしたんだえ、ムクが付いているはずじゃないか、お前が役人に捉まろうとする時にムクは黙っていたかえ」
「ムク?」
ムク、ああそうだ。
「米友さん、ムクを助けて来て下さい、早くムクを助けて下さい、ムクは殺されてしまいます、早く」
「ムクはお前の捉まりそうな時に、やっぱり家にいたのかい」
「ムクがお役人に噛みついている間に、わたしはここまで逃げて来たのよ、ムクのおかげでわたしは助かったのだから、お前さん早くムクを助けてやって下さい」
「よし、それじゃあ、ムクを助けに行ってやろう。玉ちゃん、お前はこの戸棚の中に隠れておいで」
「米友さん、怪我をしないようにして下さいよ、お役人に手向いなんぞをしないようにさ、そうしてムクだけを助けて来て下さい」
「大丈夫だよ、安心して隠れておいで、怪我をしねえように働いて、お役人にも怪我をさせねえようにして、ムクも怪我をさせねえでつれて来るから」
「どうぞ頼みますよ」
米友は、
九
お杉お玉らは間の山へ出て客を呼ぶ、米友は宇治橋の下に立って客を呼んで
「織田平 ノ信長没落後、家臣鳥屋尾 左京ト申ス者、当所ニ来住ス。傍輩 ノ浪人ハ其ノ縁ヲ以テ諸大名ニ奉公ニ出デ、又左京儀ハ他家ノ主人ニ仕フル事、本意ナラズ存ゼラレ候。然レドモ浪人ノ身、渡世ノ送リ様コレ無キヤ、毎日大橋ノ下ヘ出デ竹末 ニ編笠ヲ付ケ槍ノ上手故、其ノ目的ヲ以テ諸参宮人ニ銭ヲ乞ヒ百銭ニ一銭モ受ケ落スト云フコトナシ」
この鳥屋尾左京を網受けの元祖として、米友はその流れを汲んで、やはり宇治橋の下で網受けをしているけれど、身分は左京の米友の天性は
淡路流の槍は穂先が短い、
この俊敏なる淡路流の槍を
米友は槍を学ぶとしては前後にたった三日であるが、槍を扱う素質とては一日の故ではありませんでした。庭を飛ぶトンボを突く、川を泳ぐ魚を突く、今も鶏を追う鼬を突いた。そのくらいだから、宇治橋の下に立って、客の投げる銭を百に一つも受け
十
ここにまた話が変って、古市の町の
宇津木兵馬は、紀州の竜神村で、兄の
豆腐六のうどんは雪のように白くて玉のように太い、それに墨のように黒い醤油を十滴ほどかけて食う。
「このうどんを生きているうちに食わなければ、死んで
「何事だ、何事だ」
店にいたものはみんな表を見る。通りかかった人が逆に逃げる。牛馬が驚いて
「
ワァーッと叫びます。怖いもの見たさの店にいた連中は飛び出して見ると、ワッワッと逃げ惑う人畜の向うから、
「ムクだムクだ、間の山のお玉のムク犬だ」
「それ狂犬だア、逃げろ!」
追いかけたのとは反対の側から、また数十人、同じく役人、
「そうれ、逃がすな」
ムクは古市の町の左側の
大榎を後ろにしてムクの眼は蛍のように光る。血を浴びた首筋の毛が逆さに立って獅子の
前足を組み違えて、尾をキリキリと捲き上げて、火を吹くような声で、ウォーウォーと
「
石や瓦や
ムク犬は決して
時に天の一方から、
「どいた! どいた! どきあがれ」
鉄砲玉のように飛びこんで来た一人の小男、
「やいやい、ムクは狂犬じゃねえんだ、
それは米友でありました。四尺の身体に隆々と
「イヨー米友!」
妙な役者が飛び出したと、屋根の上で見物していた弥次馬が一斉に
「ムクは
「イヨー米友、大出来」
「通さなけりゃ、こっちにも
米友は勇気
「あいつは、あの通り小兵だけれども、肉のブリブリと締まっていることを見ろ、あれで力のあることが大したものなんだ、身体のこなしの
米友の手並は事実と誇張とで評判になって、恐怖の騒動の
その時、誰が投げたかヒューと風を切って飛んで来た
「何をしやがる」
竿の網を袋にならぬように強く張った五色の糸。それでムクの
「石の
米友は竿の先を
「まだ早いやい、さあ来い!」
竿を立て直すと、それが合図となって前後左右から注文通り、ヒューヒューと飛んで来る石と瓦が
「ムク、お前は俺の後ろに隠れていろ、その榎から背中を見せねえようにしろ、後ろからそっと忍んで来る奴があったら、おれが承知だから遠慮なく食いついてやれ、噛み殺してもかまわねえぞ」
大榎とムク犬を後ろにして立った米友。身近に来る石という石、瓦という瓦を、或いは竿を
「やいやい、もちっと骨身のある投げ方をしやあがれ、ぶっついたら音のするように、当ったら砕けるように投げてみねえ、米友様が食い足りねえとおっしゃる――ナニ、鉄砲だって?」
米友は屋根の上を
「ふざけちゃあいけねえぜ、米友様だってこれ、
身を沈めて飛び来る石瓦をかわしながら、後ろを振返ってムクに合図をすると、竿の頭から五色の網を払いのける、
「
人混みの中へ鉄砲は打ち込めないから
米友が飛ぶと、ムクも飛ぶ。一団になって遠捲きにしていた群衆の頭の上から、人と犬とが一度に落ちて来たのだから、ワァーッと言って崩れ立つ。
「ざまあ見やがれ」
弥次馬は崩れたが、逃げられないのは警護に出向いていた
「神妙に致せ、手向い致すと罪が重いぞ」
「好きで
鉄砲の覘いを乱すために米友は、わざと人の中を割って働く。槍をグッと手元につめて七寸の位にして
どちらでも風向きのよい方に傾く屋根の上で見物の弥次馬は、米友とムクが
田丸の町の猟師の藤吉は、幾度か鉄砲を取り直してムクだけでも仕留めてやろうと
「はて」
生命がけでやる米友の曲芸。ただ見る
「ああ、見事な働き」
兵馬は眼を拭って、我とも知らず人を押し分けて前へ出る。
「
暫らく見ていた宇津木兵馬は、山田奉行の役人の
「槍をなんと致される」
役人は兵馬に向って尋ねますと、
「あの小兵の男、何者とも知らねど槍の扱いぶり
「ナニ、貴公があの中へ出向いてみたいと言わるるか」
「左様にござる、で、
若いに似合わず大胆な言いぶりでしたから、
「それは近頃お勇ましいお申し出でござるが、御覧の通り、あれは
「いやいや、あの勢いではなかなか以て疲れは致しませぬ、たとえ
役人は、兵馬が
「せっかくながら狼藉を取鎮めるは拙者共の役目、貴公らのお骨折りには及び申さぬ」
「しからば是非もない」
兵馬はぜひなく立って、なお米友とムクとの働きぶりを見ようとしたが、人立ちで背伸びをしても中を覗くことができませんでした。ただ中でワァーッという声が崩れるように湧くばかり。
「そうれ来た! 逃げろ」
兵馬の前にいた黒山の人間が
「やい、やい、いつまでもこうしちゃいられねえ、道をあけなけりゃあ、血を見せるぞ、血の河を流して人の
この猛烈なる
「ともかくも、そのお槍をお貸し下さい」
逃げようとした槍持の手から兵馬は手槍を奪い取る、奪い取ったのではない、
「あ、
米友はついに捕手か弥次馬かを突き伏せてしまったと見える。
血を見ると
曲芸気取りでやっていてさえ、米友の
そこへスーと手槍を突き出したのが宇津木兵馬でありました。
「待て」
「馬鹿野郎、
兵馬の突き出した槍は米友を驚かしました。米友が何故に驚いたかといえば、自分の前へ槍を突き出すのは、餅屋の前へ来て餅を売り、川の岸へ来て水を売るのと同じことだから、それで驚いたものと見えます。なにも兵馬の槍先が最初から怖ろしいのでそれで驚いたのではありませんでした。槍を取れば、宇治山田の米友の眼中に人はなくなるのだから、驚いた後は
「や、や、や」
米友はタジタジと後ろへさがった。
「やるな、こん畜生」
後ろへさがって米友は
「それ!」
米友の
兵馬の槍は格に
縁もゆかりもないところで、事を好んで
兵馬は剣においても槍においても、そのころの
兵馬の知ろうとして、まだ知ることのできないのは机竜之助が音無しの構え。それにも
兵馬は槍を上段につけて、米友の咽喉を
米友は猿のような眼をかがやかして、槍を七三の
一歩一歩と兵馬は追い詰めて行く、米友は一歩一歩とさがって行く、ムクもそれにつれてジリジリと米友並みにさがる。
兵馬に米友を突くつもりのないことはわかっている。兵馬はただこうして一歩一歩と米友を追いつめてさえおれば、ついに彼は窮して槍を投げ出すものと思っているらしい。それだから兵馬は、いつも上段の位を換えずに極めて少しずつ追い込んで行く。
米友は猿のような眼をクルクルと廻して、歯を噛みならして、色は真赤になる。突き出すこともできず、払いのけることもできず、
しかしながら米友は
この間がなかなか長い、見物は静まり返って手に汗を握る。
兵馬は追い詰め、米友は突き詰められて、とうとう前の
米友の五体は
「エヤア」
なんとも名状すべからざる奇声を立てて米友の竿は兵馬の面上に向って飛び出した。と思うと、竿は米友の手から離れて矢車のように宙天に飛び上る。
「エエしまった!」
米友の突き出す槍を兵馬は下からすくうて
大榎に串刺しに縫いつけらるべきはずの米友がそこにはいない。この時、大榎の上の枝の間から声がする。
「やいやい、
屋根にいた弥次馬連はこの声を聞いて、屋根から
米友は榎から屋根、屋根から屋根、
十一
「いけねえ、いけねえ」
米友は
「ムクは殺されてしまって?」
「ううん、殺されやあしねえけれど助からなかった、古市の町へ逃げ込んで、大勢に囲まれているんだ、ムクのことも
「どこへ逃げましょうね」
「どこと言って俺にも
「友さん、竿をどうしたの」
「ばかばかしいやい、宇治山田の米友が商売物の竿を召し上げられちゃった」
「誰かにあれを取られたの」
「そんなことはどうでもいい、早く逃げなくちゃいけねえ、玉ちゃん、俺の背中へ乗っかりねえ」
「わたしだって歩けますよ」
「歩けるたって世話が焼けていけねえ、
「でも、こんな大きな
「きまりが悪いどころの話じゃねえ、お前と俺はここを逃げると二度とふたたび、この土地へ足を踏ん込めねえんだ、山へ逃げ込めば山ん中で当分かくれて里へは出られねえんだ、だからここに有合せものの栗でも
「そうしましょう、それにしてもわたしはムクのことが心配になる」
「心配しなさんな、俺らが町のやつらを
「ほんとにそうだといいけれど」
「そうに違えねえ」
これらの連中の頭は実に単純を極めておりました。お玉は何の故にして自分が
お玉には笠を
「玉ちゃん、
米友がこう言い出したのは、宮川をズンズンさかのぼって、川口というところから
「それもそうだね、友さんのよいようにして下さい。けれどもね友さん、舟へ乗っちまってはムクが尋ねて来られないじゃないか」
「それもそうだな……よしよし、それじゃどっちにしろ、いったん浜辺へ着いてから、お前を隠しておいて
「それは危ないよ」
「ナニ、隠れて行きゃあ大丈夫だ」
「それだってお前、危ないさ。仕方がないからムクのことはムクとしておいて、その浜辺とやらへ早く逃げましょうよ」
「それがよかろう、俺らはムクのことは大丈夫だと思ってるんだ、あの犬は人に殺される
「わたしもなんだか、そう思えて仕方がないの、いつもムクがいなけりゃあモット淋しいんだが、今度はそんなに淋しいとは思わないから、きっとムクは無事なんだよ、それでわたしは安心している」
「まあ、なんにしてもここまで無事に来りゃあもう占めたもの、どこか今夜はひとつ
「なあに、そんなに草臥れやしませんよ」
たしかに六七里は来ているから、お玉の足ではかなり草臥れていました。所帯道具を
「やあ橋がこわれてやがる。何だ、
米友は軽々とそのこわれた板橋の間を飛び越えてしまって、荷物をそこへ下ろしているとお玉は、
「飛べますよ、このくらいのところ、わたしだって」
距離は一間ぐらいしかないのだから、お玉も何の気なしに、
「どっこいしょ」
米友が気づかっているのを
「あれ――」
「ソレ、だから言わねえこっちゃあねえ」
米友は
そういう場合における米友は注文より以上に
「だから言わねえこっちゃあねえ、待っていりゃあ丸太を持って来て橋を
米友は
「ふだんならこのくらいのところは何でもないけれど、今は気が
「まあ、仕方がねえ。これビショ濡れだ、上着も帯も。それに
「痛かあありません」
「これじゃあ道中ができねえ、そうかと言って人の家へは寄れねえ旅なんだから、山ん中へ入ろう、まだ泊るには早いけれど、どこかでその着物を乾かすところを探さなくっちゃあな」
「そうだねえ」
「エエと、あの
「行きましょう、人が来るといけないから早く」
二人はなお南へ行こうとした道を曲げて、西の方へ道のない山ふところを分けて獅子ヶ鼻の山の下へ出ました。
四方を見れば
「玉ちゃん、さあ着物を脱ぎねえ」
大きな
「ここなら
「さあ、干場が出来たから着物を脱ぎねえ」
お玉は解きかけながら、
「米友さん」
「何だい」
「
「なら襦袢まで脱いだらよかろう」
「襦袢まで脱げば
「裸だって仕方が無え」
「裸になるのはいやだねえ」
「いやだって、その濡れた着物を着ちゃあいられめえ」
「それだってお前」
「何だい」
「恥かしいねえ」
お玉は、はにかんで
「恥かしい?」
そう言って
「恥かしいったって、誰もいやしねえじゃねえか」
「誰もいないったって、恥かしいわ。それにお前も見ているじゃないか」
「
米友は
「うん、なるほど、お前が裸になるのがいやなら、俺らが先に裸にならあ」
「友さん、お前が裸になってどうするの」
「俺らの着物をお前に着せてやろう」
「それではお前が裸になるじゃないか」
「そりゃそうさ、どっちかひとり裸にならなけりゃ納まりがつくめえ」
「それでもお前を裸にしちゃあ気の毒だわ」
「お前は裸になるのが恥かしいというじゃねえか、俺らは裸なんぞはちっとも恥かしいとは思わねえ、裸の方がいい心持なくらいなもんだ」
「それじゃあ済まないけれど、そうしておくれ」
「そうしてやらあ」
米友は
なるほど、米友は自分で裸の方が好きだという通り、見た目にも裸の方がよろしいのでありました。着物を着ていたんでは
「ほんとうに友さんの身体は小柄だけれどもよく締まっていること」
お玉はお愛想を言って、米友の脱いで貸してくれた着物を受取ります。
「火を焚きつけてやろう、火をひとつ」
持って来た所帯袋から米友は火打を取り出して、松葉や枯枝を掻き集めて焚火をはじめると、お玉は後ろを向いて帯を解いて上着から脱ぎかける。
「早く引き上げてもらったから、水の
帯にも
「
米友は猿のような口を
下着と襦袢とを一緒に脱いで、後向きにお玉の半月のような肩が
「それ、何か落っこった」
「
「何か落ちたよ」
「そんなことを言うもんじゃありませんよ」
お玉は赤くなって、
お玉は米友が、わざと調戯っているのだと思っています。
「大事なものじゃねえのかい」
「およしなさいよ」
「それ、そこに」
「いやだね」
「そこに白いものが落ちてるじゃねえか」
白いものと言われて、お玉はハッと気がつきました。米友は
「アッ、これは」
事に
「これは大切なもの、今まですっかり忘れていた」
お玉は、あわててそれを拾い取って、
「申しわけがない、こんなに濡らしちまって」
この時、米友の焚きつけた火はよく燃え上る。
「手紙かい、濡れたんなら、ここで乾かすがいい、火であぶってやろう」
大事そうにお玉は濡れた手紙を取って米友に渡しながら、
「
「頼まれ物は大事にしなくちゃあいけねえ。おやおや、グショグショだ、封じ目もなにも離れちゃった、このままでは手がつけられねえ。おっと待ったり、いいことがある、この笠の上へ拡げて、
「紙の方が乾きが早いや、もうこれカサカサになった、もとのように
笠の上の濡れ手紙が乾いたから、米友はそれを捲き直そうとすると、
「友さん、お前は字が読めたねえ」
「読めなくってよ、いろはにほへとから
米友は少しく得意の
「それはよかった、それではその手紙は、どこへ届けるのだか読んで下さい」
「何だって? お前、届先を聞かねえで手紙を頼まれて来るやつもねえもんじゃねえか。どれ、読んでみてやろう」
「読んで下さい、こんな騒動がなければ早く届けて上げるんでしたに」
「エート」
米友は
「
「まあ大湊……それではまるでこことは方角違い、早く届ければよかったねえ」
「そうだな、宇治から大湊までは一息だが、ここからでは大変だ、逆戻りをして、また宇治山田の町を突っ切って、それからでねえと大湊へは出られねえ」
「困りましたねえ、急ぎの用なんでしょうか。あの女の方はたいへん心配そうにして、お金までつけて頼むんだから早い方がいいだろうに、さぞ
「どうも仕方がねえ、災難だから。こうなってみると、この手紙を届けるのも今日明日というわけにはいかねえし、その預かったお金というやつの行方もわからねえ、ちょうど封じ目も切れていらあ、
「そうして下さい、その用向によっては、せっかくの頼みだから、わたしの身は少しくらいあぶなくっても、なんとか知らせて上げなくっちゃあ」
「それでは、中身をひとつ読んでみてやれ」
米友は捲きかけた手紙をクルクルと拡げて、仔細らしい面で文面を見つめました。
一通り眼を通してしまうと米友の
「玉ちゃん、こりゃ大変だぜ、大変な手紙だぜ」
「何だえ、
「お前の方が落着かねえんだ、読むと文句がうるせえから話にして聞かせるがね、この手紙を書いた女は、もう死んでるよ」
「おや、あの女の
「どんな女の方だか俺らは知らねえけんど、この手紙は、つまり
「遺書?」
「そうだよ、とてもわたしはこの世に望みは無いから死んでしまいます、鳥は古巣へ帰れども、行きて帰らぬ死出の旅だとよ」
「ああ、それではわたしの歌を聞いて死ぬ気になったのか知ら……それから、どう書いてあるのですよ」
「わたしは死んでしまいますけれど、あなた様はよく御養生をなすって下さいましというわけだ」
「そのあなた様というのは誰のこと?」
「それがそれ、宛名の、大湊、与兵衛様方小島という人なのよ、その小島というのは、これによって見ると男だね」
「へえ、そういうこととは知らなかった」
「それでよ、就きましてはここに二十両のお金がございます、これをお届け申しますから、これでどうかできるだけの養生をなすって、故郷へお帰り下さるように」
「そうすると、向うの人も病気で悩んでいるのですね」
「そうだ、これによって見ると、たしかに病気だね、何病とも別に書いてねえが、女が勤め奉公に出て、その血の出るような金を
「知らなかった知らなかった、それほどのお金だったら、あの晩に届けて上げればよかったものを。二十両のお金、家へ置きっぱなしにして来たから、もう取返すことはできない」
お玉は
「それでだね、お前、
「それではやっぱり、わたしの歌を聞いて死ぬ気になったのだよ、わたしがお手伝いをして殺したようなものだ、申しわけがありません、どうも済みません」
「そんなことはねえ、歌をうたう方と死にたくなる方とは別々だからあやまらなくてもいい。それで終いの方へ行って、わたしは快くあの世へ行きます。あの世へ行けば知った人はいくらでもいますけれど、この世に残るあなた様にはお頼りなさる人がひとりもないと思うと、
「そう聞いては、わたしはじっとしていられない、わたしの身はどうなってもかまわない、友さん、わたしは大湊まで行くわ、行ってその小島さんとやらにお詫びをするわ、こうしちゃいられません」
「そうだなあ」
十二
「何とかしなくっちゃあ」
ひとりで
伊勢の海は昼でさえも静かなものであります。夜になったのでは
「困ったことだわい」
「今晩は」
裏口でおとなう声。
「へーい」
内で与兵衛が返事。
「あの、大湊の与兵衛さんとおっしゃるのはこちら様で……」
「与兵衛はうちだが、お前さんは」
「古市から参りましたが」
「古市から?」
与兵衛は立たないで耳を傾けて、
「古市から? 古市のどちら様からおいでなすった」
「あの、備前屋から」
「備前屋さんから?」
与兵衛はこの時ようやく立って、
「どうも女衆の声のようだが」
戸をあけると、手拭で面を包んだ女、逃げ込むようにして家の中へ入って、
「こちら様に小島さんとおっしゃるお方がおいででございましょうか」
「小島……してお前さんは何しにおいでなすった」
「その小島さんというお方がいらっしゃるならば、その方へお手紙を
「ああ、そうでござんしたか」
「これがそのお手紙でございますが」
「これが……」
与兵衛はお玉の手から手紙を受取って、
「それは御苦労様でございます、どうか少しお待ちなすって。その火の傍で少しの間、待っていておくんなさいまし」
与兵衛はその手紙を持って、家の内と外とを
お玉は仕事場の中へ入って炉の傍へ寄って、いま出て行った
「いやどうも、お待遠さま」
ようやくに裏口の戸をあけて与兵衛の帰って来たのを見て、お玉はホッと息をつきました。
「おや、お前さんは間の山のお玉さんじゃねえか」
与兵衛は今になって、それがお玉であることに気がついたのです。
「ええ、そうでございます」
お玉は恥かしそう。
「こりゃ、お
与兵衛は、しげしげとお玉を見て、
「お前はお尋ね者になっているはずだな」
「ええ」
「何か悪いことをしたのかい」
「どう致しまして、間違いでございます」
「そうして、ここへどうして来なすった」
「隠れて参りました」
「どこに隠れていたんだい」
「山の方へ隠れていましたけれど、あのお手紙をお届けしないうちは気が済みませんから、一生懸命でここまで戻って参りました」
「そうかい、それは御苦労だったな。しかしこのごろはお前と米友を探すんで網の目のように
「はい、こちら様へ参る材木の舟の中へ隠れて参りました」
「舟の中へ? それじゃなにかえ、宮川を下る
「左様でございます、もうお手紙をお届け申しさえすれば、捕まってもかまいませんつもりで」
「よく届けておくんなすった。それで、米友も一緒に来てくれたかい」
「ええ、そこまで一緒に来てくれましたけれど、ムクを尋ねると言って古市へ忍んで行きました」
「米友が古市へ行った? そいつは危ねえ」
「それから親方さん、わたしあの手紙に附いているお金をお預かり申したんですけれど、それを
「うむ、そのことは大概わかってる」
「ほんとうに済みません、そんな場合でわたしの身が危ないのですから……どうか御免なすって下さい」
「どうも仕方がねえ」
「それでは親方さん、これで御免を
「まあ待ちねえ、これからお前を一足でも外へ出すのは、
「それでも」
「何とかして上げる。今もそれお触れが出たところで、お前と米友は盗賊の罪に落ちている」
「もう捕まってもかまいません」
「ばかなことを言いなさるな。それから、まだ用があるのだ、実はその、お前が持って来てくれた手紙を受取った御当人が、お前に会いてえとこういうのだ」
「そうでござんすか、それではお眼にかかって、わたしからよくわけをお話し申してお詫びを致しましょう」
「向うでも聞きてえことがおありなさるようだから会って行って上げてくれ、今おれが案内してやる」
与兵衛は、また裏口から立って、仕事場の外へとお玉を導いて出ました。
仕事場の外は暗いが、右手の方の海は明るく見えます。
大湊の海は
「お玉、お前まあ、よく会って話をしてみるがいい」
海の風が
「さあ、ここへ入るのだ」
入江に近い大きな材木小屋。
お玉を入れると直ちに与兵衛は戸を立て切ってしまいました。
「手を引いてやる、暗いから用心をして来さっしゃい」
船をこわした古い材木と、
「お玉さん、
与兵衛がこれほどに
「あの、なんでございますか、男のお方でございますか、女のお方でございますか」
「男の方だよ」
暗い中を暫らく行くと、石段があって下へ下へと降りて行くようになっていて、下からは
大湊は神代からの
磯に沿うた
お玉はここまで引張られて来ると、何とも言えないいやな気になってしまい、
「ああ
意地にも我慢にも、引かれて行く与兵衛の手を振り切って逃げ出したくなりました。
「どうした」
お玉は
「ずいぶん怖いところですねえ」
「こんなところでなければ人は隠せない」
与兵衛は、ずんずんとお玉の手を引いて行く。
お玉の怖いというのは、ただ
「誰か後をついて来るような足音がします」
「そんなことがあるものか、さあここだ」
今、与兵衛の
その中に
十三
俯向いている下に
「小島様、お使の衆を連れて参りました」
「それは御苦労」
一句、地獄から引いて来るような声。
その声だけで、なんとなくお玉は胸へ氷を当てられたように感ずるのです。
「…………」
お玉は何とも挨拶のしようがないからそこに腰をかけたままで、俯向いた人の方を盗むようにして見ると、面の一部分を洗っていると思うたのは眼を洗っているのでありました。
ああ、この人は眼が悪い。
お玉は直ぐに、そう感づいてしまいました。米友から手紙を読んでもらって、手紙を受取る人が病人であろうとの暗示は得ていましたけれど、眼が悪いのだとは気がつきませんでした。それを今ここへ来て見て、はじめてそう感づいたのでありました。
「それでは、ゆっくりお話しなさいまし。お玉坊、ここは誰も来る人もなし聞く人もないから心配をしずに、よくお話し申して、お金を失くしたお
「親方さん、一緒にいて下さい」
お玉は与兵衛に
「ああ、わたしは帰りましょう、外へ出てしまいましょう」
「何も怖がることはないというのに」
与兵衛はかえってお玉の縋るのを突き放すように先へ出て、
お玉は取付く島がない。やっと落着いてみれば、悪気でここへ連れて来る与兵衛親方ではないし、ここにいる人だって、なにも自分を取って食おうというのでもないのだから、怖ろしいうちにもまたそこへ腰をかけてしまいました。
知れない人は、まだ
「お豊から手紙を持って来てくれたのはお前さんか、こっちへお上りなさい」
ようやく
お玉は知らない。これは机竜之助でありました。
「どうもまことに申しわけのないことを致しました」
お玉はお
「とにかく、こっちへ上って、まことに済まないがこの手紙をひとつ、拙者に読んで聞かしてもらいたいが」
竜之助は手さぐりにして燭台を少し動かしました。
こう言われてお玉は、ハッと耳まで赤くなったのです。
「はい、あの……」
お玉には手紙が読めないのでした。今まで読めないで通って来たし、読めと言われたこともないのに、ここへ来て恥かしい思いをしようとは思いませんでした。
竜之助は、お玉が遠慮をしているものとでも思ったのか、
「
静かな声で折返して頼む。
「はい、あの……」
お玉は困ってしまい、
「せっかくでございますが、あの、わたしも目が不自由なのでございまして」
「そなたも目が不自由……」
「はい」
「それはそれは」
「いいえ、目は見えるのでございますが、字を読むことができませぬ、お恥かしゅうございます」
「ははあ、なるほど」
竜之助の面に、やや気の毒そうな
「さてさて、二人揃うて一つの目が明かぬとは……」
お玉は真赤になってしまって、
「それでは手紙は後のこと、この手紙を届けてくれた女の身の上を話してもらいたい」
「はい、この間の晩、
「備前屋というのは?」
「それはあの、大楼でございます」
「大楼とは?」
「遊女屋」
「遊女屋――なるほど」
「そこへ
「その備前屋というのへそなたが招ばれて……何のために招ばれました」
「あの、歌をうたいに」
「歌をうたいに?」
「はい、わたくしは、間の山へ出ておりまする玉と申しまして、
お玉は、あの晩の筋を一通り繰返して、
「そうして翌日は、早速お届けを致しましょうと思っているところへ、どうしたわけだか知りませんが、お役人が来て、無理にわたしを召捕ってしまおうとなさるから逃げ出して、逃げ歩いて、やっとこちらへ参ったのでございまする、それ故、せっかくのお金も
お玉はお詫びの心のみが先に立つのでありました。
「ただ、それだけの御縁でございます、お名前も承わりませねば、御用向も伺いませんで」
お玉の話だけでは、決して竜之助を満足させることはできませんでした。
遊女屋――女――金、その次に来るものは――この手紙の中にその消息が言い込められてあるはず。四つの目があって一つの用をもなさぬこの場の有様は、やっぱりお玉をして恥じ且つもどかしさに堪えざらしめたので、
「それから、あの、重々申しわけがございませんが、実はその手紙の中をもう拝見してしまったのでございます」
「この手紙を、そなたは読んでしまわれたのか」
「はい」
「目の不自由なというそなたが」
「人に読んでもらいましたので」
「誰に」
燈火の穂先が
「余儀ないわけで……途中で水の中へそのお手紙を落したものですから、それを乾かす時に、つい封じ目が切れまして、その時に懇意な人に読んでいただきました、その人は
「それでは、この手紙の用向は委細のみこんでいるな」
「はい」
「では、その筋を話してもらいたい」
「よろしゅうございます」
お玉は、ここでようやく度胸が据わって、大事の大事の人の手紙を見てしまったことが、今までお玉の良心に大へんな重荷であったのを、こうして打明けてしまえば、その重荷を
「でございますけれども、あなた様、お驚きあそばしてはいけませぬ」
お玉は
「驚きはせん」
竜之助は冷たい
「このお手紙は、あの、
「遺書に?」
「はい、それで二十両のお金、あなた様の御病気をお
「そうか」
存外に冷やかな響きでしたから、今度はお玉の方が満足しませんでした。
「おかわいそうに、このお手紙をお書きなすって、お金と一緒に私へお頼みなすったあとで自害をなさったのでございます。死んで行くわたしは定まる縁でありますが、生きて残るあなた様のお身の上が心配と
お玉の口には、頼んだ女の心が乗りうつるかと思われるほど熱が
「ははあ」
竜之助の張合いのないこと、気の毒とか憐れとかいうような感情の動きは
「あの、このお方は、あなた様の御親類筋のお方でございますか、それとも
「親類でもないし、兄妹でもない、赤の他人じゃ」
「赤の他人でさえ、こんなにまでなさるのに……」
お玉は、冷やかな竜之助の態度を見て、反抗的に単純な感情がたかぶって来るのでありました。
「わたしが悪うございました、わたしが悪いのでございます」
「お前が悪いことはあるまい」
竜之助は
「いいえ、わたしが悪いのでございます、その方を殺したのはわたしでございます、あの方は自害をなすったのではございませぬ、わたしが手にかけて殺したのでございます」
「お前があの女を殺した?」
「はい、わたしが歌をうたわなければ、あの方は死ぬのではありませんでした、わたしが歌をうたったばかりに、それを聞いて死ぬ気になったのでございます、それですから、わたしが手を
お玉は熱狂する。
「なんだか、お前の言うことはわからない」
竜之助は冷淡。
「わからないことはございません、わたしが間の山節をうたいまして、それをあの方が離れでお聞きなすって、それから死ぬ気になったのでございます、このお手紙にもそれが書いてございます、鳥は古巣へ帰れども、行きて帰らぬ死出の旅と、わたしの歌が
「それは妙な証拠じゃ、歌を聞いて死ぬ気になったからとて、その歌をうたった者が殺したとはおかしい。歌うものは勝手に歌い、死ぬ者は勝手に死ぬ……」
「勝手に死ぬ?」
お玉の極度にのぼった熱狂がこの一語で一時に冷却されて、口が利けないほどに唇がふるえましたけれど、それが過ぎると前よりも一層のぼせて、
「死ぬ者は勝手に死ぬとは、ようもまあ、そのようなお言葉が……なるほどわたくしは
「…………」
「どういうわけか、わたくしなどはちっとも存じませぬけれど、どうやらかのお方はお前様のために
お玉は情がたかぶって着物の
なにも礼を言われたいために危険を
「こんな薄情なお方と知ったら、手紙なんぞを持って来るのではなかった」
浪の音が、上から落ちて来るように
あんまり張りが強くなって、初対面の人を
「帰りましょう、お
座に堪えられないほど
「まあ待ってくれ」
竜之助は静かに呼びとめる。魔物に後ろ髪を引き戻されるように、お玉は立ち
「何か御用でございますか」
後ろを振向くと、竜之助は手さぐりにして自分の膝のまわりを撫でて、長い刀を引き寄せて、
「せっかくお使をしてくれた、なんぞお礼をしたいが、見られる通り貧乏でそのうえ不自由の身じゃ、これがせめてもの寸志、どうかこれを受取ってもらいたい」
お玉は、またもここで奇異なる思いをせねばならぬ、こんな薄情な人でも自分にお礼をしようというしおらしい心があるのか知らと思わせられたのでありました。そうして、この中でお礼とは何かと見ると、刀の
「まあ、この簪をわたくしに……」
思いがけないものを出されたから、お玉は三たびここで奇異なる感に打たれたのでありました。
「これはあり合せ、そなたの年頃に似合うか似合わぬか、それは知らぬ、
「お礼なんぞ、飛んでもないことでございます」
お玉はそれを受けようとしなかったが、今こうして簪を一本、自分にくれようとして差出した人の姿を見ると、今の先、薄情呼ばわりをして怖い人、いやな人、呪わしい人と
「どうも有難うございます」
「泣いているのか」
「泣けてしまいました、つい、泣けてしまいました」
「なに……何が悲しい」
「なにかしら悲しくてなりませぬ」
「別に悲しいこともなかろうものを」
「御免下さいまし」
お玉は、よよとしてそこへ泣き倒れてしまいました。
泣いて泣いて、暫らくは口が
竜之助がはじめて京都へ上る時に、同じこの国の
伊勢の海は静かな海で、ことにこれより北へかけての阿漕ヶ浦は、その
ただ不思議なのはその浪が、或いは天上から落つるように、或いは地の底から来るように、この室には響いて来ることです。
十七姫御が旅に立つ……
これも不思議、その声がどこから起ったか、浪と一緒だから海から来たものであろう、そもそも自分らが今いるこの部屋は、家の奥にあるのか、地の底にあるのか、或いは海の岸にあるのか。
十四
その前の晩、
宮川と
小林の
大湊は船を
入江の方から帆柱が林のように立っている間をおりおり小舟が往来するのを、お松はそれにいちいち眼をつけていました。
お松はこうして兵馬の帰りを待っているのでした。兵馬は大神宮へ参拝するといって船を下りたまま、まだ帰らないのです。
「おやおや、宇治山田の方から、

「お
と見ると小林の船倉あたりから、
「おや、あそこは船倉じゃないか、お奉行様のお邸のあるところだと船頭衆が言っていた、あそこから高張が出たのは、いよいよ
お松が気を
「おいおい、みんな来て見ろ、町で何か騒動が始まったぜ」
船中の者共は我れ先にと
「何だ何だ、火事か盗賊か」
「心配だから、わたし
お松はたまり兼ねて、船頭の助蔵に向ってこう言いますと船頭が、
「お前さん一人はやれない、行くなら誰かつけてやるが、まあもう少し待ってみなさるがよかろう」
「どうしても行ってみます、あんなに騒がしいのは
「そんなら誰か
「よし来た」
「なるほど、宇治山田の町ではこのごろ火の用心が
「そうかも知れねえ」
「待て待て、
「お松さんの舟じゃあるめえな。エーと、宇津木様の舟が帰って来たのだろう」
「そうだろう」
「材木場を
「海へ逃がしちゃあ、ちっと捕りにくいな、水が
「やれやれ、御用提灯をつけた舟が二三ばい漕ぎ出したぞ」
「こりゃあ、向う岸の火事で済ましちゃいられなくなりそうだ」
この時、
「おーい、船頭の助蔵どんはいるかい」
「うむ、俺をお呼びなさるは誰だえ」
「船大工の与兵衛だ」
「おお、与兵衛どんか」
「大急ぎで頼みてえことがある、通してもらいてえ」
「合点だ、それ
船大工の与兵衛
船へ上って来た与兵衛は、助蔵の耳に口、
「助蔵どん、なんにも言わずに人を預かってもれえてえのだ」
岩まで行って見たけれども、お松はそこで兵馬に会うことができませんでした。
船番の人に
十五
山田の町を
「先生、お
「仙公、今夜どこへ泊るべえな」
道庵はお伴を振返って酒臭い息を吹きかけました。道庵先生が酒臭い息を吹きかけているから天下が泰平なのであります。
「そうですな、
お伴の仙公は額を叩く。仙公という男は江戸から道庵先生がつれて来た、
「俺ゃ、そんなところはいやだ」
道庵先生の駄々。
「お嫌いでげすか。先年はあすこで弥次郎兵衛喜多八の両君が、首尾よく大失敗をやらかして、みんごと江戸っ児の
「弥次と喜多が器量を下げたのは、あすこかい。よし、そう聞いちゃ俺も道庵だ、奮発する、十両も奮発して大いに遊ぶ」
「それは頼もしいことで。しかし先生、十両とくぎって奮発なさるのがおかしゅうげすな、トテモ江戸っ児の腹を見せるんでげすから、百両とか千両とかおっしゃっていただきたいものでげすな」
「ばかを言え、俺は十八文の先生だ、
「これは恐れ入りました」
「十八文の先生の、俺は道庵だ……」
「困りましたな、先生、そう十八文十八文とおっしゃられたんでは、きまりが悪くって」
「ナニきまりの悪いことがあるものか、盗みも隠しもしねえ、十八文の先生は俺だ、薬礼を十八文ずつ取って、その金をチビチビ貯めて、それで伊勢参りに来たんだ、十八文がどうした」
「わかりましたよ、わかりましたよ、ああ
仙公としては、これで大いに江戸っ児で納まって行きたいところなのであります。それを道庵先生が十八文十八文というものだから、自分までが安く見られるような気がして、弱りきって山田の町を歩いて行くのであります。
道庵先生と仙公とはこうして山田の町を歩いていたが、途中で道庵先生がふいと一軒の店へ立寄りました。その店は提灯屋。
「こんにちは、提灯を一つこしらえてもらいてえが」
「へい、おいでなさいまし」
「提灯の安物を一つ」
「提灯は、小田原でございますか、ブラでよろしゅうございますか、
「ブラがいいね、ブラ提灯のなるだけよくブラブラするブラっぷりのいいやつを」
提灯屋は、先生酔ってるなと思っておかしがると、道庵先生は店先へ腰をかけてしまいました。仙公も仕方がないからその傍に立って、今こんなところで提灯を
「仙公や、提灯がなくては何かにつけて不自由だから、ここで一つ仕込んで行くのだ、お前、好いのを見立てな」
「いろいろ出来合いがございます、お好みによってお
「先生、このブラ提灯のブラ下り具合が
「よしよし、それにしよう」
「そうして、お印はどう致しましょう」
「先生の御紋は何でございましたっけね」
「
「また始まった」
「十八文と入れますんでございますか、ここへ、ただ十八文だけでよろしゅうござんすか」
提灯屋はおかしな
「そうだ、十八文でよいのだ」
「先生、およしなすった方がようござんすぜ」
仙公は
「ナニ構わねえ、俺が承知だ」
簡単な文句ですから、提灯屋は
「さあ、仙公、これをつるして歩け」
「驚きましたね」
「驚くことはない、提灯が取って食おうと言やしまいし」
「それじゃあ先生、こうして畳んで懐中へ忍ばせて持って参ることに致しやしょう」
「ばかを言え、こうして吊るして歩くんだ、これから
「
「ばかを言え、暗いところを提灯をつけて歩く分にゃ誰だって歩く、日中、提灯を
「あんまり味わいもありませんねえ」
「ぐずぐず言わずに早く歩け」
「弱ったなあ」
「弱ることはねえ、貴様はたいこもちの
「先生、提灯はようござんすが、この十八文という文句を見ると、しみじみと情けなくなりますなあ」
「なんで十八文が情けねえ」
「だって先生、十八文じゃあ、あんまりあたじけねえ」
「馬鹿野郎」
道庵先生は仙公の頭を一つぽかりと食らわせました。
「こりゃ驚きましたねえ、なんぼ
仙公は頭を
「打ったがどうした、十八文は俺の看板だ、その看板を情けねえの、あたじけねえのケチを附けやがって、
道庵先生はプンプン
「そりゃあね、先生、なるほど先生は薬礼を十八文ときめてお置きなさる、それは結構なことでございます、そりゃあまあ、それでようございます、ようございますけれども、なにも旅へ出てでございますな、そこでやたらに十八文十八文とおっしゃって、
「馬鹿野郎、ドコまで馬鹿だか、貴様の馬鹿さの底が知れねえ……」
「こっちも底が知れねえ……」
「なんだと」
「いいえ、なんでもございません。ねえ先生、こうして旅へ出て来れば、先生様は
「なんだこの野郎、もう一ぺん言ってみろ」
「暗闇の恥を明るみへ出さずとも」
「さあ、また承知ができねえ」
「そうお怒りなすっちゃ話ができません」
「暗闇の恥とはなんだ、さあ仙公、いつ俺が暗闇の恥を明るみへ出した、さあ、それを言ってもらいてえ」
「だって先生、この十八文……」
「十八文がどうしたと言うんだ、俺は十八文の医者に違えねえ、十八文が十八文と言うのがなんで恥だ、さあ、それが聞かしてもらいてえ」
「そう理窟をおっしゃっちゃ困ります」
「なにも理窟を言うわけじゃねえ、十八文が十八文で、十八文で暮らしを立てて、その十八文の中からチビチビ貯めて、それで伊勢参りに来たんだ、それを思うと十八文様々だ、有難くって涙が
「それはそれに違いありませんがね先生、そう物事をアケスケにやってしまっては
「まだわからねえ、この野郎、言って聞かせてやる、恥というのはな、学問のねえ奴があるような
「左様ですかねえ」
「さあ持って歩け、ちょうちんもちというやつはな、貴様のような薄っぺらな人間でも大臣大将の先に立って歩けるんだ、増長しちゃいけねえぞ、
仙公は泣きそうな
仕方がなしに仙公は十八文の提灯をぶら下げ、道庵先生はいい気になって山田の町を通って行くと、町の
「先生、道庵先生じゃございませんか」
大きな宿屋の二階から呼び留める声。
「おや」
道庵先生見上げると、品のいい切髪の美人が
「やあ
と言って先生は二階を見上げて立ち止まって、
「こちらに
「先生も御参宮?」
「はいはい」
「お宿は?」
「宿はまだきまらねえ」
「そんなら、ここへお泊りなさい、お
「そりゃ有難い」
「先生、そりゃ何です、そのお提灯は」
「はは、これこの通り」
道庵先生は大自慢で、いま買立ての提灯を仙公の手から取って二階の美人に見せました。
「十八文! いやですねえ」
「こいつも話せねえ」
「みっともないから、そんな物を持って歩くのをおよしなさい」
「それでもこの野郎が持って歩きたいというから、わざわざ持って歩かせるのさ、この野郎は仙公といって……」
「先生、よけいなことを言わなくてもいいじゃありませんか、早く行きましょう」
「さあ行こう」
仙公は女の手前、道庵先生がどんなことを
「あばよ」
道庵は二階の美人を振向く。
「待っていますから、早く行っていらっしゃい」
仙公に
「おや、先生、こんなところへ眠ってしまっちゃいけませんねえ、おやおや、もうグウグウ
道を通る人は
「酔っぱらうといつでもこれなんですからやりきれません、決して怪しいものじゃございません」
仙公は往来の人へしきりに言いわけをして、
「先生、こんなところへ寝込んじゃあ困りますねえ、なんとかして下さい、仙公をかわいそうだと思うなら起きてやって下さい、もし先生」
「ムニャムニャムニャ」
十六
二階で見ていた切髪の女、それは伝馬町の旗本神尾の先代の愛妾お絹であります。お絹はお松を養って、今の神尾の家へ奉公に出した妻恋坂のお花のお
お絹は今、
「按摩さん、あの
「へえ、あの一件でございますか、あれはあなた、
「エエ、捉まった? あの備前屋とやらで賊を働いた女の子が」
「いいえ、お玉の方はどこへ逃げたやら行方知れずでございますが、それと
「米友というのは、このあいだ
「エエ、そうでございます、それが大湊の浜辺へ海から泳ぎ着いたところを、隠れていた役人が大勢して、やっとのこと、
「それで、泥棒の罪は白状したのかね」
「ところが、剛情な奴で、お玉の行方も申し上げなければ、お玉に手引をさせて自分が盗んでいながら、自分の盗んだことは

「では、その米友という小男は、どうしても自分が盗まないと言うんだね」
「左様でございますとも、自分も盗みなんぞをした覚えはないし、お玉だって決して盗みをするような女ではないと、あべこべに
「そうしてみると、ほんとにあの二人が
「なに、それはもう証拠が上っているんでございますから仕方がありません、お玉の家にお侍衆の
「どうもその印籠やお金が女の子の家に
「大きに……この町でも二通りの説がございまして、お玉や米友は決して盗みをするようなやつらではないというものと、でも証拠が上っている以上はあいつらの仕事かも知れないとこう言っているのと、半々なのでございます」
お絹の伊勢へ来たのは一人ではありませんでしたが、今は一人で残っているのでありました。その連れというのは、番町の神尾の邸へ集まる例の旗本の次男三男のやくざ者が五人、それにお絹ともに女も三四人まじっていたのでありました。最初の晩、備前屋でお玉を呼んで間の山節を聞いた若い侍たちというのはそれらの連中で、そこですっかり持物を盗られてしまったというのもそれらの連中でした。お絹の一人だけ後に残った理由としては、この盗難の跡始末を見届けて行きたいということが一つでありましょう。
按摩が帰ると薄化粧をして、身なりを念入りにととのえた、お絹のあだっぽい
十七
噂の通り米友は大湊の浜でつかまってしまいました。
竿を持たせてこそ米友だけれど、
いろいろに調べられたけれどもついに白状しません。白状すべきことがないから白状しないのを、それを剛情我慢と
お玉の家にあった印籠と二十両の金とがただ一つの証拠となって、それについて弁明すべきお玉がいないのだから、
そこで米友は、ついに
縄がキリキリと肉へ食い込んで、
「米友が来る、米友が来る」
宇治山田の町では、縛られて通る米友を見ようとて道の両側へ真黒に人立ちがしました。
米友はこれから隠ヶ岡というのへ引っぱられ、お仕置に会うのであります。
宇治山田の神領では血を見ることを
引かれて行く米友を見物している町の人々のうちには、それを気味悪く思っているのもありました。たぶん
「
七兵衛は自分に最も手近で、そうして最もよく話をしてくれそうな見物人の一人をつかまえてこう尋ねました。
「ええ、盗人でございます」
「何を盗んだので」
「お侍衆のお金と持物をそっくり」
「どこでやりました」
「古市の備前屋というので」
「備前屋で?」
「お侍衆が
「あの男が?」
「左様」
「ほんとうに、あの男がやったのでございますかね」
「証拠があるんでございます」
「その証拠というのは?」
「
「はてな」
「あいつのほかに相手が一人あるんでございます」
「相手というのは?」
「それは女でございますよ」
「女?」
「間の山へ出ていたお玉という女」
「へえ、そりゃ……」
「それで女の方は
「それで、なんでございますか、もう白状したのでございますか」
「剛情者ですから白状しないんでございます、けれども証拠がありますから」
「それで、どうなるんでございます」
「これからお仕置になるんでございます」
「お仕置に?」
「隠ヶ岡というのへ連れて行って、あれから下へ突き落すのでございます」
「は――て」
「こちらは御神領でございますからお仕置にも血を見せないようにして、それで隠ヶ岡から下へ突き落すのでございます」
「は――て」
七兵衛は過ぎて行く米友の後ろ影を伸び上って見ていましたが、
「そいつは困ったことが出来た」
「何でございます」
「いえナニ、白状しないものをお仕置にかけて、もし本当の盗人が出た時には困りましょうなあ」
「それは困りましょうなあ」
「なんですか、その隠ヶ岡のお仕置場というのは誰でも見せてくれますか」
「山の下までは行けますがね、お仕置場のところへは入れませんや」
「へえ」
「しかし、山の下を廻って行けば行けないことはござんせんがね、そこは昼もお化けの出る古池で、人間の骨がゾクゾクしていますから、とても行かれませんや」
「左様でございますかね」
「それからその隠ヶ岡の下では、拝田村の芸人がたくさん集まって、あの男の命乞いをするといって騒いでいるそうでございますが、もうこうなってはお取上げになりますまいよ」
「左様でございますかね」
「あいつも根は正直者なんですが、ひょいとした出来心であんなことをしてしまったのでしょう、かわいそうといえばかわいそうですよ」
「それは気の毒なことをしました、どうも大きに有難う」
七兵衛はこれだけの話を聞いて、なんと思ったか、来かかった道を逆に帰って、米友のあとを追うて、見え隠れにどこまでもついて行き、
「こいつには困った、まだまだ俺もここいらで
七兵衛がこうして隠ヶ岡の下まで来ると、不意に一頭の猛犬が現われて烈しく吠えかかりました。
「
石を拾って打とうとするとその
ムク犬は、どこをどうして来たか、ゲッソリと
「叱ッ、叱ッ」
七兵衛は先を急ぐことがあるのであります。落ちていた竹の棒を拾って一打ちと振りかぶると、犬はその手へスーッと飛んで来ました。あぶない、その手を渡って来て肩先へ噛みついた――七兵衛が少しく身をかわしたから、ムクの歯は七兵衛の肉へは
「こん畜生、
七兵衛は合羽へ食いついた犬の首を抱えるようにして、力任せに後ろへ取って捨てる、痩せて弱っていた猛犬は七兵衛に後ろへ取って捨てられて

その
「ムクだ、ムクだ、ムクが出たぞ、どこから出て来たのだろう」
早くも土地の人が騒ぎ立てました。
先日、古市の町を騒がしたムク犬は、あれっきりどこへ行ったか行方知れずになってしまったのを、ここで偶然に姿を現して、また土地の人を騒がせました。
「どこにいたんだろう、あの犬はありゃ、
「痩せてるな、もとは熊のように
「あの旅人は、ありゃ何だ、見慣れない人だが、気の毒だ、お役所へ沙汰をしようじゃないか、あん畜生はホントに
お役所、お役人という声を聞くと、
「エエ、めんどくさい」
七兵衛は急に
気の毒な米友は、この騒ぎのうちに隠ヶ岡から地獄谷へ突き落されてしまい、役人も
十八
道庵先生は宿屋をうろつき出してしまいました。どうして、先生の
それにお絹の宿屋で上等の酒を飲ませられたものだから、
ただ好い心持で歩くのですから、どこへどう行くかわかったものではありません。そのうちに人家を離れて、河沿いの
倒れたきりで仰向けに
「ああ、よい心持だ、長安の大道、
先生、ひとりで
「どうして世の中がこう面白いんだか、世間でクヨクヨしている奴の気が知れねえ、おしなべて天下の事が十八文できまりがつくんだ、十八文より高くもなし、そうかと言って十八文より安くもねえ、安いと高いは買いようによる」
なんだかロジックが変になってきました。道庵先生はいよいよ好い心持でウトウトとしていると、三味線、
暫くすると、このせっかくの好い心持になっていた道庵先生が、
「ア、痛ッ」
いやというほど頭を
十八文で
「誰だ、誰だ」
「どうも相済みません、どうか御免なすって」
折重なって倒れかかった人は、低い声をして丁寧に道庵先生にお
「気をつけて歩きねえ」
「どうか御免なすって」
暗い中を通りかかって、ふと道庵先生の身体に
「お
「別に怪我もねえが、ずいぶん驚いたよ」
「どうも相済みません」
老人はお詫びを言って、道庵先生をとりなして、あえぎあえぎ向うへ行こうとするのを、
「おい、待った待った」
道庵先生が呼び止めました。
「何か御用でございますか」
「今お前さんは、病人を抱えていると言いなすったな、病人をつれてどこへ行くんだい」「へい、あの、お医者様のところまで……」
「お医者様? お医者様ならここにいる、ここにいる」
「へえ……」
「お医者様ならここに一人いるよ、ごく安いのが一人いるよ」
まだまだ先生も、決して酔が
小男を背中へ引っかけた老人は、暗い中から
「あなた様はお医者様でございますか」
「こう見えても医者は医者だよ、医者は医者だが薬箱持たぬ」
医者には違いないらしいが酔っていることは確かでありました。酔っていてもなんでも医者でありさえすれば、急病人にとっては渡りに舟であります。行きかけた老人は、幸いここで見てもらおうか、どうしようかと暫らく思案の
「急病人でございますが、ちょっと見ていただきたいもので」
「おっと承知、さあ、病人をここへ出したり出したり」
通りかけた老人も初めはなんだか薄気味悪く思ったようでしたが、道庵先生が至って気軽でその上に酔っていると見たものですから、安心したものと見えて、背にかけた小男をそこへ
「何だい、病気は」
「へえ……あの、
「癲癇? どれどれ、おや、まだ子供だな、いやそうでもない、大人かな、そうでもない、年寄みたようでもある、おかしな野郎だな」
道庵先生は、
「
「ええ……」
「高いところから落っこったんだい、それもちっとやそっと高いところから落ちたんじゃねえ。野郎、喧嘩をしたな、喧嘩をして
「先生、それに違いありません、どうかお静かに願います」
「お静かに? よし、それでは静かにしてやる」
道庵先生は、わざと段違いの低い声をする。
「まだ脈はございましょうか、見込はございましょうか」
「ある!」
「ありますか」
「生きる!」
「ほんとに生き返りますか」
「大丈夫!」
「助かりますか」
「助かる!」
「どうか助けてやっておくんなさいまし」
老人は意気込む。
「あたりまえの野郎なら、助かりっこのねえところだが、この野郎のは助かるように出来ている」
「へえ」
「息を吹き返させるのは
「へえ」
「まず
「へえ」
「
「へえ」
「
「へえ」
「
頭の鉢というのを鉢の頭といってのけました。当人は気がつかないで澄ましていたが、
「
「へえ」
「そのほか、身体中、
おかしなお医者さんだけれども、その
「おい、お
道庵先生は小男を半分起して、そのブラリとした左の手を持って
懐中紙入を出すと、一
「お
道庵先生は折れた右足の
「うーん」
「そうら生き返った」
「生き返りましたか」
「早く家へ連れて行って寝かしておけ、明日また俺が行ってやる」
「有難うございます、明日も来て下さいますか」
「行ってやるとも」
「有難うございます、大湊の船大工で与兵衛とお尋ねになれば直ぐおわかりになりますから」
「大湊の与兵衛……よし来た」
「それから先生、わたしがこうしてここで先生のお世話になったことはどうぞ
「安心しろよ」
道庵先生はまた
十九
お絹は、二見ヶ浦の海岸の
武士は松林の中を歩んで来る、お絹は、それを迎えるように松林の中へ入る。武士というけれども、まだごく若い人のようであります。
「宇津木さん、ここよ」
若い武士は歩みをとどめて笠を
「お前様は――」
「ええ、お松の
この武士は宇津木兵馬でありました。兵馬は
お絹の方は、いっこう平気らしく、
「宇津木さん、さだめてまたかとお驚きなすったでしょう、けれどもね、今度は前とは違いますよ、前とは違って真剣にあなたにお話をして上げなければならないことがあるのですから」
「お前様は御身分柄にもないことをなさる、
兵馬は
「そんな
兵馬の真面目になって苦りきっているのが、この女にはかえって面白いことのように見えるらしく、
「この間、古市の町で、背の小さい男が竿を振り廻していた時、それへ槍をつけたのは宇津木さん、あなたでしょう、運悪くそれをわたしが見ちまったのですよ。珍らしいところで珍らしい人に会って、わたしはなんだかゾクゾクと
自分が綱を引きさえすれば兵馬などはどうでもなるように、呑みきっている物の言いぶりでしたから兵馬は
「お
袖を振って歩き出すと、
「そんなにお怒りなさるものじゃありませんよ、まさかわたしの名で手紙も出されませんから、七兵衛の名を借りてあなたをここまでお呼び申したのは、あなたからはお松やなんかの行方も聞きたいし、わたしからはぜひともあなたにお知らせ申したいことがありますから……」
兵馬はそんな言葉を耳にも入れず、さっさと行ってしまおうとすると、
「あの、宇津木さん、兵馬さん、島田先生は死にましたよ、あなたはそれを知ってますか」
この一語は兵馬を驚かさないわけにはゆきませんでした。
「ナニ、島田先生が
ズカズカと立戻ってしまいました。
「ソレごらんなさい?」
「島田先生が亡くなられたというのは、そりゃ
「どうですか」
「そりゃ
「偽りなら偽りでようござんす、御信用のない者にお話をしたって
「そんなはずはない、嘘だ、偽りだ」
兵馬はそれを言い消してみたけれども、決して心が安んじたわけではありませんでした。まだ老病で死なれる歳ではない、また
「それは偽り、嘘にきまっている」
「あなたという人は、思いのほか不人情なお方ですねえ、現在自分のお師匠様が亡くなられたのにそれも知らず、せっかくそれを知らして上げようとするのをお耳にも入れず、それで武士道とやらが立ちますならば御勝手になさいまし……わたしは人柄がこんなで身を持ち崩してしまったから、真剣に言っても浮気に取られるのが
「ナニ、人手にかかって?」
「そのお話を聞いた時は、わたしのようなものでも涙がこぼれましたねえ、あの先生がまあ……」
「島田先生が人手にかかって……いよいよそれは偽りじゃ、嘘じゃ、人手にかかって亡くなられる、そのようなはずがない、余人ならば知らぬこと、島田先生が人手にかかって――そんなこと、そんなことのあるべきはずがない、天地が
兵馬の舌がおのずから
「それほどわたしの言うことを御信用なさらないのなら、それでようございます、もう何も申し上げますまい。なるほど、島田先生は人手にかかるお方ではない、今の世に尋常であの先生を手にかけるような
「そんならどうして先生が」
「毒ですよ、島田虎之助先生は毒を盛られておなくなりになりました」
「毒?」
兵馬の
「それだけお話し申し上げたら、もうわたしの役目も済みました、それではこれでお暇を致しましょう」
「ま、待って、もう暫く」
攻守勢いを異にしてしまい、兵馬はお絹の袖を
「わたしのお呼立てしたことが、真剣でしたことか浮気でしたことか、それがおわかりになれば、わたしはもうお暇を致します」
「よく教えて下された、
兵馬の眼から涙が落ちる。
「いいえ、お礼では痛み入ります。ああ、これでわたしの心持が届いて嬉しい」
「どうか御存じならば、もう少し詳しくそのことをお話し下さらぬか」
「知っているだけは、お話し申しましょうとも。けれども、こんなところではお話をしにくいから、あれへ参りましょう、あの
「いや、それは……」
兵馬はそれを
ほどなく兵馬の姿は大湊の町の
「兵馬さん」
お松は船の仕事着ではなく
「今日はどちらへおいでになりました」
「二見の方へ」
「
お松は兵馬の
「松林の中を
兵馬は腰掛に休んで茶を飲む。
「あ、それからお松、今日はまた珍らしい人に会ったぞ」
「珍らしい人とおっしゃるのは?」
「お前の親類じゃ、当ててみるがよい」
「わたしの親類と申しましても……」
お松にも親類の人もある、世話になった人もあるけれど、それらの記憶を呼び起すとあまり好い心持はしないのでした。
「それはお前にとっては
兵馬はわざと廻りくどく言ってみせると、
「まあ、誰でしょう、わたしの親類でそんな人――もし本郷の伯母さんでは……」
本郷の伯母さんという人は、お松を島原へ売った人、不人情で慾が深くて、そのくせ
「いや、そんな人ではない。言ってみようか、それは湯島妻恋坂のあの花のお師匠さんじゃ」
「まあ、お師匠さんに?」
お松は、絶えて久しい妻恋坂のお師匠さんのことを兵馬の口から聞いて、そぞろに昔のことが思われてたまりません。この時、町の方からがやがやと
「いや、与兵衛さん、御苦労御苦労、もうここでよろしい」
それは仙公を連れて、船大工の与兵衛に送られた長者町の道庵先生でしたから、兵馬も驚いたが、お松の方がいっそう意外な感じがして、直ぐに呼びかけようとしていますと、道庵先生はお松の方には気がつかず、与兵衛に向って、
「もうここでよろしいから帰ってくれ給え。うむ、もうどちらも大丈夫、心配することはない。野郎の方は少々
「へえ、どうも有難うございます、ほんとにどうも、全く先生のおかげさまで」
与兵衛は道庵の前へしきりに頭を下げる。
「それから、あの眼の方なあ、あの眼は野郎から見ると難物だからな。しかしまあ、ああしておけば十日や二十日は持つ、そのうち江戸へ出て来るというから、来たら
「へえ、何から何まで有難うございます」
与兵衛は繰返してお礼を言います。
ここで道庵先生が、野郎の方は少々
さきの晩、与兵衛が伝馬で若山丸へ頼みに行ったのはお玉一人であって、竜之助は、やはり与兵衛の家に隠されているものと見なければなりません。
道庵も江戸へ帰るものと見えて、すっかり
「先生、道庵先生」
「おやおや」
「いつぞや、先生のお世話になりました江戸の本郷の……」
「ああ、そうであったか、それはそれは。やはりお前さんもお伊勢参りかな」
「いいえ……」
「道庵先生」
今度は兵馬が呼びかける。
あちらからも道庵、こちらからも道庵で、先生めんくらってしまい、
「おそろしく道庵の売れのいい日だ。お前さんはどなたでしたかね」
「浪士に追われて、先生のお宅へ走り込んだことがありました、その節はえらいお世話になりました」
「そんなこともあったけかな……お前さんもなにかね、伊勢参りかね」
「いいえ違います、拙者は別に用向があって
「
「私共は、あの大船に乗るようにきまっておりますから」
「左様でござるか。それでは舟の出るまで、ドレ一ぷく」
道庵先生の一行は、与兵衛の仕立ててくれた舟で桑名から宮へ向う。
兵馬とお松とお玉とを乗せた若山丸は、十六反の帆を揚げて大湊の浜を船出する。
米友の