一
机竜之助は昨夜、お絹の口から島田虎之助の
「ああ、惜しいことをした」
という一語を、思わず口の端から洩らしました。
そうしてその晩、お絹は夜具を
その翌朝、
山の秋は既に老いたけれども、谷の
お絹は駕籠の中から景色を見る。竜之助は腕を組んで
「百蔵さん」
お絹はがんりきのことを百蔵さんと呼ぶ。
「何でございます」
「まだその
「もう直ぐでございます、この辺から登りになっていますから、もう少しすると知らず知らず峠の方へ出て参ります」
「なんだか道が
「峠へ出るまでは少し廻りになりますから、富士の山に押されるようなあんばいになります、その代り峠へ出てしまえば、それからは富士の根へ頭を
と言いながら、竜之助の
「それでもまあ、天気がこの通り
「天気はよいけれども、お前さんのために飛んでもないところへつれ込まれてしまいました」
「へへ御冗談でしょう、あなた様の
「でも、お前さんが、山道は景色が好いの、
「はは、その口前の好いのはどちらでございますか、この道は
「そんなつもりでもないけれど、わたしも実は本道が
「いや、どっちへ廻っても怖いものはおりますぜ、この道を通って身延へ出るまでには、きっと何か別に怖い物が出て参りますよ」
「おどかしちゃあいけませんね、何が怖いものだろう」
「ははは、別に怖いものもおりませんが、山猿が少しはいるようでございます、それから、どうかすると熊が出て参ります」
「怖いねえ」
「先生が附いているから大丈夫でございますよ」
竜之助は前の駕籠で、二人の話を耳に入れている。がんりきもなれなれしいが、お絹もなれなれしい。二人ともになれなれしい口の
お絹という女、誰にでもなれなれしい口の利き方をする。旗本のお部屋様として納まっていられない女。
がんりきが昨夜の言い分、お絹はそれを知らないから、平気で話をしているが、たとえ冗談にもせよ、そういうことを聞いている竜之助にとっては、二人のなれなれしい話し声を不愉快の心なしに聞いているわけにはゆくまいと思われます。
「ここが峠の頂上でございます」
ようように山駕籠が徳間峠の上へ着きました。
「さあ若い衆さん、休んでくれ」
徳間峠の上で二つの駕籠が休む。がんりきは腰に下げていた一
「先生、お一つ、いかがでございます」
駕籠の中の竜之助に持って行って、次に、
「若い衆さん、お前も一つどうだね」
「へえ有難うございます」
この
「
「駕籠を出ていただきましょう」
がんりきが、また
「百蔵さん、お前の手はそりゃ……」
「ええ?」
がんりきは驚いて手を引込ませ、
「ナニ、いたずらでございます」
と言って、左右の駕籠舁の方に気を兼ねるらしい心持。けれども質朴な駕籠舁は、この時に眼を見合せました。
「こりゃ甲州無宿の
こう言って駕籠舁どもが、一度に立ち上って
「抜いた抜いた!」
噪ぎ出した駕籠舁が急に仰天して逃げ出します。見れば駕籠から出た机竜之助が刀を抜いて立っていました。
「先生、何をなさいます」
竜之助は物を言わず、逃げて行く駕籠屋は追おうともせずに、がんりきの声のする方へ向って来ますから、
「あ、危のうございます」
がんりきも驚く、お絹も驚く。驚いて逃げるがんりきの方へ寄って行く竜之助、ふらふらとして
がんりきは、竜之助の刀を避けて、
「先生、御冗談じゃありません、わっしをどうしようと言うんでございます」
がんりきは木の蔭から叫ぶ。その声をたよりに刀を振りかぶった竜之助。
「先生、眼が見えるんでございますか、わっしをお斬りなさるんですか」
がんりきは、刀を振りかぶった竜之助の
「あ、危ねえ」
がんりきは、楢の木の蔭に
「
是より
がんりきの飛んだ方へ竜之助が向き直る、そうして
「あ、冗談じゃねえ、先生、眼が見えるんだね」
がんりきは、この時、本当にまだ竜之助の眼が見えると思ったくらいですから、この道標の蔭からいずれへ逃げてよいかわからない。甲斐国巨摩郡と書いた方へ出れば右を斬られる、駿河国庵原郡と書いた方へ出れば左を斬られる、こうしていれば道標もろとも前から
そこへ歩み寄って来た竜之助。がんりきはたまらなくなって、
「おい、
この時、水を割るようにスーッと打ち下ろした竜之助の刀。絶体絶命で脇差へ手をかけながら左へ飛び抜けたがんりきの右の手を、二の腕の半ばからスポリ、血が道標へ
「あ痛えッ」
がんりきは、斬り落された切口を左の手で着物の上から押えて横っ飛び。
「
尋常ならば眼を廻すべきところ、腕一本落して命を拾い出そうとするがんりきは、
「早くお逃げなさいと言うに」
「どうしたんでしょう、まあ」
お絹は、さすがに
「どうもこうもありゃしねえ、早くわっしの逃げる方へお逃げなさい」
がんりきは峠道を飛び下りる。お絹はそれと同じ方へ飛び下りる。駕籠屋は、ただ白刃の光を見ただけで
刀の
やがて持っていた刀をそこへ投げ出すと
昨夜の雨がまだ降り足りないで、富士の頭へ残して行った一片の雨雲がようやく拡がって来ると、白根山脈の方からも、それと呼びかわすように雨雲が出て来る。それで、天気が曇ってくると
竜之助は道標の下に倒れて、
ちょうど
「雨が降っているようだな」
まだ本当に正気には返らないで、
「ああ、水が飲みたい」
で、また我に返りました。
せっかく、よい心持で、いつまでも眠りに落ちようとするのに
「水、水、水」
こういう時の夢には、
「あ、有難い、水」
と言って竜之助は、それを手に
竜之助は、これもかなり長い時の間、夢うつつの境に水を求めて昏倒していましたが、村方の方からは駕籠だけも取り戻しに来そうなものだが、それも来る様子はなし、腕を斬られて逃げたがんりきと、それと一緒に逃げたお絹の方からも何の
「まだ雨が降っているようじゃ」
もうかれこれ日は暮れる。その時分ようやく正気がつきかけると、さて自分はいま峠の上に寝ているな、うむ、あのがんりきという奴を斬った、駕籠屋が逃げた、そもそもここは甲斐と駿河の境だと彼等の話に聞いていた、その前にかの古寺、その前は……それにしても水が飲みたい――
「水、水」
咽喉は乾いてゆくけれど、
ここは甲州入りの
二
甲斐の白根山脈と富士川との間の山間一帯に「山の娘」という、名を成さない一団体の
仕事の暇な時分に、山の娘は他国へ行商に出かける。
山の娘は、揃いの
なんとなれば、これらの娘たちが、もし旅先で、やくざ男の
それと共に、一隊の間には、たとえ離れていても糸を引いておくような連絡が取れていて、一人が危難に遭うべき場合には、たちどころに十人二十人の一隊が集まり得るようにしてあるから、たとえいかなる悪漢でも、その中の一人を犯すことはできないのでした。故に山の娘は、知らぬ他国へも平気で出入りして怖るることがないのであります。それとまた、山の娘の一徳は秘密を厳守する力の優れたことで、彼等の間において約束された秘密は、それは大丈夫が金石の一言と同じほどの信用が置けるのであります。女は秘密の保てないものという定説が、山の娘だけには適用しない、彼等はその仲間うちの秘密を他に洩らすことのないように、得意先の秘密と人の秘密をも洩らすようなことは決してないのです。大塩平八郎の余党の中には甲州へ落ちたものが少なからずある、その中の幾人かは、この山の娘たちによって隠され保護されて一身を全うしたという説は、あながち嘘ではないようです。
ちょうど降りかかった
「さあ、峠の上へ着きましたぞい」
「
組の
「まあ、ここに駕籠が二つも乗り捨ててあるが、どうしたものであろうなあ」
「物扱いの悪い人たちじゃ」
その駕籠の周囲へ山の娘の一隊が集まる。
「
彼等はようやく異様な眼で、そこらあたりを見廻し、
「おお、怖い、落葉の中に光る物が……」
最も早く見つけたのは、組の中でもいちばん若い人。
「あれあれ、血の
山の娘の一人が絶叫する。
「血の塊と言わんすか」
駈けて行って見ると、
「おう、気味の悪い、人の片腕、こりゃ人間の片腕ではございませぬかいなあ」
落葉の上の片腕、血は雨に打たれてドロドロにとけて流れている。
「ああ、ここには人が一人殺されて倒れていますわいなあ」
「ナニ、人が殺されて?」
山の娘は、今度は走り出さないで、十余人が一度にかたまってしまう。
「皆さん」
真中に立った頭の女は三十ぐらいの年頃で、血色がよくて分別のありそうな人。
「はい」
一同は神妙に返事をする。
「身延参りをなさんす旅の人が、今これで
「それは姉さん次第」
「それなら皆さん、駿河へ帰るも甲州へ入るも人家までは同じぐらいの
「承知しました」
「わたしが先へ立って参ります、お浪さん後からおいでなさい、いちばん若い人を真中にして」
「心得ました」
「わたしが
「よろしゅうございます」
「それで、人家へ着いたなら、お役人の方へ
一団になった山の娘は
「長い刀……」
頭のお徳は竜之助が捨てた刀を落葉の中から拾い取る。
「この片腕……」
血が雨で洗われている片腕――さすがに気味を悪がって
「この人は、こりゃお武家じゃわいな」
恐る恐る竜之助の傍へ寄る。
「水、水が飲みたい」
「え、えッ!」
山の娘たちは一足立ち退く。
「生きていますぞいな、このお人は」
「なんぞ物を言いましたぞいな」
「もし」
「うーむ」
「もし」
背を
「このお人は生きてござんす、その片腕を切られたのは、このお人ではござんせぬ、薬を飲まして呼び
薬はお手の物。
「水があるとな」
「どこぞ
若いのが一人出ようとするから、
「いいえ、離れてはなりませぬ、一足なりと一人でここを出てはいけませぬ。皆さん、笑いなさんな、このお人に、わたしが口うつしでこの薬を飲まして上げるから」
山の娘の
竜之助を抱いてお徳は、口うつしに薬を飲ませる。
男に許すことを知らない山の娘も、人を助ける時には大胆な挙動をする。よし、これが竜之助でなくして、道に倒れた悪病の乞食であったにしても、その一命を取り返す必要があれば、山の娘は必ずこういうことをするのです。
無論、一行の中には、それを怪しむものもなければ笑うもののありようはずがない。
「はーっ」
と気が
「お気がつきましたかいなあ」
「有難い」
「お気を確かにお持ちなさいませ」
「もう大丈夫」
竜之助は身を起して、道標の傍に立とうとしたけれど足がふらふら。
「お危のうござんす」
山の娘たちが押える。
「このお刀はあなた様の……」
「ああ、そう。いや、どうも有難い」
「拭いて上げましょう」
山の娘は
「ここに人の片腕が斬り落されてござんすが、こりゃどうしたわけでござんすかいな」
「ああ、それは……」
竜之助は刀を
「悪い奴が出たから斬ったのじゃ」
「悪い奴、その悪い奴は、片腕だけを残してどっちへ参りましたかいな」
「いずれへ逃げたか知らぬ、斬ると逃げた、そのままわしは眠くなってここへ倒れて寝た故に、前後のことは更にわからぬ」
「悪い奴でござんすなあ。皆さん、その手をここへ持って来て、お武家様にお目にかけるがよいぞや、お見覚えがありなさんすかも知れぬ」
「それもそうでござんすな」
お浪が拾って来た、がんりきの片腕。
「どうぞこの悪い奴の片腕を、
「はは、わしは眼が見えぬのじゃ、この通り不自由者じゃ」
「お目がお不自由……まあ、そうでござんしたか、それは失礼なことを」
山の娘たちは、今更のように竜之助の面を見る。
「ああ、皆さん、この片腕はなあ」
腕を持って来たお浪が、何か気がついたように叫ぶ。
「その片腕が、どうなさんした」
「この片腕には入墨がしてありますぞいな。この入墨は甲州入墨といって、甲州者で悪いことをしたのが、甲府の
「まあ、どこにそんな入墨が」
「これ、この通り、手首から五寸ほどのところに二筋の入墨」
なるほど、斬り落された腕にはその通りの入墨がある。
「
「それはそうとあなた様、お不自由なお身で、おつれもござんせぬにここへおいでなさいましたかいな」
「つれはあったけれど、やはりその騒ぎで逃げてしまった」
「そうして、ここはお関所のない山路、どうしてこんなところへ」
「これから行けば身延へ出られるとやら。身延へ参詣して甲州街道へ案内すると言うてつれて来られたが」
「左様でござんすかいな、なんにしてもこの雨の降るところでは……皆さん、どうして上げましょうぞいな、このお方様」
「幸い、乗り捨てなさんしたあのお駕籠、あれへお乗りなすったら、わたしたちが
三
東海道筋から甲州入りの順路は、
「あいつはたしかに甲州者なんでございます」
兵馬に向って七兵衛が言う。
「どうしてそれがわかります」
「言葉にも少し甲州
「甲州入墨というのは?」
「手首と
「甲府を追放されたものが甲州へ入るとは、ちと受取りがたい」
「なに、あいつらはそんなことに
「しかし、間道から身延へ出ないで、信濃路へ
「どうしてどうして。あれごらんなさい、あの
「もしまた、さきにこの川へ出て、船で逆に東海道へ戻ってしまうようなことはなかろうか」
「それは何とも言えません……なにしろこの川は、
「舟改めはどこでやります」
「やはりこの万沢と十島とでやるのでございます。それにひっかかって
「七兵衛どの、そなたの言うように、あの三人が果して一緒におるものやら、それとも離れ離れになっているものやら、それもようわからぬではないか」
「三人は
こんな話をしながら兵馬と七兵衛は、富士川岸の険路を、前に言ったように
「昨日の雨で、少し水が出たようでございますが、ナーニ、このくらいなら大したことはございません、川留めになるようなことはございません」
水のひたひたと
「この川は富士川の
「富士川の支流ではござんすまい、駿河境の方から出て富士川へ流れ込むのでございましょう。これだけの流れでございますが、雨上りにはかえってこんなのが厄介で……」
と言いさして、板橋を半ばまで渡り
「宇津木様、少しお待ちなすって下さいまし」
七兵衛は、先へ行く兵馬を呼び止めて、自分はやっぱり川の少し上手の方を見ています。
「どうしました」
「どうも何だか、あすこに変なものが、あの石と石との間に挟まっておりますな」
「おお、何か白いものが……」
夕暮れのことであり、少し離れているところでしたから
「どうやら、人間の腕のように見えますが、あなた様のお眼では……」
「左様、わしが眼にもどうやら……」
「向うへ廻ってよく調べてみましょう」
一旦、板橋を渡りきって七兵衛は、岩の間を飛び越えてそこへ行って見る。
「宇津木様、この辺でございましたな」
「そこへ真直ぐに手を伸ばせば……」
「それではこの棒で突き出してみますから、そちらで受けて下さいまし」
岩の間に
「おお、たしかに人の片腕」
「なるほど、人の片腕に違いございませんな」
七兵衛はその片腕を棒の先で
「こんなことだろうと思った」
兵馬にはその意味がよく呑込めないでいると、
「宇津木様、
「図星とは?」
「この通り、御覧下さい、この腕に二筋の入墨がございます、これがさいぜんお話し申し上げた、甲州入墨でございます」
「なるほど」
「どうか、スパリとこの腕をやった切口をよく御覧なすって下さいまし、斬手がどのぐらいの奴だか、それをよく御覧なすって下さいまし」
「ははあ」
兵馬は
「よく切ってある」
「さあ、斬った奴は生きてるか、斬られた奴は死んでしまったか、これからがその
「
「今晩はこの福士へ泊って、土地の人によく地の理を聞いてみましょう。地の理を聞いてから、この川上へ行って見ると、思いにつけぬ
七兵衛はなお川上を見る。兵馬はその腕をよく見ている。
「この腕がここへ流れつくまでには、かなりの時がたったであろう……斬って逃げたか、斬られて逃げたか」
「眼があんなでなけりゃあ、腕だけで逃す斬手ではございませんがね。またこっちの奴にしたところで、片一方斬られて、それなりで往生する奴でもございません。ところであのお絹という女、あの女がどっちへついて逃げたか、それは考え物ですね。この腕はこうして置くもかわいそうだから、砂の中へ埋めておいてやりましょう。まあ、あの野郎も、この腕一本のおかげで命拾いをしたと思えば間違いはござんすまい、この腕はあの野郎にとっては命の親でございますから、そのつもりでお
七兵衛は棒の先で砂場へ穴を掘って、足の先で腕を
四
福士の宿屋へ泊った七兵衛と兵馬。
七兵衛は
「ねえ、宇津木様、知らぬ山道を歩くには、この細引というやつがいちばん
兵馬は旅日記を書いていましたが、
「なかなか、器用に
「へえ、子供の時から慣れておりますからな。子供の時分に、こうして
七兵衛は見ているまに二間三間と
「長い道中をする者は、これと火打道具だけは忘れてはなりません。あなた様なんぞは煙草をお
「それは忘れはしない」
「私共のように煙草を喫みますと、火打道具は忘れろと言っても忘れることじゃござんせん。おやおや、そんなことを言ってる間に、煙草が喫みたくなって参りました」
七兵衛は細引をやめて煙草入れを取り、日記を書いている兵馬の方をちょいと
「大分、御精が出ますね」
「日記は、
「感心なことでございます。私共なんぞも若い時に、もう少し勉強をしておけば、もう少しよい人になったものでございましょうが、貧乏や何やかで、つい学問の方に精を出すことができませんで、今となっては
七兵衛は
「おやおや、絵図をお書きになりましたね。なるほど、甲州入りの絵図でございますね。よくこんなに細かにお書きなすったものでございますね。私なんぞはこの甲州を通ることが幾度あるか知れませんが、まだ絵図面を取ってみようというような考えを起したこともございませんのに、さすがにあなた様は」
七兵衛は兵馬が書いた甲州図を見て、
「なるほど、こちらの方が
「いや、これはほんの見取図で、まだこれへ書き入れないほかの山や川や村がいくらもあるでしょう」
「そう言われるとそうでございますね。信州
「七兵衛どの」
兵馬はようやく筆を休めて、
「さてどうも長の旅路を、いろいろとお世話にあずかってかたじけない、なんともお礼の申し
「またしてもその御心配、それはお止めになされませ、そういうことにかけては私共は、これで気楽な身分でございます」
兵馬は七兵衛の
一緒に旅をしていても、不意に姿を見せなくなることがある。そうかと思うと不意にどこからともなく飛んで帰る。
「うちの方は屋敷も田畑も都合よく人に任せて来ましたから、これから当分、伊勢廻り
と言って、上方からついたり離れたりしているのであった。気が利いていて足が
「宇津木様、私共はあなた様のお力になるというよりは、こうして旅を
「いつもながらそれは有難いお心、本望遂げた上で、また改めてお礼のできる折もありましょう」
「いや、その時分には、私共はまたどこへ旅立ちしているかわかったものではございませんから、御本望をお遂げあそばしたとて、お礼なぞは決して望んではおりません。その代りに宇津木様、あなた様のお口から七兵衛という言葉を、一口もお出し下さらぬようにお願い申しておきたいんでございます」
「そりゃ妙なお頼みだが」
「ちと変っておりますけれど、あなた様が御本望をお遂げあそばします間の七兵衛と、あなた様が御本望をお遂げあそばしました後の七兵衛と、七兵衛に変りはございませんけれど、七兵衛の名前に大した変りがございますから、どうか七兵衛、七兵衛とおっしゃらないように」
「ははは、いよいよおかしいことを言われる」
兵馬は何の
「ははは、おかしいようなことでございますが、なかなかおかしいことではないんで、うっかり七兵衛とおっしゃると
「罰が当る?」
「そうでございます、御承知の通り私共は
こんな話をしてその晩はここに泊り、兵馬と七兵衛はその翌朝、暗いうちに福士川の岸を上ります。
岸がようやく高くなって川が細くなる。細くなって深くなる。峰が一つ開けると
「この水は、あの山を右と左から
山の
「はて、この谷の中に何かいるようだ」
七兵衛は
「宇津木様、この下に何かいますぜ、熊か猪か、それとも鹿か人間か、ひとつ探りを入れてみましょう」
手頃の石を拾って谷底へ投げ落すと、
「危ない、誰だい石を投げるのは」
谷底から子供の声。
「おや、子供の声のようだ」
七兵衛は深く覗き込んで、
「誰かいたのかい」
「人間が一人いるんだよ」
「人間が……そんなところで何をしているんだい」
「何をしたっていいじゃないか、お前こそ上で何をしているんだい」
「俺は旅人だが、下で音がするようだから石を
「私一人だよ、もう石を抛ってはいけないよ」
「もう抛りはしない、その代り道を教えてくれないか」
「お待ち、今そこへ登って行くから」
「いいよ、お前が登って来なくても、こっちから下りて行く」
「危ないよ、上手に下りないと岩の上へ落ちて身体が粉になるよ」
「大丈夫――宇津木様、こんな谷底で子供が一人で何をしているのだか、ひとつ下りて行ってみましょう」
七兵衛は兵馬を残して、木の根と
「小僧さん、どこだい」
「ここだよ」
「
「そうじゃないよ、もっと大きな物を捕るんだ」
「山魚より大きなもの――それでは
「そんな物じゃあない、もっと大きな物よ」
「鰻や鱒より大きなもの――はてな、こんなところにそんな大きな魚がいるのかね」
「いるから捕りに来るんじゃないか」
「なるほど、鰻や鱒よりも大きい……まさか
「ははあだ、鮪や鯨よりもっと大きな物がいるんですからね、お気の毒さま」
人を食った言い分で七兵衛もいささか
「鮪や鯨より、もっと大きなもの――それをお前はそのお
「そうだよ、その通り」
ああ言えばこう言う、少しも
なるほど、少年は手に一箇の
「どうだ、おじさん、わかったかい、これは鮪や鯨より大きいものだろう」
「何だい」
「このピカピカ光る物をごらん」
「はてな」
「このお椀を左右へこんなに動かすと、それ、だらだらと砂が
「なるほど」
「知らなけりゃ教えてやろう、こりゃ
「なあーるほど」
「国主大名のような
「なるほど、こいつは恐れ入った」
「この甲州という国は、昔から金が出る国なんだよ」
「そりゃわかった、黄金の話はまた後から聞かしてもらおう。小僧さんや、あの山はありゃ何という山だい」
「あれか、あれは土地では
「お化けと狼が?」
「あの裏山へ廻ればお化けと狼がいるという話だけれど、こっちの方を通ればそんなものは出て来やしない」
「けれども、あっちを通れば徳間の方へは近いのだろう」
「近いには近いけれど、なにも、わざわざお化けや狼に食われに行かなくてもよかろう」
「そうお前のように、いちいち理窟攻めにされてはたまらない、ただ聞いてみただけのことだよ」
「だから親切に教えて上げるんだよ、
「そうして小僧さん、お前はお化けや狼の出るという山の傍で、
「ナニ、怖いことがあるものか、悪いことをしていなけりゃ怖いことはねえ」
「それでもお前、その袋にいっぱい入っている
「ははは」
「泥棒が、お前の後ろから不意に出て来て、その黄金の塊をよこせと言ったらどうする」
「ははは、よこせと言ったら
「でもお前、大金だろう」
「ナーニ、これっぽっち。気の利いた泥棒はこんなものに目をくれやしない、
「どこの山へ」
「そりゃ教えるわけにはいかねえ」
「ちっとわけてくれないかい」
「おじさん、黄金が欲しけりゃ、私の弟子におなりよ、一山当てれば何百万両になるんだから、泥棒よりよっぽど割がいいよ」
七兵衛はこの子供にまくし立てられてしまいそうで、思わず
「ときに小僧さんや、お前は金をたずねてこうして山奥を歩いているらしいが、私共はちと人を尋ねてこの山の中へ来たもんだ。お前はこの二三日に、この
「見かけたよ」
「どんな人を見かけたい」
七兵衛も少し乗気になる。
「山の娘たちを見かけたよ」
「山の娘たちというのは?」
「山の娘たちというのは、この国から出て、他国へ商売に行って、この国へ戻る娘たちのことだよ」
「そうか、そのほかには?」
「そのほかにはお前さんを見かけたばかりだ」
「刀をさした人とか、
「そんな人は……そんな人は見かけなかったよ」
「では、その山の娘たちというのは、どっちから来てどっちへ行ったえ」
「それは駿河の方から来て、この少し先の
「そうか」
七兵衛はついにそれより以上の要領を得なかったから、
「有難う、小僧さん」
「さようなら、おじさん」
七兵衛が岩を飛び越えて、また上へ登ってしまうと、暫くして
「うまく
「おーい」
「おーい」
高いところの七兵衛と兵馬、谷の中の金掘り少年と呼び
「右へ、右へ」
少年が右の方を指さすのに、兵馬と七兵衛はそれを知りながら面を見合せて左へ向う。
「右へ、右へ」
少年はしきりに叫びながら手を振って、
「おやおや、あの二人は左へ廻ったな、すると
上の二人は、燧台に近い細道を川沿いに、
「あの小僧、なかなか人を食った小僧でございます、この山の後ろへ廻ると、お化けと狼がいるなんぞと大人を
「なるほど、この山は要害の山、
「左様でございます、土地の人は燧台とも言うし、城山とも言うそうでございますから、昔は城があったものでございましょう」
「あれ、あの小僧が手を振っている」
「右へ、右へと
金掘りの少年は山の
「あのおばさんが、江戸へ連れて行ってくれると言ったから、江戸へ行ってしまうんだ、こんな山の中では出世ができない、いくら
燧台の裏へ先廻りした金掘りの少年は、岩の間へ掛け渡した、半分は
「おばさん、おばさん」
笠も袋も投げ出し、
「人が来るよ」
暗いところから
「忠作さん、どんな人が来ます」
「五十ぐらいの
「ああ、それでは……」
お絹は、
「忠作さん」
金掘りの少年の名は忠作というらしい。
「なに」
「今あの人は寝ているから、あのままにしておいて下さい」
「ようござんす」
「それから忠作さん、お前は江戸へ出たい出たいと言っていましたね」
「ああ、おばさん、お前がつれて行ってやると言ったじゃないか」
「ええ、あの人の
「早く癒ればいいな」
「いつ癒るか知れないからね……」
「早く癒してやりたいな」
「早く癒してやりたいけれども、こんなところではお医者さんもなし、お薬もないから、いつ癒るんだか知れやしない」
「気の毒だな」
「それだから忠作さん、こっちへおいで」
お絹は、そっと奥の方を
「気の毒だけれど、あの人をああして置いて、二人で江戸へ行ってしまいましょうよ」
「ええ?」
忠作は眼を

「あんなに怪我をした人を置放しにして出かけるのかい」
「でも、いつ癒るんだか知れやしないもの」
「だって、それはおばさん、薄情というものだろう、あの人を置放しにして出かけて行ってしまうなんて」
「そうしてもいい人なんだよ、あの人はお前、本当は泥棒なんだよ」
「泥棒?」
「ああ、泥棒で悪い奴なんだから、助けない方がかえってためになるのですよ」
「だって、おばさん、お前は連れの人で、道で
「それは、お前を驚かさないようにわざとそう言っておいたのよ、本当はあの人は泥棒で、入墨者といって、あの人をかくまったことが知れれば、お前もわたしも罪になるのだよ」
「どうして、おばさんはそんな人と連れになって来たの」
「それにはわけがあるんだけれど、今お前が知らせてくれた人が来るというのは、きっとお役人か何かだろうと思う、それで早く逃げなければお前もわたしも縛られてしまう」
「そりゃ困ったな」
「さあ、お前案内して、
「だっておっ
「そんなことを言ってる時ではありません、甲府まで逃げれば知った人もありますから、後はまたなんとでもなります」
「それじゃおばさん、逃げよう」
「早くそうしておくれ」
「待っておいで、大事なものを持って来るから」
「何を持って来るの」
「
「黄金を?」
「
「病人に
「ああ、いいよ」
忠作は、また奥の洞窟の方へ取って返して一包の袋を重そうに提げて来ました。
「これだよ」
「中に何があるの」
「黄金」
「黄金というのは、あの
「そうだよ」
「どうしてそんな物を持っているの」
「
「それがみんな黄金なら大したもの、三年や五年どころではない、一生、楽に暮して行けるかも知れない」
「それではおばさん、これを持って行こう、きっと江戸へつれてっておくれ、江戸へ行ったらこの黄金を売っておばさんにもお礼をするから」
「そんなませたことを言うものではありません、さあ、それを持ったら早く」
「
「どっちでもお前のいいように」
「けれども、あの人を一人で置くのはかわいそうだな」
「大丈夫だよ、今に役人が来て、つれて行ってしまうから。ぐずぐずしているとこっちが危ないのだから」
「それでは……里へ行ってるおっ
「だって当分は帰らないと言ったそうじゃないか」
「二月ほど経ったら帰るかも知れない」
「そんな
「おっ母は里へ行って、またほかの人にお嫁に行くんだと言っていたから、もうここへは帰らないのだろう」
「それでは誰も心配する者はないはずだから、早く行きましょう」
「江戸はいいところだろうな、人の話に聞いたばかりで、早く行って見たい見たいと思ったが、今日はおばさんに連れて行ってもらえるかと思うと、こんな嬉しいことはないけれど、この小屋も住み慣れてみると何だか惜しいような気がするね」
この場合に、江戸へ行きたがっていた少年の心をお絹が心あって
「
「何か言ってるよ」
耳を澄ますと、
「御新造、いやどうも」
二人は面を見合せて、
「あれ、また何か言っている」
奥では引続いて、
「いよ、お二人様」
二人は奥を見込んで、
「眼が
奥の声、
「もうこっちのものだ」
お絹忠作はニッコリと笑って、
「
奥では、つづいて、
「これからがこっちの世界と出る、へん、甲州ばかりは日が照らねえ、入墨がどうしたと言うんだ、これから御新造をつれて、泊り泊りの宿を重ねて
がんりきの
五
ここは
お徳は美しい女ではないけれども、いかにも血色がよく働きぶりのかいがいしい三十女。ここでも紺の
「ほんとにお見せ申したいくらいでござんす、今日のこのお月様を」
お徳は砧の手を休めて、竜之助の方を向いて絹物の裏を返す。
「せっかくなことで。月も花も
「萩の花は咲いておりませぬけれど、ごらんなさいませ、この通り月見草が……」
「月見草が……しかし、やっぱり見ることはできぬ」
「そうでござんした……月見草はよい花でございます」
「あれはさびしい花であるが、
「
「御身の
「もとからこの山家の人ではございませんでした」
「どこから来た人?」
「上方の方から参りました、いいえ、縁もゆかりもない人で、ふとした縁から一緒になってしまったのでございます」
「甲州は
「
家の奥の方でこの時、書物を
「よく勉強していますな。あの子は
竜之助は、奥の間で本を読んでいる子供の声に耳を澄ましている様子です。
子供は
「養うて教へざるは父のあやまち
教へて厳ならざるは師のおこたり」
というような文句が教へて厳ならざるは師のおこたり」
「今はもう、あの子の成人するばかりが楽しみでございます。
母もやっぱり、わが子の読書の声を嬉しがって
「お母さん」
「
「ああ」
月見草が咲いた中から、
「おじさんもいるの?」
「おじさんもここでお月見を……お前も来てあのお月様をごらん」
お徳はわが子を縁側の方へ
「月見草がよく咲いてるね」
と言って、子供はその花を一つ

「あ、これ、その花を取ってはいけません、それはお前のお父さんが大好きな花なのだから大切にしなくては」
「でも、こんなにたくさん咲いているから一つぐらい」
「一つでもいけません、せっかく、月見草がお月見をしているものを、摘み取るのはかわいそうですよ」
「花が月見をする? それはおかしいね、母さん」
「ごらん、この月見草という花は、日が暮れるとこんなに咲いて、日にあたると
「坊は、こんな花よりも桜の花や、つつじの花が好きさ」
「お前のお父さんはまたこの花が好きであったのだから、お前も好きにおなり」
「それでは好きになろう、この花と一緒にお月見をしよう」
「それがよい。そんならおじさんの傍へ行って、縁側へ腰をかけてお月見をしながら、また
「そうしよう。おじさん」
子供は勇んで竜之助の傍へ来る、竜之助は黙ってその頭を
「おじさん、お前は眼が見えないのだろう?」
「ああ、眼が見えない」
「それでお月見をするのはおかしいね」
「それでもその月見草でさえも、眼がなくてお月見をしているではないか」
「そうだな、眼がなくても月が見えるだろうか知ら」
「それは見える」
「では、この月見草の花は、どんな色をしているか当ててごらん」
「黄色い色をしている」
「よくわかるね。それではおじさん、坊がここへ字を書くから、その字を読んでごらん」
子供は棒切れを取って竜之助の
「さあ、何という字を書いた」
「それは読めない」
「それごらん」
「どうにも、おじさんにはそんなむずかしい字は読めぬ」
「教えて上げようか」
「教えてくれ」
「いや」
「教えてくれ」
「いや」
「その字が知りたい」
「教えればおじさん、
「
「蔵太郎や、おじさんを焦らさないで早く教えてお上げ」
「それでは教えて上げよう、いま書いたのは月という字」
「ああ、月という字――そう言おうと思っていたところ」
「聞いてから言っても駄目。それではおじさん、戦人のお話をしておくれ」
「おじさんに戦人の話をしてもらうより、お母さんに歌を聞かしておもらい」
「お母さんに歌を?」
「お前のお母さんは歌が上手であった。話は家の中でするもの、歌はこういうところでうたうのがよい」
「それではお母さん、歌をうたって聞かせておくれ」
「母さんに歌などがうたえますことか。それはおじさんが
「嘘ではない。峠から下りて来る時、山駕籠の中でうつつに聞いていたがよい声であった。あれをひとつ、この月の晩にここで聞かしてもらいたい」
「まあお恥かしいこと、あんなのは歌でもなんでもありゃしません、
「そうではない、土地の歌は土地の人の口から聞かねば
「甲州出がけの
「そうそう、それにもう一つは何と言ったか、生れ故郷の……という歌」
「生れ故郷の
「それそれ、どうかあれをひとつ聞かしてもらいたい」
「ああいう時の調子では
「そのように言わずにぜひ頼む……月があっても光が見えぬ、花があっても色の見えぬ身には、声と音を聞いて楽しむよりほかに道がない、どうぞその歌を聞かして拙者の心を慰めてもらいたい」
「そうおっしゃられると……」
お徳は竜之助の
「それでは、歌ってお聞かせ申しましょう、お笑いなすってはいけませぬ」
「どうぞ頼みます」
お徳は
甲州出がけの吸附煙草
涙じめりで火がつかぬ
旅をして歩く時に興に乗じてうたう歌、危険な山坂を超ゆる時、涙じめりで火がつかぬ
「ホホホ、こう歌いますと、なんとなく
と言ってお徳は直ぐに、
甲州出る時ゃ涙で出たが
今じゃ甲州の風もいや
と歌い、今じゃ甲州の風もいや
「こうなってしまいますから薄情なもので……まだわたしたちの中でうたいます歌にこんなのが」
道中するからお色が黒い
笠を召すやら召さぬやら
それから最後に、笠を召すやら召さぬやら
生れ故郷の氏神さんの
森が見えますほのぼのと
三十を越したお徳も、土地の歌をうたう時は乙女の心になる、森が見えますほのぼのと
六
山の娘たちはいったん帰って来たけれど、また暫らくして旅に出かけなければならなくなりました。今度は
「わたしが思うのには、お徳さんは今度は出かけられないかも知れませんわ、もしお徳さんが出かけられなければ、組の
「お徳さんは、あのお
「お徳さんは、きっとあのお武家を好いているのですよ、ついこの間の晩も、庭でもって歌をうたって聞かせていましたよ、それに蔵太郎さんもあのお武家に
「ほんとに、お徳さんは好いているならば、あのお武家と一緒になったらどうでしょう、お武家さんの方でもいやでなければ、みんなで取持ってお徳さんに
「わたしもそう思っていましたけれど、お徳さんが今までよく立て通して来たものを、こちらからそんなことを言うのはおかしいし、それにあのお武家はお眼の不自由な人、あれでは始終お徳さんの
「たとえお眼が不自由でも、お徳さんが好いたと言い、お武家さんの方でもその気ならば出来ない縁ではありません。ねえ、皆さん、男一人を立て過ごせないような女では
「働き者のお徳さんのことですもの、あれで立派に通して行かれますよ、誰かお徳さんの
「そんなことが聞かれるものかね、お徳さんはそんな了簡で、あのお武家のお世話をしてるのではありません、ああしてお身体が少し好くなったら、直ぐにみんなして送り返すつもりでいるではありませんか」
「それはそうだけれども、この前のお方もそうして出来た縁、今度もひょっとすると、不思議な縁にならないとも限りませんからね」
「前のお方がああいうお方でありましたからお徳さんの入夫はむずかしいと思うていたところ、ちょうどまたああいうお武家が来て、やっぱり縁というものですね、せめてお目でも悪くなければお取持ちをして上げたい」
「お目が悪いからかえって縁がよいのでしょう、満足なお武家さんがどうしてこんな
「それにわたしは、あのお武家はお目が悪いばかりではなく、何か悪いことをして来たお方ではないかと思いますよ」
「どうして」
「どうもなんだか気の置けるようで……もし人殺しなどをして来た人であったら」
「それはなんとも言えませぬ、もしそうであったからとて、お徳さんが承知であれば仕方がないではないか」
「でも、もし悪いことをして来た人で、お役人に尋ね出されるようなことになると、お徳さんや蔵太郎さんにまで、
「その時は、お徳さんばかりではない、あのとき峠を通ったものはみんな同罪、お前とわたしも逃れることはできませんね」
「どうなるものですか、やくざ男に
「それがようござんすよ」
山の娘たちは隊をなして、また他国へ出かけていったが、果してお徳だけは残ってしまいました。お徳は後に残ったのみでなく、それから直ぐに竜之助を案内し、蔵太郎をつれて、篠井山の麓から奈良田の温泉へ行ってしまいました。
それは盲目の竜之助を馬に乗せて、お徳は蔵太郎を背に負って、篠井からまだ十里も山奥になっている奈良田へ行く間に、お徳はいろいろとその土地の物語をしました。
「昔、奈良の
「奈良の帝? 左様なお方がこんなところへおいでになる
「それでも昔からそのように申し伝えられてあるのでござんす、おいでになってごらんになればわかりますが、山と山とで囲まれた村の真中に二丁ほどの平らなところがあって、そこに帝様のお宮のあとが今でも神様に
「帝様と申し上げるのは日の下を知ろし召すという方じゃ、その方がなんで
「そうではござんせぬ、奈良の帝様が、たしかにその地へお移りになったということでござんす、その帝様は女のお方様で……」
「女の帝……奈良朝で女の帝に
竜之助は自分の持っている国史の知識を頭の中から繰り出して、お徳の語るところと合せてみようとして、
「
竜之助の思い浮ぶ知識はこれだけのもので、その七代のうちにどのお方が女帝におわしまし、その
「その
「あちらから来る道が、富士川岸を伝うてやはり奈良田の方へ通うのでござんす、帝様へ諸国から
お徳は、やはり奈良の帝がこの土地へおうつりになったという伝説をそのままに受入れているらしいが、竜之助は、ただ伝説として聞いておくだけに過ぎません。
「お宮のあるところから十里四方は、いつの世までも年貢お
お徳は伝説をようやくに事実の方へ近づけてきます。
奈良田の皇居ということは国史以外の秘説であります。
奈良王この地に御遷座ありしという伝説は、ここにお徳の口から伝えらるるばかりではなく、幾多の古書にも
孝謙天皇は女帝におわします。弓削道鏡の悪逆、
けれども、天皇がこの地に御遷座ありしというようなことは、正史のいずれにも見らるるところではなく、ただこの地の伝説だけに残っているのであります。
村の中程に皇居の跡があるということ、塩の井、片葉の蘆、飯富村、御勅使川、十里四方万世無税、家康湯の島へ入湯のこと、みんなそれに附きまとうた伝説でもあり事実でもあるが、なおそのほかに、帝にお附の女房たちが、
湯の島へ着いて、ゆっくりと温泉に浸った机竜之助。
「ああ、いい気持だ」
「三輪明神の
竜之助はこんなことを考えていると、
「やあ、吉田竜太郎殿ではないか」
浴室の外から呼ぶものがありました。
その声で、竜之助は空想を破られる。
「わしを吉田というのは?」
「君は眼が悪いのか、眼をどうしたかい」
「この通り眼が見えない」
「眼が見えなくても声でわかるだろう、拙者の声がわからんか」
「聞いたような声じゃ。おお、山崎ではないか」
「そうじゃ、山崎じゃ。久しぶりで意外なところで会ったな」
「全く意外なところ。おぬしはあれからどうしていた」
「いや、おぬしこそどうしていた、この
「これにはなかなか長い物語がある、湯から出て、ゆっくり話そう」
「それよりも、その眼をどうしたのか、それを聞きたい」
「これは
「それは気の毒、全く見えないのか」
「初めのうちは少し見えたが、今は全く見えない」
「そりゃ災難じゃ、なんとか療治の仕様もありそうなものじゃ」
「療治も相当にやってみたが、本来、天のなせる
「罰? 気の弱いことを言うな」
「どうも
「君はそれを知らぬか、いやそりゃ、大変なことじゃ、四方八方、蜂の巣を突きこわしたようなもので、どれから話していいか」
「そうだろう」
山崎と呼ばれた男は
「まず第一、芹沢が殺されたことを吉田、お前は知っているか」
「芹沢が……誰に」
「仲間に殺された」
「仲間の誰に」
「仲間といえばたいてい見当がつくだろう。芹沢が殺されると、近藤が新たに新撰隊というのを組織してその隊長になって、土方が副将でそれを助けることになった」
「うむなるほど、いやあれは、どちらかそうなるだろうと思うた」
「それから次が四条小橋、池田屋騒動の一件だ。血の雨を降らしたこと降らしたこと、貴殿もいたら、みっちり働き甲斐のある仕事であったわい」
「浪人を斬ったのか」
「斬った斬った、今でも池田屋へ行って見ろ、天井も壁も槍の穴でブスブス、血と肉が、あっちこっちにべたべたと
「そうか」
「それにまた一方では、拙者の郷里水戸の地方に
「筑波山の騒ぎとは?」
「それも知らないのか。水戸の家老武田耕雲斎が、天狗党というのを率いて乱を起した、それやこれやで拙者は関東と京都の間を飛び廻っている、ことに甲州の山の中にめざす者があって、ここへ来たわけじゃ」
竜之助に向ってこういう話をする男、これは新撰組の一人で山崎
「ともかく、湯から上ろう、もっと
山崎譲は後刻を約して、そこを立ち去ってしまうと、それと入り違えのようにお徳が入って来ました。
「そうしておいで遊ばせ、今お背中を流して上げますから」
湯から出ようとする竜之助の傍へ寄って、手拭を固く絞ってお徳は、その肩へ手をかけて背中を洗ってやろうとします。
「それは気の毒」
竜之助はお徳のなすままに任せて辞退もしない。
お徳は筒袖をまくり上げて、裾が湯に濡れないように気をつけながら、竜之助の背中を流しはじめていると、この温泉の上の方で賑わしい人の声。
「あれは何だろう」
「あれはお
「はあ、何か人寄せがあるな」
「この山の上の
「婚礼があるのか、道理でさいぜんから時々賑わしい人の声が聞えると思うた」
「望月様は、この辺の山を預かる御大家でござんすから、もうこの近所の人はみんなよばれて朝から大騒ぎ、今夜もまた
「それは盛んなことじゃ。そうして
「お嫁さんは前の日、わたしもちらと見ましたが、
「どこから来たのじゃ」
「同じ甲州でござんすけれども、ここからはだいぶ離れておりまして、萩原領の
「八幡村?」
竜之助は何をか思い当って、
「八幡村というのは、
「左様でござんす、左様でござんす、あちらの
「その八幡村からここへ嫁入りに来たのか」
「はい、向うもなかなか大家だそうでございますが、こっちはそれよりも大家で、お眼が見えればすぐおわかりでござんすが、白壁作りの
「なるほど」
いま会った山崎譲の話では、関東も関西も
「そのお嫁さんを一目見たいものだな」
「それはお目にかけたいくらいの美しいお嫁様で」
竜之助は冗談のように言うと、お徳は本気で答える。
「八幡村というところには、わしの親類……でもないが知合いがある」
「ああ、そうでござんすか、それではことによると、あのお嫁さんも御存じのお方かも知れませぬ」
「いいや知るまい、私はその八幡村というところへ行ったことはないのじゃ、ただ懇意な人の口から聞いて知っているばかり」
「左様でござんすか、いずれ明日にも、お嫁様のお里帰りがあるでござんしょうから、その時ごらんになると……そのとき誰かにお聞きなすってみましたら」
「別に聞いてみたいこともないのだが、なんとなくそのお嫁様を一目見たいような気持がする」
その夜、竜之助は山崎譲と
「あれ、お嫁様が」
という
「あれが望月様の若奥様。まあごらんなさい、あの髪の毛、あのお
「さあ、あれが先程お
お徳は手を拭きながら、これも御多分に洩れず、珍らしそうに息を
「あれで十九。十九にしては落着きがおあり過ぎなさるほど。それはお
お徳が、こんな
「ほんとうに、あんなお嫁様をお持ちになったお婿様の果報が思いやられます、お里帰りの五日が、どんなにお待遠しいことでしょう、両方の親御さんたちも本当にこれで御安心。ああいうことを見ますと、ひとごとでも嬉しくてたまりませぬ」
「里帰りといえば、これからあの八幡村まで帰るのか」
「左様でござんす、お馬やら
「いや婚礼というものは、
「誰でも一生に一度は、その手数をかけねばならぬものでござんす。あなた様なぞもさだめし、こんなにおなりなされぬ前は、あんな手数をかけて、お喜びになったものでござんしょう」
お徳は
「あたりまえならば、そんなことになるのであったろうが、わしのはあたりまえの道を失ってしまったから、それで更に手数がかからなかった」
七
旗本の
地位の変ったことは平気らしいけれども、うまい酒の飲めないことが何よりの苦痛と見えて、もとのように江戸の真中で馬鹿遊びをするようなことができないで、時時
「
権六というのは折助の名、これは江戸から附いて来た渡り者の折助であります。
折助の前身には
「へへ、どうも仕方がございません」
権六はお流れを頂戴する。
「うまい酒を飲みたいなあ」
「
「何かうまい酒を飲むような
「左様でございますねえ」
二人は睨めくらをする。
「貴様の
「殿様もこのごろはおいとしゅうございます」
「はははは」
睨めっこをして淋しく笑う。なるほど、これでは酒もうまくなさそうです。
「女を呼んで、一騒ぎ騒がせましょうか」
「それもこのごろでは張合いがないわい、甲府の女どもにまで
「いよいよ以ておいとしゅうございます、春や昔というところでございますねえ、
「権六、どう考えてみても、どのみち金だな、金が欲しいな」
「それに違いございません、色と金、二つにわけて申しますが金があっての色でございますよ、金さえありゃあ……」
「金が欲しいな」
「金さえあれば、殿様をまた昔の殿様にしてお目にかけますがなあ」
「金があれば、権六を昔の権六にしてやるのだが」
主従はまた
「金というやつは、こっちでのぼせればのぼせるほど向うが逃げて行く、
「あるところにはある……もんでございますが、
「あるところにはある……権六、そのありそうなところを知ってるか」
これは別に意味がありそう。
「ありそうなところ……とおっしゃいましても、そりゃまあ、ありそうなところには……」
「甲州は
「そりゃ、どこにしましても、あるところにはありますな、甲府も御城内の
「誰も御金蔵へ手を出せとは言わない、御金蔵のほかに甲州で金のあるところを、権六、貴様は知ってるだろう」
「御金蔵のほかにお金のありそうなところ、はてな、それは物持ちのところには、相当のお金があるでございましょうよ、それがあったにしてみたところで、やっぱり詰りませんな」
「権六、
「なるほど」
「宝の山に
「それは御意の通りでございますが、山ん中の金は見つけるのが事で、掘り出すのがまた事で、それを吹き分けるのがまた一仕事でございますからなあ」
「はははは、権六、貴様も根っから正直に物を考える男だ。まあ近く寄れ、もっと近く寄れ、手を濡らさずに、山の中から金を見つけて、掘り出して吹き分けて使いこなす仕組みがあるのだ」
「へえ、それは耳寄りでございますねえ」
権六は主膳の近くへ
「実はな、御支配の下で、ずうっとこの
神尾主膳は結局、その金の塊を突き留めてみたらば、思いのほかの掘出し物があるかも知れないということ、それはちょうど今度の婚礼問題がよい機会であって、役目を笠にいくらでもその高圧の手段はあるようなことを言います。
聞き終った権六は、
「なるほど、そいつは近ごろ面白い
「うまくやってくれ。それで権六、これが身共の徳川への奉公納めだ」
「奉公納めとおっしゃるのは?」
「もう徳川も下火だ、我々も、いつまでこうしていられるかわかったものじゃない、この狂言が済めば、それを持って侍をやめる」
「なるほど」
「貴様にも一生食えるようにしてやった上、うまい酒も少しずつは飲めるようにしてやるつもりだ」
「それは何より有難うございます、そのつもりで
「こういうことの相談は貴様に限る」
主従は、こんな
八
奈良田の望月家では、花婿が花嫁の里帰りから帰るのを待ち兼ねているところへ、花嫁は帰らないで、不意に甲府勤番の侍が二人、数人の従者を引連れてやって来ました。
こは何事と驚く表から
「お調べの筋がある」
といって、隅から隅まで家の中を探し歩いたことで、家の者も近所の者もことごとく
そうしてめぼしい物にはことごとく封印をつけた上に、若主人を甲府まで同道するから、急いで
あとの連中はなすところを知らないでいたが、同じ旧家の佐野だとか松本だとかいう老人が飛んで来て、望月の老主人を慰めながら相談の
「甲府のお役人様は元湯へお泊りなされた」
村の人の報告であります。元湯とは机竜之助が泊っているところ。
「それでは、もう一度、みんなしてお願いを致してみましょう、そうしてお話合いで済むようでしたら、若旦那をお願い下げにするように、骨を折ってみようではございませぬか」
お役人の一行が元湯へ泊ったと聞いて、佐野の老人と松本の老人とを先に立てて、お願い下げの運動をやってみようということになり、お役人にお目にかかって怖る怖る伺ってみると、さきの
「さて、存外、話がわかりそうでございます……」
と言って、その次の難問題に就いて老人たちと望月の主人と親戚とが評議をしました。
「百両」
まずその辺の相場かなと思う者もありました。みすみす名の知れない金を百両出すのも
再び出かけて行った古老たち。
「ほんのお
怖る怖る差出した土地の織物、それに添えた百両の金。それをお役人にと従者の手を経て献納して帰ってみると、程を経てその織物も金百両も突き戻されて来ました。
それから元湯の一室で、ひいひいと人の泣く声がする。荒々しく責める声が聞える。泣く方は人に聞かせまじと男泣き。責める方はわざと聞えよがしの荒い声。
土地でも宿でもそれ以来、火の消えたような静まり方で、ただそのひいひいと泣く男泣きの声と、荒っぽく責める申し上げてしまえの声とを聞いて心臓をわななかせるばかり。
それとはだいぶ間を隔てていたけれど、同じ屋根の下に泊り合せた机竜之助。まして眼のつぶれて感の鋭くなった耳にその声が入らないはずはありません。
お徳から、あらましの事情を聞いた竜之助が、
「ああ、それは
と言いました。
「あの、お役人は偽物でございますか」
お徳は
「よくある手で、近頃はどこへ行っても
「では
「盗賊というわけでもない、なかには相当な志を持っているものが、心ならずもそんなことをして歩くのがある、結局は金で納まるのだ、
「お金で済めば結構でござんすけれど、
「どのみち扱いが少し面倒だ。人はみんなで幾人ぐらい来ているな」
「お侍が二人に、お
「それは少し大仕掛だ、ことによると望月の財産を振ってしまうようなことになるかも知れぬ」
「御災難でござんすねえ」
「災難だ、災難だ。それから、あの里帰りに行ったという嫁は帰って来たのか」
「いいえ、まだお帰りござんせぬ」
「それも危ない。どのみち、この婚礼を附け込んで
「何とかして上げたいものでござんす」
「うっかり出ると巻添えを食う。いや、京都あたりではこの手で浪人者にひっかかって、女房や娘を奪われたり家を
「あれ、あんなに苦しがっておいでなさる御様子、誰ぞ口を
「
「それでも」
「また誰かやって来たようだ、こりゃ今夜は夜通し眠れぬわい」
「もし、あなた様」
「何だ」
「あまりお気の毒でござんすから、ちょっと行って口を利いておやりなされたら」
「わしに仲裁に出ろというのか」
「この辺の人は、まるきり山の人でござんすから、とても納まりはつきますまいと存じます、あなた様が、ちょっと口を利いてみておやりなされたら――」
「駄目、駄目、そんなことをするとかえって
「そんなことをおっしゃっては……あんまり薄情のようでござんす、少しでもこの土地に来ているうちに出来たこと、届かなければそれまででござんすが、こうして土地の人が総出で心配をしておりまする中で、わたくしどもも何とかして上げたいもの、できないまでも……」
「待て、待て、この間、山崎が書いて行ってくれた手紙、甲府の勤番へ宛てての紹介状があったはず、あれを出して見せてくれ」
竜之助はお徳の話とは別に、思い出したように手紙のことを言うと、お徳は机の
「その
竜之助は今までそれを打捨てておいたが、この場合に思い出すと、お徳は
「御組頭神尾主膳様と書いてござんす」
九
広いところを
「さあ申し上げてしまえ、お
「どう致しまして、金銀を隠し置くなどとは以てのほか、先刻、家屋敷の隅々までも御捜索くだされた通り。また手前共の財産、すべて記録に差上げたものに寸分いつわりはございませぬ、お
畳へ額を
「黙らっしゃい、其方の隠しておくところが家屋敷ときまったものではなかろう、世間の噂では持山の
「これは、いよいよ以て御難題、さらさら左様な儀は……」
「これ、まだ強情を申しおるか、責めろ」
「申し上げろ」
十手を腕の間へ入れてコジる。
「ア痛、ア痛!」
「痛いか」
「御無理でございます」
「泣いてるな。これ貴様も、
「知らぬことは申し上げられませぬ、存ぜぬことは……あ痛ッ」
「これこれ望月、僅か三千両の金のために貴様がこうして
「ええ、あの女房が?」
「知れたこと、亭主を責めていけなければ女房にかかる、それでわからなければ親へかかる。どうだ、これというもみんな其方が強情を張るからじゃ、僅か三千両の金、金が惜しいか女房が可愛いか」
「御無理でございます、御無理でございます」
「はははは、では女房が御城内へ引っ立てられ、親たちが
「三千両などと申す大金が……」
「黙れ黙れ、先祖以来、公儀の眼を
「いかさま、三千両の数さえ不足がなければ、
同役二人が面を見合せるところへ、
「もしお役人様、ただいま、あなた様方にお目にかかりたいと、一人のお
宿の主人が怖る怖る、遠くの方から平身低頭しての取次であります。
折助には渡り者が多い。もとは相当の
折助の上には
彼等の仕事は、カッパ
折助に向って、これは
場合によっては折助が、士分の者の前へあぐらをかいてタンカを切るようなことがあります。また
誰も折助を相手に喧嘩をしたくないから、それで避けている。そこに折助存在の理由があるので、うまく利用すれば、また相当の使い道もあるのです。うまく利用するというのは、意気でもなく
銭も現金でなければ決して彼等を動かすことはできません。大した金は要らない、一杯飲むだけの銭を現金で握らせさえすれば、その酒の
しかしながら、ここへ神尾主膳の
「ナニ、水戸の人で、山崎なにがし?」
眼をパチパチさせてみたが、本人の神尾主膳はその人を知っているかも知れないけれども、権六の神尾はそんな人を知らない。
「今は忙しいから、後刻面会を致す、いずれかへ無礼なきように御案内申しておけ」
「委細、承知致しました」
「水戸の山崎……お前は知っているか」
権六は、少しく不安心になってきたものだから、後ろの席でこれも
「お前は知らねえのか、ついこの間お邸に見えた藤崎周水という
「そうか、あの易者か。あれがまたなんだってこんな山へ来て、こちとらに会いてえというんだろう」
「あれは易者を看板にしているが本当は易者じゃねえんだ、もとは水戸の
「それで、こっちが神尾主膳でここへ乗込んで来たことを聞いて、
「けれどもなんとか始末をしなくちゃあならねえ、せっかくここまで漕ぎつけたところで、ここで
「そいつは駄目だ」
同役の木村は、せっかく太く結い上げて来た
「駄目だとは?」
「とてもとても。その山崎という奴は、こちとらが三人や四人、束になってかかったからとて歯も立つものではない」
「そんなに腕の
「腕が利いたにもなんにも、
「棒を使うのかい」
「先日も、神尾様のところへ二三日
「いやな奴だな」
「全くいやな奴だ」
「そんないやな奴がこの時勢に易者の真似なんぞをして、この山の中までブラブラやって来る気が知れねえ」
「山の中へ来るのは、やっぱり仕事があって来るんだ、あいつは
「新徴組か」
「今は
「新徴組じゃあ、こちとらの歯には合わねえ」
「弱ったな」
「勤番の役人様が、今度はあべこべに、油を絞られて
「いやな奴が来やがった」
「全くいやな奴だ」
二人は膝を組み合せて、折助言葉に砕いて話し合っているところへ、
「御免下さいまし、あの、山崎様が、御用済み次第お目にかかりたいとお使でございました、もしお役人様のお席にお差支えがござりますれば、望月様のお邸がお広うございますから、失礼ながらあちらへお運び下さるよう申し上げてみろとの仰せでござりまする」
「やかましい、用が済んだらこっちから出向いて行くと、そう申せ」
「ハッ」
「弱ったな」
「全く弱った、その山崎という奴がここへ来て、大勢のいる前で
「だから、こっちから行くと言ってやったのだ」
「向うへ行って、向うで面の皮を剥かれたって好い心持はしねえ」
「どっちへ向いても面の皮を剥かれるのは楽なものではあるまい、なんとかいい工夫はねえかなあ」
「敵を見掛けて夜逃げをするわけにもゆくめえから、どうだ一番、乗るか
「そうさな」
「もとよりこっちだって、殿様御承知の上で仕組んだ狂言だ、バレかかったら神尾主膳実はその代理ということで、うまくお茶を濁してしまおうじゃねえか」
「まあ、そういうことでやってみよう、まかり間違ったら拝み倒しよ。なに、山崎だってずいぶん殿様のお世話にはなっているんだから、まるっきり話のわからねえこともあるまいよ」
「今夜は、ゆっくり休んではかりごとを考えて、明朝早く望月のところへ出かけるとしよう」
それで二人は寝ようと思っていると、
「申し上げます、山崎様がただいまこれへお越しになりました」
「ナニ、山崎が来た?」
「ハイ、お役人様にお見せ申すものがあると申しまして、おひとりでこれへおいでになりました」
「明朝こちらが参ると申したではないか」
「でも、山崎様が急の御用とおっしゃいまして」
「山崎の急用は私のことだ、こちらの用は公儀の御用だぞ」
「恐れ入りまする」
「早く追い返せ」
「あれ、もう廊下をあの通り、ひとりで歩いておいでになりまする」
「ナニ、ひとりで歩いて来る? それは困った、ここへ来られては困る、ここへ来てはいけない」
「それでも、あの通り槍をお持ちになって、無理にお通りでござりまする」
「ナニ、槍を持って来た?」
二人の
「神尾殿、神尾主膳殿」
廊下を歩いて来る人は、二間も三間も隔たった向うから神尾の名を呼ぶ。そのくせ、廊下を歩く足どりはゆっくりしたものです。
「チェッ、来やがったな。それにしても、あの声は……」
二人は廊下の闇を微かな
碁盤へ印をつけた山崎はもっと太った男であった。甲府へ来た時の山崎はあんな
「あれが山崎か」
「左様でございます」
「何だ、山崎は病人か」
「お目が御不自由で、それゆえ失礼ながらこのままとおっしゃって、槍を杖に突いて、おいででござりまする」
「そりゃ
二人は
「珍らしいところで神尾主膳殿、拙者は山崎でござる、山崎譲、山崎譲」
槍を
「神尾殿、神尾主膳殿、珍らしいところでお目にかかる」
早やその部屋近くまで来たから
「山崎、あの、御身が山崎譲殿に相違ないのか」
「いかにも山崎譲、先日は失礼致した、御免あれよ」
竜之助はこう言って、槍を携えたままで彼等の部屋の中へ入ってしまいました。
「いつぞや
「なるほど、うむ、その槍が……」
「こういう品は
竜之助はその槍の穂先を、擬いの神尾主膳の方へ突きつける。
「なるほど、これは見事な槍、近頃の掘出し物、なるほど」
「御所望とあらば進上致す」
「いかにも珍らしい槍、頂戴して甲府へのみやげにしたい」
「それはお安いこと、進上致そう。その前に一応の
「いや、我々には目が届かぬ、貴殿の御鑑定では?」
「目のあいた神尾殿に鑑定の届かぬものを、目のない拙者になんで鑑定ができよう」
「しからばこのまま頂戴致す、誰かこの槍を頂戴して床の間へ飾れ」
「いや、神尾殿、槍は貴殿に進上致すが、貴殿の方から拙者も頂戴致したいものがある、なんとお引替え下さるまいか」
「この槍と引替えに何を御所望かな」
「拙者には別に望みはないが、もとこの槍は望月家秘蔵の槍、よって望月家へ相当の謝礼をしてもらいたい」
「望月家へ謝礼とは?」
「もとより金銭に望みはない、先刻お引連れになった望月家の若主人、これは望月家にとって槍よりも大切な品、それとこの槍とお引替えが願いたい、その
「ナニ」
「この槍と望月の若主人とを引替えてもらいたい」
「黙らっしゃい」
「黙れとは?」
「言わせておけば
擬いの神尾主膳は
その時の竜之助の冷笑は、やはりこんなやつらを相手に、我ながら大人げないという冷笑で、彼等を
「申すまでもない山崎譲は偽名、拙者には別に本名がある。しかし山崎は拙者の友人、その名前を
「無礼者め! 本名を名乗って、早く
「本名はそちらから名乗ってみるがよい、今は知らず、神尾主膳はもと三千石の旗本、もう少し
こう言いながら竜之助は、片手で持っていた槍を、両手で持って
「これ、何をする」
擬いの神尾は驚き
「本物の山崎は棒をよく使ったが、拙者はあり合せの槍。おのおの騒ぐな、騒いで刀が
刀の
「無礼者、無礼者」
床柱へ押しつけられて苦しみもがく擬いの神尾主膳。
あたりに見ていた者共も、この奇怪なる盲目の武士の振舞に怖れをなして手出しをすることができない、手出しをすれば擬いの神尾が
「槍を引け! 槍を引いてくれ給え」
苦しい声。
「槍はいつでも進上致す、その代り引替えの品」
「引替えの品、承知」
「承知致したか、望月の若主人を戻すか、戻してこの槍と引替えに帰らっしゃるか」
「いかにも、槍と引替えに」
「よし、しからば誰か、望月の若主人をこれへ。遠慮は
次の間から連れ出された望月の若主人、
「どうも有難うござりまする、なんともお礼の申し上げようがござりませぬ」
竜之助の前に
「早く縄を解いて上げろ」
「へえ、もう縄を解いていただきました」
「では、一刻も早く、おうちへお帰りなされ。誰かこのお方をつれてこの場をお引取りなさるがよい」
「有難うござりまする」
望月一家の人たちは、若主人を
「さて、引替えの品は確かに頂戴した、槍はこのまま進上致す、受取らっしゃれ」
「
擬いの神尾主膳は絶叫して、両手を高く挙げて
「呀!」
一座の者が敵となく味方となく