一
この際、両国橋の橋向うに、穏かならぬ一道の雲行きが湧き上った――といえば、スワヤと市中警衛の酒井左衛門の手も、新徴組のくずれも、新たに募られた歩兵隊も、筒先を
その宣伝ビラもまた、小屋がけの規模の大なると同じく、ズバ抜けて大きなものへ、
「切支丹 大奇術一座」
この宣伝ビラは、宣伝ビラそのものがたしかに人気を集めるの価値がありました。幕府の威力衰えたりといえども、西洋の風潮、多少人に熟したりといえども、「切支丹」の文字は
果せる
この興行の勧進元が役所へ呼び出された時に、どんな食えない奴かと思えば、意外にもそれは女で、お上のお叱りに対して、一も二もなく恐れ入り、早速、人を雇うて満都の宣伝ビラを訂正にかからせたのは素直なもので、決してことさらに反抗的に宣伝して、人気を
この勧進元の女こそ、
「御冗談でしょう、看板でオドかそうなんて、そんなケチな真似をするお角さんとは、
こういってお角が気焔を吐いているところを見れば、おのずからその自信のほどもうかがわれようというものです。
事実、このたびの興行は、以前のようなケレン気を脱したところがある。宇治山田の米友を黒く塗って、印度人に仕立てて当りを取ったペテンとは違って、何か、しっかりした
ここに慶応のはじめ、大小日本の手品を
遊芸――なるが故に国境が無かった。吉田松陰は、これがために生命を投げ出し、福沢諭吉も、
いわんや、この一行が大倫敦の真中で、日本大小手品を

更にまた、この十九世紀の予言者であり、文明史上の偉人であり、絶世の批評家であるラスキンが、この小技曲芸をとらえて、日本の文明を評論した無邪気なる
けれども、これは偉人の罪ではない、時代の罪である。世には
ラスキンのあやまちは無邪気なるあやまちである。後者のあやまちはそれではない。小人の食物は嫉妬であって、その仕事はケチをつけることである。ここに巨人でもなければ、英雄でもない女軽業の親方お角さんがあります。その周囲には従来の興行師と、それに属する寄生虫の一種、それをこわもてに飲んだりねだったりして歩く無頼漢の群れがある。この連中にとっては、回向院境内の仮小屋の棟の高さがことのほかに目ざわりであります――そういう者の存在を知って知り抜いている女軽業の親方お角さんは、その真白な
「今度の仕事は、わたしも一世一代というわけなんですからね、その思い出にひとつ、しっかりやって下さいな。なあに、今までだってこれが嫌いというわけじゃなかったんですが、
こういってお角が背中を向けたのは、そのころ名代の
そこには、従来の一座と別廓をつくって、
このいわゆる「切支丹」訂正「西洋」大奇術の一座の
無口で働いている――春日長次郎はその二三枚を呼ぶたびに、何か早口で、わからないことをいってしまうと、彼等は直ちに
さりとて、これは断じて
そのほかには、どうしても眼の色を隠すことのできない子供が五六名、赤い
裏へ廻って見ると大道具。
ここではまた、例の亜欧堂風の大看板を、泥絵具で塗り立てている幾人かの看板師。
この看板をつぎからつぎと見て行った長次郎は、横文字の綴りの誤りを二三指摘して一巡した後、また楽屋へ戻ると、もう稽古場へ
と、その一方に、ゆらりと姿を現わした一人の女、これこそ正銘
片手にギターを持って、まず長次郎と見合い、にっこりと
「太夫元は来ないかな」
二
この興行が、いよいよ
春日長次郎が、あらかじめ一座の成り立ちの口上を述べて、やがて予定の番組にとりかかる。この口上言いの風俗からして、
この小屋がけは従来の方式とは違って、今日普通に見るサーカスの小屋がけ、日本でいえば相撲の場所とほぼ同じように、円心に舞台を置いて
さて、また演技の番組に就いては、厳密にいえば、その前芸は、奇術とか、魔法とかいうよりも、一種の西洋式の軽業といった方が当っている。その間へ、ちょいちょい手品が入るという組合せであります。――けれども、その演芸のことは一々ここへ書き立てない方がよかろうと思う。その時分の人を天上界の夢の国へ持って行くほどに、
ことに、その準備と訓練がよく行届いていたせいか、番組の進行、道具方や
演技で酔わされた人が、ホッと我に返ると、
「時間と、幕間は、西洋式に限りますな」
その西洋式の讃美者は、この興行主のお角が
前芸の棒飛び、縄飛び、輪投げ、輪廻しといったのは、鍛練した技術で、眩惑の手品ではない。第一番目から手品が一枚加わって――それから四番、五番と立てつづけに、大道具、大仕掛で、華麗と、眩惑と、濃厚と、変幻の異国芸の花々しさを、息をもつかせず展開しておいて、六番目に、
「ジプシー・ダンス」
この幕間に、ちょっと手間がかかりました。
「何しろ驚いたものですな、今度はジプシー・ダンス。ええと、つまり西洋の手踊りといったようなものだそうで」
お茶を飲み、煙草を吸って休養を試みているところへ、春日長次郎がまた改めて口上言いに出ました。
これより先、開場の前までは、場内を
「梅ちゃん、この次は西洋の踊りですから、向うへ行って、よく見てごらん」
附いていたお梅に、参考としてのジプシー・ダンスを見学さすべく、お附の役目を解いて暫時のお暇を与えると、娘分のお梅は有難く、喜んでお受けをして、
「それでは行って参ります」
外行のような挨拶をして、そっと見物席の後ろへ廻ろうとすると、お角が、またそれを呼び留めて、
「かまわないから
「有難うございます」
お梅は再びお辞儀をして行ってしまいます。
まもなく、見物席の背後から隠れるようにして、正面東側、そこに御簾をかけた一列の桟敷の後ろへ来て、お梅は
ここに、御簾の桟敷というのは、小屋がけとしては異例の設備であります。けばけばしくはないが、ともかく、この一列は御簾を下げてあって、ある一組の連中もここから忍んで見られるし、個人個人もまたここから多数の目を避けて、演芸だけを見得ることのような組織になっていました。
こういうことは、誰かしかるべき黒幕があって、相当の身分あるものの、
お梅は親方から許されて、
この時は、もう楽屋も総出で、広小路の女軽業から手隙に来た連中も、争って、次に行われるジプシー・ダンスを見学しようとして
窓といっても、本来が仮小屋ですから、特にそれがために切ったのではなく、幕を下ろせば壁となり、幕を絞れば窓となるだけの組織ですが、ちょうど、その幕が絞ってありましたから、お角は、その傍へ寄って柱に凭りかかって、外の空気に触れると、ここは高いところですから、眼の下に新しい世界が、新たに展開した心持がしました。
新しい世界といっても、場内の変幻出没のような夢の国の世界が現われたのではなく、尋常一様の両国回向院境内の世界ですけれども、人気と、眩惑と、
お角が人いきれの中から
お角は、その荒涼たる人生の最後の安息所を、我を忘れて見下ろしていた間は何事もありませんでした。
そのうちに、墓地の一方の木戸をあけて、静かに内部へ足を運んで来る二人づれのお墓参りのあったことを気づいたまでも無事でありました。
一方、魔術の世界の華麗と、眩惑に浸っている群衆と、また一方、こうしてしめやかに人生の最後の安息所へのお参りに足を運ぶ人とが、背中合わせになっている。それをお角は、やはり無心にながめて、頬のほてりを冷している。お墓参りの二人の者もそれを知らず、まだ新しい
「ここでございます」
で、手にかかえていた
手に携えていた
塗笠のさむらいは、木標の前に立って、軽く
「殿様、どうぞ、お水をお上げくださいまし」
娘は
「この文字は誰が書きました」
「御老女様からのお頼みで、大僧正様が書いて下さいました。御老女様は、そのうちお石塔を立てて、そのお石塔の後ろへ、
高いところで、見るともなしに見ているお角の耳へは、無論この二人の問答は入りませんが、満地の
その大身のさむらいと思われる人品のあるのは、最初から笠に面を隠していますから、その何者であるやは確かにはわかりませんが、
「それから、あの奇怪な
「ああ、米友さんのことでございますか……」
と娘が答えた時に、大魔術の小屋で大太鼓と
「おや?」
と驚いたのはお角です。こっちは窓に人がいると気づいただけですけれども、お角はこの墓地の中から、笠の
それとは知らない二人づれの墓参りは、やがて墓の前を辞して
「モシ、それへおいでになりますのは?」
と呼びとめたもののあるのは、どうも自分たちを指したものらしい。二人は、ちょっと二の足を踏みますと、早くも、そこへ駈け寄って来た女の人、
「駒井甚三郎様」
立ちどまった以前のさむらいはハッとしました。追いついて来たのは大魔術の勧進元のお角。
「おお、そなたは……」
駒井は、その女を見ると、あわただしいそぶりであります。
「まあ、駒井の殿様……いつこっちへお越しになりましたんですか、あんまりじゃございませんか、わたくしどものところへなんぞ、お
お角はこの人を見ると、まず
「今、ここへ着いたばかりじゃ」
「お宿は柳橋でございますか」
「ついこの先……」
申しわけのようにする駒井の返事を、お角は
「なんに致しましても、ここを素通りはなりませぬ、おいやでもござりましょうが、ぜひお立寄りを願わなければ」
といって、お角は、連れのお屋敷風のキリリとした娘の姿を、心ありげな眼つきでながめますと、その娘もはっとしましたが、何にもいわず軽い会釈をして、やや手持無沙汰でいると、駒井は迷惑がって、
「どのみち、宿をきめてから」
こういいますと、お角は、もとより
「まあ、左様におっしゃらず、わたくしどもの一世一代を御見物下さいませ、ずいぶん、骨も折れましたが、まんざらごらんになって腹の立つようなものばかりでもございません」
「ははあ、この興行は、お前がやっていたのか」
「左様でございます、御案内を致します。お嬢様、どうぞあなた様も、御迷惑でも殿様のおつきあいをなさいませ」
「お松どの、せっかくのことだから見せてもらおうか」
「はい……」
御屋敷風の娘は、老女の家のお松であること申すまでもありません。お松はこの返事に
しかしながら、駒井甚三郎は、どのみち
「相変らずエライことをやり出したな。なに、切支丹の魔術……それは面白い。この看板は誰がかいたのじゃ、日本人に描かしたのか、
駒井甚三郎はこういいながら、相撲茶屋から
三
駒井甚三郎とお松が案内された席は、ついたった今、お梅がそっと入り込んだ御簾の桟敷の一間であります。
それと見てお梅は、遠慮して席を避けようとするのを、お角が、
「いいから御免を
そこで、この一間には主客都合四人が納まった時分に、ようやく春日長次郎のジプシー・ダンスの口上が始まりましたから、駒井甚三郎は、ちょうどこれを見るために、わざわざこの席へ来たような具合になりました。
春日長次郎は、五十恰好の
「さて、東西のお客様方、初日早々かくばかり盛んな
説明半ばで、駒井甚三郎が、これは少し変だと思いました。この説明人は、ジプシー族とユダヤ族との伝説を混同しているなと思いました。しかし、多数の見物は一向そんなことを念頭には置かず、極めておとなしく説明を聞いていると、咳払い一つした春日長次郎は、続けて、
「しかしながら、切支丹の罪によって国を
春日長次郎はかなりの能弁で、一通り由来を述べ終って卓の上なる
幕があくと、
そこへ
そこへ、花やかな騎士が、従者をつれてやって来ると、ジプシー族は異様な眼をしてそれを眺める。花やかな騎士は、人の名を呼んで誰かをたずねるらしい。ジプシー族はみな首を振って知らないという。騎士と従者は失望して行ってしまう。
ジプシー族は、それを見送って、何かしきりに言い罵っていたが、若い者のうちには、腕を
そこへ賑やかな鳴り物が入って、蝶の飛び立つように入って来た一人の少女があった。
黒い髪、ぱっちりした瞳、
「皆さん、ただいま」
多分、そういったような、晴々しい呼び声で、一同が
「おお、マルガレット、無事か」
といったような歓声が起る。少女は、息をはずませて何か口早に物語をすると、老若男女が皆、背伸びをしてそれを聞こうとする。少女の物語は、何か多少の恐怖から解放されて来たもののような表情であります。その物語を聞いてしまうと、老若男女が、また歓声を揚げる。そのうちにも以前の若者らは強がりの身ぶりをして、騎士らの立去ったあとを睨まえて、腕をさすって見せる。そのうちに子供たちがギターを鳴らしはじめると、一同が浮かれ出す。右の少女が、
「では皆さん、踊りましょう」
といったような声で、タンバリンを振り鳴らして自分が真中で、めざましい踊りをはじめると、老若男女がそれを囲んで、総踊りに踊って踊りぬくと幕。
駒井甚三郎は、その一幕を見終ると、帰ると言い出しました。
もう一場、あとの本芸をぜひ――というのを振切って、お松を連れて、この小屋を辞して、お角に後日の面会を約して
四
ジプシー・ダンスが終って、駒井甚三郎とお松は辞して帰ったあとで、
もう
といっても、この二人の壮士は南条と五十嵐ではないが、二人ともに
それと暫く問答をかわしていたが、訪ねて来たのは上へあがらず、
付け加えてこの日は、黄昏時になると、ようやく風が強く吹き出し、四人づれが両国橋を渡りきって矢の倉方面に出た時分には、バラバラと砂塵が面に舞いかかるほどの強さとなります。
「強い風じゃ、火をつけたらよく燃えるだろう」
「でも、江戸を焼き払うほどの火にはなるまい」
「それは地の利を計らなければ……先年、
「あれは、そそっかしい男だが、感心に詩吟が
「どうだ、ひとつ
「しかし、つまらん、江戸城の本丸まで届く火でなければ、
「有害無益の火――世に無害有益の
「では、通りがかりの道草に、いたずらをしてみようか」
「地の利と、風の方向を考え、且つ、なるべくは貧民の住居に遠く、富豪の軒を並べたところをえらんで……」
「面白かろう」
さても物騒千万ないたずらごと。この四人の壮士が
次に、やや時間を置いて芝口のある商家、これも大事に至らず消し止めましたが、それから程経て、神明の前の火の見櫓が焼け出したのは皮肉千万であります。
筋を引いて見れば、ちょうどこの四人の壮士の過ぐるところ、四カ所で火が起ったわけです。これはまた途方もないいたずらで、いやしくも
しかし薩摩の士の風俗をしているからとて、必ず薩摩のさむらいだと限ったわけはありますまい。この薩州屋敷では、このごろ、ずいぶん人見知りをしないで人を入れる。
まず玄関には非常に大きな帳簿が備えてあります。それの巻頭には誰の筆とも知らず、達筆に
五百人内外の人は、いつでも転がっているが、これらの食客連の日中の仕事は、武芸をやること、馬に乗ること、感心に読書学問をやっている者。為すことも
その主謀者の方針は、江戸の市中はなんといっても相応に警戒が届いている。ことにこのごろ、募集した歩兵隊――一名
益満は長沼流の撃剣家で、山岡鉄太郎などとも懇意であり、この益満の後ろに西郷がいて糸を引いているという説もあるが、益満それ自身もただ糸を引かれている人形ではあるまい。
さいぜん、大手を振って門内に通過した四人の壮士、この席へ来ても無遠慮に一座の中へ、むんずと坐り込み、まず見て来たところの西洋の大魔術の披露、普通弁と薩摩弁でしかたばなしまでしての
この四人の壮士どもは、今しも、大得意になって、本所の相生町から三田の四国町までの間の彼等の道草、その途方もない、いたずら話を
「ナーンだ、くだらぬ人騒がせ、つまらぬいたずら、そうして
と言ったものがあると、四人のなかの一人が抜からず、
「いずれそれをやって見せるが、今はその手習いじゃ」
そこで、この一座の対話が、江戸城の本丸へ火を
五
それはそれとして、再び前に戻って、ここにまだ疑問として残されているのが、両国の女軽業の親方お角の、このたびの、旗揚げの金主となり、黒幕となった者の誰であるかということで、これはその道の者の
神尾主膳や、福村一派の現在は到底、
高利の金を借りた場合には、
だから、
初日の評判を後にして、その日いっぱいの上り高のしめくくりをしたお角は、払い渡すべきものは即座に払い渡し、大入袋の割振りまできびきびとやっつけて、残った金を両替にすると、それを
「庄さん、ちょっとそこまで一緒に御苦労しておくれ」
やはり風の吹いた同じ日の晩。
一人の男衆を連れたお角は、両国橋の宿を立ち出でました。
その行先が疑問、それを突き留めさえすれば、金策の問題もおのずから氷釈するに違いありません。通俗に考えれば、これは、てっきり、柳橋の遊船宿に駒井甚三郎を訪ねて出かけたものに相違ない――お角ほどの女が、その時分に息をはずませて柳橋を渡り渡りした時は、がんりきの百蔵をひとかたならず
ところが、今はこの通俗な予想も、まるっきり違って、お角が訪ねて行く足どりもおちついたもので、足を踏み入れたところは通人の通う柳橋ではなく、諸国のお客様の
そこで、一二といわれる大城屋良助の前へ来ると、お角は丁寧に宿の者に申し入れました、
「有野村のお
「はい、
ほどなく、お角は男衆の手から包みを取って、案内につれて通る。男衆は
お角の通された一間、そこには丸頭巾をかぶったお金持らしい老人が一人、眼鏡をかけてしきりに本を読んでいる。そこへお角が通されて、
「お大尽様、お邪魔に上りました」
「おお、お角どの、まあずっとこれへお入りなさい」
といって老人は本を伏せ、眼鏡を
「御免下さいまし」
座へ通って再び老人に頭を下げ、
「おかげさまで、すっかり当ってしまいました。これで、わたしの胸も、すっかり透いてしまいました。就きましては早速、心ばかりのお
といって風呂敷を解きかけたその中は、確かにお金の包みであります。
いわゆるお大尽の前へ、お金の包みを積み上げますと、お大尽は、
「いやもう、それはお固いことだ、娘もああしてお世話になっているし、そう急ぐというつもりもないのだが、せっかくだから……」
ここで初めてお角の金主元が知れた次第です。つまりお角は、このお大尽から金を引き出している。しからばこのお大尽なるものは何者。
王朝時代からの旧家といわれた甲州有野村の長者藤原家、その当主の伊太夫。それがすなわちこのお大尽で、ただいま、お角の家に厄介になっているお銀様のまことの父がこの人であります。
さればこそ、測り知られぬ山と、田と、畑と、祖先以来の金銀と、比類のない馬の数を持っているこの富豪をつかまえたことが、興行界の
大尽は、金の包みを前に置いたままで、
「どうだね、お角さん、あれはどうしても帰るとはいいませんか」
「そればっかりはいけません、いくら申し上げましても……」
「そうだろう、どうも仕方がない。よし帰るといってもらったところで、また難儀じゃ。いっそのこと、どこまでもお前さんに面倒を見てもらいたいと、わしは思っているのだが」
「どう致しまして、わたくしなんぞは御面倒を見ていただけばといって、お力になれるわけのものではございません」
「いや、あの通りの
「痛み入ったお言葉でございます、そのお言葉だけを
「そういうわけだから、ドコかしかるべき地面家作のようなものがあったら、ひとつお世話をしていただきたい、あれの暮して行けるだけのことはしておいて帰りたいと思いますからね」
「そうしてお上げ申した方がお嬢様のお為めならば、ずいぶん御周旋を致しましょう」
「無論、その方があれのためになる、それでは万事よろしく頼みますぞ」
「
「いいや、わしがような
「それでも、せっかくでございますから」
「まあ、勘弁して下さい、これが、わしの性分なのだから」
「ほんとうに残念でございます」
「そういうわけだから、悪く取って下さるな。それから、この金は、せっかくのこと故、わしが一旦は受納を致したことにして、改めてお前さんの方へお廻しをしたいのじゃ、この後の分ともに、それを、今お頼みした娘の方のかかりに廻してもらいたいのじゃ。娘へ手渡しをしても受取るまい、受取ったところでうまく処分ができ兼ねるだろうから、そこはお前さんが預かっておいて、都合よくやってもらいたいのじゃ。なお、
お角はこの時、さすが大家の主人だけあると思いました。
六
そのお角の留守中、裏両国のしもたやへ、
「今晩は、御免下さいまし」
「どなたでございます」
「親方は、おいででございますか」
「どなたでございます」
「金助でございます……」
「金助さんですか」
娘分のお梅が駈け出すと同時に、格子戸をカラカラとあけて、
「え、金助でございますが、親方はお宅でございましょうな」
「まあ、お入りなさいまし、母さんは今留守ですけれど」
「エ、お留守ですって?」
「いいえ、留守でもかまいません、もし金助さんが見えたら、待たせておいて下さいといわれていましたから」
「左様でゲスか、左様ならば御免を
そこへ腰をかけて、
「草鞋ばきなんですか、ずいぶんお忙がしそうですね」
「どう致しやして、忙がしいのなんの……これも誰ゆえ、みんな忠義のためでございます」
くだらない軽口をいって草鞋
「金助さん、お
「これはこれは、
「さあ、お上りなさいまし、母さんはじきに帰って来るといいおいて出ましたから」
「左様でゲスか……いやどうも、これでわっしも性分でしてね、頼まれるといやといえないのみならず、
「御苦労さまでしたね」
「早速御注進と出かけて見れば、頼うだお方はお留守……少々
「ほんとうに、お気の毒でしたね。でも母さんが、もう帰って来ますから、なんならお風呂にでもおいでなすったら、いかがです」
「そのこと、そのこと、よいところへお気がつかれました、旅の疲れは風呂に限ったものでゲス。では、ひとつ、御免を蒙って……」
「金助さん、お召替えをなさいましな」
「お召替え? それには及びませんよ」
「まあ、そうおっしゃらずに」
「どうも恐縮でゲス。おやおや、
このおっちょこちょいが歯の浮くような
「梅ちゃん、梅ちゃん」
この時、二階で人の声。
「はい」
お梅が返事をして二階を見上げると、金助も変な
「ちょっと来て下さい」
二階でお梅を呼ぶのはお銀様の声です。
「金助さん、お嬢様が、ぜひお前さんに会いたいんですとさ、お湯へおいでなさる前に」
「え、お嬢様が、わっしに御用とおっしゃるんですか」
二階から下りて来たお梅は、風呂へ行こうとして下駄を突っかけている金助の袖をとらえました。
そこで金助は
「よろしうございます、お嬢様だって、なにもあっしを取って食おうとおっしゃるわけでもござんすまい」
七ツ道具を下へ置いて、浴衣へ羽織を引っかけたままで、恐る恐る二階へのぼりはじめました。
「御免下さいまし、お嬢様」
「金助さん」
「はい、金助でございます」
「どうぞ、ここへお上りください、お前さんにぜひお聞き申したいことがあります」
「御免を
「御遠慮なく」
金助は、全く怖る怖る二階の間へ通り、キチンと
「もう、少しこちらへお寄り下さい」
「ええ、ここで結構でございます」
勧める
「金助さん、お前は、お角さんから頼まれたことがあるでしょう」
「ええ、あるにはありますがね……」
「あれは、わたしからお角さんに頼んだことなんですから、それを隠さずに、わたしに話して下さい」
「左様でございますか。いや、
「いいえ、それには及びませぬ、かまいませんから隠さずに話して下さい。お前さんが帰ったら、これを差上げようと思っていました、ほんの少しばかりですけれど」
といってお銀様は手文庫の中から、事実金助の前には少しばかりではない金包を取り出して、奉書の紙に載せて
「そんなことをしていただいちゃ申しわけがございません、旅費のところもお角さんの手から、たっぷりといただいてあるんでございますから、その上こんなことをしていただいちゃ恐れ入ります。しかし、お嬢様、金助も頼まれますと、無暗に肌を脱ぎたがる男でございましてね、自慢じゃございませんが、事と次第によっては、目から鼻へ抜ける
金助は、膝を金包に近いところまで乗り出して、得意になってべらべらとやり出しました。
金助のべらべらやり出した
「そうして、甲州の上野原のどこで、その盲法師を見つけました」
「それがその……」
金助は、いよいよ得意になって、顔を一つ撫で廻し、
「府中の六所明神様でひっかかりを得ましたものですから、それからそれと糸をたぐって、とうとう甲州の上野原で突留めました。上野原は報福寺、一名を月見寺と申しましてな、お
ここまで調子に乗って来た金助が、急に遠慮をはじめたものですから、お銀様が、
「知っています、その盲法師は、わたしもよく知っています。なんといいました」
「いやどうも、よく喋る坊さんで、まず自分の身の上の
「二三日前まで、そのお寺にいたのですか。そのお寺にいた人が、どこへ、誰に連れられて行きましたか」
「それがそれ……」
金助の言葉が、さいぜんの得意にひきかえて、
「金助さん、お前は、その坊さんを尋ねに行ったのではないのでしょう」
「いかさま……そこで結局その要領が申し上げにくいことになってしまったんで……エエと、二三日前まで、そのお寺に御逗留になっていたことは確かで、そこをお立ちになったことも確かなんでございますが、どうも、そのどこへ、誰に連れられて行きましたか、つまりその行方が……」
いよいよしどろもどろなのは、この男のことだから、ワザと
「そこまで尋ね当てて、どうして、その先がわからないのです、役に立たない……」
「いいえ、どう致しまして」
お銀様から
「それから先を、どう鎌をかけても、坊さんは、ハッキリと言ってくれませんから、あきらめて門前の爺さんをつかまえて、口うらを引いてみましたところが、その返事で、またまたこんがらがってしまいました。と申しますのは、その前後に、お寺を出て旅立ちをしたものが二人ありますんだそうで、一人はハッコツへ、一人はコブシへ参りましたとやら。さて、その二人のうちいずれが、あなた様の尋ねるお方だか、それから先が、どうしても
「一人はハッコツへ、一人はコブシへ?」
「はい、そのコブシというのは、つまり甲斐と武蔵と信濃の三国にまたがる
お銀様も、それに耳を傾けて胸をおさえました。事実、コブシは
ともかく、金助をしていうだけのことはいわせてしまったから、お銀様は
金助は、下へおりるとホッと息をつき、何の意味か舌を出して、こそこそと金包を胴巻へ
お角の帰ったのが遅かったのです。廻り道をしなければ、こんなこともなかったでしょうが、一足遅く戻って見ると、金助は風呂へ飛び出したあとでしたけれど、すべての
「それでも、つかいようによっては相当に役に立つ」
という、いささかながら誇りの色さえも見えました。そのうち、金助は風呂から戻って来て、歯の浮くような軽口と
そこで金助は、お銀様に物語った一条を、お角にも漏れなく物語って、ともかくも相当に成功したことを
本来ならば、それをとりあえず、お角がお銀様に報告すべき筋合いなのを、どうしたものかお角はヒドクおちついて、待ち兼ねている人を持っている態度とは見えません。ようやく二階へ
これはお角としては、甚だしい手ぬかりで、すっかり裏を
この一件にしてからが、お角としては最初から、金助のようなおっちょこちょいを使わずに、七兵衛なり或いはがんりきの百蔵なりに頼むべきはずのところを、なにしろ、あの二人あたりは役に立つ代りに、役に立ち過ぎる憂いがある。おっちょこちょいながら、金助ならば使ってさのみ毒になるまいと、たかをくくったのがお角の誤りでした。おっちょこちょいは到底おっちょこちょい以上のことをしでかさず、味のあるところを、前以てべらべらと
しかし、その失策は、翌日の夕方まで現わるることなくておりました。その翌日になるとお角は、前の日のように、娘分のお梅をひきつれて、向両国の興行場へ出かけ、お銀様には一人で留守居をさせておきました。
こうして昨日と同じように、甘んじて一人で留守をうけごうたお銀様は、お角母子が出て行ってしまうと、急に手紙を書きはじめ、それが終ると、そわそわとして身の廻りをこしらえにかかったのを見ると、着ていた今までの女衣裳を脱ぎ捨てて、戸棚から取り出した
で、立ち姿を見ると、それと知ったものでなければ立派なさむらいの
男の姿になりすましたお銀様は、あとを取片づけ、脇差をたばさんで刀を提げ、ずっしずっしと下へおりて行きました。
まもなく、この家をいくらも離れないところで、
七
西洋大魔術が初日の蓋をあけた日の晩、本所相生町から芝の四国町へかけて、浪士が火をつけて歩いた晩――また親方のお角が大城屋にお大尽を訪ねた晩。
小石川の
「なんにしても、あの女の腕は驚嘆に価する、無から有をひねり出す芸当は、魔術以上の魔術だ、天性、興行師に出来ている女だ」
と言って
「恥と外聞を捨ててかかりゃ、何だってできないことはありませんよ」
福村がこの場で
「ところが今度という今度は、恥も外聞も捨ててかからないんだからな。渡りはつけてみたが、トテも昨今のあの女の手には負えまいと、こう見くびっていたところが案外なもので、物の見事に
「そりゃあ、
「してみますと、お絹様、あなた様は、末の見込みのついた仕事をやっておいでになりますのですか」
「存じません」
「お怒り遊ばしますな、なにも、拙者があの女を賞めたからとて、あなた様をケナすわけでもなし、また、あなた様に、あの女のような真似をしていただきたいというわけでもなし、性質は性質としてただ、その
「ああ、うるさい、それほど腕のあるのがお好きなら、観音様へおいでなさい、観音様には腕が千本ある」
「もう、腕の話はやめ……それはそうとしてお絹さん、お前も、
「誰ですか」
「あなたも御存じでしょう、番町の駒井能登守」
「エ?」
不平満々で横を向いて絵本の空読みをしていたお絹が、この時、思わず向き直ると、福村が、
「甲府の勤番支配をしていた男、神尾主膳と喧嘩をしたとか、しないとかいう男……甲府をしくじってから切腹したとか、行方不明とかいわれていた駒井の姿を、ちらとあのとき見かけたので、拙者にはグッと思い当ったことがあるのだ。ははあ、女軽業の親方お角のうしろにはあの男があるのだな、して見ると、あの時分、お角が柳橋あたりで、専ら
福村は腕を枕にゴロリと横になる。お絹は相変らず絵本の空読みをしている。ところへ女中が手をついて、
「お客様でございます」
「誰か」
福村が肥った身体を大儀そうに起すと、
「百蔵さんとおっしゃいます」
「ナニ、がんりきが来たか」
福村も起き上っておちつかない心持、お絹も思わず本をさしおく。
「そうら、腕のある話がハズミ過ぎたものだから、腕のない奴がやって来た――まあ仕方がない、来たものを帰れともいえまい、帰れといっても帰る奴ではない、かまわぬ、ここへ通せ」
女中が出て行ったあとで、福村とお絹とが
「奴、何の用で来た、今時分」
「何の用ですか」
二人はうす気味の悪い心持でいると、そこへ案内されたのは、
「へえ、これはお
「ナーンだ、金公か」
「ちょっと旅に出ていましたものですから、つい、何しまして……御無沙汰を
「どこへ出かけていた」
「お
「面白いみやげ話があらば聞かしてくれ」
「なんせ、山ん中のことでございますから、面白いみやげ話とてありよう道理はございませんが」
と
来る奴も、来る奴も、ロクなことはいわない。この女の前で、ほかの女、ことにお角を讃めるのは、この女をコキ下ろす結果になるということを、御当人ほどに誰も気がつかない。お角の腕を認めるのは、つまりこの女の働きのないことを当てこする意味になるのを、誰も御当人ほどに受取らない。
そうでなくても、このごろは、食い足りないことばかりで、
そうかといって、
それを、それほどにお察しがなく、べらべらと大魔術の
「何だい、
といってお絹は、いい気になって
「これは、これは」
金助はひとかたならず恐縮してしまい、ははあ、うっかり口を
それを尻目に、お絹はさっさと寝間へ入ってしまいます。
八
小仏から陣馬を通って、上野原へ急ぐ
この道は、過ぐる夜、
あの時は月夜、今日は、たそがれ時で、足もとの明るいうちには必ずや上野原の駅へ足を踏み入れようという時分、左手の
「そういうわけで、あのお若さんも殺されちまったそうですが、殺したのは多分、もとの御亭主だろうという話で……」
といったのは
ただ、乗っている駕籠の客が滅多には口を利かない。
さて、駕籠屋たちはあの時以来、幾度もこの道を往来したと見えて、あの時の天狗物語も口の
陣馬の鼻まで来た時分に、佐野川方面から下りて来る笠を認めた前棒が、
「あ、向うから人がやって来るぜ。おやおや、唯の人じゃねえ、お供をつれたおさむらいだ。ことによると八州のお役人様かも知れねえ」
そこで、前後の駕籠屋が二の足を踏みました。駕籠屋自身には暗いことはないが、お客のために心配があると見えて、
「旦那様、向うから、人が来るようですが、その人も唯の人ならよろしうございますけれど、このごろ、八州のお役人様が、この辺へお入りになっているそうですから、もしお役人だとすると、
駕籠屋は駕籠を
本来、ここは変則の道であることは前にもいった通り、
多分これを心配して、駕籠屋は駕籠の中へ申し入れたものと見える。最初からほとんど無言で通して来た駕籠の中の客も、これには返答を与えないわけにはゆかないので、
「承知致した」
そこで駕籠屋は急いで
「どうか、こちらの方へひとつお隠れなすっていていただきます」
駕籠屋が案内した木立の中。駕籠屋どもはなにくわぬ
「駕籠屋」
「はいはい」
「その駕籠は空であろうな」
「はい、仰せの通り空でございます、
と言って駕籠屋どもは申しわけをする。それで許されるであろうことを予期して、
「それは幸いのことじゃ、
「エ?」
駕籠屋二人が
「摺差までやれ」
「はい」
八州の役人は、その駕籠へ近寄って、手ずから
ぜひなく、この当座の空駕籠は臨時のお客を入れて、再び小仏から摺差へ戻らねばならない
「摺差まで三里はございますけれど、この三里は下りでございますから、楽でございますよ」
以前に客を残して置いたところで、駕籠屋はワザと大声でいいました。
そこでこの駕籠は、結局以前のお客を置去りにして、新しい権威ある客を乗せて、三里余りの山道を戻ってしまうのです。駕籠が山の蔭にかくれた時分に、木立から立ち出でた最初の客、恨めしげにそのあとを見送っていましたが、やがて思い返して、前路に向って力足を踏むの覚悟。
人里に遠い夕暮の山道に取残されたとはいえ、足に覚えのある者ならば、上野原までの道は、さまでは苦にならないはず。
ところが、思いきって踏み出したこの覆面のさむらいは、思いのほかに足弱でありました。三町五町歩むうちに、その疲れ方が目立ってきて、腰の物が重過ぎる。この分で三里の山道は甚だおぼつかない。ましてその間には迷い易い幾筋もの
果して、暗の落つると共に、路を失ったこの旅のさむらいは、左に行くべきを右にいって、甲斐と武蔵の国境を、北へと
ホッと息をついて汗ばんだ面を拭うと、べっとりと濡れた髪の毛――その髪の毛は、女にも見ま欲しいたっぷりしたのを、グルグルと
西の空にかがやく二日月。暫く放心してその月影をながめているうちに、何に打たれてか身ぶるいしました。その時の、この人の
この高処に立って、下りて行くべき何かの暗示を求めて得ざるが故に、二日の月に空しく恨みを寄せている。
「わたしは知らない」
その恨みは女の声。その女はまさしくお銀様であります。
黒衣覆面の男の
ほどなく西北と
お銀様はその火を見て喜びました。
しかしながら、この一団の火光は、お銀様を喜ばす目的地方面の火ではなく、怖るべき
お銀様が進んで行く行く手の谷間から、カラカラと
それを聞いたお銀様は、いよいよ里の近くなったことを知ってよろこぶ。
あのはやしの音は、
この神楽太鼓の音こそ、人を迷わすものでありました。その音の響き
当時、この附近の村里に住む人は、この太鼓の音を聞くと
「
「武州相州の界 、信濃坂に夜毎にはやし物の音あり。笛鼓 など四五人声にして、中に老人の声一人ありける。近在または江戸などより、これを聞きに行く人多し。方十町に響きて、はじめはその所知れざりしが、次第に近く聞きつけ、その村の産土神 の森の中なり。折として篝 を焚くことあり。翌日 見れば青松、柴の枝、燃えさして境内にあり。或はまた青竹の大きなる長さ一尺あまり節をこめて切つたるが森の中にすてありける。これは彼 の鼓にてあるべしと里人のいひあへり。ただ囃 の音のみにして何の禍ひもなし。月を経てやまず。夏のころより秋冬かけてこの事あり、次第次第に間遠 になり、三日五日の間、それより七日十日の間をへだたり、はじめの程は聞く人も多くありて何の心もなかりけるが、後々は自然とおそろしくなりて、翌年 、春のころ囃のある夜は里人も門戸を閉ぢて戸出 をせず、物音高くせざりしなり。春の末がた、いつとなくやみけり」
この怪しむべき囃子の音が、信濃坂を去って、ようやく西にのぼり、ここ武蔵と、相模と、甲斐の国とが、三つこのごろ、
しかしながら、偶然、足を踏み入れたお銀様にとっては、この囃子の音が、いよいよ人里を近いものにして、足の疲れを忘れさせるだけの力はありましたが、それも行くことやや暫くにして、その囃子の音、ようやく遠くなるような気がしたものですから、またしてもお銀様は小高いところをえらんで、最初に認めた火の光を追おうとしました。
この山中にあって、今しも、この怪しむべき囃子の音を聞きつけたものは、お銀様だけではありません。
思いもかけぬ時とところで、囃子の音を聞いたものですから、宇津木兵馬は覚えず目をあげて、音のする方をながめると、猟師の勘八が
「そらはじまった、お化け囃子がはじまった。久しく止んでいたと思ったら、また、はじめやがった」
「あれは何です」
「お化け囃子といって、ああして響きは聞えても、起るところがわかりましねえ。よっぽど不思議な囃子でございます」
「しかし、さほど遠いところでもないようだが」
「左様でがす、どこで聞いても同じように聞えるんで。三里遠くで聞いても、五里遠くで聞いても、あのくらいに聞えるんでがすよ。お化けか、そうでなければ天狗様のいたずらでがんしょう」
「お前は、それを調べてみましたか」
「いいえ、そういうことはしてみましねえ」
「さまで遠くはないようだ」
九
けれども、響きがあって物のないという道理はありますまい。これをお化け囃子と名づけ、天狗のいたずらと怖れてしまうのは、それを
現に、陣馬、和田、熊倉、
ここに篝を囲むほどの連中が、みな
そうして、かれらの或る者は太鼓を叩き、或る者は笛を吹き、或る者は鉦を打って、残りの者がことごとく踊っている。一見すれば極めて古怪なる
彼等は、拍子に合わせて、さんざんに踊ると、
「いかにおのおの方、大儀に覚え
「
一同が踊りをやめて休息に入る。無論、囃子の音も、その時はヒタとやみました。
囃子も、踊りも、ひときわ休息に入ったけれども、この連中のすべてが
幾つかの
この谷間の、この部分だけは白昼のように明るいけれども、周囲は
この時、猩々は再び立ち上って
「いざ、このたびは
「心得て候」
またも、一同が入りみだれて、舞の庭に立ち上る。
「そもそも、天の返矢といっぱ……」
そこで踊りの面々が、おのがじし踊り出すと、
「太夫に申し上げまする」
「何事にて候ぞ」
「ただいま、怪しい奴が、これへ忍んで参りたるによって、この通り取押えて引立てましてござる」
「なんと、怪しい奴が?」
どちらが怪しいのだかわからない。この奇怪極まる山中の、
「こやつでござりまする、われわれの楽しみをさまたげんとて来りし奴、目に物見せてくりょうと存じまする」
猩々の面前に引据えたのは、覆面にして双刀を帯する身、まさしく武士の姿。
「覆面を
「畏まりました」
「やあ――女だ」
「おお、御身は
ことさらにいうとも思えないほどの自然な調子、朗々たる
「はい、小仏より上野原へまいる途中、
「して、何用あって上野原へまいらるる。御身はいずれの御出生ぞ、うけたまわりたし」
「たずねる人があって、江戸を立ち出でてまいりました」
「男の装い召されしは何故ぞ」
「道中が心配になりますから……」
「さりながら、
「それは存じておりますけれど」
問われて窮する女の姿を、仮面の中より見下ろしていた猩々は、
「いかさまこれは、ことさらにわれらが楽しみをさまたげんとて来りしものとも思われねど、まずは
「畏まりて候」
こういって鬼の面をかぶった数名のものが男装の女――いうまでもないお銀様を引立てて、幕屋の
そうして、猩々から命ぜられた通りに、栗の大木へ
お銀様は、どのみち、怖ろしい目に遭うべき暫時の後を期待して、覚悟をきめてしまいました。それにしても、いよいよ
お銀様が思い乱れている時に、不意に
この鉄砲の音はいずれから起ったかわからないが、その一発の音が起ると、さしも昼を
お銀様だけは、どうすることもできません。幸か不幸か忘れられていました。眼前の幕屋でさえも、手早く引きほごされて、荷ごしらえをされる有様なのに、忘れられたお銀様は、ただ怖ろしい夢の中で、走れない人のように気を
つづいて山谷にこたゆる第二発目の鉄砲。
その谷間より程遠からぬ柿の木平というところに立っていた猟師の勘八と宇津木兵馬。
勘八が鉄砲の
「まあ、待って見給え、もう少し近寄ってみようではないか」
勘八の切って放とうとしたのは第三発目の鉄砲です。
その第一発を、やはり同じところから発射した時に、賑やかな拍子の音が、パッとたえ、それと同時に、さしも昼間のように明るかったその一団の火がフッと消え、闇の中に、なんとなく谷間が動揺しているようですから、程を見すまして第二発を切って放したが、これは手答えがありません。やがて闇中の動揺も静かになって、一様に空々寂々たる
そこで二人は、わざと火縄をかくし、
勘八の頭では、これは、てっきり
こうなってみると、例のものすごい二日月が山の
「げえもねえからよそうじゃございませんか、ばかされてもつまらねえ」
勘八は、なお気が進まないのに、
犬が案内してくれました。やがてめあての谷へ近づいた場合にも、犬がいよいよ勇みますから、危険がないと知り、そこで勘八は、火縄の火を附木にうつして用意の
兵馬の心では、人の
松明の光に、まず照らされたその谷間の光景はすこぶる
兵馬は勘八の手から松明を借受けて、狼藉たる陣地の跡を隈なく照らし見ようとした刹那、猟犬の縄をゆるめたものですから、犬はまっしぐらに一方へ向いて飛んで行きました。二人がおどろいてその方向を見ると、栗の大樹があって、その根もとに人らしいものがうずくまっている。
勘八は鉄砲を取り直しましたが、兵馬はしかと見定め、
「人がつながれている」
これも危険なしと見て近寄ると、
ほどなく宇津木兵馬が先に立ち、猟師の勘八がお銀様を背負って、もと来た炭焼小屋まで立戻って参りました。
そこで、兵馬はお銀様に向い、お銀様の捕われた一団というのが、一定の住所というものを持たずに、全国の山から山を旅して渡り歩く
それは疑問のうちに残されながらも、ともかく、そこを脱出したお銀様の行先について、
「あなたは上野原の月見寺へおいでなさるそうですが、誰をたずねてあの寺へおいでなのですか。わたしもあの寺にいたのです」
「あのお寺に、琵琶を弾く
「ははあ、弁信殿を尋ねておいでなのですか。あの人ならば、まだ寺にいるでしょう。珍しく勘のいい人ですね」
お銀様は、この少年の親切にして、義気のあるのに感心しました。見たところ、さむらいの風をしているのに、どうしてこんな山の中に、猟師と一緒に生活をしているのだろう。月見寺のことも、弁信のことも、よく知っているのが不思議だ。まだ尋ねてみたいことも多いが、万事は明日。そこで、広くもあらぬこの炭焼小屋に枕を並べて、一夜を明かすことになりました。勘八は早くも
お銀様は怖ろしい夢にうなされました。その夢とても、過去の現実を離れた夢ではなく、過去の最も怖ろしかった記憶が、ほとんどそのままに再現されたままです。
その怖ろしかった記憶は、
理も非もなくその人に
その時以来、そのつめたい人がこの胸を火のように燃やす。ひとたび愛人幸内を失ったお銀様には、たまらない肉のもだえがある。わが雇人であった幸内を、身も心も自由にしていたように、お銀様は、その人に、わが心も、わが身も自由にし、自由にさせていた。その持っていたつめたい残忍性が、お銀様を翻弄する時に、お銀様もまた、残忍そのものを翻弄する痛快心に駆られて、この女だけが人を斬ることを知って、少しもおそれなかったのです。最初の縁は躑躅ヶ崎の古屋敷。
「ああ、あの蝶の
悪夢の中に、どろどろにもだえたお銀様は、力かぎりその人にしがみつくと、夢が破れて、おどろいたのは自分の胸に重い物。いつか知らず傍らの宇津木兵馬をかたくだきしめていました。
宇津木はそれを知らず、知ったお銀様は、どうしてもこの腕を離しともない心になりました。
十
信州
「御免下さいまし、お
スルスルと入って来たのは女の声です。竜之助は返事をしないで、なお
「いろいろございます、これが諏訪の明神様の絵図、こちらがおなじ明神様の神木でこしらえましたお箸、それから、湖水で取れました
ここまで並べ来った時に、物売りの女が、あっとおどろいたのは、
「おや、お明りが消えました、おつけ致しましょう」
お土産物の陳列をよそにして、行燈のそばに寄った土産売りの女は、その
「どうぞ、何か一品お召し下さいませ」
改めて、土産物売りの女は自分の座へ戻りました。
「土産を買ってやるから、この首を剃ってくれないか」
「ええ、よろしうございます」
そこで机竜之助は剃刀の
「お
「ああ、面は済んだから、この襟足のところだけを願いたい」
「はい、お明りをこちらへ向けましょう」
女は剃刀を取って、竜之助の後ろへまわりました。
「
「一夜泊りだ」
「左様でございますか」
女は慣れた手つきで、竜之助の首筋に剃刀を当てて後ろに撫で卸すと、
「景気はどうです」
と竜之助がたずねますと、
「おかげさまで、この
「諏訪の湖というのはどちらに当ります」
「え、湖でございますか。湖は、もうこのすぐ下がそれでございますよ、障子をあけてごらんになると、一面に……」
女は、今までそれを気がつかなかったお客は、多分、暗くなってから着いたお客だろうと思い、
「今夜は、お月夜かも知れません、障子をあけましょうか」
気を
「風が冷たいからそれには及ぶまい。そうだな、月というものを見たのは、いつのことか。伊勢の
竜之助が、謎のような
この女は、もうよい年ですけれども、お化粧をして、赤い
「まあ、伊勢からおいでになりましたのですか」
急に、
「伊勢から来たというわけでもないが、伊勢には暫くいたことがあるのだ」
「それでは
「間の山は見ないけれど、間の山節というのを聞いたことがある。そういうお前こそ伊勢の国のうまれか」
「わたくしは伊勢のうまれではございません、どこといってうまれた国は……まあ、渡りものなんでございますね」
「渡りもの?」
「ええ、お恥かしい話ですが、男に欺されて諸国をひきまわされたあげく、今ではこうして信州の諏訪へ来て物売りを致しておりますようなわけでございます。女というものは、
この時の女の言葉には、
「ねえ、旦那様、おついでにお
そのやわらかな手を、首筋から頬のあたりへうつした時に、竜之助の
「もうよろしい」
「どうも失礼を致しました……いいえ、お代はあとで帳場からいただきます」
といって、女が出て行ってしまったあとで、竜之助は、自分の身に残るうつり
これは
とはいえ、今の竜之助にあっては、女というものの総ては肉である。美醜をみわけるの
いや、それは単に女ばかりではあるまい。この男は、すべてにおいて、むずかしくいえば、宗教がなく、哲学がなく、またむしずのはしる芸術というものがない。ただあるものは剣だけです。勝つことか、負けることかのほかに生存の理由がないので、恋というものも、
一剣を天地の
女というものに触れる時――彼は、いつでも戦いを
まもなく久助とお雪は外の湯から帰って来て、
「ええ、御免下さいまし、毎度、
と言う。
「何ですって」
それをお雪が聞きとがめると、番頭が、
「お万殿の夜詣りでございまして、はい」
と番頭が答える。
「お万殿の夜詣りというのは何ですか」
お雪が念を押してたずねる。
「ええ、何でございますか手前もよくは存じませんが、月に一度ずつ、お万殿の夜詣りということがございまして、その晩、九ツ半過、外へ出ますと、
「ええ、ようござんす」
お雪が、それを承知してしまいました。断わられなくても、大抵の人は九ツ半過、今の夜中から一時までの真夜中をかけて、出て歩く必要はないはず。
そこで、番頭が行ってしまったあと、お雪ちゃんは、まだ何か物足らない
「お万殿の夜詣りって何でしょう、外へ出ると祟りがあるんですって」
「ナニ、
「ですけれども、こんな夜更けにわざわざお詣りをなさるお万殿という方も、気が知れない」
「何か因縁があるでがしょうね」
「
「ですけれどね、わざわざ先触れをしておいて、丑の刻詣りをする人もないもんじゃありませんか」
「それも、そうですね」
「まあ、なんにしても九ツ半から外へ出さえしなければいいのさ、言われた通りにね」
「なんだか気がかりになるわね」
久助は触らぬ神に祟りなしの態度を取っているが、お雪ちゃんは
「先生、御存じですか」
「知らない」
「おかしいわね」
お雪は首をひねって思案してみたが、
「考えたってわかりゃしませんわ、
「番頭さんが知らないくらいだから、土地の人だって知っちゃいますまいよ」
と久助がいう。
「年寄の
「それほど詮索をしなくったって、やっぱり郷に入っては郷に従えですよ、こういう晩には早寝に限ります」
「それもそうですね」
お雪は、まだ解ききれない
その時、お雪は、ふと
「おや、こんなところに
と拾い上げて、
「まあ、二つに割れていることよ」
お雪の手にしたのは、まだ新しい木曾のお六櫛。
拾っても悪い、落しても悪いという女の櫛。しかもそれが自分のほかには女のいないこの席に、真二つになって落ちていた。
お雪はその時、なんとも言えない
十一
この座敷は、それで済まされたが、どうしてもそのままでは済まされない座敷がありました。
「ナニ、九ツ半過から外へ出るな、お万殿の夜詣りがある、それを見ると
第一、そういう迷信のために、一種の交通遮断を行うのは、迷信を
「そのお万殿とはなにものだ」
「ええ、何でございますか、手前もよくは存じませんが……」
「知らない、貴様が知らぬことを、ナゼ人に
「恐れ入りました、よくは存じませんが、お万殿が九ツ半過にここをお通りになって、諏訪の明神様へ御参詣をなさるのだそうで」
「そのお万殿とやらが、参詣をするために、なんでわれわれが外へ出て悪いのだ。お万殿というのは禁裏のお使か、或いは将軍の代参でもあるのか」
「いいえ、そういうわけではございません、それにいきあうとたたりがありますので」
「たわごとをいわずに引込んで、誰かその因縁を知ったものをつれて来い、さもない時はわれわれが、今夜親しくそのお万殿の正体を見とどけて
「はい」
番頭は青くなりました。青くなったのは、この連中に向っては迷信の権威が甚だ薄いから、よく
ここに二人の佐久間象山の門生――といっても象山門下を名乗るものにかぎりはない。ちょっと玄関をのぞいただけでも、都合上その門生の名を利用するものも多い。宿帳にはそうはしるさなかったが、一人は丸山勇仙、一人は仏頂寺弥助、共に信州
丸山は書生であり、仏頂寺は剣客であります。従って丸山はよく洋書を読み、仏頂寺はよく剣を使う。丸山の学力のほどは知らず、仏頂寺の剣は当時に鳴り響いたものです。
この仏頂寺弥助と、長州の高杉晋作とが試合をしたことがある。その前に、高杉晋作が、はじめ佐久間象山に
高杉晋作、天下第一の気概をいだいて、江戸に出でて書剣を学ばんとす。その師吉田松陰の勧めに従い、道を信濃に取って佐久間象山に謁す。象山、つくづくと晋作を見て、
「君は幾つになる」
「二十一」
そこで、象山が、またも晋作の
晋作はその時、内心得意でありました。象山が嘆息したのは、おれの英雄心を見て取っての感嘆であろう。そこで、
「先生、僕の歳を聞いて、ナゼそのように御嘆息をなさる」
「されば」
と象山は
「おれは十五歳にして、信濃一国に鳴り、二十歳にして日本全国に鳴り、三十歳にして五大州に鳴る。君は二十一歳というのに、おれはまだ高杉晋作なるものの名を聞いたことがない。いったい、君はどこへ年を取っているのだ」
これには、さすがの高杉東行も、
ここにいる仏頂寺弥助と高杉晋作とが試合を試みたのはその時です。
仏頂寺は斎藤弥九郎の高弟。そのころ無敵といわれた道場荒し。
当時の佐久間象山は、水戸の藤田東湖と共に一代の権威。諸侯も礼を厚うして、辞を
そこで、仏頂寺弥助と
尋常では勝てないことを知っている彼は、立合の場へ立つと、いきなり交叉してあった竹刀を取り上げ、
「オメーン!」
まだ立合わない仏頂寺の頭を一つ
「まだ、礼式も相済まぬうちに、頭を打つとは何事でござる、無作法千万」
高杉晋作は、いっかな聞かない。
「何とおっしゃる、貴殿もし、戦場に臨み、敵に頭を斬られてなお礼式呼ばわりをなさるか」
「以ての外、ここは戦場ではござらぬ」
「いやいや、立合の場は戦場と同様でござる、貴殿の頭は、もう拙者が打ち割ってしまったのでござる」
「強弁を振いたまわず、いさぎよく立合って勝負をさっしゃい」
「勝負はすでについてござる、拙者の勝ちでござる」
仏頂寺が躍起になって怒るのを、高杉は
とにかく、仏頂寺弥助は当時有数の剣客でありました。
それはさて置き、この二人が今しも一酌を試みて談笑しているところへ、最前二人にオドかされてほうほうの
「御免下さいまし、ただいまお話のお万殿のことは、この本にくわしく書いてあるそうでございます」
「うむ、そうか」
番頭は一冊の本を置いて、逃ぐるが如く
「ナニ、諏訪昔語りか……」
丸山勇仙が、その本を取り上げて見ると、こくめいに書いた写本であります。
「お万殿のこと……」
二三枚めくって、ある点に急がしく眼を飛ばせて走り読みをすること暫し。
「なるほど、これで、すっかりわかった」
「どういう仔細だ」
そこで丸山勇仙は、仏頂寺弥助に向って、自分が走り読みしたお万殿の部分を、次の如く要領よく話して聞かせました。
天正十年のこと、織田信長がこの国に侵入して、
この女房は信長の前へ出ると、懐中した錦の袋から茶入を出して信長に見せると、信長は何に激したか大いに怒り、刀を抜いてこの女房を
この女房というのがすなわちお万殿で、もとは、美濃国岩村の城主遠山勘太郎が妻、信長のためには実の
それで、お万殿の恨みが消えない。
「ははあ、ではそのお万殿というのが、色々の小袖を着て、錦の袋に茶入を納め、それを捧げながらこの前を通って、諏訪明神へ参詣というわけだな。そうなると、いよいよ見てやりたくなる」
仏頂寺弥助がいいますと、丸山勇仙は、
「それはなんとなく忍びない心持がする、見てやらないのが人情だろう」
その時、盃の酒の冷えたのに気がつきました。
十二
こちらの座敷では、明朝塩尻までの馬の相談にいって来た久助が、どこで聞いて来たか、前のとほぼおなじようなお万殿のいわれを、お雪に向って話すと、
「かわいそうだわね、それではお万殿の恨みが残るのも無理がないわ」
といいました。
「どうも仕方がねえ、敵の大将に肌をゆるしたんだから――」
久助は鈍感な返事。
「だって、かわいそうですわ、生捕りにされちまったんですもの」
「生捕りにされたって、お前様、敵の大将に肌をゆるせば、後で殺されたって仕方がない」
久助は、仕方がないで押切るのを、お雪は残念がって、
「それでも……
お雪は常磐御前を味方に連れて来て、久助をいいこめようとする。久助は迷惑がって、
「ありゃお前様、子供を助けたいからなんでさあ。源氏の
「仕方がないといえば、お前、お万殿だって、
お雪は今度は竜之助の方へ加勢を頼みに来て、
「ねえ、先生、あなたは、どう思っていらっしゃるの、やはり、お万殿をかわいそうだと思っていらっしゃるでしょう。信長という人を、にくい人だとお思いにならない?」
「けれども、この時の習いで、敵に肌をゆるした女をたすけてはおけなかろう」
竜之助が答えますと、お雪は非常に失望しました。
「まあ、先生も、そう思っていらっしゃるの。お万殿だって、好んで敵にゆるしたんじゃありますまい、いくさにまけたから仕方がなかったのでしょう。世間にはずいぶん、よい夫を持ちながら、好んでほかの男に
お雪は頼まれでもしたもののように、ムキになってお万殿に同情を寄せる。
竜之助は何ともいわず、横になったままで
「なんにしても、こんな晩には早寝にかぎります、先生もお休みなさいまし、お雪ちゃんもお休みなさいまし」
久助がいい出して、女中を呼び、前の晩のように竜之助はこちらの間に一人、お雪と久助はこちらの間へ隔てて床をのべてもらいました。そこで、竜之助は寝巻に着かえて、大小を引寄せて枕につこうとするのを、見ていたお雪が、
「先生、わたしは、いつもおかしいと思いますよ、そうして、お休みになる時までも、刀を
「もし悪者が来て、これを盗まれでもしようものなら大変だ」
「だって、先生、盗む気で来れば、いつでも盗めるでしょう」
「どうして」
「どうしてって、失礼ですが先生はお目が御不自由でしょう、ですから、盗むつもりなら、いつでも盗めるじゃありませんか」
「盗みに来れば斬ってしまう」
「それでも先生、ちょっと
「そうも限るまい」
「それは先生が、お目さえ御不自由でなければ、悪者が来ても怖くはないでしょうけれど、
「ははあ、雪ちゃん、お前にこの刀が盗めますか」
「眠っていらっしゃるところを、そうっと持ち出せば何のことはないじゃありませんか。それは
「それでは今夜、盗んでごらん」
「お約束はできませんけれど、もし、わたしが夜中に目がさめましたら、きっと盗んでお目にかけます」
「なるほど。それでは、下げ緒も向うへまわして、お前の盗みよいようにしておきましょう」
「そうして、先生、もし盗めたら、この刀を返しませんよ」
「いいとも、盗まれるのはこっちの
「けれども、あやまれば返して上げます」
「返してもらわなくてもよい」
「それでも、わたしが刀を持っていたって仕方がないじゃありませんか」
「それは知らない、盗んだものの
「おあやまりなさい」
「あやまらない」
「それじゃせっかく盗んでもつまらない」
この時、竜之助は微笑をたたえて、
「雪ちゃん、お前は盗むことばかり考えているが、もし盗みそこねたら、どうしますか」
「そりゃ先生、盗みそこねたら、罰としてお望みの物をなんでも差上げますわ」
「きっと?」
「きっとですとも」
弁信法師も言[#「言」は底本では「行」]った通り、お雪も年ごろの娘であるのに、あまりに無邪気です。自分が愚かなるが故に無邪気なのではなく、人を信ずるが故に無邪気なのです。人を信ずるの深きは、つまり
「それではお約束をしましたよ、雪ちゃん、その心持でお休みなさい」
大小をこころもち前の方へ置いて、机竜之助は枕につきました。
「ここから風が入るといけません」
お雪は竜之助のために、枕の間の夜風を、夜具の襟で埋めてしまおうとした途端、ゾッとして唇の色まで変りました。
しかし、べつに夜具の中に鬼も
弁信法師のいうことは、
弁信さんは、時々ああいうことをいい出すからいけないのだ。
もし、あの弁信さんが今晩ここにいたら、あの人だから、何をいい出すまいものでもない。「今晩、九つ半過から、この道を通って諏訪の明神へおまいりをなさるのは、いにしえのお万殿ではありません、それは殺されたあなたの姉さんです」――こんなことをいい出すかも知れない。どうも、そういう気がしてならない。なお念を押して、「私は血まよってはおりません、私のいうことが本当でございます」と付け加えるかも知れない。
いい時はいいが、悪い時は、弁信さんのいうことは一から十まで気になる。ああ、悪いことを思い出した。
そう思うと、しんしんと淋しくなって、ほんとうに殺された姉さんが、ほどなくこの街道を通るように思われてならない。見ていればいるほどこの人が、ほんとうにわたしの姉に手を下したもののように疑われてならぬ。
罪という罪は多いのに、夫にそむいて他の男に許した女の運命のみが、なぜそのように
そんなことを考えれば考えるほど、気が
「さきほどはどうも、失礼を致しました」
と障子をそっとあけたのは、以前、お雪のいない時に物売りに来たなまめいた女です。
「何か御用?」
帯を解きかけたお雪がこちらを見て返事をすると、女もお雪を見て、ちょっとはにかんで、
「あの――さきほど、そこいらに
「あ、櫛ですか、落ちていました」
お雪はほどきかけた帯をちょっと締め直して、
「落ちてはいましたけれど、お気の毒さま、こんなに割れていましたよ」
「まあ」
お雪が
「おやおや……わたくしのそそうですから仕方がございません」
女はしょげて、二つに割れた櫛を受取り、
「どうもお邪魔を致しました、お休みなさいませ、よろしく」
といって竜之助の寝ている方を横目でチラリと見て、障子を立てきって出て行きました。
ちょっといきがった髪の結いよう、お化粧、着こなし、
今の女が、わたしのいない時にこの座敷へ物売りに来て、そうして櫛を落していった。その櫛が二つに割れている。
「ああ、この女もまた姉のように殺されるのではないか」
この女が廊下でバッタリ、仏頂寺弥助に出逢ったのが運の尽きであります。
弥助は、いやがる女を無理に自分の座敷へ連れ込んでしまいました。しかもその座敷には新たに二人の客があって都合四人、酒興ようやく
女がしきりに、あやまるのを、かれはどうしても聞き入れない。女はついに泣き声になっても、どうしても、許すことをしないものだから、その
しかし、女も、もうのがれられないと観念したか、やがておとなしくなって、そこへすわると、かれらは女に酒を飲ませました。
やむを得ず、女はその盃を受けると、つぎの一人がまたさす。からかいながら、
女は、できるだけ、それに逆らわずに、酒を
男共は、それと違って、この女をもりつぶして興がろうとしているらしい。
仕方がなしに重ねているうちに、強くもない酒が廻って来るのはぜひもありません。もともと
そこで、四人の者は
「もういただけません、どうしてもこれで御免を
いったん酔いつぶれた女が、よろよろと立ち上ったのは、それから暫くの後で、初めて気がついたように、
「ああ、もう
女は何におどろかされたか、まっしぐらにこの座敷を逃げ出しました。
そのまま
「もう時刻ですよ、泊っておいでなさい、泊っておいでなさいってば……」
帳場で支えるのを聞かず、この女は表へ飛び出してしまいました。
夜の遅いことは知っているだろうが、今が
「ああ口惜しいッ」
夢遊病にとりつかれたような女は、それでも本能的に自分の下駄だけは間違えないで
「ああ、こんなに酔っぱらっちまった、頭がガンガンして、からだが火のように熱い、ああ、わたしはうっかりして、
女はこういって、まっしぐらに外の街道を駈け出します。
この女の家は町はずれにあるはず。そこへ帰るつもりで、まるっきりちがった方角へ走っているらしい。そのくらいだから髪のくずれていることも知らない。着物のみだれていることも気がつかない。
「口惜しいッ」
と何かわからずに口惜しがって、街道を駈け出したが、やがてぱったりと物に突き当って打倒れ、その時、起き上るほどの気力がなかったと見えて、そこへころがったままでいる。
けれども気絶したわけでもなければ、怪我をしたのでもない。まだ、充分に酔いがまわっているのに、走り出して疲れたものですから、泥のようになって、そこにかすかないびきをさえ立ててねむってしまったのです。
女が倒れているのは――静かな神社の
この時が、ちょうど、例のお万殿の
十三
しかし、その晩は、宿の方ではそれよりほかに変ったことはなく、お雪ちゃんも夜中に目がさめて、竜之助の刀を
下諏訪を立つとまもなく塩尻峠。一足先に出た竜之助の一行と、やや
これより先、彼等四人のものには、竜之助の一行が問題となって、
「あれは昨晩、われわれとおなじ
「左様、夫婦にしては年が違う、兄妹にしては他人行儀なところがある、
横目でジロリジロリと竜之助の一行を眺めましたが、竜之助の笠はかなり深いのに、
「ちょっと可愛らしい
「人好きのする娘だ」
といってカラカラと笑い、
「昨晩はかわいそうに」
「そうそう、丸くなって逃げ出したが、あれっきり姿を見せなかった」
これは酔いつぶされて逃げ出した女のこと。
やがて、峠の上、
仏頂寺弥助は鍵屋の辻の荒木又右衛門といったような形で縁台に腰をかけ、諏訪湖の
この辺の連中、腕はたしかに出来るには出来るが、ややもすれば無頼漢になってしまう。これより先、江戸三剣士(千葉、桃井、斎藤)の一人斎藤篤信斎弥九郎が、その門弟のうちから十余人の
自然用うるところのない亡者どもは、そのあり余る手腕は悪い方へ使えばといって、善い方へ使う気づかいはない。
厄介千万なのはこの
荒木又右衛門気取りで酒を飲んでいるが、本物の荒木が来てさえも、そうは
その日の天気模様は朝から曇っていたものですから、肝腎の峠の上から諏訪湖をへだてた富士の姿が見えず、あたら絶景の半ばを損じたもののようで、ことに寒気が思いのほか強く、風こそないけれども、海抜一千メートルのここは、今にも雪を催してくるかとばかりです。
そこへまもなく、峠路を上って来た竜之助の一行。道中の不文律に従って、ともかくもこの
やむなく、相当の時間と茶代とを置いて、この立場を出立しました。四人はいい合わさねど
峠の上の
「おおい」
と呼ぶ声。
その声を聞くと
「おおい」
「久助さん、おおい、おおいって、呼んでいるのは、あのさむらいたちじゃありませんか」
「そうかも知れねえ」
「なんだか、気味の悪い人たちですね、
「急ぎましょう」
急ぐといって、ここは下りに向った塩尻峠ではあるが、見通しの
もし隠れるとすれば、いのじヶ原の真中に、屋根に
「おおい」
と三たび呼ぶ声。この声に竜之助が聞き耳を立てました。
「うるさい奴等だ」
「何でしょう、あのおさむらいたちは?」
久助が心配する。そこで期せずして三人がひっかかりました。
「先生、かまわないで行きましょう、そうでなければ、あの一軒家へ隠れて、先へやってしまいましょう」
最も多く心配するのはお雪です。
「おおい、お待ちなさい」
ようやく近寄って来た四人の者。
「ちぇッ」
竜之助は
「先生、芸もないから相手になるのはおよしなさいまし、なんだか、たいそう気味の悪いさむらいたちですから」
久助も、お雪も、馬から下りた竜之助を見て、かえってそれに驚かされました。
「小うるさい奴等だ……久助どの、お前はお雪ちゃんを連れて、その一軒家とやらへ隠れておいで……馬も、駕籠も、近くへは寄らぬこと」
馬から飛び下りて、右の手で野袴の裾をハタいて、それから笠の紐を取った竜之助の
「え、
老巧の久助も
物騒な相手よりも、相手を知らぬものが怖い。久助は何かいおうとして、
しかし、心得たのは、お雪を乗せた駕籠屋で、客の安全よりは自分たちの安全を頭に置いて、竜之助にいわれた通り、お雪を乗せたままの駕籠を中に、程遠からぬいのじヶ原の一軒家めがけて飛ばせてしまいました。馬も、馬方もそれについで――
久助は、無謀千万な同行者の態度に、いうべき言葉を失って慄え上っている間に、
「お呼び留め申して失礼」
おだやかならぬ四人のものは、早くもそこへ追いついたから、久助は、本能的にお雪の駕籠を追いかけて走りました。
あとにひとり残った竜之助は、うしろを顧みずしてあるきながら、
「おのおの方は、さいぜんからわれわれをお呼び留めなさるようだが、何の御用でござる」
「ちと、承りたい筋があって」
竜之助と押並ぶようにして、まずしゃしゃり出たのが高部弥三次。
「それはまた何事」
竜之助が答えると、弥三次はせき込んで、
「貴殿は昨夜、下諏訪の孫次郎へ一泊致したでござろうな」
「仰せの通り」
「そうして、貴殿は、あの宿で女をかどわかしてこれへ伴い参ったはず」
「何をおっしゃる」
「我々に向って尋常にその女をお渡しなさい」
弥三次が詰め寄ると、後ろで仏頂寺をはじめ他の三人がニタリと笑っている。
そこで、竜之助は黙っていました。このやつらは、いいがかりを考えて来たな、自分たちで
「いかにも女を一人つれて参ったに違いないが――」
「穏かにその女をお渡しなさい」
「渡すべきいわれのない者には渡せない、貴殿らにその女を受取るべき縁故があるなら聞きたい」
「我々はその――女にとっては親戚のものでござる、つまり、親戚のものから頼まれて、あとを追いかけまいったものでござる」
「しからば、その受取りたいという女の身元は?」
「宿の女じゃ、貴殿がかどわかして、
「して、その女の名は何といって、年は幾つぐらい」
「くどい――」
高部弥三次が
「
と言って竜之助の肩へ手をかけてゆすぶると、竜之助は横の方を向いて、
「紙入を一つ拾うたからとて、手渡しするまでには相当に念を押さにゃならぬ、まして人間一人……」
そのまま歩いて行くと、高部も肩を
「やい、この刀が目に入らぬか、我々のかけ合いは、ちと骨っぽいことを御存じないか。お手前はそのかどわかして来た女を、あれなる一軒家へ隠して置いて、踏みとどまって我々に応対を致そうとするからには、相当に覚えがあるに相違ない。刀にかけて返答をするつもりか、それとも、あれなる一軒家へ案内して、尋常に女を渡すつもりか。さあ、こちらを向かっしゃい、こちらを向いてこの刀、粗末ながら
高部弥三次は、こういって長い刀の
その時、竜之助は、
「あいにく、拙者は眼が見えないのだ」
といって、
「ナニ、眼が見えない?」
向き直った竜之助の面を高部がキッと見て、暫くあきれていると、
「この通り
「盲目?」
これを聞いて驚いたのは高部ばかりではありません。後ろについて、かけ合いを検分して来たところの仏頂寺はじめ三人の者が、六つの目をみはって、一度に竜之助の
事実、今までこの四人は、この男が
さてこそ、悪く取りすました返答ぶり、大胆と沈勇に出でた結果でもなんでもなく、敵の威力を見定める眼を失っているからのこと。こう思ってみると、四人は一度にカラカラと高笑いをして、
「
といいました。
そこで高部は一層図に乗って、竜之助の肩をゆすぶり、
「一体、貴殿はどこの藩中だ、両刀を帯している以上は、多少、武術の心得はあるだろう、まして、この道中、盲目の分際で傍若無人の振舞、酒をのみ、女にたわむれ……」
といって、高部は自分ながら妙な面をして失笑したのは、よくある手で、この手合の因縁をつける時は、たいてい自分の
後見役の仏頂寺はじめ三人は、やれやれと
「昨晩も、下諏訪の宿で、あたりはばからぬあの乱暴狼藉、同宿の我々がどのくらい迷惑致したか知れぬ。しかるにまたも悠々として女を伴い、これ見よがしの道中、武士の風上には置けない
かさにかかって
聞き捨てにして
「
高部はまたも竜之助の肩をこづき立てましたから、竜之助が、
「生国は下総国、
と何のつもりか
そうすると、
この時、高部は前よりグッと手荒く、竜之助の肩をつかみ、極めて意地悪く小突き廻すと、その時、竜之助の
「ちぇィッ」
無慈悲にその肩を左に開くと、
「あっ!」
と言って、頬を抑えて無二無三に後ろへ飛び
「あつ、つ、つ、つ、つ」
と左の手で自分の頬をおさえると、その指の間から血が滝のように溢れ出します。それでも、右の手には早くも脇差を抜いて、仰向けに倒れながら、それを構えたが、みるみる、
竜之助は、抜討ちに高部の
三谷一馬もまたすかさず抜き合わせたけれども、遠く離れて、それを振りかぶったままです。腕に覚えのない丸山勇仙は、
机竜之助は抜討ち横なぐりに高部を斬ると共に、当然踏み込んで行くべき二の
多分、仏頂寺が、斬りかかろうとして飛び退いたのはそれがためでしょう。高部を追いかける途端を、
三谷ときては、見当がつかないから、その当座は遠く離れて振りかぶっているが無事。
そこで、彼等の内心のおどろきは非常なものでありました。
これは、絶体絶命の
盲目といったのは嘘だ。我々を油断させるための機略だ――
と気がついて見ると、やっぱり盲目は盲目に相違ない。
眼が開いていないから――この際に至って、なお眼をつぶって、機略を
その
これより先、いのじヶ原の一軒家に送り込まれたお雪は、気が気でなく、どうしても中へ隠れてはいられないで、幾度も、幾度も、外へ出て見ましたが、竜之助と覚しいのを中に、四人で、都合五人ほどの人が極めて悠々寛々とこちらへ歩いて来るのがもどかしいことの限りです。
久助もまた居たり立ったりして心配してみましたが、何の方便もありません。要するに、万一の場合は、一行の中でいちばん弱いお雪を保護するのが急だと、
「お雪ちゃん、裏の方へまわって休んでおいでなさい……」
場合によっては、この家の
「あれ、大変です、斬合いが始まってしまいました、どうしましょう、どうしましょう、大勢して先生一人を殺そうとしています、かわいそうだわ、目の見えないものを、あの憎らしい人たちが寄ってたかって――」
と絶叫しました。
この叫びで、久助も色を失って駈け出して見ると、お雪は夢中になって、
「誰か、助けて上げてください、四人と一人じゃ
お雪は両方の眼を両手でかくして、久助へよろけかかりました。
十四
次の恐怖がほどなくこの一軒家へ襲うてくる。逃げられなければ隠れるほかはない。隠れおおせないまでも――
久助は、目をふさいで
「戸、戸、戸を締めて下さい……」
そこで、この家の
久助とお雪は、裏口へまわって物置の蔭に小さくなって、
「だから、先生を馬から下ろさなければよかったのに……」
「だって、下りてしまったんだから仕方がねえ」
「きっと、ここへやってくるわ、もし、この家をこわしてしまったら、どうしましょう、逃げ出したって一筋道だから、捉まるにきまっているわね」
「ここの
けれども、事実、その鉄砲がどのくらい威力あるものだか
今や、締めきった戸を割れるばかりにたたくもののあることを期待し、それが、いよいよ戸を押し破ったなら、その時こそ最後……と腹をきめるよりほかはない。
お雪は、久助の懐ろに息を殺している。
ところが、おそい来るべきはずの敵が容易に来ない。一陣を斬りくずして、余れる勢いでこの孤城に殺到して来るべきはずの敵が、なかなかに来ないのであります。
「久助さん……来ませんね」
「ここに隠れたことを知らずに、通り越したのかも知れねえぜ」
「そうだとすれはまたひきかえして来るかも知れません」
「ナアニ、そのうちには、お大名のお通りがありますよ。お通りがあれば、あんな悪い奴は、
ここで、万々一のお大名行列の威力まで引合いに出して、お雪に力をつけてみたのですが、お雪の耳へは入らないで、
「先生がかわいそうだわ」
「どうも仕方がございません、助ける手段がねえのだから」
「先生も悪いわ、早く馬で逃げてしまえばよかったのに。ですけれども、そうすれば、わたしたちが直ぐにつかまってしまいます……でも、同じことなら、眼の見えない人より、眼の見える人が先に殺された方がよかったかも知れない」
「あ、人の足音がするようです、静かに――」
久助はお雪をかかえて、
しかし、人の足音と思ったのは
諏訪からのぼって来た人は、峠の上のこの騒ぎで、五条源治の
それですから、いのじヶ原は空々寂々として、原林のような静けさ。まして雪もよいの陰鬱な天気。
ところで……高原の空気に
この間、いのじヶ原には、灰色の雲がいっぱいに立てこめて来ました。
諏訪の盆地は隠れて見えず、
すべてを灰色に塗りつぶした、いのじヶ原は山路にあらずして、いとど荒原の趣を加えてきました。見渡すところ、この荒原の中、
天地が塗りつぶされた灰色の中に、その人も灰色。
その人は、手に白刃をさげたままで、左の手で半身にあびた
野袴の裾には、尾花すすきが枯れている。
立科から桔梗ヶ原へ向けては、灰色の空をしきりに鳥が飛ぶのに、地上の荒野原は、この人ひとりをあるかせるための
しかし、どう見ても、痛々しい足どりだ。病めるにあらざれば、傷ついている。
誰と戦って、誰のために傷つけられた。相手はどこにいる。どこにもいないではないか。連れはどこにいる。それも見えない。
こういう場合には、傷ついたよりも、殺された方が幸いである。殺されて
誰か通りかかる人はないか。通りかかって、このあわれな負傷者をいたわってやるものはないか。いたわってやる余裕と勇気がなけれは、せめて遠くから、その方角を教えてやれ。この男は時々、真直ぐな道をさえ間違えて、草原に迷い入り、南北をわすれてしまうではないか――傷ついたのみならず、彼はもう、眼が見えなくなっている。
ああ、この痛々しい足どり――だが、今となっては誰を
しかしながら、世間のこと、他の
この男はこれが商売です――商売という
ただ今日のは、白日荒原の上、十方碧落なきのところで、前後左右に敵を引受けた無謀と、それに相手が相当の
それにしても仏頂寺弥助はいずれにある。三谷一馬はどうした。高部弥三次はいかに。また丸山勇仙はどこへ行った。
それらの者の影は、一つもこの荒原の上に見えないではないか。
まさか、四人が四人、枕を並べて、
では、逃げたか――或いはまた勝って再び
ともかくも、荒野にただ一人、机竜之助の姿は、
そこへたどりついて、戸をホトホトと叩きました。
荒原にざわざわと風が吹き、草も、木の葉も、一様に裏を返したのはその時。
締めきった戸を、外からホトホトと叩かれた時、まず鉄砲を持った
この鉄砲というのが、慶長以後、島原の遠征に一度参加して帰ったという履歴附きの
「久助どの、久助どの」
外では、続いてホトホトと戸を叩き、低い声で人の名まで呼んだのですが、こちらの守備兵の耳ががんがんと鳴り出して、それを聞き取れなかったと見えます。
「テ、テ、テッ砲だぞ!」
と
すると、外では、やや
「お雪ちゃんはいないか……ともかくもここをあけて下さい」
「ナニ!」
まだがんがんとして、何が何だかわからないで、居たり、立ったりしていると、程遠からぬ裏の物置にいたお雪と久助との地獄の耳にそれが届きました。
「おや?」
久助の胸に固くなっていたお雪が、まず聞き耳を立てると、久助も、
「あの声は?」
といいました。その時、表で第三度目の戸をたたく音――
「誰もいないか、久助どの、お雪ちゃん」
それでまさしく合点がゆくと共に、二人は重しにかけられた千貫の石が、急にハネのけられた気持がしました。
「先生が戻って来ましたよ」
「たしかに、そうでしたよ」
二人が、はじめて立ち上ると、その時、またも表でホトホト叩き、
「ともかくも、ここをあけて下さい」
久助とお雪とは表口へ走り出しました。島原遠征の鉄砲が、漸く手の上に納まったのもこの時であります。土下座をきった駕籠屋、馬方が、
「誰だい」
「そこへ来たのは誰だい」
お雪が早くも戸の傍へ立って、
「先生ですか!」
「ああ、いま戻りました」
戻ったというのは、地獄から戻ったのか。その声は、たしかに地獄から響いて来たもののような声です。そうでなければ、自分たちが地獄から解放されたような心持で、従って、外なる人の言葉が、まだ地獄の底に救われない人の声のように聞きなされるのでしょう。それでもお雪は、ふるえつくように戸へ手をかけて、
「先生、ほんとに御無事でしたか、お怪我はなさいませんでしたか」
いきなり戸をあけようとするから、久助が心配して、
「まあ、お待ちなさい」
「大丈夫ですよ、それほど用心しなくとも。たしかに先生の声ですもの」
といって、お雪が戸をガラリとあけましたが、あけて後、失神したもののように驚いて、後ろへさがりました。
「まあ……あなたは」
そこに、たしかに竜之助が立っているには立っていましたけれど、その人は血をあびて、手には白刃を
無事で帰ったというよりは、殺された
十五
一方いのじヶ原を再び後へ戻ったところ、峠の上の
それはほかでもない、ここへ、さいぜん出立した四人が舞戻って来たからです。しかもそのうちの二人の者が、血に染みた二人の者をかつぎ込んで来たからであります。
丸山勇仙は高部弥三次を肩にかけ、仏頂寺弥助は三谷一馬を
それによって見ると、負傷したのは二人で、負傷しないのが二人。負傷の程度はドノ位か知らないが、二人とも、身動きもできないのを、ともかく、応急の血どめをして、ここへ担ぎ込み、仏頂寺弥助は、はげしく店の者を追いまわして、
「亭主、大急ぎ、
といいつけるのを仏頂寺弥助がおっかぶせて、
「なければどこぞ近いところへ人を走らせて、焼酎と畳針と、それから麻糸に晒……この傷を縫い合わせるのだ」
とわめきました。
そこで、
「有難い、
丸山勇仙は、焼酎の壺を取り上げました。この男は医術の心がけがある。そこで、負傷者のために、救急療治として、その傷口をまず焼酎で洗い、次にこの畳針で縫い合せの手術にとりかかるのは心得たものです。仏頂寺弥助は、それに
「仏頂寺、いったいこれはどうしたというものだ」
と丸山勇仙が、仏頂寺弥助にたずねると、
「おれにもわからない」
仏頂寺弥助は、投げ出したような返事。
「あれは、いったい、ほんとうに
丸山が重ねてなじると、仏頂寺は、
「本物らしい」
「してみれば、君たち三人が、まとまって、ついに一人の盲人のために不覚を取ったという理窟になる――いや、理窟ならまだいいが、現実この通りの始末。剣術というものは、本来、それほど段のあるものか」
「ううん、それをいわれると
と仏頂寺弥助はうなり出して、じっと考え込んでいたが、
「術には、さほどの相違もあるまいが、出ようが悪かったのだ」
「出ようが悪い――それは向うのいうことだろう、向うは眼が見えないのだぜ」
「眼は見えないけれども、あれは心得たものじゃ、真剣の立合では
「盲目で……」
「眼のあいた奴の仕事はたいてい見当がつくが、眼の見えない奴の構えは測ることができない。
「めあきは不自由なものだと、
丸山はカラカラと笑ったが、仏頂寺は浮かない。
また一方、この日の朝まだき、下諏訪の
「さて
七ツさがりに、その日の先触れをするような文句を唱えながら、通りかかって、あっと
というのは、その社前の立木を
鹿島の事触は、これを見ると立ちすくんで、大声をあげて人を呼びました。
そこで、
そこで、評判と臆測が、たちまち町中いっぱいにひろがりました。
あの愛嬌者が、どうしてこんなことをしでかしたのか。孫次郎の宿で聞いてみると、昨晩遅く目の色を変えて飛び出したのが変だとは思ったが、それはお万殿の時刻までにと、大あわてにあわてて、自分の家へ帰ったのであろうとばかり思っていたが、そういわれると思い当ることがないでもないといっています。
しかし、この女が、縊れて死なねばならぬ事情というのは、誰にも、どうしても思い当らない。竹細工師で情夫とも御亭主ともなっている、気のよい男をただしてみても、いっこうあたりがつかない。そこで、当然、魔がさしたのだ、その魔がさしたのは、いましめを忘れて、お万殿のお詣りの時間を犯し、その怒りに触れたために、この始末だろうという説が最も有力でありました。
死骸は一通り検視を受けた上に、ともかく、間近の孫次郎の宿の一室へ引取られて、そこへ静かに横にして置きますと、ちょうど来合わせた
「そもそも、つつしみ、うやまって申したてまつるは、
もっともらしく神おろしをはじめたが、時が時でしたから、笑う者がありませんでした。
この口よせのいうことは、一向とりとまりはないが、その文句のうちに、「
昨晩、女が血相変えて飛び出したのを、留めてみたのもこの番頭で、あの前後のことをうすうす知っているから、只今の
番頭がぼんやりして帳場へ坐り込んでいるところへ、今朝早立ちをした仏頂寺弥助が先に立ち、後ろには戸板に人を載せて人足に担がせて、ドヤドヤと
「塩尻峠の上でちっとばかり怪我をしたから戻って来た、また厄介になるぞ」
番頭は、この時、
十六
さてまたここは江戸の下谷の長者町。道庵先生は何を感じたものか、
何事ならんと
「皆様、早速お集まり下さいまして……」
先生としては、極めて
変だと思ったのも無理はありません。こういう場合において先生は、いつも野郎共呼ばわりをして傍若無人に振舞うのに、今日に限って、皆様だの、お集まり下さいましてだのと、改まり方が急激でしたから、集まったものも、あんまりいい気持がしませんでした。
けれども、何か、先生も急に
「さて、皆様、実は拙者も、近ごろ悟るところがございまして、皆様の前で、今までの非を改めると共に、今後をお約束致しておきたいことがあるのでございます、それでお忙がしいところを、かくお集まりを願った次第で……」
来会者が、いよいよオドかされてしまいましたけれども、先生はいっこう頓着なく、
「ええ、皆様も御承知の通り、拙者もこれで医者の端くれでございますが、医者は医者でも、ただの医者だと思うと
「違えねえ」
そこへ、クサビを打ち込んだのが、一子分のデモ倉でありました。道庵先生は気取った
「近頃の医者は、みな、学問も出来れば
といって先生が、ホロリと涙を落しました。
「泣かなくったってもいいやな、先生、先生も酔興でやってるんだろう」
慰め顔に弥次をとばしたのが、やはりデモ倉であります。先生は、それに力を得て、
「ツイ愚痴が出まして、まことにお恥かしい次第でございます。ただいま、申し上げる通り、当節のお医者は、皆学問も出来れば、
「先生、わかってるよ、そうくりかえして愚痴をこぼしなさんなよ、了見を見られちまうじゃねえか」
忠義なる子分は聞き兼ねて、先生に忠告を与えても、先生は顧みる色なく、
「知行もたくさん取り、薬礼の実入も多分にあり、位も高くなるし、金も出来るけれども、いい子供が出来ねえ」
といい出しましたから、一同がまたキョトンとした顔です。そうすると、
「さあ、そこへ行くとこの道庵なんぞは大したもんだぜ。
ここで見事に脱線してしまいました。初めは処女の如く、終りは酔漢の如く、すっかりボロ(ではない
しかし、先生はまたあらたまって、
「ところで今日、こうしてお集まりを願ったのは、余の儀でもございません、さいぜんも申し上げる通り、拙者も近頃、つくづく自分の非を悟った点があるのでゲスから、その点を皆様の前で改めると共に、一つのお約束を致しておきてえんだよ」
おきてえんだよ……が少し納まらない。
道庵先生ほどのものが、自分の非をさとって、それを公衆の前で懺悔すると共に、且つ、今後の実行に現わして約束をしようというのは、よほどの道徳的勇気がなければできないことです。
けれども、ここに集まっているやからに、道徳的勇気なんぞの呑込める
「その昔、奈良朝のころに、
といい出すと、気の早いデモ倉が、
「取れる奴からはウンと取って、ちっとはこっちへ廻してくれたらよかりそうなものだ、よけいな遠慮じゃねえか」
この差出口には道庵先生がハタと怒って、
「馬鹿野郎」
と
「それがいけねえのだ、この口が……ところで、よく考えてごらん、病人と、医者と、薬はついて離れねえものだ、病人がなければ医者はいらねえ、病人があり、医者があっても、薬がなければ飲ませることもできねえ、つけてやることもできねえ」
「先生! 馬鹿につける薬はねえっていいますぜ」
「デモ倉様、お前、今日はまあ少し黙っていておくれよ、おれも今日はしらふで話してるんだからな」
さすがの道庵も、デモ倉のやかましいのに
「さて皆様、よくお聞き下さりましょう、ただいまも申し上げた通り、病人と、医者と、薬の三つは、切っても切れぬもので、つまりこれが
「なるほど」
これは弥次ではなく、豆腐屋の隠居が思わず発した感嘆詞でありました。道庵は言葉をついで、
「そこでまた薬というやつが、
「左様でゲスとも、薬と差配のハゲと一緒にされちゃ堪らねえ」
道庵先生は、それを耳にも入れず、
「だから、医者というやつも、貴賤貧富によって、
といって、ソレから自慢をハジめたり、ひとをコキおろしたり、大気焔を上げましたが、結局今日の集会の要領は、今まで自分は十八文を
初めに処女の如き「皆様」の様づけも、多分その辺から出たのでしょう。
道庵先生の説によると、医者としての自分の職掌上、病気や薬と同格に、すべての人を待遇しようという好意に出でたのにはちがいないが、これを実行に先立って発表してしまったのは、少々
果して、さまざまの弥次や、質問や、難題が続出しましたけれど、先生は少しも
「先生、それではいかがでゲスな、物の本に出ておりまする昔の英雄、豪傑といったような者も、みな『様』づけでお呼びになりますか」
「そうだとも、無論のことだ、英雄、豪傑というものは神様の次だ」
「そう致しますると先生、
「そうだとも」
「楠正成様が足利尊氏様に亡ぼされ……」
「その通り」
「曾我の兄弟様が
「それに違いないじゃねえか」
「太閤様のところへ、石川五右衛門様が盗賊にお入りになった……」
「そうだとも」
「それじゃ先生、どちらがいい人間だか、悪い人間だか、わからなくなっちまいますね」
「べらぼう様、天のような広い心を持て。天は悪い奴にも、いい奴にも、おなじように日を照らせたり、雨を降らせたりする」
先生の気焔が、いよいよあがって、ものやわらかな豆腐屋の隠居では受けきれなくなりましたから、デモ倉が代って出ました。
「そうすると先生、たとえば芝居を見にいってもですね、団十郎様が
「そうだとも。第一、役者だからといって、横町のおちゃっぴイまでが呼捨てにするのは
そこで、芸名を呼ぶに様をつけて敬意を表する以上は、芸妓にもそれを適用しなければならないし、遊女の源氏名にも無論、様をつけて呼ばなければならない理窟になる――それでは、知らぬ
「さあ、そこでもし、これから後で、愚老が、かりにも人様を呼ぶのに様づけを忘れた場合には、それを一番先に見つけ出したお方様に百ずつ進上する、軽少ながら百ずつ……」
といい出しましたから、子分たちは勇みをなして喜び、いつか先生の
十七
宇治山田の米友は、このごろ深刻に苦しんでいます。
死というものに初めて直面した苦しみを、まともに受けて、八百長なしに取組んでいるのですから、その苦しみは
米友といえども、死というもののこの世(或いはあの世との境)に存在することを、いま初めて知ったわけではありません。今更、足もとから鳥の飛び立ったように、「死」というものに驚きさわぐのは、滑稽なようですけれども、「死」の存在を知って、その
「今までは人のことだと思いしに、おれが死ぬとはこいつたまらぬ」――死の来る目前まで、舞踏歓楽し、死の直面に来って、はじめて恐怖狼狽する人間の通有性を、米友もまた御多分に漏れず持ち合わせていればこそ、こいつたまらぬと
壁を
そうして、なお悲惨なのは、米友にあっては、この苦痛をまぎらかす手段のないことであります。真正面からその苦痛と戦って、直接に解決が終るまでは、一時何かの魔睡によって、その神経を眠らせておくということのできない男であります。
その夕方、伝通院の墓地にまぎれ込んだ米友は、墓地の中をあてどもなしに歩き廻って、しきりに墓を動かしてみました。
伝通院は家康の生母水野氏の
しかし、この男は、それらのいずれともつかずに、しきりにそれをゆすり試みて歩いている。その様、墓を動かして、そこから何物をか聞こうとするもののように見える。
「墓はこの世からあの世へ通ずる道の
ほどなく米友は、非常に大きな五輪の石塔の前に立っている。石塔の高さは台石ともに二丈もあろう。碑面の文字は、
「友さアん、この石を取って下さいな、この石があんまり重いので、出ることができませんわ」
米友はハッと自分の耳を疑いました。今の声は果して墓の底から出た声か、それとも自分の耳から出たのか。
「え、何といった」
米友は両手を耳に当てて、
「この石を取って下さい……この石さえなければ、友さんとわたしと自由に話ができるんですけれども……この石が一つあるばっかりで、お前とわたしとは世界が違うんですから悲しいわ、どうしても会えない別々の世界にいるんですもの……」
米友はその声を聞くと、その声の起った自分の
程なく、宇治山田の米友は、その巨大な五輪の石塔の上へよじ
いうまでもなく、この男は、生と死との間をさかいする
で、その次の世界から聞える声を、この世で聞こうとあこがれているにちがいない。
こういう挙動を笑うものは、まだほんとうに死というものの哀切を、味おうた経験のないものであります。
かりに諸君のうち、その最愛の子女の一人を、失ったものがあるとしてごらんなさい。現在自分がその最後の病床から、野辺のおくりまで見届けても、なお途中で、それによく似た年ごろ
聖人は空想と事実とをよく統一する。狂人はそれを混同する。凡人は、その
さてここに、宇治山田の米友に至っては、空想と事実との境界が、ほとんど判然しない。この男は人間のこしらえた差別線と高低線に対しては、先天的に色盲のような男で、どうかしてその線にひっかかると、眼の色を変えて怒り出す。この男の怒り方は、反抗的、或いは相対的に怒るのではありません、先天的に怒るのであります。とはいえ、この男を狂者と見るには、あまりに道義的で、同時に常識的のところがあります。
今や、不幸にしてこの男は、人生の水平線がわからなくなっているように、死と生との分界線がまたわからなくなっているのであります。死が万事の消滅だと信じきれなくなっているのであります。ああ、この何千貫の石の蓋は、かよわき女性のためにはあまりに重い。この蓋あるがゆえに、魂がこの石の下で
我々にとって、この重しというものはかなりにこたえる。死して後にこたえるのみならず、生ける間にこたえていた。我々凡人は、単に生れどころが悪かったというだけの理由で、ずいぶん、意味のわからない重しを、かけ通しにかけられて来たようである。おれはまだ生きているし、おれの身体は小さくとも、まだまだ充分その重しに堪えられる力はあるつもりだが、お君は死んでしまった。死んで後までもこんな重い物をかぶせて、魂を
そこで、宇治山田の米友が、高さ二丈を数える巨大な五輪塔の上によじのぼって、その
前にいう通り、この五輪の石塔の
伝通院殿――なにがしの高貴なる婦人――高貴ならざる婦人――同時に一般の婦人――ただ一人の婦人――お君――
そこで米友の力には、虐げられた女性のために、一つにはこの
そうしてこの男は、双の腕に満身の力をこめて、満面に朱をそそぎ、五輪の塔の空輪をグラグラと動かしました。
この怪力を以てすれば、
ただ、迷惑千万なのは、五輪塔自身で、安政の地震にさえ何の異状もなかった身が、今晩になって、突然上の方から沙汰なしに取崩されようとする運命を、おどろき
全く、その通りで、たとい取崩しに成功してみたところで、やがてその身に報い
「友造さん」
「エ?」
もう一息、空大を押しきろうとする時に、米友はその手を休めて、あわただしく塔下の前後左右をながめました。まさしく自分を呼ぶ声があったからです。
「友造さん、まあ、そこで何をしているの、そんなところで……」
「あ、お婆さんか」
米友が塔の上から腰をかがめて、塔の周囲に建てめぐらした石の玉垣の入口で見つけたのは、絵にある
「ああ、わたしだよ、ほんとうに、びっくりさせるじゃありませんか。なんだって今時分、そんなところへのぼって何をしているんです」
「あ、あ……」
米友が
「第一、お墓の上へのぼるなんて、
「うウん」
「それは天樹院様のお墓ですよ、早くおりておいで……」
「うウん」
米友は、そこで円い眼をみはって、うんとうなりました。
「早くおりておいでな、天樹院様のお墓の上へのぼって、何をなさるつもりなの」
卒塔婆小町の浮き出したような白髪の婆さんは、やさしく米友をたしなめると、
「エ、これが天樹院様のお墓か?」
塔の上で米友が叫びました。
そうそう、これほどに暮色がせまっていないならば、米友といえども、文字のある男だから、向う正面を、じっと見上げて立っていた時に、碑面にしるされた文字――
「天樹院殿
栄誉源法松山
大禅定尼」
が読めなかったはずはない。側面へまわれば「寛文六年二月六日」の栄誉源法松山
大禅定尼」
二代将軍を父に持ち、豊臣秀頼を夫として、大阪の城に死ぬべかりし身を坂崎出羽守に助けられ、功名の犠牲として坂崎に与えられるべかりしを、本多
十八
両国橋の
「ちぇッ!」
と男のするように舌打ちをして、二階へ上って見る気にもならなかったのです。
「わかってる、わかってる、知恵をつけた奴はわかってるよ、何かにつけてケチをつけたがるあのおたんちんめ、どうするか覚えていやがれ」
とののしったのは、当のお銀様のことではありません。また、お銀様に向ってよけいなことを
もとより、これは前例のないことではない。いつぞやも、せっかく人気を集めた清澄の茂太郎を中途からかっぱらって、こちらに鼻を明かせたのもあいつの
お絹にとってはいい迷惑で、お角が大事に保護(?)しているお銀様を逃がしたのが、お絹の仕業でないことは確かで、それは間違いなく金助というおっちょこちょいの、よけいなお喋りがもとであるけれども、お角が一時にそう恨みをかけるのも、日ごろが日ごろだからぜひがないと申さねばなりません。また事実においても、もしお角がああしてお銀様を保護し、それを上手に利用することを知っていたなら、あの女は、きっと何か茶々を入れるくらいのことをやったのにちがいないのであります。
こうして、お銀様を逃がしたのは、いちずにお絹の計略だと思い込んで、怒鳴り込んで刺し殺してやりたいほどに腹の立ったお角も、そこはさる者だから、怒りに乗じてあとさきの見えないことをやり出しはしません。
「梅ちゃん、今晩から、わたし一人で二階へ寝るから、下はお前に頼みますよ、淋しければお勢ちゃんでも誰でもお呼び」
といって二階の
「お嬢様はいらっしゃらないのですか」
「ああ、お嬢様は今日からよそへおいでになったんだから、あとは、わたしが引受けるのさ」
といって、さっさと二階へ上ってしまいました。
二階へ上って見ると、
「わがままのやんちゃ者」
戸棚をあけて見てもかわったことはない。お好み通りにととのえて上げた歌の本、
藤の花を一面にえがいた
「お嬢様という人も、お嬢様という人じゃないか、子供じゃあるまいし、出るなら出るとことわってくださりゃ、いけないとはいいませんよ。ごらん、わたしたちはああして、下の方に、夜かぶりだってなんだって奉公人同様にして、お嬢様にはこの通り、何一つ不足という思いをさせて上げた覚えはないのに、いくらお嬢様だって、あんまり義理というものを知らな過ぎまさあ」
これほどにして置いて逃げられたかと思うと、お角の胸が、またむしゃくしゃする。いきなり、その美しい模様の縮緬の夜具蒲団をズルズルと引張り出して、その上にゴロリと寝そべり、
「梅ちゃん、梅ちゃん、済まないが煙草盆を持って来ておくれ」
暫くすると表格子で、
「今晩は」
「どなた」
おさらいをしていたお梅が返事をしますと、
「入ってもようござんすか」
「金助さんですか」
「ええ、その金助でございますよ」
「お入りなさいな」
格子戸をガラリとあけて入って来たのは、金助に違いありません。
「梅ちゃん、親方は……」
「おかあさんはね……ちょっとよそへ参りましたよ」
「え、留守ですか。留守で幸い、梅ちゃんの前だが、親方は怒ってやしませんか」
「いいえ、別に」
「金助の野郎、出入りを差止めるなんていいやしませんでしたか」
「そんなことはいいやしませんよ」
「それで安心……」
金助は大仰に胸を撫で下ろす真似をしながら、ソロソロと上り込みました。
この野郎も、おっちょこちょいのくせに、いいかげん図々しいが、それでも気がとがめるものがあると見えて、あらかじめ雲行きをうかがってから上り込むと、
「まあ、こっちへいらっしゃい」
お梅は火鉢の前へ座蒲団をすすめます。
「へ、へ、これは恐れ入りやす。梅ちゃん、お一人でお留守はさびしいでしょう」
「ええ」
「お稽古は何ですか」
「でたらめよ」
「驚きましたね、でたらめのお稽古とは」
「金助さんの前でやると、ボロが出るからよしましょう」
「ト、トンでもないことで……どうか一つ綺麗なところを、お聞かせなすって下さいまし」
「ははあだ、綺麗なところなんてあるものですか」
「御冗談でしょう、梅ちゃんも隅へ置けない、幾つになりました」
「知らない」
「梅ちゃん、あの福兄さんが、この間も、そ言ってましたよ、梅ちゃんが実が
金助が親指を出して見せると、
「ばかにおしでないよ」
お梅が腹を立って突き飛ばす。
「こりゃア、ちと荒っぽい、まともに鉄砲を向けられちゃたまりません、いくら金助がお粗末だからといって、これでも男のはしくれ、
「福兄さんに、そ言って下さい、たべていただかなくってもようござんすよ、大切に漬けておいて、梅干にしますから困りませんって」
「梅干はかわいそうですね」
「かわいそうなことがあるものか、第一梅干にしておけば、土用を越したってなんともないし、それに実用向きで……」
「あやまる、あやまる」
金助はしきりに頭を下げて、
「若い娘が梅干気取りでおさまっていりゃあ、世話はないや」
「世話はありませんとも、梅干一つありゃほかにおかずなんか何も要りません」
「あれだ、手がつけられねえ」
金助はまたも
「冗談はさて置き、いったい、親方という人は、今時分ドコをドウうろついてあるいてるんだろう、人の気も知らないで……」
「今晩は帰らないかも知れませんよ」
「え、帰らない? おだやかでありませんな、ここへ帰らなけりゃどこへ泊るんです」
「どこだか知りません」
「いい年をして、そう
金助が減らず口を叩いて容易に帰ろうともしないから、お梅が迷惑がりました。迷惑がったところで、遠慮する人間ではなく、ずるずるべったり、泊り込んでしまうつもりかも知れません。
その時、二階でミシリと音がしたものだから、金助が例によって
「おや!」
実は金助も、この時まで二階にお銀様のいる約束をわすれて、お梅にからかっていたのに、このミシリという音で気がまわり、
「お嬢様が二階においでなさるんでしたっけね」
「ええ」
「御機嫌はいかがです、あのお嬢様の」
「別にお変りもございません」
「お嬢様もお一人で退屈でしょうね」
「どうですか聞いてごらんなさい」
「毎日、ああして、ひっそくしておいでなさるのも、お大抵じゃありますまい」
「お嬢様は出るのがお嫌いなんですから、仕方がありません」
「毎日、ああして、何をしていらっしゃるんですか」
「歌をおつくりになったり、本を読んだりしていらっしゃいます」
「字学の方がお出来になるんだから、御不自由はないさ。お家はなかなかの大家なんですってね」
「ええ、すてきなお金持だっていう話ですよ」
「ちょっと、お見舞に上ってみようか知ら」
「え……」
金助がお銀様のところへお見舞に行くといい出したので、お梅もいいかげんの挨拶ができなくなりました。
「お見舞に行ってまいりましょう」
「およしなさいな、お気にさわるといけませんから」
「大丈夫、お嬢様の御信任は、このごろ
「それでも……」
「ついこの間などは、忠勤をぬきんでて、そっと申し上げてしまったものだから、もう今では一も金助、二も金助、さだめて今日もお待ちかねのことと存じます」
「金助さん、お嬢様に何を申し上げちまったの」
「イエナニ……」
「金助さん、お前、お嬢様によけいなお喋りをしやしないかエ」
「よけいなお喋りなどをするものですか。何しろお嬢様もたよりのないお身の上で、金助さん頼みますとおっしゃるものですから、
金助が立ち上ったので、お梅はおどろいて引留めようとしたが、また思い返すことには、あんまりいけ図々しい男だから、このまま二階へやった方が面白かろうと考えました。二階に寝ているのは無論お嬢様ではない、親方のお角であります。お角と知らないでこの野郎がノコノコと出かけて行って、歯の根の浮くようなことを喋り出したが最後、イヤというほどとっちめられるに相違ない。これは素敵もない
「金助さん、お嬢様のお気にさわってもわたしは知らないよ」
お梅の駄目を押すのを、金助は聞き流して、
「どう致しまして。お嬢様、へえ、どうも御無沙汰を致しました、先日はまた
「これはこれは、お嬢様、そう
傍へ寄って来て、かぶっていた夜具へ手をかけ
「金公、なんといういけ図々しいんだい」
むっくりとハネ起きざま、金助の
「あ、これはヒドイ」
金助はお角にハリ飛ばされた横面をおさえて飛び上ると、
「金公、お嬢様を逃がしたのはお前だろう、
お角はつづいて金助の胸倉をとりました。
「まあまあ、親方、そう手荒いことをなさらなくっても話はわかりますよ」
「この野郎、お嬢様によけいなことを喋りゃがって、手前が手引をして逃がしたに違いないんだ。そうして、よく図々しく来られたもんだね。さあ、どこへお嬢様を隠したかお言い、言っておしまい、言わないとこうだよ」
お角は金助の胸倉をギュウギュウ締め上げますと、金助は眼を白黒して悲鳴を上げ、
「死ぬ……圧制……お梅ちゃん、助けて下さい」
下でお梅も人が悪い。助けを呼ぶ声を聞き流して、腹をかかえて、声を立てないで笑いころげています。
「真ッ直ぐに言っておしまい」
お角は金助を締めたり、ゆるめたり。
「親方、あの神尾主膳様が近いうち、
「そんなことを聞いてるんじゃありません、お嬢様をどこへやりました」
「それは存じません。どうかもう少しここをおゆるめなすって下さい、
「正直にいっておしまい、あのお絹のおたんちんに頼まれたんだろう」
「決して、そういうわけじゃございません、現にこうして、お嬢様がここにお休みなすっていらっしゃるとばかり存じて、上って来たようなわけでございますから……」
「しらばっくれちゃいけないよ、今お前、下で何といったい、お嬢様にそっと申し上げてしまったとか、お力になって上げたとかなんとか言っていたろう、お前でなけりゃ、手引をして逃がす奴はないんだよ」
そこで金助がスッカリ泥を吐かせられてしまったけれど、別段、この野郎が計略を構えて、お銀様をおびき出したというわけではない、ただよけいなことを
「ホントに、おっちょこちょいほど怖いものはありゃしない」
と言って、その横面をまた一つピシャンと食らわせたものですから、金助は生ける色がなく、お角の手が
「あらあら、金助さん、わたしの下駄を片一方持って行ってしまって……」
これは笑いごとではない。金助はあわてて自分の穿いて来た
これはお梅にとっては一大事で、南部表にしゅちんの鼻緒。鼻緒にも、
二階ではお角がおかしくもあるし、腹も立って、それでも、あの野郎、神尾の殿様が来るとか来ないとか、頼まれた用事もあってやって来たらしかったが、それをいい出す暇もなく逃げ出してしまった。こちらもなお聞きただしたいこともあったのに、かんしゃく
おかしかったのはその翌日の朝、両国橋の女軽業のおちゃっぴイの一人が目の色をかえて、お角のしもたやへ飛び込んで来て、
「親方、大変です、梅ちゃんが心中をしてしまいました」
その声を聞きつけて挨拶に出たのが当のお梅でしたから、両人顔を見合わせて、これはこれはとあきれました。
「梅ちゃん、お前ここにいたの?」
「ええ、いましたとも、心中なんかしやしないわ」
「でも、たしかに梅ちゃんだって、みんなが言うから、わたし、ちゃあんと見届けて来たのよ」
「そんなはずはないわ、わたしはここにいたんですもの」
落語の二人久兵衛のような話で、二人ともに
あんまりおかしいから、お梅がよく尋ねてみて腹を立てました。
それはこういうわけです。
心中があると騒ぎだしたのは、この朝、両国橋に男物と女物との下駄が半分ずつぬぎ捨ててあったのを、通りがかりのものが見つけ出して、それ心中だと大騒ぎになり、例によって黒山のように人だかりがはじまった中へ、女軽業のおちゃっぴイ
「あら、このポックリは梅ちゃんのだわ、ちがいないわ」
そこで、心中の片割れは、親方のお気に入りの娘分、お梅にまぎれもないということになってしまい、早速こうして御注進に駆けつけてみると、心中の片割れであるべきはずの御当人が、平気で挨拶に出たから双方あっけに取られた始末です。
注進に来た、おちゃっぴイの方は、まあ間違いでよかったと安心したが、納まらないのはお梅で、
「ばかにしているよ、あんな奴と心中なんかするものか」
ぷんぷんと腹を立てました。
「あんな奴って誰のこと?」
おちゃっぴイは
「何だ、あんな奴と心中なんか、誰がするもんか」
おちゃっぴイにはお梅の不機嫌なわけが、いよいよわからない。
「女物はたしかに梅ちゃんのに違いないが、男のは
「ふうちゃん、外聞が悪いから、早くその、わたしのだけを持って来てしまって頂戴な、男のなんかかまやしませんよ、川の中へ蹴込んでおやりなさい、このごろは下駄泥棒がはやるんですとさ」
「それじゃ、梅ちゃん、お前さんの下駄を盗まれたの?」
「大抵そうなんでしょう」
「まあ。でも無事で安心したわ、早くその下駄を持って来ちまいましょう」
「持って来て頂戴」
おちゃっぴイは大呑込みにして、急いで行ってしまう。
「ホントにばかばかしいったらありゃしない、金公の野郎、覚えていやがれ」
余憤容易に去らず、これは昨晩、金助が両国橋まで
これがためにあらぬ浮名を受けたお梅は、相手が相手だから、
「まあ我慢おし、そのうちあの野郎が来たら、水をブッかけておやりなさい。それから今日はちょっと廻り道をして行きたいから、早く出かけましょう、梅ちゃん、そのつもりで支度をし」
ほどなく軽業小屋から留守番に来た
いつもならば
十九
お角はお梅をつれて柳橋の遊船宿に立寄り、駒井甚三郎を訪ねてみましたが、不在とのことであります。
不在といっても、房州の
しかし、お角は必ずしも駒井だけを当てにして来たのではないと見えて、そのまま素直に
船宿の亭主が答えたように、駒井甚三郎が、
人通りの少ない時、明りのしているお長屋の前に立って、駒井は暫く様子をうかがっていましたが、
「一学、一学」
と駒井は低い声で呼びました。
お長屋のうち、ここだけが明りがしていたから、その明りをたよりに呼びかけたところが、
「ナニ、誰じゃ、どなたでござる」
中では、やや
「一学、おるか」
「へえ……」
このお長屋のうちで、ただ一軒だけ
この屋敷の広さは、誰が見ても三四千坪以上、周囲にはお長屋があって、表は長屋門、左右には黒板塀、書院、表座敷、居間、用部屋、使者の間、表玄関、内玄関、詰所詰所、庭があり、林があり、築山があり、茶畑まであって、三千石以上の旗本の屋敷としては総てが備わっているが、主人がいない。
主人のいない屋敷は荒れるにきまっている。たとい留守を預かるほどの者が心がけがよくって、見苦しからぬよう手入れを
駒井能登守が、すでにこの屋敷を離れてかなりの日数になる。まだ見苦しいほどには荒れていないが、なんとなく痛々しい空気が漂うているのはぜひがない。
このお長屋にひとりで留守をしているのは、以前、甲府までも主人のおともをして行ったことのある近習役の阿部一学であります。ほかの家来は、それ以来、ちりぢりになって、多くは別に主取りをしているのに、一学だけは、決着のお沙汰のあるまでこの屋敷に踏みとどまって、留守居を兼ねて、夜な夜な内職をしているところへ、今いう通り、外からわが名を呼ぶものがありました。
ここで、一学の内職というのは、世の常の浪人のする
一学は外から呼ばれた声に大きな驚異を持ちながら、筆を、うつしかけたイギリス語の
「どなたでござる」
「駒井だ」
「ええ、殿様でございましたか?」
一学は
「ただいま、表御門をおあけ申しますから……」
絶えて久しい主人が、こうして
飛ぶが如く表門へ駈け出して、門を開き、主人を案内はしたが、それを堂々と表玄関へとおすことができず、自分が今まで内職をしていた長屋の中へ、ひとまずお連れ申さねばならぬ運命のほどを悲しみました。
駒井甚三郎は、さのみ悲しむ色もなく打通って、
「勉強しているな」
「はい、おかげをもちまして」
一学は何ともつかず返事をして、取って置きの
「殿様、これは夢ではございますまいかと、私は存じまするが、夢ならば、さめないうちにおたずね申し上げなければなりませぬ。ただいままで殿様には、どちらにおいであそばしました、そうして何故に、ただいままでお便りを下さいませんでしたか」
一学は両手をついて、主人にたずねました。
「便りをしないことは悪かったが、便りをしないことが自他のためであったのだ。それはそうと変ることはなかったか……と尋ぬるも
「奥方は京都へお越しになりましたことを、御存じでいらせられますか」
「うむ……あれの病気はどうじゃ」
「御病気は大抵、お
「そうか……」
「殿様」
と一学は膝を押しすすめて、
「私は人情の表裏反覆というものの甚だしいことを、今更のように学びました、何かにつけて驚き入ることばかりでございます」
一学は眼に涙をたたえて昂奮すると、駒井はしんみりと、
「いいや、みんなわしが悪いのじゃ、お恥かしい次第だ、この心が出来ていないばっかりに、わが身を誤り、家を亡ぼし、親族には屈辱を与え、お前たちにも苦労をさせてしまった、つくづくとこの身の愚かさが身にこたえる、ゆるしてくれ、ゆるしてくれ」
「恐れ入りまする、そういうつもりで私はただいまの
「何をいっているのだ、そういう話は、もうよそうではないか……実は、こうやって急に思い立って尋ねて来たのは、少々、
「
「書物をさがしに来たのだ、急に読みたいことがあって……」
「では、早速御案内を
一学は、久しぶりで主人にあって、まだまだいいたいことが山ほどある
目的の書物庫は、駒井甚三郎が特に念を入れて建てさせたもので、駒井は、洋行する知己友人のあるたびに、かの地の書物の買入れを頼み、みやげとして寄贈された書物と共に、この庫に蓄えておきました。
いろいろの心持で、頭を混乱させながら案内に立った一学は、わが主人は、これまでどこに、どういう生活をしていたのだかわからないが、それでも、こうして駈けつけると、早々参考書の庫へおとずれることによって、主人の今の境遇がたとい逆境とはいいながら、逆転しているものでないことを想像して、心ひそかによろこんでいます。
幸いにして一学も、また好学の書生でありましたから、日頃の心がけも、おのずからこの書物庫の書棚の上に現われて、こうして不時の主人の検閲を受けるような結果になっても、あえて狼狽せずに案内することができたのみならず、いよいよ内部へ入って、整理の手際を見た時に、主人をして感謝せしむるほどの好成績を示し得たことを、自分ながらよろこばずにはいられません。
「感心に手入れの怠りがないのみならず、分類の方法が
といいながら、駒井は一学の手から提灯を受取って、
もし、管理者が一学でなかったら、この書物は、どうなっているか知れない。紛失はしていないまでも、
申すまでもなく、わが主人の専門は、西洋の兵術と武器とであります。その道においてはならぶもののないほどの新知識であって、同時に、そのころの西洋科学の粋を味わうことにおいては、人後に落ちなかったものです。
ですから、今も隠れて、専らその方面の研究に没頭しているものに相違なく、従って参考書に不足を感じたればこそ、こうしてわざわざ駈けつけたものに相違ない。
ところが、いま主人の抜き出している書物という書物が、みな一学の意表に出づるものばかりでありました。
「
「左様、道理とか言葉とかいうのだろう」
「
「マニ……土地の名か、或いは人の名ではないか」
「Hom-ousia――ホモウシアと読んでよろしうございますか」
「そう読むよりほかはあるまい、何の意味かわしにもわからぬ」
「次は
「その原書はイタリーのものだそうだ、
「ははあ、これはイギリス語でございますな、イミタシアン・オブ・クリストと読みますか……」
「うむ」
「内容は何でございますか」
「何だかわからん」
「これは、ピリグリム・プログレスと読みますか、これには
「それは有名な小説だ」
「小説と申しますると、
「そういうわけでもない」
「Socitas Jesu――綴りに従ってソサイタス・ジェスと読みます、ソサイタスは組合とでも申しましょうか、ジェスは……」
「人の名だ」
「ああ、これはヒストリー・オブ・プロスチチューション――」
駒井甚三郎の抜き取って渡す書物は、どれもこれも一学には意外千万であった。意味のわからない標題や、草双紙や、遊女売婦の歴史。兵書、兵学に関するものとては手にだも触れないで、またその次に
「あ、それは
一学がいうまでもない、これは千八百三十九年(天保十年)
二人は書物庫から両手に一ぱいの書物を抱え出して、再び以前の長屋へ戻り、
「一学、今晩はもうおそいから、ここへ泊めてもらおう」
駒井甚三郎は、ついにその夜は一学と枕を並べて寝ることになりました。
「殿様、私はそれを申し上げてよいか悪いかわかりませんが――日頃胸にあることでございますから、お気にさわるまでも、今晩この機会に申し上げてしまいたいと存じます」
一学があらたまっていいますから、駒井が、
「遠慮なくいってみたまえ」
「ほかでもございませんが、どうしてもわからないのは、奥方のお心持でございます」
「うむ、誰の心でも、そうはよくわかるものでない」
「と申しましても、あれほどあなた様を慕っておいでになりました奥方が、あまりと申せば手のうらをかえすように、お情けないお仕打ちでございます」
「それも事情に制せられて
「破れとは申しませぬ、むしろ従えと申し上げたいのでございます」
「よき破壊と、よき忍従とは、共に同じほどの力を要するものだ、難きを人に責めないがよい」
「難きを責むるのではございませぬ、常道を責むるのでございます。奥方のお振舞は、あなた様にとっては、まさしく叛逆なのでございます」
「叛逆?」
「と申し上げました無作法をお許し下さいませ。叛逆でなければ、
「一学、そちは、常ならず昂奮しているが、わしは何も知らぬ、知ろうとも思わぬが、叛逆という言葉はおだやかであるまい、もし、さる事実がありとすれば、叛逆はかれにあらずして、われにあるのだ、その当然のむくいとして、わしは復讐を甘受しなければならぬ」
「エ、何と仰せられます、殿様が、奥方にそむいたと仰せられますか。それはあまりに御寛大なお言葉でございます。一切を承知致しております私にとりましては、痛ましいほどの御寛大のお言葉でございます。甲州へおいでになる道中におきまして、毎日、日課として、こまごまとお文をお書きあそばしたあの御情合……」
一学は声をつまらせてしまいました。しかし、駒井甚三郎は感情に制せられず、
「あれは常に気位を持っていた。気位というものは往々人を尊大に導いて、広い同情を忘れしめるものだが、その気位あるによって、犯し難い見識も品格も出て来ることがある。あれが堂上の出であり、高貴の血統ということは、わしにとっては、どうでもいいことであったが、その自負心から出でる天然の気品は、尊重せねばならぬと思っていたのだが、その自負心を根柢から動揺させたのが、誰あろう、この駒井の罪だ……甲州において、人もあろうに、あの
一学は、主人のいうところに熱情の
一切の
何となれば、一学は、今までわが主人のために、世間と人間とを責めてやまなかったからです。わが主人ほどの人材を
これは、一学の
しかし、これは笑うものがむしろ浅見で、当時の幕府の要路というものが、おのずから、そういうふうに出来ていたので、人物に異彩があればあるほど、また人物が大きければ大きいほど、グレシャムの法則がおこなわれていたのです。
試みに徳川の初世の歴史を見てごらんなさい。徳川家康が不世出の英雄とはいいながら、豊臣以来の
その勝安房守をも、彼等のある者は極力光らせまいとして努力した。
勝は島田虎之助門下で剣術を修行した男である。剣術は出来るだろうが、
彼等の考えでは、勝安房ひとりに幕末史を飾らせることは、彼等自身の立場の上から、たまらなかったものらしい。さりとて全部を
そういった意味の時代のばかばかしさを、一学は久しぶりで逢った主人に向って訴え、且つそれが幾分か不遇の主人をなぐさめる
しかし、この辺のことを問題としていないわが主人は、別に独特の世界を見つめている、と一学は確認することができたので、その一夜の物語で何か自分に、非常に力強いものを与えられたような気がしました。
翌日の朝まだき、駒井甚三郎は、この家を辞して行きました。書物は取りによこすからそろえておいてくれるように、自分の居所はまだ明かせないが、そのうちくわしく知らせるからといって……
駒井が例の如く
二十
駒井甚三郎は、生きては再び足を踏む機会はあるまいと思ったわが家へ、計らず帰って見ると、そこにおのずから感慨無量なるものがあります。
連綿とつづいたわが家を、自分の代に至って亡ぼしてしまった。それも、自分にとっては問題にならぬことながら、社会的には無上の汚辱。どう考えても同情の余地のないふしだらのために、一代の嘲笑の的となりつつ葬られてしまった。
よし、駒井甚三郎は、わが身の愚劣と、世間の審判の愚劣とに
先祖に済まない――という家族制度の根本をなす思想は、この人を
駒井は久しぶりで、わが家の敷居をまたいで、はじめて、この罪の
家門の面目を生命より重しとする武士
その間に、ひとり子として生れたこのわれを、人並みすぐれた人にしてそだて上げたいとの希望は、世の常の親と同じこと。幸いにして、父母のこの希望は、家を譲る時まで空しくせられずに、ともかくも、このわれというものの
頑固ながらも、目先の見えた父は、旧来の学問武芸の上に、進んで自分に洋学を学ばしめたこと。もし、父母の存生中にこの事件が起ったならば、父は必ず、われを刺し殺し、父母はさしちがえて死んでしまったに相違ない。
幸か不幸か、今の駒井甚三郎は、一婦人を愛したということが、それほどの罪とは、どうしても考えることができないから、それで死ぬ気にはなれない。
もし、自分にとって、死に
駒井の最初の考えでは、ただこの家へ読みたい本を取りに来たまでで、その用が済んだ以上は、さっさと柳橋の船宿へ帰り、一日も早く房州へ引き上げてしまおう。今もまた、その考えで、人通りのほとんどないほどの朝まだきに番町を出て、こうして、下町方面へ、無意識に急いでゆくうちに、むらむらと巻き起る考えが、駒井の足の向きを変えさせてしまいました。
この機会に父母の墓に
駒井甚三郎の父母の墓も、先祖の墓も、小石川の伝通院にある。一族、親戚の墓も多くそこにあるはず。
ほどなく、安藤坂を上ると、伝通院の門前。まだ時刻が早過ぎるので、どうかと思ったが、見れば門前に、花を売る店が早くも戸を開いて、表の道の
「お早う」
言葉をかけてみると、店を守るのは例の
「いらっしゃいまし」
駒井は
「お墓参りに来た」
「それはそれは、お早々と」
まもなく、駒井甚三郎は花と香とを携え、卒塔婆小町に似た婆さんは、箒と水とを携えて、伝通院の墓地へ通るのを見受けます。日が
婆さんはかいがいしくお墓を掃除してくれる。駒井は花と香とをあげて
「婆さん」
箒をつかっている婆さんを呼んで、
「お前は、この天樹院様をどう思う」
「天樹院様をでございますか?」
「うむ」
「どう思うと仰せられましたのは?」
「つまり、いい人か、悪い人か、愛すべき人か、憎むべき人か……」
「左様でございますねえ……」
婆さんは箒の手をとどめて、今更のように天樹院殿の大きな石塔を仰ぎ、
「お美しい方であったと存じます」
そういってお婆さんは、にっと笑って駒井の
「お美しくなければ、あんな騒動は起りますまいから……」
と付け足したが、この返事は駒井の期待しているところには少しも触れない。
「それではお前、坂崎出羽守と
「それはきまっておりますよ」
「ふーむ」
今度は駒井が微笑しました。駒井の微笑は、今の返答が、わが意を得たるところから来たもののようだと、婆さんは早合点をして、
「本多様は果報なお方でございますわね、それとくらべて坂崎出羽守様ほど御運の悪い方はありますまい……それというのも、あなた、殿方も男ぶりがやっぱりお大切でございますね。
これは婆さんが一歩立入って、充分にうがったつもりでしたけれど、駒井甚三郎は顔の筋一つも動かすことをしません。何とも響かないものと見えましたから、婆さんも張合いが少し抜けました。そのとき、駒井は、むすんでいた口を開いて、
「わしは、そうは思わない、本多はやはり不幸な男だ、不幸な程度においては坂崎に劣らない」
といいました。
「どう致しまして、あなた、本多様がお不仕合せなら、この世に殿方の果報というものはござりませぬ。何しろ、豊臣
「本多はそれがために三十一で
「え?」
婆さんがギョッとしたようです。天樹院の墓の下から、小さな蛇が一匹現われました。
「つまり天樹院は豊臣秀頼を殺し、坂崎出羽を殺し、本多忠刻を殺し……」
その時です、駒井甚三郎の胸をつんざいたのは――現在、自分をうらんで去った自分の妻が、どこかにおいて、この天樹院とおなじような乱行の生涯を送っているのではないか。
果報者の本多忠刻を、三十一歳で
それは今の世までもうたわれて、
まだ子供心の
そして、この女は
忠刻が、この美人に思われて
天樹院の乱行には、まさしく復讐の念をふくんでいなかったとは誰もいわない。
女の復讐は、いつも魂をいだいて泥土の中に飛びくだる――そうした時に、征夷大将軍の力もそれを救うことができない。
駒井甚三郎は、昨晩一学からいわれ、その時はほとんど念頭に置かなかった言葉の節々が、今や重く胸にわき上ってくるのを覚えました。
一学はわが妻の挙動を叛逆だと叫んだ。叛逆とは何を意味している。今までそういうことに耳をふさぎたがっていた駒井。わかれて後の妻が若い小姓の誰かれを愛したとか、堂上方のあるさむらいを始終ひきつけていたとか、京都へいった後、ずんと年上な、評判の
それは、ドコまで信じ、ドコまで疑うの
駒井甚三郎は、そのことを考えて、心の底から
「こちらが伝通院様でございます」
婆さんが言葉をかけたので、われに返って見ると、
「伝通院殿
蓉誉智光
大禅尼
慶長七年一月二十九日」
伝通院殿は無事であります。その蓉誉智光
大禅尼
慶長七年一月二十九日」
再び門前の店へ戻って、
「まあお休みあそばしませ、粗茶一つ、召上っていらせられませ」
駒井は老婆の案内に応じて、土間の長い腰掛に腰を卸すと、あとから続いた老婆は、風を
朝日が、前の木立の間から洩れて、いま締めきった障子に光を投げている。内も外も静かで、本堂から洩れるおつとめの音がよく聞える。
その時分、締めきった障子の外で、
「おばさん」
「はいはい」
「花を持って来たよ、これをおばさんの店で売るといいや、
内では見えないが、障子の外に立ってこういいながら、胸一ぱいに秋草を抱え込んでいるのは、宇治山田の米友であります。
「友さん、どうも済みませんね」
婆さんは障子を少し開いて前から見ると、それは米友が歩いて来たのだか、草花が歩いて来たのだかわかりません。
「どう致しまして」
胸一ぱいに草花を抱いた米友は、婆さんのあけたところから土間の中へ入り込み、
「花桶の中へ入れといて上げような」
「ああ、どうぞ」
そこで米友は胸一ぱい抱えて来た秋草を、
「おや、この桶には水がねえや」
「水がありませんかね。それじゃそのままにしておいて下さい、あとから汲んで来て入れますから」
「おいらが汲んで来てやろう」
といって米友は、胸一ぱいに抱えた草花を桶の中へさし込みながら、
その手桶を提げると、米友は以前入って来たところから、身軽に外へ飛び出してしまいました。動物園へ動物を寄附する時には食糧附の義務があるように、米友は草花を持って来た好意に添うるに、水汲みの労力を以てすることを、さのみ苦には致しません。これはお安いことです。
米友はこうして水を汲みに出かけました。そのあとで、駒井甚三郎は、
「婆さん、奉書があれば結構、なければ西の内でも、それもなければ半紙でもよろしい、紙を一枚下さい」
「何になさるんでございますか」
「え、志納金をお寺へ納めて行きたいと思う」
「左様でございますか」
婆さんは、立って、奉書の紙のいったん使用して
「これでよろしうございますか」
「それで結構」
駒井甚三郎は一方の脇の
「婆さん、筆をお貸し」
「はいはい」
老婆は、
「婆さん、お前は、なかなかよい墨筆を使いますね」
「いいえ、お恥かしうございますよ、あなた様」
「
「いいえ、どう致しまして」
駒井が、それに感心したのは、
「いや、お前は
「ホホホ、よく皆さんが、そんなことをおっしゃって下さいますが、
「いいえ、お前の前生は小町かも知れない、さぞ男を悩ましたことであろうな」
といって駒井は、自分ながら口が
「御冗談をおっしゃいます……」
この時に、水を汲んだ宇治山田の米友が帰って来ましたので、卒塔婆小町は、
「友さん、御苦労さま」
「おいらは、水を汲むのは何ともねえが、
といってその手桶を土間へかつぎ込んだのと、駒井甚三郎が紙包の上へ、駒井家回向料の文字を
「あ!」
米友が舌を捲いて、手桶を
「やあ、
そのクルクルと廻った円い眼には、おどろきのほかに
駒井甚三郎は筆を下に置いて、
「おお、お前は友造ではないか」
はじめて、米友の
「うーむ」
米友は、駒井の
「お前はこの寺にいたのか。ナゼ甲府を出る時に、だまって出ました」
「だまって出ちゃ悪かったかい」
駒井が尋常に出るのを、米友は、喧嘩腰ですから、この時、駒井が怪しみをなしました。しかし、駒井自身においては、よくこの男の性格を知っているつもりだから、至極おだやかに、
「帰るなら帰るように、わしにも一言いってくれるとよかった」
しかしながら宇治山田の米友は、この時、
「駒井能登守、能登守……」
拳を握って、歯をギリギリと噛み鳴らしましたから、当の駒井よりは卒塔婆小町の婆さんがおどろきました。
「友さん、どうしたの?」
「どうしたんでもねえんだ、腹が立ってたまらねえんだ、こいつの
米友の唇もまた、拳のふるえるようにふるえています。
「何です、わからないじゃありませんか、無暗に人様をつかまえて。第一、御身分のあるお方に失礼です」
婆さんが、駒井を御身分のある方と推定したのは、もっと以前よりのことですが、口に出たのはこれが初めてで、つまりその御身分なるものは何だか知れないが、おとももつれないでこうして参詣に来たというものの、その
けれども、こういう境界線は、宇治山田の米友にとっては用をなしません。
「ああ、こいつがいなけりゃ、お君は死ななくってもよかったんだ、こいつが、こいつがお君を殺しちまったのだ」
米友は、またも
「友さん、ほんとに、お前どうしたんですよ、お前にも似合わない」
卒塔婆小町の婆さんは、米友が発狂したのではないかとさえ疑いました。しかし米友の昂奮はいよいよ
駒井甚三郎は、こういうふうに頭から
その罵るだけを聞き、その受けるだけの乱暴を受けようとの態度ですから、いきおい、卒塔婆小町婆さんが、身を以て二人の間に立入って、万一に備えなければならない勢いとなりました。
「お、お、お君は……」
米友は、激しくどもって、
「お君は、お君だけの女なんだ、そ、そ、それを……殿様の威光でおもちゃにした奴は誰だ」
「友造――」
駒井が何か言おうとすると、米友はいっそう激してしまい、
「その分にしておけば一生いきていられる女を、殿様の威光でさんざんおもちゃにして、飽きた時分に
駒井は眼をつぶって、沈黙してしまいました。米友は、唇がわなないて口が
なんとも手のつけようのないのは、卒塔婆小町の婆さんで、なぜ、この品位ある
暫くあって駒井甚三郎は、沈黙をやむなくさせられた口を開いて、
「それでは、友造、わしは、どうすればいいのだ」
「死んだものを
と宇治山田の米友が叫びました。これは無理です。本来米友という男は、無理をいわない男であるし、自分が無理をいわないのみならず、他の無理に対しても
「友さん、お前、無理をいうものではありません、お前にも似合わないじゃありませんか……」
けれども米友は
「駒井能登守、死んだものを、活かしてかえせ」
この最大の無理を再びくりかえして、
おどろくばかり柔順なのは駒井甚三郎で、これらの暴言に対して、最初から怒るの風がないのみならず、甘んじてその
この人とても、武士の表芸として、武術の一般を学んでいないということもあるまい。まして、こうして物おだやかでない市中を、ひとりあるきするほどのものには、相当の心得がなければならないはず。その当時の
それでは、宇治山田の米友の槍の手並と、その
この時、宇治山田の米友が、何におどろいてか、両の手を頭の上に高くあげて、
「死んだものを
と叫び出すと共に、
二十一
その時分、神尾主膳は、もう栃木の
ほどなく、根岸の
この屋敷は、とても以前の染井の化物屋敷ほどの面積はないが、それでも相当の間数と庭とがあって、中にじっと
ここへ移り住んだけれども、その当座、神尾は決して外出をするということがなく、日中は庭先へさえも出ない有様で、至極おとなしく暮らしていたが、どうかしたハズミで、部屋に備付けの鏡を見た時に、神尾が何ともいえない不快な
寺へ、
ところで、この神尾が、移り住んで来たその身のまわりの世話をしている女が、寺男の女房のお吉であることも、この世界にはものめずらしいばかりであります。
お吉は引越しの当座だけ、おてつだいに来たのだから、直ぐに帰る、帰るといいながら、まだ容易に帰る様子もありません。また、神尾としてもいま、お吉に出られては、差向きこまるから、かわりのあるまでと、無理に引留めてはいるらしい。
神尾をこうして、再び江戸の方へ引張り出した有力な策士は、がんりきの百蔵であることまぎれもないが、百蔵とても、今はさかさにふるっても水の出てこない神尾を、かつぎまわったところで仕方があるまい。
これは、本来の目的がはずれて、まぐれ当りに神尾にぶっつかり、神尾の方でも、また
こうして、二人のやくざ者が、腐れ縁ながら提携してしまってみると、これから後、類は友をひいて、再び染井の化物屋敷が、この根岸へ現われてくるものと見るほかはあるまい。
ただ、気の毒なのは、正直な
それでも、この女は、もとの領主という尊敬をいつまでも失わず、忠実につとめて、国に夫が待ってさえいなければ、いつまでもここで御用をつとめる気分になっているらしい。
神尾とても、酒乱の
神尾は
ところが、その翌日、かいがいしく働いているお吉を、いとど怪しく思わせたのは、その日に、荷車や釣台がかなり賑わしくこの屋敷へ着いて、一応の案内を申し入れると共に、無雑作にその荷物を運び入れてしまったことです。
一時は、お吉も人ちがいかと思いましたが、主人の神尾も充分に諒解があるらしく、お吉にもいいつけて、その荷物を一間へ運ばせてしまいました。
荷物を運びながら、お吉がおだやかでないと思ったのは、それがことごとく、
ここへ頼まれてくるまでの話には、神尾の殿様の周囲には、全く女気というものがなく、また自分もうちあけて頼もうとするほどの女がないのだから、ぜひにといわれて、お吉は、それを光栄とも、誇りともするような気分で、わが家気取りでかいがいしく働いているところへ、こうして物々しく女の調度がおくり込まれたから、裏切りにあったように胸を騒がせたのも無理はありません。
一時は口も
「どなたかおいでになるのでございますか?」
とたずねてみると、神尾はなにげなく、
「少しの間、置いてもらいたいというお客様があってね」
「左様でございますか」
とは返事をしたけれども、少しの間おいてもらいたい客人が、何しに箪笥、長持、鏡台、針箱の
お吉は、なんともいえない疑惑にみたされながら、それ以上は、尋ねてみる勇気もなく、そのまま、裏へまわって風呂を焚きにかかりました。
しかし、そのお客様というのは、こうして荷物だけ先にまわしておいたが、本人というものは、容易には姿を見せません。どんな人が来るのだろうと、お吉は仕事をしながらも、それを心待ちに待ちかまえていましたが、風呂が沸く時分になっても、一向この家へ、
「お風呂が沸きました」
いつもならば、二つ返事でよろこんで風呂場へ飛んでくるのに、今日は、
「あ、そうか、まあ後にしよう」
といった神尾の言葉までが、いやによそよそしく、冷淡を極めているように思われ、お吉は、いっそ、ここを逃げ出して、国へ帰ってしまおうかとさえ、その時は思いました。
ぜひなく、お吉は引返して、台所の方へ廻り、夕飯の仕度を働いているうちに、表の方に人声がありましたので、ハッとしましたが、その時、進んで返事をしたのは、珍しく主人の神尾の声でありましたから、お吉が、またも気を
「風呂がわいているそうだから、そなた入ったらよかろう」
と神尾の声。
「それは有難うございます。では、御免を
というのは、ある女の声。
「そこを、ずっと突き当って行くと開き戸がある、そこが風呂場だ」
神尾が口で案内すると、女は心得たもので、ずっと教えられた通りに打通り、やがて帯を解く音。早くも風呂の蓋を取って、やわらかに湯を
お吉がふるえた時に、廊下を渡ってくる神尾の声、
「お絹、風呂加減はどうじゃ」
二十二
風呂から上ったお絹が、まだ持ち運んだ荷物の散らかっている一間の中で、鏡台に向って、髪を直していると、いつか、そのうしろに立って、障子の外からのぞいている神尾主膳。
なんともいわないで、ただお絹の後ろから、鏡にうつる姿をながめている。お絹もまた、なんともいわないで、念入りに髪をいじっている。
鏡にうつるお絹の
「お前は、いつになっても年をとらないね」
と神尾がいう。
「こんなに、お婆さんになってしまいました」
とお絹が答える。
久しく
「ほんとにお前は若いよ、
「御冗談でしょう、
「盛りは過ぎたな」
と神尾が、自分を嘲るようにいいますと、
「これからでございますよ」
お絹は自分のことをいっているような返事。
「女は幾つになっても
「廃ってしまえば見返るものもございませんから、廃らないうちが花でございます」
「お前なぞは、四十になっても五十になっても廃りっこはない」
といいながら神尾は、この女は天性、女郎になるように出来ている女だなと、つくづく思いました。
「
「うむ」
神尾は苦いものを飲ませられたように思う。それまではいわなくてもよかろう。聞きとうもないことを、女の口から、平気で喋り出す恥知らずを、さすがの神尾も
「福村も力を落したろう」
「ええ、あの人は、今のところ、わたしがドコへも行けないものとたかをくくって、ワザと
「かわいそうに」
「かわいそうなことはございません、少し思い上っていたところですから……」
神尾はだまって、お絹の横顔をながめると、緊張のない肌がぼちゃぼちゃとして、その中に濃厚な乳白色のつやが流れている。これは、たまらない多情者だと神尾が思いました。
こういう女は、生涯、
だからこの女は、浜松に生れて、神尾家に奉公し、先代の神尾に
娼婦の如くもてあそばるるために生れた女があるものだと、神尾は、今あらたまったようにこの女の毒に触れました。
そこで、だまって、障子の中へ入って行く途端に、自分の
いつになっても、
「ああ、なんという
神尾は腹の底から、自分の生れもつかぬ傷を呪いました。お絹の
弁信が憎い。おれの
「ずいぶん大きな傷でございましたわね」
とお絹も、この鏡にうつる傷の大きさを、いまさら驚いた様子です。
「
「なあに、あなた……」
この舌たるい言葉を、神尾は二様の意味で聞きました。一つは傷などはどうあろうとも、
この傷が
「おれには眼が三ツある」
神尾は自分の面を、まともにながめて、つくづくとそう思いました。
横に連なった二つの眼は、人間並みに物をかたよらずに見る眼、別に出来上った
「何を、そんなに見つめていらっしゃるの」
お絹がいうと、
「これを、これを」
神尾は、さも痛快な心持で、眉間の傷を指さしました。最初はその傷を見るのが呪いであり、その次には皮肉であり、今は痛快な心持で指を突込まんばかりに、さして見せますと、
「悪くはありませんけれど、御自慢にはなりませんわ」
とお絹がたしなめるようにいいました。けれども、神尾主膳は、それにしょげないで、カラカラと笑いました。
その有様は、急に嬉しくてたまらない心持になったようです。たとえば、世間には両眼の見えないものもある。片眼しか用をなさないものがある。最も念入りにこしらえた人間とても、二つ以上の眼は与えられていないのに、自分に限って三つの眼を与えられたことを、喜び躍るかのように見えます。今の先まで、呪い、憎んでいた額の大傷が、何かその喜びに堪えない暗示を与えたもののように、
「何がそんなにお嬉しいんです、やんちゃな若様」
お絹は、その昔、自分が可愛がってお守をしたことのある、この若様を可愛がるような心持になります。
この殿様は、駒井能登守のように水の垂れるような美男とはいえないが、決して
お絹がここへ押しかけて来るまでには、さまざまの表裏もあれば魂胆もあって、糸をひく奴もあるし、引かせる奴もあって、お膳立ては以前から、ちゃんと出来ていたものです。それをその間際まで知らなかった福村が、気の毒といえば気の毒。未練の充分にある、自分には過ぎ者の女に置いてけぼりを食って、事実、お絹のいう通り、別れる時は泣いてあやまったかも知れません。
お絹としては、早く、あんな男と手を切ってしまいたかったが、いま手を切っては自分の身の落ちつきに差当って困るから、いいかげんにあやなしていたので、神尾の江戸入りがきまると、自分の運命もきまるように計画を熟させておきました。
そこで、福村をうっちゃることができて、こうして、いい気持で乗込んだのもかなりに図々しいが、今までの身持を、この際すっかり忘れて、平気でそれを引寄せて、うれしがっている神尾も神尾です。
そうかといって、お絹とても、この神尾が永久に頼みになる人間とは思っていまい。あれも
今、お絹の胸に蓄えられている野心の一つを打割って見ると、どうしても元の駒井能登守、今は駒井甚三郎をとりこにしてやらねば虫がおさまらないといういきはりがあるのです。
この女は、甲府にいる時分から、駒井に気があったのは事実で、ついにそれが成功するに至りませんでした。あの時分は生来の浮気がもとで、自分の腕にかけての自信というようなものも加わって、評判になるほどの男を自由にしないまでも、その心をこちらへ向けて
ところがどうでしょう――このごろ聞けば、その駒井能登守を、人もあろうに女軽業の親方のお角がとりこにしている、とりこにした上に金を絞って、興行の旗上げに使っている――という噂を聞いたものですから、お絹が躍起になったのも無理はありません。
堅いようでお目出度い殿様――人交わりのできない女を相手にして、れっきとした家柄を棒に振ってしまうし、今度はまた女軽業の親方風情に
どちらからいっても、この分には済まされない。そこで自分の自信も満足し、お角という女をとっちめる最上の策は、駒井能登守を
二十三
こうして、あたり前の百姓家におさまって、雨降り仕事に草鞋をこしらえているところを見れば、だれが見ても、あたり前の百姓で、これを
七兵衛自身も、その本心をいえば、どのくらい、このあたり前の百姓を有難いことだと思っているか知れないのです。そうして、あたり前の百姓になりきれない自分というものを、こういう際には恨みにも思うほどに、心もおだやかなものであります。
多年、誰とて、自分の内職をあやしむものはないようなものの、いつまで、この隠しごとが現われずにいるものではない。早晩、三尺高いところへ自分の首がさらされる運命の
自分を、あたり前の百姓で置くことをゆるさなかった第一のものは、女房をもらいそこねたということで、第二は、持って生れたこの早い足のせいであると、七兵衛はよくそれを呑込んでいる。あるいは第一のものが、第二のものより先に、自分の方向をあやまらせたのではないかとさえ思う。
女房を持ちそこねたという第一の不運は、残された子供をすててしまったという第二の不運となり、その不運と不幸をなぐさめるために、持ち前の早足で、諸方へあそびに出てみたのが、第三の横道を教えてしまいました。
人はその不能に
自分の早足で歩いてみると、世間並みの歩き方が馬鹿に見えて仕方がない。これがそもそも、七兵衛の邪道を行く最初の慢心でありました。この早足を利用して、人間ののろまをねらうことに味を占めた七兵衛は、一歩一歩とその興味にハマリ込んで、今はぬきさしのならない
しかし、なお一方に残された三分の聡明性は、よく、裏と表とを塗りかくして、いまだ
ですから、誰が見ても、表面はあたり前の百姓で、百姓の合間にその早足を利用して、
十八史略までは
事実、七兵衛にとっては、世間の人のすべてが欲しがる金銀財宝は、無条件で手に入れることもできるし、また世間の人の羨ましがる名所ゆさんも、気の向くままにやってのけられるのだが、自分としての幸福や愉快は、そこには得られないで、こうして、あたり前の百姓として
こうして七兵衛は、自分の早足を載せる草鞋をつくっている。雨は小やみなく降っている。近隣はいと静かで、裏の娘が織る
その機の音を聞くと、七兵衛は、あの娘も年頃になったが、間違いのないうちに、早くよいところへ
そうして七兵衛は、その昔、自分が青梅街道へ捨てた子供のことまで考え出して、いま、無事に育っていれば幾つになると、草鞋をつくる手を休めて、その指を折ってみたりなどしました。
無事に育って、
非常な生活には、非常な警戒心が要るから、人を恋しがるような余裕は薄らぐのに、きょうはあたりまえのところへ置かれているから、あたりまえの人情が湧くと見えます。
「こんにちは……」
さいぜん、
「はいはい」
膝の上の
「よく降りますね」
傘をさして、手には
「よく降るこってすね」
七兵衛も
「おじさん、お
「それはそれは」
七兵衛はおおよろこびで、娘のさしだした小笊を受取ると、中にはおさつのふかし立てが十ばかり湯気を立てています。
「どうも御馳走さま」
「どう致しまして」
「まあ、話しておいでなさいましよ」
「ありがとうございます」
娘は、ちょっと立ちまどうていましたが、
「また参りましょう」
「そうですか、では、また話しにおいでなさいな」
「ええ」
七兵衛は、小笊の中へ
再び膝を組み直した七兵衛は、ぼんやりと娘の帰っていったあとを見送って、
「うむ、いい娘になったなあ、少し見ないでいるうちに……」
ハチ切れそうな娘ざかりの肉づきが、この時ひどく七兵衛の目に残りました。
今まで、女というものの存在をわすれてでもいたかのように、七兵衛は、今の娘を帰してしまったことを、なんとなく残りおしくてたまらない心持になって、無理にひきとめて、京大阪の話でも聞かせるのだったのに……
そういえば、娘もなにか物欲しそうに来ていた様子……
いったい、おれは女には気を置き過ぎる……と七兵衛が自分を
盗賊を商売にするものには、物を盗むのを二の次にして、女を自由にするのを得意にする奴がある。七兵衛は、そうなれない。物を
娘はかわいそうだ、主あるものは罪だ……その時、七兵衛の頭に、むらむらと湧いて来た
あの女ならば、いくら
七兵衛としては妙な心に動かされました。
雨のやむのを待って七兵衛は旅仕度をととのえて、わが家を立ち出でました。まず江戸をめざして行くのかと思うと、そうではなく、南の方へ向いて、ほどなく武州の高尾山へつきました。七兵衛は、高尾山の
本道から、登りにかかると、ちょうど入口のところへ人夫が大勢入って、しきりに大木を
「おやおや、たいそう材木をお伐りなさるが、どうなさるんですか」
と人夫にたずねてみますと、人夫が、
「ここへ道を開いて、車を仕掛けようというんです」
「え、ここへ道をつけて車をしかけるんですか、道はこっちにいい道があるじゃありませんか」
「そっちの道は、そっちの道として置いて、別にこっちへつけようというんだ」
「なるほど……」
七兵衛が仰いで見ますと、これからずっと山の上まで、さしもの大木を
「惜しいじゃありませんか、この大木をドンドンお伐りになっては……」
「よけいなことをいいなさんな」
人夫頭が憎さげな眼で七兵衛を見ました。七兵衛は頓着せず、
「全く、これを伐ってしまうのは惜しうございますよ、なんとか工夫はないものですかな。第一車を仕掛けて、どうなさろうというんで……」
「そんなことは知らねえよ、おれたちは伐れというから、伐っているだけなんだ」
「なるほど……」
七兵衛はなお立去らず、大木の森をながめていると、
「おいおい、邪魔になるから向うへ寄っていな」
人夫頭が叱ります。七兵衛は二足三足、わきへ寄って、なお物惜しそうにながめていると、人夫たちが、からかうように、
「おい、お前さん、何かこの木を
そこで七兵衛は沈黙してしまいました。
七兵衛のような心なき盗賊でさえも、これはあまり無茶なことだと思いました。この山は、お宮とお寺とで管理している山。お宮は樹木が御神体のようなもの。昔の出家は木を植えて山を
話の模様では、ここの木を伐ってみていけなければ、またほかのところを、おゆるしが出ることになっているらしい。立派な山を
七兵衛は天成に近い盗賊だが、それでも、これだけの
七兵衛はまた、時として、優れたる家相学者であることもあります。
その仕事の都合上、どうしてもまず家の形勢を見てかかることから、自然に
その説によると、主人がしっかりしていて、家中が気を
七兵衛にいわせると、これは、個々の家相のみではない。彼が国々を出没してあるくうちに、おのずから、その領主の気象や士気が、風土の上に現われるのを見て取ることができる。
領主が賢明にして士風が振うところは、城内の樹木の色まで違う。国が盛んに、人気の
神主や坊さんたちも、人物が優れているほど、
国として霊山を
「亡んだ国に、山の青い国はない」という真理を、七兵衛は、それとなく知っているわけなのです。
そこで、坊へ着いた七兵衛は、案内に向ってこのことをたずねてみると、案内はかえって自慢らしく、
「おかげさまで、ああして木を伐り払って新しい道が開けますよ。あれが出来て車を仕掛けますと、女子供までのぼるのが楽になりますからな、そうなるとお山も繁昌致します、お寺も
七兵衛は、それを聞いて
「
そこで、七兵衛はいよいよ驚かされました。このくらいの山道は自分のような足の達者な者でなくとも、骨が折れるとは思われない。
寺を繁昌させたいならば、山を傷物にしないで、お寺を市中へ卸したらよかろう。この連中にまかせておいては、しまいには山をどういうことにするかわからない。今のうち警告を与えておかなければならないと思いましたけれども、警告を与えたところで、どれだけ
いったい、神楽師にも、いろいろの種類があるだろうから一概にはいえないはず。それでも
二十四
七兵衛はこの四五人連れの
いずれも、黒い着物を着て、
そうかといって、めいめいの話を聞いていれば、やはり歌舞音曲に関することが多いので、この点は七兵衛も、ちょっと測り兼ねているところです。
「当山には、
と一座の長老がいう。
「湯加僧正は、このほど、京都の
その次のがいう。
「それは惜しいことを致したわい、僧正がおられたら、お目通りをして
「残念なこっちゃ」
その話しぶりは、おのずから型に入っているが、それはこの連中だけで特にこしらえた型らしい。そういう型をこしらえたのは、つまり、おのおのの生れ国のなまりをゴマかすためだと、七兵衛が早くもかんづきました。
しかのみならず、この連中、よく見れば見るほど生え抜きの神楽師ではない。神楽師でないと思って見直すと、町人にも、百姓にも、そのほかの遊芸人にも見えない。どうしてもさむらいである。さむらいだなと思って見ると、
そうしてみると、七兵衛のように、浪人たちの表裏をくぐって来た人間には、何の目的で、西から来て東へ下るのだか、おおよその見当をつけるに骨は折れません。
そこで、ひとつ探りを入れてみる気になりました。
「あなた方は、お江戸は、ドチラまでおいでになりますか」
「はい、江戸は芝の三田四国町というところを、たずねてまいりますのじゃ」
「三田の四国町へおいでなさるのでございますか」
「四国町の薩摩さんのお屋敷へと、たずねてまいりたいと思いましてな」
「え、四国町の薩摩様……」
といって、七兵衛が、それからあと、「こいつは大変な
その三田の四国町の薩摩屋敷は、今天下の風雲をねらうものの巣になっている。これを七兵衛はよく知っている。そこへ乗込もうという神楽師ならば、これは探りを入れるまでもない、
しかし、また、仮りにこうして姿をかえてまで江戸へ乗込もうという連中が、その行く先をアケスケに、薩摩屋敷だといってしまったのでは正直過ぎる。
これは多分、自分が見る影もない百姓だから、この位は打明けてもさしつかえないとタカをくくったのかも知れない。
その晩、七兵衛がこれらの連中と枕を並べて寝た夜中に、ふと胸に浮んだことがあります。それはほかでもない、このごろ、この武蔵と、相模と、甲州方面の境で、夜な夜なしきりに怪しい神楽太鼓の響きがする――賑やかな
無事にその夜が明けて、いざ立つという時に、七兵衛が、右の神楽師の連中に向って、私も江戸へ参りますから御一緒に、とさあらぬ
「
商売は、と聞かれて、七兵衛はギクリとしましたけれど、
「ええ、近在の百姓でございますけれど、百姓が嫌いなもんですから、つい……」
と言いました。つい、どうしたのだか、それは自分ながらわかりません。
事実、七兵衛は百姓が嫌いではないのです。どちらかといえば好きなのです。青空をいただいて、地上へ自分の労力の一切を尽し、実りを天の風雨に待って争わぬ仕事を、愉快なりとしています。それで自分もけっこう一人前の百姓をやるだけの腕は持っているのです。ですから、旅先で、二宮流の講義などを聞いていると、つい感心してしまって、自分も、どこか、広々とした野原へ出て開墾をして、そこに自由な新天地を開いたら、どのくらい愉快だろうと空想することもあるくらいですから、百姓が嫌いといったのをクスぐったく思います。
さて、右の四五人連れの神楽師の旅装を見ると、笠をかぶり、
七兵衛は同行しながらも、この中のドレが親分だろうと鑑定を試みましたけれど、結局ドレが親分という様子もなく、ドレが子分だという関係もないようです。
七兵衛は、またこの親分子分という関係がだいきらいなのです。親分子分というものは、
親分と立てられたいために、ツマらないみえや犠牲を払い、子分はまた親分に養ってもらうために、無理をしてまで親分に
ところで、この神楽師の一行は、親分子分の愚劣な関係を復習して、得意がっている連中ではなく、おのずから和して同ぜざるの見識があるように思われる。
こうして七兵衛は、江戸へ行くまでの十五里の行程を、この連中の観察と研究とを題目として行くつもりで出かけますと、ほどなく例の木を
ここへ来ると、一行がたちどまって、
「おお、木を伐っています」
「おお、山を崩しています」
といって眼を円くしてたちどまり、
「木を伐って何をするのだろう」
「山を崩して何をするのだろう」
いずれも
「車を仕掛けるのだそうでございます」
「車を仕掛ける……車をしかけてどないにしなさるのじゃ」
「車を仕掛けて、上り下りの都合のよいように致すのだそうでございます」
「じゃというて、あたらこの美しい樹木を伐り倒し、整うた山を掘り崩し……」
「つまり、お
「お金儲けのためでなければ、こんなところへ車を仕掛ける
「けしからん」
一行のうちの、最も無口で、背が低くて、
「惜しいものです、大木を惜しげもなく伐り倒し、山の形を掘り崩し……」
七兵衛がいいますと、右の男がまたしても一歩進み出して、
「けしからん」
七兵衛は一歩しりぞいて、この男の挙動を見ました。この男は本当に
掘り崩した
「一体、その必要もなきところへ、金儲けのための無用の工事を加えるというのは、俗界にあっても許すべからざることであるのに、身、僧侶にありながら、多年、その山の恵みに生きながら、それを切り崩して金儲けをもくろむとは
「誰がこの樹木を伐ることを許したのだ、誰がこの山を切り崩すことを許したのだ。ナニ、
この男の髪の毛が、上へ向いて来たのを認めます。その時、長老が出て肩をたたき、
「まあ、さのみ
となだめにかかったのを、右の男はききません。
「いや、世には大事に似たる小事もある、小事に似たる大事もある、
ここに至ると、
「モシ、われわれが天下を取った暁には、
とさけびました。
この男は仏教そのものも多少は知っているし、また仏教そのものが日本の文明に寄与した功績も多少心得ているらしいが、現在の仏寺と、僧侶の腐敗をもかねて、大いに憤慨していたものらしい。これよりいくらもたたない後に現われた維新の政府が、かなり無遠慮に廃仏毀釈を実行したのも、一部分の責めは坊主が負わなければなりますまい。七兵衛はその時、おだやかにこういいました。
「左様でございますね、モシ、山師共がお山を食い物にしようとかかりましても、宮方のお役人と、お山の坊さんとは、よくそれを教えさとして、思いとどまらせるようにしなければならぬはずのものだと私共も思います」
切り散らし、
その時、高尾山の
「
といって、さも嬉しそうに、山を掘り崩しているところをながめては、半ぺんを
半ぺん坊主は、京都あたりから来た風来坊主で、高尾の寺に籍があるわけでもなんでもないが、この近所へ草庵ようのものを構えて、ぶらぶらと暮らしている。
半ぺんが大好きで、半ぺんを肴に、酒を飲ませさえすれば上機嫌で、何でも
「さあ、いよいよ望みがかなって、近いうちにこの上まで車が、カラカラッと勢いよく舞い上るから見ていてごらんなさい、景気よく、カラカラッと上るところをごろうじろ……」
といって、ブクブク肥った
「カラカラカラッと景気よく……」
半ぺん坊主は山をくずして、近いうちに車がしかかるのが嬉しくてたまらないらしい。
「この間はまた、伐り倒した大木を、
といって、うまそうに一杯飲む。
この坊主の理窟によると、昔の名僧智識が、わざわざ寺を山の上へ持っていったのは昔のことで、今の宗教は、なるべく民衆と接近しなければいけない、それをするには、どんな霊域でもカラカラカラと車を仕掛けるに限る、という持論から、今度などもずいぶん運動に骨を折りました。
そこへ二三人の人夫が、立札を
「御苦労、御苦労」
半ぺん坊主が、こちらからねぎらうと、人夫はちょっと笑っただけで、土を掘って立札を立てにかかる。
その立札には、「杉苗何百本、何千本、何の誰」と一枚一枚に書いてある。
「は、は、は、は」
半ぺん坊主は、思い出したように高らかに笑い出し、
「高尾では、あの杉苗をいったいドコへ植えるんだと、この間、まじめに聞かれたんで、わしも弱ったよ」
杉苗寄進の立札が、半ぺん坊主には、なんだか急におかしくなったものと思われる。
この山では、何町の間、隙間もなく、杉苗寄進の札を立ててはあるが、ドコへその杉苗を植えるのだか一向わかっていない。
「お
半ぺん坊主は、額を丁と叩きました。
「切る方はせいぜい切らしていただいて、カラカラカラッと景気よく……ナニ、一木一草をも愛護して下さいだって、木を傷つける人があったら止めて下さいだって……笑いごとじゃありませんよ、木を伐らないで車が仕掛りますか」
半ぺん坊主はこの時、
「もっとも、これについては、かれこれと、やかましくいう奴もあるにはあったが、わしが行ってお役人を
半ぺん坊主が得意になっているところへ、例の神楽師の一行と七兵衛とが通りかかったので、坊主は酔眼をみはって、その一行をながめ、
「公儀お
といって半ぺん坊主は、半ぺんの残りを、さも
二十五
高尾山ではこうして、山を崩したり、木を伐ったりして嬉しがっている一方、武州の御岳山の下では、水車番の与八がしきりに木を植えておりました。
与八は、「木を植えるのは徳を植えるなり」という理窟を知らない。ただ土地が
木を育てることの好きな与八は、また人の子供を育てることが大好きです。
郁太郎も、今では
この興味は、与八をして教育の世界に、一つの驚異を見出させたようです。自ら教ゆる間のみが人を教ゆることができる。与八のこのごろは、熱心なる学問好きになっているところから、自分の周囲に群がる子供たちを見ると、どうもこのままでは置けないという気になって仕方がありません。見るところ、これらの子供たちは、自分の過去と同じように、なんらの教育を受けることも、受けさせる設備も出来てはいないようだ、どうかしてこの子供たちのために、寺小屋様のものを設けて、自分も共に学びたいものだと痛切に思いつきました。
そうかといって、自分には今それをする余裕もなければ、学問の力もない。そういう時に与八が、いつも思い出すのはお松のことであります。
「お松さんが来てくれればいいな」
と与八は、いつもそれを思い出すのですけれども、それはトテモ出来ない相談だと思いかえすのが常でありました。
ところが先日、相生町の老女の屋敷に久しぶりでお松をたずねてみたところが、お松もまた、思いがけない一人の子持ちとなっていて、おたがいに力を合わせて子供を育ててゆきたいというような話をしたことから、与八はその話を進めて、お松をここに呼び迎えてみたいと気が進みました。
ある日、与八は水車小屋から程遠からぬ主人の屋敷へ出向いて、ふと、物置同様になっている剣術の道場の前に立ちました。
机の家の屋敷は、定まる当主とてもありませんから、すべてにおいて、与八が監理人のようなものであります。親類の人が時々来ては見て行きはしますけれども、小さな
そこで与八が、剣術の道場の前に立って考えたのは、ひとしきり、この道場から、甲源一刀流の、音無しの構えなるものが起って、幾多の剣士を
与八が道場の庭を掃いていると、そこへ突然姿を現わした旅のさむらい。
「少々、物をたずねたいが、机竜之助の道場はこれか」
「左様でございます」
与八は、
「主人は留守か」
「はい」
「代稽古はいないか」
「おりませんでございます」
そこで、旅のさむらいは残り惜しげに道場のまわりをうろついているから、
「まあ、お休みなさいまし、ただいまは誰もおりませんけれど、道場を御覧になるならば、あけてお見せ申しましょう」
と与八がいいますと、さむらいはよろこばしげに、
「それは有難い、せっかくのことに道場の中を一見させてもらいたい」
与八が裏の戸口から入って、道場をあけてやると、さむらいは
「ははあ、なかなか結構なものだ」
と道場の内部の整っていることを見て、旅のさむらいは感嘆し、
「誰も代ってこの道場を預かるというものはないのか」
「どなたもございません」
「誰か、あの男の
「生立ちと申しますのは……」
「あの男の子供時代のことだ、いや、それよりも親の時代のことから……」
「左様でございます、みんなもう亡くなりましたね」
「あれの親がエラ
与八は、変な物のたずね方をするさむらいだと思いました。
「
と申しわけのようにいうと、さむらいは、
「少しではあるまい、うんと飲んだろう、飲む時は七升ぐらい飲んだろう……」
「え……」
与八が、また返答に苦しみました。七升と相場をきめたのがおかしいことです。六升飲んだか、七升飲んだか、そんなことは誰も知っているはずはない。知っているなら尋ねなくてもいいはずだ。
「それで竜之助はどうだ、これはあまりいけまい」
「え、若先生の方も少しばかり……」
「そうだろう、七升は飲めまい」
妙に七升を振りまわすさむらいだと思いました。また事実、飲めようと飲めまいと大きなお世話です。米友ならば食ってかかるのだろうが、与八は、おとなしくそれを聞き流していると、
「どうだ、この道場へはお化けが出るという話だが本当か」
「そんな
「あるとも、武州、沢井の机の道場には夜な夜なお化けが出る、それで誰も道場を預かり手がない――という噂を聞いて、わざわざたずねて来たのだ」
「へえ、この近所に住んでいるものは、そんなことあ言やしません」
「ともかく、今晩はここへ泊めてもらいたいものだ」
「おとまりなさいまし、お化けなんぞは出や致しません」
与八はおとなしく、この無遠慮なさむらいの言い分を受入れました。
こういう無遠慮なさむらいですけれども、与八は逆らわず、望み通り、この道場に泊めてやることにして、もてなしましたから、さむらいは大喜びであります。
机の道場にはお化けが出る……与八は初めて聞く噂だが、なるほどありそうな噂だと思いました。自分の耳に入らないだけで、
そうして与八は、さむらいのために夕食を運んで、自分は水車小屋へ帰ってしまったあと、
ほどなく一升の酒を平げ、飯を食い――終ると、膳を押片づけて、
謡い終ると、立ち上って、道場の壁にかけた木刀を取って、型をつかい、つぎに、槍、棒、
このさむらいは何のために来たか。多分、ここの剣術の名を以前に聞いていて、ちかごろは無住で、お化けが出るというような噂に興が乗り、半ば好奇心が手つだって、道を
しかし、夜が
暫くするとコトリと、道場の隅に物音。
さむらいは、手裏剣を抜いて、その鼠めを仕留めてやろうと、
「
叱りつけると、鼠は膳を飛び下りて道場の隅を走る。暫くあって、また、こそこそと舞い戻ってくる。
「叱ッ」
追えば、追われた当座だけ逃げて、また戻って来る。
美濃の大垣の正木段之進は、こうして鼠をにらみすくめて動けなくしたということが東遊記に書いてある。このさむらいは、鼠一匹を相手に、追いつ追われつ興がっているが、やはり、
途中まで来て、踏みとどまってこちらを見ました。その瞬間、さむらいが、初めてゾッとして、構えた木刀を思わず取落そうとしたのは、踏みとどまってこちらを見た鼠の
「何を……」
再び、その木剣を取り直した時は、もう鼠の姿は見えず、ただなんとなく、
そこで、さむらいはなんだかばかばかしくもあり、いやな気にもなって、木剣を
二十六
その夜は、それだけで無事に明け、翌日、右のさむらいは、御岳山へのぼるといって立去りました。
与八が、急に江戸へ出かけたくなったのもその時で、それは今になって、お松の先日いった言葉をつくづく思い出したからです。お松さんのいうのには、あのお屋敷では御老女様に大へん可愛がられているが、本来、あの屋敷というのが、国々の壮士浪人の集まりで、いつ解散されるのだかわからない。もしや御老女様が遠方の
お松の方でも、与八の推察通り、今、自分の身の上について、多少の不安を感じているところです。
駒井甚三郎は、ムク犬の通知によって直ちに出向いてくれました。そうして、初めて持ったわが子というものに、母として、親としての一切の仕事を、お松に頼んだのであります。お松としては、頼まれなくてもこの子をてばなす気にはなれません。駒井甚三郎は、それがためにかなりおおくの費用をお松の手に渡して行きました。お松は、それを辞退しましたけれども、辞退すべき性質のものでないと
そこで或る日、お松は自分の部屋で赤ん坊を抱き、
「登様、あなたは
と話しかけました。
話しかけたって返事のできるわけはありませんが、つい口に出て、
「おいやでなければ、田舎へお連れ申しましょうか。田舎といっても、そんなに遠いところではありませんよ、与八さんのいるところ」
坊やは、じっとお松の顔を見て、笑いもしないでいるものですから、
「御存じでしょう、与八さんを。あの肥った、親切な人……」
その時、坊やは両手をおどらせて、うれしそうに笑いました。
「登様、もし、あなたがおいやでなければ、わたし、これから手紙を書いて、与八さんのところへ使を頼みますわ。与八さんはよろこんで承知をして下さるでしょう。ですけれども、もし、あなたがおいやですと……田舎に住んでいては出世のために悪いようですとつまりませんから、いつまでもこっちにいましょうね。どちらに致します」
といって、お松は登の顔にほおずりをしました。どちらに致すも致さないもありはしない、生れてまだ幾月もたたない子。思案に余ったことがあるものですから、お松はしきりに、このおさな児に話しかけているのです。
「それは御老女様はえらいお方だし、このお屋敷は結構なお屋敷ですけれども、なんだか世間が騒がしいものですから、あなたや、わたしは暫くあっちへ行っていた方がいいかも知れない」
お松の心を、ドチラにかきめてしまわねばならぬ時節がまもなく来ました。
それはいよいよこの本所の相生町の老女の屋敷を引払わねばならぬ時が来たからです。
そうして、お松が主としてつかえた老女は、本国へ帰る途中、ひとまず京都に滞留するのだということです。
老女はどこまでもお気に入りのお松を手放したくはありませんでしたけれど、お松としては、すべての事情が、それを辞退して、別な生活に入らねばならぬ時と考えました。
とりあえず、乳母と、登と、自分と三人で、しかるべき家を借りて一世帯を持つことがいちばん賢明で、それで女手の生活に不安があるならば、与八のところを頼もうというのが、第二の考えでありました。
しかし、第一の考えからお松を急に、第二の考えに飛ばせてしまった事情は、立退き以前にこの屋敷を押囲んで焼打ちがあるという噂と、ちょうどこの際、与八がわざわざたずねて来てくれたことであります。
お松は、京都でも、江戸でも、この時代の不安な空気の中に住み慣れてはいましたが、自分ひとりの身ならばともかく、偶然ながら子持ちの身になってみると、今日は暗殺、明日は焼討ち、といったような空気が、そら恐ろしくなって、この屋敷に住んでいる以上は、自分たちもめざされはしないかという取越苦労なども起っていたところへ、与八がやって来て相談をかけたものですから、それに従うのが、いちばん安心だと、その場で心をきめてしまいました。
心がきまれば話は早い方がよいと、お松はそのつもりで御老女に
そこで、この連中は、打揃って、程遠からぬ
「ムクや」
それ以来、ムク犬は使命を果して、房州から帰ったには帰ったが、人に姿を見せることが極めて稀れで、必要に応じてはどこから出るともなく出て来て、必要に応ぜざればどこに隠れているともなく、隠れていて出て来ない。
今、この人たちがうちつれて旧主の墓参りに出かけようとする時に、ヒョッコリ姿を現わしたので、一同の者がこの犬の出現を、いたくよろこび迎えました。
しかし、当の犬は、喜べる色もなく、勇める風もなく、一行の中にまじって、その行くところへ共に行き、その止まるところへ共に止まろうとする、柔順な態度に見ゆる。
ムク犬のこのごろは、我と我が生存の意義を見出そうとしているげに見ゆる。わが使命は、死んだ主人を守ることだけで尽きたのか。そうだとすれば、自分は当然
とまれ、この一行、お松は香と花を携えて先に立ち、
二十七
この一行が回向院の墓地へお墓参りに来た日、その
この興行は、大入り満員の売切れつづきで、すばらしい人気を博したのみならず、その人気に
しかし、太夫元のお角は、興行が成功したほどに嬉しそうな
お松、与八、ムク犬の一行が、回向院の墓地についた時分は、ちょうど、千秋楽の追出しの時刻で、今しも、場内にのまれていた幾千の観客が、
「オレのだい、オレのだい、オレの下駄だようッ」
下足場の人ごみの中で、おそろしく
なんでも下駄を間違えたやつを、一人がなぐり飛ばしたのが
そこで、取組み合い、なぐり合い、引掻き合いが見ているうちに起り出し、女子供は泣きさけんで救いを求めるの有様です。
高いところで見ていたお角は、直ぐにその目の下の混乱によって、また始めやがったなという苦々しい表情です。
「オレのだい、オレのだい、オレの下駄だってえばよう」
下卑た声が甚だしい耳ざわりで、混乱の中から起るのを聞いていると、たしかにこの混乱の原因は、下駄の擁護から起っているらしい。人より三分間ばかり下駄を後に
幸いに、お角は少しばかり高いところにいたものですから、この混乱の現状を、活動写真を見るよりも鮮やかに見て取ることができました。しかし、お角は、この騒ぎは、甲府の一蓮寺の時のように、
「オレのだい、オレの下駄だと、
こういう場合の
しかし、下手も上手も、共に
それをお角はひややかに笑い捨てて、ざっと場内をめぐり歩くうち、ふと、例のところへ来て、場外を見ると、以前にながめた通り、そこは回向院境内の墓地であります。
お角のながめることがもう少し早かったならば、そこに以前の一行がおまいりに来ていて、ことにその中には、お角の熟知しているムク犬も加わっていたことだから、お角とてもだまってはおれなかったろうが、この時はもう一行は去って、誰もおらず、ただ香のけむりが
あのお墓へは、駒井甚三郎もお参りに来たし、今日もまた誰かお参りに来たようだが、いったい誰の墓なんだろうと軽くお角の頭にのぼっただけで、それ以上には想像を
もう少し深く突きとめて、これが、
今のお角には、お君という女の
それで、あっさりと、それだけが頭脳にうつっただけで、やがて
その声を聞きつけて、お角は
寄生虫がやって来たな。
興行界を渡りあるくゴロがやって来たな、今まで来なかったのが不思議だが、果してやって来た、千秋楽を見込んでやって来たからには、ただは動くまいと、お角は度胸をきめてその方に出向くと、
「親方!」
ゴロが早くも認めて呼びかけました。その背後には四五人の同勢がいる。
「何です」
「おめでとう、大当りでおめでとう。だが親方、いいことの裏には悪いことがある、あんまり当り過ぎると
「大きに有難う、それがどうしたというの」
「勝って
「何だかわからないよ」
「高い木は風に揉まれるというやつさ……親方が大当てに当てたもんだから、世間から目ざされるようになったんだ。世間から目ざされるようになるとあぶない」
「何があぶないんだエ、なにもわたしは、世間様から目ざしてもらおうともなんとも思っちゃいないんだよ、名前を売りたいとか、親分になりたいとか、そんな
「まあ、そう、ポンポンおいいなさるな、親方のためと思えばこそ、こうしてやって来たんだから」
「大きに御苦労さま……何か、わたしを暗討ちにでもしようという噂があるんですか」
「そういうわけじゃねえがね、つまり、人気をしめた時は、財布をあけろというたとえがあるでございましょう、そこですよ、世間の口がうるさくっていけねえ、ばかばかしいようなもんだけれど、そこがそれお愛嬌で、如才なく立廻らないと損ですからねえ。早い話がわっしたち四五人が、これから盛り場を廻って、女軽業の親方はこれこれだと触れ廻ってごらんなさい。白いものでも
お角もこの道の苦労人ではあり、馬鹿ではありませんから、この連中を相手に争っては損だということぐらいは知っています。事実、この連中が気を揃えると、場合によっては、せっかくの名興行師を塗りつぶすこともできるし、また一夜作りの千両役者を仕立てて、世間をオドカすこともできるのだから、お角の気象としてはこの場合、
「
といって、丁寧に上へ招じたのは、お角としては気味の悪いほどの如才なさです。
いつの世、いかなる社会にも、寄生虫というものは絶えたことはないが、真正の批評家は極めて稀れである。
寄生虫は、
「こんな
寄生虫のいいたいことは、これだけである。為し得ることもまたそれだけである。
けれども、独特の生活力を有していない生物は、どうかするとこの寄生虫に食われてしまうことがある。
招かざるに
わが親愛なるお角さんを、こういうもののために苦心させたくない。
自分を、タカの知れた女軽業の親方以上には評価していないお角さんは、自分の仕事の性質を、ジョン・ラスキン氏のところへ聞きに行くわけにもゆかず、タンカは切ってみるものの、そこは女の身、ガラリと折れて寄生虫の四五人を上座に招じ、厚くもてなした上に、おみやげまでも調えて、帰る時は先へ廻って下駄まで揃えて帰したお角さんは、憎むべき人でもなんでもなくて、ほんとうに可愛い人ではありませんか。
こうして西洋大奇術は千秋楽となり、その翌日、与八とお松の一行は、沢井へ向って出立すると、まもなく、御老女はまた多くの供をつれて、
浪士たちの行くところは、無論、芝の三田の四国町の薩摩の屋敷でありました。
浪士たちが、半ば示威運動みたような勢いで、花々しくこの屋敷を引払うと、その晩のことに、火が起って、この屋敷を焼き払ってしまいました。
その火の起りについては、浪士たちが自分でつけて去ったのだという説もあれば、市中取締が焼き払ったのだという説もあって、どちらがどうだか、よくわかりません。
しかし、この屋敷一軒だけで食いとめたのはまだ幸いでありました。附近の人は、むしろこの立退きと、焼払いをよろこんだようです。これで相生町の名物が、一つなくなったわけですが、危険区域が移転したような心持で、近所の人が枕を高くしたのも、無理のないところがあります。けれども、原則からいって、一方に消滅したものは、必ず一方に増加するわけですから、次には芝の三田の四国町の薩摩屋敷に、また一層の危険分子が加わって、江戸市中の脅威になるという結果になるかも知れない。
実際、薩摩屋敷に集まるものの目的と行為は、江戸の市中を脅威したり、愚弄したりするために存在しているような形でありましたが、そうかといって、これを一概に、暴民暴徒の巣のようにいってしまうのは誤りです。また、こういうものを存在せしめた策士の横暴を、無条件に憤るのも当らないことであります。
薩摩屋敷へ浪士を集めたのは、西郷隆盛と後の板垣退助も関係していたということでありますが、徳川幕府を倒さねばならぬという志士浪人の頭に、同時にひらめくのは、いつも徳川と薩摩との仲をよくさせてはならないということでありました。
徳川家と薩摩とは、
後の鳥羽伏見の戦いも、一は、この四国町の薩摩屋敷の焼討ちが、
何事もみな、歴史の大きな潮流の現われに過ぎません。少なくとも関ヶ原の戦いまで
さても、相生町の老女の屋敷は、構えが相当に大きかっただけに、天明までも燃えつづいておりましたので、見物は山のように群がりました。なかには、これを痛快がって、このついでに三田の四国町まで押しかけて、薩摩屋敷を焼き払えというものもありましたが、また一方には反対に、江戸の市中を焼き払われないようにと、心中におそれを抱くものもありました。
高尾の山で、七兵衛と泊り合わせた神楽師の一行が、ちょうどここへ来合わせたのは、まだ
二十八
ここはどこだか知らない。机竜之助は何里つづくとも知れない
この時は夜です。身に
この時は、眼が見えるのです――それに程よい間隔を置いて、両側に立てられた四角な燈籠の光が、
けれども、いくら歩いても同じ大竹藪で、いくつ燈籠を数えてみても、みな同じ形で、同じ光で、同じ色に過ぎない。これでは、歩いても、歩かなくても、同じようなものだ。
ただ、足がなんともいえず軽快である。同じような藪の中と、同じような燈籠をいくつ数えて歩いても、疲れるということを知らない。そこで、おなじような道を歩む。
「もし」
ふと、その燈籠の一つの下で人影を見出したから、歩みをとどめて竜之助が問いかけました。
「これは真直ぐに行ってよいのですか」
問われたのは女の子です。髪をかむろに切りまわし、秋草をおぼろ染めにしたような
「どこへおいでになりますか」
「
「白骨……そんな温泉はこの近所にはございませんよ」
「ない?」
「ええ、ハッコツなんて名前の温泉は、この近所にはございません」
「ないはずはないのだが……」
「それでは字に書いて見せて下さいな」
「それはハッコツとお読みになっては違います、シラホネと読むのでございます」
「どちらでもいいではないか」
「いいえ、シラホネとお読みにならなければ違います」
「それでも、
「
「では、そのシラホネへ行く道は?」
竜之助が、
「そうですね……やっぱり、ハッコツの方がようございますか知ら。シラホネと読むのも、ハッコツと読むのも、同じようなものですけれど……」
竜之助の問いには答えないで、女の子はしきりに文字の末に
「読み方はドチラでもよろしい、わしは、ただそこへ行く道を知りたいのだ」
といいますと、女の子は、
「それを教えて上げましょうけれど、あなたは白骨の温泉へ何しにおいでなさるの」
「
「身体を丈夫にして、何をなさるの?」
「それは……」
「身体を丈夫にして……」
「…………」
ふと少女の立っていた
竜之助は、こましゃくれた女の子だと思いました。
しかし、燈籠が消えては一歩も進むことができない。
「お待ちなさい、今、
まもなく、蛍火ほどの線香を
「あなた、その人を御存じ?」
と女の子がいいました。
「知らない」
「では、この人は?……」
女の子は前に進んで、次の燈籠へ火を入れると、おなじような髑髏の形となりました。竜之助はそれに眼をうつし、
「やはり、知らない人だ」
「そうですか、それでは、この人は?……」
といって、女の子はまた三歩進んで、次の燈籠に火を入れると、同じくそれも髑髏の形。
「知らない」
「御存じのはずなのに……」
女の子は小首を
「これなら、キットおわかりでしょう」
その線香を燈籠の下に入れる。と、そこに現われたのは髑髏ではありません、まさしく女の
「…………」
竜之助は、近く
「ちぇッ」
と彼の額に白い光がひらめきました。
金剛杖を取り直して、それを打ち倒して、首を地上へ打ち落すと、女の子は、
「そんなことをしたって駄目ですよ、あなたはこの
と言って、その蛍火ほどの線香を、竜之助の前にかざして見せましたが、やがて、竜之助には頓着なしに、先へ進んで、つぎからつぎへとその燈籠をつけて歩きます。燈籠という燈籠は、ことごとく髑髏にあらざれば人の首です。
竜之助は、うんざりしました。何里あるか知れないこの道を歩くには、いちいちあの首を見て歩かなければならないのか。
ふりかえって見ると、いつのまにか、後ろの方もおなじ髑髏の燈籠。
はて、ここはいったいどこだろう。昨日塩尻峠を越えたばっかりなのに――
それを考えた時は、うつつ心の出でた時で、まもなく鶏の声が耳に入るのを覚えました。塩尻の