一
信濃の国、
先年、大菩薩峠の著者が、白骨温泉に遊んだ時、机竜之助のような
「いったい、この白骨の温泉は、シラホネがいいのか、シラフネが正しいのか」
亭主がこれに答えて言うことには、
「シラフネが本当なんですよ、シラフネがなまってシラホネになりました……シラホネならまだいいが、近頃はハッコツという人が多くなっていけません――お客様によってはかつぎますからね」
シラホネをハッコツと呼びならわしたのは、大菩薩峠の著者あたりも、その一半の責めを負うべきものかも知れない。よって内心に多少の恐縮の思いを抱いて、この宿を出たのであったが、シラホネにしても、ハッコツにしても、かつぐどうりは同じようなものではないか。こんなことから、殺生小屋を衛生小屋と改めてみたり、
そんなことまで心配してみたが、きょうこのごろ、風のたよりに聞くと、白骨の温泉では、どうか大菩薩峠の著者にもぜひ来て泊ってもらいたい、ここには四軒、宿屋があるから、一軒に一晩ずつ泊っても四晩泊れる――と、何かしらの好意を伝えてくれとか、くれるなとか、ことわりがあったそうである。してみれば、ハッコツの呼び名が宣伝になって、宿屋商売の上にいくらかの利き目が眼前に現われたものとも思われる。しかし、宣伝と、
白狼河北音書絶(白狼河北、音書 絶えたり)
丹鳳城南秋夜長(丹鳳城南、秋夜 長し)
と壁に書きなぐった文字そのものが、如実に時の丹鳳城南秋夜長(丹鳳城南、
その時、その温泉に冬越しをしようという人々――それはあのいやなおばさんと、その
お雪ちゃんの一行と、池田良斎の一行と、
そこで、この一軒の宿屋のうちの
ことに、この冬籠りに無くてならぬのはお雪ちゃんであります。見ようによれば、お雪ちゃんあるがゆえに、この荒涼たる秋夜に、不断の春があると見れば見られるのであります。誰にもよいお雪ちゃん――どうかすると、このごろめっきり感傷的になって、ひそかに泣いているのを見るという者もあるが、それでも表に現われたところは、いつも気立てのよい、人をそらさぬ、つくろわぬ
お雪ちゃんは今、柳の間で縫取りをしている。
縫取りといっても、ここでは道具立てをしてかかるわけにはゆかないから、ただあり合せの黒いびろうどに、白の絹糸でもって、
物を縫うている女の形を見れば、それが若くとも処女というものはない。
自然、
自分の娘を、いつまでも子供にしておきたいならば、縫物をさせてはならない。
老嬢の自覚を心ねたく思う女は、決して針さしに手を触れないがよろしい。
独身のさびしさを心に悩む男は、
それはお雪ちゃんが、
このごろ中、心にかけて習っている万葉集の中の歌が、そこはかとなく、例の声明と、浄瑠璃のリズムで、お雪ちゃんの鼻唄となって、いわば運針の伴奏をなして現われて来るらしい。
行きとほるべき
ますらをも
恋てふことは
なぜか、お雪ちゃんはこの歌が好きです。それは歌の心が好きなのではなく、口当りがいいから、それで思わず繰返されるのかも知れない。そうでなければ、
万葉の歌は上代の歌人の――上代の歌人とのみいわず、すべての人類の血と肉との叫びであります。人生に、恋にいて恋を歌うほど苦しいものはなく、恋を知らずして、恋歌をうたうほど無邪気なものはありますまい。
その時、
いやなおばさんと、
お雪ちゃんは、また縫とりをとり上げる気にもならず、相聞の歌を繰返す気にもならず、手持無沙汰のかげんで、しばらく所在なくしていたが――その時、ゾッと
この時、湯槽は急に
以前は、誰がいても遠慮なく入って行ったものですが、このごろは、どうしたものか、なるべく人目を避けるようにして、誰も入っていない時をねらうようにしては、こっそりと、お湯につかるようになりました。
それというのは、いつぞやあのいやなおばさんから、からかわれて、乳が黒いといわれたのが、突き刺されたように胸の中に透っているものですから、それが気になって、昨日までは、人に見せても恥かしくないと思っていたこの肌が、今日は、自分で見るさえも恐ろしくなることがあるのです。
お雪ちゃんの不安はそのところから始まりました――それがない時には、無邪気に、晴れやかに、誰にも同じように
何ともいえない不安がこみ上げて、こんなはずはない、そんなことがあろうはずはないと、さんざんに打消してはみますが、打消しきれないで、とうとう泣いてしまうことが、この頃中、幾度か知れません。
ああ、弁信さんが言う通り、こんなことから、わたしは、生きてこの白骨の温泉を帰ることができないのかも知れない――あれは、わたしの身の上の予言ではなくて、その運命は、いやなおばさんだの、意気地のない浅吉さんだのが、代って受けてくれてしまったのではないか。今に始まったことでない弁信さんの取越し苦労――それを
つい今まで、晴れ晴れしていたお雪ちゃんの心が、また暗くなりました。
ぼんやりと、見るともなしにふすまを見つめていた眼から、涙がハラハラとこぼれました。ついに
だが、自分ながら、なんでそんなに悲しいのだかわかりません。身に覚えがない、何も知らない、と自分で自分をおさえつけていながら、それがおさえきれないで泣いてしまう心持が、どうしてもわかりません。
そこでお雪ちゃんは、思い入り泣いてしまいましたが、身を入れていたこたつの火が消えてしまっているというのを知ったのは、その後のことでありました。
ああ、火が消えてしまった。それでもお雪ちゃんは少しの間、身動きもしなかったが、やがて立ち上って、炭入と十能を取って、丹前を引っかけたまま、障子をあけて廊下へ出ました。
二
お雪ちゃんが、炭取と十能を持って外へ出たのは、自分の冷めた
そこへ来ると、
「お休みでございますか」
「いいえ、起きていますよ」
「御免下さいまし」
お雪は障子を引開けて中へ入りました。ここは松の間というけれども、実は源氏の間とでもいった方がふさわしいのでしょう、十余畳も敷けるかなり広い一間ですが、その
「めっきり、お寒くなりました」
「寒くなったね」
室の主というのは机竜之助であります。竜之助も同じような丹前を羽織って、
何を考えるでもなし、考えないでもなし、白骨の湯にさらされて、本来
お雪ちゃんは、前へ廻って、そっと
「まあ、先生、すっかり火が消えてしまっているじゃありませんか、お呼び下さればいいのに」
と言いました。この娘は自分の炬燵が冷めたのに驚いて、他のことを心配して、ここへまで調べに来て見ると、これは全く火の気が絶えている。
この人は、長い間、こうして火のない炬燵によりかかって、うつらうつらとしているのだ、かわいそうに……
お雪ちゃんは、済まない心持になって、炭取を下に置くと、十能だけを持って、自分の部屋へ取ってかえしました。そうして、自分の炬燵から火種をうつそうとしてみたが、これもあいにく、小指ほどの
残された竜之助は、この時、クルリとこたつの方へ向き直って、やぐらの上へ
こうしている姿をごらんなさい。心は無心でも、姿そのものが何を語っているか。
ああ、おれはもう、生きることに倦怠した……とうめいているのか。
生きていることが不思議だ……と
いやいや、おれはまだまだ生きる。自分が生きるということは、つまり人を殺すことだ……何の運命が、何の天罰が、この強烈なる生の力を
さりとは長い
いつの世に永き眠りの夢さめて驚くことのあらんとすらん――と西行法師が歌っている。誰か
その時、お雪ちゃんが火を持って来ました。それを上手に組み合わせて、自然に、おこるようにして置いて、灰をかけ、
「先生、これからは、もう当分外へ出られません。おひとりでこうしておいでになって、淋しいとは思わない、つまらないとはお思いになりませんか」
「思ったって、仕方がないじゃないか」
「仕方がないっていえば、それまでですけれど……わたしはほんとうに、あなたをかわいそうだと思うことがありますのよ」
「思うことがあるだけじゃつまらない、いつでも思ってくれなくちゃあ」
「でも、怖いと思うこともありますのよ、憎らしいと思うこともありますのよ……そうしてどうかすると、心からかわいそうだと思って、涙をこぼすこともありますのよ。どれが、本当のあなたの姿だか、どれが本当のわたしの心だか、これがわからなくなってしまいます」
お雪ちゃんはこういっているうちに、またなんとなく悲しくなりました。
しかしまた気を引立てて、
「先生、きょうは一日、お傍でお話をお聞き申しとうございます。お邪魔にはなりません……お邪魔にならなければ、わたし、自分の部屋へ帰って縫取りを持って参りますから、それをやりながら、ゆっくりお話を伺おうではありませんか」
こう言って、お雪ちゃんはこたつから出て、自分の部屋へ縫取りを取りに行きました。
その間に竜之助は、横になって、長いきせるをかきよせて、こたつの火を煙草にうつして、腹ばいながら一ぷくのみました。
机竜之助は煙草を一ぷくのんでしまって、吸殻を手さぐりで煙草盆の灰吹の中に、ていねいにはたき、それから暫く打吟じて、二ふく目の煙草をひねろうとするでもなく、そのまま
何か縫取物をとりに行ったはずのお雪ちゃんが、存外手間がとれる。待ちこがれているわけでもないが、ちょっと行って、すぐ戻るはずの人が、存外時間をとるのは、多少共に気を腐らせるものです。
来なければ来ないでいいが、来るといってそこへ出た人が、容易に来ないのは、人をじらすようにもあたる。お雪ちゃんという娘が、決して人をじらすようには出来ていないのだが、故意でないにしても、偶然であるにしても、女は人をじらすように出来ているのかも知れない。
ところで、その間のちょっとした穴明きの所在に、竜之助は長煙管をカセに使っている。で、二三度クルクルと指の先で廻してみた長煙管を、今度はピッタリと自分の頬に当てて、ヒタヒタと叩いてみました。
無論、これは寝ていての芸当で、そう食うほどに煙草が好きというわけではないから、自然、煙管の方が扱いごろの相手になります。
ちぇッ、長い煙管がどうしたというのだ。
ふと、かれの眼前に、都島原の
島原がどうした?
ははあ――
さあ、それがどうした。
まあしかし、そのたあいないところが身上だ、少しの間でも溺れ得る人は幸いだ、売り物の色香にさえも、つかのまでも酔い得る間が、人生の花というものだな。
おれは酔えない――おれは溺れることができない。
不幸だ、この上もなく不幸だ。
竜之助は、
その時です、ちょうど、この室から幾間かを隔てた――多分三階ではありますまい、二階の
「デーン」
と張りきれるような三味線の音がしました。眼の働きを失って、しかして、耳の感覚が敏感になったというのみではなく、こんな静かなところで、思い設けぬ
いわんや、それが引きつづいてかなりの手だれな調子で、デンデンデンデンと引きほごされてゆくと、机竜之助の空想もその中に引込まれて、
「珍しいなア、
全く珍しいことです。日本アルプスの
といって、必ずしも、それは
例のお
三
だが、その手は何を
しかし、なかなかの手だれであることだけはよくわかる。
そうだなあ、お染久松の野崎村のところに、あんな三味線の調子があったっけ――といって、それには限るまい。三味線の調子にもそれぞれ型というものがあって、それをいいかげんのところへ、つぎはぎして、そうして一曲をでっち上げるのだ。まあ、何だって大抵は手本の種はきまったものだ――少し数を聞いていれば、これは新しいというのは、ほとんど全く無いものだ。
しかし、
ただ、弾き手自身は、よほど三味線そのものに興味を持っているところへ、思いがけなく、その好物を探し当てたものですから、ことに、
そこで、いつのまにか長煙管もほうり出して、
「お待たせ申しました」
「長いじゃないか」
「でも、火をおこしますと、あんまりよくおこって
といって、お雪ちゃんは、片手には縫取りをかかえ込み、片手にはお盆に載せた安倍川をどっさり持って来たものです。
「一つ召上れ」
「これは御馳走さま」
竜之助は起き上りました。
そこで、
竜之助は、これは無邪気なものだと思いました。これが、「何もございませんが、
二人はこうして、さし向いで安倍川を食べながら、お雪ちゃんが、しかけて置いた鉄瓶の湯を
安倍川を食べてしまうと、お雪ちゃんは縫取りを取り出して、例の胡蝶の模様を余念なく縫い取りにかかりました。
その時分とても、下の三味線はいよいよ興に乗るので、針を運ぶお雪ちゃんの気もときめいて、
「池田先生のお弟子さんには、芸人がいらっしゃるわ――ずいぶん御熱心ね」
といって、自分も針を運びながら、その三味線の音色には聞き
机竜之助は、もう横にならないで、やぐらの上に頬杖をついたまま、キチンと坐って、沈黙しているのは御同然に、三味線の音色そのものに、暫しわれを忘るるの余裕を与えられているのかも知れません。
ややあって、お雪ちゃんが、針の手を休めないで、
おととしの十月
中 の亥 の子 に
炬燵あけた祝いとて
ここで枕並べてこのかた
女房のふところには
鬼がすむか蛇 がすむか
それほど心残りなら
泣かしゃんせ
泣かしゃんせ
その涙が
蜆川 へ流れたら
小春が汲んで
飲みゃろうぞ
と三味線に合わせて口ずさみましたから、たれよりも最も多く机竜之助が驚きました。炬燵あけた祝いとて
ここで枕並べてこのかた
女房のふところには
鬼がすむか
それほど心残りなら
泣かしゃんせ
泣かしゃんせ
その涙が
小春が汲んで
飲みゃろうぞ
何だ――お前それを知っているのか、いつそんなことを覚えたのだね、小娘は油断がならない、と心底から驚いたかも知れません。
それには頓着なく、お雪ちゃんは、ただもういい心持になっているようです。
そうこうしている時に、さしもの三味線がやみました。誰も御苦労さまというものもなく、もう一段と所望する者もない。
一息入れてまた弾き出すかと思うと、それで全く一段の終りです。
「お雪ちゃん、今のを、もう一ぺん歌ってごらんなさい」
と竜之助が言いました。
「でも……」
お雪ちゃんがハニカミながら、
「あのイヤなおばさんが、よくこれを語りますから、わたしもつい覚えてしまったんですもの……それに浅吉さんもなかなか上手でしたわ、どうかすると、三味線もよく弾いていました」
「感心なものだ」
「泣かしゃんせ、泣かしゃんせ……あそこのところがなかなかようござんすね。あのイヤなおばさん、あんな様子をしていながら、いい声でしたよ。どうかすると、わたしたちでさえほれぼれするようないい声を出して、あのさわりを語りました」
お雪ちゃんは相変らず余念なく、縫取りの針を運ぶように見せながら、
それほど心残りなら
泣かしゃんせ
泣かしゃんせ
その涙が
蜆川 へ流れたら
小春が汲んで
飲みゃろうぞ
別段得意にもならないで、たのまれたから繰返してお聞かせ申す、というわけでもなく、素直にそのさわりのアンコールを繰返すところは、たあいないものです。泣かしゃんせ
泣かしゃんせ
その涙が
小春が汲んで
飲みゃろうぞ
「それから……」
竜之助がそのあとを所望すると、
あんまりむごい治兵衛さま
なんぼお前がどのような
せつない義理があるとても
二人の子供は
お前なんともないかいな……
ここへ来て、お雪ちゃんがどういうものか、しくしくと泣いて、あとがつづけられなくなりました。竜之助はなんぼお前がどのような
せつない義理があるとても
二人の子供は
お前なんともないかいな……
お雪ちゃんは、どうしたものか、とうとう縫取りを投げ出して、
「どうしたの……」
「二人の子供は、お前なんともないかいな……というところで泣けました、泣けて泣けて、仕方がありません」
お雪ちゃんは、わっと泣いてしまいました。この娘が近頃、感傷的になっているというのは、多分こんなところをいうのでしょう。
子を持った親でなければわからない感情のために、子を持たぬお雪ちゃんが泣くくらいだから、少なくとも子を持って、人の親として経験を経てまでいる竜之助はいかに。
単に小娘の口ずさむ
もし、彼の見えないところの眼底に、この時、一点の涙があるならば、それは春秋の筆法で慶応三年秋八月、近松門左衛門、机竜之助を泣かしむ……というようなことになるのだが、泣いているのだか、あざけっているのだか、わかったものではない。
お雪ちゃんは、何が悲しいのか泣いている。竜之助は何ともいわないで、横を向いたまま静かにしている。
そうして、しめやかな沈黙がかなり長くつづいた時分に、以前の柳の間の廊下の方で、
「お雪ちゃん、お雪ちゃん」
と呼びながら廊下を渡って来る人。そこにいないものだから、たしかにここと、バタバタと
「お雪ちゃん、こちらにおいででしたね、ちょっと」
「久助さんですか」
「はい」
姿は見えないけれども久助に違いないから、お雪はあわててその涙の
「あの、皆さんが、俳諧の運座をはじめますから、お雪ちゃんにも、ぜひ、いらっしって下さいって……」
四
その日の午後の浴室。北原賢次は板の間の上で、軽石で足のかかとをこすり、小西新蔵は
窓越しに、初冬の日の光が浴室いっぱいにさしている。
この二人は、どちらも池田良斎の一行で、この白骨の湯で
「お雪ちゃんは、とうとう運座へ出て来なかったね」
湯槽のふちにぼんのくぼをのせて、いい心持につかっていた小西新蔵が言う。
「うむ、出て来なかった。あの娘はこのごろ少しどうかしているよ」
と北原賢次が、かかとをこすりながら答える。
「そうだ、快活なあの娘が、このごろ少しふさいでいる、呼ばないでも出て来て、われわれを
そこで二分間ばかり話が切れ、
「あの娘は看病に来ているんだよ――病人を連れて来てるんだね、その方が忙しいんだろう」
「え……病人を連れて、あの久助という老人のほかに、あの娘に連れがあったのかい」
「あったにもなんにも……だが、誰もまだ同じ宿にいながら、その人の姿を見た者が無いんだ、よほどの重体で枕が上らないんだろう」
「なるほど……その看病でお雪ちゃんが出て来られないのだな」
「多分、そんなことだろうと思う」
「それは
「さっぱり正体がわからないんだ、また、
「近親の看病のためにふさいでいるならいいが……万一ほかの事情であの娘の性格が一変するようでは、かわいそうだ、あんな性格の娘は、どこまでもあのままで保護存養して行きたい」
「そうでなくてさえ、このごろは番人がヒヤヒヤしている、飛騨の高山の者だというあの油ぎった
二人は、いい気持で、こんな
かかとをこすり終った北原賢次も、何かちょっとそんな気分にさわったことがあると見え、
「時に、根も葉もあるではないが……あのお雪ちゃんが、妊娠しているという噂を聞かないかい」
「え……妊娠、あの娘が」
小西新蔵が、ちょっと枕を立て直す……そこで二人の会話が、また五分間ばかり
やがて、声高に、笑談まじりに、二人は何か話しはじめたが、ばったりと立消えになってしまうと、暫くあって、森閑たる浴室の外へ聞えるのは、小西新蔵がやや得意になって、
聞くならく
雲南 に瀘水 あり
椒花 落つる時、瘴煙 起る
大軍徒渉 、水、湯の如し
未 だ十人を過ぎずして
二三は死す……
と断続して、「大軍
二三は死す……
果して、お雪ちゃんはその日一日を、源氏の間で暮してしまいました。
暗くなって帰る時、ちゃんと竜之助のそばへ
けれども、そこで、ぐったりとして、改めて仕事にかかろうでもなし、別に
じっと、
こうして、半時ばかりも、じっとしている間に、ひとりでにお雪ちゃんの眼が、涙でいっぱいになりました。
いっぱいになった涙が、ハラハラと頬を伝って流れましたけれども、それを拭おうともしない間に、相次いでの感情がこみ上げて来ると見えて、ついつい本当に泣いてしまいました。本当に泣くと、ここでは、思うさま、誰に遠慮もなく、泣いて泣いて、泣けるだけ泣いてしまいました。
若い娘は
お雪ちゃんという子は、今まであまり泣きたがらない子でありました。それは泣くべき必要がないからでした。誰をも同じように愛し、同じように愛されている者に、泣くべき隙間の起るはずがありません。
お雪ちゃんは、その晩、改まって床に就いたのか、就かないのかわかりませんでしたが、翌朝になると、かいがいしいみなりをして、机に向って一心に物を書きはじめました。
「弁信さん――」
弁信の名は、まさしくこの娘のためには救いであるらしい。
「苦しうございます――」
と、お雪ちゃんが書き出したのは、少なくとも異例です。
「苦しうございます、あなたのおっしゃる通りの運命が、わたしの上に落ちて参りました。
穂高、乗鞍、笠ヶ岳の雪が日一日と、この白骨の温泉の上を圧して来ますように、わたくしの胸が……ああ、弁信さん、わたしは、もうトテも筆を取って物を書いているに堪えられません。
弁信さん――
どうぞ、わたしのそばに来ていて下さい。あなたがいなければ、わたしは助からないかもしれません――殺されてしまいましょう」
穂高、乗鞍、笠ヶ岳の雪が日一日と、この白骨の温泉の上を圧して来ますように、わたくしの胸が……ああ、弁信さん、わたしは、もうトテも筆を取って物を書いているに堪えられません。
弁信さん――
どうぞ、わたしのそばに来ていて下さい。あなたがいなければ、わたしは助からないかもしれません――殺されてしまいましょう」
一方、お雪ちゃんが帰ってからの机竜之助は、
行燈の光なんぞは、有っても無くってもいいわけですが、それでも、有れば有るだけに、何かしらの温か味が、身に添わないという限りもありません。
暫くぼんやりとしていたが、やがて
この人のことだから、それは問うまでもなく、手慣れの
極めて簡単にそれを引き出して、歌口を湿してみましたが、相応に興も乗ったと見えて、いずまいを直して、吹き出したのを聞いていると「竹調べ」です。
机竜之助は、どの程度まで尺八を
これは父から習い覚えたものです。父は幼少の竜之助に、本曲のほかは教えませんでした。竜之助もまた、父の教えた本曲のほかには、何を習おうともしませんでしたから、知っているのは本曲ばかり。興に乗って吹いてみるのも、興に乗らずして手ずさみに笛を取ってみる時も、やはり本曲。
つまり、本曲のほかには、吹くことも知らず、吹こうともしませんでした。
といって、本曲、そのものの玄旨に傾倒して、他を顧みずというほどに、妙味がわかって吹くというわけでもないのです。父から、やかましい伝来の由緒を、教えられるには教えられたけれど、そんなことは、てんで頭へは寄せつけなかったくらいだから、頭に残っている由がありません。
ただ、ここで思い起すのは、父が尺八の師であった青梅
ここにヅグリという手があって、これはなかなかやかましい。これがうまく出来なければ
「
それにつけても思い起す、父が尺八というものに対する、あこがれと、理解の程度の、尋常一様でなかったことを。
高橋空山師と
父はまたよく言った、人間の心霊を吹き得る楽器として、尺八ほどのものは無く、人間の心霊を吹き現わし得る楽器として、尺八ほどのものは無いと――父といえども、世界の楽器の総てを知りつくしたわけではなかろうが、以てそのあこがれの程度を想い知ることができる。
「竹調べ」から「鉢返し」――「鉢返し」から「
世界もちょうど――
五
宇津木兵馬は、今宵月明に乗じて
どうして、特に月明の夜を選んだか知らないが、その足どりから見れば、中房の温泉にも望みを失して、すごすごともと来し道を引返す心のうちが、察せられないでもありません。
それにしても、歩みぶりが甚だ
兵馬は、それでも、少し自分の足が早過ぎたなという心持で、振返って立ちどまると、後ろに一つ、うつむいて
さては
「どうです、うまく結べますかな」
と兵馬が、寛怠ぶりで問いかけると、
「結べやしませんわ、結んでも結んでも、解けてしまうんですもの」
それは女の声であります。
「ちぇッ、世話を焼かせるなあ」
と兵馬が、少しじれったがりました。
「でも仕方がありませんわ、草鞋なんて、足につけたのは、今日が初めてなんですもの」
といって女は、しきりに草鞋の紐を結び直しているが、思うように結べないらしい。結んではみても、ためしてみると、足につかないで、また解きほごして、結び返しているものらしい。
当人よりも、それを見ている兵馬が、もどかしがって、二三間小戻りをして来て、昼のような月明に、当の女の足もとを
「そんな手つきじゃ、駄目駄目」
兵馬は、ついにうつむいて、自分の手を女の足もとにかけて、その草鞋の紐を受取ってしまいました。
「済みません」
女は手を
「それ、ここをこうしてちにかけて、それから後ろで
草鞋の紐を結ぶということは、あながち、先輩長者に向ってすることだけではないらしい。やんちゃな、扱いの悪い、弱者に対して、そうしなければ道が行けないためしもあるに相違ない。
兵馬は、こくめいに、この女のために草鞋の紐を結んでやりました。
「どうも有難うございました、
女は
そこで兵馬は、先に立って歩き出したが、以前のように、両腕を胸に組み上げながら、
これは行き過ぎたと思っては、踏みとどまって待受けて、また、そろそろ踏み出すと、
「片柳様、誰も追いかけて来やしませんから、もう少しゆっくり歩いて下さいな」
と女が訴えました。
兵馬としては、これより以上の
「その足で、松本までは
兵馬は
これは、また奇妙なる一つの
兵馬の道づれの女は、浅間の温泉で、芸者をしていた女であります。
酔って、手古舞姿で、兵馬の室へ戸惑いをして一夜を明かしたために、大騒動を持上げた女であります。その結果、八面大王の
この数日来――期せずして、どうも、兵馬の先廻りをして歩いているもののようです。
今や、こうして、月明の夜、二人同じく旅よそおいをして、道を共にしてみれば、夫婦としては少し釣合いがまずいようだが、
しかし、依然として二人の間は離れ過ぎている。待ち合わせても、待ち合わせても、いつか知らず二三間は隔たりが出来てくるのです。道行としては、こんな離れ離れの
兵馬がこうして、ついつい、連れの足弱を置去りにするような歩み方ばかりするのは、人目を気兼ねするのではなく、また、二人ばかりの山路の夜道に、人目を気兼ねする必要が毛頭あるのでもなく、ただ、兵馬の頭が、全く別なことを考えているから、足がふらふらとしてその空想に
「それじゃ駄目ですよ、松本どころではない、この先一里も覚束ない――困ったな」
兵馬はまたも、立ちどまってつぶやきました。
「そんなに
と女が息を切りました。
「仕方がない……」
兵馬が、やはり途方に暮れた返答ぶりです。
仕方がないといえば、全く仕方がない。ほかの道中と違って、馬や、
ただ、兵馬として案外なのは、女の足が弱過ぎたことです。想像以上に、この女の足が弱過ぎました。
前途といえば、二人はどこを
兵馬としては、求むるものは、いつも与えられずして、求めざるものに、ついて廻られるような結果になる。ついて廻るならまだいいが、時としては、それに引きずられるような危なっかしいことさえしばしばあるのには困る。世間の事実は往々逆説になって、足の強いものが、足弱を引きずらないで、足弱が、健足のものを引きずるためしが、ザラにないとはいえない。
兵馬としては、この予想外に足の弱い女を、自分が引きずりながら歩いているのだか、引きずられて困惑しているのだか、ちょっと、わからない立場でありましょう。
「もう歩けません、あなたお一人でいらっしゃい――どちらへでも」
といって、女は有明明神の社壇の下に、腰を下ろしてしまいました。
「ちぇッ」
兵馬は
その時、暫く思案していた宇津木兵馬は、足を踏みならして、
「そうですか、では、あなたは疲れの休まるまで、休息していらっしゃい、拙者は、ひとりでブラブラと出かけます」
といって、彼はそこを歩き出してしまいました。
「まあ――ひどい人」
女の
「まあ、片柳様、あなたはほんとうに、わたしを
兵馬はそれに答えずして、フラフラと歩いて行きます。片柳とは宇津木の変名。
「あんまり、ひどい」
女は追いかけて、追いすがりました。
「それでは、あなた、約束が違やしませんか」
「約束とは?」
「わたしを救い出して下さる、あなたのお約束じゃありませんか」
「救い出す――いつ、わたしが、そんなことを言いましたか」
「あら、また、あんなことをおっしゃって……あなたをお力にすればこそ、こうして、わたしは、逃げ出して来たんじゃありませんか」
「人をたより過ぎてはいけません、拙者は人にたよられるほどの人間ではありません、人にたよりたいくらいの人間ですよ」
「では、わたしというものを、どうして下さるの……」
「浅間の、もとの主人まで送り届けるだけのことはします」
「それだけじゃいけません」
「いけませんといったって、それより以上のことは、拙者の役目にないことで、またしようとしてもできないことです」
「ねえ、あなた、浅間へ帰ると言いましたのは嘘なんですよ、わたしは、あんなところへ帰る気はありません」
「帰らなければ、どこへ行きます」
「わたしは、江戸へ帰りたいのです」
「それは事情が許しますまい、江戸へ帰るならば、帰るようにして帰らない以上は、迷惑が湧いて、災難を求めるようなものです」
「ただは帰れませんから、逃げて帰るよりほかはありません」
「一里二里も覚束ない足で、どうして江戸へ帰ります」
「ですから、わたしは、あなた様におすがり申しているじゃありませんか、どうぞ、このまま、わたしを連れて逃げて下さい」
「何をおっしゃる――そなたを連れて、拙者に江戸へ逃げろといわれるのですか」
「お江戸でいけなければ、どこでもようございます――京でも、大阪でも、いっそ、誰も知らない山の中でも、海の
「なるほど」
兵馬は、この間も、腕組みをして、悠々閑々と歩いていることを少しも止めないでいましたが、この時から、以前、二三間ずつは必ず離れていた女が、兵馬の袖にすがって離れません。
「ねえ、片柳様、押しつけがましいことですけれども、わたしはそう思います、
「…………」
兵馬は、やはり腕組みをしたまま、無言で歩きつづけながら、身ぶるいをしました。
この手にはかかっている――商売人の用いたがる手だ。江戸の吉原で、おぞくもこの手に引っかかって、苦い経験を
実はこの手を警戒すればこそ、この道行も、ワザと離れ離れのよそよそしさを、兵馬自身から仕向けていたのではないか。
まあ、最初のかかり合いから言えば、戸惑いとは言いながら、自分の座敷へころがり込んだ、あれが間違いのもとなのだから、相当の責任感をもって、この女のために証明の役目も果し、浅間の元の主人のところへ落着けてやるまでは、旅の道草としても、意義のないことではないと思って、頼まれるままに、浅間へ送り届けることだけは、引受けたに違いない。
だが、あぶない。女がなかなかのあだものであるだけに、またその道の
ここに至って、兵馬の
「
歩きながら兵馬はこう言いました。
「冗談ではございません――あなたには冗談に聞えるかも知れませんが、わたしは真剣でございます、命がけでお願いしているじゃありませんか」
「そういう頼みは聞かれない」
「では、わたはどうなってもいいのですか、どうすればいいのですか」
「それまでは考えていられない、浅間へ送り届けるだけで、拙者は御免
「どの
「嘘はそちらの勝手、拙者は、拙者だけの勤めを果せばいいのだ」
「ようござんす」
そこで、ふっと、今まですがっていた兵馬の袖を、女がはなしました。
兵馬は多少のハズミを食ったが、やはり最初の調子の、悠々閑々ぶりを改めず、あとを振返ることもなくして、フラフラと歩んで行くのであります。
女は、どうしたものか、恨めしそうに兵馬の後ろ姿を見てはいるが、以前のように追いすがろうともしない。また、静かにそのあとを
そうなってみると、兵馬も、多少の不安を感じないわけにはゆきません。だが、自分の
いや、そう言っているうちに、また追いかけて来るだろう、追いかけて来ないまでも、何とか呼びかけてはみるだろう、というような期待もあって、兵馬は相変らずの調子で、日本アルプスを後ろに、松本平を前に、月明の夜、天風に乗じて
その時に、兵馬も、不安を感じないわけにはゆきません。
実は、不安を感ずるのはいけないのだけれど、最初の機鋒を最後まで通して、女が泣こうが、追いすがろうが、立ちどまろうが、退こうが、押そうが、動ぜずして振切り通すだけの切れ味があれば、さすがなのだが、これが無いところが、兵馬の兵馬たるゆえんかも知れません。
一町半ほど、そうして歩いたところで、やむなく兵馬は後ろを顧みてみました。
そこには誰もいない。
月夜で、見通しの
あっ! と兵馬は
六
呼びかけると思った女が、呼びかけません。追従し
この案外には、兵馬が
われに追従して来なければどこへ行く――この場合、その方向転換の目的が、人の身として考えても、自分に比べて考えても、皆目わからないのであります。
行くところの道を失えば、当然、その帰結は
自暴――女にとって、その恐るべきことは、破滅を恐れないのでわかります。しかし、その点は心配するほどのものはあるまい、処女ではないのだから。処女でないのみならず、商売人なのだから。
しかし――という余地はないはず。その切れ味の
よろしい、去る者は追えない。
一処にその未練を残すから、万処がみな滞るのだ。
進むに
ふと、馬の高くいななくのを聞いた。
馬――暫くぼんやりしていて、ハッと気がついたように、その馬のいななきの方へ、桑の畑を分けて進んで行くと、とある農家の
「お早う」
「お早うございます」
「済まないがね、君」
「はい」
「少し馬を頼みたいのだが」
「この馬は、
「そこをひとつ折入って頼むのだ、有明明神のところまで……」
「明神様までなら、そんなに遠くはねえのだが……」
「うむ、ちょっとの間だ、そこへひとつ馬を連れて行って、多分、あの辺に、旅に疲れた女の人が一人いるはずだから、それを馬に乗せてつれて来てもらいたい」
「ここまで連れて来ればいいのかね」
「ここまでではない、左様、穂高の村まで連れて来てもらいたい」
「穂高のどこまで連れてくだね」
「左様、よくは知らないが、あの穂高神社の附近に拙者が待っているから、そこまで連れて来てもらおうか」
「旦那様は、一緒においでなさらねえのかね」
「ああ、拙者は一足先に待っている」
「ようござんす、ちょうど、この馬も等々力まで行く馬ですから、穂高へは順でございます。では、旦那様、
「物臭太郎とは?」
「穂高の明神様の前のところでございます、物臭太郎でお待ち下さいまし」
「では、そうしよう」
物臭太郎というのが奇抜に聞えましたけれど、それは何か因縁があるのだろう。その因縁はここで問うべき必要はない。指示された通り穂高神社を標準として、物臭太郎を目的としていれば差支えない。
兵馬は、子供に
これとても、おぞましいことです。見殺しにする気なら、見殺しに殺しつくすがよい。
最後まで助け
ここに至って、切れ味がまた
穂高神社の物臭太郎をたずねて来た宇津木兵馬。
くすぐったいような思いをしながら、物臭太郎をたずねてみると、どうもちょっとわからない。
所在がわからないのではない、教える人の、教え方がまちまちなのだ。ある者は、その後ろの方にあるべき塚を教えて、それが物臭太郎だといい、ある者は、その末社の一つに物臭太郎が祭られてあるといい、ある者はまた、その本社そのもの、つまり、穂高神社そのものが物臭太郎を祭ってあるのだともいい、なおある者は、物臭太郎とは、その社前の接待の茶屋がそれだ、その茶屋のある所に、昔、物臭太郎がいて、思いきった怠慢ぶりを発揮していたもののようにもいう。
兵馬には何だか、物臭太郎の正体がわからない。その名前だけは
ともかくも、その接待の茶屋。
これは今、
まだ早いから、誰もこの立場へ立寄ったものはないらしいが、火だけは、人がいても、いなくても、ひねもす夜もすがら
兵馬は縁台の一つに腰をかけると、そのままゴロリと横になって、頭をかかえてしまいました。
来るならば、馬の足だから、もう
自分で振切ったものを待っているというようになっては、後ろめたい話だが――そうかといって、約束は約束だ。
こういう時に、吉原でさんざんに
多分、苦い味は
だが、先方は
みようによっては、どこを見ても、ここを見ても、
その
だが、あの女も、ああして
「来たな……」
来たのは女だ……と思いました。それは今まで頭の中にこびりついていた元のなじみの女の顔だか、それとも馬を以て迎えにやった、かりそめの道中づれの女だか、ちょっと、兵馬の頭では混乱しましたけれども、来たのは、まさに女に違いない――と兵馬は、バネのようにはね起きました。
バネのようにはね起きなくとも、むしろこの場は、来ても、来なくてもいいように、
女でないのみならず、男のうちでも筋骨のたくましい、
「やあ、仏頂寺」
バネのように起き直った兵馬がそれを見て、驚愕と、苦笑とを禁ずることができません。
「宇津木、ここにいたのか?」
仏頂寺の後ろには、影の形におけるが如く、丸山勇仙も控えています。
物騒なのが二人、連れ立って来るからには、もう少し肩の風が先吹きをしていそうなものだと思えないでもないが、そこは
気味悪く、ニヤリニヤリと笑いながら仏頂寺は、兵馬のそばへ寄って来て、横の方の縁台へ腰を
「宇津木君、君あ存外人が悪いな」
と勇仙が言いました。
「なに、別段悪いことをした覚えはない」
兵馬が申しわけをする。
「いかん、いかん……君は悪いことをしたつもりはなかろうが、その飛ばっちりが
仏頂寺がいう。兵馬はそれにも申しわけ。
「諸君に御迷惑をかけたつもりはないのだが……」
「あとのことは君は知るまい……時に、女はどうしたえ、どこへ連れ込んでしまったのだ、え、宇津木君」
仏頂寺がすり寄ると、兵馬は迷惑そうに、
「女というのは、誰のことだ」
「しらを切っちゃいかん、浅間の温泉場を沸き返るような有様にして、置去りにしたわれわれに一切の尻拭いをさせ、自分だけがいい子になって、お安からぬ道行とは、年にも、
「それは諸君の勘違いだ、なんで拙者が、そんなばかげたことをするものか、第一、拙者がそんなことをするくらいなら……」
「言いわけはいよいよ暗い。浅間では、たしかに君が、あの女をかどわかして逃げたと、みんなそう信じている。よく聞いてみると、なるほどそう信ぜられても弁解の
「それには、事情がある……偶然の戸惑いで……」
「その弁解を聞く必要はない、その女が、君の手にあるかどうかを聞けばいいのだ。現在、ここにいなければ、どこへ隠したか、それを聞けばいいのだ。それを聞いたからったって、なにも君からその女を取り上げようの、どうのというのではない、君もその女が好きだというし、女もまた君にたよりたいという心があるなら、われわれも一肌ぬごうではないか。女をどうした、それを白状しろ」
「知らない、左様な女には、全くかかり合いがない」
兵馬がいいきった時に、表で馬の鈴の音です。兵馬の顔の色が少し変りました。
七
よくないところへ――頼んでおいた
「旦那様、おいででしたかね」
「うむ」
「頼まれたお方を、お連れ申しましたよ」
「それは御苦労」
そこで、はじめて、女は馬から下ろしてもらうと、笠を取って、杖を持ったままで、しゃなりしゃなりとはいって来て、
「あなた、あんまりよ」
といって、流し目に兵馬を
兵馬は何とも答えないで、炉の火に手をかざしていたが、仏頂寺と、丸山とは、眼を円くして、女の方を穴のあくほどながめ、
「それ見ろ」
と口には言わないが、さげすむような、あざけるような目を、ジロジロと兵馬の方へ向けて、仏頂寺がその肩を一つたたいて、苦笑いをしました。
「宇津木」
「うむ」
「お前を尋ねて、お客様が来たよ」
「うむ」
丸山勇仙は底意地悪そうな、そうしてイヤに、ていねいに女に向って、
「さあ、どうぞ、こちらへお掛け下さいませ、さあ」
「有難うございます」
女は杖を羽目に立てかけて、やはり、しゃなりしゃなりと、かなり人見知りをしない態度で、火の方へ寄って来ました。
「あなた、あんまりだわ、足の弱いものを
「打捨ったわけじゃない、おたがい同士だ」
兵馬が苦しそうに言うと、女は、
「そなはずじゃありますまい、途中で、あなたに打捨られるつもりなら、わたしは、こうしておともをして来やしませんもの」
「それにして、お前は足が弱過ぎる」
「だって仕方がないわ、足の弱いことは、あなただって御承知の上なんでしょう。歩けるだけ歩いてごらんなさい、どうしても歩けなければ、また方法がある、とあなたはおっしゃったじゃありませんか、行詰った時に、その方法というのを取って下さらずに、おいてけぼりはひどうござんすね」
「だから、あとから馬が迎いに行ったろう」
「どうも御親切さま。せっかくでしたけれども、あのお馬には乗るまいと、わたしは考えちまいましたのよ、あの明神様の前で死んでしまおうか知らと思いましたのよ……ですけれども、また考え直して、御親切なお馬に乗せていただいて、おめおめこれまで参りました。ほんとうに御親切なお方ね、あなたというお方は……」
兵馬は何とも答えないで、テレきっていると、ニタリニタリ笑っていた仏頂寺弥助が、傍から口を出して、
「宇津木、何とかいえよ、この御婦人が、お前を恨んでいらっしゃる」
「恨まれるほどのこともないのだ、偶然道づれになって、向うは足が遅いし、拙者の方は少し早いものだから、それで、途中、別れ別れになってしまったまでのことだ」
というと、女が少し乗り出して来て、
「そりゃ、それに違いありません、あなたがお足がおたっしゃで、わたしは生れて初めて
仏頂寺がそれを聞いて、しきりにうなずいて、
「その通り、その通り、足のたっしゃな者が、足の弱い者を置去りにするのは、あたりまえすぎるほどのあたりまえだ、そうでなかった日には……」
仏頂寺は女の方に向き直って、
「時に御婦人、申し
と言われて、女はにっこりと笑い、
「わたくしこそ申し後れましたが、改まってあなた様方へ、お近づきが願えるほどのものではございませぬ……浅間におりました時に、御厄介になりましたのが御縁でございます」
「なるほど……どんなふうに御厄介になったのだね」
「わたしが悪い癖で、戸惑いをしてしまったものですから、大変に御迷惑をかけちまいましたことがございますんです」
「ははあ……実はね、その飛ばっちりが、われわれの方までも飛んで来て、えらい迷惑をしてしまったよ。君はあの、松太郎という浅間の芸者だろう」
「お察しの通りでございます」
「よくない、
と仏頂寺が、ワザワザ
「いいえ、それは違います、どちらがたぶらかしたの、引っぱり廻したのというわけではありません、こなた様にはほんとうに、はからず御迷惑をかけたり、お世話になったりして、お礼をこそ申せ、お恨みを申し上げるような義理じゃございませんのですけれど、
「なるほど昨夜、この宇津木が、君に対して、何か不人情な仕打ちに出でたものと思う、そりゃ宇津木が悪い」
仏頂寺が呑込み顔にいうと、女は、
「いいえ、こちら様がお悪いことは少しもございません、ほんとうは、わたしがわがまますぎたんでございますよ……恨みや、愚痴なんて、申し上げられた義理じゃないんですけれど、そこは女というものはね、つい、ホホホホホ」
と妙な笑い方をして、それで、恨みも、愚痴も、すっかり帳消しにしようと
「それはどうでもいい、そんなことはどうでもいい、君たちが
仏頂寺弥助が真顔になってこう口走ると、丸山勇仙が、
「フフフフフ」
とふき出しました。それにも拘らず、仏頂寺は大まじめで、
「おたがいに若い同士で、一時の出来心では仕方がないとして、以後は注意するこったね、そうして君は尋常に、元の雇主へ
その時まで、だまって聞いていた宇津木兵馬が、
「仏頂寺君、それは違う、君は、どこまでも、ひとりぎめで、その婦人と拙者とが、しめし合わせて
「なるほど……」
仏頂寺が、なおしさいらしくうなずいてみせたが、やがて、
「そうか、全く情実関係も、利害関係もないのか。果してその通りならば、君の手から、われわれがこの婦人をもらい受けて、連れて帰っていいか」
それは、どうも急に返事はできがたいあぶなげが伴うけれど、さきほどの口上の手前、異議は唱え兼ねて、
「それは御随意……」
と言い終ると、仏頂寺はさもさもと言わぬばかりに、
「しかと……異存はないかな。君の手からこの婦人を受取って、われわれが護衛をして、無事に抱え主のところまでかえしてやる、そのことに君は異議はないのだな」
「有るべきはずがない」
兵馬は内心苦しく言い切ると、仏頂寺が、
「ならば、事は簡単だ。丸山、もうこれから中房まで行くがものはない、浅間へ引返そうではないか」
「そういった理窟だな」
丸山勇仙が、空うそぶくような調子で返答しました。そこで仏頂寺は、事改めて女の方を向いて、
「ねえ、君、君はどうしても一応はその抱え主まで、わびをして帰らなければならん。そのおわびには不肖ながら、われわれが立会って、今後にむごいことのないようにして上げる。ここからは乗物か何かあるだろう、善は急ごうじゃないか、君の方に異存がなければ、これからわれわれと一緒に浅間へ帰ろう」
「どうぞ、お連れ下さいまし」
女はわるびれずにいいました。仏頂寺はそこで、丸山の方に
「丸山君、君ひとつ、そこらを駈けまわって、乗物を一挺探して来ないか、何でもいい、人間の乗れるものなら何でもさしつかえない」
「よろしい」
丸山勇仙は命をかしこんで、さっさと物臭太郎を外へ飛び出してしまいました。
そこで仏頂寺弥助が、改めて兵馬の方に向って、
「君、宇津木君、抜けがけをしちゃいかんよ、われわれとても、君の立場には同情し、どうか成功させて上げたいと、これでも、蔭になり、
あんまり有難くは聞けない
「君たちのいいようにし給え」
と兵馬は、聞きようによっては
「ねえ、松太郎君、君もそうだよ、いかに商売柄とは言いながら、少しは分別というものをおいてもらわなくちゃならん、無茶苦茶をやっては、つまり
「それはよくわかっていますけれども、どうも仕方がありませんわ、運命というものなんでしょう、わたしたちの身の上なんぞは、世間並みにごらんになると違います」
「その運命というやつが不思議なものなんだ。ところで、どうだ、正直のところ、ああは言ったものの、君も一旦は浅間へ帰るとしても、末長くあの地にもいづらかろう、どうだ、われわれと一緒にどこぞへ行かないか」
「どうせ、ひびの入ったからだでございますから、どちらへでも、住みよいところへ行って、たよりになれるお方にたよりたいと思います、どうぞ、よろしく」
「は、は、は、は」
なにゆえか仏頂寺が、わざとらしい高笑いをしたのが、兵馬の耳にたまらないほどのいやな思いをさせました。
そこへ、丸山勇仙が、とつかわと立戻って来て、
「やっと
「そうか。では、出立としよう、君」
と女を顧みて、
「駕籠が来たそうだから、乗り給え」
「はい」
女も
ひとり残された宇津木兵馬。
これではなんにもなりはしない。
自分が空遠慮をしていたために、その御馳走を、横合いから頼もしからぬ者共に、むざむざ食われている心持もしないではない。
これを、厄介払いしたと、思いきるわけにもゆくまい。
物臭太郎にあやかったわけでもなかろうが、兵馬は、急に立ち上る気にもなれないものと見え、包みを解いて、中から取り出したのが信濃国の絵図。それを縁台の上へ繰りひろげて、あれからこれと、指で線を引いてながめている。
そこへ神主のような人が来たから、兵馬も、ちょっと身を起して、あいさつをする。
神主なかなかなれなれしく、炉辺へ腰をおろして話しかけるものだから、兵馬も、
「いったい、この物臭太郎というのは何です」
「物臭太郎でございますか――それをいちいち説明して上げるよりも、ここに絵巻物がございます」
神主は頼まれもしないのに、立って床の間から一巻の絵巻物を持って来て、
「物臭太郎物語――ね、これでございます、なかなか名文章でございますよ、竹取、うつぼ、源氏物語などとは違った面白味がございます。滑稽味のある古文では、ここらが第一等でござんしょう。日本人にはいったい、滑稽味が乏しいなんて言う人もありますが、どうして、この辺になると、古雅で、上品で、そうしてたまらない
神主はこういって兵馬の前に、その絵巻物を繰りひろげ、
「東山道、みちのくの末、信濃の国、十郡のその内に、つくまの郡 、新しの郷 といふ所に、不思議の男一人はんべり、その名を物臭太郎ひぢかずと申すなり……」
ここで兵馬は、ははあ、物臭太郎にも名乗りがあるのだな――物臭太郎ひぢかず、ひぢかず――という字は、どう当てるか知らないが、ともかく、物臭太郎も名乗りを持っているということを、この時はじめて知りました。
「ただし、名こそ物臭太郎と申せども、家づくりの有様、人にすぐれてめでたくぞはんべりける……」
と読まれて、では、名こそ有難くはない名だが、家はこのあたりの豪族にでも生れたのだろう。そうしたものかと考えていると、神主はすらすらと読み続けて、その宏大なる家の構えぶりに抑揚をつける。
「四面四方に築墻 をつき、三方に門を立て、東西南北に池を掘り、島を築き、松杉を植ゑ、島より陸地へ反橋 をかけ、勾欄 に擬宝珠 を磨き、誠に結構世に越えたり、十二間の遠侍 、九間の渡廊、釣殿、梅の壺、桐壺、まがき壺に至るまで、百種の花を植ゑ、守殿十二間につくり、檜皮葺 にふかせ、錦を以て天井を張り、桁、梁、木の組入には、白銀黄金 を金物に打ち、瓔珞 の御簾 をかけ、厩 、侍所に至るまで……」
これは大変なものだ、と兵馬が思いました。なるほど名こそ物臭太郎だが、この住居の結構は藤原時代で、三公を
「大したものでござんしょう、これでは平安朝時代、藤原氏全盛の頃の並びなき
「厩 、遠侍に至るまで、ゆゆしく作り立てなさばやと心には思へども、いろいろ事足らねば、ただ竹を四本立ててぞゐたりける」
「どうです、すっかり人を釣っておいて、最後に突放した手際はあざやかなものじゃありませんか、ゆゆしく作り立てなさばやと心には思えども、いろいろ事足らねば、ただ竹を四本立ててぞいたりける……が兵馬もばかにされた思いをしながら、それでも行文の妙味に、少なからず感動させられたようです。
眼の前にころがる餅を取ることがおっくうで、三日の間、人の通るのを待っているという徹底した物臭ぶり。
それでも、鳥や、犬の横取りを怖れて、棒をもって、それを
それが、ある大納言に見出されて京都へ上り、首尾よく勤め上げて、また信濃へ帰ろうとする時の話――
国への土産に、よい女房をつれて帰りたい。
よい女房を求めるには「辻取り」ということをせよと教えられて、
侍従の
この女房が、物臭太郎を七日の間、湯につけて、二人の侍女に磨かせると、真黒な物臭太郎が、玉のように光り出す。
これに
それに、歌を詠ませると、なかなかの名歌をよむ。
物臭太郎では
この物臭太郎がすなわち穂高の明神となり、女房が朝日権現とあらわれる――これは文徳天皇の御時なりし……とある物臭太郎一代記を神主の口から、かいつまんで聞かされてしまった宇津木兵馬。
すすめられた渋茶に
物臭太郎一代記――思い出してもばかばかしさの限りだが、時にとっての何かの暗示。
「辻取り」というのは、初めて聞いた。
刀には「辻斬り」というのがある。
結婚は、ついに
兵馬の頭が、奪われたる女ということに向う。「辻取り」は今の世、今の時にも行われる。現に、たった今、その災難に逢ったのは自分ではないか。
奪われた心。奪われたのではない、いわば厄介払いをしたのだが、なんとなく安からぬ心を、
人もあろうに仏頂寺、丸山のやからに、むざむざと一人の女性を渡してやったその不安。
日が高くなるほどに、兵馬にはその不安がこみ上げて来る。
ついに決心して、自分はそのあとを追わねばならぬ、追いかけて、二人の手からあの女を取り戻して……取り戻さないまでも、あの女の
女の性質がどうあろうとも、こうあろうとも、むざむざと食い物にせらるべき運命をよそにして、ひとり悠々閑々の旅行ぶりが続けられるか、続けられないか。
兵馬はにわかに腰の刀をゆり上げて、松本街道の一本道を、駈足で走り出しました。
八
雪に
「ねえ、
「はい」
「向うに見える山はありゃどこだろうねえ」
「左様でございますねえ」
右に青い海を隔てて、
「大方、上総、房州あたりだろうと思うんでございます」
若いのが、親方から尋ねられて、
「そうだろうねえ、上総、房州の方角だと、わたしも、さっきからそう思って眺めているところさ」
上総、房州では一けた違う、伊豆の半島の東南から見た眼前の突出は、当然三浦半島でなければならないのだが、この二人の頭では、陸地が海へ突き出していさえすれば、それは上総、房州に見えるものらしい。
「え、間違いありません、あれが上総、房州です、ほら、ごらんなさい、あの高いところが、あれが
政どんなるものが、一桁ちがいの親方の裏書をいいことにして、自説の誤りなきことを指で保証すると、お角も
「そうそう、あの辺が洲崎に違いない、洲崎はいやなところだねえ」
と、若いのが指さした岬の突端あたりに、遠く眼を注いでいると、
「親方が命拾いをなさったというのは、あれでござんすか、いやに波の穏かな、そのくせ、舟や人をさらって、いいようにおもちゃにするという、ふざけた海はあの辺でござんすか」
「ほんとに、いやな海だよ、だけれどもねえ……いやな海には違いないけれどもねえ」
いやな海には違いないけれども、どうしたものか、さいぜんから、そのいやな海の方面に注いだ眼をいっこうはなさないで、
「いやな海は、いやな海だけれども、わたしにとっては、ずいぶん思い出がないでもないのさ」
「そうでござんしょうとも」
「ねえ、政どん」
「はい」
「お前、どう思ってるの」
「何をでございます」
「あの、ほら、東海道の三島の宿から
「ええ、よく存じておりますよ……きれいな子も多いが、君ちゃんは品が違いましたよ。ようござんしたね、人柄がようござんした、ほんとうに惜しいことを致しましたよ」
「わたしも、本当に惜しいことをしたと思っているのさ、ああなるくらいなら、別に考えようもあったものをね」
「全くでございます、好いが好いにはなりません、悪いが悪いにゃなりません」
「そうして、あの君ちゃんの殿様てのは、その後どうなったか、おまえ知ってる?」
「存じませんが、ありゃ馬鹿ですよ、馬鹿殿様の見本みたようなものでございますよ」
「何をいってるの」
「え」
お角の言葉に少し険があったので、若いのは急にしりごみをしていると、
「出放題をいうものじゃありません、馬鹿だか、エラ
「でも、親方……」
「女に迷ったってお前、それが何で馬鹿なもんか、迷えるくらい結構じゃないか、高い身分で、低い身分の女を可愛がって、それがどうして悪いの、思案の
政どんは、なにゆえに親方が急に不機嫌になったのだかわからない。
熱海へ
ここは雪に埋れんとする白骨の奥とも違い、
「そうでござんすかねえ」
「そうだとも、お前」
「やっぱり、あの殿様というのは、エライお方なんでございますか」
「エライともお前……お前なんぞに何がわかるものか」
「でも、世間の評判では、あんまりおりこうな方じゃないって、もっぱら、そう言っているようでござんすが……」
「世間の評判なんて、何が当てになるものか、世間が何と言おうとも、エライ方は、やっぱりエライんだから仕方がないさ」
「そうでござんすかねえ」
「そうだとも、お前」
若いのには、どうして、親方がこうも
まあまあ、三千石も取る、そうして前途有望で、ドコまで出世するかわからないと言われた人が、タカの知れた身分違いの女一人のために、名誉も、身上も、棒に振ってしまった、全く馬鹿殿様と言われても仕方があるまいではないか。それを、親方のお角が、何でこんなに身を入れて、弁護するのだかわからないが、うっかりその殿様の
「そうでしょうね、やっぱり、エライ人は、エライんでござんしょうよ」
「それからね、政どん」
「はい」
「わたしは、申し置いて来るのを忘れたが、あの絵の先生ね」
「ええ、田山白雲先生でございましょう」
「そうそう、あの先生に、一言おことわりをしておくのを忘れちまったから、あとからもしや間違いがなけりゃいいと気のついたことが、たった一つありますよ」
「それは何でございますか」
「もしや、がんりきの兄さんが、留守中にやって来て、例の調子で、先生に失礼なことをしやしないか、それが、あとで心配になり出して、ことわって来ればよかったと、いまさら気を
「なるほど、その辺もありましたねえ」
「お前、がんりきがあの通り気の早い男でしょう、絵の先生ときたら、お前、かなりの豪傑者なんだから、間違いがなけりゃいいがと心配するのも、無理のない考えだろう」
「そうでございますとも……ですけれどもね、絵の先生の方は、豪傑は豪傑でいらっしゃるけれど、人間が出来ておいでなさるから、まさか、がんりきの兄さんを相手に、大人げのないこともなさるまいと思います、御心配ほどのことはござんすまいよ」
「そりゃそうかも知れない」
「大丈夫でございますよ」
一けた間違えられた房総の半島がワキに廻って、当面の風景は、
どうも自分たちを呼びとめるような声だけれども、待ってみると誰も来ず、来ても全く当りさわりのない人間ですから、そのまま
「お気をつけなさいましよ、
それとも、自分たちに注意してくれたのだか、ほかの者に気をつけていったのかわからないうちに、その旅人は行き過ぎてしまいました。
道中に胡麻の蠅はつきものである。いちいち胡麻の蠅を怖れていては、道中はできない。またそれが一匹や二匹とまってみたからとて、驚くお角さんではありません。
今日はここで泊る。
夕飯を終って、
といって、仕事がない。ぶらぶらと夜の小田原宿の景色でも歩いて見ようか知ら――と考えているところへ、
「お客様、講釈をお聞きにいらっしゃいませんか――いい太夫さんがかかったそうです、席はついこの後ろでございますよ」
可愛らしい小女の女中が、突然にこういって案内をする。
「講釈?」
とお角さんが聞きとがめました。なるほど、ここは東海道筋の
お角は、そこで講釈を聞いてみようという気にはならなかったが、講釈の席へ入ってみたいという気にはなりました。
この女は、転んでもただは起きない女であります。たとえば往来を通りながらも、見どころのありそうな子守女を発見すると、その親許までつきとめてみたがる女であります。今夜も
講釈――と聞いて、講釈そのものには興味は催さなかったが、さて、この土地の席亭の模様はいかに、客種はいかに、講釈といううちにも一枚看板でやるのか、また色物か、
それは大看板を大看板として、
だから、ここでも、講釈を聞きに行かないかとすすめられて、打てば響くように、その商売心をそそのかされたものですから、
「行きましょう、行ってみましょう、案内をして下さい」
キリキリと帯をしめ直して、さて、考えたのは、若い衆を連れて行こうか、それとも一人で行こうか――ということであったが、若い衆は旅の疲れもあるから、ゆっくり寝かしておいてやれ、近いところだということだから、一人で行って見てやれ――という気になりました。
九
講釈場へ案内されて行って見ると、かなりの席で、かなりの入りがあります。
大看板には「南洋軒
前座はどうだったか知れないが、幸いにしてお角の臨席した時は、かなり時間もたっていた時だから、
「あれが南洋軒の
講釈の太夫さんもオカしいが、お角はいわゆる太夫さんの
席の
「天正十八年七月……北条の
お角はスラスラと聞いていたが、やっぱりこれは生え抜きの講釈師ではないと思いました。そうしてどこかで見たことのあるさむらいだと思いました。
この旅の講釈師が
お角がよそ目で見ると、この男は講釈を聞きに来たのではなく、講釈師の面を見に来たもののようであります。
それもただ見に来たのではなく、いやに皮肉に、そうかといって別に弥次を飛ばすでもなく、ニヤリニヤリと見ている様子が変です。
変なのは、そればかりでなく、この男がまた、百姓とも町人ともつかず、人品を見ると武士階級に属しているようなところもあるし、そうかといって両刀は帯びていないが、道中差は一本用意している。
そのうちに一席が済んで、つまりこの講釈師は、長講二席のうちの前講一席が済んで、暫く高座が空虚になった時分、変な男が、チラリと横を向いて、お角に話しかけて来ました、
「南洋軒力水なんて講釈師が江戸にありましたかねえ」
「聞きませんねえ」
お角は
「わたしも、あんまり聞きませんが、
「気取らないところがようござんすよ」
「そうです、あいつは
「あなたは、どちらから、いらっしゃいましたか」
「わっしですか、わっしは
「
「ええ、上方の方へ出かけて、帰り道なんでございますよ」
「講釈がお好きですか」
「嫌いでもありません、まあ、英雄豪傑の話や、忠臣義士の事柄を聞いていると、見て来たような嘘と思いながら、悪い気持はしませんですよ」
「あなたの御商売は何ですか」
これは随分ぶしつけな問い方でしたけれども、お角はこういって突込んでしまいました。つまりお角としては、大抵の人品は見当もつき、判断もつくのですけれど、この男はどうも判断のつき兼ねるところがあったと見え、そのもどかしさから、一息に、無遠慮に、突込んでみたものでしょう。そうすると、その男は笑いながら、
「何と見えますか。わかりますまい、さすがのお前さん方にも、わっしの見当はつきますまいね」
「つきませんね、おっしゃってみて下さい」
「言ってみましょうか」
「どうぞ」
「その以前に、あなたの名を言ってみましょうか――お前さんは、江戸の両国の女軽業の太夫元、お角さんていうんでしょう」
「おや」
「驚いちゃいけません、よく知っているんですよ、
「七兵衛さんから?」
「ええ、七兵衛につれられて行って、お前さんの小屋も見ているし、お
お角がすっかりけむにまかれてしまっている時に、第二席、長講の
御簾が上って、以前の南洋軒力水先生が再び現われて長講をつづけるかと思うと、そうではなく、みすぼらしい盲人が一人、三味線を抱えて、高座へ現われ、これから説教浄瑠璃の一段を語り聞かすとのことです。
そこで山崎譲は一笑して、帰ろうとしますから、お角もこれ以上、観察する必要もないと考えて、同じように席を立ちました。しかし一般のお客には、前の講釈よりも、この説教節がききものであると見えて、一人も座を立つものがありません。
お角は、山崎譲という旅人と連れ立って宿まで帰る途中、
「は、は、は、あれは
山崎譲がこう言ったので、どちらも
察するところ、例の南条力と五十嵐甲子男とは、甲州の天険をほぼ
しかし、そんなようなことは、どちらがどうあろうとも、お角にはあんまり興味を
宿の入口で山崎譲と別れたお角は、自分の座敷へ入って、寝しなに一ぷくやろうとして、そこで変なものを感じました。
「おや、そそっかしい女中さんだ、何を間違えてるんだろう」
見れば、自分の
お角はあきれて、せせら笑いながら、一ぷくのみ終って、静かに女中を呼びました。
「姉さん、間違えちゃいけないよ、こっちは
可愛らしい小女の女中は、そう言われて、いっこうのみ込めず、
「でも、お客様、さっき、あなた様のあのお若い衆さんとは別なお連れだという方が、ちょっとお見えになりまして、おそく帰るかも知れないから、こうしてお床をのべておくようにと、お指図をしておいでになりました」
「
「それでも、たしかに、こちらへお帰りになるからとおっしゃいました」
「いけない、いけない、戸惑いもいいかげんにしないと罰が当りますよ、かまわないから、片づけちまって頂戴……」
「それでも……」
「遠慮することはないじゃないの、一晩でもとめてもらった以上は、わたしというものがこのお座敷の御主人なんだから、誰にも遠慮はいらない、片づけて下さい」
「それでも、あれほど頼んでおいでになったのに……」
「くどいねえ、誰が頼んだか知らないが、
といってお角は、手をのべて蒲団の上の男枕をとるや、力任せに座敷の外へ
そこで、男物のいっさいがっさいをおっぽり出して、いささか溜飲を下げ、お角は床についたが、まだなんだか癪に残るようなものがあって、蒲団から首を出して煙草をのんでおりました。
はてな――この間違いは、間違いとすれば、ばかばかしい間違いだが、いたずらとすれば、かなり念の入ったいたずらだ。お角は
油断が出来ないぞ――それそれ、今日も七里の道中で、誰となく注意をしてくれたものがある。
胡麻の蠅という奴は、見込んだ相手が笠を捨てるまで離れない。こいつは通り一ぺんに腹を立てっぱなしではいられないぞ。お角だけに、気がついて、ほほえみ、急に室内を見廻してみたが、別に異状はありません。
ふふん、目先の
何だい、今日はいやに、小間物でおどかされる晩だ――お角は、その五分玉の銀の簪を、夜具の襟から引きぬいて、じっと
わかった、これですっかりお里が知れちゃった。がんりきだ、がんりきの百蔵だ、これは百のいたずらだよ。
そんなら、それでいいじゃないか。つまらない、ふざけた、子供じみたいたずらをして見せたものだ。ばかばかしい。お角が再び
胡麻の蠅というのは、つまり百の野郎だ。百の野郎が、熱海あたりから、くっついて来ているのだ。がんりきの百蔵ならば、何だって、こんな、しみったれたいたずらをするのだ。
お角は、がんりきの、
奴、何か人目が忙しいものだから、遠廻しに附いては来ているが、大びらでは立寄れないのだろう。明らさまには、それといって話もいいかけられないのだろう。つまりあいつの身の忙しいのも、今にはじまったことではないが、その忙しさも、世間晴れての忙しさでないことも、大抵はお察し申している。
それでさとれよがしに、こんないたずらをしての思わせぶりだ。
そうだとすれば、笑ってやりたいくらいのものだが、それにしても、やり方がしみったれていると、お角は、やはりあざ笑いを
お角としては、この頃中、とかく、がんりきが焼きもちを焼きたがるのに、うんざりしないでもありません。
思い出してみると、あんな男と一時腐れ合ったのは、お角さん一代の不覚だといわれないこともない。あの時、あんなに熱くなったのは、いま考えてみるとお恥かしい。あれは、一つはお絹という大の虫の好かない女と、意気張りのような具合になったから、それで、まあ、ああものぼせて甲州くんだりまで、追いかけてみたというような役廻りではあったが、冷めてみればばかばかしくって、お話にならないという感じがする。
それにあの時は、本職の方を少し休んで、閑散な身であったから、そこへ多少、魔がさしたのか知れないが、今は
がんりきの奴、その時分とは、こっちの歯ごたえが少し違うものだから、やきもきしている。
だが、あいつも、あいつだけに、意地の張った男だから、ことに、いつも色男一手専売の気取りで、女ひでりはないような
なるほど、それはその通りで、がんりきの野郎、女には飢えていない面をしていながら、やきもちを焼きたがるものだから、お角から、こう見くびられても仕方のない理由はある。
お角がことに笑止がっているのは、お角と、駒井甚三郎との間を、がんりきが、ひどく疑ぐっている。お角は海山千年の
秘密というものは、一つ疑えば、いくつも疑えるものだから、その辺から、がんりきがいい心持をしていないらしく、時々、両国の控え宅へおとずれて見える時も、どうも気がさして、なんだか、自分のほかに先客がありはしないかとさえ、気が置かれる――その神経が少し
こいつは色男じゃねえ――とばかばかしくもあったり、ホッと胸を撫で下ろしてみたりしたのは、ついこのお角の留守中のことだから、それはお角の知ろう由もないが、とにかく、がんりきが自分に対してやきもちを焼いているということが、お角をして、多少得意がらせていることは確かです。どうです、わたしの方が役者が一枚上でしょう――といったような優越感が、この女の負けず嫌いを満足させて、悪い心持にはさせていないようです。
この辺で止まっていればよかったのですが――お角も、女だけに、もう一歩進んだのがよくありません。つまり、こちらの強味に乗じて、先方の弱気をからかってやろうという気になったのです。どっちみち、こうなると――それは、そそっかしい女中の間違いだか、果して、がんりきのいたずらだか、どちらだか、まだしかと突きとめた次第ではないが、お角はもうそうに違いないときめてしまって、がんりきの奴、いつもの伝で、夜中時分に忍んで来て、いやがらせをやるにきまっている。もしかした差しさわりで、今晩来なければ明日、つまり江戸へ着くまでの間には必ず、何か皮肉な仕打ちで現われて来るに相違ない。
してみれば、それに対するの応戦計画として、こちらにも了見がなければならないと、意地張り出したのがよけいなことです。
お角は、その晩、どうしてやろうかと思いました。
向うの、いたずらの裏を行って、こっちがほかの男と枕を並べて見せて、忍んで来た奴の立場を失わせたら、痛快だろう――だが、差当って、その相手に選ぶべき役者がない。
ともにつれて来た若いのなんぞを使ってみたのでは、子供だましにもならない。
お角の、いたずら心が挑発されて、せっかくのことに、がんりきのために、思いきった濃厚な当てっぷりを見せてやろうと、むらむらしたが、どう考えてもこの場合、相手に選ぶべき役者がない。
そうこうしているうちに、踏み込まれでもした日には、台なしだ。こいつは一番――どうしてくれよう。この際、早急に、ふざけたいたずら者に
全く無事で、がんりきのがの字も聞えず、今日もいい天気で、障子の外に老梅の影が、かんかんとうつっている。
十
果して、お角の想像にたがわず、がんりきの百は、たしかに小田原の町へ乗込んでいて、お角がまだ床を離れない時分に、早くも
この男が、南条、五十嵐の手先となって、案内者ぶりをしているのは、今にはじまったことではないが、このごろでは、どうやら山崎譲の方とも妥協が出来て、ずいぶん、その方の御用もつとめているらしい。
当人は、のほほんで、両方のお役に立ち、その間に自慢の
何のつもりか、
「御用!」
当人にとっては、お約束のような掛声で、やにわに組みついて来たのを、そこは心得たとばかり、
御用の声が、二三人、
当人は心得きっているのだから、ここを逃げるのは、それこそ本当の朝飯前だ。
「御用!」
の声に
「こいつは、いけねえ」
敵に用意のあることを知ったがんりきは、ここで真剣になりました。
「ちぇッ、ドジを踏んじまった」
がんりきは、自分をたのむだけに、相当に敵をも知っている。たとえ行止りであろうとも、一方から追われる分にはなんでもないが、白昼、しかも城下町で、非常線を張って包まれた分には、たまるまいではないか。何だって、外郎なんぞを買いに出たんだろう。いよいよおれもヤキが廻ったかなと、歯がみをしたが、やはり同じように、御用の手先をスリ抜けて、真直ぐに走ると大手門の前へ出る。ますますいけない。引返そうとすればさいぜんのが追いかけて来る。ままよ――横っ飛びに飛んで、侍町の
夜ならば、身をくらます手段はいくらもあるのだが、こうなっては、どうも仕方がない。屋根へも上れず、井戸へも飛び込めない。突当り路地へでも追いつめられて、ギュウの音も立てず、名も無き敵に首を
よし、こうなった以上は、二三人はたたき斬っても本街道まで出てしまえ、天下の東海道筋へ出て、そこでつかまるなら、つかまっちまえ、人の垣根の下を、つくばって走るような
がんりきは、そんなふうに
ちょうど、その時分が、お角が起き上って
「さては!」
と思ったのであります。なんだか、それが必然的に、昨夜来の頭に上って来たところとうつり合って、その御用の
それで万一には、百がここへ逃げ込んで来たらどうしよう。その場合は、昨晩のとは性質が全く違うから、それは見殺しはできまい。いやな奴であろうとも、なかろうとも、ここはかくまってやらねばなるまいと、お角は早くも心構えをして、
「どうしたんだね、あの騒ぎは」
なにげなく例の女中さんにたずねてみると、それは、この小田原の
一方、がんりきの百は、しにもの狂いで小田原の町々、辻々を、かけめぐっているが、前に立ちふさがる者も、後ろから追う者も、どちらもその姿をありありと認めながら、どうしても簡単にはつかまらない。
百の駈足が、想像外にはやいのみならず、その身のこなしが、油のように
そこで、無人の境を行くようなあんばいで、唐人小路まで走って来た時分、この辺を突破されると、まもなく海辺へ出るのだが、海辺へ出られてしまっては事だ。
やはり、その時分のこと、例の講釈師南洋軒力水と、その弟子分になっている心水という二人が、江戸へ下るとてちょうど、この唐人小路へ来合わせたが、
「おやおや、がんりきがやって来たぜ」
「面白い、面白い、死物狂いでやって来た」
「奴、つかまるか知ら」
「なあに、あいつが、なまなかのことで、つかまるものか」
「でも、あぶないもんだ、一番、助け船を出してやろうか」
「よせよせ、
この講釈師は申すまでもなく、南条力と、五十嵐甲子男の二人であり、長いこと、がんりきの百を手先として使用していながら、その危急を見て、面白がって見殺しにしているのは、頼もしくないこと
そうして、その死物狂いの逃げっぷりを面白がって、足をとどめてながめているが、ながめられるがんりきの方は、たしかに冗談事ではなく、
その時分、唐人小路の辻番のところに立って、往来をながめていた山崎譲が、
「やって来たな、がんりきめ、丸くなってやって来やがった」
これも、面白がって、命がけで逃げて来るがんりきの行先を、縦からながめて、しきりに笑止がっていました。
絶体絶命のがんりきは、そんなどころではない。逃げるには逃げるが、せっかく、ここまで来て、海へ方角を取ることを忘れてしまったらしい。それとも、海への
たしかに血迷っている。いったん、逆戻りして北へ向って走ったのが、とある町角へ来ると、またしても南へ向きを変えて逆戻り、それがまた海岸方面へ出ると、
「あ、いけねえ――」
またしても、
山崎譲は、この駈足のどうどうめぐりを、面白がって辻番の前で見物していたが、
「どうでしょう、奴、逃げられましょうか、うまく逃げおおせられますかな」
小田原藩の足軽の一人が、
「結局は逃げられるだろう、あれだけ違うんだからな。奴、血迷っているから、抜け道がわからないんだ、うまく抜け道を見つけ出して、海岸へ走らせた日には、もうおしまいだ」
「逃がしちゃいけませんよ」
「逃がしちゃいかんよ」
「どうです、どちらもかなり疲れたようだが、なんとか方法はありませんか」
「どうも仕方がないね、鉄砲で撃ちとめるわけにもゆくまい、弓で射て取るがものもあるまい、やるだけやらせるさ」
「しかし、そう言っているうちに、逃がしてしまっちゃ詰りませんよ」
「逃がしちゃいかんよ」
「でも、足の
「左様、奴、いつもなら、とうにその抜け道を見つけてるんだが、今日は不意を食ったもんだから、いよいよ血迷ってやがる」
「あ、やりましたぜ、一太刀あびせられた奴がありましたよ、立ちふさがった奴が一人やられましたよ。ごらんなさい、あの通りくもの子を散らしたように逃げ出しました。こいつもおかしい、人が散って手薄になったのに、奴、またこっちへ舞戻って来ますぜ、何をしてるんだ。ああ、危のうござんすよ、血刀を
足軽が怖れをなして、タジタジとなるその六尺棒を、山崎がひったくって、
「がんりき、くたびれたろう」
「え、何が、何がどうしたんだ」
「がんりき、御苦労さまだ、その辺で一休みさせてやろうか」
「あ、譲先生ですか、人が悪い、第一お前さんが悪いんだ!」
山崎譲は四五間離れたところから棒を飛ばして、がんりきの百蔵を地上に打ち倒してしまいました。
打ち倒したがんりきの傍に山崎譲がよって来て、仰向けに倒れていたのを、
そうして全く動けないようにして、また比目魚を置き返すように表を返して、大道の真中へ、置きっ放し、
「誰も手をつけると承知しねえぞ」
こういって山崎譲は、がんりきから剥ぎ取った着物、持物、その懐中物、胴巻に至るまで、一切まとめて小脇にかいこみ、ふらりとその場を行ってしまいます。
その後、がんりきが仰向けにひっくり返されながら、弱い
「結局、弱い者いじめだなあ。南条先生、五十嵐先生、あんなところをあのままにして置いて、このがんりきだけに、窮命を仰せつけようなんて、弱い者いじめだなあ。だが仕方がねえよ、役者が違うんだからなあ。向うは天下のためだとか、国家のためだとか言って、後ろに大仕掛があってやるいたずらなんだろう、こちとらのは腕一本の、出たとこ勝負のちょっかいだから、やり損じた日にゃ、いつでもお笑い草だ、お笑い草はいいが、さらし物は気が
山崎譲につかまって、ああして惨酷な取扱いを受けている時は、観念の眼をつぶったらしく、一言もいわずにいたのが、この時分、情けない声を出して、
「どうなと勝手にしやがれ……がんりきのさらし物が見たけりゃ、皆さん、たんと見て行きな、代は見てのお戻りだ」
通りかかって、このさらし物を見るべく足を留めようとする連中を、辻番の足軽が、しきりに六尺棒で追い払うものだから、人だかりはないが、でも、往くさ来るさの人で、このさらし物に目を引かれないものはない。
「水を一ぱいおくんなさい、どうも、いいかげんかけ廻ったものだから、
イヤに哀れっぽい声を出して、がんりきの百蔵が所望する水一杯を、誰も相手になって、恵んでやろうとするものは無いらしい。がんりきは、口の中をしきりにつばでうるおしながら、
「ねえ、水を一杯……水を一杯飲ませてやっておくんなさい、御当番の旦那」
だが、御当番の旦那といわれた辻番の足軽は、最初から受附けず、やむなくがんりきは往来の者を見かけて、
「済みませんが、水がいけなければ御当所名物の梅干を一つ、梅干をたった一つだけ、心配していただきてえんでございます」
その無心をも誰も、相手にする者はない。
そこで、がんりきが、荒っぽい声を出して、
「やい、水だい、水を一杯欲しいんだい、一杯の水が飲みてえんだ、小田原というところには、人間に飲ませる水がねえのかい、いま、死んで行く罪人にも、
ちょうど、この時分、女軽業のお角は、ようやくのことに宿を立ち出でて、例の通り
「いやな声が聞えるじゃないか、耳のせいか知らないが、甲州の
と、
「見られたザマじゃない」
駕籠を出て来たお角は、がんりきの傍へ寄って来て、
「何という
と
呆れ返ったうちには、
「傍へ寄っちゃあいけない」
例の六尺棒が、お角の
「御免下さいまし、実は山崎譲先生から、お許しをいただいて参ったのでございます」
「ナニ、山崎譲さんから」
「この通りでございます、一切、みんなお返しをしていただいて参りました」
「なるほど」
六尺棒が
「なるほど」
再び、がんりきの傍へ寄って来て、その棒縛りの縄目を解きにかかったお角は、
「ほんとに
「済まねえ……」
「済むも、済まないも、わたしの知ったことじゃないよ」
「かまわねえから、ほっといてくれ」
「かまおうと、かまうまいと、お前の差図は受けない」
と言いながら、お角は、とうとうがんりきの縄目を解いてしまいました。
縄目を解かれても、この野郎は、もうかなり弱っているから、ちょっとは身動きもできないでいる。
「てんぼうの
といって、お角は、若い衆に手伝わせて、この野郎に、
「水、水を一ぺえ、振舞ってもらいてえんだが、水でいけなければ、梅干を一つ……」
「食い意地の張ってる野郎だよ」
といって、お角がムキになって、がんりきの
これは少し手荒いようです。なんぼなんでも女だてらに、この際男と名のつくものの横面を、衆人環視の中でピシャリとくらわせるのは、やり過ぎたようですが、またお角の身になってみると、かりにも自分の知らないではない野郎の端くれが、こんなところで、飛んでもない、業ざらしにあい、自分としても、恥も、外聞も忘れて、助けに来てやったのに、着物を着せてもらえば、いい気になって、水が飲みたいとか、梅干が食いたいとか、
この場合、飲むことや、食うことなんぞを、言い出すべきはずのものではないと思ったからでしょう。
しかし、がんりきの身になってみると、着物を着るよりも、帯をしめるよりも、眼に見える醜態を隠してもらうよりも、
決して、お角の腹を立てるように、抱かればおぶさるというような附けあがりから、水がほしいの、梅干が食いたいのと言ったわけではないにきまっている。
そうしている間にお角は、がんりきを、
十一
暮れ行く海をながめて立つ清澄の茂太郎は、即興の歌をうたいました。
古への人に我ありと
近江の国の……
ここまでは、はからず口をついて出たでたらめでありますが、近江の国の……と口走ったところから、近江の国の……
近江の国の
ささ波の
大津の宮に
天 の下
知ろしめしけむ
すめろぎの
神のみことの
大宮はここと聞けども
大殿はここといへども
春草の……
とささ波の
大津の宮に
知ろしめしけむ
すめろぎの
神のみことの
大宮はここと聞けども
大殿はここといへども
春草の……
「あっ!」
この豪邁なる感傷の歌を声高く歌って、暮れ行く海の
「ああ、もう日が暮れちゃった」
足を潮に洗われて、はじめて自分の空想も消えるし、感興の歌も止まるし、日の暮れたことがわかりました。
そこで、この少年は、またも
なお、こうして走ることは走るが、その目的がわからないのも、以前と同じことで、ともかくも、あの
砂浜を走れるだけ走って、かなり走り疲れたと思う時分に踏みとどまり、ようよう暗くなってゆく海の波がしらの白いのを、ながめて、こう言いました、
「弁信さん、弁信さん、さっき、お前が、しきりにあたしを呼ぶものだから、あたしはこうして飛び出して来たんだぜ、あの赤い空の上に、不意にお前の姿が現われたじゃないの……だから、こうして、ここまで走って来ちゃったのよ。ここまで走ってくると、お前はもういないし、日もくれちまったじゃないの。これからあたしは、どうすればいいの」
耳を傾けても、波の音ばかりで、返事をする声が聞えないのに、
「さあ、どうしたらいいの、ここは海で、これより先は行けないじゃないの、これから、どっちへ行けば、あたしはお前に逢われるの?」
茂太郎の耳には、やはり弁信の呼びかける声が聞えて、その返事を待つもののようです。
海の表に向って、耳をすましていたが、やはり人間の声はどこにも聞えない。
「お
茂太郎は、クルリと向き直って、
だが、その、今晩のねぐらはさほど心配するがものはない。この少年は、山に寝て
食物のことも、また、さのみ他で心配するほどのこともないのです。竜安石のように海につかっている巌角の傍へ寄って、身をかがめると、片手には例の通り、般若の面を、しっかりと抱いたままで、右の手を、竜安石の下の
それを
片腕には
この子供は、地の美しさよりも、海の美しさよりも、天上の星を見ることの美感に酔うことを知っているものですから、蛸を食べながら、夕陽の美観に、失われた幻想を、空から仰いで取返しながら、下を見ないで歩いて行くもののようであります。
こうなってみると、もう南北の区別を知らない、東西の差別もわからない。星を見れば、それはおのずから、わかりそうなものだが、今は方角の観念のために星を見ているのではないから。
「あっ!」
と再び、
「あっ!」
逃げようとする子供の足よりも、追いかけた波の方が早かったものですから、腰から下を、ズブリとぬらしてしまいました。ただ足を洗い、着物をぬらしただけならいいが、よろめく足もとを、引き際の潮がさらったものですから、よろよろよろよろとして、潮に伴われて、なお深い方へ持って行かれてしまったのはぜひもありません。
「あっ!」
この際、片手には生の
茂太郎の立ち姿が、もはや水平の上に見えなくなったのも無理はありません。
見えなくなったのみならず、いつまで経っても浮いて来ないのであります。
ここで、この子供は、完全に海に呑まれてしまったことがわかります。
だが、これも、さほど心配するがものはありますまい。今夜は別に暴風というほどでもない、むしろ滅多にはないほどに、海は
そうして、山神奇童の茂太郎は、山に入って悪獣毒蛇を友とすることができるように、海に入っても
そのうちに、どこぞへ浮いて来るに相違ないから――どなたも心配をしないで下さい。
十二
茂太郎が陥没して、まだ浮き上らないところの地点の、
「どっこいしょ」
と言い、重い荷物を背中からドシンと、その芝原の上に
そのドシンと地響をして下へ卸した荷物を、取り直して地上へ形よく置き
形でありますではない、たしかに、石塔なのです。あらかじめ置いてあったところの敷石もあれば、水盤、花立のような形も、ささやかながらその前に整うている。
そこへ、今しも、背負い
その前で、ホッと息をついた労働女。
この辺で労働女といえば、それは
泳ぎが達者で、海の中で仕事をするのが本職だとはいえ、
ただ気候が温暖なため、もう一つは、婦人の労働が盛んで肉体が肥るのと、もう一つは、飽くまで魚肉を食うから、それで肉体の燐分が豊富になり、色慾が昂騰するのだというものがある。それは比較的そうかも知れないが、それを以て、房州の女全部の貞操に当てはめるのはいわれのないことです。
この労働女もまた、そういった種類の御多分に
清澄の茂太郎にとって、不祥といえばこれ以上の不祥はありません。
と思って女の身のまわりをよく注意すると、不祥はこれ一つに限ったことはない、砂丘の断続したその後ろのところを見ると、それよりはいくらか小さい分のこと、あちらにもこちらにも同じような石塔、五輪のような形を成したのや、無縫の形を成したのまでが、散在していて、そのまわりには、満足であったり、折れたり、裂けたりした
けれども、見たところ、それは一定の墓地というものでもないらしい。形ばかりでも
つまり、
今も、
一基の石塔を押据えてしまってから、海の女は、その石塔の前で火を
散乱した漂木を集めて火を焚きつけた上に、折れて散った卒塔婆まで
ところが火が盛んになって、これならばという時分になると、その女は、火をそのままに残して置いて、自分は海岸へ出てしまいました。
海岸の砂浜のところへ出た上は、よく注意して見さえすれば、たった今、清澄の茂太郎が踏み荒した小さな足あとが見えなければならないはずですが、そんなことにはいっこう気がつかず、海の女は、海岸へ出ると、帯を解き、着物を解いて、見るまに素裸の形となってしまいました。
それは
或いはまた、御亭主殿を失った精力の有り余る
ここに限ったことではないが、海の女のあくらつなところへ、もし、気の抜けた、物ほしそうな男でも通りかかってごらんなさい、それこそ命があぶない。
そういうわけでもあるまいが、かなり長い時間を、思う存分に泳ぎ廻った
そこで、両手を合わせて
「おや!」
と波の間をながめました。どうも人の声がしたようです。それは陸上でしたのではなく、海の中で、そうでなければ海の上の、あまり遠くないところで、人の声がしたようですから、髪の毛を後ろで持ったままで、立ちすくみました。
「おばさあーん」
波が行って戻るリズムにつれて、その声が二度、海の上から聞えました。二度まで聞えたのだから、まさに本物です。しかも、二度目のは、前よりも、ズット近い、自分の足もとから二間とは
「おや!」
さしもの、真黒な肉塊の海女がふるえ上って、後ろでつかんでいた髪の毛の手を放し、
陸へ走せあがると、置き据えた石塔も、焚き残した
海女が立っていた近くの海上には、世にも怖るべき海獣が一つ、漂うている。頭上に二つの角を持って、さながら鬼竜のようなのが、波にわだかまってこちらに向いている。
それが、茂太郎の額にのせられながら泳いでいる
十三
清澄の茂太郎は、海へ
ちょうど、額へかぶせて頭を隠しているものですから、その形で泳いでいると、どうしても悪竜が一つ、海の中を渡って来るとしか見えません。
そこで、浜に泳ぎついたというよりは、波に任せて、そっと持って来て置いてもらった茂太郎は、極めて
海のおばさんの丸くなって逃げて行く後ろ影を、
般若の面を頭へのせたままで、茂太郎は焚火のところへ寄って来ました。
「
しかし、卒塔婆のほかには、多くの燃料がなかったものですから、子供心にも勿体ないと知りつつ、その卒塔婆の折れを増しくべて、火の勢いを盛んにしてしまいました。
それからの仕事は着物をぬいでしぼって、それを卒塔婆の火であぶることです。
般若の面は相変らず、頭の上へのせて着物の一切を脱いでいるから、これも
そこで、着物を乾かしながら、自分の
しかるに、そのおばさんは、何だって、ああして丸くなって逃げて行っちまったんだろう。人が助けを呼んだも同然なんだから、むしろ進んで助けに来てくれてもよかりそうなものを、いち早く逃げ出した気が知れない――と、茂太郎は、自分のいただく般若の面の威力を知らないものですから、海女の挙動を不審なりとしました。
竹木をいいかげんに組み合わせて、物干台をつくり、それに着物をあんばいして乾かしている間に、茂太郎はふと、その
茂太郎は、随意に、随所のものを利用して
その時に、田山白雲が、その笛の音を聞いて茂太郎のために、こういう詩を吟じたことがあります。
遼東の小児、蘆管を採る
一曲
海樹
管声
白狼河北、
玄兎城南、みな
今は、その時とは違って、ただひとり、ほしいままに蘆管を吹き鳴らしていると、ゾッと寒気を催します。何しろ、裸ではあるし、海の風がうら淋しく吹いてくるのですから、蘆管の音そのものまで寒くなるのも仕方がありません。
幸いにして、その寒気を感じた時分には、着物はおおかた乾いていたものですから、茂太郎は
まだ興が中断せず、着物を着て再び薪を加えてから、またも蘆管を取って吹き鳴らそうと試みた時、かの無縁仏の多くの石塔の間に、動いて来るものを認めました。
小さな
「来い、来い」
と小手招きすると、その獣は、ニャオと鳴いてあちらへ行ってしまいます。
「なんだ、猫か」
さしもの茂太郎が、暫く
その有様は、猫こそ軽蔑すべき動物だ! とさげすみの色に見送る
事実、茂太郎は、猛獣毒蛇にも及ぼす魅力を信じているのですから、いかなる
鶏は餌をその友に
猫の可愛ゆいのは子供の間だけのものだ。その成猫した横着な、取りすました、そのくせ
そこへ行くと鼠の方がどのくらい可愛ゆいか知れやしない。気の毒そうに、おどおどして人間の物を荒しに来るあのいじらしさ。あの眼つきをごらん、鼠のいたずらを歯がみをして憎がるものでも、あの眼を見た日には、誰も可愛がらずにはいられまい。
しかし図々しい奴はどこまでも図々しく、箸にも、棒にも、かからない奴は、どうも仕方がないもので、さしもの茂太郎の心の中で、これほどの憎しみと、軽蔑を受けながら、いったん、姿を隠したと思った猫が、ぬけぬけと茂太郎の前へ姿をあらわして来て、例の柔媚な、むずむずとした形で、主人の鼻息をうかがいながら、火の傍へ近より、とうとう、そこに、いい心持でうずくまってしまいました。
見れば猫のうちでも、最もたちの悪い
「ははあ、それでは猫、お前にも、わたしの芸術がわかるかい」
茂太郎はその図々しさに
猫は眼をつぶって、それを聞いている。彼の芸術に心酔するようなふりを見せて、その実、たんまりと、焚火の
だが、すべてのものは、そう不信を頭において、見くびりを鼻の先へぶらさげてかかった日にはたまらない、せっかくの
その証拠には、さしも
では、おどり出すかな。この分で行くと、この度し難い動物も、他の度し
この面白い首振りのところで、茂太郎が、ふっと蘆管の
笛をやめた茂太郎は、耳をすまして
十四
「茂ちゃん、もういいからお帰りよ」
これより先、遠見の番所をさまよい出した岡本兵部の娘。
暗いところの砂浜を西に向って、茂太郎が走り出した通りの道を、さまよい歩きながら、
「お帰りってば」
この娘は、茂太郎が
陸も、海も、暗く、層々と押寄せて来る波がしらだけの白いのが見えます。
両袖を胸に合わせて、すっきりした体を両足に
「ホ、ホ、ホ、ホ……」
と、何か淋しそうな思出し笑いをして、
「おかしいじゃありませんか、
そう言って振返って、遠見の番所にかがやく火の光を暫くながめながら、足はやはり茂太郎の行った方向に、休まず歩みつづけられている。
「いやだねえ……お妾だなんて。何も関係はありゃしないのよ。ですけれど、有ったところでどうなの……有っちゃ悪いの?」
思出し笑いに、
「何といっても、あの方は
兵部の娘は、たったいま、出て来た家の、変った家庭味の間にいる人たちのことを回想しながら、さっくさっくと足は砂場を走りながら、
「茂ちゃん――」
前途に向って、かなり大きな声を出して叫んでみましたが、相変らず何の返事もありません。
「ほんとに、あの子は、こんなに世話を焼かせる子じゃないはずなのに」
こう言って心配しているうちに、急に
「もしかして、あの子はまた人にさらわれて、人気者にされるんじゃないか知ら、そうだと本当にかわいそうだ」
こちらへ来て対面の後、話のついでには茂太郎は、いかに人気者という商売が、いやな商売だかということを、兵部の娘に語って聞かせたものです。後ろにいる奴が薄っぺらで、高慢で、雷同で、
しかし、安心したことには、薄明りの海の光で見ると、砂浜に人の足あとがあります。その形によって見れば、まごう方なき子供の足あとであります。
砂に足あとを認めたものですから、兵部の娘は、その足あとをたよりに、例の爪先走りで、砂浜を一散に走りました。
あるところは、波に洗われて、その足あとが消えているのを、ようやく探し当てて、ともかくも、その足あとの存する限り、走りつづけてみるの勇気を得たようです。
しかし、行けども、行けども、十里の
その人影の、こっちに向いて走って来るのを認めたのも、いくらも経たない後のことでありましたが、不幸にして、その人影は、どう見直しても、自分の尋ね求める少年の姿ではありません。
だが、自分の走って行くと反対に、向うはこっちを向いて一生懸命に走って来るのが、ちょうど、鏡面に向って相うつしているようなもので、かくしてようやく相近づいた時は、その一方も女であることを知りました。
女は女だが、自分とはまるきり違った体格と風俗の女で、それはこの辺によく見るところの
裸で走って来るらしいことを認め得た時に、そう感づきました。
海岸を海女が走って来る分には、別に怪しいこともないが、いよいよ近づくにつれて、その
いよいよ、その証拠には、この海女は一糸もつけない
「いけないよ、いけないよ、
海女は、兵部の娘の前に立ちふさがるようにして、小手を振りました。
「どうして」
「どうしてたって、お前様……」
海女は年の頃三十よりは若いでしょう。
「お前様、これより先へ行ってはいけませんよ、わたしと一緒に引返しなさい、早く、早く」
「どうしてなの……」
「
「海竜……」
「ああ、海竜があの
「海竜って、何なの」
「海の中にいる魔物さ、海の中にすんでいるおろちのことだよ」
「だって、何も見えないじゃないの」
「海ん中にいるから見えないけれど、底をくぐってどこへ出るか知れやしない、そこんとこらあたりへ角を出すかも知れないから、早くお逃げなさい、一緒に」
「何かの間違いじゃないの……」
「間違いどころか、たしかに見たんだよ、こんな角を二本生やした恐ろしい海竜」
海女は二度まで、指を額の上にあてがって、その形をして見せ、しきりに自分の恐怖を、相手方に移そうとつとめるらしいが、兵部の娘にはいっこう
「それよりか、お前さん、この浜で
「知らねえ、そんな子供を見るどころの話か」
海竜の恐怖で唇をふるわせるだけで、こうしていることさえが不安でたまらないらしく、兵部の娘にもその恐怖を移して、警戒を試みようとするのを、兵部の娘は落着き払って、
「あら、ここに足あとがあるわ」
すり抜けて先へすすみました。
十五
それとは知らず、駒井甚三郎と田山白雲とは、食堂の
マドロス氏はいかにと見れば、室の一隅の横椅子に背をもたせかけて、いびきを立て、
駒井と、田山との会話が、しきりにはずむといううちにも、ほとんど駒井の
駒井の語るところは、海に関する物語でありました。海に関する物語につれて、当然、船と、魚とのことに進んでいるようです。
「そういうわけで、北緯五十度というところが日本の国境なんですが、それは寒い、冬になると氷と雪とが全く道をうずめて、人馬の往来はなり難いのです。しかし、この地球の上でです、一般にその通り、北緯五十度あたりは寒くて、ほとんど人間が住めないかというにそうではなく、
「なるほど」
「その点において、日本は恵まれています、海に恵まれている点では、世界に、日本ほどの国はなかろう、と言ってもよいでしょう。今いう、その暖流と、寒流とが……国が充分に細長くて、四面がみな海ですから……そこに、二つの潮流がこう入り交っているから、魚類の豊富なことは無類です。たとえば
「なるほど」
田山はしきりに大きくうなずきました。自分の得意の問題には、泡を飛ばして気焔を吐くが、自分の至らざる知識については、極めて神妙に人の説を聞いているのがこの男の性質です。そうして、特に海の問題について、駒井の知識をたたくと、それが田山には、無尽蔵の知識のように思われて、単に海の知識を聞くだけでも、相当の年月をここに費して足りないとさえ思われるのです。
田山は全く駒井の知識に敬服している。人物思想の
田山はおそらく徹夜して、その駒井の持てる知識の傾注に、飽くるということを知らないでしょう。
駒井もまた、この男に語るのは、知識を捨てるのだとは思えない。自分自身すらも、研究室にあると同じほどの熱心をもって、それからそれと語り出でて、このごろは食後、そのままが直ちに研究の結果の発表になってしまったり、講壇の講義そのままになってしまったりすることが、珍しくはありません。
金椎は気を
ひとり、例のウスノロ氏――改めマドロス氏は、以前の通りそうごうをくずして横椅子の上に、たあいなくふんぞり返って、いびきをかいているばかりです。
「陸の土地は限りあるものです、海だって限りがないとはいえないが、陸に比べると無尽蔵といってよい。将来、日本でも人間が殖えて、土地が狭くなる、食物が乏しくなる、そういった時に、陸だけに眼を限らないで、海から食物を上げる、これは大切なことです。単に食物を上げるだけではいけない、それを殖やすこと……近年までは、この北の方の川、北上川だの、利根だの、
異った方面から、駒井が食糧問題に説き進むのを、田山も充分に
「その通り、それに違いありません。つまり海を耕すことですな、陸地を耕して穀物を得るように、海を開墾して魚介をあげる、なるほど、これはまだ日本人が充分に着眼していない問題のようです……一番絵筆をなげうって、漁業家になろうか知ら」
「やって御覧なさい、陸を耕すも、海を耕すも、同じことですよ。たとえばです、今われわれが食べたあのジャガタラ
「なるほど、お説の通りです。なにしろ、日本は周囲がみな海ですからね、魚類において恵まれているのは当然で、それを利用することを忘れては、天地の化育にそむくというものでしょう。ところで、その日本にすむ魚は、何種類ありましたっけね」
「おおよそ二千種、そうして、その半ば以上は食べられます」
「二千種類、非常なものですね、我々の粉本の中に納められているものは……何種あったか、ちょっと忘れたが、九牛の一毛だ」
その時、夜の外の窓口に、あわただしい人声があって、
「番所の先生、先生――大変でございます、
「海竜!」
「はい、海竜が出ました、
窓の外は、けんけんごうごうとして、
駒井甚三郎も、田山白雲も、そのあまりな仰々しさに、立って窓を開いて見ると、漁師ども十数名、中に裸体で着物をかかえた海女を一人とりかこみ、いずれも恐怖と、
「どうしたのだ」
「海竜が出ましたよ、海竜が」
「海竜とは何だ」
「角を二本生やした海竜が、おっかない
「いったい、海竜というのは何だい」
駒井が、あまりの仰々しさに、漁師どもに問い返すと、
「海竜に逢っちゃたまりませんや、御用心なさるこってすよ、いつどこへ出て来るか知れやしません、今夜は寝られませんよ、夜っぴて寝ずの番です。明朝になったら、先生、退治しておくんなさいまし、あの
海竜とは何物だ、ということには返答しないで、ただその海竜の恐るべきことだけを説いている。
そこで、駒井は考えました。この連中が海竜といったのは、鯨のことでもありはしないか。何かの間違いで鯨がこの浦へ流れついたのでも見て、そうして海竜、海竜とさわいでいるのかも知れない。そこで駒井は、再び念を押してみました。
「君たちが海竜というのは、鯨のことでもあるのかい」
「いいえ、どう致しまして、鯨ならば殿様、逃げるどころじゃござんせん、鯨ならばいいお客様ですよ――鯨なら浦が総出で、とっつかまえてしまいます、海竜に逢っちゃかないません……」
海の最大の生物よりも、恐るべき海竜というものの襲来が、どうしても駒井にはのみこめないでいると、
「どうか殿様、御用心なさいまし、当分は、どなたも、外へお出しにならねえのがようございますよ、そのうちなんとかなりましょう、ほんとうにお気をつけなすっておくんなさいまし」
彼等は
「海竜というやつは何ですか」
「それがわからないのだ。角があると言いましたね、鯨ではない。
駒井も首をひねってしまいました。そこで白雲も、
「しかし、あの海を畳同様に心得ている奴等が、ああやってオゾケをふるうのだから、全く
駒井がいう――
「船なら船で、あの連中にも理解があるだろう、海竜はわからない。鮫の一種の
駒井甚三郎は、漁師らのいわゆる「海竜」なるものを、まじめに、つまり科学的に考証してみようと苦心しているが、田山白雲はさのみは追究せずに、
「疑心暗鬼でしょう、幽霊の正体見たりなんとかで、つまり、何か彼等が見あやまって、それを
「しかし……」
と駒井は、相変らずまじめに考えているのは、よしそのことが暗鬼であるにしても、偶像であるにしても、その暗鬼を映し出した偶像を、浮び上らせた本体というものに、その出来事とは全く離れた水産上の想像を打ちすてておくわけにゆかなかったからです。何となれば、いかに疑心といえども、狼狽といえども、
海竜として、かれらが怖るべきものを見たとすれば、よし全然間違いであったとしても、多少形体において、それに
「実際、この辺の海には竜というものがいるのかも知れん、馬琴の八犬伝のはじめの方に、素敵な竜の講釈が出ている、あれによると、竜というものにも、かなりの種類があることを教えられる――」
「有史以前にはねえ……」
八犬伝の竜説は一向、駒井の念頭にはないと見えて、ほかの方に話材を持って行き、
「有史以前には、竜のようなものがあったかも知れない――この間、支那の書物で『恐竜』という文字を見たが、あれは支那本来の文字ではないらしい。事実、この人類以前の世界には、竜に似た百尺程度の大きな動物が地上にのたうち廻っていたように、西洋の本には書いてあるのだが、そういう時代の想像が、人間の頭のどこかに残っていて、そうして、竜という不可思議な動物をこしらえ上げたのかも知れない。人間の想像し得るかぎりのものには、大抵、事実上の根拠があるのだから」
「といって、人間の存在しなかった時分の存在を、どうして人間の頭で想像がつきます、生れぬ先の父ぞ恋しき、というわけでもなかろうに」
「いや、人間は存在しなくとも、人間の
「そうしてみると、その前世界とか、有史以前とかいう時に生きていた不可思議な動物というのが、今日、生きていないのはどうしたのです」
「それは種が切れたのだな」
「種が……」
「今日、想像だけに上って、実際に見ることのできぬものは、すでに、その種族が絶滅してしまったのだ」
「ははあ、種切れになったのですか。してみると今日、われわれのように、人間の形をとって生きている生物も、次の世界には、種切れになってしまうと見なければならん」
「左様、この地球――この地上が、地上として今日のように固まるまでには、幾多の生物が現われて
駒井甚三郎が竜の疑惑から、
「茂チャン帰リマセン、ミドリサンモドコカヘ行ッテシマイマシタ」
十六
清澄の茂太郎が、ふと
神のことごと
つがの木の
いやつぎつぎに
天 の下
知ろし召ししを
空にみつ
大和 を置きて
青丹 よし
奈良山 越えて
いかさまに
思ほしめせか
天離 る
鄙 にはあれど
石走 る……
ここではつがの木の
いやつぎつぎに
知ろし召ししを
空にみつ
いかさまに
思ほしめせか
これは、お雪ちゃんからの伝授であろうと思われます。今まで、いつどこで、茂太郎が万葉集を習ったということを聞きませんから、月見寺にいる時にこそ、お雪ちゃんの口ずさみを聞きなれて、聞きよう、聞きまねに、口をついてほとばしるものでありましょう。
「茂ちゃん、茂ちゃん」
不意にその
「お嬢さんかエ」
「あい、お前、そこで何をしていたの」
「笛を吹いていましたよ」
「誰にことわって、こんなところへ来てしまったの」
「つい、あるきたくなったもんだから」
「帰る気はないの?」
「だって、着物が乾かないんですもの」
「どうして、着物を濡らしたの」
「海へ、落ちたから」
「海へ落ちた? そうして、
「知らない」
「海竜が出たって、今、逃げて行った人がありますよ」
「あたしは知らないのよ」
「みんな心配するといけないからわたしと一緒にお帰り」
「お嬢さん、なんだか、あたいは、どこへも帰りたくなくなった」
「どうして」
「でも、なんだか、淋しくってたまらないもの」
「淋しければ、一層、お前、大勢の中へ帰ればいいじゃないか」
「それでも……弁信さんがいないもの」
「茂ちゃん、お前はよく弁信さん、弁信さん、て言うけれど、そんなに弁信さんていう人がいい人なの」
「いい人というわけじゃないけれど、さぞ、あたしを尋ねていることだろうと思うと、あたしも、あの人に逢いたくってたまらないのよ」
「駒井の殿様もいらっしゃるし、白雲先生もおいでになるし、
「どうかして、ここへ、弁信さんを呼んで来ることはできないか知ら」
「ところさえわかれば、できないことはないでしょう」
「それがわからないのです。さっきは、富士山の後ろの方から
「富士山の後ろって、お前……そんなお前、広いことを言っても、わかりゃしないじゃないの」
「ああ、弁信さんに羽が生えて、この海を渡って、飛んで来てくれるといいなあ」
「弁信さんて、そんなにいい人なの、憎らしい、弁信坊主――」
といって兵部の娘は、海を
「お嬢さん、千鳥の笛を吹いてみましょうか、千鳥の笛をね」
茂太郎は、兵部の娘のひがみをよそにして、
「まず
千鳥を吹くというから、「しおの山」でも吹くのかと思うと、そうではなく、単調な、物悲しい、尻上りになって内へ引込む連音を吹いて、
「次は
これもほぼ同じような、単調な連音。
「今度は
これは、以前のよりは、ズッと音が高くて強い、けれども、やはり特別の節調があるというわけではなく、誰が聞いてもヒューエヒューエと続けさまに鳴るだけのものです。
音はそれだけのものですが、不思議なことには、この笛が鳴りはじめてから、海上が少しずつ物騒がしくなってきました。前の大雀というのを吹き終った頃に、墓石の上あたりを低く、いくつもの小鳥が群がって来ました。
中雀を吹き出してから、それが一層多くなって、ほとほと、茂太郎と、兵部の娘の身辺にまで、まつわるかのように見えましたが、黄足というのを吹いた時分には、あるものは茂太郎の肩の上まで来てとまろうとしました。
「茂ちゃん、もう、およし、ホラ、こんなに鳥が集まって来たわ」
「みんな千鳥なのよ」
ここに於て知る、つまり、千鳥の笛といったのは、風流千鳥の曲というようなものではなく、千鳥の
「折角、呼び集めて、何かやらなくちゃかわいそうだわ」
しかし、ここには何も彼等に与うべきものがない。
「峰島の爺さんが言うには、千鳥は、あれで三十幾通りかあるんだって。その三十幾通りあるのが、みんな啼く音が違っていると言いますが、あたしには、そのうちの半分しか吹けやしない。習えば吹けるでしょうけれど、習おうとは思わないの。峰島の爺さんは、その三十幾通りをみんな吹きわけるには吹きわけるけれど、あれは罪なのよ」
「罪とは?」
「だって、あの爺さんは、千鳥の笛を吹いて、千鳥を呼び寄せて、それをみんな網でとってしまうんですからね」
「そんなに千鳥をつかまえて、どうするの」
「食べてしまうんでしょう、自分で食べるだけじゃなく、売りに出すのでしょう」
「千鳥の肉なんて、食べられるか知ら」
「食べられますとも。爺さんの話では、
「そうか知ら。千鳥の肉を食べると丈夫になるなんて、はじめて聞いた」
「でも、鳩や、
兵部の娘と、茂太郎が、浜辺へ向って歩き出すと、千鳥は、その前後左右を落花飛葉のように飛びめぐって送ります。
十七
駒井甚三郎と、田山白雲とは、
しかし、駒井は「種」ということには相当の見識は持っているらしい。今までの会話では、田山の方がむしろ現実的で、駒井が有史以前の動物にまで想像を
ただ惜しいところで、話の腰を折られてしまいました。
そうかといって、リンネよりキウエーにいたる種の不変の説を、この時代の駒井が、どれほど理解していたかは疑問です。いわんや、金椎によって、ようやくこのごろキリスト教の眼をあけられた駒井が、生物進化論にまで飛躍しているとは、全く想像し難いことであります。ダーウィンが「種の起源」の初版を出したのは、ここに駒井がこうしている数年前のことではありましたけれど、いかに新知識でも、当時の日本人としては、それを受入れるにはあまりに早過ぎます。しかし、早過ぎるからといって、当時、出来ていた「種の起源」の新説が、何かの機会で、たとえば、鉄砲の包紙の一片か何かにはさまって来て、偶然に、駒井の眼に触れないとも限りますまい。
しかし、この場の事実は、如上の進化論の途中に、突変説が起りました。
話の進化に突変をまき起したのがすなわち金椎であります。それをまき起させた「種」は、清澄の茂太郎と、兵部の娘とであること勿論です。
二人の者が
「あの連中ときては、
と田山白雲が、
「怪我はあるまいけれども、放っても置けまい」
と駒井も、多少の不安を感じないわけにはゆかないらしい。ただいまの海竜といい、この辺の海の
駒井は壁にかけたマントを取って、田山白雲の肩に打ちかけました。
白雲は、それを
田山白雲が、和服の上にマントで、中には脇差を一本差して、無雑作に
かくて、この二人もまた夜の海岸を歩み出したのは、前の二人とは違い、半ば散歩のような気持に見えましたが、これでも、たしかに相当の憂心を、二人の即興者の身の上にかけていることには違いありません。
行き行きて、竜燈の松のところに来ると、田山白雲が、ふと歩みをとどめて、耳をすまし、
「ああ、大丈夫です――
駒井甚三郎もまた、歩みをとどめて、
「蘆管とは何ですか」
「お聞きなさい、
「なるほど――」
耳を傾けて、海表を渡り
「最初は千鳥かと思いました」
「遠くなり近くなるみの浜千鳥、
「なるほど――」
「あれは遼東九月の歌です」
「遼東九月の歌とは……」
「かりに拙者が名をつけて吹かせてみたものです。唐の
「ははあ」
「あの子供はあれで一種の革命家ですね、音を出すと、おのずから節調をなすところが不可思議です。あの子供の歌を聞いていると、でたらめが
「なるほど――」
「まあ、今度、ひとつある機会に、それとなく、あの子供のでたらめの歌を聞いていてごらんなさい、そうでなければ、管笛を
「音律のことは、それがしには、よくわからないのですが……」
といって駒井は、やはりその蘆管というものには、耳をすますことを忘れないで、
「その蘆管というのは、ただの笛ですか」
「
「
「それは違いましょう、笳というのは、ヒチリキの異名だそうですが、胡笳というのは、いかなる笛かよく知りませんが、
と田山白雲が吟声に落ちて行くところは、御当人が茂太郎を笑いながら、御当人自身も、茂太郎にかぶれたところがあるようにも思われる。それを駒井が、どちらにも注意を払いながら、
「あなたは詩吟が上手ですね」
「上手といわれては恐縮しますが、口癖のようなもので、やっぱりでたらめです、でたらめとは言いながら、茂太郎に比べると、節調はまずいが、思想と、感情と、文字とを崩さないところだけは
「ひとつ、あなたの詩吟をお聞かせ下さい、ここで……幸い、その胡笳の詩を最後までおうたい下さい」
「やってみましょうか」
そこで駒井がこころもち先に立ち、白雲が少しおくれて歩きながら、御所望の詩吟にとりかかろうとして、
「では、まず、
「お待ちなさい、淡窓流というのは何です」
「ははあ、それは詩吟の一つの流儀です。御承知でしょう、九州の広瀬淡窓によって起された調子なのです」
「なるほど」
「唐音のことは暫くここに論ぜず、朗詠のことも暫く置き、ちかごろでは、この淡窓流と、それから、もう一つはそれと相対して山陽流というのが、書生の間に行われます」
「そうですか」
「その間に、肥後に起って面白い一つの吟じ方がありますが、まあ近ごろ流行の吟声としては、淡窓流と、山陽流と、二つでしょう。どちらも特徴があって、さながら、淡窓と、山陽との、性格を現わしているようです。淡窓を
と前置をして、田山白雲は朗々たる
君聞かずや胡笳 の声最も悲しきを
紫髯緑眼 の胡人吹く
これを吹いて一曲なほ未だ終らざるに
愁殺す楼蘭征戍 の児
涼秋八月蕭関 の道
北風吹き断つ天山の草
崑崙山 の南、月斜めならんと欲す
胡人月に向うて胡笳を吹く
胡歌の怨 みまさに君を送らんとす
泰山遥かに望む隴山 の雲
辺城夜々愁夢多し
月に向うて胡笳誰か喜び聞かん
「なるほど――」これを吹いて一曲なほ未だ終らざるに
愁殺す
涼秋八月
北風吹き断つ天山の草
胡人月に向うて胡笳を吹く
胡歌の
泰山遥かに望む
辺城夜々愁夢多し
月に向うて胡笳誰か喜び聞かん
それを聞いた駒井は、多少の感動を
「温雅にして沈痛、というよりも、沈痛にして温雅と、後先をかえて言った方がいいようです――」
「淡窓は、これを吟ずる時に、独流の
といって田山白雲は、以前のとは全然、調子をかえた吟じ方で、
文政の元 、十一月
われ筑水を下らんとして舟筏 をやとふ
水流箭 の如く万雷ほゆ……
田山白雲が、ようやく筑水の詩をうたいはじめた途端に、向うの方で、われ筑水を下らんとして
水流
どんちゃ、どちどち
どんちんかん
みょうちゃがろくすん
とうらい、みょうらい
きうす、きうす
さんでん、しんでん
こんにゃか、ぶうくぶっく
は、きくらい、きくらい
きうす……
これはもとより何の意味だかわからないが、清澄の茂太郎が近づいて来たことがわかります。どんちんかん
みょうちゃがろくすん
とうらい、みょうらい
きうす、きうす
さんでん、しんでん
こんにゃか、ぶうくぶっく
は、きくらい、きくらい
きうす……
白雲の詩吟が、これで、すっかり打ちこわされてしまいました。
留守にあっては、この時分になって、ようやくマドロス氏も、多年の眠りからさめました。
「モッシュウ、モッシュウ」
と意味不分明なる呼び名をしてみましたが、誰も来るものがありません。
かなり時も
「モッシュウ、モッシュウ」
と、変テコな呼び名をしました。
外が
そこで、再び、すべての者がこの一堂に会してお茶を飲み、そうしておのおの寝室を分って眠りについたのは、いくらもたたない後のことであります。
駒井甚三郎は、例の寝台の上に身を投げかけると、何かしら今晩はヒドク疲れたように思いました。そこで、暫く眠りもやらずグッタリと休息しているうちに、駒井はこのごろ中、自分のこの
変った人間ばかり集まって来たようではあるが、結局、人間というものは憎めないものだ――というような淡い感情に、かなり長いあいだ漂わされていたが、やがて、不意に起き上って寝台から飛び下りたのは、海竜が現われたという警報が聞えたわけでもなく、また、例の兵部の娘が、窓の外からしきりに侵入を
駒井は、急に寝台から飛び下りて書架のところまで行くと、辞書と覚しい部厚な洋書を一冊抜き取って、寝台の傍の燭台まで持って来て、それを開きはじめました。
「海竜――スネーク――ドラゴン」
と
一冊――二冊――三冊ばかり、その部厚の洋書を抱えこんでは燈火の下まで持って来たが、三冊目のあるところのページを翻す途端に、バッタリと下に落ちたものがありました。
なにげなく、その落ちたのを取り上げて見ると、駒井甚三郎の
「ちぇッ」
危なくその物を床板の上に落そうとして、自分ながらその軽率を悔ゆるかのように、台の上へ静かに置いたのは、それは一個の婦人を現わした一枚の写真であります。
その写真は、そこへさし置いて、またも辞書を繰って、その数カ所を読んでみましたが、相当の当りがついたものか、三冊の辞書は、以前のところへ元通りに納めてしまったのに、取り出した写真のみは、依然として
ここで、この際、こんな写真を見せられようとは思わなかったのでしょう。有ると知ったら、見ない方がよかったのでしょう。でも、不意に現われて、不意に見せられてしまった以上は仕方がない。
これぞ、かつて、自分の最愛の妻であった人の
十八
神尾主膳は、
これが、閑居のうちに、神尾主膳が善を
朝の気分のいい時を選んで、会心の法帖を摸するの快味を味わう瞬間だけは、神尾主膳にも本当な清純な興味に、我を忘るる殊勝な色が
今も、専心にそれをやりながら、ふと筆を休めて、半ば開いて置いた窓から、庭の方を見ました。
竹林の
ところが――一朝にして、このせっかくの主膳の、珍しく気持のよい暢やかな気分を、根本から打消してしまったものがあります。
そこで、主膳はむらむらとして、一種の不快千万な気持に襲われると共に、今までの、かりそめの清純な感情が塗りつぶされてみると、当然あるべき神尾主膳そのものの感じが、露骨に現わされてしまったのは、ぜひのないことでしょう。
何が、それほど、せっかくの神尾主膳を不快なものにしてしまったか。
庭を隔てての廊下を見ると、お絹という女が寝くたれ髪のだらしのない風をして、しきりに
今時分――日はカンカンと照っているのに、自分でさえが、こうして、早く、いくつもの法帖を楽しんでいるのに、かの
朝寝ということは、当然夜ふかしというものを前提とする。
それは芸妓であり、女郎である人々は別とする――また芸妓であり、女郎でないまでも、社会に存する正当な仕事で、夜業をすべき必要のあるものは別とする。
普通の社会において、普通の家庭において、朝寝、夜更かしというものは男性においてさえも決して自慢にはならない。ましてや女性において、おそらく女性の
さすがの神尾主膳でさえが、このカンカン照っているお天道様の前に、ぬけぬけと、恥かしい色も更になく、起きぬけの、だらしのない姿をさらしている女の醜態に、目を
といって、主膳には断じて、それを
ああ、かの女の朝寝は、当然、昨夜の夜更かしを連想する。
昨晩もかの女は外出した。そうして帰りはいつであったか、主膳すらも知らない。
主膳も最初のうち、火の車の時にこそ、あの女の才覚で、どうやらこの所帯を張っていたのだから、その時は、あの女を大切にもしたし、自然、その外出がおくれたりする時には、いらいらもしたが、今は七兵衛のおかげで、懐ろは温かくなっているし、あの女の不良性はもう慣れっこになっているのだから、このごろは、その出入りをさまで気にも留めていなかったが――今朝という今朝は、不思議なほどの醜辱を感じました。
神尾主膳は、
主膳といえども、この頃は、手持無沙汰に堪えられないものがあるのであります。「黄金多からざれば、交わり深からず」といった頼もしい連中は、多少の黄金を振りまいている間は集まって来るが、その水の手が切れれば、雲散霧消することは今にはじめず、外へ遊びに出るにはこの額の傷が承知しないし、よし額の傷が承知しても、どこへ遊びに行こうという興味も起らないのは、すでに世の遊びなるものを仕尽しているからであります。
その結果、彼の頼もしい友人たちと
自分は御覧の通りの
さあ、今日あたりは例の足立のなまぐさ坊主でも、碁打ちに来ないかな――と気のついた時分、空中から、
何だ――何の騒ぎだ。それは
凧だな――と思って主膳が、なお窓の上から軒先高くながめると、その外に、空中には紅紫
字凧、絵凧、扇凧、奴凧、トンビ凧の数を尽し、或るものは唸りを立てて勇躍飛動する、或るものはクルクル水を汲んでたて直す
多分、この無邪気にして、爽快な、空中の彩色を見て、自分というものの少年時代を想い浮べたのでしょう。
凧の糸目をつけるはなかなかコツのあるもので、子供でも、器用な奴と、無器用な奴のすることには、天と地ほどの相違がある。つまり、器用の奴のやるのは、天上に舞いのぼるが、無器用の糸目をつけた凧は、
そうだなあ、もう、こんなに凧が
その時、どこをどうしたものか、三人ばかりの真黒い男の子が、
しかし、なお、黙って、そのせん様を見ていると、いずれもはなったらしであります。この辺の町家か、百姓のせがれと覚しく、あんまり身分ありそうな子供でもないが、それでも無断で、人の屋敷へ入り込んで来た遠慮心から、済まないような目つきと、足どりで、こちらへ進んで来るのを主膳は認めたけれども、子供は気がつかないで、
「有った、有った、あら、あの桜の木の下の木蓮の枝にひっかかってやがら」
「ああ、有った、有った」
そこで彼等は、遠慮心も、好奇心も打忘れて、バラバラと例の木蓮の枝のところまで
「あっ!」
と言って舌をまいて踏みとどまったが、二人は気がつかないものだから、
「コラッ」
と強く言いました。
この声で二人の子供が木から落ち重なって、主膳の眼の前に、へたへたに手をついてしまいまして、
「御免なさい、御免なさい」
あるじの何者であるかは知らないが、自分たちに、無断侵入の引け目のあることは、充分に自覚しているし、それを叱った人の声こそ大きくないが、姿を見れば立派なお武家と見えるのに、その怖ろしい顔――
そこで彼等三人の子供は、即座にお手討にでもなってしまうかの如く恐怖して、へたへたにかしこまって、申し合わせたように頭を下げてしまいました。
しかし、このとき神尾は、また特別にこの子供らに対して、怒りを移すべき事情を持っていなかったのですから、そう烈しい言葉で叱ったわけではありません。
「お前たち、だまって人の屋敷へ入り込んではいけないじゃないか」
「御免なさい」
「どこから入ってきた」
「あそこから入って来ました」
「あんなところに、お前たちの入れるようなところは無いはずだ」
「三ちゃんちから
「梯子をかけて、人の屋敷へ入ったって? お前たち、今からそんなことを覚えると、いまに大泥棒になってしまうぞ」
主膳は真顔で言いましたが、七兵衛でも聞いていた日には、さだめてくすぐったいことでしょう。
「御免なさい」
「人の屋敷へ入る時には、一応ことわって、許しを受けてからでなけりゃいかんぞ」
「もう、これきりしませんから、御免なさいまし」
「よし、そうしてお前たち、むやみにそうひっぱったって、
「御免下さい、もうしませんから」
「よし、わしが取ってやる」
主膳は、立って、縁へ出で、庭下駄をはいて下り立ち、上手に木を
「さあ、取れた。お前たち、糸をその辺のいいところで切れ」
「おじさん、有難う」
子供らは、おじぎもそこそこ、その凧を持って、丸くなって、逃げるように引上げて行く後ろ姿を、神尾主膳は飽かずに見送っておりました。
十九
主膳が、これからひとつ、子供を相手にして遊んでやろうという気になったのは、この時にはじまるのであります。
これは、主膳にとって善心のゆかりであるか、また一つの変った悪業の種となるかはわかりません。彼はこの機会にはしなくも、おさな子の
ただ、この際、主膳がこれからひとつ、子供を遊び相手にしてやろうとの心を起したのは、
しかし、かりそめに主膳が、こんな心を起してみている際に、お絹という女は、お絹という女らしい退屈まぎれの方法を考えているのでありました。
今日は、またひとつ、お芝居にでも出かけてみようか知ら――
これが、この時のお絹の思案であります。芝居見物もいいが、いつも同じ女の子を相手にして見に行くのではつまらない、誰か相当の連れはないかしら。
わかりがよくって、話の面白い連れがあれば、同じ芝居でも、いっそう面白く見られるのだが――そんなものは有りはしない。
誰か当りをつけて、押しかけて行って、ひっぱり出してやろうか知ら。
そういう
こう、同じ家で、同じように倦怠と、退屈のやり場に困っている者が重なれば、相見たがいで妥協が出来そうなものだが、どちらもそこへ気がついて、自分から先に妥協の手をのべようとする者はないらしい。
「まあ、仕方がない、お絹の奴のところへ、当座の退屈しのぎにでも出かけようかなあ、鯨汁のようなもので、度々では鼻につくが。それにあいつ、話の数をたんと持たないから、飽きが来た日には、退屈の上塗りをするようなものだが、仕方がない時は仕方がない――せめて、あいつが碁でもやれるといいんだがなあ。碁でもやる気になれば、まだ頼もしいんだが」
そこで主膳は、満腹の上に、また何かを食べさせられている、やむなく
これは
「やあ」
と言いました。
「御免下さいまし」
と縁に手をついて挨拶したその人は、
七兵衛のことだから、天から降ったか、地から湧いたか、屋根裏から落ちて来たか、井戸の底から安達藤三をきめこんで来たか、それがわからないところが、七兵衛の七兵衛たるゆえんかも知れない。
主膳も、その辺は、とうに心得ているから、凧のひっかかったほどに、興味も感ずることなく、
「まあ、上れ」
自分も再び腰を
例によって
「ねえ、神尾の殿様、近いうちに、お江戸の町が飛んでもないことになりそうでございますよ」
「どんなに」
「つまり、お江戸の町という町が、焼き払われてしまうなんていうことにならないものでもなかろうと考えられますよ」
「ばかな」
「本当でございますよ」
「江戸中を焼き払うなんて大きな火事は、近頃あんまりはやらねえ――」
と主膳がうそぶいて、取合わない。
「あんまりはやらないこともござんすまい、わしらが覚えても……」
七兵衛は、煙草の吸殻をはたいて、てのひらに
「わしらが覚えてでも随分……まあ、ほぼ天保から、天保元年の暮でしたか、小伝馬町から大伝馬町、あの辺がすっかり焼けて、
「もうよろしい。七兵衛、お前は
「火事は好きだもんですから、駈け出して見る気になるんでございます。好きというのも変ですが、ついあの威勢がいいもんでございますからなあ」
「まさか、お前が、田舎から飛び出して来て、火をつけて歩いたわけじゃあるまい」
「
「それに七兵衛、お前は、年代記に載っている火事を心得ているのみならず、これから焼けようという火事まで知っているのか」
「へへへへ……そこでございますよ。その通り、七兵衛に限って、これから起ろうとする火事まで、ちゃあんと心得ているのみならず、その火元まで突留めて来てあるんでございます」
「ははあ、まだ焼けない火事の火元まで、お前は知っているんだな」
「よく存じております」
「そりゃあ、どこだい。知っているなら人助けのために、江戸中へ先触れをして歩いたらどんなものだ」
「おっしゃる通り江戸中へ、その先触れをして歩くつもりでございますが、その封切に、こうして殿様のところへ上りました」
七兵衛が、どこまでも
「そうして、その火元というのはどこなのだ」
「ええ、それは芝の三田の四国町の薩摩屋敷なんでございます」
「ははあ……」
「あすこが、どうしても、近いうちに起る江戸中焼払いの火元になりそうなんでございます」
「ふーん。そうして、その
「それも大抵、わかっています」
「ははあ、犯罪の無い先に、犯人の目星がついたんだから、奇妙だ。ところでその犯人は七兵衛、お前じゃあるまいな、まさかお前が薩摩屋敷から始めて、江戸中へ火をつけて歩こうというんじゃあるまいな」
「どう致しまして、わっしどもには、そんなエライ仕事ができません。できたところで、お江戸の町に対して、それほどの恨みがございませんもの」
「して、その
「それは西郷吉之助というお方でございますよ」
「西郷……どこの奴だ」
「薩州藩の豪傑でございます、それが、あなた、みんな糸をひいては江戸の市中を今のように騒がせ、追っては江戸の市中を焼き払おうと
「
神尾主膳にもまた、多少は、時勢に憤るの気概があるのかも知れません。
「あんまり、西郷西郷って、人が騒ぐもんですから、いったい、西郷って、どんな人間だかひとつ見ておいてやろうって、こう思いましたもんですから、一日あとをつけてみましたんでございます」
「お前が、その西郷という男のあとをつけてみたのかい」
「左様でございます、ただ、薩摩の人が西郷西郷っていうばかりじゃございません。ドコへ行っても、誰に聞いても、西郷はエライ、西郷は大きい、西郷は英雄豪傑だと、西郷の
「どんな奴だ」
「そりゃ、わっしどもが見ても、たしかに凡人じゃございません」
「そうか、ふかし立てのいも位にゃ食えそうな奴かい」
と神尾が悪口を言いました。これは、あんまり出来のいい、品のいい悪口ではありませんでしたけれど、神尾もこのごろは、少し品が落ちているとはいいながら、天下の
「ともかく、人物が大きうございますよ、その大きさでは、まずまず、ちょっと当代には類がございますまいよ」
と七兵衛が、相変らずの調子でつづけてゆくと、神尾は白々しく、
「人物がそんなに大きけりゃ、相撲取にしちゃどうだ」
と言ったのは、多少、皮肉のつもりでしょう。それが七兵衛には皮肉に響かないで、
「全く、相撲にもあのくらいのは、たんとありません、まず横綱の陣幕と比べて、
「えー」
神尾主膳が眼を円くしました。
「何だ、お前、器量と、かっぷくとを、ごっちゃにしちゃいけない」
神尾が眼をまるくして言うと、七兵衛がさあらぬ
「器量のところも大きいかも知れませんが、体格のところも人並じゃございません、いまいった通り、横綱の陣幕とおっつかっつでございましょう、そうして、眼がすてきに大きくって、
「そうか――」
「滅多に口は
「うむ、お前ならどこまでもついて行けらあ、薩摩だって、琉球だって」
「ところが……」
と七兵衛は、
「ところが、あなた、向うの足が早ければかえって、こちらも楽なんでございますが、向うの方が人並
「そんないいずうたいをしていながら、意気地のねえ奴だ」
と神尾が、あざ笑うように言いました。
「何しろ、西郷どんはそのずうたいでございましょう、
「なんだ、意気地が
と神尾が、またあざ笑いました。神尾のはわざとあざ笑うわけではなく、本来、薩摩の陪臣としての西郷などを、眼中に置いていないのですから、先天的に、鼻の先であしらい得るように生れついているのです。
「そういうわけじゃございません、侍が馬に乗れないとあっては恥でございますが、西郷どんのは、馬術不鍛錬で馬に乗れないのではなく……つまり、あの人のキンタマが大き過ぎて、それで馬には乗れないんだそうでございます」
「なに、キンタマが大き過ぎて馬に乗れないのか。西郷という奴、そんなにキンタマのでかい奴かなあ」
「は、は、は……」
と七兵衛が笑いました。西郷隆盛もここでキンタマの棚おろしをされようとは思わないでしょう。
そうして神尾主膳が、西郷のキンタマに、ザマあ見やがれ、という表情をして痛快がったのが、この場合、七兵衛をして、失笑させてしまったものと見えます。それを笑ってしまってから七兵衛が、
「ところで、あんまり、のろくさい旅ですから、何か一つ、いたずらをして上げようと思って、すきをねらってみるにはみましたが、すきがありそうで、その実、少しもすきがないのには驚きましたよ」
「ふん、お前の眼で見てすきが無いんじゃ、やっぱりすきが無いんだろう、悪いことをする奴には、油断もすきもありゃしない」
七兵衛はそれを打消すように、
「なあに、その西郷どんというのは、あけっぱなしのすきだらけでしたが、そばに附いているのに物すごいのがいました、うっかり手出しをしようものなら、あいつに斬られてしまいます――それは西郷のお
中村半次郎は後の
そんなようなわけで、七兵衛もいいかげんに見切りをつけて、長追いをしなかったものと見えます。
しかし、前後の行きがかりから、薩摩屋敷なるものの、危険の巣であって、必ずや、そこが火元になって、江戸中を焼き払うの時があるべきことを迷信し、その火つけの総元締が、西郷吉之助であることも充分に想定し、自然、江戸が薩摩を焼かなければ、薩摩が江戸を焼く、といったような結論をつけて、七兵衛なりに、主膳に語り聞かせますと、主膳も相当にうなずいて、
「薩摩と、長州は、本来、江戸には苦手なんだからな。関ヶ原以来の
そんなようなことを言っているうちに、
「まあ、御免下さいまし」
七兵衛は、こんな話をしておいて、急に
そこで主膳の前から消えてしまった七兵衛は、つまり御免下さいましの意味は、単に主膳の前だけの
七兵衛が立去ったあとで、神尾主膳は、なんだか平生には
国の亡ぶる
万一、徳川の
おれのような、やくざが旗本から続出したればこそ、それでこうも徳川の屋台骨が傾いたのだ。
徳川の敵はおれたちじゃないか――なあに、天下は廻り持ちだから、三百年も一手に握っていれば、大抵にして他に譲った方がいいのだ。未来
国が亡ぶるということは、悲惨中の悲惨なことだ。なにも徳川が亡びたとて、日本の国が亡びるという意味にはならないが、それでも、大坂落城の時の
ちぇッ、おれも、こうばかりはしていられないんじゃないか――神尾主膳が、いつに似気なくこんな心持になりかけた時、離れ座敷で糸の音がしました。珍しくお絹が、三味線いじりをはじめたものらしい。
二十
しかし、一方お絹の方では、主膳が身にこたえるほどに感じてはいず、これが年中行事じゃない、日課のおきまりとして、
主膳が
このごろは始終
容色の衰えないことは、全くその
切髪は、とうの昔に廃業して、ちかごろでは丸髷専門と言いつべく、丸髷が至極お気に入りの様子で、その結いぶりがヒドク気に入った時は、その場で声を立てて主膳を呼ぶことがあります。主膳を呼んで、さも誇らしげに、髷形をゆすって見せて、その賞讃を得ることを、子供らしく喜ぶことなどもあるのであります。
だが、しかし、このごろは、あれにも、これにも、
お化粧が済んだら、今日はお花を
それとても、花にはかなりの自信はあるが、三味線は、人に聞かせるほどの
三芝居もどんなものだか、
で、こんな時にこそ、お客が押しかけて来てくれればいいと思いました。そのお客といっても、ここは隠れ家同様なところだから、滅多な人を引込むわけにもゆかず、来る奴は大抵きまったようなものだから、予想し得るお客のうちでは、この倦怠気分を救い得るに足る奴は、一人もないことになっている。
ツマらない――お絹は投げ出したように、張合いのない生活をさげすんでみたが、
「女軽業のお角って、あのバラガキめ、このごろはどうしていやがるか」
といったような、反抗気分に襲われました。いったい、この女と、お角とは、前世どうしたものか、ほとんど先天的の
「あのがんりきというやつ、あんな奴さえこのごろは音も
とつぶやきました。
そこへ、
「こんちは、まっぴら御免下さいまし」
障子の外から
来やがった、来やがった、来るに事を欠いて、おっちょこちょいの金公が来やがった。
その声で、お絹はうんざりしてしまったが、まあ、いい、これも時にとっての、おもちゃだ――という気分で、
「金公かえ、おはいり」
と言いました。
「はい、その金公でございます」
お許しが出たと見て、抜からぬ顔で障子を引開けて、ぬっと突き出した金公を見ると、どこで
「近ごろは、とんと御無沙汰のみつかまつりまして、何ともはや」
といって、人さし指と中指を
「これは、憎らしうございます、朝っぱらから、忍び駒のしんねこなんぞは、憎らしいことの限りでございます、ここは人里離れし根岸の里、御遠慮なくお発し下さいまし、金公の野郎にも一つ、おたしなみの程を
ぬらりくらりと侵入して来て、置きはなしてあった三味線と、お絹の顔をかたみがわりに見渡して、しゃべり出しているから、お絹が、
「駄目よ、三味線なんて、わたしのがらじゃないけれど、あんまり退屈するものだから、退屈
「ど、どう致しまして、たんのうは恐れ入りやす、全く恐れ入りやす」
金公がイヤに恐縮するのをお絹が見て、からかってやる気になり、わざと三味線を押しつけて、
「何でもいいから一つ、やってごらん」
「いえ、どう致しまして、全く……」
「そんなことを言わないで」
「どう致しまして」
「さあ、おやり」
「いけやせん、全く」
「何でそんなに遠慮をするの、今日こそはお前の腕を見て上げるから、一つおやり」
「どう致しまして」
「やらないの?」
「いえ、その……」
「やらないの?」
「いえ、その……」
「やらないの、それとも、やれないの?」
「ど、どう致しまして」
「やらないのなら、やらないとお言い、やれないのなら、やれないとはっきり言ってごらん」
「全く以て、その……」
「ふだんの広言に似合わないじゃないか、お前の日頃の口ぶりでは、道具さえあれば何でも御所望次第、というようなことを言いながら、こうなって後ろを見せたがるのがオカしいじゃないか、今日はこの通り、ちゃんと道具が整っているのだから、
「弱りましたな」
お絹は、こいつが口先ばかり、万芸ことごとく
「素直に御所望に従わないと、今日限りお出入りを差しとめるよ」
「恐れ入りやした、以来、広言は固く
全く白旗を掲げてしまったのを見て、お絹も追究はせず、
「そうだろうと思った。では、これで許して上げるから今後をお慎み――そうして、もっとこっちへ寄って、何か面白い世間話を聞かせておくれな」
そこで金助が、自分が近ごろ見聞いたところの世間話を、薄っぺらな唇でぺらぺらしゃべり出し、嘘八百のおべんちゃらを並べて、とどのつまり、
「金公、お前、そうして締りなくしゃべり歩いて、それでも少しはいろは出来るのかい」
とお絹が高飛車に言いました。
「へ、へ、へ、へ、そう見くびったものでもございません、これでも男のハシクレでございますからな」
金助は、しゃあしゃあとして
「
「あきれちまうねえ――そういえばこの羽織なんぞも、そんなに悪くない羽織だが、どこから恵まれたの」
といって、お絹がヤケにぐんぐんと金助の着ていたゾロリとした羽織を引張ってみました。
「どうか、おてやわらかに願いたいもんで。
そこでお絹が、
「ほんとに世間には物好きもあったもんだね、惜しいよ、こんな野郎に、こんな羽織をかぶせて置くなんぞは」
といって、
「滅相な、もし羽織に怪我でもあらせるようなことになりましては、あの人に済みません」
「ばかにしているよ、あの人とはいったい誰のことなの、当節、金公にこの羽織を恵むなんて茶人も、世間にはあるものか知らん」
「ところが、その茶人が、あなた様のお知合いの中にあるんでございますから、争われません」
「
「ところが大有りなんですから、有難いじゃございませんか」
「ふ、ふ、ふ、お前には
「ところが現在ごらんの通り、その
「この野郎」
と言って、ピシャリと金公のそりたての頭をなぐりました。本来、なぐるつもりは無かったのでしょうが、ハズミがよかったと見えて、ちょっと振り上げた手が、程よく金公の突き出した頭と
「こいつは恐れ入りやした、これは驚き入りやした、暴力は恐れ入ります」
金助が、けたたましい声を上げて、
「もう一つ
手を振り上げたところが、金公、存外騒がず、
「結構でございますな、もう一つ
といって、いけずうずうしく金公が、またもその頭をお絹の前に突き出しました。
お絹も、いよいよ
「望みなら、いくらでも、ひっぱたいて上げるよ」
かの女は、金公の頭を続けさまにぴしゃぴしゃとはたきました。
「痛くございません、あの人にたたかれるよりは、決して痛くございません」
いい気になって、いくつでもたたかせているから、お絹も張合い抜けがして、こんな安っぽい頭を、いくつたたいてもたたきばえがしないと見切り、手荒く突き放してしまったものですから、ハズミを食って、三尺ばかりケシ飛んでしまいました。
「これは驚きました、これは恐れ入りやす」
ケシ飛ばされたのをたて直して、いざりよって来たところを、お絹が火鉢の炭を
「さあ、お前のようなおっちょこちょいに、この羽織をくれた人は誰だか、言っておしまい、それとも、どこからちょろまかしたか、それを白状おし」
「これは驚きました」
「言わないとこうだよ」
お絹は、そのゾロリとした羽織の紬口をひっぱったその上へ、火のかたまりをあてがったから、金の野郎驚くまいことか、
「白状しますから御免下さい」
「さあ、言っておしまい」
「白状致します、白状は致しますが、それをお聞きになって、あなた様がお気を悪くなさるといけません」
「
「では申し上げちまいますが、それは、あの実は、両国の女軽業の親方のお角さんから拝領の品なんでございます」
「え!」
「そうらごらんなさい、あなた様、お気を悪くなさるんじゃございませんか」
「知らないよ」
「だから、最初から申し上げないこっちゃございません」
「ばかばかしいにも程のあったものさ、このおっちょこちょいに、こんな羽織を恵むなんて――ほんとうに、見世物師でもなけりゃ出来ない芸当だ」
「それにはね、それで、
「曰くなんぞは聞きたくないよ」
「まあ、そうおっしゃらずにお聞き下さいましな、
「何にしたって、こんな羽織は、この野郎には過ぎ物だよ」
「そう、おっしゃられては二の句がつげませんが、実はごしんさま、なぐられ賃ですよ、なぐられ賃に、お角さんからこの羽織をいただいちまったんでございますよ」
「よく
「しかも、その殴られっぷりが、あなた様のなんぞとは違って、ずいぶん手厳しいものでございましたからね、一時は、息の根が止まるかと思いましたよ、命からがら、両国橋まで逃げのびて、そこでやっと、息をついて命拾いをしたような始末でございます」
「ふーん」
「それから、二三日前に伺いますてえと……」
「まあ、それほどの目に逢いながら、またずうずうしく出かけたのかい」
「なあに、さすがの金公も、暫くは敷居が高うございましたが、あの親方が、熱海から
そこでお絹の顔の色の変ったことが、この野郎にはわからない。
話を聞いているうちにお絹の顔色が、みるみる不快なものになって行くのはあたりまえのことです。
それに頓着あってか、無くてか、金助は、立てつづけに、女軽業の親方のお角なるものの、気前の
「全く恐れ入ったものでゲス、あの気前でなければ、ああして一座を背負って立つことはできません、もとの
「馬鹿野郎」
さすがのお絹も受けきれなくなって、今度は、思いきり力を入れてひっぱたいてしまいました。
これは、以前の続けざまにたたいたのよりは、ズッと痛かったと見えて、
「あ!」
といって、頭をおさえながら、しかめっ
「帰っておしまい」
頭を押えて、しかめっ面をしているところを前からトンと突いたものですから、もろくも、再び後ろへひっくり返ったものです。
「けがらわしいから、お帰り、こっちだって腕ずくなら、
以前の時は、おもちゃであったが、こうなっては、お絹が真剣におこり出したようなものです。真剣におこらしては金公の、もくろみが
この手で暗に女軽業の親方の気前のよいところ、器量のあるところを持ち上げて、遠火であぶっておけば、こっちも女の意地でも負けない気になって、
いったい、お角の前でお絹をほめることと、お絹の前でお角をほめることとは、どっちにころんでもこういう結果になることを、金助としても心得ていそうなものを、おっちょこちょいというものは、これだから仕方がない。
「悪気で申し上げたんじゃございません、どうぞお気を直していただきたいもんで」
「けがらわしいよ」
お絹はよほど、
「こいつは堪らない、これこそ真に驚きました」
金公は、天下の一大事とばかりに、その火を払い落しにかかると、因果なことにはそれが膝の上へ落ちたものだから、みるみる膝の上が焦げ出して、
「
と叫びを立てました。しかし、お絹はよくよく腹に
「おいたずらが過ぎます、いくら金公にしましても、これはあんまりでございます、もうこの羽織は着て行かれません、この羽織を両国へでも着て行ってごろうじませ、それこそ焼き殺されてしまいます、ああ、どちらへ廻っても絶体絶命でございます、おゆるし下さい、この通りでございます」
金公は両手を合わせて、お絹を拝んだけれども、お絹はいっかな聞かず、その火を金助のふところへ投げ込んでしまったから、金助が飛び上ったところへ、あまりの騒がしさに、障子をあけて、
「いったい、何事が始まったのです」
と現われたのは七兵衛です。
七兵衛が現われたために九死の境を逃れた金公は、血相を変えてこの席を飛び出して、それでも今度は間違いなく、自分の
ややあって、神尾主膳は安達のところへ碁を打ちに行こうとして、ふと湯殿の側を通りかかると、そこで思いがけない人の話し声を聞きました。思いがけないといっても、全然、頭にない人の声ではなく、あり過ぎるほどある人の話し声を、意外なところで聞いたものですから、それでかえって足を留めないわけにはゆかなかったのです。
というのは、その湯殿の中で、遠慮なく話し合っているその声は、お絹と、七兵衛の二人であったからです。お絹と、七兵衛と、話をする分にはなんでもないことで、いつでも無遠慮に話し合っていることだが、今朝はこれが湯殿の中だけに妙であります。
そこで立聞きをするつもりではないが、主膳が足を留めないわけにはゆきません。
しかし、二人は湯殿の中で、
だが、平常の話を、平常の通りにするならば、なにも湯殿を選ぶ必要はないではないか。この屋敷には有り過ぎるほど室が幾間もあるので、七兵衛の座敷として、ほとんど
「ねえ、七兵衛さん、あの子を、もう一度つれて来て下さい、お前が連れて来る分には、あの子だっていやとは言うまい」
これはお絹の声。
「そうでございますねえ、来いといえば来るかも知れませんが、いつきますまいよ」
これは七兵衛の返事。
「あれが、本当のわたしの子であってくれればねえ」
「それは、あなたが、あれを本当の子供として可愛がって下さらないからですよ」
「それは、どういうわけだろう、あの子のためには、わたしは本当に親身になって、仕込むだけの事は仕込み、出世のできるだけは出世するように丹精をしたつもりですけれど」
「けれども、それが、あなた様のはね、何か自分が利用をしよう、為めにしよう、という頭が先でお世話をなさるから、親切がそれほど、あれに響きません」
「なぜか、あの子は、わたしになつかない、わたしに
「それは、そうかも知れません」
「今、あの子はどこにいます」
「
「田舎へ行って、何をしていますか」
「いろいろ、よく働いておりますよ、自分のためにも、人様のためにも……」
「縁づいたというわけでもないのですね」
「エエ、いいところから随分縁談もありましたようですけれど、あの子には、
「まあ、あの子が、手習のお師匠さんになっているの?」
「手習のお師匠さんばかりじゃありません、若い衆、娘たちの相談相手から、夫婦喧嘩の仲裁まで、あの子が世話を焼いておりますよ、感心なものです」
「まあ、そんなでは、とてもこんなところへ帰ってはくれまい」
「ええ、あれはあれで、自分の天職が定まったような心持で、おちついているようです」
「では、わたしの方から、尋ねて行ってみようか知ら」
こんな、しんみりした会話のみで、外で聞いても、内で聞いても、聞き苦しいところは少しもない。それだけで、湯殿の中で二人が、水入らずで、流しているのか、流されているのか、更にわからない。
二十一
ここで話題にのぼったのはお松のことで、そのお松は、ちょうどその日のその時分は、
お松のやや遠道をする時は、大抵は馬に乗るのが常で、お松が馬に乗ると、早くもムク犬がその馬側にかしずくのも一つの例であります。
今日もその通りで、青梅を出でて、武蔵野のはじまるところを、新町というのへ馬を歩ませました。
青梅という町は、秩父連峰と、武蔵野の原との分岐点であります。秩父連峰を一つの長城と見れば、青梅の
それと同時に、足一歩、青梅の宿に入れば、身は全く武蔵アルプスの尾根に包まれて、道は全く奥多摩渓谷の
ですから、青梅鉄道という十数
お松は、今その武蔵野の地平線の立つあたりを、東北に向って馬を歩ませて行くのです。そこで、前途は
しかし大江戸の真中へ、ここから直線を引いてみたとて十五里とはないでしょう――そこで二里三里と進んで、武蔵野をわけて行くほどに、例の武蔵アルプスが遠ざかり行くにつれて、軒を離れて棟を見るような順序で、山山峰々が、それからそれと現われて来る。
今日でも、復興の東京の騒々しい物音を数十尺だけ超越して、たとえば、駿河台、本郷元町台、牛天神、牛込赤城神社、谷中、
千九百六十
天狗棚山があり、小金沢山があり、黒岳があり、雁ヶ腹摺山がある――ずっと下って
いったん脈が切れて、そうして丹沢山塊が起る。
お松と、ムク犬とは、こんな背景のうちに馬を進ませているのであります。
お松は街道に沿うた大きな雑木林のところに来ると、馬から器用に飛んで下りました。
お松の下りたところの路傍の林の中には、形ばかりのお堂のようなものがあって、その中に立像の石の地蔵尊が安置されてある。お堂も、石像も、まだ新しい。
下りると、馬の
ムクは心得て、早くもお堂の前に大きな
地蔵尊にお辞儀をしてから、お松は鞍からおろした十何足の草鞋を、堂の柱にかけました。これは与八の特志に出づるもので、こうして手づくりの草鞋を堂の前にかけて、道中、草鞋の切れた人の自由に取るに任せてあるものです。
実は、このお堂と、地蔵様とも、あまり久しからぬ以前に与八が立てたもので、無論、このお像が、与八の手に刻まれたものであるのみならず、このお堂もまた与八の手になって、与八の手で運ばれ、一切が手づくりになった地蔵菩薩の霊場であります。しかし、その
なにゆえに、ことさらに、こんな、格別、形勝の地ともいえないところへ――ことに、ほとんど街道に沿うて――この街道は、江戸からいえば、大菩薩峠に通ずるの甲州裏街道であり、こちら方面からいえば、江戸街道であるが――この物淋しい野中の街道の、人家には程遠いところへ、何の縁故で、お松が与八にすすめてお地蔵様を立てさせたのか。
それにはそれで、なるほどと思われる理由があるのです。つまり、このところこそ、十九年以前に、与八が何者かの手によって捨てられたところで、同時に
与八を捨てたのは誰だかわからないが、拾った人はよくわかっている。わかり過ぎるほどわかっている。机竜之助の父の
それから後の与八の
そこで、弾正は、自分が拾った以上は、自分に授かったものだ、よかれ悪しかれ、この子の運命を見届けようではないか、という気になって、自分の子と同様に、可愛がって育ててやったものです。
体格が異常に発達し、力が一年増しに強くなるに反して、知恵の廻りが遅いことを認めて弾正は、いっそう
それで、ああして、こうなって、今日に至っているが、お松がそれを知ってみると、どうしても与八のために、生みの親を探してやりたい――という同情に
与八が特志の
まだ、ほんとうに新しい、この中ではいちばん新しい絵馬が一つ、わざとしたようにお地蔵様の首にかけられてあるのを、お松が異様なりと認めました。それは狭いお堂とはいえ、絵馬をかけるには、おのずからかけるだけの場所があるべきものを、その絵馬だけは一つ、わざとしたもののように、地蔵の首から、
妙なところへ絵馬をかけたものだ、信心の人ならば、少し作法を忘れ過ぎている、また、大人のいたずらにこんなことをするはずはない、と思いましたから、お松はその絵馬を
というのは、その絵馬が、大きさにおいても、内容においても、特別に入念の作というわけではなし、その絵も、普通ありきたりの拝礼の図だとか、「め」の字だとか、飾り立てた馬とか、鶏とか、天狗の面とかいったようなものを、型通りに描いてあるものとばっかり、大目に見ていましたところが、手に取ろうとして見ると、それは人間の首を描いてあるのだと知りました。
人間の首も、ただの首ではない、獄門台に
「まあ、なんという
これは誰でもいい心持はしないでしょう。
それも、子供のいたずらではない。相当の心がけを持って、絵馬師に描かせたものではないが、普通の人が、かなり丹精に、絵馬の筆勢に似せて描いたものであります。
お松は、何ともいえないイヤな思いをさせられながら、手をのべてその絵馬を
絵といい、文字といい、これはお松にとっては容易ならぬ
幾度か、打返し打返し見た後に、お松は何かハッと打たれたものがあるように、自分の胸を打つと、馬の背の上から風呂敷を取り出して、その絵馬を包んでしまい、そうして、大切に
そうしておいてから、さて改まった気持になって、堂の後ろから
お松が堂の前を掃いていると、雑木林を隔てて街道の
二十二
ちょうど、お松が出張した留守中のことであります。沢井の机の道場に与八が、子供たちのおさらいを帰してしまったあとへ、異体の知れぬ豪傑が七人
「これこれ、当家の主人は在宅か」
道場の中を掃いている与八をつかまえて、異体の知れぬ豪傑が、穏かならぬ色で詰寄せて来たものですから、与八が、
「はい」
といって、箒の手を休めて、眼をパチクリして見ていると、
「主人は在宅か」
七人は早くも道場の中へ押し込んで、返答によっては奥へ乱入の
しかし、与八は、変ったお客様にはこのごろは慣れていますから、さのみ驚きません。というのは、沢井の道場の
そこで今日も、その異体の知れぬ豪傑が七人押しかけて来たということに、相当の心得があって、
「あの、こちらの道場では今、剣術の方は休みになっているのでございますよ、剣術の方は休みで、子供たちが集まって、お手習ばっかりやっているんでございますからね、せっかく武者修行においでなさるお方に対しては、まことにお気の毒さまでございますが、
と、箒を斜めに持ちながら返答しました。この返答は、お松と相談してはんで
「おい、われわれどもは剣術を
七人の者が、与八を取囲むようにしました。
「はい」
与八は、ぼんやりしました。いつもの客ならば、それで
「主人がいるか、主人がいるなら出せ」
「はい」
と与八は、七人の異体の知れぬ豪傑の
「おい、主人がいるかと申すに。われわれどもが揃って、こうして主人に面会に参ったということを早く取次げ」
「はい」
与八は、やはり
「早く、主人に取次げと申すに。われわれどもが打揃って参ったことを、主人に取次いで参れ、参れ」
「はい……あの、皆々様、まことに済みませんでございますが、こちらの家には、主人というものはおりましねえのでございます」
「ナニ、主人がない……主人のない家というものがあるものか、主人のない家というのは、首のない胴体と同じことだ」
「ところが、主人というものが、この屋敷にはいねえんでございますから、お取次を申すこともできなかんべエ」
と与八が言いました。
「
七人の異体の知れぬ豪傑たちは、一様に肩をそびやかして、すごい眼をしましたから、与八が心配をしました。
「旦那様方は御承知ないんでございますか知ら、ここの屋敷の
与八が弁解を試むると、それと知ってか、知らずにか、七人の異体の知れぬ豪傑のうちの一人が、総代
「しからば、留守を預かるのは
「その留守番は、わたしと、お松さんと、二人でございます、お松さんは、ただいまよそへ出ましたから、わたし一人だけでお留守番をしているんでございます」
「なんだ――貴様が、当家の留守をあずかると申すか、これだけの屋台骨を、貴様のような間抜け一人で背負って行けるか」
と七人の異体の知れぬ豪傑のうちの一人が、与八に向って
大きにお世話である。留守を預かろうが、預かるまいが、間が抜けていようと、間が
「はい」
と言ったなり、
しかし、七人の異体の知れぬ豪傑とても、ここで、奥の間めがけて乱入に及ぼうとするほどの無茶を演ずるつもりもないと見えて、
「ほんとうに主人はいないか」
「ええ、ほんとうに留守でございます」
「実際、貴様が留守を預かっているのか」
「その通りでございます、わたしと、お松さんと、二人で……」
「では、仮りにそのほうを責任者とみなして、われわれどもが申し聞かせて置くことがあるから、そこへ坐れ」
「坐れ、坐れ」
一人の総代が先に口を切って、あとの六人が無理矢理に与八を、道場の板の間へ押坐らせてしまいました。与八はもとより少しも抵抗のふうはなく、押据えらるるままに板の間に、ちゃんとかしこまっていると、総代の一人が、
「これ、留守番、拙者は我々同志の総代で
与八は、それを聞いて、委細わからないなりに恐れ入って、
「はい、はい」
とお辞儀をしました。
「いいか、よくこの事を主人に申し聞かせるのだぞ。なお念のために、この通り書面に
と言って、笈川と名乗った異体の知れぬ豪傑の中の一人は、懐中から奉書の紙に認めた書状を取り出して、与八の面前でひろげ、他の六人がそれに添いだちになって、
「なお、念のために一応、そのほうに読み聞かせて置く」
といって、笈川が
二十三
七人の豪傑は、与八にその奉書の書面を手渡したままで、無事に帰ってしまいましたから、与八も、わけがわからないなりに、ひとまずは安心しました。
その書面を
その日、お松の帰りは夜になってしまいました。
「与八さん、今日は
「ねえ、与八さん、もう、あたし、あなたの親御さんたちをたずねるのを、
「そうですか」
「尋ねないでいた方がよかあないかしら、と思いつきました」
「それもそうかも知れませんね」
と与八は、どうでもいいような返事をしましたけれど、心のうちは、決してそうでないことをお松がよく知っています。自分の両親の、せめてその一方をだけでも、与八は知って置きたいという常々の願望を、口には出さないけれど、その
そこで、お松は、何ともつかずにこう言いました、
「ねえ、与八さん、もし、お前の本当のお父さんという人が、悪い人だったら、どうしますか」
そこで与八が、
「悪い人だって、親は親だからなあ」
と返答しました。
「でも、その悪いというのが、ただ喧嘩が好きだとか、お酒のみだとかいうばかりじゃなく、もしかして、悪い罪を犯している人だったらどうします」
「悪い罪を犯したって、犯さなくったって、血を分けた親子の縁というものは、切っても切れねえだろう、ねえ、お松さん」
与八は食事を終って、
「それは、そうに違いないけれど、もしかして、そんな人であったなら、いっそ、尋ねない方がいいじゃないかしら」
「どうしてね」
「せっかくの与八さんまでに、迷惑がかかるといけませんからね」
「そうかなあ」
与八の
「ねえ、与八さん、生れぬ先の父ぞ恋しきという歌を御存じでしょう、生みの親も大事だが、それよりも大事なのは、生れぬ先の親だと、大禅師が説教でおっしゃったのを、お前も聞いていたでしょう」
「うむ」
「おたがいに、生みの親を尋ねることはやめてしまいましょうか――」
とお松から言われた与八は、箸を置いたまま、小山のように坐って考え込んでいました。
食事が済んでから与八は、また道場へ戻って、そこで再び
暗いものですから、
なにかしらん。思いがけないところで、物につまずくと、そのハズミでバリバリとその物を踏み裂いてしまった音がしたので、与八も
はて、こんなものをここへ、自分は置いといたはずはないのだが、何か知らん。どうした間違いか知らん、今の足ざわりと、物音では、自分が、この中のものを踏み砕いてしまったことは確かである。はて、大事なものであってくれなければいいが……
そこで、与八は歩き直して、ようやく行燈に火をつけて、そこで今の踏み砕いたものを見ると、いつも、お松さんが持ってあるく風呂敷には違いない。では、お松さんがここへ置いといたのだ。それを自分が
包み方が簡単であったために、その一端が風呂敷の外に露出しているから、中の品物の何物かを認めるのは骨が折れません。それはありふれた納め物の
済まないことをしてしまった。せっかくお松さんが大事にして持って来たものを、自分が足にかけて踏み砕くなんて……そんなところへ置いたものが悪いか、それを踏んだ者が悪いかは考えずに、与八は
二度目に気がついた時、与八もさすがに驚かされてしまいました。
何ということだ、この絵馬には人間の生首が描いてある。しかもその生首とても、尋常一様の小児のたわむれではない、相当の分別ある人が描いたもので、しかも
いたずらにしても、イヤないたずらだ。それをまたお松さんが、
と、風呂敷へ包み直して、そこへ置きましたが、さいぜんの食事の時のお松の言葉といい、こんな不意のイヤなハズミといい、何となく物を思わせられるような晩であると、急に立つ気もなく、
与八がこうして、ボンヤリと考え込みながら藁を打っていると、表の戸をトントンとたたいて、
「与八さん、与八さん」
「お松さんかい」
「あのね、与八さん、わたし、忘れ物をしましたが、そこらに風呂敷包がありませんか」
「ありましたよ」
「済みませんが、ここの窓から出して
「待っておくんなさい」
与八は槌を下へ置いて、手を延ばして、風呂敷に包んだ例の絵馬を引き寄せながら、
「お松さん、あるにはあるが、ほんとうに済まないことをしちまったよ」
「どうしたの」
「あのね、暗いところにあったものだから、ツイ、わしが足で踏みつぶしてしまいましたよ、それで今、あやまりに行こうと思っていたところだよ」
「まあ……」
外に立っていたお松は、その時、外から手をかけて戸を引きあけて中へ入って来ました。
「沢井」という字だけが見える手ぶら
「それは、わたしが悪かったのよ、そんなところへ置きばなしにしておいたから、わたしが悪かったのです」
「こら、こんなにグダグダに砕けてしまった、ほんとうに申しわけがありましねえ」
「かまいません」
お松は、踏み砕けたままに風呂敷に包まれた絵馬を、与八の手から受取って、
「かまいませんとも、イヤな絵だから、このまま捨ててしまおうと思っていたくらいなんですもの」
「お松さん」
「ええ」
「お前は、どこから、そんなイヤな額を持って来たの」
「与八さん、お前、この中を見てしまったのですか」
「ああ、見てしまったよ、わしもイヤな額だと思った、お松さんがこんな物を持ち歩くはずはねえと思ったから、誰かのいたずらじゃねえかと思ったが、それでも風呂敷がお松さんのだから……」
「そうよ、わたしのに違いないのよ、わたしは妙なところでこれを手に入れたものだから、与八さんに見せようか知ら、それとも見せまいか知らと、考えながら、つい置き忘れたんですが、見られてしまっては、もう仕方がないが、気にしないで下さい」
「別に気にするでもねえが、誰のいたずらだか」
「ねえ、与八さん、あとで、お風呂の下かなにかで焼いてしまって頂戴な」
「うん」
「それから与八さん、もう一つ済みませんがね、これからちょっと、水車小屋まで行って来て下さいな」
「何しに」
「お米がなくなったそうですから、一俵持って来てやって下さいな」
「よしよし」
と与八は膝の
「急ぎかね、お松さん、米のいるのは」
「なに、今晩と、明日の朝の分はあるんですとさ」
「ははあ……じゃあ、今晩、わしぁ、あの水車小屋へ泊って、明日の朝早く持って来りゃあ、それで間に合うね」
「え、それで間に合います」
「じゃあ、わしぁ、今晩は水車小屋へ泊って来るかも知れねえ、どっこいしょ」
与八は立ち上りました。
「じゃあ、頼みましたよ」
お松は砕けた絵馬の風呂敷を取りに来ながら、受取らずして行ってしまいました。
しかし、いったん立去ったお松が、まもなく取って返し、
「ねえ、与八さん」
「何だね」
「もう一つ言って置くことがありますよ、あのお隣りの作蔵さんがお湯に来ての話ですが、昨日あたりこの村へ、お役人に追われて、悪い泥棒が一人入り込んだんですって」
「へえ……」
「だから、用心をおしなさい。また怪しい者と見たらば、つかまえるか、お役所へ申し出るように、
「あ、わしもお
「そう、それじゃ、お前さんの方が、よく知っているでしょう、用心をするに
「はい」
「それでは、お米の方をたのみますよ」
と言ってお松が出て行きました。やっぱり、例のイヤな絵馬の風呂敷包を持って行こうと言わないのは、与八にしかるべく処分を任してしまったつもりなのでしょう。
与八は、その風呂敷包を抱えて、道場を出で、高い石段を下って、街道筋の方へ出ながら、
「そうだっけな、何か江戸で悪いことをした奴があって、それを
与八は、こんなことを考えながら、高い石段を下って街道筋へ出で、
こんな晩だったな――そこで、与八はゾッとして、
そこに一本長い女帯が、だらしなく解けほごれて、蛇のように横たわっているではないか。
それ、そこに、
女も女だ――と
再び目をつぶって、長い
いけない、いけない。
与八は、この時、携えて来たイヤな絵馬を取って炉の火に焼き捨てようとしたが、その途端にまたゾッとして、絵馬を持つ手をわななかせたのは、それは、今以て残る女の亡霊の
犬の吠える声といっても、それは尋常の犬の吠える声ではありません。ここよりは頭上にあたる机の本家、今はそこに飼われているムク犬が、何に驚いてか、鐘をつくような声で吠えるのが、ありありと与八の耳に入りました。
二十四
ムクは滅多に
現にここへ来てからにしてが、ほとんどムクの吠えたというのを聞いたものがありますまい。ムク犬の吠えないだけ、それだけ平和であり、ムクの吠ゆる時は、尋常の時でないことは、与八もよく知っているのであります。
そうして、かなりの遠くの距離にいて、多くの雑音の中にあっても、ムクの吠ゆる声だけは、いつも
そこで与八は、何か本家の方に非常が起ったのだと胸を打たれました。その非常の程度はわからないが、ああしてムクの声が聞えたことそれだけで、人間の騒ぐより以上の何事かが突発して来たものと見て、さしつかえないのであります。そこで与八が胸を打たれて心配しました。
心配したけれども、しかし絶望はしません。
ムクの吠えたのが非常を示すと共に、ムクの存在ということが、非常な心強さを与えるものであります。何となれば、ムク犬が存することによって、幾多の人間が備えている以上の安心を、保証し得るからであります。
ひとたび心配した与八は、
「誰だい」
与八は片膝を立てながら、
果して人間が入って来たものならば、そのいずれに隠れたにしても、多少の間は、空気の動揺というものが残らなければならないはずでありますが、物音のしたすきまに、その空気の動揺が消え去ったのは――或いは全く空気を動揺せしめずして、身体だけを運行させたもの――それは煙か、幽霊かでなければできないことのように思われますけれど、いま入って来た人は、入って来た人があると仮定して、その人は、たしかにそれを行なっているもののように思われます。
それですから、与八はそこに自分の耳を疑いました。ははあ、これは自分の
「誰だい、誰かへえって来たのかね」
どうも、立去り兼ねるものがある。
「待てよ」
そこで与八は
それは争われない。尋常の板の間ならば何でもないことですけれど、水車小屋の板の間ですから、粉と
「いる、いる、たしかにこん中に、人がいるに違えねえだ」
と与八が声を立てた時、後ろから与八の首へ、すっと一筋の縄が巻きつきました。
その縄に巻かれると、大力の与八が、もろくも
しかし、後ろから音もなく、与八の首へ縄を巻きつけたその人とても、必ずしも与八をくびり殺そうとして、そうしたわけではなく、この際、与八に声を立てられることを怖れての非常手段と見えますから、あちらからいえば、正当防衛の一手段に過ぎないかも知れません。大へんおとなしく、素直に与八を引き寄せて来て、
「声を立てないでおくんなさいね、少しの間、ここへ、私を隠しといて下さい、たのみますよ」
その人が、与八を引据えるようにして、自分もそれと向い合って、炉辺に坐りこんでしまったのを見ると、与八には
「お前さん、どこの人だか、不意にはいって来て失礼じゃねえか」
ゆるめられた縄の下から、与八がこう言いました。七兵衛は騒がない声で、
「どうも済まなかった、かんべんしておくんなさい。実は今そこで、おそろしく強い
「うん――」
と与八は、おとなしい眼を不審の色に曇らせて、改めて七兵衛の姿を見やり、見おろし、
「お前さん、
「ああ、どこの犬だか知らねえが、この上の方に、おっそろしい強い狂犬がいるよ」
「お前さん、ありゃ狂犬じゃありませんよ」
「え、どうして」
「ありゃ、ムクですよ」
「ムク……」
「ムクが吠えたんですよ」
「ははあ、なんにしても、すっかりオドかされてしまいましたよ」
「お前さん」
与八は、しげしげと七兵衛の姿を見ているから、七兵衛は少しバツが悪く、
「何だい」
「お前さん、何か悪いことをしたろう」
「えっ」
「何かお前さん、悪いことをして来たね」
「飛んでもねえ、私は何も悪いことなんぞをする人間じゃあねえ、この通り、
「いけねえ、お前さん、何か悪いことをして来たから、それでムクに吠えられたのだ」
「
「犬に吠えられる奴が、みんな悪い奴たあ、いえねえかも知れねえが、ムクに吠えられる奴は悪人だ」
「どうして」
「ムクという犬は、いい人に向っては、決して吠えねえ犬なんですから……」
「いよいよ冗談ものだ、人間でせえ、人物の見定めというものは容易につかねえ、まして犬に、人間の賢愚、不肖がわかってたまるものか」
「ところがムクには、それがわかるから不思議じゃありませんか――もし、お前さんが、ムクに吠えられて、ムクに追われたとしたら、お前さんは、たしかに悪いことをして、そうしてここへ追いつめられておいでなすった人に違えねえ……」
与八がキッパリと言いきったので、七兵衛が、思わず眼をみはって与八の
与八の言葉を聞いた七兵衛は、非常に驚かされてしまいました。
この若い男は、少し足りない男のように思われるが、その言い出すことは、人の
いや、この男が読んでいるならとにかく、その何とかいう犬が、こっちの裏も表も読みきっていて、善悪正邪も、賢愚不肖も、いちいち鑑定して置いて、吠えにかかるのだというのが
どこまでも、世渡りの裏を行って、
そこで七兵衛は、空しく、
「なるほど」
と
「この縄を取っておくんなさい」
と与八が言いました。放心したもののような、
「なるほど」
と言ったが七兵衛は、要求通り、その縄を
「ねえ、縄を取っちまっておくんなさいよ」
「ま、待ってくれ」
七兵衛は耳を澄まして、何か物の
だが、与八としても、気が
「それじゃ、若い衆さん」
と七兵衛は、ほぼ、あたりの形勢にも見当がついたらしく、
「私は、これでお
「大丈夫だよ」
「犬はいねえようだな、あの
「大丈夫だよ、ムクは、逃げる者を、そんなに長追いをするような犬じゃありませんよ、それよりか、家を守っている方が大切ですからね」
「それで安心した」
七兵衛ほどのものが、特に、その犬には弱らされたものらしい。
そこで、七兵衛は、手にしていた縄の一端をクルクルとまとめて、
「どうも、
「さあ、どうぞ、ここにお
「そいつは、どうも御馳走さま」
与八は、せっかく解放された縄をまだ自分の首から放さないで、それよりも先に、この珍客に向ってお茶の用意にとりかかると、この時、七兵衛が炉辺で意外な物を見つけて、じっとそれに眼をつけました。
二十五
七兵衛が何事をか注意し出したのに頓着のない与八は、珍客のために、お茶壺から上茶を取り出して、お茶をいれにかかっていると、七兵衛が、
「若い衆さん」
と呼びましたものですから、
「何ですか」
「そ、そりゃ何だね」
「え、それとは」
与八は、鉄瓶の湯を急須に注いでしまってから、七兵衛のそれといって指したところのものを見やると、
「あ、これですか」
「何だい、そりゃ」
「こりゃ、
「絵馬には違いないが、お前さん、その絵馬をどこから持っておいでなすった」
「これですか、イヤな絵馬ですよ。お茶を一つお上りなさいまし」
与八は、お茶をついで、七兵衛の前に差出してから、改めて問題の絵馬を
「こりゃ、お松さんが持って来たものなんですが、どこから持って来たか、わしは知らねえが、あんまり縁起でもねえ額だから、おっぺしょって、火の中へくべってしまおうと思っていたところです」
といって与八は、いったん自分が二つに踏み割ってしまった絵馬を、もう一ぺん細かくさいて、それを眼の前の炉の火に投げ込もうとしますから、七兵衛があわててその手を押えました。
「滅多なことをしなさんな、それでも絵馬となりゃ、納める人は丹念して納めたに違えねえ、まあお見せなさい」
七兵衛は与八の手から、二つに裂けた絵馬を受取って、その怪我をいたわるような手つきであしらいながら、裏と表を一ぺん通りジロリと見渡してから、膝の下へ置き、
「誰がこの絵馬を持って来たんだって?」
「お松さんが持って来ました」
「お松さんが、どこから持って来たの?」
「それは知らねえ」
「ふーん」
と七兵衛は、お茶を手に取って飲みながら、首をかしげないわけにはゆきませんでした。
七兵衛は、与八のことは知っているか、いないか知らないが、お松のこの地にいることは、充分に知っているはずである。このあたりの地理も、人情も、知って、知りぬいているはずだから、自然、この水車小屋も、机の家のものだということは心得ているに違いない。そうしてみれば、お松とはあれほどの縁故だから、そのいどころをたずねて、充分に話はわかっているはずである。
しかし、与八は、お松の家へこの人が尋ねて来たのを見たことがないから、従って、この人と、お松とが、深い縁故になっていることなんぞは知ろうはずはないらしい。お松がここにいることを知って尋ねない七兵衛には、また七兵衛だけの遠慮があるのでしょう。お松の方でも、程遠からぬ七兵衛の実家を尋ねたということをあまり聞かないのは、尋ねても、その
「若い衆さん、お聞きなさいよ」
お茶を飲み終った七兵衛は、
「はい」
「お前、そのお松さんという人と懇意なら、どういうわけで、どこから、こんな絵馬を持っておいでなすったか、それを聞いてみるといい。まあ、ごらん……」
七兵衛は今更めかしく、絵馬をとり上げて、裂けたのをピタリと一枚に食い合わせて、与八の前へ突きつける。
「人の物を
「まあ、お茶をもう一つ、おあがんなさいましよ」
と、与八が熱いお茶の二杯目を七兵衛にすすめると、
「こりゃどうも御馳走さま」
「ここにたらし
与八は、
「どうも済みませんねえ」
七兵衛は与八のもてなしぶりを、ようやく不思議な色でながめました。
どうも少し変っている男だと見たのでしょう。第一、もう
つまり、最初のうちこそ、縄を外してくれと要求しながら、その要求通りに縄を投げ出されてみると、それですべてが許されたものと心得て、それからは火をくべることだの、お茶をいれることだの、たらし餅をすすめることだのにとりまぎれてしまって、首の縄を全く忘れ去ってしまったものらしい。
途方もなく人のいい男だ――と七兵衛は、その首の縄を見ると、そぞろに自分ながらおかしさがこみ上げて来るもののようです。そこで、
「若い衆さん、その縄を取っちゃあどうだい、その首の縄を」
自分からかけておいた縄を、こう言って、先方の自決を促すような気持にまでなりました。
「あ、そうだね」
そこで、与八は首の縄へ手をかけてグイと引張ると、縄は素直に
「若い衆さん、お前さん、幾つにおなりなさる」
「わしかね、わしゃ十九でござんすよ」
「いいかっぷくだね」
「ええ……」
「力があるだろうなあ」
「ええ……」
「お
「そんなにありゃしませんよ」
物騒な犬の吠え声から、首に縄を捲かれるまでの危険千万な光景が、いい気の、秋の夜の炉辺の茶話になってしまいました。
「お前さん、生れはどこだね」
七兵衛もこうなると、
「さあ、わしの生れはどこでござんすかね」
「おや、お
七兵衛がまた
「生れはどこだか知らねえが、赤ん坊の時からこの沢井村で育ちました」
「それじゃあ、こっちへ貰われて来たのか、それとも……」
「いや、貰われて来たんじゃねえ、拾われて来たんでございます」
「拾われて……そうするというとお前さんは
「ああ、棄児なんでございます」
「おやおや、どこへすてられて、誰に拾われなすったい」
七兵衛はのっ込んでしまいました。
「ねえ、おじさん」
途方もない人のいい
つまり、自分は
「なるほど、なるほど」
「なるほど……年は十九とお言いなすったな」
七兵衛は、指を折って数えてみるふりをしました。
「たらし餅を一つおあがんなさいまし」
そんなことに頓着なく与八は、再び、七兵衛に向って、たらし餅をすすめます。
そこで七兵衛はお茶を飲み、たらし餅を食いながら、なにげなく、
「それでわかった、それで委細がわかりましたよ、お松さんという人が、ああして新町へお堂を建てたり、そのお堂の中に納めてあった
どういう気まぐれか、このかりそめの場で、七兵衛は、与八のために、将来の女房の心配まではじめたが、やがてかたわらの絵馬を手にとりながら、
「いや、よけいなお
と言いながら、例の
七兵衛は立ち上りながら、絵馬の燃え上る火の色を見ていいました。
「若い衆さん、お前、人間の首の
と言いました。
「まだ、そんなところを見たことはありましねえ、見ようとも思わないねえ」
と与八が答えました。
「そうだとも、見ようとも思わないのが本当だ。お
七兵衛はさながら、自分のこの首が、明日の朝は獄門台にでも上るものかのように、自分の手で、首筋をぴたぴたとたたきながら、
「その獄門台というやつが、あんまり有難くねえやつだが、
この辺で七兵衛は笠を取って、
「お仕置場というやつは、大抵場所のきまったものだが、そのうちにも
七兵衛は、
まもなく、七兵衛の道中姿を、多摩川を一つ向うへ隔てた吉野村の、
非常に大きな赤松の林、ここから見ると
大きな松の木蔭に立って、いま出て来た水車小屋のあたりを見下ろしている時分に、月がようよう上って、奥多摩の渓谷の半面を、明るく照らしたその光で見ると、七兵衛の眼にも露が
二十六
もはや、夕飯も済み、これから寝に
それというのは、無意味に大声を発したのではなく、よく聞いていると、それは急に本を読みはじめたものらしいから、宿の者も安心したのです。
それにしても、道庵が今晩に限って、なぜ、こうして改まって本を読み出したのだか、また、こうまで改まって、道庵をして巻を
枕元のところに一冊の書物がひろげてあって、それを前にして道庵はキチンとかしこまって、しきりに朗々と読み立てているにはいるのですが、
しかし、聞く人が聞けば、それは確かに言語文章を成しているのです。耳を澄まして少しくその読むところをお聞取り下さい!
「凡百ノ技、巧 ニ始マリ、拙ニ終ル、思 ニ出デテ不思 ニ入ル、故ニ巧思極マル時ハ則 チ神妙ナリ。神妙ナル時ハ則チ自然ナリ。自然ナルモノハ巧思ヲ以テ得ベカラズ、歳月ヲ以テ到ルベカラズ……」
そこで思い出したように、パッと枚数を飛ばしてから、
「英雄、医卜 ニ隠ル固 ニ故有リ矣。夫 レ医卜 トハ素封無キ者ノ素封也。王侯ニ任ゼズ、自如トシテ以テ意ヲ行フベシ……エヘン――」
と
「身、五民ノ外ニ処シテ、或ハ貴 ニヨク、或ハ賤 ニヨシ、上ハ王皇ニ陪シテ栄ト為サズ、下ハ乞児 ニ伍シテ辱ト為サズ、優游シテ以テ歳ヲ卒 ルベキモノ、唯我ガ技ヲ然 リト為ス……エヘン」
ここでも、わざとしからぬ咳払いを一つして、「ナムカラカンノトラヤアヤア」
と叫び出しました。
これは全く意表に出でた文句の変化であって、前段に読み
「山東洋、ヨク三承気ヲ運用ス。之 ヲ傷寒論ニ対検スルニ、馳駆 範ニ差 ハズ。真ニ二千年来ノ一人――」
二千年来ノ一人……というところにばかに調子を振込んで道庵が
「中古ニ隠士徳本 ナルモノアリ、甲斐ノ人也――」
そこで読みながら道庵は、自分ひとりが高速度的にいい心持になって行くと見えて、盛んに、朗読だか、
「余嘗 テ山東洋ニ問フテ曰ク、我、君ニ事 フルコト三年、技進マズ、其ノ故如何。洋子曰 ク、吾子 須 ク多ク古書ヲ読ミ、古人ト言語シテ以テ胸間ノ汚穢 ヲ蕩除スベシ。余、当時汎瀾 トシテ之ヲ聞キ未ダソノ意ヲ得ズ、爾後十余年、海内 ニ周遊シテ斯ノ技ヲ試ミ、初メテ栄辱悲歎ノ心、診察吐下ノ機ヲ妨グルコトヲ知ル――」
ここまで朗々と
「中古ニ隠士徳本ナル者アリ、甲斐ノ人也。常ニ峻攻ノ薬ヲ駆使シテ未ダ嘗 テ人ヲ誤ラズ。頭 ニ一嚢ヲ掛ケテ諸州ヲ周流シ、病者ニ応ジ薬ヲ売リ償 ヲ取ルコト毎貼十八銭――」
この時に道庵先生が、また「ここだ、こん畜生だ!」
そこで何か後ろめたいことでもあるように、道庵先生が急に巻を閉じてしまい、すっくと立ち上って、羽織をぬいで投げ捨て、帯を解いて
「つまらねえなあ」
と嘆息しました。
道庵先生がこうして朗読をつづけている間、次の間に控えたのが宇治山田の米友です。
例の
「先生」
唐紙越しに言葉をかけました。
「グウ、グウ」
という返事です。
「先生」
「グウ、グウ」
相変らずふざけきったもので、口いびきで先生が答えるのを、米友は腹も立てず、
「先生、もう寝なすったかい」
「寝たよ」
「何か御用はないかね、なけりゃ、おいらも寝るよ」
「ああ、お前もお休み」
「どっこいしょ」
主人に先立って寝ず、という米友の神妙な忠勤ぶりで、道庵が寝床に納まったと見届けたから、そこで米友も
「先生」
「何だい」
「お前、
と、何の意味か米友が道庵に向って駄目を押すと、道庵がしゃらけきって、
「心配するなよ」
と答えました。
これは米友としても、変な念の押し方で、道庵としても歯切れの悪い返答ぶりでありました。何となれば、夜中に這い出そうとも、這い出すまいとも、赤ん坊じゃあるまいし、よけいな世話を焼いたもので、それをまた道庵ともあるべき理窟屋が、文句なく受取ったのみならず、幾分、良心に
米友は、一旦、寝床にもぐり込もうとしたが、また起き直って、荷物と、槍とを、念入りに一応調べて
「べらぼう様、這い出してみたところで、そう
と、寝言のように言いました。
米友が道庵先生に対して、特に夜中に
それをいうと、道庵先生の人格に関するようなものだが、実は先生、旅へ出て、調子づいて脱線をやり過ぎることがあります。むしろ脱線が無ければ、道庵が無いといいたいくらいだから、道庵の脱線は天下御免のようなものですけれど、米友が眼に余ると見ている脱線ぶりは、自分の信じている従来の道庵の脱線ぶりとは、全く性質を異にしている脱線ぶりですから、米友が
一方、道庵の方から言えば、折角こうして、十八文をチビチビ貯めて旅へ出たことではあるし、町内でもともかくも先生扱いをされている手前上、そう無茶な発展もでき兼ねていたのが、無係累の旅へ飛び出したのですから、多少の人間味がわき出して来るのは、ぜひもないことでしょう。
泊り泊りで渋皮のむけた
ところが、米友というものが、前後左右に眼もはなさず頑張っているから、たまらない。
そこで、多分、夜中に、米友の寝しずまった頃をうかがって、そっと抜け出して、戸惑いをしてみたことが、一度や二度はあるのだろうと思われます。しかし不幸にして相手が米友ですから、眠っていても畳ざわりの音で眼をさます。そうして、道庵の脱線を難なく取押えてしまう。取押えられる度毎に、道庵は手のうちの玉を取られたほどに残念がることも、一度や二度ではなかったらしいが、そこはうまくバツを合わせて、米友を言いくるめてしまっているらしい。
そうなると、米友の責任観念がいっそう強くなって、警戒ぶりがいっそう厳重を加えるものですから、道庵は窮屈でたまらない。
そこで、ただいま、神妙に本を読み出したのなんぞも、こうして米友を安心させておき、油断を見すますの軍法かも知れません。さればこそ、寝入りながら、「つまらねえなあ」と嘆息したのも、この監視つきに対してのやる瀬なき
道庵が眠りについたと見たから、米友も枕につきました。
米友は枕につくと早くも、いびきの音ですけれど、熱に浮かされた道庵は、容易に眠れないと見えて、時々、
道庵主従がこうして、ともかくも静かに床についている向うの一間では、人の気も知らないで、飲めよ、歌えと、騒いでいる大一座がある。
悪ふざけの
しかし、それはかなり間を隔てたところだから、辛抱をすればできるし、
木曾のナア、かけはしゃナアンアエ
からみつく、蔦 がナアンアエ
わしにゃ蔦さえからみつかない、ナアンアエヨウ
どっこい、どうしん
ころものほうがん
じょでこい、じょでこい
と肉感的な声で歌いながら、足拍子を踏んで通るものだから、道庵が、からみつく、
わしにゃ蔦さえからみつかない、ナアンアエヨウ
どっこい、どうしん
ころものほうがん
じょでこい、じょでこい
「これこれ、静かにしろ」
と大きな声でしかりつけました。
二十七
道庵が、寝ながら頭の寒いことを感じ出したのは、今晩に始まったことではなく、つまらない一時の感激から、額をそり上げてしまったことを、今も
今も、その官能的な
前例によって、松本を出でて以来の道庵主従の旅程を挙げてみると、
松本から村井へ一里二十町
村井から郷原 へ一里十二町
郷原から洗馬 へ一里二十四町
ここで塩尻からの本道と合し、村井から
郷原から
洗馬から本山 まで三十町
本山から贄川 まで二里
贄川から藪原 まで一里十三町
藪原から宮 ノ越 まで一里三十町
宮ノ越から福島まで一里二十八町
という順序で泊りを重ね、ようやくここ木曾の中心地、福島の駅路についたというわけです。本山から
贄川から
藪原から
宮ノ越から福島まで一里二十八町
そこで、大体そんなような気分で、寝もやらず、さめもやらずに浮かされていると、ふすまを隔てた一方の室にあたって、気になるものがありました。
縁起でもない、どうもさいぜんから、誰かこの隣室にそっと送り込まれて来てはいるようだが、この際、しきりにしゃくり上げて泣いているようであります。
最初は道庵も、あまり気にしませんでしたが、そのしゃくり上げて泣く声が、ようやく耳にさわって来ると、先方はついには声を挙げて泣き出さぬばかりになっては、それを我慢して、またしゃくり上げていることが、かなり長い時間にわたっているものですから、道庵先生が、少しくうるさいと感じました。
何だい、何を泣いてやがるんだ。その、しゃくり上げっぷりによると女じゃあない、男に相違ない。相当の年配の男のくせに、めそめそと、人の隣室へ来て、夜中に、泣いて聞かせる意気地無し――という気になったものですから、少しいって聞かせてやろう、という勢いになりました。
ここが、道庵先生のお節介なところで、
「今晩は」
といって、そのスラリとあいた古い襖の間から、ぬっと
「いや、今晩は、どうも」
先方は、突然の訪問を受けてかなり
「お前さん、さいぜんから聞いていれば、しきりに泣いておいでなさるようだが、何が悲しくって、そんなに泣いておいでなさるんだね」
「はい、まことにお耳ざわりになって、申しわけがございませんでございます」
と、その男は道庵の方に向いて、恐る恐るおわびのお辞儀をしますと、
「お前さん、いい年をして、泣くほどの切ないことがあるなら、まあ物はためしだから、わしに打明けて話してごらんなさい、わしも長者町の道庵だ」
といって、中へ乗込んでしまいました。
「恐れ入りました」
中なる男は、かなり迷惑しているらしい。長者町の道庵だと名乗ったところで、長者町界隈でこそ押したり、押されたりするが、木曾の山の中へ来てそれが通ろうはずがないのを、道庵はいい気になって、早くも、その男の向う前へ坐り込んでしまい、
「見たところ、お前さんも男として、そうしてしくしく泣いていなさるというのは、よくよくのことだろうとお察し申す、まあ、話してみな……悪いようにはしないから」
道庵は持合せのきせるを取って、すっかり長兵衛を気取ってしまいました。
「それではお恥かしい話でございますが、お言葉に甘えまして、身の上話を一通りお聞き下さいまし」
「なるほど」
「わたくしは美濃の国の落合というところの百姓でございますが、この福島へ馬を買いに参りました」
「なるほど」
「望みの通り、この福島で、三歳の
「馬を買いに来て、望み通りの馬が買えたんなら、なにも不足はなかろうじゃございませんか、泣くがものはなかろうじゃございませんか」
と道庵がたしなめ
「ところが、あなた、お聞き下さいまし、望み通りの馬を買うには買いましたが、ただで買ったわけじゃございません」
「そりゃきまってらあな、物を買おうというに、ただで売る奴があるものか」
「ところがお聞き下さいまし、そのお金がただのお金じゃございません、血の出るようなお金で、馬を買うには買ったのでございます」
「そりゃお前さん、誰だって、そう有り余る金を持っているときまったわけじゃなし、まして失礼ながら、お前さんのような水呑……じゃねえ、水の
と道庵が、慰めはげますような言葉で、親切にいい聞かせたつもりでしょう。しかし、よく聞いていると、この親切な言葉のうちにも、論理の不透明なところが無いとはいえない。第一、相当の年配になれば誰だって貧乏すらあな……という一句の如きは、かなりの独断であるけれど、その男はいちいち頭を下げて、
「
道庵は仰山に驚いて、眼を円くして、
「何とお言いなさる、娘を売って馬をお買いなすったって……なるほど、剣を売って
両手を胸に組んで考え込むと、しおれきったその男が、
「ことし十七になる娘を、
そこで、また男がしくしくと泣き出しました。
「なるほど」
道庵も仔細らしく考え込んでいると、男が、
「馬を買わなければ、家がたちゆきませんし、娘を売らなければ、馬が買えないのでございます、その娘だって、あなた、くどいようでございますが、ただの奉公ではございません、勤め奉公でございますから、泊り泊りの客人にいいようにされ、しまいには悪い病気にかかって死ぬか、そうでなくても、
「なるほど」
道庵も少し
「なるほど、それは人情だ、娘を売って馬を買う、娘を売らなければ馬が買えない、馬を買わなければ一家が養えない、一家を養おうとすれば馬を買わなければならん、馬を買うには娘を売らなければならない、娘を売るのはつまり、娘を殺すというようなわけ合いになるんだから、つまり動物のために、人間を犠牲にするという理窟になるんだな。ところでその動物がまた、お前さんの一家を救うということになるんだから、動物のために人間が救われるという理窟も、立てれば立つ。しかし、なお考えてみると、人間を立てれば動物が立たず、動物を立てれば人間が立たない。さあ大変、忠ならんとすれば孝ならず、ここは、一番、道庵も考えどころだぞ」
といって、いよいよかたく腕組みをしてしまいました。しおれきった男は、それでもいっこう浮き立たず、
「せっかくの御心配を下さいましても、どうももう仕方がございません、娘は売ってしまったもの、馬は買ってしまったものでございますからなあ」
「そこだよ、そう物を早くあきらめてしまっては何にもならねえ、そこんところを、もう一応考え直してみねえことにゃ、せっかく道庵が乗出した甲斐がねえというもんだ」
「御親切に有難うございますが……もう、わたくしあきらめてしまいました」
「待っていなさい、もう一応考え直してみるてえと、娘を売って馬を買う、娘を売らなきゃあ馬が買えねえ、馬を買わなけりゃ一家が養えねえ、一家を救おうとするには馬を買わなきゃあならねえ、馬を買うには娘を売らなきゃならねえ、娘を売るてえと……ああ面倒臭い、どうどうめぐりをしているようなもんだ、何とか、いい
と再び叫びました。その時になって、さすがに、しおれきっていた馬買いの男も、この先生は少しどうかしているのではないか、と思いましたから、敬遠の態度を取った方がいいではないか、と気がついた時分に、道庵が、
「そうだ、いったい、お前さんは娘をいくらでお売りなすった、そうして馬をいくらでお買いなすったか、それをためしに聞いてみようではないか」
そこで男が答える、
「はい、お恥かしい話でございますが、娘を三両で売りまして、馬を四両で買いましたのでございます」
「なあーんのこった」
そこで道庵が、あいた口がふさがらずに、
「申しわけがございません」
道庵に対して申しわけがないようにあやまるのを、道庵が、いよいようんざりした声で、
「お前さん、そんならそれと、
「つまらないことをお話し申し上げて、よけいな御心配をかけてあいすみませんことでございました」
「よけいな御心配じゃねえさ、三両だっていうじゃないか、三両なら三両のように、はなからそうおっしゃって下されば、道庵だって、これほど心配はしやあしねえのさ」
「ほんとうに相済みません」
「済むも、済まないもありゃしないよ、第一お前、娘を三両で売って、馬を四両で買うなんて、馬の方が一両高いじゃねえか、そんな値段てあるもんじゃねえ」
「それでも一両は、どうやら
「それを言ってるんじゃない。まあまあなんにしても三両でよかった、三両でお売りなすったから、まあよかったようなものさ、これを、百両百貫とでもいってごろうじろ、道庵だって考えらあな」
と言って道庵が、むやみに安心してしまったが、その男にはのみこめないようです。
三両でよかった、三両で人の娘を売ったからまあよかった……という言い分は、ずいぶんぶしつけ極まる言い分であります。さきには人道問題だとまで絶叫したのを、相場が三両だからそれでよかったという言い分は、どうしても聞えない言い分であります。そこで右の男も、敬遠に加うるに、幾分か
「御苦労さまでございます、どちらのお方様か存じませぬが、どうかお休み下さいまし、わたくしももうあきらめて、休ませていただきますでござりますから。おやかましうございました」
こう言って、
「友様や、友さんや」
「おーい」
一議に及ばず、米友が返事をしました。実はさいぜんからの事のいきさつを、米友は
「友さん、御苦労だが、その紙入をここへちょっと貸しておくれ、そうしてお前さんにもこの場へ立会ってもらいたいのだ」
「これかい」
米友が持って来た
「百両百貫とでもいわれた日にゃ道庵だって考えるが、三両と聞いて安心を致した、さあ、ここに三両の金がある……時と場合によればまだ二両ぐらいはどうにでもなる、これでその娘を受け戻すさ、そうすりゃお前、娘もつれて帰れるし、馬も引いて帰れるだろう、が馬があれば一家が養えるが、娘がいたって邪魔になるというわけじゃあるまい、だから、こうなると三両が大したものだ、さあ、遠慮なく取っときな」
そこで今度は、右の男が、眼を円くしてしまいました。
この人は何だろうと思いましたが、まんざら木の葉を包んで出したとも見えない。
「おれは十八文だが、時と場合によれば三両や五両の金には驚かねえ、遠慮なく取っときな」
道庵はここで大いに男を見せたつもりだが、見せられた方は、いよいよ度を失ってしまいました。
この偶然の
翌日、大得意で道庵先生が、馬に乗って福島の宿駅を立ち出でることしばし、
「あ、忘れた」
と馬上で叫び出し、
「あの
「よし来た」
宇治山田の米友は心得て、熊胆を受取りに、宿の方へ取って返しました。
そのあとを道庵は、
「ねえ源助様」
美濃の百姓の名は、これによって見ると、多分源助というのでしょう。
「はい、はい」
「泣く子と
「知っておりますよ」
「ところで、お前さんのそのお茶屋へ売ったという娘さんは、今年いくつにおなりだえ」
「十七になりましたでございます」
「十七……いいところだね、十七姫御が旅に立つってね」
「はい、はい」
「きりょうは、どうだね」
「左様でございますね、瓜の
「だって、お前、
「へえ、まあ、
「鬼も十七、山茶も出ばなといって、
「どういうものですか」
「どうだい、その娘さんに、これから
「そりゃ、まだ兄弟が幾人もございますから、相当なところがあれば、片附けたいのでございますよ」
「そうか、ひとつ世話をして上げようかね」
「お頼み申します」
「江戸じゃいけねえのかい」
「お江戸なんぞへ、山出しのあれが納まるものじゃございません」
「それじゃ奉公はどうだい、堅気のところならよかろうじゃねえか」
「堅いところがございましたら、お世話を願いたいものでございます」
こんな話をしながら辻のところへ来ると、
道庵は、そこに馬を止めて、まぶしそうに辻ビラを打ちながめて、
「ははあ」
とうなずきました。
上に「大岡政談」と
よく見ると、「大岡政談」の「岡」という字が、変則に書いてあるものだから「衆」という字に見えたがって、一歩読みそこなうと「大衆政談」になります。
もし、これが昭和の二、三年頃であったら、道庵先生も直ぐにそれを「大衆政談」と読んで、ははあ、これは普通選挙だなと呑込んでしまったかも知れないが、大衆というような文字は、そのころ
しかし、これが、つい間違えて「岡」という字を「衆」という字に似せてしまったのなら格別、わざと企らんで「衆」という字に焼き直したのなら、卑しむべきことだとも考えました。
いったい、焼直しということは、よくないことである。直しや、
しかし、焼直しをしたがったり、まがい物をこしらえたりして、あぶく銭を
人の積み蓄えた金銀財宝を盗めば、コソコソ泥棒でも罪になるが、人の苦心してこしらえた著作や、狂言を、いいかげんに盗み散らして、こしらえて、それで罪にならないものか知ら、これは問題だと思いました。何の道に限らず、功を成すには自ら刻苦して、これを成し遂ぐるところに妙味がある。骨の折れない仕事をして、儲けよう、儲けさせよう、という時代精神を憎むの心を起しました。
「字というものは、一字の違いでも大変なことをしでかすことがある。おれの仲間の


道庵は
「ところで、男というものは、一片の鉄を
こうして心待ちに待っているが、どうしたものか、あの気の短い男が、容易に姿を見せないのが不思議です。
米友が容易に、姿を見せないことによって、道庵の心にようやく
というのは、日頃、あまり米友の責任観念が強過ぎるものだから、せっかくの道中が監視附きのようになって、思うように脱線のできないことが、道庵にとって、
そこで、この機会にひとつ、彼を出し抜いて、思う存分にわがままを働いてみたいものだという謀叛気が、道庵の心の中で起りました。これは道庵として無理のないところがあるかも知れません。
「まあ、いいや、どのみち、馬が西へ向けば尾が東、ということになるんだから、落ちつくところは
といって、道庵はそのまま馬を進めさせてしまいました。
一方、特別注文の
「木曾路には、獣類の皮をあきなふ店多し、別して贄川 より本山 までの間多く、また往来の人に、熊胆を売らんとて勧むる者多し、油断すべからず」
と木曾名所図絵にも書いてある。そのそれを米友は見とれているのであります。
二十八
米友は、
その熱心な注目ぶり。
はじめて、この熊という動物を見たものか、そうでなければ、この動物について、何か特殊の興味を持っていないことには、こうも熱心に見つめておられるはずはないのであります。
しかし、米友が、特に動物学の研究をしているということも聞きません。
Catnivores のうちの Genus Ursus としての熊。
インド産のスロース・ベーアというものと、
四十二枚を数えられているその歯。
北極熊だけが白い。その白さも、他動物の白色は季節によって変るが、北極熊の白色は変らない。その北極熊の大きなのになると、六百ポンドから七百ポンドの目方がある。七十貫目から八十貫目の間。
最も普通なる Brown Bear(褐色熊)。
シベリア熊とか、ヒマラヤの雪熊とかいうのもそれだ。
ヨーロッパ種のそれと比べると、ヒマラヤ属のは少し小さい。
ヨーロッパ種の褐色熊は、大体において、鼻の先から尾の根までが八フィートに達するとすれば、ヒマラヤ種のは、五フィート或いは五フィート半、最も大きなので七フィートに過ぎない。
尾の長さは、いずれも二インチか三インチぐらいのものだ。
北の方のカムチャツカにも、またこの種類が

この種類の熊は比較的に非社会的の傾向を持っているにかかわらず、人に慣れて芸事をよくする。旅興行の役者や、見世物師は、これにダンスその他を仕込んで人に見せる。
最も強猛なのは、西北アメリカ、アラスカから、ロッキー山脈を通じてメキシコに至るその辺に散布する Grizzly Bear(半白熊)。
そのなかには千八百[#「千八百」は底本では「千百」]ポンド(二百十六貫)の体量を持ったやつがいる。
アメリカ
ヒマラヤ黒熊というのは、特徴の一つとして胸に月毛がある。
さて、日本の熊は、このヒマラヤ黒熊の地方種といってよかろう。
そうして、この日本産の熊も、国々によって多少の相違がある。現にこの檻の中に捕われている熊は……
死んだお君から言えば、米友は確かに学者であったには相違ないが、こんなようなふうにまで科学的に見ているわけでもないでしょう。
そうかといって、眼は熊に向いつつも、心はよそに、二大政党の勢力が
一万円の自動車を飛ばし、金にあかして多数の犬を
宇治山田の米友が、こうも一心に熊に打込んでみとれているというのは、この熊を見て、はしなくも、ムク犬のことを思い出したからであります。
米友は、熊を見ているうちに、ムクのことを思い出して、たまらなくなりました。
ムクはいい犬だったなあ――ムクは可愛ゆい奴だなあ――ムクは……
やや暫くした瞬間に、ハッと気がついて、例の責任感がこみ上げて来ると矢も
そこで宇治山田の米友が、木曾の福島の町をまっしぐらに飛び出しました。
今や、少なくとも、その三度目の失敗を繰返したとは、われながら
ああ、これは申しわけがない。軽井沢や、浅間の時は、十のものなら七までは先生の出し抜きが悪いかも知れないが、今度のことは、十のものが十まで自分の落度だ。こんなに長く熊を見ているんではなかった――
米友はこの十分の責任感で、木曾の福島の駅を西に向って道庵を追いかけましたけれど、かなりのところで、その姿を見かけることができません。
「おいらの先生はどうしたんだ、みんな、おいらの先生を見なかったかい――馬に乗ったおいらの道庵先生」
こう呼びかけながら、まっしぐらに、しかしびっこを引いて、彼は全速力で走りましたが、誰も要領よく答えてくれる人はありません。また米友も足をとどめて、要領よくそれを聞きただす余裕もありません。彼は走りながら、叫びつづけました、
「おいらの道庵先生――馬に乗った道庵先生、下谷の長者町の十八文の道庵先生」
「もしもし」
「何だい」
「休んでござりまし、木曾お六
「
「おみやげに桜皮のたんじゃく、墨流しのたんじゃく、お買いなさんし」
「おかみさん」
そこで米友が立止まって、これこれこういう
「ほんに、そういった
「西東へ?」
「まあ、この赤い櫛を一つお買いなさんし、これがのし、負けて六十四文にしてあげませず」
「おいらは、櫛は買いてえと思わねえんだ、おいらが櫛を買ったって、始末に困らあな」
「まあ、そうおっしゃらず。こちらにも三ツ櫛のいいのがござんさあ」
「人柄を見て物を言いな、櫛を買うような人間には出来ていねえんだぜ」
「それでは、おかみさんへのおみやげに」
「ばかにしてやがら、おかみさん
かくて米友は、また
なんとしても、水が上へ流れないように、
走りながら様子を聞いてみると、それは往々、程遠からぬ時間の間に、尋ねるとおりの人が、この街道を通った形跡は確かにある。
やや、安心した米友は、ついに二里半を飛んで、上松の駅まで来てしまいました。
そうして、
結局、とある酒店で、持参の
「寝覚の床というのは?」
米友から問い返されて、かえって、尋ねられたものが驚きました。
木曾を歩きながら、木曾第一の眺望、寝覚の床が頭の中に無いという旅人も珍しい。この男は、何のために木曾道中をしているのだかわからないと驚きました。
事実、米友は、風景をながめんがために旅行をしているのではないとはいいながら、沿道の風景を無視していることがかなり
現に、この福島から、上松に至るの間には木曾の
しかし、教えられた通りに寝覚山
臨川寺方丈の庭より見下ろす寝覚の床。そこへ来て見ると案の如く幾多の旅人が指をさし、眼をすまして、その好風景を観賞しているにはいるが、道庵の姿らしいのは一つも見えない。
弁天の
もしや、例の癖で、酔うて沙上に
見ていると、遊覧の人のうち、気の
ははあ、あそこから下りられるんだな……と合点して、たずねてみると、ここで見るのは寝覚の床の全景――ここを下ると横幅十間、長さ四十間の寝覚の床の一枚岩の上に出られるのだという。
そういうことなら、この下が本場なんだ。多分本場のその幅十間、長さ四十間という大岩の上あたりで、飲みながら、わが道庵先生は、
そこで岩角をくぐって下りてみる。この路はかなりあぶないが、米友の足では何でもない。そうしてまもなく木曾川のほとり、寝覚の床の一枚岩の上まで、難なく米友は下り立ったが、そこにはまだ誰もおりて来ていない。
米友ひとりが、寝覚の床の一枚岩の上に、脚下に滝なして
「
と宇治山田の米友が言いました。木曾第一の勝景と称せらるる寝覚の床の一枚岩の上に立っても、米友としては、これ以上の嘆称の言葉は吐けないのでしょう。
その
ただ、平凡な景色ではないという印象が、単に「素敵だなあ」の一句に集まって、「ナンダつまらねえなあ」とけなされなかったことだけが、寝覚の床の光栄かも知れない。
米友が
「川流れだあ」
この声で米友が思わず飛び上って、例の
「ちぇッ」
地団太を踏んで、激しく身ぶるいをすると、
「川流れだあ」
続いて
「それ見たことか」
米友は身ぶるいして、槍を取り直して意気込みました。
「だから言わねえこっちゃねえ」
彼は再び、まっしぐらに岩から岩を飛んで、声する方に走り出しました。
「ちぇッ」
走りながらも、身をふるわして
「だから、言わねえこっちゃねえ」
ただ
この男は、それと聞いて、はや独断をしてしまっている。いま叫ばれた川流れの本尊こそは余人ではない、わが道庵先生に相違ない、と早くも独断してしまっている。だから、本能的に憤起して、超人間的に、岩と岩との間を飛びはじめたのです。
「だから言わねえこっちゃねえ」
自分がちょっと目をはなせば、もうこのザマだ、世話の焼けた話ったら……酔っぱらって、とうとうころげ込みやがった、軽井沢や、浅間の、ちょろちょろ水へ転げ込んだのと違って、天下の木曾川へ転げ込んだんだ、
「ちぇッ」
米友は、自分の
「ほんとうに世話の焼ける先生だ、油断も、隙も、なりゃあしねえ」
米友、いかに俊敏なりといえども、寝覚の床の岩石の上を走るには、そう短気一方にばかりはゆかない。
「ちぇッ」
幾度か舌打ちをして、もどかしがり、
しかし、その間にも、単に激憤するばかりではない、道庵先生の世話の焼けることの
「先生……道庵先生」
ようやくにして群集のところへ近づきました。
ようやく河原の人だかりのところへ行って見ると、宇治山田の米友は、そこで大いに騒いでいる群集の中に、多くの武士階級の人を認め、事件の中心は、この武士階級の人であるなと思いました。
だが、
米友は最初から、そう断定してかかっているのですから、
「御免なさい、その川流れというのに一目逢わせておくんなさい、気がせいてたまらねえ」
人を
被害者として、それは武士階級の人の間に、非常な
これは溺死人あり、すなわち酔っぱらいの道庵先生――と独断してかかった米友の頭の問題ですから、ここで当てが違って、まず胸を休めたのは、まあ、よかった! という感じでありました。
かりそめにも自分の主と頼んで来た道庵先生が、被害者の当人でないという見極めのついた宇治山田の米友は、一時は重荷を卸したようにホッと息をつきましたけれども、再考すれば、不幸はどこにあっても不幸です。誰の上に落ちて来ても、不幸は不幸に相違ない。溺死という不幸が、自分の身に最も親近の道庵先生の上に落ちていなかったということは、まず安心には相違ないが、同じような不幸が、他の
溺れた人の不幸は、自分に親近であると
そこで米友は第二段として、当然、わが道庵先生の身代りに立たせられたような不幸の人を、見舞うの心を
「水を飲んだかね、怪我はしなかったかい」
といって、武士階級の人の間にわけ入りました。
しかし、狼狽、混沌の限りを極めている人々は、この奇怪なグロテスクの見舞に、さのみ注意を払うものがありません。従って、その見舞の言葉に、明確な謝意を表するものもないのです。
そこを米友は、かなり無遠慮に近寄って、現在の被害者をまともに見舞いました。それは只今、川から引き上げられたままの一人の若い、この武士階級の仲間のうちでもかなり身分のありそうな若い人が、引き上げられて正体なく、
「御主人様」
「鈴木氏」
「気を確かに持たっしゃい」
「おーい」
「鈴木氏――おーい」
口々に叫んで、それを呼び生かそうと努力することのほかには、他念がないらしい。
呼び生かそうとは努力するが、その努力は
「火を、早く火をお焚き下さい」
「おい、早く焚附を、薪を持て」
「薪ではいけない、
彼等は口々に騒ぐけれども、この武士階級を取巻いている土地の人が、かなり輪をかけた狼狽ぶりで、ほとんど物の用をなさないらしい。
「何よりも早く医者を、医者を呼べ、医者を呼ぶことが急務だ」
「おい、医者だよ、お医者さんだよ、餅屋は餅屋だから、お医者を呼んで来ることが第一だ」
と米友が声高く叫びました。
「そのお医者が、留守なんでございますよ、出払ってしまいました」
「ちぇッ」
米友はここでも
「おい、早く火を焚きな、火を。そんな……丸太ん棒を持って来たってどうなるもんか、
と、米友が歯がみをして叫びました。
「その藁というものが、この地方には
「ちぇッ……藁が無けりゃ、藁の代りになりそうな、
と、米友が三たび叫びました。
だが、米友としても、地団太踏んで、こうして無茶に指図がましく人をがなりつけたけれども、これ以上に、どうしたら、差当っての救急療法かということを心得ているわけではありません。
取巻いていた一団の武士階級も、その辺にはかなり抜け目があるらしい。大小を取って、衣類を脱がせて、裸にして、水を吐かせて、相当の摩擦を加えてみようとの機転も
平常の修練がないから、非常の狼狽がある。それは
「ちぇッ、いかに
こういって、四たび、
「そうだ、こういう時の、おいらの先生じゃねえかい、道庵先生はお医者の名人だ、下谷の長者町の道庵先生に限る」
と気がついたけれども遅い、その先生はここにいないじゃないか。一緒につれ立って影の形におけるが如くあるべきはずの、また今日まであって来たところの先生が、この時、この際、先生でなければならない時、その先生ありさえすれば、死ぬべき人が生きて助かるべき際……いないじゃないか。
「ちぇッ、世話の焼けた先生だなあ、人に助けられるばかりが能じゃねえや、ちっとは人も助ける気になれねえものかなあ」
米友は、五たび、六たび、そこで地団太を踏みました。ほんとうに米友の
「ちぇッ、その立派な医者を、おいらがひとつ探して来るから、それまで死なさねえようにして置きな」
と言い置いて米友は、
どこを当てともなく
道庵先生、いかに神医なりといえども、いつどこで探し出されるか知れないものを、そのあてどのない尋ね人を探して来るまで、死ぬべきものを死なさずに置けとは、米友の注文が無理です。
しかし、無理であってもなくても、火の玉のようになって飛び出した米友を、
坂をかけ上ると、そこで、土地の人のふるえながら語るのを聞きました。
「尾州様の、お山係りの殿様が水にはまっておしまいになった、医者を、医者を、とおっしゃるけれども、尾州様の御家中の脈をお見せ申すような医者が、この
それを小耳にはさんだ米友が、ははあそれでは、木曾は尾張の御領分だと聞いたから、尾州家のお山めぐりの役人が出向いて来て、そうしてこの災難だなとさとりました。
だが、尾州家の役人なるがゆえに、尻ごみをして出ないという、この土地の医者のぞろっぺいを憐れむにつけ、わが道庵先生――米友の眼と、心とを以てすれば、天下に一つあって、二つはない名医の道庵先生ともあるべきものを、現に自分が同行の光栄を有し、自分が頼みさえすれば、いや、頼まなくともこういう際には、十二分に出しゃばるべき先生を、ついした自分の
そうして、彼は街道筋へ出たけれども、さて次へ進んでいいのか、後へ戻っていいのか、その事さえわかりません。次の須原駅までは三里五町、あとへ戻って上松までは僅かに十町という観念があってしたのではないが、米友は本能的にあと戻りをしました。それはつまり、臨川寺から現場までは岩石の間を宙を飛んで歩いたが、街道筋は残している。そこに多少の心残りがあったのでしょう。
「先生、道庵先生!」
彼は相変らず、声高く叫んで飛び走りましたが、
ここに於て、米友は確かに
「どうも仕方がねえ、運の悪い時には悪いもので、物が行違いになる時には、行違いになるものだ、おいら一人がやきもきしたって、助かるものは助かる、助からねえものは助からねえんだ」
米友にもまた聡明がある。人力の及ぶべきところと、及ぶべからざるところとを、このごろ、ことにお君を殺してから、つくづくと悟ったもののようです。
ですけれども、天性の正直から来るところの短気は、持って生れたもので、急にどうすることもできません。
血眼になって、あせりきって、歯噛みをして、地団太を踏みつづけながらも、どこか心頭の一片に鉄の如きものがあって、あらゆる短気と、
そうして彼は、臨川寺の門に程近いところまで来ると、どうも再びその門の中へ踏み込んでみたくなりました。
ここは、もう一応確めてみねばならぬところだと思いました。
二十九
宇治山田の米友をして、こんなにまで気を
道庵先生と相対している、同じ年配の、頭だけを僧体にした見慣れない
道庵はと見れば、これは頭の
かくて、臨川寺の方丈の上で、道庵先生と、
「いかがでござる、道庵先生、木曾街道の印象は……」
「悪くないね」
道庵が仔細らしく
「第一、この森林の美というものが天下に類がないね……
「
「そうだろう、第一、色が違わあね、この堂々として、真黒な色を帯びた林相というものが、ほかの地方には
「樹木の性質と、年齢とが違いますからね。まずあの檜林の盛んなところを御覧下さい」
「なるほど、
「左様でございますよ、御承知の通り檜に椹、それから

「なるほど。森林美も大したものだが、これを金に踏んだら素敵なものだろう」
「富にしても、容易ならぬ富でございます」
「尾州の奴、うまくやってやがらあ……」
と道庵は、あぶなく口が
「尾州様も大したものをお持ちなさいますねえ、お金にしたら大したものでござんしょう、木曾は尾州様のお金倉だ」
イヤに改まったものですから、
「全く、その通りでございます、木曾は尾州家の
僧形の同職もまた改まったから、道庵も少し改まって、
「どんな話?」
「左様でございます、天保の水野越前守様の御改革の時でございました」
「なるほど」
「あの時分、大公儀もずいぶん、経済には難渋しておいでになりましたからな」
「今だってそうだよ、今だってふところ
そろそろ、道庵の返事が脱線しかけたのを、僧形の同職はさあらぬ
「何しろ大公儀にしても、われわれにしても、暮し向きは財政が元でございますからなあ、そこで天保の改革の時に水野越前守殿が……何といっても、あのくらいの豪傑でございますから、早くもこの木曾の森林に眼をつけてしまいました」
「なるほど」
「尤も、それとても越前守殿が眼をつけたというわけではごわせんが、しかるべく建議をしたものがあるんでございましてな」
「何といってね」
「尾州領のあの木曾山を三年間、幕府へお借上げになりますならば、当時幕府の財政も充分に整理ができる見込みだと、こうそれ、越前守殿に吹込んだものがあるんでございますな」
「よけいなことを吹込みやがったね」
「尾州家にとってはよけいなことですが、幕府の財政整理のためには、無類の妙案なんでございましょう、越前守殿ほどの鋭敏な政治家が、それをなるほどと
「なるほどと思ったってお前、親藩とはいえ、他領ではないか、どうなるものか」
「しかし、時勢が時勢でございますからなあ。それに、執権がボンクラ大名と違って、名にし負う水野越州でございますから、直ちにそれを採用して断行することになり、尾州家を呼び出し、将軍の御前において、水野越前守殿自ら、この趣を尾州家に申し入れようとの段取りとなりました」
「さあ、そこだ……そこで尾州の奴、何と出た……様、様、様、様」
道庵がここで、あわわをするように口を
「左様、その時、尾州を代表して、江戸城へ
「なるほど、こいつは大役だ、家老、骨が折れるだろう、何しろ天下の将軍の面前で、水野越前守を向うに廻すんだからなあ、この役は大役だ、道庵が買って出てもいい役だ」
道庵が一方ならず
「そのお召しによって、江戸幕府へ
「そりゃ大抵きまっているだろう、ヘタな人間は出せないからな、家老でも、大石内蔵助どころでなくっちゃあ勤まらねえ、九太夫なんぞをやってごろうじろ、
道庵が、まじめのようにして聞きながら、茶々を入れたがるのを、僧形の同職は心得て受け流すところが、かなり道庵扱いには慣れているものと見えます。
「ところがね、道庵先生、その鈴木千七郎殿が、家老には家老でございますが、その時ようやく十七歳の
「十七……」
といって道庵が、
「さあ、もう一つ、いかがでございます」
といって、下に置いた道庵の杯に酒をつぎました。
「十七の
道庵は興ざめ顔に、下に置かれた酒を取って飲みますと、僧形の同職が、
「まあ、お聞き下さいまし。そうして尾州家は、十七歳の鈴木千七郎殿を江戸表へ差しつかわし、水野越前守殿の面前に立たせました」
「相手が悪いね、越前守ときた日には、あの通りのやり手であるのみならず、その弁舌ときた日には、徳川三百年でも、ちょっと比較のない男だよ、弁舌がさわやかで、威力があって、男ぶりがよくて、腕が出来ている。水戸の藤田東湖のようなむずかし屋でさえ、水越の弁舌には参っていたよ」
と道庵が言いました。そうすると僧形の同職が、同じような調子で答えて、
「その通りでございます、その通りの威力と、弁舌で、高圧的に、御都合
「なるほど……うまいところを言ったね、それで越前守が何と言ったい」
「満座の者が、この少年家老の奇言に驚倒したそうでございます、ところが水野越前守殿が少年家老に向って、そのほう、少年の身でありながら、主人に一応の相談もなく、公儀に向って即答をなすとは奇怪千万――水野殿もさるものですから、こういって叱ると、鈴木少年家老は申しました、不肖ながら、それがしは尾張藩を代表して参上つかまつりました、拙者の申すところに一家中異議のあろうはずはござりませぬ、ときっぱりと言いきってしまったから問題はありません。これがために、大坂城の御借用はもとより、木曾山お借上げのこともおじゃんになってしまいました」
「そりゃ、そうありそうなことだ、そうなけりゃあならぬことです。しかし、鈴木少年家老の器量、あっぱれ、あっぱれ、まさに木村長門守血判取り以上の成績だ、誰が知恵をつけたか知らねえが、出来ばえは申し分がねえ」
と道庵も感心をしました。僧形の同職は、なお念をおして言いました、
「かりにその時、
といって僧形の同職は、自分の頭をツルツルと撫で廻し、
「しかるに先生のお
と言われて道庵がくすぐったい顔をして、自分の頭の即製のハゲかくしを撫でてみました。
「それで今日は、その尾州家の木曾領お見廻りの重役が、この川狩りを検分に参りましたために、川狩りが今日は休みでございます」
僧形の同職がこう言ったものですから、道庵は聞きとがめて、
「川狩りの検分というのは、何ですかね」
「それは、その、木曾のお山から
「なるほど」
「谷に沿うたところには
「なるほど」
「もう少し
「なるほど」
「それにもう一つ、川狩りから出た材木は、使用する人に賞美されましてな。それというのは、いったん川水を十分に含んで、それから後乾燥して縮まりますから、使用した後に狂いが来ないそうでございます。ほかの方法で運び出した材木は、そうはいかない、どうも狂いが出て困ると、その道の大工が、この川狩りの材木を賞美するのも奇妙でございます」
「なるほど、木は山から伐って、川を流して、人に使われるように出来てるものだな」
「いかがですか先生、ここを下りますると、あの一枚岩の上へ出ますが、
僧形の同職がすすめるのを道庵は、首を横にふって、
「まあ、せっかくだが、興は満なるを
といって、道庵は、フラフラと立ち上って見せました。
道庵の足もとのあぶないのは、今にはじまったことではない。その足もとのあぶないことを自覚して、そうして、多少の冒険をも
「足もとが、こんなだから、足もとの明るいうちに失礼して帰ると致しましょう、どうもはや、おかげさまで寝覚の床をとっくりと見物したから、寝ざめの悪いこともござるまい――ああ、そうだ、浦島の伝説、あれはあんまり当てにならねえ」
といって道庵は、あぶない足もとを踏みしめて縁を下りました。
かくて上々機嫌で、臨川寺の方丈の縁を下りた道庵先生は、門前につながせた馬に乗ろうとして、例の僧形の同職に送られて庭を歩く途中、寝覚の床を眼八分に見渡しながら、
「しかし、ここで浦島太郎が釣を垂れたというのは、少少怪しいね。そもそも浦島が子の伝説は……」
と道庵は、古事記や、日本書紀をひっぱり出して、浦島の
僧形の同職は、それを聞いて同感の意を
「
「川越三喜――なるほど、あれはわれわれの同職で、しかも武州川越の人なんだ。わしはこう見えても江戸ッ児だが、三喜も、江戸ッ児みたような、武蔵ッ児の、川越ッ児なんだ。川越はお前、今でこそ
「左様でございますな、古書を調べてみますというと、三喜は、寛正の六年に武州川越に生れたとあります。医師となって長享元年に
「
道庵が、つまらないところで
「ハハハハ、左様でございますとも、後世になれば、先生と、甲斐の
「そう言われると、ちっとばかり恥かしいのさ、徳本は、拙者の先輩だが、道三の三喜におけるが如き
そうして、門前につないでおいた馬に
「先生、いいかげんのことがいいぞ」
やにわに飛びつかれたので道庵は、一たまりもなく、馬からころげ落ちてしまいました。
馬から転げ落ちた道庵を、土まで落ちない先に受け留めた米友は、それを馬の背の上へ押し乗せて、自分がその口を取って走るというよりは、馬の口にブラ下がって走りました。
こうして米友が、川岸の溺死人の騒ぎ場へ道庵を連れ込んだのは、長い時間の後のことではありません。
現場へつれて来られてから後の、道庵先生の働きぶり。
道庵はまず、かけつけて、畳をむしりこわしたりなんぞして、
「肛門から出血もしていないし、手足も硬直しているというわけではない、水は飲んでいるが、そう多分のことはない、多分のことはないが、それを吐かせきってしまうのが急務だと考える」
こう考えたものでしたから、米友をして、この溺死人の両足を肩にかけて、充分に身をかがめさせて、二十間ほど走らせました。そこで溺死人が、飲んだ限りの水をブクブクと吐きつくしてしまった時、米友が、また以前の場所に立戻った時は、死人は立派に生き返っておりました。
その一方、道庵は土地の人を指図して、河原の砂の上に火をたいて、暖かくしておいて、その上に被害者を寝かせて、なお砂を火であぶらせて、その熱いのを、別府の浜の砂湯でするように、被害者の五体の上へ、眼と口だけを残して覆いかけました。
そうして、一ぷくしている間に釣台が出来たものですから、すっかり元気を回復した被害者を、ともかくそれに載せて、
誰も、この時の道庵の扱いぶりの
米友は、道庵に心服しておりながらも、どうかすると、そのいけずうずうしいことに
道庵はこれだけの仕事を、極めて無雑作に済まして、それから、焚火の傍へよって、かます入の
当座の人気とは言いながら、さほどの名医が来合わせたということが、
しかし、最も多くの感謝と、尊敬とを払っていたものは、現に被害者を出して救われたところの、尾州家の木曾の御料林の見廻りの役人たちです。
「先生は、上方見物の道中と、承ったが、苦しからずば、これより尾州名古屋へ道をお
これを聞いて道庵先生が、
これはもとより、その志であったのです。先輩の弥次郎兵衛、喜多八が、東海道中膝栗毛なんぞと大きい口を
三十
どこから来るともなく、真暗いところの真中で、弁信法師の声、
「モシ、お嬢様――」
と呼んで、
ここで、弁信がお嬢様と呼んだのは、それはお銀様のことでしょう。しかし、ここにはお嬢様の姿も見えないし、暫く待ってみても、その返事がないのですから、おそらくこの近いところに、呼びかけた当人はいないにきまっております。しかし、また、呼びかけた当人がいても、いなくても、弁信は、ふとその頭に上り来ったほどの人は、かたわらに在るが如く呼びかけるの習わしは、今に始まったことではありません。
「モシ、お嬢様、あなたはまた、何かおむつかりになっておいでになりますね、お腹立になっておいででございましょう、あなたが、烈しい
こういって弁信法師は、真暗い野原の中に耳を傾けて、また暫くは無言でおりました。別段、返事を期待しているとも見えないが、何か心には期するところがあるにはあるもののようです。
第一、ここは白根三山の
「お嬢様、あなたが、むらむらと
と言いながら、弁信はソロソロと歩みはじめました。
「あ、いけません、それが悪うございます、それですから、あなたのその憤怒の心に油が加わるばかりでございます、消えるどころではない、いよいよ燃え上るばかりでございます、そういうことをなさるから、それで……あなたの身と、魂が、ジリジリと燃焼して参り、やがてそれが、現在のあなたの
と言って弁信法師は、また立ちどまって、
「その
弁信は見えぬ眼を上げて、高く、暗黒の空の一辺をながめ、
「瞋恚というのは、十種
弁信法師は、ソロソロと歩み出して、
「しかし、どちらに致しましても、
そこで、弁信はまた立ちどまって、方向の違った天の一角をながめました。ながめる形をしたのですから、天の一角に何があるか知れたものではありませんが、
「あらゆる
弁信のひとり言は、ここで一段落になったけれども、言葉が終ると共に、弁信の鋭敏な頭のうちに、お銀様というものの姿がありありと現われました。
弁信は、お銀様というものには少しも悪意を持っていないのです。悪意を持つべきいわれもありませんけれど、親しく生活して、たがいに打ちとけ合ってゆくうちに、お銀様という女の人の性格に、非常にいいところのあるのを、何人よりも多く発見しているのが弁信であります。家の者全体が、その父親でさえが、
しかし、お銀様自身は
だが、幸か不幸か、お銀様自身が吹聴する容貌の醜悪なる
竜之助は、容貌の人としてのお銀様を知らずして、肉の人としてのこの女を、飽くまで知りました。弁信は今、その他のものに盲目にして、心の人としてのお銀様を見ることに親切でありました。
弁信の前にのみ、傷つけられざるお銀様の、少女としての、処女としての、大家の令嬢としての品性が、美しくえがき出さるることがあるのであります。弁信のみが、彼女の
しかし、ひとたび、物に触れて彼女が、その怖るべき瞋恚の一念に
多分、今晩もそうしたような場合から、弁信はひとり
こうして、行き行く間に、一つの穏かならぬ事体を、弁信が感得しました。
行手の、ほとんど十数町を隔てたと覚しいところあたりにおいて、烈しい空気の動揺を弁信が感得しました。
普通の人の耳で聞き、普通の人の眼で見ては、何の
「ああ、何か事が起りましたな、間違いがなければいいが」
足をとどめ、胸をおさえて、行手の方を背のびするようにして注意しました。
それからいくらもたたない後のことであります、弁信が背のびをしてながめた行手の空が、ボーッと明るくなりました。
空が明るくなってみると、四方の森、林、山岳までが反射して、おぼろながら弁信の立っている野原の中の一つの姿も見え、そうして、その背後に、
「間違いがなければいいが――」
彼の
その時分にはじめて、人の叫喚が
そう思うせいか、ちょうど、この時分になって
「悪い風だ、悪い時に――」
と弁信は
弁信は
憂えを胸におさえつつも、非常に向って、ゆっくりした足どりで進んで行くうちに、おびただしく馬の
しかも、それはまだ七八町も離れてはいるが、弁信ほどのものが、その精密な距離の測定と共に、現に焼けつつある家が自分と、どういう関係の遠近にあるかということの見立てを、誤るという理由は少しもありません。
いま、焼けつつある家は、自分が現に厄介になっている藤原家の邸内の、そのいずれかの部分であることは間違いがありません。藤原家の屋敷では、親子兄弟がみんな別々の棟に住していますから、
ここで、もし弁信の眼が見えて、その鋭敏な頭脳に、火と、煙の色とが映って来たなら、直ぐにそれによって、家屋の新旧と、建築の大小を判断して、これは誰の住居だと推定してしまったでしょうが、この場合、そこまでの判断を
そうして、不自由のうちにもできる限りの用心と、速度とを以て、非常の方に急いで行きますと、その行手に当って、また一つのものを感得しました。
まさに、こちらへ向って走って来る人がある。その人は一人である。たった一人で、自分と向い合って走り
おお、そうそう、その人の荒い、せききった息づかいさえ、この胸に響き渡るではないか。
三十一
そこで弁信が立ちどまっていると、走り来って、ほとんどぶっつかろうとして、
「まあ、あなたは、弁信さんじゃないの」
「そういうあなたは、お嬢様でございましたね」
「あ、なんだって弁信さん、今時分、こんなところを一人歩きをしているのです」
「それは、私から、あなたにお尋ねしたいところなのです、あなたこそ、どうして、今時分、こんなところへ、お一人でおいでになりましたのですか」
「エエ、わたしはね……逃げて来たのよ」
「火事でございますね」
「エエ」
「火事は、お屋敷うちには違いございませんが、どなたかのお
「あのね、弁信さん、火事は本宅なのよ」
「御本宅――」
「エエ、そうして、わたしの屋敷へも移るかも知れない、あの火の色をごらん」
「それは大変でございます、それほどの大変に、どうして、あなた様だけがお一人で、こっちの方へ逃げておいでになったのですか、あとのお方には、お怪我はありませんか」
「それは知らない、わたしは怖いから、わたしだけが逃げて来ました」
そういって、お銀様は立ちどまったままで、後ろを顧みて、竹の
「ああ、お嬢様、あなたは怖ろしいことをなさいましたね」
「ええ」
「あなたは、いけません、それだから、私が怖れました、ああ、今や、その怖れが本物になりました」
「何を言ってるの、弁信さん」
「お嬢様、あなたこそ、何を言っていらっしゃるのです」
「わたしは何も言ってやしない、ただ、怖いから逃げて来たのよ」
「火事が怖ろしいだけではございますまい、あなたのお胸には、良心の怖れがございます」
「何ですって」
「ああ、あの火事の知らせる早鐘よりも、あなたのお胸の
「弁信さん、
「何が、そんなに怖いのでしょう、火事は家を焼き、林を焼くかも知れませんが、人の魂を焼くものではありません」
「だって、だって、弁信さん、お前は眼が見えないから、それで怖いものを知らないんでしょう」
「怖いのは、火事ではありません、人の心です」
「いやなこと言わないようにして下さいよ」
「本当のことを言っているのでございます、私には、火事の火の色は見えませんけれども、心の火の色が見えます」
「今は、そんなことは言わないで頂戴」
「そうして、お嬢様、あなたは、これからどこまでお逃げなさるつもりですか」
「そうでしたね、こんなに逃げたって仕方がありませんわね、それがどこまで逃げられるものでしょう」
「わたしと一緒にお帰り下さいまし」
「まあ、ゆっくりしておいで、あの火事をごらん、まあ、なんて
お銀様と、弁信は、もつれるように並んで歩きながら、広い
「弁信さん、
弁信もまた、その小高いところに踏みとどまっている。小さな姿いっぱいに、火の色が照り返しています。
小づくりな、色の白い弁信の姿が、この時は
「助かりませんか」
「もう、駄目でしょうよ」
「ああ、怖ろしい音がします」
「でも、大切なものは、みんな取り出してしまったでしょうから、安心です」
「あのお文庫倉へは火が移りませんでした? あの中には、私が聞いてさえ惜しいものがたくさんございます」
「あれは大丈夫、
「あなたのお屋敷は?」
「もう焼けてしまっているでしょう、
「それでは、あなたのお屋敷へ、一番先に火が廻ったのですね」
「え」
「もしや、あなたのお部屋が、その火元ではありませんか」
と弁信が後ろを振向きました。この時お銀様は、弁信とは一間ほど離れて立っていたのでしたが、
「そうかも知れません」
「それで、お嬢様、誰よりも先にその火を見つけたのは、あなたではございませんでした?」
「ええ、そうなのよ」
「その時、あなたはなぜ、人を呼んで消し止めることをなさらないで、こんな遠くまで逃げて来ておしまいになりましたか、あなたにも似合わないことではありませんか」
弁信は、火の方に
お銀様も、それには何とも答えないで、上からおしかぶせて見下ろすように、燃えさかるわが家の火をながめていましたが、その怖ろしい
これは恐怖と狼狽の余り、前後の見さかいもなくして、ここまで逃げて来た人の態度でも、表現でもありません。
「弁信さん、火事というものは、近いところにいると怖いが、こうして遠くで見ていると、愉快なものねえ」
と言いました。
「なんとおっしゃいます」
弁信は、こちらを向かずに、押返しました。
「弁信さん、あなたには、あの盛んな火の色が見えないでしょうが、人の災難は別として、ただ見ている分には、なんという壮快なながめでしょう」
「そうですか、左様に見えますか、人間の災難も見ようによっては、愉快、壮快というものに見えるものですか。もし、そうだとすれば、人間の眼というものは怖ろしい魔術使いでございます。私は左様な魔術使いを、自分の
「弁信さん、理窟は抜きにして下さい、火というものは愉快なものです、壮快なものです、いっそ、この地上にある最も痛快至極なものであるかも知れません」
お銀様は、冷然として、昂奮してきました。冷然として昂奮はおかしいようですけれども、事実、さきほど、弁信に行当った当時は、多少とも、恐怖と、狼狽とに、とらわれていないでもありませんでした。ここへ来て、まともに、わが家の火の全景を見渡した時、はじめて冷然として、その持てるところの強味が、土から生えたもののようであります。
これに対して弁信の落ちつきは、例によって、
弁信が冷然として答えずにいると、冷然として昂奮してきたお銀様が、
「ごらんなさい、この地上に、あれほどの力を持った暴君がありましょうか」
「暴君とおっしゃるのは」
「ごらんなさい、私の家は、王朝以来の家柄だと申しておりました、
「お嬢様――あなたは、それがいいお気持なのですか」
「まあ、お聞きなさい、人の惜しがるものでも、惜しがらないものでも、火はああして平等に灰にしてしまいます」
「平等という言葉は、左様な時に用うべき言葉ではありません」
「それでも、火には
「いいえ、あります、あります」
「ありません、決してありません、火は愛です、絶大の愛です、誰が、火を怖ろしいと言いましたろう、誰が、火を
「それは、力でも、愛でもありません、破壊です、絶滅です、本当の力には救いがなければなりません、本当の愛には生命がなければなりません」
「そんなことはわたしは知らない、わたしはあの火に救いを認めます、あの火に絶大無辺な愛を認めます。考えてごらんなさい、人間の愛というものに、
「お嬢様、それは間違っております、出発点が間違っていますから、それで結論がまた間違ってしまいます、間違ったなりに徹底して、さながら一面の真理でもあるかのように聞えるのが、
おしゃべり坊主は土に坐って、一気にこれだけをしゃべりました。
三十二
「何とでもおっしゃい」
お銀様も、土の上に腰をおろして、相変らず冷然として、おしゃべり坊主のいうことを取合いませんでした。
火は盛んに燃えて、集まるほどの者が、それを消すべく懸命の努力を試みているのをよそに、弁信法師も、お銀様も、小高いところに坐り込んだまま動こうとはしません。
一方、馬のいななきが盛んに聞えるのは、火を消すことに努力するものの一方には、馬のはやるのをしずめることの努力が想像されます。火を見てはやる馬は、暗い方へは逃げずして、明るい方へ進みたがることは、火取虫と同じです。そうして、その明るい方の危険なることを知らざることも、また、火取虫と同じです。
常の世にあっては、
火は頂上を過ぎました。
だが、こちらの方、二人は例の小高いところに腰を卸したまま、動き出そうとしないのは変りません。どちらが先に、地面に腰をおろしたとは知りませんが、ほとんど申し合わせたように、地上に坐り込んで動かないところは、動かないのではなく、動けないのかも知れません。さりとてこの二人は、非常の大変に
こうして、坐っているところへ、大火のほのおの光線が反射して来ました。夕暮の空に
弁信は、もはやしゃべりません。しゃべらないで、両膝を二つの手で抱えて、首をその中へうなだれています。火の方には向いていますけれども、最初から火を見ているのでないことは
弁信は少しも昂奮してはおりません。膝を抱いて、うれわしげにうつむいてはいるが、決して泣いているのではありません。
峠を過ぎれば、どうしても下り坂です。いかに大家でも、棟が落ちた以上は、下火になるばかりであります。おそらく朝になっても、
おお、おお、
はやりきった馬はまだ血気が下りきるまいが、鶏は平和だ。いかに
しかるにこの二人はまだ、歩き出そうということを言いません。立ち上ろうとする
しかし、本来ここに作りつけてあったわけではなく、尻から根が生えたわけでもありませんから、早晩は動き出さなければならぬ運命にあるものです。
どちらが先ということなく身を起すと、二人の影法師が原っぱの上に、火災の余光を浴びて、影を引いて動き出しました。
ようやくにして被害地のところまで来て見ると、それは申すまでもなく戦場同様の有様であります。消防に出陣した人のすべては、まだ一人も退却したものがないようです。
何事でしょう、火はもう
険悪ではない、不安の憂色です。憂えの色が、火の光と、働きの疲労に
しかし、険悪にせよ、不安にせよ、
緊張も、ある程度以上は罪悪です。人生そのものが、さながら戦場であるとはいえ、人間そのものが、いつも緊張のみしてあるべきはずのものではないのです。緩慢もなければならん、放笑もなければならん、余裕もなければならん。
ところが、この人々は、火は消えたけれども、消して消しきれない非常がまだ残っているようです。
それもそのはず、火事よりもなお非常な事変が一つ残されているのです。それは人命です。人間の生命の
というのは、一つには伊太夫の後妻、お勝の行方がわかりません。そのお勝の腹に生ませた伊太夫の
馬一頭も、犬一匹も、鶏の一羽も、生けるものの生命としては損傷もないのに、この重大な四つの人間の行方がわからないのは、これは火事以上の非常事でした。
家は惜しいとは言いながら、藤原家の富を以てすれば、これに十倍するの新築をなすことは何でもない――ただ人命に至っては、そのいとちいさきものといえども、人間の手で
今まで帰らない以上は、心あたりの避難所という避難所をみんなさがしたが、みな手を空しうして帰って来た以上は、どうしても、その四個の生命が、この大火の下に埋められている、というこの上もなき不祥を想像せざる者はない。想像して、これを是認せざる者はない。是認して、戦慄せざるものはない。
さしもの伊太夫も、狂気のようになって、火という火のまわりを飛び廻り、人という人をつかまえては、人間の安否をたずねている。それに和する人の声に、いずれも絶望の色の漂わぬというものはない。
そうかといって、この
「飛んでもねえことだ、お気の毒なことだ、四人が四人、一人も助からねえとは……」
さればこそ、この険悪と、憂色とが、すべての人を覆うている。この時、一方に
「お嬢様がお帰りになりました、小坊主の弁信さんと一緒に……」
人をかき分けた伊太夫は、お銀様を抱いて、火のようなうれし涙を見せました。
しかし、お銀様はわりあいに冷淡で、そうして少しく臆病であっただけです。
弁信が
「お勝はどうした、三郎も一緒か」
と叫びました。
お銀と、弁信と、二個の生命が、ともかくも無事でここへ現われて来たのが夢でない以上は、つづいて、もう二つの最愛の後妻と、生みの男のひとり子とが、そのあとに続いて来てもよかりそうなものではないか。
ところが、それが無い!
伊太夫は片腕にお銀様を抱えながら、しきりに片手を振って叫びました、
「お勝――三郎、三郎とお勝はどうした、お勝と三郎はまだ見えないか」
しかし、いずれからも、その二人の姿は見えて来ないのみならず、どちらから来る報告も、その有望をもたらすことがありません。
伊太夫は絶望の眼を以て、火の色を見つめました。
しかし、前にいうところの如く、たとい
伊太夫の周囲を取巻く人は、みな、期せずして同じように、絶望の色を漂わせていないものはありません。
それは、前後の事情を聞き合わせて想像してみると、どうしても、不祥な判断に落ちて行かないということはできないのです。
たとえば、一方においてこれらの人間に聞かれないところの、ある物蔭において、雇人たちのゴシップを聞いてごらんなさい。大体こんなようなことを言っているのです。
この火事の前、お銀様が烈しく怒っていた。それは何の
そこへ、例の弟の三郎が入って来た。実は三郎が来たためにお銀様が、そんなに怒り出したのかも知れない。その前後のことはわからないが、とにかく、三郎様も火のように泣き出した。そうすると、奥様が――つまり三郎様には実の母親、お銀様には継母であるところの――奥様が今日はまたそれについて、烈しい御立腹のようであった。
火事! といった時、火の廻りの早かったこと。それは油か、
その結果、ついに、つい今まで三人の方の
これらのゴシップは、日頃が日頃だけに、だれの頭にも、多大の疑惑を植えつけぬということはない。
親子兄弟の間が棟を別にして、絶えて往来をしないという家風――そこからだれの頭にも、この事変に関聯して、怖ろしい想像が湧かないということはないが、物蔭のゴシップにしても、そこまでは口にのぼせていう者がない。
この時分、お銀様はもう、ずっと離れた文庫蔵の二階へ来て、
ぜひなく、
けやきの大樹の下に座を構えていた弁信は、今、眼前に大きな火の海を見ました。
大火がおおよそしずまった時分になって、はじめて弁信は、その見えぬ眼前に、広大なる火の海を見ました。
火焔何十里にひろがる火の海を見ましたが、弁信の見た火の海は熱くありません。色は赤く、
そこから立ちのぼる一味清涼の風光。それを弁信はまのあたり見ていると、その紅蓮の池の真中に、二つの人の姿の
母子二人は、その紅蓮の池の中を楽しげに歩いていました。広大なる火焔の池の中を、自家の庭園を歩むもののように歩んでいたが、ある一点へ来ると、二人は急にそこにとどまって、相抱いて地に伏してしまいました。それは無論苦しむために地上に伏したのではなく、春の野に、もえ出したつくしを、母が子のために
弁信は、それをも不思議だと思いました。その時に火焔の海が、何十里というもの、おおゆれにゆれ渡ると、伏していた母子の姿が見えなくなりました。
その途端のこと――その火焔の海の上に二つの
真紅の広海の上に置かれた純白な二つの髑髏――それを弁信だけが、まざまざと見ました。
そこで弁信は思わず
「推落大火坑、
と念じました。
そうすると、二つの髑髏もグルリと弁信の方へ向き直って、そのうつろな四つの眼を合わせて、弁信の方を見つめ出しました。そこで弁信はいやおうなく、
「
とつづけますと、髑髏が喜びました。そのうつろな眼を以てしきりに、もっともっととせがむような気がしますものですから、そこで弁信は
経を誦して半ばに至らざる時に、髑髏のうつろなる眼から、ハラハラと涙のこぼれるのを、弁信法師は確かに見ました。
いよいよ普門品一巻を誦し終った時に、弁信の頭上のけやきの枝と葉がサラサラと鳴って、そこから人が下りて来ました。
まさしく人の形には形をしています。真黒な
「あなたは、どなたですか」
と尋ねますと、
「はい、私は
と答えたままスラスラと火の海を渡って、あの二人のどくろの前へ近づくと、おどり狂うように、その前にひざまずいて、やがて二つのどくろをかわるがわる両手に捧げて、立ちつ、居つ、おどっているのを弁信が、見えぬ眼でまざまざと見ました。
「
と弁信は合掌してから、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、と限りなく、念仏の声が口をついて出でました。
三十三
その火事があって幾日かの後のことでありました。
「恵林寺の大和尚が、素敵もなく大きな卒塔婆をかつぎ込んで、西の方へ向いていらっしゃるが、どこへおいでなさるのだろう」
「左様さ、どこぞの供養か、
「どうです、ごらんなさい、あの大きな卒塔婆を……何丈ありますかねえ、木とは言いながら、あれだけのものは、へたな牛でもにないきれますまいね」
「
「ほんとうです、あの大和尚さまの力はわかりません」
「どうです、あの卒塔婆に書いてある文句がわかりますか」
「わかりませんね」
「字が読めますか」
「読めません――変てこな字ですねえ、あんな字は日本の国にはないでしょう」
「
「こちらの方の頭には漢字で弥帝

「あれはみちりやと読みます」
「どういう
「さあ――それはわかりませんねえ」
「ひとつ、大和尚に伺ってみましょうか」
「およしなさい、芸もないから」
そんなことをいって、慢心和尚の通る沿道の人が、それを評判しないのはありません。それはこの甲斐の国で、おそらく慢心和尚を知らない人はないのでしょう。それは
それで、今も、和尚を見送りながら、
それは今言う通り、牛もひきわずらうほどの大材木を軽々と肩にかけて、さっさと歩む超人間の力量に、ほとほと舌をまいて、またあいた口がふさがらないのです。つまり牛馬以上の力量に、衆人は驚嘆しているのであります。
群衆が
「伊太夫のところに不幸があって、わしに供養をしろというから、これをかつぎ込むのだ、みんな見に来たい奴は見に来い、伊太夫のところでは六月の一日に、先祖以来たくわえた金銀財宝を残らず取り出して、欲しいというほどのものに
こういって慢心和尚は、右の肩で卒塔婆を負いながら、左の片手の