一
宇治山田の米友は、山形雄偉なる
その地点を見れば、まさしく胆吹山の南麓であって、その周囲を見れば荒野原、その一部分の雑木が
打込む鍬の音が、こだまを返すほど森閑たるところで、ひとり精根を株根に打込んで、
米友が胆吹山の下で開墾事業をはじめた。
これは、これだけの図を見れば驚異にも価することに相違ないが、筋道をたずねてみれば
「米友さん――」
そこへ不意に後ろの林から現われたのは、手拭を
「御精が出ますね」
「うん」
米友も鍬を休めていると、お雪ちゃんはだんだん近寄って来て、
「少しお休みなさい」
「どーれ」
と言って、米友は鍬を投げ捨てて、まだ掘り起さない掛けごろの一つの木株へどっかと腰をおろしたが、さて、こういう場合に、抜かりなく、
「友さん、一ついかが」
と言って、お雪ちゃんが目籠の中から、
「有難う」
米友は、腰にさしはさんでいた手拭を引出して、いまお雪ちゃんから与えられた珊瑚のような柿の実を、一ぺん通り見込んでから、ガブリとかぶりついて、歯をあてるとガリガリかじり立てました。
「
「甘めえ」
「もう一つあげましょう」
「有難う」
お雪ちゃんは、まだ幾つも目籠の中に忍ばせているらしい。それを一度に幾つかを与えては、当座の口へ持って行く手順に困るだろうと心配して、わざわざ一つずつ目籠から出しては米友に与えるものらしい。
「むいて上げましょうか」
「いいよ、いいよ」
お雪ちゃんは
「友さん――お前に聞きたいと思っていましたが、あのお嬢様という方は、いったい、あれはどういう方なのですか」
柿の実で買収して置いて、それから探訪の鎌をかけようというお雪ちゃんの策略でないことはわかっているし、米友とてもまた、
「うん――あれはね」
米友の返事は存外
「あれはね、あれは変人だよ」
と米友が、まず断案を頭から、たずねた人の
「変人!」
変人だか、常人だか、それを聞くのではない。そんな断案は、人に聞かなくても一見すれば誰でもわかることで、ちょっと附合ってみさえすれば、お嬢様という人が――ここにお嬢様と呼ぶのは、かの有野村のお銀様の代名詞であることは申すまでもありません――常人でないことだけは、わからずには置かないのですから、そんな無意味な断案を改めて米友から聞く必要はないのです。だが、相手を呼んで変人だという、この返答の主、すなわち宇治山田の米友がどれだけ常人に近いのだか、それを考えると多少はおかしくもなるのですが、これはこの返答の結論でも断案でもなくて、
「うむ――変人だなあ、よっぽど変っているよ、あの娘もあれで、家はなかなか金持なんだという話だがなあ」
それもわかってる、お銀様の背景に、偉大なる財閥ではない財力の権威があるということは、不破の関以来、お雪ちゃんもとうに心得ていることなのでした。
「え、え、それはわかってるのよ――お家は、甲斐の国で第一等のお金持だということもよくわかっております、わからないのはあの方の――そうですね、わからないと言えば、どこもここもみんな、わたしたちの頭ではわかりきれないところばっかりで、どこをどうとおたずねしていいかさえわからないのですけれど――」
「うむ、ありゃあね、心が傷ついているんだ。あれで、もとはいい娘だったんだってな、姿だってお前、いいだろう、あの通り姿もいいし、心持も
「まア……」
その時に、米友の返答がようやく、お雪ちゃんの壺にはまりそうになったのです。破題を先に、思いきり上げてしまったものですから、つづく調子の途惑いがしていたのを、ようやく糸にのりそうになったので、お雪ちゃんが喜んで、
「まア、おかわいそうにね」
「うむ、かわいそうと言えばかわいそうに違えねえかも知れねえが――かわいそうというよりは、
「そうねえ」
「面が傷ついたからって、心まで傷つけるには及ばねえのさ、人間は面よりは心が大事だからなあ」
ここに至ってせっかく壺におさまりそうなピントが、平凡至極の俗理に落ちてしまいました。
人間は面よりな心が大事だからね――そのくらい見え透いたお世辞はないが、また醜婦に対する慰めの言葉として、これより以上、或いは以外の慰め言葉というものはない。米友ともあるべき者が、こんな平凡極まる俗理を言い出したのは、ただ、ほんの間投詞の一種類に過ぎないことは分っていますから、お雪ちゃんを失望せしめることはなく、
「どうして、あんなにお面にお怪我をなさったのでしょうか」
「うん、そりゃあね、
「どうして、米友さん、そんなことを聞くの」
「どうしてだって、女というやつはね、面が悪ければ、五体を棒に振って一生を台無しにしてしまわなけりゃならねえのか。面のよし
「ホ、ホ、ホ」
とお雪ちゃんが、少しおかしくなって、
「それは、面の大事なことは、女だって、男だって――人間でなくったって、みんな大事じゃありませんか、あのお嬢様がお小さい時分に、そんなむごたらしいお怪我をなすったから、それならお前さんの言う通り、心も傷つくのはあたりまえじゃありませんか」
「ところがね、あのお嬢さんのは、ただ傷ついたんじゃねえ、傷ついてから、それから
「ですけれども、なかなか親切で、
「それだそれだ、お気に入りさえすりゃあ、どこまでもよくしてくれるし、悪い段になると、人を取殺さずにゃ置かねえ。で、みんな
「え、え、米友さんは、あのお嬢様のお気に入りのようですね、米友さんに限って、あのお嬢様の前でポンポン言っても、ちっとも気におかけなさらないようですけれど、ほかの者はみんなピリピリしているようです」
「なにも、おいらは気に入られようと思って、おべッかを使ってるわけじゃねえんだが、みんなお嬢様、お嬢様って鬼か
と、米友が得意になって、少しくせせら笑いの気持です。その時、お雪ちゃんが胆吹山の方を向いて、
「友さん、あそこへおいでのは、あれは、お嬢様じゃありませんか」
お雪ちゃんが指したところの林の透間を米友が見ると、
「あっ!」
と舌を捲きました。
「こっちへおいでなさるようですね」
「うん」
「わたしは、お目にかからない方がいいでしょう、さよなら、米友さん」
「まあ、いいよ」
「でも、なんだか、わたし怖いわ」
「ナニ、怖いものか――」
林の蔭から姿を現わしたのは、お銀様と見られた人の姿ばかりではありません――そのあとに一頭の駄馬を
お雪ちゃんは隠れるともなしに、姿を後ろの林に隠してしまいました。
米友は再び
人家のない
お雪ちゃんがこの場を
米友には、そうしてお銀様を避けなければならない心の引け目というものが少しもないから、引続いて木の根を掘りくずしに取りかかっているぶんのこと。
「友さん」
「何だい」
暫くあって、尋常一様の応対がはじまりました。いつしかお銀様は、米友の丹念な木の根掘りの前に立っている。米友は特に頭をもち上げないで、仕事の手をも休めないで、
「何か用かい」
と答えました。
米友としては、この人が来たために、特に仕事の手先まで休ませて敬意を表さなければならない引け目を感ずるということなく、また、さいぜんお雪ちゃんをあしらったように、ともかくも木の根へ腰を卸して応対するほどの必要を認めなかったのか、それとも、人の来る度毎に手を休めて株根へ腰をかけていた日には際限が無いとでも思ったのか、そのままで仕事をしていると、
「ずいぶん骨が折れるでしょう」
と、先方からお世辞を言いますと、
「なあーに」
米友は、鼻の先で返事をしながら、
こういう働きぶりは、二宮尊徳に見られると非常に賞美される働きぶりなのですが、米友は、賞美されんがためにこうして働いているわけでもなく、お銀様もまた、使用人の
「友さん」
「何だえ」
「少し、お前に頼みたいことがある」
その時、米友がはじめて鍬の手を休め、腰をのばして、鍬の柄を
「何だい、おいらに頼みてえというのは」
「ちょっと、お使に行ってもらいたい」
「ちぇッ……」
と米友が舌打ちをしました。
それは、頼みを聞いてやらないという表情ではありません。せっかく精を出して、こうして木の根を掘っているところへ小うるさいが、事と次第によっては、頼まれを聞いてやらない限りではないという好意を知っているお銀様は、米友の舌打ちに頓着なく、
「この人たちと一緒に、長浜というところまで行ってもらいたいと思います」
「長浜――」
「え――長浜というところへ
この時まで、お銀様の後ろ影を踏まざること二丈ばかりの間隔を置いて、
「つまり、おいらは、ただ用心棒だけについて行きゃいいんだな」
「そうです、この人たちに万事は頼んであります、こちらから、お金を持って行って、そうして、あちらで、そのお金を、ここの土地で使えるお金と取替えて来るだけの仕事なのです。ですけれども、なにしろお金のことだから、誰かしっかりした連れがあって欲しいと言いますから、そこで、友さんのことを考えつきました、用心に行ってやって下さいな」
「ああ、ああ、どっちへ廻ってもおいらは、用心棒に使われるように出来てるんだ――」
と米友は、やけのように言ったが、自ら軽蔑しているわけでもなく、頼まれることを拒絶するわけでもなく、
一頭の駄馬を中にして、一人の馬子と、馬わきの手代風なのと、それに宇治山田の米友(例の杖槍は附物)が前後して、この一文字道を長浜街道の方へ行く。その後ろ姿をお銀様は、米友が今まで掘り起していた木の株根の傍に立ち尽して遠く遠く見送っておりました。
右の一行が山林
この時分はちょうど真昼時なので、うらうらと小春日和が開墾地の土の臭いを
二
そこでお銀様は、胆吹山の挑戦に向って答えるように、ゆらりゆらりと右の開墾場から山を押して進んで行きました。
以前、馬を曳いて来た一筋道とはちがって、今度は、あらく沿いの林をめぐって、めぐり尽すと、そこにまた一つの風景が展開されました。
山腹が、ここへ来るとまたカーヴのなだらか味を見せまして、雄偉なる胆吹の山容そのものの大観はさして動かないけれども、裾の趣は
右の三合目ばかりの麓は、一帯に松柏がこんもりと茂る風情、左へかけて屋の棟が林の中に幾つか点々として見える。そのつづき、
ゆらりゆらりと山を押しながら行くお銀様の目は、この宏大なる屋敷あと
その時、
不意ではあったけれど、こちらは驚くほどのことはありません。まさしくこの地方に見る、あたりまえの
いよいよ近づいて見ると、その二人は、額にも手にも、かすり
「いやはや、大変な目に逢っちまいました」
「どうしたのです」
とお銀様も、反問せざるを得ませんでした。
「
「鷲の子を……」
その胸にかい抱いたところのものを提示するように言いましたから、お銀様が
「お見せなさい」
「この通りでがす」
彼等は、自慢半分に、風呂敷の結び目を少しはだけて見せると、まだ
「まあ、どこで捕りました」
「
「珍しいものですね」
「鷲の子なんぞは、なかなか捕まえられるもんじゃござんせん、親鳥にでも見つかろうものなら、今度はあの爪で上の方へ……命がけの仕事なんでがすが、でも、親鳥は留守でござんしてなあ」
「そうして、お前さんたち、せっかくつかまえたこの鳥を、これからどうしようというの」
「さあ――」
と二人が、お銀様から尋ねられて、改めて
「うちへ連れて行って飼って置きてえと思うんでがす」
「そうですか、
と、お銀様から畳みかけられて、二人はまた面を見合わせてしまい、
「さあ――」
「何を食べさせて置きますか」
「そうだなあ――何をったって、こちとらの身分じゃ、特別のものをあてがうわけにもいきましねえから、
「それは、いけません」
と、お銀様は二人の農夫の言い分を頭から蹴散らしたものだから、彼等も眼を白黒させ、
「いけませんかねえ」
「鷲という鳥は、粟や稗なんぞを食べやしません」
「そうですかね」
「そうだともさ」
「では、何を食べさせたらよろしうござんしょうね」
彼等はお銀様に向って憐みを乞うもののように教えを仰がんとする
「生きたものでなければ食べやしません、鷲という鳥は、鳥の中の王様ですから」
「あ、左様でございましたなあ。生きた物、生きたものなら何でもよろしうございますか」
「生きたものといっても、トカゲやイナゴなんぞを食べさせてもダメですよ、生きたものの肉でなければ鷲の子は育ちません、さし当り兎なんぞがいいでしょう」
「兎の生きた肉を食べさせるのでございますか」
「ええ毎日――少し大きくなると、一匹や二匹では足りないでしょう」
「あてこともねえ、毎日、兎を二三匹も食いこまれちゃたまることでねえ」
と、抱いてた一人が、自分の身でも食いきられるかのように悲鳴をあげました。
「とてもやりきれた話でござらねえ」
二人は、この時、はじめて
事実、この二人の者の身上で、一羽の鳥とはいえ禽類の王者の子を手飼いにしようとは、分に過ぎた
「どうしような、欲しいという人はねえか知ら、誰かいい買い手を見つけて売ってしまうことだ」
「そうだ」
二人がこう言って吐息をつくのを、お銀様が受取って、
「お前さんたちが、相当の値段でゆずってくれるなら、わたしが買って上げてもようございます」
「え、奥様が買って下さる?」
「え、売っていいなら、わたしに譲って下さい」
「どうしような」
「でもなあ――せっかく命がけでつかまえて来たもんだからなあ」
彼等は売りたくもあるし、そうかと言って、
その煮え切らない返答ぶりが、お銀様の興を損じたものか、お銀様は駄目を押すこともなにもしないで、二人を置去りにして、ゆらりゆらりと前へ進んでしまいました。
取残された二人、売ろうか売るまいか、思案に暮れて、まだ茫然と猛禽の子を抱いたまま、お銀様の行く後にぼんやりと立っている。お銀様は、ゆらりゆらりと、それでも歩くものと歩かないものとの距離ですから、みるみる相当の隔りが出来たが、このひやかしのお客様は、柳原河岸で洋服の値切りをする客のように、番頭の呼戻しを待っているという駈引きもないと見えて、さっぱりと歩み去って行くのに、未練たっぷりの二人はまだ立去りきれないで、馬鹿な面をして、お銀様の後ろ姿を見送っているばかりです。
こうして、お銀様の姿の小さくなるまで見送ってまだ立去りきれなかった二人が、また改めて面を見合わせて、
「ありゃ、このごろ、お城あとの地面が売れたそうだが――あのお城へ来る奥様じゃねえか」
「そうかも知れねえ」
「国中一番の大金持だって話だから――」
「そうだ――なら、お気の変らねえうちに売ってしまった方がいいかも知れねえ」
その時、二人とも、また逆さにころがり震動してお銀様のあとを追いかけ、
「おーい」
「もうし」
「もうし」
「
「お城あとの奥様」
呼ばれてお銀様が振返ると、
「もうし、この鳥をいくらで買うておくんなさる」
「いくらでも、お前さんたちの欲しいと思うだけの値をつけてごらん」
「え!」
彼等二人は、またそこで二の句がつげなくさせられてしまいました。
三
そこで、とうとう、猛禽の子売買の路上取引は成立せず、ついにお銀様は大手の崩れ門から城跡の中に身を隠してしまいました。
お
そこで、門内へ入ったお銀様の手に何物も抱えられていず、ぼんやりと取残された二人の男の中の一人の腕に、最初の通り、禽王子入りの風呂敷包が後生大事に抱えられている。
一方は売ろうと言ってわざわざ追いかけて来、一方はいくらでも糸目なしに買おうと申し出でたらしいのに、その取引が行われずして、一方は手ぶらで門内へ入り、一方は、あっけらかんとして、物品をストックしている
しかし、その取引は取引として、お銀様が何物も持つことなくして、この城あとの大手の崩れ門から入ると、早くも
邸内は今し、盛んな普請手入れの時と思われます。
大手の崩れ門から入ったお銀様は、
と言ってしまっただけでは、地理と方針に、多少の無理があり、
第一、あの時に
この界隈すなわち――京極の故城址
そこへ、ひょっこりと、奥の方から姿を現わした、
「や、お帰りでござったか」
「はい」
「飛脚の方は滞りなく出立を致させましたから、御安心ください」
「御苦労さまでした」
その撫附髪に水色の紋つきというのは、見たことのあるようなと思うも道理、これぞ、短笛を炉中に焼いて、おのが身の恋ざんげを試みた不破の関屋の関守氏でありました。
その取りしきりぶりを見ると、この男は、あれから不破の関屋の関守をやめて、ここに来て、
ここで右の関守氏は、右のわがままな女王を案内して先に立ち、お銀様のために、江北殿の隅々の案内に当ります。その途中、説明するところを綴り合わせてみると、江北殿というものには、ほぼ、次のような歴史があるのでした。
お城あとは
不破の関守氏は、屋形の隅々をめぐり、ここを指し、
四
その前後の時、このお城あとの西南隅のピークの一角に、お雪ちゃんがおりました。
これは別に離れのようになっているけれども、離れではありません。あちらを本丸とすれば西の出丸になります。廊下伝いに渡って行ける間柄ではあるが、庭を廻って、縁側から出入りするのがかえって人の勝手になっているのは、その縁から庭先が開けてすばらしいながめになっているせいでしょう。お雪ちゃんも、この縁先へ台所仕事を持ち出してやっていることほど、このすばらしい情景をよしとしました。それはそのはずです、ここから眺めてごらんなさい、日本第一の大湖、近江の琵琶の湖の大半が一目なんです。
自然に、その琵琶の湖をめぐるところの山河江村までが眼の下に展開されていようというものですから、誰だってこの縁先を祝福せずにはおられない道理、まして風景を愛することを知るお雪ちゃんのことです、さいぜん
お雪ちゃんが庖丁を使っている手を休めて、まぶしそうに眼を上げて、またうっとりと、なだらかな胆吹尾根から近江の湖面を眺めやった時――壺中の
さすがに日本第一の琵琶の湖は大きい。周囲七十五里と言ってしまえば、それまでですけれども、こうして見たところ津々浦々は、決して七十里や百里ではないように思われてなりません。
まして、この大湖の岸には、飛騨の高山と違って、日本
あわただしい今日の日が過ぎれば、やがていちいちの指呼のあの山水についての、人間の残したロマンを訪ねることが、今のお雪ちゃんの生活に清水のように
今も、うっとりとながめていると、ふと比良ヶ岳のこなた、白雲の
そう思って右の一点の鳥影から眼をはなすことではありませんでしたが、その鳥は次第次第に近づいて来て、お雪ちゃんの
お雪ちゃんにとっては、その大きな鳥は、今し、あの湖水のあちら側の比良ヶ岳から来て、そうして、自分のいるこの裏山の胆吹まで、ほとんど一息に飛んで来たように思われないではありません。
鳥の姿は、こうしてお雪ちゃんの頭上から胆吹の山に向って消えてしまったが、それはそれとして、なお山水の大景に
頭上の物音というのは、この大きな松の上からバサと起りました。
そうすると、そのあたりいっぱいに影を引くように舞い下りたものは例の大きな鳥、以前にも大きな鳥に相違ないとお雪ちゃんはながめたのだが、今度のは、ほんとうに、眼の前、
「
と直覚的に、お雪ちゃんはさとりました。鷲の実物をまだこんなに近く見たことのないお雪ちゃんでしたけれども、鷲でなければこんな大きな鳥はあり得ないという直覚と、実物では
眼をすましていると、右の猛禽は、すさまじい勢いで羽ばたきをして、羊角に中空を押廻り、それから急に翼を旋回して、ほとんど地上とすれすれに舞い下り、そうかと思うと、また相当に高く舞い上っては、思い出したように直下して来るかと思えば輪なりになって舞っている、その挙動が何となしに尋常でないことを想わせられてなりません。
右の大鷲は、いったん胆吹のとまり所へついたが、何をか見つけたものだから、また飛び戻って来たのだ、何かこの下の平原で見つけものをしたものだから、それを捕りに来たものらしい。
お雪ちゃんはそう思って鳥の挙動を見守ると、全く物狂わしいように横転、逆転、旋回、飛上、飛下を試みているのが、いよいよ只事とは思われないのです。
恐ろしい鳥、鳥の中での王――あの勢いで人間をさえ
お雪ちゃんはそう思って、下の原野を見おろしたけれど、鳥は中空にあるから見得られるものの、
鷲が人間を攫うということはいつも聞いている――もし不幸な人間の子が――もしや、米友さん――あの人は小さいから、もしや子供と間違えられて、あの荒鷲の餌食に覘われているようなことはないか。ああして一心に木の根を掘っているところを、後ろから不意にあの大鷲の鋭い爪を立てられるようなことはないか。鷲が大人を攫ったという話はまだ聞かないが、子供を攫ったということは極めてよく聞いている。米友さんは柄が小さいから、鳥の眼には子供と見られない限りもない――お雪ちゃんは、とりあえず、米友のためによけいなことまで心配になって、わざわざ縁を下りて、下駄をつっかけて、ここから左へよればやはり視野の一部分の中にはいる、さいぜん米友があらくを切っていた開墾地のあたりを見とおしましたけれども、それらしい人の影が認められませんでした。それにも拘らず、大鷲の物狂わしさはいよいよ一層でありました。
単に獲物を覘うならば、あんなに騒ぐはずはない、猛禽の中の王ともあるべき身が、兎や小鳥をあさるのに、あんなに仰々しい振舞をするはずはないと、お雪ちゃんは案ぜられてきました。
地上を探しあぐねたように、この猛禽は、今度は一文字に羽をのして、
そうだとすれば、あの勢いで村里へ舞い下りたとすれば、村里一帯の不安が思いやられる!
一匹の狼、一頭の猪でさえ村が荒される、まして肉を裂くに足る鋭い爪と、血を吸うことに慣れたあの
お雪ちゃんは、そんなことを考えながら、再び無事にあの猛禽が中空高く舞い上り、飛び戻って来ることを望んでいたが、どうしたものか、さっぱりその音沙汰がありません。
お雪ちゃんは、村里の安否も気になるが、猛禽の消息も気にかかってなりません。
そんなことまで思い惑うているところへ、庭から人の足音がして、はっと思う間に、それが例によっての覆面のお銀様であることを認めました。
五
お雪ちゃんは、お銀様の姿を見た瞬間にいずまいを直してしまいました。無論、
「ここはよい景色でございますね」
とお銀様が言う。
「はい、お
「この松も、いい松ではありませんか」
「全く、見事な松でございます」
「あなたは、ここから見た琵琶湖附近の名所名所を御存じですか」
「いいえ――まだ、ずいぶん昔からの名所でございますそうですけれども、調べてみる暇もございません、教えて下さる方もございません」
「二人で少し調べてみましょうか」
「はい」
「お仕事が忙しいの?」
「いいえ――どうでもよろしい仕事なのでございます」
「では、もう少しこちらへいらっしゃいな」
少しでも多くの視野を
「ごらんなさい、あの比良ヶ岳から南へ、比叡山の四明ヶ岳――その下が
「けれどもお嬢様、そのつもりで、こうして眺めておりますと、三井寺の鐘が
「そう思えばそうですけれども、物足りない思いもします」
「一日、ゆっくりおともをして、あの辺を見て歩きたいものでございます」
「そのうちに、一緒に出かけましょう、こちらの岸から船を浮べて、船でゆっくり八景めぐりをしたいものです」
「お船でしたら、それに越したことはございません、おともをさせていただきたいものでございます」
「そんなに遠くないうちに、その暇が得られるだろうと思います」
「楽しみにしてお待ち申しております」
「それから、お雪さん――」
と、お銀様が改まって呼びかけたものですから――お銀様はお雪ちゃんと呼ばず、お雪さんと呼ぶのです――そこでお雪ちゃんが、
「何でございますか、お嬢様」
「あなたにまた少し、御面倒を願わなければならないことがございます、実は、あなたにこれから勘定方を引受けていただきたいと思うのでございます。こうして工事に取りかかっておりますと、何かと
「まあ、そんな大役がわたしにつとまりましょうかしら」
「いいえ――ただ、お金を少し預かっていただいて、その出入りを記して置いていただけばよろしいのです。そうして下さると、わたしが助かります。わたしはまた関守さんを相手に、この
「ずいぶんお忙しくっていらっしゃいましょう、それならば、わたしでお役にたちますことならば、一生懸命おつとめを致しましょう。でも、お金の会計方は、わたしなんぞでは、あんまり大役過ぎるかと思います」
「いいえ――慣れればやさしいことです。ただ、お金を扱っていることが悪い人に知られると、それを
「そういうわけでございましたなら、米友さんを相手に――御用をおつとめ致してみましょう」
「有難う――では早速お頼みしましょう、ここへ少し持って来たのですが」
と言ってお銀様は、抱えて来た小箱の包みを解いて、
「これから、この土地を
と言って、お銀様が
「甲州を立つ時に、父がわたしのために路用だと言って、あのお角さんという人に預けたお金を、半分は手附としてこの土地の持主に渡しました、その残りを、わたしがこちらへ来る時にお角さんが渡してくれました、それをまた三つに分けて、あの人にも持たせてやりました、その一つは、いま長浜へ両替にやりました、残る一部がこれなのです――数えてみると小判が五十二枚だけありました」
「まあそんな大金……」
お雪ちゃんは、思わず眼をみはりました。お雪ちゃんとしても、単に金銭に眼がくらんだというわけではなく、あんまりお銀様の金扱いが大まかなのに、ちょっと驚かされたのです。
五十二枚の小判を、無雑作に他人の眼の前へ持って来て、余り物でも処分するような扱い方が、お雪ちゃんには意外に思われてたまらなかったのです。お雪ちゃんとしても、そう卑しい生立ちではないから、千万金を見せられようとも、時と場合によっては、心を動かすようなさもしい人柄ではないけれども、お銀様のあまりざっくざっくした扱いぶりに呑まれたような形で見ていると、お銀様が、
「いいえ、大金というほどではありませんけれども、それでも、払渡しや買物に、これでは扱いかねることがありますから、別に五十二枚だけ、いま申しました通り、長浜へ両替にやりましたから、そのうちに戻りましょう、小出しは小出しとして置いて、これはまたこれとしてお預かり下さい」
「では……お引受け致しました以上は、ともかく米友さんの帰るまでお預かりして置きまして――」
「どうぞ、そうして下さい」
「念のために、一応おあらためを願います」
「はい――」
と言って、お銀様はわるびれずに、自身その箱の中から小判を取り出して、いちいちお雪ちゃんの眼の前で数を読み、
「この通り、五十二枚ございます」
「確かに五十二枚――そうして、お金につもれば幾らになるのでございましょうか」
「ホ、ホ、ホ」
と、お銀様が珍しく軽く笑いながら、
「お金につもればと言っても、これがそのお金そのものじゃございませんか」
「まあ、ほんとうに左様でございました、小判五十二枚ですから、五十二両でございますね」
「え、一枚を一両と覚えていらっしっていただきまして、その値段は、小判のたちによって違うのでございます」
「そのように聞いておりましたが、この小判は……」
「これは、たちのよい方の小判なのです、ごらんなさい、享保小判と申しまして、これでこの一枚の重さが四匁七分あるのです」
と言って、お銀様は小判の
「一枚の重さが四匁七分ありますが、それがみんな
と、お銀様が説明しました。つまり一両の享保小判の全体の重さは四匁七分あって、混ぜ物が六分三毛あるから差引そのうち正味の純金が四匁九厘七毛だから、これを銀にかえ、
昔、
「世間の人が、お金が無くって困ると口癖に言いやるけれど、いくらお金が無いと言いやる人でも、
このお銀様は、そういった種類のノホホンなお嬢様とは全然違うということを、お雪ちゃんはちらと思い出してみました。事実、この目の前にいるお嬢様のお家というのは、三井、鴻池、奥州の本間といったような家筋に、優るとも劣らない長者でおありなさるにしても、このお嬢様こそは、
「何でしょう」
と、まず不審を打ったのはお銀様でした。
「そうでございます、何か騒がしい様子でございます」
とお雪ちゃんも
やや遠く、鉄砲の音だけでしたら、二人ともそんなに不審がることはなかったでしょうが。人が蟻の子のように散乱したものですから、それで、何か相当に穏かならざることが起ったのではないかしらと、多少不安がらせる空気があったのです。
その時、また、さきほどこの場へお銀様が訪れない以前、お雪ちゃん一人で空想と実景にあこがれている時分に、お雪ちゃんの印象をつかまえた、あの大きな鳥――アルバトロスを知らない限り、日本の本土で見る最も大きな鳥であり、強さに於ては鳥類の世界を通じての王者であるところの、
この大きな、そうして強い鳥が、あの村里の森の中に今まで潜行していたと見えるが、今しパッと舞い上って、空中に姿を現わしてみると、また急に低く飛び下り、低く飛び下ったかと見ると、また、やや高く舞い上ったのです。その途端にパンパンと鉄砲の音が続けざまにまた聞え、同時に、蟻の子を散らしたような人が、あちらこちらへ去り飛ぶのをハッキリと二人が認めました。
そこで、お雪ちゃんには、はっきりと、それだけの光景のおこりがわかりました。ああ、そうだ、さいぜんの大きな鷲が人里に下ったものだから、それを認めて、村人が騒ぎ出したのだ、だが、それは大きな鷲を見ていないこのお銀様には
「わかりました、わかりました、お嬢様、わたくしが先程ここで見ておりますと、あの比良ヶ岳の方から一羽の大きな鷲が参りまして、それが、この胆吹の上から
「ああ、そうですか、あの大きな鳥は鷲でございますか」
とお銀様も、またその鳥の姿を見ていると、或いは高く、或いは低く、村里と人の頭上にのぼりつ降りつして、その辺を去らない鳥の挙動を、いよいよ不審だと思わないわけにはゆきません。
いくら鳥類の王、無双の猛禽にしてみたところが、人類の威嚇を怖れないというはずはない。まして、その様式の程度は知らない、種ヶ島時代の遺物にしてからが、鳥おどしの価値だけは充分につとまる、あの鉄砲というものの音を聞いて走らない鳥はないはずなのに、あの鳥は自家の勇力を
それは先刻、開墾地方面をゆらりゆらりと歩いていた時分に、パッタリ行会って、それから取引の開始となって、押しつ押されつ、それっきりになったあの二人の山狩が、つかまえた鷲の子のことでありました。
それが思い浮ぶと、お銀様は覆面の中で二三度うなずいて、
「わかりました、わかりました」
と、さきほどお雪ちゃんが言った通りに
「あの鳥が村へ下りたのは、自分の子を取戻したいために下りたのでございます」
「どうして、そんなことがおわかりになりますか」
と、その以後ばかりを知って、以前を知らないお雪ちゃんには、以後を知らず、以前を体験しているお銀様の言うことが、全くわかりませんでしたけれど、実はこの場合、二人の実見を合わせて、はじめて完全な全体観が出来上るのでありました。お銀様がそれを説明することは雑作もないことでした。
「それはね、ごらんなさる通り、あの大きな鳥は、村里の上を離れないで、村人と追いつ追われつしているでしょう、珍しく鳥の中の王様が人里へ現われたものだから、村の人の騒ぐのは無理はないが、鉄砲の音にも驚かずに、ああして鳥が離れないのは、あれは、村の人に自分の子を捕られたから、それを取戻そうとして
「あ、左様でございましたの、それで、自分の子を取戻したいがために、ああして鉄砲の音にも、人の数にも怖れないで、戦っているのでございますね」
二人は、その出来事に、すっかり解釈がついてしまうと同時に、それをながむる興味もいっそう高潮してきました。
人と鳥との争い――それはいずれが勝つかということの興味よりも、お雪ちゃんの心では、あれほどの執着だから返してやればよいのに――捕えた子供をはなしてやりさえすれば、猛禽も満足して帰ることでしょうのに。ところが、ああなっては人間も慾だから、捕えた子を返してやらないのみか、飛び込んで来た親をまで捕えずには置くまいとして意気込んでいるのだ。
ですけれども、この場合、親鷲に勝利を得させてやりたい――ような心持が、お雪ちゃんの胸の中では繰返し繰返し念ぜられてならないのに、覆面のお銀様は冷々として、人鳥いずれが勝とうとも、負けようとも、われ関せずといったような素振りでながめているのが物足りない。
そうしているうちに、鉄砲は引きつづいてパンパンと鳴り、なかには弓矢を持ち出したり、長竿を
こうして、やや長いこと、おそらくは何とか解決のつくまでは、二人はこの場の光景から眼をはなせないことになっていると、けたたましく、前庭の木戸口から人の息せき切った発音があって、
「申し上げます、只今、村の人が大勢これへ押しかけて参りまして、生捕った鷲の子を、いくらでもいいから、こちらの奥様に買っていただきたい、買っていただけなければ、暫く預かっていただきたいなんぞと申して、これへ持って参りました、いかが取計らいましょうか」
この報告を聞くと、お銀様が、だから言わないこっちゃない――と言いたそうな表情で立ち上り、
「今、そちらへ参ります」
六
お銀様が急に立去った後、急にお雪ちゃんは、何かとそぐわない気持で、ぼんやりしていると、後ろから、
「お雪ちゃん――」
「おや、弁信さんじゃありません? 弁信さん、あなたもあんまりですね」
とお雪ちゃんは、振返って弁信の姿を見るが早いか、こう言って
「はい」
抜からぬ
それは、その昔、弁信が自分の家の甲州上野原の月見寺で、机竜之助に斬られた時のあの表情と少しも変らない、やつれきった姿であるのを見ると、この人は、斬られて来たのではないかと、胸を打たれるような心になると共に、そのあたりの光景までが、弁信が伝って来た廊下づたいの構えまでが、あの時の自分の家の寺の住居そっくりが、ここへ移されたのではないかと、お雪ちゃんは一時、くらくらと
「弁信さん、お前さんはまあ――」
と言ったきりです。
「お雪ちゃん、どうですか、この新しい村の、新しい御殿の住み心地は……」
と言いかけた弁信の調子は、少しも変ったものではありませんでした。無論、斬られてなんぞ来たわけではなく、これがいつもの調子の弁信なのですが、この際のことが、なんだか不意に出たようなものですから、お雪ちゃんの神経が少し昂奮し過ぎていたのでしょう。
「大へん、ようござんすね、よろしうござんすけれども、弁信さん……」
お雪ちゃんは、とりあえず問いに答えておいてから、引続いて、やっぱり
「あなたという人も、あんまりじゃありませんか、わたしをこんなところへまで連れて来て――連れて来て下さった御親切も、こうして何とは知らないけれども、住み心地は悪いとは思えないところまで、連れて来て下さった御親切は有難いですけれども、わたしの会おうとしている人に、ちっとも会わせて下さらないじゃありませんか」
「ああ、そのことですか」
「そのことですかじゃありません、美濃の国の不破の関へ来て、鈴慕の曲をまで聞かせて下さっておきながら、それからあとはどうしたのです、あなたはどうしてわたしの会いたい人に会わせて下さらないのですか――鈴慕が聞けるくらいのところにいるのですから、あなたさえ会わせてやろうとお思いになれば、今日すぐにでも会えるに違いないと思いますのに、それを、あなたは会わせて下さらない、ただ会わせて下さらないだけならいいけれども、もしかして、あなたは、わたしをあの人から遠ざけようとなさるのじゃないかしら、それも、あなた一流の親切から出でてそうなさる、意地悪でなさるのではないことはよくわかっていますけれども、そんなにまで、わたしというものが、たよりない、意気地ない人なのでしょうか。不破の関で鈴慕の曲を遠音に聞いて、それからわたしは、あなたの呼びにいらっしゃるのを待ちきれませんから、自分で行って見ますと、鈴慕の主はいないし、関守さんもなんだか空とぼけておいでになって、わたしの聞きたいわけを答えては下さいません。ただあの
ここでも、お雪ちゃんが、弁信の株を奪って、一息にこれだけの恨みつらみを述べたててしまいました。
「よくわかります、お雪ちゃんの怨み言がよくわかります」
と弁信の方が、かえってさっぱりした短句調であしらうものですから、お雪ちゃんに、いよいよ満足の与えられようはずもありますまい。
「わかります、わかりますだけでは困るじゃありませんか、わかったら、わかったようにして下さらなければ……」
「お雪ちゃん、そんなに言うものではありません、会える時が来ればいつでも会えますよ、いったいお雪ちゃんは、何のためにそんなに会いたがるのですか」
「そんなこと、わかってるじゃありませんか」
「わたしには、ちっともわかりません」
「いやな弁信さん――それがわかっていらっしゃればこそ、お前さんだって、わざわざ飛騨の高山から、美濃の不破の関までわたしを連れて来て下すったじゃありませんか」
「いいえ、そういうわけじゃありません、わたしの耳に鈴慕の音が聞えて、こちらへこちらへと導くものですから、その音色を伝って来ると、ついつい不破の関まで来てしまったのです」
「あら――あんなこと言って。弁信さんという人も、人を
「いいえ、わたしは、あなたをからかいは致しませんし、また別段、あなたに対して人の悪い行いをしたとも思いません」
お雪ちゃんは、いよいよ弁信の答弁ぶりに平らかではありません。
「弁信さんのなさることは、弁信さんだけの世界にはよくおわかりなのでしょうが、わたしは短笛の音色だけを聞き、その笛の管の燃えさしだけを見るために来たのではありません、あなたと二人、裸はだし同様で美濃の国から飛んで来ました。いま思えばどうして、こんなかよわい二人だけで、あの旅ができたのか夢の様に思われるばかりです。それほどの思いをして来たのに、来て見れば、その遠音を聞かせただけの思わせぶりで……万事をうやむやにしている弁信さんのズルイのを怨むのは、怨む方が無理なんでしょうか」
「ですからね、お雪ちゃん、あなたも、わたしも、鈴慕の音色にあこがれて来たのだということは、今もクドクドと申した通りなのです。しかし、不幸にして二人の聞こうとしていた鈴慕は聞くことができないのみか、音色を鈴慕に借りて、内容、精神はやっぱり堕地獄の音でありました。それ故に、わたしはあれを聞かせないように、せめて、あなたにそれを聞かせたくないようにとつとめている心は、今もあの時も少しも変りありません――それですから、今のわたしと致しましては、お雪ちゃんに怨まれましょうとも、ズルイと言われましょうとも、コスイと言われましょうとも、うやむやと言われましょうとも、これよりほかに何とも致し方がないのでございます。ですから、これはそうと致しまして、お雪ちゃん、わたくしはこれからひとつ、お山巡りをして参りますから、少しのあいだ待っていて下さい。お山巡りと申しますのは、実は、わたくしも縁あってこの胆吹山の麓を
ここまで弁信は
七
弁信が帰るとまもなく、天候がにわかに変ってきました。
後ろの胆吹山が大きな鳴りを立てたかと思うと、さっと吹き下ろす風が千丈の枯葉を捲いて、原も、村も、里も、一度に裏葉を返す秋の色を見せました。
と見れば、比良ヶ岳、
麓の方で、さしも物騒であった鳥の形も、人の
あまりの急激な天候の変化に、お雪ちゃんは悲しいような、怖ろしいような気分に襲われていると、つづいて山おろしが庭先の松の梢を伝って、見ゆる限りの野も山も、どよめき渡ると見る見る南近江から、伊勢と美濃へかけての天地が暗くなって行くのです。
うしろの胆吹の山が息をついては吐き、吐いてはつくように山鳴りをつづけている。その度毎に
それにしても、この不穏な天候、もはやこうして、
お雪ちゃんは障子を締め切って風を防ぎながら、弁信さんのために、この風が早くやむように、あまり強くならないようにと心配していると、その心配がようやく昂じて来てなりません。取越し苦労はするなと、特に戒めて行かれたにかかわらず、この時はまた弁信法師の山登りがいっそう気がかりになってたまらないのみならず、風水盗賊の難のほかにまた一つ、もしかしてあの弁信さんが、この山上に
「弁信さんも弁信さんです――なにもわたしたちさえ御参詣をしない先に、いくら身軽だからといって、たった一人でお山登りなんぞをしないでもよいではないか」
この信友もまた、自分に気をもませる存在の一つであるように思い案じてみました。
八
その
胆吹山から吹きおろす大風の中に、袖を翻して、ひたすらに山路を登る弁信の姿を、いと小さく、まざまざと
胆吹山容の雄偉にして
そこでお雪ちゃんはまた、弁信をかわいそうだと見ないわけにもゆきません。ごらんなさい、あの通り、あのたどたどしい足どりを。二万
その時に、弁信の頭の上の空中から、にわかにまた一団の黒雲が捲き起って来たようなのを認めました。あ、鳥が――またあの大鷲が……
あなやと思う間に、その一羽の大鷲が、急に舞い下って、大風にこけつまろびつしている弁信の胸のあたりを見計らい、
あれよあれよ――と呼ぶものは、お雪ちゃんばかりでした。
「ど、どうしたんだ」
ああ、よかった、米友さんが来てくれた、友さん、今、弁信さんが鷲に攫われてしまいました、大きな鷲がたくさん出て来て、そのうちの一羽が――崖に
「よーし来た」
頼もしげに米友は
そのくせ、鷲に攫われて、中空高くつり下げられた弁信の
平々淡々として、泣きもしなければ、怖れもしないのです。もがきもしなければ、焦りもしない。悲鳴も上げなければ、絶叫もしてはいないのです。鷲の爪で胴中の全部をしっかりと掴まれてはいるけれど、その爪が肉身の間に喰い入っているのではないのでしょう、苦痛の表情が更にないのみならず、血も流れてはいないのです。でも死んでいるのでないことは、その表情がそれを示します。寂静ではあるけれども、弁信の面の上には、苦痛のあとと
「奴! やりゃあがったな」
「友さん、どうかならないものですか」
「うむ、見てやがれ!」」
その時、ブーンと風をきって
「あら! 米友さん、無茶なことをしては……」
かえってお雪ちゃんが、その棒のために胸を打たれた思いをしました。
というのは――いくら腹が立つといったところで、ここであの鳥を痛めつけては、どうもならないではないか、鷲が一羽だけでもあるならば、それを打ち落そうとも、射止めようとも知らないが、あの鷲は弁信さんという人質を取っている、鷲を落せば、弁信さんも落ちて来る、落ちれば鷲よりも弁信さんが先に
お雪ちゃんはこう思って、ひやりとしたけれども、そこはまた余裕があって、まあ、米友さんがこうして腹立ちまぎれ、危急まぎれに、思わず知らず得意の棒を
「友さん――お前も危ない」
「なあに、大丈夫だよ」
その声は後ろでしないで、中空から聞えて来たからです。
と見ると、繰出して中空へ飛ばせたその棒の上に、早くも米友が馬乗りに
「あ! 友さん」
お雪ちゃんは、ひた
星の空はらんかんとして暗い、胆吹山は真黒く、憎らしいほどに落着いている。いつのまにか、大風はやんだのですが、風がやんで、山が澄まし返っているところを見ると、いよいよ胆吹の山というのは、山それ自らが息をする山だというように、お雪ちゃんには感ぜられてなりません。そこからは、地球上のいずれかの低気圧に作用されて起る風とは別に、胆吹自身が持っている呼吸が、夜のある期間には風となってあの通り湧き出すのだ。それが証拠には、山以外の天地はあんなに静かなのに、山自身もまた定期の呼吸というものをやめてしまえば、この通り憎らしいほどの落着きぶり。
だが、山は落着きぶりを示しているが、お雪ちゃんの不安は去らない。
「お雪さん――」
そこへまた耳許に、憎らしいほど落着いた、これは人の声、女の声。眼を上げて見ると、お銀様が枕もとに立っています。そのお銀様も白の
九
「さあ、お雪さん、お山へ登りましょう」
「まあ、この夜中に……」
と、お雪ちゃんが
けれども、それを許すお嬢様ではない。
否やを言わせる余地のない圧迫を感じてみると、起きてこの人と同じ
「ホ、ホ、ホ、夜中なればこそです、胆吹夜登りといって、胆吹の山には夜登ることになっているのです」
「ですけれども……」
「あなたは怖がっていらっしゃる。なに、怖いことがあるものですか、見た目では恐ろしい山のように見えますけれども、登って行く間の美しさでは、日本国中、こんな美しい山はないとさえ言われているのではありませんか」
「そんなに美しい山でございますか」
「美しい山ですとも。世間並みの萩や、すすきや、
そう言ってお銀様から遊意をそそのかされても、お雪ちゃんは少しも、誘われる気にはならないで、かえって命令のように響きます。百花が
「それから頂上へ行くと、とてもながめがまた日本一です、北の方の高山という高山が、みんな眼の中に落ちて来ると共に、南の平野も、西の京洛も、それにあの通り日本一の大琵琶の湖が、眼の下に控えているのですもの、風景の好きなあなたが、それを好きになれないはずはありません。文永の昔、胆吹の弥三郎という山賊がこの山の頂上に腰をかけて、琵琶湖の水で足を洗いました、その時に湖水を取りひろげようとして土を運びましたが、その土の
お銀様は、風景の次に、伝説を以て、お雪ちゃんの想像心に訴えて、これが遊意をそそろうとしたが、それでもお雪ちゃんの気の進まないのをもどかしがって、
「おいやですか」
「いやではありませんけれども……」
「あの大風の中を、弁信さんでさえ登って行ったではありませんか、それを意気地のない、お雪さん、あなたは越後の白馬ヶ岳や、
「そういうわけではありませんが」
「そういうわけでなければ、わたしと一緒に行って下さってもいいでしょう、あなたはお山に慣れていらっしゃるけれども、わたしはそうはゆきません」
「いいえ、わたしだって……」
「あんなことを言っている、白馬ヶ岳から高山の花を
「それはそうかも知れませんが」
「さあ、早くなさい、風もすっかりやみましたよ」
「それではおともをいたしましょう」
「わたしと同じことに、ここにこうして白い
なるほど、
圧倒的に、いつのまにか、お銀様と同じこしらえをさせられてしまって、いざとばかり、戸外へ出ますと、星はらんかんとして輝き、胆吹の山が真黒に
ふと気がつくと自分は、お銀様のあとを追うているのではない、ただ清らかな鈴の音を追うて、雲霧の中を突き進ませられているのだと感じた途端に、また、ありありと、お銀様の姿が先に立って、すっきりと歩み行くものですから、その鈴の音を聞いている時は、清水の湧くような
今や、憎らしいほど真黒く
自分は山登りは慣れないと言ったお銀様の身の軽いこと――そうして、絶えずそれに
「お雪さん――疲れましたか」
「いいえ」
「早くいらっしゃい、あなたに見せて上げるものがありますから」
「何でございますか」
「足もとを見てごらんなさい、いろいろな花が咲いておりますよ」
「まあ――」
なるほど、足もとを見ると――あるにはあるがお雪ちゃんが
点々として、到るところに、花といえば花が咲いていることは間違いはないが、その花のまた何という毒々しい色、ドス黒くて、いやに底光りのする、血といえばいえるが、しかも人間の温かい血という感じさえない、魚類の冷たい
「一つそれを摘んでごらんなさい」
「はい」
「それが胆吹の毒草というのですよ」
「毒草でございますか、薬草ではございませんか」
「薬草も毒草も同じことなんです、薬草も変じて毒草になるし、毒草もいつか薬草になることがあります、一つ摘んで香りをかいでごらんなさい」
「はい」
「遠慮には及びませんよ」
「でも……」
お雪ちゃんは、これを摘む気にはなれないのです。見てさえ胸の悪くなる、この魚血のようなドス黒い草の花――胆吹の山は薬草で満ちていると話には聞いているが、これはみんな毒草! 良薬は口に
たといそれは毒があろうとも、もっと美しい花を摘みたい――お雪ちゃんが、そう思ってためらっていると、意地悪そうにお銀様が笑い、
「そうでしょう、あなたは、そんなのを摘むのはおいやでしょう、いつぞや白馬ヶ岳のお花畑で、胸に余るほど摘み取って誰かに見せたような、ほんとに美しい色の花は、ここにはございません、ですから、あなたは、それを摘むのがおいやなんでしょう」
「そういうわけではありませんけれども……」
「わたしはまた、こんな毒々しい花が好きなんです」
と言って、お銀様は、いきなり前かがみになって、その花の一茎を手早く摘み取って、そうして、それを無遠慮にお雪ちゃんの鼻先に持って来て、
「香いをかいでごらんなさい」
「あっ!」
ああ、いやな香い――お雪ちゃんは、むせ返って、ほとんど昏倒しようとしました。
「そんなにいやがるものじゃありません、それは白馬ヶ岳の雪に磨かれた
「もう御免下さい」
「あなたには嫌われてしまいましたねえ。それでも、わたしはなんとなし、このあくどい香いが好きなんです」
お銀様は、その一茎の花を今度は自分の
お雪ちゃんはめまいがしてきました。
「お雪さん、しっかりしなくちゃいけません、この花の香いぐらいが何です――それそれ、この山から立ちのぼる悪気の香いは、日本の武神
「え!」
「今日はそれを、あなたに見せて上げたい、いや、それで、あなたを迷わせて上げたいと思って連れて来たのです。
「もう、たくさんでございます、御免下さい」
「ホ、ホ、ホ、まだ大蛇が出て来はしません。出て参っても、あなたを呑もうともしません、呑ませもしませんから御安心なさい。さあ、もう少し登りましょう、まだ、なかなか夜は明けません」
こう言ってお銀様は、またも雲霧の中に突き進んでしまうと、以前の如く、
十
暫くして、一つの巨大なる
「これが、さっきの話の、胆吹の弥三郎の千人窟ですよ」
見上げるばかりの石柱が二つ、
引摺り込んだというのは穏かでないけれども、お雪ちゃんは、そもそもこの人との道づれに全く気が進まないでいるところを、圧倒的に歩かせられたり、毒草を鼻頭にこすりつけられたりして、それでも、どうも、この人のあとを追うことから免れられない引力を感じているところへ、今はもう、この先が地獄になるか、牢屋になるか、真暗闇の石門の前へ来て、ここへはいれと身を以て導かれる。それを拒む力もなく、いやという言葉さえ出ないで、ぐんぐんと引摺られて行くのは、お銀様の手ごめにかかってそうされないでも、事実は、それ以上の力で引摺られて行くのです。
お雪ちゃんは、ついにこの石門の中へと引摺り込まれてしまいました。
「御安心なさい、直ぐにまた明るくなりますよ、そらごらんなさい」
石門の中の真暗な洞窟を二町ばかり歩むと、左手の崖がカッと開けて、そこから、真赤な日の光がさしました。日の光であろうと思うけれども、それはあまりにあか過ぎる。遠く
そうして見ると、決して日の光を一帯にかぶっているわけではない、日の光とは全く違った、たとえば蛍の光を鮮紅にしたように、光は光に相違ないが、それは熱のない光である。つまり、月の光に血が交ったらこんな色になるかもしれないと、お雪ちゃんは全くいやな思いで、この湖面を左右に見ながら、こうなってもなお、お銀様のあとを追わなければならない自分の無力のほどを、自覚する余裕もありません。
「ここが弥三郎の百間廊下ですよ、千人座敷へ行くまでには、また暗くなりますから、御用心なさい」
果して、この天然の大廊下を少し行くと、また真暗闇になってしまいました。
「足もとにお気をつけなさい、水があります、水が流れています、妙にベトベトした水ですけれど、血ではありませんから、怖がるには及びません」
ハッとお雪ちゃんは、その水たまりの中に爪先を踏み込むと、なるほどなまぬるい。こんな奥まった岩窟の間から湧き出す清水だから、こんなに
「そらごらんなさい。向うの岩に大小二つの滝がかかっておりましょう、あの大きいのは
と言われて見ると、なるほど、広大に開けた岩窟の中の往年の壁面に、大小二条の滝がかかっている。飛騨の平湯の大滝だの、白山白水の滝だのを、うつつに見聞きしたお雪ちゃんにとっては、その滝が、必ずしも珍しい滝だとは思いませんけれども、周囲の異様なる景色には打たれざるを得ないのです。
「胆吹の弥三郎よりも、もっと昔、この
もう少し奥へと言ってのぞき込んだお銀様のうしろ姿を、お雪ちゃんは怖ろしいと思いました。怖ろしいの、こわいのというのは、もう通り越しているはずなのですが、その時はもう、意地も我慢もなくって、
「お嬢様、もう、わたしは、ここでたくさんです。本来わたしは、あなたとお山登りをするつもりで出てまいりました、こんな、洞窟入りをするお約束じゃなかったはずでございます」
一生懸命にこれだけのことを言いますと、後ろを振向かないお銀様は冷然として、
「いいえ――お山登りなんぞは、いつでもできます、あなたとわたし二人は、ほかに見るものと見せたいものがあればこそでしょう、暫く待っていらっしゃい、わたしが叩きますから」
と言って、お銀様は岩壁の一方に立つと、しなやかな手で、その岩壁の上をはたはたと打ちはじめました。
あんな手荒なことをして――でも、しなやかな手は折れも砕けもしないで、岩壁の一方が割れました。
「お
その奥に人がいるに相違ない。しかもその主こそ、お銀様がかねて承知の人であるらしい。
その時、その暗い中から、不意に短笛の音が流れ出しました。
「今、わたしが明りをつけて、よく見えるようにして上げます」
と言って、お銀様は、いつのまに用意したのか、懐中から小田原提灯を取り出すと、早くも火がうつっていました。
もとより小田原提灯の火ですから、この広大陰暗な洞窟の全部が照し出されようはずはありません。それでも、
「ああ、
やっぱり鈴慕でした。
「お嬢様、この中で鈴慕の声が聞えます、早くこの中へ入ってみましょうよ」
「危ない!」
と、お銀様が
「お嬢様、もう少し、あの提灯の火を明るくしていただけませんでしょうか、笛の音だけはハッキリと聞えますけれど、中においでになるお人がどなたかわかりません」
「もう、これより明るくはなりません」
「そんなことをおっしゃらず、もう少し明るくして……光が届かなければ、わたしはあの牢へ近寄ってみましょう、できますことならば、あの牢の中に入って見てもよいと思います」
「足もとをよくごらんになっての上でね――」
と言われて、お雪ちゃんが足もとを見直すと、全身の血が一時に冷たくなりました。
同じ岩壁の中の遠近と見たのは、実はウソでした。あの牢屋のあるところと、自分たちの立っているところの間には、絶対的の岩角が
普通、山に於ての隔たりと言っても、谷と谷とを予想するのですが、つまり同じ日本中、同じ地上である限りは、山河渓谷の隔たりがあるとはいえ、河には橋、谷には
そうして、その裂け目の左右を見ると、先刻見た赤い空気の湖面がいっそう面積を拡大して、山脚はいよいよ押迫っている。山も、湖面も、今は全く蛍の光そのもの同様な
「あ、月が上って来ましたね、もう提灯は要りません」
お銀様がこう言って、フッと
そうすると、対岸の牢屋の中が、はっきりと見得られるようになりました。その中に心憎くも澄ましきって、座を構えてしきりに短笛を
それは白骨温泉以来の鈴慕の主です。
十一
その時に竜之助は、短笛を持ったまま、気軽にずっとこちらへ出て来ました。
ずんずんこちらへ歩いて来て、お雪ちゃんと当面の巌の直ぐ
「お危のうございますよ」
と言いましたが、竜之助は微笑しただけです。お雪ちゃんはそれから立て続けに、
「先生、まあ、あなたは、どうしてこんなところに……」
と言ってせき込みましたが、竜之助は、
「お雪ちゃん、お前どうしていたの」
「先生、あなたこそ、どうしてそんなところにいらっしゃるのです、お一人ですか、こちらへいらっしゃい」
「は、は、は、とうとうこんなところへ閉じこめられてしまったよ」
「まあ、誰があなたを、そんな岩の牢の中へ入れてしまいましたの」
「誰でもない、そ、そこにいる人がさ」
と言ったその
「お嬢様、あなたが先生を、こんな牢の中へお入れ申してしまったのですか」
「でも、仕方がありませんもの」
「仕方がないとおっしゃるのは?」
「胆吹の山の
「まあ、残酷な」
お雪ちゃんが、一切の恐怖を忘れてムキになりましたが、問題の当人はいっこう平気で、
「まあ、いいさ、こうして窮命させられているのはやむを得ない自業自得というものだ。でも、二人で、よく見舞に来てくれました、ゆっくり昔話でもしようではないか」
懸崖絶壁に腰をかけながら、涼み台に出て世間話でも持ちかけるような気分で、いやになれなれしいところへ、お銀様がまた妙に砕けたしなをして、
「どうです、悪女大姉のことは。悪女大姉に未練はございませんか」
「は、は、もう、何とも思っちゃいないね」
「お絹さんはどうです」
「は、は、は」
「山の娘のお徳さんとやらの、こってりした情味は忘れられますまいね」
「は、は、は」
「高尾山
「は、は、は」
「伊勢の国の鈴鹿峠の下の関の
「は、は、は」
「あなたは、人妻を犯しました、人の後家さんを取りました、婬婦を
「は、は、は」
「甲州の八幡村の小泉の家で、わたしに
「は、は、は」
「その帳面はあれからどうなりました」
「は、は、は」
「水に流されてしまってそれっきりでしたか。帳面は水に流されても、あなたの悪い行いは流れてしまいは致しますまい」
「は、は、は」
「あれから後、何人の人を殺しましたか」
「は、は、は」
「染井の化物屋敷の時のことをお忘れなさりはしますまいね、弁信さんとわたしと三人で、あの、うんきの中に、土蔵の二階で合奏をしたことがありましたねえ」
「は、は、は」
「白骨の温泉こそお楽しみでしたねえ、誰も知らない天地の間で、こんな憎らしい小娘と一緒に……」
「は、は、は」
「あなたは、この小娘を愛していたのですか、愛してはいなかったのですか」
「は、は、は」
「この雪という小娘も、
「あら――」
こんどはお雪ちゃんが、たまりかねて叫びました。
「は、は、は」
そのあとで、竜之助の響。お銀様はお雪ちゃんに取合わずに、竜之助の方に向いてつづけました。
「
「あら、まあ」
お雪ちゃんが、また眼をみはって、抗議を申し込もうとする途端に竜之助がまた、
「は、は、は」
と笑いました。そこで、お銀様は、やっぱりお雪ちゃんにはとり合わずに、竜之助の方にまともに向って、
「そうして、白骨にいる間に、あなたはあのイヤなおばさんという女をどうしました」
「は、は、は」
「かわいそうなのは、浅吉という
「は、は、は」
「それを言うと、またここにいる小娘がムキになることでしょうが、浅吉という男妾ばかりがかわいそうなのではありませんでした、まだ、たしかに一人、闇から闇へ送られたかわいそうなのがあったはずです」
「何をおっしゃるのです、それは、誰のことでございますか」
果してお雪ちゃんが躍起となりました。お雪ちゃんの躍起ぶりが、あまりに真剣であったせいか、今度は竜之助も、は、は、は、という例の軽薄極まる冷笑を浮べませんでした。そこで、お銀様が今度は、お雪ちゃんの方へ向き直って、
「誰だか、わたしは知りませんが、あの時に、たしかに闇から闇へ送られた、かわいそうな人の子が、たった一人はあったはずです」
「それを承りましょう、それを――ほかのこととは違います」
なぜか、お雪ちゃんが、お銀様の喧嘩を買うような気勢にまでいきみ立ったのが、意外でありました。
「聞きたいとおっしゃるならば、言ってみましょう、それを誰よりも早く感づいたのは、あのイヤなおばさんという人でした。そこは年功ですから、いやに処女ぶっている乙女の乳首に眼をつけてしまったんでしょうね、温泉のお湯の中で……ですけれども、それが飛騨の高山へ来る時分には、すっかり下りてしまっていました。男の子であったか、女の子であったか、そのことは存じませんが、だいそれた自分の手で、虫も殺さない処女ぶった娘さんが、
「まあ、お嬢様、あなたのお言葉は怖ろしい毒を持っておいでなさいます――ほんとうに驚くべき邪推でございます、いつ、わたしが、そんなことを……」
「お雪さん、いつまたわたしが、あなたがそんな悪いことをしたと申しました、今でも白骨へ行ってごらんなさい、あそこで死んだ浅吉さんという男妾の人の石の墓じるしがございましょう、その傍に、心ばかりの小さな石塔が据えてあります、いったい、あれは誰のですか」
「あんまりだ、あんまりだ」
お雪ちゃんは、ついに
「は、は、は」
その時また、冷淡極まる笑いが竜之助の面に浮びました。
十二
同時に、湖面の一点に、ざんぶと音がして、そのあたり一面に水煙が立ったかと見ると、
湖面も、湖を立てこめた数千丈の断崖も、前に言った通りの蛍のように
「あれは、どうしたのです」
意地悪いお雪ちゃんいじめを
「あれだ、ああして毎日、いいかげんの時に、人が飛び込むのだ」
「飛び込んでどうするのです」
「どうするって、つまり身投げだよ。見ていると、
「え?」
「女は水に落ちて死ぬと、死体は上向きになり、男は下向きになるということだが、ここで見るとそうばかりではない、真白い女の臀っぺたが、
「
「人間というやつは全くわからないやつだ、刀を抜いて見せたりなんぞすると、
「勇敢なのじゃありません、意気地なしなんです」
「どっちだかわからないよ」
「自分の身を粗末にして、それを見栄と心得る馬鹿者が絶えないのです」
「時に……」
と竜之助は少し改まって、断崖の欄干から後ろの岩壁へ背をもたせ、
「開墾事業の方はどうです」
「どしどし進行しておりますよ」
と、お銀様との問答が、全く別な内容へ向いて来ました。
「ものになりますかね」
「ものにしますとも」
「そうして、この開墾王国の女王の下に、何人ぐらいの人口が収容できる見込みですか」
「何人と制限はありません、土地の生産の供給が許す限りは人を入れます」
「土地の生産の見込みはつきますかな」
「それは、つかないはずはありません、
「なるほど――」
「人間が自由を奪われるのは、つまり食えないからですね。それと同じように、人間が人間にたよらずして食えさえすれば、人間は本当に人間らしく生きて行くことができます。さむらいが主君に忠義を尽すというのも、
「まあ、待って下さい、お銀さん、自分で食うことを知っていれば、人は奴隷の状態にいなくてもいいと言いましたね。さむらいというやつは、知行を貰って身売りをしている奴隷の一種だというようなことを、お前さんは言いましたね。なるほど、してみると、自分で作り、自分で食うことを知っている、あの百姓の生活はどうです、あれがさむらい以上の奴隷生活ではないと誰が言います」
「え、それにはそれで、また理窟があります、百姓が天地の間に物を作り、自ら生き、自ら食うことを知っている境涯にありながら、現在、さむらい以上の奴隷生活を送っているということは、わたしも充分にそれを認めます。それを認めればこそ、わたしの開墾事業も起ろうというものです。事実、今日の百姓は、自ら力を尽して土地に蒔いたその収入を、自分のものとすることができません。全部を自分のものとすることができないのみならず、ほとんど全部を他のために奪われてしまっているのです」
「誰が奪うのですか」
「百姓以外の、衣食を作らない人が奪っているのです。そうして、衣食を作っている百姓は、そのうちのホンの生きて行くだけというよりは、息をするに足るだけの少量を与えられて、そうして、身動きもできないようにこしらえられてあるのです。ですから、それを、わたしの開墾地ではやめようと思います、正当に衣食を作る人には、正当にその分け前を与えます、そうして、衣食のために人間が人間に屈従することなく、衣食そのものは人間以外の天の恵み――とでも申しましょうか、そこから得て、人間はおたがいに人間としての平等な体面をもって
「ははあ――それは結構なお考えに違いありません、が、しかし、仮りにその目的が達せられたとしましてですな」
「はい」
「そうして、人間が生活のために、つまり衣食のために、おたがいに屈従することなく、衣食の余りある生活の下に、人間の自由が伸び、享楽が増し、まあいわゆる、王道楽土とか、地上の理想国とかいうものが成立したとしましてですな」
「はい」
「その時に、もし隣の地に悪い奴があって、その理想国を
「そういうものが多少現われたところで、わたしたちの団結の力で受けつけません」
「ですけれども、それがもし、その悪い奴が多少でなく、二人や三人や五人や十人ということでなく、数百、数千の人が団結して侵して来たらどうします」
「その時は、わたしたちのうちの男は
「してみると、そういう不時の侵入者に対して、平常の用意というものが要りますね――五六十人の敵ならば、有合わす
「それは、事業が進み、規模が大きくなるにつれて、自然にその準備が出来るようになります。たとえば部落の中に火事があったとしましても、一軒二軒のうちならば、手桶や
「拙者は、そうではないと思う、その非常と侵入者に対するあらかじめの設備が無い限り、開墾地は成り立つものでないと思う。そうして、行く行く、その設備のために生産の大部分が奪われて行ってしまうから見ていてごらんなさい――それはそうとしてですな、今度は内部に就いて伺いましょう。お銀さん、仮りにあなたの理想国が成立して、無事に相当の期間つづき得たとしてですな、外敵も侵入者も影を見せない水いらずの楽土が成立したとしてですな、その内部に
「そこです、わたしの理想国では我儘というものが無いのです。我儘がないというのは、誰に対しても絶対に我儘を許すからです。今の政治も、道徳も、すべて人間の我儘を抑えることにのみ専一なのですから、それで人間の反抗性を
「ははあ、それは、すばらしい徹底ぶりですね、また一理ありと思いますが、そんならひとつ、実例について伺いましょう」
と、竜之助は尺八を取り直して、それをかせに使いながら、改めてお銀様にものやわらかな質問を試み出しました。
十三
「たとえば……ここに、その理想国のうちに一人の我儘者が出たとします、そのものが男であったとして、仮りに、その男が同じ楽土のうちの一人の女を恋したとしましょう、その結果はどうなるのです」
「わたしたちは、恋愛の自由を絶対に許すつもりでございます」
「恋愛の自由……
「相愛しないところに自由は許されませんね」
「ところで、問題はそれからです、許されないその恋愛を強行したものがあった時は、どうします、つまり、最初の例の楽土のうちの一人の男が一人の女を愛してはいるが、女がその恋に酬いなかった時、男が淡泊に
「それは仕方がありません、その時は、女は死を以て身を守るか、そうでなければ男の力に服従するのです、同様の事情は、女が積極的である場合にも許されなければなりません」
「ははあ、してみると、あなたの国もやっぱり暴力を是認するのですな、征服を認めるのですな」
「そうですとも、力が大事です。力というのは、腕の力ばかりではありませんよ。絶対の自由を許すところには、絶対の力がなければならないのです――そうして、その力というものは、非常の時は武力で、平和の時は金力なんです」
「だが、武力も、金力も、
「そんな力はありません、あるように見えましても、みな、武力か金力が持つ変形なのです」
「ですが――たとえば、いま女のことで例をとってみましたから、もう一つ、仮りに女の貞操というものなんぞはどうです」
「貞操――みさおですね」
「そうです、たとえばです、女が愛する夫のために死を以て貞操を守るというような場合に、武力や、金力が、これをどう扱いますか」
「貞操ですか――貞操なんていうものが本来、わたしにはよくわかっていないのです」
「ははあ、そうしますと、良家の夫人も、遊女おいらんの
「え、え、本来同じ人間ですね、一方は一人の夫を守るように生みつけられているし、一方は多数の客を相手にするように出来ているだけのものなんでしょう。一人の夫を守らなければならないようにさせられている者が貞女で、多数の男を相手にするものが不貞女とは断言できません。良家の夫人と言われるものでも、性格的にずいぶんイヤな女があり、遊女おいらんの類でも、性格的に立派な女があるものです。貞操なんていうものの本質を何だかわかっていないくせに、世間
「そうしますと、女の貞操というものは、無条件に解放していいのですか」
「そうです」
「では、女という女はみな、遊女にならなければならない道理ですね」
「いいえ、違います、遊女は
「なかなかむずかしくなりましたが、それはそうとして、かりに道義的に貞操を認めないとしても、感情的に
「そんなことはお尋ねになるまでもありませんよ」
お銀様はツンとして、つき戻すように竜之助に向って答えました、
「一人の夫を愛しきれない妻――一人の妻を愛しきれない夫――つまり、それを世間でいう放蕩のはじまり、乱倫の起りときめてしまっていますから、すべての悲劇がそこから起るんですが、考えてみればばかばかしい話です、本来、自然に出でなければならない愛情というものを、
「だがなあ、男女の間のことってものは、そう単純にはいかんものでなあ、一方の愛が衰えても、一方の愛はまだ盛んなこともあるですからなあ。つまり、未練というものがあるものでな」
「その未練とか、嫉妬とかいうのが一番いけないんです、わたしの作ろうとする理想国では、そういう場合に於ける未練と嫉妬とを、厳重に禁止する、またそういう場合は極めて自由
「なるほど――子供のうちから、異った習慣の社会に置いて、異った教育をして置けば知らぬこと、現在このままでは、好きな女が自分に
「不義をした女房――その不義ということが、いわゆる世間の不義と、わたしの国の不義とでは解釈が違うかも知れませんが、仮りに世間の例に従ってみましょう、刑罰として殺すということは、わたしの国では許さないつもりです、また他国へ追放するということも、未解決の延長になるだけのものですから、そういう場合には極めて気分安らかに、一方が一方を離れてさえしまえばよいのです、未練も残さず、嫉妬も起さずに――離れることを好まなければ、やはり同じ生活をしていながら、お互いともに絶対的に許してしまうのです」
「ははあ、そういうことができますかね、現在、目の前で自分の女房が、自分以外の幾多の男に許すのを、平気で見たり聞いたりしていられるものですかね」
「わたしは、それができると思うのです――観念の持ちよう一つでできなければならないと思うのです、現在それが、片一方だけには完全に行われて、誰もあやしまない程度に許されているのですから……」
「そんなことが許されていますかね、自分の最愛であるべき女房が、相手かまわず不義をしてもいいと言って、ながめていられるような社会が、現在のこの世界にありますかね」
「だから、片一方だけと言ったではありませんか――片一方というのは、男の側にだけということなんですよ、男の方は、現在の妻の目の前で、どんな不義をしても通っているし、通されているのです、その点に於て、女は嫉妬深いというけれど、実は寛大至極なんですね、早い話が、わたしたちがこんど新しく求めて種を
「なるほど」
「このお雪さんという子が
「そういう理窟になるね。しかし、女の方にそんな実例がありますか」
「ありますとも、唐の
「うむ、則天武后ですか」
「歴史家という人たちは、その人たちの支配されている時代の尺度で歴史を書くものですから、自然、人間の規模を見損なってしまうことが多いのです、則天武后を、淫乱の、暴虐の、無茶の、強悪の
「ははあ――力は、すべての道徳の上の道徳だな」
と竜之助がうそぶきました。
十四
お銀様は、さほど昂奮しているとも見えないが、その論鋒はいよいよ衰えないで、
「力は即ち道徳と言っても少しも差支えはないのです。世間では、道徳を一つ一つの型に
「してみれば、力のある奴は、力一杯何をしてもいいんだな」
「そうですとも、力いっぱいに仕事をさせれば、きっと人間は、この世を楽土にさせ得るものなのです、型の小さい人間が、強者の力の利用を妨害するから、それで人間が
「拙者の考えでは、理想郷だの、楽土だのというものは、夢まぼろしだね。人間の力なんていうものも底の知れたものさ。天は人間に生みの苦しみをさせようと思って、色だの、恋だのという魔薬をかける、人間がそれにひっかかって親となり、子を持つようになったらもうおしまいさ。生めよ
「あなた一流の絶滅の哲学ですね――哲学だけならいいけれど、あなたは実行力を持つからたまらない」
「ふ、ふーん、実行力――知れたものだ」
と、竜之助が自ら
「お気の毒さま、あなたに限ったことはありません、どんな絶滅の哲学者が現われても、戦争が続いても、流行病がはやっても、人間の種はなかなか尽きませんよ」
「困ったものだ、ろくでもない奴が殖えてばかりいやがるな、だが、いつか、絶滅する時があるよ、人間てやつが、一人残らずやっつけられる時がある」
「せっかくですが、やっぱり殖えるばかりで、減る様子は見えませんね、殺し合っても殺しきれないんです――人間以外の力だってそうです、幾世紀に幾度しか来ない、戦争や、天災だって、一時に十万の人を殺すことは、めったにありませんからね。そのほかに、この人間力に対抗するような力が、ちょっと見出されないじゃありませんか。いったい、何が人間を亡ぼしますか」
「この土と水とがすっかり冷たくなって、コケも生えないような時節が遠からず来るよ、
「誰がその時節到来を待ちたいと言いました、そんな時代をわたしたちは想像したこともないのです。ごらんの通り、地上には人の要求する何十倍もの食料を与えるところの穀物が生えるのです、土が人間を愛するから、それで食物に不足はありません、私たちは、生きて、栄えて、整理して、防禦して、それで聞かない時は討滅して、力の権威をもって、自分に従わないものをどしどしと征服して行くのです。そういう意味に於て絶対の暴虐が許されます。あなたなんぞは明るい日の目を見ることが出来ないで、仮りに十日に一人、月に五人の血を吸って
「ふふーん、そういうのは征服じゃない、自分が多くの
「そうですね、夢にだけはそんな時があるかも知れないが、まあ、この世の中をごらんなさい、眼の見えない人は格別、わたしたちのような眼で見ると、まだまだ地面は若々しく、人間には油がありますね。こうして地面と人間とが生きて見せびらかしている間は、いかに絶滅論者でも、自分の手で死なない限り、死ぬことさえが
「
「それがよろしうございます、気永く、そうして絶滅の日の来るのを待っておいでなさい」
「堪らないよ、退屈するなあ、もう少し広いところへ出してくれないか」
「いけません、あなたはそうしていらっしゃるのがいちばん楽なんです」
「
「それは、わたしが封じ込んだのです」
「ははあ、笑止千万、理想の国土だの、安楽の王土だの、人を無条件に許すの許さないのという奴が、男一匹を捕えて監禁束縛して置かなければ安心ができない――力の哲学の自殺だね」
「ちょうど、絶滅の論者が、自分の身を絶滅しきれないで迷っているのと同じようなものですね、ホホホホホ」
「お銀さん、黙ってお前さんの理窟だけを聞いていると、お前さんはどうしても則天武后以上の女傑のようだが、理窟は理窟として、現在拙者は、こうして一室に監禁されているのがたまらないな、こんな、日の目の見えないところから解放してやってくれてはどうです、こんな座敷牢へ押込めて置かなくても、広い世界へ野放しにしてみたところで、人間のしでかす事なんぞは、タカの知れたものじゃありませんか」
「お言葉ですが、あなたばっかりはいけません、あなたを解放してあげることは、為めによくありません」
「どうして」
「どうしてったって、こういう人間に限って、決して日の目のあたるところへ出してはならないのです」
「それは残酷ですね」
「残酷なんて言葉を、あなたも知っていらっしゃるのですか」
「男一匹を、こうして日の目の当らぬところへ永久に閉じ込めて置くなんぞは、残酷でなくて何です」
「閉じ込められて置かれる人の残酷さ加減より、そういう人を解放することの危険さから生ずる残酷の方が幾層倍も怖ろしいから、それでわたしの計らいで、当分ここへ封じ込めて置くのが、どうして悪いのですか」
「悪いな――人の自由を奪うというのは何よりも悪い、ましてだ、自由と解放とのために、新理想の楽土王国を築こうなんぞという女性が、あべこべに人を捉えて、幽囚の身にするなんぞは、矛盾も
「いけません――あなたをここから出してあげることはいけません、もし何か御用がある節は、こちらから行ってあげて、少しも不自由はおさせ申しませんから、おっしゃってみて下さい」
「いやはや」
「何か御要求はありませんか」
「それはあるさ、生きている以上は」
「何ですか」
「生きているために必要な要求ぐらいは、聞かなくたって分りそうなものだ」
「米ですか」
「は、は、は」
「肉ですか」
「は、は、は」
「血ですか」
「は、は、は」
「そうでしょう、あなたは生ている肉か、温かい血でなければ召上れない人なんですから、それは、わたしが先刻御承知ですから、いくらでも御意のままに供給して上げますよ。ですけれども、ここにいるような、いたいけな、やわらか過ぎるのはいけませんよ、こんなやわらかな肉ばかり食べていると、狼の牙が鈍ってしまいますね。
「は、は、は」
「今、あなたの要求する、ちょうど、あなたのお歯に合うようなよい肉を、わたしがそこへ持って行ってあげるから」
お銀様の言葉が、ここで異様に昂奮し出して、ひらりと身をのし上げたかと見ると、対岸にいる人に向って吸いつくように飛びかかったのを見て、
「あれ危ない」
お雪ちゃんがそれを
そうすると、絶対的の向う岸で、
「ホ、ホ、ホ、あなたはここへ来られません、そこで見ていらっしゃい」
お雪ちゃんは眼前で、お銀様という人の肉体の怖ろしい躍動を見せられてしまいました。
その怖ろしい躍動を
一旦つぶった眼を開いて見ると、欄干のあったと思う対岸には、鉄の棒の荒格子がすっかりはめられていて、その中は以前と同じ洞窟のようでありますけれど、
それは昼のうちから自分たちの視覚を
「あ、お嬢様! お嬢様!」
と、お雪ちゃんは絶叫して、自らあの残酷の中へ身を投じたお嬢様の不幸な運命に怖れおののいたが、一つおかしいことは、さほど残酷な犠牲となって、猛鳥のために
「お嬢様、あなたは――」
と言った時に、目が
「お雪ちゃん、わたしはいま帰って来たところです、あなたは夢にうなされていましたね」
それは現実の弁信の答えであって、驚いて見ると障子が白くなっておりました。
弁信法師は、昨夕のあの大風に、無事に帰れて、今朝、たった今、ここへ立戻って来たところに相違ありません。
十五
関ヶ原の模擬戦に於て、予定の如く大勝利を収め得た道庵先生は、本来ならば、あれからひた押しに、近江路を京阪に押し寄せるべきはずでなければならないのに、どういうわけか、不意に道を胆吹山の方へ向って
それはあえて
それが主たる目的で、それから同時に
万事、暴女王の御意のまま、お気の済むようにさせておいて、お角さんは、道庵の面倒を見ながら、自分は京阪へ出発してしまった方が、事がテキパキと行くと考えました。そうして置いて、戻り道に立寄って見れば、この暴女王様の御意の変ることもあろうと考えたのですが、ここでまた道庵先生までが急に、薬草研究のために胆吹入りをしたいから、一日二日のところ暇をもらいてえと言い出したのにも、一向さからわず、
「はいはい、どなた様もお気の向くようになさいまし、そういうわけでしたら先生、大津でお待ち申しておりましょう、大津の鍵屋というへ宿を取って、わたしたちはゆるゆる八景めぐりでもしておりますから、薬草の御用がすみましたら、あの宿へたずねていらっしゃい。先生お一人ではいけませんから、庄公をつけて上げましょう。庄さん、お前、先生のおともをして胆吹山へお参りをしたら、その足で、
心ききたる若者を一人わけて、道庵のために附け、そうして道庵を北国街道に送り込み、お角さんは、そのまま残る手勢を
こうして、いい気な模造大御所は、関ヶ原から北国街道へ送り込まれたはずなのが、どういう拍子か、フラフラとまた関ヶ原へ舞い戻って来て、すべての
とにかく、道庵先生だけが急に胆吹入りという模様がえになったために、この際、草津の
三ぴん連がいよいよ出発間際になって、
「我々が常日頃、道庵退治のために、いかばかり
それについて三ぴん連が、みな見るところのヨタを並べますと、最後に安直が大気取りに気取ってしゃしゃり出で、
「昔からの戦争で、胆吹へ逃げ込んで助かった
と言って勇気を示したものですから、一座がまた勇みをなし、村雨女史までが、
「
と言って讃辞を捧げました。
直さんに会っちゃかなわないというのは、どういう意味だかよくわからない。おそらく村雨女史のお座なりのおてんたらではあろうが、しかしこの大阪仕込みの勇者に会っては、宮本武蔵でも、
そうすると、プロ亀が、
「安直先生のように、そう調子を高くおっしゃっては、一般人に対して御損じゃございませんか」
「わて阪者やかて、みみっちいことばかり考えていやへん、損やかて、得やかて、大御所気取りしやはって、関東から攻め上りなはる十八文はん向うに廻して渡り合うは、きれもん、この安直のほかにありゃへんがな。三ぴんはん、しっかと頼んまっせ、ちゃア」
「オット
そこで、この三ぴんの円卓会議が胆吹山征伐進軍の軍議となり、評議が熟すると、いざ出陣ということになりました。
いざ出陣となると、三ぴんの連中を前にして、安直先生がおびただしく大根おろしをかきおろしはじめました。どういうつもりか、一心不乱に大根おろしをかきおろして、とうとう桶に十三杯もかきおろしてしまいました。
それを見ていた三ぴん一同が、その精力の非凡なるに感心し、この分でかきおろせば一年に六七千本の大根をかきおろすことができるだろうと眼をみはって、
「いったいどうしてそんなに、大根おろしをかきおろしなさるのです」
安直が抜からぬ
「胆吹の山には昔から、
それを聞いて一同がアッと感心しました。プロ亀の如きは、
「さすがに安直先生、お考えが深い、お調子が高い!」
そうすると、村雨女史が、またおてんたらを言いました、
「直さんに会っちゃかなわない」
しかしまた、老功なる、みその浦なめ六は心配しました。
「それはそうとして、この十三樽の大根おろしのかきおろしを持ち運ぶのが容易なことじゃござらんてな、誰がこれを胆吹山まで運搬するこっちゃ」
「そないなこと、いっこう苦になりゃへん、あの山の山元にはキャアゾウたらいう親分はんがいやはって、そないな大根おろしのかきおろしを、なんぼでも背負いたがっていなはるさかい」
つまり、胆吹山の山元には、キャアゾウという親分がいて、こういう大根おろしを幾駄でも、嬉しがって負いたがっているということになる。
これを聞いて、三ぴん一同が、いよいよ安直の用意周到なるのに敬服しました。
十六
そういうこととは露知らぬ道庵先生は、お角さんから差廻された米友代りの一僕、庄公を召しつれて、ほくほくと柏原の
胆吹へ登るものとすれば、ことにお銀様や米友が植民地を構えた上平寺の方面から登るとすれば、関ヶ原からでは、この本道へ出ないで、小関から北国街道へ出るのが順ですけれども、胆吹へ登るものが必ずしもその道をとらなければならないという約束はなく、柏原からでも、長岡からでも、幾多の登山路はあるのです。
「サアサア、みないじゃござい、みないじゃござい、コレコレ
「ヤレ、コリャ、いんま、いかずいかずと言いよるに、おこずるな、おこずるな」
「ええ、はようやらまいか、その頭どうじゃ」
「はらの煮える、いんま幕があいて、みがとが出よるところじゃに、誰なと代りに出さずと思うても、おぞい奴等じゃ、どやつもこやつも、今こまいとぬかしよる」
こう言って、道庵のあとから駈けつけて来るものがありましたから、道庵がそれをふり返って見ると、ところの男、もう一人の女の手を引きずって駈けて来る。様子が変だから、なおよく見ると女の
「やあ、来たな、どこぞ近いところに
と言って、
ほどなく、鎮守の社へいって見ると、歌舞伎の柱を押立てて
まもなく、場の内外は
「東西東西」
手拍子パチパチ。
「御酒二升、
手拍子パチパチ。
「そば粉三袋、
手拍子パチパチ。
「半紙十帖、煮付物一重、三太郎後家様より長松へ下さる」
手拍子パチパチ。
「
手拍子パチパチ。
拍子木カチカチ。
「東西東西、このところ太功記十段目尼ヶ崎の段、始まりさよカチカチ」
これを聞くと道庵が
「ありがてえ、これだから旅は止められねえ」
十七
道庵先生は、この太功記十段目を極めて神妙に見ておりました。道庵先生とても必ずしも脱線とまぜっかえしを本業としているわけではなく、衆と共に楽しむ場合には、
そうしているうちに、この一座が、太功記十段目一幕をとうとう本行通りこなしてのけてしまったのには、さすがの道庵先生が舌を捲きました。案外の上出来、それに
道庵は感心の余り、ひとつ
そこで道庵先生が、ちょっと人混みの中へ姿を隠したかと思うと、
「わしゃあ江戸者だがね、上方見物の途中なんだがね、はからずこの地へ来て皆さんの芸術を見せていただきやしたが、正直感心いたしやした。どうして本格でげすよ、これなら三都の大歌舞伎へ出したって、ちっとも恥かしいことはねえ。失礼ながら皆さんが、これほどにお出来なさるたあ気がつかなかった。わしも若い時ゃ芝居がでえすきでね、
こう言って、出店商人に持たせた三蒸籠の今坂を、
誰も
まず、チョボ語りの太夫さんの源五郎殿が、調子を合わせていた三味線をおっぽり出して道庵の前へ飛び出して来ました。
「これはこれはようこそ、まことにはや、御親切さまの至りでございやすで、はあ、未熟なわしらが芸事を、それほどに聴いておくんなさる御親切、何ともはや、
下へも置かぬもてなしぶりでございますから、道庵もまたいい気になりました。
「それじゃ、まあ、ごめん下せえまし、わしも若い時分は江戸の三座の楽屋へ入り浸って鼻高でも、よいみつでも、みな
と言って道庵、
ずいぶん人見知りをしないお客様だとは思いながらも、なにしろ
この辺で道庵も引きさがってしまえば無事なんですけれども、どうしてどうして、そんなことでおさまるくらいなら、今坂の三蒸籠も自腹を切るはずがない、
「や、親方、おめえさんだね、いま光秀をおやりなすったなあ。結構ですね、ありゃ、
こう言われると光秀役者がことごとくよろこんでしまいました。
「はあ、有難えこんだ、わしも、芸事はすべて役どこの
「それそれ、それでなくちゃいけねえ……だが一つお気をつけなさい、あの北条義時は、
こう言われると久吉役者がまたよろこびました。たとい面魂は英雄豪傑になっていなくとも、地顔が綺麗で、女連から騒がれたと言われてみると包みきれない嬉しさがこみ上げて来るらしい。
そうすると、道庵先生抜からず、こんどはみさお役者の方へ向って、
「そこに衣裳をしておいでなさるのは、みさおをつとめたお人さんだね。このみさおという役がなかなか骨が折れる役でな。なんしろ、はらがあって、愁嘆が
そう言われてみさお役者は恐縮してしまい、
「わしらの芸は、はあ、何でもねえが、太夫さんが引取って下さるから、どうやら持ちこたえられているのでございます」
「それからまた、いちいち役々に就いて言ってみる……」
と、立てつづけて道庵先生が、初菊や、重次郎や、母のさつき、正清といったような役者を上げたり下げたり、それからまた全体に戻って来て、故人虎蔵の型はこうだの、先代宗十郎はどうだの、誰それはそこで足をこう上げたの、ここで鼻の先をこんなにこすったの、こすらないの、というようなことをのべつにまくし立てたものですから、半ば過ぎまで好意と感激とをもって歓迎していた楽屋一党も、なんだか少し変だと思うようになってきました。
そうするうちに
幕はあいたけれども、道庵は見物席へ戻ることはすっかり忘れて、次から次へ舞台へ出て行く役者や太夫さんに頓着なく、居残りの床山であろうと、衣裳方であろうと、世話役であろうと、お茶くばりであろうと、とったりであろうと、誰彼の容捨なく、芝居話を持ちかけているうち、舞台面が進んで、一人行き二人行き、ほとんど楽屋が空ッぽになると、道庵も
一方、平土間で道庵のために空席を守っていた庄公は、小用にと立って行った道庵の帰りが遅いので気が気でなく、諸方を探し歩いたが、まさか楽屋の中でクダを捲いているとは思わないから、人混みの中をうろうろと潜り廻り、しきりに探しまわりましたけれど、ついにその姿を発見することができないで、とうとう幕あきの拍子木を聞いたものですから、幕があいた以上は、きっと元の場席に帰って来るだろうと、元のところへ帰って待っていてみたが、どうしても道庵が戻って来ないので、もう芝居見物どころではありません、幕の半ばにまた飛び出して右往左往に尋ねまわりました。
宇治山田の米友ならば、こういう例には再三出っくわしているから、またかと言って
十八
長浜の会所へ、両替の使の用心棒としてついて来た宇治山田の米友は、会所の前に暫く待っていたが、今日は何か会所が特別に忙しいことがあると見えて、ラチがあきません。
そこで、気の短い米友としては、少しく
会所のまわりを、
「定
何事によらず、よろしからざることに百姓大勢申合せ候を、とたうととなへ、とたうして、しひて願事企てるを、がうそと言ひ、あるひは申合せ、村方立退候を、てうさんと申し、他村にかぎらず、早々其筋の役所に申出づべし、御褒美として、
とたうの訴人 銀百枚
がうその訴人 同断
てうさんの訴人 同断
右之通下され、その品により帯刀苗字も御免あるべき間、たとひ一旦同類になるとも、発言いたし候ものの名前申出づるにおいては、その科 をゆるされ、御褒美下さるべし。
一、右類訴いたすものなく、村々騒立候節、村内のものを差押へ、とたうにくははらせず一人もさしいださざる村方これあらば、村役人にても、百姓にても、重にとりしづめ候ものは、御はうび下され、帯刀苗字御免、さしつづきしづめ候ものどもこれあらば、それぞれ御褒美下しおかるべきもの也
年月日
何事によらず、よろしからざることに百姓大勢申合せ候を、とたうととなへ、とたうして、しひて願事企てるを、がうそと言ひ、あるひは申合せ、村方立退候を、てうさんと申し、他村にかぎらず、早々其筋の役所に申出づべし、御褒美として、
とたうの
がうその訴人 同断
てうさんの訴人 同断
右之通下され、その品により帯刀苗字も御免あるべき間、たとひ一旦同類になるとも、発言いたし候ものの名前申出づるにおいては、その
一、右類訴いたすものなく、村々騒立候節、村内のものを差押へ、とたうにくははらせず一人もさしいださざる村方これあらば、村役人にても、百姓にても、重にとりしづめ候ものは、御はうび下され、帯刀苗字御免、さしつづきしづめ候ものどもこれあらば、それぞれ御褒美下しおかるべきもの也
年月日
奉行」