法然行伝

中里介山





 法然上人は美作みまさかの国、久米くめ南条稲岡庄なんじょういなおかのしょうの人である。父は久米の押領使おうりょうしうるま時国ときくに、母は秦氏はたしである。子の無いことを歎いて夫婦が心を一つにして仏神に祈りをした。母の秦氏が夢に剃刀かみそりを呑むと見て身ごもりをした。父の時国が云うのに、
 お前がはらめる処定めてこれは男の子であって一朝の戒師となる程の者に相違ないと。
 母の秦氏は心が柔和で、身に苦しみがない。堅く酒肉五辛を断って三宝さんぽうに帰する心が深かった。
 遂に崇徳院すとくいんの御宇長承二年四月七日のうまの正中に母の秦氏悩むことなくして男の子を生んだ。その時紫の雲が天にそびえ、邸のうち、家の西に元が二肢ふたえだあって末が茂り、丈の高いむくの木があった。そこへ白幡しらはた二旒ふたながれ飛んで来て、そのこずえに懸った。鈴の音が天に響き、いろいろの光りが日に輝いたが、七日経つと天に昇って了った。見るもの聞く人、不思議の思いをなさないものはなかった。それからその木を両幡ふたはたの椋の木と名をつけた。年を経て傾き古くなったけれど、この椋の木は異香が常に薫じ、奇瑞きずいが絶ゆることがない。後の人この地をあがめて誕生寺と名づけ、影堂を造って念仏の道場とした。
 生れた処の子供の名を勢至丸せいしまる[#ルビの「せいしまる」は底本では「せしまる」]とつけた。竹馬の頃から性質が賢く、聖人の様である。ややもすれば西の方の壁に向っているくせがあった。天台大師の子供の時分の行状によく似ている。
 父の時国の先祖をたずねると、仁明天皇にんみょうてんのうの御後、西三条右大臣(光公)の後胤式部太郎みなもととしというものが陽明門で蔵人兼高くろうどかねたかというものを殺した。その罪にって美作の国へ流されたのである。そしてこの国の久米の押領使神戸の大夫漆の元国の娘と結婚して男の子を生ませた。元国には男の子がなかったから、二人の間に出来た外孫をもって自分の子としてその後をがせる時に源の姓を改めて漆の盛行と名付けた。盛行の子が重俊、重俊の子が国弘、国弘の子が時国という順である。
 こういう家柄であったから、時国も田舎に在って自然自分の本性に慢心の心があり稲岡の庄の預り処、明石の源内武者定明を侮ってその政治に従わなかった。この明石の源内武者定明という者は、伯耆守ほうきのかみ源長明という者の嫡男で堀川院御在位の時の滝口たきぐちの武者であったが、ここの預り処へ廻されて来たものである。時国の方は自分の家柄は父の系図はよし、母方は土着の勢力家であるし、上役とはいえ、明石の源内武者の摂度に従わず面会にも行かなかったから、上役たる定明が深くこれを憎みうらんでいた。
 この怨みが積って保延ほうえん七年の二月定明は時国を夜討ちにした。その時に勢至丸は九つであった。隠れて物の隙から見ていると敵の定明が庭に矢をはいで立っていたから勢至丸は小さい矢をもって定明を射た。それが定明の眼の間に当った。定明はそのままこの所を逃げ延びて了った。
 父の時国は夜討ちの為に深い傷をうけて死にひんする時、勢至丸に向って云うことには、
 お前はこのことから会稽の恥をおもい敵人を怨むようなことがあってはならぬ。これというのもひとえに先きの世の宿業しゅくごうである。若し怨恨を結ぶ時にはそのあだというものは幾世かけて尽きるということのないものだ。そこでお前は早く俗をのがれ、家を出でて我が菩提ぼだいをとむらい、自らの解脱げだつを求めるがよい。
 といって端座して西に向い合掌念仏して眠るが如く息が絶えた。


 一方勢至丸の父の仇定明は、ここをげてから隠居して罪を悔い念仏往生の望みを遂げ、その子孫は皆法然上人の余流を受けて浄土門に帰したということである。
 さて、この勢至丸の生国に菩提寺という山寺があった。この寺の院主観覚得業かんがくとくごうという人は延暦寺に学んだ者であるが、そこでは望みが遂げ難いと思って、南都に移って、法相ほっそうを学んで卒業した。ひさしの得業とばれていたが、これが勢至丸の母の弟であるから、勢至丸には叔父さんに当る。父の遺言もあることであるし、勢至丸はこの叔父さんの処へ行った。学問の性質がよくて、流るる水よりも速やかに、一を聞いて十を悟り、聞くところのこと忘れるということがない。
 叔父の観覚は勢至丸の器量を見て如何いかにもただ人ではないと思ったからいたずらに辺鄙へんぴの塵に埋めて置くには忍びない、早く当時学問の権威比叡山ひえいざんに送って本格の修業をさせなければならぬと心仕度をしていた。勢至丸はこの趣きを聞いて、はや故郷に留まる心はなく早く都へ上りたいと憧れている。叔父の観覚はその心を喜んでこの子を連れて母の処に行って、このことを物語ると母は流石さすがに人情として、とみに返事も出来ないでいると勢至丸が云う。
「受け難き人身を受けて、会い難き仏教に会う。眼の前の無常を見て夢の中の栄耀えいよういとわねばなりません。とりわけて亡き父上の御遺言が耳の底に止まって心のうちに忘れられません。早く都の叡山に登って本当の仏法修業をいたしたいものでござります。母上がこうしておいでの程は御孝養を致さねばなりませぬが、有為を厭い、無為に入るのが真実の報恩であるとの教文もござります。一旦の別離を悲しんで永日の悲歎をお残しなされぬように」
 と再三なぐさめの言葉を申した。母もこのことわりに折れて承諾の言葉を述べたけれども袖に余る悲しみの涙が我が小児の黒髪をうるおした。その悲しみの思いを歌って、
かたみとてはかなき親のとどめてし
  この別れさへまた如何にせむ
 そうしてはじめて比叡の西塔さいとう北谷、持宝房源光じほうぼうげんこうが許へ勢至丸を遣わされた。その時叔父の観覚の手紙には、
 進上、大聖文殊像だいしょうもんじゅぞう一体
 と、文殊は智恵である。この子が智恵の優れた子であるということを示す為であった。
 かくて勢至丸十五歳近衛院このえいんの御宇、久安三年の二月十三日に山陽の道を踏み上って九重の都のちまたに上り著いた時、途中時の摂政せっしょうであった藤原忠通の行列に行き会ったので、勢至丸は馬から降りて道の傍によけていると、摂政殿が勢至丸を見て車を止められて、
「いずくの人ぞ」
 とお尋ねがあった。おそばの者が、
「これは美作みまさかの国より出家修業の為に叡山に登るものでございます」と申上げた。摂政殿がそれを見て勢至丸に御礼儀があって、通り過ぎさせられたから、おそばの者が意外の思いをした。摂政殿が後に申されるには、
「今日路次で会った処の子わらべは眼から光りを放っている。如何にもただ者ではないことが分る。そこで礼をしたのじゃ」と云われた。
 後に忠通公の息月輪殿つきのわどのが上人に帰依きえ深かった因縁もこの物語と思い合わされるものがある。


 勢至丸は都へ入ってから、まず叔父の観覚得業の手紙を持宝房へつかわされると、源光房がその手紙を見て、
「ハテ文殊の像一体とあるが」と不審がると使者が「いえ、文殊菩薩の御像を持参致したわけではござりませぬ。お稚児ちごさんを一人連れてまいったのでございます」
 そこで源光は早くも、この小児の聡明なることを察して迎えを遣わし、同じ月の十五日に叡山に登った。
 叡山の持宝房についたから試みにまず四教義しきょうぎを授けて見るとせんをさして質問をする。疑う処皆古来の学者たちの論議した処と同じである。まことにただ人ではないと皆が申し合った。この子の器量が同輩に過ぎたる名誉を知って源光は「おれは魯鈍の浅才であるから、この子の教育の任に堪えぬ。然るべき碩学せきがくにつけてこの宗の奥義を究めさせなければならぬ」といって久安三年四月の八日にこの子を引連れて功徳院肥後阿闍梨あじゃり皇円のもとに入室させた。
 この皇円阿闍梨は、粟田関白四代後の三河権守重兼が嫡男であって、少納言資隆朝臣あそんの長兄にあたり、椙生すぐうの皇覚法橋ほっきょうの弟であって、当時の叡山の雄才と云われた人である。この皇円阿闍梨はこんど連れてこられた少年の聡敏なることを聞いて驚いて云う。
「さる夜の夢に満月が室に入ると見た。今この法器にあうべき前兆であったわい」
 といってよろこばれた。
 同じき年の十一月の八日、勢至丸は黒髪をり落し法衣を著し、戒壇院かいだんいんで大乗戒を承けた。
 或時のこと師範の阿闍梨に向って申されるには、
「既に出家の本意ほいを遂げて了いました。今は山林の中へ遁れようと思います」
 それを聞いて師の阿闍梨が云われるには、
仮令たとい隠遁の志がありとしても、まず六十巻を読んで後、その本意を遂げるがよかろう」
「まことに仰せの通りでございます。私が山林に行って閑居を願う心は永く名利みょうりの望みを止めて静かに仏法を修業しようとの為でございます」
 そこで生年十六歳の春、はじめて本書を開き三カ年を終て三大部にわたり得た。
 理解修業、妙理を悟ること師の教えに越えている。阿闍梨は愈々いよいよ感歎して、
「この上とも学問を努め、道行を遂げて天晴れ天台の棟梁となりなさい」と期待をかけて激励したけれども、その期待に添うべき返事は更になかった。なおこれ名利の学問であるわいとたちまち皇円阿闍梨の許を辞して黒谷くろだに西塔さいとう慈眼房叡空じげんぼうえいくうの庵に投じた。これは久安六年九月十二日、法然十八歳の時のことであった。
「幼稚の時分からやや人がましくなりました今日に至るまで、父の遺言が耳に残って忘れられませぬ。私の出家登山は、名利の学問の為めではござりませぬ。永久に隠遁の心を遂げたいが為めでございます」と述べる。
 少年にして、早くも出離しゅつりの心を起したのは誠にこれ法然道理のひじりであると慈眼房叡空は随喜して、法然房と号し、実名は最初の師源光の上の名と叡空の下の字をとって源空と名をつけられた。
 こうして法然といい、源空という生涯を通じてのよび名を十八歳の時叡山の西塔黒谷の慈眼房叡空の庵に於てつけられたのである。
 この叡空上人は大原の良忍上人りょうにんしょうにん附属ふぞく円頓戒相承えんどんかいそうじょうの正統であって、瑜伽ゆが秘密の法に明かに当代に許された名師であった。


 かくて法然は黒谷に蟄居ちっきょの後はひとえに名利を捨て一向に出要を求めんと精進した。学問せんが為の学問でなく、確かに生死を離るべき道を求むるが為に学問した。一切経いっさいきょうひらけみすること数遍に及び、自宗他宗の書物眼に当てないというものはなかった。
 或時天台智者大師ちしゃだいしの本意を探り、円頓一実の戒体かいたいに就て、師の慈眼房と話をした。慈眼房は、
「心が戒体じゃ」という議論をたてる。法然は、
性無作しょうむさ仮色けしきが戒体でございます」という議論を立て、両々相譲らず、永い間議論をしていたが、慈眼房が腹を立てて、あり合せた木の枕を以て法然に打ちつけたから、法然は師の前を立ち出でて了ったことがある。それから慈眼房は独り考えること数尅すこくの後法然の部屋に来て申訳をする旨には、
「お前が云った処がやっぱり天台大師の本意であるわい。一実円戒いちじつえんかいの至極であるわい」といわれたことがある。
 保元元年、法然二十四の年、叡空上人に暇を乞うて嵯峨さが清涼寺せいりょうじに七日参籠のことがあった。法を求むるの一事を祈る為であった。この寺の本尊、釈迦善逝しゃかぜんせいは三国伝来の霊像である。
 法然は如何なる大巻の文といえども三遍それを見ると明かになる。諸教の義理をあきらめ、八宗の大意を窺い得てそれぞれの宗派宗派の先達せんだつに会って自分の解釈を述べて見ると何れもそれを印可して、賞美しないものはなかった。
 清涼寺の七日の参籠を済せて、それから南都へ下り、法相宗の碩学せきがく蔵俊僧都ぞうしゅんそうずの処に至って普通の修業者の通りに御対面を申出で、大床にいた処を蔵俊僧都が何と思ったか明り障子をあけて内へ招き入れて対面し、法談に時を移した。宗義に就て不審を挙げられると僧都にも返答の出来ないようなことがあった。それを法然が試みに自分独学の推義を述べてみると僧都が舌を巻いて、
「お前さんはただ人ではない。恐らくは大権化の現われでござろう。昔の論主に会ったからとてもこれ程のことはあるまいと覚える。智恵深遠なること言葉にも云い尽せない」といって一生の間毎年法然に供養をしたということである。
 醍醐だいごに三論宗の先達で権律師ごんりっし寛雅という人があった。そこへ法然が訪ねて行って、自分の所存を述べて見ると、律師は総て物を云わないで聴いていたが、やがて内に立ち入って、文櫃ふみびつ十余合を取り出して法然の前に置き、
「ああ、わしが法門にはこれをつけてやるに足る人がない。それだのに君は既にこの法門に達している。これは自分の秘蔵の書物だが尽く君に奉る」といった。称美讃歎の程が思いやられる。進士入道阿性房しんじにゅうどうあしょうぼう等の人々が一緒に行ったが、このことを見聞して驚いて了った。
 又仁和寺にんなじ華厳宗けごんしゅうの名宗で大納言法橋慶雅ほっきょうけいがという僧があった。仁和寺の岡という処に住んでいたから、岡の法橋ともいわれていた。醍醐にも通っていたのか醍醐の法橋ともいわれていた。この人は法然の弟子阿性房が知っていた処から法然は華厳宗の不審を尋ね問わんとして阿性房を引き連れて訪問した処が、法橋がまず無雑作むぞうさに云いだすことには、
「弘法大師の十住心じゅうじゅうしんは華厳宗によって作ったものである。このことを御室おむろに申した処それは面白い議論である。早くもう少し研究して見るがよいと仰せられたから今考えている処だが」といわれた。
 初対面のことではあったけれども、どうもに落ちない。学問の習いでもだし難く法然はいった。
「どうしてあれは華厳宗によって作ったものでございましょう。大日経だいにちきょう住心品じゅうしんぼんの心を以て作られたものと思います。第六の他縁大乗心たえんだいじょうしんは法相宗の意でございます。第七の覚心不生心かくしんふしょうしんは三論宗でございます。第八の一道無為心いちどうむいしんは天台宗でございます。第九の極無自性心ごくむじしょうしんは華厳宗でございます。第十の秘密荘厳心ひみつしょうごんしんは真言宗でございます」と云って弘法大師の十住心論のはじめ異生羝羊心いしょうていようしんから終りの秘密荘厳心まで一々そのを誦して道理を述べ、弘法大師の主意と自分の解釈のしようを細かに申し述べると、法橋がそれを聴いて、縁にいた阿性房を呼んで、
「どうだ、お前これを聞いたか。この様に心得ていて往生が出来ないということがあるものか。俺はこの華厳宗を相承しているけれどもこれ程分明に判ってはいなかった。他宗の者から聴かされた智恵が、自宗で習い伝えた義理に立ち越えている」といって随喜感歎甚だしく、法談数刻の後、法然は特に乞うて華厳宗の血脉けちみゃく並に華厳宗の書籍などを渡された。この法橋は最後には、法然上人を招請して戒を受け二字を奉り、戒の布施には円宗分類えんしゅうぶんるいという二十余巻の文を取り出して、
「慶雅はこの外には持っているものはない。上人に外の物を差しあげても仕方がないと思うから」
 といって黒谷へ送り届けた。法然がその時云うよう、
「学問の妙理というものはこの通り帰すべきことには帰するものである。この法橋は華厳宗にとってはよき名匠であって、弁暁法印べんぎょうほういんもこの慶雅法橋のお弟子であるのに」と云われた。
 法然上人が諸宗に通達しているということが、人口にあまねくなった上右の慶雅法橋が御室(鳥羽院第五の皇子覚性法親王かくしょうほうしんのう)の御前で、
「拙僧も自門他門多くの学生達がくしょうたちに会いましたけれども、この法然房のように物を申す僧には会ったことがござりませぬ」と称美したのを聞かれて御室から法然を招かれ、
「天台宗に就て学びたいことがある」と仰せられたが、法然はそれを辞退して、
「天台宗は昔は型の如く伝受いたしましたけれども、今はただ念仏になって天台宗は廃学いたしました。山門には澄憲ちょうけん、三井には道顕どうげんなどの名匠が居りますから、あの人達をお召しになってお聴き遊ばすが如何いかがかと存じまする」と申し上げると、
「それ等はみんな最早聴いている処であるから辞退の申訳にはならぬ」と重ねてしきりに仰せがあったけれども、法然は尚堅く辞退する。
「左様ならば念仏のことを学問したい。そのついでに少々談義をしたいこともある」と仰せられたけれども、自然に延び延びになって月日を送られていたが、後白河法皇御最期の時、法然が御善知識に召されて参った時に御室も御参会があって、その時に又右の話が出て、
「こうして在京の間に望みを叶えて貰えまいか」と云われた。
 法然は、
斯様かような折は物事忙わしくもあり、又お召の時も御座りましょうから、中間でまとまりのないことを申上げるも不本意でござりまする故そのうち静かに参上仕りましょう」とてそのついでも空しく止んで了った。その後幾ばくもなくて御室もお亡くなりになり、ついにその望みは遂げられずに了ったが、斯くばかり懇切に志を尽されたのも法然が諸宗に達していたという為であった。


 法然の言葉に、
「学問というものは創見ということが極めて大事である。師匠の説を伝習するのは容易たやすいことである。そこでわしは諸宗を学ぶのに諸宗自らの章疏しょうしょを見て心得た」ということを云っている。つまり法然のはその道のその時代の学者に就て習い覚えた学問ではなくて、その学者を超越してもっとさかのぼった源頭から自から読み得た処の学問であった。そこでその宗、その道の権威者に会うても更に恐るる処がなく、名目だけは彼等から聴き伝えても、その義理会解ぎりえかいはこちらが遙に優れた処にいる。戒律の中川少将上人、法相宗の蔵俊、師の慈眼房皆一代のその道の権威者であったけれども、後進の法然に舌を巻いたのはその故であった。俗に云えば法然程よく諸宗を見破っている者はなく、法然程公平に諸宗を判釈し得る者はなかったのである。
 法然が弘法大師の十住心論を難じていた時のこと、それは源平の乱より先き嵯峨に住んでいた時分のことであった。或夜こんな夢を見たことがある。
 法然が用事あって、他行たぎょうしているそのあとへ弘法大師から使があったという。そこで法然が心に思うには、これはわしが内々十住心論に就て難じていたことが聞えたのであるよな、と思って、そうしてやがて大師の処へ出かけて行くと、五間ばかりなる家の板敷もなくへだてもなく、ただうちには西方を塗り廻らした壁の入口も何もない処がある。大師はこの中においでなさるのだなと思ってまず外でコワヅクロイをして見るとその壁の中から「こなたへ」という声がする。その声について入って壁の内を見ると更にその戸というものがなくて壁の崩れたところのみがある。その崩れからくぐり入ると壁のきわに居られた大師と胸を合せて抱きあわれて了った。大師の顔が法然の左の肩に置かれて、そうして前々に難破することを一々会釈えしゃくして居られる。なお重ねて何か云おうとするうちに夢がめた。それを後に考えて見ると自分の非難をしたことが皆大師のお心に叶ったものと覚える。ひしと抱き合ったということが大師のお心に叶ったと見えるのである。よくもお前は非難してくれたと、大師が思召おぼしめされたから夢にもあの通り会釈されたのだ。すべて学問というものは後学恐るべしといって、学生がくしょうという者は学問にかけては必ずしも先達であるからということはないのである。釈迦如来の滅後五百年に五百の羅漢が集って婆沙論ばしゃろんを作ったのに、九百年に世親せじんが出でて倶舎論ぐしゃろんを作って先きのそれを破って了った。義の是非を論ずる場合にはあながち上古にも恐るまじきものであるぞといわれた。
 法然はもと天台の真言を習っていた。これは叡山に修学の当然であるが、中川の阿闍梨実範じちはんが深く法然の法器に感じて許可灌頂かんちょうを授け一宗の大事を残りなく伝えられた。
 この実範というひじりは東寺の流れで当時の正統を継ぐ真言の師範である。
 このようにして法然は智恵第一のほまれが一代に聞えた。実際当時日本に渡っていた聖教伝記しょうぎょうでんきの類を目に当てないものは一つもなかったといってよろしかろう。天台はもとよりのこと他宗の総てにわたって一代の宗となる程の学力を有していた。禅の宗旨を論じた自筆の書物も存していたということである。
 法然が或時月輪殿つきのわどので叡山の一僧と参り合せたことがあった。その僧が、
「あなたが浄土宗をお立てになったのは何れの文に依ったのでございますか」と尋ねた時法然は、
「善導大師の疏の附属の文によりました」と答えた。山の僧が重ねて、
いやしくも一宗義を立つる程のことに、ただそれだけの一文に依るべきものですか」と詰問した。法然は微笑して何とも云わなかった。その僧が叡山に帰ってから山の宝地房法印証真ほうじぼうほういんしょうしんにこの事を話して、
「法然房も返答をしなかった」というと、宝地房が云うのに、
「法然房の物を云われなかったのは、云うに足らずと思ったからである。の人は天台宗の達者である上にあまつさえ諸宗に亙ってあまねく修学して智恵の深遠なること常の人に越えている。返答が出来ないで物を云わないのだと思うようなことではならぬ」といわれた。
 この法印は叡山に於て非常な学者で、一切経をひもとき読むこと五返であったけれども恵心僧都えしんそうずが矢張り五返読んでいるという前例をはばかって三返だといった程で、時の地蔵菩薩の化身けしんと称していたこの法印が上人を智恵深遠と崇めていたのはよく法然を知る者と云うべく、他の人の賞美よりも意味が深いのである。
 法然が老後に竹林房静厳法印ちくりんぼうじょうごんほういんの弟子が天台の法門を尋ねた。法然は、
「わしは近頃は老耄ろうもうの上に念仏一方で、久しく聖教しょうぎょうを見ないが」といってそれでも後進の為に委しく天台の深奥を説き聴かせたが、その文理の明なること、当時の学者よりも秀れていた。どうしてもただ人ではないと感じ入ったことがある。その頃山門に学者林の如く幾多の明匠もあったのを差置いて隠遁の法然に宗の大事を尋ねに来たことによってもその達している程が推し計られる。
 法然が語って云うよう、
「わしは聖教を見ない日とてはない。木曾きそ冠者かじゃが都へ乱入した時だけ只一日聖教を見なかった」それ程の法然も後には念仏の暇を惜んで称名しょうみょうの外には何事もしなかったということである。


 法然はこれ程の学者であり天才であったけれども、学問と才気が到底自分の心身を救うことは出来なかった。名聞利養みょうもんりようが如何ばかり向上するとても解脱げだつ出離しゅつりの道を示してはくれない。学問が深くなり、名誉が高くなるにつれて、彼の心の煩悶は増して来た。
 一切経を開いてその道を求めんと繰返し読むこと五返、釈迦の一代教迹いちだいきょうしゃくの中におのれの心の落ちつき場と、踏み行くべき足跡を見つけようとしたが、つらつら思い見れば見る程、彼も難くこれも難い。
 そのうちに恵心僧都の「往生要集おうじょうようしゅう」は専ら善導大師の釈義を以て指南としている。そこで善導の釈義を辿たどって遂に、
一心専念弥陀名号いっしんせんねんみだみょうごう 行住坐臥不問時節ぎょうじゅざがふもんじせつ 久近念念不捨者くごんねんねんふじゃしゃ 是名正定之業順彼仏願故ぜみょうしょうじょうしごうじゅんひぶつがんこ
 という文につき当って末世の凡夫は弥陀の名号を称することによって、阿弥陀仏の願いに乗じて確かに往生を得るのだという確信に至り着いた。そこで立処たちどころに余行を捨てて一向念仏に帰したのである。これぞ承安五年の春、法然四十三歳の時。
 或時法然が、「往生の業には称名に過ぎた行いはありませぬ」といわれたのを師の慈眼房じげんぼうが、
「いやいや称名よりは観仏かんぶつが勝れている」といわれた。法然は押し返して、
「称名は弥陀の本願の行でございますからそれが勝れて居ります」という。師の慈眼房はなお承知しない。
「わしが師匠良忍上人も観仏が勝れているということをいわれたのだ」といった処が、
「良忍上人も先きにお生れになったからです」と法然が云ったので、師の慈眼房はその不遜に腹を立てた、法然は押し返して、
「されば善導和尚ぜんどうかしょうも、上来雖説定散両門之益望仏本願意在衆生一向専称弥陀仏名じょうらいすいせつじょうざんりょうもんしえきもうぶつほんがんいざいしゅじょういっこうせんしょうみだぶつみょうと釈をなさいました。称名が勝れているということは明かでございまする。聖教をばよくよく御覧になりませんで」といった。
 法然は一向専修いっこうせんじゅの身となったので、叡山を立ち出でて西山の広谷ひろたにという処に居を移したが、やがて間もなく東山吉水よしみずの辺に静かな地所があったものだから、広谷のいおりをそこへ移して住み、訪ねて来るものがあれば、布教をし、念仏を進められた。そこで日々に信者が集って念仏に帰する者が雲霞の如く群って来る。これが浄土法門念仏の発祥地であった。
 その後加茂の川原や、小松殿、勝尾寺かちおでら、大谷など、その住所は改まるとも勧化かんげ怠りなく遂に末法相応浄土念仏まっぽうしょうおうじょうどねんぶつが四海のうちに溢るるに至った。
 東山大谷は法然上人往生の地である。その跡というのは東西三丈余、南北十丈ばかり、その中に立てられた坊舎であるから、その構えの程も大抵想像がつく。如何いかに質素倹約のものであったか思いやられて尊い。今の御影堂みえいどうの跡がそれである。
 法然が或時云う。
「わしは大唐の善導和尚の教えに従い本朝の一心せんしんの先徳のすすめに任せ、称名念仏の務め長日六万遍である。死期漸く近づくによって又一万遍を加えて、長日七万遍の行者である」といわれた。
 法然が、仏七万遍になってから後は昼夜念仏の外に余事をまじゆるということなく、何か人が来て法門の話でもする時にはそれを聞く為か、念仏の声が少し低くなるだけのことで一向に念仏を差置くということはなかった。
 法然が或時語って云う。
「われ浄土宗を立つる心は凡夫ぼんぷの報土に生るることを示さんが為である。他の宗旨によってはその事が許されないから、善導の釈義によって浄土宗を立てたのである。全く勝他の為ではない」
 法然が又或時播磨はりま信寂房しんじゃくぼうというのに向って、
「ここに宣旨せんじが二つ下ったとして、それを役人が取り違えて鎮西へ遣わさるべき宣旨を坂東へ下し、坂東へ遣わさるべき宣旨を鎮西へ下すことになった時は、受けた人がそれに従い用うることが出来ますか」
 と尋ねた処、信寂房が暫く思案して、
「それはおそれ多い宣旨とは申せ、取り替えられたものはどうも従い用い奉ることは出来ますまい」
 といわれた。そこで法然が、
「如何にも御房は道理を知れるお人である。帝王の宣旨を釈迦の遺教ゆいきょうとし、宣旨が二つあるとすれば、釈迦の教えにも正像末しょうぞうまつの格別があるようなものである。聖道門しょうどうもんの修業は正像の時の教えであるが故に上根上智のものでなければ称することは出来ない。これを仮りに西国への宣旨とする。浄土門の修業は末法濁乱まっぽうじょくらんの時の教えであるから、下根げこん下智のやからを器とする。これを奥州への宣旨とする。それを取り違えてはならない。大原談義の時聖道浄土の議論があったが、法門に就ては互角の議論であったが、気根比べにはわしが勝ったのじゃ。聖道門は深いというけれども時が過ぎれば今の機にはかなわない。浄土門は浅いようではあるけれども当根に叶いやすいと云った時、末法万年余経悉滅弥陀一教利物偏増まっぽうまんねんよきょうしつめつみだいっきょうりもつへんぞうの道理に折れて人々が皆心服したのだ」と。
 支那でも浄土の法門を述べる人師は多いけれども、法然は唐宋二代の高僧伝の中から曇鸞どんらん道綽どうしゃく善導ぜんどう懐感えかん少康しょうこうの五師を抜き出でて一宗の相承をたてた。その後俊乗坊重源ちょうげんが、入唐にっとうの時法然が云うのに、
「唐土に右の五祖の影像があるに相違ない。必ずこれを持っておいでなさい」
 そこで重源が彼の地へ渡った後あまねく探し求めると、果して法然の云うた通り右の五僧一幅に描いた画像を見つけることが出来て重源は法然の鑑識の透徹していることに感心したそうである。この重源将来しょうらいの画像はその後二尊院の経蔵に安置せられていた。


 法然が黒谷で華厳経の講義をしていた時に青い小さい蛇が机の上にいた。それを居合せた法蓮房信空に向って、
「この蛇を取ってお捨てなさい」と法然が云えば法蓮房は生来非常の蛇嫌いの人であったけれども師命そむき難く、こわごわその蛇を捕え、明り障子を開き塵取りに入れて投げ捨て障子をたててさて帰って見ると蛇が尚元の処にいた。それを見るとからだ中から汗が出てわなわなふるえ上った。法然がそれを見て、
「なぜ取り捨てないのか」と叱る。法蓮房は今あったまま然々しかじかと答えると、法然は黙って何も云わなかった。その夜法蓮房の夢に、「大竜が形を現わして、われは華厳経を守護する処の竜神である。恐るるな」と云うと思って夢がめたということである。
 この類の奇瑞きずいがまだ沢山ある。
 上西門院は深く法然に帰依していたが、或時法然をしょうじて七カ日の間説戒せっかいがあったが、円戒の奥旨を述べていると一つの蛇がカラガキの上に七日の間じっとして聴聞の様子に見えた。見る人があやしがっているうちに結願けちがんの日になるとその蛇が死んでしまったが、蛇の頭の中から一つの蝶が出て空に昇ると見た人もあり、天人の形で昇ると見た人もある。
 又法然が叡山の黒谷で法華三昧ほっけざんまいを行っていた時普賢菩薩ふげんぼさつが白象に乗って眼のあたり道場に現われたこともあれば、山王の影が形を現わしたこともあったという。
 或時は蓮華れんげが現われ、或時は羯磨かつまが現われ、或時は宝珠が現われるといったような奇瑞。
 善導大師に就ては殊に傾倒が深かったと見え、紫雲棚引く曠野世界の中に、善導大師と対面なしたという夢を見たが、醒めて後、乗台じょうだいという画工に夢に見た処を描かせた。それが世間に流布して「夢の善導」という図になっているが、その面像は後に支那から渡った処のものに違わなかったということである。
 生年六十六歳、建久九年正月七日別時念仏べちじねんぶつの間には特に様々の異相奇瑞が現われたということが、自筆の「三昧発得記さんまいほっとくき」というものに見えているということである。


 法然が三昧発得の後は暗夜にともし火がなくても眼から光を放って聖教を開いて読んだり室の内外を見たりした。法蓮房も眼のあたりそれを見、隆寛律師りゅうかんりっしなどもそのことを信仰していた。或時ともし火の時分に法然が、長閑のどかにお経を見ているようであったから、正信房がまだあかりも差上げなかったのに、とそっと座敷を窺うと左右の眼のくまから光を放って文の表を照して見て居られたが、その光の明かなること、燈火にも過ぎていた。余りの尊さに斯様かような内証は秘密にして置いた方がよいと抜き足して出て来たそうである。
 又或時夜更けに法然が念仏をするその声が勇猛であったから、御老体を痛わしく尊く思って正信房が若しも御用もやと、やり戸を引き開けて見ると、法然の身体からだから赫奕かくえきと光が現われ、坐っている畳二畳に一杯になっている。その明かなることは夕暮の山を望んで夕陽を見るようで、身の毛もよだつばかりに立ちすくんで了った。法然が、
「誰れじゃ」と問われたから、
湛空たんぐう」と答えると、
「皆の者をも斯様にしてやりたいものだ」といわれたそうである。
 或時法然が念仏していると勢至菩薩せいしぼさつが現われたことがある。その丈一丈余り、画工に云いつけてその相を写し留められたことがある。
 又或時草庵を立ち出でて帰って来ると絵像でもなく、木像でもない弥陀の三尊が垣を離れ、板敷にも天井にもつかずして居られたが、その後はこう云う姿を拝むのが常のことであったという。
 元久二年正月一日から霊山寺りょうぜんじ三七日みなぬかの別時念仏を始めた時も、燈火が無くて光りがあった。第五夜になって行道すると勢至菩薩が同じ列に立ち入って行道した。法蓮房は夢の如くにそれを見たが、法然にその事を云うと、
「そういうこともあろう」と答えられた。余の人には見えなかったという。
 同じ年の四月五日に法然が月輪殿に参って数刻法談をして帰る時、兼実が崩れるように庭の上に降りて法然を礼拝し、額を地につけてやや久しくあったが、やがて起き直り、涙にむせびながら云われるには、
「上人が只今土を離れて虚空に蓮華を踏んでお歩きになり、うしろに頭光ずこうが現われておいでになったのを見なかったか」と。
 右京権大夫入道と中納言阿闍梨尋玄じんげんの二人が御前に居たけれども、それを見なかったということである。池の橋を渡る時に、頭光が現われたので、その橋を頭光の橋とぶことになったそうである。
 又或人が法然から念珠を貰って夜昼名号を唱えていたが、或時フト竹釘に懸けて置くとその一家が照りかがやいていた。その光をただして見ると法然から貰った念珠から出た光で、その珠毎に歴々と光を放ち暗夜に星を見る如くであったという。
 法然の弟子の勝法房しょうほうぼうというのは、画を描くことが上手であったが、或時法然の真影を描いてその銘を所望した処が、法然がそれを見て、鏡を二面左右の手にもち、水鏡を前に置いていただきの前後を見比べていたが、ここが違うといって胡粉ごふんを塗って直し、
「これで似たぞよ」といって勝法房に与えられた。銘のことは何とも云われなかったが、勝法房が後日また参って所望を申出でた時法然は自分の前にあった紙に、
我本因地  以念仏心  入無生忍
今於此界  摂念仏人  帰於浄土
    十二月十一日
源空
   勝法御房
 と書いて授けられたから、これを前の真影に押して敬い掲げた。これは首楞厳経しゅりょうごんぎょうの勢至の円通の文である。
 又或人が法然の真影を写して銘を頼んだ時もこの文を書いてやったことがある。
 又讃州生福寺に止まって居られた時は勢至菩薩の像を自作して、法然本地身。大勢至菩薩。為衆生故。顕置此道場。と記されたそうである。
 法然が勢至菩薩の応現であるということはその幼名によっても思い合される処であって、自分もまた何か感応する処があったものと見える。
 かく法然自身に様々の奇瑞が現われたという伝説があると同時に、法然を信ずる者の側にも様々の感得夢想が現われたということもはなはだ多い。或人は法然が蓮華の中で念仏をしていると見た。或人は天童が法然をめぐって管絃遊戯ゆうげしていると見た。或者は又洛中はみんな戦争のちまたであるのに法然の住所だけがひとり無為安全であるのを見た。或者は又嵯峨の釈迦如来が法然の道を信ぜよとお告げがあったのを見た。この類の奇瑞、信仰数うるに絶えざるものあるも無理がない。


 かくして法然は、上は王公から、下は庶民に至るまで、その徳風が流溢りゅういつして来た。文治四年八月十四日のこと、後白河法皇が河東押小路かとうおしこうじの御所で御修経のことがあった。その時の先達として法然上人が選ばれた。
 まずその日集る処の御経衆には法皇をはじめとして、妙音院入道相国しょうこく(師長公)、叡山からは良宴法印、行智律師、仙雲律師、覚兼阿闍梨、重円大徳という顔触れ、三井みい園城寺おんじょうじからは道顕僧都、真賢阿闍梨、玄修阿闍梨、円隆阿闍梨、円玄阿闍梨という顔触れ、それに法然上人とその門弟行賢大徳が参加するのだが、山門寺門の歴々は慣例上是非ないことであるが、法然が特に召されてこの席につらなるということは非常なる特例である。ただその席に列ることでさえが非常なる特例であるが、この一座の上に立って先達を勤むるということは特に破天荒というべきである。この時代のやかましい宗教界、名刹めいさつの上下でさえも焼き打ちが始まる宗教的確執、我慢の時に於て、何等の僧位僧官も無い平民僧の法然が、彼等の上に立って先達を勤むることが是認せられるということは殆んど想像以上の一大奇蹟と云わねばならぬ。
 その以前今日の御催しの時に東寺へも御沙汰があって、東寺からも僧を召されるというような噂を伝え聞いて、天台側から抗議が出た。
「こんどの御経衆に東寺の僧を召し出される風聞がございますが、そもそもこの御経衆は慈覚大師が初めてとり行われた法則でございます。他門の僧を召さるることはよろしくござるまいと存じます」
 東寺は弘法大師の真言宗である。山門寺門の天台側からこの抗議があって見ると、仮令たとい法皇の思召おぼしめしでもそれを押し切る訳には行かなかった。
 処が法然が召されるという噂があったに就ても山門寺門では故障異議を申出でることがないのみか、「あの上人ならば仔細しさいを申すことはない」との事であった。そこで法然が召されて単に御経衆に列るだけではない、一座の先達を勤むることに誰一人異議がなかったのである。
 もとより法然は天台門から出た人ではあるが、今は自ら浄土の法門を開いた別宗の人の形になっている。それが特に召されて第一座を占め、先達を勤むることになって不足の云いようがないということは前にも後にも例のない程の圧倒的な人格の力といわねばならぬ。法然はこれを固く辞退したけれども勅定がしきりに降って辞するに由なくその勤めを行うことになった。
 その時の席順は正面の東西に席を設けて東の第一座が法然上人、西の第一座が後白河法皇、法然の次が入道相国(太政大臣師長)それから叡山の良宴法印以下が各々おのおのその位によって列座したのである。昔奈良朝の時、行基菩薩はあれ程の大徳であったけれども、世俗の法によって婆羅門バラモン僧正の下に着座をした。この例によると叡山を代表して良宴法印が法然上人の上座に着くべきであるが、法皇の別勅によって法然上人が第一座に着かせられ、山門の代表者も甘んじてそれに席を譲ることになった。太政大臣は固よりその次席である。そこで法然は礼盤らいばんにのぼりて啓白、その式を行われたのである。
 九月四日に観性法橋から進呈せられた御料紙ごりょうしをむかえらるる式がある。これも法然が申し行われる。同じき八日写経の水を迎えられること、同十三日御経奉納の式がある。これ皆国家の大事と同じ様な行幸があり、儀式がある。そのはなばなしい一代の盛儀に特に隠遁の法然を召し出して先達とせられたこと、帝王帰依きえの致す処とは云え、個人の徳望の威力古今無比といわねばならぬ。


 のみならず高倉院御在位の時、承安五年春のこと、勅請があって、主上に一乗円戒を法然上人が授け奉った、という特例がある。これは清和天皇が貞観じょうがん年中に慈覚大師じかくだいし紫宸殿ししんでんに請じて天皇、皇后共に円戒を受けられたという前例がある。法然上人は法統から云えば慈覚大師より九代の法孫に当る。法然一平僧の身を以てこの重大事の勅命を受け、慈覚以来のいにしえを起したということは無上の破格であった。
 又後白河法皇の勅請によって、法然は法住寺の御所に参り、一乗円戒を法皇に授け奉った。その時には山門寺門の学者達を召されて、番々に「往生要集」を講じ、各々の所存を述べさせられたが、法然も仰せに従って披講ひこうをした。その時「往生極楽の教行きょうぎょう濁世じょくせ末代の目足なり。道俗貴賤、誰れか帰せざらんもの」と読み上げただけで初めて聞かれたように貴い響があって胆に銘じ法皇の感涙が止まらなかったとのことである。その時御信仰の余り右京権大夫隆信朝臣に仰せつけられて法然の真影を図して蓮華王院の宝蔵におさめられたそうである。先きの世にも例の無いことだと云われる。
 斯様に後白河法皇は法然に帰依し、百万遍の苦行を二百余箇度よかどまで功を積まれたということである。建久三年正月五日から法皇が御悩みあって、日毎に重らせられる。そこで御善知識の為めに法然に仰せが降った。二月二十六日に法然は法皇の御所に参じて、御戒を奉られ御往生の儀式を定め、重ねて念仏のことを申上げられ、それから三月の十三日に御臨終正念にして称名を相続しながら御端坐のままで往生を遂げさせられた。御年六十六。
 法皇が崩御遊ばされた後御菩提の為めに建久三年秋の頃、大和の前司親盛ちかもり入道が、八坂の引導寺、心阿弥陀仏調声しんあみだぶつちょうしょうを行い、住蓮、安楽、見仏等の人達が助音して六時礼讃ろくじらいさんを修し、七日念仏した。結願けちがんの時種々の捧げ物を取り出でたのを法然は不受の色を表わして、
「念仏というものは自らの為の勤めである。法皇の御菩提に回向えこうをしたとは云え、もともと自らの為の念仏に他より布施を受くるとはもっての外のことである」と誡められた。これが六時礼讃の苦行のはじめである。
 後白河法皇の十三年の御遠忌に当って土御門院が御仏事を修せられた。それは元久元年三月のことで、その時法然は蓮華王院で浄土の三部経を書写せられ、能声を選んで六時礼讃を勤行して、ねんごろに御菩提をとぶらい申された。見仏の請によって浄土三部経を法華の如法経にょほうきょうになぞらえて書写すべき法則を定められたのもこの時である。
 後鳥羽院にも度々勅請あって、円戒を御伝授、上西門院、修明門院、同じく御授戒があった。三公、公卿、朝の内外仰いで伝戒の師としないものはない。

十一


 公家のうちでは九条関白兼実かねざねが(後の法住寺殿、又は月輪殿)法然に対する信仰は殊に比類のないものであった。
 二月十九日に法住寺殿の御忌日に御仏事があって、僧俗座を分けて立ち並ぶうちに法然も招請されたが、この時の席次に於ても慈鎮和尚じちんかしょう(僧正)・菩提山の僧正(信円)何れも一隠遁の平民僧である法然に向って正座を譲られた。
 兼実が月輪殿を造った時も、その御殿の中に一種異様な別棟を一つ建てられた。そこで奉行の三位範季卿という人が、
「今まで殿下の御所を多く拝見しました処こう云うお邸はまだ存じませぬ」という。
「そうでもあろうが、思う処があるのだから兎も角急いでくれ」
 といって建てさせられたが、これは法然の休み処のためであった。老体の法然をまずここに招いて休ませ、それから後に対面をするというためであった。或時の如きは、法然が月輪殿に出向いて行くと兼実は跣足はだしで降りてそのお迎えをした。処で居合せた聖覚法印、三井の大納言僧都というような顔触れも同じように跣足で降りて迎えなければならなくなったということである。
 建久八年(六十五歳)の時法然が少しく病気にかかった。兼実は深くこれを歎いたが、それでも病気は間もなくなおった。その翌年正月の一日から法然は草庵にとじ籠って何れから招かるるも出て行かなかった。その時、兼実は藤右衛門尉重経とううえもんのじょうしげつねを使として法然に、
「浄土の法門年頃お教えを承りましたが、不敏にしてまだまだ心腑に収め難いものが多くございます。こいねがわくはその要領を文にして記し賜りたい。その望みが叶えば御面談の代りにもなり、かつは後世への記念にも備えることが出来まする」
 と申越された。そこで法然が、この兼実の請を容れて弟子の安楽房に筆を執らせて著作をしたのが有名な「撰択集せんじゃくしゅう」である。
 この時の執筆者安楽房というのは外記入道師秀という者の子であるがこの時その撰択集の第三章を筆写せしめられた時、つぶやいて云うには、
「わたしがなまじい字を書く人間でさえなければこう云う役廻りは仰せつけられなかっただろうに」
 といったのを法然が聞いて、「これは増長している。※(「りっしんべん+喬」、第3水準1-84-61)慢な心が深いから悪道に落ちる奴だ」といって安楽房を退けてその後は真観房感西に書かせることにした。しかしてこの安楽房は、後年後宮女房のことから自分は斬罪に会い、師の法然を遠流おんるにするような事態をき起した人物である。
 兼実は上述の如く法然が来る毎にくだり迎えをされる。摂政関白が既にこの通りだから、その以下の公家殿上人の降り騒がれることは容易のものではない。法然はそれをうるさいことに思って九条殿下へ(月輪兼実)参らないように、草庵にとじこもりということを名にして、九条殿をはじめ、何処へも出て歩くことをしなかった。それを兼実は頻りに歎いて、「それでは仮令たとい房籠りの折と雖もわしの身に異例でもあるような時には見舞いに来て下さるだろうな」
 上人も左様な時には仔細に及ばないと申されたのを言質として、いつも病気とか、異例とかいって法然の処へ招請の使を寄せられる。法然も辞退し難くて月輪殿を訪ねる。それを門弟の正行房という者が心の中で思うよう、
「お上人も房籠りというて他所よそへはおいでにならないで、九条殿へだけおいでになるということは、人によっては上人程のお方でも貴顕へはへつらっておいでになるとそしる者がないとは限りません。おいでになるならば貴賤上下隔てなくおいでになるがよろしい。おいでにならぬならば絶対にお籠りがよろしい。どうも九条殿だけへおいでになるのはよろしからぬように思われる」
 というようなことを考えて寝たところが、その夜の夢に法然が枕許に現われて、
「正行房、お前はわしが九条殿へまいることをよく思うていないようだな」といわれる。
 正行房があわてて、
「いいえどうして、そんなことを思いましょう」
 法然それを打ち消して、
「いや、お前はたしかにそう思っている。お前のそう思うのも一応道理はあるが、九条殿とわしとは先きの世からの因縁である。他の人とは比較にならない。この宿習しゅくじゅうあることを知らないで、謗る心などを起さば罪になるぞ」といわれると見て夢が醒めた。醒めて後このことを法然に語ると、法然は、
「その通り、月輪殿とわしとは先きの世から因縁のあることじゃ」と云われたそうである。
 こうして兼実は終に建仁二年(法然七十歳)正月二十八日月輪殿で出家を遂げ、法名を円証とつけ法然を和尚として円戒を受けることになった。

十二


 大炊御門おおいのみかど左大臣(経宗)という人は月輪兼実とは違い、日頃から余り信仰のない人であったが、ある人の方便で上人を請じ屏風びょうぶを距てて念仏談を聞き信仰心を起して法然に帰敬ききょうし、文治五年の二月十三日に生年七十一で出家を遂げたがその月八日臨終正念の往生をとげたという。
 花山院左大臣(兼雅)は最初から深く法然に帰依し、鎮西の庄園の土貢を割いて毎年法然に寄附して来たが、云うよう、
「わしは院の御所より外には車を立てたことはない身だが、法然上人の庵に車を立てることは苦しくない」
 といって常に訪問して円頓戒えんどんかいをうけ、念仏の法門を談ぜられたが、生年五十四歳、正治二年の七月十四日に出家をとげ、同じ十六日に往生を遂げた。
 右京権大夫隆信も深く上人に帰依し、念仏の一行を勤めたが、遂に建仁元年法然に従って出家を遂げ、法名を戒心とつけた。六十四の時往生したが、臨終の時は奇瑞きずいがあったということが、日本往生伝に記されている。
 二品卿にほんのきょうの弟、民部卿範光という人は、後鳥羽院の寵臣であったが、つとに法然に帰依し、承元元年三月十五日五十四の時出家を遂げて静心じょうしんと号した。病気危急の時に後鳥羽院が忍んで御幸があったそうであるが、その時静心は夢に法然上人を見て往生の疑なきことを申上げたということである。
 大宮内府おおみやのだいふ(実宗)も法然を主として出家入道し、臨終正念に往生を遂げた一人である。
 野宮左大臣(公継)は法然と師弟の契り浅からず、興福寺の衆徒が法然の念仏興行をそねんで、法然及びその弟子と共にこの人をも流罪に行われたいということを奏上に及んだけれども、信仰の心少しも動かず、専修の勤めを怠りなく一生を終った人である。

十三


 聖護院無品親王しょうごいんむほんしんのう(静恵)が御違例の時、医療の術を尽されたが、しるしが無い。大般若だいはんにゃの転読、祈祷皆そのしるしなく既に危くおわしました時、上人を招請されたことがある。お使が二度までは堅く辞退してまいらなかったが、第三度の使に宰相律師実昌さいしょうりっしじっしょうという人が来て、たっての願いで引きたてる様にして頼むから、やがて律師の車に乗ってまいると親王が御対面あって、
「どうしたらこの度生死を離れられるか。後生を助け給え」
 と頼まれて法然は臨終の行儀を談じ、それから弥陀本願の趣きを述べる。親王感涙頻りに下り法然に向って合掌したそうである。法然はやがて帰ってしまったが、その翌日宮は御往生がある。最期さいごの時に念仏一万五千を申されて、念仏と共に御息が止まったということで、なみいるおつきの人々皆感動し、実昌律師は後にこの御往生の趣きを法然に話したら、法然も喜んだということである。
 延暦寺東塔の竹林房静厳法印じょうごんほういんという者が、吉水のいおりに来て、
「如何にいたしたらこの度生死を離れることが出来ましょうや」
 と尋ねると、法然は、
「それは源空こそお尋ね申したいところでございます」
 と答えた。竹林房が押し返して尋ねるので法然が、
「源空は弥陀の本願に乗じて極楽の往生を期する外は全く知ることがありません」
 法印が申さるるには、
「私の所存もまたその通りでございますが、よきお言葉を承ってその考えを堅くしようが為にお尋ね申すのでございます。それはそうでありましても、口に念仏をとなえましても妄念がむやみに起って来て心が乱れるのをどうしたらよろしゅうございましょう」
 法然が答えて、
「これは煩悩のなすところであるから、凡夫の力では何ともいたし方がありません。矢張りそれはそのままでただ本願をたよって名号を称えれば仏の願力に乗じて往生が出来るということを知るばかりであります」
 法印の信心がそこで定まって疑念が忽ちに溶けてまかり帰った。
 法然が清水寺で説教の時、寺家の大勧進沙弥印蔵だいかんじんしゃみいんぞうという者が、念仏の信仰に入り、滝山寺を道場として、不断常行念仏ふだんじょうぎょうねんぶつをはじめて今に至るまで怠らぬ。これは文治四年のことである。
 南都興福寺の古年童こねんどうという者、矢張り清水寺で法然上人の説教を聴いてから念仏に帰して、霊瑞がある。
 建仁二年の三月十六日、法然が語って云う。
「慈眼房はわしにとっては受戒の師範である上に衣食住のこと皆ことごとくこのひじりに扶持をして貰った。だが法門をこの人に学んだ教えられたというわけではない。法門の義に就ては水火の如く論じ合ったこともある。この聖とわしとは南北に房を列べて住居をしていたが、或時慈眼房の前をわしが通ると、わしを呼び止めて、『大乗の実智を起さないで浄土に往生することが出来るか』と問われたから、わしは『それは往生が出来ますとも』と答えたら、『何にそう見えているか』と仰言おっしゃるから、『往生要集の中に見えてございます』と申すと、聖が「わしも往生要集の中は見たぞ」と仰言る。そこでわしは「誰れでも中を見ないものはございますまい」と云い返したので慈眼房が腹をたてて枕をもって投げつけられたから、わしはやわらかに自分の房の方へ逃げて来ると、それを追っていらしって箒の柄で肩をたたかれたこともございます。又、或時は書物を持って来られてこれは何という言葉じゃと云われるから、これはこうと返答をすれば騒ぎだろうと思って、さあどういう意味でございましょうかと申すと、また腹立ちで、『お前の様な人間を置くのはこう云うことの相談にしたいからだ』と云われるような訳で、いつも争論にはなったけれども、最後には覚悟房という僧にわが名の二字を書かせて、却って弟子になって寺のお経や譲り文をも、もとは譲り渡しと書かれたのを取り返して進上と書き直して法然に贈って生々世々しょうしょうせせ互に師弟となる印であると申された。真言の師範であった相模阿闍梨重宴も最後には受戒の弟子となった、丹後の迎摂房こうしょうぼうも却って弟子となって浄土の往生をとげた。その時の院主僧都円長も最初のわしの師範であった美作の観覚得業も弟子になり皆自分の師範であった人が源空を戒師として弟子となった中にも、その時代の学者という学者は大抵慈眼房が戒を授けた弟子であるのに、その慈眼房が却ってこの法然の弟子となられたのは不思議のことである」と云って様々に語り聞かせたことがある。
 建仁元年のこと左衛門志さえもんのさかん藤原宗貞という者がその妻の惟宗の子女と共に一寺を建立し、阿弥陀を本尊にし、脇士きょうじには観音と地蔵とを安置し、事のついでをもって法然に供養を頼んだところ法然が、堂の中に入って見て、
「これは源空が供養すべき堂ではない」と云うて出て了った。願主が非常に狼狽して人に尋ねて、法然上人は勢至菩薩の垂跡すいじゃくであるとの専らの噂のあるのに、この堂にその菩薩が無いから上人の御心に添わないのだろう。そこで急いで勢至菩薩をこしらえ地蔵を脇へ移して、その後又序を以て法然に供養して貰い、これも不断念仏の堂となり、引摂寺いんじょうじというて今に残り、勢至菩薩のうしろに地蔵様が隠れているということである。

十四


 大原談義は天台の座主ざす顕真けんじん僧正が法然上人に向って念仏の要義を問われたことから始まっている。顕真と法然とは叡山の坂本で対面した。顕真僧正は例によって尋ねた。
「如何にしたらば生死しょうじを離れることが出来ようか」
 法然「それはあなたのお計らい通りになさるに越したことはございますまい」
 僧正「貴僧はその道の先達せんだつでござる故、定めて思いたつものがあるでござろう。それをお示し下されたい」
 法然「左様、それは自分の為には少しは思い定めたこともあります。ただ早く極楽の往生をとげることでございます」
 僧正「その往生というのがなかなかとげ難いことだから、そこでお尋ねをして見たのだ。どうしたら容易たやすく往生が出来るものかいな」
 法然それに答えて、
「成仏ということはなかなかむずかしいが、往生は得易いことだと思います。道綽どうしゃくや善導の言葉に依れば、仏の願力を強縁として乱想の凡夫も浄土に往生することが出来るのでございます」
 と、その日はそれだけで別条もなく、法然は帰って了ったが、その後で顕真座主がいうのに、法然房は智恵は深遠だけれども、どうも人間にいささか偏固な欠点がある。
 法然は顕真座主のこの言葉を聞いて、
「人間というものは自分の知らないことには必ず疑心を起すものだ」
 この言葉を又顕真座主に告げる者があった。そこで顕真が、「なる程そう云われて見ればそうだ。わしは今迄顕密けんみつの学問に稽古を努めたけれどもこれはまあ名利の為といってもよろしい。至心に浄土を志したということもないから道綽や善導の釈義も窺っているとはいえないのだ。法然房でなければこう云うことを云うてくれる者はない」と。それから百日の間大原に籠って浄土の書物を研究して後、さて自分は浄土の法門にも一通り通じたのである。もう一度お話をお聴きしたい。就ては自分一人で折角のお談義を聞くのも勿体ないから人を集めて見よう。
 そこで大原の立禅寺りゅうぜんじに法然上人を屈請くっしょうした。元の天台の座主顕真僧正は、この法門はわれ一人のみ聴聞すべきにあらずと云うて、諸方に触れをして南都北嶺の高僧達を招き集めることにした。文治二年秋の頃、顕真の請によって法然は大原へ出かけて行った。東大寺の大勧進俊乗坊重源が弟子三十余人をつれてそれに従った。顕真法師の方には門徒以下の碩学、ならびに大原の聖達ひじりたちが坐しつらねている。その他山門の衆徒をはじめ、見聞の人も少ない数ではなかった。論談往復すること一日一夜である。法然は、法相、三論、華厳、法華、真言、仏心等の諸宗にわたって、凡夫の初心より仏果の極位ごくいに至るまで、修行の方法や、得度とくどのすがた等をつぶさにのべ、これ等の方は皆義理も深く利益もすぐれているから、機法さえ相応すれば得脱は疑う処ではないが、といって凡夫はこれにつき難い事を述べ、浄土の教門の事の理をきわめ言葉をつくして説き語り、
ただこれ涯分の自証を述ぶるばかりなり。またく上機の解行げぎょうを妨げんとにはあらず。
 という謙譲なる註釈を以てその席は終った。座主をはじめ満座の衆皆心服して、
かたちを見れば源空上人。まことは弥陀如来の応現かとぞ感嘆しあえりける。
法印香炉をとり高声念仏をはじめ行道したもうに。大衆みな同音に。念仏を修すること三日三夜。こえ山谷にみち。ひびき林野をうごかす。信をおこし縁を結ぶ人おおかりき。
 と「御伝」の本文にある。
 以来顕真法印は専修念仏の行者となり、念仏勧進の書を作り、又自身もその一人となって十二人の衆を置き、文治三年正月十五日より不断念仏を勝林院に行い、地内に五房を建て、その門下又夫々それぞれ各所に念仏を宣伝し、俊乗房重源は上の醍醐に無常臨時の念仏をすすめ七カ所に不断念仏を興立し念仏の事業愈々いよいよ隆盛の勢を示したのは大原問答の後のことである。

十五


 慈鎮和尚(吉永僧正慈円)は法性寺ほっしょうじ忠通の子息であって山門の統領であり、名望一代に勝れた大徳であったが、この人も法然に就て念仏の行に帰し、法然を崇敬措かなかった。
 妙香院の僧正良快は月輪殿の子息で慈鎮和尚のお弟子として顕密の学者であったがこれも法然の感化により浄土念仏に帰して初心の行者の為に念仏の肝要を記したものがある。
 慈鎮和尚といい妙香院の僧正といい何れも名門の出であり、一代の有徳であり、その一代の行業は伝うべきもの甚だ多いが是等の大徳が帰敬ききょうし崇敬した法然の器量が思いやられる。

十六


 高野山の明遍僧都みょうへんそうずは少納言通憲みちのりの子であって三論の奥旨を極め、才名世に許されていたけれども、名利をいとい、勅命を避けて高野に隠遁していたが、或時法然の撰択集を読んで、「この書物は少しかたよっている処があるわい」と思って眠りについた。その晩の夢に、天王寺の西門に数知れざる病人がていたのを一人の聖が鉢にかゆを入れてさじを持って病人の口毎に粥を入れてやっているのを見て、あれは誰人かしらんと尋ねると傍にいる人が答えて、「法然上人でございます」というのを見て夢が醒めた。僧都が思うのに、これはわしが撰択集を少し偏っているわいと思ったのを誡められる夢であろう。この上人は機を知り、時を知りたる聖である。そもそも病人というものは初めには柑子こうじとか、たちばな梨子なし、柿などの類を食べるけれども、後には僅にお粥をもって命をつなぐようになる。末世の世には仏法の利益が次第に減じて堅いものは食われず、念仏三昧の重湯で生死を離れるのであると云うことを悟って、それからたちまち顕密の諸行を差置いて専修念仏の門に入りその名を空阿弥陀仏と名づけた。とりわけ聖徳太子にゆかりのある仏法最初の伽藍がらん天王寺によってこの夢を見たことを不思議の縁としている。
 法然が天王寺に詣でた時、明遍僧都がここへ訪ねて案内があった。法然は客殿に待っていて「さあこれへ」といわれる。明遍僧都はさし入ってまだ居直らない先きに尋ねかけて云う。
 僧都「さてこの度如何いかがいたして生死を離れたものでござりましょう」
 法然「南無阿弥陀仏と唱えて往生を遂ぐるに越したことはありますまい」
 僧都「たれも左様にお聞き申しては居りますが、ただその折角の念仏の時に心が散乱し、妄念の起るのを如何いたしたものでござりましょう」
 法然「欲界の散地さんちに生を受くる者、心の散乱しないということがござりましょうや。煩悩具足ぼんのうぐそくの凡夫の身がどうして妄念を止めることが出来ましょう。そのことに就ては私とても力の及ぶことではござりませぬ。ただ心は散り乱れ妄念は競い起るとも、口に名号を唱えなば弥陀の願力に乗じて必ず往生が致されるということだけを知って居ります」
 と返事した。
 僧都「それを承りたいがためにまいったのでござります」
 といって明遍僧都はそのまままかり帰ってしまった。あたりの人がそれを見て、この両名僧初対面であるに拘らず、一言も世間の礼儀の挨拶もなくて別れられたのは如何にも尊いことだと感心した。僧都が帰ってから法然はうちへ入って側近の人に向って云うよう。
「心を静め妄念を起さないで念仏をしようと思うのは生れつきの眼鼻をとり払って念仏をしようと思うようなものじゃ」といわれた。
 その後明遍僧都は深く法然に帰依きえして専修のぎょう怠りなかった。
 法然が亡くなった後にはその遺骨を一期いちごの問頭にかけて後には鎌倉右大臣の子息である高野の大将法印定暁に相伝えられた。
 貞応三年六月十六日八十三歳の高齢をもって念仏相続して禅定に入るが如く往生せられた。

十七


 安居院あぐいの法印聖覚は入道少納言通憲の孫に当り、澄憲大僧都の真の弟であるが、これも法然の化道けどうに帰して浄土往生の口決くけつを受けたが、法然からは特に許されていたと見え大和前司親盛入道が法然に向って、
「あなたが御往生の後はどなたに疑を質したらよろしゅうございますか」と尋ねたところ法然が、「聖覚法印我が心を知れり」といわれたとのことである。
 この法印が書を著わして広く念仏をすすめられた。それは「唯信鈔ゆいしんしょう」である。
 元久二年八月法然が瘧病ぎゃくびょうを患うたことがあった。月輪殿が驚いて医者を呼ばれて様々療治を尽されたけれども治らない。そこで御祈祷の為に、詑摩たくま法眼ほうげん澄賀ちょうがに仰せて善導和尚の姿を描かせ、後京極殿が銘を書き、安居院の聖覚法印を導師とした、聖覚も同じ病に冒されていたが師の為に進んで祈乞をこらすと善導の絵姿の前に異香が薫じ、法然も聖覚も共に瘧病が落ちたとのことである。
 法然の三回忌の時には追善の為に(建保二年正月)この法印は、真如堂で七日間説教をしたがその終りに、
「もしわしがこうして物を云うたことがわが大師法然上人の云われなかったとならば当寺の本尊御照罰あらせ給え」と再三の誓言をして後、
「もし尚不審があろうという人は鎮西の聖光房に尋ね問われるがよい」
 といわれた時、聴衆の中に一人の隠遁の僧があったが、おのれの草庵には帰らないで直ぐ筑後の国に下って聖光房につき門弟となり、九州弘通ぐずうの法将となったものがある。敬蓮社きょうれんじゃというものがそれである。
 この法印は文応二年三月五日六十九歳にして念仏往生を遂げた。
 上野国こうずけのくにの国府に明円という僧があったが遊行ゆぎょうひじりが念仏を申し通ったのを留めて置いて、自分の処へ道場を構え念仏を興行していたが、或夜の夢に、われはわが朝の大導師聖覚という者である。法然上人の教えによって極楽に往生したというようなことを夢見て、それからそれと尋ねて聖覚法印の墓に詣で、夢の中の感化を喜び感喜の涙を流し二心なき専修の行者になったという奇談がある。

十八


 法然上人の「念仏本願撰択集」は月輪殿の請によって選んだものであるが、その要領を少々記して見ると、
 まず第一段に道綽禅師どうしゃくぜんじが聖道浄土の二門を樹てて、聖道門に帰するの文、一切衆生に皆仏性があるというのに今に至る迄生死に輪廻りんねして救われないのは、二種の勝法しょうぼうがあるのに、それによって生死を払わないせいである。その二種の勝法とは何ぞ。聖道門と浄土門であるが、この二つの門のうち聖道門はなかなか修行がむずかしく、末世の凡夫はこの聖道の修行によって救われることは出来ない。それが浄土の門に行くと極めて安らかな修行によって救われる方便がある。そこで今時の人は聖道門を捨てて浄土門に帰するがよいという。
 阿弥陀如来は他の行を以て往生の本願とせず、ただ念仏をもって本願とする。
 無量寿経むりょうじゅきょう上巻の本願の文を引いて云う。念仏は最も優れ余行は劣る。それは名号の中には万徳が備わっているからである。例えば家といえば、その建物全部を称えるけれども、棟とか梁とか柱とか云ったのでは一部分しか含まれていない。そこで家といえば全体を云うように、弥陀の名号を称えれば全体の功徳に呼びかけることが出来る。仏像を作ったり、塔を建てたりすることが本願ならば貧乏人は往生出来ないことになる。智恵があり才学の高いのをもって本願とすれば愚鈍不智のものは往生の望みがなくなる。自戒自律を以て本願とすれば破戒無戒の人は永久に救われないということになる。そこで阿弥陀如来が法蔵比丘ほうぞうびくの昔平等の慈悲に催されてあまねく一切を救わんが為に唱名念仏の本願を建てられたのである。
 右の趣旨を多くの経文を引いてつぶさに述べられたのが即ち撰択本願念仏宗せんじゃくほんがんねんぶつしゅうである。

十九


 月輪殿北政所つきのわどののきたのまんどころも同じように法然を信じて念仏往生のことを尋ねられたが、法然がそれに答えた返事の手紙というのが残っている。
 阿波介あわのすけという陰陽師おんようじが法然に給仕して念仏をしていたが、或時法然がこの男を指して、
「あの阿波介が申す念仏とこの源空が申す念仏と何れが勝っているか」と聖光房に尋ねられたところが、聖光房は心中に何か考うる処はあったけれども、
「それはどういたしまして、御上人の念仏と阿波介が念仏と一緒になりましょう」と答えたのでその時法然が由々しく気色が変って、
「お前は日頃浄土の法門といって何を聴いているのだ。あの阿波介も、仏たすけ給えと思って南無阿弥陀仏と申している。この源空も仏助け給えと思って南無阿弥陀仏と申している。更に差別はないのである」
 といわれたから、聖光房ももとより、それとは思っていたけれども、法然からそういわれて宗義の肝腎今更の様に胸に通ったということである。
 二念珠にねんじゅということをやりだしたのはこの阿波介である。阿波介は百八の念珠を二連持って念仏をしたから人がその故を尋ねると阿波介が答えて、
「暇なく上下すればそのが疲れやすい。一連では念仏を申し、一連では数をとって積る処の数を弟子にとれば緒が休まって疲れません」
 と答えたので法然がそれを聞いて、
「何事も自分の心にみていると才覚が出て来るものである。阿波介は性質は極めて愚鈍の人間だが往生の一大事が心にしみているからこそ斯様かような工夫も考えだすのだ」とほめたということである。
 或修行者が浄土教の教義は分っていたが、まだ信心が起らないので嘆いていた。或時東大寺に参詣すると、丁度棟木を挙げる日で、おびただしい材木をどうして引き揚げるのかと心配して見ていると轆轤ろくろを使って大木をひき上げ、思う処へどしどしと落し据えた。それを見て成程良工のはかりごとはうまいものだ。ましていわんや、弥陀如来の善行方便をやと思って疑いが晴れて信心が決まった。この時はかねて法然から三宝に祈請きしょうすべしということを教えられて東大寺に参詣しての思わぬ獲物であった。
 聖如房という尼も法然の教えに帰していたが、病気にかかっていよいよ臨終という時にもう一度上人にお目にかかり度いということを申越して来たが、法然は丁度別行の時であったから、手紙で細々こまごまと書いてやった。その手紙が残っている。その中に「我等が往生はゆめゆめ我身のよきあしきにより候まじ。ひとえに仏の御力ばかりにて候べきなり」というようなことがある。その手紙の心のおもむきを深く心に留めてめでたき往生をとげたということである。
 仁和寺にんなじに住んでいた一人の尼が法然の処に来て申すよう、
「私は千部の法華経を読むように願をたてまして、七百部だけは読んでしまいましたが、もうこの年になっては残りを読みきれそうもござりません。なさけないことでござります」
 と歎いたのを法然が慰めて、
「お年をとっているのによくそれでも七百まで読みましたね。ではその残りを一向念仏になさいまし」
 といって念仏の効能を説き聞かせその通りにさせて安楽の往生をとげさせたことがある。法然のお弟子がその往生振りを夢に見たという奇談もあった。

二十


 河内かわちの国に天野四郎あまののしろうと云うて強盗の張本があった。老年になってから法然のお弟子となって、教阿弥陀仏と名乗って常に法然の膝元で教えを受けていたが、或晩夜中に法然が起きていて、ひそかに念仏をしているような様子であったから、この男が咳をして見た処、法然はやがて寝込んでしまわれた様子で、その夜も明けた。四郎はどうも解せないことだと思いながらも、尋ねて見るのも億劫おっくうでその日は帰り、その後また訪ねた時に法然は持仏堂にいて四郎は大床に伺候して云うことに、
「どうもやつがれのような無縁の者は都には居られないようですから、相模さがみの国河村という処に知っている侍がありますから、それを頼んで下って見ようと思います。何分こう年をとりましてはまたと再びお目にかかる事も覚束ないと存じます。もとよりこの通り無智のものでござりますから、深い法門を承ったとて、甲斐かいのないことと存じますから、ただこれならば往生が出来るという御一言だけを生涯の御かたみに戴いてまいり度うございます」法然がそれを聴いて答えていうに、
「まず念仏には深いということは無い。念仏を申すものは必ず往生が出来るということを知るばかりだ。深い義理があるなんぞと思ってはならぬ。それでも念仏というものは極くたやすい行いだから、申す人は多いけれども、往生が出来る者の少いのは古実を知らないからだ。そうだ先月のこと、ここには誰れも居らないで、お前とわしとただ二人きりいたことがある。その夜中わしはそっと起きていて念仏をしていたのをお前は聴かれたか」
 といわれたから、四郎は、
「いかにもそれは承りました。寐耳ねみみによく覚えて今日まで不思議に思って居りました」
 法然「それこそやがて本当の往生の念仏だ。総て虚仮こけといって飾る心で称える念仏では往生は出来ない。飾る心がなくして、真の心で申さねばならぬ。子供だとか動物だとか云うものの前では飾って見せる心はないけれども、世間並の人に向えばどうしても飾る心が起るものだ。誰れとて人間として人間の中に住んで居ればその心のない者はない。そこで夜更けてから見る人もなく、聴く人も無い時、そっと起きていて百遍でも千遍でも心任せに申した念仏は飾る心がないから仏の意にも相応して本当の往生が出来るというものだ。それでその心持さえ出来れば、何も夜と限ったものではない。いつでもその飾らぬ心で念仏を申すがよい。なお例えて云うて見ると、盗人が人の宝に思いをかけて盗もうと思う心は底に深いけれども表面はさり気なき色にして決して人にはあやしげなる色を見せまいとするようなものじゃ。その盗み心は人は誰れも知らないから少しも飾らない心になる。本当の往生もまあそんなようなものだ。人に見せないで仏より外には知る人もない念仏、そこで疑いのない往生が出来るわけだ」
 それを聴いて四郎が、
「よくお言葉がわかりました。それを承って私もどうやら往生が出来そうでございます。ではこれから人の前で珠数を繰ったり、口を動かしたりして念仏をすることは止めましょうかしら」
 というと法然がまた、
「それはまたひがみというものだ。念仏というものの本意は常念でなければならぬ。いて性質をためて本来臆病の者がごうの者の真似をするにも及ばない。剛の者がまた変に臆病がるにも及ばない。本性にうけて真の心で如何なる処、如何なる人の前で申すとも少しも飾る心がなければそれが真実心の念仏で、きっと往生が出来る」
 といって三心さんじんの事を説いて聞かせると、四郎が、
「それではその夜中に念仏をいたします時には必ず起きていてしなければなりますまいか。また珠数や袈裟けさなどを用意して申さねばなりますまいか」
 法然答えて、
「念仏の行は行住座臥ぎょうじゅうざがを嫌わないのだから、伏して申そうとも、居て申そうとも心に任せ時によるのだ。珠数を取ったり、袈裟をかけたりすることも、又折によりたいに従ってどちらでもよろしい。詰り威儀というものはどうでも今云うた真の心で念仏を申すことが大切だ」
 と教えられた。天野四郎の教阿弥陀仏は、歓喜踊躍し、法然の前に合掌礼拝してまかりかえったが、その翌日法蓮房信空の処へ行って暇乞いとまごいをした時、昨日上人から教えられたことを述べて、お蔭様でこんどの往生は少しも疑いがないといって、東国へ向って行った。
 その後法蓮房が、法然の前で、
「左様のことがありましたか」と尋ねると法然が答えて、
「そうそう、それは昔盗人だと聞いていたから対機説法ということをして見たのだ。一寸は分ったように見えたわい」
 といわれた。
 教阿の天野四郎は、こうして相模の国河村へ下って行ったが、やがて病気で死のうとする時分に、同行に向って、
「わしは法然上人の教えをよく受けているから立派な往生が出来る。往生のしぶりを見て置いてよく法然上人にお伝え申して呉れよ」
 と遺言して正念しょうねんたがわず、合掌乱るることなく念仏を高声に数十遍称えて美事に往生をした。同行が都へ上った時に、この遺言の次第をくわしく法然に申上げた処、法然が成る程よく心得たとは見たが、その通りであったわい、あわれなことじゃなといわれた。
 沙弥随蓮しゃみずいれんは後に法然が四国へ流された時もおともをしていた程のお弟子であるが、法然が亡くなって後、建保二年の頃或人が来て云うのに、
如何いかに念仏をしたからとて、学問をして三心を知らない者は往生することは出来ないそうですね」といいかけたものがあるので、随蓮が、それを説明して、
「故上人は念仏は様なきを様とす。唯ひたすら仏の言葉を信じて念仏をすれば往生をするのだ。と仰言おっしゃって全く三心のことなどを云われたことはありません」その人が重ねて云うには、
「それは心の足りない者の為に、方便の為に上人が仰言られたのだ。上人の本当のお志はもっと高尚な処にあるのだ」と論じ、経釈きょうしゃくの文などを引き合いに出して論じかけて来たものだから、随蓮も少し考えがグラついて来ていた処、或夜の夢に法勝寺の池の中にいろいろの蓮華の咲き乱れているのを見たが、そこへ法然上人が現われて、
「お前、誰れかひがごとを云う者があって、あの池の蓮華をあれは蓮華ではない、梅だ桜だと云うた者があってもお前はそれを信ずるか」と尋ねられたから、随蓮が、
「現に蓮華であるものを如何に誰れが桜と申しましょうとも梅と申しましょうともそれが信ぜられましょうや」
 法然がいわく、「念仏の義もまたその通りじゃ。わしがお前に念仏をして往生することはきまりきって疑いがないと教えたのをお前が信じたのは蓮華を蓮華と思うのと同じことだ。他から梅といわれようとも、桜といわれようともそれを信じてはならぬ」といわれるのを夢に見て、近頃の疑念が残りなく晴れ、往生の素懐そかいをとげたということである。
 法然は人によって三心のことを説かれたけれども、三心に捉われて却って信心を乱ることをおそれたのである。遠江とおとうみの国久野の作仏房さぶつぼうという山伏は、えんの行者の跡を訪い、大峯を経て熊野へ参詣すること四十八度ということであるが、熊野権現の前で祈っている時、法然房に出離の道を尋ぬべしというお示しを受けたというので都へ上って法然の教化を受けて念仏の行者となった。それから本国に下って市に出て染物などのようなものを売買して家計をたてつつ独り身で自由に生活していたが、往生際がとても美事で、念仏の声が止まったかと思うと本尊に向って端座合掌したその顔は笑めるが如く、そのままで往生していたので、諸人が雲の如く集ってその奇特に驚きあったとのことである。

二十一


 法然が常によく云いつけていた言葉のうちから幾つかを抄録して見る。
「念仏申すにはまたく別の様なし。ただ申せば極楽へむまると知って。心をいたして申せばまいるなり」
 又云う。「南無阿弥陀仏というは。別したる事には思うべからず。阿弥陀ほとけ我をたすけ給えという言葉と心得て。心には阿弥陀ほとけ。たすけ給えとおもいて。口には南無阿弥陀仏と唱えるを。三心具足さんじんぐそくの名号と申すなり」
 又云う。「罪は十悪五逆じゅうあくごぎゃくの者。なおむまると信じて。小罪をもおかさじと思うべし。罪人なおむまる。いかにいわんや善人をや。行は一念十念むなしからずと信じて。無間むけんに修すべし。一念なおむまる。いかにいわんや多念をや」
 又云う。「我はこれ烏帽子えぼしもきざる男なり。十悪の法然房愚癡ぐちの法然房が。念仏して往生せんと云うなり」
 又云う。「学生がくしょう骨になりて。念仏やうしなわんずらん」
 又云う。「往生は一定いちじょうと思えば一定なり。不定ふじょうと思えば不定也」
 又云う。「一丈の堀を越えんと思わん人は。一丈五尺をこえんとはげむべし。往生を期せん人は決定の信をとりてあいはげむべきなり」
「又人々後世の事申しけるついでに。往生は魚食せぬものこそすれという人あり。或は魚食するものこそすれという人あり。とかく論じけるを。上人きき給いて。魚くうもの往生をせんには。ぞせんずる。魚くわぬものせんには。ましらぞせんずる。くうにもよらず。くわぬにもよらず。ただ念仏申すもの往生はするとぞ。源空はしりたるとぞ仰せられける」

二十二


 或人より安心起行あんじんきぎょうを問われし手紙の返事の中に、「浄土に往生せんと思わん人は。安心起行と申して。心と行と相応ずべきなり。その心というは観無量寿経かんむりょうじゅきょうにときて。もし衆生しゅじょうあって。わが国にむまれんとおもわんものは。三種さんじゅの心をおこしてすなわち往生す。なにをか三とする。一には至誠心しじょうしん。二には深心しんじん。三には廻向発願心えこうほつがんしんなり。三心を具せるものは。かならずかの国に生るといえり」
 又或人が往生の用心に就て覚束ないことを百四十五条迄書き記して法然に尋ねたが、法然は一々それに返事をした。そのうち少々抜き書きして見ると、
(問)念仏には毎日数を決めないで読んでもよろしゅうございますか。
(答)数を決めないというと怠り勝ちになり易いから数を決めて称えるのがよろしい。
(問)一日に幾度位唱えたらよいでしょうか。
(答)念仏の数は一万遍をはじめて二万三万五万六万乃至十万迄申します。そのうちをお心任せの程おやりなさい。
(問)歌を詠むということは罪でございますか。
(答)あながちに何とも云えない。罪ともなれば功徳ともなる。
(問)酒を飲むのは罪でございますか。
(答)本当は飲まないがよいけれども、この世のならい。
(問)魚鳥を食い、いかけ(身を清むること)して経を読んでもようございますか。
(答)いかけして読むのが本体である。しないで読むのは功徳と罪と両方になる、但しいかけしないでも、読まないよりは読む方がよろしい。
(問)六斎ににらひるを食べるのはどうですか。
(答)食べない方がようございます。
(問)破戒の僧、愚癡の僧を供養するのも功徳でございますか。
(答)破戒の僧、愚癡の僧も末の世には仏の如く尊むことになっている。

二十三


 或人がまた往生の用心に就て、条々の不審を尋ねた時に、上人の返事のうちに、
「足なえ腰いたるものの。とおき道をあゆまんと。おもわんに。かなわねば船車にのりてやすく行くこと。これわがちからにあらず。乗物のちからなれば他力なり。あさましき悪世の凡夫ぼんぷの。諂曲てんごくの心にて。かまえつくりたるのり物にだにも。かかる他力あり。まして五劫ごこうのあいだ。思食おぼしめしさだめたる。本願他力の船いかだにのりなば。生死の海をわたらん事。うたがい思食すべからず」
「魚鳥に七箇日の忌のそうろうなる事。さもや候らん。えみ及ばず候。地体はいきとしいけるものは。過去の父母にて候なれば。くうべき事にては候わず。又臨終には。酒魚鳥そうかいひるなどは。いまれたることにて候えば。やまいなどかぎりになりては。くうべきものにては候わねども。当時きとしぬばかりは候わぬ病の。月日つもり。苦痛もしのびがたく候わんには。ゆるされ候なんとおぼえ候。御身おだしくて。念仏申さんと思食して。御療治候べし。命おしむは往生のさわりにて候。病ばかりをば。療治はゆるされ候なんと覚え候」
 鎮西から上って来た或る一人の修行者が法然の庵室へまいって、まだ上人に見参しない先きに、お弟子に向って、
「称名の時に仏様の御相好おそうごうに心をかけることはどうでございましょうか」
 と尋ねた処が、お弟子が、
「それは芽出度いことであろう」
 と独断で答えたのを法然が道場にあって聞いていたが、明り障子を引きあけて、
「源空はそうは思わない。ただ若我成仏にゃくがじょうぶつ十方衆生じっぽうしゅじょう称我名号しょうがみょうごう下至十声げしじっしょう若不生者にゃくふしょうしゃ不取正覚ふしゅしょうがく彼仏今現ひぶつこんげん在世成仏ざいせじょうぶつ当知本誓とうちほんぜい重願不虚じゅうがんふこ衆生称念必得往生しゅじょうしょうねんひっとくおうじょうと思うばかりだ。われ等が分で如何に観じたとても本当の姿が拝めるか。ただ深く本願を頼んで口に名号を称えるだけじゃ。それがいつわりのない行であるぞ」といわれた。

二十四


 法然のいわく、「阿弥陀経はただ念仏往生のみを説くと心得てはならぬ。文に隠顕はあるけれどおよそ[#ルビの「およそ」は底本では「おそよ」]の処は四十八願をことごとく説かれてある訳である」
 法然が云う、「諸宗の祖師はみんな極楽に生れている」
 或時聖光房、法力房、安楽房等の弟子達と往生の話をしていた。その時、
「往生は念仏を信ずると信ぜざるとによるので、罪悪のあるとないとによらない。既に凡夫の往生を許す上は何ぞ妄念の有無を嫌うべきや」
 そこで安楽房が問うて云うのに、
虚仮こけの者は往生しないというのはどのように心得たらよろしゅうございますか」
 法然が答える。
「虚仮というのは事更に飾る手合いをいうのである。自然に虚仮であるぶんには往生のさわりにはならない」
 是等の問答のうちお弟子はみんな落涙をして感心したそうである。
 元久二年正月二十一日世間並の尼女房達が沢山上人の処へ集って来て戒を受け、教えを聴こうとした。法然はその願い通りに聖道しょうどうの難行なること、浄土の修し易きことを語り聴かせて彼等を随喜させて帰した。
 法性寺左京大夫信実朝臣の伯母であった女房が、道を尋ねて来たので、法然はそれに返事を書いている。その中に、
「三心と申し候も。ふさねて申す時は。ただ一の願心にて候なり。そのねがう心の。いつわらず。かざらぬ方をば。至誠心しじょうしんと申候。この心のまことにて。念仏すれば臨終に来迎らいごうすという事を。一心もうたがわぬ方を。深心じんしんとは申し候。このうえわが身もかのつちへむまれんとおもい。行業ぎょうごうをも往生のためとむくるを。廻向心えこうしんとは申し候なり。この故にねがう心いつわらずして。げに往生せんと思い候えば。おのずから。三心は具足する事にて候なり」
 伊豆国走湯山はしりゆさんに、妙真という尼があった。法華の持者真言の行人であったが、事のたよりに上洛の時法然の教えを受けてそれから専修念仏に転じたが誰れにも語らず、同行の尼一人に示していた。或時明日のさるの刻に往生するからといっていたが、間違いなくその時刻に端座合掌し高声念仏して往生をとげた。様々の奇瑞があって人の耳目を驚かしたそうである。

二十五


 これまで京洛を中心として法然の教化が上下に普かったが、それから鎌倉の二位尼(頼朝の妻政子)の帰依きえが深く、蓮上房尊覚という者を使として念仏往生のことを尋ね越されたから、法然はそれにも返事を書いている。その中に、
あながちに信ぜざらん人を。御すすめ候べからず。仏もかない給わざる事なり」
「念仏の行は。もとより行住座臥時処諸縁をきらわず。身口しんくの不浄をきらわぬ行にて易行往生えぎょうおうじょうと申し候なり。ただし心をきよくして申すを。第一の行と申し候なり。人をも左様に御すすめ候べし。ゆめゆめこの御心は。いよいよつよくならせ給え候べし」
 上野国の御家人、大胡おおご小四郎隆義は在京の時吉水の禅室に参じて法然の教えをうけて念仏の信者となったが、国へ下ってから不審のことは法然給仕のお弟子、渋谷七郎入道道遍を通じて法然の教えを受けていたが、法然は細かに返事の消息を遣わされている。隆義の子太郎実秀も父の後を継いで法然に不審の事を小屋原蓮性という者を使者として尋ねて来た時も、法然は真観房に筆を執らせて返事を与えている。
「念仏はこれ弥陀の本願の行なるがゆえなり。本願と云うは。阿弥陀仏のいまだ仏にならせ給わざりし昔。法蔵菩薩ほうぞうぼさつと申ししいにしえ。仏の国土をきよめ。衆生を成就じょうじゅせんがために。世自在王如来せじざいおうにょらいと申す仏の御前にして。四十八願をおこし給いしその中に。一切衆生のために。一の願をおこし給えり。これを念仏往生の本願と申す也」
 この消息は細々と経説を挙げてかなり長いものになっているが、実秀は法然からこの消息を恭敬くぎょう頂戴して一向に念仏し、寛元四年往生の時矢張り奇瑞があったという。実秀の妻室も深くこの消息の教えを信受してよき往生の素懐を遂げたという。
 武蔵国むさしのくに那珂郡なかごおりの住人弥次郎入道(実名不詳)という人も上人の教化をこうむって一向念仏の行人となったが矢張り上人から手紙を貰って秘蔵していた。或時病気でなやんでいたが、夢に墨染の衣を着た坊さんが来て、青白二茎の蓮華をもって来て往生の時と極楽の下品げぼんから上品じょうぼんに進むというようなことを教えて行ったという奇瑞がある。

二十六


 武蔵国の御家人猪俣党いのまたとう甘糟太郎忠綱あまかすのたろうただつなという侍は深く法然に帰依した念仏の行者であった。山門の輩が蜂起して日吉ひえ八王子の社壇を城廓として乱を起した時、忠綱は勅命によってそれを征伐に向った。時は建久三年十一月十五日であったが、甘糟忠綱は出陣の命を受くると共に法然の許にせ参じ、
「拙者は武勇の家に生れていくさをしなければなりません。戦をすれば悪心が盛んになり願念が衰えます。願念を主とすれば却って敵の為に捕虜になって永く臆病者の名を残し家の名を汚すでしょう。何れを何れとしていいか分りません。弓矢の家業も捨てず、往生の願いもとぐる道があらば願わくは一言を承りたいものでございます」
 法然答うるよう、
「弥陀の本願というものは、の善悪を云うのではない。行いの多少を論ずるのではない。身の浄不浄を選ぶのでもない。時と処と縁とによらず、罪人は罪人ながら名号を称えて往生するというところが本願の不思議というものだ。弓箭の家に生れたものが仮令たとい軍陣に戦い、命を失うとも念仏さえすれば本願に乗じ、来迎にあずからんことは疑いないことじゃ」
 と細かに説いて聞かせられて忠綱は大いに喜び、
「それで悟りがひらけました。忠綱が往生は今日定まりました」
 と喜んで法然から袈裟けさを貰い、よろいの下にかけて、それより八王子の城に向い、命を捨てる覚悟で戦ったが、太刀が打ち折れて自分は重傷を負うたものだから、もうこれまでと刀を捨てて合掌し、高声に念仏をして敵の手に身を任せてしまった。その時紫の雲がおびただしくあたりに棚引いたそうである。その時法然は叡山の方に紫の雲が棚引いたという報せを聞いて、
「ああそれでは甘糟が往生したな」
 といわれた。甘糟が国に残して置いた妻室が夢に忠綱が極楽往生をとげたという告げを聞いて驚いて国から飛脚をたてたが、京都からの使者と途中で行き会うて忠綱が戦場最期の有様を物語ったということである。
 宇都宮弥三郎頼綱が家の子郎党を従えて、済々せいせいとして武蔵国を通ると、熊谷の入道直実に行き会うた。直実がそれを見て、
「すばらしい威勢だなあ。しかし、いくら家来を大勢連れたからとて、無常の鬼という奴が来れば防ぐことは出来ないで、お前いつ迄もそうして強者顔つわものがおをして威張っていたからとて念仏の行者にはかなわないぞ。弥陀如来の本願で念仏するものは悪道に落されず迎えとられるのだ。念仏をすることは一騎当千の強者になるよりもえらいことだぞ。お前もいくびとなんぞは早く止めて念仏をしろ念仏をしろ」
 といわれたのが頼綱の胆にそみていた。直実の奴うまく侍を卒業しやがったな。おれも負けるものかという気になって、大番勤仕おおばんきんじの為に京都へ上ったついでに、承元二年十一月八日のことであったが、法然を勝尾かちおの草庵に訪ねて念仏の教えを受け一向専修の行者になってしまった。
 法然が亡くなった後は善恵房ぜんえぼうを頼んでいたが、結縁けちえんの為めに四帖の疏の文字読みばかりを受け、遂に出家して実信房蓮生じっしんぼうれんしょうと号しその後夢に善光寺の本尊を感得したりなどして承元元年十一月十二日芽出度い往生をとげた。
 上野国の御家人薗田太郎成家は秀郷ひでさと将軍九代の孫、薗田次郎成基が嫡男ちゃくなんであるが、武勇の道に携わり、※(「けものへん+臈のつくり」、第3水準1-87-81)しゃかつを事として罪悪をほしいままにしていたが、正治二年の秋これも大番勤仕の為に京都へ上って来た時、法然の念仏が一代に盛んなことを聞いて何気なく自分も行って見ようという気になって教えを受けた処が、たちまち信心胸に満ち、その年の十月十一日に生年二十八歳で出家してしまって法名を智明ちみょうとつけ、法然の手許に六年も給仕をしていたが、元久二年に本国に下って、家の子郎党二十余人を教導して同じく出家させて同行とし、酒長しゅちょう御厨みくりや小倉の村に庵室を建てて念仏伝道をしていた。世の人が尊んで小倉上人おぐらのしょうにんと称んでいた。なお庵室の西一丁余り隔てて一間四面のお堂を建てて、お堂の妻戸に庵室の戸を開け合せるようにし、仏前の燈明を摂取しょうじゅの光明と思って常に光明遍照こうみょうへんじょうの文を唱え、真心を現して発露啼泣ほつろていきゅうしていた。そこでここを訪れる人々皆感化されて念仏をしない者はなかった。
 或年元日の祝言にこう云うことをはじめた。それは一人の下僧に言い含めて、高らかに曰わせるよう。
「この御庵室にもの申す。西方浄土さいほうじょうどからお詣りが遅いから、急いでおいでがあるように阿弥陀仏からのお使いでございます」
 そこで成家が喜んでその僧を客殿へ招き入れ、丁寧にもてなし様々の引出物を与えることにした。これがその後ずっと元日の吉例になっていたということである。
 その辺の山里には鹿が多くいて、作物を荒すので百姓達は田畑に垣を作って防いでいるのを見て成家はわざわざ上田を三丁程作らせて鹿田と名付け、鹿の食物にさせた。
 なお田植唄には念仏を唱えさせることにした。宝治二年の九月に少しからだが悪かった。その時弟の淡路守後基を招きよせて、
「わしはもう老病で遠くはあるまい。対面も今日が限りだろう。お前も罪悪深重の人であるから必ず念仏をして、わしと同じ様に浄土へまいるようになさい。仮令たとい鹿鳥を食べる時にも念仏を噛みまぜて申すがよい。たとい敵に向って矢を引くとも念仏を捨ててはならない」
 と教訓した。弟を帰してから後で同族を集めて念仏をし、その翌日十六日に端座合掌して光明遍照の文を誦し、高声念仏一時間ばかり唱えて禅定ぜんじょうに入るが如くにして息絶えた。生年七十五。最期の時に紫雲が棚引く等の様々の奇瑞が伝えられている。
 西明寺の禅門は武門の賢哲、柳営の指南として重き地位の人であった。若い時分は常に小倉の草庵へ訪ねて念仏の安心のことなどを尋ねられた。寛元年間に使を立てて申越される旨には、
「わしも年頃念仏の行者として西方を願う心はねんごろである。栗の木とは西の木と書く。西方の行人としては丁度おもしろい名であるから、多年この杖を持っていたが、今は老体で余り出歩きも出来ないから、この杖をあなたに進ぜます。これを持って浄土へおいでなさいまし」
 といって栗の木の杖を送り越して来たから、その返しのおくに、
老らくのゆくすゑかねておもふには
  つくづくうれし西の木の杖
 そうして弘長二年の頃法然の孫弟子の敬西房きょうさいぼうという者が(これは法蓮房の弟子)関東へ下る時に、法然のつてを持たせてやった処、数日それを読んで、法然との間に手紙の往復があったが、その翌年十一月二十二日に臨終正念にして端座合掌の往生をとげられたというが、その往生際は、唐衣からぎぬを着て、袈裟けさをかけて西の方に阿弥陀仏を掛け、椅子に上って威儀少しも乱れなかったということである。

二十七


 武蔵国の御家人、熊谷次郎直実くまがいじろうなおざねは平家追討には武勇の名かくれなかった人であるが、後、将軍頼朝をうらむことあって出家をとげ、蓮生と云うたが、まず聖覚法印の処へ行って、後生菩提のことを尋ねた処が、
「左様のことは法然上人にお尋ねなさい」
 といわれたので、法然の庵室へ出かけて行って、上人から、
「ただ念仏さえ申せば往生する。別の様はない」
 といわれたので、そこでさめざめと泣き出してしまった。法然もあきれて、暫くは言葉も出なかったが、やがて、
「何事に泣きなさるのだ」
 と尋ねられたので、
 熊谷「貴様のような罪深い奴は手足をも切り、命をも捨ててこそ、後生は助かるのだ、とでも仰せられるのかと思って居りました処が、ただ念仏さえすれば救われると、易々やすやすと仰せられたので、あんまり嬉しくて泣いてしまいました」
 という言葉が如何にも真実に後生を恐れる殊勝者と見えたので、法然はねんごろに念仏往生、本願正意ほんがんしょういの安心を授けた処二つなき専修の行者になってしまった。
 或時法然が月輪殿へまいった処、熊谷入道がお伴をして行った。法然はこの荒っぽい坂東武者を連れて行き度くはなかったのだけれども、連れて行かなければまた文句が煩さいと思って、何とも云わないで行くと、のさのさ後をついて月輪殿迄やって来て、くつぬぎへ出て、縁に手をかけて寄りかかって待っていた。程なく奥の方で法然の談義の声が、かすかに聞えたから、熊谷入道が大きな声で、
「ああ、ああ、穢土えどという処ほどくやしい処はないワイ。関白殿の御殿だとやらで、おれ達はお談義が聞かれないのだ。極楽へ行ったらこんな差別はなかろう」
 といい出したのが、奥の方の関白の耳に入って、
「あれは何者だ」
 ととがめられた。法然が、
「熊谷入道といって、武蔵の国からまかり上ったくせ者でございますが、伴に推参してやって来ました」
 と答えたので、関白が、優しく、
「召せ」
 といって使をやって熊谷にこちらへ来てお談義を聴いてもよいという旨を伝えると、一言のあいさつも云わず、ずかずかと入り込んで、近く大床にわだかまって、法談を聞いていた熊谷の態度に並居る高貴の面々が耳目を驚かせたということがある。
 この熊谷は念仏往生の信心を堅めた上はどうしても上品上生じょうぼんじょうしょうの往生をとげなければおかないといって願をたてた。そして、いつも不背西方ふはいさいほうの文を深く信じ、かりそめにも西の方へ背を向けなかった。京から関東へ下る時なども、鞍を逆さに置かせて、馬にも逆さに乗って西へ向いながら東へ下るのであった。そして歌を詠んで云うことには、
浄土にもがうのものとやさたすらん
  にしにむかひてうしろみせねば
 すべてが熊谷一流の信心堅固であったから、法然もそれをたのもしく思って、坂東の阿弥陀ほとけという名で呼ばれ、目をかけて教えたり、手紙で細々とさとされたりしていたが、そういう中に於ても持ち前の荒武者は至る処ころがり出して、なにか道中で悪い奴などが出ると或は馬船をかずけたり或はほだしを打ったり、或は縛ったり、或は筒をかけなどしていましめておいた。そういった了見かたで是非ともおれは上品上生の往生をしなければおかぬ、というのが専ら評判になり、月輪関白つきのわかんぱくなども、わざわざそのことを法然に尋ねている。
 建永元年八月、蓮生は、
「わしは明年の二月八日往生する。もしかく申すことに不審があらば、来て見るがいいぞ」
 ということを武蔵国村岡の市に札を立てさせた。それを伝え聞く輩が遠近おちこちより熊谷の処へ何千何万という程押しかけて来たが、愈々その日になると、蓮生は未明に沐浴して、礼盤に上って、高声念仏の勢たとうるにものなく、見物の者が眼を澄まして眺めていると、暫くあって、念仏を止め眼を開いて、
「さあ皆の者、今日の往生は少し延期だ、きたる九月四日には必ず往生をして見せるから、その日になってやっておいで」
 見物の者あきれて、あざけりながら帰って行く。妻子眷属は世間へ対して面目ないことだと、歎いたが、当人は一向平気で、
「なあに、阿弥陀如来のお告げで、延ばしたのだ。自分の了見ではない。九月には間違いないよ」
 といっていたが、やがて春夏も過ぎ、八月の末になって少し病気であったが、九月一日空に音楽を聞いて後更に苦痛が無くなって身心安楽であった。四日の後夜に沐浴して漸くまたまた臨終の用意をする。遠近の人集まること、また集まること、市の立った様である。やがての刻になると、かねて法然から賜わった弥陀来迎の三尊化仏菩薩けぶつぼさつの形像を一軸にした秘蔵の品を掛け、その前へ端座合掌し、高声念仏こうじょうねんぶつ甚だ盛んで、やがてこんどは相違なく、その念仏の声が止まると一緒に息が止まったが、その時口から五六寸ばかりの光が出て紫の雲がたなびき、「音楽」が聞え、さまざまの奇瑞があって五日のの時まで続き、翌日入棺の時もさまざま霊異があって、成程これならば上品上生の往生疑いなかろうと皆がいった。

二十八


 武蔵国の御家人、津戸三郎為守つのとのさぶろうためもりは、生年十八歳の時、治承四年八月に頼朝石橋山の合戦の時、武蔵の国からせまいり、安房あわの国へも従い、その後所々の合戦に名を挙げたが、建久六年二月、東大寺供養の為に頼朝が上洛の時、為守は、三十三歳でお伴をして行ったが、三月四日に京都に着き、その月の二十一日に法然の庵堂へ参って、合戦度々の罪を懺悔さんげし、念仏往生の道を聴いてから法然の信者となり、本国に下ってからも念仏の行、怠りなかったが、或人が、
「熊谷入道や、津戸三郎は無学無智の坂東の荒武者で、他の学問や修行を教えたって仕方がないと見たから、そこで法然様が念仏ばかりでいいと仰言おっしゃったのだ。もう少し智恵のある人間に向っては法然様だって何も念仏に限るとはおっしゃりますまい」
 というのを、為守が聞いて腹を立てて、早速法然へ手紙でそのことの不審をただしてやると、法然は、決してそんなことがある筈はない。念仏は一切衆生の為で、無智だの、有智だの、有罪無罪、善人悪人、持戒破戒等の区別があるべきものでないということを懇々と諭されている。
 その後為守は法然の門弟浄勝房じょうしょうぼう唯願房ゆいがんぼう等の坊さん達を関東の方へ頼んで来て、それを先達として不断念仏をはじめ行い出した時、時の征夷将軍(右大臣実朝)に讒言ざんげんする者があって、
「津戸為守は、専修念仏を起して聖道の他の諸宗派をそしっている、不都合千万だ」そこで領守が召して糺問されるというような沙汰さたがあったから、為守は驚いて、
「もし、そういう事がありましたら、どういう返事をしたらよいものか、むずかしそうな返答の言葉と、たとえの文句などを一つ仮名まじり文に書いて、くわしく教えていただきたい」
 ということを飛脚によって京都の法然の処へ尋ねて来た。そこで法然の返事には矢張り細々とその応答の仕方と浄土の要旨を教え越されている。
 そこで翌年四月二十五日に、信濃前司行光しなののぜんじゆきみつ(その時が山城民部大夫)の奉行で、津戸三郎の処へ御教書が下った。為守は、浄勝房、唯願房等の念仏者を連れて鎌倉の法華堂の前の二棟の御所という南向きの広廂ひろびさしに参っていると、津戸の郷内へ念仏所を建てて念仏を広めているということにつき、だんだんとお尋ねを蒙ったが、津戸三郎はかねてから法然より貰った手紙を頭に入れて、十分の試験勉強をしていたことだから無事に疑いが晴れ、その同行の念仏者も、専門の上から申開きが立派に立ったので、それからは専修念仏の行に於ては仔細あるべからずとお許しが出た。愈々いよいよ念仏の行に怠りがなかったから、建保七年の正月右大臣がくなった時に、二位尼の計らいで、遺骨を為守の処へ渡されたので、ひとえに右大臣実朝の菩提をとむらったということである。
 為守はこの通り二心なき念仏の信者であったが、同じことならば早く出家の本意をとげたいものだと思ったが、関東でお許しが出ないから、在俗の形ながら、法名を継ぎ戒を受け、袈裟けさをたもちたいということを法然に頼んで来たから法然もその志をあわれんで、禁戒きんかいの旨を記してやり、袈裟もやり、尊願という法名も附けてやった。その後法然所持の念珠を所望する程に熱心であったが、愈々実朝が亡くなった時赦しが出て出家をとげ、法然からつけて貰った尊願という法名をその儘に相継していた。
 法然が亡くなって後、日に日に極楽が恋しくなり、自分も年をとるし、この世がいとわしくてたまらず、法然からの手紙をとり出して見ては、早く私をもお迎え下さいましといったけれども、なかなか丈夫で死ねないで空しく年月を送る心持に堪えられなかったから、仁治三年十月二十八日から浄勝房以下の僧達を集めて、三七日みなぬかの如法念仏をはじめ十一月十八日に結願けちがんの夜半に道場でもって高声念仏し、それから自分で自分の腹を切って五臓六腑を取り出し、練大口ねりおおぐちに包んで、そっとうしろの川へ捨てさせた。夜半の事だから誰れも知っているものはない。そして置いて僧達に向って、
斯様かように出家をして、家にこもって大臣殿の御菩提をとぶらい申すにつけても、主君のお名残なごりも恋しく、師の法然上人も極楽できっと待っているとの仰せの程も思い合わされます。釈尊も八十で御入寂ごにゅうじゃくになり、法然上人も八十でもう御往生、わしもこれで満八十じゃ。八十を上下にした第十八は念仏往生の願いの数であり、今日は又十八日に当る。如法念仏の結願に当って、今日往生したならまことに殊勝の往生が出来るであろう」
 と物語った。聴いている人は、為守にその用意のあることを知らないから、何気なく、
「左様でござる。今日のような日に往生が出来たら芽出たいことにちがいありません」といった。
 ところが、その夜もあけて、十九日になったけれども、腹を切って五臓六腑を捨ててしまった尊願が死にも、往生もしない、立派に生きている。しかも苦痛も何もなく、やがて死ぬような心持さえもしないようだから、子息の民部大夫守朝を呼んで、切った腹を引きあけて見せて、
「この通り往生の心で腹を切ったが、死にもせねば苦痛もない。五臓六腑を取り捨ててしまったが、たぶんまだ、まろきもというものが残って、それで死に切れないものだろうと思う。よく見てくれ」
 といったので、はじめて人が気がついて驚いたのである。そこで云われるままに、守朝は父の傷あとをよく見て、
「まことに驚き入ったことでございます。しかし仰せによってよく見ますと胸先きの処にまろきもがあるようでございます」
 といったので、為守は手を入れて引ききって投げ捨てて、
「ああこれが残っていたから死にきれなかったのだろう」
 人々は驚きあわてて涙を流さぬものはない。けれども当人は尚少しの痛みもなく念仏をし続けていたが、七日経ってもまだ何ともない。「これはうがいの水が通うからだろう」といってうがいを止めて塗香を使ったが気力が更に衰えない。やがて傷も治ってしまった。その後は時々行水をしたそうである。かくて正月一日になっても死なないから法然の手紙を取り出して読み続けていた。正月十三日の夢に、来る十五日うまの刻には迎えに行くといって法然が告げる夢を見て、こんどこそはといって喜びの涙を流した。その時に上人から貰った袈裟をかけ、念珠を持ちて、西に向って端座合掌、高声念仏午の正中に安々と息が絶えた。腹を切ってから水漿のみものを断って五十七日の間気力が常の如くして痛むところなく、ついで往生をとげたということは信じ難い程不思議のことであった。自害往生、焼身往生、入水じゅすい往生、断食往生等はその門徒に於ても誡め置かれたことであり、余人の行うべき行ではないが、信心の力の奇特は思い見るべきである。

二十九


 比叡山西塔の南谷に鐘下房少輔しょうげぼうしょうゆうという頭脳のよい僧侶があったが、弟子の稚子ちごに死なれて眼前の無常に驚き、三十六の年遁世して法然の弟子となり、成覚房幸西といったが、浄土の法門をもと習った天台宗に引き入れて、迹門しゃくもん弥陀みだ、本門の弥陀ということを立てて、十劫正覚じゅうこうしょうがくというのは迹門の弥陀のこと、本門の弥陀は無始本覚むしほんがくの如来であるが故に、われ等が備うるところの仏性と全く違ったところはない。このいわれをきく一念だけでよろしい。多念の数遍の念仏ははなはだ無益のことだといって自立して「一念義」というのを立てた。法然これを聞いて、これは善導和尚の心にも背いている。甚だよろしくないといって制しおさえたけれども聞かないで、尚この一念義を主張したから法然は幸西を我が弟子にあらずとして擯出ひんしゅつした。
 兵部卿三位基親卿は深く法然勧進の旨を信じて、毎日五万遍の数遍、怠りなかったが、「一念義」の幸西がそれを非難して来たものだから、幸西といろいろ問答をしてその義と自分の考えとを記して法然の処へ問うて来た。その中に、
「念仏者は女犯にょぼんはばかるべからずと申す者もあるが、善導は眼をあげて女人を見るべからずと迄云われて居るに――ということ。それから自分が五万遍を唱えていると、或人が本願を信ずる人は一念である。そうすれば五万遍は無益である。つまり本願を信ぜないことになる。わしはそれに答えて、では念仏一声の外に百遍乃至万遍は本願を信じないのだという文があるか。その人が云う。自力では往生が叶わない。ただ本願を信じてから後は念仏の数は無益であると。わしは又云う。自力往生というのは念仏の他の雑行をもって願いをたてるというからそこで自力といわれるのである。従って善導のしょには上尽百年じょうじんひゃくねん下至一日七日一心専念げしいちじつしちじついっしんせんねん弥陀名号みだみょうごう定得往生必無疑じょうとくおうじょうしつむぎとあって百年念仏すべしとある。又法然上人も七万遍の念仏を唱えしめられている。わしも法然上人のお弟子の一分である。依って数多く唱えようと思うのだ。仏の恩を報ずるのだ」と。
 法然はその手紙を見て返事を書いて基親の信仰をほめ、
「深く本願を信ずる者は破戒も省るに足らないというようなことは又お尋ねになるには及ばないこと。一念義のことは念仏の天魔、狂言だ」といって深くとりあげられなかった。
 この成覚房の弟子達が、越後の国へ行って、一念義を立てたのを法然の弟子の光明房というのが心得ぬことに思って、それ等の連中の訪問を記して法然の処へ訴えて来たが、法然はそれにも返事を書いて、
「一念往生の義は京中にもほぼはやっているが、言語道断のことで、まことに問答にも及ばないものだ」といいながらよく事理を細かに尽し、「およそかくのごとき人は、附仏法ふぶっぽう外道げどうなり。師子のなかの虫なり。又うたごうらくは、天魔波旬てんまはじゅんのために、精気をうばわるるの輩。もろもろの往生の人をさまたげんとするもっともあやしむべし。ふかくおそるべきものなり。毎事筆端につくしがたし」とまで云って、右の光明房の手紙に就て法然は、「一念義停止ちょうじの起請文」をまで定めて世に示した。その文中には「懈怠無慚けたいむざんの業をすすめて、捨戒還俗しゃかいげんぞくの義をしめす」と憤り、或は「いずれの法か、行なくして証をうるや」と歎き、最後に承元三年六月十九日沙門源空と署名している。

三十


 法然の師範であった功徳院の肥後阿闍梨あじゃり皇円は、叡山杉生法橋皇覚の弟子で、顕密の碩才であったが、或時つらつら思うよう、「自分の機分ではなかなか生死を離れて成仏することは覚束ない。いろいろ生れ更って見ても仏法を忘れてしまい、人身を受けてもなお二仏の中間にいて生死を離れることが出来ない。仕方がないから長命をして慈尊の出世まで待つ外はない。命の長いものは蛇に過ぎたものはないということだから、わしは大蛇になろう。但し蛇になっても大海に棲むと金翅鳥こんじちょうという奴に捕えられる怖れがあるから池に棲むことにしよう」といって願を立てて遠江の国笠原庄の、さくらの池という処へ身を沈めてしまった。静かなる夜は池に振鈴の音が聞えるということである。
 法然がそのことについて言うよう。
「智恵があって、生死の出で難いことを知り、道心があって慈尊に会わんことを願うのは、殊勝のことのようであるが、よしなき畜生のしゅを感ずることは浅ましいことである。これは浄土の法門を知らないからのことである。わしがもしその時分にこの法を発見していたならば、信不信を省みずお授け申したものを。極楽に往生した後は十方の国土を心に任せて経行きょうぎょうし、一切の諸仏思うに従って供養が出来る。なにもそう久しく穢土えどにいなければならないという筈のものではないのに、彼の阿闍梨ははるか後の世に仏のお出ましを待って現在に救わる道あるを知らずに池に棲み給うとは、おいたわしいことじゃ」
 妙覚寺に妙心房といって評判の高い僧があった。道心が深いということで、寺門を出でず、念仏を行ずる有様は非凡で、帰依する人も盛んにあったが、五十歳ばかりで亡くなった。その時の臨終の有様がさんざんであったから人々がそれをあやしんで、
「妙覚寺の聖人でさえもあの通りの有様で往生が出来ない。まして外の人をや」
 といいはやした。法然がそれを聞いて、
「さあ、それは本物ではあるまい。虚仮こけの行者だろう」といった。
 その後四十九日の仏事に、法然が請われて、唱導に行ったが、その時妙心房の弟子が衣裳箱をとり出して、
「これは私のお師匠様が、年頃のお持物でございましたが」
 といって法然の前へお布施として差出した。その箱を開かせて見ると、布の衣袴の尋常なると、布の七条の袈裟、ならびに十二門の戒儀をふかくおさめていた。法然がそれを見て、「それそれ、日頃源空が言ったことが違わない。このひじりは由々しき虚仮の人であった。この持物を見ると、徳たけて人に尊ばれて、戒師になろうと思う心で行いをすましていたのだ」といったから、人が成程と分ったそうである。
 治承四年の十二月二十八日、本三位中将重衡しげひらは、父清盛の命によって南都を攻め、東大寺の大伽藍だいがらんを焼いて了った。その後元暦元年二月七日、一ノ谷の合戦に生捕られて都へ上り、大路をわたされたり様々の憂き目を見たが、法然上人に頼んで後生菩提のことをお聴きしたいという願いが切であったから法然は対面して、戒などを授けられ、念仏のことをくわしく導道した。重衡が、
「この度生きながら、捕われたのは今一度上人にお目にかかる為でありました」と限りなく喜んで受戒のお布施のつもりで、双紙箱を取り出して、法然の前に差置いて、
「御用になるような品ではありませんが、お眼近い処にお置き下さって、一つは重衡がかたみとも御思い出し給わり取りわけて回向えこうをお願いいたします」
 法然はその志に感じてそれを受けて立ち出でた。
 重衡によって焼かれた東大寺を造営の為め、大勧進の沙汰があったが、学徳名望共に法然上人の右に出ずる者が無いというような理由で、後白河法皇から、右大弁行隆朝臣をお使として、この度の大勧進職たるべき御内意があった時、法然は、
「山門の交衆きょうしゅをのがれて林泉のうちに幽かにんでいることは静かに仏道を修し、偏に仏道を行せんがためでございます。し勧進の職を承るならば、劇務万端のために修行念仏の本意に背くことになりますから、どうぞこの儀は御免を願い度うございます」
 とその辞意堅固なるを見て、行隆朝臣も何ともしようがなく、このことを奏上したところ、
「では門徒のうちに然るべき器量の者があらば申出るように」
 そこで醍醐の俊乗房重源を推挙して、大勧進の職に補せられた。重源はやがてその使命を果した。法然は重衡卿から贈られた鏡を結縁けちえんのために贈り遣わしたということである。
 寿永元暦の頃の源平の乱によって命を落したものの供養をするといって俊乗房が興福寺、東大寺をはじめ、貴賤道俗をすすめて七日の大念仏を修した時、その頃までは人がまだ念仏のことを知らなかったから、俊乗房がこのことを歎いて、建久二年の頃法然をしょうじて大仏殿のまだ半作であった軒の下で観経かんぎょう曼陀羅まんだら、浄土五祖の姿を供養し、浄土の三部経を講じて貰うことになったが、南都の三論法相の碩学が多く集った中に大衆二百余人各々肌に腹巻を着て高座の側に列んでいて、自宗の義を問いかけて、誤りがあらば耻辱を与えてやろうと仕度をしていたが、法然はまず三論法相の深義を述べて次ぎに浄土一宗のこと、末代の凡夫出離の要法は、口称念仏くしょうねんぶつにしくものはない、ということを説いた処が二百余人の大衆よりはじめて随喜渇仰かつごう極まりなく、中には東大寺の一和尚、観明房の已講いこう理真は殊に涙にむせんで、
「こうして八十の年まで長生きをしたのは偏にこのことを聴かんが為であった」といって悦んだ。
 その序に天台円頓の十戒を解説したが、叡山は大乗戒、この寺は小乗戒と述べたので大衆が動揺したけれども、古老が申しなだめることがあって無事に済んだ。
 法然は和歌を作ることを好んではやらなかったけれども、我国の風俗に従って、法門に事よせては時々和歌を作られたこともある。それを門弟が記し伝えたり、或は死んだ後に世間へ披露されたもののうちに、
   春
さへられぬ光もあるをおしなべて
  へだてがほなるあさがすみかな
   夏
われはただほとけにいつかあをひぐさ
  こころのつまにかけぬ日ぞなき
   秋
阿弥陀仏にそむる心の色にいでば
  秋の梢のたぐひならまし
   冬
雪のうちに仏の御名を唱れば
  つもれるつみぞやがてきえぬる
   逢仏法身命と云へる事を
かりそめの色のゆかりの恋にだに
 あふには身をもをしみやはする
  勝尾寺にて
柴の戸にあけくれかかる白雲を
  いつむらさきの色にみなさむ
極楽往生の行業には余の行をさしおきてただ本願の念仏をつとむべしと云ふことを
あみだ仏といふより外は津の国の
  なにはのこともあしかりぬべし
極楽へつとめてはやくいでたたば
  身のをはりにはまゐりつきなん
阿弥陀仏と心は西にうつせみの
  もぬけはてたる声ぞすずしき
   光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨の心を
月影のいたらぬ里はなけれども
  ながむる人のこころにぞすむ
   三心の中の至誠心の心を
往生はよにやすけれとみな人の
  まことのこころなくてこそせね
   睡眠の時十念を唱べしと云ふ事を
阿弥陀仏と十声唱へてまどろまん
  ながきねぶりになりもこそすれ
   上人てづから書付給へける
千とせふる小松のもとをすみかにて
  無量寿仏のむかへをぞまつ
おぼつかなたれかいひけんこまつとは
  雲をささふるたかまつの枝
池の水人の心に似たりけり
  にごりすむことさだめなければ
むまれてはまづ思ひいでんふるさとに
  契し友のふかきまことを
阿弥陀仏と申すばかりをつとめにて
  浄土の荘厳見るぞうれしき
 元久二年十二月八日       源空

三十一


 かくて法然の念仏興行が一代の流行をきわめて来ると当然門下のうちにも、あふれ者が出て来る。また他の方面から嫉妬妨害も盛んに起って来る。
 南都北嶺の衆徒の中から念仏を阻止妨害しようとの運動が起って来た。最初からその雲行が険難であったが、ついに元久元年の冬、山門大講堂の庭に三塔会合して専修念仏を停止ちょうじすべしということを議決して、座主ざすの大僧正真性に訴え申した。
 法然はこのことを聞いて、進んでは衆徒のいきどおりをなだめ、退いては弟子の僻見を戒むる為に、自分の門徒を集めて七カ条の起請文きしょうもんを作り、門下の主立てるもの八十余人の名を連署して、天台座主僧正に差出した。
 その署名した師弟の名は、
 元久元年甲子十一月七日    沙門源空 在判
信空  感聖  尊西  証空  源智  行西
聖蓮  見仏  道亘  導西  寂西  宗慶
西縁  親蓮  幸西  住蓮  西意  仏心
源蓮  源雲  欣西  生阿  安照  加進
導空  昌西  道也  遵西  義蓮  安蓮
導源  証阿  念西  行首  尊浄  帰西
行空  道感  西観  尊成  禅忍  学西
玄耀  澄西  大阿  西住  実光  覚妙
西入  円智  導衆  尊仏  蓮恵  源海
安西  教芳  詣西  祥円  弁西  空仁
示蓮  念生  尊蓮  尊忍  業西  仰善
忍西  住阿  鏡西  仙空  惟西  好西
祥寂  戒心  顕願  仏真  西尊  良信
綽空  善蓮  蓮生  阿日  静西  度阿
成願  覚信  自阿  願西
 それから又別に座主に向っても起請文を認めている。皆丁寧に自派の宗徒の放逸を戒め、反省をうながしたもので、如何にも神妙なあやまり証文になっている。少しも意地を立てたり、自我を主張したりする処はない。神妙な自省と弁明とを以て尽している。そこにも法然その人の大さを見るようである。起請文の日附には何れも元久元年十一月七日と書いてある。
 月輪殿もまたこのことを非常に歎いて、自ら手紙を以て座主大僧正に向けて法然の為に弁護釈明をされた。けれども山門の方は、とにかく、興福寺の憤りは猶止まない。翌年九月に蜂起して法然並にその弟子権大納言公継を重き罪に行われたいということを訴えた。しかしながら朝廷の上下に法然の帰依者が多く、又念仏の邪道に赴く輩はそれらの浅智より起ったので法然のとがではないということの宣旨が十二月二十九日に下った。

三十二


 こんなような訳で嫉妬妨害者が起って来る。そこで法然は生死を厭い仏道に入るべきいわれ、別しては無智の道俗男女の念仏をすることによって、諸宗の妨げとはならないということを聖覚法印に筆を執らせて一文を作らせた。それが「それ流浪三界のうちいずれのさかいにおもむきてか釈尊の出世にあわざりし。輪廻四生のあいだいずれの生をうけてか如来の説法をきかざりし。……」という元久法語又の名登山状の一文章である。

三十三


 そうして南都北嶺の訴えは次第に止まり専修念仏の興行は無難に進んでいったようなものの、なお内心にはその流行を快しとせざる空気が至る処充満していた。
 建永元年十二月九日のこと後鳥羽院が熊野へ行幸のことがあった。その時法然のお弟子住蓮、安楽等が東山鹿の谷で別時念仏を始め、六時礼讃ということを勤めた。それは定まれる節や拍子もなく、各々哀歓悲喜の音曲をなし、珍しくもまた人の心をうつものが多かったから、聴衆も多く集まり、それを聞いて発心する人も少くはなかったうちに、御所の留守の女房連が、それにききほれて、遂に断りなく出家をしてしまった。後鳥羽院遷幸の後、そのことを聴かれて、大に逆鱗げきりんあり、翌年二月九日住蓮、安楽を庭上に召されて罪を定むる時、安楽房が、
見有修行起瞋毒けんうしゅぎょうきしんどく方便破壊競生怨ほうべんはえきょうしょうえん如此生盲闡提輩にょししょうもうせんだいはい
毀滅頓教永※(「さんずい+冗」、第4水準2-78-26)きめつとんきょうえいちんりん超過大地微塵劫ちょうかだいちみじんごう未可得離三途身みかとくりさんずしん
 の文を読み上げたので、逆鱗愈々さかんにして、ついに官人秀能に仰せて六条川原で安楽を死刑に行われてしまった。
 安楽を死刑に処せられた後も逆鱗なお止まず、それにこれを機会として多年法然の念仏興行に多大の嫉妬と反感を持っていた勢力が喰い入ったものか、遂にその咎が師の法然にまで及んで来た。
 法然は「藤井元彦ふじいのもとひこ」という俗名を附けられて土佐の国へ流されることになった。その宣下状に云う。
太政官符  土佐国司
流人藤井元彦
使左衛門府生さえもんのふしょう清原武次   従二人
門部かどべ二人         従各一人
右流人元彦を領送のために。くだんらの人をさして発遣くだんのごとし。国よろしく承知して。例によりてこれをおこなえ。路次の国。またよろしく食済具馬壱疋をたもうべし。
   建永二年二月二十八日
符到奉行
右大史中原朝臣
左少弁藤原朝臣
 追捕ついぶ検非違使けびいしは、宗府生久経、領送使は左衛門の府生武次であった。法然帰依の輩がこの大事件を聞いて歎き悲しむことたとうるにものなく、門弟のうち皆々住蓮、安楽が既に死刑に処せられた上は、上人のお咎めとしては念仏興行の理由ばかりであるから、表面上一切の興行をお止めになって、内々で御教化をするようにして、上へ御宥免ごゆうめんを願うように致したい。御老体を波路遠くまでおいでなさるようなことになってはお命の程も思われる。どうかさようにお計いをお許し下さいましといって赦免の運動を試みようとしたが法然はそれを聞かなかった。
「流されることも更に怨みとすることはない。わしももう年八十に近い。たとい皆の者と同じ都に住んでいてもこの世の別れは遠くない。たとい山海をへだつとも浄土では遠からず会えるのだ。嫌やでも人間は生きる間は生きている。惜しがっても死ぬ時には死ぬのが人の命じゃ。必ずしも処によるということはない。ましてこの念仏の興行も都ではもはや年久しいことだ。これから辺鄙へんぴに赴いて、田夫野人をすすめることが年頃の本意であったが、まだいろいろ事繁くしてその本意を果すことが出来なかった。それを丁度この度の事件で果すことが出来るようになったのは有難い朝恩といわねばならぬ。人が止めようとしても法は更に止まるものではない」
 といって進んで配所へ赴くことになり、その際にも丁度一人の弟子に対して一向専念の教えを述べはじめた。それを聞いてお弟子の西阿弥が驚いて上人の袖を控え、
「念仏は御停止ごちょうじでございます。左様なことをおっしゃっては御身にとりて一大事でございます。皆々御返事をしてはなりません」
 と師の身を思うて云い出すと、法然は西阿に向い、
「そちは経釈の文を見たか」
 西阿答えて、
「経釈の文はどうありましょうとも、今の場合の世間態が――」
 と口籠くちごもると法然が、
「われはたとい死刑に行わるるともこのことを云わなければならぬ」
 官人は小松谷の房へ行って、「急いで配所へお移りなさるように」と責めた。そこで遂に法然は都を離れて配所の旅に赴くことになった。
 月輪殿は名残なごりを惜んで、法性寺の小御堂に一晩お泊め申した。月輪殿の歎きは尋常でなかったけれども、今は主上の御憤りが強い時であるから却っておいさめ申しても悪い。そのうち御気色をうかがって御勅免を申請うということを語られた。月輪殿の傷心のほどはよその見る眼も痛ましいものであった。

三十四


 三月の十六日に愈々都を出でて配所への旅立ちになる。
 信濃の国の御家人角張成阿弥陀仏という者が力者りきしゃの棟梁として最後の御伴おともであるといって御輿みこしをかついだ。同じようにして従う処の僧が六十余人あった。
 法然は一代の間、車馬、輿などに乗らず常に金剛草履をはいて歩いていたが、今は年もとった上に何分長途のことであるから、輿に乗せられたのである。
 何しても絶代の明師が不測の難にうて遠流おんるの途に上るのだから、貴賤道俗の前後左右に走り従うもの何千何万ということであった。
 それにしても土佐の国までは余りに遠い。月輪禅定の骨折りによって、その知行国である讃岐国さぬきのくにへ移されるように漸く嘆願が叶ったのである。月輪殿は歌を詠んで名残なごりを惜しまれた。
ふりすててゆくはわかれのはしなれど
  ふみわたすべきことをしぞおもふ
 法然の返辞、
露の身はここかしこにてきえぬとも
  こころはおなじ花のうてなぞ
 鳥羽の南の門から川船に乗って下ることになった。
 摂津の国きょうしまに着いた。ここは平の清盛が一千部の法華経を石の面に書写して海の底へ沈めたところである。島の老若男女が多く集って、法然に結縁した。
 播磨の国高砂の浦へ着いた時も多くの人が集まって来た中に、年七十余りになる老翁が六十余りの老女を連れて、
「わしはこの浦の漁師で子供の時分からすなどりを業とし、朝夕魚貝の命を取って世を渡る家業をしていますが、ものの命を殺す者は地獄に落ちて苦しめられるとのことでございますが、どうしたらそれを遁れられましょう。お救い下さいまし」
 と法然の前に手を合せた。法然が、
「それはお前さん達のような商売の者でも南無阿弥陀仏といって念仏をしさえすれば仏様のお願いによって極楽浄土に生れることが出来ますよ」
 といって教えた。二人とも涙にむせんでよろこび、その後は昼は浦に出て常の如く漁師をし、夜は家に帰って二人とも声を合せて終夜念仏し、あたりの人も驚く程であったが非常に平和な生涯を終えたということである。
 また同じ国のむろとまりについた時に、小舟が一艘いっそう法然の船へ近づいて来た。何ものかと思えばこの泊の遊女の船であった。その遊女が云うのに、
「上人のお船だということを承って推参いたしました。世を渡る道というものは様々ありまするうちにも、何の罪で私はこう云う浅ましいなりわいをするような身となったのでございましょう。この罪業重き身がどうして後生を助かることが出来ましょうか」と。法然がそれをあわれんで、
「左様左様、お前さんのようにして世渡りをするということは罪障まことに軽いものではない。たたりや報いが計り難いことじゃ。しそれをしないで、世を渡るべき方法があるならば、早速その商売をお捨てなさい。若しその方法もなく、また身命を顧みずしても道に進むという程の勇猛心が起らないならば、ただそのままで一心に念仏をするがよい。阿弥陀様は左様な罪人の為にひろく誓いをおたてになったのだ。――」
 ということをねんごろに教えたので、遊女は随喜の涙を流した。法然その態を見て、
「この遊女は信心堅固である。定めてよき往生がとげられるに相違ない」といった。
 その後上人が許されて都へ帰る時に訪ねて見ると、この遊女は法然の教えを受けて後はこのあたり近い処の山里に住んで、一心に念仏をし立派な往生を遂げたということを聞いて、法然は、
「そうであろうそうであろう」と云われたとか。

三十五


 三月二十六日に讃岐の国塩飽しあく地頭じとう駿河権守高階保遠するがごんのかみたかしなやすとお入道西忍が館に着いた。西忍はその前の晩に満月の光かがやいたのが袂に宿ると夢を見てあやしんでいたのに法然が着いたと聞いて、このことだと思い合わせ、薬湯を設け、美膳をととのえ、さまざまにもてなした。ここで法然は念仏往生の道を細かに授け、中にも不軽大士ふぎょうだいじの故事を引いて、如何なることを忍びても、人を勧めて念仏をさせるようにしなさい。敢て人の為ではない。といって教えた。
 讃岐の国子松の庄に落ついて、そこの生福寺という寺に住し、そこで教化を試みたが、近国の男女貴賤市の如くに集まって来る。或は今迄の悪業邪慳あくごうじゃけんを悔い改め、或は自力難行を捨て念仏に帰するもの甚だ多かった。「辺鄙の処へ移されるのもまた朝恩だ」と喜ばれたのも道理と思われる。[#「思われる。」は底本では「思われる」]この寺の本尊阿弥陀如来の脇士として勢至の像を法然自から作って文を書いて残しておいたということである。
 法然が流された後というもの、月輪殿が朝夕の歎き他所よその見る目も傷わしく、食事も進まず、病気もあぶないことになった。藤中納言光親卿を呼んで、
「法然上人の流罪をお救い申すことが出来ないで、後日を期し、御気色を窺って恩免をお願いして見ようとしたけれど、こうしているうちに、もうわしのからだがいけなくなった。今生の怨みはこのことだ。せめて御身達わしの心を汲んで上人の恩免のことをよくよくお取り計らいなさるように」といわれたから、光親卿は涙ながらにそのことを承知して、御安心なさいというているうちに四月五日臨終正念にして、念仏数十遍禅定に入るが如く月輪殿で往生を遂げられた。行年五十八歳であった。かくてこの師弟は遂に死期に会うことが出来ないで、離れ離れに生別死別という悲しいうき目を見せられて了った。
 このことを配所にあって聞いた法然の[#「法然の」は底本では「法念の」]心の中推し計るばかりであった。
 法然が、配流のこと遠近に聞えたうちに、武蔵国の住人津戸三郎為守は深くこれを歎いて、武蔵の国から遙々はるばる讃岐の国まで手紙を差出したが、法然はそれに返事を書いて、
「七月十四日の御消息。八月二十一日に見候ぬ。はるかのさかいに。かように仰せられて候。御こころざし。申つくすべからず候。……」
 と書いて今生の思い知るべきことと、往生の頼むべきことを痛切に書いている。
 直聖房という僧は矢張り法然のお弟子となって念仏の行をしていたが、熊野山へまいっている間に法然が流されるという話を聞いて急いでその跡を追おうとしたが俄に重病にかかってうごけなくなった。権現に祈ると、「死期はもう近づいている。お前は安らかに往生するがよい。法然上人は勢至菩薩の生れかわりだからお前はそう心配することはない」というおつげがあったから安心して往生を遂げたということである。
 法然はこの国にあって化道けどうの傍ら国中の霊地を巡礼して歩いたが、そのうち善通寺にも詣でた。この寺は弘法大師が父の為に建てられた寺であるが、その寺の記文の中に、「ひとたびももうでなん人は。かならず一仏浄土のともたるべし」とあるのを見て、この度の思い出はこのことであるといって喜んだ。

三十六


 藤中納言光親卿は、月輪殿の最後の頼みによって様々に、法然上人恩免の運動をして見たけれども、叡慮お許しがなかった。しかし上皇が或る夢を御覧になったことがあり、中山相国(頼実)もさまざまに歎いて門弟のあやまちをもって咎を師範に及ぼすことの計り難いことをおいさめ申すことなどもあって、遂に最勝四天王院供養の折大赦が行われた時、御沙汰があって、承元元年十二月八日勅免の宣旨が下った。その条に、
太政官符    土佐国司
 流人藤井元彦
右正三位、行権中納言、兼右衛門かみ、藤原朝臣隆衡宣。奉勅。件の人は。二月二十八日事につみして。かの国に配流。しかるをおもうところあるによりて。ことにめしかえさしむ。但しよろしく畿の内に居住して。洛中に往還する事なかるべし。諸国よろしく承知して、宣によりてこれをおこなえ。
   承元元年十二月八日
符到奉行
左大史小槻宿禰
権右中弁藤原朝臣
 勅免があったとはいえ、まだ都のうちに出入をすることはゆるされないで、畿内のうちに住むことだけを赦されたに過ぎない。配流された地方土民たちは別れを惜しみ京都の門弟達は再会を喜ぶ。
 かくて配所を出でて、畿内に上り、摂津国押部という処に暫く逗留していたが、ここで念仏門に入った老若男女がおびただしかった。
 左様にして都のうちへはまだ出入りを許されない間摂津国勝尾寺に暫く住んでいた。この寺の西の谷に草庵を結んで住んでいると、僧達の法服が破れてみにくかったから弟子の法蓮房に京都の檀那へ云い遣わして装束を十五具整えて施された。寺僧はよろこんで、臨時に七日の念仏を勤行ごんぎょうした。
 またこの寺には一切経がないということを聞いて法然は自分所持の一切経一蔵を施入した処、住僧達喜びの余り老若七十余人華を散し、香をたき、はたを捧げ、きぬがさ※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)してお迎えをした。この経論開題供養きょうろんかいだいくようの為に聖覚法印を呼び招くことになった。法印はこの使命を受けて師弟再会を喜びながら導師を勤めたが、その時の表白文が残っている。
 かくて勝尾寺の隠居も最早四カ年になった。京都への出入がまだ許されない。処が建暦元年夏の頃上皇が八幡宮に御幸のあった時一人の倡妓があって、王者の徳失のことを口走り出した。
 このことが法然流罪に関連して評議された。そのうち又上皇が夢を御覧になったり、蓮華王院へお詣りになった時、何者とも知れず衲衣のうえを着た高僧が近づいて法然の赦免について苦諫奏上することなどがあって驚かれている処へ、例の光親卿の運動や、その他があずかって、同じき十一月十七日にお許しの宣下が下り、そこではじめて法然が再び都の土を踏むことが出来たのは同じき二十日の日のことであった。
 都へ入ってからの法然は、慈鎮和尚の計らいで大谷の禅房に住いをすることになった。はじめて都へ来た時に供養をのべんとして群参の者その夜のうちに一千人あったとのことである。それから引続いて幽閑の地にいたけれども訪ね来る人は連綿として絶えなかった。

三十七


 建暦二年正月二日から法然は食事が進まず疲労が増した。すべて三四年この方は耳もよく聞えず、眼もかすんでいたが、この際になって明瞭にかえったようで、人が皆不思議に思った。二日以後は更に余の事を云わず、往生のことを話し、念仏の声絶えず、眠っている時も口と舌とは動いていた。三日の日に或る弟子が往生のことを、「御往生は如何」と尋ねる。
「わしはもと極楽にいた身だから又極楽へ帰って行くであろう」と。
 又法蓮房が問うていわく、
「古来の先徳皆その御遺蹟というものがありまする。しかるに上人にはまだお寺を一つお建てになったということがございません。御入滅の後は何処を御遺蹟といたしましょうか」
 と尋ねた。法然答えて、
「一つの廟所びょうしょと決めては遺法があまねくわたらない。わしが遺蹟というところは国々至る処にある。念仏を修する処は貴賤道俗をいわず、あまがとまやまでもみんなわしの遺蹟じゃ」
 十一日のの刻に弟子が三尺の弥陀の像を迎えて病臥の側に立て、
「この御仏を御礼拝になりますか」といった処が、法然は指で空を指して、
「この仏の外にまだ仏がござる。拝むかどうか」といった。それはこの十余年来念仏の功が積って極楽の荘厳仏菩薩しょうごんぶつぼさつの真身を常に見ていたが、誰れにも云わなかった。今最期さいごに臨んでそれを示すといったそうである。
 また弟子達が仏像の手に五色の糸をつけて、
「これをお取りなさいませ」
 といった処が、法然は、
「斯様のことは常の人の儀式である。我身に於てはそうするには及ばぬ」
 といって取らなかった。二十日の巳の時から紫雲が棚引いたり、円光が現われたり、さまざまの奇瑞があったということである。
 二十三日から法然の念仏が或は半時或は一時、高声念仏不退二十四日五日まで病悩のうちにも高声念仏は怠りなかったが二十五日のうまの刻から念仏の声が漸くかすかになって、高声が時々交じる。まさしく臨終であると見えたとき、慈覚大師の九条の袈裟を架け、頭北面西にして、
光明遍照こうみょうへんじょう十方世界じっぽうせかい念仏衆生ねんぶつしゅじょう摂取不捨せっしゅふしゃ
 の文を唱えて眠るが如く息が絶えた。音声が止まって後、なお唇舌を動かすこと十余反ばかりであった。面色殊に鮮かに笑めるが如き形であった。これは当に建暦二年正月二十五日午の正中のことであった。春秋満八十歳、釈尊の入滅の時と年も同じ、支干もまた同じく壬申みずのえさるであった。
 武蔵国の御家人桑原左衛門入道という者、吉水の房で法然の教えを受けてから、国へ帰ることを止め祇園の西の大門の北のつらに住いして念仏をし、法然に参して教えを受けていたが、報恩の為にとて上人の像をうつして法然に差上げた。法然がその志に感心して自からその像に開眼かいげんしてくれた。法然が往生の後はその像を生身の思いで朝夕帰依渇仰していたが、やがて往生の素懐をとげた。年頃同宿の尼が本国へ帰り下る時、その像を知恩院へ寄附した。当時御影堂みえいどうにある木像がそれである。

三十八


 法然の最期の前後にその門徒の人々が様々な夢を見たり、奇瑞きずいを見たりしたことがある。参議兼隆卿は上人が光明遍照の文を誦して往生する処を夢み、四条京極の簿師真清は往生の紫雲と光りと異香とを夢に見、三条小川の陪従信賢が後家の養女、並に仁和寺の比丘尼西妙はその前夜法然の終焉しゅうえんの時を夢み、その他花園の准后の侍女参河局、花山院右大臣家の青侍江内、八幡の住人右馬允うまのじょう時広が息子金剛丸、天王寺の松殿法印、一切経谷の袈裟王丸、門弟隆寛律師、皆それぞれ法然の往生を夢みて一方ならぬ奇瑞を感得している。
 法然の住居の東の岸の上に、おおわれた勝地がある。或人がこれを相伝して自分の墓と決めておいたが、法然が京都へ帰った時、その人がそれを法然に寄進した。法然が往生の時ここへ廟堂を建てて石の空櫃からびつを構えて収めて置いた。この廟所についても多くの奇瑞が伝えられている。この地の北の庵室に寄宿している禅尼、地主、その隣家の清信女だとか、清水寺の住僧別当入道惟方卿の娘粟田口禅尼というような人がふしぎの奇瑞を感じたということがある。今の知恩院の処である。
 四条堀川材木商の堀川の太郎入道という者があった。深く法然に帰依していたが、法然往生の時は廟堂の柱を寄附した。その後へ西山の樵夫きこりだというて結縁に来たという物語りがある。

三十九


 法然が臨終の時遺言をして孝養のために堂寺を建ててはならない。志があらばあんまり群集しないで念仏をして報恩のこととでもするがよい。群集をすれば闘諍とうじょうの縁となるからということをいましめておいたが、でも法蓮房が世間の風儀に従って念仏の外の七日七日の仏事を修することにして他の人もそれに同意した。初七日には信蓮房が導師となり、檀那として大宮入道内大臣(実宗)が諷誦の文を読んだ。それに准じて七七日なななぬか各名僧知識が導師となり或は諷誦の文を読んだ。
 三井の僧正公胤そうじょうこういんも懇ろに導師を望んだ。この人は法然に服しなかった人であったが上人誹謗の罪を懺悔し、先きに認めた浄土決疑抄じょうどけつぎしょうという書物を焼いて、法然七七日の仏事の導師となったものである。

四十


 この三井の僧正公胤はまだ大僧都であった時に、法然の識論を破るといって、
「公胤が見た文章を法然房が見ないものはあるとしても、法然房が見た程の文章を公胤が見ないのはあるまい」と自讃して浄土決疑抄三巻を著わして撰択集を論難し、学仏房というのを使として法然の室へ送った。法然はその使に向ってそれを開いて見ると、上巻の初めに、
「法華に即住安楽そくじゅうあんらくの文がある。観経に読誦大乗どくじゅだいじょうの句がある。読誦の行をもってしても極楽に往生するに何の妨げもない筈だ。然るに読誦大乗の業を廃して、ただ念仏ばかりを附属するということは、これ大きな誤りである」
 と書いてあった。その文を法然が見て、終りを見ないで差置いて云うのに、
「この僧都、これ程の人とは思わなかった。無下むげのことである。一宗を樹つる時に彼は廃立はいりゅうのむねを知って居るだろうと思われるがよい。然るに法華をもって観経往生の行に入れられることは、宗義の廃立を忘るるに似ている。若しよき学生ならば観経はこの爾前にぜんの教えである。彼の中に法華を摂してはならないと非難をせらるべき筈である。今浄土宗の心は、観経前後の諸大乗経をとって、皆悉く往生の行のうちに摂している。何ぞ独り法華だけが漏れる筈がない。あまねく摂する心は念仏に対してこれを廃せんが為である」
 といった。使が帰ってこのことを語ると僧都は口を閉じて言葉がなかったということである。
 或時※(「火+禾」、第4水準2-82-81)ぎしゅうもんの女院が中宮で一品いっぽんの宮を御懐妊の時に、法然は御戒の師に召され、公胤は御導師としてまいり合せたことがあった。御受戒が終って法然が退出しようとした時に、僧都の請によって暫く問答することになった。僧都は法然に向い、
「上人には念仏のことをお尋ね申すのが本来であろうがまず大要なるにつきて申して見ると、東大寺の戒の四分律しぶりつであるのは如何なるわれでござろうか」
 そこで法然は東大寺の戒の四分律であるべき道理をつぶさに話して聞かせた。僧都が帰って考えて見ると法然の云われたことが少しも違わなかったから、次の日又参会の時、
「昨日お仰せになったことは、まことにお言葉の通りでございました」
 といって、法然を尊敬し、それから浄土の法門を話したり、その他のことを語った。その時僧都が※(「りっしんべん+軍」、第4水準2-12-56)げんうんぐえんくいと読んだので法然がそれは暉と書けばくいと読ませるが、※(「りっしんべん+軍」、第4水準2-12-56)と書いてはうんと読むのがよろしいと訂した。すべて斯様な誤りを七カ条まで訂されたので、僧都が罷り出でて後弟子に語って云うには、
「今日法然房に対面して、七カ条の僻事ひがごとをなおされた。常にあの人に会っていれば学問がどの位つくかしれぬ。あの人が立てた処の浄土の法門が仏意に違っているということはない。仰ぎて信ずる外はない。あの上人の義をそしるは大きなるとがである」
 といって自分のこしらえた決疑抄三巻を焼いて了った。そういう因縁があって法然歿後の法要の導師を勤め前非を懺悔し、念仏の行怠りなく、建保四年うるう六月二十日に七十二の年で禅林寺のほとりに往生を遂げられた。
 栂尾とがのお明恵上人みょうえしょうにん(高弁)は摧邪輪さいじゃりん三巻を記して撰択集せんじゃくしゅうを論破しようとした。法然の門徒がこぞって難を加えたによって重ねて荘厳記という一巻を作って、それに答えたけれども却って、名誉を落されたということである。入道民部卿長房卿は明恵上人に帰依の人であったから、その摧邪輪を信じて高野の明遍僧都に見せようとした時、僧都が、
「何の文ですか」
 と尋ねたのに、
「撰択論を論破した文です」
 と云われたから、明遍、
「わしは念仏者でございます。念仏を難破した文章をば手にも取るわけには行きませぬ、眼にも見る気は致しません」
 といって返されたが、後にはこの民部卿入道も撰択に帰して、「何れの文が邪輪なるらん」といわれたということである。
 その後仁和寺の昇蓮房が、かの摧邪輪をもって明遍僧都に見せた処、僧都が云うのに、
「凡そ立破りゅうぱの道はまず所破しょはの義をよくよく心得てそれから破する習いであるのに、撰択集の趣をつゆつゆ心得ずして破せられたる故にその破が更に当らないのである」
 という意味でとり合わなかったという。この僧都は論議決択けっちゃくのみちにかけては日本第一の誉れのあった人である。
 明恵上人も後に菅宰相為長卿の許へ行った時に摧邪輪のことが話に出た時、
「そういうこともありましたけれども、ひが事であると思って今は後悔して居ります」
 といわれたそうである。
 禅林寺の大納言僧都静遍は、池の大納言頼盛卿の子息で、弘法大師の門であり、はじめは醍醐の座主勝憲僧正を師として小野流の流れを受け、後には仁和寺の上乗院の法印仁隆に会って広沢の流れを伝え、事相教相抜群の誉れのあった人であるが、一代がこぞって撰択集に帰し、念仏門に入る者が多いのを見て、嫉妬の心を起して、撰択集を破し、念仏往生の道を塞ごうと思ってその文章を書く料紙までも整えて、それから撰択集を開いて見た処、日頃思っていることに相違して却って末代悪世の凡夫の出離生死の道はひとえに称名の行にありと見定めてしまったから、却ってこの書を賞玩して自行の指南に備えることとし、日頃嫉妬の心を起したことを悔い悲しんで、法然の大谷の墳墓に詣でて泣く泣く悔謝し、自から心月房と号し、一向念仏し、その上に「続撰択」を作って法然の義道を助成した。

四十一


 毘沙門堂びしゃもんどうの法印明禅は、参議成頼卿の子息で、顕密の棟梁山門の英傑とうたわれた人であるが、道心うちに催し隠遁のおもいが深かった。はじめて発心の因縁というのをきくと、或時最勝講の聴衆にまいったが集まる処の貴賤道俗が、きょうを晴れと身栄を飾り、夢幻泡沫のこの世にあることなどを念頭に置くものは一人もなく、僧は僧で別座を設けて従者を具し、童を従えておさまり込む。集る身分の高い者は高い者、低い者は低い者、皆それぞれ栄耀をして走り廻っている有様を見て、つくづくと人間の浅ましさを感じ、隠遁の思いが胸に定まったということである。法然の念仏興行も余り流行するものだから、ついそねみ心が起ってその勧化かんげなどを聴かず、でも自分の出離の途といっては、いまだ定まった解決もつかずに籠っていたが、或時法然の弟子の法蓮房に会って、念仏の法門を話した時に、法蓮房から法然著わす処の撰択集を贈られたのを開いて見てはじめて浄土の宗義を得、称名の功能を知り、信仰の余り改悔の心を起し、撰択集一本を写しとどめて、双紙の袖に「源空上人の撰択集は末代念仏行者の目足なり」と書きつけ、尚その上にまた述懐の鈔を記して法然の行を賞め申された。

四十二


 法然が亡くなってから、順徳院の建保年間、後堀川院の貞応嘉禄年間、四条院の天福延応年間などたびたび一向専修の宗旨を停止ちょうじの勅命を下されたけれども、厳制すたれやすく興行止まりがたく、念仏の声は愈々いよいよ四海に溢れた。
 ここに上野国から登山した並榎の竪者りっしゃ定照という者が深く法然の念仏をそねみ「弾撰択だんせんじゃく」という破文を作って隆寛律師の処へ送ると律師はまた「顕撰択けんせんじゃく」という書を作って「なんじ僻破へきはの当らざること暗天の飛礫の如し」と云うたので、定照愈々憤りを増し、事を山門にふれて、衆徒の蜂起をすすめ、貫首に訴え、奏聞を経て隆寛幸西等を流罪にしその上に法然の大谷の墓をあばいて、その遺骨を加茂川へ流してしまうということをたくらんだ。
 それが勅許があったので、嘉禄三年六月二十二日山門から人をやって墓を破そうとする、その時に六波羅の修理亮しゅりのすけ平時氏は、家来をれて馳せ向い、
仮令たとい勅許があるにしても、武家にお伝えあって、それから事をなさるがよいのに、みだりに左様の乱暴をなさるのはよろしくない」というて止めたけれども承知をしない。墓を破り、家を破し、余りの暴状に見かねて、「その儀ならば我々は武力を以てその乱暴を妨ぎ止める」といって争ったものだから、叡山の使者も退散して、その日は暮れた。
 その夜法蓮房、覚阿弥陀仏等月輪殿の子息である妙香院の僧正の処に参って、
「今日の騒ぎはとにかくしずまりましたけれども、山の憤りがまだはげしゅうございますから、これは一層早く改葬をしてしまうがよろしゅうございます」
 という相談をして、その夜人静まって後、ひそかに法然の棺の石の室の蓋を開いてみると画像生けるが如く、如何いかにも尊いすがたがその儘であったから皆々随喜の涙を流した。
 都の西の方へ法然の遺骸をかきたてて行くうちに、道路の危険をおもんぱかって、宇津宮弥三郎入道蓮生、塩屋入道信生、千葉六郎大夫入道法阿、渋谷七郎入道道遍、頓宮兵衛入道西仏等の面々今こそ出家の身ではあるが、昔は錚々そうそうたる武士達が、法衣の上に兵仗を帯して、法然の遺骸を守って伴についた。それを聞いて家の子郎党達が馳せ集まったので、弟子達軍兵済々として前後をかこみ、その数一千人余り、各々涙を流し悲しみを含んで輿こしを守護して行った。
 嵯峨へ行ってしかき処に置き、そのありかを秘密にするということを各々誓いを立てて帰った。山徒は本意を遂げざることを怒って、尚その遺骸の行方を尋ねているという噂があったから、同じ二十八日の夜忍んで広隆寺の来迎房円空が許に移して置いてやっとその年も暮れた。
 翌安貞二年正月二十五日の暁、更に西山の粟生野の幸阿弥陀仏の処へ遺骸を移して、そこで荼毘だびに附した。荼毘の処に三肢になった松があって、それを紫雲の松と名附けられ、その荼毘の跡には堂を建てて御墓堂と名づけて念仏した。今の光明寺である。
 遺骸を拾い、かめに納め、幸阿弥陀仏に預けて置いて、その後二尊院の西の岸の上に雁塔がんとうを建ててそこへ遺骨を納めることとした。

四十三


 白河の法蓮房信空(称弁)は中納言顕時の孫、叡山へ送られて、黒谷の叡空上人に就いていたが、叡空が亡くなってから、源空上人に就いた。内外博通、智行兼備、念仏宗の先達、傍若無人と云われた人である。享年八十三。安貞二年九月九日、九条の袈裟を掛け、頭北面西にして法然の遺骨を胸に置き、名号を唱え、ねむるが如く往生を遂げた。
 西仙房心寂も、元叡空の弟子であったが、後には法然を師として一向専修の行者となったが、同朋同行の多い処では煩いが多いから、誰れも知らない処へ行って静かに念仏をしようと思って、諸方を尋ね歩き、河内国讃良という処の尾入道という長者の土地へ住むことに定め、それから又京都へ登って来て所持のお経などを人に頒ち与えてしまい、ただ水瓶ばかり持って法然の処へ来て隠居をすることを物語り、
「この世でお目にかかるのは只今ばかり、再会は極楽で致し度うございます」
 といって出て行った。法然はその心任せにして、時々あれはどうして暮しているかなどという噂をしたが、三年経つとこの僧がひょっこりやって来た。法然が驚いて、
「どうしたのだ」
 と尋ねると、西仙房が云うことには、
「そのことでございます。あちらへ隠居しまして、はじめの年位は心を乱ることがなくよく行い済ませましたが、この春あたりから、つれづれの心が出て来て、うるさいと思っていた同朋同行や、親しかった間の者などが恋しくなり、余り徒然つれづれにたえぬまま、あの時持っていたお経でも開いて見たならばこの心をなぐさめるよしもあったろうと人に頒ち取らせたことさえ後悔せられて、果ては時々来る小童などにそぞろごとを云いかけては心をなぐさめていたが、愈々徒然の心がさかんになって、故郷を思う心ばかり多く極楽を願う心は少なくなってしまいました。これでは全く予期する処とちがった無益の住居と思って、折角好意を持ってくれた地主の尾入道にもことわりも云わないで逃げ上って来ました」
 法然はその率直な言葉を喜んで、
「道心のないものにはこの心は無いことだ」
 といって賞めた。
 それから西仙房は姉小路、白川祓殿の辻子という処に妹の尼さんが住んでいた。庵の後ろにひさしをかけて自分の身一つが納まるだけにわらでもって囲いをして、そのうちに籠って紙の衣を着て、食時便利の外には一向に念仏をしていた。小さな土器かわらけを六つ並べて香をもり、火を消さず、とり移しとり移して、念仏して、人にも会わなければ全く別世界を劃していたが、元久元年の冬臨終正念りんじゅうしょうねんにして端座合掌、高声念仏して息絶えた。その室内が三年程香ばしかったという。着ていた処の紙の衣によき匂いがあるので、訪ねて来たものが皆それを分けて貰って行った。最期の時には貴賤男女が沢山集って結縁したが、大番の武士、千葉六郎大夫胤頼たねよりそれを見て忽ちに発心出家した。上人給仕の弟子法阿弥陀仏がその人である。
 嵯峨正信房湛空さがのしょうしんぼうたんぐうは、徳大寺の左大臣(実能)の孫であったが、これも聖道門を捨てて法然の弟子となり、一筋に浄土門へ行った。法然が流された時も、配所までともをして行ったが、その時船の中へ法然の像を張って置いた。それが「船のうちのはり御影」といって、後嵯峨の塔に残っていた。生年七十八。建長五年七月二十七日よき往生を遂げた。
 播磨の国朝日山の信寂房はやはり法然のお弟子であったが、明恵上人の摧邪輪さいじゃりんを破る文をつくり著わしたが、義理明晰をもって聞えている。
 醍醐乗願房宗源(号竹谷)は多年法然に仕えて法義をうけていたが、深く隠遁を好み道念をかくして、医者であるといって名のり又音律のことなどを人に語ったりなどしていた。けれどもその徳隠れなく、或る貴女がこの僧に深く帰依していたが、その貴女より、じんの念珠を贈られた。宗源もこれを愛して、この念珠で日夜念仏していたが誰れもこのことを知らなかった。処が或一人の修行者が雲居寺にお通夜をしてまどろんでいると堂の前へ、無数の山伏が集って何か騒いでいる。それを聞くと山伏の一人が、「あの醍醐の乗願房の救われるのをさまたげてやろうじゃないか」というと一人の山伏が「あれはなかなか信念が堅くて妨げられないが、ただ一つ貴女から貰った念珠を大事にしている。あれを種子にして一つ妨げてやろうではないか」という夢を見たので、乗願房の庵室へ訪ねて来て、それとなく尋ねて見ると、なる程その珠数をもっている。修行者は乗願房からいわれを聞くと走り寄って乗願房の持っていた念珠を奪い取って火の中になげ込んでしまった。乗願房が驚いて尋ねると、修行者がはじめて夢のことをくわしく語ったので、乗願房は却って修行者のなしたことを喜んだという話がある。醍醐の菩提寺の奥、樹下の谷という処に長く隠居していたが、後清水の竹谷という処に移り建長三年七月三日生年八十四で往生を遂げた。

四十四


 長楽寺の律師隆寛は、粟田関白五代の後胤、少納言資隆の三男であったが、慈鎮和尚の門弟であり、後浄土に帰して法然の弟子になった。毎日阿弥陀経四十八巻を読み、念仏三万五千遍を唱えていたが、後には六万遍になった。或時、阿弥陀経転読のことを法然に尋ねた処、
「源空も毎日阿弥陀経三巻を読みました。一巻は呉音、一巻は唐音、一巻は訓でありました。けれども今は一向称名の外には他のことはいたしません」
 といわれたので四十八巻の読誦を止めて毎日八万四千遍の称名を勤められた。
 建久三年の頃叡山の根本中堂の安居あんごの結願に、誰れを導師にという沙汰のあった時に隆寛がその器量であるという評判であるところが、一方には、「あれは法然の弟子となって、専修念仏を行とする上は、我が山の導師とするは不都合である」と非難するものがあったが、何分外にその人がないというわけで、異論をなだめて招請されたが、壇に上って大師草創のはじめより、末代繁昌の今に至る迄、珠玉を吐くような弁舌に衆徒が感歎随喜して、その時はまだ凡僧であったけれども、東西の坂を輿に乗って上下することを許された。
 法然が小松殿の御堂にった時、元久元年三月十四日律師が訪ねて行った。法然は後戸しりどに出迎えて、ふところから一巻の書を取り出して、
「これは月輪殿の仰せによって選び進ぜた処の撰択集である。善導和尚が浄土宗をたてた肝腎が書き記してある。早く書き写して見なさるがよい。し、不審があらば尋ねおききなさるがよい。但し源空が生きている間は秘密にして置いて他見せしめないように、死後の流行はむを得ない事だが」
 といわれたので、急いで尊性、昇蓮等に助筆をさせて、それを筆写し、原本は返上されたことがある。
 並榎の竪者りっしゃ定照が訴えにはじまって法然の門徒が諸国へ流されるうちに、この律師は最も重いものとして見られていて、自分も覚悟していたが、果して配所は奥州ということであって森入道西阿もりのにゅうどうさいあというものが承って配所へ送ることになり、嘉禄三年七月五日都を進発したが、森入道は深く律師に帰依していたので、そっと門弟の実成房というものを身代りに配所へやって、律師は西阿が住所相模の国飯山へ連れて行き、そこで大いに尊敬して仕えていた。同年の冬、病にかかった時筆を執って身の上のことを書き起したが、それを羈中吟きちゅうぎんという。間もなく春秋八十歳で念仏往生を遂げた。
 この律師が鎌倉を立って飯山へ下った時に武州刺史朝直朝臣ししともなおあそん、その時二十二歳、相模四郎といったが、律師の輿の前で対面して仏道のことを尋ねている。刺史朝直朝臣はその教えを聴いて真実の信念を起し、毎日六万遍の念仏を誓ったという、この律師、道心純熟し、練行積って三昧発得さんまいほっとくの境に達した。この律師の教風を「多念義たねんぎ」とも、「長楽寺義ちょうらくじぎ」とも云う。
 遊蓮房円照は入道少納言通憲の子、二十一歳にして発心出家、はじめは法華経をそらに覚えて読誦していたが、後には法然の弟子となって一向に念仏する。法然も、
「浄土の法門と遊蓮房に会ったことは、人界に生を受けた思い出である」
 といわれたそうであるからなかなか堅固な行者であったろうと思う。

四十五


 勢観房源智は備中守師盛のりもりの子、小松内府重盛の孫であって、平家が滅びた後、世をはばかって母御がこれを隠していたが、建久六年十三歳の時、法然の処へ進上した。法然はこれをまた慈鎮和尚に進上せられ、そこで出家をとげたが幾許いくばくもなく又法然の処へ帰って十八年間を通じて常に給仕をしていた。そこで法然もあわれみが殊に深く浄土の法門を教え、円頓戒えんどんかいを附属した。そこで道具、本尊、房舎、聖教、皆相続されることになった。法然の最期の時が近づいた際に勢観房は、
「年頃お教えにあずかって居りますが、なお肝腎のところを御直筆で一つ残して置いていただきとうございます」と願った。そこで法然が筆をとって書いたのが上人の「一枚消息」、所謂いわゆる一枚起請である。
もろこし我朝。もろもろの智者たちのさたし申さるる。観念の[#「観念の」は底本では「観然の」]念にもあらず。又学問して念仏の念をさとりなどして申す念仏にもあらず。ただ往生極楽のためには。南無阿弥陀仏と申してうたがいなく。往生するぞとおもいとりて申すほかには。別の子細そうらわず、ただし三心四修さんじんししゅうなど申すことの候は。決定けつじょうして南無阿弥陀仏にて往生するぞと。おもううちにこもり候なり。このほかにおくふかきことを存せば二尊のあわれみにはずれ。本願にもれ候べし。念仏を信ぜん人は。たとい一代の法をよくよく学せりとも。一文不知の愚鈍の身になして。尼入道あまにゅうどうの無智のともがらに同うして。智者のふるまいをせずして一向に念仏すべし。
 師の法然が亡くなってからは加茂の辺りささぎ野という処へいおりを構えて住んでいた。何故にこんな処に住んでいたかというと、その以前法然が病気の最中に、いずくよりともなく車を寄せたものがあって、中から貴女が一人降りて法然に面会した。その時看病の僧達は外出したものもあり、休息しているものもあって、勢観房だけがただ一人障子の外で聞いていると、その貴女の声で、
「まだ今日明日のこととは思いませんでしたのに、御往生が近いような様子、この上もなく心細いことでございます。さて御往生の後は念仏の法門のことなどは、どなたに申残し置かれましたか」
 と尋ねられる。法然が答えて、
「源空が所存は撰択集に載せてあります。撰択集にちがわないことを云う者こそ源空が宗旨を伝えたものであります」
 それから暫く物語りなどあって貴女は帰って行かれたが、その気色はどうも只人とは思われなかった。そこへ外出の僧達も帰って来たから勢観房は車の後を追いかけて見ると河原へ車をやり出して、北を指して行ったが、かき消す様に見えなくなってしまった。帰ってから法然に、
「只今のお客の貴婦人はどなたでございますか」と尋ねると、法然が、
「あれは韋提希夫人いだいげぶにんである。加茂のほとりにいらっしゃるのだ」
 といわれた。そんな因縁でこの地へ居を定められたのだが、この人は隠遁を好み自行をもととして、どうかすると法談をはじめても、所化しょけ五六人より多くなれば、魔縁をひくだろう、ことごとしいといって止めてしまったということである。生年五十六。暦仁元年十二月十二日に往生をとげた。
 遠江国蓮華寺の禅勝房は、天台宗を習ったが、自分のうつわではこの教えによって救われることはなりがたいと思って、熊谷入道の処へ行って、念仏往生の道を聴いたが、熊谷が一通り教訓を加えてから、くわしいことは我師法然上人にお尋ねするがよいと手紙をくれたから、京都へ出て吉水の庵で法然の教えを受けたものである。そして法然給仕の弟子となり信心堅固の誉があった。この僧がいろいろ法然に向って不審を尋ねたに就いて、法然がよく親切に返答を与えている。その中で、
「自力他力と申すことは、如何様に心得たらよろしゅうございますか」
 法然答えて、
「わしは云い甲斐なき遠国の土民の生れである。全く天子の御所へなど昇殿すべき器のものではないが、上より召されたから二度までも殿上へ参ることになった。これと云うのは上の力である。
 これと同じことに極重悪人ごくじゅうあくにん無他方便むたほうべん凡夫ぼんぷはどうして報身報土の極楽世界などへまいるべき器ではないが、阿弥陀仏の御力なればこそ、称名の本願に答えて来迎にあずかることに不審は無い筈ではないか」
 又問うていわく、「持戒の者の念仏の数遍少いのと、破戒の者の念仏の数遍多いのと、往生してからその位に深い浅いがございますか」
 法然坐っていた畳を指してこれに答えて曰く、
「畳があればこそ破れたとか、破れないとかいう論があるが、畳がなければ、破れたの破れないのと云うがものは無いではないか。そのように末法の中には持戒もなく、破戒もない。凡夫の為に起された本願であるから、ただいそぎても、いそぎても、名号をとなえるがよい」
 この僧が法然の膝下を辞して国へ下ろうとして暇乞いの時、法然は京みやげをあげようといって、
「聖道門の修行は、智恵をきわめて生死を離れ、浄土門の修行は愚癡ぐちにかえりて極楽に生ると心得らるるがよし」
 といわれた。
 それから本国に帰って深くその徳を隠し大工を職として家計を立てていたが、隆寛律師が配所へ下らるる時、この国見附みつけの国府という処に止まっていると、其処そこへ近隣の地頭共が結縁の為に集って来た。その時律師が皆の者に向って尋ねるには、
「この国の蓮華寺という処に、禅勝房というひじりが居られる筈だが」
 と尋ねたけれども、誰れも知らない。「そんな聖はございません。ただ大工の禅勝という者は居りますが」
 と答えたので、隆寛律師はどうもあやしいと思ったけれども、手紙でもって尋ねて使をやって見ると、禅勝はそれを見るや、とりあえず走せつけて来た。律師は庭に下り迎えて手をとって引きのぼせ、互に涙を流して、昔のことを話し合った。
 日頃、たたき大工だとばかりあなどっていた坊主が、斯様な高僧に尊敬されるのを見て土地の武士共が眼をまわしてしまった。その後は国中の貴賤、尊み拝みて大工もして居られなくなったから、広く念仏の布教をするようになった。生年八十五歳の正嘉二年の十月四日立派な念仏往生をとげた。
 俊乗房重源は、上の醍醐の禅定で、真言宗に深かったが、法然の徳に帰してその弟子となった。大原談義の時も、門弟三十余人を連れて列席した。治承の乱に南都東大寺が焼失した。重源がその造営の大勧進に補せられた。総てに於て計画にぬかりのない人であったから、時の人に「支度第一俊乗房」と称せられていた。
 建久六年三月二十日造営の功をえ、供養をとげられた。天子の行幸があり、将軍頼朝も上洛した。法然の勧化かんげに従って念仏を進め、上の醍醐に無常臨時の念仏をすすめ、その他七カ所に不断念仏を興隆した。
 建久六年六月六日東大寺に於て往生した。

四十六


 鎮西ちんぜいの聖光房弁長(また弁阿)は筑前の国加月庄の人であったが、十四の時天台を学びその後叡山に登り、一宗の奥義を極めたが、建久八年法然六十五、弁阿三十六の時吉水の禅室にまいり、法然の教えを聞いたが、その時心の中で思うよう、「法然上人の智弁深しと雖も、自分の解釈する処以上に出でる筈がない」と。そこでまず試みに浄土宗の要領を叩いて見ると、法然が答えて、
「お前は天台の学者であるから、まず三重の念仏を分別して聞かせよう」
 と数刻にわたって細々と念仏の要旨を説き聞かせたので聖光房の高慢の心が直ちに止み、長く法然を師として暫くも座下を去らずに教えを受けた。
 建久九年の春には法然から撰択集を授けられ、
「汝は法器である。これを伝持するに堪えている。早くこの書を写して末代にひろむべし」
 と云われたそうである。
 同年八月に法然の命を受けて、伊予に下りて又帰洛し一宗の奥を極め、元久元年八月上旬に吉水の禅室を辞して、鎮西の故郷に帰り、浄土宗をさかんにした。
 安貞二年の冬肥後国往生院で四十八日の念仏を修した時に、後の人の異義を戒めんが為に、一巻の書を著した。「末代念仏授手印まつだいねんぶつじゅしゅいん」といいよく法然相伝の義を伝えた。
 筑後の国高良山の麓に厨寺くりやでらという寺があった。聖光房がそこで一千日の如法念仏を修した処、八百日に及んだ頃、高良山の大衆だいしゅが、「この山は真言の宗旨だ。この山の麓で専修念仏はけしからん。念仏の輩を追い出せ」という評議が決まったが、聖光房は心を決めて待ち構えていると、その翌日思いの外一山の大衆がいろいろの供物を捧げてやって来たというような話もある。
 筑後の国山本郷という処に善導寺という寺を建てたが後には改めて光明寺と名づけ一生ここで念仏伝道した。
 この人は毎日六巻の阿弥陀経、六時の礼讃時をたがえず、又六万遍の称名怠ることなく、初夜のつとめを終って一時ばかりまどろんだ後起き出でて夜明くるまで高声念仏が絶えることがなかった。常に云うには、
「人がよく閑居の処を高野とか粉河こかわとか云うけれども、わしは暁のねざめの床程のことは無いと思う」
 又安心起行あんじんきぎょうかなめは念死念仏にありといって、「いずるいき。いるいきをまたず。いるいき。いずるいきをまたず。たすけたまえ。阿弥陀ほとけ。南無阿弥陀仏」と常に云っていた。
 嘉禎四年二月二十九日様々の奇瑞のもとに七十七で大往生をとげた。霊異のことが数々あるけれども記さず。
 勢観房源智は、
「先師法然上人の念仏の義道をたがえずに申す人は鎮西の聖光房である」といわれた。そこで勢観房の門流は皆鎮西に帰して別流を樹てなかったということである。
 そのほか安居院あぐいの聖覚法印、二尊院の正位房なども自分の宗義の証明には聖光房をひき合いに出したそうである。聖光房の門流を「筑紫義つくしぎ」という。

四十七


 西山の善恵房澄空は入道加賀権守親季ちかすえ朝臣の子であったが、十四歳から三十六歳まで、二十三年の間法然について親しく教えを受けた。
 この人は弁論の巧者の処があった。自力根性の人に向って、白木の念仏ということをよく云って、自力の人は念仏をいろいろに色どっていけない。色どりのない念仏往生のことを知らない。というようなことを説いた。
 津戸三郎は上人が亡くなってからは、不審のことはこの善恵房に尋ねた。関東にはその教化消息が伝わっている。
 この聖は非常に恭敬な修行者で、何か不浄のある時などは四十八度も手を洗ったことがある。毎月十五日には必ず二十五三昧ざんまいを行じ、見聞の亡者をとぶらい、有縁無縁を問わず、早世の人があれば忌日には必ず忘れないで阿弥陀経を読み、念仏をしてねんごろに回向えこうをした。
 西山の善峯寺から、信州善光寺に至るまで十一カ所の大伽藍を建て、或は曼陀羅まんだらを安置し、或は不断念仏をはじめて置く。これにみんな供料、供米、修理の足をつけて置いた。これとても全く勧進奉加かんじんほうがをしないで諸人の供養物をなげうってこう云うことをしたのである。
 宝治元年十一月二十六日年七十一歳でこれも様々の奇瑞のもとに大往生をとげた。

四十八


 法性寺の空阿弥陀仏はどこの人であったかわからないが、延暦寺に住んでいた坊さんであったが、叡山を辞して都に出て法然に会って一向専修の行者となって経も読まず礼讃も行わず、称名の外には他の勤めなく在所も定めず、別に寝所というてもなく、沐浴便利の外には衣裳をかず、それでも徳があらわれて人に尊まれた。ふだん四十八人の声のよいものを揃えて七日の念仏を勤行し、諸々もろもろの道場至らざる処なく、極楽の七重宝樹しちじゅうほうじゅの風の響、八功徳池の波の音をおもって風鈴を愛し、それを包み持ってどこへでも行く度毎にそれをかけた、又常に、
如来尊号甚分明にょらいそんごうじんぶんみょう十方世界普流行じっぽうせかいふるぎょう但有称名皆得往たんうしょうみょうかいとくおう観音勢至自来迎かんのんせいしじらいごう
 の文を誦して、「ああ南無極楽世界」といって涙を落したという。
 念仏の間に文讃をいろいろ誦することの源はこの人からはじまった。四天王寺の西門内外の念仏はこのひじりが奏聞を経てはじめておいたものである。
 法然が常に云うには、
「源空は智徳をもって人を教化せんとするがなお不足である。法性寺の空阿弥陀仏は愚癡ぐちであるけれども、念仏の大先達として普く化道が広い。わしが若し人身を受けたならば大愚癡の身となって、念仏勤行の人となりたい」といわれた。
 空阿弥陀仏は法然をほとけの如く崇敬していて右京権大夫隆信の子左京大夫信実朝臣に法然の真影を描かせ一期の間本尊と仰いでいた。知恩院に残っている絵像の真影がそれである。
 往生院の念仏房(又念阿弥陀仏)は叡山の僧侶で天台の学者であったが、これも法然の教えを聴いて隠遁して念仏を事としていたが、法然滅後念仏に疑いが起ってもだえていたが、或る夜の夢に法然を見て往生の安心が出来たという。承久三年嵯峨の清涼寺が焼けたのをこの聖が造営した。その西隣りの往生院もこの聖が建てたものである。建長三年十一月三日年九十五で大往生をとげた。
 真観房感西(進士入道)は十九の時はじめて法然の門室に入り、多年教化を受けていたが、撰択集を著わす時もこの人を執筆とした。又法然が外記大夫と云う人より頼まれて導師となった時も一日を譲ってこの真観房に勤めをさせたようなこともあったが、惜しいかな正治二年うるう二月六日生年四十八歳で法然に先立って死んでしまった。法然はおれを捨てて行くかといって涙を落したとのことである。
 石垣の金光坊は浄土の奥に至っているということを法然からめられていた人であるが、嘉禄三年に法然の門弟と国々へ流された時陸奥むつの国へ下ったが遂にそこで亡くなられたから、その行状が広く世に知られていない。

 大体以上の如く主なる法然の門下或は宿縁ある人の行状を記し了った。この外法本房行空、成覚房幸西は共に一念義をたてて法然の命に背いたにより破門されてしまった。覚明房長西は法然が亡くなってから出雲路いずもじの住心房にとどこおり、諸行皆本願であるというような意見になって撰択集に背いてしまった。この三人とてもなかなか立派な処のある人であるけれども、法然の遺志を慮って門弟の列に載せないことにした。見る人それをあやしまれないように。





底本:「中里介山全集第十五巻」筑摩書房
   1971(昭和46)年8月30日発行
入力:山崎史樹
校正:小林繁雄
2010年3月11日作成
2011年12月7日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




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