日本文化とは何ぞや(其一)

内藤湖南




 文化と云ふ語は、近頃流行し、何ものにでも此の二字が附せられると景氣好く見えるかのやうであるが、しかし、一般世人が文化其の物をどれだけ理解して居るか。文化は國民全體の智識、道徳、趣味等を基礎として築き上げられてゐるのであるが、其の基礎たる智識、道徳、趣味が現代の日本に於て、どれだけの程度に於て在るか。政治、經濟等、人生の需要から生ずる者とせらるゝ事相は、すべて民衆的なるを要求せられ、民衆的な方法に適合せないものは時代錯誤として斥けらるゝが、文化の基礎たる智識、道徳、趣味等は、果して民衆的なるを要求すべき者であるか。民衆的ならざる者は、果して皆時代錯誤とすべき者であるか。然して現代日本の智識、道徳、趣味が實際に現はれたる事實を考察する時は頗る心細さを感ずることがある。是れは特に余等が專門とする史學に關する方面に於て其の然ることを認める。最近富士山の何處かで、神代の記録を發見し、神武以前幾十代かの事蹟が記してあるとて宣傳する者があり、又それを信ずる者もあつて、歴史を假裝したものと、眞の歴史との區別を判斷し得ない多數の人々があるやうである。東京に於ても何某の行者といふやうなものに、所謂上流社會に餘程の勢力を有するものもあり、古事記等を非學術的に解釋して官吏、軍人其他の信仰を集めたものもある。此等が現代日本の民衆の歴史なり、道徳なりに關する智識なりとすれば、明治の初年以來、五十年間、日本文化の基礎たる民衆の智識が進歩せるや否やを疑はざるを得ない。明治初年に大分縣の某といふ山師が神代文字で記した『上記うえつふみ』といふものを發見して、其れを飜譯したのだと稱して、時の有名なる新聞記者岸田吟香氏を欺き出版せしめたことがある。即ち神代を幾十代かに引延して、一々編年體の記事を捏造したものである。三浦博士の言はるゝ所では、今度の神代記録とかの上記とは殆ど全く同一のものであるといふことである。自國の歴史にさへ、其れだけ盲目なことが、五十年前と今日と殆ど同樣である證跡があるとすれば、我々が日本の進歩に疑問を抱くといふのも、必ずしも矯激の言と云ひ得ないであらう。故に自分が今、日本文化に就て説くところは猶多數の人々の理解し難く、且つ時としては大なる反感をもつところのものであるかも知れない。たゞ然し、近來一般の思想傾向として善いことは、學者の自由討究に對して、以前よりはいくらか寛大になつた點である。其れで日本の多數の人々の智識には信用を置かぬ自分も、自由討究の一端として、鄙見を披瀝して見ようと思ふ。
 何れの國にも、國民には所謂お國自慢があつて、其お國自慢の中にも、自國の文化が自發的であると云ふことが、餘程重きを爲してゐるのである。しかし、是は或る少數の古い國、埃及とか、支那とか、印度とかいふ者を除いては、理由なき謬想であつて、例へば、兒童が生れ落ちてから、漸次智慧が附いて來る年頃は、年長者から導かれ教へこまれることが、其の智識の基礎になることは明瞭なる事實であるが、其の兒童が成人した後、自己の智識の根本に就て自慢を有し、自己の智識は最初から他の智識を選擇するだけの識見を具へてゐて、年長先進者の智識を自己に同化し、以て今日の發達を來したと云ふことを主張したならば、何人も其の無稽なることを嘲笑せざるものはないであらう。個人間では、斯くの如き知れ切つた道理が、妙に國民間に於ては、道理に外れた解釋を下さうとする。日本文化の起原に於ても、恰度其れと同一の謬想が存在する。國史家始め多くの日本人は、今日でも動もすれば日本文化なるものの、最初からの存在を肯定し、外國文化を選擇し同化しつゝ今日の發達を來したと解釋せんと欲する傾きがある。此の謬想は隨分古くからあつて、國民的自覺が生ずると同時に、日本人は已に此の謬想に囚はれてゐたと云つても宜い。維新以前の日本文化起原論とも云ふべきものは、最後に此の立論の方法で殆ど確定せられてゐた。日本が支那文化を採つて、其れに依つて、進歩發達を來したと云ふことは大體に於て異論はない。尤も徳川氏の中頃から出た國學者達は之にさへも反對して、凡ゆる外國から採用したものは、總て日本固有のものよりも劣つた者であり、其れを採用したが爲めに、我國固有の文化を不純にし、我國民性を害毒したと解釋したものもあつた。今日では、其の種類の議論は何人も一種の負け惜しみとして之を採用しないが、しかし、自國文化が基礎になつて、初めから外國文化に對する選擇の識見を具へてゐたと云ふことだけは、なるべく之を維持したいといふ考が中々旺盛である。
 例へば茲に忠孝と云ふ事がある。忠孝と云ふ名目は勿論支那より輸入した語であるが、忠孝と云ふ事實は元來日本國民が十分に具へてゐて、自分が所有せるものに支那から輸入した名目を應用したものと云ふことに解釋しようと欲する傾がある。然しながら之を根本より考へて見ると、既に國民がもつて居つた徳行の事實があり、而して又他方に固有の國語がある以上、何か其の事實に相當した名目がなければならぬ筈である。茲に數を算へるにも日本人は今日では支那より輸入した文字なり、音なりで一、二、三、四と云ふ如き語を使用するが、しかし現に其の輸入語の外に固有の國語である一つ二つ三つ四つと云ふものを有つてゐる。尤も時としては、朝鮮に於て東西南北等の考を表現するに殆ど國語を失ひ、輸入語の變形したものだけを用ゐてゐるやうの例もあるが、それさへも言語學的に考究する時は、南北と云ふ言葉を表す爲めに、昔は前後と云ふ言葉と同一の語を有つてゐた時代があつて、近代までも地方語の中に其の遺つた形を發見せられるといふやうなことがある。然るに忠孝と云ふ語の如きは、日本民族が支那語を用ゐる以前に如何なる語で表してゐたかゞ殆ど發見しがたい。孝を人名としては、『よし』『たか』と訓むが、其れは『善』『高』と云ふ意味の言葉であつて、親に對する特別語ではない。忠も『たゞ』と訓むのは『正』の意味で、『まめやか』と云ふ義に訓するのは、親切の意味で是も君に對する特別の言葉ではない。一般の善行正義と云ふやうな外に、特別な家族的な並に君臣關係の言葉としての忠孝と云ふことが、既に古代に其の言葉がなかつたとすれば、其の思想があつたか否やが大なる疑問とするに足るではないか。是れは單に、目前に知れ易き例を擧げたのであるが、總ての文化的現象が、何れもかゝる關係にあるのではないかと云ふ疑ひを發し得る。之を近年發達した史學考古學等の智識から云へば、其の疑問が滋々多くなつて來る。日本の歴史の起原を普通に神武紀元とするが、其の以後も數百年間は猶傳説の時代で、記録の時代ではない。けれども兎も角神武以後は、神代の事の多くは神話に屬し、其の中から歴史的事實らしいものを拾ひ出すことは餘程困難であるとは異ひ、如何なる地方に、如何なる順序で、民族的團體が形成せられ、其の地方的傳説が隨て出來て來たかといふことを知ることが出來る。其の年代に關して近來の歴史家の多くは、大體耶蘇紀元頃と定めるのが決して空漠たる推定ではない。然るに考古學の進歩によつて漸次知られてゐる遺物は、少くとも其れ以前からのものがある。しかも、其の當時の遺物が、既に明かに支那文化遺物の變形であるといふことを認めしむるものが多い。
 近頃銅鐸に關する研究、古鏡に關する研究等は急速に進歩して來たが、銅鐸と云ふものは大體に於て支那の鐘から變化して、しかも支那人の歸化人でないところの土着民族が、其の意匠を加へて造つたものであると認められる。其の銅鐸の手本となつた支那器物は、何うしても先秦時代から支那民族に用ゐられたものであつて、其の土着民族によつて變形された時代が、已に耶蘇紀元以前であるといふことは幾多の證據を擧ぐることを得る。引續き著しき遺物は古鏡であるが、古鏡の發掘せられたものは、現に前漢時代即ち耶蘇紀元以前のものと考へられるものが、九州の北部、畿内の一部に發見せられ、後漢時代には既に畿内地方に於て漢鏡を變形したところの日本民族製作のものが多數に發見せられる。其の文化の通過した地理上の徑路も漸次明瞭になつて居り、日本民族の一部が朝鮮南部に居住し、其等が既に支那民族の器物を日本化しつゝあつたので、其の後日本の内地に於て更に大なる變化を遂げたと云ふことも漸次明瞭になつて來た。前漢時代に於て既に變形された銅鐸を日本民族が製作した證跡を見るときは、其等のものが變形されずに、支那製作品を其まゝ受取つた時代は、必ず其れ以前でなければならぬのである。然る時は、少なくとも戰國の末年には既に支那文化は日本民族に播及してゐたと見なければならぬ。日本の歴史なり傳説なりに於ては殆ど其の時代に相當した事實を全く有たず、支那文化が最初に日本民族に及んだ時代は、未だ日本民族は國家らしき團體を形成して居なかつたと斷言するを得る。是れは單に日本民族に依つて其の事を知り得るのみならずして、支那文化を受けた支那の周圍にある各種族は、殆んど皆是と同一の徑路を採つて居ることが餘程有力なる傍證になるのである。例へば、高句麗、三韓の如きそれであつて、高句麗國は、其の形づくられる前に、先づ其の地方が支那の行政的支配を受けてゐた。即ち高句麗國は遼東の一部分、今日の滿洲の興京地方で初めて國を成したのであるが、其の國を成さない時分、既に漢では其地方に玄菟郡の高句麗縣を置いてゐたので、前漢の末期、支那の統治力が一時弛んだ時に、初めて支那の行政區域内に半ば獨立した土民の部落が出來、それが漸次に發達して後の高句麗國となつたので、其れは即ち王莽時代のことである。其れでも高句麗國は朝鮮民族中には最も早く國を成したので、當時三韓地方は未だ全く國を成さなかつた。三韓の諸國が初めて國を形成したのは、多分後漢の中頃からであらうと思はるゝので、其の時分漢では朝鮮全部を郡縣として、其の行政區域内に包括してゐたのであるが、後漢の中頃以後、統治力が弛んだが爲めに、茲に初めて三韓の七十餘國と云ふ多數の小部落が形づくられたのである。尤も其の以前、即ち漢が朝鮮を郡縣にしない前、既に支那の亡命者に依つて形づくられた朝鮮國があり、又更に其の以前にも箕子の朝鮮と稱するものがあつたと謂はれてゐるが、しかし、此箕子の傳説は前漢時代の支那歴史には甚だ不確實に記されてあるので、箕子以來の系統を延いた國が長く續いたと云ふ事實は、三國の時になつて初めて記録に現れた。縱し夫れが事實であつたとしても、其れは矢張り戰國の時、燕國の文化に刺激されて、始めて起つた傳説で、其以前から朝鮮民族が有つて居つた祖先傳説でないことは、支那内地の呉とか、燕とかの傳説と同種たるに過ぎない。やはり戰國時代に支那文化の及んだ後に出來たところのものである。
 日本民族の國家成立は、殆ど高句麗と同時代であると考へられるので、三韓よりも早く開けてゐるが、兎も角其の民族が國を形成した徑路は殆ど同一である。勿論日本は高句麗、三韓の如く一度支那の領土になつた後に初めて民族の自覺を來したのではなくして、單に支那人が日本内地に移住し、若くは海上交通には民族形成以前から、特能を有つてゐた日本民族が、朝鮮支那の沿岸で、支那民族に接觸して、其れから民族形成の方法を學び、多少は自發的に國家らしきものを創建したのであつた。故に民族の搖籃時代から其の素質が朝鮮人よりかも優秀であつたと云ふことが認め得られる。譬へて云へば、從來の日本の學者の解釋の方式は、日本文化の由來を、樹木の種子が最初から存して、それを支那文化の養分に依つて栽培せられたと云ふやうに考へるのであるが、余の考へるところでは、例へば豆腐を造る如きもので、豆を磨つた液の中に豆腐になる素質を持つてはゐたが、之を凝集さすべき他の力が加はらずにあつたので、支那文化は即ち其れを凝集さしたニガリの如きものであると考へるのである。又他の一例を擧げて見るならば、兒童が智識となるべき能力を自然に具へてゐるけれども、其れが眞の智識となる方式は、先進の年長者から教へられて初めて出來たと同じである。
 斯くの如くして、支那文化によつて日本文化が形成せられる時代は隨分長きに亙つてゐるので、政治上社會上其の進歩が徐々に完成して行つたのである。國民が或る他の文化を繼承しても、或る時代になると自覺を來すのが普通で、日本に限らず支那の附近にある後進民族は、例へば漢代の匈奴の如きも、支那文化の刺激によつて民族を形づくつた以上は、民族の獨立といふ自覺を生じた。即ち、漢の初めに於いて、既に匈奴は漢の皇帝に對して、自ら天の置くところ、日月の照す所、匈奴の大單于と云ふやうなことを唱へたのであつて、日本でも聖徳太子の時、初めて支那に對して、日出る處の天子と稱して對等の語を用ゐた。以上の如く國民の自覺は常に政治的に最も早く生ずるが、眞の文化的思想的に自覺を生ずるのは是より遙に遲れるのが常である。時としては自覺を生ぜずして終つた國もある、朝鮮の如きは夫れである。日本民族は流石に或る時代には思想的自覺を生じた。其れは自分の見る所では蒙古襲來が最大の動機を爲したので、南北朝から以後、極めて徐々に文化的思想的の自覺を生じつゝあつて、最近支那以外の文化並に思想を承け入れることになつてから、完全に支那に對して思想的に獨立したのである。しかし今日でも眞の日本文化が完全に形成せられてゐるや否やは頗る疑問であつて、思想の如きも、支那思想の拘束からは殆ど脱せんとしてゐるけれども、同時にまた西洋の思想の拘束を現に受けつゝある。文化の極度は藝術に於て著るしく現るゝものであるが、日本の繪畫に徴して之を見るも、古き支那繪畫の拘束は百年ばかり前から之を脱せんと努めたのであるが、縱し支那藝術の拘束を脱しても、其れが支那藝術と對抗する程の高い程度のものでなくして、單に支那藝術に地方色を加へたに過ぎないものであつては、眞に自覺し且つ獨立したものと云ひ難い。日本の寫生派の藝術の如きは、即ち其れである。しかも亦、最近に至つて其の藝術が動もすれば西洋畫の拘束に囚はれんとする傾きがあり、眞に日本の藝術の獨立は前途猶遼遠なる心地がする。尤も他國の文化の拘束を脱しないからとて、民族の生活を向上し、また其れを他の劣等な民族に感化を及ぼし、或は自己より先進の民族にさへも、却つて感化を及ぼすと云ふことは、絶無と云ふことはなく、時としては、其れを以て自己の民族の文化だと考へることあるも、其れは嚴密に云へば決して民族自發の文化とは云ひ難い。
 斯く歴史的に日本文化の由來を考へると甚だ心細い感がする。しかし、是はまだ民族の若い爲めであると考へ、將來眞に成熟期に入るのであると考へれば、前途の希望は、また大なるものあるとも云はれる。たゞ前述の如く民族は必ずしも幼少から老年まで順當に發達するとは限らない。苗にして秀でず、秀でゝ實らざる民族があるので、日本民族を斯かる不幸の運命に遭遇せしめず、順當なる發達を遂げしめ、世界の文化に貢獻すべき一大勢力となすのが我々の責任である。
(大正十一年一月五日―七日「大阪朝日新聞」)





底本:「内藤湖南全集 第九卷」筑摩書房
   1969(昭和44)年4月10日初版第1刷発行
   1976(昭和51)年10月10日初版第3刷発行
底本の親本:「増訂日本文化史研究」弘文堂
   1930(昭和5)年11月
初出:「大阪朝日新聞」大阪朝日新聞社
   1922(大正11)年1月5日〜7日
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年10月24日公開
2016年4月20日修正
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