平安朝時代の漢文學

内藤湖南




 平安朝の前半期には專ら漢文學が行はれ、後半期には國文學が興つたが、此の國文學が興つたのは漢文學の刺激に依るのである。大體日本の文化は支那文化の刺激によつて發達したのであるが、然し文化を生育すべき素質は初めから日本にあつたので、此の點は他の支那に近い邦々と異つて居る。即ち朝鮮には我が假名の如き諺文があるが、少數の歌謠の外、諺文文學といふものが遂に發達しなかつた。これを公に用ふる事になつたのは日清戰爭後の事であつて、かゝる事は古來數千年間無い所であつた。其の他の國は申すに及ばない。只日本のみは日本文學を有して居たのであるが、然し支那よりは後に發達した國であるからして、支那の刺激を受けたのは亦已むを得ぬ次第である。
 支那の文化が日本の文化に影響した事を知らうと思へば、先づ制度の方から知らねばならぬが、平安朝には專ら唐の制度が日本に行はれ、大學の制度もやはり唐の摸倣であつた。唐では國子監で大學の事を司つたが、日本では大學寮で之れを司つた。此の大學といふ名は漢の制度の名を取つたのであるが、其の制度の内容は全く唐の制度に依つたのである。唐の國子監は國子學と太學と四門學とに分れ、各博士あり助教があつて、廣く貴族より平民に至るまでの子弟を收容した。即ち國子學は三品以上の貴族の子弟、太學は五品以上の貴族の子弟、四門學は七品以上の貴族及び庶人の子弟を入れた。此の庶人の子弟であつて四門に入る者は、俊士生と云ひ、全くの平民であつたが、日本では學令によると平民を入れる事はなかつた。之れは平民が未だ大學に入る程には發達して居らなかつたからである。又日本の大學の教科目は如何と云ふに、明經道、紀傳道、明法道、算道、書道、音道等であつて明經道では九經(三經、三傳、三禮即ち詩經、書經、易經、公羊傳、穀梁傳、左氏傳、周禮、儀禮、禮記)を研究し、紀傳道では史記、漢書、後漢書を研究し、この方は史學であると共に文學であつた。明法道とは法律學で音道とは字音學であるが、此の音道は支那へ遣唐使留學生を派遣するために必要であつたのである。
 當時日本固有の文化と云ふものは未ださう進歩して居らなかつたからして、從て日本固有の學問と云ふものも無く、大學の學生は初めから支那の學問をしたのであつて、今日の支那人でも感心する樣な立派な漢文を既にその頃の日本人が書いて居るが、今日我々に此れ程の漢文を書けと云はれても書けない。それは生れるから直ぐ支那の學問をすると云ふ樣な境遇に居らないからであつて、恐らく西洋の文學をやる人でも、此點は同じで、王朝の漢文と同程度の英文なり、獨文なりを書くことは困難であらうと思ふ。
 此の時代の特色は純日本種の學者が出て、學問の家業が出來たと云ふ事である。奈良朝の學問は歸化人の學問であつて、懷風藻の作者の中でも其の四分の一以上は歸化人若くは其の子孫であつたが、平安朝の學者の大部分は日本人であつて、歸化人では無い。さうして支那に於ては六朝より唐にかけて學問は貴族の學問であつたが、支那の氏族制度と云ふものは遠く既に三代以後其の跡を絶つて仕舞つたから、六朝より唐へかけての貴族は、三代の如く官氏としての家業を有するものでは無く、只地方の豪族たるに止つた。それ故唐の大學は隨分學者文人を出すには出したけれども、學問が家業となつて仕舞ふと云ふ樣な事は少なかつた。只歴史の學問に於ては親子相續する方が便利であつたからして、六朝から唐初には歴史を家業とする家が有つたが、之れは例外であつて普通學問を家業とするものは無かつた。所が日本では其の頃は丁度氏族制度の尚遺つて居る時代であつたからして、終に學問の家業が生ずる事になつた。主に平安朝の中期より末期にかけて家業を生じたが、中でも菅原大江の二家が紀傳道を家業とすることになり、清原中原の二家が明經道を家業とする樣になつたので、又中原氏には明法道の家もあり、それが今日の五條、坊城、清岡諸家の紀傳道、舟橋、伏原二家の明經家などを生じたのである。
 當時學問の造詣は如何と云ふに、都良香が貞觀十八年に大極殿が燒けた時に廢朝の事を議した文や、又元慶元年に夜の日食に就ての建議などは、いかにも其の該博を見して居る。一體春秋三傳の内では後世には左傳のみが主に讀まれるものであるが、當時の學者は公羊傳、穀梁傳などにも精通して、特別に公羊の學者といはれる人などがあつた。良香の夜の日食の議などは、其の穀梁傳に精しかつたことを示す者である。元來日中に蝕がある場合には天子は之れを忌んで政事を執る事を止められるので其れは誰でも知つて居る事であつたが、夜中の蝕の場合には、如何の處置を取る可きかに就ては前例が無かつた。それで此れを臣下に諮られた所が直ちに此れに就て良香が議を奉つたのである。春秋の莊公十八年三月に夜の日食があつたが、三傳の内、左傳も公羊傳も夜の日食だといふことを知らなかつた。之を夜の日食と解したのは穀梁傳のみであるが、良香は之れを證據にして建議したのである。之れは一例に過ぎないが、しかし之を以て見ても、當時の學者の學問の造詣は中々深かつたものと思はれる。
 詩文も延喜頃までのものは中々立派であるが、大體朝廷の儀式に關する實用的のものが發達し、純文學の方は支那のものに較べて見劣りがする。さりとて之れは日本人の才の劣つて居る爲では無く、一に境遇に依る事である。其の證據には阿倍仲麿などは支那詩文の全盛時代即ち盛唐の時代に、李白、王維等と同等の交際をして居るし、又其の詩も僅かに一首遺つて居るのみであるが、支那人のものと肩を比べる事が出來る。此れは彼が早くより支那に行つて居つたからであるが、長く支那に居らなくても入唐したものゝ詩文はどうしても入唐しないものゝ詩文よりはよろしいやうに見える。例へば菅原の家にしても菅公の祖父清公は入唐したからして菅公のものに較べるとよろしい。序ながら菅原家は編史事業に關係したのであるが、其の續紀等の序文は之れを唐文粹、文苑英華等の中へそつと入れて置けば、支那人が見ても日本人の作と云ふ事が分らぬ程巧いものである。
 平安朝時代の詩文の集は凌雲集、經國集、文華秀麗集、本朝無題詩、本朝文粹、朝野群載等であるが、此の頃唐では詩風の變遷があつたのを日本人は如何に受け入れたかと云ふ事を述べて見よう。白氏文集は嵯峨天皇の時から行はれたと云ふ話もあるが、それは極めて稀であつたであらう。白樂天は同時代の元微之と共に一種の體を成し、之を元白體とか、或は其時代により長慶體とかいつて、その詩は頗る解し易いので、日本でも後には大いに喜ばれたのであるが、未だ嵯峨天皇の御製等の中には其の詩風を受けたものは無い。大體唐詩の時代を初唐、盛唐、中唐、晩唐と四つに分つ中、嵯峨天皇の御製などは專ら盛唐風の詩を作られたのである。白樂天、元微之の存在は其の頃より知られては居つたであらうが、丁度其の頃入唐した弘法大師も元白の事に就ては何も云つて居ない。それは大師の入唐は徳宗の貞元の末頃から、憲宗の元和の初までゞあつて當時元白體は未ださう盛んではなかつたからである。穆宗の長慶年間に元白の詩文集が出てから初めて有名になつたのであるが、此れは大師が日本へ歸つた後であつて、時は恰も弘仁の末頃であるから、嵯峨天皇の時には元白集は珍らしく、天皇が御覽になつた位のことで、一般には未だ行はれなかつたと云はねばならぬ。此の元白體が有名になつた頃から、支那在來の詩風は一變したのであるが、日本では未だ其の影響を受けなかつたのである。影響を受けたのは菅公の頃であつて、菅公は元白體の詩を作つたのである。然るに菅公の頃に支那では又もや晩唐の温李體なる詩風が行はれ、温庭※(「竹かんむり/(土へん+鈞のつくり)」、第3水準1-89-63)(飛卿)李商隱(義山)等が有名であつたが、菅公は温庭※(「竹かんむり/(土へん+鈞のつくり)」、第3水準1-89-63)の集を已に讀で之を愛せられたとの事であるけれども、菅公の詩には温李體のものはあまりない。温李體の詩は菅公の孫文時などが此れを作つたのである。當時は遣唐使等が支那へ渡り、彼我の交通は有つたのではあるけれども、日本の流行はどうしても支那の流行よりは五六十年後れたのであつて、斯かる事は支那日本の文化の關係上面白い事である。
 次には平安朝時代に出來た書物の事に就て少し述べよう。勿論それは澤山あるが、今述べるのは現存して支那の學者に珍重される二三のものを撰り出したのである。其の一は弘法大師が詩文の作法を書いた書物に文鏡祕府論と云ふのがある。此れは今日では實に世界的の著作となつたのである。其の譯は唐の時には詩の作法やかましく、其れに關する著書も多かつたが、其れは主として試驗に應ずる爲であつたからして、詩賦に依て試驗する制が廢せられた後には其の作法も自然廢れる樣になり、書物も段々殘らなくなつたのであるが、幸ひ日本には大師が此書を書いて置いたので、唐の時代の詩文の作法に關する支那にもなくなつた著述が殘つて居るのである。又文鏡祕府論の中に唐の河嶽英靈集の事が見えて居るが、此の詩集などが日本の平安朝の詩集などの手本になつたのである。平安朝の後半期になつて、本朝文粹といふ文集が出來た、これは多分支那の唐文粹の眞似である。唐文粹は宋の眞宗の大中祥符四年に成つたが、これは日本の一條天皇の時であつて、本朝文粹の編者たる藤原明衡は之より四五十年おくれて居るから、唐文粹をまねて作つたといつても至當であらう。又續本朝文粹は平安朝後期の代表作を集めたものである。其の他各家の家集なども唐の家集を學んだのが多い。
 唐招提寺の開山、鑑眞和尚は唐の名僧であつたが、日本へ來て戒律を傳へた。途中海南島へ漂流したり色々と難儀の揚句、日本へ來たが、其の傳記を淡海三船が作つた。三船は少い時出家して元開といつたが後還俗した。此人は弘文帝の孫に當る人で、神武以後歴代の諡號を撰した有名の人である。此の傳記は寶龜年間に出來上つたから、奈良朝から平安朝への過渡期の著述の代表である。よく書いてある割に人にあまり注意せられない本であるから、一寸紹介して置く。
 當時日本人の著で支那人に誇り得るものがある。其れは祕府略である。祕府略は滋野貞主の編纂であつて一千卷あつたが今日僅かに二卷を殘すばかりである。其れは當時の寫本であつて前田家に一卷、徳富蘇峰家に一卷あるが、共に壬生官務の藏本であつたものである。一體、類書と云ふものは詔勅誥令其他の詩文を作るために、六朝、隋書で盛んに利用せられたものであるが、之れは日本に於ても同じであつた。唐代には梁代に出來た華林遍略(六百二十卷)北齊に出來た修文殿御覽(三百六十卷)及び唐になつてから出來た藝文類聚、初學記、北堂書鈔、白氏六帖等の書があり、日本の學者も此等を引用したが、祕府略はかゝるものを集めて作つたものである。其の後、宋の太宗の時、大平御覽(一千卷)が出來て大いに珍重せられたが、此れは矢張り唐代の類書を集めて作つたもので、其の卷數も體裁も祕府略と全く同樣であつて、實は此の樣なものならば百五十年も以前に日本人が作つて居るのである。今祕府略の中では百穀、錦繍の部が殘つて居るが、大平御覽と比較して祕府略の方が詳しい――同じ卷數で以て而も詳しい處を見ても、當時編纂の大仕掛であつたことが分るので、吾々日本人は甚だ愉快に感ずるのである。
 又文選集註と云ふ書物が有る。文選は平安朝に行はれたものであるが、其の註を集めたものが集註であつて、集註は初め百二十卷としたものであらう。一般には流布せず、永く武州金澤の稱名寺にあつた。文選には唐に至るまでに既に多くの註釋が出來て居たが、後多くは無くなつて、李善註、五臣註だけが殘つた。所が集註には今殘らない所の此れ等多くの註釋を引用して居るのである。文選集註は天歴頃のものであるが、支那の著述目録は勿論、當時日本にある支那書籍の總目録たる日本國現在書目にも、其の名は見えないからして、確かに日本人の作つたものであらう。之はやはり編纂物とはいへ中々の大著である。今は明らかに知れて居る分が二十卷ばかり殘つて居る。
 支那には歴代の正史に大抵藝文志とか經籍志とか其時代の書籍目録があつて、此れに依て或る時代にどんな書物が有つたかと云ふことを知ることが出來るのであるが、唐代の書物を知るには先づ隋書經籍志、新唐書藝文志、舊唐書經籍志に依る外は無い。所が唐代と云つても中々長い間であつて、隋書經籍志と新唐書藝文志との間には、大分永い年數がたつて居るのであるが、丁度日本で出來た日本國現在書目と云ふのが其の中間に在るので、此れに依て隋書經籍志、新舊唐書藝文志に見えない唐代の書籍を知り得るのである。此書目の由來は、弘仁の頃からあつた冷然院といふ藏書の處が燒けたので――此時冷然の然の字が火に從ふので燒けたといつて冷泉院といふ水に從ふ字に改めた――其の後復た書籍を集めた時、今度集めた藏書目録を作つて置く必要があると云ふので作つたのが此の日本國現在書目で、宇多天皇の寛平頃に出來たものらしい。此書目は支那の目録學家にも大に珍重されたものである。又舊の冷然院の藏書中今日に至るまで燒けずに殘つて居るものゝ中に、文館詞林と云ふ書がある。此の書は唐の初めに編纂され、一千卷の大部のものであつたが、宋の初め頃から既に失せて仕舞つた。今から百餘年前、大學頭林述齋がその中四卷を出版し、佚存叢書中に收めて支那に渡し、支那の學者を驚かした事がある。殘つて居る分が全部三十卷ばかりで、高野山にあるものが原本の大部分である。
 最後に漢文學の國文、國語に對する影響に就て述べよう。先づ日記類でいふと、元來日記は漢文で書くものと定つて居つたが、紀貫之が之を眞似てから土佐日記等の國文日記が現れた。又紀貫之の古今集序は元と其の姪淑望が漢文で書いたのを貫之が國文に直したものが國文の初めとなつたのである。斯く國文は漢文の趣向から發達して來たものであるが、此れ等は何人も知つて居る所であるから今は略してもつと外の事を述べて見よう。又國語に關することであるが、日本の五十音は梵語學の影響を受けて發達して來たものであつて、弘法大師よりは後に出來たものである。吉備大臣の作つたものとする説があるけれども、其の頃、日本で梵語を知つて居る筈は無いから其の説は誤りである。一體支那の音韻學も、日本の語學も、梵語學から影響を受けた事が頗る大であつて、支那では字母の事が唐の時分から大分やかましくなり、三十六字母を作り、口の開合によつて此れを四十一に分つたが、支那の三十六字母の列べ方も、日本の五十音の排列の仕方も全く同樣であつて、共に梵語學から影響を受けた事を知るのである。此の支那の三十六字母は韻鏡の基となつたものであつて、音韻學は勿論支那自身に於ても漸次に發達して來ては居つたが、梵語學が入つてから、初めて明確になつたので、日本も同樣である。日本の五十音は支那へ行つて、梵語なり、梵語の影響によつて明確となつた支那音を研究した人によつて作られたので、斯樣に研究せられて、非常に明確になつた音を日本人が學んだから、日本の音も次第に明確になつて來たのである。それに就きて自分は嘗て某博士の陸奧の國名に關する意見を批評したことがある。某博士は陸奧を「ムツ」と訓むのは、元來「ミチノオク」といはれたのを東北音の訛りで、「ムツノオク」と發音せられ、更に「ムツ」と略されるやうになつたとの意見であつたのに對し、自分は東北人のみならず、古代に於ては近畿地方にても「ムツノオク」と發音したのである。近江國の竹生島は今「チクブシマ」と發音するが、延喜式の神名帳によれば都久夫須麻ツクブスマノ神社とある。又信州に千曲川といふ大河があつて、今「チクマ」川と呼ぶが、古へはかの地の郡名を筑摩ツカマノ郡といふから、の音でなくの音である、筑紫をツクシと讀むなども思ひ合はすべきである。つまる所古代は列と列との音に明白な區別がなかつたので、ウヲをイヲともいひ、或る地方では上野ウハノをイワノと發音するなど、皆其の例で、列から列に訛つたのでもなく、列から列に訛つたのでもない。これは列と列とでも同樣の例があるので、上宮聖徳法王帝説に等已彌居加斯支移比彌乃彌己等トヨミケカシキヤヒメノミコトとあるのを見れば、彌の字はにもにもなるので、其の區別が判然しなかつたことが分る。今日關東以北の人が、活用言のヒとヘとをよく誤り、石をエシと發音するなど其遺習である。甚しきは有りといふ活用言のリとルとが通常前者が終止言で、後者が連體言となつて居るのを、古代にはリを連體言とした例が、吉澤博士の研究せられた大唐玄奘三藏表啓の中に「恩ヲ冒セリコトニ」云々とあるので知られる。舊式の國語學者は、よく五音相通といふことで此樣の問題を解決して居るが、五音相通といへば、五音が各々獨立して成立つて居りながら、相通ずる變則があるやうに聞え、所謂りといふ原則を插む餘地があるが、自分は寧ろ古音に五音の區別が明確でなかつた爲であると解釋したい。支那の音韻學に重要なる新研究を成した顧炎武は、やはりかやうな場合に一種の原則を立てゝ、古人韻緩、不煩改字、と稱して居る。これは元來唐初の陸徳明の説に本づき、宋の呉才老などの叶音説、即ち日本でいへば、五音相通説から脱却して、古音が不明確であることを發明したのである。而して此の不明確な古音が、だん/″\明確になつたのは、五十音圖の如き者が出來た爲であつて、近畿其他の地方は其整理された五音によつて精確に發音するやうになつたが、東北地方などは依然として古音を保存して居つたのである。それ故奧州音は取りも直さず、今以て近畿地方人が古代に發した音をそのまゝ發して居る者と思へば間違ひないのである。處で此の五十音は果して梵語學から直接に國語を整理する爲に作られたか、或は其間に支那の音韻學の仲介を經て影響を來したかといふに、それは後者の方が事實であると考へられる。日本で古代梵語學の大家たる安然の悉曇藏などでも、いづれも梵語學の説明として支那の反切即ち九弄音紐といふやうなことを借用して居る。反音鈔などいふ書には此の關係を十分にあらはして居る。多分唐代に留學した日本僧が、彼邦で梵語學によつて支那の反切を整理し、三十六字母、開口、合口等のやり方、即ち後の韻鏡學の基礎が定められた状態を呑み込んで來て、其法を日本語學に適用したのであらう。して見れば正確な國語學の基礎たる五十音はやはり漢文學の影響に因て出來たものと言つて差支ないと思ふ。
(大正九年八月史學地理學同攻會夏季講演會講演)





底本:「内藤湖南全集 第九卷」筑摩書房
   1969(昭和44)年4月10日初版第1刷発行
   1976(昭和51)年10月10日初版第3刷発行
底本の親本:「増訂日本文化史研究」弘文堂
   1930(昭和5)年11月
初出:史學地理學同攻會夏季講演會講演
   1920(大正9)年8月
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年11月14日公開
2016年4月20日修正
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