敬首和尚の典籍概見

内藤湖南




 日本に目録學なし。目録や解題の書は相應に古き世より之あり、漢籍にては日本國現在書目、佛書にては八家の將來録などより、信西入道の藏書目、清原業忠の本朝書籍目録、これらは古書を考ふる者の缺くべからずとする所にして、徳川時代に入りては林道春父子の日本書籍考、經典題説が解題の嚆矢となりしより、遂に支那人をして其の名著に驚かしめたる經籍訪古志のごとき者さへ出づるに至りたり。故に目録の書は觀るべき者少しとせざれども、目録學の書に至りては、殆ど之あるを見ず。
 蓋し目録學は支那に在りて、特別の發達を爲し、二千年前に於て劉向、劉※(「音+欠」、第3水準1-86-32)父子を生じ、其後之を祖述したる者は間出すれども、要するに二劉の上に出づる者なし。其の精神は著述の流別を明らかにするに在りて、單に簿録部居を爲すに在らず。是れ支那の如く、あらゆる學問を歴史的に考察する特種の傾向ある國に相應して成立すべき者にして、專ら分類的に整理せんとする取扱の下に成立すべき者にあらず。故に支那に於て有益なる目録を編製せる學者にても、目録學の本旨に合せる者は至て尠しとせらる。我邦にて此學を爲せる人の曾て之なかりしは異しむに足らず。現今の如く大小の圖書館、到る處に設立せられて、圖書館學が優に一科の學を成せる時に於てすらも、此の支那の古き、發達せる目録學に無關心なることを免がれざるは、是非もなき事と謂ふべし。
 されば一人にても半人にても、此間に目録學らしき者を爲したる人あらば、之を空谷の跫音とせざる能はざるなり。余は敬首和上の「典籍概見」を以て、我邦に於ける殆ど唯一の目録學書として推薦せざるを得ず。此書は寶暦四年、和上の滅後六年に刊行されたる、本文僅かに廿七葉の小著述に過ぎざれども、我邦に於て苟くも著述の流別を理會して、書籍の綜括的批判を爲したる、此書の如きは罕なり。和上は淨土宗にて戒律の復興に功ある碩學なるが、此書は全く儒道二教の典籍のみを批判して内典に及ばず。芝山の大梁師の序文によれば、別に佛法大意の著ありて、釋典を論じたるが如くなれども、其書今存するや否やを知らず。又其書は自ら筆を執りて記述したるにあらずして、其の弟子天心の筆記に成り、而も其の歿後に刊行せられたれば、往々筆者の誤と見ゆる處あり。(例へば支那の府志の中に雍州府志を擧げ、呂氏春秋の注者高誘を※(「滴のつくり」、第4水準2-4-4)誘と記せるが如し)時として著者の意見にも如何はしく思はるゝ節もなきにあらざれども、要するに其の人に絶せる炯眼を具して、博覽の餘に自然に著述源流の學を、髣髴として把捉し得たる者なることは、疑ふべくもなし。
 今その書中、緊要の章句を少しく抄録せんに、云く、
一切の書を見るには先づ題號を解するを簡要とす次には其の書の部類を分別すべし
是れ目録學の綱領を摘出したる者なり。又云く、
史通。文心雕龍。筆叢は常に左右を離ことなかれ中にも筆叢は書の中の寶書也學者これを讀ば知識十倍すべし
 支那にては明の中世、揚愼、陸儼等より以來、史通、文心雕龍二書を愛好する學者多くなり、最近、張之洞の※(「車+鰌のつくり」、第3水準1-92-47)軒語等に至るまで、史學、文學の門徑として之を推稱したれども、我邦にて之に注意したる學者は幾んど之なきに、敬首和上のかくも此二書を推稱せるは、以て其の讀書眼の卓拔なるを見るべし。胡元瑞の筆叢は、其の書き方の氣のきゝたる割合に、内容に乏しき書なれども、其の博覽にして能く之を要約せることは、明代の一人ともいふべき人なれば、和上の如き頭腦の鋭敏なる人が之に惚れ込みたるも無理ならず。ともかく其の渉覽せる萬卷の書中より、此の三書を擧げて門弟等に示せるは、和上の非凡なる識見によるものといふべし。次に目録の專書としては、崇文總目、鄭樵の藝文略、焦弱侯の國史經籍志を擧げたり。而して佛教の目録に就ては
佛者一代藏經と名て其目録あり甚だ非なり予此れを正むと欲す
といはれたるは、その單に索引を主として著述流別の原則に合せざるを遺憾とせられし者ならん。又
中華の書には一種に頗る多板あり故に一板を見て即ち是とすべからず必ず善本を得て校合すべし
といはれ、既に校勘學の必要を説かれたり。尤も校勘學に於ては、儒家に於て徂徠門下に當時已に山井、根本諸人の如きあり、佛家にも忍澂和上の如きありたれば、此の一事は敬首和上の特見とし難し。其外
注に本文とをし並べてことの外大切にする注あり
とて王弼老子注、郭象莊子注、張湛列子注、※(「麗+おおざと」、第3水準1-92-85)道元水經注、裴松之三國志注、劉義慶世説注、李善文選注、王逸楚辭注、高誘呂氏春秋注、王肅家語注、韋昭國語注を擧げ、皆本文と光を爭ふといひしなども、近世支那學者と同じ程度の識見を有せりといふべし。
又云く
字書と雜記の書と類書との三類は常に能々看讀すべし其の中雜記の書は尤も翫味すべき者也一には見識を増し二には事實を知り三には經史子集を見るに甚だ助とす
といひ、雜記の書は、容齋隨筆、夢溪筆談の如き者を指したれば、和上は已に考訂を知りしなり。類書としては三通、又大平御覽、册府元龜、文苑英華を三大書とし、藝文類聚、初學記、北堂書抄を唐の三書として擧げたるなど、皆其の選擇の當を得たるを見るべく、本草學、脈學、醫方學を專門の學とし、醫は暦術と同じ後世ほど委くなるべしといへるも、學術に對する理解の非凡なるを見るに足る。又
凡そ書籍に僞書多し關尹子。墨子。鬻子。晏子春秋等の書は恐は後人の僞作也眞書には非ず
といひ、
近代中華より來る所の藏經の中語録相ひ半ばせり此れ乃ち塵芥を以て金文を汚せり
といへるは、並びに極端に失するに似たれども、又見得て透徹せる處なきにしもあらず。
佛書の中天台と慈恩と一行とは別に一格ある用意の書なり此の三書は尤も大事なり一行の書は易老子の如し慈恩の文は楊子法言太玄經の如し天台の書に又一格あり此の三書の格は甚深の口傳あるべし唯授一人の祕法なり筆示すべからず云々
とあるは是れ其の獨得を言明せる者なり。和上は元來、佛教各宗の批判に就きて、一流の獨見あり。達磨の立は佛法には非ず、天竺一箇の富蘭那の見なりといひ、凡そ佛法所立の人師の中にて、智※(「凱のへん+頁」、第3水準1-94-1)法師一人少し目開き申候然れども大に大途を取損はれたり、千歳以來此人の性具にばかされ申候といひ、淨土宗の事、法然の立大に誤る、是は大錯中の大錯なりといひ、玄弉の立の事、此師大概よし、是又天台と肩を並ぶる目のあきたる人也といひ、天台慈恩は佛法の大綱を半合點半不合點、達磨不空は一向不合點なり、南山法藏吉藏はねから不知して綱目を大綱かと思ひし者なり曇鸞、道綽、善導は一向に不分明なりといひ、天親以來正見なく皆是生死の人と見え申候といひ、眼千古を曠しうせる人なれば、かゝる口傳を説くも、必ずしも空言にあらず。又
新羅より出る書容易に看過すべからず……中國の人夷情を得ぬが故に此を知らず予日本に生して夷情を得たり中國の人情は海の如し新羅高麗の人情は海と川との堺ひ目の如し日本の人情は川の如し此は且く佛書を云若し俗書は不爾甚だ野鄙なり本と文なき邦なるが故に佛書は理の甚深を云故に一奇特の文體をなす者なり
といふが如き、國民性により著述の特色あるを看破せる者にて、別に一隻眼を具するに非れば能し難き所なり。
 此書の如き寥々たる短篇中に、其の鋭利なる批評の閃めきを見せること、此書の如きは邦人著述中、有數のものにして、別に何等の組織的思想なくとも、以て珍とするに足るべきに、其の目録學の根柢を有し、確乎たる法式によりて批判せること、上の如くなれば、余は之を讀書人に推薦して其の一讀を勸めんと欲す。
 書中に又
書を多く聚るを人中の賢者とすべし
といひ、聚書讀書の利益を説きたるは、和上自身が數萬卷の藏書を有せしにもよるべけれども、其の讀書が一貫せる批評眼によりて要約され、徒らに博洽を誇りしにあらざることを知るに及びて益々其の貴さを加ふべし。
 余は已に數年前に於て、此書の原刻本を獲たるが、本年二月、大阪の某書肆の目録に、復た此書を載するを見、大阪に此書の眞價を解する讀書人ありや否やを徴せんが爲に、試みに再び之を注文して、其の存否を驗せしに、日ならずして再び此書の第二本を獲たり。僅かに參圓五拾錢を費して、大阪二百萬市民の讀書眼を試驗し得たるは、豈に廉價至極ならずや。呵呵
 附記 敬首和上の傳は淨土宗全書第十卷、略傳集中に在り就て見るべし。
(大正十五年十月「典籍の研究」第五號)





底本:「内藤湖南全集 第十二卷」筑摩書房
   1970(昭和45)年6月25日初版第1刷発行
   1976(昭和51)年10月10日初版第2刷発行
初出:「典籍の研究 第五號」
   1926(大正15)年10月
※底本のテキストは、著者の生前の計画では「目睹書譚」の巻頭に入れてあったが、内藤乾吉によって底本の附録とされたものです。
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年9月24日公開
2016年4月21日修正
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