石川啄木の代表作は和歌にある。或る人の言はるるには、啄木の作品のどれを見ても深みが乏しい、もつともつと深みがなくては
これは啄木の北海道時代の頃の作だが、啄木の作中でも優秀なものと思ふ。この作品なぞもヒントばかりで捉へどころが浅いと思ふだらうが、この浅いと思ふところに限りなき深さがあるのが韻文で、散文にばかり没頭してゐるとその深さが判らなくなつて仕舞ふ、一口に言へば韻文は散文のやうに言はんとすることを細大漏さず言ひつくし、思ふことを細々と並べつくすものではない、そこに韻文と散文の違ひは区別される、くどいやうだが和歌は韻文であり、詩も韻文である。
啄木も生存中は、今日世人の考へるやうな優れた歌人でも詩人でもなかつた、普通一般の文学青年に過ぎなかつた、死後に名声が出てその作品も持て囃さるるやうになつたのだが、それも同郷の先輩金田一京助氏と土岐善麿氏の力と言つてもいいと私は思ふ。この両氏は函館の岩崎
私が初めて啄木と知り合つたのは、北海道の札幌である。今から三十数年の昔で明治の終り頃であつたが歳月の記憶も失念してゐるし、記憶も全く薄らいで仕舞つたが
その当時は、先年亡くなられた坪内逍遙先生が学校(早稲田大学)にをられて学校出の青年は先生の推薦によつて
『君の希望してゐる新聞社が札幌にあるらしい、大した新聞ではないか知れぬが、梅沢君を訪ねて行くやうに』
と、あつた。梅沢君と言ふのは、同じ早稲田の先輩で西行法師の研究家として知られてゐた梅沢
『札幌の大した新聞ではないが、社長の伊東
九段上の旅館(名は忘れたが招魂社の傍)で社長の山華氏に会つた。成る程志士的気慨の溢れてゐるやうな人で、言語も態度も
『北海道にはアイヌが居るからアイヌを主材としたものを書く方が良い』と御注意をして下さつた。
『これは僅だが、汽車中の弁当料に』と紙に包んで餞別を呉れたが『また東京へ来たらお世話さんになるですから』と無理に辞退して帰つた。東京には知人も友人も沢山居るが、余り突然なので人見東明氏と関
汽車の中は社長の山華氏と二人切りで、翌日の午後に青森に着き、連絡船で函館に渡り再び汽車で札幌へ着いたのである。
私の札幌での居所は山華氏の紹介によつて大通りの花屋と言ふ下宿屋であつた。今は電車も出来てゐるが其頃は電車もない、大通りと言ふのは開拓当時火防の為めに作られた防火線であつて道路の中央は広い草原で東西に長く続いてゐる、この草原を中に挟んで両側に
ある朝、夜が明けて間もない頃と思ふ。
『お客さんだ、お客さんだ』と女中が私を揺り起す。
『知つてる人かい、きたない着物を着てる坊さんだよ』と名刺を枕元へ置いていつてしまつた。見ると古ぼけた名刺の紙へ毛筆で石川啄木と書いてある、啄木とは東京にゐるうち会つたことはないが、与謝野氏の明星で知つてゐる。顔を洗つて会はうと急いで夜具をたたんでゐると啄木は赤く日に焼けたカンカン帽を手に持つて洗ひ晒しの
『私は石川啄木です』と挨拶をする。
『さうですか』
私は大急ぎに顔を洗つて、戻つて来ると、
『煙草を頂戴しました』と言つて私の巻煙草を
『実は昨日の夕方から煙草がなくて困りました』
『煙草を売つてませんか』
『いや売つてはゐますが、買ふ金が無くて買はれなかつたんです』と、大きな声で笑つた。かうした場合に啄木は
そのうちに女中が朝食を持つて来た。
『朝の御飯はまだでせう』
『はア、まだです』
女中に頼むと直ぐ御飯を持つて来た。御飯を食べながら、いろいろと二人で話した。札幌には自分の知人は一人もない、函館に今までゐたのも岩崎郁雨の好意であつたが、岩崎も一年志願兵で旭川へ入営したし、右も左も好意を持つてくれる人はない全くの孤立である、自分はお母さんと、妻君の節子さんと、赤ん坊の京子さんと三人あるが、生活の助けにはならない。幸ひ新聞で君が札幌にゐると知つたから、君の新聞へでも校正で良いから
これが啄木と始めて会つたときの印象である。
啄木は佐々木氏か小国氏か二人を訪ねて北門新聞社へ行つた。私は途中で別れて自分のゐる新聞社へ行つた。その夕方電話で北門の校正にはいることが出来て社内の小使ひ部屋の三畳に寄寓すると
それから三日程経つと小国氏から、啄木の家族三人が突然札幌へ来て小使部屋に同居してゐるが、新聞社だから女や子供がゐては狭くて困る、東十六条に家を借りて夕方越すから今夜自分も行くが一緒に来て呉れと言ふ電話があつた。私は承知して待つてゐた。その頃東十六条と言へば札幌農学校から十丁程も東の籔の中で人家なぞのあるべき所と思はれない。そのうちに小国氏は五合位はいつた酒瓶を下げてやつて来た、私は啄木の越し祝ひの心で豚肉を三十銭ばかり買つて持つて行つた。日は暮れてゐる、薄寒い風も吹いてゐた。小国氏は歩きながら、
『君の紹介で彼(啄木のこと)を社長に周旋したが、函館から三人も後を追つて家族が来るとは判らなかつた、社長からは女や子供は連れて行けと叱られるし、僕も困つて彼に話すと彼も行くところが無いと言ふし、やつと一月八十銭の割で荷馬車曳きの納屋を借りた、彼は諦めてゐるからいいやうなものの、三人の家族達は可哀想なもんだな』と南部弁で語つた。
籔の中の細い道をあつちへ曲りこつちへ曲り小国氏の案内で漸く啄木の所へ着いた。行つて見ると納屋でなく
隣りが荷馬車曳の
これが札幌で二度目に啄木に会つた印象である。