殺人狂の話

(欧米犯罪実話)

浜尾四郎




 殺人という大罪を犯すには種々な動機がある。一番多いのは、怨恨とそれから利慾だろう。
 怨みで人を殺すもの、金をとろう又は財産を得ようとして人を殺すもの、これ等はずい分数もあり日常の新聞紙上などにも盛んに出されるところだから一般にその理由はうなずく事が出来る。
 ところがここに何等左様な原因がなくて人殺しを敢行する人間がある。彼らに「何故、人殺しをしたか」ときけば彼らはただ「殺したかったから殺した」とか或は「ただふらふらと殺したくなったからやっつけたんだ」と答えるのである。即ち「殺人の為の殺人」を行う手合で、まことに物騒千万な人達であり、犠牲者こそいいめいわくと云いたいようなものだ。
 怨みの為に殺される人、金をもっていて殺される人などは、仮令たとえ自分達に責任はないにしろ一応犠牲者の方にも殺される理由があるのだが、殺人狂の被害者に至っては、まったく出たとこ勝負、偶然中の偶然、殺人狂に出会したのが一生の不運というより外云いようがない。
 殺人の為に殺人をする殺人狂の中にも、裁判の結果、全く狂人として無罪を言渡される者と、一人前の人間として死刑台に上るものとの二種類がある。以下その例を少しく記して見よう。

     一、ヴァッヘル事件

 南欧の「ジャック・ゼ・リッパー」と称せられたヴァッヘルは、まさしく殺人狂の一人であった。
 彼が全くの狂人であったかどうかは、専門家の間に可なりの問題を惹起した。
 仏国ふつこくボーフォールに生れた彼は、一八九〇年ブサンソンの第六十聯隊に勤務したが既にその頃から野性を発揮して同僚達に恐れられはじめた。
 除隊間際に、一人の若い女と恋に陥ったが嫉妬の為に、彼女をピストルで射撃し(但し、殺すには至らず)自分はその場で自殺をはかったが之も未遂に終った。ただこの時、自分のピストルで右耳を射たので以後、右耳は全くきこえなくなり、顔面に時々はげしい痙攣けいれんをおこすようになってしまった。
 其後も彼はだんだん乱暴を働き暴行をするのでとうとう法廷につれ出されるかわりに、サンロベールの気狂病院に入れられるに至った。
 若し彼が此のままいつまでも病院にはいって居たならば彼の為にも他人の為にも、之から犯すような大きな不幸は起らなかったであろうが、不幸にして――然りまことに不幸な事には、一八九四年の五月一日に、ヴァッヘルは全治せるものとして退院を許されたのである。
 彼は此の時から、「惨劇の浮浪者」となりおおせたのだ。
 一八九六年三月まで、オート・ロアルやコート・ドールなどを浮浪した揚句あげく、ついにショーモンまで来たがそこで或る男を殴って捕まり、ボーヂェの刑務所に入れられた。
 ところがこの時までに彼は既に八つの犯罪を行って来たのであったが、その一つも彼に嫌疑がかかっていなかった。
 その中の最後のものは、三月一日に、ドルーという十四歳になる少女を襲った犯罪であった。
 けれども、右に云う通り、彼に嫌疑がかかって居なかったので、四月四日になってヴァッヘルは又釈放されたのである。
 それから再び彼の恐るべき浮浪がはじまりそれがとうとう一八九七年の八月七日までつづいたが、この日彼は殺人未遂の罪で捕まったのであった。
 当時のジュルナール・ド・ヴァランスから記事を抜粋すると次のような事実が行われた。
「一八九七年八月七日午前九時頃、プランシェという人妻がレペリエという森の所を通りかかると、突然物かげから鳥打帽をかぶり手に鉄の棒をもった男がおどり出し、いきなりプランシェの咽喉をつかんで引仆ひきたおした。
 彼女は死物狂でようやく此の男の手から逃れたが、丁度その時現場にいたプランシェ夫人の七歳と四歳になる児が驚いて悲鳴をあげながら近くに働いていた父親のところにかけつけた。ムシュウ・プランシェはその男の気のつかない所で前から働いていたのだ。
 プランシェ夫人も必死になって夫の方に逃走するとその男――ヴァッヘル――もあとから追いかけて来、とうとうムシュウ・プランシェとまともに向い合った。おそろしい格闘が二人の間に行われたが、その間に、フェルナンドという七歳になる児は勇敢にも石を取ってヴァッヘルに向い父の加勢をはじめた。
 一時はヴァッヘルの力強く、戦はどうなるかと見えたが、幸にもその近くにいた樵夫きこりが二三名かけつけ、とうとうその男を取押える事が出来たのである」
 彼はそれからツールノンの獄に送られ、そこのマヂストレートに調べられたが、単なる傷害罪という名のもとに数ヶ月の獄舎生活をはじめる事になったのである。
 然し当局は、彼の過去について捜査を開始した。彼がプランシェ夫人をおそった動機から考えて似たような犯罪があるにちがいないとにらんだのである。
 ジュルナール・ド・ヴァランスの記事はベリーのマジストレートのフーケー氏の注意を著しくひいた。実にフーケー氏は、二年前即ち一八九五年の八月にブノンスで行われた殺人事件の犯人を極力捜査して空しく手をひいた人である。ブノンスの殺人事件というのは、牛飼いのヴィクトル・ポルタイエという少年が、のどを切裂かれ腹をえぐられて見るも無惨な死体となって牧場で見出された、という事件であった。当時嫌疑のかかったのは、アルデシュという浮浪人で、その惨劇の前夜、現場付近をうろついていたという男によく似ていたのだった。而てこの男の人相は又、一八九五年五月にオー・ドュ・シェーンという所で十八歳になるオーギュスチヌ・モルチュリューという少女の殺人犯人の人相にもあてはまっていた。
 そこでベリーのマヂストレートはただちにヴァッヘルを送らして自ら之を訊問したが、彼はついにヴァッヘルをして恐るべき犯罪を自白せしめたのである。その自白によると、ヴァッヘルは、ブノンス事件の犯人、モルチュリューの犯人であるばかりではなかった。
(少女モルチュリューの犯人として、グレニエという男が逮捕され、後許されはしたけれども彼は永い間世の批難を受けなければならなかった)
 ヴァッヘルの十八の犯罪を一つ一つここに記す事は困難であるからして、ここにはただその犯罪時と場所と、犠牲者の名とを記すにとどめよう。
(1) 一八九四年、ボールペールに於いて。ユーヂェニー・デロムという婦人に暴行の後惨殺。右胸部を引裂いてあった。
(2) 同年十一月二十日、ヴィドーパンに於いて。ルイズ・マルセルという婦人ののどを切裂き胸を切って惨殺。
(3) 一八九五年五月十二日、オーギュスチヌ・モルチュリューという少女の咽喉をさき胸部を切開きて殺害。
(4) 同年四月二十五日、サンツールに於いて。モーランという寡婦(五十八歳になる者)に暴行を加う。
(5) 同年九月二十二日、トリマに於いて。アリーン・アレーズという十六歳の少女に暴行を加えた後殺害。
(6) 同年九月二十九日、サン・テチェン・ド・ブーローニュに於いて。ピエール・マツリーという少年の腹を切裂きて惨殺。
(7) 一八九六年三月一日、ノアイエンに於いて。マリー・ドルーという十四歳の少女を襲ったが偶然の事で之は暴行に至らず。
(8) 同年九月十日、ビュセに於いて。ルリューという十九歳の婦人を襲い咽喉を切る。この事件は強盗殺人。
(9) 一八九六年十月一日、ヴァラン・サントノレーに於いて。ロージヌ・ロヂェ(十四歳の少女)に暴行の後殺害。
(10) 一八九七年五月十五日、タサン・ラ・ドミ・リューンに於いて。クローダン・ボーピエという若者を殺害。被害者の骨は井戸の中から発見された。
(11) 同年六月十八日、クルジューに於いて。ピエル・ラヴリーという十三歳になる子を惨殺。
 之らの恐るべき犯罪は凡て野原で、多くは夜間に行われた。即ちヴァッヘルは昼間は森や林のかげにかくれ、夜になると狼のように飛び出して人をおそったのであった。
 一八九八年、これらの事件は公訴の提起を見、十月二十六日にヴァッヘルは重罪裁判所で公に取調べられた。
 被告人は三十歳位、非常に神経質に見えた。常に目は動いて一ヶ所を見つめない。何となく一見不気味に見えたのである。
 被告人に対する起訴状が読み上げられている間、彼は絶えず手足を動かし、顔を動かしたりして全く気狂いの有様であった。
 ヴァッヘルは凡ての事実を認めた。而て彼は云った。
「私は、私を裁く人々に対して云いたい。私はただ神に対して答えるべきであるという事を! 私は単に、神の一つの愚かな機械であったにすぎない。私は九歳の時、狂犬にかまれた事があるが、それから以後、特に強い太陽の光の下で、不意に狂気の発作におそわれる事があるがその時は全く夢中で何が何だか少しもわからない。その時は、夢中で誰でもまずそこに来た奴をおそい、之を殺すのだ。陪審員諸君よ、私がいいたいのはただ之だけだ。私は、私を自由にしてくれた医者達の犠牲にすぎないのである」
 その青年時代に無政府主義を信奉していたそうだが、と問われた時、彼はこういう答をした。
「私はそんなアナーキストと関係はない。私は実に神のアナーキストである」と。
 十月二十八日、彼に死刑の判決が下された。医師の鑑定によれば彼は、精神病者ではない。即ち法律上の責任を負うべきものと認められたのである。
 翌年即ち一八九九年一月一日、死刑は執行された。彼はギロチンの前に立って、気を失ってしまった。死刑台の所まで人にかつがれて行かなければならなかったのである。
 ヴァッヘルの如きはたしかに殺人狂の一人であろう。彼の頭が果して責任能力があったかどうかは判らないけれども、彼が最後に法廷で云った言葉「自由にしてくれた医師の犠牲」だと云ったあの言葉はたしかに結果に於いては事実となっていた。
 而もその犠牲は彼以外にも余りに多かったのである。

     二、メネルー事件

 一八八〇年、グロス・カイユーのルー・ド・グルネル一五五番地は、デューという夫婦が住んでいて、二人の間に、ルイズという四歳になる可愛らしい少女がいた。
 四月十五日、デュー夫人は、夫が三週間も前から病気で入院しているのでそれを見舞って買物にまわり帰宅して見ると、ルイズの姿が見えない。
「ねえアンリエッタ! ルイズがいないよ。ローネルさんの所へ行って見ておいで。ごはんの後であそこに行っていたからまだ行ってると見えるよ」
 デュー夫人はこう云ってそばにいた長女をしてルイズを探しにやった。が、ルイズはローネル夫人の所にはいないし、ローネル夫人は朝からうちにはいないという報告をもたらして戻って来た。
「では、メネルーさんの所だよきっと。私が行って見て来よう」
 デュー夫人は、同じ家の四階に住んでいるメネルーの所をたずねたのである。
 メネルーという夫婦は相当年もとっていて夫は役所に勤め、妻は煙草工場で働いて居り、デュー夫婦とも可なり懇意で、殊にルイズを大へんかわいがってよく菓子などをくれたりするので、ルイズの方でもよくなついていたのである。
 この夫婦の間に、ルイという廿歳になる男子があったが、この青年は親と全くちがった性質の男だった。三年程、汽船にボーイとして働いていたが、後、パリに戻ってからは、全くなまけものとなり、毎日毎日無為にくらし、両親の住んでいる室の上(即ち五階)に一室を占領していつもここにふらふらしていたのであった。
 デュー夫人はまず四階のメネルー夫妻の室の戸を叩いたが返事がない。まだどっちも戻らないらしいので、彼女は一階上って、ルイ・メネルーの戸を叩いた。
 デュー夫人が娘の事をきくと、中から戸をあけたばかりのルイ・メネルーは落付いた声で、
「ルイズさんは今日は一度もここへは見えませんよ」
 と答えた。
 そこでデュー夫人は同じフローアの戸を片端からノックしてまわったが一軒も人が帰ってはいなかった。手をむなしうしてこの母は下まで降りて改めて門番の所へ行って見ると此の日は門番の娘が母親の代りに勤めていたが、終日ルイズの姿を見なかったという答をしたのである。
 心配になって来たデュー夫人はそれから、リュー・ド・グルネルの家を戸毎に訪ねて廻ったけれどもルイズのようすは全くわからなかった。そこで彼女はとうとう警察に捜索を依頼してやや安心して帰った。というのは、巴里パリで迷児になる者は一日に何人あるか判らないけれど二三時間も経てば必ず警察の手で発見されるのが例であったから。
 警察は、彼女に、午後八時に再び出頭するようにと命じて帰宅させた。
 午後八時にデュー夫人は命令通り再び警察に出頭したがその時、門番だの其他の人々が、メネルーの息子は平生子供らに「おあし」をやってはしきりに手なずけている、といっているという申立をやった。
 勿論この噂だけでは何の証拠にもならず、又それが事実としてもまだ何らメネルーに嫌疑をかけるべき直接証拠にならないので、警察では、まず、ルイズがメネルーの処にいるかどうか十分たしかめるようにとデュー夫人に注意した。
 そこでデュー夫人は帰宅するとメネルーに又ルイズの事をきいたけれども、依然として彼らは全くルイズをその日見た事はないという事を明かに答えたのである。
 そこでデュー夫人は又一階上って若いメネルーの部屋に行って戸をたたいた。
 息子のメネルーはもうベッドにはいっていたが、デュー夫人が戸を叩くと、中から、
「何しに来たんです。ルイズの事なんか知らないとさっきも云ったじゃありませんか」
 とつっけんどんに云ったが、彼女がしきりと戸を開けてくれというととうとう戸をあけたのでデュー夫人は、遠慮なく室内にはいって行ったけれども、メネルーの外は誰もそこにはいない。彼女はひざをついてベッドの下や何かを見たけれどやはりそこにも誰もかくれてはいなかった。
「さあ、もうこれで十分でしょう。気がすんだでしょう。さっさと帰って下さい。もう眠るんだから」
 若者はしずかに彼女に云った。
 しかし幼いルイズの消失はその夜一晩中、そのアパートのうち中の話題になった。いやその次の日もこの話がつづけられた。そのうちに、だんだんと妙な噂が伝りはじめた。
 どうもあのやくざ者の若者が怪しいというのだ。門番の女が、何でもかんでもあいつが怪しいというので、煙突掃除人夫が一人、すばやく屋根の上に上ってそっとメネルーの室を見る事にした。
 屋根から下りて来ると、人夫はいきなり、
「おい、メネルーの息子の奴、何かストーブでもやすので夢中になってやがるよ」
 という報告をもたらした。
 この時、ツーレという婦人が、
「そう云えば、どうも五階のメネルーの部屋から、ハンマーで肉を切るような音が聞こえていたよ」
 と云い出した。
 一同は何とも云えぬ不安におそわれはじめたのである。
 丁度此時、警察から刑事がやって来て、メネルーの戸を叩いた。はじめは中々応じなかったがとうとうしまいにメネルーは戸をひらいた。
 刑事の訊問に対して、彼は不相変あいかわらず何も知らぬの一てんばりで押通したが丁度その時、刑事の一人が、しきりに燃えているストーブの蓋をあけて中の物を引出してみると、それは血がついた肉塊であった。つづいて小児の内臓とおぼしきものが、半分くすぶりながら引ずり出されて来た。
 そこで直にメネルーの身体が捜索された。
 恐るべし! 彼の上衣のポケットの中から、小児の二本の腕が発見されたのであった。
 最後にストーブの中から首が出て来たが、棚その他にかくしてあった肉片をすっかり出して見ると、実にルイズの身体は三十五の部分に切りわけられていたのである。
 もはや何らの否認は許されなかった。
 犯人の自白は次のようなものだった。
「午後四時頃に、水をくみに出た所、ルイズに出会ったんです。そこで私はその子を、へやにさそいました。何かいい物をやると云ったのです。まもなくしきりに帰りたがりましたが、私は部屋から出しませんでした。とうとうルイズは泣き出しましたが、それから後の事ははっきりおぼえていません。ただ夢中でルイズの咽喉をしめて殺した事を思い出します。私の手でしめたのです。それからマットをとって之に身体をくるんで、ベッドの中につっこみ側に私も横になりました。しかしその夜中私は眠れませんでした。朝になって両親が出かけてしまうのを見すまし、台所に行って庖丁でまずその身体を二つに切りさきました。それからもっと細かくきざんで、ストーブで燃してしまうつもりだったのです。この仕事を私は便所の手洗の所ではじめました」
 この自白は全部が事実とは思われない。何故ならば、発見された肉片は全部をよせてもまだ、小児の身体を完成しなかったから。即ち四つのある特殊の器官がとうとう見出せなかったのである。
 九月八日、プラースラロケットでこの若者は死刑を執行された。
 彼も殺人狂の一人である。而も法律上の責任は負うべしと認められたわけである。

     三、ソレイラン事件

 ソレイランの事件もメネルーの事件と殆ど同じようであるが、此の事件の主人公は、仏国大統領の特別な仁慈により死刑を免れる事が出来たが、此の特別な仁慈は、輿論の反対を非常に惹起して大統領ファリエールは大に人気を失うに至った。
 一九〇七年一月三十一日リュー・サンモール七六番地に住んでいたエルベルディング夫人は、アルベール・ソレイランという二十六歳になる男と往来で偶然に出会った。此のソレイランという男は相当に有福な家の息子で、エルベルディングはそこの家に家政婦としてつかわれていた事があったのだった。
「私の妻がバタクランのコンセールに行くのですが如何です。お宅のマルテさんも一緒にいっては?」
 ソレイランはいきなりこう云ったのである。
 マルテというのは、エルベルディングの娘で当年とって十一歳であった。
 はじめは、エルベルディング夫人はこれを拒んだけれども、ソレイランはしきりとうながし、自分の妻も亦マルテもきっとよろこぶに違いない、と主張した。
 母親もよく考えて見ると、自分の娘をこの男に托す事を特に拒絶する理由が発見出来なかった。殊にソレイランの子供の時代からよく知っている彼女の事だ。安心してとうとうマルテを彼に托し、バルコニーから「オー、ルヴォアル」とよびかけて送り出してやったのであった。
 すると午後五時にアルベール・ソレイランが一人でエルベルディングの所にやって来て、マルテがもう帰って来たかと質問した。
 驚いて母親は云った。
「いいえまだ。だけど、どうしたんです」
「僕らはバタクランに行ってたんですよ。中々面白かった。がマルテがいつのまにか見えなくなっちまったんでね」
 之をきいて母親はさっそくバタクランにかけつけて見ると、丁度今終ったところで大勢の人々が出て来る処に出会した。
 母親は、直に、ソレイランが嘘をついているなと思って、引かえして彼を詰問したが、不相変あいかわらず、同じ事を彼は主張した。
 それから彼はエルベルディング夫人と一緒に交番に行ってマルテの失踪について語ったがそこでも、バタクランで彼女を見失ったという事をしきりと主張した。
 その夜、彼はひどく心配な表情をして、あわてている母親をたすけて一生懸命にマルテの行方を探しまわった。
 けれども翌日になって彼は警察で取調べられる事になった。
 その前日の午後彼はどこで時をすごしたかをはっきり答えなければならなくなった。
 彼のついたつまらぬ嘘が、非常に重大な嫌疑をもたらしはじめた。そこで彼の身の上についてにわかに厳重な捜査が開始された。
 其結果、彼は結婚以前に、或る売春婦と同棲していてその女に養われていた事実、及びその女の妹を虐待した事実が判明、更に、詐欺罪に依って八ヶ月の懲役に処せられた事があるのが明かにされた。
 そこで三月三日、確たる証拠は未だなかったのであるが、ソレイランに対して逮捕状が発せられた。之は従前の軽い犯罪に対してのものだったと信ぜられる。
 ところが、その結果彼は逮捕されると、
「ああ、とうとうマルテの件がばれたか」
 と自白同様の一言を発してしまった。
 一人の証人は、一月三十一日午後二時頃、彼の従来の申立によれば此の時彼はマルテとバタクランに行っていた筈なのだが、その時ソレイランが自分の室の窓の所に、マルテと一所に居た、という事を証言した。於是ここにおいて、彼に対する嫌疑はいよいよ深くなり、さんざん言いこまれた末、とうとう彼もまま真実に近い自白をはじめた。
 即ち、彼はあの日自分の所に一旦マルテをつれて行ったのだが妻がいなかった。マルテはソレイランの妻と一所でなくてはコンセールに行かないと頑張って泣き出したので、無意識に咽喉を手で押えると、いつの間にかマルテの息は絶えていた、というのだ。
 そこで、布で死体を包み、電車で東停車場まで運び、そこの手荷物預りの所に之を荷物として託したのであった。
 此の自白を確実にする為に、当局は直に東停車場の荷物を取調べたが、はたしてそこには、マルテ・エルベルディングの死体を包んだ灰色の包みが発見された。
 二日の後に、解剖が行われたがその結果は惨忍さに於いて到底彼の自白の如きものではない事が明かになった。
 頸のまわりには絞められた痕跡があったが胸部に十一センチの深さの切創があり、心臓は突刺されていた。
 事実は、彼はまずマルテに暴行を加え、次に之を絞め殺し、後、胸を突刺したのであった。
 取調中、彼は夢中でやった犯行であると強硬に主張した。そうして暴行の点については全くおぼえがないという申立をやった。
 暴行事件がここではからずももう一つあかるみに持出されたのである。
 一九〇一年三月、彼は、ジェリヤ・ブルマールという二十二歳になる婦人を襲った事がある。
 彼はその日彼女を自分の室にさそいこみ、それから急に乱暴をはじめて女を虐待し、ついにブルマールを床の上に仆して口から出血させるに至った。そうして最後に、彼女を脅迫しながらおそるべき行為に出でようとしたのである。
 ブルマールは、従うと見せて、相手の隙を見てほんとうに危い所で身を以って僅かに逃れた。
 マルテに対するソレイランの行為も丁度この事件と同じような性質をもっている。
 彼はマルテをまずナイフでおどかし、沈黙をまもって彼の暴力に従う事をせまったのである。然るにマルテが泣き叫んだので彼はあわてて絞殺したわけである。
 一九〇七年七月二日。重罪裁判所で彼の公判が開かれた。
 被告席に着いた彼の姿は一言で云えば、獰猛どうもうわしのような印象を人々に与えた。
 凡て犯罪の証拠があるにも不拘かかわらず、彼は、犯行の事実を全くおぼえがないと否認した。即ち無意識行為であるという主張をやった。
 彼が犯行後如何に冷静であったかという一つの証拠として、彼がマルテの死体を運んだ電車の車掌の言葉をここに記すと、
「私は、この男を食肉市場の助手だと思ったのです。それでそこにもっているのは牛肉かいときいたもんです。しかし被告は何も答えませんでした」
 検事総長ツルアルリオールは、特に殺人の情況以外に間接の情況が甚だ被告にとって不利なる事を指摘した。実にソレイランは被害者とは十年も前から知合であったのに、人情も何もなくこんな惨虐な事をやったのである。
「かくの如き恐るべき犯人は未だかつて被告席にあらわれたる事なし」
 検事総長はこう結んだ。
 死刑の判決が言渡された。
 その瞬間であった。突如法廷の一角から、絹をさくような声がきこえた。
「人非人め、私に殺させて下さい! 子供を辱しめるなんて! おおおそろしい」
 この叫びは、犯人ソレイランの妻の口から発せられたものであった。
 しかし、前述した通り、ソレイランは死一等を減ぜられて、今でも刑務所に居るはずである。
 巴里警視総監ムシュウ・モーランはこれについて次のような皮肉を云っている。
「死刑を免かれた犯人ソレイランは今でも、服役している。彼は極めて平和な生活をやっている。死刑廃止論者はさぞ満足することだろう」と。

     四、ジャン・ウエーバー事件

 以上あげたのは皆男の殺人狂だけれども、無論殺人狂は男とは限らぬ。婦人にもたくさんある。ただ婦人が殺人狂である場合は、殺人の方法が男と甚だ違う――即ち相手が大人である場合は多く毒殺が行われるし、そうでない場合は、被害者は抵抗力の少い子供などである。
 そういう例の一つとして私はここにジャン・ウエーバーの事件を記したいのだが、予定の紙数では到底つくせそうもないから極く簡単に書いてしまおう。
 之はフランスの輿論を甚しく刺激した事件で、一九〇五年以降、ジャン・ウエーバーという女が数人の子供を殺したのだが、之がいつも医師に判らず、彼女は中々捕まらなかった。
 いや一度は捕まったのだが、医師が被害者の死を自然死と見たので釈放され、そこで又々子供が殺されはじめたのであった。
 最後に、殺人直後を発見されて逮捕され、審判に附せられたが、彼女は全く狂人なる事が認められて、法律上の責任は負わず、病院に入れられたが、そこで不思議な死方をした。
 彼女の室で異様なうめきがきこえたので、人々がかけつけて見ると、自分で自分ののどをしめて死んでいたのである。
 子供ののどをしめる事が出来ないので、とうとう彼女は自分の首をしめたのだといわれている。
 彼女は、食人女とあだ名され、全くその犯行は理由なくただ子供の首をしめたいという事からおこったものであったらしい。

 私は以上殺人狂の事件を記して来たが、外国で殺人狂の事件というものは、この外にまだまだたくさんある。
 有名な事件では、ジャック・ゼ・リッパーなどがそれだろうと思われるが、ここには、まだ余り我国に紹介された事のない事件を記して見た。
 いずれも変態性慾的な事件である。
 メネルーにしろソレイランにしろ、殊に、ヴァッヘルの事件に於いて、われわれは可なりのザディズムスのあらわれを見出す事が出来る。
 ただ彼らがはたして法律上の責任を負うべきであったかどうだったかは問題になるかも知れない。又反対にジャン・ウエーバーが法律上の責任を負わなかった事が正しいかどうかも相当問題であると思われる。
(「探偵」一九三一年五月)





底本:「「探偵」傑作選 幻の探偵雑誌9」ミステリー文学資料館・編、光文社文庫、光文社
   2002(平成14)年1月20日初版1刷発行
初出:「探偵」駿南社
   1931(昭和6)年5月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:伊藤時也
2008年10月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について