問題を入れた扇箱
一
「いや、勤まらぬことはありますまい。」
土屋相模守は、じろりと二人を見た。
「勤まらぬといってしまえば、だれにもつとまらぬ。一生に一度のお役であるから、万事承知しておる者は、誰もないのです。みな同じく不慣れである。で、不慣れのゆえをもってこの
しかし、一、二度押し返したうえで引き受ける習慣になっていた。
浅野事件の前年だった。
元禄十三年三月三日に、岡部美濃守と立花出雲守が、城中の一室で土屋相模守の前に呼び出されていた。土屋相模守は老中だった。
年に一回京都の宮廷から、
初めてつとめるのだし、大役だしするから、天奏饗応役に当てられた諸侯は、迷惑だった。心配だった。形式的にも、一応は辞退したかった。
饗応役には、正副二人立つのだった。この元禄十三年度の饗応役に、本役には岡部美濃守、
「おそれいりますが、私は、
これは、毎年のように、誰もが一度饗応役を辞退する時の定り文句になっていた。相模守は、聞き飽きていた。
そして、これも、この場合、毎年繰りかえしてきた言葉だが、
「御再考ありたい。
と、眼を苦笑させて、ちらと岡部美濃守を見た。
そういわれると、それでもつとまらないとはいえないのだった。
「さようならば――。」
無理往生だった。出雲守は、仕方なしに、引き受けないわけにはいかなかった。
「身に余る栄誉――。」
と小さな声だった。が、相模守の眼を受けた岡部美濃守は、口を歪めて、微笑していた。
「お受けいたします。なに吉良殿などに
どさり、と、重く、畳に両手をついて、横を向くようなおじぎをした。
二
「何だ、これは――何だと訊いておるに、なぜ返事をせんか。」
すこし離れて、公用人の
「御覧のとおり、
「扇箱は、見てわかっておる。その扇箱がどうしたというのだ。」
年玉などに使う、八丈を貼った一本入れの、粗末なものだった。空箱で、竹串がはいっていて振るとがらがら音がした。
「立花出雲は、添役じゃぞ。」吉良は、
「は。天瓜冬の砂糖漬、鯛一折、その他国産色いろ――。」
「砂糖漬には――これだけとか申したな?」
ちょっと
珍奇な、天瓜冬の砂糖菓子に小判を潜めて、
孫三郎も閃めくように指一本出してうなずいた。
扇箱を顎でさして、吉良が、
「気の毒だな。添役が、そんなにせんでもええに。本役の岡部殿からは、この扇箱ひとつ――ふふふ、二重底であろう。見い。」
孫三郎は、箱を手に取って、
「ただの扇箱で――。」
「使いの者は?」
「何とか申す用人でございました。逃ぐるように引き取りましたが――。」
「口上をきいておるのだ、口上を。」
「口上は、その、このたび、岡部美濃守様が天奏饗応役を仰せつけられましたについて、殿中よろしくお引廻しのほどを、という――。」
骨張った吉良の額に、太い青筋がはってきて、
「よい。
と、口びるを白くした時、襖をあけて、平手で頭を叩いた者があった。
「へっ、殿様、御機嫌伺い。」
お錠口御免の出入りの小間物屋だった。平野屋茂吉が、ずかずかはいってきていた。
「一大事
平茂に、新しい妾の
「扇箱一つで、殿中引廻し、か。虫のいい! これ、進物の
蒼ざめた吉良の顔に、無礼を愛嬌にしている、幇間のような平茂も
三
「相手が悪いから、心配するのだ。」
大きな
吉良へ扇箱を届けて
岡部辰馬は、岡部美濃守の弟だった。分家してぶらぶらしていたが、兄が勅使取持役を受けてからは、ほとんどこの屋敷に詰めきりだった。
「まずかったかな。」と、口をへの字にして、もう一度老人たちを見まわした。「誰が扇箱などを持って行けといったのだ。まるで、からかうようなものじゃないか。いい年寄りが多勢揃っていて――。」
久野彦七は、汗をかいていた。
「いやはや、子供の使いでしたよ。あの扇箱を置いて、すたこら逃げて来ましたわい。まったく、あとが怖い。憎い
「それだけ知っていて、なぜやらぬ。」
「殿様の
納戸役の北が、腕組みをして溜息を吐いた。
十寸見が、乗り出した。
「立花様のほうへ、それとなく伺ってみました。添役だから、
「そうだろう。添役で
三人は無言だった。
「訊いてくる。」
辰馬が、膝に手を突っ張って、起き上りかけた。
「ちょっと、お待ちを――。」
「停めるな。泉州岸和田五万三千石と、一時の
歩き出すと、久野が、追いすがった。
「しかし、殿様はもう、吉良殿と一喧嘩なさるおつもりで、気が立っておられますから――。」
「その前に、おれが兄貴と喧嘩する。金で
振りきって、跫音が、美濃守の居間のほうへ、廊下を鳴らして曲った。
夜の客
一
「平茂か。進むがよい。」
吉良の声を
「驚きました。
つるりと顔を撫でて、平伏しながら、
「何ごとかは存じませんが、平に御容赦。ほどよい女子を探しあてましたる手前の手柄に免じて、ここは一つ、お笑い下さいまし。お笑い下さいまし。」
吉良は、
「美濃めが――。」
と、口の隅から、つぶやいた。
――
添役立花出雲守は、奥州下手渡三万石で、それが百両もはずんだのだから、本役で五万三千石の岡部家からは、まず、五百両は動かないところ、と踏んでいた矢さきに、この扇箱ひとつだった。
「
また
「うむ。おれに訊かんでも、饗応方が勤まるという意じゃろう。面白い。勤めてみるがよい。物のたかではないぞ。この無礼な仕打ち――はじめてじゃ。」
「殿様。」平茂が、前の扇箱に眼をつけて、手を伸ばした。「
吉良は、黙って起った。扇箱を、うしろの違い棚へ置いて、
「よいのがあるとか申したのう。」
「現れました。」
いつもの吉良を見て、平茂は、羽織の裾をひろげながら、膝を進め出した。
「あちこち口を掛けておきましたところが、これも縁でございますな。いや、
「ううむ、どうしてくれよう。」
急に吉良は、両手を握りしめてうつ向いたが、すぐ蒼白く笑って、
「美濃か。美濃か。はっはっは――そうさのう、
二
上野介が、三州吉良大浜で四千二百石を
それなのに、近年――贈るほうもおくるほうだが、うけとるほうも受け取るほうだ、と美濃守は、
個人的にも美濃守はあの吉良という人間に普段から、何かしら許しておけないものを感じてきていた。
手違い、不便、吉良の手によって続けさまに、それらの障害が投げられるであろうことは承知の上で――と、美濃守は、ふたたび、弊風、それに、打破の二字を加えて、自分を
「兄者、お
大声がして、縁の障子が開いた。辰馬が、荒あらしく踏みこんで来た。
立ったままで、
「兄者、聞こう! 公卿相手の茶坊主ごときやつに
振りあおいだ美濃守の片面に、燭台の火が、辰馬の持って来た廊下からの風にあおられて、黄色く息づいた。
「賢才ぶったことをいうな。」
といった兄には、やはり、ちょっと兄らしい重みがあった。その
それだけに、今度の、事を好むような態度が、いっそう不思議でならなかった。
「やるものをやらんと、意地悪をしますぞ、兄者。」
どかりと、坐った。
「わざとうそを教えて役儀に不都合をきたさしめ、それとなく賄賂を催促するということです――。」
「賄賂の督促など、おれには馬の耳に念仏だよ。何もやらんのではない。久野に命じて、四十五文の扇箱をやった。」
「師匠番ですぞ。いくらか風にならって――。」
美濃守は、大きな声を出した。
「吉良には、頼まん。」
「兄者は、殿上の扱いをすべて御存じか。」
「自慢じゃないが、何も知らんよ。しかし、先例というものがある。」
「先例はあっても、時に応じて変ることもあります。」
「そんなら、そのときのことだ。」
「万一、
「おれ一人が、責任を持ったらいいだろう。」
「お一人ではすみません。お家を、お
「なんじゃ、
美濃守が、いつものようにぬうっとしているので、辰馬は、
「兄者は、吉良に怒らせられて、きっと殿中で刀を抜く。
「おれが吉良を斬る――。」馬のように笑って「馬鹿な!」
「いや、必ずそんなことになる。そうすると岸和田五万三千――。」
「斬りなどせんよ、大丈夫――ただ、逆を往くのだ。ははは、は、万事、吉良のいう逆を、な。」
歯を食いしばって、辰馬は、考えに落ちた。
美濃守は、
三
「いや、手前ども主人も、昨年、吉良殿には泣かされました。」
「今年は、お兄上岡部様が、御本役で、お添役は?」
「立花殿です。」
と、辰馬は、夜おそくこうして亀井の邸を訪ねて来た要むきに、早く触れたかった。
外記も、この客の要件をいろいろ推測しながら、
「立花出雲守さま――添役は、まあ、なんですが、本役となると、お察しします。」
辰馬は、
「気骨が折れて、出金が多い。それで、無事勤めたところで、戦場一番槍ほどの功にはならんのですから、一生に一度の、まず名誉かもしらんが、正直、ありがたくありませんな。ところで、申すまでもなく、そこらに抜かりはありますまいが、吉良さまのほうへ、いくらかお
辰馬は、待っていた話題が来たので、四角くなった。
「兄に、何か考えがあるとみえて、吉良への進物は断じてならぬと申しますので、困っております。」
外記は、ぎょっとしたように、
「岡部様らしい。が、それはいかん。それは、危ない。」
「それにつきまして、じつは――。」
「最初の贈り
「おそれいりますが、」辰馬は、やっと用を口に出した。
「昨年の勅使お日取りが、お手元にありましたら、ちょっと借覧願いたいのですが――。」
「お易い御用。ありますはずです。」
外記は、そんなことだろうと思っていたといったように、せかせかと鈴を振って、用人を呼んだ。
四
野武士めいた、肩幅の広い美濃守のうしろ姿を、吉良が、憎悪をこめて
眼が合うと、両方が立ち停まって、しげしげと眺めあった。それは、たがいに、珍奇きわまる生物を発見したとでもいうような、やゆと敵意の交錯した、視線の戦争だった。
吉良を見上げ見下ろしながら、美濃守が、厚い胸を張って、近づいて来た。
城の廊下で、いそがしく往き
「吉良殿、自分は、勅使取持役は不調法です、よろしく。」
吉良は、
「不調法なものを、なぜお受けなされた。」
美濃守が、聞き咎めた。
「これは、異なことを! 上野介殿はそのほうは専門家であるから、万事お手前の指図を仰ぐように、という、土屋相模守殿のお言葉添えがあったればこそ、お引受けしたものを――それを、とやかくいわるるなら、拙者は、これより相模守殿に申達して――。」
吉良は、取り合わずに、さっさと歩き出していた。美濃守の声が、追っかけた。
「お出迎えは、どこまで出るのですか。」
吉良を振り向かせるまでに、美濃守は、同じ問を根気よく、三、四度くり返した。
「お! 美濃守じゃったな。先日はまた、結構な扇箱を――お出迎えぐらいのことを御存じないとは、御冗談でしょう。」
「知っておれば訊きませぬ。知らぬから訊く。品川までかな?」
「品川にはおよびません。芝
「しからば、」美濃守は、顔いっぱいに笑って、「品川までお出迎えいたしましょう。どうも自分は、吉良殿の逆を往くことが好きでな。」
ほんとうは、もちろん品川まで迎えに出なければならないのだった。
「御随意に。」
さっと赤くなった吉良は、すぐ蒼く、こまかくふるえて、美濃守に背中を見せた。
が、足をゆるめて、肩越しに、
「勅使院使のお日取り――御存じのうてはかないませぬぞ。」
美濃守は、首を
「知りませんな。が、これだけのことは存じておる――勅使院使公家参向当日、お使い御老中、高家さしそえこれをつかわさる。御対顔につき、登城。
おや! と思いながら、
「もうよろしい。お日取りというのは、それです。」
「何だ、これしきのことですか。」
吉良は、むっとした。しかし、殿中だった。じっと自分を抑えて、美濃守の嘲笑をあとに、足を早めた。
身を変えて
一
「御覧になったでしょうか。」
床柱にもたれて、辰馬は、眼をつぶっていた。しばらく答えなかった。
辰馬の住いに、水のような暮色が、忍び寄っていた。室内は、灯がほしかった。
「見たろう。」辰馬がいった。「机の上に置いてきたから――。」
「紙にお書きになって――。」
「うむ。多湖殿に頼んで、写さしてもらったのだ。気持ちよく見せてくれたよ。お日取りなどは、毎年変るものではないから、兄貴が、あれさえ
夫婦はふたりいっしょにほっと安心の息をもらした。
糸重が、笑った。
「ほんとに、昨年の御本役、亀井様にお尋ねとは、思いつきでございました。」
「兄貴がああいう性質だから、傍がやきもきして、手落ちのないように盛り立てねばならぬ。お日取りという第一の難関は、これで過ぎたが――いや、賄賂さえつかわせば、何のことはないんだがなあ。」
「兄上様に知れずに、こっそり――。」
「それはできぬ。吉良の態度で、兄にすぐ知れるよ。」
糸重は、黙り込んだ。
腕を組み直して、辰馬が、妻の顔を覗きこむように、
「亀井殿に訊くことも、そうたびたびはならぬ。また、昨年と今年で、じっさい変ることもあるに相違ない。土台、兄貴の頑固ときたら、何も知らんくせに、自分一個の
糸重が、しんみりと、
「おあにい様のお身の上――ひいては、お家が第一でございますから。」
「ついては、おれに策がないでもない。お前にも、ちょっと働いてもらわねばならんかもしれぬが。」
辰馬の声に、きっとしたものが聞かれて、糸重は、身を固くした。
「はい、何なりと――。」
「平茂のう、あの、
と私語になって、辰馬がにじり寄って来ていた。
二
駿河町の裏通りの自宅を出た平野屋茂吉は、高価な商売物のはいった桐箱を、風呂敷包にして提げて、片手に傘をさして歩いていた。
「おい、平茂じゃあねえか。」
辰馬は、御家人くずれといった、やくざな服装でそこらをぶらつきながら、平茂を張っていたのだった。
声をかけて、傘の下へはいって行った。
「どこへ行く。嫌なものが、落ちたぜ。」
「おや、これは、岡部の若殿様でしたか。」
きょとんとしたが、顔中に愛嬌を見せた平茂は、
「そのお
「
並んで、歩き出した。
「しかし、御無沙汰つづきで――お見それ申しやしたよ。」
だしぬけに、辰馬がいった。
「兄貴が、かまってくれぬ。恥かしながら、このざまだ――。」
「へ?」
平茂が訊き返したが、辰馬は、ひとり合点でしゃべりつづけた。
「不如意だらけ――どうにもこうにもやりきれんのだ。一時、女房を預けたいと思うのだが――。」
「糸重様を?」平茂は、歩をとめて、狡猾そうに辰馬を見た。「御冗談で。」
「背に腹は換えられぬ。本人も承知だ。妾奉公でも何でも、といっておる。」
二人は、どっちからともなく、
声をひそめて、辰馬が、
「貴様、鍛冶橋のおやじにひとり、頼まれてるというじゃねえか。」
「吉良様ですか。よく御存じで。」
「地獄耳よ。早えやな。きまったのか、そっちのほうは。」
「いえ、まだお見せしたわけではなし、決まったというわけではございませんが――ほんとですか、殿様。」
「うそでこんなことがいえるか。ぜひ糸重を吉良へ世話してくれ。頼む。
「糸重さまを、ね。糸重様なら、申し分ござんせんが、御身分を隠して、と――。」
平茂の眼に、異様な輝きが来た。
三
日光は、どこにでもあって、石も、木も、庭ぜんたいが幸福そうにあたためられていた。
小さな
背中に跫音を聞いて、ふり返った。
久野が、腰を
そばまで来ないうちに、美濃守の大声だった。
「訊いてまいったか。」
「は。吉良様にはお眼通りかないませんでしたが、御用人をとおしまして――。」
ならんで立ち停まって、久野が答えた。
「天奏衆お宿坊の儀は広光院なそうにござります。」
美濃守は、大きな音を立てて、土を払った。
「広光院か。そんなことは、はじめからわかっておる。普請等手当て、掃除万端は、何といった?」
「は。」十寸見が、かわって、「
「なに、手入れはいらん?」
「ただ、お庭だけはちょっと掃除しておけばよいと申されました。」
「そうか。」美濃守は、青い空を仰いで考えていたが、「壁の塗りかえは?」
「
「障子の貼り替えは?」
「それも、心配いらぬとのことで――。」
「畳がえは、どうだな。」
「今のままで結構といわれましたが――。」
「廊下、
「いえ、ざっと掃くだけでよいとの――。」
美濃守は、大きなからだを揺すぶって、上を向いて
「御苦労。いや、それでよくわかった。大儀、大儀――それではな、さっそく手配して、庭から屋内から、すっかり修理するようにいたせ。」
「しかし、」久野が不審気に、「そういう必要がないと吉良様が――。」
「よい。黙って聞け。壁は、なかなか乾かぬから、至急に塗りかえさせろ。」
「ですが、吉良さまがおっしゃるには――。」
「障子の貼りかえ、畳がえ、廊下、厠の掃除、万事念入りに、な。」
久野と十寸見が、不思議そうに、無言の顔を見合わせていると、美濃守が、神経をぴりりとさせて、
「早くせぬか。吉良は吉良、おれにはおれのやり方がある。」
そんなら訊かせになどやらなければいいのに、と、久野と十寸見は、不平だった。
四
広光院の内玄関に、人声が沸いて、吉良の一行が着いた。勅使の宿舎を、下検分に来たのだった。
その天奏の江戸入りの日も、近かった。吉良は、先日岡部から、この宿坊のことを訊きに来たとき、ざっと掃くくらいでよいといってやってあるので、手入れなどは何もできていないであろうから、それを
いうまでもなく、とり換え得るものはすべて新しくして、隅ずみまで細かい注意を払っておくべきなのだった。
今日になって騒いだとて、もうお着の日が迫っている。間に合わぬ――吉良は、完全に美濃守に復讐した気で、久しぶりに晴ればれと、広光院の門を潜った。
が、まず庭に、見事に手が届いているのが、吉良の
「すっかりやってあるわい。」つぶやいた吉良は、裏切られたような別の怒りが、こみ上げてきた。「何からなにまで、法どおりに
奥から、美濃守の大声が聞こえてきていたが、取次ぎが、吉良の来たことを知らせても、出てくる気配はなかった。
久野と十寸見に案内させて、各部屋を見て廻りながら、吉良は、歯を食いしばっていた。
「これでよい。何も申すことはござらぬ。美濃守は、手前以上に御存じでいらっしゃるから――。」
と、ふと、座敷の隅を見て、
「あそこには
閉めきった隣りの室から、声が聞こえてきた。
「兄上、ここを開けましたる次の部屋に置きます屏風は、
そのとおりだった。永徳とは、
ぐっとつまって、立ちすくんだように黙っていると、隣室からは、美濃守の声で、
「これ、辰馬の申すように、永徳の屏風をひとつ、つぎの座敷へ入れておくのじゃ。」
係の者が、承知して、頭を下げているようすだった。
五
平茂が、目見得に
が、何となく、したしみ難いところがあった。といっても、
夜になって、吉良が
名を訊くと、お糸といった。
「変った女だ――。」
こっちからは手出しをすまい。どういう気か、黙って見ていてやろうと吉良は思った。
で、吉良の床をとって帰って行くお糸を、一度も引きとめはしなかった。朝、洗面の手つだいに顔を出すまで、呼びもしなかった。名ばかりの妾のまま、日が経って行っていた。
馬鹿にされているような気がしないでもなかった。
吉良のこころに、女性とのあいだにそういう話をすすめるという、忘れていた、若わかしい興味も起こって、
「は、ははは、一つ、今夜あたり
口のなかでつぶやいて、苦笑している時だった。
明るい色が、控えの間のさかいに動いて、そこに何の
通りすぎるほど通っている鼻すじだった。それが、すこし険のある表情にしているのかもしれなかった。
重い髪を、ゆらりと上げかけて、
「あの、立花様から、お使者の方がお見えになりましてございます。夜中ながら、お役柄の儀につきまして、ちょっとお上に伺いたいことがございますとか――お通し申しましょうか。」
お糸の白い額を見ながら、いったい、取次ぎにこの女を雇ったはずではなかった、と、吉良は思った。
じっとお糸に眼を据えて、無言でうなずいていた。
六
玉虫
正面のふすまが、左右にひらいて、ふところ手の吉良が、せかせかした足どりではいって来た。
腰元らしい女をひとりしたがえているのを、玉虫は、平伏しながら、上眼づかいに見ていた。
「どうもおそく参上いたしまして――。」
「いや、なに、かまいません。」
吉良が、痩せた膝を座蒲団にならべると、女も、そのうしろに引きそうように、すわった。
用談を持ってきた客には、吉良は、気が短かった。
「お役目のことといえば、御主人出雲殿の饗応お添役についてでしょうが、どういう――。」
すぐ、吉良からきりだした。
用人の
「申し上げます。ただ今、立花様より、家老へ白銀十枚――。」
「これは、これは。そうたびたび、恐縮ですな。」
吉良は、礼のための礼のように、冷淡をよそおっても、出雲守へ好意を示したいこころが、声に
「お役上、何か御不審でも――。」
「は。御饗応にさし上げますお料理のことでございます。」
「その料理を――。」
「当日は、清らかなお席、
「いや、精物というは、
「ありがとうございました。じつは、お精進ものであると申すものと、いや、魚類だという者と、二派に別れまして――そのため、たしかなことを
吉良は、権威者らしい微笑を漂わせていた。
「精進だなどと、どなたがそんなことをいったかしらんが、断じて精進ではない。今申したように、精進日でも、魚類です。」
吉良の背ろに控えているお糸が、玉虫と同じように、終始緊張して聴いていた。
礼を述べて、起とうとする玉虫へ、吉良が、いった。
「元来このお役は、難しいといえばいうようなものの、先例もあり、いくらお手前でも、万事は
お糸は、何か胸中にうなずいている
親抱きの松
一
饗応役の打合せに当てられた、城中の仕度部屋だった。
不意の声が、美濃守の首を
「岡部殿!」
吉良だった。
美濃守は、無言で、眼で訊いた。
「――――。」
「お手前は、私に何ごともお尋ねないが、元より御本役をお引受けなされたくらい、万事心得ておらるるであろうの。」
うそぶくように、美濃守が、
「ところが、何も知らぬ。われながら、笑止。」
「とすましておられて、それでよいのか。」
「よいも悪いも、知らぬことはどうにもならぬげな。」
憎さげに口びるを噛んで、吉良は、もう、顔いろが変りかけてきた。
「知らぬことは、どうにもならぬ? よく、さような口が――。」
「が、また、そこはよくしたもので、こうしておれば、貴殿のような親切な
「多用です。お手前ごときを弄して、暇を欠かしてはおられん。が、当日さし上げるお料理の儀は、いうまでもなく御存じでありましょう。」
「それも御存じないから、呆れたものですな。」
「美濃殿!」
吉良は、この岡部美濃という人間は、莫迦なのか偉いのか、わからなくなって、
「おふざけ召さるる場合でない。手前の落度になりますから、これだけ申し上げておく――お着の日、
美濃守は、弟の辰馬と、このごろまるで筆談のようなことをしているのだった。
今朝も、出がけに辰馬がそっと机上に書いておいた紙片を、美濃守は見ないふりをして、素早く読んできていた。
にっと、笑って、
「いや、吉良殿ともあろう者が、それはとんでもないお間違いです。精物というは、清らかなるものという意、堂上方が、
吉良は、背骨が棒に
手が、自動的に、ひらいたり閉じたりして、袴の膝を握りしめていた。
二
「いえ、けっして、お思召しに添わないなどと、さようなことを申すのではございません。ただ――。」
押さえ来かかった吉良の手だった。それを、あまり強く払ったことに気づいて、お糸は、はっとしていた。
ここで、こんなことで露顕しては――と、お糸の糸重は、無理に
「そのお約束で、御奉公に上っております糸でございます。何で
いいながら、いくら
刺し殺したいほど、吉良への憎悪に燃えた。
「ただ、何だ――それなら、なぜ
蒲団にすわった吉良は、みょうに白けた顔で、眼が、異常に光っていた。
はらわれた手のやり場に困って、襟をかき合わせた。
乾いた音だった。
「妾が――意に添うも添わぬもないはず。
いつものように、吉良の就寝を見て、
「わけと申して、べつに――。」
吉良は、何気なくよそおっていた。が、
しかし、お糸は、はじめから妾に来たのだった。妾に、こんな手間ひまのかかる女が、あってもいいものだろうか、と、吉良は、不思議な気がした。ばかばかしく思った。
いっそ暇を――が、そうもならなかった。それは、たんに未知へのあこがれかもしれなかったが、いつの間にか、愛着らしいもののできているのも、いなめなかった。平茂と、本人のお糸への、意地もあった。
何だか、考えこんでいる吉良を見ていて、糸重は、良人の辰馬の顔を思い出してみた。同時に、吉良が気の毒のような感情も、ふっと横切ったりした。
糸重は、泣いていた。
吉良が、いつになくやさしく、
「何を泣く――?」
一寸
「ほしいものがございます。それさえ下されましたら――。」
「ほほう、物が欲しい。」吉良は、にこにこして、「子供よのう。必ずともに寵愛いたす――との
とっさの思いつきに、困って、
「あの――。」
と、部屋中を走った糸重の視線は、違い棚の扇箱にとまった。
「あれか。はっはっは、あの扇箱か。」
糸重は、あわてた。
「はい――いえ、あれに、扇をお入れ下さいまして――そうして、その扇に、ちょっと好みがございます。」
ほっとして、いった。
三
「骨は――と、木を用いて、変り材のごとく観すること、か。厄介なことを思いつきやがったなあ!」
職人のひとり言だった。
吉良からの注文書を置くと、すぐ、
「ええと、何だって?――木地を塗りて
そこの
扇工は、その、指南書のさきを読みつづけた。
「大理石の
そして、この式にしたがって、扇の骨に加工しているのだった。
それができ上れば、吉良の意に任す――それまでは、枕を
風流人をもって自ら許している吉良だった。この糸重の申し出を、面白い――と笑って、さっそく御影堂へ注文しないわけにはいかなかった。
義兄美濃守が、無事に饗応役を果すまで――それまでにでき上らない扇でさえあれば、何でもよかった。なるたけ時日の
吉良は、この扇のことを、女との交渉のまえの、ちょっとした遊戯として、興がっていた。
毎日のように、御影堂へ催促が飛んだ。もうできかかっているのだった。
四
立花出雲守の使者に渡すはずのお次第書を、糸重は、こっそり懐中していた。
お次第書は、追加の御沙汰といって、当の式の順序を
いつものように、宵闇に
手早く、お次第書を渡しながら、糸重が、
「これは、饗応役の一ばん大事の日のことを、細ごまと書いた、申せば、お役のこつなそうにございます。立花様から受取りに来られれば、失くなったことがわかって、おっつけ騒ぎになりましょう。」
辰馬は、頬被りの奥から、
「ほかに、心得は?」
「当日は、必ず
「その他――気が
垣根を離れて、行こうとするので、
「それから勅使院使さまがお上りのとき、吉良とお取持役おふたりが、お出迎えなされます。」
「うむ。それで?」
「その節、吉良は、高家筆頭の格式でお
「本座――ではわからぬ。どこだ、本座と申すのは。」
「何でも、おひき出しと申す場所だと――。」
「よし。お
去りかけた辰馬が、引っかえしてきて、
「扇は、は、ははははは、まだであろうな。」
「はい。まだでございます。でも、もうすぐ――危のうございますので、変り骨だけでは心細いと、あとから、いま一つ、難題を加えてやりました。吉良の知行、下野の稲葉の里に、親抱きの松というのがございまして、常から吉良が自慢にいたしております。いつぞや順礼がその松の下で相果てましたので、土地の者が、葬いのしるしに、それなる老木の傍に若松を一本植えましたところが、小松が枝を伸ばして、親松の幹を押さえましたそうで――さながら枝で支えようとしております恰好から、吉良が
影絵を見る
一
お
大広間上席、帝鑑の間、柳の間、雁の間、菊の間と、相役が席についた。
静寂が、城中に渡って、柳原大納言、
服装のことなど、教えてないはずだから、場違いの
吉良は、拍子抜けがして、美濃守が前へ来ても、このあいだからのように、何か一こと敵意を示してやるだけの気にも、なれなかった。
口を切ったのは、美濃守だった。
「御次第書とかいうものがあろうかの。見せられい。」
吉良は、無言で、相手を
「おい、御次第書は、どうした。ないのか。本役の美濃である。一応、眼を通しておかなければ、不都合だ。さし出すがよい。」
眼に見えて、吉良は、ふるえてきた。
「ござらぬ。」
「紛失いたしたな。」
「いや、持っておる。が、このほうは高家筆頭じゃ。わしが見ておれば、それで充分。お手前に関係したことではない。」
「なに、御饗応のお次第書が、本役のおれの知ったことではないと――。」
吉良は、生えぎわに汗を見せて、
「まあさ、そう大きな声をされんでも――今にも天奏衆がお着きになる。その
が、美濃守は、たたみかけるように、
「御老中連名のお次第書だ。天奏衆御出発の用意等、出ておるであろう。こちらから老中へ返納いたす。出せ!」
どうして、お次第書などというものがあることを、この美濃は知っているのだろう――吉良は、相手になるまいとした。
美濃守は、にやりとして、
「これだけの心得がなくて、本役をお受けできるか――勅使両山御霊屋へ御参詣、お目付お
吉良は、死人のような顔いろになって、美濃守を
二
「や、どうも、おっそろしく混みいった注文だったもんで、すっかり手間を食っちゃいましたが、やっとできましたよ。」
京都の御影堂本家の主人は、店に、本尊
それに、負けず劣らずだった、江戸の御影堂は、坊主ではなかったが、口の荒い職人膚だった。やはり、一風かわった人物だった。
辰馬が、吉良家から来たといって、でき上った扇を受け取りに行くと、奥の、手文庫のようなものから、自分で出してきた。
手のうえに置いて、離すのが惜しいといったように、
辰馬は、屋敷侍らしい着つけで来ていた。口も、そんなようにきいて、
「いかさま、見事――眼の果報じゃ。」
「なにしろ、凝ってこって凝り抜いたもんでわしょう? どうですい、この
「うなずかれる――。」
「吉良のお殿様が、何を思いたって、こんな途方もねえものをお誂えになったか知らねえが――。」御影堂は、急に、声を落とした。
「噂ですぜ。うわさだから、間違ったらごめんなさい。お妾が、いうことを肯かねえで、こんな変ったものを考え出して、それができたら、へへへへ――するてえと、今まで殿様あお預けを食ってらしったんですね。ざまあねえや。道理で、値は構わねえから、早く、早くと――。」
「松がまた、よく描けておるな。」
辰馬は、扇を手にして、眼のさきにかざしてみた。
「細かい松じゃな。うむ、どこからどこまで、いい
「ございますとも。虫眼鏡で、お算え下さいまし――殿様がお待ちかねです。あっしも、もうすこし、ゆっくり見ていてえが、お持ち帰り願いましょう。」
「見れば、見るほど精巧なる出来栄に、殿も、およろこび下さろう。代は、後から屋敷へ取りにまいれ。」
「ええ、そんなもの、いつだって――。」
歩きかけた辰馬の手から、自然らしく、扇が落ちて、土間を打った。
辰馬が、おとしたのだった。
扇面が破れて、一、二本、骨が折れた。
「お! これは、とんだ――。」
叫んだ時、御影堂が、足袋はだしで駆け降りて来た。
「何をしやがる! 直すのに、また何日かかると思うんだ――。」
「粗相だ。許せ!」
もう一度、よろめいて、わざとでないように、扇を踏みにじりながら、辰馬は、微笑をふくんで、逃げ出していた。
三
勅使が、玄関に着こうとしていた。吉良上野介は、お
岡部美濃守が、じぶんとおなじように、玄関に着座しているのに、気がついた。
いままでは、強情我慢で、そしてまた、どこからか聞きだしてきては勤めてきたが、身についていないということは、
仕方がなかった。それが、ここに現われたのだった――そう考えて、吉良は、ちょっとおかしかった。
吉良は、高家筆頭だから、そこにいるのが当然だったが、
「岡部が、ここに出しゃばっておるとはなにごと! 今に、顔の上らないほど、手きびしくたしなめてやろう――。」
扇箱以来の美濃守への不愉快さが、吉良に、この報復の機会を得たことを、痛快がらせた。横眼に、美濃守を見やって、待っていた。
勅使の一行が、近くへ来たとき、吉良は、わざと低声だった。
「美濃殿――。」
聞こえないらしかった。
「美濃殿!」
のっそりと、美濃守が、答えた。
「何じゃい。」
「お席が違いますぞ。」
「はあ?」
吉良は、面白くなってきた。
「お席が違う。」急調子に、「お席が違うというに。これ、お席――。」
「なに? 何をぶつぶついわれおる。」
美濃守は、大きな肩を丘のように据えて、動こうともしなかった。
「本座にお直りなさい、本座に!」
「本座? 本座とはどこですかな。」
「しっ! さような大声を――早く、本座へ!」
「わからぬことをいうなっ。本座とはどこだ。」
「何を申す!」吉良が、きっとなった。「急場になって、本座はどこだなどと訊いておるどころではない! ええいっ! 本座へ控えるのだ、本座へ。」
つと起った美濃守が、小腰をかがめて、すり足に、見事に、お
美濃守は、はじめから知っていて、自分を揶揄していたのであったことに気がついた。
四
「関東の武家、名は何といわるる?」
饗応役は、勅使にしたがって、松の廊下まで来かかっていた。
「岡部美濃守です。」
ぶっきら棒にいうと、中納言は、笑って、
「関東は武をもって治むる国である。
「心得ました。」
と、それを掛け声に、美濃守は、やにわに、すぐ前を往く吉良に手をかけた。
「何をなさる! 乱心――。」
武骨な
吉良は口がきけなかった。なんという暴!――もはや、これまでだと思った。
「美濃、待てっ!」
叫んだ――ような気がした。同時に、家を捨て、身を忘れて、腰の小さな刀に手を――かけた自分を、とっさに、想像してみた。
美濃守は、すでに、平気で、むこうへ歩いて行こうとしていた。
殿中だった。松の廊下だった。たとえ誤ちでも、
が、
吉良は、心中に、刀を抜いた。そして、恨み重なる美濃守へ斬りつけるところを、考えた。
松の廊下――ちょうど、隅の柱六本目のかげだった。
美濃は、逃げようとして、戸にぶつかって倒れた。起き上ろうとするところを、ここだ、と振り下ろしたが、その時、吉良は、うしろから、しっかり抱きとめられているのを知った。
「残念――。」
「いかがめされた、吉良殿!」
ゆらゆらと立っていた吉良だった。梶川与惣兵衛が、にこにこして、うしろから手を廻して支えていてくれた。
「
「いくら天奏衆の御機嫌を取り結ぶのが饗応役とはいえ、御老体を――。」梶川は笑った。「歩けますかな?」
吉良も、仕方なしに、苦笑していた。
「まったく、美濃殿は、いささか荒いようです。」
勅使に