無双連子
一
「ちょっと密談――こっちへ寄ってくれ。」
上野介護衛のために、この吉良の邸へ派遣されて来ている縁辺上杉家の付家老、小林平八郎だ。
呼びにやった同じく上杉家付人、目付役、清水一角が、ぬっとはいってくるのを見上げて、書きものをしていた経机を、膝から抜くようにして、わきへ置いた。
「相当冷えるのう、きょうは。」
「は。何といっても、
小林が、手をかざしていた火桶を押しやると、一角は、それを奪うように、抱きこんですわった。
「用というのは、どういう――。」
上杉家から多勢来ている付け人のなかで、この二人は、よく気が合っていた。身分の高下を無視して、こんな、ともだちみたいな口をきいた。
朱引きそとの、本所松阪町にある吉良邸の一室だった。
小林は、しばらく黙っていたが、
「念には、念を――。」
と、いうと、起ち上って、縁の障子や、隣室のさかいの襖を、左右ともからりと開けはなして、うふふと苦笑しながら座にかえった。
庭から、さらっとしたうす陽が、さし込んだ。
一角が、
「だいぶ物ものしいですな。」
重要なことをいう時の、この人の癖で、小林は、にこにこして、
「この、裏門のまえに、雑貨商があるな。御存じかな?」と、覗くように一角の顔を見て、はじめていた。「米屋五兵衛とかいう――あれは、前原といって、赤穂の浪士だと密告して来たものがあるが。」
一角は、笑った。
「またですか。私はまた、この本所の万屋で
小林は、手文庫から、元赤穂藩の名鑑を取り出して、畳のうえにひろげて見ていたが、つと一個処を指さして、
「ほら、ここにある。前原
二
一角は、貧乏ゆすりのように、細かく肩を揺すって、口のなかで呟いていた。
「清水一角、とはこれ、世を忍ぶ仮りの名。何を隠そう、じつを申せば浅野内匠頭長矩家来――などということに、そのうちおいおいなりそうですな、この分ですと。はっはっは。」
が、かれは、小林の真剣な表情に気がつくと、名鑑のうえに眼を落として、
「ふうむ。で、この前原というのが、あのうら門まえの米屋だという確証は、挙がっているのですな。それなら、今夜にでも、ぶった斬ってしまいますが。」
「まあ、待て。こっちのほうは、いま星野に命じて探りを入れさせている。」
「では、その報告を待ってからのことに――だが、どうも私は、皆すこし、神経過敏になっているように思う。」
「しかし、清水、暮れに近づいたせいか、何かこう、世上騒然としてまいったな。」
「そういわれると、」と、一角は、微笑して、刀をかまえる手真似をした。「近いうちにあるかもしれませんな、これは。」
「うむ。それについてだ。」
小林は、膝をすすめて、
「君の兄貴の狂太郎君、ぜひあの狂太郎君の出馬を仰ぎたいと思ってな――。」
一角も、火桶ごしに乗り出して、小林の口へ耳を持って行った。
密談が、つづいた。
元禄十五年、十二月四日だ。
三
「兄者、兄者っ――!」
清水一角の武骨な手が、きょうも朝から
「兄者! またか。夜も昼も食べ酔って、困った
一角は、黒羽二重の着流しの下に、紐で結んだ刺子の稽古着の襟を覗かせて、兄の顔のうえに、かがみこんだ。
奥ざしきとはいっても、玄関から二た間目の、そこの三尺の縁に、かたちばかりの庭がつづいて、すぐ眼のまえに屋敷をとりまくなまこ塀の内側が、
床の間のふちに後頭部を載せて、赤く変色した黒紋つきの襟をはだけ、灰いろによごれた白
線の
その瞬間、
「兄貴、起きてくれ。話しがあるのだが――弱ったなあ。」
舌打ちをすると、眠っているとばかり思っていた狂太郎の口が、動いて、
「おれの耳は、縦になっていようと、横になっていようと、同じに聞えらあ。」
一角は、どんと激しく畳に音を立てて、すわり直した。
「こん日も、小林殿より内談があった。」
当惑しきったという顔で、一角は、語をつないで、
「例によって、今までたびたび取り沙汰された、無論、一片の風説に過ぎますまい。」
「何が――?」
「が、赤穂の浪人めらが、近く御当家を襲撃するらしいといううわさは、依然としてひそかに、
「そうだったな。そいつを聞いて、おれも、呆れけえってる始末よ。」
「あきれ返るのは、こっちです!」
「何だ、出しぬけに。」
「ですから、このさい、ことに上杉家から来ておるわれわれは、御家老千阪様の
「うるさいっ!」
狂太郎は、ごろっと、寝がえりを打った。
一
「兄貴の
「何をいってやがる。てめえのあ、顔って柄じゃあねえ。そんな
「千阪様の御推挙によって、目付役として来ておる拙者であってみれば、大須賀、笠原、鳥井、糟谷、須藤、宮右をはじめ、松山、榊原、それに、和久半太夫、星野、若松ら――あの連中を懸命に督励して、せっせと赤浪どものうごきを探らねばならぬ。また事実、みな必死に働いてくれておるのに、それに
狂太郎は、頬から頤へ手をやって、撫ででみた。
やすり紙で軽石をこするような、ざら、ざらと、大きな音がした。
一角が[#「 一角が」は底本では「一角が」]、つづけて、
「
はあっと息を吐いて、狂太郎は、それを追うように鼻をつき出して、においを嗅いだ。
「眼ざわりでござる!」
呶鳴った弟の声に、狂太郎は、むっくり起き上った。
「大きな声だな。寝てもおられん。」
きょとんとした円顔で、不思議そうに、一角を見つめた。
「ううい、どうしろというのだ。」
「じつにどうも、度しがたいお人ですな。吉良殿を護るために、赤浪ばらの策動を突きとめていただきたい。これは、付け人として当然の任務ですぞ。」
「大丈夫。攻めてなんぞ来はせんよ。また、来たら来たで、その時のことだ、あわてるな、
「何をいわれる! 隠密の役目は、あらかじめ――。」
「隠密? この、おれが、か?」
「さよう。」
「間者だな。」
「さようっ!」
「密偵だな、早くいえば。」
「くどいっ!」
「犬じゃな、つまり――犬、猫、それから、男妾には、なりとうないと思っておったが――。」
「何をいわれる。誰が兄貴を、男めかけにする
狂太郎は、眼をしょぼしょぼさせて、
「まあ、それをいうな。」
「いや、いいます。あまりだからいうのです。まるで犬、猫のように、雨露をしのぐ場所もなく、
「今だって、尾羽うち枯らしておらんことはないよ。」
「自慢になりません!」
一角は、たまらなく
二
「その、失礼ながら困っておられた兄者を、拙者が引き取って、こちらへおつれ申すとき、兄者は何といわれた。」
「四十余年、老
「これからは、心気一転して、おおいに天下に名を成すよう、まず、振り出しに、この、吉良殿の護衛として、十分に働いてみると、あんなにお約束なすったではないか。」
それは、事実なのだった。
狂太郎も、すこし
「ちょ、ちょっと待った! 腹の空いておったときにいったことは、
「かねがねおすすめしてあるとおりに、これを機会に、千阪様に知られて、小林殿の取り持ちで、上杉家へ仕官なさるお気はないのか。」
「ないことも、ない。」狂太郎は、困ったように、「が、この
一角は、握り拳をつくって、肘を張って、詰め寄るのだ。
「その、ありあまる才幹と、不世出[#「不世出」は底本では「不出世」]の剣腕とをもちながら――。」
「や! こいつ、
「そうして年が年中ぶらぶらしておられるのは――いったい、どこかお
「ううむ。どこも悪うはない。ただ、酒が呑みたい。これが、病いといえば、病いかな。」
「さ、ですから、ここで一つ働きを見せて、千阪様に認められ、上杉家に抱えられて、相当の禄を食み、うまい酒をたんまり――と、拙者は、こう申し上げるので。いかがでござる。」
「それも、そうだな。」狂太郎は、とろんとした眼つきで、「わかっておるよ。人間、食わしてくれるやつのためには、何でもする。いや、何でもせんければならんことに、なっておるのだ。これを称して忠義という。なあ、赤穂の浪人どもが、小うるせえ策謀をしておるのも、忠義なら、それを防がにゃならんこっちも、忠義だ。忠義と忠義の鉢合わせ。ほんに、辛い浮世じゃないかいな、と来やがらあ――どっこいしょっ、と。」
立てた片膝に両手を突っ張って、狂太郎は、起ち上っていた。
「まいるぞ。」
「どこへ、兄者――。」
「兄者、兄者と、兄者を売りに来てやしめえし――停めるな。」
「うふっ、留めやしません。」
「いずくへ? とは、はて知れたこと。隠密に出るのだ。あんまり、柄に
「というと、いずれかの方面に、何かお心当りでもおありなので――。」
「ねえんだよ、そんなものあ。」
いいながら、狂太郎は、馬鹿ばかしく長い刀を、こじり探りに落とし差して、
「だが、犬も歩けば棒に当たる。あばよ。」
もう、土間へ下り立っていた。
そして、うら金のとれた
「通るぞ。雑魚一匹!」
破れるような声で門番の足軽へ呶鳴って、さっさと松阪町のとおりへ出た。
綿流し独り判断
一
が、すぐ門のそとに立ちどまって、往来の左右へ眼をやった。
年の瀬を控えて、通行人の跫音のあわただしい街上だ。
「東西南北――はて、どっちへ行ったものかな?」
笑いをふくんだ眼で、狂太郎はそうひとり言をいって首を傾げた。
狂太郎は、その綿を、二つまみ三摘み
あるかなしの風。綿は、その風に乗って、白い蛾のように
本所二つ目の橋のほうへ飛んだ。
「東か――。」ぶらりと歩き出した。「そうだ。面白い。ひとつ、東海道筋へ
二
海が見える。灰いろの海だ。舟が出ている。道は、ちょっと登りになって、天狗の面を背負った六部がひとり、町人ていの旅ごしらえが二人、せっせといそぎ足に、ひだり手には、杉、
「お泊りさんは、こちらへ――まだ程ヶ谷までは一里九丁ござります。」
「仲屋でございます。お休みなすっていらっしゃいまし。お茶なと召しあがっていらっしゃいまし。おとまりは、ただいまちょうどお風呂が口あきでございます。」
神奈川の宿だ。その中ほどに、掛け
「いや、江戸に
といっている、四十四、五のでっぷりした、温厚な人物は、近江の豪農、垣見吾平という触れ込みで泊まりこんでいる大石
かれの甥、垣見左内と変称して、そばでにこにこしている少年は、
「変りましたでございましょうな、江戸も。」
「さ、手まえは、しばらく振りの、まったく、三年目の江戸でござりましてな。初下りも同然で――。」
「こちらは、はじめて――。」
「甥はもう、
廊下を通る人影を意識して、聞こえよがしの高ばなしだ。
この男売り物
一
「ほ! 何だ、ありゃあ。」
佐原屋の二階の、おもて
「おい、ちょっと来て見ろ。」
この数カ月武林は、大阪にかくれていた原惣右衛門、京都に潜んでいた片岡源吾、それから、江戸の堀部安兵衛らと、ひそかに、あちこち往来して、一挙の時期を早める硬論を唱道してきたのだ。それが、こうして
同じ商人ていにつくった
「
「いや、驚いた。なんでもいい。来てみろ早く。」
「騒々しいやつじゃな。」
と、起って来た。
唯七は、笑いながら、しきりに
男が通っているのである。浪人体の武士である。その背中に、「この男売物」と大きく書いた半紙が、貼ってあるのだ。
白い紙に、墨黒ぐろと――いかにも変な文句。が、何度見ても「この男売物」と読める。
男は、その「売りもの」貼り紙を背なかにしょって、大威張りで歩いているのである。
新六も、いっしょに笑い出して、
「何だい、あいつぁ。
といった、その、気ちがいかというのが、ちょっと声が高かった。ちょうど真下をとおりかかっていた男に聞えて、かれは、立ち停まって振り仰いだ。
大たぶさに
かれは、何がな人眼をひく方策を編み出し、それによって、この街道すじの旅人のあいだに、なにか口を利く機会をつくろうと、いろいろ考えた末、この貼紙を思いついて、江戸から来るこの一つ手まえの宿、川崎の立場茶屋で、半紙を貰い、墨を借りて、これを書いたのだった。
そして、飯粒で、その紙看板を紋つきの背に貼りつけて、往き来の人の驚愕と、
眼のまえの、佐原屋とある宿屋の二階をふり仰ぐと、町人の男がふたり、欄干から見おろしてにやにや笑っているので、狂太郎は、待ちかまえていたように、ぐっと
「こら、てめえら、笑ったな。何がおかしい! 貴様ら素町人に、吾輩の真意がわかるか。禄を失って路頭に迷えばこそ、恥を忍び、節を屈して、かくは自分を売りに出したのだ。何とかして食おうとする人間の真剣な努力が、何でそんなにおかしいのだ、ううん?」
「お侍さん、何ぼお困りでも、あんまり
急に町人めかした口調で、そういい出した唯七の袖を、新六は、懸命に引いて、
「止せ。相手になるな。変に文句をつけられると、うるさいから。」
下では、狂太郎が、大声に、
「この男売りものてえのを笑う以上、お前たちに買う力があるのであろう。よし。そんなら一つ、おれをこのまま、買ってもらうことにする。」
許せ――と、聞こえて、その、あぶれ者の浪人は、もう、佐原屋の土間口へ踏みこんだ様子だ。
二
垣見吾平、左内の大石父子と、小野寺十内は、初対面らしくよそおって、それぞれ身分を明かしなどしてから、道中の話しや、これから下って行く江戸の噂や、わざと大声に、雑談に耽っていた。
すこし離れた、はしご段のとっつきの小暗い一間から、
「だからよ、いわねえこっちゃあねえ。そう毎晩、毎晩、首根っこの白い
「まあ、兄い。そうぽんぽんいうなってことよ。勘弁してくんな。その代り、おいらが明日から、おまはんの振り分けも
と、さかんに高声を洩らしている、お伊勢詣りの帰りと見える熊公、がらっ八といった二人伴れが、いかにもそれらしい拵えの大高源吾と、
と思うと、中庭をへだてた向うの部屋では、
「はい。
医者に化けた村松喜平である。
なるほど、武者修業めいたいでたちの菅谷半之丞が、となりの部屋から話しに来て、何かとうまく相槌を打っている。
そのほか、富森助右衛門、真瀬久太夫、岡島八十右衛門など、同志の人々は、こうして町人、郷士、医師と、思い思いに身をやつして同勢二十一名、きょうこの神奈川の佐原屋に泊まっているのだ。
たがいに未知を装って、ただ同じ方角へ向いて行く一連の旅人が、一時この旅籠に落ちあっただけ、という
関西に散らばって待機中だった同志が、前後して下ってきたのを、江戸に暗躍していた人々が途中まで迎いに出て、この二、三日、あとになり前になり、警戒にこころを砕きながら三々五々、やっと、江戸へ一
「この部屋だなっ!」
おもて二階に、大声が湧いて「この男売り物」の浪人が、がらりと、武林唯七と間新六の室の障子を、引きあけた。
口笛
一
「お侍さま、このとおり、お詫びを――。」
と、かれは、緊張して、顔いろが変っていた。大きな計画のまえに、いまこんなことで騒ぎになり、人眼をひいたりしてはならない。問題を起すようなことがあっては、同志に済まない。それに相手は、どんな人物であるかもわからないのだから――。
「とんでもない失礼なことを申しまして――。」
が、狂太郎は、黙ってはいってきて、その新六のそばを、畳を踏み鳴らしてとおり過ぎると、まだ窓ぎわに立ってにやにやしていた武林の胸を、とんと突いた。
「貴様か。いま何かいって笑ったのは。」
気の短い武林である。突っ立ったまま、むっとした顔で、なにかいっそう事態を悪くするようなことをいいそうな顔なので、新六は、はらはらした。
膝でにじり寄って、とり縋るように、
「いえ。つい、わたくしめが、お気にさわるようなことを申しましたので――。」
「黙っておれ。」
狂太郎は、武林唯七の襟をつかんで、ぐいと締め上げた。
「こいつ、騒がんな。体の構え、眼の配りが、どうも尋常でないぞ。」
それでも唯七は、狂太郎をにらんで、ぬうっと立ちはだかっている。
新六は、あわてた。
「これ、わしにばかり謝まらせておらんで、お前もすわって――いえ、お侍さま、これはすこし、変り者でございまして、気はしごくよろしいのでございますが。」
そして必死に、唯七へ眼くばせした。
すると狂太郎は、びっくりするほど大きな声で笑って、
「変り者か。うふふふ、変りものにゃあ違えねえ。武士が、町人の
武林と、ちらと素早い視線を交した新六が、
「滅相もないことを! わたくしどもは、正直正銘、生れながらの町人なんで。下谷の者でございます、へえ。商用で、ちょっと
狂太郎は、抜け上った唯七の額へ眼をやって、切り落とすようにいった。
「
唯七の指が、襟元を握っている狂太郎の手へ、しずかに掛かった。
「売り物なら、買おうか。」
「この男は売りもの――だが、止めた。もう、貴様らにゃあ売らねえ。」
「売る喧嘩なら、買おうかというのだ。」
新六が、叫ぶようにいって割りこんだ。
「お前は、まあ、相手も見ずに、お侍さんに何をいうのだ――。」
「ふん。」狂太郎は、小鼻をうごめかして、「この手、ほら、この、おれの手を取る手が――おめえ、
もう、止むを得ないと見て、新六は、押入れのほうへ行った。そこに、武林のと二本、道中差が置いてあるのだ。
変な侍が押し上ったので、心配してついてきた宿の番頭や女中たちのおどろいた顔が、廊下からのぞいていた。かれらは、武林と狂太郎の
二
しかし、どっちも刀を抜きはしなかった。間もなく、佐原屋の亭主と、同宿の長老というわけで、垣見吾平、小野寺十内、村松喜平などがその部屋へやって来て、二人のために、狂太郎のまえに頭を
狂太郎は、長いあいだ一同の顔を見まわしていたが、
「うむ。そうか。いや、大事の前の小事だからな。」
と
「斬ったほうがいい。」
唯七が、刀を引っ提げて起とうとするのを、垣見吾平がとめたとき、下の往来から、小鳥の啼くような不思議な声が聞えて、それがだんだん遠ざかって行った。狂太郎は、口笛を吹きながら、立ち去って行くのだった。口笛というものを、この人たちは、はじめて聞いたのだ。
吉良の屋敷内の長屋へ帰ってくると、狂太郎は弟の一角に、
「馬鹿あ見たよ。赤穂の浪士が江戸へはいって来る模様など、すこしもねえぞ。心配するな。それより、こんなに働いてまいったのだから、どうだ、一升買え、いいだろう一升――。」
三
この清水狂太郎のことは、いくら調べてみても、どうも
ただ、日本橋石町三丁目の小山屋弥兵衛方に落ちついた大石の一味は、あとでは、この旅館の裏に借屋住いをして、あの潜行運動を進めたのだったが、吉良のスパイが、その付近に出没するようになった。
するとそのスパイがまた、何者にとも知れず、よく斬り殺されたものだが、そのときは必ず、口笛の音が聞えたそうである。
そして狂太郎は、相変らず、吉良邸の弟の部屋で、酒に酔って終日寝ていたと某書にあるから、十二月十四日の夜も、やはりそこにいたのであろう。するときっと、かれも、一角や小林平八郎、柳生流の使い手だった和久半太夫、新貝弥七郎、天野貞之丞、古留源八郎などと一しょに、相当眼ざましく働いて、斬り死にしたものに相違ない。はっきりした記録が残っていないからわからないが、奥田孫太夫が庭で相手取った一人に、青竹の先に百目蝋燭をつけたのを、寝巻のえり頸へさして、
翌朝、吉良の首を槍の柄に結んで、
「おい、
武林とおなじに、返り血で全身黒くなっている間新六も、歩をとめた。
「なに、口笛が――?」
「うむ、聞える。耳をすまして――ほら! どこからともなく、口笛が――ほら!」