一
六樹園
彼はどっちを向いても嫌なことばかりだと思った。陰惨な敵討の読物が流行するのが六樹園は慨嘆に耐えなかったのである。
客あれば彼はよくこの風潮を論じて真剣に文学の堕落を憂えたものであった。
一度三馬が下町の真ん中からぶらりとこの山の手の六樹園
「菊池太助さまとおっしゃる方がお見えになりましてござりますが。」
と言った時六樹園は誰だかわからなかった。もう一度訊き返せと命じて婢を玄関へ去らせた。するとすぐ引きかえして来て、
「しゃらくさい、とおっしゃるだけで。」
と女中は口を覆って笑った。
「
と六樹園はその一代の名著
語る相手欲しい時だったので六樹園は
どうせ無頼な戯作者だと六樹園は三馬を卑しめて見ていたが、この男と言葉を交える前に日頃から不審に耐えないと思っている彼の態度についてまずこの機会に訊いてみたいと六樹園は思った。
で、話が進む前に六樹園は切り出した。
「尊家は
三馬は意外だという顔をした。
「さようなことは私ばかりではげえせん。京伝の煙草入れ、
「いや、山東氏は山東氏として、足下のお気持を聞きたいのです。」
「人間は何でも売る物が多ければ多いほど
三馬はけろりとして答えた。六樹園は
「なにごとも
「さよう。大人の御勉強、御著述も、早く言えば生活のためでげしょう。」
「いや、
六樹園は昂然として言った。今度は三馬がびっくりした。
「文学道――さようなものはどこにあるか一度めぐり会いてえものでげす。」
と三馬はにたにたして語をつないだ。
「なるほど、六樹園大人は小伝馬町の名だたる
ずいぶんものの考え方が違うものだと六樹園は思った。度し難い気がして黙ってしまった。同じ文字のことに
それはこの雅言集覧などにはおよそ収録することのできない、巷の
はじめから気持が食い違って主客はちょっと気まずい無言をつづけていた。
ややあって六樹園が言った。
「仇討ち物の流行はどうです。いくら女子供相手の
すると三馬はこんな言葉を吐いた。
「いや、考証を尊んでは面白い物は絶対に書けやせんね。考証と読物の興味とは永遠の喧嘩相手でげす。あっしは考証を無視するのが作者の唯一の仕事だとまで思いやすよ。その古典を引証するがごときはあえて精確なるを要しやせん。一、二
と言った。
六樹園は、下素下人相手の人気取り専門の下らぬ作家とのみ思っていた式亭を、ちょっと見直す気もちになって自ずと対談の心構えが変って来た。
二
草双紙はもう行き詰まったと言われていた。ずいぶん前からそういわれながら、あとから後からと同じような趣向のものが出て、それがかなり消化されて行くところを見ると、まだまだ人気があるに相違なかった。
その筋立は千篇一律である。君父の不慮の死、お家重代の宝物の紛失、忠臣の難儀、孝子の旅立ち、忠僕の艱苦、道中の雲助、大井川の川止め、江戸へ出ると三社前の水茶屋女、見覚えのある編笠姿、たそや行燈、見返り柳、老父の病いを癒すべく朝鮮人蔘を得るための娘の身売り、それを助ける若侍、話し合ってみればそれが幼時に別れた兄妹、それから手掛りがついて仇敵の所在がわかり、そこで
こうして長篇全盛の世となるに及んで、作者は競って工夫を凝らし、仇敵討物はますます凄惨な作意に走ってその残酷
六樹園ははじめこの流行に苦笑していたが、あまり度を外した
「忠臣孝子に思わぬ辛苦を
そう言って六樹園は立って行って本箱をしばらく探していたが、やがて一冊の草紙を持って座に帰ったのを見ると、それは文化二年に出た、
六樹園はその序を開いて三馬の前に読み上げた。
「今や
その冊中面白からんことを専にして死亡の体を多くす、と六樹園はそこを二度繰り返して読んだ。そして
三馬は黙ってにやにやしていた。六樹園が訊いた。
「尊家はこの愚劣なる敵討物にはあまり筆をお染めにならんようでありますな。宇田川町の大人もたしかに才人ではあったが、悪い風を作られたものです。」
宇田川町の大人とは敵討物の大御所
「私は敵討物はあまり好みません。」
と三馬が答えた。式亭雑記の中にも「おのれ三馬敵討のそうしは嫌いなりしが」とあるとおりである。
「しかし、今も申した
六樹園は明らかに、嫌な顔をした。三馬は構わずにつづけた。
「当節流行の合巻のはじまりは、あっしの「
ほとんど無邪気なほど三馬は得意気にそう言った。西宮というのは本材木町一丁目西宮新六という書舗であった。三馬の口から共鳴を得ようと思っていた六樹園は失望してその嬉しそうな三馬の顔を侮蔑をこめて見つめた。
「それに味を占めて敵討物はその後も二、三物しやした。箱根
「ほほう、それでは宇田川町にもあえて劣りますまい。お盛んなことで。」
と六樹園は皮肉を含ませて言ったが三馬にはそれが通じたのか通じないのかすまして答えた。
「なに、それほどでもげえせん。」
そのまったく世界の違った三馬のようすを見ているうちに、一つの素晴しい考えが六樹園の頭に来た。
こんな無学な、文学的教養のない式亭輩が興に乗じて一夜に何十枚となく書き飛ばして、それで当りを取るような敵討物である。それほど大衆の程度が低いのだ。何の用意もなく思いつき一つで造作もなく書けるにきまっている。この三馬などが相当に大きな顔をしているのだから合巻読み物の世界はじつに下らない容易いところだ。今この自分、六樹園石川雅望が、このありあまる国学の
「式亭どの。私もひとつ敵討ものを書いてみようかと思いますが。」
「それは結構なことで。ぜひ一つ、拝見いたしたいものでげす。」
三馬は興なげに答えた。
三
国学者の自分が今
「一般の読者は低劣なものでしょう。
と六樹園はそれが
「さあ、さようなものでげすかな。」
「尊公などの読者を掴む秘伝は何です。やはり筆を下げることでござろう。」
「下げると見せて下げるにあらず――。」
「いや、そうでない。大衆は
「おのれから低めてかかってどうして半人なり一人なりに読ませて面白かったと言わせることができやしょう。それでは
「なに、失礼ながら尊公などは臭いもの身知らずです。この私がぐんと調子を下げて、あたまに浮かび放題、筆の走るに任せてでたらめを書けば喝采疑いなしです。」
「でたらめに見えてでたらめにあらず。」
三馬もさすがにちょっとむっとしてそう言った。
すると六樹園は面白そうにこう提案した。
「一つ競作をやりましょうかな。これから尊家が一作、
「面白いでげしょう。と言いてえところでおすが、宿屋の飯盛大人に出馬されては、さしずめこの三馬など勝つ
ほんとにそう思っているのかどうか三馬は
思っていることを言われて六樹園は悪い気はしなかった。もう根っからの戯作者らしく、
「なに、それほどでもげえせん。」
と三馬の口真似をして笑った。とにかく純文学の六樹園と戯作渡世の三馬と、ここに競作をしようということに約束ができて三馬はまたぶらりと帰って行った。
その夜から六樹園は敵討ちの黄表紙の筋立てを考えはじめた。できるだけ愚にもつかないことを恥知らずの無学な筆で下品に書き流せばいい、大衆は低いものだから調子さえ下げれば大受けに受けると思っているので、どうしたら馬鹿にしてかかることができるかとそれに骨を折った。難かしくなってはいけない。
六樹園はすこし持てあましたが、それにつけていつの間にか熱中している自分を発見して苦笑した。三馬はきっと相変らず酒を飲みながら楽々と書いているだろうと思うと、すこし憎らしいような気もした。
敵討物の傍若無人の横行に
それだけわれ人を馬鹿にし、調子を下げれば、どんなに当るか想像もつかないと思った。この「敵討記乎汝」が出版されれば、髪結床でも銭湯でも人の寄り場はどこへ行っても、この作の評判で持ちきりだろうと思うと六樹園は苦笑しながらもいい気もちだった。ことに敵うち物の不快な横行に対する腹いせの意味も偶して「敵討記乎汝」とやったところはわれながら上できだと思った。
六樹園は苦笑をふくみながらさっそく筆を下ろした。
名門好みの高慢な若い男があった。天下に名を轟かして味噌を上げたいと心がけたすえ、まず兵法を習ったが失敗して、書を学んで成らず、つぎに役者を志したはいいが、たった初日一日が一世一代の冷飯に終ったので、今度は
そこで過って伯父の
いかさま低級な、人を小馬鹿にした話で、これが受けないわけはないと六樹園は大変な意気込であった。
六樹園はこの巻の終りにこう書いた。
「この本に誰ひとり怪我をした者がない。この上もなくめでたいめでたい。」
と思う存分一世を皮肉ったつもりであった。
ところがこの「敵討記乎汝」は出版されてみるとすこしも売れなかった。洛陽の紙価を高めるどころか何の評判も聞かなかった。六樹園はことごとく案に相違してひどく気に病んだ。出版後それとなく出入りの者に噂のよしあしを訊いてみたり、当分のあいだ家人をあちこちの床屋や湯屋や人の集まる場所へやって探らせてみたが、そういうところでの評判は相変らず低級な戯作者どもの作品ばかりで「敵討記乎汝」の一篇は脱稿と同時にまるで火をつけて燃やしたようで、てんで存在しないもののごとく何人の口の
受けないはずはないが、何がたらないのだろうと、六樹園はちょっと悩んだ。結局、これでもまだ程度が高いのだろう、大衆はなんという低劣なのであろうと考えて、それでやっと自らを慰めたが、どこからか敵討記乎汝と自分が言われているようで、当分不愉快でならなかった。
四
「七役早替。敵討記乎汝」六樹園作、
一方、三馬は六樹園との競作の約束などはすっかり忘れて相変らず本石町新道の家で何ということない
彼は文化[#「文化」は底本では「文政」]七年に「
三馬はその性質のせいかよく画家と喧嘩をした。
この「於竹大日」は、安永六年に芝の愛宕で開帳した出羽国湯殿山、黄金堂玄良坊、佐久間お竹大日如来の縁起を材料にしたもので、その時にも青本が行われたのを三馬がいま黄表紙に仕立てたものである。業病、
版元は
「
また書いた。
「故におもわずも其年の大あたりにて、部数他の草紙に比して当年の冠たり。」
これを聞いて、絵草紙の売れ行きは一に画のためと鼻をうごめかしている春亭は非常に感情を害した。そこへ翌年三馬の「於竹大日」の原稿が廻って来た。癪に触っているから春亭はうっちゃらかしておいて後から来た京伝のお夏清十郎物に精を出して描いた。
三馬は本石町四丁目新道の家で参考書も不自由な物侘びしい中でこれを書き上げたのである。八月に版元へ廻す原稿を勉強して五月前に仕上げて春亭へ頼んだのである。勝川春亭は三馬にはいろいろ厄介になっていて恩もあるけれど、前のことがあるので意地になってわざと遅らした。京伝の草稿が来ているし、その版元の泉屋市兵衛のほうからやいやい言ってくるのでそっちのほうを先に描いた。驕慢な三馬が絵に差し出口をきくので懲らしてやれと思ったのである。そのために京伝の作は早くできたが、三馬の「於竹大日」は肝心の正月の間に合わなかった。
「なんでえ、べらぼうめ。約束しておいたじゃあねえか。おいらのほうが早く書き上げたんだから、一日でも京伝より早く開市にするのが順道じゃあねえか。もし遅れたら以後春亭とは絶交だと言っておいたが、果して春亭のためにおれのほうが遅れて開板となったから、もうこれからは春亭が方へは行かねえ。」
と三馬は青筋を立ててそのとおり「雑記」にも書いた。
「春亭は曲のねえ、恩を知らねえ男だ。」
とも言った。が、春亭にしてみれば、京伝のはお夏清十郎の華やかな明るい場面だのに、三馬の「於竹大日」はのべつに出てくる幽霊と暗い陰惨な世界の連続なので嫌気がさしてしまったのだった。
「於竹大日」のあらすじはこうである。
藪だたみの泥助という賊に傷つけられたのが因で奥州の百姓亀四郎は癩病になる。遺されたお竹は大層な孝女だが、父亀四郎の死骸は悪鬼に掴み去られてしまう。お竹は邪慳な母お鶴の病いを癒さんと夜詣りをして雪中に
それは文化八年の四月十九日で、朝のうちから曇ってぱらぱらと村雨の落ちている日であった。暮れに移転した三馬は、本町二丁目の新居から手打ちの会所である通油町新道の旗亭若菜屋へ出かけて行った。会は夜の六つ刻に始まった。春亭は相弟子の春徳といっしょに列席して他意なさそうに三馬と談笑した。和睦の宴は順調に進んでそれはいつの間にか戯作者仲間の評判から文壇のうわさ話に酒とともに調子づいて行った。
この会のあることをその前日に三馬から聞いた六樹園は、戯作者がそんなに一日も早くと自作の開板を争って、そのために画工とぶつかるなどという気持ちがどうしてもわからなかったので、研究のつもりでこの会へ出てみようと思った。
六樹園が若菜屋へ着いた時は宴はもう
一わたり最近に出た敵討ものの批評が終って、誰かがあの六樹園作「敵討記乎汝」のことを、持ち出したところだった。
素人の一般大衆はとにかく、これは作者や画家版元のあつまりだから、きっとここではあの作の評判は素晴らしくいいだろうと六樹園は面をかがやかして立ち聞いた。
「敵討記乎汝とは、なんという戯けた題でげしょう。六樹園も焼きが廻りやしたな。」
と誰かが大声に笑った。皆の爆笑がそれに加わった。
「いや、あの作は戯けているようで、心がすこしも戯けておりやせん。こころに重いもののある嫌味な作品でげす。」
と言ったのは三馬の声であった。
「調子を下ろしさえすればいいと思っていやすから、読む者の心がすこしもわかっていやせん。あの仁には戯作は無理でげす。可哀そうでげすよ。総じて文学者は学が鼻にかかり、己れに堕ちて皆あんなものでげす。」
とも言った。
「
と言ったのは勝川春亭であった。三馬は無言で
六樹園はもうその席へはいって行く気がしなかった。俗物どもが! いい気なものだと思った。しかしどこからか敵討たれ記乎汝と言われているような気がした。六樹園はそのままそっと若菜屋の玄関へ引っかえして