しずかに
風が出たらしく、しめきった雨戸に時々カサ! と音がするのは庭の柿の
江戸は
「いつ見ても斬れそうだのう」
ひとりごとのように鉄斎がいう。
「はい」
と答えたつもりだが、弥生の声は口から外へ出なかった。
「年に一度しか取り出すことを許されない刀だが、明日はその日だ――誰が
鉄斎というよりも刀が口をきいているようだ。が、ちらと娘を見返った鉄斎の老眼は、父親らしい愛撫と、親らしい
鉄斎は、手にしていた一刀を、錦の袋に包んだ
膝近く同じ
乾雲、坤竜の二刀、まことに天下の
ほかでもないというのは。
二つの刀が同じ場所に納まっているあいだは無事だが、一
そして刀が
離ればなれの乾雲丸と坤竜丸が、家の
明日は、十月へはいって初の
その試合の前夜、鉄斎はこうして一年ぶりに刀を出してしらべている。
「お父様、あの、墨がすれましてございます」弥生にいわれてぽっかり眼をあけた鉄斎、サラサラと紙をのべながら、夢でも見ているように
「明日は
諏訪栄三郎! と聞いて、娘十八、白い顔にぱっと紅葉が散ったかと思うと、座にも居
墨の香が部屋に流れる。
「はっはっは、うむ! よし! わかっとる」
大きくうなずいた鉄斎老人、とっぷり墨汁をふくんだ筆を持ちなおすが早いか、
本日の試合に優勝したる者へ乾雲丸に添えて娘弥生を進ず
小野塚鉄斎
「あれ! お父さまッ!」
と叫んで弥生の声は、嬉しさと
広やかな道場の板敷き、正面に弓矢八幡の大
順もなければ礼もない。勝負あったと見るや、一時に五、六人も跳び出して、先を争って撃ってかかるが、最初に一合あわせた者がその敵に立ち向かって、勝てば続けて何人でも相手にする。しかし一度引っこむと二度は出られない。こうして最後に勝ちっ放したのが一の勝者という仕組みである。
出たかと思うと。すぐ参った! とばかり、帰りがけに
内試合とは言え、火花が散りそう――。
時は、徳川八代将軍
人は久しく泰平に慣れ、ともすれば型に
道場の壁に大きな貼り紙がしてある。
勝った者へ弥生をとらせる! 先生のひとり娘、曙小町の弥生様が
「誰だ? お次は誰だ?」
今まで勝ち抜いて来た森
「かかれ、かかれ! 休ませては損だ」
「誰か森をひしぐ者はないか――諏訪! 諏訪はどうした? おい、諏訪氏!」
「そうだ、栄三郎はどこにいる!」
やがてこのざわめきのなかに、浅黄
と、
栄三郎は、浅草
ぴたり――
勝負は時の運とかいう。が、よもや! と思っていると、チ……と竹刀のさきが触れ合う音が断続して、またしいんと水を打ったよう――よほどの大仕合らしい。
と、掛け声、
あれ! 栄三郎様、勝って! 勝って! と弥生が気をつめた刹那、
「参った! お引きくだされ、参りました」という栄三郎の声、はっとして弥生がのぞくと、竹刀を遠くへ
わざとだ! わざと負けたのだ! と心中に叫んだ弥生は、きっと歯を
「わたしを嫌ってわざと負けをお取りになるとは、栄三郎さま、お恨みでございます! おうらみでございます。ああ――わたしは、わたしは」
胸を掻き抱いて狂おしく身をもむたびに、
この時、玄関に当たって人声がした。
「頼もう!」
根岸あけぼのの里、小野塚鉄斎のおもて玄関に、枯れ木のような、恐ろしく痩せて背の高い浪人姿が立っている。
赤茶けた髪を
たそがれ
その通り魔の一つではないか?――と思われるほど、この侍の身辺にはもうろうと躍る不吉の影がある。
右手をふところに、左手に何やら大きな板みたいな物を抱えこんで奥をのぞいて、
「頼もう――お頼み申す」
と大声だが、夕闇とともに広い邸内に静寂がこめて裏の権現様の森へ急ぐ鳥の声が空々と聞こえるばかり。侍はチッ! と舌打ちをして、
道場は大混乱だ。
必ず勝つと信じていた栄三郎が森徹馬と仕合って明らかに自敗をとった。弥生を避けて負けたのだ! 早く母に死別し、自分の手一つで美しい乙女にほころびかけている弥生が、いま花の蕾に悲恋の苦をなめようとしている! こう思うと鉄斎老人、煮え湯をのまされた心地で、栄三郎の意中をかってに見積もってあんな告げ紙を貼り出したことが、今はただ弥生にすまない! という自責の念となり、おさえきれぬ憤怒に転じてグングン胸へ突きあげてくる。
鉄斎は起って来て、栄三郎をにらみつけた。
「これ、卑怯者、竹刀を取れ!」
栄三郎の
「お言葉ながらいったん勝負のつきましたものを――」
「黙れ、黙れ! 思うところあってか故意に勝ちをゆずったと見たぞ。
「しかし当人が参ったと申しております以上――」
「しかし先生」徹馬も一生懸命。
「エイッ、言うな! 今の勝負は鉄斎において異存があるのだ。ならぬ、今いちど立ち会え!」
この騒ぎで誰も気がつかなかったが、ふと見ると、いつのまに来たものか、道場の入口に人影がある。玄関の侍が、いくら呼んでも取次ぎが出ないのでどんどんはいりこんで来たのだ。
相変わらず
鉄斎が見とがめて、近寄っていった。
「何者だ? どこから来おった!」
「あっちから」
ぬけぬけとした返事。上身をグッとのめらせて、声は優しい。一同があっけにとられていると、今日の仕合に優勝した
名は! ときくと、
「なるほど。御姓名が丹下殿で丹下流――いや、これはおもしろい。しかし、せっかくだが今日は内仕合で、他流の方はいっさいお断りするのが当道場の
ゲッ! というような音を立てて、丹下左膳と名乗る隻眼の侍、
「またの日はよかったな。道場破りにまたの日もいつの日もあるめえ。こら! こいつら、これが見えるか」
片手で突き出した板に
や! 道場の看板! さては、門をはいりがけにはずして来たものと見える。おのれッ! と総立ちになろうとした時、
「こうしてくれるのだッ!」
と丹下左膳、字看板を離して
カアッ、ペッ!
はやる弟子を制して大手をひろげながら、鉄斎が森徹馬をかえりみて思いきり
「右手を出せ」
すると、
「右手はござらぬ」
「何? 右手はない? 隻腕か。ふふふ、しかし、隻腕だとて柔らかくは扱わぬぞ」
左膳、口をへの字に曲げて無言。独眼隻腕の道場荒し丹下左膳。左手の位取りが尋常でない。
が、相手は隻腕、何ほどのことやある?……と、タ、タッ、
と見えたのはほんの瞬間、ガッ! というにぶい音とともに、
「う。う。う。
と勇猛徹馬、小手を巻き込んでつっぷしてしまった。
同時に左膳は、くるりと壁へ向きなおって、もう大声に告げ紙を読み上げている。
「栄、栄三郎、かかれッ!」
血走った鉄斎の眼を受けて、栄三郎はひややかに答えた。
「勝抜きの森氏を破ったうえは、すなわち丹下殿が一の勝者かと存じまする」
宵闇はひときわ濃く、曙の里に夜が来た。
日が暮れるが早いか、内弟子が先に立って、庭に酒宴のしたくをいそぐ。まず芝生に
林間に酒を暖めて
が、その前に、乾坤の二刀を
植えこみを抜けると、清水観音の泉を引いたせせらぎに、一枚石の橋。渡れば
月の出にはまがある。やみに
――丹下左膳に、ともかくおもて向ききょうの勝抜きとなっている森徹馬が打たれてみれば、いくら実力ははるか徹馬の上にあるとわかっていても、その徹馬に負けた栄三郎を今から出すわけにはゆかない。栄三郎もこの理をわきまえればこそ辞退したのだ。何者とも知れない隻腕の剣豪丹下左膳、そこで、刀痕あざやかな顔に強情な
で、書院から
参詣の行列。
泣きぬれた顔を
やがて、ぞろぞろと暗い庭をひとまわりして帰ると、それで刀を返上して、ただちにお開き……焚き火も燃えよう、若侍の血も躍ろう――という騒ぎだが、この時!
自分の坤竜丸と左膳の乾雲丸とをまとめて返しに行くつもりで、しきりに左膳の姿を捜していた徹馬が、突如
「おい、いないぞ! あの、丹下という飛入り者が見えないッ!」
この声は、行列が崩れたばかりでがやがやしていた周囲を落雷のように撃った。
「なにイ! タ、丹下がいない?」
「しかし、今までそこらにうろうろしてたぞ」
たちまち折り重なって、徹馬をかこんだ。
「
その中の誰かがきくと、徹馬は声が出ないらしく、
「うん……」
続けざまにうなずくだけ――。
乾雲丸を持って丹下左膳が姿を消した。
降って湧いたこの
離れたが最後、雲竜相応じて風を起こし雨を呼び、いかなる
……凶の札は投げられた。
死肉の山が現出するであろう! 生き血の河も流れるだろう。
剣の林は立ち、乱闘の野はひらく。
そして! その
非常を報ずる鉄斎道場の警板があけぼのの里の
変異を聞いて縁に立ちいでた鉄斎、サッと顔色をかえて
もう門を出たろう!
いや、まだ塀内にひそんでいるに相違ない。
とあって、森徹馬を頭に、二隊はただちに屋敷を出て、根津の田圃に提灯の火が蛍のように飛んだ。
同時に、バタン! バタン! と表裏の両門を打つ一方、庭の捜査は鉄斎自身が采配をふるって、木の根、草の根を分ける抜刀に、焚火の反映が
ひとりそのむれを離れた
夜露が足をぬらす。
栄三郎は裾を引き上げて草を踏んだ。と、なんだろう――
拾ってみると、緋縮緬の
はてな! 弥生様のらしいがどうしてこんなところに! と首を傾けた……。
とたんに?
闇黒を縫って白刃が右往左往する庭の片隅から、あわただしい声が波紋のようにひろがって来た。
「やッ! いた、いたッ! ここに!」
「出会えッ!」
この二声が裏木戸のあたりからしたかと思うと、あとはすぐまた静寂に返ってゾクッ! とする剣気がひしひしと感じられる。
声が切れたのは、もう斬りむすんでいるらしい。
散らばっている弟子達が、いっせいに裏へ駈けて行くのが、夜空の下に浮いて見える。
ぶつりと武蔵太郎の鯉口を押しひろげた栄三郎、思わず吸いよせられるように足を早めると、チャリ……ン!
「うわあッ!」
一人斬られた。
――星明りで見る。
片袖ちぎれた丹下左膳が大松の幹を背にしてよろめき立って、左手に取った乾雲丸二尺三寸に、今しも血振るいをくれているところ。
別れれば必ず血をみるという妖刀が、すでに血を味わったのだ。
松の根方、左膳の裾にからんで、黒い影がうずくまっているのは、左膳の片袖を頭からすっぽりとかぶせられた弥生の姿であった。
神変夢想の働きはこの機! とばかり、ずらりと遠輪に囲んだ剣陣が、網をしめるよう……じ、じ、じッと爪先
「この刀で、すぱりとな、てめえ達の
無言。
鉄斎は? 見ると。
われを忘れたように両手を背後に組んで、円陣の外から、この
「えいッ!」
立ち上がりざま、下から突きあげたが、
「こいつウ!」
と呻いた左膳の気合いが寸刻早く乾雲
弥生の悲鳴が、尾を引いて
これを機会に、弧を画いている
が、人血を求めてひとりでに走るのが乾雲丸だ。しかも! それが剣鬼左膳の手にある!
来たなッ! と見るや、膝をついて隻手の左剣、逆に、左から右へといくつかの
ダッ……とさがった鉄斎、払いは払ったが、相手は丹下左膳ではなく魔刀乾雲である。引っぱずしておいて立てなおすまもなく、二の太刀が
「お! 栄ッ! 栄三――」
そうだ栄三郎は何をしている? 言うまでもない。武蔵太郎安国をかざして飛鳥ッ! と撃ちこんだ栄三郎の初剣は、虚を食ってツウ……イと流れた。
「おのれッ!」
と追いすがると、左膳は、もうもとの松の根へとって返し、肉迫する栄三郎の前に弥生を引きまわして、乾雲丸の切先であしらいながら、
「斬れよ、この娘を先に!」
白刃と白刃との中間に狂い立った弥生、血を吐くような声で絶叫した。
「栄三郎様ッ、斬って! 斬って! あなたのお手にかかれば本望ですッ……さ、早く」
栄三郎がひるむ隙に、松の垂れ枝へ手をかけた左膳、抜き身の乾雲丸をさげたまま、かまきりのような身体が塀を足場にしたかと思うと、トンと地に音して外に降り立った。
火のよう――じんの声と
それが町角へ消えてから
「ちッ。なんだい今ごろ、町医じゃあるめぇし」寝ようとしていた庭番の
「おう! あなた様は根津の道場の――」
御主人へ火急の用! と言ったまま、徹馬は敷き台へ崩れてしまった。
土屋多門は鉄斎の従弟、小野塚家にとってたった一人の身寄りなので、徹馬は変事を知らせに曙の里からここまで駈けつづけて来たのだ。
何事が起こったのか……と、寝巻姿に
――丹下左膳という無法者が舞いこみ、大事の仕合に一の勝ちをとって乾雲丸を
「老先生もかッ」
「ざ、残念――おいたわしい限りにございます」
「チエイッ! 御老人は
徹馬は、外へ探しに出ていて、裏塀を乗り越えるところを見つけて斬りつけたが、なにしろこの暗夜、それに乾雲丸の切先
お駕籠を、と老爺が言うのを、
「なに、九段で辻待ちをつかまえる」
と、したくもそこそこに、多門は徹馬とつれ立って屋敷を走り出た……。
行く先は、いうまでもなく根津曙の里。
その曙の里の道場。
奥の書院に、諏訪栄三郎と弥生が、あおざめた顔をみつめあって、息づまる無言のまま対座している。
鉄斎をはじめ
遠く近く、ジュウン……ジュンという音のするのは焚き火に水を打って消しているのである。いきなり障子の
「まったく、なんと申してよいやら、お
一句一句切って、栄三郎は何度もいって言葉をくり返した。
「御秘蔵の乾雲丸が先生のお命を絶とうとは、
「栄三郎様!」
「いや、こうなりましたうえは、いたずらに嘆き悲しむより、まず乾雲を取り返して後難を防ぐのが上分別かと――」
「栄三郎さまッ!」
「それには、私に一策ありと申すのが、刀が刀を呼ぶ。乾雲と坤竜は互いにひきあうとのことですから、もし、私に、この坤竜丸を帯して丹下左膳めをさがすことをお許しくださるなら、刀同士が糸を引いて、必ずや左膳に出会いたし……」
「栄三郎さまッ!」
「はい」
「あなたというお人は、なんとまあお気の強い――刀も刀ですけれど弥生の申すことをすこしもお聞きくださらずに」
「あなたのおっしゃること――とはまたなんでございます?」
「まあ! しらじらしい! あなたさえ今日勝つべき仕合にお勝ちくださったら、こ、こんなことにはならなかったろうと……それを思うと――栄三郎様ッ、お恨み、おうらみでございます」
「勝負は時の運。私は他意なく立ち合いました」
「うそ! 大うそ!」
「ちとお
「いいえ。あなたのようなひどい方がまたとございましょうか。わたしの心は百も御承知のくせに、女の身としてこの上もない恥を、弥生は、きょう初めて……」
「弥生様。道場には先生の御遺骸もありますぞ」
「ええ……この部屋で、父はどんなに嬉しそうににっこりしてあの貼り紙を書きましたことか――」
「――それも、余儀ありませぬ」
「栄三郎さまッ! あ、あんまりですッ!」
わッ! と弥生が泣き伏した時、廊下を踏み鳴らしてくる多門の
おののく白い
「では、この刀は私がお預かりいたします。竜は雲を招き、雲は竜を待つ、江戸広しといえども、近いうちに坤竜丸と丹下の首をお眼にかけましょう――」
こうして、戦国の昔を思わせる
うすあばたの顔に切れの長い眼をとろんとさせて、倒した
年齢は三十七、八。五百石の殿様だが、道楽旗本だから髪も
父は鈴川宇右衛門といって
秋の夜なが。
「なんだ、鈴川、新しい
「うむ。前のは使いが荒いとこぼして暇を取っていった。あれは
「へっへっへっへっ」
「ヘヘヘ、使いが荒いなんて、殿様、なんでげしょう、ちょいとお手をお出しなすったんで……こう申しちゃなんですけれど、こちらの旦那と来た日にゃ
本所の化物屋敷と呼ばれるこの家に今宵とぐろをまいている連中は、
「お
誰かがどなるように声をかけるのを、
「なんとか言ってるよ……
「手放し恐れ入るな。しかしお藤、貴様もしっかりしろよ。あいつ近ごろしけこむ穴ができたらしいから――」
「あれさ、どこに?」
「いけねえ、いけねえ」与吉があわてて両手を振った。
「そう水を向けちゃあいけませんやあねえ。
どッ! と浪のような笑いに座がくずれて、それを機に、一人ふたり帰る者も出てくる。
櫛まきお藤は、美しい顔を酒にほてらせて、男のように胡坐の膝へ両手をつっ張ったまま、
この女はこれでおたずね者なのだ――こう思うと源十郎は、自分が絵草紙の世界にでも生きているような気がした。
「姐御、皆さんお帰りです。お供しやしょう」与吉にうながされて、ひとり残っていたお藤は、片手をうしろに膝を立てた。
「そうだねえ。
「うむ帰るか」
と源十郎は横になったまんまだ。
食べ荒らした皿小鉢や、倒れた徳利に蒼白い光がさして、畳の目が読める。
軒低く、水のような月のおもてに
与吉がお藤を送って、浅草の家へ帰って行くと、しばらくして、寝ころんでいた源十郎が、むくりと起き上がっておさよを呼んだ。
「はいはい」
と出てきたおさよ婆さん、いつのまにか客が帰ってがらんとしているのにびっくりして、
「おやまあ、皆さまお帰りでござんしたか。ちっとも存じませんで――ここはすぐに片づけますけれど、あのお居間のほうへお床をとっておきましたから」
「まあ、いい、それより、戸締りをしてくれ」
縁の戸袋から雨戸をくり出しかけたおさよの手が、思わず途中で休んでしまう。
近いところは物の影がくっきりと地を這って、
おさよは源十郎をふりかえった。
「殿様、いい月でございますねえ」
すると源十郎。
「おれは月は大嫌いだ」
と、はねつけるよう。
「まあ、月がお嫌い――さようでございますか。ですけれど、なぜ……でござんしょう?」
「なぜでも嫌いだ。月を見るとものを思う。人間ものを思えば苦しくもなる。そのため――かも知れぬな」
「お別れになった奥様のことでも思い出して、おさびしくなるのでございましょうよ」
「ふふふ、そうかも知れぬ。ま、早くしめるがいい」
すっかり戸締りができると、源十郎はまた寝そべって、
「さよ、ここへ来て、ちょっと肩へつかまってくれ」
按摩を、と言う。
おさよは
「もう
「つい今し方
「そうか。道理で眠いと思った。あああああ!」
「貴様、年寄りだけあって眠がらんな。身体が達者とみえる」
「ええええ、そりゃもういたって丈夫なほうで、その上、年をとるにつれて、なかなか夜眼が合わなくなりますのでございますよ。ですから、これから
「だいぶ
「ございます、ひとり」
「男か女か」
「女でございます」
「女か――それでも、楽しみは楽しみだな」
「なんの、殿様、これがもし男の子でしたら、
「主取りと申すと、貴様武家出か」
「はい。お恥ずかしゅうございます」
「ほほう。それは初耳だな。して藩はどこだ?」
「殿様、そればかりはおゆるしを。こうおちぶれてお
「それはそうだ。これはおれが心なかったな。しかし、さしずめ永の浪々のうちに
「お察しのとおりでございます」
「それで、その娘というのはいかがいたした?」
「宿元へ残して参りましたが、それが殿様、ほんとに困り者なんでございますよ」
「どうしてだ?」
「いえね。まあ、この婆あとしては、幸い
「浮気か」
「泣かされますでございますよ」
「なんだ、相手は」
「どこかお旗本の御次男だとか――」
「よいではないか。他人まかせの養子というやつには、末へいって
「まあ、殿様のおさばけ方――でも、どうもおうちの首尾がおもしろくございませんでねえ」
つと、源十郎は聞き耳を立てた。
びょうびょうと吠える犬の声に追われて、夜霧を踏む跫音が忍んで来たかと思うと、
しッ! しッ!
と庭に犬を叱る
「おい! 源十、
――帰って来たな、とわかると、源十郎の眉が開いて、あちらへ行っておれと顎でおさよを立ち去らせるが早いか、しめたばかりの戸をまたあける。
「おそかったな。今ごろまでどこへ行っていた?」
それには答えず、左膳は用心深く室内をうかがって、
「連中は?」
「今帰ったところだ」
左膳は先に立って
左膳の
「すわれ!」
源十郎は、夜寒にぞっとして丹前を引きよせながら、
「
「いや、少々暴れた。あははははは」
「いいかげん
こう忠言めかしていった源十郎は、そのとき、
「なんだそれは? 陣太刀ではないか」
すると左膳は、得意らしく口尻をゆがめたが、
「ほかに誰もおらんだろうな?」
と事々しくそこらを見まわすと、思いきったように膝を進めて、
「なあ鈴川、いやさ、源的、源の字……」
太い
「なんだ? ものものしい」源十郎は笑いをふくんでいる。「それよりも貴公色男にはなりたくないな。先刻までお藤が待ちあぐんで、だいぶ冠を曲げて帰ったぞ、たまには宵の口に戻って、その傷面を見せてやれ、いい
源十郎の吹きつける煙草の輪に左膳はプッ! と顔をそむけて、
「
「今夜に限って妙に述懐めくではないか。しかし、言って見ればもうかれこれ半
「そうなるか。早いものだな、俺はそのあいだ、真実貴様を兄貴と思って来た――」
「よせよ! 兄と思ってあれなら弟と思われては何をされるかわからんな。ははははは」
「冗談じゃあねえ。俺あ今晩ここに、おれの一身と、さる北境の大藩とに関する一大密事をぶちまけようと思ってるんだ」
前かがみに突然陣太刀作りの
「さ、
と語り出した。源十郎が、灯心を摘んで油をくれると、ジジジジイと新しい光に、濃い
左膳の言葉。
この風のごとき浪士丹下左膳、じつは、江戸の東北七十六里、奥州中村六万石、
で、その用向きとは?
れっきとした藩士が、なぜ身を
そこには、何かしら相当の
珍しく正座した左膳の態度につりこまれて、源十郎の顔からも薄笑いが消えた。
二人を包む
ただ廊下に立ち聞くおさよは、相馬中村と聞いて、危うく口を逃げようとしたおどろきの声を、ぐっと
六万石相馬様は
そこで、
どうせ孫六をさがすなら、この巨匠が、臨終の際まで精根を
とてもだめ。
とわかって、正面の話合いはそれで打ち切りになったが、大膳亮の胸に燃える慾炎は、おさまるどころか新たに油を得たも同様で、妄念は七十六里を飛んで雲となり、一図に曙の里の空に
物をあつめてよろこぶ人が、一つことに気をつめた末、往々にして捉われる
領主大膳亮が、あきらめられぬとあきらめたある夜、おりからの
血を流しても孫六を手にすべく、死を賭した決意を見せて、不浄門から放された剣狂丹下左膳、そのころはもう馬子唄のどかに江戸表へ下向の途についていた。
おもて向きは浪々でも、その実、太守の息がかかっている。
この乾坤二刀を土産に帰れば、故郷には、至上の栄誉と信任、莫大な黄金と大禄が待っているのだ。
出府と同時に、本所法恩寺前の鈴川源十郎方に身をよせた左膳は、日夜ひそかに鉄斎道場を見ていると、年に一度の秋の大仕合に、乾雲坤竜が一時の
それ以来、待ちに待っていた十月初の
横紙破りの道場荒しも、刀の
「老主を始め、十人余りぶった斬って持ち出したのだ。抜いて見ろ」
……なが話を結んだ左膳、片眉上げて大笑する。重荷の半ばをおろした心もちが、怪物左膳をいっそう
すわりなおした源十郎、懐紙をくわえて鞘を払い、しばし乾雲丸の
「見事。――鞘は平糸まき。
「ところが、しかたがあるのだ。源十、貴様はまだ知らんようだが、雲は竜を招き、竜は雲を呼ぶと言う。な、そこだ! つまり、この刀と脇差は、刀同士が探しあって、必ず一対に落ち合わねえことには納まらない」
「と言うと?」
「わかりが遅いな。差し手はいかに離れていようとも、刀と刀が求め合って、
「うむ。言わば因縁の
「そうだ。そこでだ、俺は明日からこの刀をさして江戸中をぶらつくつもりだが、先方でも誰か腕の立つ奴が坤竜を
「助太刀か、おもしろかろう。だが、その坤竜を
「それはわからん。がしかし、色の生っ白い若えので、ひとり手性のすごいやつがおったよ。俺あそいつの剣で塀から押し出されたようなものだ」
「ふうむ。やるかな一つ」
「坤竜丸はこれと同じこしらえ、平巻きの鞘に赤銅の柄、彫りは上り竜だから、だれの腰にあっても一眼で知れる」
近くの百姓家で
かくして、戦国の昔をしのぶ陣太刀作りが、普通の黒鞘の脇差と奇体な対をなして、この時から丹下左膳の腰間を飾ることとなった。
この
「すると丹下様は中村から――」
と知っても、名乗っても出ず、何事かひとり胸にたたんだきりだった。
というのが、死んだおさよの夫
底に何かしら冷たいものを持っていても、
店屋つづきの
蔵前の大通りには、家々の前にほこりおさえの打ち水がにおって、
やでん帽子の歌舞伎役者について、近処の娘たちであろう、稽古帰りらしいのが二、三人笑いさざめいて来る。それがひとしきり通り過ぎたあとは、ちょっと往来がとだえて、
ずらりと並んでいる蔵宿の一つ、両口屋嘉右衛門の店さき、その用水桶のかげに、先刻からつづみの与吉がぼんやりと人待ち顔に立っている。
打てばひびく、たたけば応ずるというので、
「ちッ! いいかげん待たせやがるぜ、殿様もあれで、
両口屋の暗い土間をのぞいては、ひとり口の中でぶつくさ言っている。
外光の明るさにひきかえ、土蔵作りの両口屋の家内には、紫いろの空気が冷たくおどんで、蔵の戸前をうしろに、広びろとした
いまも現に、蔵前中の札差し泣かせ、本所法恩寺の鈴川源十郎が、自分で乗りこんで来て、三十両の前借をねだって、こうして
五百石のお旗本に三十両はなんでもないようだが、相手が危ないからおいそれとは出せない。
取っ
負けつづけて三十金の星を背負わされた源十郎にしてみれば、盆の上の借りだけあって、堅気の相対ずくよりも気苦労なのだろう。今日はどうあっても調達しなければ……と与吉を供に出かけて来たのだが、
「そりゃ今までの
「へい。それはもう充分にお察し申しておりますが、先ほどから申しますとおり、何分にも殿様のほうには、だいぶお貸越しに願っておりますんで、へい一度清算いたしまして、なんとかそこへ形をつけていただきませんことには……手前どもといたしましても、まことにはや――」
源十郎のこめかみに、見る見る太いみみずが這ってくる。羽織をポンとたたき返すと、かれは腰ふかくかけなおして、
「しからば、何か。こうまで
「一つこのたびだけは、手前どもにもむりをおゆるし願いたいんで」
「これだけ事をわけて申し入れてもか」
「相すみません」
起き上がりざま、ピンと
「ようし! もう頼まぬ。頼まなけれあ文句はあるまい。兼七、いい恥をかかせてくれたな」
と歩きかけたが、すぐまた帰って来て、
「おい。もう一度考える
この時、番頭はプイと横を向いて、源十郎への
「いらっしゃいまし――おや! これは
釣られて源十郎が振り向くと、三座の絵看板からでも抜けて来たような美男の若侍が、ちょうど
兼七の愛嬌には眼でこたえて、そのまま二、三人むこうの番頭へ声をかけた。
「やあ、
「それはそれは、どうも恐れ入ります。さ、さ、おかけなすって……これ、
源十郎、これで気がついてみると、自分にはお茶も座蒲団も出ていない。
用人の代理といって札差し両口屋嘉右衛門の店へ来た諏訪栄三郎のようすを、それと知らずに、じっとこちらから見守っていた源十郎は、ふと眼が栄三郎が袖で隠すようにしている脇差の
平糸まき陣太刀づくり……ではないか!
とすれば?
もちろん、それは左膳の話に聞いた
刀が刀をひいて、早くも、左膳につながる自分の眼に触れたのか――こう思うと、源十郎もさすがにうそ寒く感じて、しばし、
「どうすればよいか?」
と、とっさの
「なに、左膳は左膳、俺は俺だ。もう少しこの青二才を見きわめて、その上で左膳へしらせるなりなんなりしても遅くはあるまい。それに、こんな
ひとり胸に答えて、なおも、さりげなく眼を離さずにいると、そんなこととは知らないから、栄三郎はさっそく要談にとりかかる。
「用人の
番頭は二つ返事だ。
いったい札差しは、
ところへ、五十両借りたいという申込み。
三百俵の高で五十両はおやすい御用だ。
「恐れ入りますが、
「うむ、兄の印を持参いたした」
なるほど、藤次郎の実印に相違ないから、番頭の彦兵衛、チロチロチロとそこへ五十両の耳をそろえて、
「へい。一応おしらべの上お納めを願います」
ここまで見た源十郎は、ああ、自分は三十両の金につまっておるのに、あいつら、この若造へはかえって頼むようにして五十両貸しつけようとしている……刀も刀だが、五十両はどこから来ても五十両だ――と、何を思いついたものか、栄三郎をしりめにかけて、ぶらりと、両口屋の店を立ち出でた。
「殿様」
待ちくたびれていたつづみの与吉が、源十郎の姿にとび出してきて、
「ずいぶん手間どったじゃあありませんか。おできになりましたかえ?」
駈けよろうとするのを、
「シッ! 大きな声を出すな」
と鋭く叱りつけて、源十郎はそのまま、蔵宿の向う側森田町の
変だな。と思いながら、与吉もついて露地にかくれると、立ちどまった源十郎、
「金はできなかった。が、今、貴様の働き一つで、ここに五十両ころがりこむかも知れぬ」
「わたしの働きで五十両? そいつあ
「今、あそこの店から若い侍が出て来るから、貴様と俺と他人のように見せて、四、五間おくれてついてこい。俺が手を上げたら、駈け抜けて侍に声をかけるんだ。丁寧に言うんだぞ――ええ、手前は、ただいまお出なすった店の若い者でございますが、お渡し申した
与吉はにやにや笑っている。
「古い手ですね。うまくいくでしょうか」
「そこが貴様の
「ヘヘヘ、ようがす。やってみましょう」
うなずき合ったとたん
「来たぞ! あれだ」
源十郎が与吉の袖を引く。
見ると着流しに
栄三郎が
前後に人通りのないのを見すました源十郎が、ぱっと片手をあげるのを合図に、スタスタとそのそばを通り抜けて行ったつづみの与吉。
「もし、旦那さま――」
あわただしく追いつきながら、
「あの、もしお武家さま、ちょいとお待ちを願います」
と声をかけて、
「…………?」
栄三郎が、黙って振り向くと、前垂れ姿のお
「はて――見知らぬ人のようだが、拙者に何か御用かな?」
栄三郎は立ちどまった。
「はい。道ばたでお呼びたて申しまして、まことに相すみませんでございます――」
「うむ。ま、して、その用というのは?」
「へえ、あの……」
と口ごもったつづみの与吉、両手をもみあわせたり首筋をなでたり、あくまでも下手に出ているところ、どうしても、これが一つ間違えばどこでも裾をまくってたんかをきる駒形名うての
「何事か知らぬが、話があらば聞くとしよう」
こう自ら先に、
そのとき、はじめて栄三郎の顔を正面に見た与吉は、相手の水ぎわだった男ぶりにちょっとまぶしそうにまごまごしたが、すぐに馬鹿丁寧な口調で、
「エエ手前は、ただいまお立ち寄りくだすった両口屋の者でございますがなんでございますかその、お持ち帰りを願いました
言葉を切って、与吉はじっと栄三郎の顔色をうかがった。
正覚寺の山門をおおいつくして、このあたりで有名な振袖
無言のまま与吉を見すえていた栄三郎、何を思ったかくるりと
「あの、旦那さま!」
与吉の声が追いかける。
「ついて来るがいい」
と一言、栄三郎は本堂をさしてゆく。
すこし離れて、置き捨ての荷車のかげからようすを眺めていた源十郎は、栄三郎に従って与吉も寺内へはいって行くのを見すますと、跫音を忍ばせて銀杏の幹に寄りそった。
急に参詣てのはへんだが――! はて? どこへ行くのだろう?……と、源十郎がのぞいているうちに、本堂まえの横手、
「あすこは往来だ。立ち入った話はできぬ。が、ここなら人眼もない。なんだ?――さっきのことを今一度申してみなさい」
「いろいろとお手間をとらせて恐れ入ります。じつはお渡し申した小判に手前どもの思い違いがございまして」
「どうもいうことがはっきりしないな。数えちがいならとにかく、
「へ? いえ、ところがその……」
「待て、お前は両口屋のなんだ」
「若い者でございます」
「若い者といえば走り使いの役であろう。それに大切な金の用向きがわかるか――これ、番頭が並べて出し、拙者があらためて受け取って、証文に判をついてきた金にまちがいのあるわけはない」
「へえ。それがその、番頭さんの思い違い……」
「まだ申すか。なんという番頭だ?」
「う……」
と思わず舌につかえる与吉を、栄三郎はしりめにかけて、
「それ見ろ。第一、両口屋の者なら拙者を存じおるはず。拙者の名をいえ!」
「はい。それはもう、よく承知いたしております。ヘヘヘヘ、若殿様で――」
「だまれッ! 侍の懐中物に
「と、とんでもない! 手前はただ……」
「よし! しからば両口屋へ参ろう、同道いたせ」
と! 踏み出した栄三郎のうしろから、こと面倒とみてか、男が
来たな!
と思うと、栄三郎は、このごまの
ぷッ! こいつ、おもしろいやつ! というこころ。
で、瞬間、なんの
「ざまあ見やがれ、畜生!
と!
見得ばかりではなく、江戸の遊び人のつねとして、喧嘩の際にすばやくすべり落ちるように
するりと掻いくぐった栄三郎。ダッ! と片脚あげて与吉の
「てツ! しゃらくせえ……!」
立ちなおろうとしたが、もがけばいっそう
「えいッ!」
霜の気合い。
栄三郎の手に武蔵太郎が鞘走って、白い光が、横になびいたと思うと、もう刀は鞘へ返っている。
血――と見えたのは、そこらにカッと陽を受けている
門前、振袖銀杏のかげからのぞいていた源十郎は、この居合抜きのあざやかさに
が、二つになったのは、与吉ではなくてはんてんだった。まるで鋏で断ち切ったように、左右に分かれて地に落ちている。
ぽかんと気が抜けて立った与吉は、
「貴様ごときを斬ったところで刀がよごれるばかり、これにこりて以後人を見てものを言え」
という栄三郎の声に、はっとしてわれに返ったのはいいが、どうして半纒が取られたのか知らないから、怖いものなしだ。
「何をッ! 生意気な」
うめくより早く、蹴あげた下駄を空で引っつかんで打ってかかった。にっこりした栄三郎、ひょいとはずして、思わず泳ぐ与吉の腰をとんと突く。はずみを食った与吉は、参詣の石だたみをなめて長くなったが……。
かれもさる者。
いつのまに栄三郎の懐中をかすめたものか、手にしっかと五十両入りの財布を握って、起き上がると同時に門外をさして駈け出した。
もう容赦はならぬ。追い撃ちに一刀!
と柄を前半におさえてあとを踏んだ栄三郎は、門を出ようとする銀杏の樹かげに、ちらと動いた人影に気がつかなかった。
ましてや、門を出がけに、与吉がその影へ向かって財布を投げて行ったことなどは、栄三郎は夢にも知らない。
往来で二、三度左右にためらった末、与吉は亀のように黒船町の角へすっ飛んで行く。まがれば
おのれ! 剣のとどきしだい、脇の下からはねあげてやろうと、諏訪栄三郎、腰をおとして追いすがって行った。
それを見送って、振袖銀杏のかげからにっと笑顔を見せたのは、鈴川源十郎である。
手に、ずしりと重い財布を持っている。
斬られたと思った与吉が駈け出して来て、手ぎわよく財布を渡して行ったのだから、源十郎は、あとは野となれ山となれで、食客の丹下左膳が眼の色をかえてさがしている坤竜丸の脇差が、あの若侍の腰にあったことも、この五十両から見ればどうでもよかった。
見ていたものはない。してやったり! と薄あばたがほころびる。
ひさしぶりにふところをふくらませた源十郎、前後に眼をやってぶらりと歩き出そうとすると……。
風もないのにカサ! と鳴る落ち葉の音。
気にもとめずに銀杏の下を離れようとするうしろから、突如、錆びたわらい声が源十郎の耳をついた。
「はっはっはっは、天知る地知る人知る――悪いことはできんな」
ぎょっとしてふり返ったが、人影はない。
雨のような陽の光とともに、扇形の葉が二ひら三ひら散っているばかり――。
銀杏が口をきいたとしか思われぬ。
気の迷い!
と自ら叱って、源十郎が再びゆきかけようとしたとき、またしても近くでクックックッという忍び笑いの声。
思わず柄に手をかけた源十郎、銀杏の幹へはねかえって身構えると……。
正覚寺の生け垣にそって
犬? と思ったのは瞬間で、見すえた源十郎の瞳にうつったのは、一升徳利をまくらにしたなんとも
「き、貴様ッ! なんだ貴様は?」
おどろきの声が、さしのぞく源十郎の口を突っぱしる。
ところが相手は、答えるまえに、落ち葉の
乞食にしても汚なすぎる風体。
だが、肩になでる総髪、酒やけのした広い額、名工ののみを思わせる線のゆたかな頬。しかも、きれながの眼には笑いと威がこもって、分厚な胸から腕へ、小山のような
年齢は四十にはだいぶまがあろう。着ているものは、汗によごれ、わかめのようにぼろの下がった松坂木綿の
あっけにとられた源十郎が、二の句もなく眺めている前で、男はのそりと溝を出て来た。
ぱっぱっと身体の落ち葉は払ったが、あたまに二、三枚銀杏の葉をくッつけて、徳利を片手に、微風に胸毛をそよがせている立ち姿。せいが高く、岩のような
偉丈夫――それに、戦国の野武士のおもかげがあった。
すっかり気をのまれた源十郎はそれでも充分おちつきを示して、この正体の知れない風来坊をひややかな眼で迎えている。
一尺ほど面前でぴたりととまると、男は両手を腰において、いきなり、馬がいななくように腹の底から笑いをゆすりあげた。
その声が、銀杏の梢にからんで、秋晴れの空たかく煙のように吸われてゆく。
いつまでたっても相手が笑っているから、源十郎もつりこまれて、なんだか
で、にやりとした。
すると男はふっと笑いをやんで、
「お前は、八丁堀か」
と、ぶつけるように
小銀杏の髪、着ながした
「無礼者! 前に立つさえあるにいまの言葉はなんだ?」
男は眼じりに皺をよせて、
「おれのひとりごとを聞いて、お前のほうでもどってきたのではないか。天知る地知る人知る……両刀を帯して徳川の
「なにいッ!」
思わず柄へ走ろうとする源十郎の手を、やんわり指さきでおさえた男、
「この溝の中で、はじめから見物していたのだ。あの男の投げていった財布を出せ」いいながら指に力を入れる。
「う、うぬ、手を離せッ!」源十郎はいらだった。「この刀が眼に入らぬとは、貴様よほど酔うとるな――これ、離せというに、うぬ[#「うぬ」は底本では「うね」]、離さぬか……」
「酔ってはいる。が、しかしこの
と奇怪な男、ううい! と酒くさい息を吹いて手の徳利を振った。
指をふりほどこうとあせった源十郎も、
「いや。さい前からの
源十郎はふところから五十両入りの栄三郎の財布をとり出した。
すると男は、源十郎の手をゆるめながら、
「だまれッ!」と肩をそびやかして、
「おれはまだ盗人のあたまをはねたことはないぞ! 財布ごとそっくりよこせ!」
「で、この金をどうなさる?」
「知れたこと。所有主へ返すのだ」
源十郎はせせら笑った。
「それは近ごろ奇特なおこころざし――といいたいが、いったい貴公は何者でござるかな?」
「おれか? おれは天下を家とする隠者だ」
「なに、隠者? して、御尊名は?」
「名なぞあるものか。しいて言えば、名のない男というのが名かな」
「なるほど。いや、これはおもしろい。しからばこの
あきらめたとみえて、源十郎もあっさりしている。財布は男の手へ移った。
「ふん! あんまりおもしろいこともあるまいが……
この毒舌に源十郎はかっとなって、
「乞食の身で、言わせておけば限りがない――汝は金を返してやるといったが、さてはあの若侍の住所氏名を知っているのか」
「知らん。が、いずれ今ここへ帰ってくるだろう」と、名のない男の言葉が終わらないうちに、裏みちでつづみの与吉を見失った諏訪栄三郎が、ぼんやりとそこの横町から往来へ出て来た。
思案投げ首といった
それを見ると男は、源十郎がはっとするまに大きな声で呼びかけて、ちらりと源十郎を見やったのち、近づいてくる栄三郎へ、
「これ! 金はここにある。この八丁堀のお役人が、あの男をとっちめて取り戻してくだすったのだ。礼はこの人へ言うがいい」
と見事に源十郎を立てておいて財布を栄三郎に渡すが早いか、まごついている二人を残して、それなり風のように立ち去って行った……頭髪へ銀杏の葉をのせて、片手に徳利をさげたまんまで。
世にも
ことに、不敵にも公儀へ対して異心を抱くらしい口ぶり――はてどこの何やつであろう?
――と、あとを見送る源十郎へ何も知らない栄三郎はしきりに礼をのべて、やがてこれも雷門のほうへいそいでゆく。
みょうな顔で挨拶を返した鈴川源十郎、眼は、遠ざかる栄三郎の腰に吸われていた。
はなしに聞いた陣太刀づくりの脇差に、
孤独を訴える坤竜丸の
「よし! 五十両がふいになった以上は、あくまでもあの男をつけ狙って、丹下のやつをたきつけ、おもしろい芝居を見てやろう。乾雲と、坤竜、刀が刀を呼ぶと言ったな。それにしてもあの若造は、たしかに鳥越の――」
源十郎が小首をひねったとき、先をゆく栄三郎がまた振り返って頭をさげた。
ふふふ、馬鹿め! とほくそ
「ほほほ、いやですよ殿様。狐
という櫛まきお藤の声。気がつくと、いつのまにか与吉もそばに立っているのだった。
すんでのことで栄三郎に追いつかれて、武蔵太郎を浴びそうになった与吉は、ほど近いお藤の家へ駈けこんで危ういところを助かった。で、もうよかろうと姐御を引っぱり出して来てみると、かんじんの金は、名のない男というみょうな
お藤は黒襟をつき上げて、身をくの字に腹をよった。が、そのきゃんな笑いもすぐに消えて真顔に返った。
丹下左膳のために手をかしてもらいたいという源十郎のことば。
何かは知らぬ。しかし、左膳と聞いて、恋する身は弱い。お藤はもう水火をも辞せない眼いろをしている。
しかも、いつない源十郎の意気ごみが二人の胸へもひびいて、与吉は
屋敷をつきとめしだい、どっちかがひっかえして与吉にしらせる。与吉はそれをもたらして本所法恩寺橋の鈴川の屋敷へ走り、左膳を迎えて今夜にでも斬りこもうという相談。
勇み立ったお藤が、源十郎とともに、だんだん小さくなる栄三郎をめざして小走りにかかると、すうっと片雲に陽がかげって、うそ寒い紺色がはるか並木の通りに落ちた。
このとき、うしろの
「どれ、日の高いうちにひとまわりと出かけましょうか。はい、大きに御馳走さま――
「どうもありがとうございます。おしずかにいらっしゃいまし」
吉原を
人待ち顔に仁王門のほうへ眼を
「もう若殿様のお見えになるころだけれど、どうなすったんだろうね。あんなごむりをお願いして、もしや不首尾で……」
と口の中でつぶやいたが、それらしい影も見えないので、またしょんぼりと
階溜まりに鳩がおりているきり、参詣の人もない。
浅草三社前。
ずらりと並んでいる掛け茶屋の一つ、当り矢という店である。
紺の香もあたらしいかすりの前かけに赤い
ちいんと
ちょっと釜の下をなおしてから、手を帯へさしこんだお艶は、白い
隣の
このお艶は。
夜泣きの刀を手に入れるために剣鬼丹下左膳を江戸おもてへ潜入させた奥州中村の領主
水清ければ魚住まずというたとえのとおり、同役の横領にまきぞえを食って永のお
妻おさよとのあいだに、もう年ごろの娘があってお艶という。
どうか一日も早く婿養子をとり、それに主取りをさせて和田の家を
あら浪の浮き世に取りのこされた
武士の娘が茶屋女に――とは思ったが、それも
世話にくだけた風俗が、持って生まれた
世が世ならば……思うにつけはやればはやるほど気のふさぐお艶だった。
ところへ、また――。
人の親切ほどあてにならないものはない。
あれほど親身に親子の面倒を見てくれたかじ富が、それも今から思えば何かためにしようの
あと月のある日、観音詣りの帰りに立ち寄ってから毎日かかさず来てくれる栄三郎へ、お艶はふとこの心にあまる辛苦をうちあけると、栄三郎は二つ返事で五十両の金策に飛び出したのだが――。
まだ帰ってこない。
「申しわけございません。はじめからお金をねだるようで、はしたない茶屋女とおぼしめしましょうが」
ほっと深い吐息がお艶の口から洩れた。
大久保藤次郎家用人白木重兵衛が、その日、用があって蔵宿両口屋へ立ちよると、つい今しがた、主人の弟の栄三郎が藤次郎の実印を持ってきて、こういうはなしで五十両借りて行ったという。
判をちょろまかして大金をかたるとはいかに若殿様でもすておけないとあって、白髪頭をふりたてた重兵衛、飛びだして小手をかざすと――。
秋らしく遠見のきく白い町すじ。
三々五々人の往来する蔵前の通りを、はるか
「うちうちなら
と正直
と源十郎が前方の栄三郎をみつめているうち、
はてな、道がちがうがどこへ行くのだろう? 源十郎はお藤に眼くばせして歩を早めた。
栄三郎にしてみれば。
あの根津の曙の里の故小野塚鉄斎先生の娘
相手は乾雲丸の丹下左膳。
がしかし、弥生の恋をふみにじって、事ここにいたったのも、栄三郎としては、ここに三社前の水茶屋当り矢のお艶というものがあればこそであった。
恋し恋されるこころのあがきだけは、人の世のつねの手綱では
一眼惚れとでもいうのか、はじめて見た時からずっとひきこんだ
その思う女に持ちかけられた五十両の才覚である。栄三郎はとび立つ思いで引き受けたものの、さて部屋住みの身にそれだけの工面がつくはずがない。とほうに暮れたあげく、悪いことだが、ふと思いついたのが、兄藤次郎の名で札差しから引き出すことだ。で、さっそく実印を盗みだし、その足で両口屋に用だたせてきたこの五十両。
途中でへんなやつに
ものを思って歩く道は近い。
お! それにしてもさぞお艶が待ちくたびれているだろうな。
と、顔を上げた栄三郎が急ぎ足になったとき、気がつくともう水茶屋並びで、むこうの、金的に矢の立つ当り矢の
栄三郎は、上々吉、できたぞという心で、小判にふくらんだ懐中をたたいて見せた。
「ほんとに、とんでもないことをお願いして、もう来てくださらないかと案じておりましたが、でもお顔を見ただけでどうやら安心しました」
においこぼれる口もとの
「ま、はいりましょう――」
と先に立って
「さ、五十両ある」
大きく笑って、重い財布をそこの腰かけへほうり出した。
お艶はすぐに取りあげもならず、はじらいを包んだ
「なんともすみません――ねえ、若殿様、おなじみも浅いのにはやお金のことを申しあげたりして、やはりはしたない茶屋女だけのことはあるとおぼしめすでございましょうねえ。わたしはそれが辛くて――」
「なんの。
「まあ! なにから何まで――では、母へも知らせてお礼はあとから改めて申しあげますが、せっかくのおなさけでございますからすがらせていただいて、ちょっとひとッ走り行って返して参ります。あの、すぐそこでございますよ」
いそいそと前掛けをはずしたお艶が、袖を胸に重ねて走り出したところで、とんとぶつかりそうになった女づれの侍がある。源十郎だ。
「あれ! ごめん下さいまし」
そのまま
「殿様、あれが浅草名代の当り矢のお艶でございますよ――まあきれいですことねえ!」
そそのかすようにお藤がささやいた。
「
お藤は、いたずららしい眼で源十郎を叱った。
「あれさ、殿さまいけませんよ。またそろそろ浮気の虫が……」
苦笑した源十郎、五十両を持った若侍をつけてきたのは、かれの腰にある陣太刀づくりの脇差――坤竜丸にひかれてのことである。いまは茶屋女の裾さばきに見惚れている場合でないと、そっとお藤を押しのけて前の茶屋を見やると――。
葦簾のかげに
むこう向きにかけた侍ひとり。その羽織の下からのぞいている平巻きの鞘を見つけると、源十郎は忍びになって、常夜燈のかげへお藤をさし招いた。
「いる」
「いますか……では、
と手早く片裾からげるお藤へ、源十郎はにやりと笑いかけて、
「左膳はこの若造を
左膳……といわれて、櫛まきお藤ともあろうものがぽっとさくら色に染まって、凄いまでに沈んだ口調だ。
「いまのお言葉――
「大丈夫だ。早く行って与吉を走らせろ……あ! それからな、さっきのお艶、あれの
たしなめるようににっと歯をみせたお藤は、それでももうおもしろそうに大きくうなずいて、
振袖銀杏の下に待っているつづみの与吉へ。
そして、しらせを受け取った与吉は、ただちに本所法恩寺橋へ宙を飛んで、いま浅草三社まえのかけ茶屋当り矢に坤竜丸が来ていると丹下左膳へ注進する手はず。
ひとりあとに残った源十郎は、しばらく石になったように動かなかった。
やがて。
「鳥越の若様という侍が、この当り矢へ来ておる。すると、きゃつとお艶と――だが待てよ、おれには百の坤竜よりも生きたお艶のほうがよっぽどありがたいわい。こりゃあ一つ考えものだぞ」
とひねった首をしゃんとなおすが早いか、思いついたことがあるらしく、源十郎ぐっと豪刀の
雪駄をぬいでふところへ呑む。ツウ……とぬすみ足、寄りそったのが当り矢の前だ。
と思うと、突如!
ザザザアッ! とうしろに
が、この時すでに、あやうくとびずさった栄三郎の手には、武蔵太郎安国が延べかがみのように光っていた。
源十郎、追い撃ちをひかえて上段にとる。
栄三郎は神変夢想の平青眼だ。
せまい茶屋のなか。外光をせおった源十郎は、前からはただ黒い影としか見えない。
「
上眼づかいに栄三郎が
「できる。が、呼吸がととのわん。道場の剣法、人を斬ったことはあるまいな」
「エイッ! なに奴かッ! 名を名乗れ、名を」
「丹下左膳……といえば聞いたことがあろう」
「なな何ッ? た、丹下、あの丹下左膳――?」
栄三郎が思わず体を崩してすかして見たとき、スウッとしずかに源十郎の刀が鞘へすべりこんで、
「まず――まず、人きり
とあっけにとられている栄三郎へは眼もくれず、源十郎は、この真昼間なんのしらせもなしに降ってわいた斬り合いに胆をつぶして、怖いもの見たさにもう店の前に輪を書いていた隣の
「馬鹿ッ! こいつらア! 何を見とる? 見世物じゃないッ! いけッ!」
「はなしは早いがいい。女と刀の取っかえっこだ。どうだな?」
源十郎は藪から棒に、突き刺すように言って顎をしゃくった。
片面に影がよどんで、よく相手の顔が見えない栄三郎にも、いまこの男が、さっき正覚寺門前で財布をとり返してくれた上役人らしいことはわかったが、それがまた何しに言葉もかけずに斬りこんできたか? 刀と女との交換とはなにを意味する? と思うと、うっかり口はきけない。かたくなって源十郎を見すえた。
左膳によれば、この
「先刻の非礼、
というのをきり出しに、自分が丹下左膳と
どこに? とせきこむ栄三郎の問いには、江戸の片隅とのみ答えて、源十郎声をおとした。
「さ、そこでござる。お手前はその坤竜をもって左膳の乾雲を呼ばんとし、左膳は乾雲に乗じて貴殿の生命と坤竜を狙っておる。あいだに立っておもしろがっているのが、まあ、この拙者だ。さて、ものは相談だが、貴殿との話しあいいかんによっては、拙者が左膳を丸めるなり片づけるなりして、乾雲丸をお手もとへ返したいと思うが、お聞き入れくださるか」
栄三郎は
「それは刀のこと。して、刀に換わる女と申されたは?」
「ここのお艶を拙者におゆずりくださらぬか」
「笑止!」と突ったった栄三郎、
「なにをたわけたことを! なるほど、刀の一件も大切でござるが、左膳ごとき、わたくし一人にて充分、そのために二世をちぎりし女を売るなど栄三郎思いもよりませぬ。土台、人のこころを品物ではなし、ゆずるのゆずらぬのと……」
「二世をちぎった? ははははは、これは恐れ入った。お若い! で、御不承か」
「もちろん!」
「しからば余儀ない。拙者、いずれ左膳に助力してその坤竜丸を申し受けるが、ついでに、お艶ももはや拙者のものと観念めされい」
「御随意に。丹下殿へもよろしく伝えられたい」
「ごめん」
と源十郎が歩き出したとき、さっき帰って来たものの、自分の名を耳にしてはいりかねていたお艶が栄三郎の
そのさまに、こりゃたまらぬ! と馬鹿を見た源十郎、
「その女、しばらく預けておくとしよう」
捨てぜりふとともに
おなじ時刻に。
夜も昼もない
八つ下りの陽がかんかん照りつけるのに、乾割れの来そうな雨戸をぴったりとしめきって、法恩寺まえの鈴川の屋敷では丹下左膳がいびきをかいていた。
茶室めかした六畳の
足の踏み立て場もなくちらかしたまん中に、
垢とあぶらに重くにごった室内に、板の隙を洩れる細い光線がふしぎな縞を織り出している。
あの夜――乾雲丸を手に入れて以来、栄三郎の坤竜を気に病む左膳ではないが、何者かに
大主にふくめられた
隻腕の身の片思い。
恋慕の糸のもつれは
夢に提灯をさげて築山の裾をゆく弥生がうかぶ。ううむ! と左膳が寝返りをうった時、やにわに! 紙を貼った戸の
「左膳さま――丹下の殿様!」
と呼ぶ与吉の声に、ぱッと
与吉のしらせを聞いた左膳は、やにのたまった一眼を見ひらいて、打ッ! と乾雲の
「なに、源十が見張っておると? だが、夜の仕事だなこりゃあ――貴様、いまのうちに駈けずりまわって、
きりきり舞いをした与吉は、糸の切れた
闇黒に水のにおいが拡がっている――。
月のない夜は、まだ宵ながらひっそりと静まって、石垣の根を洗う河音がそうそうとあたりを占めていた。
あさくらお
一番から八番まで、舟入りの
その
当り矢の店をしまうとすぐ、お艶と栄三郎は、灯のつきそめた町々をあてどもなくさまよって、知らず識らず暗いところを選ぶうちにここまで来たのだった……そして舟のなかへ。
話さなければならぬことが山ほどある。
が、ただそんな気がするだけで、
川向うは、本所の空。
火の見やぐらの肩に星がまたたいて
人目はない。
お艶の胸のときめきが握られた手を通じて栄三郎に伝わると、かれは
「もう夜寒の冬も近い。こうしていては冷えよう――」
いいながら羽織をぬいで、お艶の背へ着せようとする。
「え、いいえ、あれ! もったいない……それではかえってあなた様が……」
とお艶は軽く争ったが男の羽織が、ふわりと肩に落ちると同時にされるがままにもたれてくるのを、栄三郎はかき抱くように引きよせて、
「お艶」
「若殿さま」
眼と眼。
顔と顔。
四つの目からはずむ輝きが火のようにかちあう。
恋する者の忘れられない初めての
栄三郎は、しずかにお艶の
「お艶、拙者の心は以前からわかっていてくれたろうが、今後とも決して変わるまいぞ、な」
「はい。身にあまったお言葉……お艶はうれしゅうございます。このまま死にましても――」
「死んでも? はて、何を
いっそう深ぶかと胸をすりよせたお艶は、そっと身をくねらして栄三郎を見上げた。
「ええ。いつまでもどんなことがあっても! でも、いろんなことがございましょうねえ、わたしどもの行く手には」
「うむ。まずそれは覚悟しておいてよかろう。さしあたり、先刻
「いいえ」お艶はだだをこねるように首をふって、「そのお刀の取り戻しは、あなた様の手腕一つでりっぱになさること。お武家には何事につけても強い意志があると
「ただあの?――とは、ほかに何か……」
「はい。道場の――」
「道場の?」
「おはなしに聞いたお嬢さまが気になってなりませぬ」
「
「けれど、茶屋女とあなた様はあんまり身分が違いますゆえ、つり合わぬなんとか……とそれを思うと空おそろしゅうございます」
お艶の声は泣いていた。互いに高鳴る血の音に身をゆだねてから……
首尾の松が風にざわめいた。
ふとお艶は、上気した頬にこころよい夜気を受けて
「えへん!」
耳近く、舟のなかに
えへん! という咳ばらいはたしかに小舟のなかから――。
二人はぱっと左右に分かれて耳をそばだてた。
が聞こえるものは、遠くの街をゆく夜泣きうどん屋の売り声と、岸高く鳴る松風の音ばかり――もう夜もだいぶ
寂とした大江戸の眠り。
「いま何か声がしたようだな」
栄三郎がひとりごとに首をかたむけた時、
「いや、
と
「やッ! 何者ッ!」
思わず叫んだ栄三郎、飛びのくお艶をうしろに、左腰をひねって流し出した武蔵太郎の柄をタッ! と音してつかんだ。
すべり開いたはばき元が一、二寸、夜光に
見たことのある顔……と栄三郎が闇黒をすかす前に、男の笑い声が船をゆすってひびいた。
「はっはっは、またひょんなところで逢ったな」
言われてみれば、まぎれもない、鈴川源十郎をやりこめて五十両取り返してくれた、あの、名のない男だ。
ちょっとでも
「こりゃいかん! わしが悪かった。ひょいと眼ざめて面を出したが申しわけない! また寝る、また寝る――」
いいつつ板の間に横になって、またごそごそ菰をかぶろうとする。
こんどは栄三郎がまごついた。
「いえ。そ、それにはおよびませぬ」
相変わらずの破れ着、貧乏徳利を枕に、名のない男は筵を夜具にすましている。
「ははあ。起きてもさしつかえないのか」
「先ほどからのわたしどもの
「うむ。刀のところまで聞いた。あとは知らぬ。おもしろそうなはなしだったな」
「あの、しからば、刀のことを――?」
「さよう。悪かったかな?」
栄三郎の眼がけわしい光をおびてくる。
「いくら悪くても、もう聞いてしまったのだからいたしかたあるまい」男は平気だ。「それより、あんたにはほかに助力がなければ、わしが手をかしてもいいと思っておる。が、密事を知ったが
「なに? 助力を? はははははは」
栄三郎は膝をうって不敵に笑った。すると男は、
「そうだ。おれの助太刀がほしければ、ひとこと頼むと頭をさげろ」
「何を無礼な!」かっとなった栄三郎、「いわせておけばすきな熱を! 誰が頼むものかッ」
「頼まぬ? そうか」
男がにっこりすると、白い歯がちかときらめく。
「そうか。頼まぬか。それなら一つ、おれから頼んで一
「…………?」
「いや、なに、人に頭をさげぬ人にはわしが頭をさげたい。援助を頼まぬというところがたのもしい」
と首を伸ばしてお艶をのぞきながら、
「
御新造――と呼ばれて火のようになったお艶も、何かしら胸にこみあげる感激に突如眼のうちが熱くなって栄三郎の背に顔を押しつけた。
栄三郎は、のめるようにどたりと板に手をついて、
「先刻からの無礼、平におゆるしありたい。改めてお力添えお願い申す」
「承知した! が、それでは痛み入る。まずお手を、ささ、手を上げられい」
「さだめし世に聞こえし
「隠とは隠れた者、ところがこのとおりどこにでも現われる。名か。そいつは……」
と口ごもったから、また名のない男と答えるかと思うと、
「
「してただいま、人の家へ断りなしに――と言われましたが、お住いは?」
「困ったな。この舟でござる――いや、べつにこの舟とは限らん。いつもここらにつないである舟はすべてわしの宿だ。ははははは、
と、この時!
ぐらぐらと舟が傾いて、お艶は危なく栄三郎に取りすがったが、ふしぎ!
「おいッ! 乾雲が夜泣きをしてしようがねえから、片割れをもらいに来たんだ。へッ、坤竜丸よ。おいでだろうな、そこに!」
河も岸も空も、ただ一色の墨。
その闇黒が
左膳、源十郎を頭に、本所化物屋敷の百鬼が、深夜にまぎれて群れ出てきたのだ。
文字どおり背水の陣。
岸のふち、舟板を手にのっそりと構える蒲生泰軒に押し並んで、諏訪栄三郎は、もうこころ静かに武蔵太郎安国の鞘を払っていた。われにもなくまつわり立つお艶の身を、微笑とともにそっと片手でかばいながら、
「てめえ達が
という左膳のことばを笑い返して、手を貸しあって小舟を離れた三人だった。
うしろは大川。石垣の下の暗い浪にもまれて、ひたひたと船底の鳴る音がする。
前面と左右をぐるりと囲んだ影に、一線ずつ氷の棒があしらわれて見えるのは、いうまでもなくひた押しに来る青眼陣の剣林だ。
寂として、物みな
「逃げるくふうを……ね! ごしょうですから逃げるくふうを――」
お艶の熱声を頬に感じて、栄三郎はちらと泰軒を見やった。
あがりぎわに一枚引きめくって来た
すると! 声がした。
「若えの! 行くぜ、おいッ!」
左膳だ。
と、味方の声につられたか、吸われるように寄ってきた
「――――!」
無言のまま跳躍にかかろうとするところを! 同じく、
が、この時すでに、銀星上下に飛んで、三人は一度にまんじの
この騒ぎをよそに、鈴川源十郎はすこし離れて、何かお藤とささやきかわしていたが、刀下をかいくぐって木かげに転びついたお艶の、闇に慣れた瞳に映じたのは、彼女の初めて見る恋人栄三郎であった。
あの、やさしく自分を抱いてくれた手が血のたれる大刀を振りかぶって、チラチラと左右へ走らせる眼には、冷々たる笑いをふくんでいる。
「泰軒先生ッ!」
「おう……そら! うしろへまわったぞ、ひとり!」
いつしか二手に別れて、板一枚で一団を引き受けている蒲生泰軒、伸び上がり、闇をすかして、群らがり立つ頭越しに声をかける。
さながら何かしら大きな力が戦機をかき乱しては制止するようだ――。
ひとしきり飛び違えてはサッと静まり、またひと揺れもみ渡ってはそのまま呼吸をはかりあう。
そのたびに一人ふたり、よろめきさがるもの、地に伏さって
飛肉骨片。
が、見よ!
神変夢想流の
「お艶! どこにいる?」
と刃影のなかからさけぶと、
「はい。ここにおります。――」
答えかけたお艶の口は、いつのまにか忍んできた手に、途中でうしろからふさがれてしまったが、そのかわりに
「なかなかやるなあ、おい! 手をふけよ、血ですべるだろう」
栄三郎は、にっと笑って片手がたみに
同時に、
一
「うぬ! しゃらくせえ!」
おめきたった左膳が、ふたたび
「なんでえ! これあ――」
と左膳の
「舟へ!」
という泰軒の声。
見ると、女の影が一つの舟へころがりこむところだ。
おお! お艶は無事でいてくれた!
と思うより早く栄三郎も泰軒につづいて舟へとんで、追いすごして石垣から落ちる二、三人の水煙りのなかで、栄三郎がプッツリと
二、三人水中に転落したが、一同とともにあやうく石垣の上に踏みとどまった左膳、
「おい、逃げるてえ
と遠ざかる小舟に怒声を送って、あわただしく左右を見まわした時は、どうしたものか、源十郎とお藤の姿はそこらになかった。
両岸にひろがる八百八町を押しつけて、雨もよいの空はどんよりと低かった。
ギイッ……ギイ!
胴のまにあったのをさっそく水へおろして、河風に裾をまかせた泰軒が、船宿の若い衆そこのけの艪さばきを見せているのだった。
「あんたはいい腕だ」
と栄三郎をかえりみて、
「よく伸びる剣だ。
手拭をぬらして返り血をおとしていた栄三郎、思わず、
「おお! では鉄斎先生を御存じ――」
せきこんだ声も、風に取られて泰軒へ届かないらしく、
「しかし、あの隻腕の浪人者、きゃつはどうして荒い
泰軒がつづける。
「あんたよりは殺気が強いしそれに左剣にねばりがある。まず
言われて、お米蔵の岸を望むと、左膳の乾雲丸であろう。指揮をくだす光身が
「来い、こい! こっちから打ちつけてもよいぞ」と
と、生温い湿気がサッと水面をなでて……ポツリ、と一滴。
「雨だな」
「降って来ました」
言っているうちに、大粒の水がバラバラと舟板を打ったかと思うと、ぞっと襟元が冷え渡って、一時に天地をつなぐ
お艶は? と見ると、舟に飛びこんだ時から
「驚いたろう? 気分でも悪いか。さ、雨になったからこれをきて、もうしばらくの
と抱き起こそうとすると、
「ほほほほ! なんてまあおやさしい。すみませんねえ、ほんとに」
という歯切れのいい声とともに栄三郎の手を払って顔をあげたのを見れば!
思いきや――お艶ではない!
「やッ! だ、誰だお前は?」
「まあ!
櫛まきお藤は白い顔を雨に預けて、
「でも、御心配にはおよびますまいよ、今ごろはお艶さんは、本所の殿様の手にしっくり抱かれているでしょうからねえ。ほほほ、身代りに舟へとびこんで、ここまで出てきたのはいいけれど、あたしゃ馬鹿を見ちゃった。この雨さ。とんだ濡れ
あッ! お艶はさらわれたのだ――栄三郎はよろめく足を踏みこらえて、声も出ない。
立て膝のお藤、舟べりに
「ねえ、ぼんやり立ってないで、どうするのさ! あたしが憎けりゃ突くなり斬るなり勝手におしよ――それより、どなたか火打ちを? でも、この
斬ったところで始まらぬ……泰軒と栄三郎が顔を見合わせていると突如! 垂れこめる銀幕をさいて現われた左膳の舟が! ドシン! と横ざまにぶつかるが早いか、抜きつれた明刀に雨脚を払って一度に斬りこんで来た。
きらめく稲妻のなかに、悪鬼のごとき左膳の
「
とおめいたが、妙なことには相手は立ち向かうようすもなく、落ちた連中を拾いあげると、こっちの舟へ一竿つっぱって倉皇として離れてゆく。
瞬間、蒼い雲光で見ると、騒ぎを聞きつけた番所がお役舟を出したとみえて、雨に濡れる御用提灯の灯が点々と……。
いつのまに乗り移ったか、櫛まきお藤が去りゆく舟に膝を抱いて笑っていた。
「坤竜、また会おうぜ」
雨に消える左膳の捨てぜりふ。
「お艶ッ! どこにいる!」
としみじみ孤独を知った栄三郎が、こう心中に絶叫したとき、泰軒が艪に力を入れて、舟が一ゆれ揺れた。
「いや。先ほどから申すとおり、栄三郎のことなら聞く耳を持ちませぬ――」
主人はぶっきら棒にこう言って、あけ放した縁の障子から戸外へ眼をやった。
金砂のように陽の踊る庭に、
カーン……カーン! ときょうも近所の刀鍛冶で
その音を数えるように、主人はしばらく空をみつめていたが、やがてほろにがい笑いをうかべると、思い出したようにあとをつづけた。
「なるほど。それは、わたくしに近ごろまで栄三郎とか申す
あさくさ
その奥座敷に、床ばしらを背に沈痛な面もちで端坐している客は、故小野塚鉄斎の
「しかし、その御事情なるものが」藤次郎のしとねになおるのを待ってきり出した多門は、いいかけてやたらに咳ばらいをした。「いや、くわしいことはいっこうに存じませぬが、その、あの、
「いやいや、初対面の貴殿におとりなしを受ける筋はござらぬ」
「ま、そう申されてはそれだけのものだが……」
「わざわざ御自身でおいでくだされて、あの
「はて、栄三郎殿がどのようなことをなされたかな?」
「口にするもけがらわしいが、お聞きくだされ、三社前の茶屋女とかにうつつを抜かし――」
ちょっと多門の顔色が動いたが、すぐに笑い消して、
「ははははは、何かと思えば、お若い方にはありがちな――貴殿にも、似よった思い出の一つ二つ、まんざらないこともござるまい。いや、これは失礼!」
「のみならず、栄三郎め、その女に
部屋住みの分け米が僅少なことを察してやれば、ちょいと筆の先で帳面をつくろってすむのに、なんという気のきかない用人だろう! 多門が黙っていると、藤次郎は語をつないで、
「それからこっち、とんと屋敷にもいつきませぬ。先夜も雨中の大川に多人数の斬り合いがあって、船番所から人が出たそうだが、栄三郎もどこにどうしているかと……いや、なんの関係もない者、思ってみたこともござらぬ。はははは」
多門は思わずうつむいた。
「割ってのお話、よくわかりました。が、それでもなお、私としてはなんとしても栄三郎殿を養子に申し受けたい。というのが……お笑いくださるな」
「なんでござる?」
「その栄三郎の嫁となるべき当方の娘――」
「ははあ、弥生どのとか申されましたな」
「それが命がけの執心で、そばで見ているそれがしまで日夜泣かされます」
「あの、うちの栄三郎めに?」
「仮りにも親となっている身、弥生の心を思いやるといてもたってもおられませぬ。御
「いや。百万言をついやしても同じこと。彼のごとき不所存者を差しあげるなど思いもよりませぬ」
「これほどその不所存者が所望じゃと申しても?」
「いささかくどうはござらぬか。ご辞退申す」
「よろしい! だが、大久保氏、さっき赤の他人といわれたことをお忘れあるまいな、赤の他人なら本人しだいで貴殿にはなんの言い分もないはず」
「むろん、御勝手じゃ!」
決然と畳を
「土屋氏!」
「なんじゃ?」
「貴殿栄三郎に会わるるか」
「会うても
「会うたら……おうたら、兄が達者で暮らせといったとお伝えください」
プイと横を向いた藤次郎の眼に何やら光ったもののあったのを多門は見た。
夕映えの空に、遠鳴りのような下町のどよめきが
麹町三番町の屋敷まちには、
たださえ、人をこころの
うっすらとした水色が、もう畳を這っているのに、弥生はこの土屋多門方の
庭前の
ふと顔をあげた弥生は、思いがけない運命の
「ああ――」
思わず洩れる
このごろ
心の荷を棄てねば
とそれを知らぬ弥生ではなかったが、思っても、思っても、思ってもなお思いたりない栄三郎様をどうしよう!
こうして叔父多門方に娘分として引き取られているいま、寸刻も弥生のこころを離れないのは、父鉄斎の
もとより、父の死は悲しともかなしい。そしてその仇敵は草を分けても討たねばならぬ。
夜泣きの刀も、言うまでもなく、万難を排してわが手へとりもどすべきであるが……。
その仇を報じ、その宝刀をうばい返してくださるのが、やっぱりあの栄三郎さまではないか。
強い、やさしい栄三郎さま!
こう思うと、今この身の上も、もとはと言えば、すべてあの人が自敗を選んだことから――とひややかに理を追ってみても、弥生はすこしも栄三郎を恨む気になれないどころか、ますますかれを自分以外のものとして考えることができなくなるのだった。
剣に鋭かった
この純情を察して、きょうこっそりと叔父の多門が、鳥越の栄三郎の実家へ養子の掛け合いに行ったことは、弥生もうすうす感づいているが――そのためか、この高鳴る胸はなんとしたものであろう?
霜に悩む秋草のように、ほっそりとやつれた弥生が、にわかに暗くなったあたりに驚いて、
夜の蜘蛛は親と思っても殺せ――それとも昼の蜘蛛だったかしら?
と弥生が迷っているうちに子蜘蛛は、しすましたり! と懸命に這ってゆく。
その小さな努力が珍しく弥生をほほえませた。
「そんなに急いでどこへ行くのこれ、お前には心配もなにもなくていいね」
こう言って弥生が
「ほほほほ、そう! ね、じっとしておいで、じっと!」
と弥生がさびしく笑ったとき、玄関に駕籠がおりたらしく出迎えの声がざわめいて、まもなく、女中のささげる
やみに手を突いて頭をさげた弥生の眼にうつったのは、板廊を踏んでゆく白足袋と
「世にずいぶんと男は多い。しかるに、一人に心をとられて、他が見えぬとは狭いぞ! もしまたそのひとりが水茶屋ぐるいでもしおったらいかがいたす? な、そうであろう。はははは」
「
はっとして突っ立った弥生は、じぶんの
「大作」
と次の間へ声をかけながら、
夕食後、いつものようにこの居間にこもって、見残した諸届け願書の類に眼を通し出してから、まださほど
越前守
ただ遠くの子供部屋で、孫の
「小坊主め、また寝しなにさわぎおるな」
という微笑が、下ぶくれの忠相の温顔を満足そうにほころばせた時、バタバタと小さな
「お
忠相が口をひらく先に、忠弥は逃げるように飛んで帰ったが、その
「大作、これよ、大作」
「はッ」
と驚いて大声に答えた伊吹大作、ふすまを引いてかしこまると、大岡越前守忠相はもうきちんと正座して書台の
「お呼びでござりますか」
「ああ。わしにかまわずにやすみなさい」忠相の眼じりに優しい
と肥った身体が
「さきほど役所で見ると、浅草田原町三丁目の家主喜左衛門というのから
「さあ、これと申してべつに……」
大作は面目なさそうに首をひねった。すると忠相は何かひとくさり低音に
「――あの櫛まきのお藤と申す女、かれはもと品川の遊女で、のち
いつものことだが、主君越前守の
「おそれながら例によって墓参を名とし、ひそかにはいりこみおるものかと存ぜられまする」
「さよう。まずそこらであろう……が、お藤が江戸におるとすれば、このたび喜左衛門店のお艶なる者が誘拐されたこととなんらの関係が
「お言葉ごもっともにござりまする。なれど、同心をはじめ江戸じゅうの御用の者ども、何を申すにもただいまはあの辻斬りの件に
大作がこう申しあげて顔色をうかがうと、前面の庭面を見つめてふっと片手をあげた大岡越前、事もなげに大作を振り返って、
「評判の
と言ったが立ちあがりもしない。
府内を
それよりも、なにか庭に、自分に見えない物が、主人の瞳にだけうつるらしいのが大作には気になったが、ほとんど命令するような忠相の口調におされて、平伏のままかれは座をさがったのだった。
用人の伊吹大作が唐紙に呑まれて、やがて跫音の遠ざかるのを待っていた忠相は、
「
と、
「何やら役向きの話らしいから遠慮しておった。じゃまならこのまま帰る」
いい捨てて早くもきびすを返そうとするようすに、忠相はあわてて、
「遠慮は貴様の柄でないぞ、ははははは、なにじゃまなものか。ひさしぶりだ。よく来たな。さ、誰もおらん。まあ、こっちへあがれ」
満腹の友情にあふれる笑い口から誘われて、ぬっと
この夜更けに庭からの訪客はなるほど蒲生泰軒をおいてあり得なかった。
「なんだ? なにを読みおる? うむ、
とこの
裾をたたいて着座した南町奉行大岡越前守忠相。
野飼いの
「
「しばらくであったな」
「まったくひさしぶりだ」
で、またぽつんと主客眼を見合って笑っている。多く言うを要しない
夜風にそっと気がついて、忠相は立って行って縁の障子をしめた。帰りがけに泰軒のうしろをまわりながら、
「
「俺か……」と泰軒は首すじをなで、「何分
越前はいささかまぶしそうに、
「相変わらず口が悪いな。どこにおるかと案じておったぞ」
「どこにもおりゃせん。と同時に、どこにでもおる。いわば大気じゃな。
「なに、もうよい。さっぱりいたした」
「それは何より」
「互いに達者で
ふたりはいっしょにぴょこりと頭をさげあって、
が、泰軒は忠相の
秋の夜の静寂は、何やら物語を訴うるがごとくその
対座して無言の主客。
一は、いま
世にこれほど奇怪な取りあわせもまたとあるまい。しかも、この
とは言え。
大岡さまの前へ出て、これだけのしたい
「貴様、どこからはいりおった? 例によってまた塀を乗りこえて来たのか」
泰軒の肩が峰のようにそびえる。
「べつに乗り越えはせん。ちょっとまたいできた、はははは
「うむ。まず貴様ぐらいのものかな。それはいいが」
と越前守忠相の額に、ちらりと暗い影が走ると、かれはこころもち声をおとして、「
すると泰軒、貧乏徳利を平手でピタピタたたきながら、
「
「刀も
「うん。いまも来る途中に、そこここの木戸に焚き火をして固めておるのを見た。しかし、おぬしは数人の仕事だというが、おれは、切れ味といい手筋といい、どうも下手人は一人としか思えぬ」
「はて何か心当りでもあるのか」
「ないこともない」
と泰軒は言葉を切って、胸元から手を差しこんでわき腹をかいていたが、
「いいか。おぬしも考えてみろ……右の肩口から左の乳下へ、といえば、どうじゃな、その刀を握るものは
「ひだりききとは当初からの見こみだが、江戸中には左ききも多いでな」
「そこで! 百
どなるように泰軒がいうと、忠相はにっこりして
「いや、こりゃまさに
「だから、おれは初めから、これは隻腕の一剣客が
「ふうむ。なるほど、一理あるぞこれは! して、
「まあ待て。今におれが襟がみ取って引きずって来て面を見せてやるから」
大笑すると、両頬のひげが
「また
「ばかいえ、
言い放って袖をまくった泰軒、
「新刀試し
となかば問いかける忠相の話を無視して、かれはうふふとふくみわらいをしながら、勝手に話題を一転した。
「お奉行さまもええが、小うるさい件が山ほどあろうな」
「うむ。山ほどある。たまには今夜のように庭から来て、知恵をかしてくれ」
「まっぴらだ。天下を奪った大盗のために
こう聞くと、忠相が厳然とすわりなおした。
「天下は、
「それが昔からおぬしのお定り文句だった、ははははは」
「越前、かつて人を罰したことはない。人の罪を罰する。いや、人をして罪に
泰軒は忠相の眼前で両手を振りたてた。
「うわあ! 助からんぞ! わかった、わかった、理屈はわかった! だがなあ、聞けよおぬし、人間一
「
と忠相がひきとると、ふたりは
「おぬしも、まだこの心境には遠いな」
さびしいと見れば、さびしい。
ことばに懐古の調があった。
十年一むかしという。
旅人宿の軒行燈に白い手が灯を入れれば……
弱々しい晩秋の薄陽がやがてむらさきに変わろうとするころおい、その
往き倒れだ。
こじきの
よっぱらいだ。
いろんな声が渦をまく中央に、浪人とも
代々秩父の
冬夜の
人に求めるところがあれば、人のためにわれを
世から何ものをか
といって、我に即すればわれそのものがじゃまになる。
金も命も女もいらぬ蒲生泰軒――眼中人なく世なくわれなく、まことに淡々として水のごとき一野児であった。
この秀麗な
だから、八代吉宗公に見いだされた忠相が、江戸にでて南町奉行の
それはそれとして。
この秋の夜半。
いま奉行屋敷の奥座敷に忠相と向かいあっている泰軒は、何ごとか古い記憶がよみがえったらしく、いきなり眼をほそくして忠相の顔をのぞいた。
「おぬし、おつる坊はどうした? 相変わらず
すると老いた忠相が、ちょっと照れたように畳をみつめていたが、
「もう坊でもなかろう。
「なに、おぬしさえ食うてやればおつる坊も満足じゃろうが、お互いにあのころは若かったなあ」
「うむ、若かった、若かった! おれも若かったが、貴様も若かったぞ、ははははは」
と忘れていた軽い
泰軒もうっとり思い出にふけりながら、徳利をなでてまをまぎらした。
怖いとなっているお奉行さまに過ぎし日を呼び起こさせるおつる坊とは?
話は、ここで再び十年まえの山田にかえる。
神の町に行き着いたよろこびのあまり、
わき本陣の
湯をつかわせて、小ざっぱりした着がえをすすめた、が泰軒はすまして
一に酒、二に酒、三に酒。
あんな
明鏡のようにくもりのないおつるの心眼には、泰軒の大きさが、
また泰軒としても、思いがけないこの小娘のまごころを笑って受けて辞退もしなければ礼一ついうでもなく、まるで自宅へ帰ったような無遠慮のうちにきょうあすと日がたっていったが――。
狭い
脇本陣に、このごろ
その夜、後年の忠相、当時山田奉行大岡忠右衛門が、どんな奴か一つ虚をうかがってやれとこっそり牢屋に忍んでのぞくと……。
君子は
人は、ひとりいて、誰も見る者がないと思う時にその
板敷きに手枕して鼻唄まじり、あれほど
室のまんなかに座を占めたところに、
しかも! 土器の油皿、一本
これは、一人傑。
ととっさに見きわめて、畳のうえに呼び入れて差し向かい、一問一答のあいだに
このお方はじつは千代田の密偵、将軍おじきのお庭番として名を秘し命を包んでひそかに大藩の内幕を探り歩いておらるるのだから、万事そのつもりで見て見ぬふりをするように……というような苦しい耳うちで下役の前を
「おぬしは、おつる坊を見にくるのだな。はははは。かくすな、かくすな。いや、そうあってこそ奉行も人だ。おもしろい」
忠相はなんとも言わずに、胸を開いて大笑した。
ただそれだけだった。
これが恋であろうか。よしや恋は曲者にしても、お奉行大岡様と宿屋の娘……それはあまりにも
が、
身は栄達して古今の名奉行とうたわれ、
陽の明るい縁などで、このごろめっきりふえた白髪を抜きながら、忠相がふと、うつらうつらと
まことにおつるは、
そのおつるの家に、泰軒が寄寓してからまもなくだった。山田奉行忠相の器量を試みるにたるひとつの難件がもちあがったのは。
そのころ松坂の陣屋に、大御所十番目の
源六郎、ときに十四、五歳。
それをいいことにして、おつきの者の
そして。
無礼!
「これ!
と、上段の忠右衛門がはったとにらむと、
「乱心? 馬鹿を申せ。われは松平源六郎である。縄をとけッ」
「だまれ」忠右衛門も声をはげまして「松平源六郎とは恐れ多いことを申すやつじゃ。なるほど紀州第六の若様は源六郎殿とおおせられるが、いまだ御幼年ながら
「狂人とは何事! 余はまったく紀州の源六郎に相違ない」
「またしても申す。これ、狂人、二度とさような言をはくにおいてはその分にさしおかんぞ。汝がすみやかに白状せん以上、待て! いま見せてやるものがある」
こう言って忠右衛門が呼びこませたのが、
「源兵衛、
そのときに、くだんの源兵衛、お
驚いたのは源六郎だ。
「さがれッ! えいッ、寄るな。伜とはなんだ。見たこともないやつ」
と懸命に叱りつけたが、百姓源兵衛に名主をはじめ組合一統がそれへ出て、口々に、
現在の親を忘れるとはあさましいこった。
どうか、はあ、気をしずめてくんろよ。
これ源蔵や、よく見ろ。われの
などと揃いもそろって狂人
そのありさまに終始ほほえみを送っていた忠右衛門は、やおら言いわたした。
「さ、この狂者は
というこの四方八方にゆきとどいたさばきで、源六郎はおもてむきどこまでも百姓の子が乱心したていに仕立てられて、かろうじて罪をのがれ、面倒もなくてすんだのだったが、後の八代将軍吉宗たる源六郎もちろん
と、しっかり頭にやきついた源六郎は、その後、
越前守忠相と任官された往年の忠右衛門ぴったり平伏してお言葉のくだるのを待っていると――。
しッ、しい――ッ、と側で
と、
お声と同時に、吉宗の膝が一、二寸刻み出た。
「越前、そのほう、余を覚えておろうな?」
はっとした忠相、眼だけ起こして見ると、中途にとまった御簾の下から白い太い羽織の紐がのぞいて……その上に
むかし、山田奉行所の白洲の夜焚き火のひかりに、
忠相の眼にゆえ知らぬ涙がわいて手を突いている畳がぽうっとぼやけた。
が、かれはふしぎそうに首をひねった。
「恐れ入り奉りまする――なれど、いっこうわきまえませぬ」
すると吉宗、何を思ったか、いきなり
「越前、これ、これじゃよ。この顔だ。存じおろうが」
忠相は、下座からその面をしげしげ見入っているばかり……じっと語をおさえて。
引っこみのつかない将軍がいらいらしだして、お小姓はじめ並みいる一同、取りなしもできず度を失ったとき、
「さようにござりまする」
憎いほど落ちつき払った越前守の声に、お側御用お取次ぎ高木伊勢守などは、まずほっとしてひそかに汗のひくのを感じた。
「うむ。どうだな?」
「恐れながら申しあげまする――
狂者にそっくりとはなんという無礼!
と理由を知らない左右の臣がささやき渡ると、
「そうか。源蔵に似ておるか」
にっこりした吉宗、御簾の中から上機嫌に、
「小俣村の源蔵めも、そのほうごときあっぱれな奉行のはからいを、今さぞ満足に思い返しておるであろう……これよ、越前、こんにちをもって江戸おもて町奉行を申しつくる。吉宗の
「はっ、おそれ入り――」
と言いかけた忠相のことばを切って、音もなく御簾がおりると、そそくさと立ちあがる吉宗の姿が、夢のようにすだれ越しに見えたのだったが……。
かつて自分が叱りつけた源六郎さま。
それがもうあんなりっぱに御成人あそばされて――お笑いになる眼だけがもとと変わらぬ。
ほほえみと
すり足で退出するお城廊下の長かったことよ。
あの日、大役をお受けしてからこのかた。
南町奉行としての自分は、はたして何をし、そして、なにを知ったか?
思えば、風も吹き、雨も降った。が、いますべてを識りつくしたあとに、たった一つ残っている大きな
それは、人間である。
人のこころの底の底まで温く知りぬいて、
たいがいの悪がじろりと一
夢。
――という気が、忠相はしみじみとするのだった。
で、うっとりした眼をそばの泰軒へ向けると、
ばっさりと倒れた髪。なかば開いた口。
強いようでも、
「疲れたろうな。寝ろ寝ろ」
とひとり口の中でつぶやいた忠相は、急に何ごとか思いついたらしくすばやく
「こいつ、金がないくせに強情な! 例によって決して自分からは言い出さぬ。起きるとまたぐずぐずいって受け取らぬにきまっとるから、そうだ! このあいだに――」
忠相が、そこばくの小判を紙に包んでそっと泰軒の
とたんに、
庭前を飛んで来たあわただしい
「申しあげます」
「なんだ」さッとけわしい色が、瞬間越前守忠相の顔を走った。
「なんだ騒々しい! 大作ではないか。なんだ」
「出ました、
「辻斬り? ふんそうか」
とねむたそうにうなずいた越前守は、それでも、これだけではあんまり気がなさそうに聞こえると思ったものか、取ってつけるようにいいたした。
「それは、勇ましいだろうな」
「いかが計らいましょう?」
「どれ、まずどんなようすか」
ようよう腰をあげた忠相が、障子をあけて縁端ちかく耳をすますと、
月も星もない真夜中。
広い庭を
池の水が白く光って風は死んでいた。
ただ、深々と
声のない気合い、張りきった
「曲者は手ごわいとみえるが、誰が向かっておる」
「
「門前――と申したな。斬られた者はいかがいたした?」
「商家の
「長屋で手当をしてつかわしておりますが、
言うまも、剣を中に気押し合うけはいが、はちきれそうに伝わってくる。
「
太い眉がひくひくとすると、忠相は低く足もとの大作を
「よし! いけッ! 手をかしてやれ、斬り伏せてもかまわぬ」
そして、柄をおさえて走り去る大作を見送って、しずかに部屋へ帰りながら、血をみたような不快さに顔をしかめた忠相は、ひとり胸中に問答していた。
このけさ掛け斬りの下手人が、左腕の一剣狂であることは、自分は最初から見ぬいていた。それをさっき泰軒に、やれ左ききであろうの、数人に相違ないのと言ったのは、泰軒といえども自分以外の者である以上、あくまでも探査の機密を
なかでは、泰軒が帯を締めなおしていた。
天下何者にも
「聞いたぞ、おれが出てみる」
「よせ!」忠相は笑った。
「貴様に
「なあに、馬鹿な」
一言吐き捨てた泰軒は、
「帰りがけにのぞくだけだ……では、また来る」
と、もう
無慈悲の辻斬り! かかる人鬼の潜行いたしますのも、ひとえに忠相不徳のなすところ――と
ゆく手の門前に二、三大声がくずれかかるかと思うと、フラフラと眼のまえに迷い立った煙のような人影?
ぎょッ! として立ちどまったのをすかし見ると、長身
「せっかく生きとる者を殺して、何がおもしろい?」
泰軒の声は痛烈なひびきに沈んだ。
「うん? 何がおもしろい? お前には地獄のにおいがするぞ」
「…………」
が、相手は黙ったまま、生き血に酔ったようによろめいてくる。刀の
「おれとお前、見覚えがあるはずだ。さ! 来い! 斬ってみろ俺を」
こういい放った泰軒は、同時にすくなからず異様な気持にうたれて
「斬れ! どうだ、斬れまいが! 斬れなけりゃあおとなしくおれについて来い」
悠然と泰軒が背をめぐらした間髪、発! と、うしろに
垣根に
ほがらかな秋晴れの朝である。
軒の端の栗の梢に、高いあおぞらがのぞいて、キキと鳴く小鳥の影が陽にすべる。
「
栄三郎はこういって膳に向かった。そして、
「いかにも
と、改めてめずらしそうにまえの広場に大根を並べ
孫七は黙って飯をほおばっていた。
鶏が一羽おっかなびっくりで土間へはいろうとして、片脚あげて思案している。
「七五三は人が出ましたろう。
お
「お兼もいっしょに食べたらどうだ? そう客あつかいをされては厄介者の私がたまらぬ」
と栄三郎はすすめてみたが、お兼も箸をとろうともしなければ、息子の孫七も口を添えないので、三人はそれきり言葉がとぎれて、黒光りのする百姓家のなかに貧しい
心づくしとはわかっていても、悩みをもつ栄三郎には
やがて無口の孫七は、むっつりして
と言っても頭のつかえる
所在なさに横になった諏訪栄三郎。
思うまいとして眼さきをよぎるのはお艶のすがたであった。
あの首尾の松の夜。
栄三郎が生まれたとき、母の乳の出がわるくて千住の農婦お兼を
かれらこそはしばらくこの傷ついたこころをかばってくれるであろう……まずさしあたり雨露のしのぎに。
こう考えて、栄三郎がこの竹の塚の孫七方へ
油じみた蒲団
が、もとより恋の流れに
お艶と
この一つのために他を棄てさることのできないところに栄三郎のもだえは深かったのだ。
毎夜のように首尾の松の下に立って、河へ石を三つなげて泰軒に会ってはくるが、お艶の行方も乾雲丸の
加うるに弥生のこと。
鳥越の兄藤次郎のこと。
夜泣きの刀とともに泣く栄三郎の心だった。
――裏山のかけひの音が、くすぐるようにごろ寝している栄三郎の耳に通う。かれはむっくりと起きあがって、窓明りに坤竜丸の鞘を払った。
うすぐらい部屋に、一方の窓から流れこむ陽が坤竜丸の剣身に映えて、
冬近い
小猫の寝すがたに似た雲が一つ、はるか遠くにぽっかりと浮かんでいるのが、江戸の空であろう……栄三郎は刀をしまうと、こんどはぽつんと壁によりかかって、眼をつぶって考え出した。
世の中はすべて思うままにならないことの多いなかに、一ばん自分でどうにでもできそうで、それでいていかんともなし難いものがみずからの心であるような気を、彼はこのごろ身にしみて味わわなければならなかった。
それはことに、かれが鉄斎先生の娘弥生どのを思いおこすごとに、百倍もの金剛力をもって若い栄三郎を打つのだった。
嫌いではない。決してきらいではない!
が、単に嫌いでないくらいのことでは、どうあってもひたすらに心を向けるわけにはいかないところへ、先方から押しつけるように持ってこられると、ついその気もなくはね返したくなるのが男女
栄三郎は弥生を、きらい抜くというのではなかったが、いかに努めても好きになれない自分のこころを彼は自分でどうすることもできなかったのだ。なぜ? ときかれても栄三郎は答え得なかったろうし、ただつとめて好きになる要もなければ、また、なれもしないばかりか、かえってその気もちが
が、理屈として、
そこに栄三郎の胸に、三社まえの掛け茶屋当り矢のお艶という女があったがためであることはいうまでもない。武家の娘の
そのお艶。
あの大川の夜、身代りとして舟へ飛びこんだ
しかしその刀と並んでいる坤竜丸を眼にするたびに、かれは何よりも先に一時斬って棄てねばならぬわが心中の私情に気がついて、
乾雲丸と坤竜丸!
こうしてはいられぬ!
恋愛慕情のたてぬきにからまれて身うごきもとれぬとは!
切り離せ! そうだ、左膳を斬るまえにまずお艶への
百もわかっている。が、やっぱりお艶のうえを思うと、栄三郎は剣を第二にこのほうへ! と心がはやる……それは情智のあらそいであった。
だが?
おとなしくしていて養子にでもやられては、お艶も刀もそれきりになってしまう。それではたまらぬと、そこで兄藤次郎にはすまぬと影に手を合わせながら、わざと種々の
あの五十両もかわいいお艶のためとはいえ、何もあんなことをしなくてもまともな
お艶! 恨んでくれるな。今にきっと探しだして助けるから。
こう
「若様、お茶がはいりましたが――」
梯子段の中途にお兼婆さんの声がした。
「お
と、あたりをはばかる声で、お艶は午後のうたた寝からさめた。
気がつくと夢を見ていた。
自分の身が人魚と化して、海底の岩につながれている。青
お艶が恐ろしさに身ぶるいして逃げようとしても、
なんという情けない!……
と胸を掻きむしって上を仰ぐと、陽の光が斜めに縞のようにぼやけている水面を、坤竜丸を差した栄三郎が泳いでゆく、何度も何度も頭上高く輪をかいて泳ぎまわっているが、おりてはこないし、お艶も浮かびあがれなかった。
ああ! じれったい!
あんなにわたしの上をまわっていて、これが見えないのかしら? 見てももう救い出してくださるお気はないのかしら?
首尾の松の小舟で……あれほど固く誓ったものを!
人魚になったお艶が源十郎の首にすりよせられて思わず泣き叫ぼうとしたとき、
「お艶! お艶!」
と呼ぶ声が水の層を通してだんだんはっきりと聞こえてきた。
あ! 栄三郎さまがおいでくだすった!
「は、はい――お艶はここにおりますッ!」
「お艶」
という最後の声が耳のそばで大きくひびいたので、お艶がはっと眼をあけてみると……。
栄三郎ではない――母のおさよが盆に何かのせて来て、しゃがんでいた。
「お艶、お前、好きだったよねえ。お
おさよは娘をのぞきこんで、
「お前、なんだかうなされていたようだね」
「ええ、こわい夢……夢でよかった」
まだぼんやりして上身を起こしたお艶は、ほつれた髪を手早く掻きあげながら、眠りのなかで泣いていたものとみえて、巻いて枕にしていた座蒲団のはしが涙に濡れているのに気がつくと、そっとうしろへかくして悲しく笑った。
寝起きの頬に赤くあとがついて、男ごころをそそらずにはおかない悩ましさ。
母と娘、せまい
櫛まきお藤のさしがねで、
いつぞや老下女おさよの話に出た娘というのがこのお艶であろうとは、さすがの源十郎、ゆめにも気がつかなかった。
駕籠からひきずり出されたお艶を見て、おさよはのけぞるほど
奥まった
くる日も来る日も、お艶にはかびくさい
酒の場には必ずお艶がひきだされる。
それでお艶は、窓から見える草間の
が、源十郎はあせるだけで、ゆっくりお艶のそばへもよれず、どうすることもできなかった。いつでも
いまも、その源十郎のかん走った声が、あし音とともに廊下を近づいてくる。
「さよ! さよ! こらッ、さよはおらぬか」
たちまち身をすくませるお艶を制して、おさよはあわてて部屋を出た。
「あれ、お母さん! またこっちへ来ますよ。早く行っておさえてください……」
お艶が隅に小さくなるのを、おさよは、
「いいからお前は黙ってまかせておおきってば!」
と低声に叱って障子をしめると、おもて座敷をさして廊下を急いだが、そのまも、
「おさよッ!……はて、どこへ行ったあの婆あは?」
という源十郎の声が、突き刺すように近づいてくる。
本所の化物屋敷鈴川の家には、
小走りに角をまがったおさよ、出あいがしらに源十郎のふところに飛びこんだ。
「なんだ? 婆あか。俺に抱きついてどうする? ははははは、それよりもおさよ、あんなに呼んだのになぜ返事をせん! また、お艶の部屋へ行きおったな」
源十郎は瞬間太い眉をぴくつかせて、
「どうも変だぞ? 貴様、あの娘となんぞ縁故でもあるのか」
とおさよをのぞくと、どきりとしたおさよはすぐさま
「いいえ殿様、とんでもない! ただ若いくせにあんまり強情な娘で、それに殿様がお優しくいらっしゃるので、いい気になりましてねえ、そばで見ていてもはがゆいようでございますから、この婆あがちょくちょく
とおさよはなんとかしてあやなす気でいっぱいだ。
「そうか。おれも荒いことは好まんから恥ずかしながらあのままにしてあるが……まま貴様、なにぶん頼む。じっくり言いきかせてくれ」
「ええええ。そうでございますよ。いまはまだ本人も気がたっておりますから、殿様の御本心もなかなか通じませんけれど、あれでねえ、とっくりと損得を考えますれば、ほほほ、いずれ近いうちには折れて出ましょうとも」
うそも方便とはいえ、現在の母たるものがなんたる! と思えばおさよも心中に泪をのまざるを得なかった。
「それにねえ殿様、あんな堅いのに限って――得てあとは自分からうちこんで参るものだとか申しますから、まあ、この婆あにまかせて、お気を長くお持ち遊ばせ」
源十郎は上機嫌、廊下の板に立ちはだかって、襟元からのぞかせた手でしきりと顎をなでては、ひとり悦に入りながら、
「うむ、そういうものかな、はははは、いや、大きにそうであろう。おれは何も、あれを一時の
「それはもう……わたくしも毎日よっく申しきかせておりますんでございますよ、はい」
「と申したところで、水茶屋では公儀へのきこえもあることだからとても
と源十郎は、口から出まかせにさもしんみりとして見せるが、一生そばへおいて――と聞いて、
「殿様」
「なんだ? 改まって……」
「ただいまのおことば、ほんとうでございましょうね?」
「はてな! おれが、何かいったかな」
「まあ! 心細い! それではあんまりあの
「なんのことだ? おれにはわからん」
「一生おそばにおいて――とおっしゃった……あれは御冗談でございましょう?」
源十郎は横を向いて笑った。
「なんの! 冗談をいうものか。いやしくも人間一匹の生涯を決めるに
もし事実そうなったら、お艶のためにも自分のためにも……とっさに思案する老婆さよの
「さよ、貴様、あれのことというといやにむきになるな」
「いえいえ! け、決してそんなことはございません!」おさよはどぎまぎして、「ただ、あのただ、わたくしにもちょうど同じ年ごろの娘があるもんでございますから、つい思い合わせまして、あのお艶が……いえ、お艶さんが一生お妾にでもあがるようなことになりましたら、さぞ楽をするであろうと――」
「そうだ。本人のためはいうにおよばず、もし血につながるものがあったら、父なり母なり探し出して手厚く世話をしてやるつもりだから、内実は五百石の後室とそのお腹だ。まず困るということはないな」
こう源十郎がいいきると、おさよは思わずとりすがるように、
「殿様ッ! それはあの、御本心でございますか」
すると源十郎、
「な、何を申す! 武士に二言のあろうはずはないッ!」
といい気もちにそり返りざま、両刀をゆすぶるつもりで――左へ手をやったが、
で、何かいい出しそうにじッ! とおさよを見すえた
源十郎とおさよ、はた! と無言の眼を合わせた。
と! またしても声が――
ヒイッ……という、思わず
それが、井戸の底からでも揺れあがってくるように、怪しくこもったまま
源十郎は委細承知らしく、にが笑いの顔をおさよへ向けた。が、口にしたのはやはりお艶のことだった。
「では、さよ、貴様もあの娘の件にはばかに肩を入れておるようだが、いずれそこらの
「いえ。曰くも何もございません。わたくしは先へ話をするつごうもあり、それにつけても何より大事な殿様のお心持をしっかり
と、正直一図のおさよは、だんだん源十郎に感謝したい気になってきた。
「うむ、まあ、そういったようなものだが」
「いつまでも立ちばなしでもあるまい。近くゆっくりと談合して改めて頼むつもりでおる」
「頼むなどとは、殿様、もったいのうございます! わたしこそお艶に代わって……」
言いかけて、おさよがあわてて口をつぐむのを、源十郎は知らん顔に聞き流して声を低めた。
言うところは、こうである。
あの、女のさけび声。
あれは、狂暴丹下左膳が、
そう聞けば、おさよにも思いあたる
源十郎がお艶の駕籠をかつぎこませた
それからこっち、お藤は浅草の
事ありげなようす! とは感じたが、もとより老下女などの顔を出すべき場合でないので、気にかかりながらもお艶の身を守る一方にとりまぎれていたけれど、いまとなって心に浮かぶのは。
あの丹下左膳という御浪人。
かれは亡夫宗右衛門と同じ奥州中村相馬様の藩士で、自分やお艶とも同郷の仲だが、それがなんでもお
道理で、辻斬りが
しかるに!
源十郎にないしょにお艶のもとに忍んで話しこんでいるうちに栄三郎のその後の模様もだいぶ知れたが、お艶の口によると、栄三郎はいま、二本の刀のうち一本をもって、他のひとつを必死に物色しているとのこと。
さては! と即座に胸に来たおさよだったが、その場はひとりのみこんで
ところが今、源十郎はお艶の一生を所望している! おめかけとはいえ、終身奉公ならば奥方同然で老いさきの短い母の自分も何一つ不自由なく
そうなれば、かわいいお艶の出世とともに、自分はとりもなおさず五百石の楽隠居!――と
母の
が、源十郎よくおさよの乞いをいれて、左膳と
――思案に沈んでおさよが、耳のそばに、
「お藤が、おれに
という源十郎の声でわれに返ると、膝までの草を分けていつのまにかもう
カッ! とただよう殺気をついて左膳の罵声がする。
「うぬッ! 誰に頼まれてじゃまだてしやがった? いわねえか、この野郎ッ……!」
つづいて、ぴしり! と鞭でも食わす音。
「ほほほほ、お気の毒さま! 野郎はとんだお
櫛まきお藤はすっかりくさっているらしい。
「やいッ!
「ほほほ、音を立てろ――だと!
「なにいッ!」
細松の幹を思わせる、ひょろ高い筋骨、それに、着たきり
せまい六畳の部屋。
源十郎の父宇右衛門は、老後茶道でも楽しんで、こころしずかに余生を送るつもりで建てた
くもり日の空は灰色。
本所もこのへんは遠く家並みをはずれて、雲の切れ目から思い出したように陽が照るごとに、淡い光が横ざまにのぞいては、仁王立ちの左膳の裾とそれにからまるお藤を一矢
夜具や身のまわりの物を片隅に蹴こんだ寒ざむしい室内。わずかにとった真ん中の
ぐるりと四、五人男が取り巻いている。
たださえ痩せほうけた丹下左膳、それが近ごろの夜あるきで露を受け霜に枯れて、ひとしお
またもや!
「おいッ! なんとか言えい! 畜生ッ、こ、これでもいわねえか! うぬ、これでも……ッ!」
と、わめくより早く、乾雲の鞘尻
アッ! と歯を噛んで畳を抱いたきり――お藤は眠ったように動かない。
水のような薄明の底にふだん自慢の櫛まきがねっとりと流れて着ている物のずっこけたあいだから、襟くび膝頭と
この、毎日の責め
それが、きょうも始まったところだ。
なんのため!
ほかでもない――あの首尾の松の下に乱闘の夜、左膳が栄三郎へ斬りつけた刹那に、櫛まきお藤がお艶をよそおって小舟へとんだため、栄三郎とあの乞食がすばやくつづいて舟を出してしまった。おかげでもう一歩というところであたら
と左膳はお藤を自室に幽閉して日々打つ殴る蹴るの
がお藤にしてみれば。
自分がこんな
ほれた弱味――でもあるまいが江戸の
庭へ開いた戸ぐちを人影がふさいでいる。
例の女物の長襦袢をちらつかせた左膳、乾雲丸を引っさげてつかつかと進みながら、
「なんだ? 源十におさよじゃねえか。てめえたちに用のあるところじゃねえ! なにしに来た?」
と立ち拡がったが、源十郎はにやり笑ってそっとおさよを突いた。
「さ、
ささやかれたおさよ、恐怖に気も
「鈴源! 貴様は昼も晩も
あざけりつつ、そろりそろりと室内へ引き返す左膳を、源十郎は眼で追って、さもお艶との仲が上首尾らしく、色男ぶった薄わらいをつづけていると、
「おれの女はこれだッ!」
と、左膳はやにわにお藤を蹴返して、
「こらッ、お藤! 誰のさしがねで刀のさまたげをしたか、それを
叫びざま左手に髪を巻きつけて引きずりまわす――が、この狂乱の丹下左膳に身もこころも投げかけているかのように、お藤は蒼白の顔に歯を食いしばって、されるがまま、もう声を立てる気力もないのか、振りほどけた着物をなおそうともしないで、ただがっくりと左膳の脚にとりすがっている。
この日ごろの
あまりの
「殿様かい?」
お藤が、左膳の足の下から、顔をおおう毛髪を通して源十郎へ
「へん! 殿様がきいてあきれらあ! あたしの
源十郎はあわてた。
「これお藤、貴様、のぼせて、何をとりとめもないことを……」
「だまれッ、源十!」
がなりつけたのは左膳だった。同時に、髪をつかんでお藤を引き起こすと、痛さにあまったお藤は左膳をあおいで
「よしてください頭だけは! あたしゃお前さんにどうされようと首ったけなんだからね、それゃあ殺すというなら殺されもしようさ。えええ、りっぱに殺されましょうともさ! けど、ちっとでもかわいそうだと思ったら、ねえ丹下様、
と左膳の手を離れて、ふらふらッ! と立ってきたあがり
「いらっしゃい。おひさしぶりですねえ、ほほほ、その顔! あなたのおかげでお藤もこんなに血だらけになりましたよ」
にっこりしたかと思うと、左膳をはじめ一同があっけにとられているまえで、お藤の全身が源十郎を望んでおののきわたった。
「
「姐御、姐御、そう気が立っちゃあ話にならねえ。よ、これあ当家の
と与吉が気をもんで耳打ちするのを、左膳が横から突きのけた。
「与の公、ひっこんでろッ!」
「そうだとも!」お藤は
はっと息づまるなかに、
「おい、鈴川……」
と、たいらに呼びかけた左膳の
「なあ源的、おれと貴公との仲はきのうきょうの交際ではないはずだ。したがって、いかにおれが一身一命を賭して坤竜丸を狙っておるか貴公、とうから百も承知ではないか、しかるにだ――」
言いながら土間におりた左膳は、みるみる顔いろを変えて、
「しかるに!」
と一段調子をはりあげた時は、もう自分とじぶんの激情を没して、一剣魔丹下左膳本然の鬼相をあらわしていた。
「おれに助力して坤竜を奪うと誓約しておきながら、なんだッ! 小婦の
風、地に落ちてはちきれそうな
土生仙之助、お藤、与吉ほか二、三の者は、
ふところ手の源十郎、
「丹下!」と低声。「貴様も、そう容易にいきりたつところを見ると、案外子供だなあ! おれは何も貴様のじゃまをしようと思って
「やかましいッ! だ、黙って、おれに斬らせてくれ貴様を!」
左膳、だしぬけに眼を細くしてうっとりとなった。怪刀の柄ざわりが、ぐんぐん胸をつきあげてきて、理非
所を
毒酒のごときその陶酔が、白昼のまぼろしとなって左膳の五感をしびれさせつつあるのだ。
「き、斬らせてくれ! なあ源公、よう! 斬らせてくれよう、あはははは」
左膳は、しなだれかかるように二、三歩まえへよろめいた。
「わからないやつだな――なるほど、おれはあの晩お艶をひっかついで一足さきに帰った。そりゃあ貴公らと行動をともにしなかったのは、重々おれが悪い。その点はあやまる。な、このとおり、幾重にも詫びる……しかしだなあ丹下、お藤が舟へとびこんで、そのお藤をお艶と見誤って敵が即座に舟へ移って逃げたところで、そ、それはおれの知ったことではないぞ」
すると、聞いていたお藤が、
「まだあんなことをいってる! 殿様、あなたもずいぶん
いい出すのを与吉がおさえた。
「姐御! ね、もうようがしょう、殿様も折れてらっしゃる――」
「それ見ろ!」左膳は、勝ち誇った眼をお藤から源十郎へ返して、
「貴様の
「この刀といっしょにしてやることができたのだ――鈴川、貴様に裏切られようとは思わなかったぞ」
「貴公も
「そっちはよかろうが、こっちはいっこうよくねえ。おれの執念ではない。刀の執念だ。こ、この乾雲の執念なのだッ!」
「フフン!」源十郎はせせら笑った。「おもしろいな。それで何か、毎夜辻斬りにお出ましになるてえわけか」
すぱりと吐いた。
と!
「ぶッ!」面色蒼白の度をました左膳、たちまちぽうっとふしぎな
「や! とうとう口を割ったな。なに、おおかたそんなところと、ちょっとかまを掛けたんだが、なあ丹下、江戸中の不浄役人がかぎまわっている今評判の逆
「ううむ! その前に
「おれは事は好まん」
「き、斬れるぞ源十! け、乾雲が、斬れきれと泣いておる。この声が貴様に聞こえんか」
「事は好まん……が、やむを得ん!」
源十郎、
「座敷からおれの刀を持ってこい!」
芝生――とは名ばかりの、久しく
「これ、見ろ、こいつにこんなにくれが来ている。してみると、二百十日から二十日までのあいだに一つ大暴風雨がくるかな。昔からの言いつたえに間違いはない」
などとのんきなことをいっていたが、やがて、つづみの与吉がひっ返してきて、こわごわ源十郎に大刀を渡すのを見ると、さすがにすっくと起きあがった。
「では、いよいよやるかな」
左膳の
「源十、死ぬ前にひとこと礼を言わせてくれ」
「死ぬ……とは誰が死ぬのだ?」
「きまってるじゃねえか。てめえが今死ぬんだ――」
「うふふ! 死ぬのは貴様だろう。なんでも言え。聞こう」
「だいぶ長く厄介になったな。ありがてえぞ……これだけだ!」
「ははははは」源十郎の笑声はどこかうつろだった。「鳥のまさに死なんとするやその声悲し。人のまさに死なんとするやその言うところ
「あたりめえよ!」
一歩さがった左膳、タタタ! と平糸巻きの鞘を抜きおとして、蒼寒く沈む乾雲丸の
「てめえのおかげで坤竜を取り逃がしたので、おれはともかく、この乾雲が貴様を恨んで、ぜひ斬りてえといってしようがねえのだ。まあ、貴様にしたところで生きていてえつごうもいろいろあろうが、ここは一つ
「笑わせてはいかん。どうもあきれるほどしつこいやつだな」
「しつこくなけりゃあできん仕事をしておるでな。われながらゆえあるかなだ。第一、おれの辻斬りを感づいた以上、なんとあっても生かしてはおけん」
「そうか……では! それほどまでに所望なら、鈴川源十郎、いかにもお相手つかまつろう! だがしかし後悔さきに立たず、一太刀食らってから待ったは遅いぞ!」
「何を言やがるッ! 腰抜けめッ! てめえの血が赤えか白いか、それをみてやるんだ。おいッ! 来いよ早く! 往くぞッ、こなけりゃあ――ッ! はっはっは」
もはや
「大人気ない。が、参るぞ丹下ッ! ……こうだッ」
とうめくより早く、土を蹴散らした足の開き、
引き退いた左膳、流れるままにじわじわと左へ寄ってくる。同時に、源十郎は右へ二、三歩、さきまわりして機を制した。
暮れをいそぐ陽が二つの剣面を映えて、白い円光が咲いては消える。霜枯れの庭に
「鈴川」と別人のように軽明な語調。「おれあこうやってる時だけ生きているという気がするのだ。
源十郎は無言。
青眼にとった柄元を心もちおろすと、うしろへ踏みしめた左足の爪先に、思わず力が入って土くれを砕いた。
どっちも、まさか抜きはすまい。こう思っていたのが、この立合い、飛ばっちりを食ってはたまらぬとお藤と与吉は早々に姿を消して、残っている仙之助も、手をつけかねてうろうろするばかり。
新影、宝山二流を
法の一字を割って
鈴川源十郎、なかなかこの去水流をよくするとみえて、剣に先立って気まず人を呑むていの丹下左膳も、みだりに発しない……のかと思っていると、スウッと刀をひいた左膳、やにわにゲラゲラ笑い出した。
「ははは、よせよ。源公! てめえはもう死んでらあ!」
ふっと笑いやんだ左膳は、あっけにとられている源十郎を尻眼にかけて、
「自分でじぶんの参ったのを知らなきゃ世話あねえ……俺はいま、
源十郎はくしゃみをする前のような奇妙な顔をした。
「…………」
「だから貴様はすでに死んだ。おれに斬り殺されたのだ。そこに立っておるのは貴様の亡者だよ。あはははは、戦わずして勝敗を知る。
源十郎も蒼い頬に苦笑を浮かべて、
「勝手なことをいう――」
と刀をおろした時、周囲をまごまごしていた土生仙之助が仲にはいった。
「同士討ちの機ではござるまい。まま御両所、ここは仙之助に免じておひきください」
左膳は口を曲げて笑った。
「なんでえ今ごろ! 気のきかねえ野郎だなあ!」
そして乾雲丸を鞘におさめて、さっさと
立ち去ろうとする源十郎を、仙之助がぶらさがるように抱きとめて戸内へつれこむ。
まもなく手が鳴っておさよが呼ばれたのは、庵室の三人、これから夜へかけて仲なおりの酒盛り……例によってそのうちお艶が引き出されることだろうが――。
うら木戸のそばに
昼間でさえ陽がとどかないで、年中しめった木の
一組の男女。
櫛まきお藤とつづみの与吉が、地にしゃがんで話しこんでいた。
お藤は、燃える眼を与吉の口もとに注いで、
「それじゃあ何かえ、お前の言うこと、うそじゃあないんだね?」
その声のうわずっているのに、与吉はびっくりしてあたりを見まわした。
「姐御、そう
さっとお藤の顔から血の気が引くと、
「白状……って、丹下さまが何かおいいだったかえ?」
「さあ、そうきかれると困るんだが」と与吉はわざとひょうきんに頭をかいて、「白状でもねえな。じつあ寝言なんでさあ。へえ、その寝言を聞いてね、あっしが内密に探りを入れると――」
こう言いさして、
それによると。
このごろ左膳のようすがどことなく変わってきていることは、思いをかけているだけにお藤は誰よりも先に気がついていたが、朝夕出入りして親しく身辺の世話をする与吉にはそれがいっそう眼についてならなかった。
考えこむ左膳。
――ついぞ見たことのない左膳である。で、それとなく注意していると、左膳はよく寝言をいう。
弥生と言えば、女に相違ない……!
と、それから与吉こっそりかぎまわってみると、はたして! もと乾雲丸を蔵していた根津あけぼのの里の剣道指南小野塚鉄斎の娘に弥生というのがあって、左膳のために父と刀を失ってから行方も知れずになっているという。
「この弥生ってえのに丹下様が
いい気持にしゃべりながら何ごころなくひょいとお藤を見あげた与吉、思わずどうッ! と尻もちをついて叫んだ。
「あ! 姐御! なんて顔をするんだ!」
恋の神様が桃色なら?
その緑面の
物置小屋のかげに、つづみの与吉はつばをのんで、
丹下左膳が弥生という娘を恋している――と聞いたお藤は、さてはッ! と思うと身体じゅうの血が一時に凍って、うつろな眼があらぬ方へ走るのだった……紙のような唇をわなわなとおののかせて。
それが眼に見えぬほむらとなって、櫛まきお藤の
与吉はわれ知らず面を伏せて、心中に足もとの土へ話しかけた。こいつあとんだことをしたぞ! まさかこんなに
と、頭のうえで、夢でもみているような、しらけきったお藤の声がした。
「きれいな娘だろうねえ、その弥生さんとかってのは」
「へ?」と顔を上げた与吉は、とたんに、三斗の冷水を襟元からつぎこまれた感がして、「へえ、なんでもあけぼの小町といわれたくらいですから、それあもう――」
と語尾を濁して黙りこんだ。
仮面のようなお藤の顔が、こわばった笑いにゆがんだのを見て、与吉は
「それはそうだろうさ。あたしみたいなお婆あさんなんか足もとへも寄れやあしまい。はははは、知ってるよ! でも与の公、お前いいことをしらせておくれだったね。ほんの少しだけれど、さ、お礼だ、取っといておくれ」
黒襟のあいだを白い手が動いたかと思うと、ちゃりいん! と一つ、澄んだ音とともに、小判が与吉の眼前におどった。
同時に。
ぽかんとしている与吉をその場に残して、お藤は、夕ぐれの庭に息づく雑草を踏んで歩き出した。
声のない笑いがお藤の口を洩れる――。
今さら男を慕うの恋するのという自分ではない。それが、丹下左膳のもっている何ものかにひきつけられて、あの隻眼隻手のどこがいいのかと
それにしても――
源十郎の殿様は、まあなんというお人だろう!
必ず丹下さまとの仲をとりもってやるから、そのかわりに……という堅い約束のもとに、お艶を連れ出す手伝いをしたはずなのに! こっちの気をつたえるどころか、そのため、はからずも左膳さまの激しい怒りを買ってもあのとおり最後まで知らぬ顔の半兵衛をきめていやがるッ!
眼中人のない丹下左膳に、何もかも知りつくした心を向けていた櫛まきお藤、もうこうなれば、もとより眼中に人はないのだ。
娘の恋が
水をぶっかけられて消えたあとに、まっ黒ぐろに焼けのこった蛇の
復讐!
櫛まきお藤ともあろうものが小むすめ
縁の端は納戸。
その納戸の障子に、大きな影法師が二つ。もつれあってゆれていた……。
「ねえお艶、そういうわけで」とお艶の手を取った老母さよの声は、ともすれば、高まるのだった。
「殿様も一生おそばにおいてくださるとおっしゃるんだから、お前もその気でせいぜい
お艶は、行燈のかげに身をちぢめる。
「まあ! お母さんたら、情けない! 今になってそんな
「だからさ、だから何も早急におきめとは言ってやしないじゃないか。ま、とにかくちょっとお
「いやですったら嫌ですッ!」
とお艶が必死に母の手を払った時、障子のそとに静かな
「今晩は……」
「こんばんは……おさよさんはいますか」障子のむこうに忍ぶ
ずいとはいりこむと、べったりすわって斜めにうしろの
「ええ、ですから、とても、一人じゃ手がまわりませんから、このお艶――さんに助けてもらおうと思いましてね。それに殿様の
「いいじゃないの、ここは! お艶さんには、いろいろ殿様に頼まれた話もあるんだから、お前さんはあっちへお行きってば!」
「でも、お艶をつれてくるようにと――」
「しつこい婆さんだねえ。あたしが連れていくからいいじゃないか。それより、
おどかされたおさよが、逃げるように廊下を飛んでゆくと、その
もう
酒を呼ぶ
膝を進めたお藤は、横に手を突いて行燈のかげをのぞいた。
「お艶さん、お前、かわいそうにすこし痩せたねえ。おうお! むりもないとも。世間の苦労をひとりで集めたような――あたしゃいつも与の公なんかに言っていますのさ。ほんとに納戸の娘さんはお気の毒だって」
積もる日の
そこをお藤がすり寄って、
「ねえ、お前さんあたしを恨んでおいでだろうねえ? いいえさ、そりゃ怨まれてもしようがないけれど、実あね、あたしも当家の殿様に一杯食わされた組でね、言わばまあお前さんとは同じ土舟の乗合いさ。これも何かの御縁だろうよ。こう考えて、お前さんをほっといちゃあ
お艶がかすかに頭をさげると、お藤は、
「これを
お艶は、
「男ごころとこのごろのお天気、あてにならないものの両大関ってね」
「え!」と、ぼんやりあげたお艶の顔へお藤の眼は鋭かった。
「弥生さまとかって娘さん、あれは今どこにいるかお前知ってるだろう?」
「ええ。なんでも三番町のお旗本土屋多門さま方に引き取られているとかと聞きましたが――」
これだけ言わせれば用はないようなものだが、
「さ。それがとんだ間違いだから大笑い」と真顔を作ったお藤、「お前さん泣いてる時じゃないよ。男なんて何をしてるか知れやしない。
ええッ! まあ! と思わずはじけ
「じぶんで乗りこんで、いいたいことを
一石二鳥。源十郎への復讐にお艶を逃がし、左膳への
赤鬼青鬼
「おいッ! 源十、源的、源の字、ああいや、鈴川源十郎殿ッ! 一
左膳、大刀乾雲丸を膝近く引きつけて、玉山
「す、鈴川源十郎殿、ときやがらあ! しかしなんだぞ、ううい、貴公はなかなかもって
底の知れない微笑とともに、源十郎は左膳に、
「貴様の殺剣とは違っておれのは
すると左膳は手のない袖をゆすって
「殺人剣即活人剣。よく殺す者またよく
と左膳、源十郎ともにけろりとしている。
左膳が隻腕の
「そうだ、そうだ! 言わば兄弟喧嘩だ。根に持つことはない」
「へえ。土生の御前のおっしゃるとおりでございます」いつのまにか来て末座につらなっている与吉も、両方の顔いろを見ながら口を出す。
「ただ、このうえは皆様がお
「うむ」刀痕の深い顔を酒に輝かせて、快然と笑った左膳、「まあ、いいや。話が理に落ちた。しかし、あんな若造の一匹や二匹おれの手ひとつで片のつかねえわけはねえが、総髪ひげむくじゃらの乞食がひとりついている。あいつには、この左膳もいささか手を焼いた」
と語り出したのは。
いつぞやの夜、大岡の邸前に辻斬りを働いた
おぼえのあるこじき浪人の偉丈夫に見とがめられて、先方が背をめぐらしたところを乾雲を躍らして斬りつけたが、や! 損じたかッ! と気のついた時は、すでに相手は動発して身をかわし、瞬間、こっちの肘に指力を感じたかと思うと、肩の闇黒に一声。
馬鹿めッ
と! もう姿は
「あのときだけはおれも汗をかいたよ」
こう左膳が結ぶと、
「上には上があるものだな」
「へえい! だが、丹下さまより強いやつなんて、ねえ殿様、そいつあまあ
などと仙之助と与吉、それぞれに
赤っぽい光を乱して、四人の影が入りまじる。さかずきが飛ぶ。箸が伸びる。徳利の底をたたく――長夜の
左膳は、剣を抱いて横になる。
「お藤はどうした?」
「へえ。さっき帰りました」
「すこし手荒かったかな、ははははは」
と左膳が虹のような酒気を吐いたとき、おさよの声が土間
「殿様、ちょっとお顔を
起きあがった源十郎は、
「お艶が待っていると申すぞ。ひとりで眺めずにここへつれて参れ」
という左膳の
霜に
風に雨の香がしていた。
「殿様」
「なんだ」
「あの、お艶のことでございますが」
「うん。どうじゃな?
「はい。いろいろといい聞かせましたところが、一生おそばにおいてくださるなら――と申しております」
「そうか。
「いいえ、そんな――けれど、殿様」
「なんだ?」
「あのう、わたくしはお艶の……」
いいながらおさよが
「やッ! 見ろッ! おらんではないかお艶はッ! あ!
関の孫六の鍛刀乾雲丸。
夜泣きの刀のいわれは、脇差坤竜丸と所をべつにすれば……かならず
いまや
この、本所鈴川の屋敷の
左膳は、またしてもその泣き声を聞いたのだった。
妖剣乾雲、いかなる涙をもって左膳に話しかけたか――。
おどろおどろとして何ごとかを
おのが手の
それが左膳にはっきり聞こえるのだ。
「血、血、血……人を斬ろう、人を斬ろう」
というように。
左膳はにっこりした。が、かれはふしぎな気がした。何故? いままでも左膳はよく深夜に刀の泣き声らしいものをきいたことがあるが、それはいつもきまって若い女のすすりなきだったけれど、今夜のはたしかに老婆の
その
源十郎はおさよといっしょにさっき出て行ったきりである。
深々と更けわたる夜気。
と、またもや
左膳は一、二寸、左手に乾雲を抜いてみた。同時に、突き上げられたように
人は眠りこけている。見るものはない。それなのに左膳は、すばやく懐中を探って黒布を取り出し、片手で器用に顔を包んだ。音のしないように離室を出ると、酒に熱した体に
どこへ?
江戸の辻々に行人を斬りに。
なんのため?
ただ斬るため。
しかし、そのうち雲竜相応じ、刀の手引きで
一
が、刀が
左膳の出て行ったあと。
納戸では、源十郎がおさよを
「どうも俺は、以前から変だとは思っていたが、これ! さよ! 貴様がお艶を逃亡させたに相違ない。いったい貴様はあの女の何なのだ? ううん? いずれ近い身寄りとはにらんでおるが、
籠の鳥に飛び去られた源十郎、与力の鈴源と言われるだけあって泣き伏すおさよの前にしゃがんでこうたたみかけた。
「
おさよは弁解も尽きたらしく、もう強情に黙りこくっていると、源十郎は、
「いずれ身体にきいていわせてみせるが、お艶が俺の手に帰るまでは、貴様をここから出すことはならぬ」
いい捨てて、先に
どこか雲のうらに月があると見えて、灰色を帯びた銀の光が、降るともなく、夢のようにただよっている夜だった。
もう
右手の
人通りのない
歩きなれないお艶は、じゃまになる裾まえをおさえながら、ともすれば遅れがちの足を早めて、われとわが身をいたわるような
「ねえ先生、どこまでゆくのでございましょうか。ずいぶん遠うございますねえ。ここはもう江戸ではございますまい?」
泰軒の笑い顔が振り向いた。
「そうさ。江戸ではない。が、日本のうちだ。安心してついて来なさい。だいたい発足した時から、遠いがええかとわしは念を押したはずだ。夜みちをかけてかわいい男に会いにいこうというのに、そう気の弱いことではしようがないな、ははははは」
「でも――」とお艶はあえいだ。
「でも……なんじゃな?」
「でもね先生、後生ですからうちあけておっしゃってくださいましよ。あの、栄三郎様は、ほんとにその千住の竹の塚とやらにおいでになるのでございますか」
「行ってみりゃあわかる。一番の早道だ」
「そして――そして、おひとりで……?」
「さ、それもこれから寝こみを襲えばすぐわかろう」
じらすように泰軒が言うと、お艶は情けなさそうにうつむいてかぶっている
罪だ……とは思うが、どうせ後から笑いばなしになることと、泰軒は微笑の顔を見せないように先に立つ。
あとに続くお艶の心中は、嫉妬と不安とはかない喜びにかきむしられて、もつれもつれた麻糸の玉だった。
櫛まきお藤に手をとられて、本所法恩寺橋まえの鈴川の屋敷をのがれ出てから。
小一丁も来たかと思うころ、お艶はお藤を見失ってしまった。それはお藤としては、お艶の口から恋がたき弥生のいどころを知って、そのうえ源十郎への意趣晴らしにお艶をつれ出した以上は、もはやお艶は足手まといにすぎないと、そこでさっそく夜の町にまいてしまったのだが、弥生と栄三郎が家を持っている――と聞いただけで、なに町のどこに? ともまだお藤に
あの若殿さまにかぎって、まさか!
と一度は強く打ち消してもみるが、夏の沖に立つ
おお、そうだ! 泰軒先生におすがりして! と、黒い河水にのまれた三つの小石、
ポトン! ポトンポトン!
貧乏徳利をさげた乞食と
で。
さっきから無言に落ちて、あらぬ
「あれ! あれが
「まあ! こわい……」
「はははは、だから、急ぐとしよう」
が、泰軒はぴたッと立ちどまって、うしろのお艶をかばうようにかまえた。
ほのかに白い道のむこうに、杉の幹にはりついて黒い影がある。
と、お艶の忘れられない若々しい詩吟の声が、ゆく手の半暗をさいて流れて来た。
「
坤竜丸、夜泣きの脇差の
平巻きの鞘が先へさきへと腰を押すような気がして、ただじっとしていられなかった栄三郎が、明けから江戸の町をあるくつもりで千住街道を影とふたりづれで小塚原の刑場へまで来ると――。
眼のすみを横切って、ちらと動いたものがある。それが、右に立ち並ぶ木の根を離れたかと思うと、タッタッ! と二足ばかり、うしろに迫る人の気配を感じて、栄三郎は振り返った。
その時。
長星。闇黒に飛来して、刃のにおいが鼻をかすめる。来たなッ! と知った栄三郎、とびさがれば
それが、左腕の片手!
刀は乾雲丸……きょうが日まで捜しあぐんでいた丹下左膳だ。
「これ! 乾雲だなッ」
「や! 貴様は坤竜! うめえところで会ったな」
つるぎにかけては
辻斬りの相手を求めて、乾雲丸の指し示すがままに道をこのほうへとってきたのだったが、初太刀をはずされた当の獲物が坤竜丸とわかってみれば!
もう何も言うことはない。
七つ
呼吸を測って押しあった二人、離れた時は真剣のはずみでとっさに四、五間のへだたりがあった。
ここで栄三郎は、かぶっていた編み笠を路傍へ捨てて、しずかに愛刀武蔵太郎安国の鞘をはらう。
濡れ手拭をしぼるように、やんわりと持った柄の手ざわりにも、
と、うしろに。
「やわらかに」
という声がする。ふしぎ! 誰? と振りむこうにも、前方には左膳の隻腕一文字に伸びてツツ……と迫ってくるのだ。乾雲の
「
蒼白の麗顔に汗をにじませて、栄三郎は無言。
小ゆるぎもせずに大刀を片手につけた左膳、右に開いた身体にあかつきの微風を受けて、うしろの右足がツウッ! と前の左足のかかとにかかったと見るや、棒立ちの構えから瞬間背を低めて、またもやひだり足の爪さきに地をきざませて這い寄る。それから再びソロソロと右足が……こうして道路を斜めに栄三郎をつめながら、覆面のかげから隻眼が笑う……どうでえ、青二才! あんまりいい気もちはしめえが! というように。
押されるともなく、追われるでもなく、いつしか片側の松の幹までさがった栄三郎、思わずはっとして気をしめた。
「若殿様! 栄三郎さまッ! お艶が参っております! どうぞしっかりあそばして」
近いところからこの声が。
もとより心の迷い、いたずらなから耳――と思った栄三郎だったが、これがかれを
が、余人ではない。左膳だ。
払うどころか、躍動する刀影を眼前に、さッと乾雲の手もとがおのが胴へ引いたと見るや、上身をそらせて栄三郎の鋭鋒を避けながら、右下からはすに、乾雲、
と見えたが……。
虚を斬りさげた武蔵太郎の柄におさえられて、乾雲のさきにいささかの血が走ったのは、余勢、栄三郎の手の甲をかすったのだ。
「うぬッ!」
と歯を
両方からひしッ! と合して、人の字形に静止――つばぜりあいだ。
近ぢかと寄った乾雲坤竜。
吐く息がもつれて敵意の炎と燃えあがるのを、並木のかげから二つの顔がのぞいていた。
雨をはらんだ夜空は低かった。
窓の下の
屋敷町の宵の口はかえって、
弥生は、
肺の病に臥す弥生の部屋である。
このごろ人を
床の中で眼をつぶった弥生が、またしても思うのは――あの諏訪栄三郎さまのこと。
栄三郎様は、浅草三社まえとかの女と
日々これを眼にする多門の苦しみも大きかったが、そのなかにも一つの
ところが、こうして病気が快方に向かうにつれて、栄三郎に対する弥生の思いは募りにつのって、それも当初の生一本の娘ごころの恋情とは違って、あいだにお艶というものがあるだけに、いっそう悪強い、人の世の裏をいく
恋の
よくなりつつあるとはいえ、まだ床は出られない。
音もなく流れこむしめっぽい夜風。
とたんに、またひとしきり
「おや! 窓をしめ忘れて……」
と
そのときだった。
今にも降り出しそうな
ふしぎそうに首を傾けた弥生、こわごわ拾いあげてみると、紙片で小石を包んで
なんだろう? と思うより早く、弥生がいそいで開くと、小石が一つ足もとにころげ落ちて、手に残ったのは巻紙のきれはし。
誰の字とも弥生はもとより知る由もないが、
失礼ながら一筆申しあげそろ。
お艶栄三郎どのがたのしく世帯 を持って夫婦ぐらしのさまを見るにつけ、おん前さまがいじらしくてならず、いらぬこととは存じつつお知らせ申しそろ。その場へおいでのお心あらば、わたしがこれよりおつれ申すべく早々におしたくなされたくそろ――ごぞんじより。
お艶栄三郎どのがたのしく
はっとよろめいた弥生、窓につかまってさしのぞくと、御存じよりとはあるが、見たこともない女がひとり、いつのまにどうしてはいりこんだものか、小雨に煙る庭の立ち木の下に立って、白い顔に
何はなくとも、栄三郎とお艶にとっては、
家じゅうがらんとして……というと相応に広そうだが、あさくさ御門に近い
その、せまく汚ないのがおかしいといってお艶が笑えば栄三郎も
お艶と栄三郎、思いが叶ってここに家をかまえたまではいいが、自分が逃げたためにもしやお母さんに疑いがかかって、本所の屋敷であの源十郎の殿様にいじめられていはせぬかと思うと、こうしていてもお艶は気が気でなかったとともに、それにつけて、思い出してもふしぎなのは、じぶんを逃がしてくれたお藤さんという女の
栄三郎様と弥生さまとが……と聞いてむちゅうで駈け出したお艶が、泰軒とつれだって千住をさして急いだ途中。
あの小塚原のあけ方、左膳と栄三郎が刃を合わせた。
四分六といつか泰軒が
お艶栄三郎、明けはなれてゆくうす
お艶が、手拭を食いさいて傷の手当をしながらきくと、なるほど泰軒のいうとおり、栄三郎は今まで千住竹の塚の
「もうわしがおっては邪魔であろう。これ以上ここらにうろうろすれば憎まれるだけだ。犬に食われんうちに
こう
それからまもなく。
泰軒のいる首尾の松へも近いというところから、三人で探して借りたこの家であった。
たらぬがちの生活にも、朝な朝なのはたきの音、お艶の
お艶のはなしによって。
丹下左膳が、母おさよの奉公先なる本所法恩寺まえの旗本鈴川源十郎方の
で……。
泰軒と栄三郎、この二、三日こっそりと
そうとは知らないお艶、ぬれ手拭をさげた栄三郎をこころ待ちに、貧しいなかにも黙って出して喜ばせようと、しきりに口のかけた
どうん! と一つ、
栄三郎と泰軒が、同時に左右に別れてその戸の両側に身をかくす。
とも知らない庵内の男、夢中でごそごそ起き出たらしく、やがてめんどうくさそうに戸をあけて、
「ちえッ! 誰だ、今戸にぶつかったのは? 用があるなら声をかけろ」
と、みなまでいわせず、
生きている血がカッ! と火の子のように
だが! たやすく刃にかかったところを見ても、斬られたのは左膳ではなかった。
とすると、
庵のなかには、めざす丹下左膳がまだ
夜の
しみじみと骨を刺す三
本所化物屋敷の草庵に斬りこみをかけた二人は、一枚あいた板戸の左右にひそんで、じっと耳をすまして家内をうかがった。
お艶の口から、ここに乾雲丸の丹下左膳が潜伏していることを知り、お艶にはないしょで、今夜不意討ちに乗りこんだ諏訪栄三郎と蒲生泰軒である、来る途中で、獲物代りに道ばたの
「あんたは
というたのもしい泰軒の言葉に、こんどこそはいかにもして夜泣きの片割れ乾雲丸を手に入れねばならぬと、栄三郎は強い決意を
深夜。暗さは暗し、折りからの雨。寝こみをおそうにはもってこいの晩である。小声にいましめあって
今の物音は源十郎達のいる
と、思っていると、
雨戸のなかに、コソ! と人の動くけはいがして、同時にふっと枕あんどんを吹き消した。
踏みこまねば
かぶさってくるその
たちまち、暗がりに慣れた栄三郎の眼に、部屋の中央に
「坤竜か。この雨に、よく来たなあ! 先夜は失礼した――」
低迷する左膳の声――とともにこの時母家のほうに当たって戸のあく音がして、鈴川源十郎のがなりたてるのが聞こえた。
「なんだッ! 丹下ッ! 何事がおきたのかッ!」
真十五枚
かぶと伏せは俗に
武蔵太郎安国は、この大村加卜の門人である。
いまこの、武蔵太郎つくるところの一刀をピッタリ青眼につけた諏訪栄三郎、闇黒に沈む庵内に眼をこらして、長駆してくるはずの乾雲丸にそなえていると。
今にも庭へ流れ出てくれば、闇中の乱刃に泰軒ひとりでは心もとない……とふと栄三郎の心が戸外へむくと、うしろの戸口に!
「栄三郎殿ッ! ここは拙者が引き受けたぞ。こころおきなく丹下をしとめられい!」
との
「ここへ斬りこんでくるとは、てめえもいよいよ死期が近えな」
と剣妖左膳、ガチリと鍔が鳴ったのは、乾雲の柄を握った片手に力がこもったのであろう。同時に、
「では、そろそろ参るとしようかッ」
と、おめきざま、
が、さいたのは敷蒲団と畳の一部。
その瞬間に、いながらにして跳ね返った左膳は、
「
これが、平素から
「コ、コイッ! うるせえ
はじきとめた武蔵太郎が、鉄と鉄のきしみを伝えて、柄の栄三郎の手がかすかにしびれる。とたんに一歩さがった彼は、
と見た左膳、腸をつく鋭い気合いとともにすかさず追いすがって二の太刀を……。
闇黒ながらに相手が見えるふたり。
火花を散らす剣気が心眼に映じて昼のようだ。
斬りさげる左膳。
はねあげる栄三郎。
あいだに! ウワアッと!
本所鈴川の化物屋敷が刀影下に没して、冷雨のなかを白刃
ここ瓦町の
男子のたたかいは剣と
だが、女子のあらそいに用いられる武器は、ゆがんだ微笑と光る涙と、針を包んだことば……そうして、火の河のようにその底を流れる二つの激しい感情とであった。
たがいの呪い、憎みあう二匹の白蛇。
それが今、茶の間……といってもその一室きりない栄三郎の
お
だまったまま眼を見合って、さきにその眼を伏せたほうが負けに決まっているかのように双方ゆずろうともしない――
が、さすがにお艶は、水茶屋をあつかってきただけに弥生よりは
と、栄三郎の妻という句に力を入れて、これだけいうのがお艶には一生懸命だった。茶屋女上がりと馬鹿にされまい。まともな挨拶もできないとあっては、じぶんよりも栄三郎様のお顔にかかわる。こう引き締まったお艶のこころに、まあなんといっても、いま栄三郎の心身をひとりじめにしているのはこのわたしだという勝ちほこった気が手伝って、お艶にこれだけスラスラと初対面の
「良人がいろいろと御厄介になりましたそうで……」
と口にしかけたお艶は、突如、いい知れぬ嫉妬の雲がむらむらとこみあげてきて、急に眼のまえが暗くなるのを覚えた。
しかし、弥生は無言だった。
この家にはいって以来、彼女はお艶の顔に眼を離さずに、
ものをいうのもけがらわしい!
と強く自らを
けれど、
栄三郎様の妻と自身で名乗っている。
ああ……これが話に聞いた当り矢のお艶か。でも、妻だなどとはとんでもない!
いいえ! いいえ! 妻で――妻であろうはずはありません! 決してありません!
と胸に絶叫して、
「まあまあ! なんておいたわしい。ほんとにお察し申しますよ」
こう言ってお藤は、なんのゆかりもないものだが、あまりに報われない弥生の悲恋をわがことのように思いなして、頼まれもしないのにお艶、栄三郎の隠れ家へ案内をする気になったのだと、
「じつはねえお嬢さま、あたくしもちょうどあなた様と同じように、いくら思っても
と、左膳を思いうかべながら、この娘! この娘! この娘なんだ! どうしてくれようとちらと横眼で見ると恋と
宵から降りだした雨をついて、その夜鈴川の屋敷には、いつものばくちの連中が集まり、更けるまではずんだ声で勝負を争っていたが、それもいつしかこわれて、寄り合っていた悪旗本や
その夜は二十人あまりの仲間が鈴川方に泊まって、なかの二人が、左膳とともに
口々に呼んでも左膳の答はない。
のみならず、つい先刻まで濡れた闇黒に丸窓を浮き出させていた離室の灯が消えている。
と、とっさに感じとると同時に、ただちに源十郎指揮をくだして、一同
雨中を、数手にわかれて庵室をさして進む。
ピシャピシャピシャというその
この多勢の人影を、かれらが母屋を離れる時から見さだめていた泰軒は、一声なかの栄三郎を励ましておいて、つと地に這うように駈けるが早いか、母屋からの小径に当たる石
庭とはいえ、化物屋敷の名にそむかず、荒れはてた草むらつづきである。
さきに立った
「起きて来たのはいいが、
パッと横ざまに飛び出した泰軒の丸太ん棒、
「やッ! 出たぞ!」
と
そしてその手には、いますばやく仙之助から奪いとった
「うむ! こいつだツ!」
「それ! 一時にかかってたたっ斬ってしまえ!」
源十郎をはじめ大声に叫びかわして、雨滴に光る
が、
薩州島津家の刀家
泰軒先生、自源流にかけてはひそかに
いまその
「ごめん! 拙者がお相手つかまつるッ!」
と躍り出た源十郎、
雑草の根を掻きむしって悶絶するうめき声。
とともに、四、五の白刃、きそい立って泰軒に迫ったが、たちまち雨の暗中にひときわ黒い
その疾駆し去ったあとには、
と、まもなく生き血に彩られて、光を失った刀をさげて、黒い影がひとつ。ころがるように庵を出てくるのが見える。
剣を持っているその手! それは右腕か左腕か?
右ならば栄三郎、左腕なら左膳だが……。
と、思わず泰軒が眼をとられた瞬間!
「えいッ!」
と
胸に邪計をいだく櫛まきお藤。
じぶんの恋する左膳が思いをかけている弥生という娘。これがまた左膳の
それには、文つぶての思いつき。
恋と
しかも、以前から人知れず強い
さてこうしてお艶、栄三郎の暮しを
弥生は泣いた。さめざめと泣いた。
が、うつ伏せに折れるでもなければ、手や
両手を膝に重ねて、
その泣き声が、傘をすぼめて戸外の露地に立ち聞くお藤の耳にはいると、櫛まきお藤、細い眉を八の字によせていまいましそうに舌打ちをした。
「チェッ! なんだろう、まあだらしのない! 自分の男をとった女と向きあってメソメソ泣くやつもないもんだ。お嬢さまなんてみんなああ気が弱いのかしら――じれったいねえ! 嫌になっちゃうよほんとに」
こうつぶやいてなおも戸口に耳をつけると、雨の音に増して、弥生の泣き声がだんだん高くなる。
まことに弥生は、やぶれ
美しくやつれた白い顔が、クシャクシャと引きつるように真ん中へよったかと思うと、口がゆがみ、小鼻のあたりが盛り上がってきて、無数の
その顔をまっすぐにあげた弥生、いまは恥も
しかし、骨をあらわした壁に、弥生の影が大きくぼやけて、その肩の辺が細かくふるえて見えるのは、あながち油のたりない
おさむらいの娘というものは、こうも手放しで泣くのか――と頭の隅であきれながら、ただまじまじと弥生の涙を見つめていたお艶も、女の涙のわかるのは女である。そのうちに一度、この場にいない栄三郎のことが胸中に
それは、互いに一人の男を通して、やがてひとつに溶け合おうとする淡い
長い沈黙である。
と、この時、弥生の泣き声のなかに言葉らしきものが混じっているのに気がついて、お艶は、
「は? なんでございます――?」
ときき返したつもりだったが、じぶんでも驚いたのは、お艶の口を出たのがやはり泣き声のほか何ものでもなかった。
いまにつかみあいではじまるだろうと、おもてに聞いていたお藤、
「おやおや! 嫌にしめっぽくなっちゃったねえ。お葬式じゃああるまいし……なんだい! ふたりで泣いてやがらあ!」
と当てのはずれた腹立ちまぎれにトンと一つ
ちょうどそのころ、本所鈴川の屋敷では――。
闇黒に冷えゆく
が、その時!
下からささえた武蔵太郎は刃ごたえがあって、一声
人を斬ってばかりいて、近ごろ斬られたことのない左膳、しばらく忘れていた鉄の味を身に感じて、
隻眼隻腕、おまけに顔に金創の溝ふかい怪物……このうえ跛者とくりゃあ世話アねえや! ととっさに考えるとそこは
「さあ
「…………」
答のかわりにはね起きた栄三郎は、直ちに跳躍して追撃を重ねる。それを左右に払いつつ、左膳は戸口を背に一歩一歩さがってゆく。
せまい庵内なればこそ、八転四通の左膳の剣自由ならず、道場の屋根の下に慣れた栄三郎も五分五分に往けるのだが、一度野天に放したが最後、
なんとかして室内にくいとめておかねば――と栄三郎が右からまわって退路を絶とうとしたとき、左膳の左手がビク! と動いたと見るやはや乾雲風を裂いて飛躍しきたったので、突っ離すつもりで身をひいたとたん、土間に降りた足音がして、六尺棒のような左膳の身体がスルスルと戸ぐちをすべり出た。
その出たところを泰軒が見たのだった。
泰軒は、ちらと
のはいいが。
あいだに張り出た立ち樹の枝に
たけなわ。
さもなくば、初冬
いま、この化物屋敷には、
血に染んだ草の葉を打つ雨の音。
斬られた者のうめき声が、
源十郎の鋭刃に虚をくらわせた泰軒。
同時にうしろに、
「
心から感嘆した左膳の声だ。
乾雲を追って部屋を走り出た坤竜。栄三郎が雨をすかして
「うぬッ! こうなれば一人ずつ武蔵太郎に血をなめさせてくれる!」
と、栄三郎が先方を望んでまっしぐらに
「一手、
立ちふさがって、しずかな声だった。
江戸の町々を寒く濡らして、更けゆく夜とともに繁くなる
地流れをあつめて水量の増した溝から、泥くさい臭気がぷうんとお藤の鼻をつく。
両側の軒が迫り合って、まるで屋根の下のような露地の奥。さしかけた傘を、
雨に寝しずまる長屋つづき。
屋内では、お艶と弥生が、たがいの涙にまた新しい涙を誘われて、何かクドクドと掻きくどいているらしい。
丹下左膳が思いをかけている弥生を
お艶、栄三郎のむつまじい住いを見せてやっただけでも、お藤は相当に弥生をいじめ得たわけだが、もっともっと弥生が恥をかくようなことにならなければ、お藤としては腹の虫が納まりかねるのだ。ところが、いつまで待っても二人は泣き合っているばかり……これでは櫛まきお藤、初めの
先刻から、露地口をこっちへ、犬のように忍んでいる黒い影があった。
それがこの時まで、すこしむこうの
その家の中では。
おなじ恋の辛さに、女同士のなみだを分けるお艶と弥生。
――弥生様は、どうしてわたし達の隠れ家を突きとめて、しかもこの雨の深夜に、何しにいきなり乗りこんでいらしったのだろう? とこれが一ばん先にお艶の頭へきたのだったが、座に着いてから今まで、言葉もなくただ泣きくれている弥生を見ているうちに、なんということなしに自分も涙をおさえきれなくなって、ほろりと一つ落としてからは、あとはもう言うべきことのすべてが
うしなった恋に涙を惜しまぬ弥生と。
得た恋の不安、負けた相手への思いやりに、またべつの嘆きをもつお艶と……。
ようよう泪を払って、弥生がしんみりとお艶に物語ったところは。
栄三郎へかたむけた自らの恋ごころ。亡父鉄斎の
そして、
「わたしはもう帰ります。なんのためにおじゃまにあがったのか、じぶんでもわかりません。栄三郎様にはお眼にかからぬほうがよろしゅうございます……ただおふたりともお身体をお大事に」
起ちあがりながら、弥生はつけたした。
「お艶さま。どうぞわたしの分もいっしょに栄三郎様へお尽くしなすってください。あの方は、道場にいらっしゃるころから、寒中でも薄着がお好きで、これから寒さへ向かいますのに、もしやお
と、強い弥生は、もういつもの強い弥生であった。
が、それと同時に、弱いお艶はすでにいつもの弱いお艶に返って勝った恋のくるしさに耐え得でか、わッ! と声をあげて
「なんだい一体! おもしろくもない
われ知らず口にのぼしてつぶやいた拍子に!
雨音を乱して近づく多人数の人の気!
はっとして露地の入口に向けたお藤の眼に、ほの光る銀糸の玉すだれをとおして映ったのは、いつのまにどこから湧いたか、真っ黒ぐろに折り重なった
おやッ! と胆を消しながらもそこは櫛まきの
ふくろ
と、とっさに看取した櫛まきお藤、おちょぼ口を袖でおさえると、ひとりでに
「あれさ、
一手
鼻と鼻がくッつきそう――闇黒をのぞくまでもなく、相手は、ふり注ぐ雨に全身しぼるほど濡れたりっぱな武士!
鈴川源十郎の化物屋敷には、まだ雨中剣刃の浪がさかまいているのだ。
泰軒があぶない! と見て踏み出した栄三郎も、眼前に立ち現われたこの侍の
正規の火事
それが抜き放った大刀をじっと下目につけたまま、栄三郎の気のゆえか、どうやら
なに
地からせり上がったか、それとも闇黒が
とすれば?
駈けつけた敵の助勢であろうか、それにしても、このものものしい火事場の身固めと、なんとなく迫ってくる威圧、
刀をつけながらも、
通りがかりか、ないしは志あってか、この一団の火事装束、いま血戦の最中にこっそり邸内に忍び入って来たものに相違ない。
それが偶然にもこの
「お手前は――? 坤竜かの?」落ち着き払った、老人らしい声音である。
栄三郎は、ふたたび
自分と左膳とのあいだの乾坤二刀の争奪……誰も知る者のないはずなのに、この、突如としてあらわれた異装の一隊は、そのいきさつを
何者かはわからぬが、容易ならぬ一団!
ことに、いま栄三郎と立ち合っている
左膳、栄三郎、泰軒、源十郎、その他を抱きこんでよどむ夜泣きの
二剣、その所をべつにしたが最後、
あせりたった栄三郎、こうなった以上身を全うするにしくはなしと、
「えいッ!」
と
「先を急ぎまする、ごめん!」
ひとこと残して泰軒の方へ走り去ろうとすると、剣光、栄三郎の背後に乱れ飛んで、火事装束の武士達一
見ると、泰軒はむこうで左膳ひとりを相手に斬りむすんでいる。一刻も早く屋敷のそとへ! と決した栄三郎、ぶつかった鈴川方の一人をパッサリ! と割りさげておいて、
追ってくるようすはない。
一同、火事装束の
「泰軒先生ッ! 思わぬじゃまが入りました!」
「なんだ、あの連中はッ」
「やはり、乾雲坤竜をねらう
「すりゃ、左膳とあんたにとって共同の敵じゃな――しかし手ごわそうな!」
「は。残念ながらひとまずこの家は引きあげたほうが……」
「それがよろしい。互いに
そうだ。まもなく夜も明けよう。
「こう行こう!」
と歩き出した二人は、おさよ婆さんのとらわれている納戸のまえにさしかかった。
ガラリ……格子戸があいたので、お艶と弥生が同時に顔を向けると、しずくのたれる傘をさげた櫛まきのお藤。
「ごめんなさいよ。ちょいと通さして――」といいながら、もう傘と
うらは別の露地へひらいて、右へ切れてまっすぐに行けば第六天
軒づたいにそこまで逃げのびたお藤は、ほっとしてうしろを振り返った。
追って来る御用提灯もなく、夜の雨が遠くの町筋を
「こりゃうっかりできないよ!」
とお藤がひとり言を洩らした時!
「これ! 女ひとりか。この夜更けにどこへ参る?」
という太い声が前面からドキリとお藤の胸をうった。
「は。いえ、あの、わたしはそこの長屋の女でございますが、ただいま夜中に急病人がでまして――」
「医者を迎えに行くというのか」
「はい」
「よし。気をつけてゆけ」
「有難うございます」
で、二、三歩歩きかけた背後から!
「櫛まきお藤ッ!
と一声!
行き過ぎた捕役の手にキラリ十手が光って!
「何をッ! おふざけでないよ!」
構えたお藤、ちらちらと周囲を見ると、雨に伏さった御用の小者が、
「あめの中から金太さん……て唄はあるけれど、そうすると、ここに待っていたのかえ。ほほほほほ」
不敵にほほえみながら、懐中に隠し持った
「御用ッ!」
「櫛まきッ! 御用ッ!」
ビュウッ! と
うしろざまに階段へ一足かけたお藤の姿は、作りつけのように動かなかった。
風のごとく表から飛びこんで来たお藤が、風のごとく裏へ吹き抜けて行ってからまもなく。
お艶と弥生、あっけにとられた顔を見合わせているところへ、先刻お藤をかぎつけた御用聞きをさきに数人の捕吏がどやどやとなだれこんできて、
「いま、ここへ女がはいって来たろう?」
と
すばやく眼を交わした弥生お艶、何がなしに同じ意を汲みあって、まるで約束していたように
「いいえ、どなたも……」
「はてな?」
と多勢が首を傾けたからさては踏みあがってくるかな? と見ていると、それでは
露地から屋根まで御用提灯でいっぱいで、めざす女を逃がした役人達がくやしそうになおも右往左往している。時ならぬ雨中の騒ぎに長屋の者も軒並みに起き出たようす。
「張りこみに手落ちがねえから、どっかでひっかかりやしたろう」
どぶ板を踏み鳴らしながら、話し過ぎる
と、それを
この雨の明け方を、弥生さまはおひとりで
これは、何ごとか突発したのだ! とにわかに暗い不安の底に突きおとされたお艶だったが、かれが畳に
水茶屋の苦労までなめただけあって、浮き世の義理には
中庭に入りまじる
あし音とともに、泰軒と栄三郎の話し声が近づいてくるので、おさよはいっそう闇黒の奥に縮まった。
誰か知らないが暴れ者がふたりやって来た……こう思って見つかっては大変と、息を
そとの廊下では、納戸のまえに二人が足をとめたようすで、
「お! こんなところに部屋があります」
という若い声。すると年老った声がそれに答えて、
「ほほう。ここから
二人の足音が遠ざかって、そのうちに台所ぐちからでも屋敷を出離れて行ったけはい。
これを娘お艶の男の栄三郎と知らぬおさよは、ほっとしてまた耳を傾けた。
今ふたり出ていったにもかかわらず、庭にはまだ剣のいきおいが
栄三郎に泰軒としては。
この鈴川の屋敷に、お艶の母おさよ婆さんが下女奉公にあがっていて、それがお艶が逃げたことから源十郎にひどいめにあわされているらしいと知っていたので、ついでに助け出したいとも思って納戸まであけてみたのだったが、世の中にはこういう変なことがすくなくない。救いを求める人と、救う目的でさがす人とが一度はこんなに近く寄りながら、たがいに相手を知らずにそのまま過ぎてしまう――これも人間一生の
夜もすがらの雨に、ようやく明けてゆこうとする江戸の朝。
やがて……。
泰軒と栄三郎が、遠く鈴川の屋敷をはなれたころ。
ほかの側の
江戸の町では見かけない山駕籠ふうの粗末なつくりだが、
「エオ
「さようなあ。もういいかげん出てきそうなもんだが、こう長くかかるところを見るてえと、こりゃあひょっとすると大物のチャンバラだぜ。なあ
「あたりめえよ。
「それあいいが先にもだいぶんできてるのがいるっていうじゃあねえか」
「そのかわり、こっちだって一粒
「
「全くだ。おれも乗りこんでやってみてえなあ」
「シッ! おおい、みんな! 声が高えぞ!」
「黙ってろ黙ってろ! それより、用意はいいな。お出になったらすぐ往くんだ。コウレ、七公、
わいわい言いあっているが――。
多少わけ知りらしい口調といい、ことに、この十人の男が、いずれも六尺近い、仁王のような
この、力士のような堂々たる
首領らしい老人を先頭に、それぞれ抜き身を手に、すばやく駕籠へおさまると、
「そら来た! やるぜ!」と合図の声。
五つの駕籠がギイときしんで地を離れたかと思うと、
エイ、ハアッ!
ハラ、ヨウッ!
見るまに駈け出した五つの駕籠、早くも朝寒の雨にのまれて、通り魔の行列のように、いずくともなく消えてしまったが、それは実に驚くべき
どこから来てどこへ去ったとも知れない五つの駕籠!
その中の火事装束の五人の武士。
かれらもまた、乾坤二刀を奪ってひとつにせんとするものであろうか?……とにかく、江戸の巷に疾風のごとき五梃駕籠が現われたのはこの時からで、あとには、一夜の剣闘に荒らされた鈴川の屋敷に、朝の光になごむ氷雨がまたシトシトとけむっていた。
冬らしくもない陽がカッと照りつけて、こうして
ウラウラと揺れる日の光のにおいが、障子に畳にお
裏の銭湯で三助を呼ぶ番台の
くろウ、かアみイの、ツンテン。
むすウぼオれエた――るうウウ。
……聞いている
三十番神の御神燈に、
あさくさ田原町三丁目家主喜左衛門の住居である。
長火鉢のまえに膝をそろえた喜左衛門は、思いついたように横の
こう押しつまると、年内にかたづけたい公事用が山のようにたまっているところへ、きょうも朝から何やかやと町内の雑事を持ちこまれて、茶一つゆっくりのんでいられないのだった。
走り
「いやはや!」と喜左衛門はつぶやいた。「こういそがしくちゃ身体が二つあってもたりねえ」
と、ふと彼は考えこんで、そのまま筆を耳にはさんで腕を組んだ。
もとの
三間町の
鍛冶富は、人のうわさによれば、だいぶお艶に食指が動いてそのために、金もつぎこめば、また
おれはただ、店子といえば子も同然、大家といえば親も同然――という心もちから、
それだのに。
お屋敷へあがったおさよからは、便りどころかことづて一つあるではなし、娘は娘で、勝手に男をこしらえて今はどこにどうしているとも知れず店をしめて突っ走ってしまった。
お艶は何をいうにも若い女のこと、ただ
「娘っこも娘っこだが、おふくろもおふくろだて」
われ知らず口に出た喜左衛門へ、女房が
「お前さん、おさよさんとお艶
「うん。虫の知らせと言おうか。なんとなくこう
「そうだねえ。そう言えばわたしもこの二、三日あの親娘の夢見が悪いのさ。どうだろう、いっそ本所のお屋敷へうかがってみては?」
「うん……そうよなあ」
と喜左衛門が
「おうッ、喜左衛門どん、いるかね!」
「押しつまりましたね」
鍛冶富は、すわるとすぐ
「御多用でごわしょう……」
ぽつんとこたえて、喜左衛門は気がなさそうである。鍛冶富はクシャクシャと顔中をなでまわして、
「いえね。なんてえこともなく、ただこう
で、今さら、年の瀬の町の騒音が身にしみるようにそしてそれを噛んで味わうように、二人はちょっと下を向いてめいめいの手の甲をみつめた。
喜左衛門の
ふたりはいっしょに音を立ててすすった。
喜左衛門は髪も白いほうが多く、六十の声をかなり前に聞いたらしい年配だが、富五郎は
「なあ喜左衛門どん」
「はい」
しばらく何かもそもそしていた鍛冶富は、やがて思いきったように口をひらいた。
「おさよさんのこってすがね――」
と聞いて、喜左衛門が、ほん、ほん! というような声を立てて急に膝を乗り出すと、鍛冶富もそれに勢いがでて、
「いや、お笑いになるかも知れねえが、ちょいとその、鈴川様のお屋敷について嫌なことを聞きこみしたんでね……」
「ほ! なんですい?」
「まあさ、あそこへおさよさんを入れたのは、お前さんとわたしが
「はい。いや、殿様のお身持ちのよくねえことやなんかは、わしもちょくちょく聞いておりましたがな、はい、一体全体まあどんなことが起こりましたい? 実はな富さん、おさよ婆さんのことといい、あのお艶坊のほうといい、今度の和田さんの後始末にだけはこの
「ヘヘヘ、お艶さんもどうも困りもんだがあれはお奉行所へも
「はい。そう言えば、そんなようなこともちらと小耳にははさみましたが――それでなんですい、その暴れこんだ連中てのは?
「それがさ、その下っ引きの言うことにゃあ、なんでも同じ晩に二組殴りこみをかけたらしいんだが、あとから来たのは火事装束のお侍が五人――というんですけれど、さあ、なんのための斬り合いだか、そいつが
「火事装束? へんな話だね。なんにしても押し迫ってから
「さいでげす。でね、その野郎は眼を皿のようにしてかぎまわっているんですがね、さあ、口裏をひいてみるてえと、こんなこたあ大きな声じゃ言えねえが、どうも鈴川様はだいぶお
「事件が起こったあとじゃあ、おさよさんもかわいそうだし――」
「それに、係りあいでこちとらの名が出るようなこたあまっぴらだ」
「ようがす!」喜左衛門は考えていた腕をほどいて、
「お前さんも、今のところ乗りかけた船でしかたがねえとあきらめて、どうだね、せわしい身体だろうが、一つこれから私といっしょに本所に出向いてくれませんかい……おい! 婆さんや、あっちの
家主喜左衛門、だんだんカンカンになって、ポッポと湯気をあげている。
客――でもないが、鍛冶屋富五郎が来ているあいだに、ちょっと家のまえの往来でも
いいお天気。
日の光が町全体に明るく踊って、道ゆく人の足もおのずから早く、あわただしい暮れの気分を作ってるなかにも、物売りの声がゆるやかに流れて、徳川八代泰平の
「おばちゃん……」
という声に振り返ると、長屋の
泣いても笑ってもあと何日――町へ出てみると、しみじみとそんな気がするのだった。
そうだ。気は心だからあの児へ何かお歳暮をやらなくちゃあ……女の子達には出ず入らずで一様に羽子板がいいけれど、
こんなことを考えて、何度も腰をのばしながら、喜左衛門の女房はせっせと格子の前を掃いている。
うつ向いて箒の手を動かしていると、眼に入るのは近くを往来する人の足ばかりだ。
知った人が声をかけてゆく。
通る人の足をよごさないように気をつけてはいたが、誰かにお
はっとして顔をあげると、
着流しに
切れ長の
喜左衛門の女房は、背中に火がついたように
お手うち! 斬られる! 斬られないまでも、どんなおとがめがあろうも知れぬと思って、はっとすると舌がこわばった。
「あれッ! とんだ、また、
とっさにこう
と、侍は二、三歩さがって、おだやかに笑った。
「ああ、よいよい。あやまちは誰にでもあること――自分で拭くから心配はいらぬ」
言いながらもう
相当の年齢。服装なども、眼にはつかないが、争えない高貴なおもむきを示して、何よりもそのふくよかな
ぼんやり見ていた喜左衛門の女房はわれに返ったように再び侍の足へ突進して、転ぶようにしゃがむなりまたほこりをたたきだした。
「わたくしの不調法でございます。お手ずからはあんまりもったいなくて、恐れ入ります。どうぞおゆるし遊ばして」
「いや。それにはおよばぬ」
侍は急いで身をひくと、手を取らんばかりにして、なおも争う老婆を立たせた。
「ははは、なんのこれしき! お前も家にはいっては人の妻、母、いやもう祖母であろう。その妻たり母たり祖母たる者に足を拭かせたとあっては、わしがその人々に相すまん。な、許してくれ。ここはわしのほうであやまる。ははははは」
なんというわけのわかった、奥ゆかしいお侍だろう!――と老婆が涙ぐんで頭をさげていると、「だが」と侍はつづけて、「往来筋の掃除は、まだ人の出ん早朝のうちにいたしたがよろしかろう。あ、これ! それから、あそこに散らばっておる
声もなく老婆が二つ折れに腰をかがめた時に、くだんの武士、ちらとうしろを見返って歩き出そうとした。お
こんなこととは知らないから、婆さんから婆あへおいおい格をおとして、家内では喜左衛門が
呼んでいるから行け! というように、先なる侍の眼がほほえんで老婆を見た。
いくら呼んでも女房の返辞がないので、チェッ! と舌打ちをした喜左衛門は、自分で外出のしたくをして、すぐに本所の鈴川様のお屋敷へ行こうと、鍛冶屋富五郎をうながしてそとへ出た。
出てみると、
そこらにいないと思った女房が、いまにも泣き出しそうな顔をさげて、誰かにピョコピョコおじぎをしている。喜左衛門老人はカッカッとなった。
「なんでえ! べら棒めッ! 通る人を見て泣いてやがら。気でも狂れたんじゃねえか」
ポンポンどなりながらひょいと見ると、四、五
はて! どこかで見たような! と小首をかしげた喜左衛門、こんどは蚊の鳴くような
「婆さんや、どうしたんだえ? 何か、あの武家さんに叱られでもしたのかえ?」
まあお爺さん、お聞き。世の中にはえらいお人もあるものさね。こういうわけなんだよ――と女房の話すのを聞いて、すっかり感心した喜左衛門、へえい! と眼をあげて改めて侍のうしろ姿を見送ったとたんに。
歩き出していた
「
「えッ! あ、あれが大岡様! お爺さん、お前さんまた
「ばかッ! こんな冗談が言えるもんか。はばかりながら公事御用に明るくて江戸でも
「知らぬこととはいいながら」婆さんは
「ああありがたい。いっそもっとおそばによって、よくお顔を拝んどきゃよかったよ。ねえ、お爺さん、この話は孫子の代まで
「そうとも、そうとも! うしろ影なりと拝みなおすこった」
「こちとら、こんな時でもなけりゃあお奉行さまなんか顔も見られねえ。よし! 長屋じゅうへふれてみんなを呼んでこよう」
鍛冶富が駈け出そうとするのを、喜左衛門がとめた。
「富さん! もったいねえことをするもんじゃねえ。おしのびでいらっしゃるんだ――」
そのうちに。
うららかな陽を全身に浴びた大岡忠相。きょうは文字どおりの忍びだから、手付きの用人
どこへ? というあてもない。
いわばぶらぶら歩きである。
民情に通じ、
小僧の
観音様には、江府第一の大市。
並木の通りから
これはこれは!
というふうに、越前守の笑顔が大作をふり返った。
お江戸名物あさくさ
町々辻々は車をとめ、むしろを敷いて、松、
立ち並ぶ仮屋に売り声やかましくどよんで、
浅草橋からお
冬の陽は高く銀に照って、埃と人いきれと物音が
陽の
そのなかを、おしのびの南町奉行大岡越前守忠相、自邸の庭でも
すこし離れてお供をする用人伊吹大作は、ともすれば主君の影が雑踏にのまれようとするので、気が気でない。遅れてはならないと忠相の広い肩幅を眼あてに、懸命に人を掻きわけている。
右も左も、前にもうしろにも、眼のとどく限りの町すじを
忠相はただ、まわりのすべてを受け入れ、
そこには、位の高い知名な身の自分が、今こうして
いまの忠相は、すっかり枯れきっているのだ。
かれは何らの理屈も目的もなしに、中老の一武人として、
奉行といえども二本の脚がある以上、こっそり町を歩いたとてなんの異やあらん――忠相はこう思っている。その気でどこへでも踏みこんでゆくのだから、お付きの者は人知らぬ気苦労をしなければならないので、いつもおしのびを仰せ出されると、みなこそこそいなくなったり急に
伊吹大作は人が好いので、ほかの者に代りを押しつけられてたびたびお供をしているうちに、根がお気に入りだけに、このごろでは市内巡視には必ず大作がおつき申し上げることにいつからともなく決まってしまっているのだが、これがなかなか大汗もので、さすがの大作、正直なところ
ことに今日!
ところもあろうに浅草の市なぞへおみ足が向こうとは思わなかった!
と大作、人浪に押し返されて、くるしまぎれに恨んでいるが、この大作の心中には
「ふむ。
「へい。ございます――
「本場……と申せば、伊勢か」
「へえ、へえ、伊勢の上ものでございます」
これを聞くと越前守忠相、山田の時代がなつかしかったものか、やにわにうしろを向いて呼ばわった。
「大作! 来て見い。みごとな
忠相の声が
市の中ほどへ出たときだった。
突如、うしろに起こった人声を聞いて、忠相何ごころなく振り返ってみた。
と!
その、人のうずまきのなかにキラリと光った物がある。
「わアッ! 抜いたッ! 抜いたッ! 怪我をするな怪我をッ!」
という声々がくずれたったかと思うと、旅仕度に身をかためたお
与吉のやつ、走りながら
「さあ! こうなりゃあどいつこいつの
この勢いに
これがつづみの与吉――とは知らないが、抜刀をかざす男が近づくとみるや、大作は身を
「善ちゃん! こっち! こっち! 早くッ!」
忠相の耳の下で黄いろい声が破裂した。商家の
与吉は刀身を陽にきらめかせて、もう鼻のさきへ迫ってきている。
「善ちゃん、危ないッ! いいからお帰り! そっちにッ!」
と女が叫んだ刹那、忠相はヒラリと大作の守護を
同時に!
与吉と、与吉の道中差しは、鉄砲玉のように
とおりがかりの浪人や
「この雑踏に抜きゃあがるとは、
「
あとには、市の人出が一面にざわめいて、そこにもここにも立ち話がはずんでいる。
忠相も口をだした。
「掏摸か。それにしても道中姿は珍しいな」
「へえ。あれがあの
「なるほどな」
人品
「なんでもお若いお武家とかの袂へ
忠相は、首を振って感心してみせた。
「袂にわるさをしたと申して、何か奪ったのであろうがな」
「そいつあ知りませんが、なんにしてもあんなけだものは寄ってたかってぶちのめしてさ、
越前守忠相、くすぐったそうにうなずいて、ほほえみながら立ち去ろうとすると、善ちゃんの手を引いた若い母親があらためて礼を言っている。
「いや……」
と笑った忠相の眼は、折りからまたひとり、血相を変えて人を分けてくる若い浪人者の上にとまった。
本所化物屋敷の斬りこみは、火事装束の一隊という思わぬ横槍がはいって、四、五の敵をむなしく
ふと袖にさわるもののあるのを感じて、何ごころなく見返ると……。
思いきや! 鈴川源十郎の
コヤツ! 何をするッ!
と考える先に、栄三郎の手はもう与吉の
「おのれッ!」
「あ! ごめんなさい。人違いでございます」
「
引ったてようとする。ひたすらあやまって逃げようとする。この二人の争いに、気の早い周囲の江戸っ児がすぐにきんちゃく切りがやり損じたと取って、そこで、
有難迷惑な弥次馬のおかげ、与吉をおさえそこねた栄三郎が、念のために袂をさぐってみると、出てきたのは、いま与吉が投げこんでいった丹下左膳から栄三郎へ……すなわち、夜泣きの刀乾雲丸から同じ脇差坤竜丸へあてた一通の書状!
混雑中ながら
剣怪左膳の筆跡――そもそも何がしたためてあったか? 妖刀乾雲、左膳の筆を
それはさておき。
人を左右に突きのけてくる栄三郎の浪人姿を、群集の頭越しにみとめた忠相は、あれが今の掏摸にあった侍というささやきを耳にするや、何を思ったか、いきなり足を早めて彼をつけだした。
カッ! と血が頭脳にのぼっているらしい栄三郎、人浪を押しわけてよろめき進む。男をはねのける。女はつきとばす、子供も蹴散らしてゆくがむしゃらぶり。
忠相も、いそいでそれに続いたが、嫌というほど誰かの足を踏んで、痛いッ! と泣き声をあげられた時は、大岡越前守忠相、にこやかな笑顔を向けて
しかし、
駒形を行きつくして、浅草橋近くなったころは、与吉も追っ手も影を失って、栄三郎もはじめてあきらめたものか、
忠相が後から声をかけた。
「
振り返った栄三郎は、そこに、見おぼえのない上品な武士が立っているので、思わずむっとして問い返した。
「拙者に何か
「いや、ただいまのさわぎ……
との忠相の言葉に、栄三郎は、はっと気がついたようにじろりと忠相を見やりながら
今のいままで手につかんでいたはずの左膳の手紙が! どこでいつ落としたものかなくなっているので、おや! と忠相の手もとを見ると!
これはまたどうしたというのだ。
いつ、どこで拾ったものか、皺くちゃのその手紙がちゃんと忠相の手にあるではないか。
「やッ! そ、それは――」
と、あわてふためいた栄三郎が、われを忘れて跳びかかろうとするとヒョイとさがった越前守忠相、手にした封書の裏おもてを、じらすように栄三郎の面前にかざしてにっこりした。
諏訪栄三郎殿
「いかにもその手紙は、拙者の落としたもの。不覚……ともなんとも言いようがござらぬ、恥じ入ります。お拾いくだされた貴殿にありがたく厚くお礼を申します。いざ、お渡しを願いたい――」
これが町奉行の大岡越前守とは知る由もない栄三郎、よし
「お手前が諏訪栄三郎といわるる。それはよいが、これ、裏に丹下左膳――隻腕居士拝とある。そこで諏訪氏貴殿におたずね申すが、この片腕は左腕でござろうの? いや、左腕でなくてはかなわぬところ、どうじゃ」
ときいた忠相のあたまに、電光のようにひらめいたのは、当時府内を
で、然り――という意をふくめて驚きながら栄三郎がうなずくのを見ると、忠相は、
「然らばこの一書、貴殿にお返し申すことは相成らぬ」
きっぱり断わって、さっさと懐中へしまいこんでしまった。
「
という声に、忠相がふり向くと与吉を追っていった伊吹大作である。
多勢とともに追跡してみたが、なにしろあの人出、一度は旅
「
「掏摸? 誰が掏摸じゃ?」
「は? あの男――」
「あれは掏摸ではない」
「すると
「たわけめ。同じではないか」
「恐れ入りましてござります」
「なあ大作。他人の
「は」
「機によって人の袂に物品を投ずる――こりゃすりではあるまい。きゃつはある者の依頼を受けて、あの人の袂に封書を投げ入れたのじゃ。よって越前、かの町人を掏摸とは呼ばぬぞ」
「あの、手紙を? なれど御前、どうしてそのようなことがおわかりになりまする?」
と眼を円くしている大作を無言にうながして、忠相はしんから愉快そうに、左膳の書をのんだふところをぽんと一つたたいて歩き出した。
「ははあ。なるほど
「いや、さようでございましょうとも! さようでございましょう!」
感に
狭い裏横みち。
材木が積んであって、子供が十四、五人がやがや遊んでいる。
空高く、陽は
ひさしぶりに満ちたりるまで巷の気を吸い、民の心と一つに溶けた大岡忠相、カンカン照る日光のなかで子供と同じ無心に返ってそのさざめきを眺めている。
一段高い積み木の上に正座した年かさの子。
「南町奉行大岡越前であるぞ。これ
お
越前守が苦笑しているうちに、あとの大作はぷッとふきだしてしまった。
はるかむこうに、さっき田原町を出て来た家主喜左衛門と鍛冶富、また大岡に会ったと
「そのほう儀、去る二十九日、横町の質屋の猫を
「姐御ッ」
と飛びこんで来たけたたましい与吉の声に、
「なんだね、そうぞうしい」
立て膝のまま片手で畳をなでているのは、
櫛まきお藤の
「いけねえ。落ち着いてちゃあいけねえ!」と与吉は、わらじをとくまも
「また始まったよ、この人は」
てんで相手にしそうもないようすだけれど、それでもさすがに、ぬっとあがって来た与吉の道中姿を見るとお藤もちょっと意外そうに顔を引きしめて、
「おや! お旅立ち?」
「ヘヘヘヘ」与吉は悪党らしく小刻みに笑って、「なあにね、ちょっくら
「芝居を!」
「あい」
どっかりとすわった与吉、お藤の差しだす茶碗の
左膳の手紙の一件。
あの雨の夜の乱刃に、化物屋敷で斬り殺された者が総計七名、これはすべて泊まり合わせていた
しかも、栄三郎と泰軒には一太刀もくらわさないうちに、あの、
つまりこの一隊の
そこで剣豪左膳、いま一度左腕に
時、左膳に利あらず、火事装束の五人組に
乾雲が持ち去られた。
すると今、奇剣乾雲は左膳の手を離れて、何者ともはっきりしない五梃駕籠の一つにでもひそんでいるのであろう! お藤は白い顔にきっとくちびるをかんだ。
「
つづけざまに
「掏摸とまちがえられてえらい目にあいましたよ。光る刀を引っこぬいてどんどん駈けてきましたがね。いや、あぶねえ
与吉は事もなげに笑っているが聞いているうちにお藤の目は
もしそれがほんとなら、丹下左膳が自分で栄三郎を訪れて、さらりと和解を申しこみそうなもの。そのほうがまた、どんなにあの人らしいか知れやしない――。
第一、あの丹下様が、あんなに命をかけていた乾雲丸をそうやすやすととられるだろうか?
けれど、ものにはすべて
丹下左膳といえども魔神ではない……こう考えてくると、お藤は与吉がうそをついているとも、左膳に
「そうかい」
とおもしろくもなさそうにつぶやくと、頭痛でもするのか、しきりにこめかみをもみ出した。かと思うと今度は
あたまの中ではいろんな思いがさわがしく駈けめぐっているが、
撫で肩に
つづみの与の公、この白昼いささかごてりと参って、お藤のようすを斜めに眺めている。
丹下の殿様も気が知れねえ、こんな油の乗りきってる女を振りぬくなんて、と。
吐き出すように、お藤がいう。
「すると何かえ、丹下さまはもうお刀をその火事装束とやらの五人組にとられてしまって、お手もとに持っていないということを文にして、それをお前が、あの方の
「へえ。いかにもそのとおり……大骨を折りましたよ」
与吉は、お藤の香が漂ってくるようで、まだぼんやりと夢をみている心地だ。つと
「しっかりおしよ、与の公! なんだい、ばかみたいな顔をしてさ。夕涼みの
「あッ!
とびのいた与吉は、
「ひでえや姐御。あついじゃありませんか……おお
「ほほほ、お気の毒だったねえ。だからさ、だから責められないうちに
「へ? 白状って? あっしゃ何も櫛まきの姐御に包み隠しはいたしませんよ。そこへ突然あつういやつをニュウッ! と来たもんだ。へっへ、人が悪いぜ姐御」
「何を言ってやんだい! そんならきくけど、その旅仕度はどうしたのさ?」
「あ! これか」と与吉は
「ああ、そうかい」軽く受けながらも、お藤はきらりと与吉の顔へ瞳を射った。「じゃ、どこへも走るんじゃないんだね?」
「正直のところ、姐御がいらっしゃる間は、与吉も江戸を見限りはいたしません」
「うまいこといってるよ。左膳様は?」
「さあ――鈴川さんとこにおいででげしょう」
「げしょうとはなんだい、知らないのかい?」
「このごろ、あの屋敷にはお上の眼が光っておりますから、あっしもここすこし足を抜いております」
「そんならいいけれど、与の公、お前はどうも左膳さまとは同じ穴の
「と、とんでもない!」
とあわてる与吉を、お藤はじろりと冷やかに見て、
「とにかく、お前と
「姐御、そいつあ一つ
と
「お前の、左の字に頼まれて
弥生が
事実、いつぞや雨の朝早く、しょんぼりと瓦町の栄三郎の家を出て以来、弥生は番町の養家多門方へも帰らなければ、その後だれひとり姿を見たものもない……。
生きてか死んでか――弥生の消息はばったりと絶えたのだった。
ちょうど同じころおい。
左膳の手紙を、大岡さまとは知らないが、由ありげな武士に拾われてしまった諏訪栄三郎が、気の抜けたように露地の奥の
水茶屋の足を洗って以来、いつもぐるぐる巻きにしかしたことのない髪を、何を思ってかお艶はきょうは
「だれ? おや! はいるならあとをしめておはいりよ。なんだい。ほこりが吹きこむじゃないか。ちッ。またお金に
うらと表の合わせかがみ――この変わりよう果たしてお艶の本心であろうか?
あさくさ田原町の家主喜左衛門と鍛冶屋富五郎との口ききでおさよが鈴川源十郎方へ住みこんだ始めのころは。
五百石のお旗本だが、
それでも御奉公大事につとめていると、
しかしそういう寄り合いがあって忙しい思いをしたあくる朝は、
「おい土生、ゆうべは貴公が旗上げだ、いくらかおさよに
「よし!
などと四百くらいの銭をポウンとなげうってくれるので、そのたびにもらった二、三百の銭を……。
おさよの考えでは、こうして臨時にいただいたお
が、同藩の仲と知っても、おさよはひとり胸にたたんで、ただそれとなく左膳のようすに眼をつけているとやがて、
それを、
しかるに。
源十郎がお艶を生涯のめかけにほしいと誠心をおもてに表わして言うので、おさよといえども何も
手切れのしるしには、栄三郎が生命を
これは櫛まきお藤が源十郎へのはらいせにつれ出したのだが、源十郎はそうとは知らずにその
その間に栄三郎泰軒の救いの手が、ついそこまで伸びて来て届かなかったのが、この、源十郎の
はい。じつはわたくしはお艶の母、あれはわたくしの娘でございます。
とおさよの口から一言
「いや、そのようなことであろうと思っておった。さてはやはり、いつか話に聞いた娘というのはあのお艶のこと、男の旗本の次男坊は諏訪栄三郎であったか。だが、はっきりそうわかってみれば、思う女の生みの
と、
「ごめんくださいまし……」
と裏口に案内を求める町人らしい声。
「こんちは……ごめんくださいまし。おさよさんはいませんかね?」
と喜左衛門が大声をあげても、誰も出てくるようすはないから、こんどは鍛冶屋富五郎が引き取っていっそうがなりたてている。
「おさよさアン! おさよ婆あさん! ちッ! いねえのかしら……? じれってえなあ」
と、この声々が奥へつつぬけてくるから、おさよも源十郎のお相手とはいえ、じっとしてはいられない。すぐに裏口へ立って行こうとするのを鈴川源十郎、実の母にでも対するように
「まま、そのままに、そのままに。なに、出入りの商人であろう。拙者が出る」
と
あさくさ田原町三丁目の家主喜左衛門と三間町の鍛冶富――おさよの
「なんだ? おさよ殿に何か用かな?」
押っかぶせるように仁王立ちのまんまだ。
おさよどの! と殿様の口から! 聞いて
挨拶もそこそこに、源十郎の顔いろをうかがいながら、お屋敷のごつごうさえよろしければ、ちと手前どものほうにわけがあって、一時おさよ婆あさんを引き取りたいと思うから、きょうにでもおさげ願いたく、こうして
源十郎、眉をつりあげて
「なにィ! ちと
「へえへえ、鍛冶屋富五郎、かじ富てんで」
「なんでもよい。両人とも前へ出ろ。申し聞かせるすじがある」
言い捨てて源十郎、スタスタ奥へはいっていったから、はて! 何事が始まるのだろう? と二人ともおっかなびっくりでしりごみしているところへ、ただちにとってかえした源十郎を見ると、刀をとりに行ったものであろう左手に長い刀を
何がなんだかいっこうに
そこへ源十郎の怒声。
「こらッ、もちっと前へ出ろ! 出ろッ! ウヌ! 出ろと申すにッ!」
と与力の鈴源だけあって、声にもっともらしい
「はい。出ます、出ます。こうでございますか」
ふたりがびくびくもので、一、二寸前へ刻み出たとき、源十郎は、大刀に
「何者かが当屋敷に関してよけいなことを申したのを、
「へ?」
ときき返したが、両人ともよくわからないので、モジモジ黙っていると、源十郎は続けて、
「おさよ殿を従前どおりおれの手もとにおいたとて、貴様らに迷惑の相かかるようなことはいたさぬ。源十郎、
ホッとして喜左衛門と富五郎、うら口を離れてひだりを見ると、中庭へ通ずる折り戸がある。それを押して、おそるおそる奥座敷の縁下、
「両人!
という源十郎の声に、おさよがあとをとって、
「おや。喜左衛門さんに富五郎どんかえ。ひさしく
はてな! と顔をあげてよく見ると、奉公にあがったはずのおさよ婆さんが、これはまたなんとしたことか、殿様の御母堂然と上品ぶって、ふっくらとしたしとねの上から
眼どおり許す――といわんばかり。
プッ! と吹きだしそうになるのを、喜左衛門と鍛冶富、互いにそっと
「他人の
と源十郎、芝居めかして、しきりに眼ばたきをしている。
「驚きましたね、喜左衛門どん」
「いや、おどろいたね、富さん」
「一体全体どうしたんでごわしょう? へっへ、まるで女
「まあさ、殿様のおっしゃることにぁ、おさよさんが死んだ母御によく似ているから、ほんとの母と思って孝行をつくしている――てんだがわしぁどうも気のせいか、ちっとべえ臭えと思う」
「くせえ? とは何がさ?」
「なにか底にからくりがあるんじゃあねえかと――いや、これあ取り越し苦労だろうが、富さんの前だが年寄りはいつも先の先まで見えるような心もちして、心配が絶えませんよ。損な役さね」
「だけど、おさよ婆さんにしたところで、ほかにちゃあんとした
「殿様ってお方がまともじゃねえからね」
「くわせものでさあね。あの
ヒソヒソささやきながら屋敷を出て、法恩寺橋の通りへかかろうとすると、片側は鈴川の塀、それに向かって一面の畑。
頃しも冬の最中だから眼にはいる青い物の影もなく、見渡すかぎりの土のうねり……ところどころの
はるかむこうに草葺き屋根の百姓家が一軒二軒……。
どこかで人を呼んでいる声がする。
風。
「オオ
思わず二人いっしょに口にだして、喜左衛門と鍛冶富、小走りに足を早めようとすると! 畑のまえの路ばたに
そのかげから、突如、躍り出た二、三人の人! はッとして見ると
それがばらばらッととりまいて中のひとり、
「お前たちは今そこの鈴川の屋敷から出て参ったな?」
と
「はい、わたくしは浅草田原町三丁目の家主喜左衛門と申す者、またこれなるは三間町の鍛冶屋富五郎といいまして、この鈴川様のお屋敷へ下女をお世話申しあげましたについて――」
「どうもあんまりお屋敷の評判がよくねえから」と鍛冶富も口を添え、「きょう
「これ、何を申す!」
叱りつけておいて、役人達は二こと三こと相談したのち、
「いや、ほかでもないが、ただいま、浅草橋の番所へ女手の書状を投げこんだ者があって、その文面によると、ひさしくお
いいえ!――とふたりが力をこめて首を振ると、べつに引きとめておくほどのものどもでもないとみてか、
「よし、いけ、足をとめて気の毒だったな」
と許された喜左衛門と富五郎、にげるように先を争って駈け出したが……。
こわいもの見たさに。
塀の曲り角からのぞいてみると、
同じしたくのお捕り役が二、三人ずつ、もうぐるりと手がまわったらしく、屋敷をめぐって樹のかげ、地物の
「えらいことになったな」
「だから先刻、婆あさんの手でも取ってしゃにむに引っぱり出せあよかった」
いいながらなおもうかがっていると、捕り手はパッと片手をかざしあって合図をした。と見るや、ツウと地をはうようにたちまち正門裏門をさして寄ってゆく。
が、喜左衛門、富五郎をはじめ、役人のうち誰も、さきほどから、鈴川方の塀の上に張り出ている
明るい陽をうけた障子に、チチと鳥影が動くのを、源十郎はしばらくボンヤリと眺めていた。
うすら寒い
おさよのおさまりように胆をつぶし、
源十郎は、何か物思いに沈みながら、
「さて、おさよどの」と源十郎は、思いきったように、しおらしく膝を進めて、「今もかの町人どもに申し聞かせたとおり、わしはそこもとを他人とは思わぬ。なくなった母にそっくりなのみか、恥を言わねばわからぬが、拙者も母の生存中は心配ばかりかけたもの――いや、存命中にもう少し孝行をしておけばよかったと、これは
口
「いいえもう殿様、それはわたくしからこそ……」と、
第一段のはかりごと。
わがこと半ばなれり矣、と源十郎は、真正面に肩をはって、今日はちと改まった話がござる――という顔つき。
「おさよどの、そこでじゃ……」
源十郎、がらになくかたくなっている。
「はい」
「そこでじゃ、そこもとの身の上ばなしも、
「はい」
「ところで、ものは相談じゃが、どうだな、おさよどの、娘御を生涯おれの
「はい、まことにそうなれば……」
「ふむ、そうなれば?」
「そうなりますれば、わたしばかりか娘にとってこの上ない出世――ではござりますが、しかし……」
「しかし――なんじゃ?」
「はい。しかし、
「うむ。存じておる。だが、諏訪氏は諏訪氏として」
「でも、栄三郎様もお艶ゆえに実家を
源十郎はぐっと
「
「さようでございます。まとまったお金は五十両一度におもらい申したことがありますが、お兄上様とおもしろくなくなったのはそれからでございますから、今五十両渡しましたら、栄三郎様もお艶と手を切って……」
あのいつかの五十金、駒形の寺内でつづみの与吉を使って一時手に入れたのを、そばからすぐに泰軒に取り戻された
「よし、わかった。そんならその金は拙者が引き受けて
「それはあの、だれかれと申さずに私が参りましょう」
「そうか、では、何分よろしく頼む」
と、源十郎が、ぴょこりと
「それからあの、栄三郎が命がけでほしがっているものが――」
「うむ、うむ! か、刀であろうが? なれど、おさよどの、あれは、あれは左膳が……」
「ですけれど殿様」
にじり寄ったおさよが、何事か源十郎にささやいたが、その
ぬっと障子に人影がさして怪物丹下左膳のしゃがれ声。
「おいッ! 源十ッ! 八丁堀が参った。また一つ、剣の舞いだぜ」
と! うわあッ! というおめきが屋敷の四囲に!
御用ッ!
御用ッ! 御用ッ!
と声々がドッとわき起こるのを耳にした鈴川源十郎が、障子を蹴開いた面前に、独眼隻腕の丹下左膳、乾雲丸は火事装束の五人組に奪い去られたとあって、普通の
縁の上下に、源十郎と左膳、さぐるがごとき眼を見合ってしばし無言がつづいた。
左膳は、
何ごとか戸外にあわただしいようすを感じて、そっと離室を忍び出た拍子に、ちらと垣根のむこうに動く
陽にきらめいて寄せて来る十手の浪。
地をなでて近づく御用の風。
さてはッ!
「来たぞ源的!」
「上役人か。斬るのもいいが。あとが
「と言って、やむを得ん」
「うむ、やむを得ん」
いう間も、多数の足音が四辺に迫って、
と!
背後の樹間の人の姿が動いたと見るや、ピュウ……ッ!
と空をきって飛来した手練の
同時に。
はずみをくらった投げ手が、なわ尻を取ったまま二足三あし、ひかれるようにのめり出てくる……ところを!
電落した左膳の長剣に、ガジッ! と声あり、そぎとられた
サッ! としたたか返り血を浴びた左膳、
「ペッ! ベラ棒に臭えや」
と、左手の甲で口辺をぬぐった時、
「神妙にいたせッ!」
大喝、おなじく捕役のひとり、土を蹴って躍りかかると、
「こ、こいつもかッ!」
一声呻いたのが気合い、転じてその
――と見るより、再転した左膳、おりから、横あいに
が、寄せ手の数は多い。
蟻群の甘きにつくがごとく、
「うぬウッ!」
と左膳は、動発自在の下段につけて、隻眼を八方にくばるばかり……
暮れをいそぐ冬の陽脚。
そして、夕月。
樹も家も人の顔も、ただ血のように赤い夕映えの一刻に、うすれゆく日光にまじって、月はまだひかりを添えていなかった。
刃火のほのおと燃えて天に
縁側に立って、うっとりこの力戦を眺めている源十郎は、
上役人に刃向かって左膳を救い出すか……それとも、友を見棄てておのれの
この二途に迷いながら、ひとつにはただぼんやりと、いま庭前に繰りひろげられてゆく剣豪決死の血の絵巻物に見とれている源十郎。
かれは片手に大刀をさげ、片手で縁の柱をなでて左膳の剣が
「ひとウつ! ふたアツ! それッ! 三つだ! 三つだアッ! ほい! 四つッ!」と源十郎、子供が、木から落ちる栗でも数えるように指を突き出しては喜んでいると!
西から東へ、一
その真っ赤な残光を庭一面に蹴散らし、踏み乱して、地に躍る細長い影とともに、剣妖丹下左膳、いまし
「
築山の中腹に
迫る暮色。
暗くなっては敵を
と見て、捕り手を率いる同心とおぼしき頭だったひとりが、
「やいッ! 丹下左膳とやら。
あお白い左膳の顔が、声の来るほうへ微笑した。
「なんだ、辻斬りがどうしたと? いってえ誰が訴人をして、おれのいどころが知れたのか、それを言えッ、それをッ!」
と低い冷たい声を口の隅から押し出した。
捕役はなおも高びしゃに、
「さような儀、なんじに申し聞かすすじではないッ!」と一喝したが、思い返したものか、
「だが――」と声を落として、「なんじの
左膳の一眼が
「な、何ッ? そうか。な、おれは、友に売られたのかッ……うむ! おもしれえ! して、その、おれを訴えでた友達てえのは、どこのどいつだ? これを聞かしてくれ!」
が、役人は左膳の言葉の終わるを待たず、
「ええイ! なんのかのと暇をとる。聞きたくば縄を打たれてからきけッ――それッ、一同かかれッ!」
と、あとは、御用! 神妙にいたせ! と怒声がひとつにゆらいで渦を巻いたが、そのどよめきの切れ目から恨みにかすれる左膳の咽喉が
「おいッ! 情けだあッ! お、教えてくれ!――いッ! だ、だれがおれを裏切ったのか……そ、それを知らねえで
が、役人どもは、すでに懸命の十手さばきにかたく口を結んで、こたえる
見るより左膳、たちまち
「や! 源十! こらッ源公! て、てめえだなッおれを訴えたのはッ!」
おめきざま、乾雲丸ではないが、左膳の剣に一段の冴えが加わって、かれは即座に左右にまつわる捕り手の二、三をばらり――ズン!
とたんに。
ズウウウン! と一発、底うなりのする砲声が冬木立ちの枝をゆるがせて、屋敷のそとからとどろき渡った。
本所化物屋敷の荒れ庭に、
奇刀乾雲丸は、不可解の一団に持ち去られたと称して手もとにないものの、剣狂左膳の技能は、あえて乾雲を
そうして。
ひそかに自分を訴えでたのは、てっきりこの家のあるじ鈴川源十郎に相違ないと、ひとりぎめに確信した左膳が、今や、算を乱し影をまじえて、むらがる
やッ! 飛び道具の助勢!……と不意をうたれた驚愕の声が、捕吏の口を洩れて、一同、期せずして銃声の方を見やると――。
思いがけなくも櫛まきお藤である!
それが、これもお尋ね者のお藤ッ! と気がついて捕吏の面々はあらたにいろめき渡ったのだが、お藤は、ゆっくりと歩を運んで、幹を
「さ、丹下様ッ! お早くッ!――お藤でございます。お迎いに参りました。ここはあたしがおさえておりますから、あなたはなにとぞ裏ぐちから……お藤もすぐにつづきますッ!」
と叫ぶ
「やいッ、鈴源! おれあ手前に
源十郎は冷然と、
「ばかを申せ! 拙者が貴公を訴人したなどとは、
「だまれッ! いずれ探ればわかること。
「そうとも! いずれ探れば
「何をお
左膳と源十郎、こうして短い
「お前さんたち、動くと
と突きつけるお藤の短筒に、捕吏の陣が、瞬間、気を抜かれてぽかんとしていると、左膳、一眼を皮肉に笑わせて、すばやくお藤のうしろにまわったが……。
ポン! ポン! と裾を払い、
と、ただちに。
お藤も、
みるみる去りゆく剣魔と女怪の二つの影。
それッ! と激しい下知がくだって、捕吏の一団が小突きあいつつふたりの足跡を踏んだ時は、すでに塀のそとには人かげらしいものもなく、道路をはさむ畑に薄夜の
……櫛まきお藤、そも左膳を助けだしてどこへ伴おうというのであろうか。
そしてまた、あとに残った源十郎は?
否! それよりもかのおさよはどこに――?
たとえ乾坤二刀、夜泣きの刀のいきさつはなくとも、昨秋あけぼのの里の試合に勝って、当然じぶんのものと信じている弥生のこころが、当の剣敵諏訪栄三郎に
栄三郎に対する左膳の気もちは、つるぎに
それはさておき。
主君
かれらもまた乾坤
そもそも……。
左膳の密命に端を発して、はからずも、
それだのに!
火事装束の五人組は、最初からすべてを見守っていたもののように、雲竜一庭に会して二つ
剣の立つ
と仮りにきめたところで。
さて、雲と竜との相ひく二剣を一所におさめ得たとしても、五人組はそれをいったいどうしようというのだろう?
だが、こうなるとまた
何者?
あるいは何者の手先!
……と、いくら坐して首をひねったとて、左膳に見当のつきようはなかったが、いままでも栄三郎の太刀風なかなかに鋭く、かつ真剣の
そこで左膳も、しばしば刀を
「なあおい、与の公」
「へえ。さようで」
「ウフッ! 何がさようだ? まだ、なにも申さぬではないか」
「あッそうだった。けれど殿様、あのこってげしょう……例の、ほら、火消し仕度のお
「うむ! いかさま
「へっへ。御冗談。そんなシチ
「サ、それだ。どうしたものであろうな」
と相談しあっているうちに、打てばひびく、たたけば応ずる
いずれ事成ったのちに相応の賞を与えようと
これは、あの大岡越前守忠相が浅草の歳の市にあらわれて、栄三郎へあてた左膳の書面を手に入れた数日前のこと……つまり、まだ年のあらたまらないうちであった。
で、そのつづみの与の公一代の
さて、つづみの与吉の策略によって――左膳は即座に筆を
その文言は、彼の五人組に秘刀乾雲を奪い去られて、いま手もとにないこと。
そして、こうして自分が乾雲丸を所持していない以上は、もはや栄三郎とも
のみならず、これからのちは、左膳が栄三郎に腕をかして、栄三郎の腰に残っている坤竜丸の引力により、再び乾雲を呼びよせて火事装束に鼻を明かしてやりたいが雲煙
――という
さしずめこの手紙を栄三郎へ渡して、しばしなりとも坤竜の動きをおさえて置くあいだに。
さ、その間にどうする?
という段になって、左膳と与吉、いっそう語らいをすすめた末。
今は、坤竜を
なるほど、諏訪栄三郎は左膳にとっては剣の敵。
源十郎にとっては恋のかたき……。
ではあるが、はじめ何ほどのことやあろう、ただちに乾坤二刀をひとつに
鈴川源十郎がかくも頼むにたらぬ!
と気がついてみると、そもこの左膳の万難千苦の根因はと言えば相馬大膳亮様の
こう事況が
一日遅れれば一にち損!
瞬刻を争って相馬中村から剣客の一団を呼び寄せよう! へえ殿様、それが何よりの
だから……。
乾雲丸が強奪されて、いま左膳の手にないというものも、いわば一時の苦肉の計、なんとかして応援が着府するまで、このうその手紙によって栄三郎と和の状態をつづけたいというまでにすぎない。
与吉が同藩の剣勢を引きつれてくれば?
あとはもう占めたもの!
が、その期間、泰軒、栄三郎がこの書面を
すべては
「殿様、はばかりながら御安心なせえまし。きっとあっしが引き受けてこの書を栄三郎へ届け、すぐその足で奥州をさして
「そうか。それでは中村へ参っての口上は……」と左膳は、
「おっと! 水くせえや殿様。私とあなた様の仲じゃアありませんか、礼なんて――へっへへへ」
と、ここに話し成って、まもなく与吉は
夜中、やみに紛れて左膳は、こっそりと……
たれ
ここにひとり、この左膳の乾雲
あれから数日。
さてこそ、あのものものしい旅装をととのえたつづみの与吉。はたして今ごろは奥州口をひたすら北へ北へと指して、いそいでいることであろうか。
とにかく今日まで、
左膳のために
さっそく、旅仕度をして、なんとかして栄三郎を突きとめたいと、浅草歳の市をぶらついていると、折りよく栄三郎の姿を見かけて手紙を押しこんだまでは上出来だったが――。
色っぽい眸ひとつにぐにゃりと降参した与の公は、こうして左膳の期待を裏切り、いまだにお藤の二階にブラブラしていることかも知れない。
左膳の身になれば、これほどの手違いはまたとあるまい。だが、それと、そうして、左膳の文によって栄三郎がいかに考え、まさに左膳の言い分を真実ととりはしなかったろうが、今後の処置をどう決したか? ということはしばらく
また、栄三郎が左膳の手紙を取り落として、それが、人もあろうに、越前守忠相に拾われて今その手にあることもここに問わず……。
ただ、お藤である。
彼女は、与吉の口から、乾雲丸が左膳のもとにないと聞くや、ただちにそのからくりを見破って、与の公までが左膳に肩を入れるのがくやしくてならなかった。
恋しい左膳さま――それはいまも変りがないが、容れられてこそ恋は恋。
あのように嫌いぬかれて、なおもこころ
ばかりでなく。
じぶんを見向きもしないで、かの弥生にのみ走っている左膳の心を思うと、責め
手に入らぬものなら
どうせ他人なら遠慮はいらぬ! あくまでも左膳を
こう決心した
これに
本所の化物屋敷へ捕吏のむれが殺到するとすぐ、むらむらと胸中にわいて来た何やらさびしい気もちを、お藤はさすがにどうすることもできなかった。
丹下様へお縄を!
それも、あたしがちょっと細工をしたばっかりに!
と思うと、たまらなくなったお藤、いてもたってもいられないのは人情自然の発露で、やにわに、愛蔵の短銃をふところに本所めざして駈け出した。
何しに?
おのが
魔女の
しかし、
なぜ……? と言えば。
これは、町すじを走りながらお藤のあたまに浮かんだのだが、いま左膳を、自分の手で救い出せば、何よりも左膳に、この上もない大恩を
しかも、訴状のおもては本所の殿様のお名になっているのだから、これでりっぱに左膳と源十郎の仲をも
恩だ!
恩だ!
恩を売るのだ! あのお方だって木でも石でもないはず、ことにお武家は恩儀にだけは感ずるという――。
いよいよ痛切に左膳に対する
どこへ……つれて行くかは、彼女にはちゃんと当てがあったのだ。
あそこ――お藤のほか誰も人の知らない
本所鈴川の屋敷で、剣怪左膳をとりまいて十手と
櫛まきお藤が
うす
暮れ六つ。
鈴川方化物屋敷の裏手、髪を振りみだした狂女のようにそそり立つ
かつて、櫛まきお藤が与吉の口から弥生に対する丹下左膳の恋ごころを聞かされて一変、
今は。
這いよる宵やみのなかに剣打のひびき
もの淋しい夕景色。
と! この時。
しばらく物置の戸に耳をつけて表のかた、周囲に耳を傾けていたが、やがて、いま、屋敷は御用の騒動にのまれて誰も近づいてくる者もないと見るや、しずかに小屋のなかへはいって――すぐに出て来た。
言うまでもなく、源十郎と対談しているところへ、左膳と捕吏の
手に、物置から取りだした
夕方鍬などを持ち出して、こんなところで何をするのか……と見ていると!
おさよは
ふしぎ! 近ごろ誰かが鍬を入れたあとらしく、表面が固まりかけているだけで、一打ち、二打ちとうちこむにしたがい、やわらかい土がわけもなく金物の先に盛られて、おさよの足もとに
薄やみに鍬の刃が白く光って、土に食い入るにぶい音が四辺の
はッ! はッ! と肩で
それは――。
老人のつねとして寝そびれたおさよが、ふと
深夜にまぎれて、食客左膳の怪しいふるまい……これは、乾雲丸を一時こうして
老女おさよの手によって、うちおろされる鍬の数!……。
土が飛ぶ。石ころがはねる。そしてついに、地中の竜ではない、土中の乾雲がおさよの目前にあらわれたとき! 櫛まきお藤の撃った左膳を助ける銃声がひびいた。
離別以来
……転ぶようにしゃがんで穴底から重い刀を抱きあげたおさよ。
暗中にぱっぱッと音がしたのは包みの土を払ったのだ。
源十郎は長いこと、ひとりぽかんとして縁に立っていた。
今にも同心でも引き返して来て自分に対しても
とっぷりと暮れた夜のいろ。
源十郎はいつまでも動かなかった。
丹下左膳は、あくまでも自分がかれを売って訴人をしたようにとっているが、役人どもがいかにして左膳の居所を突きとめたかは、源十郎にとっても、左膳と同じく、全くひとつの謎であった。
「きゃつ、おれをうらんでおったようだが、馬鹿なやつだて」
ひとりごとが源十郎の口を洩れる。同時にかれは、寒さ以外のものを
「左膳、何ほどのことやある! 第一、なんて言われても俺の知ったことではない」
と、あとのほうはどうやら弁解のようにモゾモゾ口のなかでつぶやいて源十郎、部屋へはいろうとしたが、考えてみると、もっとふしぎに耐えないのは、あれよというどたん
ふうむ! お藤か……。
味わうようにこの一語を噛みしめたとたんに、源十郎にはすべての経路が見えすいたような気がして、彼は柱にもたれてクルリと背をめぐらしながら、身をずらしてくすりとほほえんだ。と思うと、わっはっはッ! と大きな笑い声が、腹の底から揺りあげてきて、
「お藤か。あッははは、お藤の仕事か――」
と、はてしもなく興に乗じていたが。
やがて。
「おさよ……おさよどの……!」
声をかけて座敷のなかをのぞきこんだとき、そこに老婆のすがたのないのを発見すると、源十郎、ふッと笑いやんで、聞き耳をたてた。
木々を吹きわたる夕風の音ばかり――
チラチラチラと闇黒に白い物の舞っているのは、さては
源十郎は、急に思い出したことがあって、そそくさと庭におり立った。
さっきおさよが耳打ちをした乾雲丸の一条……丹下左膳が、あの刀を物置のかげに埋めているところを見たから、すぐにもこっそり掘り出し、源十郎からとして、お艶の代償に栄三郎へ渡してやりたい。こうおさよは言っていたが、もうおさよは、土をあばいて一物を持ち去ったかも知れない。そうすると、その尻もいずれ左膳から自分に来るであろう。夜泣きの大小にかけては命を投げ出している剣鬼左膳、何をしでかすかしれたものではない――。
と考えると源十郎、いささか気になりだしたので、庭下駄を突っかけて、いそぎ足に裏へまわった。
雪が、頬を打って消える。
樹の根を見ると! まさしく穴が掘ってある。
暗い、細長い土穴に、白い蝶のような雪片が後からあとから飛びこんでいた。
「おさよめ、とうとう左膳に鼻をあかして、乾雲丸を持ち出したな。これは丹下に対し、すこウし困ったことになったぞ」
こう胸中にくり返しながら、源十郎はあたまの雪を払って座敷に戻った。
しかし彼は、乾雲丸のことよりも、きょうおさよに約束した栄三郎への手切れ金五十両の
五百石のお旗本が五十両にさしつかえるとは……考えられないようだが不義理だらけで首もまわらず、五十はおろかただの五両にも事欠く源十郎であった。
ひとつ――
と、やみに刀をふるう手真似をしながら、かれが縁にあがりかけると、いつのまに来たのか、障子のなかに
江戸に、その冬はじめて雪の降った宵だった。
「ええ。どうせわたしはやくざ女ですともさ。そりゃアどこかの剣術の先生のお嬢さんのように、届きはいたしませんよ。ヘン! おあいにくさまですねえ」
お艶はちょっと口をへの字に曲げて
紅味を帯びたすべっこい
どんよりと曇った冬の日だ。
いまにも泣きだしそうな空模様の下に、おもて通りの小間物屋のほし物が濡れたまましおたれ気にはためいているのが、窓の
「なんだい、この
つづいて、ピシャリ! と頭でもくらわすらしい音。わアッ! と張りあげる子供の泣き声――ピシャピシャピシャとおかみの平手は、
なんという暗い、ジメジメした世の中であろう!……若い栄三郎のこころは、その悩ましい重みに耐えられない気がしてきて、無理にも作った
「ぱっとしない天気だな。雨……いや、雪になろうも知れぬ。お前、頭痛はどうだ?」
お艶が、ふん! とそっぽを向くと、こめかみに貼った頭痛
かれは再び、にがにがしく眉を寄せた。
ぽつん――と、不自然に切れた静寂のなかに、険悪な気がふたりを押し包んでいる。
まことに雨、雪、いや、暴風雨にもなろうも知れぬ不穏なたたずまい……。
お艶はちょいと襟あしを抜いてその手の爪を噛みながら、なかばひとりごとのようにしんみりといいだした。
「いくらわたしがばかだからって茶屋女
また始まった!――というように、栄三郎は顔をしかめて、思わず白い眼に
なんと変わり果てたお艶であろう。
あれほど手まめだったお艶が、ちかごろでは針いっぽん、ほうき一つ手にしたことがなく、栄三郎も彼女も着ている物といえばほころびだらけ、
まるで宿場女郎をぬいてきて
そればかりではない。態度口振りからいうことまで、ガラリと
こうではなかった。すこし以前までこうではなかった。と考えるにつけ、栄三郎は、何がかくまでお艶を変えたのか? その理由と
そのために、いまも昔も変りのない、犬も食わない夫婦喧嘩に花が咲いて、今日もきょうとて……。
先刻、塗りのはげたお膳を中に、ふたりが朝飯にかかった時だった。
なんぼなんでも、他にしようもあろうに、はぶけるだけ手をはぶいた、名ばかりの
「まあ! まずいッたらしいお顔! なんでそんなお顔をなさるの?」
「…………」
「あたしのこしらえた物が、そんなに汚いんですかッ!」
「ま、お前、何もそう――」
「いいえ! こう申しちゃ[#「いいえ! こう申しちゃ」は底本では「いいえ!こう申しちゃ」]なんですが、そりゃあお金さえあればねえ、あたしだってもうすこしなんとかできますけれど……フン! だ」
これから起こったことだった。
栄三郎は、横を向いてほかのことに
「泰軒どのもひさしくお見えにならぬが、どうしておらるるかな。この寒ぞらに船住いもなかなかであろう」
と、さむ空……という言葉に初めて気がついたように、急にブルルと身ぶるいをして、消えかかった火鉢の火に炭をつごうとした。
「あなた!」
お艶の声は、底にいまも
「あなたッ!」
「なんだ?」
栄三郎の手に、炭をはさんだ
「なんだ、そんな顔をして」
ジロリと白い
「そんな顔こんな顔って、これがあたしの顔なんですもの、今さらどう張りかえようたって無理じゃアありませんか」
「なに?」
「いいえね、万事あの根津のお嬢さんのようにはいきませんてことさ」
「お艶、お前、何を言うんだ?」
「
「ばかな! お前はこのごろどうかしている」
栄三郎は取りあおうともせずにしずかに炭のすわりをなおしだしたが、内心の激情はどうすることもできないらしく、火箸のさきがブルブルとふるえて、立てるそばから炭をくずした。
ふたりとも蒼い顔。紙のように白いくちびる――。
あくまでもこの喧嘩、売らずにはおかないといったように、お艶が突如いきおいこんで乗り出すと、膝頭が膝にぶつかって、番茶の茶碗が思いきりよく倒れた。
むッ! とした栄三郎、
「ナ、何をするんだ!」
「なんだいこんなもの!」
お艶はもう一度、膳の角をつかんで荒々しくゆすぶった。瀬戸物がかち合って、はげしい音をたてる。
「お艶ッ!」
「だってそうじゃありませんか。この世の中に何ひとつお金でできないことがありますか。あたし、あなたといっしょになる時、まさかこんなに困ろうとは思わなかった……このごろのようにこんなみじめな
「……すまない」
「すむもすまないもないじゃあありませんか、年が年中ピイピイガラガラ、家んなかは火の車だ。お正月が来たからって、お餅一つ
「まあ、そうガミガミ言うな。となり近所の手前もある」
「アレだ! 何かってえとヤレ手前、やれ
「これ、お艶!」
「はい」
「貴様、このごろいったいどうしたのだ?」
「どうもしやしませんよ」
「そうかな。見るところ、ガラリとようすが変わったようだが――」
「いいえ。どうもしやしませんけれど、あたしつくづく考えていることがあります」
「ふうむ。なんだそれは? 言ってみなさい」
「…………」
「拙者が
ことばもなくうなだれたお艶の横顔が、どうやら涙ぐんでいるふうなのに、栄三郎もふと甘いこころに返って、
「さ、いうがよい。な、改まって聞こう」
とのぞきこんだとき、ホホホホ! と
「あなた、およしなさい。お刀の探索なんか……いまどき
夜泣きの刀、乾雲丸の取り戻し方を思いとどまってくれ……というお艶のことばは、さながら
この、うって変わった一言には、さすがの栄三郎も思わずカッ! となった。が、かれも大事を
「なぜ?――何故また今になって、さようなことを申すのだ? わたしが一命を
「ええ――それはわかっております」
沈黙におちると、
お向うの
朝寒の満潮のような
お艶がつづける。
「それはわかっております。けれどあたし、自分達の暮しを第二第三にして、そうやってお刀のことに夢中になっていらっしゃるあなたを見ると……」
「嫌気がさす――というのか」
栄三郎の声は、口がかわいてうわずっていた。
「…………」
「おいッ!」
「まあ! なんて声をなさります!」
お艶はたしなめるように言って、すぐに鼻のさきでせせら笑ったが、
「ええ。そうでございます! さようでございますよ」
と、いいきった彼女の声は、叫びに近かった。
そして、つと身体を斜めにいっそうだらしなく崩折れると、口ばやに
「ええ! さようでございます! あなたのようなどちらにもいい子になろうとするお人は、あたしゃ大嫌い! 刀を手に入れたい、あたしともいっしょにいたい――それじゃアまるで
「な、なんだと? どちらにもいい子とはなんだ? いつおれが貴様をおろそかにした?」
「おろそかにしてるじゃありませんか。あたしより刀のほうがお大事なんでございましょう? 刀さえとれれば、あたしなんか野たれ死にをしようとおかまいはございますまい」
「たわけめ! 勝手にしろ!」
吐き出すようにつぶやいて、栄三郎はやおら起ちあがった。お艶はそれをキッと下からにらみあげて、
「あなたッ!」
「なんだ、うるさい!」
「どうせうるそうございましょうよ!――いっしょになる時はなんだかんだとチヤホヤなさって、うるさいは恐れ入りましたね。ちっと旗色が悪くなると、いつでもどっかへお出ましだ。そんな卑怯な真似をなさらないで、お武士ならおさむらいらしくはっきりと話をつけてくださいッ!――どこへお出かけでございます?……存じております!
栄三郎は聞かぬ
その、擦り切れた帯の端が、畳をなでてお艶の前にすべってくると、彼女は膝をあげてしっかとおさえた。
「サ! きっぱり話をつけてくださいッてば! 二つにひとつ、乾雲丸かあたしか、あなたはどちらを……」
「お艶!」栄三郎の眼は悲しかった。「――な、聞き分けのよい女だ。わたしはちょっとこれからホラ! これの才覚にとびまわってくる。
「嫌でございますッ! 御冗談もいいかげんになさいまし。あたしもこれで当り矢のお艶と言われた女。あなたばかりが男じゃござんせんからね」
栄三郎の眼が細まって、異様な光を添えた。
「お艶ッ! き、貴様ッ……坐れ、そこへ!」
「すわってるじゃございませんか。あなたこそお坐りなすったらいかがです」
「よく一々口を返すやつだな。貴様、このごろどうかいたしおるな。何か心中に思うところあって、それでさように事につけ物に
「まあ、虫のいい! いいかげんにはできませんよ」
「お前はすっかり人間が変わったな」
「変わりたくもなろうじゃございませんか。こんな
「ふたことめには貧乏貧乏と申す……それほど貧乏がいやか」
「
「黙れッ! おのれお艶、痩せても枯れても武士の妻ともあろう者が、
「またお
「ううむ、
「ほほほ、そりゃアお互いさま」
「で、いかがいたせというのだ?」
「まず乾雲丸のことをフッツリお忘れなすって、それからその
「ぶるる、馬鹿ッ! 何を申す! 貴様、そ、それが本心かッ?」
「ほんしんでございますとも。あたしだってちったあ眼先が見えますよ。あなたは、あの弥生さまとごいっしょにおなりなさりたくても、お刀がなければ押しかけ婿にもいかれないので、あれがお手にはいるまで、あたしってものをこうしてだしに使っていて、刀を取るが早いか、あたしを棄ててその刀を
「お艶!――キ、貴様、気がふれたナ! 夜泣きの刀の分離も、もとはと言えば拙者から起こったこと。されば丹下左膳より乾雲丸を奪還し、この坤竜とともどもに小野塚家の
「あウあア!――おや、ごめんなさい。あくびなんかして」
「チッ! 拙者の心底は百も千も知っておるくせに、何かにつけ言いがかりをつけおって……女子と小人は養い難し。見さげはてた奴めがッ!」
「よしてくださいッ! もうあきあき!」
「なに? なんだと?」
「そんな
「またかかることは、拙者の口から申したくはないが、拙者が亡師の意にそむき弥生どのに嘆きをかけて今また鳥越の
「おッと! みんなあたしのためとおっしゃりたいんでございましょう? お気の毒さま。そのあたまがおありだから、あたしよりも刀がかわいいのに不思議はございませんとも――もう何も伺いたくはございません!」
「なんたる
「ほほほほ、なんですよ今ごろ、これが三社前の姐さん、当り矢のお艶の
「よくも……」
「なんですよ。そんな
「よくも、よくも今まで猫をかぶっておったなッ!」
「お坊っちゃん、お気がつかれましたか。オホホホ。でもね、これでもお艶でなくちゃアっておっしゃってくださるお方もございますからね。世の中はよくしたもので、まんざらでもないとみえますよ」
「だッ……だまされたのだッ! ちえッ!」
「近いところじゃ、鈴川の殿様なんか、あたしでなくちゃア夜も日も明けませんのさ」
「な、何イ? す、鈴川源十郎かッ!」
「鈴川源十郎……とは、あの鈴川源十郎かッ?」
栄三郎が、こうどなるようにいってにらみつけると、お艶は、おちょぼ口に手を当ててあでやかに笑った。
「ええ、鈴川の殿様に二つはないでございませんか。本所の法恩寺まえのお旗本――」
いいかけたお艶の言葉は、中途で無残に吹っ飛んでしまった。おわるを待たず、栄三郎の腕がむんずと伸びて来て、お艶の襟髪をとったかと思うと、力にまかせてそこへ引き倒したからだ。
「お艶ッ!」
片膝を立てて、しっかとお艶をおさえつけた栄三郎の声は、かなしい怒りに曇り、眼は
「お艶、……貴様に、本所の鈴川が
「――」
白い頬もくだけよとばかり、顔を畳にこすりつけられて、お艶は声も出ない。
「し、しかるに、黙って聞いておれば、かの鈴川が
大粒な泪がひとつ、ほろりと眼がしらを離れて、長い
と、その時。
貴様! なんだな、先日本所の屋敷に幽閉されおった際に――と
しんからたけりたったらしいお艶、髪を乱し、胸をはだけて、やにわにはね起きようと試みたが、栄三郎の腕にぐっと力がはいると、ひとたまりもなくそのまま元の姿勢に戻されて、かわりに、なみだにかすれる声を振りしぼった。
「あたしが鈴川の殿様となんぞ……とでもおっしゃるんですか? あんまりなんぼなんでも、あんまりですッ! そ、そればかりは、いくらあなた様でも聞き捨てになりません! 離してください。な、何を証拠にそんな、そんな……いいえ、はっきりと伺いましょう。後生ですから手をはなして――」
と、今はもう女の身のたしなみもなく、心からのくやしさに狂いもだえるのを、栄三郎はなおものしかかるように膝下にひきつけて、
「エエイ黙れッ! このごろの貴様が
「ま、待ってくださいッ!」
「
熱涙ぼうだとしてとどめもあえぬ栄三郎は、一つずつ区切ってうめきながら、はふり落ちる泪とともに、哀恋の拳が
愛する者を、愛するがゆえに打たずにはおかれぬくるしさ……。
よしや振りあげた刹那はいかにいきおいこんでいようとも、その手は、ふりおろす途中に力を失ってお艶の身に触れる時は、おのずから
「何も、あたしをチヤホヤしてくださる方は、鈴川の殿様ばかりとはかぎりません。鍛冶屋の富五郎さんだって、それから当り矢の店へ来てくだすった
「すべたッ! まだ言うかッ!」
一声おめいた時、栄三郎の手はわれ知らず
と見て、お艶は蒼白く笑った。
「ほほほ、このあたしをお斬りになる気でございますか。まあ、おもしろい――けれどねえ、お艶にごひいき筋が多うござんすから、あとでどんな苦情が出るかも知れませんよ」
「…………!」
無言のうちに、しずかに鞘走らせた武蔵太郎を、栄三郎はっと振りかぶったと見るまに、泣くような気合いの声とともに、氷刃、殺風を生じて、突! 深くお艶の肩を打った。
ウウウム――!
と歯を食いしばったお艶、しなやかな胴を一瞬くねらせて、たたみを掻いてうつぶしたのだった。
が!
峰打ちだった。
と、お艶はすぐに、痛みに顔をしかめただけで起きあがろうとしたが、栄三郎はもう武蔵太郎をピタリと鞘に納めて、両手を腰に立ちはだかったまま
その眼……!
おお、その眼は、人間の愛欲憎念をここにひとつに集めたような、言辞に
口を開いたのは栄三郎だった。
「お艶! あれほど固く誓い、また今日というきょうまで信じきっておったお前が、かくも汚れた女子であろうとは拙者には思えぬ。いや、どうあっても思いたくないのだ。しかし――」
「…………?」
いいよどんだ栄三郎を見あげたお艶の顔に、ちらと身も世もあらぬ悲しい色が走ったが、栄三郎が気のつくさきに、それはすぐに不敵なほほえみに消されてお艶は、無言の
「…………?」
「しかし、お前という人柄がきょうこのごろのように
「はい……いいえ」
「拙者もさとったよ、ははははは、いや、いったんこうはっきりお前の心がおれを離れたとわかってみれば、拙者も男、いたずらにたましいの抜けた
いいながら、返答いかに? と思わず栄三郎、口ではとにかく、まだたっぷりと
「す、すみません」
と口ごもったお艶の声に、まさか……と幾分の望みをかけていた栄三郎は、ややッ! と驚愕にのけぞると同時に、あきらめきれぬ新しい慕念がグッと胸さきにこみあげてきて、
「そうか」
破裂を包んだ低声。
見せじとつとめる涙が、われにもなくにじみ出てきて――。
ワッ! とお艶はそこへ
「お世話に……」
「なに?」
「お世話になりましたことは、お艶は死んでも忘れません」
「フン!
栄三郎はすでに平静にかえっていた。
大刀武蔵太郎安国のこじりに帯をさぐって、坤竜と脇差と
片手に浪人笠。
履物を突っかける……と、ブラリそのまま格子戸をくぐり出ようとした。
「あなたッ! 栄三郎様ッ」
お艶の声が必死に追いかける。が、彼は振りむきもせずに、
「
「え? もう一度お顔をッ!」
悲涙にむせんだお艶、前を乱した白い膝がしらに畳をきざんで、両手を空に上り
「えいッ! 達者に暮らせ!」
一声……ピシャリ! 格子がしまって、男の姿がちらりと陽ざしをさえぎったと思うまもなく、あがり口に泣き崩れたお艶は、露地の
夢? ほんとにほんとに夢。ながい夢! 泣きはらした眼を部屋へ返したお艶は、栄三郎の羽織がぬぎすててあるのを見ると、はっとして立ちあがった。
まあ! お羽織なしにこの寒ぞらへ!
もしや
と思うとお艶、
羽織をかかえて露地ぐちまで走り出てみたけれど、どっちへ行ったものか、栄三郎のすがたはもうそこらになかった。
ひっそりとした往来のむこうを荷を積んだ馬の列が通り過ぎていった。
しめっぼい冷たい空気が、町ぜんたいを押しつけている。
ぼんやりたたずんでいるお艶へ、
「
と長屋の子供が声をかけたが、お艶は耳にもはいらぬふうだった。
「やあ! 小母ちゃんが泣いてらあ! 泣いてらあ! やあい、おかちいなあ!」
急に足もとから子供がはやしたてたので、お艶はハッとわれに返って羽織に顔を押し当てた。
「坊や、いい児だね。おばちゃんは泣いてなんかいないからね。さ、あっちへ行ってお遊び」
子供はふしぎそうに振りかえりながら大通りを駈けぬけていった。
お艶は、羽織の袖がひきずるのも知らずに片手にさげて、しょんぼりと家に帰った。
あがってすわってはみたが……広くもない家ながら、栄三郎の出ていったあとはたまらなく淋しかった。孤独の思いがしいんと胸に食いいってくる。
「栄三郎さま」
呼んでみても聞こえようはずはない。かえってわれとわが
ひとりごと? ではない。彼女は羽織を相手に話しているのだった。
「申しわけございません。おこころに曇りのない正直一徹のあなた様をあんなにおこらせ申して、それもこれも夜泣きの刀のため、おかわいそうな弥生さまのおためとは言いながら、思えば、お艶も罪の深い女でございます」
言葉はいつしかすすり泣きに変わっていた。
「けれども、こうやっていましたのでは、いつになったら
つっぷしたお艶、羽織を
「それがお艶の一生のお願いでございますッ! でも……でも、こんなにまでして、心にもないふしだらを並べてお怒りを買わねばならなかったお艶のしん中もすこしはお察しくださいまし。あとで何もかもわかりますから、そうしたらたったひとこと
気も狂わんばかりにもだえたお艶は、ガバッと畳に倒れて羽織を抱きしめた。
別れともなくして別れた男の移り香が、羽織に埋めたお艶の鼻をうっすらとかすめる。
それがまた新しい泪をさそって、お艶はオオオオウッ! とあたりかまわず大声に泣き放ったが、折りよくいつのまにか隣家に近所の子供が集まって、キャッキャッと笑いながら遊びさわいでいたので、お艶はその物音にまぎれてこころゆくまで
まわりまわりの小仏さん
まわりまわりの小仏さん
となりのさざめきはつのるばかり――お艶も何がなしに幼い気もちに立ち返って小娘のように泣き濡れていた。まわりまわりの小仏さん
出て行った栄三郎の涙と、残っているお艶のなみだと――。
父は早く禄を離れて江戸の
何刻かたった。
お艶はじっと動かない。
眠っているのだ。
泣きくたびれて、いつしかスヤスヤと
まわりまわりの小仏さん
まわりまわりの小仏さん
隣では子供がまわりまわりの小仏さん
と、がらりと格子があいて、ひさしぶりに天下の乞食先生蒲生泰軒のだみ声だ。
「わっはっはっはっは! こりゃ、敷居が高い、
びっくりはね起きたお艶の頬にたたみのあとが赤くついていた。
その夜。
どこをどう歩きまわったものか、栄三郎は頭から肩まで白いものを積もらせて瓦町の家へ帰って来た。いつのまにか雪になっていたのだ。あやうく、
「お艶、いま戻ったぞ」
と口から出そうになるのをおさえて、身体の雪を払ってあがると……まっくら。
かじかんだ手で火打ちを
ポウッと薄黄色の
お艶はいない。
二、三枚の着物や髪の道具をまとめて、あわてて家を出ていったことがわかる。女気のない部屋はどこにも赤い
が、かれはもう悲しんではいなかった。
「出てうせたか――汚れきった女め――あれほどとは思わなかった――」
と、吐きだすようにつぶやきながら、何か書置きでも? とジロリそこらを見まわす。
何もない。
もはやフッツリと未練をたった栄三郎、
「これあるのみだ」
正座して坤竜丸を取りあげた。
「ひき寄せてくれ、乾雲丸をひきよせてくれ」
「あんな女! かえってよいわ。かくなるように最初から決まっていたのだ! よウシ! このうえはただ精根のかぎり立ち働いて乾雲を取り戻すぞ! そうだ。やる! あくまでやる」
「――待っておれ。いまに乾雲を奪って、いっしょにして進ぜる。汝もつがいが破られたが、拙者も彼女に別れたひとり者同士、ははははは、けっく気やすだなあ」
刃光らんらんとして一抹の冷気!
「おのれ、丹下左膳!」
とジリリ青眼につけて一隅へ迫ったが、あるものは壁に倒れた
「やよ左膳! なんじ一書を寄せて乾雲丸を火事装束の五人組に奪われたと申し出たが、
からからと笑いながら刀身を鞘へ……
が! この時!
この栄三郎のにわかの抜刀を、裏口のすきからのぞいて、ビックリあわてた黒い影があったのを栄三郎は知らなかった。
雪に紛れて忍び寄った一人の女が、さっきから勝手の障子にはりついて、そっと家内をうかがっていたのだ。
だれ? と見なおすまでもない。
夜眼にも知れる粋すがたは、道行きめかした手拭をかぶった櫛まきお藤。
急の
しんしんと音もなく積もる雪。
江戸に、その冬はじめて雪の降った夜だった。
栄三郎は、床を敷いて夜着をかぶった。
モウ――ンとこもって、どこか遠くで刻を知らせる鐘の音。
「四つか」
思うまい――としても、まぶたの裏に花のように咲くのは、出ていったお艶の顔だ。
この
きょう留守のあいだに泰軒がきて、お艶からそのふかい真意を明かされ、何か考えるところのあるものか、しばし思案ののち快くお艶の身がらを引き受けて、つれだって家を出て行ったことは、栄三郎は知る由もなかった。
まして、お艶と泰軒のあいだにどんな話しあいがあったやら、――そして泰軒はお艶をいずくへ伴い去ったことか?
……栄三郎は眠りに落ちた。疲れきって、こんこんと深い
ホトホトとおもての格子が鳴って、何者か女の声が……。
「栄三郎さま、もし、栄三郎様――」
うら口では、櫛まきお藤がキッと身をかまえた。
「栄三郎様……栄三郎さん!」
忘れようとして忘れることのできない女の声――それが夜更けをはばかって低く、とぎれがちに、眠っている栄三郎の耳に通う。
コトコト、コトコトと戸外から格子をたたいているらしい。
栄三郎ははじめ夢心地に聞いていた。
が、
「栄三郎様!」
という一声に、もしやお艶が帰って来たのではないかと思うと、もうあんな女にフツフツ用はないと諦めたはずの栄三郎、心の底に自分でもどうすることもできない未練がわだかまっていたのか……。パッと夜着を蹴ってはね起きるより早く、転ぶがごとく土間口に立って、
「お、お艶か!」
戸を引きあける――とたんに、ゴウッ――と露路を渡る吹雪風。
まんじ
その風にあおられて、白い
雪女郎?
――と栄三郎が眼をこすっているあいだに、女は、戸口を
「お艶……ではないナ。誰だッ?」
「わたしですよ、栄三郎さん」
いわれて見ればなるほどお艶の母おさよ、鈴川の屋敷をぬけ出てきたままのいでたちで、掘り出した乾雲丸の刀包みであろう。細長い物を重たそうにかかえている。
「おさよでございますよ。はい、夜分おそく――おやすみのところをお起こし申してすみませんでしたね。あの、お艶は?」
と、きかれた栄三郎、
「なんの」といいかけたが、母御とも呼べず。それかといっておさよ殿も変なものだし、「いや、お艶については、あなたともよく談合いたしたい儀がござる。それにしても、夜中かかる雪のなかをわざわざのお出まし、なんぞ急な御用でも
「オオ
ひとりでしゃべりながら土間へはいってくる。
母娘とはいいながら、こんなに声が似ているものか! これでは自分がお艶と間違えて飛び起きたのも無理はない――と栄三郎、たたく
「さあ、おあがりください」
と、自ら先に立ったが――
これよりさき!
栄三郎が格子戸をあけにいったあと。
ソゥッと音のしないように台所の障子をひいて、水口から顔を出したのは、宵の口から裏に忍んでいた櫛まきお藤であった。
見ると、枕あんどんがぼうと薄暗いひかりを投げて、その下に置いてある一本の脇差! 平糸を締めた鞘、赤銅の柄にのぼり竜の彫りもあざやかに……。
武蔵太郎は、栄三郎が戸口にたつ時に引っつかんでいったので、後に残っているのは坤竜丸ただ一つ! のぞいたお藤の顔がニッとほほえんだ。
左膳を伴い去ったまま今どこに巣をくっているのか、この妖女、栄三郎がおさよと二こと三こと格子先で立ち話をしているあいだに、この機をはずしては左膳様のおために坤竜を手に入れることもまたとできまい! おお! そうだッ! と思うやいなや、抜き足さしあし忍び足――。
間髪! の隙を狙ってはいりこんで来たお藤、坤竜に手がかかるが早いか、サッと袂に抱きしめてもとの裏口へ!
しんにとっさの出来事。
ズウッ! と台所の戸がしまって、あとはトットと雪を踏むお藤の
「いや。この大雪のなかを思いきってお出かけになりましたな。何かよほどの急用でも……」
「ほんとにひどい雪ですねえ。わたしゃ本所からここまで来るあいだに三度ころびましたよ、栄三郎さん」
「はっは、それはどうも――が、べつにお怪我もなく……して、さっそくながら御用向きは?」
「
おさよ婆さん、はッと呼吸をはずませて乾雲丸の包みをといている。
「全く、よく降ります。明日はかなり積もりましょう」
栄三郎はこうしんみり言って、
ぱらり! ぱらり! とほそ長い包装がほどけてゆく音――。
ぱらり、 ぱらり! とおさよの手で幾重にも包んだ油紙とぼろ
平糸まきの鞘の一部! つづいて陣太刀作り赤銅の
いわずと知れた夜泣きの刀乾雲丸とみてとるや、栄三郎、一声のどのつまったような叫びをあげて、狂者のごとくおさよを突きのけ、残りの包みに手をかけてバリバリバリッ! と破るより早く、なかの乾雲を取りあげて血走った眼を
いつ見ても戦国の
「ううむ――」
思わずうなった栄三郎、ハッタとかたわらのおさよを
「お! いかにしてそのもとがこの乾雲丸を……た、丹下左膳はどうしましたッ! さ、それを言われい、それを!」
剣幕にのまれたおさよは、何からどう言い出したものかと、ただもうドギマギするばかり。
「え、あのそれは――」
「エイッ! はっきりと、はっきりとお話しありたい。そもそもこれは何者の指図でござる?」
言いながら栄三郎、乾雲丸を引きつけて眼を寝床のほうへやると! 上気した栄三郎の顔が一度に蒼白に転じた。
何はともあれ、これで手にある
「やッ! 坤竜がッ!」
おめいた栄三郎、同時に突っ起っていた。バタバタッと駈けよって枕を蹴る。あろうはずがない! やけつく視線を部屋じゅうに走らせても、櫛まきお藤が忍び入って先刻持ち出した坤竜丸、どうしてそこらに転がっていよう!
「ああない! ない……坤竜がない! ふしぎ……」
栄三郎、乾雲を杖によろめいた。
「あの、では、もう一つのお刀が失くなったのでございますか」
おさよのおろおろ声も栄三郎の耳へははいらなかった。
おのが手の竜、ひそかに天角の雲を呼んで、ここに乾坤二刀たえてひさしく再会するかと思いきや、その瞬間にこのたびは竜を逸した栄三郎、二つを
と!
ふと気がついたのが裏の戸口。
一足飛びに走り出てみると、果たして台所の
「おのれッ!」
と栄三郎、手を乾雲の柄に油障子を引きあけると……いたずらに躍る白羽落花の舞い。
深夜の江戸を一
双剣一に収まって和平を楽しむの
はいる乾雲に出る坤竜。
それはまことに
思ってもみよ!
きょうが日まで刃妖左膳の隻腕にあって、幾多の人の血あぶらに飽き剣鬼の
そして丹下左膳の手にはあの坤竜丸が!
乾雲坤竜相会して永久の鎮もりに眠るのはいつの時であろう?
それまではこの夜の雪をさながらにまんじ
「それはそうと、ねえ栄三郎さん、お話がございますよ」
おさよ婆さんの声に、栄三郎はわれに返って座敷へもどった。
かのお藤……。
本所の化物屋敷に出入して、
江戸お構えの身は思わぬときに捕吏の大群をうけて、お藤は第六天篠塚稲荷のきざはしで……ドロンとかき消えたかどうか? それはそれとして。
まもなく。
思うこころに変わりはないが、それは今度は別のかたちで。
かわいさあまって憎さが百倍――どうせ叶わぬ色恋なら、万事に逆に立ちまわって、あの人のすべてを片っぱしから叩き
恋はいろいろに動く。
ことにお藤のような女においては、いっさいの
しかも、左膳の慕う弥生が行方知れずになっているいま。
かれの胸中から弥生のまぼろしを駆逐して左膳をわが物とするはこの機であると、そこでお藤、宵から降り出した雪を幸い栄三郎方の裏口に張り込んで、左膳のために脇差坤竜を盗み出したのだが!
いったい左膳とお藤は今どこに隠れているのか?
浅草のお藤の隠れ家?
否! お藤はあれからずっと家へ立ち寄らずに、留守宅にはつづみの与の公が今日か明日かとお藤の帰りを待ちわびているはずだ。
してみると剣鬼と女妖、この広い江戸のどこにひそんでいるのだろう?
遠くか。ないしは案外近いかも知れない。
とにかくそれは、いつ朝が来ていつ日が暮れるともない
やみ? そうだ。黒暗々の
それは、兇状持ちのお藤が、始終お
闇黒が左膳を包んでいる。
その暗いなかで、おのれを恋する女とのふしぎな生活がつづいて来ていた。
闇黒――ぬば
それはやがて剣に理を失った左膳と、恋に我を
いまは女の保護のもとに生きる左膳、そとの大雪も知らずに、三坪にたりない暗い穴の中をしきりに往ったり来たりしている。
お藤はまだ帰らない。
はじめお藤の
左膳は。
暮れそめた町々をお藤にそのかくれ家へ案内されながら心中で考えていた。
源十郎が頼みにならないうえに、つづみの与吉が相馬中村から助剣の勢を求めてくるまで、当分あまんじてこの女にかくまわれていようと。
さすれば御用の者の眼をくらましてこの身は安全。また、乾雲丸を鈴川邸内の物置のかげ、
こういう気もちから
「ねえ左膳様。ここはあたしのほかだあれも知らないところ、いわばあたしの隠れ住居で、いざという時にはお役人でもなんでもここまでおびき寄せて、ね、ホホホホ、お藤の忍術をごらんに入れるんでございますから、お心おきなくご
こういうお藤の言葉に、左膳はがらになく、
「かたじけない」
とひとこと、改めて身辺を見渡したが、眼に映ったのはあやめもわかたぬ闇黒ばかり――暗い地下の一室であった。
低い天井、四囲の壁も床も荒けずりの板で張りつめてあって、かたわらに
お藤が訴え出てあの騒ぎになったとは夢にも知らぬ左膳、源十郎が訴人をしたものと
「まあ、もうすこしお待ちなさいまし。決して悪いようにはいたしませんから……」
となだめているうちに。
せまい闇黒に女のにおいがひろがっていって
さて今夜。
暗いなかにすわっていると、雪の夜はことに静かである。
お藤が入れていった置き
追いつ追われつする運命の二剣! それに
わけても……弥生のおもざし。
「おれも焼きがまわったかな」
と思わず左膳が、
タ、タ、タと天井うらの床に跫音がひびいて、梯子段上の
「どうしたのだ? 雪か」
左膳は闇黒に瞳を
「ええ。ひどい雪」
笑いながらお藤は歩み寄って、丹前の下から取り出した坤竜丸を、事もなげにつとその面前に突きつけた。そして、
「ナ、なんだ、これは?」
といぶかる左膳へ、
「坤竜丸ですよ。いま、あたしがちょいと栄三郎のところから盗み出して来ましたのさ。お藤の腕前はこんなもの――なんですね刀一本、大の男が四人も五人も飛び出して、大さわぎをすることはないじゃありませんか」
と、お藤はケッケとふしぎな声で笑いつつ、坤竜丸を左膳に渡したが、受け取った左膳、
「ナニ、坤竜?」
と叫びざま左手に握って、やみに慣れた一眼をキッと据えていたのもしばらく、真にこれが坤竜丸と得心がいくが早いか、何か言いかけたお藤をその場につきのけんばかりに、すぐ左膳、戸を
乾雲は庭すみに埋めてある!
と、こう思うと左膳降りしきる雪に足を早め、坤竜丸を
同じ時刻に。
本所へ通ずる別の道を、これは乾雲をひっつかんだ諏訪栄三郎が、おなじく鈴川屋敷を指してひた走りに
鈴川源十郎にお艶を懇望され、その手切れの第一として、丹下左膳の隠しておいた乾雲丸を掘り出して来た。
言わばこれは源十郎の殿様から贈られたお艶の
と、老婆おさよの口より聞くや否や、諏訪栄三郎の
「ううむ! 刀と女の取っかえっこだとは、きゃつ自身、いつか拙者に申し出たところ、さてはそこもとがかの源十郎と腹をあわせて、丹下の乾雲を盗み出したのであったか」
こう歯を食いしばった栄三郎、あわててとめるおさよの手を払い、すっと立ってすばやく身づくろいに移っていた。
竜は雲を呼び、雲は竜を待つとはいえ、腕で
それをなんぞや! 一老婆が
しかもそれが妻を売る
これをこのまま受け取ってはおられぬ。源十郎に逢って面罵し、乾雲丸は一時左膳の手へ返そうとも筋ならぬものを納めたとあっては、栄三郎、男がすたる……。
こうとっさに決心した彼は、武蔵太郎と乾雲を
天地を白く押しつつんで、音もなく降りしきる雪、雪、雪。
どうあってもこの乾雲丸、さっそく左膳の手へ押しつけて、しかる後今宵こそは一騎がけ、必ず腰の武蔵太郎にもの言わせずにはおかぬ!
トットと雪を蹴散らしながら、栄三郎が本所をさして走っていくと、ほかの道を丹下左膳が、お藤の盗んで来た坤竜丸をひっつかんで、これも同じく本所めがけて急いではいるが!
左膳の心もちはおのずから別だった。
目的のために手段をえらばない丹下左膳。
たとえどんな道筋であろうと片割れ坤竜丸が手に入った以上は、一刻も早く椎の根に埋めた乾雲丸を掘り出し、夜泣きの刀を一対として、明け方にははや江戸をあとに、
丹下左膳、わざわざ鈴川邸の物置まで行って、乾雲丸の掘り返されたのを発見する要はなかった。
というのは……。
舞い狂う吹雪に面をそむけた左膳が、一眼をなかば見開いて左腕に坤竜を握ったまま身体を斜めに法恩寺橋の袂にさしかかった時だった。
片側は御用屋敷の新阪町。
他は
向うから雪風に追われて、小走りに来る一つの影があった。
乾雲坤竜ふたたび糸を引いてか、乾を帯した栄三郎と、坤を持した丹下左膳、それは再び
雪に
「やッ! 諏訪……栄三郎ではないかッ」
と、
「オオ! そういう貴様は丹下左膳だなッ!」
向き合った左膳の独眼、みるみる思いがけない喜びにきらめいて頬の刀痕を雪片が打っては消える。
「ウム! 文句は言わせねえ。すまねえがこの坤竜をまきあげたからにゃ、てめえごとき
と、それでも早くも刀の柄に手がかかるのを、栄三郎はしずかに押しとどめて、
「待たれい、丹下! なるほど坤竜丸を何者かに盗み去られしは拙者の不覚。なれど、そういう貴公もあまり
言いもおわらず突き出した栄三郎の手に、思いがけなくも乾雲丸が握られてあるのを見ると、左膳の長身、タッタッと二あし三足、よろけざま橋の欄干に手をつかえて、
「こいつウ! いかにしてその刀を入手いたした?」
と剣怪、苦しそうにあえいだ時、降り積もった雪がサラリと欄干から川へ落ちて、同時に本所のほうから高声に笑い合いながら近づいて来る一団の人影。
「ウヌ! 貴様――ど、どうして乾雲が貴様の手に……」
立ちなおるが早いか、左膳はこう突っかかるように栄三郎をにらむ。栄三郎はにっこりした。
「おさよという老婆を――御存じかな?」
「ナ、何? おさよがッ!……ううむ、さては埋めるところを見られたかな」
「さよう。まずそこらでござるが、不純な心をもって盗んでまいったものを、拙者はそのままに受け取ることはできぬ。で、ひとまず貴公にお返し申すによって、快く納められい」
左膳の頬に皮肉な笑いが宿って彼は独眼をすえて栄三郎を見つめながら、しばらくキッと口を結んでいたが、やがて
「うむ! おもしろい! なるほど、女めらの盗んで来たものなぞありがたく受け取っちゃあ恥になるばかりだ。ゲッ! この腕にかけて奪ってこそ、乾雲も乾雲なりゃあ、坤竜も坤竜だ。なあおい若えの、よくいった。そっちがその気なら、
いいつつ左膳が、隠し持っていた坤竜を栄三郎の前に突き出すと、やッ! と驚いた栄三郎に、こんどは左膳、会心らしい微笑をなげて、
「ある女子のしわざだ。悪く思うなよ」
と、一時坤竜を手にして大喜び、さっそく乾雲丸といっしょにするつもりでこの雪の夜中を飛び出して来たくせに、その乾雲がいつのまにやら栄三郎のもとにあり、しかもそれを相手が返すという以上、彼も武士、ここは一つ
「俺とてめえはどこまでもかたき同士だが、ウフッ! 貴様は
と左膳、左腕に坤竜をつかんで栄三郎へ突きつけると、無言で受け取った栄三郎、同時に左膳に乾雲丸を返しておいて――!
おううッ! と一声、けもののようなうめき、
どっちから発したものか、とっさに二人はさっと別れて橋の左右へ。
あくまでもふしぎな夜泣きの刀のえにし。
乾坤入れちがいになったかと思うと、同じ夜にすぐさまこうして雲はもとの左膳へ、竜は以前の栄三郎へ……
そして今!
しろがねの幕と降りしきる雪をとおして、栄三郎と左膳、火のごとき瞳を法恩寺ばしの橋上に
とびすさると同時に左膳の手には、慣れきった乾雲の
と! この時。
あわただしい跫音が左膳のうしろにむらがりたったかと思うと、降雪をついて現われたのは土生仙之助をかしらに左膳の味方!
「や! しばらくだったな丹下。ウム、ここで坤竜に出会ったのか。相手はひとり、助太刀もいるまいが
が、この言葉の終わるかおわらぬに、先んずるが第一とみた栄三郎、捨て身の
「えいッ!」
気合いもろとも、
「しゃらくせえ!」
おめいた左膳、乾雲を隻腕に大上段、ヒタヒタッと背後に迫って、
土生仙之助、抜き合わせる隙がなく、鞘ごとかざして、はっし! と受けたにはうけたが、ぽっかり見事に割れた黒鞘が左右に飛んで思わずダアッとしりぞく。とっさに、片足をあげたと見るまに、そばの二、三人を眼下の水へ蹴落とした栄三郎、
「ちえッ!」
と左膳の舌打ちが一つ、飛白と見える闇黒をついて欄干ごしに聞こえた。
雪を浮かべて黒ぐろと動く深夜の
離合集散ただならぬ関の孫六の大小、夜泣きの刀……。
主君相馬
婦女子が盗人のごとく虚をうかがって持ちきたった物なぞ、なんとあっても納めておくことはできぬ。ここは一度、左膳に返しても、
が、すぐそのあとに展開された飛雪血風の大剣陣。
しかし、それもほんの寸刻の間だった。
折りもおり、
あとには左膳、仙之助の連中が声々に呼びかわして、橋と両岸を右往左往するばかり……。
それもやがて。
「ナア乾雲! てめえせえ俺の手にありゃア、早晩あの坤竜の若造にでっくわす時もあろうッてものよ、雲竜相ひくときやがらあ……チェッ! 頼むぜ、しっかり」
と左膳、片手に
かくしてまたもや。
それは、まわりまわってもとへ戻る
しばらく
二つの刀が同じ場処に納まっているあいだは無事だが、一朝乾雲と坤竜がところを異にすると、
そして、刀が
離ればなれの乾雲丸と坤竜丸とが、家の
この宿運の両刀。
はなれたが最後、雲竜相応じて風を起こし雨を呼び、いかなる
のみならず。
駒形の遊び人つづみの与吉は、丹下左膳の密命を奉じて、奥州中村の城下へ強剣の一団を迎えに走っているに相違ない。これが数十名を
一方、それに対抗する諏訪栄三郎の陣容はいかん?
かれが唯一の助太刀
二刀ふたたび別れて、新たなる凶の札!
死肉の山が現出するであろう!
生き血の川も流れるだろう。
剣の林は立ち、乱闘の野はひらく。
そして! その
雪の江戸に金いろの朝が来た。
それからまもなく。
ある梅
雲ひとつない蒼空から霧のように降りこめる陽のひかりに、庭木の影がしんとしずまって、霜どけのまま乾いた土がキチンと箒の目を見せている。
眼をよろこばせる
茶立口、上
道具だたみの前の
あるかなしかの風にゆらいで、
越前守忠相、ふとり
そういえば今は初雪の節、口切りとあってきょう初めて茶壺をあけたものとみえる。
ぼつんと切り離したような
「わしの茶は大坂の
こう言って忠相はふたたびほほえんだが、泰軒には茶のはなしなぞおもしろくもないのか、それとも何か気になることでもあるのか、つまらなそうに横を向いて、障子の明るい陽にまぶしげに眼をほそめている……無言。
忠相は
「茶には水が大事と申してな、京おもてでは
「いや、茶もいいが、どうもあとの講釈がうるそうてかなわん。あやまる」
泰軒がとうとう正直に降参して頭をかくと、越前守忠相、そうら見ろ! というように上を向いてアッハッハハと笑ったが、すぐにまじめな顔に返ってじろりと泰軒を見すえた。
沈黙、
泰軒は何か用があって来は来たものの、その用むきが言い出しかね、忠相はまた忠相で大体泰軒の用件がわかっていながら、自分からすすんではふれたくない――といったようなちょっとぎごちない間がつづいている。
忠相がふきんを取って茶碗をみがく音だけが低く部屋に流れて、泰軒は困ったように腕ぐみをした。
いつも深夜に庭から来る蒲生泰軒、きょうも垣を越えて忍んで来たのかと思うとそうではない。かれとしては
あいも変わらぬ天下
おりからひとり茶室にこもって心しずかに湯の音を聞いていた越前守、ぬっと障子に映る人影に驚いて立っていくと、
「わっはっは、当屋敷の者はすべて眠り猫同然じゃな。このとおり大手をふってまかり通るにとめだていたすものもない。おかげで奉行のおぬしに難なく見参がかなうとは、近ごろもって恐縮のいたり――いや、憎まれ口はさておき、ひさしぶりだったなあ」
という
「おう! よく来た!」
と笑顔で迎えながら泰軒のうしろを見た忠相、ちと
そのかげに肩をすぼめてうなだれた若い女……それは今もこの茶室の縁口まえに小さく身を隠して平伏している。
言わずもがな、瓦町の家を抜けて来たお艶であった。
じぶん
しかも!
もとはといえば、すべて栄さまが自分を思ってくだすって、
ただ、この身が種をまきながら、こうして栄さまをひとりじめにしていては四方八方すまぬところだらけ――
自分さえなければ
得るも恋なら、退くも恋。
いつぞやの夜、ともに泣いた弥生さまの涙を察するにつけても、あきもあかれもせぬ栄三郎様ではあるが、ここはひとつあいそづかしをして嫌われるのが第一……。
それが何よりも栄さまのおため。
つぎに、お刀と弥生様への義理。
また、ひいては江戸のおなごの心意気、浮き世の情道でもあると、こうかたく胸底に誓ったお艶、うしろ姿に手を合わせながらさんざん
栄三郎様はこのお艶の心変りを
そして最後に、
「いや。それもおもしろかろう。さすがは栄三郎殿がうちこむほどの女だけあって、お艶どの、あんたは見あげた心がけじゃ。この上は栄三郎殿も力のすべてを刀へ向けて必ずや近く乾雲を奪還することであろうが、さ、そうなった日にはまたあらためて相談、決してこの泰軒が悪いようにはせぬ。きっとそちこちあんたの身の立つようにまとめて見せるから、いわばここしばらくの
ということになって、お艶は泣きじゃくりながら身のまわりの小物を包みにして、しきりに鼻をかんでいる泰軒とともに、栄三郎の帰らぬうちにと、そろって瓦町の
うしろ髪を引かれる思いのお艶と、
野良犬のごとく江戸のちまたに
この女子は栄三郎殿からの預り物……こう思うと泰軒、たとえ一時にしろ、お艶の身の落ち着き方を見とどけなくてはすまされぬ。
が、家のない身に女の預り物は、さすがの楽天風来坊にも背負いきれぬお荷物になってきた。
そこで、考えあぐんだのち、はたと思いついたのが蒲生泰軒のこころの友、今をときめく江戸町奉行
「今日はちと肩の
こう言って泰軒は、貧乏徳利とお艶をつれて首尾の松の小舟をあとに、白昼うら門からこのお屋敷へはいりこんだのだ。
どこだろうここは……と泰軒の影にかくれて、おずおず奥庭のお茶室まで来たお艶、でっぷりふとった
室内にはまだ沈黙がつづいている――。
「黒!」
越前守忠相は、あいている障子の間から縁ごしに声を投げた。
躍るように陽の照る庭さきに、一匹の大きな黒犬が、心得顔に
宇和島
「黒よ! いかがいたした」
忠相はのんびりとした顔つきで、また、部屋のなかから犬に話しかけた。黒は尾を振る。
春日
ようよう茶ばなしがすんだと思うと、こんどは犬だ。
相対してすわっている泰軒は、気がなさそうに、それでも黙って黒を見ているだけ……いつになくいささか不平らしい。
この室内のふたりのところからは縁のむこうの土にすわっているお艶の姿は見えないけれど、お艶はクンクンという異様な音にかすかに顔をあげてみて、見たこともない大きな黒犬が身近く鼻を鳴らしているのに気がつくと、
が、よく馴れている犬。
べつに害をしそうもないのに安心して、お艶がほっと息を洩らしたときだ。
部屋のなかでは、忠相が
「黒! ここへ
りんとしたお奉行さまの声。
犬は無心に耳を立てて、お答えするもののごとく口をあけた……わん! うわん! わん!
「おお、そうか――」
とにっこりした越前守、チラとかたわらの泰軒へすばやい一
「来い! あがってこい! 黒……」
犬はただしきりに首をねじまげて、肩のあたりをなめているばかり――神のごとき名判官の言葉も畜生のかなしさには通じないとみえて、お愛想どころか、もうけろりとしている。
それにもかかわらず忠相は大まじめだった。
いくら愛犬とは言いながら、ほんとに黒を茶室へ呼びあげる気なのだろうか……忠相は、キチンと正座して縁先へ向かい、眉ひとつ動かさずに命ずるのだった。
「やよ、黒、あがれと申したら、あがれ!」
そして、まるで人間にものいうように、
「さ、早うあがってここへはいれ。人に見られてはうるさい。チャンとあがったら後ろの障子をしめるのじゃ、はははははは」
うむ! と、これで初めて気のついた泰軒も、乗りだすようにそばから声を合わせて、
「黒、あがれ!」
「黒よ、早く
と口々のことば……
つまらなそうに地面をかぎながら黒が立ち去っていったあとまでも忠相と泰軒の声は
黒! あがれ! あがれ、遠慮をせずに――と。
ハッと胸に来たお艶。
これはテッキリ大岡様が犬に事よせて自分を呼び入れてくださるのではないかしら? もったいなくも八代様のお膝下をびっしりおさえていかれる天下のお奉行さま、一介の町の女のわたしずれに公然に同座を許すわけにはゆかないので、黒を使ってくだしおかれるありがたいお言葉!
なんというお情けぶかい!
お顔を拝んだら眼がつぶれるかも知れぬが、これ以上
お顔を拝むどころか、カッと眼がくらんで、うしろの障子をしめる手もワナワナとふるえる。そのまま泰軒のかげに小さくなった。
と、越前守忠相、はいって来たお艶へは眼もくれずに、すでに
「わっはっはッ!」
何を思ってか、泰軒は突如煙のような笑い声をあげた。すると、しばらくして忠相も同じように天井を振り仰いで笑った。
「あッはっはっは!」
しぶい、枯れたお奉行様のわらい声……お艶がいよいよ身をすくめていると、忠相はみずから立って
「泰軒、ひさしぶりじゃ。一局教えてつかわそう」
「何を
「友達ずく――と申すが、私交は私交、公はおおやけ……混同いたすな」
なぜか泰軒はグッとつまったかたち。
その前へ盤を据えた越前守、たちまち黒白ふたつの石をぴたりと盤面へ置いて、
「サ、蒲生! この黒い石と白い石――相慕い、互いに呼びあう運命のきずなじゃ。どうだな……?」
驚愕のいろを浮かべた泰軒、ううむ! とうなって忠相を見あげた。
パチリ!……と盤面にのった二つの石。
ひとつは白、他は黒。
これが相慕い、たがいに求めあう運命のきずなじゃ――という、思いがけなくも委細を知るらしい越前守忠相のことばに、泰軒は、ううむとうなって忠相を見た眼を盤へおとして、ガッシと腕を組んだ。
うしろのお艶も、何がなしに、はっと胸をつかれて呼吸をのむ。
が、忠相は平々然……。
しばらくじっと盤上の二石を見つめていたが、やがて、ウラウラ障子に燃える陽光におもてを向けて、
あかるい光が小ぢんまりした茶室いっぱいにみなぎって、消え残る香のけむりが床柱にからんでいる。
この二、三日急に春めいて来たきちがい陽気、こうしていてもさして火の恋しくない、梅一輪ずつのあたたかさである。
「黒白、ふしぎな縁じゃ……としか言いようがない。が、こう二石離れれば?」
と忠相、もの
黙ったまま
「ふうむ」と忠相は
いいながら忠相は二つの石をピッタリと密着して並べる。
泰軒はにっこりして静かに碁笥を下に置いた。そして、両手を膝にきちんと正面から忠相を見る。
「まず、こうかな」
「うむ!
「が、だ……」と言いかけた泰軒、にわかに上半身を突きだして忠相を見あげながら、「おぬし、どうして知っとる?」
と! 大岡越前守忠相、快然と肩をゆすって
「
「ああ、そうだ。碁だったな。碁のこと碁のこと――こりゃと俺がよけいなことをきいたよ。しかしそれにしても……」
「蒲生!」と低い声だが、忠相の調子は冷徹氷のようなひびきに変わっていた。「わしはな、なんでもしっておる。長屋の夫婦喧嘩から老中機密の策動にいたるまで、この奉行の地獄耳に入らんということはない。な、そこで碁といこう。さ、一局参れ」
「うむ」
と、沈痛にうなずきはしたものの、泰軒は盤面を凝視したまま、いつまでも動かずにいた。
ふたたび無言の
いつものこととはいえ、泰軒はいまさらのように
古今東西を通じて判官の職にありし者、
思わず固くなった巷の豪蒲生泰軒。
にこやかに
「いかがいたした蒲生。貴公、戦わずして旗をまく気か……さあ、
と碁石を鳴らしていどみかけた忠相。何を思ったか今度は急に小さな声でひとりごとのようにいい出した。
「東照宮どの、ときの奉行に示して曰く、総じて奉行たる者あまりに高持すれば、国中のもの自ら親しみ寄りつかずして善悪知れざるものなり。
蒲生泰軒、この世に生をうけはじめて、人のまえに頭をさげたのだった。
「またのとき、東照宮家康公、侍臣にかたって曰く――いまどきの人、諸人の
「安心して、ひとつ碁といくか」
「さよう。安心して碁と来い」
ふたりはすばやく顔を見合って、同時に爆発するように笑いの声をあげたが、泰軒はすぐさま真顔になって、
「しかし、こうのんびりと碁を打っておるあいだに、おぬしの張った網のなかの大魚は、だいじょうぶだろうな?」
「まず
「さようか……しかし」と泰軒は盤のうえの黒白ふたつの石をさして、「こう――この石がともに当方の手に帰せんうちに、いま先方を引っくくられては、こっちが困るぞ」
「さ、そこが私事と公法。わしの
手を伸ばした忠相、ふたつの石を左右にひき離しながら、
「これが目下の状態。しからば当分このままにして傍観するか」
「うむ。早晩必ずこうして見せる」
泰軒の手で、また二つの石がひとつになる。
「そうか。だが、今のところは――」
と忠相は黒の石を手もとへひいて、そばへもうひとつ、同じく黒をパチリと置いた。
「これはこれに属しておるナ」
「そんなら、こっちはこうだ」
いいつつ泰軒も、白に並べて白の石をひとつ、力強く打って忠相を見る。
「フウム!」と腕をこまねいた忠相、「が、泰軒、黒には黒で仲間が多いぞ」
と、ガチャガチャとつかみ出した黒の石を、べた一面に並べて、もとの黒石をぐるりとかこんでしまった。
「おどろかん。ちっともおどろかん」
にっこりした泰軒は、すぐに白の一石をとって白の側へ加えた。
「そっちがその気なら、ひとつこういくか。助太刀御免というところ……」
「ハハハハ!」忠相は笑いだした。「気のせいか、いまおぬしのおいた石はどうも薄よごれておるわい、
「こりゃ恐れ入った! おぬしの眼にもそうきたなく見えるかナ――」
と、泰軒、首をひっこめてあたまをかきながら、
「それもそうだが、はじめに黒の一石をわが
「お! そうだったな。
忠相はこういって、石入れの底のほうから欠けた黒の石を取り出して黒団の真ん中へ入れた。
「この不具の石、名もところも素姓も洗ってある。水にて洗えば土は流れて、石の大小善悪もすべて知れ申し候……じゃ、サ、泰軒、いかがいたす?」
迫るがごとき語調とともに、碁によせて事を語る越前守忠相。
奉行なりゃこそ、そうしてまた泰軒が私交の親友なればこそ、こうして公私をわけながら一つに
泰軒のかげに隠れたお艶は、わからないながらにどうなることかと息をこらしている。
昨暮、あさくさ歳の市の雑踏で。
丹下左膳がつづみの与吉を使って諏訪栄三郎へ書き送ったいつわりの書状……それを栄三郎が途におとしたのを拾いあげた忠相は、第一に
ひだり書きといえば左腕。ひとりでに頭に浮かぶのが、当時御府内に人血の香を漂わせている逆
ことに手紙の内容は、何事かが暗中に密動しつつあることをかたっている!
これに
が、奥州浪人丹下左膳の罪科、本所法恩寺橋まえ五百石取り
それに、鈴川源十郎のうしろには小普請組支配頭
で、なんとかして諏訪栄三郎が左膳の手から乾雲丸を奪い返したのちに、一気に彼ら
ちょうどその時、
きょう風のように乗りこんで来た心友蒲生泰軒、そのかげに隠れるようについている女をチラと見るが早いか、いつぞやそれが田原町二丁目の家主喜左衛門から尋ね方を願い出ている当り矢のお艶という女であることを、人相書によって忠相はただちに見てとっていた。
そのお艶は、坤竜の士諏訪栄三郎と同棲していたので、
おおよそかくのごとく。
その
南町奉行大岡越前守忠相様。
と!
ふと蒲生泰軒のあたまに
風のような火事
その正体は今もってわからないが、あのなかの
しかし、忠相はその微笑にこたえなかった。
「なあ、蒲生!」
と、じっと盤を見つめていたが、
「どうする気だ、その碁を」
「もとよりあくまでもやる! 運命の二石をひとつにするまでは」
「貴公らしいて」
しずかにつぶやいた忠相、盤上の黒の一石を手にして、つうとそばのほうへそらしながら、
「さあ、泰軒、かようにひとつが助勢を求めて走っておるぞ。どうじゃ、どうじゃ、どうするつもりじゃ? これに対する処置は」
「ナニ! 助勢を? 誰がどこへ……?」と思わず泰軒、
「泰軒! 碁だ、碁だ――が、サア、まず求援の使いの向かう方角は……」
「うむ。その方角は……」
「さればさ――さしずめ、北のかたかな」
こう言い放っておいて、忠相はジロリと泰軒を見やった。
一石駆けぬけて援軍を求めに走りつつある――しかも、その方角が北のかた!
という忠相の言葉に、蒲生泰軒はキッとなって盤をにらんだ。
いかさま、ひとつの黒い石が、忠相の手によって黒団を離れ、碁盤の隅に孤独の旅をいそぎつつあるように見える。
これこそ、奥州中村相馬藩の城下へ、左膳のために剣客のむれを呼びに草まくらの数を重ねつつあるつづみの与吉のすがたではなかろうか。
「サ! どうする? どうする気じゃ?」
忠相はこううながすように言って泰軒を見た。
じっと石の配置に眼をすえたまま、泰軒は動かない。そのかげに身をすくませているお艶も、いつしかこの碁戦の底にひそむ真剣なかけひきに釣りこまれて、われを忘れて、横のほうからのぞきながら、見入り聞き入りしているのだった。
外見はあくまでも
陽のおもてに雲がかかったのであろう、障子いっぱいに射していた日光がつうとかげると、
「泰軒、
かすかな
が、泰軒は答えない。大きな膝が貧乏ゆるぎをしているのは、まさに沈思黙考というところらしい。
すると忠相は、やにわにひとつかみの黒い石を取り出して、援軍をもとめに行きつつあると言った石のまわりに並べた。
「見るがよい。この通り首尾よく同勢を集めて、今やもとへ戻ろうとしておる。この対策はどうじゃな?」
「ふむ!
言ったかと思うと泰軒、手もとの
忠相は首をひねって、
「ははあ。そう出向いていくか」
「さよう。かくして帰路の途中、せいぜい数を
といいながら、泰軒は、いま白をおいた周囲から黒石の二、三を取ってのける。
「かようにいたして、帰るまでにはもとの
「ウム! それがよい!」
と忠相は膝を打って、
「急ぎ後を追って、せっかくの助軍を斬りくずすことじゃ……何しろ、この援兵を敵の本城へ入れてはならぬ。俗にも申す多数に無勢、勝ちいくさが負けになろうも知れぬからな。が、はたしてそううまく参ろうかの?」
「何がだ?」
「ただいまの、帰路を
「それはこの石の手
こう
「たのもしい石じゃて」
とチラと泰軒の顔を見やったが、やがて、
「北……と申せば道は一本みち。ただちに発足すればわけなく追いつくであろう」
「北の旅は
「が、大事な石、ぬかりはあるまいが気をつけてくれ」
「心配無用!」
言い放った泰軒、助けの石と称する黒のかたまりをすっかりわが手に納めてしまうと、いきなり二つの白石を摘まみあげるが早いか、盤の隅の黒団へ突き入れて、同時にすべてをさらいおとした。
盤上に残った黒白ふたつの石、それが中央にピッタリ並んでいる。
「もうよい! わかった」
と忠相は、ゆったりとふところ手をして、
「わしのほうの仕事はそのうえ……あとは必ずわしが引き受けるから、それまでにおぬしが力を貸して、この二石をひとつにしてくれ」
ふっと碁談がやむと、白っぽい午さがりのしずけさのなかで、どこか庭のむこうで愛犬の黒がなくのが聞こえた。
いかにして忠相は、いながらにして乾雲を取りまく一味の助勢を
では、すぐにこれから!――と泰軒が起ちあがると、忠相がそれを眼でとめた。
「蒲生! 忘れ物……」
と、すばやい視線がお艶へ向いている。泰軒はとぼけた。
「旅は身軽が第一――ハッハッハ、この荷物は当分おぬしに預けておくとしよう!」
そして、困りきって苦笑している越前守忠相と、もったいなさに消え入りたげに小さくなったお艶を残して、そのとたんに、庭に面した障子はもう泰軒をのんでいた。
「親方ア! 返り馬だあ。乗ってくらっせえよ」
という鼻から抜ける声とともに、間伸びした鈴の音が、立場茶屋の
縞の着物に手甲
こいつ、櫛まきお藤の隠れ家でのんべんだらりとお預けをくっているはずなのが、それがある朝、ヒョイと思い出したのが丹下の殿様から言いつかっている大事の御用――こりゃアいけねえ、おらあこんなところにいい気に引っかかっていられるわけのもんじゃアねえんだ! と思いついたのが足の踏み出し、お尻の軽いことこの上なしという野郎だから、お藤の
影と二人づれの、まことに気の合う旅まくら……。
なあに、丹下様はどんなに急いでいたってかまうこたアねえやな。こちとらアもらった路銀をせいぜいおもしろおかしく
こういう心だから急げば早い足を格別伸ばそうともせずに、泊りを重ねてこの昼すぎちょうどさしかかったのが野州の小金井だ。
古河の町は、八万石土井
その古河を今朝たって野木、
道中細見記をたどれば、江戸から中村まで七十八里とあるから、つづみの与の公、まだ前途
白い街道にやけに陽が照りつけて、真冬に北へ向かうのだからどんなに寒かろうと内心おびえて来たにもかかわらず、今日なんかは江戸よりもよっぽどあたたかいくらい。
それでもさすがに底冷たい風が砂ほこりを吹きこんで、名物と
江戸っ児はうち
与吉もその点では御多聞に洩れず、なんだかしきりに心細い気がしてくるのを、自分で懸命に引きたてるつもりで、
「旅もいいが、こちとらみてえな生え抜きの江戸っ児は、一歩お
「へえ。そうかね」
「チッ! そうかねえじゃねえや。早え話がこの団子よ、こ、こんな物が食えるけえ。これで名物のなんのとチャンチャラおかしいや。なア、江戸じゃあこんな団子は猫も食わねえんだよ」
「あんれ! ここらの猫もハア団子アあんまり食わねえだよ」
「何をッ! 馬鹿にするねえ! えこう、江戸じゃあナ、まあ聞きねえってことよ。
なんかと頼まれもしない浅草もちの
「親方ア、馬はどうだね、安くやんべえよ」と、またしても馬子の声。
与吉は大いに
「何イ! 馬だ? べら棒め、馬がどうしたッてんでえ!」
威勢よくたんかをきって向きなおった拍子に、つづみの与吉、さっと顔から血の気がひいた。
二軒むき合っている向う側の茶みせから、じっと眼を据えてこっちを見つめている異様な男!
おぼえのある乞食すがたに貧乏徳利……。
うまくお艶の身柄を
「これ、蒲生! 何やらここに落ちておるぞ」
というので、ちょっと引っ返して部屋をのぞくと、いままで坐っていた場所に小判が数枚!
泰軒の
ふたりは何も言わなかった。
泰軒はただのっそりあがって来て
そして。
お艶がなおもひれ伏しているうち大岡様のお屋敷を出た泰軒は、瓦町の栄三郎様へも立ちよらずに、その日のうちに江戸をあとに北上の旅にのぼったのである。
乾雲のために求援の使いにたって、今や一路北州をさしていそいでいる者があると言ったが、はて誰だろう? まだ相馬へは着いてはいまいから、追い越して顔さえ見ればわかるに相違ない。そのうえ、相手のいかんによって策の施しようはいくらもあると、ゆく手に当たって人影が見えるたびに、泰軒はひたすらに足を早めて来たのだった。
が、住居を持たぬ泰軒先生は、江戸にいても四六時ちゅう旅をしているようなもの。したがってこうして都を離れるにも、何一つ身仕度などあろうはずもなく、きたきり雀の
奥の細みち。
と言うと風流なようだが、泰軒は気がせく。
人一倍の健脚に
奥州街道。
江戸から二里で
早朝に栗橋をたって中田、古河の城下を過ぎ、本街道をまっしぐらに来かかったのがこの小金井である。
町を素通りに、スタスタ通り抜けようとした、宿場はずれ。
ふと一軒の茶店からしきりに江戸江戸と江戸を売りに来ているような声がするので、泰軒、何ごころなくみやると、見たことのある町人がさかんに
ハテナ! と小首をかしげたとたん、最初に思い出したのが正覚寺門前振袖
馬子をどなりつけて振り向いたとたん、思いがけない泰軒のいることに気のついた与の公、はッとすると同時に青菜に塩としおれ返ってしまった。
今のいままで恐ろしく威勢のよかったやつが、ムニャムニャとにわかに折れてしまったから、びっくりしたのは茶店のおやじだ。
「どうしただね? 腹でも痛み出したかね?」
うるさくきくので、与吉はこれをいいことに、
「うん? ううん……なんでもねえ。いや、腹が痛えや。こんな団子を食わせるからだ」
「あんだって、この人は団子にばかりそうけちイつけるだんべ! 三皿もお代りしたくせに……」
顔をしかめてうなりながら、与吉がチラ! チラ! とうしろをふり返ると、路をへだてた
与吉は、ジリジリと背中が焼けつくようで、いてもたってもいられぬ心地。
蛇ににらまれた蛙同然――人もあろうに一番の難物が、どうしてここへこうヒョッコリ現れたんだろう! こいつア厄介なことになったもんだ! と一時は与吉、
「爺さん! ホイ、茶代だ。ここへおくぜ」
と勢いよく起ちあがると、それを待っていたように、むこう側の茶店でも泰軒が腰をあげたようす。
首すじがゾクゾクして、与吉はともすれば立ちすくみそうになったのだった。
猛犬に
すぐあとから泰軒先生が、一升徳利を片手にぶらさげ、
珍妙
それが、陽うららかな宇都宮街道を、先が急げば後もいそぎ、緩急
どうも薄気味の悪いことこのうえない。
もうすこし離れてつけてくるのなら、こっちも駒形の与の公、なんとかして
それも。
おい! とか、コラ! とか声でもかけてくれるならまだいい。そうしたら当方にも応対のしようがあって、おや! これはこれは乞食の旦那様、お珍しい! はて、どちらへ?――ぐらいのことが、スラスラと出ない与吉でもないし、じっさいその問答の二、三も心中に用意があるのだが、こんなに押し黙ってついて来られると、先方が普段からの苦手なだけに、与の公、手も足も出ないで、
その亡者のような与の公と、お
小金井をたって下石橋、二里半の道で宇都宮……大通りを人馬にもまれて素どおり。
もうそぼそぼ暮れだが、与吉はこんなつれといっしょに[#「いっしょに」は底本では「いっしよに」]
いけない!
やっぱりスタコラついて来る。
黙りこくって、影のようにうしろに迫りながら押っかぶさるようにしてついてくるのだ。
与吉もこれにはすっかり往生したが、振り返りでもしようものなら、そのとたんにぽかんと
無言のまま同行二人。
真夜中の白沢。
夜どおしがむしゃらに歩きつめて、へとへとに疲れきった与の公のうえに、さく山あたりで暁の色が動きかけた。
脚は棒のようになる。眼はくらむ。狩り立てられた狼のようになった与吉、ひとこと泰軒が声をかけたら即座に降参してすべてをぶちまけ、すぐに江戸へ引っ返すなり、ことによったらこのままどこへでも突っ走ってしまおうと思っていると……。
泰軒は平気の平左。
ときどき貧乏徳利をぐいと傾けてひっかけながら、口のなかで、
はるかに連山の残雪。
ふっと近くに馬のいななきがきこえてゆく手の草むらにガサガサと音がしたので、与吉がびっくりして立ちどまると、放し飼いの馬が二、三頭、ヌッと鼻面を並べて出した。
「なんでえ! 驚かしゃがらア! シッ! どけ、どけ! シイ――ッ!」
と、馬とわかって、与の公急に強くなっていばりだしたものだから、よほどそれがおかしかったとみえ、
「はっはっはッは……」
うしろに泰軒の笑い声。
与の公、とうとう泣き顔をふり向けて悲鳴をあげた。
「
と与吉、大道商人が客をつかまえたように小腰をかがめて手をもんだ。
「相談……とは、なんじゃ」
与吉を見おろして立ちはだかった泰軒のぼろ姿に、さわやかな朝の光が
与吉は首をなでたり頭をかいたり、眼まぐるしく両手を動かしながら、
「テヘヘヘヘ、どうも先生、旦那、いや殿様――ッてのも変だが、そう意地にかかってついて来られちゃア私が歩きにくくてしようがございません。もういいかげんに、ここらでなんとか一つ話をつけていただいて、手前も考えなおしとうございます、へい」
「つける。……と申して、おれは貴様をつけた覚えはないぞ。第一貴様こそ始終おれの前に立って、歩きにくくてかなわん。いったいどこへ行くのだ」
「ヘヘヘヘ、御冗談で」
「ヘヘヘヘではない、いずこへ参るのかとそれをきいておるに」
「へえ。実はその、松島――へえ、松島見物でございます。松島やああ松島や松島や……」
「春に向かって松島見物とは結構な身分だな」
「ナニ、あまり結構でもございません」
「いや、結構だ。遠く
「恐れ入ります」
「なあに、恐れ入らんでもよい。おれもその松島へゆく途中だ。同道いたそう」
「え? では、あの、先生も松島へ?」
「さよう。一生に一度は見ておいてもよいところじゃからナ」
「ちッ! 仕方がございません。与吉もあきらめました。りっぱにお供しやしょう」
「これこれ、与吉と申したな。ただいまの挨拶はなんだ?」
「いえなに、こっちのことで――ごいっしょに行けばよろしいんでございましょう? ええ参りますとも! 松島だって、どこだって、こうなりゃ……」
「ア、これこれ与吉、黙って来るがよい」
そこで。
仏頂面の与吉と、笑いを噛みしめていかめしい顔を作った泰軒とが、妙なふうに肩を並べて歩き出したまではいいが、この二人の奇体な取合せに、朝早くさく山の町へ用たしに出る百姓などが驚いて道をよけている。
「先生! 先生はいつ江戸をおたちになったんで? たいそうおみ足が早うございますな」
「はははは、お前が松島に向かったと聞いてな、わしも急に思い立って出て来たのだ。足の早いのは貴様こそ、親は
「かなわねえや先生にゃア」
なんとかほどよくばつを合わせて歩きながら――。
つづみの与の公、心中ひそかに思えらく。
これはなんといっても相手が悪い。今ここで
泰軒は泰軒でまた胸に一
これ、与吉、この徳利へ酒をつめて参れ。
これ、与吉、ついでに金をたてかえておけ。
これ、与吉、坂道でくたびれたから背後から押してくれ。コレ与吉、コレ与吉と、泰軒先生さかんに与の公を使いたてる。与の公もいま先生を怒らしちゃア厄介だと思うから何ごともヘイコラこれ命に従っているうちに。
大田原――大田原
白河の関――阿部
二本松――丹羽左京太夫殿。十万七百石。
このところ江戸より六十六里なり。
……で、これからあと四つの宿場で福島へ着くという、その二本松の町へはいったのが、江戸を発足してから八日目の夕ぐれだった。
両側に並ぶ宿屋を物色しながらふと気がつくと、今までそばを歩いていた泰軒先生の姿が見えない!
つづみの与吉、しめたッ! とばかりにいきなり眼の前の柳屋と行燈をあげたはたごへ飛びこんだ。
「いらっしゃいまし――お早いお着きでございます」
二、三人の
二本松の町。
いま
口の悪いのは江戸っ児の相場……それがこうして旅へ出ているのだから、何かにつけひとことわるくちをいわなければ腹の虫が納まらないという役得根性も手伝い、泰軒先生をたくみに振りおとした気でいる与の公は、もうすっかりいい気もちになって、
「チッ! こんなしみったれた部屋しかねえのか。馬鹿にしてやがら」
と、ジロジロとそこらを見まわしてすわろうともしない。案内して来た女中も心得たもので、
「もっと宿料を
これには与吉、ギャフンと参って、
「そりゃそうだろう。そうなくちゃアかなわねえところだ――人間万事金の世の中ってナ、アハハハ」
どうも与の公ときたらうるさい野郎で、四六時中しゃべっていなければ気のすまないところへ、今は、泰軒という苦しい厄介がなくなったのだから、ひとしお上機嫌に口が多い。
飯か湯かどっちを先にするときかれて、湯へはいりながら飯を食いてえ……などと勝手なことをしゃべり散らすので、女もあきれて降りていってしまう。
あとで与吉が、宿の丹前に着かえて、力を入れてもたれかかるとひとたまりもなく折れそうな、名ばかりの二階縁の欄干にもたれて下の往来をのぞくと。
うら淋しいながらに、ちょうど
よごれた白壁。
投入れのひからびている
与吉が、柄にもなくこんな句を思い出していささか
「恐れ入りますが、お
これで与吉はすこし気を悪くしたが、それでも、
「
「御飯ならわたしが
「ちょッ! この飯じゃアねえや。こうッと、草餅よ。はははは、くさもちは、どうでエ?」
「くさもちはありませんが、かき餅が名物でござんす」
「
「あれ! 知りませんよ」
「なに、知らねえことがあるものか。お前みてえなべっぴんは江戸にも珍しい」
「ホホホ、それほどでもござんすまい――そんな殺し文句をまいて歩くと、あの
「何を言やんでえ!」
などと与吉一流の無駄口をたたきながら飯をすまして、一風呂ザアッと流してくるからと按摩を頼み、手拭をぶらさげて突っかけ草履、与吉が廊下へ出たところへ、どこの部屋からかあまり粋とはいえない三味線の音……。
しぐれ降る浅茅 ヶ原 の夕ぐれに二こえ三声雁 がねの、便り待つ身の憂きつらさ――。
と来たときに、お「よしゃアがれッ!」
と、どなりながら、暗い裏梯子を駈けおりると、とっつきが風呂場になっていて、ガヤガヤと人声がこもっている。
男女混浴……
「あらよウッ! みなさん、ごめんねえ!」
と、精々いなせに飛びこんでゆくと! 聞き覚えのある謡曲の声とともに、よもぎのような
はッ! と思うと与の公、ちょいと身体を濡らしただけで、そのまま女たちのあいだをこっそり抜け出て来ようとしたが、すでに遅かった。
「はっはッはっは、待っておったぞ!」
と割れっ返るような大声といっしょに、泰軒先生がヌッと湯の中に立ちあがったから、与吉は妙な恰好に流し場にしゃがんで、
「おや! 先生でございますか。どうなさいましたかと、じつは御心配申しあげておりましたよ。でもまあ、よく御無事で、エヘヘヘ……」
「ひさしく会わんような挨拶だナ」
「いえね、全く。さっきこの柳屋の前の往来でひょいと気がつくてえと、先生のお姿がかき消すようにドロンでげしょう? あっしゃア――」
「しすましたり
「どうも
「ビックリではない。がっかりであろう。とにかく、ざっと暖まったらあがって来て、背中を流してくれ」
「あい。ようがす」
とは答えたものの入って来た時の元気はどこへやら、与吉はがらりとしょげ返って、白く濁った湯に首を浮かべて一渡りそこらを眺めまわしたけれど、眼にはいる雪の肌もいっこうにこころ楽しくない。
奥と入口に魚油の灯がとろとろと燃えて、老若男女の五百
「アアこれこれ与吉、ゆであがらんうちに出て来て流せ」
はじまった! 仕方がないから三助よろしくの
「そんなことではくすぐるようで
与吉は真赤にりきんでフウフウ言っているが、泰軒はすこしも感じないと見えてしきりに強く強くとうながす。おかげで与吉はふらふらになってしまったのはいいが、いかにも乞食先生の下男のようで、なみいる女客の手まえ男をさげたことおびただしい。
しかも、ようよう流しがすんだかと思うと、アアこれこれ与吉、湯を汲んで参れ、アアこれこれ与吉、脚をもんでくれ、アアこれこれ与吉……与吉がいくつあってもたりない始末。
泰軒先生がさきにあがると、やっとのことで
先生は階下の裏座敷。
それに、相部屋の毒消し売りはぐっすり寝こんでいるようすだからまず怪しまれる心配はないと、急に思い立って湯の香のさめぬ身体を旅仕度にかため、ひどい奴で、往きがけの
「今晩は、按摩の御用はこちらでございますか、おそくなって相すみません」
宵の口に言いつけておいたあんまが来たので、その声に、ねている毒消し売りがムニャムニャ動き出す。
あわてた与吉、とっさに端の障子を滑らして廊下に出るとにわか盲目とみえて、勘が悪く、まだなんとか言っているのをうしろに聞きながらもとより宿賃は踏み倒し、そのまま軒づたいに裏へ飛びおりてほっと安心!
泰軒先生は委細御存じなく、白河夜船の最中らしい。
こんどというこんどこそは、ものの見事にまいてやったぞ……。
思わず会心の笑みとともに歩き出した与吉、振り返って見ると、宿の洩れ灯に屋号の柳の枝葉が映えて、湯上りの頬に夜風がこころよい。
寂然たる天地のあいだを福島の城下まで五里十七丁。
飯野山の峰はずれに月は低く、星の降るような夜だった。
堀の水は、松の影を宿して暗く静まり、
刻をしらせる拍子木の音が、遠く
寒星、風にまたたいて、
町家、城中ともに眠りについて、まっくらな静けさが限りなく押しひろがっている……。
と!
なんに驚いてか、寝ていた
見とがめた番士数名。たちまちばらばらッと躍り出て六尺棒を又の字に組み、橋の中央にピタリとこれをおさえてしまう。
「
鋭い声ながら、夜ふけのあたりをはばかって低いのがかえってものすごくひびいた。
「へ!」
と答えるともなく、押し戻される拍子にベタリとその場へ膝をついた
むりもない。
ゆうべ夜中に二本松で泰軒先生に置いてけぼりを食わせてから、五里の山道をひた走りに明け方には福島に出て、そこから東へ切れて
一昼夜、飲まず食わずに険路十五里――それというのも、左膳の用命を大事にと思うよりは与吉としては正直、泰軒先生がこわいからで――。
ところが、何度ふり返っても先生は影も形も見えなかった。
しかし柳屋の一件で見てもわかるとおり、どこをどう先まわりして、いつひょっこり眼前へ現れないものでもないと、与吉は、問屋場のお休み処を横目ににらんで、ひたすら
りっぱにあの羽がい
ああ見えてもこのつづみにかかっちゃア甘えもんだと、与吉はいっそう足を早めて、見えぬ泰軒に追われるように絶えず小走りをつづけて来たのだ。
で、今。
はね橋の真ん中にガッタリ手をついた与吉。
「水……おなさけ、水を……! え、江戸の、タ、丹下左膳様からお使いに参ったものでござります。ど、どうぞ水をいっぱい……」
と聞いて、びっくり顔を見合わせたのは番士達。
仔細は知らぬが、出奔した丹下左膳が立ち帰って参ったなら門切れであろうと苦しゅうない、ただちに手厚く番所へ招じ入れて上申するようにと、ふだん組頭から厳命されているその丹下の急使というので[#「というので」は底本では「とういので」]、一同、与吉を城内へ許しておいて、すぐひとりが、何人もの口を通して
重役から茶坊主、坊主からお
早速これへ!
となって、城内に時ならぬ人の動き。
とりあえず
夢のような夜景色といおうか……ぼんやりした与の公が、キョトキョトあちこち見まわしながら、とある植えこみから急に広い芝生へ出たときだった。
さきに立つ若侍がしいッ! と声をかけたので、あわてて頭をさげた与吉、気がついてみると、遙か向うのお縁側にくっきりと明るい灯がうかんで、二、三の人影が豆のように小さく並んで見える。
まだよほど遠いが、それでもここから
骨を刺す寒夜ににわかの
縁ちかく敷居ぎわに、厚い夜の物を高々とのべさせ、顎を枕に支えて
広い頭部、大きな眼……絶えず口尻をヒクヒクさせて、ものをいうたびに顔ぜんたいが横にひきつる。
大きな
が、眼は、射るように近づいて来る与吉に注がれていた。
燭台の光が
剣怪丹下左膳の主君、乾坤二刀の
江戸へ出て以来
まえはいちめんの広庭。
遠くからこの寝間の光が小さく四角に浮き出で、灯のはいった箱船のように見えた時、与吉はいよいよお殿様へお眼通りだナと胸がドキンとしたが、なあにたかが田舎大名、恐れるこたアねえやな……こう
「チッ、近う! ち、近う、ま、参れッ!」
と、どなりつけるようなお声がかり。
大膳亮はいう。
「タタタタタタタッ……たッ、たたたッ丹下左膳カ、から、ッ、つ――ツ、使いに来たというのは、そ、そのほうかッ……」
「さ、さようでごぜえます」
思わず釣りこまれてどもった与吉はッとして眼をあげたとたん、大柄な殿様の顔が、
こいつぁ江戸張りに
同時に、大膳亮が
「モ、者ども、密談じゃ! 密談じゃ! 遠慮せい、遠慮!」
やつぎ早に
与吉をうながして、縁の直下までつれていっておいて案内の若侍も
後には。
相馬大膳亮とつづみの与の公、水入らずの差し向いである。大膳亮は蒲団から首だけ出して、与吉は、下の地面にへい突くばって。
珍奇な会談は、まず大膳亮から口をきられた。
「こここ、これ、タッタッ丹下……は無事か」
「お初にお眼にかかりやす。エ、手前ことは江戸は浅草花川戸、じゃアなかった、その、駒形のつづみの与吉――ッてより皆さんが与の公与の公とおっしゃってかわいがってくださいまして……」
「だッ、黙れ、黙れ! ダダ、誰が貴様の名をきいた?」
「へい」
「タタタタ、丹下は無事かッと申すに」
「へえ。さればでござりまする。どうもお殿様の前でげすが、あの方ぐれえ御無事な人もちょいとございませんで、へい[#「ございませんで、へい」は底本では「ございませんで、 へい」]」
「ナ、何を言うのか。き、貴様の言語は
「なにしろ、やっとうのほうがあのお腕前でございましょう? 江戸中の剣術使いが一時にかかったって丹下様には太刀打ちできねえという、いえ、こりゃアまあ、こちとら仲間の評判なんで……お殿様もお眼が高えや、なんてね、しょっちゅうお噂申しあげておりますでございますよ、お噂を、ヘヘヘヘ失礼ながら」
何がどうしてなんとやら――自分でもいっさい夢中で、ただもうここを
「キキ、貴様、気がふれたか」
と言いかけたが、寒がりの大膳亮、夜風を襟元へうけて、すばらしく、大きな
これに驚いて与の公、きょとんとしている。
そのうちにだんだん落ち着いてきた与吉が、ますます縁の真下へにじり寄って、丹下左膳からいいつかって来たことを、思い出し思い出し申しあげると!
黙って聞いていた相馬大膳亮、大柄な顔が見るみるひき歪んで、カッと両眼を見ひらいたばかり、せきこんで来ると口がきけないらしくやたらに鼻の下をもぐもぐさせて床から乗り出して来た。
その半面に、明りが奇怪にうつろう。
――関の孫六夜泣きのかたな……
丹下左膳が、昨年あけぼのの里なる小野塚鉄斎、
「さてお殿様……そこで、丹下さまがこの与の公におっしゃるには。なア与の公、ここはいってえどうしたものだろう? 汝ならなんとする? とネ、こう御相談に預かりましたから、与の公もない
「…………」
「ところがお殿様、ここにふしぎともなんとも言いようのねえことにゃア、その泰軒という乞食先生がね、どうしてあっしの中村行きをかぎつけたものか、それを考えると、与吉もとんと
「――――」
「が、だ。御安心なせえ、お殿様、あっしも駒形の与吉でございます。この先の二本松の宿でね、きれいにまいてやりましたよ。その時もあなた、わたしがお風呂へ行ったとお思いくださいまし……するてえと驚きましたね、お殿様のめえだが
「…………」
「ま、与吉も骨折り甲斐がございました。へえ、こう申しちゃなんですが、左膳さまがおっしゃるには、礼のところは必ず見てやる、てんでネ、なあに、お礼なんか受ける筋合いでもなけりゃあ、またそれほどのことでもございませんで、ヘヘヘヘヘヘ大笑いでございましたよ」
「――――」
与吉が舌に油をくれて何を言っても、大膳亮はうなるだけで、今まで岩のように黙りこくっていたが。
情が迫ると
「ソ、それで、タ、丹下は、
「へえ。腕っこきのところを
「キキキ貴様が、あ……案内して江戸へ戻るというのか」
「はい。さようで」
「うう――いつ、いつ、たつ?」
「へ、そりゃアもう明朝早くにでも発足いたします。丹下様がお待ちですし、それにこの際一刻を争いますから……」
「ウム!」と強くうなずいた大膳亮、同時に鋭い眼光を左右へくばって、
「こ、これ! たたたッ
相馬藩中村の城下はずれに、月輪一刀流の鋭風をもって近国の剣界に君臨している月輪軍之助の道場へ、深夜、城主の定紋をおいた提灯が矢のように飛んだ。
軍之助へ、お城から急のお召し。
何ごとであろう?……と、とるものもとりあえず衣服をあらためた剣精軍之助は、迎えの駕籠に揺られてただちに登城をする。
そして、さっそく御寝の間へ通されてみると。
国主大膳亮はこの夜更けにねもやらず、夜着をはねて
その夜、大膳亮は月輪軍之助にいかなるところまで打ち明け、しかして何を下命したか。
偏執果断の大主大膳亮、
「ヒ、人殺しの好きな者を、さ、さ、三十人ほどつれて江戸へくだってはくれぬかの? 仔細はいけばわかる。ア、あの、タッ、たたたッ丹下、舟下左膳の
「
「うむ。デ、では、ヒ、ひきとって早く手配をいたすがよい」
「ははッ! わたくしはもとより門弟中よりも荒剣の者をすぐりまして、かならず御意に添い奉る考え、殿、御休神めされますよう……」
「ウム、たたたたッたのもしきその一言、タ、大膳亮、チ、近ごろ満足に思うぞ」
――いかに刀剣に対して眼のない
生命がけでほしいものへ今にも手が届きそうで、そこへ思わぬじゃまがはいったすがた……。
世の
かくまでも刃にからんでトロトロとゆらめき昇る
「おお! サさ左膳か――デ、でかしたぞ! ソその乾雲を離すな! 離すな! 今にナ、ググググ軍之助が援軍を率いて参るから、そち、彼とともに
そして。
ともし
明けゆく夜。
城外いずくにか一番
やがて、お堀ばたの老松に朝日の影が踊ろうというころおい。
中村の町の
月輪一刀流……とは。
天正
ところが。
あとに残った小熊と泥之助は、病師の介抱を怠らず、一羽が死んでのち、
根岸兎角は、師の諸岡一羽のもとを
その後江戸に出て大名、小名に弟子多かったが、三年たって諸岡一羽が死ぬと、相弟子の岩間小熊と土子泥之助、兎角を討ちとるために
敬白願書奉納鹿島大明神
これがきいて神明おそれをなし霊験ことのほかあらたかだったわけでもあるまいが、両国橋の果し合いでは確かに岩間小熊が勝ったのだけれど、その仕合いの模様にいたっては、
とにかく。
その時、小熊は兎角のために橋の欄干へ押しつけられ、すでに危うく見えたのだったが、すもう巧者の小熊いかがしけん。兎角の片足を取って橋の下へ投げおとし、同時に脇差を抜いて、八幡これ見よと高声に呼ばわりながら欄干を切った……この太刀跡、かの明暦三年
さて。
武芸小伝に微塵流
当代の道場主軍之助は、以前から丹下左膳と並称された月輪門下の竜虎。
左膳に破流別動の兆あるに反し、軍之助は一刀流正派のながれを守るものとして先師の
変動無常
という
それが初代将監先生大書の額となってあがっている月輪の道場である。
夜のひき明け……。
もはや寒稽古は終わったけれど、未明の冷気の熱汗をほとばせる
しかも藩主大膳亮が刀剣を狂愛するくらいだから、よしや雪月花を解する風流にはとぼしいといえども気風として烈々
相馬
竹刀のひびき。
気合いの声。
板を踏み鳴らす音。
それがしばらく続いて、いつもよりすこし早めにとまったかと思うと、
「おのおの方、ただいま先生よりお話がござる。
という師範代
その姿である。急にかたき討ちの旅を思いたってこれからただちに出発するところ――とでもいいたい身ごしらえだ。
大筋の小袖に
それがまた。
いま
そこに、ずらりと横に門弟の名札が掛かっている。
筆はじめは、いうまでもなく師範代各務房之丞。
第三に、
四に、岡崎
五、秋穂左馬之介。
大屋右近。
藤堂
以下二百名あまり。
めいめい一枚でも二まいでも札のあがるのを何よりの
やにわに腕をさしのばしたと見るや、一同があっけに取られているうちにパタパタと初めから
二百の名札のうち、はじめのほうはうらの木肌を黄白く見せている。
その、裏がえしにされた札の数を読むと、各務房之丞から小松数馬までちょうど三十――。
破門でもされるのでなければ、道場の名札を裏返しに掛けられるおぼえはない!
と、高弟の三十名をはじめ満場の剣客が鳴りをしずめていると。
軍之助、突如わめくようにいい渡した。
「これらの者三十人。今日かぎり破門を申しつける!」
意外のことばに騒然とざわめきたった頭のうえに、より意表外の軍之助の声が、もう一度りんとしてひびいたのだった。
「いや! 待て、待て! わしもみずからを破門するのじゃ!」
あけ六つの太鼓が陽に流れて、ドゥン! ドーン! と中村城の樹間に
異様な風体の武士たちが三々
そろいもそろって筋骨たくましい
それが、一同
胆をつぶしたのは沿路の百姓、早出の旅の衆で、
「うわアい!
「ヒャアッ! 相手は
「あアに、この隣藩の泉、
などと、なかには物識り顔をするものもあってたいへんなさわぎ……月輪門下の
が、なんのために腕を
同門の剣友、隻眼隻腕の丹下左膳を救うべく!
それはいいが、左膳が何にたずさわり、そしていかにして
そんなことはどうでもよかった。花のお江戸へ繰りこんで、好きなだけ人が殺せると聞いただけでこの北の
幸か不幸か太平の世に生まれ合わせて、いくら上達したところで道場の屋根の下に
まれに真剣を手にしても、斬るのは藁人形かせいぜい
駒木根
依頼によって動く殺人
刃怪丹下左膳を生んだ北国野放しのあらくれ男が、生き血に餓えるけもののように隊を組み肩をいからして、街道の土を蹴立てていくのだ。
人あって遠く望めば、かれらの踏みゆくところに従い、一塊の砂ほこり白く立ち昇って、並木の松のあいだ
こうして。
破門された各務房之丞、山東平七郎、轟玄八以下三十名の剣星と、自らを破門してそれを率いる師軍之助と、月輪一刀流中そうそうの容列、
相馬中村は小さくなって通れ
鬼の在所じゃ月の輪の
……無心な鬼の在所じゃ月の輪の
第一、言葉がよくわからない。
「こンれ!
「はい。まことにその、結構なお天気さまで、ヘヘヘヘ」
「江戸さ
「どうも、なんともはや、相すみませんでございます」
「わっハッハッハ!」
とんちんかん、おおよそかくのごとく、口をきくたびに意思の
ここから木戸まで二里の
はじめ、お
援軍の仕度ができたから町外れの道場へ……といわれて、案内につれ、月輪方へ出向いてみると。
だだっ広い板敷に三十人の破門連だけが車座に居残って、剣主軍之助から江戸入りを命ぜられている最中。
いかさま
わけも知らないのに、
「これほどじゃあるめえと思ったが、強そうには強そうだけれど、いやはやどうも、ひでえ田舎ッぺばかりじゃアねえか。ちょッ! あの服装はなんでえ!
とあきらめて、一同とともに打ちつれだって出て来たのだが、性来
いまでさえこうだから、江戸に近づくにつれてその気恥ずかしさは思いやられる。どっちへ転んでも情けねえ役目をおおせつかったものだ! と、つづみの与吉、口のなかで不平たらたら……大きな肩に挟まれて木戸の宿場の登りぐち、虫の知らせか、進まぬ足を踏みしめて一歩一歩と――。
かえりは、道をかえて水戸街道。
奥州本街道とはすっかり方角が違うから、二本松に残して来た蒲生泰軒に出会する心配はまずあるまい。また仮りに行き会ったところで、こんどはこっちのもの、与吉はすこしも驚かない。
富岡より木戸。
この間、二里の小石坂。
いい
山に沿ってうねりくねってゆく
まっ黒な
その底にそうそうと谷をたどる小流れの音。
いく手に不動山の天害が屏風のごとくにふさぎ、はるかに瞳をめぐらせば、三箱の崎。
野火のけむりであろう、遠く白いものが
「絶景! 絶景!」
というべきところを、月輪の剣士一同、あゆみをとめて、ジュッケイ! ジュッケイ!
と口ぐちにどなりあっている。
「町人! ここサ
「エエ……白っこい物と、はて、なんでございましょう――ア! あれは関田へおりる道じゃアございませんか」
「ほうか」
「コンラ町人、江ン戸にはこんな高い所あッか?」
「エヘヘ、まずございますまいな」
「ほうだろう……うおうい!」
先の者がしんがりを呼ぶと、
「なんだア――ア?」
と急ぎのぼってくる。
「中村のお城が見えるぞウイ」
「ほんなら、みんな並んで最後のお別れに拝むこッた。拝むこった」
というので、なるほど、かすかに
「なあに、ここをかわせばもうじき広野の村へ下りでございます」
なんかと与吉、この道は始めてのくせに例のとおり知ったかぶりをして、
とふしぎな
白い乾いた路上の土に、大の字なりふんぞりかえっている
思いきや! 泰軒蒲生先生の出現!
顔いろを変えた与吉が、おののく手で各務房之丞の
と、
軍之助の
「なんじゃい、こいつ!」
「
「かまわず踏みつけて通れや!」
などとグルリ取り巻いてどなりかわしていた剣鬼のやからをぴたッと制する。
急落した沈黙。
容易ならぬ漂気!――と見て、早くも二、三、せわしく刀の柄ぶくろを
が!
この暴風雨のまえの
グウグウ……と一同の耳底に通うかすかないびきの声、
むさ苦しいぼろから頑丈な四肢を投げ出して、半ば口を開けている無心な寝顔に、
それを包んで、中村の剣群も眼を見あわすばかり、軍之助はじめほか一同、黙って足もとの泰軒をみつめている。
いつ
かれは。
二本松の町に一夜を明かして、その夜なかに与吉が脱出したことを知るやいな、いく先はどうせわかっている相馬中村――ただちにその足で先まわりして、道なき道を走って飯野を過ぎ、それから川俣、山中の
眠くなれば、どこででも寝る泰軒は、日のひかりを背いっぱいに受けて登ってくるうちに睡魔にとりつかれ、今ちょうど山坂の真ん中にひっくりかえって、ひとねむりグッスリとやらかしている最中だった。
そこへ!
思い設けないこの出会い……月輪の
はじまるナ! と
どうしてどうして、彼はさっきから薄眼をあけて、まわりに立ち並ぶ足の数から人数を読みとろうとしているのだが、
「おお、コレコレ与吉、松島みやげにたくさん泥人形を仕入れて参ったな。だが、惜しむらくはどれもこれも不細工、ウフフフフ都では通用せん代物じゃて……」
と言いおわるを待たず、それッ! 軍之助が声をかけたのが合図。
パァッ! と円形が拡がると同時に飛びこんで来た秋穂左馬之介、かた足あげて、泰軒がまくらにしている一升徳利を蹴った――のが早かったか、一瞬にしてその脚をひっつかみ
とまれ、それはほんの刹那の出来事だった。
間髪を入れない隙に、あッ! と人々が気がついたときは、左馬之介の身体は岩石落とし……削りとったような大断面を
あとには、一
けれど! 驚異はそれのみではなかった。
とっさのおどろきから立ちなおって、すぐに泰軒へ目を返した月輪組は、いつのまに奪ったものか、そこに見覚えのある左馬の愛刀を抜きさげて、半眼をうっそりと突っ立っている乞食先生のすがたを見いださなければならなかった。
自源流奥ゆるし水月のかまえ……。
しかも、あの秒刻にして左馬を斬ったのだろうか、泰軒の
凄然たる微笑を洩らす泰軒。
きらり、きらりと月輪の士の抜き連れるごとに、
「なんじは、これなる町人を江戸おもてよりつけ参った者に相違あるまいッ!」
と、月輪軍之助、泰軒の直前に棒立ちのまま
「…………」
泰軒は無言。ほお髭が風にそよぐ。
「おのれッ!
言いかけて、軍之助は声を低めた。
「いままた、同志秋穂左馬之介の
そして!
その氷針のような言葉が終わったかと思うと、さアッ! と一層、月輪の円形が開いて、あるいは谷を背に、他は丘にちらばり、
とともに! 一刀流正格の中青眼につけた岡崎兵衛、めんどうなりと見たものか、たちまち
「えいッ」
はらわたをつんざく気合いを走らせて拝み撃ち!――あわれ泰軒先生、不動のごとく血の炎に
とたん!
払われた兵衛は、自力に押されて思わずのめり足、タッタッタッ! 掻き抱く気味にぶつかってくる。そこを、踏みこたえた泰軒、剣を棄てて四つに組む――と見せて、
が、寸時を移さず泰軒には、こんどは門脇修理を正面に、左右に各一人、三角の剣尖を作っていどみかかっている。
危機!
……とは言い
「うむ!」
と!
これに釣りこまれたか、それとも羽毛の隙でも剣眼に映じたものか、右なる刀手、殺気に
太刀風三寸にして
濡れ手拭――あれを両手に持って激しく空に振ると、パサリ! という一種生きているような異様な音を発する、人体を刀断する場合に、それによく似たひびきをたてると言われているが全くそのとおりで、いま水からあげたばかりの
チラ! とそのさまに眼をやった泰軒、
「すまぬ。――南無阿弥陀仏」
さすがは名うての変りもの、じぶんが
白昼の刃影、一時にどよめき渡って、月輪の勢、ジリリ、ジリリとしまると見るや、一気に
夜ならば火花閃々。
ひるだからきなくさい鉄の香がいたずらに流れて、あうんの声、飛び違える土けむり、玉散る汗、地に滑る血しお……それらが混じて一大殺剣の気が、一刻あまりも山腹にもつれあがっていた。
はじめのうちつづみの与吉は、小高い斜面の切り株に腰をかけて、たかみの見物と
やがて。
こうなってみると、せまくて足場のわるいのが、何よりも
なむさん! 遅れては大変! と与の公もころがるようにつづいたが、
追おうともしない泰軒。
ニッとほくそ笑んで、
まぐろのようにころがっている
それに、最初
泰軒先生、死人の血を筆へ塗って、三と帳づらへ書き入れた。
中村を進発のとき、軍之助を筆頭に各務房之丞、山東平七郎、轟玄八ほか二十七人、〆めて三十一名だった相馬月輪組は、木戸の峠の剣闘に秋穂左馬之介等三人を失って二十八人、それでも与吉を案内に水戸街道の宿々に泊りを重ねて、きょうの夕刻、こうしてたどり着いたのが助川の
木戸以来、泰軒の消息はばったりと途絶えて、いくら振り返っても影も形も見えないから、月輪の一同、
あの時は地の利がわるかったために思うように働けなかったが、充分な広ささえあればあんな乞食の一人やふたり、またたく間に
助川、江戸まで、四十一里半。本陣鰯屋の広土間。
ドヤドヤとくりこんで来た月輪組の連中は、ただちに階上の二間をぶっ通して借りきって旅の汗を洗いにただちに風呂場へ駆けおりる者、何はさておき酒だ酒だとわめくもの、わるふざけて女中を追いまわす者――到着と同時にもう家がこわれるように大にぎわい。
何しろ若年の荒武者が二十八士も剣気を帯びての道中だから、その
あまりの騒動に宿役人が出張して来て、身がら、いく先などを
あとには。
気を許した一同が、五、六十本の大小を床の間に
旅中はおのずから無礼講、それに、何をいうにも若い者のこととて大眼に見てかあきらめてか、それともあきれたとでもいうのか、剣師軍之助はこの
いつしか話題が泰軒へ向いて、
「力はあるが、大した
「何をぬかしくさる! おれは、きゃつの
「さようでございます。どうもあのとおり乱暴な乞食なんで、見ておりましても手前なんかは胸がドキドキいたしますが、でもまあ、皆さまというお強いお方がそろっていらっしゃいますので、このところ与の公も大安心でございます、へい」
「そうとも! そうとも! 何があっても町人はすっこんでおろ!」
「なんともはや、その言葉一つが頼みなんで――ま、ま、一ぱい! 酒は
などと、与の公までがしゃしゃり出てきて、いい気になって酒盃のやりとりを続けているところへ!
ミシ! と天井うらの鳴る音!
まだ日が暮れたばかり。おまけに下はこの宴席、なんぼなんでも
と、一同が期せずして話し声をきり、飲食の手をとどめて、思わずいっしょに天井を仰いだとたん!
パリパリパリッ! と、うずら目天井板の真ン中が割れたかと思うと、太い
あっけにとられて口をあけたまま見あげていた月輪の剣豪連、それッ! というより早く、算をみだして床の間の刀束へ殺到する。
その間に、天井裏の怪人、脚から腰と下半身をのぞかせて、いまにも、座敷の中央へ飛びおりんず気配!
うわさをすれば影とやら――泰軒先生の意外な登場。
与吉は?……と見れば、逃げ足の早いこと天下一品で、もう丸くなって
秋穂左馬之介以下二名のとむらい合戦!
と思うから、このたびこそは討たずにはおかぬと、一刀流月輪の門下、軍之助、房之丞を、かしらに冷剣の刃ぶすま、ずらりと大広間に展開して、四方八方から一泰軒をめざし、
夕まけて戸内の
灯りが何よりの命とあって、泰軒の出現と同時に、気のきいた誰かが燭台を壁ぎわへ押しやって
そのなかに、
まん中のひらきに突っ立った泰軒、やはり貧乏徳利を左手に右に左馬之介から奪った彼の一刀をぶらりとさげて、夢かうつつの半眼は例によって自源流水月の相……。
降ってわいたようなという形容はあるが、これはそれを文字どおりにいっていかさま降ってわいたつるぎの暴風雨――こうしてかれ泰軒が、突如助川いわし屋の天井から天降るまでに彼はいったいどこにひそみ、いかにして月輪組をつけて来たか?
あれほど意をくばってきたになお尾行されているとは気がつかなかった……という月輪一同の不審ももっともで、ちちぶの深山に鹿を追い、猿と遊んで育った郷士泰軒、彼は自案にはすぎなかったが、
だからこそ、江戸でも、警戒厳重な奉行忠相の屋敷へさえ、風のように昼夜をわかたず出入するくらい、まして、自然の利物に富む街道すじに、多人数の一団をつけるがごときは、泰軒にとっては朝めしまえ、お茶の子サイサイだったかも知れない。
かくして。
一行にすこし遅れ、混雑にまぎれていわし屋の屋根うらへ忍びあがったかれ、いまその酒宴の真っただなかをはかってずり落ちてきたのだ。
泰軒の足もと近く、朱に染まった手に
ビックリ敗亡、あわてふためいたのはいわし屋の泊り客に番頭、女中、ドキドキ光る奴が林のように抜き立ったのだから手はつけられず、とばっちりをくってはたまらぬと、一同、さきを争って往来へ飛び出したのはいいが、なかには、
この騒乱に地震と思って、湯ぶねからいきなり駈け出して出た女が、ひとり手ぬぐいを腰にうろうろしているのを見かけると、抜け目のない奴で、じぶんの荷だけはいっさいがっさい身につけ、担ぎ出したつづみの与の公、すばやく走りよって合羽を着せる、履物をやる、ごった返すなかでそのいきとどくこと、どうも
果たして、
それはさておき――。
おもて二階の剣場では。
これに端を発した刃風血雨。
ものをも言わず踏みこんだ泰軒、サアッと敵の
とたん!
またしても入った不動の状。
せきれいの尾のようにヒクヒクと
往来に立ってワイワイさわいでいる人々の眼にうつるのは。
二階の障子に烏のように乱舞する人影と人かげ……。
と! 見る間に。
その障子の一枚を踏み破って、のめるように縁の廊下に転び出た
が、おなじ瞬間に
利剣長閃、障子のやぶれを伸びて来たかと思うと、たちまち鮮血
「あッ
と万兵衛、肩口をおさえて、がっくりそのままらんかんに二つ折れ、身をささえようとあせったが、肥満の万兵衛
「ザ、残念! ざんねんだッ!」
と、ふた声三声くち走ったのが断末魔、地に長く寝て動かずなった。
二階の
こわいもの見たさに刻々あつまってくる路前の人出も、あアレヨアレヨ! と叫びかわすばかりで、なんとも手のくだしようがなく、女達なぞは、一太刀浴びたらしい
代官はじめ宿役の衆は、この剣戦を知らぬ顔にいったい何をしているか?――というに、広くもない村うち、彼らといえども識らぬではない。が、一段落ついて危険が去ってから出動するつもりで、いまは、ヤレ身仕度だ、それ人数だ、とできるだけ暇をとって出しぶっているのだ。
さてこそ、これほどの騒動にまだ御用提灯の見えぬわけ……。
そのうち。
群集のひとりが頓狂な声を張りあげて、
「火事だアッ!」
と叫んだ。
然り! 火事も火事、一瞬にして勢いさかんな烈火の舞いだ。
蛇の舌のような火さきがメラメラと障子をなめ畳にひろがってまたたく間に屋根へ吹き抜け、天に
折あしく
家財をかついで右往左往逃げまどう町民、わめきかわす声、
その、烈火の影、黄色く躍る
今宵の乱闘にまたもや敗けをとりながら、こうしてそれでも歩は一歩と江戸へ近づく相馬中村の剣群月輪の勢、路傍の
はるかに小手をかざせば助川の空はいちめんの火雲、近くの
あの焦土の中心にあっては、いかな泰軒先生もついに一握の灰と化したろう……という想定はもってのほか!
ちょうど月輪の連中が途上に休んでいるころおい、
「あ! ここにも一つ死んでおるぞ! これで三人、いや、下の道に落ちたのがひとり、合計今夜は四人の収穫か。ワッはっはっは!」
と、眉毛に火のつくなかで自若たる泰軒、ふところをさぐって取り出したのは殺生道中血筆帳の一冊、
すけ川の宿にて四人也。
トップリと書きこみながら、念仏とともに一句浮かんだ。
「春浅しほだ火に赤き鬼四つ……南無阿弥陀仏」
こうして二十四名に減って助川をあとにした月輪軍之助の一行はつづみの与吉をみち案内にたて、その夜のうちに石神までたどりつき、
雨。
そして風。
一山、ごうッと喚き渡って、
「こりゃたまらぬテ!」
「ひどい吹き降りになりおったな」
言いながら水を越す用意。
広い河原だ。
黒い石が
右は、遠く荒天にそびえる
ひだり、
それへ向かって、狭い浅い鞍川の河水が岩角をかんで白く咲きつつ押し流れているのだ。
うしみつ。
「よいか! 集まって渡れや!」
「浅いが、水が早いで、足をとられんようにナ、みんな気をつけて
口ぐちに叫びあいつつ、残士二十四の月輪の援隊、
さきに立っていた山東平七郎がみつけたのだ。
平七郎、河のまん中にピタッと急止し、大手をひろげて背後につづく同志を制しながら、一同またかッ? とばかりに刀をかまえてゆく手をのぞくと……何もない。
ただ、黒い河水の表面に、
「なんじゃい? あれは」
「
「芥のかたまりぞ! わっはッは、山東殿の風声こりゃ笑わせるテ」
それでも連中、念のためにしばらく立ちどまってみつめていたが、なるほど、富士川みず鳥の羽音、平家ではないがとんだ臆病風と哄笑一番、ふたたび水中に歩を拾って進もうとする!
いきなりつづみの与の公が、ブルブルガタガタとふるえ出した。
……も道理こそ……!
声が聞こえる。
「ア、これこれ与吉、待っておったぞ! よい湯加減じゃ。背中をながせ、せなかを流せ」
というように。
しかもそれが
「来ぬかッ! しからば当方より出向くぞッ!」
と同時!
今のいままで
九つの生命でもあるものか。いつのまにやら先まわりして、先生、さっきからこの夜ふけの鞍川につかって待ちぶせながら、のんきに行水と
全くの不意うち!
おまけにたびたびの出会いに泰軒の秀剣を見せつけられ、すっかりおじけだっているから苦もない。蜘蛛の子のようにのがれ散る影を追って、泰軒、水煙とともに川に二人を斬りすてた。
門脇修理ほか一人。
そして与吉を先に、軍之助が風雨に狩られ余数をあつめて、水戸街道を江戸の方へ走りつつあるとき、泰軒は、岸の小陰から衣類とともに例の
今その、泰軒愛蔵の殺生道中
おもてに血痕くろぐろと南無阿弥陀仏の六字。それから木戸の峠の三、助川宿の四人、鞍川の二と本文がはじまって、かくして江戸へ着くまでに。
笠間の入口でまたひとり。
若芝の野で三人。
江戸の五里手まえ、松戸の往還で再び一人。
しめ十四名を血載した帳面を
武江
柳さくらをこきまぜて、都は花のやよい空、
三日は桃の節句。雛祭り。白酒。
四日。
江戸の西隅、青山
青山長者ヶ丸の
いつの世に何人が
堂の四隣に樹木多く、呼んで
あたかもよし、花見月のおまつり日和。
武家屋敷に囲まれたたんぼの奥に、ふだんはぽつんと島のように切り離されて見える子恋の森だが、きょうは遠く下町から杖を引く人もあって、見世物、もの売り、人声、それらの音響と人いきれが
森のなか。
荒れはてた御堂をとりまいて、
村相撲がある。紙で作った
片隅には、二十七、八のきれいな女が、
「これなるは、
と、見ると、いかにもこれが安房帯右衛門殿であろう、一匹の痩せこけた青大将が、白い女の頸に襟巻のようにグルリと一まき巻きついて、あまった鎌首を見物のほうへもたげ、眠そうな眼をドンヨリさせている。
女の足もとには、あまり大きからざる
やがて女が、頸の蛇をとって地面へおろすと、帯右衛門も岩太夫もそこは稼業だけあって心得たもので、
「オオ兄イ、どうせ八百長だ、やんわり頼むぜ」
ぐらいのところであろう。いっこうおもしろくないので、立合いの衆は
むこうでは
おででこ芝居合抜き。
わあッと人浪が崩れ立ったと見れば、へべれけに酔っぱらった何家かの
その群集におされて、逃げるともなく小走りに、堂わきのあき地へ駆けこんだ若侍[#「若侍」は底本では「若待」]ひとり。
が、その顔!
女にしても見まほしいというが、これはまさしく女性の眼鼻立ち! 服装かたちこそ変わっているが、まぎれもないあの、いまの麹町三番町土屋多門の養女となっている、行方不明のはずの
それがりんたる若ざむらいの
亡父の姓を取って小野塚
「さあサ、いらっしゃアイ!」
木戸番が塩から声を振りしぼった。
板囲いに吊るした
五文の木戸銭は
かたなの手品だけに見物人は男が
すっかり武士になりすましている弥生は、
口上人が、エエ、これに控えまする唐人は
唐人劉。
みんなはじめは猿かと思った。
いや、猿にしては大きすぎるが、とにかく、これが世にいう一寸法師か、七、八歳の小児の
平たい顔に、冷たい細い眼、ひしゃげた鼻、厚いくちびる――人間離れのした
まれに見る怪物!
おびえた子供が、片すみで! ワッと火のつくように泣き出すと、劉はそっちを見てニコニコしている。
割りに気はいいらしいので、皆もいささか安心して、すこし浮き足だったのが、またソロソロ舞台のほうへつめかけ出すと、
「唐のお女中の悪血が
そこで、お化けの劉さん、チョンと
舞台の片側に戸板が立てかけてあり、それにピッタリ背をつけて十二、三の女の児が直立する、と、数十本のピカピカ光る小剣を手にした劉、その少女から三間ほど離れた個所に足場をえらんで、小刀の柄を先に、
一刀を放つごとに、やッ! やッ! と叫ぶ劉、長い腕をぶんまわしのごとく
まるでたたき大工が釘を打つように、またたくまに光剣をもって少女の輪郭を包んでしまった。
茫然としている見物人のまえで、娘がソッと板から離れると、大手をひろげた少女の立ち姿が、つるぎの外線でくっきりと板のおもてに画かれている。
商売商売とはいえ、しんから感嘆に値する入神の技芸!
娘と劉がちょっと手をつないで軽く挨拶をしたとき、
が、弥生はすでに、何か思うところあるらしく、かたい決意に顔を引きしめて、そそくさと人を分けつつ小屋を出かけていた。
堂の裏手から森の奥へ一条の
それからまもなく。
その小みちをすこしはずれた草むら、昼なお暗い杉木立ちの下に、ふたつの人影が一つに固まり合って何事かささやいていた。
「さればじゃ、あまりに
こう言いかけているのは、男の声こそつくっているが、確かに弥生の小野塚伊織に相違ない。
それに答えていま一人が、
「なんのお前様、唐人の
つぶやくような
とすれば。
唐人劉の正体は日本人も日本人、じぶんで名乗るとおりに甲州無宿山椒の豆太郎。
さてこそこの豆太郎、亀背の一寸法師にはちがいないが、あのりっぱな黒毛の衣を脱ぎ捨てて顔のつくりを洗い落としたところ、ただ珍妙な男というだけで、さして身の毛のよだつほどの人柄でもない。
が、底が割れれば割れたで、それだけ小さくのっぺりとしているのが変に無気味でもあり、また、一朝手裏剣をとっては
甲府生れの豆太郎は、怖ろしい片輪のうえに
何を思いついてこんな変わった太夫と膝を組んで語る気になったものか、とにかく弥生は、演技を終えて汗を拭きながら出て来た劉の豆太郎を見て、さては己がにらんだとおりであったかと微笑を禁じ得なかった。
毛縫いを脱して今眼のまえにしゃがんでいる豆太郎は、舞台の劉さんとは全く別人のようで、はじめから弥生が看てとったごとく日本人の無頼漢だったからだ。
三尺あまりの身体に状箱を縛りつけたような
しかし! かれ豆太郎に一梃の小刀を与えよ!
空
その豆太郎が、ふんべつ臭く小さな腕を組み、凝然と耳をすましていると。
あるいは
とんだ
その間、どんな話題がいかに展開していったことか――。
ここでいささか振り返ってその後の弥生をたずねるに。
……それは、彼女が櫛まきお藤につれられて瓦町の栄三郎方を訪れ、お艶とともに一夜を雨のような涙に明かし、そして戸外には、両女の涙に似た雨が音もなく煙っていたかの思い出の明け方だった。
思い出のあけぼの?
そうだ。あの日を最後に、女としての弥生は、成らぬ
その生みの悩みは?
思い出はなおもつづく――。
恋は、強い者を弱くし、弱いものを強くする。
あの小雨の夜から、弱いお艶が急に強いこころに変わって栄三郎への愛想づかしを見せだしたように、つよい弥生は、にわかによわい処女に立ち返って、悲恋の情に打ちのめされた彼女、
夜来の雨に水量ました神田川の流れ。
どどどウッ! と、岸の石垣を洗って砕ける暁闇の水面。
浅草橋の中ほどに歩みをとどめて何心なく欄干に
明けやらぬ空。
まだ眠りからさめぬ大江戸の朝は、うらかなしい
魔がさす。
……とでも言おうか、こういうとき、嘆きをもつ人のたましいにふと死の影が投げられるものだ。
橋のうえの弥生に、眼に見えぬ黒い翼の
かれは弥生の耳へ誘いの言葉をささやく。
雨滴のひびき、河の水音を、弥生は、死の甘美をうたう声と聞いたのだった。
死神はまた弥生に、眼下の水底を指さし示す。
そこに弥生は、渦をまく濁流のかわりに百花繚乱たる
死を思う心の軽さ――それは同時に即決をしいてやまない。
きっとあげた弥生の顔を、雨がたたいた。が、彼女はもう泣いていなかった。かすかに開かれた弥生の口から、亡父と栄三郎の名が吐息のごとく洩れ出た……と思うと、
「お父さま、弥生もおそばへ参ります!」
と一言! 死神の
ことの起こるや、起こるべきいわれがあって起こる……この場合がちょうどそれだったと言ってよかろう。
ときしもあれ、棒鼻をそろえて、突風のごとく橋上を疾駆し去った五梃の山駕籠があった。
筋骨たくましい六尺近いかご
あとを見ると弥生の姿がない!
さてはついに飛びおりて神田川の
と言うに。
危い弥生をみとめて、走りざまに
弥生はすでに気を失っていたが、それは真に間髪を入れない早わざであった。
その証拠には。
こうしてその朝、あの本所鈴川方の斬りこみから引きあげて来た五梃駕籠が、エイハア! の[#「エイハア! の」は底本では「エイハア!の」]掛け声も鋭く角々を折れ曲がって、大戸をあけはじめた町家つづきを駈け抜けること一刻あまり、トンと鳴って底が地についてみると、ゾロゾロとはい出た五人の火事装束――そのなかに、
が、この、細雨の一夜を剣戦にあかして、しののめとともに
そして、いまその落ち着いたところはどこか?……この青山長者ヶ丸子恋の森を近くに望む、とある陽だまりの
乾坤をねらう火事装束は、今また弥生のいのちの恩人である。そのあいだにいかなる話しあいができあがったものか、同じ日より弥生は、過去のすべてとともに
ほどなく浅草橋の上で弥生のはいて出た足の物が発見され、当然弥生は身を投げて死んだこととなり、養父
然り! 弥生は死んだのだ。が、その変身小野塚伊織は、人に知られず生きている。
その、生きている弥生の伊織、いま子恋の森で何ごとか語り終わって、ちょっと相手の一寸法師を見やると、
「ヘヘヘヘ、何もお殿さま、取って食おうたア言いやしめえし、急にそんなに気味わるそうになさるものでもござんすまいぜ」
「うむ。なに、いや、ただ気がせくのだ」
と弥生はできるだけ男のように大きくどっしりとかまえて、
「そこでどうだ? 仕事はまずいま申し聞かせたようなことだが、一つ拙者らと行動をともにして力をかしてくれる気はないか」
「さようですね」
仔細らしく首をひねった甲州無宿山椒の豆太郎、いろいろと心中に思案しているのかも知れないが、異様な眼色が依然としてなでるように、すんなりとした弥生の胴から腰のあたりを這いまわって離れないから、弥生はいっそう警戒しつつ、
「むりかも知れんが、拙者はその侠気を見こんで頼み入るのだ――どうかその手裏剣の妙術をもって拙者ら一味のために思うさま働いてくれ……」
「へえ。剣のほうじゃア本職のおさむれえさんに、そうまで厚くおっしゃられるたア、この豆太郎めも果報者で――へえ、このとおりお礼を申します」
「いや、いや、礼なぞ……受けてもらえば当方からこそ言うべき筋だ。いかがであろう、即答が得られれば幸甚なのじゃが」
「なあに、自分の口からこんなことをいうなあ変なもんだが、親の
「存じておる。存じておればこそ、かくまで膝を屈して願い入るのじゃ」
「さあ、そこだが……」
「なあ豆太郎どの、それほどの剣技をもちながら、あのような獣皮をかぶって唐人
「おっと! 待った! おことば中ながら、あの
「馬のしっぼ! ははははは、なおさら悪いではないか……ま、さようなことはさておき、ここはどうあっても助力に預りたい。たっての頼み――そちの剣能が所望なのじゃ。いかが?」
「困るなあ、そう急に攻められても、なにしろ殿様、あっしにとっちゃアまるで足もとから鳥の立つようなはなしなんでねエ」
「そこをなんとかいたして……」
「むりでさあ、どうも、あっしゃア小屋に縛られている身で、自分で自分のからだがままにならねえんだから」
「逃げろ!」
と強くささやいて弥生は人をはばかってあたりを見まわした。
堂のむこうに祭りのさざめきが沸きたつばかり――すこし離れたここらはひっそりとして人の気もない。
ハラハラと落ち葉が、ふたりの肩にかかる。
「ヘヘヘヘヘ、そりゃアおっしゃるまでもなく、これまでにだって再三逃げ出したことがありやすがね、どこへひそんだってこの不具じゃアすぐ眼についてひき戻されるんで……」
「よし! あくまで拙者らに
「して、あっしの仕事てえのは、さっきおっしゃったあの人殺し稼業――」
「コレ、声が高いぞ! うむ、その代価として金銀は望み
「うんにゃ、
太夫のいないもぬけの殻へ、それとは知らずに必死に人を集める唐人
こちらは二人。小暗い細みちを突っきると、森かげに生け垣をめぐらしたささやかな
「
弥生が、白い指をあげた。
庭の木かげにチラと人らしいものの形をみとめたのは、
夜の、かれこれ五ツ刻だったろう。
本所法恩寺ばし前の化物屋敷、
その最中に、仙之助はちょっと
竹の濡れ縁づたいに用をすまして、その帰りだった。
一枚しめ残した雨戸のあいだから
子供!――とも見れば見られる、それに、長い両腕をだらりと地にさげて、背中を丸く前かがみに立ったところ、気のせいか、仙之助には猿のようにも思えて、かれはわれにもなく驚愕の声を放つところだった。
が、さてはおのれ
ふしぎなこともあるものだと仙之助は首をかしげたが、酒の席へそんな話を持ち出したところで一笑に付せられるばかり、かえって自分が臆病なように聞こえるだけだと、彼は座へ戻ったのちも、この庭前に見かけた奇怪な影法師について何一つ言わなかった。
酒気と煙草のけむりでむせかえりそうな部屋に。
着いてまもなくまだ客分扱いされている月輪軍之助、
そして、酒。
骨ばった真赤な顔が、やぶれ行燈の灯にたぎるがごとく映えかがやいて、なるほど、化物やしきの名にそむかない。それは
「こら源十! いやさ源的! やい鈴源、源の字……なんとか言えい! ウははははは」
援団来着して上々機嫌の剣怪左膳、乾雲丸を引きつけて源十郎に眼を据えながら左手に杯をつきつける。
「のめエ! 乾坤ところを一にする
「うむ。めでたいのう。このとおり飲んでおる」
源十郎、いささか迷惑げな
にもかかわらず、左膳は、もうまわり兼ねる舌でどなるように、
「ナア与力の鈴川、オッと! 法恩寺の殿様、おれも弥生てえ娘のことはスッパリ思いきって、これからは夜泣きの刀の件にだけ精根をうちこむつもりだから、貴公も友達甲斐にお艶をあきらめて、終りまで俺に力をかしてくれヨ。今まで途中で俺と貴公とが変に仲たがいになったのも、みなあのお藤の離間策であった。じゃによっておれもこんどこそはお藤を捨てる。いやもう棄てたのだ。この片輪もの、なんで浮世の女に用があろう! ははは、万事わかった、わかった! だからだ、な、源十郎、貴様も女を二の次にして刀に腕貸ししてくれるだろうな?」
「言うまでもない! 貴様がお藤のみならず弥生まで忘れると申すなら、源十郎も武士、りっぱにお艶への心を断って、およばずながら、雲竜二刀の剣争に助力いたすであろう……」
「その一言、千万の味方を得たよりこころ強うござる」
と月輪軍之助がここへ口をはさんで、
「ところで、かの泰軒とやら申す乞食でござるが――」
こうして、着く早々何度となく蒸し返された蒲生泰軒のうわさ……随所随所に出没して悩まされた血筆帳の話がまたも出てくると、
「どうも皆々様のまえですが、あのこじき野郎と来ちゃあ金魚の
与吉がしたり顔に膝をすすめる。
「金魚の乾物とはなんだ?」
誰かがきいた。
「へえ。煮ても焼いても食えませんでございます」
これで、ドッと嵐のような哄笑が一座をゆるがせたが、そのなかで、笑いもしない源十郎と左膳。互いに探るようなすばやい視線がちらと合って、すぐ
恋する丹下左膳のこころが弥生に向いている一事と、また取持ちを約した鈴川の殿様に違約された恨みとから、さまざまに智恵を
そのために一時は、左膳と源十郎そりが合わず、左膳は、源十郎に報復心を抱いて本所の家を出てお藤の隠れ家に彼女との
と、して……。
かの、乾坤二刀がそれぞれ
自ら訴えておいて後から左膳を救い出し、それを恩に、一晩にしろ左膳とともに住んで、かたくなな愛欲を満たしたかの大姐御櫛まきのお藤、目下は、江戸おかまえの身にお上の眼がはげしく光っているので、しようことなしに例のあなぐら、暗い地下の隠れ部屋に左膳の思い出を抱いて独り
一方左膳と源十郎は。
ともにそこはかとなく吹きまくる御用風が身にしみて、いつ十手捕縄が飛んでくるかも知れない不安から、再び互いに固い助力を誓いかわし、源十郎は
いま。
隻眼隻腕の丹下左膳、右頬の刀痕を皮肉な笑みにゆがめて――雲竜二剣のために、お藤はもとより、最初乾雲丸といっしょにわが手に入れたはずの弥生への横恋慕をも、スッパリと断ちきるという。
それに応じて源十郎は。
しからば自分はお艶を思いきって、ともどもに夜泣きの刀へ全力を傾注しよう! こう力づよく言下にいい放ったものの。
言葉はことば。
お藤のことはとにかく、左膳、よく弥生を諦め、また源十郎がお艶を忘れ得るであろうか……?
この相互の疑惑にとっさに打たれた両人、思わず相手を見定めんと、鋭い眼光をはたとカチ合わせた時に、源十郎は左膳の独眼のなかに弥生を、左膳は、源十郎の顔のうえにハッキリとお艶をみとめたが、上をいって急ににっこりした源十郎、
「いや、今までのところはわしがあやまる。
「あははは、左腕のおれに右腕とは、源十、なかなかもって味をいうわい」
「いや、それは物の
「ナニ、気にするどころか、俺たちのあいだはそんな他人行儀のものじゃあねえ、あれア心からありがてえと思っているのだ。なあ月輪氏、そうではないか」
ときかれて、与吉その他とともに泰軒の
「ささささようでござるとも。い、いかにも丹下殿の仰せらるるとおり――」
といつになくどもって答えると、その口つきに左膳は、主君大膳亮を思い出したらしく、
「……さぞお待ち兼ねのことであろう、いや、なんかと手間どり申しわけござらぬ」
珍しく四角ばった言葉になりながら、
「アア乾雲が夜泣きをする! 竜を呼んで泣くのだ。ソレソレこの声が御一同には聞こえぬかな」
と左手に陣太刀を
大御番頭だった父宇右衛門のころは、登城をしたから馬も馬丁も抱えていたけれど、その時分すら下女は二人しか使わなかったのに、
乾雲を盗み出したのはこの婆だ! と思っても、左膳は源十郎の手前もう何も言わずにいる。
酒と見てわっと歓声をあげる一同を制し、左膳が、
「軍議! かの火事装束五人組との対策もあるで、この談合すましてから、また一杯やるとしよう」
こう言い終わったとたん!
土生仙之助がサッ! と顔色を変えたかと思うと、突如庭奥の
この酒盛りの最中に、ふしぎ! 空を裂いて庭から躍りこんだ一ちょうの短剣、あっというまに灯に流れて、グサッ! と月輪軍之助の胸板に突っ立った……と見えた瞬間!
ばちイん! と音して見事にくだけ散ったのは、ちょうど軍之助が口へ運ぼうとしていた
飛剣は、そのさかずきを微塵に割って、軍之助の上身に酒を浴びせ、余勢、うすい着物の肩をかすったばかり、そのまま背後の畳に落ちて刺し立った。
瞬間、凍ったような
と思うと、おおうッ! と一同恐ろしいおめき声をあげて、めいめい大刀を手に、もうはじかれたように起ちあがっていた。
そして、
「奇怪! 何奴ッ!」
と、乾雲の柄をたたいて
夜は
どの方角から短刀が飛んで来たのか……その見わけもつかず、一同、勢いこんだ力のやり場に困って、いささか拍子抜けのまま、なおも、かたなにかけた
「いや、おのおの方、お笑い召されることと思って申さなかったが、さっきかしこらと
というささやくような土生仙之助の言葉に。
子供――というのが、場合が場合だけに、深更ひとしおの妖異じみた恐怖を呼んで、化物屋敷の連中われにもなく思わず
またもや、ビュウッ!
と、唸りとともに一隅から風を切って飛び来たった小刀一本、今度は
ひいいい……ッ! と、気管の破れから、梢を渡る
これより先。
やみに浮かぶ離室に
が!
ここぞと思うあたりへ行ってみると、無!
はてナ? と抜刀をさげた一同が、きょろきょろあたりを見まわしていると、近くにあたって、
「うふ、ふふふ……」
と陰にこもる含みわらい。
「おぬし、いま笑ったか」
「いンや。笑ったのは貴公だろう?」
「違う。誰だ、笑ったのは?」
がやがやと問いあっているところへ!
二間と離れない草むらから猿のように黒い物がとび出したかと思うと、長い手が一振するが早いか燐光ふたたび流星のごとく
「ふはははは!」
笑いを残して、小さな影はすっ飛んでゆく。
「
と面々、それッとばかりに追おうとするや、室内にとどまっていた左膳、源十郎、軍之助の三人が、口ぐちに叫んで皆を呼びあげた。
そして、何事か――にわかに
みなの目が好奇に光るまえで、左膳、
御身ら二十名は順次にわが手裏剣の的 也。
何者からか殺剣とともに送られた「フン! きいたふうな真似をしやがる!」
と吐き出すように苦笑した左膳、不意におちた沈黙の底で、なみいる頭数をかぞえ出したが、いま
猿をつれた猿まわしのような弥生と豆太郎が、遠く鈴川の屋敷をあとに走っていた。
火事装束一味のまわし者!
これが、
が、それにしてもあの、小児とも野猿ともつかない怪人物の手裏剣
しかし、世にいう
手裏剣神妙剣などといって、一に本朝剣法の
こうなると、この手字の手のうちから出る剣だから手裏剣と称するわけで、いかさま剣道の
しかるに、ただいまのかの投げ手は……?
身みずから剣心をこころとする刃怪左膳だけに、かれは相手を
「世の中は広いものだなあ……ウウム! かかる名人がひそんでいたのか」
と、今さらながら敵味方を越えて、左膳はしんから微笑みたい気にもなるのだったが! 二度、
御身ら二十名は順次にわが手裏剣の的 也。
という脅迫の文を読み返すと、なんとなく左膳、いずれ近い機会に、おのが左剣とこの手裏剣とちょうちょう火花を散らして相撃つべくさだめられているように思って来て、彼は、ほの暗い行燈のかげに一眼のきらめく顔を、敵意と憎悪に燃えたたして振りあげた。この左膳の気を
着府と同時に、ほとんど挨拶がわりに左膳から
その結果。
乾雲を
ここでは、鈴川源十郎である。
熟議の座にあって、終始黙々と腕をこまぬいていたかれ源十郎は、はたして外見どおりに自余の者とともに乾坤一致の計に脳髄を絞っていたであろうか――というに。
大いに然らず!
いまの先、お艶の儀はキッパリと相忘れ申した! などとりっぱな口をたたいたその舌の根も乾かぬうちに、もう彼の全部を支配しているのは、かつて心を離れたことのないわだかまり、あの、過日おさよに約束したまままだ渡してない五十両……お艶を栄三郎から奪うための手切れ金の才覚だった。
で、しばらくは交際に、神妙に首をひねると見せかけていた源十郎が、今宵の手裏剣にちと心当りがござるから――とうまいことを言って、とめるのもきかずに化物屋敷の自宅を出てゆくと、あとには離室の一同、
その夜の闇黒は、源十郎のこころだった。
真っ黒に塗りつぶされたような入江町の往来を、ふところ手に
で、思案投げ首。
五十両……五十両と心中にうめきながら、
どこからか梅の香が漂ってきている。
早春の夜のそぞろ歩き。
とは言うものの、五百石旗本の身で五十両の
花町の角を曲がって、竪川にかかる三つ目の橋。
それを渡って徳右衛門町から五間堀へと、糸に引かれるようにフラフラと深川の地へはいっていった。
抜けるように白いお艶の顔と、山吹いろの小判とがかわるがわる
おさよ婆を死んだ母御にそっくりだなどと
左膳の刀争いなぞ、もはや彼の思慮のいずくにもない。
あるのはただ、金のみ、五十両! 五十……。
五百石取り天下のお旗本に、たったそれだけの工面がつかぬというのはまことに不思議なようだが、つねから
四年まえに五十両借りたきりになっているが、なにしろ隈井の伯父はお広間番の頭、役得が多くしたがって工面がいい。泣きついていったらもう五十ぐらいなんとかしてくれるかも知れぬ。
そうだ、一つ
いや! よそう、よそう!
そういえば去年の盆前にも一度二十両しぼり出しに行ったことがあったっけ。
あの時、いやにお世辞がよく、たんと御馳走をしてくれたのはいいけれど、そのもてなしの最中に、伯父のやつこんなことを言いやがった――実はナ鈴川、昨年わしの知行が水かぶりで二百石まるつぶれになってしまった。が、まあ、お役料二百俵あるから、それでどうやらこうやら内外の入費をやってのけたけれど、そういう訳でまことに勝手向きが不如意だ。ついてはいつぞや用だてた五十両の金、全額といったら貴公も迷惑だろうから、どうか半金ばかり入れてもらいたい……とこう、真綿で首を締めるように、丁寧に催促されては、そこへこっちから、また二十両拝借ともきりだしかねて、なるほど、それではいずれ近日調達して返済いたします――と、俺は汗をかいてそこそこに逃げ帰って来た。
ああ先手をうたれてやんわりやられちゃアかなわない。まったく
と源十郎。
自分こそ親類じゅうの
しんから途方にくれた鈴川源十郎が、五十両に魂を失って操り人形のように、仙台堀から千鳥橋を渡って
月のない夜は、うるしのように暗い。
ふとゆく手にあたって
「なあに大丈夫でえ。踏みアしねえ」
来かかった町人ていの男ふたり……。
源十郎、自分で気がつくさきにもう片側の土塀に背をはりつけて、鼠絹長襦袢の袖をピリリと音のしないように破り取るが早いか、すっぽり頭からかぶって即座の覆面……汗ばむ手のひらを衣類にこすり
江戸の通客粋人が四畳半
ふかがわ。
柳はくらく花は明るきなかに、
人も知る、後世
さきごろからお目見得に住みこんで来ていた若い美しい女があったが、容貌といい気性といい申し分ないとあって、この四、五日親元代りの大工伊兵衛と話しあいの末、きょうはいよいよ身売りの相談がなりたち、女は夢八と名乗ってまつ川から出ることになり、大工の伊兵衛は、今夜その金を受け取って
こうしてやぐら下のまつ川からあらわれた新顔の羽織衆、夢八。
この夢八こそは、当り矢のお艶、というよりも、諏訪栄三郎の妻お艶が、ふたたび浮き世の浪に押され揉まれて、慣れぬ
それは。
弥生と乾坤二刀のためにわれとわが恋ふみにじって栄三郎を離れて来たお艶、泰軒に守られて江戸のちまたをさまよい歩いたのち、泰軒は彼女を、もったいなくも大岡越前様に押しつけて、与吉を追って北国の旅へたってしまった。
そのあとで越前守忠相は。
正道に
といって、もとより帰る家なきものを追い出し得る忠相ではなかった。ましてや、これは泰軒から預かっている大切な身柄である。で、このうつくしい荷物にはさすがの南のお奉行さまもいろいろに頭をひねったあげくふと思いついたのが、ちょうどそのとき屋敷の手入れに呼ばせてあった出入りの棟梁、日本橋
伊兵衛棟梁は、もと南町奉行の御用をつとめたこともあって、手先としても、
ほかならぬお奉行様の命に二つ返辞で引き受けた伊兵衛、ただちにお艶をつれて、銀町の自宅へ戻る。
はしなくも大岡様をおそば近く拝んだうえ、種々御下問にあずかって、雲と竜ふたつ
うちに帰ってよくお艶を見なおした伊兵衛は、その世にも
気兼ねのないようにされればされるほど、さきが届けば届くにつけ、いづらいのが他人の家。
朝ゆう狭い肩身のお艶は、いっそここで思いきって芸者にでも出れば、第一、ひろく人に会い、したがって口も多いから、この日ごろ気になってならぬあの弥生さまの行方にもひょっとしたら手掛かりがあろうも知れぬし、自分をねらう本所の殿様へは何よりの
けれどそれも、愛想づかしの
こうした泣き笑いに似た気もちから、大工伊兵衛を親元として、みずから
そうして今宵――。
そうして今宵……。
はじめて
身売りの金は、いずれ足を洗う時の用意にもと固い伊兵衛がそのまま預かって、まつ川と字の入った提灯を借り、弱子の新助を連れて河むこうの銀町へ帰って行ったのは、月のない夜の
さんざ
夢八のお艶が伊兵衛を送ってまつ川の門ぐちへ出たときは、さしも北里のるいを
そとへ出るとすぐ、伊兵衛は夢八を押し戻すようにした。
「いや、お艶さん――、じゃアない、もう夢八姐さんだったね、はははは、ここでたくさん、夜風はぞっとします。
「はい。何からなにまでお世話さまになりまして、お礼の言葉もございません」
「オッと! そんな固ッ苦しいこたアよしにしてもらおう。大岡様の御前様にゃ、わしからよく申しあげておくがね、お艶さん、お前さんなら大丈夫とにらめばこそ、あっしもこんなところへお前さまを預ける気になったんだから、イヤ、そこらに抜かりはあるめえが、世間にア馬鹿が多いからあっしも駄目を押すんだけれど、――いいかね、ひょんな間違いのねえように、これだけはくれぐれも頼みましたよ」
「ハイ。それはもう……」
「そうだろう、そう
「アアそうだ! そういえば、きょうここへまわる前に出羽様へうかがったんでしたね。あそこのお作事でお受け取んなすった小判三十両、あれは御隠居所のお手付けでございますか」
「何を言やがる! こんどの請負は二千三百両。近えうちに前金が千両さがる。それでなけア大工の足留め金を出すことができねえ」
「へえ? 豪勢な御普請ですねえ。じゃアあの三十両がなんのお金で!」
「あれは正月の手間の払い残りがあったのをくだすったんだ。ホラ見ろ、丸にワの字、松平出羽守様の
と、その出羽守様のしるしをうった小判とお艶の身売り金とをいっしょに
しょんぼりと一人、まつ川の戸をくぐって部屋へ通ったお艶。
変わった姿にともすればもよおす涙が、今夜はひとしお過ぎ来し方ゆく末などへ走って、元相馬藩士和田宗右衛門というれっきとした武士の娘がなんの因果か芸者などに身をおとして! と耐らぬ自嘲の念が沸き起こる一方、考えてみれば、ついこの間まで水茶屋をかせいでいた自分、当り矢のお艶が夢八になったところで大した変りもないではないか。
ぼうっと眼で追うなつかしい栄三郎さまの
そして、鈴川様にいる母さよのこと。
くずれるように坐ったお艶が、夜さむに気がついて、肩をつぼめながら、もうあの伊兵衛さんと新どんは永代を渡ったころだろう――と思うともなくこころに浮かべていたやさき!
ドンドンドン! 割れんばかりに表戸をたたいて、
「まつ川さん! お艶さん! タタ大変だアッ! 棟梁が……」
狂気のような新助の声だ!
新助は、白痴のように取り乱して口もきけなかった。
ブルブルと
ただ一言!
「棟梁が……棟梁が、そこの横町で
それなり新助、ベッタリとまつ川の格子ぐちに崩れて、自分が
この死人のような新助をうながして先に立て、お艶の夢八とまつ川の男衆とが宙を飛んで現場へ駈けつける。
と!
銀町の大工の棟梁伊兵衛、暗い路の片側に仰向けに倒れて、足を溝へおとしたまま、手に小砂利をつかんで
場所は、永代橋へ出ようとする深川相川町のうら、お船手組屋敷の横で、昼でも
傷は一太刀。
ひだり肩口から乳下へかけてザックリ……下手人はよほど一流に達した武士であることに疑いを入れない。
やがて
つい先ほど。
「じゃアお艶さん、こんどあっしアお客で来るぜ。ちったあ線香を助けさせてもらおう。ははははは、ま、ごめんなさいよ」
と、例の
あの声音がまだ耳の底に残っているのに、今はもうこんな姿になって!……とお艶、この驚愕の真っただなかにあって、うつし世のはかなさといったようなものがしみじみと胸を侵すのだった。
人に
丸にワの字の極印を打った松平出羽守様お払下げの小判三十枚と、お艶がまつ川の夢八と身をおとしたその代とがない!
兇刃、伊兵衛と知ってか識らずにか、または、かれが暗夜大金を所持して帰路についたことを見定めてのうえか否か――?
ようよう人心地ついた新助が、わななく口で話すところはこうだ。
「棟梁といっしょに、わたしがまつ川さんで借りた提灯で足もとを照らしながらここまで来るてえと、そこの塀にくっついていたお侍さんがヌウッと出て来て、待てッ! と言いました。灯りで見ると、黒の覆面をして刀の柄に手をかけています。背の高い着流しの方でした。棟梁はああいう人ですから、黙って立ちどまりましたが、あっしが胆をつぶして逃げ出そうとしますと、その侍がヤッ! と叫んで刀を抜こうとする
新助のいうところはこれだけだ。
なるほど、持って出た提灯が、なかば焼け、土にまみれ落ちている。
しかし、近くのどこを捜しても、ぬげた覆面はもとより、何ひとつ手懸りらしいものはみつからなかった。
新助が走って、日本橋銀町へ知らせると、帰りを案じていた
未明……の雨。
お艶はその足ですぐ、まつ川の男衆とともに辻駕籠をやとって、外桜田の大岡越前守お屋敷へ、おねむりを妨げるのもかまわずに訴え出た。
あかつきかけて降りだした時節はずれの
大岡様へ急の御用!――とあって女の身ながらも木戸木戸を許されたお艶、数丁さきで駕籠を捨てて、あとは裾をはさんで裸足になり、湿った土を踏んで、バタバタバタとあわただしくお裏門へかかると、
「この夜ふけに何者だ? なんの用で参った?……おお! 見れば若い女のようだが」
御門番の士がのぞいてみて不審がお。
「はい。実はいそぎを要しまして、駈込みのおうったえでございます」
狼狽したお艶が、こう懸命に声を張りあげると、門内の士はいっそう威猛高に、
「黙れ、だまれッ! 駈込みの訴えならば、夜が明けてから御奉行所へ参れッ、南のお役所を存じておろう、
と、今にも、ピシャリ、
番士のほうにも理屈はある。
南町奉行所の前へ行くと、腰かけが並んで願い人相手方というのがズラリ並んでいるが、そのむこうに見えるお呼び出し門、これが開いたとみるや、ドンドン素足でとびこんでゆく。すると門番がいて、差し越し願いは取り上げにならん、帰れといって突き放す。そこをもう一度走りこむ。そうすると今度は、訴え事があるならば
言うまでもなく、これはすべて、お役所での法外の法なのだが――。
が、しかるに今。
お艶は、お役宅の門をたたいて駈込みの訴えだといったから、相手はここいらにふさわしからぬなまめかしい女のことだし、門番も、奇異の感とともに面倒に思って、雨中ではあり、さっさとひっこんでしまいそうにするので、
「アノ、ちょっと殿様の御存じの者でございますが……」
お艶が言いかけるが、
「ナニ? 御前がお前
「いえ。わたくしではございません。お出入りの大工
「ナ、なに? あの伊兵衛が……?」
とびっくりした御番士、伊兵衛ならば自分もよく知っているから、まだ夜中ではあるが、取り急ぎその旨をおつぎの間にひかえた御用人伊吹大作を通して申しあげると、
オ、あの老人の大工が? それは! とこれも驚いた大作、かみにはおやすみではあろうが、ひとまずごようすをうかがって、もしお眼覚めならば
仰天した伊吹大作、
「おのれッ! 無礼者ッ!」
閃光、男の胸部を狙ってツツウ! と走った。
突如くり出された槍さきを、グッと胸もとに押し流した奇傑泰軒。
「わッはっはっは、夜中忍んで参ること数十回、いままで誰にもみつからなかったが、今夜こそは見事に現場をおさえられたぞ。アッハッハ」
と、同時に、あっけにとられた大作に、忠相の声が正面からぶつかっていた。
「控えろッ大作! これなるは余の親友、名は言われんが大奥
むかし伊勢の山田でも、忠相は泰軒を千代田の密偵に仕立てて手付きの者のまえをつくろったことがあるが、今また、大奥隠密! という忠相とっさの機知に、徳川家を快しとしない武田残党の流士蒲生泰軒、燭台の灯かげにいささかくすぐったそうな顔をなでていると、何も知らない大作は、思わぬ失策にすっかり恐縮し、カラリと槍を捨ててその場に平伏した。
「いえ、ソノ、いつお越しになったかも存ぜず、それに、あまり変わった
「うむ……なんじの寝ぼけ眼に映じたのであろう?」
忠相も、笑いをこらえている。
「はッ」
「かわった
「はっ。まことにどうも」
「一応声をかけて然るべきに、余と対談中の方へ槍を向けるとは
「なにとぞ平に御容赦……お客さまへも御前からおとりなしのほどを」
「
と泰軒は、うまくバツを合わせながらおかしいのをおさえた。
「今後気をつけるがよい」
ポツリと言った忠相、
「何か用か。聞こう」
「は」と始めてお艶の訴えを思い出した大作、ズズッと膝を進めて、
「
「何? 伊兵衛と申すと大工の伊兵衛か――して、いかにしてそう早く
「
「
「は、いかにも女子。なれどどうして御前には……」
「越州殿は千里見通しの神眼じゃ。たえずかたわらにあって御存じないとみえるの」
泰軒が口を挟む。大作はしんから低頭した。
「恐れ入りましてござりまする」
いたずら気にニッコリした忠相。
「呼べ」
「は?」
「その女子をこれへ呼び入れるがよい」
「ハッ」
立とうとする大作を、忠相の言葉がとめていた。
「訴えて参った女というのを、わしが一つ当てて見せようか。まず年若、
「実はその、手前もまだ引見いたしませぬが、取次ぎの者の口ではどうもそのようで――」
「それに相違ない。連れて参れ」
いよいよ
泰軒は、血筆帳の旅から帰府してまもなく、今夜また例によって庭からはいりこんで、相馬からの路を
大岡様へ申しあげる前に伊兵衛は
万事にとどく大岡さま……。
小者を派してそれとなく伊兵衛方を探らせると、遊んでいては気がめいるから型ばかりに芸者にでも出して月日を早く送らせようとしているという。宴座に侍るだけならそれもよかろう。堅人の伊兵衛のすることだから間違いはあるまいと、忠相は最初から知って見ぬふりをしているのだった。
いまそのことを泰軒へ伝えている時にこの訴え――。
黙っていると、かすかに雨の音が聞こえる。
「
何か詩の一節を忠相が口ずさみかけた拍子に、パッと敷居に明るい花が咲いたように、お艶がうずくまった。
「お艶どのか」
「お! 泰軒先生もここに!」
おどろくお艶へ、忠相はしずかに顔を向けて、
「雨らしいの」
と、淡々として他のことをいう。
「たいへんでございます。伊兵衛さまが
「うむ。いま聞いた」
泰軒は平然と
「いつのことかな、それは」
「っい先ほど……」
「場所は?」
「はい。深川の相川町、こちらから参りますと、永代を渡ってすぐの、お船手組お組やしきの裏手、さびしい往来でござりました」
「ふうむ。それで
「はい、アノ」と恥ずかしそうなお艶、「わたくしが身を売りましたお金と、それからなんでも出羽様からとかいただいた小判が三十とやら――」
「ほほう!」
眼をつぶって聞いていた越前守忠相、急に何ごとか思い当たったらしく、
「出羽殿の金とか? すりゃ極印があるはず。丸にワの字じゃ。すぐ出るわい。たどって元を突きとめればわけなく
「いえ、ところが……」
お艶はこの大事に、えらいお奉行さまの前をも忘れて、自分ながら驚くほどスラスラと言葉が出るのだった。
「ふむ。ところが……と言うと、何者か
「はい、伊兵衛の
「コレコレ、新どんとは何者だ?」
「新助と申しましてお弟子の大工でございます。その新助さんがいいますには、なんでも相手はお役人だったそうでございますが……」
「何を申す!」
突然、威儀を正した忠相、いくぶん
「上役人とな?」
「はい」
「黙れッ!」
「――――」
「不肖といえどもこの越前が奉行を勤めおるに、その下に、追い落としを働くがごとき不所存者はおらぬぞ! たしかにその者、じぶんは役人であると申したというか?」
「いえ、あの、決して初めからそう申したわけではございませんそうで、どうもお役人らしかったし、あとからその人もそう言ったという新どんのはなしでございます」
「
泰軒がこう横あいから口を出すと、忠相はジロリとそのほうを見やって、
「これは、貴公にも似合わぬ。最初からおれは上役人だが……と自ら名乗ってこそ故意に役人をかたったものとりっぱに言い得るが、今も聞いたとおり、
「あッ!」かえってお艶のほうが大岡様から知らされるくらいで、
「おっしゃるとおりでございます。申し忘れましたが、初めは覆面をしておりましたそうで、それが抜け落ちて顔を見ますと、どうやらお役人……」
「そうであろう。曲者は、覆面で足りれば役人顔はしとうなかったのじゃ。それが、顔を見られて役人とふまれたればこそ、自ら役人に似ておることを利用したのであろうと思われる。フウム、いよいよ常から役人らしき風俗をいたしておるものの所業ときまった! めあては金子! ははあ、一見役人とまがうこしらえの者が金につまっての斬り
泰軒を顧みた忠相の
「役人……と申すと、与力か」
「さよう。八丁堀、加役のたぐいであることは言うまでもあるまい」
「役人に似た侍が追いおとし――コウッと、待てよ……」
首をひねった泰軒、即座に思い起こしたのは去秋お蔵前正覚寺門まえにおける白昼の出来ごと!
「おお! アレか!」
と口を開こうとした泰軒、忠相、急遽手を上げて制した。
「名は言うな! 先方も
狐につままれたようにお艶がキョトンとしていると、忠相と泰軒、やにわに大声を合わせて笑い出したのだった。
春とは言え。
まだ
雨後の庭木に露の玉が
ぼちゃりと池に水音がはねると、
日例のあさの散策。
遠くの巷は、まず騒音に眼ざめかけていた。
射るような太陽の光線が早くも屋根のてっぺんを赤く染めはじめて、むら雀の鳴く声がもう耳にいっぱいだ。
が、忠相は、朝日や雀とともにこの新しい一日をよろこび迎えるには、あまりに暗いこころに沈んでいるのだ。
大工伊兵衛の横死――。
それがかれの
一町人が邪剣を浴びて
――おそかった。
――手ぬかりだった。
忠相はこうしみじみと思う。
いずれはかかることをしでかすやつとにらんで、とうからそれとなく見張っておったに……早く
申しわけない!
さまざまのよからぬ
事実、
それなのに自分は――まだまだ、もう少し現に先方から法に触れてくるまで……手をこまぬいて待っているうちに、暴状ついに
この忠相が、手を下さずして殺したようなものとも、いえばいえようも知れぬ。
アアア、手おちであった……とおのれを責めるにやぶさかならぬ忠相が、ひとり心の隅々を厳正のひかりに照査して、すこしなりとも陰影を投げるわだかまりに対しては、どこまでも自らを叱って法道のまえに頭を垂れ、悔いおののいていると、
この、
「黒か、わしは馬鹿じゃったよ。大馬鹿じゃったよ。おかげで人ひとり刀の
黒は、喜ばしげに振り仰いで……ワン!
「おお、そちもそう思うか」
わん! ウアン、ウウウわん!
「はははは、おれをののしるか? うん、もっともっと罵倒するがよい!――奉行いたずらに賢人ぶるにおいては……ううむ! いや、たしかにわしの過失であった」
と忠相は、ただ一工人の死がそれほど心を悩まし、さかのぼってまで彼の責任をたたかずにはおかないのか――? 傍で見る眼もいたいたしいほど苦しんでいるのだ。
ほとんど
いささかも自分と、じぶんの職責をゆるがせにできない冷刃のような判別、それをいま忠相はわれとわが身に加えているのだった。
忠相の忠相、越前の越前たるゆえん、またこれをおいて他になかった。
「これヨ黒! 貴様に弁当を分けてやりおった伊兵衛の仇は、この忠相には、すでに鏡にかけて見るがごとく知れておる。安堵せい。近く白洲に捕縄をまわして見せるが、まず、丸にワの字の極印つき小判が出るまでは当分
と忠相、いま黒犬が走り去ったのも気がつかず、しきりに話しかけているが、何におびえてか黒は、池のかなたの植えこみに駈け入って、火のつくように吠え立てる声。
洗面のしたくでもできてお迎えに来たらしく、はるか庭のむこうを若い侍女が近づいてくるのが見える。
忠相は、侍女の足労をはぶくために、もうさっさとこっちから歩き出していた。
「あの、先生……」
朝日の影が障子に躍りはじめると同時に、いま、大岡様のお座敷を出て来たお艶、泰軒のうしろについて、二人がお庭の池に沿うて植えこみの細道に来た時、こうためらいがちに声をかけたのだった。
例によって
お艶は立ちどまった。
「先生!」
「なんじゃな?」
答えながら、かぐわしい朝の日光のなかに初めて、お艶のすがたを見た泰軒居士、一歩さがってその全身を見あげ見おろし、今さらのように驚いている。
そこに、泰軒の眼に映っているのは、あさくさ瓦町の
夜来のおどろきと気づかいに疲れたのか――
大きな眼が、泰軒の凝視を受けて遣り場もなく、こころもちうるんでいた。
一雨ごとのあたたかさ。
その雨後のしずくに耐え得で悩む
そういった可憐なものが、物思わしげに淋しい、なよなよと立つお艶のもの腰に、
この
――芸者になった……のか!
これもよくよく考えあぐみ、身の振り方を思案しぬいたすえであろうが、芸者に! とはまた思いきったものだ。
それも、源十郎の爪牙から自らを守るため。
ひとつにはいっそう栄三郎をあきれさせ、あきらめさせるあいそづかしの策であろう――ウウム、いっそおもしろかろう! が、ただ……。
つとお艶は顔を上げた。
「先生! つ、艶は、こんな
「いや! はずるどころか、美しくて結構じゃ、うう、これは皮肉ではない。今も、しんからそう思って見惚れていた、ハハハハ」
「お口のわるい……」
「しかしナ、どこで何をしようと、あんたは栄三郎どのの妻じゃ。それを忘れんように、栄三郎殿になり代わって泰軒がこのとおり頼みますぞ。稼業とはいえ、万一おかしなことでもあったら、仮りに栄三郎殿が許しても、この泰軒が承知せんからそのつもりでいてもらいたい」
「アレ先生、そんなことは、おっしゃるまでもなく艶は心得ております」
「それさえわかっておれば、わしも何も言うことはないが――」
と急に声を低めた泰軒、
「お艶どの、何か
「はい」
お艶はもう
「アノ、わたくしはいつまでも辛抱いたしますゆえ、どうぞ栄三郎様のほうを――」
「はははははは、お艶どの、このわしを泣かしてくれるな、はははは」
泰軒は、むりに笑って顔をそむけた。
その耳へ、何ごとかを訴えるがごときお艶のつぶやきが、低く断続して聞こえてくる。
意味の聴きとれない泰軒、腰をかがめてお艶に顔をよせ、しばらくは、なにかしきりにうなずきながら聞いていたが、
やがて、鬚だらけの顔がにっこりしたかと思うと、泰軒先生、喜色満面のていでそりかえった。
「うむ! そうか、そうか。やアめでたい! そりゃア何より……ワッハッハッハ! 早う栄三郎どのにしらせてやりたいが、今はそうもなるまい。しかし、でかしたぞ、お艶どの! あっぱれ、あっぱれ」
そして、なぜか火のようにあかくなっているお艶をのぞきこんで、泰軒先生ひとりで大はしゃぎだ。
「男か女か」
「まあ先生、そんなことが――」
お艶が袂に顔を隠して、身体を曲げていると、泰軒、筋くれ立った指を折って、
「一と月、ふた月、三月、ヨウ、イイ、ムウ……」
「あれッ! 先生、嫌でございますッ!」
真赤になったお艶が叫ぶようにいった時、忠相のそばを離れてとんで来た黒犬が、何か感ちがいして、やにわに足もとで吠えたてたのだった。
この
筆をもって紅く彩色した人物画を売りはじめ、これをべに絵といって世に行われ、また江戸絵と呼ばれるほどに江戸の名産となって広く京阪その他諸国にわたり、べに絵売りとて街上を売りあるくものもすくなくなかった。
同時に、
享保のころ、べに絵の筆をとって一流を樹てていたのが名工
で、いま。
その当時江戸の名物べに絵売りなるものの風俗をみるに……。
あたまは
京町とか、しののめとか書いた提灯散らしの模様をいっぱいに染め出した
それに、浪に千鳥か何かの派手な小袖。
風流
そして、その箱の上に、天水桶から格子戸、
後年はおもに女形の卵子や、
とはいっても。
どうせ女子供を相手に街上に絵をひさぐ商売である。
それこそしんとんとろりと油壺から抜け出て来たような容貌自慢の
世は泰平に
雨あがりの朝。
外桜田の大岡様お屋敷をあとにした泰軒とお艶に、うららかすぎて、春にしては暑いほどの陽のひかりがカッと照りつけ、道路から、建物から、草木から立ち昇る水蒸気が、うす
お江戸の空は
一日の生活にとりかかる巷の雑音が混然と揺れ昇って、河岸帰りの車が威勢よく飛んでゆく。一月寺の
親しい心のわく朝の街である。
途中何やかやと話し合いながら
こっち側はお高札、むこうは青物市場で、お城と富士山の見える日本橋。
その橋づめまで来ると、泰軒はやにわに、
「あんたのいるところはやぐら下のまつ川といったな。ま、いずれそのうちには
と、じぶんの言うことだけいったかと思うと
まあ! いつもながらなんて気の早いお方!――ひとりになったお艶は、いささかあきれ気味にしばし後を見送っていたが、これから帰途に銀町へ寄って悔みを述べていこうと、急に足を早めて
いまは、
お座敷帰りとも見える姿で、ちょうど
ちらとかなたの町を見やったお艶片足を土間に思わずハッといすくんだのだった。
べに絵売りの若い男がひとり、朝風に絵紙をはためかして歩いてゆく……江戸街上なごやかな風景。
「栄三郎どのか、ちょうどよいところへ戻られたナ。あがらんうちに、その足で
野太い泰軒の声が、まっくらな家の奥からぶつけるようにひびいてくる。
「あずき……」
と思わずきき返して、いま帰って来た栄三郎は、背にした荷を敷居ぎわにおろした。
浮き世のうら――とでもいいたい瓦町の露地裏、
お
今夜もまた
……小豆をすこし買ってこいというのだ。栄三郎は、手探りでべに絵の木箱をおろすと、もう一度のぞきこんでたずねてみた。
「小豆を――? もとめて参るはいとやすいが、なんのための小豆でござる?」
すると泰軒、暗いなかでクックッ笑い出した。
「アハハハ、知れたこと、赤飯をたくのだ」
「赤飯を? 何をまた思い出されて……しかし、
「なに、赤飯と申したところで
「ほう!」
と軽く驚いた土間の栄三郎と家の中の泰軒とのあいだに、
「ホホウ! 泰軒どのが小豆飯を御所望とは、何かお心祝いの儀でもござってか――?」
「さればサ、ほんのわし個人の悦びごとを思い出しましてな、あんたとともに赤飯を祝いとうなったのじゃ。お嫌いでなければつきあっていただきたい。きょうのべに絵の売上金のなかから小豆少量、
「いやどうも、細い儲けを割くのは苦しゅうござるが、ほかならぬ先生の御無心……」
と栄三郎も、
「殊には、先生のお祝い事とあれば拙者にとってもよろこびのはず。承知いたした! 小豆をすこし、栄三郎、今宵は特別をもってりっぱに
笑いながら、風流べに絵売りの
泰軒のために? ではない。
今朝ほどお艶から、彼女が、まだ生まれ出ない栄三郎の子を感じていると聞かされた泰軒、こうしてないしょに、ただそれとなく赤の御飯を炊いて栄三郎に前祝いをさせる気なのであろう――。
ガタピシと溝板を鳴らして、栄三郎の跫音が遠ざかってゆくと、泰軒居士、いたずららしい笑みとともにむっくり起きあがった。
「うむ! とうとう小豆を買いに参ったな。話せばどんなによろこぶかも知れぬが、今はまだ心からお艶どのを憎み恨んでいる最中、そのためかえって苦しみを増すこともあろうから、こりゃやっぱり、黙って、何事も知らせず祝わせてやるとしよう。どりゃ、そうと決まれば、こっちもそろそろ受持ちの飯炊きにとりかかろうかい」
ひとりごちながら、火打ちを切って手近の行燈に灯を入れる。
その黄暗い光に、ぼうッと照らし出された裏長屋の男世帯……。
乱雑、殺風景を通りこして、じっさい世にいうとおりうじくらい生きていそうな
お艶が家を出たあと、栄三郎がひとりで自炊していたところへ、相馬の旅から帰った泰軒がズルズルベッタリにいすわりこんだから、その無茶苦茶な朝夕、まことに思い半ばにすぎようというもの。
紙屑、ぼろ布、箸茶碗、食べかけの皿などが足の踏み立て場もなく散らかり、
勝手もとで、不器用な手つきで米をとぎだした泰軒先生、思い出してはしきりに、
「ウム! めでたい! こりゃあめでたいぞ!」
ひとりでさかんにめでたがりつつ、泰軒、ふとあがり口のべに絵木箱に、眼を留めて、
「オオ! きょうはだいぶ売れたようだな。ありがたい――」
栄三郎が、小豆を買って来たらしい。露地に、あし音が近づいていた。
早い月の出……。
下りきった夕ぐれの色が煙霧のようにただよって、そこここの油障子から黄色な光線の筋が往来に倒れている。
どこかの鐘の音が遠く空に沈んで、貧しい人々の住む町は、宵の口からひっそりとしていた。
たたき大工の夫婦、按摩、傘張りの浪人者、
いま、小豆を買って帰る途中の栄三郎、露地へはいろうとして、角の酒屋の灯火を全身に浴びるといつものことながら、はッとして足のすくむのを覚えた。
みずからのすがたである!
湯島あたりのかげまか、
ものもあろうに風流べに絵売りとしての自分には、たとえそれが世を忍ぶ仮りの
何事も! 何ごとも……と常にみずからをおさえてはいる。が、こうしたものさびしい早春のたそがれなど、ひとり路を歩いていると、いったい今この道を踏んで行ってどこへいき着くのか? わが身の末はどうなのであろうか? 自然とかぶさってくる暗い考えが、眼に見えぬ
弥生様のほうはお艶ゆえに断ちきった。
ことすべておのれに不利。
真の闇黒――そういった気がモヤモヤとわきたって来て、ちょうど
この若い、そして若いがゆえにねばりのすくない栄三郎の心をひきたたせて、そばから怠らずはげましているのが、
お艶の去ったのち、栄三郎はお艶の思い出とともにひとりさびしく瓦町の家に暮らしていたが、かれはいよいよお艶のこころが遠くおのれを去ったことと思いこんで、その不実無情を嘆き悲しんだのも
もちろん、ここはそうなくてはならぬところ。世の栄誉順境のすべてを犠牲に、ともに誓い誓われたお艶ではないか。どこにどうしているかは知らぬものの、やはり栄三郎の胸ふかくお艶を思う念の消えぬのはむりもなかった。消えぬどころか、相見ぬ日の重なるにつれて、四六時じゅう栄三郎の心にあるのはお艶のおもかげ
と栄三郎、こうして戸外をあるいていても、お艶恋しやの情炎にかりたてられて、さながら画中のよそおいの美男風流べに絵売り、もの思いに深くうなだれて、暗い裏町の小路をトボトボとたどってゆく。
だが! この美男のべに絵売り!
一朝、つるぎを抜いては神変夢想の遣い手、しかも日中しょい歩く絵箱の中に関の孫六の稀作、夜泣きの刀の片割れ陣太刀づくりの坤竜丸を秘して、その艶な眼は、それとなく
離れれば夜泣きする二つの刀……それは取りもなおさず、別れていて夜泣きするお艶栄三郎の身の上であった。
栄三郎は、そういう気がする。
黙想のうちにわが家の門口まで来たかれ、そのままはいりかけた足をとめて、ふと露地のむこうの闇黒をすかし見た。
何やら黒い影がふたつ、逃げるように急ぎ去っていくのだ。
ひとつはどうやら若侍のうしろ姿。だが、つれとみえる他のかげは?
小児か?……それとも野猿のたぐい?
栄三郎、思わずギョッ! として眼をこすった。
大小二つの人影!
ひとつは煙のごとく、他は地を這うように、たちまち消え失せたと見るや、栄三郎は、追いかけようとした身の構えをくずして家内へはいった。
飯のふきこぼれるにおい。
泰軒の大声。
「うわアッ! いま
帰るやいなや、栄三郎も手伝って、ふたりの男がてんてこまいを演じたのち、ようように小豆も煮えて、どうやら赤の御飯らしいものができあがる。
台所道具から夜具蒲団まで勝手放題に取り散らかした真ん中で、両人さっそく
くらい行燈の灯かげ……。
無言のうちに箸をとる。
ふと栄三郎が気がつくと、むこう側の泰軒正座して眼をつぶり、しきりに何かを念じているようす。
ははあ、今宵は心祝いがあるといって小豆めしを炊いた、それを祈っているのであろう――とは思ったが、栄三郎は聞きもしなかったし、泰軒もまた黙ったまますぐ食事にかかった。栄三郎がこの赤の御飯を食べさえすれば、かれが知る識らぬにかかわらず、やがては身ふたつになる、お艶への前祝いと観じて、泰軒はそれでこころから満足しているのだった。
だんまりをつづけて食事がすむ。あと片づけは栄三郎の役目。
泰軒は手枕、ゴロリとそこに横になった。
そして、栄三郎が水口で皿小鉢を洗う音をウツラウツラと聞きながら、ひとり何ごとか思いめぐらしている。
しいんと世間はしずまりかえって夜の呼吸が秘めやかに忍びよってきていた。
蒲生泰軒……。
かれは、かの殺生道中
と同時に。
敵の眼をくらましてその裏をかく方便として、泰軒が栄三郎にすすめたのが、この、風流べに絵売りの変装であった。
泰軒が味噌をすれば、栄三郎が米をとぐ。栄三郎が水を汲めば泰軒先生が箒を手にする。が、
「アレ! きれいなべに絵さんだこと!」
はすっぱな下町娘や色気たっぷりの
が、しかし!
家にある泰軒先生が一日じゅう蒲団をかぶって奇策練想に余念のないごとく、
背にした箱の脇差坤竜!
それはやがて乾雲をひきつけるよすがである。
――こうして泰軒先生と栄三郎との奇妙な生活のうえに、こともなく日が重なって来たのだったが!
それが今朝!
日本橋銀町伊兵衛棟梁の家の前で、お艶はべに絵売りの栄三郎を見かけた……けれど、栄三郎は気がつかずに通り過ぎてしまった。
風流べに絵売りの栄三郎と、芸者夢八のお艶と――そのたがいに変わった姿に泣いたのは、だからお艶だけだったのである。
いま……真夜中近い
突如ムックリ起きあがった泰軒、何を思い出したか、
「栄三郎どの、だまってついて来なさい」
とひとりサッサとはやもう戸口におり立っていた。
すっかり浪人風に返った栄三郎、
「ね、伊織さん、
小の影――山椒の豆太郎、チョコチョコ走りに追いつきながら、こう声を忍ばせた。
人通りのない、両国広小路である。
月のみ白く、町は紺いろに眠っていた。
その、小石さえ数えられる明るい
そのうしろ姿から眼を離さず小野塚伊織の弥生、同伴の豆太郎を顧みて答えるのだった。
「うむ! 殺すはもとより、どちらにも怪我があってはならぬ。そちのその手裏剣をもって、ほどよくおどかしてくれればよいのじゃ」
豆太郎は、グルリと帯のあいだにさしつらねた十幾つの短剣をなでながら、にやりと笑った。月光がその顔にゆがむ。
「むずかしい御注文ですね。いっそひと思いにやっちまえというんなら骨は折れませんが、傷をつけねえようにおどかせなんて、こいつア少々……」
「そこが豆太郎の手腕ではないか」
いいながらも弥生は、前をゆく二人をみつめているので、そばの豆太郎が、これはいささか
月しろと夜露。
あとの、豆太郎と弥生のふたりも、戸をおろした町家の軒下づたいに、見えがくれにつけていくのだが、深夜の無人にすっかり安堵してか、泰軒も栄三郎も一度も振り返らないで、忍びとはいえ、半ば公然なのんきな尾行。
もう四つ半をまわったろう。中央に冴え返る月が、こころもち東へ傾いて、遠街を流す按摩の笛が細く尾を引いて消える。
脚が短いので、ともすれば遅れがちの豆太郎、ベタベタと草履を鳴らして弥生の横へ出た。
「どこイ行くんでげしょう、あいつら?」
「まあ――どうも方角が
「たつみ? フウッ、乙ですね」
「そうかナ。方角が辰巳だと乙ということになるかな」
「しらばくれちゃアいけませんぜ。失礼ながら殿様なんざア男でせえふるいつきてえぐらいいいごようすだ。ねえ、女の子がうっちゃっちゃアおかねえや。さだめし罪なおはなしがたくさんごわしょう。だんまりで夜道を
「たわけ! 黙って歩け!」
「へ? するてえとなんですかい、それほどの男ぶりでまだ女を――てエのは、ハテ! 変だな!」
「ナ、何がへんだ?」
弥生の声には、早くも警戒の気が動いている。豆太郎は笑いほごした。
「いえ、なあに、こっちのことで……ただね、ただ殿様にゃア
ギラリと凄い光が、豆太郎の眼尻から弥生の横顔へはねあがる。
弥生は、大きく口を開けて
「見ろ! きゃつら両人、いよいよ深川へはいりおるぞ! さ、すこし急ごう」
「いそぐのはいいが、こうして
「さきは拙者のいうとおりにしろ」
と足を早めると、なるほど、泰軒と栄三郎は、もう
この夜ふけに、いずくへ?――いくのだろう?
心中にはいぶかしく思っても、栄三郎はべつにたずねもせず、また泰軒も話そうとはしないで、瓦町を出てから口ひとつきかずに押し黙ったまま、ここまで来たのだ。
栄三郎、ちと迷惑げに眉をひそめていると、ぼろ一枚に貧乏徳利の泰軒先生、心得がおにブラリブラリと先に立つ……。
何かは知らず、早くから弥生につれられ、青山長者ヶ丸子恋の森のふしぎな家を出てきて、宵の口いっぱい瓦町に張りこんで今あとをつけて来た豆太郎も、弥生とともにすこし遅れてついてゆくのだが。
一寸法師、おまけに亀背で手長の甲州無宿山椒の豆太郎、すくなからず勝手がちがってキョロキョロしている。
ただこうして先刻夕がた、べに絵売りとまで身をやつしている栄三郎のあらぬ姿を見た弥生、こころいたんでやまないのはぜひもなかった。
三月二十一日より四月十五日まで
山開き客も女も狂い獅子。
これは山びらきに
この期間、別当のお庭見物差しゆるす。
別当は、大栄山永代寺金剛神院。
鎌倉鶴ヶ岡八幡宮に擬して富ヶ岡八幡といい、社地に二軒茶屋とて、料理をひさぐ家があったことは有名なはなし……。
――さて、
ちょうど今がその山びらきお庭拝観の最中で昼は昼で申すもさらなり、夜は夜景色見物と、そのまた見物に出る
樹間の灯籠が光線の魔術を織り出し、そこここの焚き火の余映を受けて人の顔は赤い。
木の下やみに隠れてつれを驚かそうとする職人、ふくべをさげた隠居、句でも案ずるらしくゆきつ戻りつする大店の主人てい、肩で人浪を分けてゆく若侍の一隊、左右に揺れて押しあいへしあい笑いさざめいてくる町のむすめ達……人を呼ぶ声、ひるがえる袂、騒然とうす闇に漂う跫音――、
夢のなかで、もう一つ夢を見ているような、それは夜霧もまどやかな人出の宵であった。
そこへ、月が昇る。
おぼろ夜にはまだ早いけれど、銀白の
その時、人ごみのなかを
言わずと知れた羽織芸者――水のしたたりそうな、スッキリとした江戸好みに、群集中の女同士さては男までが眼顔で知らせ合って、振り返り、伸びあがって見送っていると、芸者は、裾さばきも軽やかに社庭を突っきり、艶っぽい声を投げて一軒の料理家の戸ぐちをくぐった。
やぐら下まつ川の夢八が、羽織見番へ口がかかって、いまお座敷へ出るところ……。
すぐあとから箱屋が三味線箱をかついでつづく。
これはいかさま箱屋で、その三味線箱なるものが、大工の道具箱にも似ていれば、そうかと思うとあとつけにも見える。あとつけというのは、武士で道中で替差しの刀を入れておく箱のことだ。
お祭り同然の山びらきで座はこんでいる。
「おやまあ、新がおの夢八姐さん、さっきからお客様がお待ちかねでネ、エエエエ、もう、じりじりなすっていらっしゃいますよ」
こう言われて夢八のお艶、通されたのは庭の池に面した表二階の一間だった。
人声と物音が綾をなして直下の道路に揺れている。
どこか遠くの部屋で、酒でも呼ぶらしくつづけざまに手を叩いていた。
廊下に小膝をついて障子をひきあけたお艶、
「ヨウ! 来たね」
という客の、すこし
骨細のきゃしゃなあんどんをひきつけて坐っている町人のひとり……五十がらみのがっしりとした
「おお!」
「アレ!」
これがいっしょの声だった。
客というのは鍛冶富――嫌なやつ! と思っても、お艶の夢八、とっさに立つわけにもゆかず、さりとてそのままはいる気にはなれず敷居のところでモジモジまごまごしていると、こっそり遊びに来て芸者を呼ぶとそれが昔のお艶だったので、より驚いたのは鍛冶富だ。
「イヤッ! お艶さんじゃアねえか。お前さん、どうしたえ? 喜左衛門どんも始終うわさをしていたよ。この土地から芸者に出ているなんておらアちっとも知らなかった。え? いつからだい? 栄三郎様とは別れたのかえ?……マずっとこっちへおはいんなさい。しばらくだったなア!」
「三間町さんでしたか。ほんとにマア御無沙汰申し上げております。お変りもなく――」
言いながらお艶は、なんとか口実をつけて帰らせてもらおう――こう考えたが、富五郎はもう溶けんばかりにでれりとなって、
「いや! そんな挨拶はぬきだ、ぬきだ! それよりお艶さん、きれいになったなあ……」
じいッとみつめる色ごのみな鍛冶富の視線にお艶はますます首肩のちぢむ思い――。
「
「さようさ。ここでしこたま詰めこんだのち出かければちょうど刻限もよかろう」
「なあに! 相手は優男に乞食ひとり、何ほどのことやある。これだけの人数をもって押しかけ参らばそれこそ一揉みに揉みつぶすは必定! さ、前祝いに一
「
「今宵こそは左膳どのも本懐を達して――」お艶はギョ! として思わず呼吸をのんだ。
最後の言葉が、動かないものとして彼女の耳をとらえたのである。
じつは、さっきから隣の部屋にいろんな声がしていたのだが、どこかの家中の士が流れこんできて
……相手はやさ男に乞食ひとり、というのが聞こえた。
さてはッ! といっそう聞き耳を立てたところへ、今宵こそは左膳どのも
が、耳の注意だけはやはり隣室へ!
富五郎は気がつかない。
もとからお艶にぞっこんまいって機会あらばと待ち構えていた彼、羽織衆夢八となってひとしお
「いや。人間一生は七転び八起きさ、そりゃア奥州浪人和田宗右衛門とおっしゃるりっぱなお
「ええ、……おかげ様で、まあボツボツねえ」
「結構だ。せいぜい稼いでお母に楽ウさせるんだナ。ときに、おふくろといえば、どうしたえ、その後は?
「は。まだ――」
「本所のお屋敷に?」
「ええ」
平気をよそおって富五郎とやりとりしながら、全身これ耳と化したお艶が、
「しからば露地ぐちに見張りをつけて……」
といっているのは丹下左膳の声らしいが、あとは小声に変わって聞こえなくなった。
突然!
「ウム!」
と大きくうなずいて笑いだしたのは、お艶は知らないが月輪の首領軍之助であろう。事実、偶然このお山びらきの夜、社地内の料亭に酒酌みかわして、刻の移るのを待っている一団は……!
一眼片腕の剣魔丹下左膳を中心に、月輪門下の残士一同、深夜より暁にかけて大挙瓦町を襲って坤竜丸を奪おうとしているのだった。
鈴川源十郎はつづみの与吉をつれて、物見の格でとうに栄三郎をさして先発している――が、かれ源十郎をどれほど信じていいかは、臭いもの同士の左膳が迷わざるを得ないところだ。
酒がまわるにつれてそろそろうるさくなりかけた鍛冶屋の富五郎を、お艶はほどよく扱いながら、なんとかして瓦町へこの襲撃を先触れしなくては! と
「お艶さん、何をそう思案しているんだ? え? わしに
黒い手がムンズとお艶の帯にかかったので、びっくりしたお艶が、
「アレ! 何をなさいます!」
と起き立ったとたん! 下の往来に聞き慣れた
「あ! 立ちどまったぞ、あそこに!」
こう言って先なる小野塚伊織の弥生、うしろの豆太郎をかえりみて指さした。
山開きの夜の人出も散りそめた深川八幡の境内である。
あさくさ瓦町の家から、泰軒、栄三郎をつけて来た弥生と豆太郎、つかず離れず見え隠れにこの別当金剛院のお庭へはいりこんで、ふと気がつくと、今まで先方をズンズン歩いていた栄三郎と泰軒が仔細ありげにぴたッと足をとめているから、こっちもあわてて樹陰の闇黒に身をひそめてじっとようすをうかがうと――。
とある料理屋の表面に、歩をとめた泰軒と栄三郎、明るい灯の流れる二階を見上げたまま、動こうともしない。
ただならぬ気配!
とみて、弥生と豆太郎、同じく眼をあげてその正面の二階を眺めた。
月光を溶かして青白い大気に、
そのほんのりとした暗がりに、障子をしめきった
二間ならんで
それへ、影が写っているのだ――かげ芝居。
左の部屋には……武士らしい大一座が群れさわいで、だいぶん酒がはずんでいるらしく、大きな影法師が入り乱れて杯の流れ飛ぶのが蝶の狂うがごとくに見える。
と!
そこの障子に、細長い影が一つうつり出した。ほかの者が手を叩くのが聞こえる。するとその立っている影が、朗々たる詩吟の声に合わせて、剣舞でも舞いはじめたものとみえて、たしかに抜き身の手ぶり畳を踏み鳴らすひびきが伝わってくるのだが! 下の道路から見あげる泰軒と栄三郎がわれにもなく足をとめたゆえんのものは!
その影が
「栄三郎殿、あれはどうじゃ?」
「泰軒先生ッ」
すばやく
それが、分身坤竜丸の刀魂に伝わってか、カタカタカタとこまかく
刀が刀を慕い刃が刃を呼んで、いまし脇差坤竜が夜泣きをしているとも聞こえる。
が、まもなく。
こんどは右の小座敷に……。
男女のくろ影が鮮やかに映り出して、それは別の意味で、泰軒と栄三郎を、ひいてはすこし離れたところに隠れている弥生と豆太郎を、あっ! と言わせずにはおかなかった。
障子へ墨で書いたように、はっきりと写っていたふたつの人かげ。
男と女である。
夜更けのあたりをはばかってか。声は聞こえない。が、男が無体をいって女を追いまわしているらしく帯のゆるんだ、しどけない姿の女の影が、右へ左へ、裾を乱して逃げかわすありさまが、影絵のように手にとるごとく見えるのだ。
となりの広間には、痩身左腕の剣舞が今や高潮……。
そのためこの一座は次の部屋のさわぎに気がつかないとみえて、それをもっけの幸いに男の影はますます女の影へ迫る。
肩に手がかかる。かいくぐる。うしろから抱きすくめようとする。かがんでそらす――影と影とが、付いては離れはなれては付きしてさながら鬼ごっこ――。
二階真下の往来に立つ栄三郎と泰軒、黙然と、二間つづきの障子におどるそれぞれの影法師を見あげていると、弥生と豆太郎も、遠くから、この二人と階上の影とに眼を離さない。
隣室には鬼どもが……と思うと、お艶の夢八、声をたてることはできるだけ控えたかった。
しかし! 気はあせる。
どうかして今宵の乾雲の秘密を瓦町へ未然にしらせなくては!
と気が気ではないが、この場合、
けれど! かじ富の
たまらなくなったお艶、いっそ人眼でもあったら一時のしのぎになるだろう――と!
逃げながらサラリ、二階縁の障子をあけたから、ぱっと流れる灯のなかに、座敷着も崩れてホンノリ上気したお艶のすがたが……。
そしてばったり栄三郎と眼があった。
瞬間!
栄三郎は、歩き出していた。
「泰軒先生! よしないものに足をとめて、チッ! けがらわしい図を見せられましたな。いざ、どこへなりとお供つかまつりましょう」
と! 同時に。
ぴしゃり、二階に音あり……お艶は早くも障子を
二階を走り出たとっさの光線を全身に浴びた栄三郎――それは昼間のべに絵売りの風俗ではなく、本来の浪人風に返ってはいたが、いずれにしてもお艶にとっては、会わぬ日のつもるにつれて、夢にだに忘れたことのない恋人栄三郎であった。
栄三郎様に泰軒先生!
と見てはっとしたお艶、みずからのすがたを恥ずるこころが先立って、気のつくさきにもう障子を
泰軒、栄三郎がお艶をみてとったのはもとより、すこし隔ててうかがっていた弥生にも、
奇遇――といえば奇遇。
それはまことに思いがけない出会いであった。
無数の
ところはお山開きの賑いも去った深川富ヶ岡八幡の境内。
一道のひかりの帯が半闇に流れて、何か黄色い花のように、咲いたかと思うと閉じたとたんに……見あげ見おろした顔であった。
一度は、否、今まで、たがいに死をもって心中ひそかに慕いしたわれているお艶栄三郎である。
ただその恋情を、世の義理のためにまげているお艶と、男の意地、刀の手まえわれとわが胸底をいつわりおさえなければならぬ栄三郎と、世にかなしきはかかる恋であろう――。
最初、栄三郎は、変わり果てたお艶に大きなおどろきを覚えたのだったが、一面かれは、お艶のこんにちあるは前もって知れきっていたような気がして、すぐにその驚愕から立ちなおることができたけれど、それとともにお艶に対する新しい憐憫が
しかし、憤りはより大きかった。
ものもあろうに芸者なぞになりさがって、おのが恥のみならず拙者の顔にまで泥をぬりおる! と考えると栄三郎、お艶の真意を知らぬだけに、とっさの激情に青白く苦笑するよりほかなかった。
で……。
「はしたないものを見ましたナ。はははは」
ペッ! と
あろうことか!
小座敷の男女の影が、これ見よがしに二つ映っている。
お艶が男にしな垂れかかっているのだが、思わず栄三郎、カッ! と血があたまへのぼるのを感じて[#「感じて」は底本では「感じで」]
「参りましょう、泰軒先生!」
が、依然として泰軒はうごかない。
栄三郎の眼がまたもや二階へ吸われると、こっちの弥生と豆太郎も、その障子の影がますます親しげになるのを見た。
家内のお艶は。
いま隣の部屋に、左膳の一味が坤竜
「ねえ三間町さん、ホホホホ、もうよしましょうよ、鬼ごっこみたいなこと」
と、われから鍛冶屋富五郎のふところに身を投げて擦りよると、富五郎は、短い太腕にお艶を抱きすくめて、その影がぼうっと大きく障子にうつったのだ。
同じ一枚の障子に映ずる黒かげ――ではあるが、戸外から見上げる栄三郎と、
声もなく反りかえって路上に転倒したのは、ひとり先に立った月輪剣門の士法勝寺三郎だった。
三郎、相馬藩内外に聞こえた強力豪剣ではあったが、機を制せられてひとたまりもなく、まっくろな血潮の池が見る見る社庭の土に拡がって、二、三度、けもののようなうめきとともに
いま、瓦町へ向かおうと、ついそこの料亭を出て来たばかりの乾雲丸丹下左膳を取りまく一同、まだ八幡の庭を半ばも過ぎないうちに、つぶてが飛来するようにいきなり横合いから斬りこんで来たこの太刀風に、命知らずの者がそろってはいるのだが、さすがに
肩から月に濡れて立っている諏訪栄三郎。
脇差坤竜をグルッと背中へまわし差して、手の、抜き放すと同時に法勝寺三郎の生き血を味わった愛剣武蔵太郎安国を、しきりにそばの、まだ
そして、こともなげな静かな低声が、
「――丹下殿、乾雲丸をお所持になったか? ははは、いや、坤竜はたしかにここに! サ、雲よく竜をまきあげるか、それとも竜が雲を呼びおろすか……まだ夜あけまでは時刻もござる。今宵こそはゆっくりと朝まで斬りむすぼう、朝まで――」
ひとりごとのようにこういいながら、栄三郎は、せっせと藁で血がたなをぬぐっている。
虚心の境……。
何が機縁となって、かれらの
それは、いうまでもなく、お艶が
思いにわだかまりあれば、腕がにぶる。
栄三郎の場合がちょうどそれだった。
すべてを捨てお艶に走ったかれとしては、そのお艶に去られたのちも、口や表面はともかく、胸の奥ふかくお艶を慕うこころ切々たるものあるのだったが、こんやという今夜、はからずも芸者姿のお艶を見て、これだけでさえ、いよいよ栄三郎に彼女を思いきらせるに十分だったところへ、まるで見せつけのような男との痴話ぐるい――栄三郎は、あの、二階の障子に黒く大きく写り出た男女の影によって、ここに初めて長夜の夢からさめたような気がしたのだった。
やはり、当り矢のお艶は当り矢のお艶だけのもの。男をたらす稼業の水茶屋女が、それに輪をかけた芸者になったとてなんの不思議があろう?……こう思うと、栄三郎は、影の相手の男が誰であろうと、そんなことはもうどうでもよかった。
ただ
忘れかけていた小野塚鉄斎直伝神変夢想流の覇気、これによみがえった栄三郎は、もはやこの日ごろの栄三郎ではなく、ふたたび昔日、根岸あけぼのの里の道場に
今やかれの前にお艶なく、われなく、世なく――在るはただ亡師の恩と高鳴る戦志の血のみ。
かくてこそ、これからなお雲竜の刀陣に
お艶はどうした?
彼女は、首すじに毛虫を這わせるおもいで鍛冶富になれなれしくして酒をすすめたのち、泰軒と栄三郎の立ち去ったのを見すますが早いか、ただちにその家の若い衆を走らせて泰軒だけを呼び戻しいそぎ二階の隣室に左膳の一団が宴を張っていて、いまにも瓦町へ押しかけようとしていることを告げたのだった。
だから、時分はよかろうと、左膳、軍之助の連中が旗亭をあとに、ほんの四、五十歩も踏んだかと思うところへ先ほどから献燈のかげに待ち構えていた栄三郎が、現われると一拍子に、先頭の法勝寺三郎を抜き撃ちにたおしたのだ。
月に更けゆく夜――。
左膳をはじめ月輪組も、栄三郎も無言。
泰軒はどこか近くにひそんでいるのであろう。
遠くで、樹陰から木かげへと大小ふたつの人影が動いた。
ポタリ……夜露が木の葉を打つ音。
空はあかるく、地は夢の国のように霞んでいる……。
膚さむい微風の底に、何がしの人の心を
行春静夜。
しかし、それは暴風雨のまえのあの不気味なしずもりにすぎなかった。
今暁を期して瓦町に栄三郎方を突襲すべく宵のうちから本所の化物屋敷を出て、この料亭に酒汲みかわし、もうだいぶ時刻も移ったので、さあ、そろそろ出かけようではないか――という調子。くわえ
しかも! 諏訪栄三郎、飛び出すとともにはやひとり斬り捨てているのだ。
抜く手も見せず……ということをいうが、ちょうどそれ。
声高に話し合いながら三々伍々、金剛神院お庭の小径を
やにわに黒いものが躍りでたかと思うと、氷刃一閃――三郎のどこへくいこんだのか、そのままかれは土を
と見るより、とっさの驚愕から立ちなおった左膳と月輪の勢、ピタリ! 踏みとどまると同時に、もういっせいに
おのずから半月の陣!
その背後から、しわがれた左膳の声が物の
「オオ坤竜か。これから参ろうとしているところへ、そちらから出かけて来るたアいよいよ運の
いいながら左膳、隻腕の袖をグイと脱ぐと、例の女物の下着が月を受けて浮きたつ。
不敵なほほえみが、その、刀痕の眼だつ顔をいびつに見せていた。
風雲急!
栄三郎は沈黙。
ただ、霜がこいの藁で法勝寺三郎の血を拭き終った武蔵太郎を、かれはしずかに正面に持しただけである――神変夢想の
と!
タ! タ! と二、三あし、履物を棄てて草を踏みつつ、栄三郎の前へ進み出た長剣の士、月輪の道場にあって三位を
玄八。
ガッシリした体躯に心もち肩をおとして、濡れ手拭を絞るようにやんわりと柄をささえ、
「参れッ! ウム!」
大喝、誘いの声だ。と、ともに、スウッ! 手もとをおろして突きにいくがごとく見せかけ、老巧
が、轟玄八、即時左手を放して
そして!
刹那、妙機の片手なぐり、グウンと空にうなった
竹刀ならばお胴一本取られただけですむかも知れない。しかしこれは真剣も真剣……見守る一同、秒刻ののちには上下半身を異にしている栄三郎を見ることと思った。
――にもかかわらず、ガッ! と音を発して玄八の刀をそらした栄三郎、すかさずつけ入ってヒタヒタと
これは
といった色めきが、半月の列を渡った。
ガッキ! と
諏訪栄三郎と轟玄八。
一同が、眼をそばだてて熟視するなかにしばらくは双方、
雲が出た。
月の影が、さまざまの綾を地上に織りなす。
やがて!
いかなる隙ありと見たのか、玄八、やにわに、
「ううむ」
一声! これが気合い、同時に、満身の筋力を刀手にこめて押しかかる――と思わせて、じつは逆に、スウッと張りを抜きながら数歩、引きこむようにさがろうとしたのは、いわずもがな、誘い入れの一手。
栄三郎もさる者、離れゆく玄八をあえて追おうとはしなかった。
不動。
で。
風死んで、露のしたたりが明日の晴天をしらせる。
月輪軍之助以下北藩の援士は、抜きつらねた明刃をグルリと円列につくって、青眼の林、
左膳は、軍之助とともに剣列の背後にあった。
誰ひとり声を出すものもない。はち切れそうな殺気に咽喉をつまらせて、一同ものをいう余裕などはなかったのだ。
ジイ――ッと薄光の底に停止するおびただしい刀身を、春の夜の月が白く照らしている。
突如!
その
パチリッ! 柄近く受けとめた武蔵太郎、つづいてジャアッと刀がかたなを滑って、ほの青い火花が一瞬、うすやみの
と!
この時まで受身の形だった栄三郎は、鼻を打つ鉄の香にひとしお強烈な戦志を呼びさまされたものか、はたしていきなり攻勢に出て、新刀を鍛えて東海にその人ありと聞こえた武蔵太郎安国晩年入神の一剣、突発して玄八を襲うが早いか、そのひるむところを、すかさず追うと見せて瞬転、横一文字に払った斬先に見事にかかって、刀を杖にたじろいだのも
大太郎といえども選に当たって江戸くんだりへ生命のやりとりに出てくるくらいだから、もとより刀のたたない男ではなかったが、油の乗りはじめた栄三郎には、
腰の
と見るや!
気負いたった月輪の剣列、
「おウッ!」
片手の突き!
「うむ!」
平七郎、パッと払ってニッコリした。
「なかなかやるナ……来いッ!」
息もしずかに、栄三郎はもう平青眼に返っている。
月の端を雲がかすめた。
夜明けが薄らいだ。
月の端に雲がかかったのだ。
ふかがわ富ヶ岡八幡の社地内に乾雲に乗ずる一団をむこうにまわして、武蔵太郎に
「エイッ」
平七郎、ピタリ一刀、中青眼にかすかに微笑をふくんで応ずる。
「やッ!」
と、この時。
わざと誘いに乗ったとみせた栄三郎、俄然! 太郎安国を躍らせて平七郎の右脇へ!――と思うまもなく、たちまち
が!
山東平七郎は、北州の雄剣月輪軍之助の門下にあって、師範代各務房之丞の次席、各務、山東、轟をもって月輪の三羽烏と呼ばれたその中堅だ。
小野塚鉄斎の遺道に即して、栄三郎いかに神変夢想をよくすといえども、いまだ平七郎の生き血を刃に塗ることはできなかった……のであろう、平七郎、つと栄三郎の剣動を察して、一歩さがると同時に、パッ! 伸び来る
「おウッ!」
おめきざま、月輪の
乱戦――。
空高く風が渡っているらしい。
雲の流れが早いとみえて、月光を照ったりかげったり……そのたびに、樹間の広場に
豆を
飛びちがえては斬り結び、入りみだれたかと思うとサッと左右に別れ、草を踏みにじり木の葉を散らしてまさにここは神変夢想対月輪一刀の、二流優劣の見せ場となった。
それが、助けをいそぐ夜の空気に霜ばしらのごとく立ち伝わってかけ声、風を起こす一進一退――気の弱い者を即殺するにたる凄壮な闘意が、烟霧のようにみなぎって地を這いだした。
闇黒をこめる戦塵……。
その
いうまでもなくお艶、いや、今は羽織芸者のまつ川の夢八だ。
彼女は。
うるさい客の鍛冶屋富五郎に、せいぜいなびくがごとく見せかけて酒をすすめ、その間にぬけ出て泰軒を呼び返し、左膳ら今宵の策動を未然に報じてこの対計を採らしめたのだが、こうしてここから眺めていても、斬り合っているのは栄三郎一個、頼みに思う泰軒先生はいまだに姿をあらわさないのだ。
なるほど、今のうちは栄さまひとりでどうやら太刀打ちをしていけそうだが、なにしろこっちは一人に相手は多勢――どうなることであろうか? と、わが身も忘れてお艶はしきりにハラハラしているけれど!
逆にここに待ち伏せして、出てくるところをこうして不意に襲ったくせに、栄三郎にだけ剣をとらして、泰軒はいったいどこにひそんでいるのか……?
となおも見守っていると!
あせりだした栄三郎、群刀をすかしてその背後をのぞめば、鞘ぐるみのかたなを杖に、しずかに
「乾雲! そ、そこにいたのかッ!」
声とともに躍りあがった栄三郎がいままでに何人か月輪の士の肉を咬み骨を削った武蔵太郎を正面にかざして
「おのれッ! 邪魔立てするかッ!」
「何を言やアがる! さ、来いイッ!」
仙之助、栄三郎に真向い立ってぴったりとつけたとたん! 足もとの草むらから沸き起こった
「わっはッは! やりおる! やりおる! こりゃ
「うむ」
早くも声の主をみてとったらしく、左膳は例になく沈痛な調子だった。
「乞食坊主であろう? そこで何か申しておるのは」
いつのまにか一同のそば近く割りこんで来て、草の根に一升徳利をまくらに寝ていた泰軒先生は、すでに笑いながらゆっくりと立ちあがっていた。
これも
「乞食坊主とはいささか的をはずれたぞ、いかさま拙者は乞食かも知れぬが、坊主ではない。以後ちと気をつけてものをいわっしゃい」
「よけいなことを
「ホホウ! それは耳よりな! おもしろかろう」
と、うそぶいた蒲生泰軒。貧乏徳利を片手にさげて半ば眼をつぶり、身体ここにあって心は遠く旅しているがごとく、ただボンヤリと
剣は手にしないが、その体置きの眼のくばりが、そっくり法にかなった
たかの知れた白面柔弱の江戸ざむらいとあなどっていた栄三郎に、先刻から同志の三人まで斬り伏せられて、月輪の一統、すくなからず武蔵太郎の鋭鋒を持てあまし気味のところへ、相馬からの道中さんざ悩まされた
「月輪軍之助、お相手つかまつる。いざ、おしたくを……」
すると泰軒。
「ナニ、したく? したくも何もいらぬ。どこからでも打ちこんでくるがよい」
放言。依然として身うごきだにしない。
「しからば……」
いいかけた軍之助の声は宙に消えて、同時に、早瀬をさかのぼる
と思われた瞬間!
パアッと砕け散ったのは、泰軒先生愛用の一升徳利で、それとともに泰軒は、ついと軍之助の腕の下をくぐり抜けて、近くの月輪のひとりをダッ!
つねに刀を
しののめとともに月輪のざわめき。
それは、またもやこの乞食が刃物をとったという驚きと戒めの声々であった。
しかし、泰軒は泰軒として、
今宵の諏訪栄三郎のはたらきは神わざに近かった――。
かれは、はじめに法勝寺三郎を斬り、それから四人を地にのめらせたのだが、この長時の剣戦に疲れるどころか、
「やッ!」
と
「うヌ! 参るぞ!」
一喚! 終わらぬに先んじてッ……慕いよるまもなく、縦横になぎたてたその一下が仙之助の虚につけいって、ザクリッと右肩を割りさげられた仙之助、
「うわアッ! 痛ウウウ――!」
おさえる気で肩へやった左手が手首まではいりこむほどの重傷だ。
月のひかりに、アングリと口を開けた自分の肩を、仙之助はちょっと不思議なものと見た。
が、つぎの一瞬、かれは再び栄三郎の一刀を
ぷうんと新しい血の香。
その時だった! どこからともなく飛来した一本の短剣が、折りから栄三郎へかかろうとしていた岡崎兵衛の咽喉ぼとけに
猛鳥のごとく、宙を裂いて来た一梃の小剣、あわや跳躍に移ろうとしていた岡崎兵衛の顎下へガッ! と音してくいこんだ。
と見る!
数条の血線、ながく闇黒に飛散して、兵衛はたちまちはりきっていた力が抜け、あやつり人形の糸が切れたように二、三度泳ぐような手つきをしたかと思うと、そのままガックリと地にくずれてのけぞった。
思わぬ時に意外な伏勢!
しかも、薄明の夜に防ぎようのない魔の手裏剣である!
即座に、一同のあたまに電光のごとくひらめいたのが、あの、過ぐる夜半、本所化物屋敷の庭に突如として現われ、またたくまに二、三月輪の剣士を亡き者にしてはてた猿のような一寸法師と彼の投剣術だ……。
なんじらは順次にわが手裏剣の
この
事実!
かのふしぎな、手裏剣手は岡崎兵衛を倒したのみにあきたらず今、夜はどこまでもその入神錬達の技を見せるつもりらしく、つづいて二の剣、三の剣と月光をついてシュッ! シュッ! という妖奇な音が、ながくあとを引いて木の間の空に走り出した。
と思うと、
ちょうどその時、刀を引っさげて、小剣来たる方を見さだめようとあたりを眺めまわしていた藤堂粂三郎の横腹へ命中して、粂三郎、二つに折れ曲がって傷口をおさえ、ウウム! と一こえ、うなり声もものすごく夜陰にこだまするが早いか、すでに彼は、ばったり土に仰向いて、空を蹴ろうとするように足を高く上げたのも、二、三度――まもなく草の根をつかんで静止……悶絶してしまった。
そして!
再びざわめき渡る月輪の一同へつぎの手裏剣! こんどは、燐閃、
「伏せ! 伏せ! ピッタリ腹をつけて土に寝ろ! 早く散って……早く!」
これでようやく対策を得た月輪組、あわてふためきながらもソレッ! と蜘蛛の子のように跳び隠れて、一瞬のうちには、みなあちこちの地上に腹這いになったものらしく、見わたす八幡の底に立てる人影もなく、ただ草を濡らす血潮と死体から
ことに夜……その不気味な休戦には、いっそ血を浴びていたほうが、まだましだと思わせる緊張がはらまれていた。
早いあけぼの。
栄三郎と山東平七郎は。
泰軒と月輪軍之助は。
また、かの丹下左膳は。
かれらも、共同の敵なるこの玄妙飛来剣のまえには勝負を中止せざるを得なかったとみえて、どこにもそこらには立ち姿の見えないのは、いいあわしたように草に伏しているのであろう――。
じっさい、かの手裏剣は左膳をはじめ、月輪組を襲うのみならず栄三郎泰軒をも目標にしているものに相違なかった。
というのは、一度ならず二度、三度までも、例の
この得体の知れない飛び道具にはせっかく腕に油の乗りかけて来た栄三郎も、また天下に怖いもののないはずの泰軒先生も、ちょっと扱いようがなくて、とにかくとっさに相手の月輪とともに地に伏さっているのだった。
左膳もどこかに這っているのであろう……しいんとした夜気に明け近い色がただよって、低く傾いた月は漸次に光を失いつつある。
ところどころに小高く見えるのは、斬り殺された月輪の士の死体だ。
この上に
この休止のままに夜があけるのであろうか?――と、こちらの木かげからのぞき見るお艶がひとり気をもんだとき、白煙のような朝
猿まわしと小猿……夢を見ているのではないかと、お艶は眼をこすった。
あすか山。この享保年中に植えしものには、立春より七日目ごろもっとも盛んなり。
王子
すみだ川。おなじく六十四、五日ごろをよしとす。
大井村。七十五日ごろさかん也。品川のさき、来福寺、西光寺二カ所あり。
柏木村。四谷の先、薬師堂まえ右衛門桜という。さかり同じころ也。
金王桜。しぶや八幡の社地。おなじころよし。
当時評判東都花ごよみ桜花の巻一節。
さて――はな季節である。
どんよりと濁った空。
砂ほこり……そして雨。
一あめごとのあたたかさという。
咲き始めた。いや、さきそろった。もう散った――などとこのあわただしさが、さくらのさくらたる命だと聞くが、風呂屋や髪床のような人寄り場に、桜花より先に、花のうわさにはなが咲く……そうした一日の午後だった。
「いや、ようよう、
「ま! 殿様、なんでございます、おじぎなんぞなさいまして!」
「ははは、不見識だといわるるか。ハテ、実は
「ホホホホ、それはまあそうでしょうけれど……ではあの五十枚たしかに」
しずかな声が曇った春の陽のうつろう縁の障子をポソポソと洩れ出ている。
本所法恩寺前――化物やしきと呼ばれる五百石小ぶしん入りの旗本、鈴川源十郎の奥座敷である。
春長うして閑居。
さてこそ、ふたりの中間に、山吹色――というといささか高尚だが、佐渡の土を人間の欲念で固めた黄金が五十枚、銅臭
俗物源十郎の
邸前の野に、雲に入るひばりの声……。
それも、買わんかな、売らんかなの両人の耳には入らぬらしく、源十郎、したり顔に膝を進めてつと声をおとした。
「サ! おさよ殿、これなる五十両を受け取って、約束どおりに栄三郎から
「いやだなどとめっそうもない! それではお殿様、はい、この五十両はわたくしがお預り申して」
と何も知らないおさよは、眼を射る小判の色に
血のにじんだ小判!
大工伊兵衛の死相をうかべた金面!
それが一つずつ老婆の
この室内のしじまにチロチロと金の触れるひびき……。
「はい。たしかに五十枚。まことにありがとうございました。これでどうやらお艶の身の振り方もつき、またわたしもこの年になって安
「ア、そうしてもらいたい」
源十郎は上々機嫌だ。
「なに、財布がない。では、これを持っていかれるがよい」
と、これが世にいう運のつきであろうとは後になって思い合わされたところで、この時は源十郎お艶ほしさの一念でいっぱいだから後日の証拠のなんのということはいっこうに心が働かない。ごく気軽に自分の財布を取り出して内容をはたき、これに
「じゃ、一っ走り――」
起とうとするところを、ちょいとおさえた源十郎、
「何の中でも、
もっともと思ったおさよが、そこで、筆紙と硯を借りて文面は源十郎の言うとおり――。まず差入れ申す一札のこと……と、書きはじめて、やっと筆をおいた。その文言はこうだった。
差入れ申す一札のこと
一金五十両也。上記のとおり確かにお受取り申し候。娘艶儀、御前様へ生涯 抱切 りお妾に差上げ申し候ところ実証なり。婿栄三郎方は右金子をもって私引き受け毛頭違背 無御座候。為後日証文依而如件 。
享保四年四月十一日。
享保四年四月十一日。
艶母 さよ
鈴川源十郎様
御用人衆様
この御用人衆様
一歩、屋根の下を離れると、忘れていた春の最中である。
もう早い夏のにおいが町の角々にからんで、祭りの日のような、何がなしに楽しい心のときめきがふと老いたおさよの胸をかすめる。
幼いころの淡い哀愁であろうかその記憶が、陽光のちまたを急ぎゆく老女のおぼつかない感懐をすらそそらずにはおかないのだった。
これも、春のなすすさびであろう。
正直なかわりに単純そのもののようなおさよは、この、人血に染む金で娘のみさおを渡し、それによって
本所を出て、あれから浅草へ歩を向ける。
まばらな人家のあいだに空き地がひろがって、うす紅の
南の風。
そこにもここにも、さくら、さくら、さくら――。
気がついてみると、今日は
なつかしい心もち。
そういったものがひたひたとおさよの身内に押し寄せて来て、彼女は、しばし呆然と道の端に立ちどまっていた。
どこへ行こう?……と考える。
栄三郎さんの瓦町の家は、じぶんも一度、刀を掘り出し持って行ったことがあるから知っているが、のっけからこの離縁ばなしをあそこへ持ちこんでゆくのはおもしろくない。
第一、いまお艶はどこで何をしているのか、それはわからないにしても、瓦町にいないことだけは人の口に聞いて確実なのだから……。
はて! 金と引き換えに証文まで書き、こうして殿様に受け合って出て来たのはいいが、いったいまずどこへ行って、誰に相談したものであろう?
思案のうちに、ハタと何かを思いついたらしいおさよ、ひとり
まばゆい日光が、浮世の辛苦にやつれた老婆の肩に、細く痛々しくおどっている。
駒が勇めば花が散る……。
これは駒ではないが、細工場でおもい
テンカアン、テンカアン! と一番槌の音。
あさくさ三間町の鍛冶富、鍛冶屋富五郎の店さきである。
「サ、吉公、そこんところをもうすこし、裏をよく焼くんだぞ!」
いそぎの請負仕事であるとみえて、きょうは富五郎、桜花をよそに弟子の吉公をむこうへまわして相変わらず口こごとだらけ。
「ふいごが弱えんじゃねえかナ。あんまり赤がまわらねえじゃねえか。なんでえ、飯ばかり一人前食いやがってしっかりしろい!」
――と、それでも珍しく自分で仕事場に立って真っ黒になっているところへ――。
「はい。ごめんなさい、富五郎さん」
という
「イヨウ!」
と驚いた鍛冶富、
「やア、おさよさんじゃアねえか」
「どうも申しわけもございません。お世話になりっぱなしでまだその御恩返しの万分の一もできずに、しじゅうわがことにばかりかまけて御無沙汰つづきでおります。そのうえ、今日はまた折り入ってお願いがあって参りましたので」
「ウムウム。ああそうかい、そりゃまアよく来なすった。いま仕事の最中で挨拶もできねえから、さ、かまわずズンズン奥へあがんなさい……といったところで、知ってのとおりの手狭なあばら家だ。ずうっとはいりこむのはいいが、とたんに裏へ抜けちまうからナ、そこは何だ、いいかげんのところにとまって待っていておくんなさい、はははは、ナニ、すぐにこいつを仕上げて、ひさしぶりだ、いろいろ話も聞こうし
いいところへ彼のお艶の母が舞いこんで来たものだ。こいつは一番、このおさよ婆さんにこのごろのお艶の始末をうちあけ、さよから先に
「こらッ吉ッ! きょうはお客が見えたからこれで遊ばせてやる。いますこし励んだらしまいにして
ジュウンと火熱の鉄を水につっこんで、富五郎はまっくろになった手と顔を洗い、上り
そこで。
どっかりと長火鉢の向うにあぐらをかいた富五郎と、出された座布団をちょいと膝でおさえたおさよとが、無音のわびやら何やらにまたひとしきり挨拶があったのちに、
「おさよさん――」とあらたまって鍛冶富が口をきったのだった。
「どうだえ? 眼がさめなすったかい?」低声になって、「俺ア毎度田原町とも、それからうちのおしんともお前のうわさをしているよ。あんな
いいかけて口をつぐんだ富五郎へおさよはいきなりすがりつくように乗り出したのだった。
「え? うすうすは聞いてもいましたが、それじゃアあの、お艶はすっかり栄三郎と別れて――して今はどこに何をして?」
「これおさよさん!」
眼を鈍く光らせて、鍛冶富は急によそよそしくなった。
「同じ江戸にいながら、母として娘の所在も
さも
そのようすに、鍛冶富の片頬が、しめたッ! とばかりにかすかに笑みくずれる。
おさよは、しずかに鼻をかんだ。
「あ! そういえば、あの、おしんさんは?」
おさよは顔をあげてきいた。富五郎はうそぶく。
「なに、かかあかい、かかあは先刻湯へ行きましたよ」
「道理で、影が見えないと思いました。おふたりともいつもお達者で結構でございますねえ」
「いんや、あんまり結構でもねえのさ」
と、ほろにがい調子で富五郎が答えている時に、ちょうど露地づたいに近所の風呂から帰って来た富五郎女房のおしん、何ごころなく裏口からあがろうとすると、誰やら客らしい声がいやにしんみりと流れてくるから、おや! どなただろう? と障子の破れからのぞいてみたところが、かねがね亭主の富五郎がひそかに
「女房と畳はたびたびかえるがいいそうでネ。ハハハハ、いや、こいつあ冗談だが、さて今の話で、お艶さんがこの日ごろどこに何して暮らしているかは、おさよさん、実はわっしも知らねえんだよ」
おさよは、いつしか眼のふちを赤くしていた。
「ですけれど親方、ついさっき、何もかも御存じのような口ぶりを洩らしたじゃありませんか。後生ですから――」
「はっはっは! そりゃア事の次第によっちゃアまんざら吐きださねえこともねえかも知らねえが、と、当分、おれは何ものんでやしねえものと思っていてもらいてえ。が、ものは相談だから、お前さんがわしの念をとどけさせるというのならおれもここで一肌ぬいで、ちと大時代だが、御親子対面の場を取りはからわねえとも限らない……」
「親分、なんでございますね、そのお前さんの
「ウフフフ、なんだネそんなまじめな顔をして! お前さんにそう真っ向から問いただされちゃア、おれも困るじゃないか」
「――――」
「まあよい。こっちのことは第二にして、お前さんも、そうやってわざわざ出て来なすったからにゃア、何か大切な用があってのことだろう? そいつを一つ、
いわれた時におさよは、その鍛冶富も
どうも栄三郎がああいう柔和な人間でまことに結構だが、いってみれば働きがなく、末の見こみというものがない。殊には富五郎のいうとおり、もうお艶栄三郎がキッパリ別れているならなおのこと、いまおさよの奉公先本所法恩寺前で五百石のお旗本鈴川源十郎様が、きつう娘に
富五郎は沈黙。
白っぽい場末の静寂が、おさえつけるように真昼の街をこめている。
弟子の吉公が、またお向うの質屋の小僧と喧嘩をはじめたらしくうわずった声がおもての往来に流れていたが台所にひそむおしんは、何も耳にはいらないふうで、ひたすら室内の富五郎の返答を待った――うなだれて
いわば恋がたきである――源十郎と鍛冶富。
その鈴川の殿様のために、手切れの使者に立って金を渡し、はなしをまとめてくれとおさよ婆さんに頼まれたときに、鍛冶屋の富五郎、味もそっけもなくポンとはねつける。
と、思いのほか。
逆に、グッと一つそり返りざま、胸のあたりを大きくたたいて見得をきった。
「ようがす!」
と
立ち聞くおしんは、案に相違して、お艶を源十郎にやろうという
「え? それではアノ――?」
せきこんでききかえすと、ますます
「わかりました、おさよさん。お前さんの心はよっく理解がつきましたよ。なアるほどネ、子を思う親の誠に二つはねえとは、よくいったもんだ。お前さんはつまりお艶さんにこのうえの苦労をさせたくねえ。なんとかして鈴川様へさしあげて、すこしでも楽な身分にしてやりてえという腹でいっぺえで、いってみりゃア自分のことなど二の次なんだろう。そうなくちゃアならねえ……うム……親ッてえものはありがてえもんだなあ! おらあおさよさん、この年になって初めて親の恩を知りましたよ。あああ、
なんかと富五郎、何を思い出したのかそこらのお寺の説法にでも聞いたらしい文句を並べだしたりはいいが、どうもいうことがさかさまである。
にもかかわらず。
涙っぽいその調子に誘われて、おさよが思わずさしうつむくと、うら口のおしんまでが湯帰りの濡れ手拭とまちがえて、
春の日の午さがりだけあって、いかにも間の抜けた
なまあったかい風が、ほこりを舞わせて家をつつむ。
世の中があくびをしているよう……いかにも眠いもの憂さである。
おさよが、赤くなった眼をあげた。
「では、瓦町へ出かけて行ってお金を渡し、栄三郎さんから離縁状を取って来てくださるというんでございますね」
「そうともサ! お前さんの言うとおり、世の中は真直ばかりでもいかねえ。おまけに、手前の女房を食わせることもできずに追ん出てゆかれた栄三郎さんだ。そりゃア先様はまた先様で、なんのかのとほかに心をつかうこともあるんだろうけれど、なあに先方の都合なんざア聞く耳もいらねえ。これからすぐに瓦町へ行って栄三郎さんをおだて、ニッコリ笑って縁切り状を書かせて来てみせるから、お前さんはマアわしに
「ほんとに普段は勝手ばかり、用がなければおたずねもしないくせに、とんだ御迷惑なお願いをして――」
「マアいいとも、いいとも、そんなことは言いなさんな、勝手はお互いだ」
「恐れ入りますでございます」
「ナアニ! ところでもうおっつけかかあの帰って来る時分だが……畜生! 何をしてやがるんだろう? 碌でもねえ面の皮の引んむけるほど、おびんずる様みてえに磨きたてやがって――」
と、これを聞いたおしん、そっと足音を忍ばせてもう一度戸外へ出たが、気がつくと、もしも話の模様がじぶんを突きだしてお艶を入れるようなことにでもなったら、これを振りまわして暴れこんでやろうと、さっきから手にしてたたずんでいた
「あれ! どなたかお客さまでござんしたか」
わざとあわただしく駈けあがって障子をガラリ、
「まあおさよさん! お珍しい!」
とニコニコ顔のおしん、これでうちの亭主野郎もどうやらお艶さんをあきらめるであろうと思うからそのはなしを持ちこんできたおさよ婆さんを下へも置かずもてなしだすと、
「おしんや。あっちの羽織を出してくんな……それじゃアおさよさん、ちょっくら瓦町へ行って来ますよ。おしん、おさよさんは
「行ってらっしゃい」
おしん、おさよに送り出されて三間町の
それからまもなく――。
三間町を出はずれた鍛冶屋富五郎は、ひとり思案に沈みながら人通りのすくない町すじを選んで歩いていた。
ときどき、ふところへ手をやる。
と、五十両入りの財布をのんだ懐中はあったかくふくらんで、中年過ぎのこのごろになってともすれば投げやりに傾こうとする富五郎のこころを躍らせずにはおかないのだった。
十両からは首の台がとぶころである。
五十といえば、もちろん大金であった。
が、金そのものよりも、鍛冶富をうらやませてやまないのは、その金が買い得るあの艶の
聞けば、本所の殿様は、この五十金をおさよ婆さんに渡して、これで栄三郎からきれいにお艶をもらってこいといったそうな。評判の貧乏旗本で身持ちの悪い鈴川様が、どうして五十とまとまったものを調達できたのか、これが第一の不審だが、それはそれとしても、我欲に眼のくらんだおさよが、
よろしい! 承知した! と大きく胸をたたいて婆さんを安心させたのみか、親の恩なぞと並べ立ててちょっぴり泣かせたのち、いと殊勝に縁切りの使者にたつふうに見せかけて家を出て来た鍛冶富だったが、まともに先方に話をつけて五十両おいてこようとは、かれは始めから考えていないのだった。
突然おさよ婆さんが訪れてきた時、彼はちょうど
といって、黙って見ていたんじゃあ、おれが行かなくても婆さんなり誰かなりが出かけて話をまとめ、ことによったら鈴川様はお艶坊を
――と、ひどく心中にりきみかえってしまった鍛冶屋の親方富五郎、お艶を本所へやらないためには、じぶんがこの五十両を持って逃げるに限る。そうすれば、おさよも手ぶらではお屋敷へ帰れず、またお艶のありかを知る者は自分以外にないのだから、鈴川様の手がお艶にとどくことはない。――
そうだ。一つ五十金を路用にして、当分江戸をずらかることにしよう?
なんとしても、あの
どうも女房のおしんにはあきの差しているところだ。一番ゆくえをくらまして、この金のつづく限り、おもしろおかしく旅の飯を食ってこよう……と、おのが手にはいらない物は
いよいよとなってこうして町を歩きながら考えると、ハテどこへ旅立ったものやら、いっこうに
で、鍛冶富、ブラリブラリと
ウム! それがいい、伊勢詣りと
こう心に決めたかれは、どうもひどいやつで、鈴川源十郎が伊兵衛棟梁を殺して奪った五十両を我物とし、丸にワの字は出羽様の
「おウッ! 駕籠え! いそぎだ、
気の早いおやじもあったもので、そのまま桜花にどよめくお江戸の春をあとに、ハラヨッ! とばかり、ドンドン東海道を飛ばして伊勢へ下りにかかった。
ほの冷たい風に、蜘蛛の糸が銀にそよぐのを見るような、こころわびしいかわたれのひと刻である。
城西、青山長者ヶ丸。子恋の森の片ほとり……。
そこの藪かげに、名ばかりの生け垣をめぐらし、草ぶきの屋根も傾いて住みふるした一軒の平屋が、世を忍ぶ人のすがたを語るかにおぼつかなく建っていた。
野中の森はずれ――ひさしくあいていたその家にこのごろ、いつからともなく二十人ばかりの正体のはっきりしない男達が移ってきて、出入りともにさだめなく、ひそやかな日夜を送っているのだった。
もとは、相当裕福な武家の隠居所にでも建てたのであろう、木口、間取り、家つきの調度の品々までなかなかに
この、
そして。
その上の壁に、五人分の火事装束がズラリと釘にかかっている――かの五人組火消し装束の不思議な住居。
首領――とよりは、むしろ長老と呼びたい白髪の翁のもとに。
四肢のごとく動く屈強な武士が四名。
ふだんは掃除水仕事や家の警備に当たり、一朝出動の際はただちに
それに。
中途から一団に加わった小野塚伊織の弥生と、そのまた弥生が
丹下左膳と、諏訪栄三郎の中間にあって等しく両者をねらい、左膳から乾雲を、栄三郎から坤竜を奪って雲竜二刀をひとつにせんとしている謎の一群!
白髪童顔の老人は、そも何者か?
それに仕うる血気の四士?
また、彼らと行動をともにする男装の弥生の心中は? 栄三郎への彼女の
これらすべてが、火事装束に包まれる青白いほのお、やがては燃え抜いてあらわれんとする密事の火種であらねばならない。
この、去来突風のごとく把握すべからざる火事装束五人組と弥生豆太郎の住家のうえに、今や武蔵野の落日が血のいろを投げて、はるかの雑木ばやしに
たそがれ。
あかね色。
……輝き
その時、夕まけて寒風の立つ背戸ぐちの竹やぶに、ふたつの影がしゃがんでいた。
弥生と、そうして豆太郎である。何かの話のつづきらしく、豆太郎は顔をあげずにいいはじめた。見ると、彼は小刀をといでいるのだ。
例の殺人手裏剣用の短剣を、
青黒く空の色を沈めて横たわる小さな刃……それが血を夢みて心から微笑んでいるようだ。
「なあに伊織さん、あの二人だって、あれだけおどかしときゃアたくさんでさあ。へっへっへ、みんな肝をつぶして突っぷしゃがったっけ」
いいながら豆太郎、手の小剣を鼻さきにかざして、しかめッ
「チッ! こいつめ!」
またゴシゴシ
「伊織どの! 伊織殿! 伊織殿はおられぬかな?」
奥から、老翁の声が流れてきた。
「そうさ。乾雲一味の者は大分たおしたようだから、まずあれで上出来であった……あの紅絵売りの若侍と乞食とはああして
起きあがりながら、こうそそくさと弥生がいうと、豆太郎はちょっと不審げな顔を傾けて、
「へえい! そういうことになりますかね。なんだか俺チにゃあわからねえ」
で、弥生がまた、なにか口にしようとしているところへ、さっきから呼びつづけていた老人の声が、こんどはひときわ
「伊織どの! そこらに伊織殿はおらぬかな?」
手裏剣を磨く手も休めもせずに豆太郎が注意した。
「伊織さん、呼んでるぜ、大将が」
弥生はうなずいて
奥の書院へ通る。
何一つ家具らしいもののない八畳の部屋、水のような暮色がしずかに隅々からはいよるその中央に
銀糸を束ねた白髪、
さて、何者にせよ、火事装束の四闘士と十人の荒らくれ男をピッタリおさえて、自ら先に乾坤の
松の古木のような、さびきったその身辺に、夕ぐれとはいえ、何やらうそ寒いものが漂っているのを感得して、
「は、お呼びでございましたか」
と入って来た弥生は、思わずぶるッと小さく身ぶるいをしながら黙りこくっている老翁のまえへ、いざりよって座を占めた。
うす暗い。
となりは、ほとんどもう闇黒に近い室内。
そこに、神鏡のように
「あれ! まだお灯が入っておりませんでございましたか。どうも不調法を……ただいま持って参りまする」
と弥生、そこは天性で、もとを知られているこの老人の前へ出ると、小野塚伊織のはずの弥生、いつも本来の女性に立ち返って、じぶんでもふしぎなくらい自然に、言葉さえもただの弥生になるのだった。
四六時ちゅう、みずから意を配って男のように立ち振舞っているだけに、こうしてしばらくにしろ、その
老士は口を開かない。
が、この弥生の心もちを伝え知ったかのように、
「灯はいらぬ」
そして、珍しく、かすかな笑顔が小さく闇黒に揺れた。
「暗うても
「ホホホ! それはそうでございます」若侍の伊織が、娘の弥生として笑う。
そこに、妙に奇異な
「して、そのおはなしと申しますのは?――なんでございましょう?」
すると、老人はしばらく沈思していたが、
「伊織どの! いや、弥生殿……のう、伊織が弥生であることに、まだ誰も気づいた者はありませぬかな」
ギョッ! としたらしく弥生はにわかに肩をかくばらせて男のていに返りながら、
「はじめから御存じの先生とお弟子衆のほかは、たれ一人として知るものはないはずにござりまする」
「うむ。かの、豆太郎とか申した人猿めは?」
「は。きゃつとて何条疑いましょう! いうまでもなく、わたしを男と思いこんでいるふうにござりまするが、今宵に限って、先生には何しにさようなことをおたずねなされますか」
老士の膝が、一、二寸前方へ刻み出た。
「いささか気になるによって聞いたまでで、大事ない。だが弥生どの、ぬかりはござるまいが、けどられぬよう十分にナ……」
弥生がうなずいた拍子に、それを合図に待っていたかのごとく、うらの竹やぶに咽喉自慢の豆太郎の唄声。
坂は照る照る。
鈴鹿 は曇る。
あいの土山 、雨が降 る。
上り下りのおつづら馬や
さても見事な手綱 染めかえナア
馬子衆のくせか高声に
鈴をたよりにおむろ節
坂は照る照る
すずかは曇る
間の土山、雨が降ウる
はいッ!
シャン、シャン、か――。
暮れ迫る森かげの家を、手裏剣をとぎながら、ひとりうかれ調子の豆太郎の声が、ころがるように筒ぬけてゆく。あいの
上り下りのおつづら馬や
さても見事な
馬子衆のくせか高声に
鈴をたよりにおむろ
坂は照る照る
すずかは曇る
間の土山、雨が降ウる
はいッ!
シャン、シャン、か――。
唄にあわせて
ひなびたこころあいを、渋い江戸まえの咽喉で聞かせる、亀背の一寸法師には似あわない、嬉しいうた声であった。
あいの土山、雨がふる
やらずの雨だよ
泊まって行きなよ
主 を松かさ
さわれば落ちるよ
ハイ、ハイ……とネ
途切れ途切れに伝わってくる豆太郎の唄ごえがパッタリとやむと暗く濃い春宵のしじまのなかで、老士と弥生は、ほのかに顔を見合ってほほえんだ。やらずの雨だよ
泊まって行きなよ
さわれば落ちるよ
ハイ、ハイ……とネ
思い出したように老人がいう。
「お呼び立ていたしたはほかでもない」
「は」
と呼吸を呑んで、弥生はこころもち固くなった。
いま、この人なき、夕べの一刻にかれはそも何をいい出そうとしているのか……それが弥生には、この際すくなからず気になるのだった――。
千年を経た
弥生がここへ来て、
老士……名は、
何ゆえの奔走か? また、従う四士と十人の大男はいかなる関係にあるのか――これから
ただ。
兼光と弥生のあいだに成り立っている約束は、ともに力をかし合ってひとまず雲竜二剣をひとつにし、その上で兼光の手から、改めてその大小一つがいを故小野塚鉄斎の遺児なる弥生に返納しようということになっているのだ。
さてこそ。
風のように随所随所に現われて二刀を狙う五梃駕籠と、豆太郎を引き具してそれを助ける小野塚伊織の弥生。
丹下左膳から乾雲丸を奪還しようというならば話はわかるが、なにゆえ彼らは、それのみならず栄三郎の坤竜をも横どりしようとし、また弥生がそれに協力しているのであろうか。
弥生、かなわぬ恋の
弥生としても、助けられた恩のある五人組である。ただ一時二刀をひとつにして、そのうちただちに弥生に返すというのだから、弥生はその日の一日も早からんことを望み、豆太郎を使ってもちろん主に左膳をつけ狙うと同時に、栄三郎のほうは
いわば弥生は、兼光一団の申し出を利用しているまでのことなのだが、はたして豆太郎、よく弥生の
毒を用いる者は、みずからその毒を受けぬ用心が第一である。
すでに小野塚伊織の人柄をひそかに怪しんでいるらしい豆太郎……なるほど、
が、豆太郎は、豆太郎として。
今宵は。
得印兼光のほうから口をひらいて、はじめてここに、われとおのれに誓った秘命のすべてを語り出そうとしている。
夜に入っていっそうの
兼光の一言一語をも洩らさじと耳を傾ける弥生の顔に、大きなおどろきが、波紋のようにみるみる拡がっていくのだった。
して、その、世をしのぶ老士得印兼光なる主の物語というのは? はなしは、
火事装束五梃駕籠の
当時
すべて
この和泉守の太刀姿は、
美濃の国、関の里。
世に関の七流というのは、
孫六は、
かれの
一世関の孫六、
かれはその得意とする大
鍛刀の技たるや、細部や仕上げにいたっては各家
本朝刀剣
まず、鉄は、むかしから出場所がきまっている。
古刀鍛はおろし鉄のいってんばりであったが、これはまず孫六あたりをもって終りとなし、新刀鍛となっては、正則のほかに大村
さて、ここに
これを刀剣に鍛えんとするには、まず備えとて、炭、土、灰を用意し、炭はよく大きさをそろえて切り、粉は取り去る。
土にも産地がある。
灰は、藁を焼いたもの。
水――
それから。
へしと称し、平打ちにかけて
つぎに、積みわかし。
これは、ねた土を水でといた
大沸かしとは、鉄の周囲に藁灰をまぶし、また火中に入れて
すめば鍛えである。
三人の
わかし延べは、
今までバラバラの鋼だったものを、これで一本の刀姿にまとめ、
火造り――せんすきともいい、はじめて
つぎに。
これに要する土は、
この反りと焼刃の工程。
もとより刀剣の
それよりもいっそう重大なのが、次順の湯加減、一名
やいばわたし……鍛刀中の
まず水槽に七、八分めばかりの清水をたたえ、火床には烈火をおこし、水は四季に応じてその冷温を加減する――これすなわち湯かげんの名あるゆえん。
春、二月の野の水。
秋、八月の野の水。
これと同じくすることがかんじんだ。そうしてしたくができれば、本鍛冶が、
こうして、やいば渡しも終われば。
ここに。
かの関の孫六の水火両様の奥伝というのは。
ひとつは火で、これは積みわかしにおける大沸かし小わかしのこつ。
他は水で、それは刃わたしの際のいささかの水工夫であった。
まことに。
水と火をもって鍛えにきたえる刀作の術にあっては、その水と火に一家独特の
水火の
ほかでもない。
個々の鉄体を積み、一種の泥水をかけて焼く時のちょっとした心得――小沸かしの伝と。
そのつぎに、鉄のまわりに藁灰をつけて熱火に投ずるまぎわのふいごの使い……大沸かしの仕方。
これが孫六の体得した火の法で。
水の法は。
すでに一本の形をそなえた
この関の孫六水火の
口でいい、耳で聞いたくらいでアアそうかとたやすく
しからば。
関七流の
否!
大いに、否!
世に名工
必ずや、いずくにか、いかなる方法でか、この孫六の水火の秘技、今に伝わっているに相違ない……とは誰しもおもうところ。
事実、そっくりそのまま残っているのだ。
どこに!
水火一
……と語り終わった得印老人のことばに、
「え?」
思わず
「それでは、アノ、その関の孫六の水火の法が、いまだに世に残されておりますとな――」
「いかにも!」
見えはしないが老士、暗中に大きくうなずいたらしかった。
「いまわしがお話し申したとおり、孫六発案の大沸かし小沸かし、さては刃わたしの密法、ともに
「まあ! それほど大切な御文書どこにあるかは存じませねど、もはやお手に入れられましたでござりましょう」
と弥生は、瞬間のおどろきから立ちなおると、やはりすぐと地の女性に返るのだった。
「あッはッハッハ! いや……」
急に大きく笑い出した得印兼光は、突如、顔をつき出して
「されば、その水火
「は。そのありかは……?」
「ただいまも申すとおり、
「合符?」
「さよう、
弥生は、しずかに首をひねった。
「……と申しますると?」
「おわかりにならぬかな。いや、泰平の世に生まれたお若い方、ことには女子……」
「アレ!」
「おお! ナニ、ははは、誰も立ち聞く者はござるまい……とにかく、御身の存じよらぬはもっともじゃが、戦国のころには何人も心得おった密書の書き方でのう、敵陣を横ぎって遠地に使者をつかわす場合になぞ、必ずこの
といいかけて、得印老士は、指で畳に字を書き出したとみえる。声とともにかすかな
闇黒の部屋。
ふたりはいつしかそのまんなかに、ヒタと真近くむきあっていた。
沈黙――を破った得印兼光のことば。
それによると。
一枚の小さな紙に、ひとつの文句をはじめから書いていき、他の文句をしまいから逆に
かくすれば。
たとえ二人の使いのうちひとりが敵の手中におちて書状の一片を取りあげられたところで、敵は、もう一つの半片をも得ない限り、そこになんら貫徹した文章を読むことができず、二人を離して派遣しさえすればこの
これに思いついたのであろう、関の孫六が、その水火鍛錬の秘訣を後人に遺した文状は、すなわちこの合符わり文の一書二分になっていたのだ。
かれ孫六……。
死床にあってすでに天命の近きを知るや、人を遠ざけた病室にひとり粛然と端座してしずかに筆紙をとり、ほそ長い一片の紙に針の先のごとき細字をもって――。
一、水はやいばわたしが肝 じんにて候 。
そは、熱刀を水中に入るるに当たり――。
うんぬんと書きつらね、同時に、おなじ紙の末尾より文を起こし、最初の文字の行と行のあいだへ、左から右へ読まして……。そは、熱刀を水中に入るるに当たり――。
一、火は大わかし小わかしのことにて候。
そは、はじめに地鉄 を積 むとき――。
と、ここに、この一そは、はじめに
そのとき孫六。
やまいを得るまえに最近仕上げた陣太刀づくりの大小を手にとり赤銅にむら雲の
名匠の
離るべからざるを二つに断った水秘と火密。
水は低きに
ゆえに。
水は竜、火は雲である。
それかあらぬか。
関の孫六水火の
一あって用をなさず、二
たださえ!
同装一腰、雲と竜に分かれて離れられない乾雲坤竜だ。
それがこの、死に臨む
むべなるかな!
乾坤……天地のあらんかぎり、火の乾雲丸、水の坤竜丸、雲は竜を呼び、竜は雲を望んで、相慕い互いにひきあうさだめにおかれているのだった。
ふたたび思い起こす
二つの刀が同じ場所におさまっているあいだは無事だが、一朝乾坤二刀、そのところを異にするが早いか、たちまち雲竜
それが事実であることは、誰よりも弥生が、眼のあたりに見て
わかれていて二刃、同じ深夜に相手を求めてシクシクと
死のまぎわまで鍛刀の思いを断たない関の孫六の血肉が働いているのだ。あり得ないことと誰がいい得よう!
こうして――。
乾雲坤竜の大小、おのおのその柄の底に水火
しかるに。
この夜泣きの刀に、あらぬ
そして、その命を奉じて、今江戸おもてに砂塵をまきたてているのが、独眼隻腕の剣妖丹下左膳……それに対する諏訪栄三郎。
乾雲丸とともに、
坤竜丸とともに、水ぐあいの説は栄三郎の腰に。
だが、しかし!
孫六が刀装をほどこして以来、まだ一たびもよそおいを変えたことがないらしく、今に
当時孫六は、幅一寸、長さ尺余の紙きれに、微細
と、同時に。
かれは、万一の散逸をおもんぱかっての用意をも忘れなかった。
べつに、一書を
その
おのが子孫が何人にまれ、およそ後人に刀剣鍛錬に志して達成を望む者、もしこの孫六の
こういう腹だったのが、
それでも、うすうすながら関の開祖孫六に、水あげ火あげの独自の両秘術があったらしいことだけは、ふるい昔の語りぐさのように、美濃国にいる刀鍛冶のあいだにいいつたえられてきたけれど、誰も、孫六の専用した古式の
さては、あったら名人のこころづかいも
と、見えたとき。
半生を鍛剣のわざに精進して、
この得印兼光は、じつに孫六の
――と、ここにはじめて素姓をあかし、名乗りをあげた得印老人のまえに、闇黒の部屋に坐して弥生は思わず襟をただしたのだった。
「何ごとにまれ、芸道の苦心は尊いものと聞きおよびまする。夜泣きの刀が、さような大切な文を宿しそのように
「いや! いや!」
滅相もない! といったふうに兼光はあわてて手でも振り立てたものらしい。暗い空気が揺れうごいて、弥生の顔をあおった。
「いや! たとえわたしの先祖が
「ごもっとも! 伊織、心得ましてござりまする」
と弥生は、話が固くなるにつれて、またもや本性の女らしさが徐々に消えて、この日ごろ慣れている男の口調に返るのだった。
関の孫六の
「
いきなり、老人はこう吐き出すようにいって、眉をあげた。
「御治世のしるし津々浦々にまでいきわたって、世は日に月に進みつつあるというが、刀鍛冶だけは昔の名作にくらぶべくもない。本朝の誇りたる
「は……?」
「と、出て来たのじゃ! 出て来たのじゃ! 乾坤二刀に水火の秘訣が
「…………」
「以後のことは申すまでもござるまい。弟子どもを八方に走らせて探らせると、いまその大小は、ソレ、そこもとの
老人がポツリと口をつぐむと……沈みゆく夜気が今さらのごとく身にしみる。
かくして。
もう夜は五刻になんなんとして、あるかなしの夜映を受けて、庭に草の葉の光るのが見える。
犬が吠えて、そしてやんだ。
春の宵は、人にものを思わせる。
得印老人の物語が、感じやすい弥生のこころをさらって、遠く戦国のむかしにつれ返っているのだった。
近くの闇黒に、弥生は見た――ような気がしたのである。
古い絵のなかの人のようなよそおいをした刀鍛冶の孫六が、美濃の国、関の在所にあって専心雲竜の二刀を
ふいごが鳴る。火がうなる。
それは真に、たましいを削るような
と見るまに。
その幻影は掻き消えて、そこに、弥生の眼には、またほかのまぼろしが浮かぶともなく描かれているのだった。
死に近い孫六である。
かれは、書いている。ほそ長い紙きれに、おどろくべき細字をもって、しきりに筆を走らせているのだが、その字の色はうす赤かった。血のように赤く、また汗のごとくに水っぽいのだ。
それもそのはず!
彼は、みずからの血におのが汗をしぼりこんで、この水火の
そのうちに、書き終わった孫六は秘文を中断して割文となし、ふるえる手で、乾坤二刃のみにそれぞれに
死につつある孫六の顔が、兼光のように見えて来、再びそれが、
「弥生どの!」
りんとした得印兼光の声が、鋭く弥生を呼んでいるのだった。
「は」
これで弥生、暗中の
「かかる次第じゃによって、わしはいかにもして、一時かの二剣を手にせねばならぬのじゃ。ナニ、ちょっとでよい。ほんの一刻、ふたつの柄をはずして秘文を取り出しさえすればあとの刀には、わしはなんらの未練も執着も持ち申さぬ。当然、正当の
「は。そのお言葉を頼みに、わたくしも豆太郎も、せいぜい働きますでござりまする。ではそのようなことに――何はともあれ、二剣ひとまず御老人のお手もとへ! ハッ心得ました」
老士はただ、会心の笑みを洩らしただけらしい。こたえはなかった。
が!
雲竜奪取もさることながら……。
弥生のこころは、いつしか先夜、豆太郎とともに深川のお山びらきに左膳月輪を襲った時に、瓦町からつけていった栄三郎の姿。さては、夕ぐれ彼の帰り来る折りの風流べに絵売りのいでたち――それらの思い出を悲しく蔵して浮きたたなかった。
と、そこへ。
おなじ夜に、
自分に義理を立てて、さてはあの女は
こう弥生が、あやうく口に出して
「オヤオヤ! これあ驚きましたな。ばかに暗いじゃありませんか」
豆太郎が、あんどんに灯を入れて来た。
四月。
ころもがえ。
きょうも朝から、
屋敷横、法恩寺の川はいっぱいの増水で水泡をうかべた濁流が岸のよもぎを洗って、とうとうと流れ
土手につづく
早い青葉若葉が濡れさがってところどころ陽に七色に光っていた。
あかるい真昼の小雨だ。
はるか裏にひろがるたんぼのなかを、大きな
潮干狩のうわさも過ぎて、やがては初夏のにおいも近い。
遠くの野に帯のような黄色な一すじが、雨に洗われて鮮やかに見えるのは、菜の花であろう……。
左膳は、その一眼にこれらの風情をぼんやりと映して、さっきから本所化物やしき庭内、離室の縁ばしらに背をもたせたまま、まるで作りつけたように動かずにいるのだ。
人なみはずれて身長の高い左膳は、こうして縁側に立てば、破れ塀のあたまごしに、そと一円を見はるかすことができたけれど、それにしても剣怪左膳、どうしてこうおとなしく、絹雨にけぶるけしきなどを、いつまでも
彼らしくもない。
……といえばいえるものの、じつは左膳、これでも胸中には、例によって烈々たる闘志を燃やし、今やこころしずかに、
ながい痩身、独眼刀痕の顔。
鋭い隻眼が雨中の戸外に走っているうちに、しだいに左膳の頬は皮肉自嘲の笑みにくずれて来て、突然かれは、いななく
「あっはははッは!
ひとり述懐を洩らしつつ左膳、みずからを励ますもののごとく、タッ! と陣太刀赤銅の柄をたたいたとき、
「チェッ! よくあきずに降りゃアがる!」
降りこめられて、しょうことなしに離室いっぱいに
「ヒャッ! 河岸にまぐろが着いたところですね」
と相変わらず、江戸ぶりに口の多い与の公、はじめて気がついたように左膳に挨拶して、
「お! 殿様、そこにおいででしたか、注進注進」
「なんだ?」
「なんだ、は心細い! いやに落ち着いていらっしゃいますね……ハテどうかなさいましたか。お顔のいろがよくないようですが――」
「何をいやアがる!」左膳は相手にしない。「てめえもあんまり
「ところが殿様! 丹下の殿様! ヘヘヘヘヘ、ちょいと……」
「何?」
「ちょいとお耳を拝借」
苦笑とともに左膳、腰をかがめて与吉の口に
「そりゃア与の公、てめえ、ほんとうだろうナ」
「冗談じゃアない。何しにうそをいうもんですか」
与の公はいきおいこんだ。
「ほんと、ほんと、あのお艶……、
「そうか」
と一言、左膳はなぜかニヤリと笑ったが、
「ふうむ。そりゃアまあそうかも知れねえが、なんだって
「殿様ッ! 失礼ながら駒形の与吉を
「大きく出たな」
「しかし、ですね。鈴川様はいまピイピイ火の車……」
「いつものことではないか」
「それが殊にひどいんで、とても知らせてやったところで一文にもなりませんから、そこでこちら様へただちに申しあげるんでございますが、ねえ丹下様、この女の所在ととっかえっこに、ひとつ鈴川さまに働かせてみちゃアどうでございます」
「ハハハハ、罪だな」
「なあに、罪なことがあるもんですか。こないだの晩だって、先にいっしょに瓦町へ物見に行ったときなんざア、ポウッと気が抜けたように、お艶のことばかり口走って歩いていたくらいですから、そのお艶の居場所がわかった、ついては、なんとかして栄三郎から刀を奪ってくれば、すぐにもそこを教えよう――こういってやりゃア、今はお艶のことでフヤフヤになっていますが、あれでも鈴川様は去水流の名人ですから、お艶ほしさの一念からきっと栄三郎を手がけて坤竜をせしめて参りますよ。あっしアこいつア案外うまくいくことと思いますが、丹下様、いかがで?」
「ウム、そうだな、折角の援軍もいまは四人に減って、おまけに栄三郎には泰軒、そこへもってきて五梃駕籠のほかに、かの手裏剣づかいの人猿も現れ、おれ達にとっては多難なときだ。こりゃア一番、てめえのいうとおり、お艶を
はなれの縁で左膳と与吉が
折りも折り。
庭をへだてた化物屋敷のおもや鈴川源十郎の居間では。
ぴったりと障子を
と見れば。
めずらしくも、櫛まきお藤である。
「だからさ、お殿様、じれッたいねえ。何もクサクサ考えることはないじゃありませんか」
今までどこにもぐっていたのか、眼についてやつれて、そのかわり、散りかねる夕ざくらの
じまんの洗い髪――つげの横ぐし。
大きな眼を据え顔を傾けて、早口の
「そりゃアあたしもネ、なんて頼み甲斐のないお人だろうと、いまから思えば
「よく来た」
ぽつりいって、源十は
だるい静けさ。
さっき源十郎がひとりで、先日手切れの五十両を持って出ていったきり今に帰らないおさよのことを、さまざまに思いめぐらして
お藤はすぐ、おのが恋仇敵ともいうべき左膳の思い
弥生のその後――それをお藤は源十郎に語る。
そして……。
お藤は、こういうのだった。
弥生がいま、男装して小野塚伊織と名乗り、青山長者ヶ丸なる子恋の森の片ほとり、火事装束五人組の隠れ家にひそんでいることを、たしかにさる筋よりつきとめた――と。
お藤がここにいうさる確かな筋とは?
それは、ほかでもない。
彼女じしんのうちにいつしか発達した探索の技能によって、最近じぶんで
いったいこのお藤。
ながらく
こんどもその
かの第六天篠塚稲荷の
この
早くからこの古社に眼をつけたのがくしまき。彼女は、数年前、江戸おかまいになる先から、そっと祠内の
なんのため?
いうまでもなく、万一のさいのかくれ場所だ。
事実、これがあるがためにお藤が十手の危口をのがれ得たこと何度だか知れない。彼女はつねに、捕り手が迫るがごとにどうにかしてこの稲荷のまえまでおびきよせ、そこで床下の部屋へドロンをきめこんで
暗中にひとりいてお藤のかんがえたことは。
さすがに
なかでも、むこうでは嫌っていても、左膳が思っているので、じぶんにとってはやはり恋路の邪魔である弥生のこと……それがお藤のこころを悩まして去らなかった。そういえば、いつか雨の晩に、番町から瓦町へつれ出してから、あの娘はいったいどうしているのだろう?
何ごとも、思いついてはいてもたってもいられないお藤である。
翌日から穴を出て、
目黒の行人坂。
寛永のころ、湯殿山の行者が
それをお藤は、いま源十郎へしらせているのだ。
「その儀は、おれより左膳へ、じかに教えてやったらよいではないか」
苦笑を浮かべて源十郎がいう。
お藤はせせらわらった。
「どこの世界に、自分の恋がたきの居どこを、わざわざ知らせてやるやつがあるもんですか。あたしゃ、それよりも左膳様が憎らしいんですよ。エエ、憎くて憎くてしょうがありません。だから殿様、丹下様があなたといっしょにお艶さんの
鈴川源十郎、黙って煙草を輪に吹いている。
お藤のはらでは。
左膳へ人づてに弥生の住所を知らせてやれば、かれはすぐさま、とるものもとりあえず子恋の森へ駈けつけるに違いない。そうすれば先には、五人組をはじめ豆太郎というお化け野郎までそろっていることだから、きっと左膳は窮地におちいって、ひょっとすると乾雲はおろか、生命までも失うようなことになるかも知れない――それがいまの自分としては、あくまでもこの恋をしりぞける左膳に対して何よりの、そして唯一の報復であると、お藤は固く思いこんでいるのだ。
で、躍起となって、源十郎にすすめている。
「あたしも、あんな隻眼隻腕のお国者に馬鹿にされどおしで、このまますっこんじゃいられませんや。こうして丹下様をひどいめにあわして
源十郎も、しだいに乗り気になって、
「それで、お艶を探し出す助力と交換に、弥生の居所を知らせてやろうともちかけるのだナ」
「ええ。そうでございます。殿様だってお艶さんのいどころは気になっておいででしょう?」
「ウム。そりゃアまあそういったようなものだが――」
「だから、でございますよ、弥生さんの所在ととりかえっこに、ひとつ丹下様に働かせてみちゃアどうでございます?」
「ハハハ、罪だな、しかし」
「なに、罪なことがあるもんですか。そうして殿様はお艶さんを捜し出させ、左膳さまには青山の家をしらせてやってそこへあの人が飛びこんでゆけば、ね! ホホホホ飛んで火に入るなんとやら、あとはあたしの思う
「いやどうもお藤、貴様はなかなかの策士だな。かなわん。では、そういうことにしてやってみようか」
「ぜひ殿様、そうしてごらんなさいましよ……ときに、おさよさんは?」
「なに、さよか。ア、ちょっとそこらへ買い物にでも参ったのであろう」
と、軽くごまかした源十郎、善はいそげとばかりにさっそく左膳へぶつかってみるつもりで、ソッとお藤を帰し、そのまま
「イヨウ! 源的、そこにいたのか。話があって参った」
むこうから左膳の声。
いいところで――と、思わずふたりがニッコリする。
「左膳!」
「なんだ?」
「拙者も貴公に話があって参った」
「まさか
「大きに違う。貴公の女弥生のいどころが知れたのだ」
「ほう! それは耳よりな! しかし源の字! そういえば、貴様の女の、お艶のいどころも知れたぞ」
「ナニ! お艶の居場所? それを貴公は知っているのか、どこだ? どこだ?」
「待、待て! そうあわてくさるな。それより、弥生はどこにいるのだ? それをいえ!」
「オッと! そう
「何をうまいことを?
「はははは、こうやっていたのでは
「きょうは嫌に女の所在の知れる日だて――そこできくが、弥生はどこにいる?」
「お艶の住いはどこだ?」
「チッ! そんなら、おれから先にいおう! お艶はいま、ふかがわのまつ川という家から、夢八と名乗って、芸者に出ておる」
「フウム! まつ川の夢八……」
うめいたまま源十郎、ふらふらとして
「おいおい源公! てめえ、じぶんの聞く分だけ聞いておれのほうはどうした? 弥生様はいってえどこにいなさるんだ?」
「オオ、そうだったナ」振り向いた源十郎、「青山長者ヶ丸、子恋の森の片ほとりの一軒家」
夢中の人のごとくつぶやくのを聞くより早く、
「なあに、青山?」
左膳、それこそおっとり刀のいきおいで、それなりブウンと化物屋敷を駈け出した。と見るより、源十郎も速力を早める。
一は深川へ。
他は青山へ。
同時に走り出した源十郎と左膳。
だが、この会話とようすを、
それが、いつもこのごろ、絶えず当家にはりこんでいる弥生と豆太郎……であろうとは?
「いやいや! 貴様がなんと申そうと、お艶、ではない、夢八が当家におるということは、拙者、しかと突きとめて参ったのだ。じゃませずと部屋へ通せ」
源十郎、やぐら下まつ川の上がり口に立ちはだかって、うすあばた面の顔をまっかに、こうどなり立てている。
よほど逆上しているものらしく、この色街にあって不粋もはなはだしいことは、源十郎が今にも抜かんず勢いで、刀の柄に手をかけているのだが、応対に出たまつ川の主人はいっこうに
「エ、なんでございますか、手前どもにはとんと合点が参りませんでございます。へえ、しかし、夢八……というのはどうやら聞いたことのあるような名、いや、この辺やぐら下
ばか丁寧に、主人はこういって、しきりにテカテカ光る額を敷居にこすりつけているのだが、たしかにやぐら下のまつ川にお艶がいると聞いてきた源十郎、いっかなひきさがる道理がない。
お艶の夢八、もちろんこの家にいるには決まっているが、八丁堀まがいの、あんまり相のよくない侍がのりこんできて
いる、いない――の押し問答。
場所がら、いかついおさむらいが
源十郎はいらだった。本所からここまで急ぎに急いで駈けつけたのに、そういう女はおりません。ハイそうですか、さようなら……では彼もひきとるわけにはゆかなかった。
そこで!
「黙れッ! おらんというはずがないッ。拙者はどこまでも押しあがって
いうが早いか源十郎、片手なぐりにおやじを払いのけておいて、ドンドンまつ川の家の中へ踏みこんでみると!
ちょうど突当りの小廊下に、チラとのぞいた女の影!
「お! お艶ッ、待てッ」
「あれッ!」
同時に両方が声をあげた。その声音は源十郎が夢にうつつに耳に聞くお艶の調子!――だから源十郎、勇士が敵陣へでも進むかっこうで、パタパタと廊下を鳴らして奥へ走った。
と!
すでにそこにはお艶の姿はなく、この狂気めいた武士の
すぐ前に、
「
われとうなずくと同時に、源十郎はフト障子に手をかけてサッとひらいた。
「ワッはっはっは」
この、とてつもなく大きな笑い声が、まず源十郎をうった最初のおどろきだった。
何者?……眼を
部屋の中央に、むこう向きに
意外も意外! 蒲生泰軒だ!
「やッ! 貴様はッ?」
思わずたじたじとなる源十郎へ、ゆったりと振り返って投げつけた泰軒の言葉は、いつになく強い憎悪と
「たわけめッ! いささかなりと自らを恥じる心あらば、鈴川源十郎、サ! そこに正座して腹を切れイッ!」
「ウウム……」
うめいた時に源十郎は、腹を切るつもりかどうか、とにかくパッ! と腰間の
泰軒はすわったまま、ジイッ!――源十郎をにらみあげている。
ふしぎ!
どうしてこのお艶の部屋に、泰軒先生が来あわせていたのか……といえば!
水の音がするので、ふと気のついた左膳は、小走りの足をとめて谷間へおりると、
弥生のいどころが知れて本所の化物屋敷からここまで息せききって急いで来た左膳である。
もうあの、向うにこんもりと見える
このへん一体、
ここ青山長者ヶ丸の谷あいの小溝にかかっている橋で、国府の谷橋の転じたものであろうといわれているが――左膳がこの笄橋にさしかかった時だった。
フッと行く手に人影がさしたかと思うと白く乾いた土が埃をあげている小径のさきに、片側から、まず太刀の柄がしらが影をおとしてハッと左膳が立ちすくむまに続いて浪人
坤竜丸――諏訪栄三郎!
「待っておったぞ。左膳!」
「ヤッ! 坤竜か、うむ、栄三郎だな――ひとりかッ」
いいながら左膳、グイと片手に乾雲の柄をつき出して目釘をなめつつ、あわただしくあたりを見まわした。
シーンとして深山のよう。
ホウホケキョー、どこか近くの木で
栄三郎はほほえんで、
「もとより拙者ひとり。貴公の来らるるを知って栄三郎、坤竜とともにここにお待ちうけ申しておったのだ。幸いあたりに人はなし、果たし合いにはもってこいの森でござる。今までたびたび刃を合わせても、じゃまや助太刀が入って、貴公と、拙者、心ゆくまで斬りむすんだおぼえはござらぬ。またとない機会、いざ御用意を!」
残忍な笑みが左膳の頬に浮かぶと彼はガラリと調子が変わった。左膳が、この江戸の遊び人ふうの言葉になる時、それは彼が満身の剣気に呼びさまされて、血の香に餓え、もっとも危険な人間となりつつあることを示すのだ。
声が、薄い口びるの角から押し出された。
「俺のいいてえことをいっていやアがらあ。ハハハハ、何やかやと今まで延び延びになっておったが俺と手前は、夜泣きの刀を一つにするために、どっちか一人は死ななきゃアならねえんだ。なら栄三郎、去年の秋、俺が根岸
いよいよ栄三郎ひとりと見きわめた左膳は、真剣よりも、本当に仕合いにのぞんでいる気で、こうネチネチといいながら、じっと独眼をこらして栄三郎の顔に注いだが、あたまは、鈴川源十郎に対する火のような
さては、
と左膳、歯ぎしりをかんで思うのだった。
かの源十郎、いつのまにやら栄三郎に
とすれば!
栄三郎のほかに多数の伏勢が待ち構えているはずだと、左膳は一眼を光らせて、再び樹間、起伏する草の上を眺めまわしたが、やはり
血戦ここに、思うさま開かれようとしている。
対立する諏訪栄三郎と丹下左膳。
いいかえれば水火の
一は神変夢想流。
他は北州の豪派月輪一刀流より出でて、左腕よく万化の働きを示し、自ら別称を
しずかな開始だった。
スウ――ッ! と左膳が、単腕に乾雲丸を引き抜いて、正規の青眼につけると、栄三郎の手にも愛刀武蔵太郎安国が
あいしたう二刀が近々と寄って、いずれがいずれをひきつけるか――これが最後の決戦と見えたが!
ふしぎ!
どうしてこの左膳の道に、諏訪栄三郎が刀意を
先刻……。
浅草瓦町の露地の奥、諏訪栄三郎の家に、ちょうど栄三郎と食客の泰軒とがいあわせているところへ表の戸口にあたってチラと猿のような、子供のような人影が動いたと思うと、音もなく一通の書状が投げこまれていったのだった。
なんだろう?――と栄三郎が拾って来て二人で開いて見ると、栄三郎には覚えのある弥生どのの筆跡。
よほど急いで認めたものらしく一枚の
というと、いかにも色めいてひびくが、顔を寄せて読んでいるうちに、泰軒と栄三郎、思わずこれはッ! と声を立てて互いに眼を見合ったのだった。
候かしくの女手紙はいいが、内容は艶っぽいどころか、いかにも闘志満々たるもので、鈴川源十郎がお艶の居所を知って、やぐら下のまつ川へ向かい、同時に左膳は弥生の隠れ家を探り出し、青山長者ヶ丸の子恋の森をさして、いま出かけていったところだと。
右の趣、取り急ぎ御両人様へお知らせ申し上げ候かしく……とのみで、名前は書いてないが、それが、その後行方の知れない弥生さまの筆であることは、栄三郎にはひと眼でわかった。
この手紙は。
このごろ毎日のように豆太郎をつれて、本所の化物屋敷を見張っている小野塚伊織の弥生、きょうもさっき、源十郎方の荒れ庭にひそんで、なんということなしにようすをうかがっていたところへ、母屋と離れから同時に出て来てちょうど弥生と豆太郎の隠れている鼻先で落ちあった源十郎と左膳が、互いに掛引きののち、ついにめいめいの女の居場所をあかしあうのを聞いたので、急ぎ両人が出て行くのを待ち、弥生はさっそく筆を取ってこの一状を認め、それを豆太郎に持たせて、すぐさま瓦町へ走らせて投げこませるとともに、自らはただちに青山の家をさして引っ返したのだった。
そして瓦町では。
鈴川源十郎が、いまやお艶を襲い、丹下左膳は弥生のもとへ出向きつつある……と知って、ひさしく謎となっていた弥生の居場所もわかったので、無言のうちにうなずきあいつつ[#「うなずきあいつつ」は底本では「うなづきあいつつ」]、スックと立ちあがった泰軒栄三郎、いわず語らずのうちに手順と受持ちはきまった。
栄三郎にしてみれば、この際正直に気になるのは、いうまでもなくお艶のほうであったが、そこはことのいきがかり上、泰軒にまかせ、泰軒はまた眼顔でそれを引きうけて、彼はただちに深川の松川へ駈けつけてお艶を救うことになり、義によって栄三郎は、時を移さず青山長者ヶ丸へでばって途中に左膳を待ち伏せ、
こうしていち早く瓦町の露地を走り出た両人。
――だから源十郎がまつ川へ乗りこむさきにすでに泰軒の
たしかにここにお艶が?――と気負いこんで力まかせに障子を引きあけた源十郎、そこに、思いきや一番の
が!
源十郎心中に思えらく……。
さては、はかられたな!
かの左膳、いつのまにやら泰軒、栄三郎と腹をあわせて、自分にかかる不利な立場を与えたに相違ない。
妙なことがあるものだと源十郎はいぶかしく感じながら、目下はそんなことは第二、まずここのかたをつけなければと、できるだけ薄気味悪くほほえみながら、源十郎が手の氷刃をかすかに振りたてて見せると、眼の前の泰軒先生の鬚面が、急に赤い大きな口をあいて、またもや、
「ワッハッハ……」
無遠慮に笑い出したのでカッとした源十郎。
「
と、へんにだらしのない
戸外にあたって、
「火事だア! 火事だア!」
まつ川の男衆をはじめ、近所の人々の立ちさわぐ声。
斬りこむと見せて、たちまち身をひるがえして源十郎は、そのままヒラリ庭に飛びおりて、白刃をふりかざして危うく血路をひらくと、ほうほうのていで人ごみのなかをスッとんで行く。
あとには、腹を抱えて笑う泰軒先生の大声が、また一段高々とひびいていた。
笄橋の
春の陽が木の間をとおして、何か高貴な敷物のような、黒と黄のまだらを織り出しているところに。
助太刀や、とめだてはおろか、誰ひとり見る者もなく、栄三郎と左膳、各剣技の
刃とやいば――とよりも、むしろそれは、気と気、心と心の張りあい、そして、
壮観!
早くも夏の匂いのする風が、森をとおしてどこからともなく吹き渡るごとに、立ち会う二人の着物の裾がヒラヒラとなびいて、例の左膳の女物の肌着が草の葉をなでる。
ムッとする土と植物の香。
ひと雨ほしいこのごろの陽気では、ただじっとしていても汗ばむことの多いのに、ここに
チチチ……とまるで生きもののように、二つの刀の先が五、六寸の間隔をおいて、かすかにふるえているのだが、どちらかの刀が少しく出て、チャリーと[#「チャリーと」は底本では「チャリー と」]小さな、けれども鋭いはがねの音を発するが早いか、双方ともに何ものかに驚いたかのごとく、パッと左右に飛びはなれて静止する。
それからジリジリと小きざみに両士相寄ってゆくのだが、再び
そのうちに!
独眼にすごみを加えていらだって来た丹下左膳、無法の法こそ彼の
「うぬ! てめえなんかに暇をつぶしちゃいられねえや。もう
声とともに殺気みなぎった左膳、身を斜めにおどらせて右から左へ逆に横一文字、乾雲あわや栄三郎の血を喫したか? と思う瞬間、白蛇
すかさず栄三郎。
払った刀を持ちなおすまもあらばこそ、数歩急進すると同時に、捨て身の
「…………」
無言、一気にわってさげようとした――が!
余人なら知らぬこと、月輪にあっても
と見えて。
サッ! と電落した武蔵太郎の刃先にかかり、折りからの風に乗ってへんぽんと左膳の足をはなれたのは、着物とそうして、女物の肌着の裾だけ……。
「むちゃをやるぜオイ!」
いつしか飛びのいて立ち木に寄った左膳が、こう白い歯を見せて
ヒュウッ!
どこからとも知れず、宙にうなって飛来したのは、いわずもがな、人猿
「こりゃアいけねえ……
左膳のうめきが、海底のような子恋の森の空気をゆるがせて響き渡った。
飛びきたった豆太郎の短剣は、危うく左膳の首をよけて、ブスッと音してその寄りかかっている木の幹につき立っただけだったが、場合が場合、左膳の驚きは大きかったのであろう。彼はとっさに一、二
「出てこいッ、卑怯者めッ! 声はすれども姿は見えず……チッ! ほととぎすじゃあるめえし、出て来て挨拶をするがいいや」
が、この左膳の大喝に答えたのは、森をぬけてかえって来る山彦ばかり、あたりは依然として静寂をきわめている。
どこを見ても手裏剣のぬしの姿はないのだ。それも道理。
丹下左膳がこの青山の弥生の住所を知ってかけ出したと見るや、弥生は一筆走らせて豆太郎を使いに瓦町へしらせると同時に、自らも道を急いで青山へ引っかえし、森の一隅で瓦町へ寄って来る豆太郎を待ち二人で左膳を待ち伏せるつもりだった……にもかかわらず、左膳のほうが先に来たばかりに、こうして栄三郎と斬りむすんでいる最中へ、おくればせながら弥生と豆太郎が現場近くかけつけたわけで、今もそこら近くの草のあいだに、この両人が身をひそめているに相違なかった。
と気がつくや!
左膳は栄三郎を飛来剣から
「
いうや否、左膳はゆっくりと身をめぐらして、突如森の奥へ駈け出しそうにするから、闘気に燃えたっている栄三郎は、あわてて身を挺して追いかけようとしたとき、眼前の
これが弥生に使われる山椒の豆太郎であろうとは、栄三郎はもとより知るよしもないから、ハッとして立ちすくんだ刹那、その怪物のうしろに、もう一人立ち現れた覆面の人影、美しい若侍とみえて澄んだ眼が二つ、顔の黒布のあいだからジッと栄三郎を見つめたまま、しきりに手を上げて、栄三郎に停止の意味を示している。
弥生!――とは夢にも知らない栄三郎、この、人猿めいた怪物と、その飼主らしい
なんという奇怪な! こんな奇妙な人間は見たことがないと……思うとたんに、栄三郎は、一瞬
やせぎすの小男……黒のふくめんをしているので、その
栄三郎はキッとなった。
「助剣のおつもりかは知らぬが、いらぬことをなされたものでござる……」
すると、
「エヘヘヘ」
笑い出した男をつと片手に制して、若侍は無言のままきびすを返して、森の奥へはいろうとする。
その、回転の動作に、なんとなく栄三郎の記憶を呼びおこすものがあった。
「お!」栄三郎はあえいだ。
「や、弥生どの――ではござりませぬかッ!」
が、弥生は返事はおろか、見かえりもしないで、豆太郎をうながし、森の中のむらさき色へ消えようとしている。
「弥生どのッ! オオそうだッ、弥生どのだッ!」
という栄三郎の声に、弥生が逃げるように足を早めると、ならんで歩いている豆太郎が、横から顔を振りあおいだ。
「弥生の伊織さんか……ヘッヘッヘ、本名弥生さんてンですね、あんたは」
刹那、またしても、
「弥生どの、お待ちくだされ――!」
栄三郎の声が、あわただしく追ってくる。
その日のそぼそぼ暮れであった。
江戸の夕ぐれはむらさきに、悩ましい晩春の夜のおとずれを報じている。
陽の入りがおそくなった。
空高く西の雲に残光が
そして。
地には、水いろの宵風がほのかに立ちそめようとするころ。
本所法恩寺まえの化物屋敷、鈴川源十郎の
やぐら下のまつ川を泰軒の手から逃げ出して来た源十郎と――。
青山長者ヶ丸子恋の森で、栄三郎の
左膳は源十郎の口から弥生の居場所を聞き、源十郎は、また左膳によって、お艶がいることとのみ思いこんでまつ川へのりこんだのだから、たがいに言い分はあるはず。
「おい源十!」
左膳はもう喧嘩ごしだ。
「てめえッてやつはなんて友達がいのねえ野郎だ!
縁にかけている源十郎は、
「まあ考えても見ろ。貴様のいうことを真に受けて、テッキリお艶が隠れているものと信じ、おっとり刀で障子をあけたところが、かの、泰軒とか申す乞食がふんぞり返っておるではないか。仕方がないで、一刀をぬいて暴れぬいて逃げて参ったのだが、源十郎この
「ウウム!」
左膳は、うなり出してしまった。
「てめえのほうにもそんな手違いがあったとしてみると、おれも手前に、そう強くは当たられねえわけだが……ハアテふしぎ! それより源の字、弥生が子恋の森の一軒家に住んでおると
腕を組んだ源十郎、
「こりゃア貴公のいうとおり、われら両人がともに
「うむ」
「いわばわれら両人は同じ災厄におうたようなもの。ここはいたずらに恨みあう場合でないとぞんずる。どうじゃ!」
「それあまアそうだ。だが、源十、てめえに弥生のことを告げたのは誰だと、それをきいておるではないか」
「そうか。それならいうが、じつは突然、かの櫛まきお藤がたずねて参ってナ――」
「ナニ! お藤ッ!」
みなまで聞かずに、左膳は片手に乾雲をひっさげて突ったった。かた目が夕陽にきらめく。
「お藤かッ……チ、畜生ッ! どこにいるのだ、真ッ二つにしてくれる――」
「まア待て!」
源十郎も立ちあがった。
「もうおらん、ここにはおらん。すぐ帰っていった……しかし、貴様にお艶のいどころを深川のまつ川とふきこんだ本人はだれなのか貴公、まだそれをいわんではないか」
左膳の頬の刀痕が笑いに引っつる。
「なあに、それは与の公――例のつづみの与吉から聞いたのだ」
「与吉!」
とおうむ返しに源十郎が驚き、
「さては、お藤めの意趣がえしであったか……」
左膳が同じく歯を
「こりゃアいけねえ! いまみつかったら百年目、いきなりバッサリやられるにきまってる……
土をなめながら、与吉はつぶやいた。
「
というあわただしい声が、まっくらな穴ぐらの入口から飛びこんでくると、櫛まきお藤は暗い中でムックリと身を起こした。
第六天……
「なんだい、そうぞうしいねえ」
チッ! と軽く舌打ちをしたものの、ただならぬ与吉のようすに、お藤の声も思わずうわずっていた。
お藤が、そのあぶないからだを稲荷の穴へひそめて、ながらく
今、
その与吉が、いつになくあわてふためいて駈けこんで来たのだから、さすがのお藤が
「なんだねえ、与のさん、ただ大変じゃアわからないじゃないか。何がどうしたッていうのさ」
こう落着きをよそおってききながらも、お藤は不安らしくジリジリしていると、天地のあかるい夕焼けの一刻から急に黒暗々の地室へ走りこんだので目が見えなくなったも同然になったつづみの与の公、腰を抜かすように、ペッタリ破れ
「おちついてちゃアいけねえ! と、とにかく大変! く、首が飛びます首がッ!」
「ホホホホ!」お藤は笑い出した。
「そりゃア、与の公、お前らしくもない。いまに始まったことじゃアないじゃないか。お互いさま、いつ首が飛ぶか知れない身の上なんだから考えてみると、おとなしくしているだけ損なわけさね」
与吉は、ことばより先に、大きく頭上に両手を振りみだして、
「チョッ! そ、そんな……そんなのんきなんじゃアねえ! なにしろ
「おや! それあおもしろい! けど嫌だよ、お前といっしょにふたつにされるなんて……不義者じゃアあるまいし」
「さ! そこだ!」
と与吉は乗り出して、
「さっきわたしが左膳さまのはなれへちょいと顔出ししようと思ってネ、ぼんやりあそこの前まで行くてえと、なんだか話し声がするじゃアございませんか」
「そのなかに、与吉、お藤てエのが聞こえたから、こりゃアあやしい、なんだろう?――こう思ってジッと聞いてみるてえと――」
「そうすると?」
「驚きましたね」
「何がサ?」
「イヤハヤ! おどろき
「うるさいねえ。なんでそう驚いたのさ」
「いえね姐御、お前さん鈴川の殿様に、弥生さんのいどころを知らせておやんなすったろう?」
「ああ。ちょいと考えがあって知らせてやったのさ。それがどうかしたのかえ?」
「そいつだ! 実ア姐御、あッしもちょっかいを出して左膳様にお艶の居場所を教えたんだが、ところがお前さん、ふたりがさっそくしらせあってすぐとめいめいの女のところへ駈け出したらしいんだが、どっちもおあいにくで、おまけに恥をかくやら命があぶなくなるやら、両方ともほうほうのていで逃げ帰ってネ、あやうく果たしあいになるところで、たがいに話の仕入れ先がわかったもんだから、それで急にこっちへ火さきが向いて来て、なんでも鈴川の殿様と左膳さまは、姐御とあッしをみつけしだい
与吉のはなしの中途で立ちあがって、くらいなかに帯を締めなおしていた櫛まきのお藤が、このとき低い声で、うめくようにいったのだった。
「与の公、したくをおし! サ、長いわらじをはこうよ。だが、その前に……」
あとは耳打ち――与吉はただ、眼を見はって、つづけざまにうなずいていた。
まだ宵のくちだった。
奥の一間に、夕食ののちのひと刻を、腰元のささげてくる茶に咽喉をうるおしつつ、何思うともなく、庭前のうす暗闇に散りかかる
何ごとであろう? また、黒犬めが
と、忠相が聞き耳を立てたとき、用人の伊吹大作が、ことごとく恐縮して敷居ぎわにかしこまった。
「なんじゃナ、大作」
忠相は、にこやかな顔を向けた。
「は。お耳に入りまして恐れ入りまする。実はソノ、ただいま、なんでございます、気のふれた女がひとりお裏門へさしかかりまして……」
「ほほう! 気がふれた女か?」
「
「よい、よい! 大切に介抱してつかわし、さっそくに身もとを探すがよかろう」
やさしい目が細く糸を引いて、その見知らぬ女に対する忠相の思いやりがしのばれる。
めっそうな! というふうに、大作はいそがしく言葉をつづけた。
「ところが――でござりまする。その狂いようたるや、とうていなみたいていではございませんので」
「フウム! どうなみたいていではないかナ? そちのもとへ押しかけ女房にでも参ったのか」
「これはお言葉、はははは……いえ、そのようなことなれば、わたくしにもまた覚悟がございますが、ただ君に拝顔を願っておりますしだいで――」
「なに、わしに会いたい?」
忠相は、ふしぎそうに目をしばたたいた。
「さようでござりまする」と一膝乗り出した大作、
「御前様に気のふれた女のちかづきがあろうとは、大作きょういままで夢にも……」
「ハッハッハ! ただいまの返報か――うむ、それはいかにも忠相の負けじゃ。はははは、しかし、それなる女何の故をもってわしに面接を願い出ているのかナ?」
「さあ、それは――なにしろどうも狂女の申すことでまことにとりとめがございませぬが、たって拝顔を願ってお裏門にしがみつき、どうあやして帰そうといたしましてもますます
「して、どこの何者ともわからぬのか」
ききながら、忠相はもう立ちあがっている。
大作は、驚いて押しとどめた。
「御前! どちらへお越しでござります? よもや女のところへ……いえ、じつは、女が舞いこみましてまもなく、弟と申す若い町人が探し当てて参りまして、われわれともどもなだめてつれ戻ろうと骨を折っておりますが、女め、いっこうに動こうとはせず、暴れくるうておりまする」
とめる大作を軽く振り払って、着流しの突き袖、南町奉行の越前守忠相は、もはや気軽に庭づたいに女のとびこんで来たという裏門のほうへ足早に歩き出していた。
お中庭を抜けて背戸口。
植えこみのむこうに小者の長屋が見える。
もうすっかり夜になろうとして、灯が、あちこちの樹の間を洩れていた。
ぽつり……雨である。
さっきから、なんだか妙に生あたたかく曇っていると思ったら、とうとう降りだしたか。
――忠相が空をあおぐと、星一つない真ッ暗な一天から、また一粒の水が
声が聞こえる。
近い。
つと歩を早めて、忠相が裏門ぐちの広場へ出てみると……。
なるほど、これが大作のいった気のふれた女であろう。下町づくりのひとりの女が、見るも無残に取り乱して地に横臥し、何かしきりにわめいているのだ。
取り巻く中間折助のうしろからそっとのぞきみた忠相は、何を思ってか、続いてきた大作に命じて一同を立ち去らせ、あたりに人なきを待って、女と、その弟と称してかたわらに土下座する町人ていの男とのまえに、つかつかと進みよった。
「お藤! 櫛まきお藤であろう、汝は! 狂人をよそおって何を訴えに参った?」
忠相はしゃがんだ。
「お奉行様、いかにもそのお藤でございます。スッパリと泥をはいて、いっさいを申し上げますから、どうぞそのかわりに……」
「目をつぶって、江戸をおとせ――と申すか」
ジロリと、忠相の目が、そばの男へ走った。
「与吉であろう? つづみの」雨が、しげくなった。
雨と風と稲妻と……。
この時!
本所化物屋敷の
相馬藩
五
左膳の夢は。
静夜、野に立って空をあおいでいる左膳であった。
明るい紫紺の
大きな月。
星が、そのまわりをまわっていた。
と、左膳が見ているまに、星の一つがつうッと流れたかと思うとたちまち縦横にみだれ散った。
そして――。
おのれの立っているところを野と思ったのは誤りで、かれは、
海だろうか?
それとも、池かも知れない……。
左膳がこう考えたとき、頭上の月が、クッキリと水面にうつって、死のような冷たい光を放っているのを彼は見た。
同時に、目がさめたのである。
グッショリと寝汗をかいた左膳は、重いあたまを枕の上にめぐらして部屋じゅうを眺めた。
やぶれ行燈が、軍之助の一
そこに、月輪の四人が、思い思いの形に寝こんで、かすかな
耳に食い入るような夜更けのひびき……音のない深夜の音、地の
左膳は、一つしかない手で身を起こすと、そのまま腹這いになって考えこんだ。
いま見た夢である。
剣鬼左膳、夢を気にするがらでもなく、また
それによると。
月の水に映る夢は、
星の飛ぶ夢は、色情の
――とある。
すべて早く見切るに限る。しかも、身に女難が迫っているというのだ。
「ウム! 容易ならんぞ、これは!」
こう冗談めかしてひとりごちながら左膳がニッとほほえんだとたんに彼はあきらかに再び、片割れ乾雲丸が
どこから?
といぶかしんで、左膳は、その剃刀のように長い顔を上げた。
ジジジイ……ッと、灯が油を吸う音。
乾雲は、見まわすまでもなく、まくらもとにある。
陣太刀作り、
やはり、声がする。
夜泣きの刀! の名にそむかないものか、訴うるがごとく哀れみを乞うがごとく、あるいは何かをかきくどくように、風雨のなかを断続して伝わってくる女の泣きごえであった。
それも、老女――に相違ない。
そして、
と見当をつけた左膳のにらみははずれなかった。
と言うのが。
ちょうどその暴風雨の真夜中、化物やしきの本殿、鈴川源十郎の居間では……。
お艶の母おさよは……。
栄三郎への手切れ金として五十両の金を源十郎から受け取り、その掛合い方を頼みに、浅草三間町の鍛冶屋富五郎のところへ、出かけたところが、同じくお艶に思いを寄せている鍛冶富が、預かった金を持って
といって。
いつまでも他人のうちに
金とともに出て行ったきり帰らないおさよを、毎日カンカンになって怒っていた源十郎のことだからフラリと、
「これッ さよッ! 母に似ておるなどと申し、奉っておいたをいいことに、貴様、なんだナ、おれから五十両かたりとって、お艶と栄三郎をいずくにか隠したものに相違あるまい。いや、初めから三人で仕組んだ芝居であろう! ふとい婆アめ! どの
というわけで、おさよには
……その声が!
戸外のあらしを貫いて、離れの左膳の耳にまで達したのだった。
たださえ。
すさまじい風雨の夜ふけ。
その物音にまじって漂う老婆の
どこからともなく……。
「乾雲! これ、坤竜が慕うて参ったぞ! 坤竜が来たのだ! あけろ!」
それが、たとえば隙洩る風のように左膳の耳にひびいたから、ハッ! としながらも――。
耳のせい……ではないか?
と!
たしかめようとして、左膳が枕をあげた――いや、あげようとした、その瞬間であった。
左膳と、むこう側の月輪軍之助の
ふしぎ!
左膳が、地震ではないか?……と思ったことには。
その茶碗や水さしがひとりでに動き出して、オヤ! と眼をこすって見ているまに!
ムクムクと下から持ちあがった畳!
それが、パッ! と撥ね返されると!
驚くべし――。
いつのまにやら床板がめくりとられて、ぱっくりと口をあいた
しかも。
そこに、まるで縁の下から生えたように突ったちあがった二人の人物……諏訪栄三郎に蒲生泰軒。
あらしの音にまぎれて忍びこみ、下から板をはがしたものであろう。ふたりとも
「起きろッ! 夜討ちだアッ!」
どなりつつ、のけぞりながら左膳一振、早くも乾雲の
「起きねえかッ、月輪ッ」
が!
同時に、
ウウム……断末魔のうめき。
泰軒の
栄三郎は、蒼白いほほえみとともに、もうノッソリと穴から部屋の中へあがっていた。
立ち樹が揺れて、梢が屋根をなでる音――。
夜着のうえから一突きにされて、声もあげ得ずに悶絶した轟玄八のようすに、白河夜船をこいでいた他の三人も、パチリと眼がさめてとび起きた。
見ると!
すっかり身じたくをした諏訪栄三郎に蒲生泰軒、ともに、あんどんの薄光を受けて青くよどむ
てんでに刀へ走って、鞘をおとした。
左膳は?
と気がつくと、床下づたいに広庭へおびき出すつもりか。ソロリソロリと後ずさりに、いま、泰軒栄三郎の出てきた根太板の穴のほうへ近づきつつある。
荒夜の奇襲。
つとに満身これ剣と化している栄三郎、声――は、
「丹下どの?……今宵は最後とおぼしめされい!」
左膳は、一眼を細めて笑った。
「この
泰軒が一喝した。
「多弁無用! 参れッ!」
と……。
これが誘引した乱刃
真っ先に剣発した月輪軍門の次席山東平七郎、
「えいッ!」
わざと
ツ――ウッ!
横に
……であったろうが!
そこは
自源流は速を旨とし、いちめん禅機に富む。
この平七郎
同瞬!
落ちこまんとした穴を、ふち伝いにうしろに避けた左膳、柄をひるがえして下から上へ、クアッ! 太郎安国をたたきあげるが早いか、そのまま振りかぶった
「こうだッ!」
と一声。
刀下一寸にして側転した栄三郎神変夢想でいう心空身虚、刹那に足をあげたと見るや、栄三郎グッ! と、平七郎のわきばらを一つ、見事にあおっておいてまた逆返し。
今度は!
右うでのない左膳の右横から、声もかけず拝みうちに撃ちこんだので、防ぎ得ず左膳、血けむり立てて
「サ! 骨をけずってやる。
相対した栄三郎、下目につけた不動の青眼、寂……として双方、林のごとく静止。
泰軒はいかに?
と観れば……。
北国の雄師月輪軍之助、一の遣い手各務房之丞、二番山東平七郎の三角剣の中央に仁王立ち――相も変わらず両眼をなかばとじて無念無想、剣手をダラリと側にたらした体置きは、先生にして初めて実応し、この修羅場に処して
ピタッと幾秒かのあいだ、屋内の剣戦が、相互に呼吸をはかりあう状に入って休断すると……ゴウッと風のひびき。
雨戸を打つ大粒な雨あし。
依然として紋つきを着た枕あんどんの光が、ふとんにくるまった轟玄八の死骸を、まるで安眠しているかのように、おだやかに照らしている。
が、しかし!
この不動対立は長くは続かなかった。
たちまちにして
この時すでに!
はなれの
朝が来た。
あらしののちの
金色の陽の矢が青山子恋の森に射しそめたころおい……。
弥生は、いつものとおり朝の湯につかっていた。
起きぬけに入浴するのが弥生のならわしになっていたので、彼女は一日もかかさずに続けて来たのだったが。
ゆうべは。
じぶんと豆太郎を
昨夜、鈴川方に、栄三郎が坤竜を
いわば、そうして雲竜二刀が
湯にひたりながら風雨のあとのなごんだ空を窓に見て、小野塚伊織の弥生、しきりに思いめぐらしている。
もとより、栄三郎さまにはお怪我のないよう――間違いのないようにと、得印老人をはじめ四人の部下によく頼んでおいたものの、仔細を知らぬ栄三郎が、そうやすやすと秘刀坤竜を渡すはずがない、必ずや大いに剣闘したことであろうが、そのはずみにもしや栄三郎さまに……と思うと弥生、留守を預っているとはいえ、とてものんきに風呂なぞつかっていられなくなって、
「まだ戻られぬとは、どうしたのであろう?」
われ知らずひとりごと、急にあがりじたくをはじめて身体を
弥生はやはり弥生、いまだに栄三郎を恋い慕う純なこころを失わずにいるのだった。
それはいいが!
この風呂場の羽目板の節穴からひとつの眼がのぞいて、弥生の入浴を終始見守っていた者がある。
甲州無宿
かれは、最初、まつりの日に弥生に見いだされて雇われた時から、弥生のいわゆる伊織が男であるということに対して、いささかの疑いをもっていたのだったが、それが過日、子恋の森はずれで瓦町の若侍を助けて、彼が伊織を弥生と呼ぶのを聞いて以来、いっそうその疑念を深め、おりあらば確かめてやろうと機会をねらっていたのだったが、とうとう
人なき家に、ひとり弥生が入浴しているので、よろこんだ豆太郎、そっと
ふくよかな乳房もあらわに、雪の肌に一糸もまとわぬ湯あがりの女性裸身……。
豆太郎は、亀背の小男という生れつきで、今まで女という女に相手にされたおぼえがないから、いま、この森の中の一軒家に、若侍に化けた女とふたりきりでいるということは、豆太郎を狂暴にするに十分だった。
しかも……。
のぞき見た弥生の裸形――豆太郎は、呼吸が苦しくなった。
で……。
じっと湯殿の戸のそとに立って待ちぶせている――。
とは知らない弥生が、そそくさと着物を羽織って戸を開けた時だった。
「見たぞ!」
うわずった豆太郎の声である。
ドキン! としながらも、弥生は笑いにまぎらそうとした。
「なんだ! 豆ではないか……何を見たと申す?」
「見たぜ!」
豆太郎の顔が、ゆがみつつ寄ってくる。
「だから、何を見たと申すのだ?――どけ……そこをどけ!」
「いンや、どかねえ! エッヘッヘ、お前さんが女子だってエことをちゃんとみてとった以上、この豆太郎に、ちっとお願いがあるんでネ……」
弥生は、醜く光る豆太郎の眼におされて、思わずタタタ! 二あし、三あし湯殿のなかへ後戻りした。
ピシャリ! つづいてはいって来た豆太郎が、うしろ手に戸をとざしたのだ。
気ちがいのようにつかみかかってくる豆太郎を、弥生が必死に防いでいる時だった。
せまい湯殿の中のあらそいだから、身体の小さな豆太郎には都合がいい。その上弥生はすっかり女のこころもちに返ってしまって、ともすれば負かされ気味に、そこへねじふせられそうになる。
小熊のように
飼い犬に手を咬まれるとはこのこと。
弥生は、生ける心地もなく、それでも今にも得印老士の一行が帰ってこないものでもないからのがれられるだけのがれるつもりでなおも抗争をつづけていると……。
食いしばった歯のあいだから、哀願するごとく豆太郎がいう。
「ねえ弥生さん! わたしゃ今までお前さんのために
と、こんどは手を合わして拝まんばかりにあわれっぽくもちかけてくるのを、決然として飛びのいた弥生は、手早く着くずれをなおしながら、
「さがれッ! 言語道断な奴めッ! かならずその分には捨ておかぬぞッ!」
小野塚伊織のいきで大喝すると!
「エイ! もうこれまでだッ!」
わめいた山椒の豆太郎、いっそう荒れ狂って
流し場……すべる。
足場がわるい。
ツルリと足をとられて倒れた弥生へ、半狂乱の豆太郎が
と見えた刹那……。
ドン!
ドン!
どんどんドン! と湯殿の戸をたたく音がして、
「伊織さん! 伊織さんいませんかえ?」
という男の声だ。
ハッとしてひるむ豆太郎をつきのけ、弥生が走りよって戸をあけると!
この家の
「オ! これだ!」
と!
やにわに弥生の眼前へつきだしたのを見ると!
乾雲坤竜――夜泣きの刀の一対!
「やッ! ついに二剣ところを一に? そんならアノ、ゆうべの斬りこみで……」
いいかける弥生を手で制した平鍛冶の駕籠屋、
「いそぎますから長ばなしはできねえが、まアよんべ乾雲と坤竜が撃ちあってる最中へうちの大将が跳びこんでね、どうも大層なチャンバラだったが、とどのつまりわしら十人のお駕籠者まで加勢して左膳と栄三郎をおさえつけ、やっと二つの刀をとりあげましたよ、サ、そこで……」
「おウ、そこで?」
「夜明けのうちに八ツ山下まで突っ走って駕籠の中で老先生が、この両剣の柄、
「うむ?」
「出て来ましたね」
「水火の
「はい! 細い紙きれへこまかい字でビッシリ書いて、しっかり中心に巻き締めてありました」
「フウム! よかったなア……」
「その時、得印先生はハラハラと涙をこぼされましたが、イヤ、わしどももみんな泣きましたぜ。正直、うれし泣き……ねえ伊織さま、涙が、なみだがボロボロ――畜生ッ! こぼれやがったッ……ハッハッハ!」
「それは、そうであろう。伊織も
「へえ、そのとおりで」
と、男は、今さらのように握り拳で鼻のあたまをこすりあげていたが、
「お! そうだ! こうしちゃいられねえ――伊織さん、先生がいうにゃア、自分はこれからただちに水火の
声と、
はっとわれに返った弥生、眼を
思えば、乱麻の悪夢であった。
もつまじきは因縁の名刀……しみじみとそんな気がこみあげてきて、弥生がボンヤリとまず夜泣きの両剣を腰間に
忘れていた山淑の豆太郎……。
「もらったぞ!」
一こえどなるより早く、パッ! 夜泣きの大小を弥生の手からかすめとって、同時に小廊下づたいに台所へ跳びおりたかと思うと、そのまま水口の戸障子を蹴倒して戸外へ走り出た。
「ああ――!」
としばし、わがことながらポカンとしていた弥生、秒刻をおいて気がついて見ると、じぶんの身長より高いくらいの陣太刀二
「おのれッ!」
一散に後を追いだした。
一丁。
二丁。
昼なお小暗い子恋の森の真ん中である。
斧を知らない杉、
ただ、ザワザワと揺れる草の浪を当てに進む、と果たして!
何か焚き火の跡らしく黒く草が燃えて、いささか開きになっている地点、両手に雲竜二刀を杖について立っている豆太郎を見いだした。
「ヘッヘッヘ! とうとうここまで来たな!」
豆太郎がうめいた。
弥生は無言――そろり、そろりと近づく。
と、
再び刀を
「サ! あっしがこの森の中を駈けまわっているうちゃア、泣いてもほえても、お前さんの手には負えませんよ。ネ! あっしも男だ! いい出したことが聞かれねえとあれア、仕方がねえ。この刀をもらってずらかるばかりさ……それとも弥生さん、ここで往生して眼をつぶるかね? はっはっは、これが舞台なら、サアサアサア――とつめよるところだ!」
いいながら、今にも身をひるがえして樹間へ走りこみそうにするから、刀を持って行かれてはたまらない弥生が、さりとてこの人猿に
「弥生さん!」
二剣を右手に、左手をまわして弥生のからだへ掛けようとした。
思わず、身をすくませる弥生。
嫌らしくまつわりつく一寸法師。
その瞬間だった。
声がしたのである……近くに!
「おうッ! ここかッ! ウム刀も! やッ! 娘もいるなッ!」
と! 言葉といっしょに。
独眼刀痕の馬面が、ヌッ! と草を分けて――
「やいッ!」
乾雲を失った左膳、一腕に大刀を振りかぶって立ち現れた。
それと見るより、早くも豆太郎、弥生を棄てて二剣をかきいだき、みずからは、つと体を低めて懐中を探っている。
得意の手裏剣をとりだす気。
左膳の
「
豆太郎は、口をひらかない。ただ、野犬のように白い歯をむき出して、突如、躍りあがるがごとき身ぶりをしたかと思うと、長い腕がブウン! と宙にうなって、
ガッ! あやうく左膳の首を避けた小柄、にぶい音とともにうしろの樹幹にさし立った。
「ううむ、こいつウッ! やる気だな」
うめいた左膳さっと、足をひいたのが突進の用意、即座に、左膳、半弧をえがいて豆太郎の素っ首を掻っ飛ばそうとしたが、土をつかんで身をかわした豆太郎、逃げながらの横投げ、錦糸、星のごとく、
が、
あいにくと左膳には右腕がない。
で、右袖に突きささった短剣はそのまま一、二寸の袖の布地を縫ってとまった。
……のもつかの間!
つづいて四剣、五の剣――と
丹下左膳、もとより
タタタタッ! と続けざまに堅い音の散ったのは、左剣上下左右に
「あっ!」
この剣能に、きもをつぶして声をあげた豆太郎われ知らず、もう一度ふところに手をさし入れたが――小柄はすべて投じてしまって残りがない。
瞬間! 泣くような顔になったかと思うと、豆太郎はすでに背をめぐらして、目前の草のしげみへ跳びこもうとした。
「待てッ! もう投げる物アねえのかッ!」
左膳の罵声がそのあとを追った。
豆太郎は、振り向いた。
哀れみを乞うような、笑いかけるがごとき表情だった。
しかし、つぎの刹那、かれは頭から、滝のような血を吹いて真っ赤になった。追いすがった左膳が冷たい微笑とともに一太刀おろしたのである。
山淑の豆太郎、全身
と見るや左膳は、
「いやなものを斬ったぜ」
とひとりごと。
ひきつるような蒼白の笑みとともに、大刀の
深閑として、陽の高い森の奥。
雨のような光線の矢が木々の梢を洩れ落ちて、草葉の末の残んの露に
ムッ! とする血のにおい――左膳は、ふたたびニヤリとして豆太郎の死体を見返ったが!
かれは鈴川源十郎の口から、弥生がこの子恋の森に、五人組の火事装束とともに住んでいると聞いたことを思い出したので、ゆうべ不覚にも、多勢に無勢、ついに乾雲を強奪されたから、それを取り返すつもりで、もしやとこの森へ出かけて来たのだった。
すると、果たして二刀ところを一にしているのを見は見たものの、豆太郎という邪魔者を退けているうちに、弥生ともどもどこへか消えてしまったのだ。
「なあに、どうせまだこの辺にうろついてるに違えねえ……」
ガサガサと草を分けて歩き出した左膳の眼に、森の下を急いでゆく弥生と、彼女が小脇にかかえている陣太刀の両刀とが、チラリとうつった。
走り出す左膳。
弥生も、ちょっとふり向いたまま、懸命に駈けてゆく。
追いつ追われつ、二人は森を出はずれたのだった。
雲竜二刀を
「おうい! そこへ行ったぞウッ!」
といううしろからの左膳の声に応じて、バラバラバラッと駕籠を出たのを眺めると、
一難去って二難三難!
月輪の
「あれイ……ッ!」
と、もう本然の女にかえっている弥生、一声たまぎるより早く、ただちに元来た方へとって返そうとしたが!
ことわざにもいう前門の虎、後門の狼! あとは左膳がおさえてくるのだ。
右せんか左すべきかと立ち迷ううちに四人のために、手取りにされた弥生、夜泣きの二剣とともに駕籠のひとつにほうりこまれるや否や、同じくそれへ左膳が割りこもうとした。
その一刻に!
これもゆうべ。
多勢に無勢、風雨中の乱戦に、得印五人組のために坤竜丸を奪い去られた栄三郎と泰軒、おくればせながら左膳の一行をつけて駈けてきた。
そして!
諏訪栄三郎、そのさまを見るより、昨夜来、血に飽いている武蔵太郎を
「来たなッ!」
大喝した左膳、栄三郎、泰軒の中間へわざと体を入れながら、
「月輪
わめき立てた。
同時に。
「ハイッ! いくぜ相棒!」
「
と駕籠屋の威勢。
「しからば丹下殿、あとを――」
「心得申した、一時も早く!」
駕籠の内外、左膳と軍之助が言葉を投げあったかと思うと、四つの駕籠がツウと地をういて――。
二、三歩、足がそろいだすや、腰をすえて肩の振りも一様に、雨後のぬかるみに
チラと見送って安心した左膳、皮肉な笑いを顔いっぱいにただよわせて、泰軒、栄三郎を顧みた。
「ながらく御厄介になり申したが、手前もこれにておいとまつかまつる。刀と娘御は、拙者が試合に勝って鉄斎どのより申し受けた品々……はッはッはは、ありがたく
栄三郎が、口をひらくさきに、泰軒が大笑した。
「まだその大言壮語にはちと早かろうぞ! 貴公の剣、それを正道に使うこころはないかな、惜しいものじゃテ」
「何をぬかしゃアがる! 正道もへったくれもあるもんか。おれアこれでも主君のために……」
「ウム! いいおったナ」
泰軒は一歩すすみ出た。
「主君のために! おお、そうであろう、いかにもそうであろう! 藩主相馬大膳亮どのの
キラリ眼を光らせた左膳、
「越前……とは、かの南の奉行か?」
「そうよ! 越前に二つはあるまい!」
と、聞くより左膳、
「チェッ! その件に
声とともに左膳は、パッ! おどり立って一刀を振ったかと思うと、それッ! と構えた泰軒栄三郎のあいだをつと走り抜けて、折りから、むこうの小みちづたいに馬をひいて来た百姓のほうへスッとんでゆく。
左膳が百姓を突きとばすのと、かれがその裸馬へ飛び乗るのと、驚いた馬が一散に駈け出すのと左膳がまた馬上ながらに手を伸ばして立ち木の枝を折り取り、ピシィリ! 一
左膳はほしとなり点となって、刻々に砂塵のなかに消え去ってゆくのだ。
その時だった。
時にとって何よりの助けの神!
と、馬のいななきに、泰軒と栄三郎がふり返ってみると!
覆面の侍がひとり、二頭の馬のくつわをとって、いつのまにやら立っている。
ふたりはギョッとしていましめ合ったが、黒頭巾の士は、馬をひいてツカツカと歩みより、
「お召しなされ! これから追えば、かの馬上左腕の仁のあとをたどることも容易でござろう。いざ、御遠慮なく!」
「かたじけない!」
泰軒は低頭して、
「どなたかは知らぬが、思うところあって御助力くださるものと存ずる」
「いかにも! すべて殿の
という意外な情けの言葉に、
「
泰軒が問い返すと、
「サ、それはお答えいたしかねる。とにかく一刻を争う場合、瞬時も早くこの馬を駆って――」
終わるのを待たで御免! とばかり鞍にまたがった泰軒と栄三郎、左膳の去った方をさしてハイドウッ! まっしぐらに馳せると、いくこと暫時にして左膳の姿を認めだしたが、左膳、馬術をもよくするとみえて、なかなかに追いつけない。三頭の馬が砂ほこりを上げて江戸の町を突っきり、ついにいきどまって浜辺へ出た。
見ると、ヒラリ馬から飛びおりた左膳は、前から用意してあったらしく、そこにもやってある一艘の
船には、さっき月輪の三人が、弥生と乾坤二刀を積みこんで待っていたのだ。
さては! 海路をとって相馬中村へ逃げる気とみえる! と栄三郎と泰軒が船をにらんで
スウッと背後に影のように立った、またもや覆面の士!
ふたりには頓着なく、
「これへ!」
とさし招くと、
「乗られい!」
侍がいった。
その声に、泰軒はおぼえがあるらしく、
「オ! 貴公は大……!」
いいかけると、侍が手を振った。だまって船を指さしている。
「わかった! すべて、貴公の
と泰軒、手を合わせて
「前々から
「そうかッ! よしッ」
「奉行いたずらに賢人ぶるにおいては――ではないが、わしにも眼がある。黙っておってもやるだけのことはやるよ。江戸の始末はわしに
黙ってこの侍に頭を下げた泰軒、栄三郎を促して、差しまわしの船に飛び乗った。
屈強の船方がそろっている。
すぐに櫓なみをはずませて、左膳の船のあとを追い出した。
しおどめ。
左に
一望、ただ水。
広やかな眺めである。
ギイギイと櫓べそのきしむ音。
二艘の船は、こうして江戸を船出したのだった。
うす青い連山。
かえり見ると、磯に下り立つ覆面のさむらいの姿は、針の先となって視界のそとに没し去ろうとしていた。
……水と空のみが、船と船のゆくてにあった。
似よりの船あし。
風のない昼夜。
油を流したような
白い
敵意も戦意も失せそうな、だるい航海のあけくれだった。
その間、左膳の船では。
むりやりに
月輪の三士、軍之助、各務房之丞、山東平七郎とても同じこと。
三十一人わずか三人に減じられて、
海の旅は、同船のものをしたしくする。
追う船も、追われる船も、おなじ天候の支配を受けて、ただ追い、ただ追われているのみだった。
先の船には弥生。
あとの船には栄三郎。
どんな思いで、たがいの帆を望み、綱のうなりを聞き、
昼は、雲の峰。
夜は月のしずく。
そうして。
八幡の宿。
大貫。佐貫の村々。
富田岬をかわして、
観音崎から、那古、
三崎……城ヶ島。
このあたりのたびたびの通り雨、両船にて、茶碗、
それより北条の町の灯。
野島崎。しらはま。和田の浦。江見。
そと海に出て、九十九里浜。
松尾。
飯沼観音のながめ。
大利根を左、
北上して――。
大洗から磯浜、平磯、磯崎……
つぎに
関本。
このへんより松川浦にかかって小高、原の町、日立木の漁村つづき。
仙台湾。
名にし負う
江戸を出て九日目の夕ぐれだった。
午すぎからあやぶまれていた空模様は、夜とともに大粒な雨をおとして、それに風さえくわわり、二つの船は見るみる金華山沖へ流れていったが!
やがて。
真夜中ごろであろうか、一大音響をたてて船が衝突すると、あらしをついて栄三郎、泰軒が、左膳の船中へ乗り入り、まもなく月輪の三士をことごとく斬りふせたとき! かなわぬと見た左膳。
ただちに手にした夜泣きの大小を海中へ投じたが、すかさず! 栄三郎が水へもぐって、沈まんとして流れてきた二刀を拾い上げ、船へ泳ぎ戻った。
そして!
その二剣を、船中に倒れていた弥生の手に握らせた時、ニッコリした弥生は、それを改めて栄三郎へ返してただひとこと。
「どうぞお艶さまと……」
かすかに洩らしたのが最期。
さびしい――けれども、いい知れぬ平和な満足が、金華山洋上あらしの夜、弥生の死顔のうえにかがやいたのだった。
泪をぬぐった栄三郎が、泰軒の指す方を見やると、はるか暗い浪のあいだに、船板をいかだに組んで、丹下左膳の長身が、生けるとも死んでともなく、遠く遠くただよい去りつつあった。
遠く遠く、やがて白むであろう東の沖へ……。
なんという長い月日であったろう!
かくしてここに、乾雲坤竜の二剣、再び諏訪栄三郎の手に返ったのだった。
青葉若葉……。
六月のなかばの江戸である。
すっかり
青あらしは、柳の枝も吹けば、道ゆく女の裾もなぶる。
かろやかな初夏の街。
すべてが、陰にあって、よかれと糸を引いてくだすった南町奉行大岡越前守忠相さまのたまものである。
お艶は、大岡様の手によってまつ川から受け出されて羽織の足を洗い、おさよは、これも大岡様から家主喜左衛門へ急使が立って喜左衛門が鈴川源十郎方へ掛けあいにいって救われた。
そうして今。
そして、もし栄三郎さまが、夜泣きの刀を入手してくれば、帰藩と同時に