一
「お
快活な声である。てきぱきした口調だ。が、
冬には珍しい日である。梅がほころびそうな陽気だ。
この、
若松屋の茶室である。いや、茶室であると同時に、惣七の帳場でもあるのだ。三尺の床の間に、ささやかな経机、
次の間へ投げた惣七の声には、すぐ反響があった。はい、と口のなかで答えて、女がたったのだ。
ちょっと
「あの、お呼びなされましたか」
「おう。茶が一ぱい飲みとうなった。風で、ひどいほこりだな」
惣七の
「
「はい。いいおしめりが一つほしゅうございます」
「茶を、もらおう」
「はい」
お高は、切り炉へ向かって
「もういらぬ」
惣七がいった。
「は!」
お高は、顔を上げた。不可解の色が、お高の
惣七は、いらいらした。
「茶は、いりませぬ」
「はい」
「急な手紙を思い出したのだ。また代筆を頼みたい」
「はい」
お高は、茶道具を片づけて、手早く硯箱を持って来た。巻き紙をのべて、筆の先を小さくかんだ。くちびるに墨がつく。二、三度、硯に穂さきをならして筆を構えた。
しんとなった。上水をへだてた
若松屋惣七は、はっきり見えない眼を返して、お高を見た。見ようと努力して、顔を前へ突き出した。
二
若松屋惣七は、もちろん町人だ。妙な商売をしている。両替が本業なのだが、貸し借りの
まるで彼は、いながらにして江戸中の
武士は、くつわの音に眼をさますという。若松屋惣七は、ちゃりんという小判の音で眼をさます。どっちも同じことだ。この若松屋惣七は武士出だ。彼は、両刀を
若松屋惣七は、もと
では、それほどの剣道のつかい手が、どうしてこんにちの若松屋惣七として、前垂れをしめるようになったか。わけがあるのだ。
さて、腕は立つものの、武者修行に出るというのも、大時代で面白くない。江戸でのらくらしていた。あそんでいると、ろくなことはしでかさない。女ができた。まあ、恋というところだ。その女のことで、仲間と果たしあいをした。相手も、相当できる男だった。仲裁がはいって、人死には出なかったが、そのとき惣七は、両眼のあいだに
そこで、というわけでもない。もとから、
しかし、何でも、やり出してみると、面白い。夢中にさえなれば、武道も商道もおなじこつなのだ。いつのまにかここまできた。きょうの若松屋惣七は、むかし星影一刀流に落葉返しの構えを作り出したように、金銭の取り引きに、彼独特の一つの
女のことは忘れている。忘れようと骨折っている。忘れようとして骨を折らなければならないほど、忘れられないのだ。若いころのことを思うと、よくもああいろいろ
両替渡世の看板をあげているわけでも、若松屋という
そんなところで、生き馬の眼を抜くような
商売は、多く手紙のやりとりでする。若松屋惣七は、よく眼が見えない。お高が、手紙の代読と代筆をするのだ。帳簿も、お高が整理していた。
三
お高は、この金剛寺坂へ来て、六月ほどになる。誰か商売の手助けと身のまわりの世話をかねるものをとのことで、
おもてといっても、べつに店があるのではない。武家屋敷とおなじ構えで、男たちがごろごろしている。若松屋惣七は、例の奥まった茶室を一歩も出ない。お高は、次の間に控えていて、万事惣七のいうなりに取り計らっているのだ。日夜いっしょにいるのである。惣七とお高のあいだが、いつしか単なる女
お高は、金剛寺坂の家を住みやすいと思っている。仕事は多いが、多すぎるというほどでもない。その大部分は、惣七のことばを書き取って、手紙にすることだ。もともと、惣七は眼が悪いので、この手紙の代書をするために、雇われて来ているのである。
はじめは気の変わりやすい、怒りっぽい惣七の口書きをすることは、大変な仕事だったが、それも、慣れてしまうと、このごろのように楽なものになって来た。惣七の声が、お高の耳から飛びこんできて、手をうごかし、手紙を書かせるのだ。お高は、いわば道具のようなものだ。
手を動かしながら、頭ではほかのことを考えている場合が多い。お高は、自分だけの夢を持ちはじめたのだ。お高の眼が、うっとりとした色を帯び出したのは、そのためだろう。お高は、惣七を愛し出しているのだ。ぶっきらぼうな、味もそっけもない、眼が悪いためにしじゅういらいらしている惣七である。
彼は、お高をどう思っているか。おどろいている。むかし、自分の心をとらえて、まだ離さないでいるあの女に、お高があまり似ているのに驚いているのだ。どうかした拍子に、人の顔などははっきり見えることがある。そういうとき、お高の顔がよく見えると、惣七は、思わずぎょっとするくらいだ。それほど似ている。と、惣七は思うのだ。
いまもそう思って、彼は、お高のほうへ眼を見ひらいている。
「きょうは、あちこち手紙を書かねばならぬ。だいぶたまった。ひとつ頼もうか」
「はい」
「まず
「はい」
「織り元から、この夏入れた品物の代を請求して来ているのだ。あそこはいつもこうです。毎年このごろに二、三本の催促状を書く。今度は、一本で済むように、すこし手きびしくいってやりましょう」
「はい」
惣七の冷たい声が、しばらく部屋に流れつづけた。巻き紙を走るお高の筆の音が、それを追う。
条理と礼儀をつくしたなかに、ちょいちょいすごさをのぞかせた文句が、お高の達筆によってきれいにまとめられた。
つづいて三つの手紙を片づけた。それぞれ
「それから」と、惣七がいいかけていた。「最後に、こんな馬鹿げたのを一つ書いてもらおう。筆ついでだ。いや、着物を買い過ぎて、呉服屋へ借金のかさんだ女へ、その呉服屋に代わって、払いの
若松屋は冷笑をうかべている。しばらくして語をつなぐ。
「
ちょっと切って、すぐ糸を
一筆啓上つかまつり候 。当方は若松屋惣七と申す貸金取り立て業のものにござ候。呉服太物商磯五よりおんもとさまへの貸方二百五十両のとりたてを任 せられ候については、右貸金はすでに三年越しにて、最初内金五両お下げ渡しありたる後は、月延べ月延べにて何らの御挨拶 なく打ちすぎ参り候段、磯五とてもいたく迷惑いたしおり候ことお察し願い上げそろ。今回磯五になりかわり、当若松屋が御督促申しあげ候以上、もはや猶予のお申し出には応じ難く、一両日中に即金二百五十両お払いくだされたく、伏して願い上げ申し候。なおしかるべき御返答これなきときは、ただちに公事におよぶべき手配、当方において相ととのいおり候旨、念のため申し添え候。
四
「これで、すこしは驚くことであろう」
若松屋は、声をたてて笑う。面白くてたまらないといった、屈託のないわらい声である。それが、けむりか何ぞのように、眼に見えて、軒を逃げて、樹間に
お高は、筆をおいて、ぼんやり
「二百五十両も、
お高が、きいた。物思いから、急にさめたような声だ。
「あの、あて名は、麻布十番の馬場屋敷内、高音と申すのでござりますか」
「さよう。麻布十番の馬場屋敷居住、高音という女です、愚かなやつだ」
「はい」
「きょうは、手紙は、それでおしまいにしましょう」
「はい」
「疲れたであろう。
「はい」
「もうよい。あすまで用はない」
「はい」
「用がないと申したら、用はないのだ」惣七は、じりじりと
「はい」
「な、何をぐずぐずといたしおるのだ!」
「はい。あの――」
「何?」
「あの、磯五は、磯五とやら申す呉服屋は、そんなに恐ろしい店なのでござりますか」
「恐ろしい? なにがおそろしいのだ。いや、金のこととなると、世間はみんな恐ろしいぞ。金にかけては、人はすべて鬼なのだ。まず、この若松屋惣七がその筆頭かな」
「はい」
「はいという返事は手ひどいぞ。ははははは、なに、このごろ、磯五の店を暖簾ごと買い取ったものがあってな、つまり、磯五は磯五だが、そっくり人手に渡ったのだ。そのあたらしい
「はい。そうしますと磯五には、あたらしい金主がついたのでございましょうか」
「金主かどうか、それは知らぬ。が、店の名義は、変わったな。挨拶が参っている。それやこれやで、古証文に口をきかせて、いくらにでもしようというのであろう。よくあるやつだが、今度の磯五は、腰が強そうだぞ」
「はい」
「呉服仲間は、馬鹿にできん商売
「はい」
「もうゆきなさい。わしも、ちと横になろう」
「では、あの、お床をおとり申しましょうか」
「ううん。それには及ばぬ。たたみの上で、結構だ。手まくらで、とろとろと致そう」
「はい」
「早うあちらへまいれ! その手紙を、それぞれ使いに持たせて、即刻届けさせるのだ」
惣七は、叫ぶようにいった。惣七の声が高まるのは、これから機嫌のわるくなる証拠だ。お高は、早々に座を立って、男たちの部屋へ行った。いま書いた四、五の状箱をかかえて行った。玄関わきの、もとの用人部屋には、
「どら、
と、佐吉がたち上がったところへ、文箱を重ねてかかえたお高が、そっとはいって行った。
はでな色が、不意に動いたのにおどろいて、三人は一時にお高を見た。
「お使いですかい」
「あい。ちょっと行ってもらいましょうよ。三人手分けをして届けてもらうのですよ」
「ようがす」三人は、いっしょに手を出した。
「あっしは、どっちをまわるのですね」
お高は、一つだけ残して、佐吉と国平と滝蔵に状箱を振り当てて、それぞれゆく先を教えた。滝蔵が、お高の手に残っている一つに、眼をとめた。
「それは、どうするのですね。誰か持って行かねえでも、いいのですかね」
「これはいいの」お高は、あわてて、その状箱を隠すようにした。
「これは、あたしが持って行くから――」
それは、若松屋あつかい磯五より、高音さまへ、とある、あれだった。
客
一
あくる朝だ。
松の影が、たたくように障子に揺れている。朝ももう、
それにしては、することだけは、きちんとしているのである。夕飯の給仕にも出た。この床も、取っていった。いつものとおり、
が、考えてみると、そのあいだずうっと無言だったようだ。気分でも、すぐれないのかもしれない。それとも、何か、気になることでもあるのか。そのときは、そう思っただけで、惣七も、べつに気にとめなかったのだが、どうもきのう以来、あのお高のようすがへんなのである。けさひとつ、顔が合ったらきいてやろう――若松屋は、そう思った。
思いながら、彼は、苦笑した。小判魔、というのもへんなことばだが、そういってもいいほど、とにかく、今では、金のほかは何もなくなっている若松屋だ。その若松屋が、けさは、どういうものか、お高のことが気になってしようがないのだ。
それは、盲目に近い彼にとって、女番頭といえば、大切な人間ではある、ことにお高は、女ではあるが、字も達者だ。それにこのごろは、
それに、いつからか若松屋に許して、女房もおなじになっているお高でもある。若松屋惣七が、このお高がゆうべから顔を見せないことを気にするのに、別に不思議はないのだが、彼は、珍しく、ほんとに何年ぶりかに、女というもののことをこうして、すこしでも切実に考えている自分に皮肉を感じて、いま苦笑をもらしたのだ。それは、霜の朝の池の氷のような、うすい、冷たい苦笑だった。
縁ばたに、杉の
若松屋惣七は、舌打ちをした。そこらをなでるようにして、顔を洗った。口をゆすいだ。手さぐりで、廊下を進んだ。彼は、
若松屋惣七は、毎朝、
あかるい光線が、茶室にあふれていた。それは、四角い桃色となって、若松屋惣七の網膜を打った。そのなかで、ほっそりした人影が、ゆらりとなびいた。何者か、自分の留守に、この帳場へ来ているのだろうと、彼は思った。同時に、からだ
「お高か」
「はい。お高でございます」
「何しにここへ来ておるのだ。わしがおらんときは、誰もはいってはならぬことを知らぬのか」
惣七は、不愉快な顔をした。不愉快な顔をすると、両眼と、そのあいだの傷あとが、一線に結びつくのだ。机の前へ行って、すわった。机の上で、彼の手に触れたものがある。文箱だ。
「来書か」
といって、惣七は、その状箱を両手に握った。
高音どのへ、若松屋あつかい磯五の件、とお高の字が読めてきた。
「お!」と、若松屋は、首をかしげた。「これは、きのう送ったはずの手紙ではないか。もう、返書が参ったのか」
「いいえ」
「なに? 返書ではないと」
惣七は、がた、がた、がたと
「や、これ、封が切ってあるぞ」
いいながら
「うむ。これはどうしたというのだ。持たしてやったはずの手紙がどうしてここにあるのだ。これ、一つ忘れたというのか」
ふだんから青鬼の面のように
「わたしは、とくに、この手紙を急いでおったのだ。その、いそぎのやつを選びにえらんで、忘れるという法はあるまい。いや、忘れたでは済むまい」
お高は、たたみの上で収縮した。
「はい」
「はい、ではない。はいではわからぬ!」
「はい、あの――」
「ちいっ! はいではわからぬと申すに!」
「――」
「しかも、これ、開封してある」
若松屋惣七は、急に、しずかな口調を取り返した。
「お高、お前、どこか気分でもすぐれぬのではないかな」
すると、お高が、いつになくきっぱりした声をあげたのだ。
「いいえ。ただそのお手紙はわたくしのでございます」
「なに? 何のことだそれは」
「わたくしのでございます」
「この手紙が、か」
「さようでございます。そのお手紙は、わたくしにあてたものでございます」
ほう! ――というように、若松屋惣七の口が、長くなった。長くなったまま、無言がつづいた。
二
お高が、いっている。こわれた笛のような声だ。
「はい、それはわたくしあてのお手紙でございます。でございますから、わたくしが拝見いたしました」
「そうか」
と、若松屋惣七は、
「そうか。
もう一度、顔をなでる。なでながら、見えない眼が、指のあいだからお高をみつめた。鼻に、
「ふん。お前が高音か。そうか。そんなら、手紙をひらいたに不思議はない。本人だからな。あはははははは、それがどうしたというのだ?」
どうしたというのだ? と、笑いを引っ込めて、若松屋惣七は、膝を振り出した。いらいらしてきたのだ。
三年まえに、麻布十番の馬場屋敷に住んでいて、そこで、
どうせ、何か、いわくのありそうなやつとはにらんでいたのだが――若松屋惣七は、裏切られたような気がした。このうえなく、不愉快になってきた。
お高は、手をそろえて畳に突いている。そのうえに、頭を押しつけたままだ。
若松屋惣七は、
二百五十両といえば、大金だ。女の身で、ひとりでその借金をしょっているのだ。それがみんな衣類を買った代だというのだ。利口なようでも、やはり女だ。馬鹿なやつだ。しかし、何しにそんなに、着物ばっかり買いこんだのだろう? また、磯五ともあろうものが、どうしてそんな額にのぼるまで、貸し売りを許しておいたのだろう?
どんな生活をしていたのか、知れたものではない。払いを逃げまわっていたあいだも、どこで何をしていたのか――そのお高を、今までかなり信用して、ある程度まで取り引きの秘密にも参与させてきたのだ。そう思うと、若松屋は、いやな気がした。自分がうかつだったと思った。
「旦那様にまで、身分を隠してまいりました。すみませんでございます。どうぞ、お気を悪くなさらないように」
お高が、いっていた。うつ伏したままだ。若松屋はもう千里も遠のいてしまったような、つめたい顔を上げた。
「なに、すむもすまないもない、どうせ、なにかあることと思っておった。女は、
「そんな、そんな
「いいます。そう思うから、いうのだ。いや、もう何もいうまい。ただ、一言だけ聞かしてもらいましょう。何しに素性を隠して、この
若松屋は、ぐっと曲がってしまった。何ごとでも、だまされていたのだという心もちが、若松屋をそうさせずにはおかないのだ。
「と、とんでもない! さぐりに、などと、旦那さまあんまりでございます――」
泣き声が、お高のことばじりを消した。お高は、たたみを打って、突っぷした。
若松屋は、横を向いた。
「何も、泣くことはあるまい。わたしこそ、あんな手紙をお前に書かせて、さぞつらかったことであろう。すまなかったと思っておる。が、それも、知らぬこと。ま、許してもらおう。ははははは」
若松屋は、意地わるく出るのを、押えることができないのだ。
三
「旦那様、どうぞ一とおりお聞きくださいまし」
「聞く――必要もあるまいが、ま、聞きましょう。しかしわたしを泣き落として、その二百五十両を払わせようと思っているなら、むだだ。よしたがよい。理由のないところに出す金は、わしには、一文たりともないのだ」
「まあ! 決してそんな――」
「気はないというのだな。ははははは、それで、大きに安心いたしたよ。何でも聞きましょう」
「払えるつもりで――払う目当てがあって、買ったのでございます」
「高音どの、お前さまはいったい、何者なのだ?」
「どうぞ、高音とだけは、お呼びくださいますな。いまのわたくしは、ほんとに、ただの高なのでございます」
「それは、まあ、どっちでもよいが――」
「わたくし、自分のお金といっていいものを、二千両ばかり、もっていたのでございます。けれど、どうしてあのとき、あんなに
意外という字が、若松屋の顔に、大きく書かれた。
「良人? 良人が、あったのか」
「良人は、わたくしがいい着物を着ているのを見るとこのうえなく機嫌がよかったのでございます。わたくしのお金で買いさえすれば――」
「そりゃ、そうだろう。その、美しいお前が、いい着物を着るのだ。一段も二段も、たちまさって見えたことであろうよ。自分の
そっけなくいい放った。が、すぐ、ちょっと気をやわらげたようだ。
「その、良人とやらは、武士か」
「はい、いえ、大奥のお
「もちろん、故人であろうな」
「は?」
「いや、いま在世してはおらぬのであろうな」
「いえ、生きておりますでございます」
「なに、生きておる?」
若松屋惣七の顔には、純真なおどろきと、不審と、好奇と、何よりも悲痛の色が、一時に、はげしい
「良人の生きておることを知りながら、妻たるお前はどうしてわたしと、こういうことになったのだ――」
「あなた様を、おたぶらかし申したようなことになりまして、面目次第もござりませぬが、決してそんな――」
「ええっ! よけいなことを申すな。いつ会ったか、その良人と」
「いえ、会ったことはござりませぬ。会ったことはござりませぬ。ただ、死んだといううわさは聞きませぬから、まだ、生きておるのであろうと思うだけでございます。わたくしは、感じますのでございます。良人は、まだ生きておるのでございます」
若松屋惣七は、だんだん事情がわかってくる気がした。
「その茶坊主の良人とやら、お前には、つらく当たったであろうな」
「はい」
と、お高は、つらかった日を思い出したように、顔を伏せた。若松屋は、形だけの眼をしばたたいて、のぞき込むようにした。
「お前の持っておった
「はい」
若松屋惣七は、茶坊主などという、そういう型の男が、眼に見えるような気がした。そういう男に対する
お高が、いっていた。
「半年ほど、いっしょにいたばかりでございます。つらい半年でございました。あげくの果て、わたくしのお金をさらって、逃げて、おおかた、ほかの女にでも入れ揚げたのでございましょう」
「三年前のことだというのだな」
「三年まえでございます。そのために、立派に払えるはずだった磯五のほうも、払えなくなってしまったのでございます」
「何をしておった。それから、当家へ参るまで」
「あちこち女中に住み込んだりなど致しまして、精いっぱい働いて参りましてございます。良人が、洗いざらい持って行ってしまいましたので、ほんとに、わたくしに残されましたのは、
「きやつ――というては、悪いかもしれぬが、きやつはいまだに、奥坊主組頭をつとめておるのか」
四
「いえ。ただいまは、
「小普請坊主か。しからば、無役だな」
「はい。無役でございます」
「女にでも食わせてもらっておるのか」
いってしまって、これはすこし残酷だったかな、と若松屋は思った。はたして、お高は、顔を伏せた。べつのことをいいだした。
「いただきますお手当てをためておきまして、月づきなしくずしにでも返してゆきたいと思うのでございますが、でも、二百五十両とまとまりますと、女の腕いっぽんでは、大変でございます。お察しくださいませ」
「それは、察せぬこともないが――」
「はい」
「何とかせねばならぬ。なぜきのう、あの手紙を書いたときに、すぐいわなかったのか」
「申し上げられなかったのでございます」
「ふん。そんな
「申し上げようと思って、申し上げられなかったのでございます」
お高は、眼を閉じた。あふれ出ようとする泪を、押し返そうとしているのだ。が、一粒、澄んだ泪の玉がまぶたの下を破って出て、黒い、長いまつ毛の先に引っかかっている。
「こんなにしていただいていて、そんなこと、とてもお耳に入れられなかったのでございます。それよりも、気が
磯五は、今までよく親切に、
きのうあのお手紙を書きましてから、どんなに苦しみましたことでございましょう。麻布十番の馬場やしきの
若松屋は、無言だ。しずかになると、下男の滝蔵が
「旦那様」お高が、あらためて呼びかけた。「わたくしは、ここに三両持っておりますでございます。どうぞこれを、磯五のほうへおまわしくださいまして、あとは、また待ってくれますように、どうぞあなたさまから、磯五のほうへ、おかけあい願えませんでございましょうか」
「馬鹿な!」
若松屋は、
「だめでございましょうか」
「馬鹿な!」若松屋は、笑った。「そんなことをせんでも、そう事がわかれば、その二百五十両は、わたしが払ってやる」
お高は、
「いいえ、いいえ、めっそうもない! そんなことをしていただいては、
「なぜだ」
「なぜと申して、そんなことをしていただこうと思って、お話し申したのではございません」
「それは、わかっている。だから、貸すのだ。
若松屋惣七は、いつのまにか、ほろ苦くほほえんでいた。お高は、あわてて、二度も三度もつづけさまにおじぎをして、やたらに手を振った。
「いえ、もう、それだけは――そのお志だけで、ほんとに、ありがとうございますが、でも、お立て替えくださることだけは、失礼でございますが、お断わり申し上げます」
「ふうむ。それはお高、あまりに他人行儀というものではないか」
「――」
「ははあ、読めたぞ。お前はまだ、そのすてられた男のことを思っているのであろう」
「――」
「これ、お高、そちは、その男のことを思いながら、わたしと、こういうことになったのか」
若松屋惣七は、くちびるを白くしている。お高の顔にも、血の気がないのだ。
五
いきなり、若松屋惣七は、天井へ向かって笑い声をほうり上げた。いつまでも笑っている。いつまでたっても、馬がいななくように笑っているので、お高は、気味がわるくなったが、それでも、ほっとして、
「もし、旦那様。わたくしが払いできずに、磯五が訴えましたならば、わたくしは
でも、こちら様から督促状がいきますと、たいていの方が、お金を届けて参ります。わたくしは、しじゅう、もしわたくしにそんな日がきたら、どうしようかと思って、夜もおちおち、眠れないようなことがございましたが、とうとう、その時がまいったのでございます――」
若松屋惣七は、急に、お高のほうへ、半身をつき出した。
「どんな男だな。その良人というのは。何か近ごろ、たよりでもあったかな」
「いいえ。家出しましてから、一度のたよりもございませぬ」
「だいぶ、
「あの、酒がはいりますと、まるで別人のようになるのでございます」
「のんべえか。だが、その男も、お前を大切にしたことがあるであろうが――」
「はい。それは、ひところは――でも、べつにわたくしを好きだったのではございません。わたくしのもっていた二千両が目当てだったのでございます」
「きやつが生きておるというのは、確かか」
「たしかに生きているという気が、いたしますのでございます。もし死ねば、何かわたくしの耳にはいるはずでございますから――」
「てへっ! 貞女だなあ、お前は、貞女だよ。見上げたものだよ」
若松屋は、苦々しげに、この皮肉を吐き出した。お高は、はっとして下を向いた。耳のつけ根まで燃えた。
「わたしは、そのお前の良人が、死んでいてくれればいいと思う」
若松屋が、しずかにいっていた。お高は、もう一度はっとして、こんどは、顔を上げた。黙って、惣七を見た。惣七の、ふだんは森林にかこまれた湖のような顔に、いまは、かつて見たことのない情炎がぼうぼうと揺れうごいていた。それが、惣七の顔を、真昼の陽光のなかに、不思議と、影の多いものに見せていた。
若松屋惣七の声は、水銀を飲んだように、ひしゃげてきた。
「死んでいてくれればいい」繰りかえした。「なぜこんな容易ならぬことをいうのか、お前にはわかっているであろう。わたしは、お前を思っているのだ。わたしという人間は、冷たい人間だが、お前を熱く
が、お高は、肩をすぼめて、かえって身をひくようにした。
「何だ。いやなのか。そんなに、わたしが恐ろしいのか。よし。そんなにいやがるものを、いまどうしようともいいはせぬ。しかしお高、その茶坊主はお前の良人かもしれぬが、わたしとお前のあいだも、妻と良人も同然であることを、忘れぬようにな。ははははは、つまりお前には、良人が二人あるのだ」
「どうぞ、そんな、あさましいことをおっしゃらずに――」
「あさましい? こりゃ面白い。何があさましいのだ。男が、好きな女をくどくが、あさましいか」
「でも、わたくしには、いま申し上げましたとおり、良人があるのでございます。たとえ家出して、行方知れずになっておりましても――」
「ふん、そんなら、どういう気で、わたしとこういうことになったのだ。一時の気の迷いか」
「――」
「それみい。答えられまいが。お高――」惣七の声は、意地にふるえた。「わたしは、お前は離しはせぬぞ。この、見えぬ眼で、どこまでも追いかけるのだ」
おおっ! というように、お高が、おめいたようだった。去った良人への気がねに、全心身をあげて惣七に打ちこみ得なかったお高だ。惣七に対する愛恋に、自制に自制を加えてきていたのだ。
その
こうして
お高は、しがみついて、惣七の
「泣け、泣け。泣いて、泣いて、泣きくたびれて、眠るのだ。なあ、何も心配することはないぞ。泣きくたびれて、ねむくなるまで、泣くのだ」
お高を抱いている惣七の手が、軽く、お高の背なかをたたきつづけた。そして、ゆっくり、からだを左右に揺すぶっていた。まっすぐに上げた惣七の顔が、白く、引き締まって見えた。
六
お高の声が、惣七のふところから、揺れ上がった。
「この借銭だけは、わたくしひとりの手で、返させていただきとうございます」
「強情な。しかし、それも、面白かろう」
「はい。何とかして、わたくしひとりの手で返金して、さっぱりいたしとうございます」
「うむ。やってみるがよかろう。やってみなさい。わたしも、先方へ口添えをしておきます。その磯五の店の暖簾ぐるみ買ったという男、つまり新しい磯五だが、わたしは、その男を、すこしも知らないのだ。が、文通はあるのだから、いずれ、よく伝えておきましょう。なに、案ずることはない。ただ、わたしにその金を出させてさえくれれば、なんのいざこざもないのだがな」
「いえ。そればっかりは――それでは、あんまりもったいのうございます」
「では、その茶坊主のことなりと、いますこし聞かせてくれぬかな」
「はい」
「さしつかえあるまい」
「なんのさしつかえが――それは、それは、見得坊な、とんと締まりのない男でございました。それに、鬼のように情け知らずで――でも、よく頭のまわる、はしっこい男でございました。あんなのを、山師、とでもいうのでございましょうか。しじゅう、何かしら、大きな商売などをもくろんでいたりなどしまして、それをまた、不思議に、人さまが真に受けるのでございます。でも、心のしっかりしていない、弱い人でございました」
「家を出て、どこへ行ったのかな」
「はい、何でも風のたよりでは、
「それは、きやつが、奥坊主の
「さようでございます。やめまして、小普請お坊主として、からだが
「お前を、か。何と男
「あら、でも、人はみな好きずきでございますから、そんなこと、とやこう申す筋あいではございません。それからわたくし、高音という名を高とあらためまして――」
「もうよい、よい。あとは聞かんでも、わかっておる。だが、しかし、二千両持ち逃げしたとは、そりゃ、はじめからたくらんだ仕事に相違あるまい」
「どうも、そうらしいのでございます。でも、わたくしは、お金のことは、もう何とも思っておりませんでございます。あの人も、心から悪い人ではなし、ふっと魔がさしたのであろうと、あきらめておりますのでございます」
「何の、心からの悪ものではないものが、そんなことをしようぞ。これ、お前は、このわたしの膝の上で、きやつの
「いいえ。決してそんな――」
「ええっ、聞きとうないわ。こりゃ、もしその茶坊主が死んでおったら、お前はわたしに、身もこころもくれることであろうな」
「それはもう、たとえあの人が生きておりましても――と申し上げたいのはやまやまでございますが、何だか、気になりまして――」
「うむ――」
若松屋惣七の顔を、けわしい剣気が、
「まあ、こわ! 何を考えていらっしゃいますの?」
「――」
お高は、甘えて、惣七を揺すぶった。
「よう、旦那さま、何をそんなに考えていらっしゃる――あ! わかった」
お高は、顔いろをかえて、惣七をふりほどこうとした。惣七は、もう笑顔に返っていた。
「わかったか。わたしはいま、その男にあったときのことを思っておったのだ」
久しく、思い出したこともない落葉返しの構え、その落ち葉のように、かっと散る熱い血しぶき――惣七は、とっさに剣を想ったのだ。忘れていた
この、はじめて見る惣七に、ぎょっー、としたらしく、お高が、惣七の
惣七も、お高を離した。同時に、縁側に、男衆の佐吉が、うずくまった。若松屋惣七は、不興げな顔を向けた。
「客か」
「へえ。
「なに、磯五が参った」
ちらと、お高と惣七の眼が、合った。お高は、恐ろしい借金のことを思って、眼に見えてふるえだしていた。惣七が、佐吉に命じた。
「座敷へお上げ申せ、あっちで会おう。主人は、すぐ参りますと、丁寧に申すのだ。失礼のないようにな」それから、お高へ、「着替えを、これへ」
まもなく、
「
そのまま、手さぐりで、座敷へ出て行った。お高は、いいつけられたとおり、茶菓のしたくをいそいだ。もうよかろうと、盆をささげて、その座敷のそとまで行った。
「へっ、これはどうも、お初にお眼にかかりますでございます。手前が、若松屋でございます。はいはい、あなた様が、このたび磯屋をそっくりお買い取りなすったお方で、ああ、さようでございますか。こん日はまた、遠路をわざわざ、いえ、なにぶん、手前は、このとおり眼が不自由で、他出がかないませんで――」
それに対して、磯屋五兵衛も、何か挨拶を述べているようすである。
ころあいをはかって、お高は、しとやかに
すっぱいような、ヒステリカルなお高の笑いが、びっくりしている惣七に、向けられたのだ。
「この人、わたしを置きざりにした良人でございます」
式部小路
一
「や、これは!」
と、おどろきの声をあげたのは、磯屋五兵衛だ。この、新しい磯五のあるじは、こんがり焦げたような
つぎに彼は、うふふふ、と不思議な笑い声をたてた。それは、意外にも、少年のような無邪気な、ほのぼのとした笑い声で、どんな場合にも人に好感をいだかせずにはおかない、一種の魅力がこもっていた。
「これは驚いた! おどろきました」
磯五はこういって、お高と若松屋惣七を交互に見たが、ほんとは、口でいうほど、さほどおどろいてもいないようすだ。茶坊主あがりだけに、円頂を隠すためであろう。
長らく大奥につとめたという、その品位はさすがに争えないもので、香をたきしめたように、彼の身辺に漂っているのだが、こうしていると、ちょっと見たところ、磯五という大きな太物屋の旦那とよりは、まず
すらっとして
ほがらかな表情のまま、じっとお高を見ている。
お高は、みじめにあわてていた。手をすべり落ちた茶器が、足もとに散らかって、畳が、うす緑色の液体を吸いこもうとしている。その始末も忘れて、若松屋惣七の顔へ、おののいた眼を凝らした。
惣七は、無言だ。青い色が、顔を走り過ぎた。よく見えない眼をみはって、磯五を見ようとした。細い指が、ふるえて、着物の膝をつかもうとしていた。
若松屋惣七は、はじめて挨拶した瞬間から、この磯五からいい印象を受けていた。視力の不自由な人の感である。この男なら、高音の二百五十両の件を切り出しても、事情さえわかれば、取り立てを延ばしてもらえそうだ。それどころか、こっちの出ようによっては、無期延期というような話しあいも、むずかしくはなかろう――そう考えていたやさきである。
そう考えていたやさきに、この新しい磯五こそ、もと奥坊主組頭をつとめていた、お高の良人だと聞いて、若松屋惣七は、急に、たましいの全部をあげて、磯五を憎んだ。突っかかるような
無意識のうちに、左手がひだりへ伸びて、そっと畳をなでていた。武士のときの癖で、そこに、
笑っているうちに、磯五の顔が、うっすらと見えてきた。すると、なぜお高がこの男といっしょになったか、のみならず、二千両という金を着服されて逃げられたのちまでも、いまだに、いささかの恋情を残しているそのわけが、若松屋惣七にははっきりわかる気がした。磯五の男ぶりは、若松屋惣七も認めざるを得なかったのだ。とともに、さっきお高はいった。良人はそのうちにきっと何かえらいことに成功しそうにしじゅうみんなに信じられていたという、その理由も、ほぼうなずくことができた。
若松屋惣七は、氷のような鋭い
彼には、磯五という人間のタイプが、書物を読むようにわかるのだった。御家人や町人などに、よく見かける人物である。女性をあつかうことにかけては、天才といってもいいのだ。ことに女から金をまき上げる、女に金を吐き出させる、そういうこととなると、職業的に巧みなのだ。ことに、坊主あがりだという。よくあるやつ――若松屋惣七は、一瞬のあいだに、すでに磯五を値踏みし、部わけし、早くも応対のしかたをきめていた。こういう人間ならば、こういう人間で、こっちにも、おのずから別な出方がある――。
こうして若松屋惣七には、磯五という人物の特徴、習癖などが、たなごころをさすようにわかるのだ。わかってしまえば、あわてることも、恐れることもないと呑んでかかる。それだった。が、口へ泥をつぎ込まれたような不愉快な感情だけは、どうすることもできない。
これが、この男が、お高の良人だったのか。お高のからだのみならず、その心へもしっかりくいこんでいる、最初の男なのか――そのお高と、自分は夫婦同様の関係にあるのみか、いまは、絶えて久しい恋ごころさえ働きかけている――そう思うと、若松屋惣七は、しいんとした気持ちのなかへ落ちていく自分を、意識した。それは、日ごろ、彼が何よりもおそれている、白じらとした虚無の気持ちだった。
そういえは、お高と磯五は、ちょっとした身のこなし、ことばの端はしにも、共通なものがある、二人が、おたがいを開き合って暮らしたであろうころの想像が、一秒のうちに、若松屋惣七を、はげしい
彼は笑いやんでいた。
「いろいろとお二人のあいだに、積もる話もござろう、中座いたす」
思わず、さむらいの前身が出た。膝をあげて、たちかけていた。
二
「いや」磯五が、手をあげてとめた。ころがるような、へんにまるい声だ。「いや、なに、驚きました。ちょっと、びっくりいたしましたよ」
あははと笑って、彼は立ち上がった。ふところからきれいに畳んだ手ぬぐいを取り出した。いきなりしゃがんで、お高のこぼした茶をふきはじめた。
「何という粗相だ! これ、おわびしないか――」
それはまるで、じぶんのところへ来た客に、妻の高音が粗相をしたような、もうすっかり主人らしい口調である。
これが、静観にかえりかけていた若松屋に、ぐっと激怒をあたえた。
「お高、ふけ!」
「はい」
お高はおどおどしてかがんだ。磯五が、さえぎった。
「いや、お前はよい。これはわたしがふきます」
「お高、ふけといったら、ふけ!」
「はい」お高は、あなた! と
「いや、磯屋さん」若松屋がいっていた。「そりゃあもとは、あなたのお内儀だったかもしれませんが、今では、お高は、この若松屋の
若松屋惣七は、もう若松屋惣七に返っていた。磯五は、ちょっとけわしい眼をした。二人の男が、瞬間、気を詰めて向かいあった。
磯五は、畳をふく手をやめなかった。結局、こぼれた茶は、もとの夫婦によって掃除された。
磯五は座にかえった。
「ほう。お
若松屋惣七は、ぷすっとして黙りこんでいた。お高は、ふたりのあいだにすわって、もじもじしていた。
磯五が、ひとりで、他意なさそうにつづける。
「どうもひょんなぐあいでございますな」と、それから彼は、お高のほうへ向き直って、
「きょうはな、麻布十番の馬場やしき内高音というお
笑いをふくんで、
「わかりませぬな」
磯五とお高が、同時に惣七を見た。
「すると何ですか、磯屋さんは、お店からわたしに、高音さんのほうの取り立てがまわってきているということを、御存じなかったというんですね。それが、わたしにはわからない」
「いえ、ごもっともでございますが、なにしろ、店を譲り受けましたばかりで、それに、借り貸しの帳あいなど、かなり乱脈になっておりましたものですから、まだちっとも整理がついておりませんで――」
「それにしたところで」若松屋惣七は、表面いつしか、ふだんのあの夜の湖面のような、気味のわるい静かさを取り戻していた。
「それにしたところで、名と住まいで、すぐにお気がつかれそうなものと思われますがな」
「それが、でございますよ。わたくしは、あとになるまで帳面を見なかったので――いや、若松屋さん、あなたは、何かわたしが、知らん顔して現在の女房から――」
「おことば中だが、現在の女房とおっしゃるのは、ちとはずれておるように思われますが――」
「はて、げんざい自分の女房を女房と申すのに、何のさしさわりもあるまいと存じます――いえ、全く、わたしはこの高音に去り状をやったおぼえはないのでござります。
まあ、これは、手前の内輪のはなしになりますが、わたしが、お城づとめをひいてまもなく、もうけ話があって
「いえ、それは」とお高がはじめて口をはさんだ。膝でたたみをきざんで、なじるように詰め寄った。「いいえ、それではまるでお話が違います」
「まあ、いい」
若松屋惣七は、手で制した。
「磯屋さんの言い分を、ひととおり伺いましょう」
三
「でございますから、何もわたしは、知らん顔をして、現在じぶんの女房となっている女から、二百や三百の金をやいやい取り立てようとしたのではございません。何だか、人情しらずのやつとお考えのようですが、決してそういうわけではないので、はじめから、とんでもない間違いだったのでございます。
じつを申せば、わたくしこそ、あちらへ旅だちますときに、これの
いえ、全くのはなし、あの商売をのれんでと、雇い人ごと買い取りましたときに
なお、なかでも難物だけ一まとめにして、さっそく若松屋さんへ取り立てを、お願いすると申しておりましたが、あとになって、その、こちら様へ御厄介をお頼みした分のなかに、麻布十番の高音という口があると知りまして、それは大変だ、それこそわたしが、神信心までしてさがしている女房なのだ、というわけで、さっきも申しましたとおり、その取り立ての取り消しに、こうして駈けつけてまいりましたようなわけで――ところが、そのこちら様に、当の高音が御厄介になっておろうとは、いやどうも、近ごろ不思議なまわり合わせでございましたな」
長ながと弁じ立てながら、この、あとのほうの、当の高音がこちら様に御厄介というところに、ちょっといや味を持たせて、それとなく探るように、惣七を見ていた眼を、ちらっとお高へ走らせた。
惣七は、石になったように動かなかった。
「ほかにも、取り立ての御依頼があるとのおことばだが、近ごろお店からまいっているのは、この一件だけです」
「ははあ。それなら、今明日中にでも、続々お願いしてまいることと存じます。その節は、どうぞよろしく」
「いや。手前のほうこそ」
と、さりげなく応対しながら、若松屋惣七は、あたまのなかで考えていた。いま、たとえこの男を、刀にかけてぶった
それよりは、相手も商人、こっちも商人、それなら、いっそのこと商道で争ってやろう。剣のかわりに
と気がつくと、若松屋惣七は、即座に顔いろをやわらげていた。
磯五がいっていた。
「おわかりくださいましたか」
惣七は、上を向いて笑った。
「いや、よくわかりました」と彼は、こともなげにつづけて、
「それはそうと磯屋さん、そんなら、この二百五十金は、まあ、棒引きでございましょうな」
磯屋も、にっこりした。
「申すまでもござりませぬ。手前のほうからいい出して、それはまあ、すっぱりと、なかったことにしようと考えておりましたところで――これに、証文がござります。焼くなり破るなり、どうぞ御随意に――」
磯五は、ふところを探って取り出した一札を、若松屋惣七のほうへ押しやった。
四
「さすがおわかりが早い。恐れ入った御挨拶で――」
若松屋惣七は、手をおろして、取ろうとした。その手を、磯五が押さえた。
「お待ちください」
「はて!」
「若松屋さんはおわかりくだすったが」と、磯五は、あらためてお高のほうへ、「お前はどうだ。お前もわたしの話がわかってくれたろうな」
「知りませぬ」
きっぱりいい放って、お高は、高いところへ上がったように、眼がくらむ感じがした。若松屋惣七には、お高は、三年ぶりに別れていた良人に会っても、何の感情もないもののように感じられた。憎しみも恨みもないようすなのだ。磯五に対する限り、お高のこころは
それも、むりはない。出て行けがしにしたあげく、有り金をさらって逐電した良人である。こうして再び顔が合ったところでふたりのあいだは、他人以上につめたいのかもしれない――若松屋惣七は、いろいろに考えた。
一枚の証文のうえに、惣七と磯五と、二つの手が重なったまんまだ。
惣七は、ほのあたたかい磯五の手を感じた。白い、やわらかな手だ。はげしい労働や武術を知らない手だが、これは弱いようで、強い手である。一つの目的を達するためには、すべてを犠牲にするだけの熱をもっているのだ。水のように弱い。しかし、やどり木のように強い。宿り木は、
惣七が、こんなことを考えたのは、ほんの一瞬だ。磯五が、証文の一端を押さえて、ささやくように、低い声でいっていた。
「この証文を御処分願う前に、一こと伺いたいことがございます――正式に離縁状が出ていない以上、たとえ何年別れておりましても、妻は妻、良人は良人でございましょう?」
「もとより」
たたみの上の一枚の紙を、両方から押さえているので、顔が寄っていた。今にもがらりと伝法に変わりそうな磯五のようすに気づいて、若松屋惣七は、心がまえをした。早い殺気が、ひやりと流れた。
「この証文をお渡しするかわりに、ひきかえに高音をいただいて参ります」
「それは、御勝手です」
「が、知らぬは亭主ばかりなり――そんなようなことですと、磯屋五兵衛も顔が立ちませぬので」
お高はあっと出ようとする叫びを、
「ははは、何のことかと思えば――すてた女房に出会った照れかくしに、話しあいで旅に出たのだの、江戸へ帰ってからさがしておったことのと、調法な口をならべるばかりか、今また、あはははは磯屋さん、あんまり笑わせないでください」
「それでは、いっさいひょんな
「御冗談を。このお高は、ただいま手前が女房同様にしている女でございます」
平然といってのけると、若松屋惣七は、証文を持った手を引いて、びり、びり、と細かく破り出した。
磯五も、平気で起ち上がっていた。二、三歩、惣七のまえへ進んだ。
「若松屋さん、
いきなり、
「何をなさいます! 旦那さまは、どんなにわたしにお情けぶかくしてくださいましたことか、そのお礼も申し上げずに、お眼の不自由な旦那様を、ぶつとは何事です!」
「
「いいえ、お前さまこそ、人でなし! わたしをあんなひどいめに合わせておきながら、さっき黙って聞いていれば、待っているようにといい残して旅に出たとは何といういいぐさです! あちこちさがしていたなどと、うそをつくにもほどがあります! ――」
「ええっ! うるさい」
磯五は、お高を振りのけて、また惣七へ迫った。惣七は、平然とお高をかえりみた。
「心配いたすな。間男といえば、間男に相違ないのだ。痛くもない。なぐらせてやるのだ」
「何をへらず口を!」
磯五の拳が、あられのように惣七の面上に下った。惣七は、磯五の手をよけようともせずに、しっかりすわって、しずかに証文を破っていた。蒼白く笑っていた。
「佐吉、国平、刀を持て!」
彼は、そう叫びたかったが、何か考えでもあるのか、そう叫ぶかわりに、じっとくちびるをかんで、磯五の拳を受けつづけていた。
「ああ、すまない! それではすみません!――」
お高が、泣きじゃくって、再び磯五にむしゃぶりついたが、たちまちはねのけられてしまった。
お高の泣き声と、磯五が若松屋惣七をなぐる音とが、しばらく入りまじって聞こえていた。
磯五がなぐり終わったとき、惣七は証文をやぶり終わっていた。
惣七は、手の上の紙きれをふっと吹いた。雪のように飛んだ。惣七は、ところどころ色の変わった顔を上げた。笑っていた。
「磯屋さん、もういいのかね?」
五
若松屋惣七という人間は、妙な人間だ。ときとして、こんなに鉄のように固いのだ。すこしも感情を外へあらわさない。茶坊主あがりのならず者磯屋五兵衛も、さすがにうす気味わるくなったものか、なぐっていた手を引っこめて、あきれたように、惣七を見た。
惣七は、にこにこしていた。磯五は、泣きくずれているお高を引っ立てて、早々に帰ろうとしていた。彼は、惣七とお高のまえに
彼は、これを種に、いずれ若松屋をいたぶるつもりでいるのだが、今は、いくらなぐっても、相手が平気に澄ましているから、始末がわるい。一つどうんと惣七を
お高は、泣いて、惣七に取りすがっていた。
「旦那さま、ああいう乱暴者でございます。わたくしのことから、とんだめにおあわせ申して――何か話があるから、店へ来るようにとか申しております。ちょっと行って参ります」
「ああ行きなさい」若松屋惣七は、何ごともなかったように、けろりとしていた。「もう帰って来んでもよい。もちろん、帰ってこんだろうが、帰って来ないでも、わたしは困らぬというのだ。安心して、磯屋さんのいうとおり、またいっしょになれるものなら、いっしょになったがよかろう」
「いいえ。そんなそんな悲しいことをおっしゃらずに――お高は、きっと帰って参ります。おそくとも、必ず夕方までに帰って参ります」
そういって、お高は、磯五の待たしてあった
何といっても、磯五とお高のあいだには、夫婦としての共通の理解も感情もあろう。それに、お高のこころは、事実、磯五に傾いている。自分はひっきょう用のない第三者なのだ。そう思うと、磯五の売った喧嘩を買って出る勇気もないほど、はやさびしい気もちに打ちのめされていたのかもしれない。
むっと、土のにおいのする
濃い影を地面におとして、お高の乗った駕籠は、上水とお
お高も、駕籠に揺られながら、黙って、頭は、いま残して出て来た若松屋惣七のことを考えていた。あんなに打たれて、何ともないかしら? なぜあの方は、立ちむかおうとなされなかったのだろう? 悪いお眼が、いっそうわるくならなければよいが――自分のことを、いったい何と考えていられるであろう?
「高音、しばらく見ぬうちに、おそろしく
駕籠のそとから、磯五がいっていた。お高は、答えなかった。
「おれもまあ、
「知りませんよ。ちっともうれしくありませんよ」
「御あいさつだな。おめえ何か、あの御家人くずれのめくら野郎に、
「何という
「そうかな。これでも、酒だけはよしたよ」
「あら、お酒を? まあ、どうしてよしたの」
お高はあれだけよせなかった酒をよしたと聞くと、ちょっと世話らしい興味が動いて、思わずきいた。
「大病をしてなあ。死ぬか生きるかだった」
「どこで?」
「
「まあ――」
ちょっと、しんみりした空気のまま、またしばらく黙って歩いた。磯五が、いった。
「あいつ恐ろしくがまんづよい奴じゃないか。見上げたもんだぜ」
駕籠の中から、
「若松屋さんのことなら、もう何にもいわないでください――」
磯五は、声をたてて笑った。
六
日本ばしの通りを行って、式部小路へまがった。町家ならびだ。
「あれだ」
紺の暖簾に、いそやと出ている。間口のひろい、立派な店である。客も、出はいりしている。駕籠がとまると、小僧や手代が、うす暗い土間の奥から、旦那おかえりと声をそろえた。
お高は、磯五に案内されて、横手の通用口からはいって行って、すぐに、奥まった一間に通された。あるじの居間らしい部屋だ。きちんと片づいて、
せせこましい中庭をへだてて、店のさわぎが、手に取るように聞こえていた。客に接している番頭が、長い節をつけて品物の名を呼ぶと、小僧が、間延びした声でそれに答えながら、蔵から
すわるとすぐ、お高の顔をのぞきこむようにして、磯五がいった。
「なあ、よく、話し合って理解をつけようじゃないか。まあ、よろこんでくれ。知ってのとおりのやくざでお前にもしじゅう心配をかけたが、どうやらおれも、これで身が固まったようだよ。おかげで、今ではこのとおり、江戸でも名の売れている大商人だ。
なあ、お前にだって、これからはつらい思いをさせやしない。何も、あの小石川の奥へ帰って、あんなめくらなんぞのきげんをとることはありはしないのだ。どうだ、おれといっしょに、ひとつ、この大屋台をしょって立とうって気はないか」
ほん心かでたらめか、それとも、久しぶりに見るお高に、あたらしく心をひかれかけているとでもいうのか、磯五は、ふとこんなことをいいだした。そしてまんざら出
「やりようによっちゃあ、この店は、ものになると思うんだ。そこで、お前は字がいいし、それに、数理にあかるいから、帳場にすわって、おかみさんとしてにらみをきかしてもらいてえと思うんだが、相談だ。どうだい」
お高は、そっけなく、わきを向いた。
「いやでございますよ。お前さんというお人にはこりごりしていますからね、またどこに、どんなわるだくみがあるか、知れたものじゃあありません。お断わりしますよ」
磯五は、そういうだろうと思っていたというようにおだやかに笑った。
「いや、話せば長いことだが、いい手づるがあってなわたしに、衣裳の
お高は、つと磯五を見た。
「もう何も知りたいとは思いませんが、きくことだけは聞きますよ」
「何だな、あらたまって」
「わたしがこの磯五の店から買い物していたことは、お前さまよく知っていなすったろうに」
「うん。いろいろ買っておったことは知っていたが、借りがあるとは知らなかった。お前の金で、払ったのだろうと思っていた」
「その私のお金を、あなたが持って行ってしまったのではありませんか。どうして払えるものですか」
「まあ、そんなこというな。あの金は、いまでも返すよ」
「いりませんよ、あんなお金――」
「そうけんけんいうな。それより、おれはこの店全体をお前と二人でやって行こうといっているのだ」
「何のことですの、それは」
「つまり、よりを戻そうというのだ――なあ高音、おれは、お前に会いたかったよ」
お高は、眼を伏せた。肩が、大きく
「高音――」と、彼は、声を沈めて、いざりよった。お高も、男のほうへ、一、二寸引かれたようだった。
「なあ、またいっしょに住もうじゃないか。これだけの
廊下にあし音がして、小僧が顔を出した。問屋の使いが、至急の用で、ちょっと会いたいといって待っているというのだ。磯五は、すぐ帰ってくるとお高にいって、あたふたと部屋を出て行った。
ひとりになると、お高のこころは、また金剛寺坂へ飛んでいた。惣七のことが、すうと入れかわりに、彼女のあたまを占めだした。
そのとき、音もなく縁から人がはいって来た。金のかかったなりをした、四十あまりの
それが、お高の前に丁寧に指をついて、こう挨拶をはじめた。
「いらっしゃいまし。旦那のお妹さんでいらっしゃいますか。おうわさはしじゅう伺っております。わたくしは、磯屋の家内でございます――」
妹
一
おせい様が、わたしは磯屋の家内でございますと挨拶すると、客の若い女はひどくおどろいたようすなので、おせい様はあわてていい直した。
「いえ、まだ、家内――ではございませんが、近いうちにこちらへ参ることになっております。五兵衛さまといっしょになるはずになっておりますのでございます」
女房だといい切ったのを、いい過ぎたと思ったらしく、おせい様は
お高は、びっくりした。三年前に自分をすてた良人だ。それが突然、江戸有数の太物商磯五の旦那として現われたのみか、たった今自分に、すべてを忘れてもとの
それに、五兵衛の妹というのは? ついぞ聞いたことはないが、あの人に妹があったかしら? とっさのことで、お高はさっぱり判断がつかなかった。
磯五が、すぐ来るからといって出て行ったあとだ。お高は、この人はまあいつのまに、そしてどんな
瞬間だったが、金剛寺坂の静かな生活が、こころにひらめいて、ひとり残して来た若松屋惣七を、なつかしいと思った。若松屋惣七の長いこわい顔が、眼のまえを走り過ぎた。黙って磯五にぶたれていなすったようすが、いたましく思い出された。日ごろの惣七の気性を知っているので、あのことから何か恐ろしいことになりそうな気がして、ぞっとした。そこへ、いきなり人影がさして、おせい様がはいって来たのだ。
おせい様は自分の
おせい様は、磯五といっしょになる約束のできていることを、誇らずにはいられないのだろう。そんなようすに見えた。磯五のことをいうときは、さざなみのような
「ほんとに五兵衛さまは、お立派な方でいらっしゃいますよねえ。何から何まで気のつく、いい方でいらっしゃいますよね。よく妹さんのお
「何かのお間違いでございましょう。わたくしはあの人の妹ではございません」
「あら、お妹さんでないとおっしゃると、すると――」
「ちょっと
おせい様は、にっこり笑った。
「ああわかりましたわ。このお店を切り盛りしていらっしゃる妹さんのお友だちの方でございましょう」
五兵衛に妹があってその妹がこの磯屋を経営しているとは、お高ははじめて聞いた。お高は不思議な気がしてきた。
「妹さんのことは存じません。わたくしはここの親類の者でございますが、しばらく
おせい様は、お人好しで話好きなのだ。問わず語りにいろいろなことを話し出した。どうしても呉服の
自分は、良人に死なれてから、大きな財産をひとりで守ってきたが、あの五兵衛のような人なら、二度の夫に持ってもいい。そのうちに磯五の内儀となって立派に披露もし、財産もみんなこの磯屋の商売へつぎこむつもりでいる。五兵衛さんも進んでいるが、わたしも進んでいる。ふたりは恋仲でございますといわんばかりに、おせい様は、あけすけに何でも話すのだ。
二
お高は、何にもいえなかった。弱々しいおせい様が、あまりにうれしそうに輝いてみえるのだ。そういうおせい様は、まるで十七、八の花嫁さまのように美しいのだ。お高は不思議なものに
男が家出してから今まで三年のあいだ別居してきはしたものの、そしていくら音信不通だったとしても、磯五自身が若松屋惣七にいったように、去り状というものをもらっていない以上、じぶんはやっぱり磯五の女房であることに変わりはない。現に磯五も、それをいい立てて自分を金剛寺坂からここへつれて来て、たったいま、もとどおりになってくれと頼んでいる最中に、ちょっと中座したばかりではないか。
それなのに、この
お高にはわからないのだ。が、これが若松屋惣七なら、おせい様を
すこし苦味の加わったくどき
この人のいいおせい様を、女たらしの磯五が巧みにくどいて、夫婦約束までして、色仕掛けで金を絞ろうとしているこんたんや、その
もちろん磯五は、恋というものを
おせい様が
今のおせい様には、何とかして磯五をよろこばせるほか、何の目的もないのだということが、世の中のうらおもてを見てきている若松屋惣七には、たとえ眼は不自由でも、磯五という人物の解釈から、瞬間にして看破することができたであろうが、お高は女で、年も若いし、それになんばなんでも磯五がそんな
自分をすてて逃げたのだし、自分もいまもとの関係へかえろうとは思っていないが、それにしたところで、ほかに夫婦約束ができるわけのものではない。そう思った。うつむいて、黙っていた。
話し相手を見つけたうれしまぎれが、おせい様をひとりでしゃべらせていた。
「去年わたしがお伊勢さまへお
「ほんとにねえ。今までここに話しておりましたのでございますが、どうしたのでございましょう。ちょっとわたくしが見て参りましょう」
お高は、ゆらりと起ち上がった。
三
お高は、ここでおせい様と話しているところへ、磯五に帰って来られてはたまらないような気がした。どうしたらいいかわからないと思った。おせい様は磯五という人間を、神様や仏さまのように考えているらしい。そのおせい様のまえに、ぎっくりしてまごまごしている磯五を見せることは、おせい様にすまないとお高は思った。
縁へ出ると自分のはきものがあった。それを突っかけてはいって来た横丁づたいにおもての往来へ出た。
「まあまあ、そのうち見えますでございましょうよ。わざわざあなた様に呼びにいらしっていただかなくてもよろしいんでございますよ」
うしろで、
お高は一度往来へ出て、そこからそれとなく店をのぞいてみるつもりだった。何だか、わるいことをしているようで、ためらいながら、式部小路の通りまで出た。白く乾いた地面に日光が揺れていた。かた、かた、かたと金具を鳴らして
日本橋の通りに、大八車がつづいていた。近所に
磯屋の前は、ちょっとした
その囲いのなかの、磯屋の店からはちょうど仮塀のかげになって見えないところに、ちょっと人が動くのが見えた。お高のところからは、横からすかして見るようなぐあいになるので、板がこいの
磯五が、誰か若い女と話しこんでいた。向こうからは磯屋の陽影になっていて見えないのだが、こっちからは、板と板の合わさっている角度によって、よく見えるのだ。磯五と女は、見ている者がないと安心して、抱き合わんばかりにからだを寄せて、何か熱心に話し合っては、声を殺して笑っているのである。
女は、芸者にしてはけばけばしい
いやみったらしい女だと思うと、お高は、自分がひとのことを隙見しているのに気がついて、はっと気がとがめた。いやしいことだと思って、顔が赧くなった。が、いま動けば磯五に見つかると思って、足が
女は、一生懸命に磯五のいうことを聞いているふうだった。するとうつむいてはきものの
しかし、眼鼻だちがくっきりあざやかで、大きな眼が、何かしきりにうなずきながら、ほれぼれと磯五をみつめていた。
お高は反射的に、奥の居間に待っているおせい様のことを思った。また、おせい様のことばかりではなく、さっきよりを戻してくれと磯五にくどかれたときに、あやうくそれに傾きかけたじぶんの心をも思い返していた。お高は、それを思って、ぞっと寒けのようなものに襲われた。同時に、どうしてあの磯五という人には、女という女が心を傾けるのであろうかと不思議に思った。
その、女をひきよせる磯五の力が何であるのか、わかっているようで、お高にもよくわかっていなかった。それは、お高も、一方では
と、磯五からはもう千里も万里も遠のいたようなこころになって、あとのほうは、女をも磯五をも、お高は平気で見ていることができた。ただあのおせい様のことだけが、自分の責任か何ぞのように、たまらなく気の毒に思われてきた。
磯五は、女のむっちりした肩に手をまわして、何ごとか耳へいっていた。それが、お高のところからは、女の耳をなめているように見えた。あの人はよく自分にもああしたことがあるとお高は思った。そう思っても、もうべつにいやな気もしなかった。何だか芝居を見ているようで、のぞき見しているのが面白くなってきた。
女は、白い歯を見せて、もたれかかるように笑っていた。合点々々をしていた。ふたりのからだが、別れた。女は不服そうにちょっとからだをよじっていたが、やがて、磯五が
磯五は、離れていく女を見返りもしなかった。ちょっとあたりをうかがって、人通りがないと見ると、するりと小松の下の囲いをくぐって往来へ出て来た。磯五の店でも、誰も気がつかなかった。この以前、二人が別れそうなようすを見せだしたときから、お高は、見つからないように天水桶に身をかばって、そっと磯屋の横の路地へ引っ返していた。
だいぶ引っかえしたとき、うしろに磯五の
「お高じゃないか。何しにこんなところに出ているのだ」
四
「お前さまをさがしに出たのでございます。後家さまふうのお客さまがお見えになりましたから」
「うむ。おせい様だろう。ちょっと知り人なのだ。気のいい面白い
案のじょう、そらとぼけていった。お高も、そのまま黙って並んで歩いて、おせい様から聞いたことも、いま
狭い横町なので、並んで歩くと、磯五のからだに触れるのだ。いやな気がした。で、立ちどまって磯五を先へやって、二、三歩遅れて行った。磯五が、ちょっと気がかりなように、ふりかえってきいた。
「問屋の用というのが手間取ってな、届いた荷を見におもての土間まで行っていたのだ。だから、こっちをまわって来た。お前、おせい様に、何といって御挨拶をした」
「御心配なさらないでもようございます。何もいいはしません。こちらの親類の
「おせい様何かいったか。あの人は、あたまの調子が変なときがあるのだ。ときどきつまらねえことをいいだすんでね、知らねえ人あびっくりすらあな」
「いいえ。何もおっしゃりませんでした」
「おせい様は商売のことでしょっちゅう見えるのだ。この磯屋の店へも、すこしばかり金を出してもらったことがあるのだが、そのために、自分の店みてえな顔をされるのには往生するよ。
「はい。
「今はねえのだ。先代が死ぬと、子がねえので、これから養子をして気苦労をするがものもないといってな、おせい様が店を畳んでしまったのだ。だから、早くから山ほどの財産を後生大事に、若後家を通してきたのだ。今じゃあもう若後家でもねえが――」
その山ほどの財産が目あてなのでございましょうとお高はいいたかったが、そうはいわなかった。
「あの人が雑賀屋のねえ」
「うむ。おせい様は雑賀屋の後家さんなのだ。その財産も、おおかたあちこちの
「そうでございますかねえ。その人は、腕もすごうございましょうが、ずいぶんと正直なお人でございますねえ」
「正直といえば正直だろうよ。あの、よろずにぼうっとしているおせい様の金を、長年預かって間違えのねえばかりか、いい利を生ましちゃあきちんきちんとおせい様へ知らせるというのだからな。小判を上手に使えば、小判が小判を生むのだ。その男は、しっかりそこらのこつを呑みこんでいて、おせい様に、遊びながらもうけさせてきたのだ。
その男の扱い巧者で、先代の
めったに人をほめない磯五が、しきりと感心するのを聞きながら、お高は、それはきっとあの若松屋惣七さまであろう。若松屋様にきまっていると思った。それほど小判にかけての腕ききが、若松屋さまのほかにいようとは思えないからだ。お高は、自分がほめられているようでうれしかった。
五
ふたりは奥の居間のほうへ近づいていた。そこにはうわさのおせい様が待っているので、磯五は、そこから上がらずに、そっとお高を招いて、前の中庭を突っ切って行った。
つき当たりにお
ふたりは、がさごそ音がするのに気を兼ねながら、その薮を分けて、お稲荷さんの裏へ出た。そこも磯屋の庭つづきではあったが、すぐ勝手や
お高は、何のために磯五についてそんな
きっとさっきの自分にこの店へ来ていっしょに暮らしてくれという話のつづきであろうと思った。あんな女との立ち話まで自分に見られながら、またあのおせい様がすっかりしゃべったことも知らずに、何てこの人はずうずうしいのだろうと、お高はあきれて、すこしおかしくなってきた。早く切り上げて金剛寺坂へ帰りましょう。お眼の不自由な惣七さまは、わたしがいないで、誰のお給仕でお
「なあ、お高、おれは真剣に相談しているんだが、お
一度はおれも、なに、決して捨てたわけじゃあないが、ちょっとおめえを置きざりにしたことがある。それは許してくれよ。な、このとおり、
なめらかにほほえみながら、つと手を取ろうとしたので、お高はぎょっとして手を引っこめた。
「いやですよ。もうそんなこと聞きたくもありませんよ。それより、おせい様ははじめわたしをお前さまの妹だと思って、そう御挨拶をなさいましたよ。お前さまには、妹さんがおありでございますか」
「うむ。妹のことをいやがったか。なに、妹なんかあるもんか。そんなもの、おめえの知ってるとおり、ありゃあしねえ」
「わたしはまた、別れてからあとになって、ひとり妹さんができたのかと思いましたよ、ほほほ」
「ふざけねえでくれ。実あこうなんだ。おせい様の手前、おれにあひとり妹があることになっているんだ。その妹が店の仕入れなど引き受けてやっている。おれはいわば後見をしているようなものだ――と、こうまあ吹っこんであるんだが、そういうことにしねえと、おれは根っからの呉服屋でねえことをおせい様は知っているから、男のおれが女の物を見立てるんじゃあ、おせい様があぶながって、ちいっとこっちに都合のわるいことがあるのだよ」
「お金の融通にさしつかえができるというのでございましょう、問屋の払いや何か――」
「察しがいいや。さすがめくら野郎に仕込まれただけあるぜ。いよいよ店へ来て、その腕をひとつ、磯五の帳場でふるってもらいてえもんだなあ」
「まっぴらでございますよ。わたしはお前さまとくらすくらいなら、死んだほうがましでございますよ」
「そりゃあお前、あんまりな御挨拶だぜ」
「あんまりでも何でも、これが
でございますから、どうかこのうえは、わたしに去り状をくださりませ。そのうえで、はっきり申し上げたいことがあるのでございます」
お高は、いつのまにか真っ蒼な顔になっていた。
六
「なに、三下り半をよこせってえのか」
「はい。さようでございます」
「読めた。そいつを取ったら、大いばりで、あの若松屋へ乗りこんで、めくら野郎といっしょになろうてんだろう」
「いいえ、そのまえに、お前さんから離縁状を取ったなら、お前さんにしてあげることがあるのでございます」
「おれにすること? 何をしようというのだ」
「離縁状さえ渡していただけば、もう妻でも良人でもないのでございますよ」
「それはそうだ。そのための離縁状だからな。で、妻でも良人でもなくなったら、おめえはおれに何をしようというのだ」
「お前さまが若松屋さまをおぶちになった数だけぶち返してあげるのでございます」
「ふうむ、てめえ、いよいよあの若松屋にまいっているな」
「そんなことはよけいなことでございますよ。どうでもよろしゅうございますよ」
「うんにゃ。よかあねえ」
「さあ早く去り状をお書きになってくださいませよ」
「書かねえ」
「え? お書きになってくださらないのでございますか」
「書かねえ、決して書かねえ。意地になっても書かねえからそう思え」
「意地になっても書いてくださらないとは、ずいぶんまたわけのわからないお話でございますねえ」
「わけがわかってもわからなくっても書かねえといったら書かねえのだ」
「それはいったいどういうお心からでございます。若松屋さまをおぶちになった数だけ、このわたしにぶたれるのが、そんなにこわいのでございますか」
「てめえを若松屋へくれてやるのがいやなのだ。といったところで、今までだって他人じゃああるめえが――」
「若松屋さんとわたしは、今までのことは今までのこととして、お前さまがわたしに去り状を一札書いてくだすって、若松屋さんをおぶちになった数だけわたしがお前さまをぶち返せば、わたしは決して金剛寺坂へ帰りは致しませぬ」
「どうするのだ。うふっ、尼にでもなるというつもりだろうが、その手に乗るおれじゃあねえんだ。離縁状を握って、お
「では、どうあっても、去り状はお書き下さらないとおっしゃるのでござりますか」
「いや、書く。書こう」
「え! お書きくださいますか」
「うむ。書こう。離縁状を書いてやろう」
「それでは、あの、ほんとに書いてくださいますのでございますか」
「いかにも書こう」
「そうでございますか。ではすぐ――」
「待て!」
「ほら、いま書いてやろうとおっしゃったのは嘘でございましょう」
「いや、書く。望みどおりに縁切り状を書いてやる。そのうえで、おれが若松屋をなぐった数だけ、お前になぐられもしょう」
「それはほんとでございますか」
「うそはいわねえ。が、そのかわり、こっちにも一ついいぶんがあるのだ」
「はい。そのいいぶんと申しますのは?」
「おれがおめえのいうなりにするように、おめえにも、おれのいうとおりになってもらいてえのだ」
「それは、何でございますか」
「おれの妹になってもらいてえのだ」
「妹さんに?」
「そうだ。
「そして、その妹さんに化けて、わたしは何をするのでございますか」
「何もするこたありゃあしねえ。ただおれの妹だといってすわっていりゃあいいんだ」
「そして、お前さまがおせい様から、お金をまき上げる種に使われるのでございましょう。おおいやだ! わたしにはそんな大それたことはできませんでございますよ。お断わり致しますよ。それに、さっきおせい様にお眼にかかりましたとき、わたしはお前さまの妹ではないと、はっきり申し上げたのでございますからねえ。そんなに、妹でなかったり、妹であったり――誰でもおかしく思いますよ。いやでございますよ」
「なあに、おせい様には、たとえ何といったところでおれの口一つで、あとからどうでもなるのだが、すりゃてめえは、どうあっても妹に化けるのはいやだというんだな」
「まあ、せっかくでございますが、お断わり致しますでございますよ」
「金になる口だぜ、おい」
「お金なんかほしかございませんよ」
「よし。そんなら、こっちもせっかくだが離縁状を書くのは取り消しだ」
「はい。結構でございます」
「妹は、こっちでさがすからいいや」
「いろいろとお心当たりもございましょうからねえ」
「お高、これから、金剛寺坂へ帰るのか」
「はい。何ぞおことづけでもございますか」
「恨みがあるなら金でこいと、めくら野郎にそういってくれ。これから、若松屋と磯屋はかたき同士、ひとつ小判で張り合って、どっちが立つかへたばるか、智恵くらべをしようと、な」
「はい。承知いたしました。若松屋様になりかわりまして、高からもそう申し上げようと思っておりましたところでございます」
七
お高が、小石川上水にそった金剛寺坂の若松屋惣七の屋敷へ帰って来たのは、夕方だった。ここらに多い屋敷々々の森が、
お高は、じぶんの立場と心もちがはっきりして、いつになくすがすがした気もちだった。足早に坂を登って行った。この辺は、下町から来ると、まるで山奥へでも踏みこんだようなしずかさだった。お高は、何となくこころ楽しく、その静寂を、しみじみと呼吸した。
見慣れた若松屋の門が見えてくると、たまらないなつかしい気が、ぐんぐんと胸へこみ上げてきた。それは久しく遠国に旅をしていた人が、何年ぶりかにわが家へ帰って来て、出発のときと変わらない門口の模様を発見したときの、あの妙に白っぽい、不思議な
が、何となく面はゆくて、いつもの内玄関からははいれなかった。で、裏へまわった。ひっそりしていた。佐吉や国平も滝蔵も、そこらに姿を見せないのだ。御飯でもいただいているのかしら。お高は、そう思った。もしそうだったら、下男部屋の前を通るときに、そっと三人に、旦那様のごきげんをきいてから奥へ通ったほうがいいと思った。
けさあんなことがあって、じぶんは磯五につれられて出て行ったのだから、どんなに気もちをわるくしていらっしゃるかもしれない。きっといつもの倍も三倍もむりをいって、わたしをいじめなさるに相違ないのだ――お高は、早くそういう惣七を見て、思いきりむりをいわれてみたい気がした。いじめられてみたいと思った。
なみだが、お高の眼をくもらせて、足もとを見えなくした。お高は、台所へ上がるまえに、立ちどまって眼をふいた。
わざといきおいよく上がって行った。
「滝蔵さん、佐吉さん、国平さん、ただいま帰りましたよ」
どこからも返事がなかった。どうしたのだろう。三人ともどこへ行ったのだろうと思いながら、台所につづいた下男部屋の前を通りかかった。
なかで、三人の話し声がしていた。話に気を取られて、お高の声も聞こえず、はいってきたのも知らなかったのだ。
国平の声が聞こえた。
「いや、あのごようすは、ただごとじゃあねえ。お高さんがいねえからばかりだとは、おいらにあ思えねえのだ」
「そうよなあ。そういえば、朝から何一つお口へも入れずに、ひどくふさいでいなさるようだな」
「全く、あんな旦那をおいら幾年にも見たことがねえのだよ」
お高は、はっと胸を突かれたような気がした。黙って、そこを通り過ぎると、駈けるように縁へかかった。長い縁だ。胸をさわがせて、いそいで歩いて行った。
例の帳場になっている茶室の前へ出た。障子がしまっていた。中は、人のけはいもないように、しずかだった。お高は、思い切って声をかけた。
「旦那さま、ただいま帰りましてございます。高でございます」
すると案外すぐ若松屋惣七の冷たい声がした。
「お高か。はいれよ。わたしは、手も足も出ないことになった。若松屋も、これで身代限りだ――」
一
「お高――どのか。わたしは、無一文になりました。は、は、は、見事に無一文になりました」
笑うようにいった。が、若松屋惣七の顔は、灰いろなのだ。折れ釘のかたちをした筋が、こめかみにうき出ている。うつろに近い眼が、
お高は、磯五のことをはじめ、自分に関するすべてを、とっさに忘れた。どきん、と一つ、心臓が高い浪を打った。ぺたりとすわった。口がきけなかった。あのあの、と、ことばが舌にからんだ。
「いや、わたしとしたことが!」若松屋惣七は、お高の前に、一時、
「いや、わたしのことなど、どうでもよいのだ。が人間は、えて身勝手なものである。けさお前が、磯屋さんとつれ立って出て行ってから、わしはもう二度とお前を見ることはあるまいと思っておった。見とうもないと思っておった――のだが、しかし、そうして帰ってくると、わしも、ついよく帰ったといいたくなるよ。あはは」
お高は、たたみに手をついて、いざり寄った。
「旦那様、若松屋が、あなたさまが身代限りをなすったというのは、それはいったいどういうことでございますか。お
「ふん」若松屋惣七は、うそぶいているように見えた。
「だから、いまも申すとおり、人間は、えて身勝手なものである。お前のことは、忘れておったといってはすまんが、自分の用にかまけて、つい忘れておったぞ。どうだった! 磯屋さんと二度の念がかなって、お前もあのお店へ乗り込むことになったのではないのか」
若松屋惣七は、磯五のこぶしを面上に受けながら、お高のために証文を破った、あのけさのいきさつを根に持っているのではない。あれは、ゆきがかり上、若松屋惣七としてはああ出ざるを得なかったのだ。いわば、磯屋とのあいだの戦端開始の合図のようなものだったのだ。しかし、もとはといえば、お高から出たことだ。
が、いま若松屋のこころは、そのお高からも遠く離れてしまった。お高のみならず、磯五とのあいだにひそかに自分に誓った商道のあらそいすらも、すでに彼の興味を失いかけているのだ。そんな余裕も闘志も、なくなっているのだ。より以上に重大な、彼自身の死活に関する問題が、大きな手のように、若松屋惣七をわしづかみにしようとしている。いや、わしづかみにしているのである。
お高は、それほどのこととは思わなかった。で、せっかく帰って来たのに、妙な皮肉をいわれると思うこころが、彼女をちょっとすねてみたくさせた。
「人間は身勝手なものであるとおっしゃいますのは、わたくしが帰ってまいりましたのが、いけなかったのでございましょうか。磯屋と二度の念がかなって、あの店へ乗りこむなどと、あんまりでございます。なんぼなんでも、高は、そんな恥知らずではございません」
思わず強いことばが出たのに、じぶんでも驚いたお高が、ふと惣七の顔に眼をそそぐと、お高の声が聞こえなかったように、若松屋惣七は、きょとんとしている。
やがていい出した。なかばひとり言だ。
「馬鹿だった」表情のない声だ。「わしが大馬鹿だった。誰を恨みようもない。おのが
「はい。伺いましてございます。
「そうであったかな。あの具足屋の一件なのだ。掛川までは、わたしも、ちと手を伸ばし過ぎたのでしょう。今ごろたたって参った」
「とおっしゃいますと、すこしも引き合わないのでございますか」
「いや、ひき合わぬことは、はじめからわかっておった。宿場の
二
「が、その三年目も、来年である。来年になれば、具足屋もそろそろ上がりがあろうと思っておったにもうおそい。お高、そちは、東兵衛という名を聞いたことがあるか」
お高は、つばをのんで、うなずいた。ぱっちりした眼が、若松屋惣七の
暗くなりかけていた。お高は、灯がほしいと思ったが、惣七のはなしがつづいているので、お高は、灯を入れに起つひまがなかった。起つ気にも、なれなかった。夕風が渡って、障子紙の
お高は、東兵衛という男のことを、聞いたことがあるのだ。その東兵衛という男は、もと
もっとも、若松屋惣七が、ひとりで
具足屋は、もとの脇本陣の地所を買って、すっかり建て前をあたらしくしたものだ。木口をえらび、建て具や調度にも、若松屋惣七も東兵衛も、かなり贅沢をいった。ことに、庭を凝った。大きいことも大きいし、掛川の具足屋ほどの旅籠は、東海道すじの本陣脇本陣を通じてあんまりあるまいという、これは何も、若松屋惣七と東兵衛の自慢だけではなかったのだ。定評だったのだ。
この、万事金に
現金がないのだから、ほかの商人を当たってみたところで、顔のききようがない。さっそく具足屋は、あすから休業である。というので、東兵衛からの急使が、江戸小石川の金剛寺坂へ飛んだ。見殺しにはできない。また、今までつぎこんだ金も、生かさなければならない。即刻、若松屋惣七は、工面に奔走した。あそんでいる小判というものはないのだから、これには惣七も、かなりひどい無理をした。
その結果、若松屋惣七から相当の
「客商売に、
「すると、何でございますか。旦那さまが、その掛川の借財をすっかりおしょいこみになったのでございますか」
「さよう。これは
「あら、ちっとも存じませんでおりましてございます」
「なに、よけいな心配をさせるにも当たらぬと思って、お前には黙っておりました。べつに書状をしたためてもらわにゃならぬことではなし、使いの口上を聞いて、金さえ送ればよいことだったので、お前をわずらわせずにすんだのだ。どこかへ出て、お前は留守だった」
よけいな心配をさせたくなかったなどと、それはまるで女房にでもいうようなことばだと、いってしまってから気がついたらしく、若松屋惣七はじぶんでも意識しないこころの底のひらめきにちょっとおどろいた。あわてて、話の本筋にかえった。お高は、いつのまにか、うれしそうに惣七に寄り添っていた。
もう、ほんとに暗かった。暗いなかに、雨あしが光っていた。若松屋惣七もお高も、その、寒く吹きこんでくる雨に、気がつかないようすだ。国平であろう。縁側の端で、大いそぎに雨戸をくり出す音がしていた。
三
国平が雨戸をくり出す音に勝つために、惣七は、しぜん大声だ。
「こうなのだ。はじめ東兵衛が、わしと半分ずつ持って具足屋へおろした
「でも、それはお出しにならなければならなかったことはございますまい。義理固い旦那さまの御性分は、よく存じ上げておりますでございますが、そこまでなさらなくても――一言お話しくだされば、きっと高がおとめ申したにと、恨みがましく考えられますでございます。
その東兵衛さまとやらがお出しになった
「それが、そうは参らぬ。というわけは、東兵衛の女房子供が気の毒だし、また大口の借りがたくさん控えている。わたしは、東兵衛のおろした半分の
お高は、くらい中で眼をかがやかせているに相違なかった。男に傾倒するこころが、熱い息となった。
「だれにでもできるものではございません」
若松屋惣七は、
「なあに、それも、先へいって具足屋が芽を吹くことがあればと、見込みがあるつもりでしたことなのだ。
「で、その
「いま具足屋を人手に渡したくない。しばらく立て直して、もちこたえてみたいと思ったから、すっかりわたしが払ったのだ。この弁金と、いま話した東兵衛の女房へやった、東兵衛の出した
それも、それだけのものをまとめて借りたのではない。その女から預かって、わしの眼きき一つで、あちこちに動かしてある金を、その女の許しを得て、一時わしの手にあつめて、具足屋のほうへまわさせてもらったのだ。一年後に、わしがほかへ小分けしておいたと同じ利分をつけて、耳をそろえて、その女に見せるという約束だった」
滝蔵が、おそくなったいいわけをしながら、灯のはいった
お高は、惣七の肩にじぶんの肩をあたえて、不釣り合いに大きく見える自分の膝の上で、惣七の指をもてあそんでいた。惣七は、それにまかせていた。考えていることのために、気がつかないふうだ。
「ずいぶんわたくしにお隠しなすっていろいろなことをしておいででございます。いつのまに、そんなことをなさるのやら――お出かけなすったことも、それらしい用事の人が、みえたようすもございませんのに」
お高は、不服そうだ。
「ははは、まだお前の知らんことは、ほかにいくらもあるのだ」
「まあ、憎らしい」
「下らぬことをいわずに、聞け」
「はい」
「そういう約束である。一年のうちには、具足屋も、何とかもうけをみるであろう。また、いくらかでも
先方にしてみれば、若松屋というものにまかせてある以上それをこっちが、どう細かく割ってうごかそうと、若松屋の仕事につぎ込もうと、その金がおなじ利を生むからには、何もいうべき筋はないはずだ。よって、貸した借りたとは申しても、
「さようでございますとも」
「ところが、けさお前が出て行ってまもなく後家さんから使いが来てな、あしたにも、その金はもとより、わしの手から動いておる自分の金を、そっくりまとめて納めるようにとのことなのだ」
「あら、それでは約束が違うではございませんか、約束をたがえてそんなことがいえるものでございましょうか」
「それは、いえる。女分限者と金番頭の、いわば内輪のことなのだ。約束がちがうといって、
四
「さようなものでございましょうか」
お高は、若松屋惣七のためを思って躍起になっていた。
「それでも、もとはといえば、具足屋東兵衛さまとやらから、起こったことでございましょう。何も、旦那さまが、一身にお引きうけなさらずとも――」
「東兵衛は、狂人だ。狂人から、何が取れる」
「でも、それではあんまり――」
「のみならず、東兵衛は東兵衛としても、わしと後家さんのあいだの貸し借りは、貸し借りなのだ。亡夫に
「何とか、待ってもらえないものでございましょうか」
「それが、一日半日をあらそっておると申すのだ。じつに、まゆ毛に火のつくようなはなしでな」
「何しにそんなに急に、お金がいることになったのでございましょう」
「さっぱりわからぬ」思案の
「それが、さっぱりわからぬのだ。使いの者にきいてみたが、使いの者は、いわぬ。知らぬらしいのだ。わたしは、具足屋のいきさつを話して、猶予を頼みこんだ。が、いっかなききいれぬ。聞こうとさえせぬのだ。何でもよいから、金をそろえろというのだ。いそぎの用があるというのだ。
具足屋につくすべてを見積もりにして出すから、それだけ引いてくれとも申し入れたが、それも受けつけぬ。どこか具足屋の庭にでも、じぶんの小判が、山のごとく積んであるとでも、思っているらしいのだ。全く、そのとおりなら世話はいらぬがと、わたしも、つくづく思いますよ」
若松屋惣七は、ほろ苦く笑った。行燈の灯が、面のような顔を、いっそうグロテスクにくまどった。
「
「一万二千両です」
「まあ、そんなに、でございますか」お高は、おろおろと声がふるえた。「どうしましょう――」
「みんな、具足屋という旅籠が食ったのだ」
「その具足屋を、そっくり売ることはできませんでございましょうか」
「まだだめだな。損つづきのことを知っているから、ちょっと手を出すものずきもあるまい。それに、持ってさえおれば、やがて、金脈に変わることはわかりきっているのだ。わたしも、放さずにすむことなら、放したくはないのだ」
「何とかならないものでございましょうか」
「一言も、こっちのいい分に耳をかそうとせぬのだから、しようがあるまい。金がいる。いまがいま、そっくり出せ。これだけのことを繰り返して、せきたてに毎日来おる」
「たいそうなお金持ちの方とおっしゃったようでございますが――」
「金持ちは金持ちです。ほかにも地所やら
「ほんとにそんな大金を、一時に何しようというのでございましょうねえ」
「おせい様は、きょうまでわしにいっさいをまかせてきたのだ。それが、今度のことに限って、なに一ついわぬ。若松屋惣七にも、見当が立たぬ。いくじがないようだが、かほど当惑したことはないぞ」
五
「あの、おせい様――」
お高は衝撃をうけた。おうむ返しに、その名が、口を出た。
「そうだ。おせい様という女だ。今まで名をいわなかったかな。はて、話したつもりであったが――うむ。知らぬも無理はない。お前が参ってから、書状の往復をしたことはなかったからな。いつも、つかいの者がまいって、口で話をきめるようなことになっておった。
そのうえ、本人のおせい様は、
「いいえ」
「知っているのではないか」
「いいえ」
「そうか、おせい様はな、
お高は、若松屋惣七のいうことを、聞いてはいなかった。考えがあたまを駈けめぐって、何をいわれても聞こえなかった。
お高には、すべてがわかった。なぜ名前が出るまで、気がつかなかったろう。磯五も、おせい様のことを話すとき、誰か
そうだ。雑賀屋のおせい様に、とうとうその悪い虫がついたのだ。そのわるい虫は、たとえ名だけでも、じぶんの良人となっている磯五であると思うと、お高は、恐怖のようなもののために、寒さを感じた。おせい様は、あの磯五に与えるために、旦那さまからそのお金を取り立てようとしているのだ。そのために、この旦那さまは、身も商道もほろぼされようとしている。おせい様が、人もあろうに磯五に、金をみつごうとしているばっかりにである。
お高は、けっして傍観するわけにはいかないと決心した。血走った眼が、若松屋惣七を見た。若松屋惣七は、行燈のほうへ首を傾けていた。風雨の音に、聞き入っているように見えた。
「あらしに、なりましたな」
「はい。ひどい吹き降りになりましてございます」
「もっともっと、ひどい吹き降りになろうもしれぬ」
「はい」
お高の顔は、不自然に、白くかわいていた。眼だけは、そこから夏の星ぞらでものぞいているように、これも不自然に、かがやいて見えていた。小さな口が、固い直線をつくっていた。どこにも、悲しい影も、苦しい影もなかった。女というより、美少年のようなお高に見えた。戦いぬこうというこころが、一時に彼女を、強く変えて見せていたのだ。
「なるようにしかならぬ。何とかなろう。どうもならぬときは」若松屋惣七は、眼をみはるようにして、お高のほうを向いた。
「なあ、そのときは、そのときではないか。それより、お前のほうは、どうした。それを聞こう」
「どうと申しまして、べつに、申しあげることはございません」
「うそをつけ。帰って来てくれと、磯屋にいわれて、いろいろ話があったことであろうが」
「はい。そういうはなしはございました」
「それを、どうきめたのだときいておるのだ。べつに
若松屋惣七は、ふところに入れていた手を胸元へまわして、がりがりかいた。顔をしかめて貧乏ゆるぎをはじめた。
六
「どうと申して、またいっしょになるなんぞ、死んでもいやでございます」
「なぜだ」
「なぜでも、いやでございます」
「それで、帰って来たのか」
「はい」
「馬鹿め。磯屋におればよいに。おれのところは、あすにも食うに困ることになるぞ」
「はい。高は、ごいっしょに
「ふん。そうか、それもよかろう」
若松屋惣七は笑った。あくびをして立ち上がった。お高も、立ち上がった。二人は、いつものように前後につづいて、寝間のほうへあるいて行った。
寝間から、若松屋惣七の声がしていた。
「磯五は、金があるのかな」
お高の声が、答えた。
「さあ、どうでございますか」
「隠すな。借りに行くといいはせぬぞ」
「そんな、意地のわるいことばっかしおっしゃって──」
「磯五は、どうして金をつくったか。話したか」
「お金などないようでございますよ」
「金がなくて、磯屋という店が買えるか。金がなくて、これからどうしてやっていくのだ」
お高は、黙った。おせい様に対する磯五の態度や気もちが、いっそうはっきりわかってきた。あの人が磯屋五兵衛となるまでに、何人のおせい様があったことだろう。そして、これからも、磯五の店をやっていくために、何人の、いや、何十人のおせい様があらわれることだろう。そして自分は、あの人の妻ということになっているのだ。
いったいあの人のどこがそんなに女を
「あの人のことでございましたら、どうぞもうおっしゃらないでくださいまし」
暴風雨は、つぎの日一日、江戸を去らなかった。若松屋惣七は、どこへ行くとも告げずに、あらしを
「留守に来書があったら代わりに見ておいてくれ」
金策に出かけるであるらしいことは、お高にも察しられた。お高は、居てもたってもいられない気もちでいながら、どうすることもできなかった。
その手紙は、おせい様からきたものだった。古風な達筆で、こういう意味のことが書いてあった。
当方の都合があって、非常にいそいでいるから、できるだけ早く金を届けてもらいたい。それも、じぶんのほうへ届けてもらうのではなくて、日本橋の式部小路に、磯屋五兵衛という呉服太物商がある。ご存じかもしらないが、知らなくても、きげはすぐわかる。そこへ届けてもらいたい。じぶんの手にきても、どうせその磯屋へ持っていくのだから、どうかはじめから磯屋の店へ届けてもらいたい。一刻もあらそう場合である。くれぐれもお願いする。
というのが文面で、下谷同朋町拝領町屋、おせいよりとある。
お高は、手紙を、繰り返して読んだ。思ったとおりである。おせい様は、若松屋惣七をこんなに苦しめて取り立てた金を、右から左に、磯屋五兵衛へつぎこもうとしているのだ。磯五は、これを眼あてに、お高という妻のある身でありながら、中年すぎたおせい様をくどいて、
お高は、手紙を、帯のあいだへはさんで、たち上がった。どうしても、若松屋惣七には、見せられないのだった。何とかして若松屋惣七に知らさずに、自分の手で防がなければならない。お高は、そう考えた。
おせい様のところへ出かけて行って、磯五には自分という妻のあること、磯五の人物、その他すべてを打ちあけるに限ると、お高は、思った。惣七が帰らないうちにと、手早く身じたくをして、玄関の用人部屋のまえへ行って、いった。
「誰かお駕籠を呼んでもらいましょうよ」
拝領町屋
一
お高は、下谷同朋町の拝領町屋にある、おせい様の家へ出かけて行った。それは、店屋にかこまれて、裕福らしい
お高は、
お高の通されたのは、町家によくある、せせこましい中庭に面した、小じんまりした座敷だ。庭のむこうが土蔵の壁になっているので、部屋のなかは、夕方のようにうす暗いのだ。が、贅沢なつくりであることは、つかってある木を一眼見てわかるのだ。床柱など見事なものだと、お高は思った。
お高は、待たされているまに、座敷のなかを見まわして、さびしい気がしてきた。あのおせい様のこころといっしょに、この家も、調度もみんな、いまに磯五のものになるのだと思うと、そんな馬鹿々々しいことを、いよいよ黙って見ていられないと思った。
磯五という人間、自分との関係、磯五とおせい様、とこうならべて考えると、お高には、じぶんの立場と、なすべきこととがよくわかるのだ。だが、お高は、いまおせい様のまえにすべてをぶちまけようとしている自分の動機に、嫉妬がひそんでいることには、自分では、気がつかなかった。
お高は、若松屋惣七のためとはいえ、若松屋惣七に内証で、こうして勝手に出かけてきて悪いことをしたとは思わなかった。若松屋惣七が帰って来て、留守に手紙がきたと聞いて、その手紙がどこにもなく、お高もどこかへ出て行ったら、何と思うだろうかとも、考えなかった。お高の考えていることは、たった一つだ。
何とかして、おせい様のこころを磯五から引き離して、おせい様が磯五にやるために、若松屋惣七からいそいで金を取り立てることを思いとまらせなければならない。若松屋の旦那様を、この急場からお助け申さなければならない。そのために、第一に、おせい様に、自分が磯五の妻であることをうち明けなければならない。おせい様のこころを、みじんに砕かなければならない――お高が、いろいろに考えて、決心をしているところへ、おせい様がはいって来た。
おせい様は、お高を見て、おどろいたふうだった。
「おや、あなたさまは、磯屋のうら座敷でお眼にかかったお方でございますねえ。あなた様のことは、よく存じ上げておりますでございますよ。五兵衛さんが、あとで話しておりましたよ。あの人は、わたしには何でも話すのでございますよ、あの人のお
お高は、おせい様に、無心に先手を打たれたような気がして、挨拶に困った。おじぎをして、それから、おせい様のようすを見た。
おせい様は、若いころは、珍しく美しい人であったに相違ないと、お高は思った。いまでも、おせい様の表情は、夏の夕ぐれのようににおやかなのだ。びいどろのように、無邪気に、感情がすいて見えるのだ。
お高は、玉のようなものが上がって来て、
従妹だと磯五がいったと、おせい様に聞かされても、お高は、すぐそれを打ち消すことができなかった。黙っていた。
おせい様は、いつものとおり、にこにこしていた。おせい様のまわりには、しばし春の風が吹いている感じがするのだ。いまその春の風がお高のほうへも吹いてきて、お高は、この人に、そんな残酷なことなど、とてもいえそうもないという気がしていた。
おせい様は、お高は遊びに来たのだとでも思っているらしく、よもやまの世間ばなしをはじめた。屈託のない、ほがらかな声だ。お高は、床の間にかかっている、小さな、古い軸を見ていた。それは、わらびの絵で、上に、読みにくい字で、賛が書いてあった。野火の煙や横に、とあとはよく読めなかった。
お高は、それを読もうとして、床の間のほうをのぞくようにした。おせい様も、何か話しかけていたことばを切って、そっちをふり返った。それがお高に、さがしていた
「あの、さっきの小さな女中さんは、わたくしが何のことで参りましたか、あなた様へ取り次ぎましたでございましょうか」
二
「はい。それがね、ほんとに馬鹿な
じつは、そのことが片づかないで、困っておりますので、きっとその話を聞いていて、それであの婢は、そんなとり違えたお取り次ぎをしたのでございましょうよ」
「いいえ。わたくしはほんとに、若松屋惣七から参ったのでございます。ちょっと
「あら、あなた様が、あの磯屋さんのお従妹さんが、若松屋の女番頭――それは、まあ、わたしも、はじめて伺いましたよ」
「まだ今のうちに申し上げれば、おそくはございますまいと存じまして」
「何のことでございますか。若松屋さんに、何かお金のまちがいでもあるのでございますか。あのお人は、正直なお人とばかり思っておりましたに」
「はい。若松屋さまは、正直なお人でございます。若松屋さまに限って、お金のまちがいなどは、決してございませぬ。お話と申すのは、ほかのことでございます。どうぞ、びっくりなさりませんように」
「まあ、気味のわるい。早うお話しなされてくださりませ」
「若松屋さまは、わたくしが、きょうこちら様へお伺いしたことは、ご存じないのでございます。どうしてもお話し申し上げたいことがございますので、わたくしひとりの考えで、お邪魔に上がったのでございます」
「それはいったい、何のことでございますか」
「いまおっしゃった、若松屋さまから取り立てようとなすっていらっしゃる、お金のことでございます」
お高は、ここから話を持って行こうと思った。おせい様は、ちょっとはあわてたふうを見せた。
「若松屋さんは、その金が、どうしてもできないというのでございますか」
「いいえ、あなた様が、そのお金を若松屋さまから取り立てて、あの、わたくしの親類の磯屋のほうへまわそうとしていらっしゃる、そのことでございます」
おせい様は、少女のように赧い顔をして、うつむいた。お高は、また、気の毒な気がこみ上げてきた。が、思い切って、つづけた。
「あなた様は、五兵衛さんといっしょにおなりになるにつけて、そのお金を、磯屋の商売のほうへお足しになろうとしていらっしゃるのでございましょう」
おせい様は、いよいよ赧くなった顔を上げた。
「そうでございますよ。五兵衛さまというお方は、いいお方でございますから、わたしは、何もかも五兵衛さまにあげてしまおうと思っているのでございますよ」
「でも、五兵衛さんは、あなた様といっしょになるわけにはゆかないのでございます。あなた様とのみ申さずどなたともいっしょになるわけにはゆかないのでございます。五兵衛さんは、あなた様を、たぶらかしておいででございます。あの人には、女房となっている
若松屋惣七を救いたいこころと、それから、おせい様と磯五の関係への嫉妬が、お高を一生懸命にしているのだ。で、こう、はっきりいって、おせい様を見ると、どんなにおどろくことだろうと思ったのが、案外、おせい様は、急にまたにこにこしだした。
「はい、五兵衛さんにお内儀さんがありましたことは、よく存じておりますでございますよ。あの人は、わたしには、何でも打ちあけて、お話しくださるのでございますよ。一度、女房をお持ちになりましたが、その女房という人は、もう先に、なくなったのでございます。五兵衛さまのことなら、わたくしのほうがよく存じております。ほんとにあの方は、いまはひとり身で、お気の毒な方でございますよねえ」
これも、磯五が、まことしやかにおせい様に話して聞かした、からくりの一つに相違ないのだ。それが、あまりに巧みなのと、おせい様が、それを信じ切っているのとで、お高はあいた口がふさがらない気がした。
三
「うそでございます。何かのおまちがいでございます。磯屋の女房は、死んではおりませんでございます。立派に、生きているのでございます」
「いいえ。あなた様こそ、何かのお間違いでございましょう。五兵衛さまは、わたくしには、何一つ隠さずに、すっかりお話しくださるのでございます。
そのお内儀さんは、五兵衛さまを捨てて、ほかの男と逃げて、
お高は泣き出したいほど、くやしくなってきた。なみだが、お高の眼を、異様に光らせてきた。
「いいえ。五兵衛さんのおかみさんは、そんな恐ろしい人ではございません。五兵衛さんこそ、そのおかみさんにひどくして――」
おせい様は、にこにこしていった。
「知らない方は、みんなそのお内儀さんの肩を持つと、五兵衛さまがおっしゃってでございますけれど、あなた様も、よく内輪の事情をお聞きになりましたら、きっと、わたくしと同じに、そのおかみさんという女が憎らしくなって、五兵衛さまがお可哀そうだと、お考えになるでございましょうよ。
その、なくなったおかみさんという人にも、五兵衛さまは、ああいうお人でございますから、何もかも知りながら、それはそれはよくしましてねえ、ほんとに、あのお方は、一つとして非のうちどころのない、見上げたお方でございますよ。めずらしいお方でございますよ。あなた様も、あんなお
あのお方は、女のこころもちが、こまかいところまでおわかりになりましてねえ、あんなにたよりになる方はございませんよ。わたしには、何でも話してくださいますが、その、わがまま
お高は、夢物語を聞いているような気がするのだ。ただ一つ、夢でないことは、じぶんはこれから、どうしても、このおせい様の眼に、あの磯五の面をはいで、見せてやらなければならないという、自分の決心だけだ。
「わたくしは、あなた様から、どんな憎しみを受けましても、かまいませんでございます。ほんとのことを、申し上げるのでございます。あなた様が、五兵衛さんにだまされておいでなさるのを、黙って見ているわけには参りません。五兵衛さんの女房という女は、決して死んではおりません。生きているのでございます」
「仮に、生きていなさるとしましても五兵衛さまから立派に去り状が渡って、死んだも同然に、きれいに縁が切れているのでございましょうよ」
「いいえ。その縁切り状も、おかみさんのほうはほしがっているのでございますが、どうあっても、五兵衛さんがお出しにならないのでございます。でございますから、まだ立派に、夫婦なのでございます。そればかりか、五兵衛さんは、このごろしきりに、そのおかみさんに帰って来てくれと、頼みこんでいるのでございます」
おせい様は、ちょっと不思議そうな顔をしたが、またすぐ、もとの笑顔にかえって、
「それは、まことに奇妙なおはなしでございますねえ。あなた様は、そのお内儀さんというお方を、ご存じでいらっしゃいますか」
「はい。お親しく願っておりますでございます」
「ただいま、どちらにおいででございますか」
「はい。ここにおりますでございます」
四
いってしまって、お高は、はっとした。これはいけないと思ったのだ。いまおせい様に、自分の身分を知られてしまっては、若松屋の金のほうのことが、かえって面白くないことになるかもしれないのだ。ここは、あくまでも、ほかに磯五の女房というものがあって、それが生きていることにして、じぶんはやっぱり、磯五の従妹ということにしておいたほうがいい。
これは悪いことをいったと思って、お高が、内心悔やんでいると、都合のいいことには、おせい様は、お高のいった意味をはき違えたのだ。
「こことおっしゃるのは、江戸のことでございますか」
「さようでございますよ。江戸にいらっしゃるのでございますよ」
「江戸にねえ。近ごろは、いつお会いでございますか」
「その、磯屋のおかみさんにでございますか。毎日お眼にかかっておりますでございますよ」
「それでも、五兵衛さまは、三年前に逃げて、まもなく
「それが、あの人のうそなのでございます。別居して、江戸にいるのでございます」
「五兵衛さまは、決してうそをおっしゃるような方ではございません。あなたこそ、何かわけがおありになって、そうしてわたしを苦しめようとしていらっしゃるのでございましょう」
おせい様は、はじめて、すこし激しいことばを用いた。眼のふちが
「わたくしは、ただ、申し上げなければならないと存じますことを、申し上げるだけでございます。若松屋さまからお金を取りかえして、五兵衛さんへおやりになろうとしていらっしゃるのを、見ていられないからでございます。わたくしも、五兵衛さんが、それほどの悪人であろうとは――」
「悪人というおことばは、いくらお従妹さんでも、ちといい過ぎではございませんでしょうか」
「でも、ちゃんとおかみさんがありますのに、お内儀に迎えようなどと、あなた様をいつわっていますのは、悪人ではございますまいか」
「もしあなた様のおっしゃることがほんとうでございましたら、五兵衛さまは、その、もとの女房の方が、まだ生きていなすって、この江戸にいらっしゃることを、すこしもご存じなく、死んだものとばかり思いこんでいらっしゃるのでございましょう」
「いいえ。五兵衛さんは、おかみさんが江戸にいることを、よく知っていますのでございます。会っていろいろ話をしまして、さきほども申しましたとおり、一日も早く帰ってきて、もとどおりいっしょに暮らしてくれと、五兵衛さんのほうから、話が出ましたくらいでございます」
「いいえ。それは、うそでございます」
「いいえ。ほんとでございます」
「いいえ。うそでございます。失礼でございますが、わたしは、あなた様より、お飾りの数をよけいくぐっておりますでございます。それだけに、殿方というものの見きわめが、はっきりとつくのでございます。もうこのおはなしは、お打ち切りに願いとうございます」
男というものの判断を誤らないと、おせい様がいうのだ。お高は、笑い出したくなって、自然に口の
自分こそ、その磯五の女房である――こう一こといいさえすれば、何よりの生きた
じっさいお高は、何度となく、思い切ってそのことをいおうかと思ったのだが、女同士のこころもちから、磯屋に寄せているおせい様の純真な愛と
たとえおせい様が、これでいささかのうたがいを起こして、直接磯五に事の真偽をたしかめるとしても、磯五として、おべんちゃら一つでおせい様を丸め直すことは、すこしもむつかしいことでないにきまっている。そして、おせい様はいっそう、ちかいうちに磯屋のお内儀に迎えられることと信じこんで、ますます矢のような催促を、若松屋惣七へ向けるであろう。
しかたがない。いってしまおうと、お高は思った。
「じつは、わたくしが――」
やっぱり、いいよどんだ。おせい様は、いつのまにか、もとどおりにこにこしていた。おだやかに、お高のことばをくり返して、促した。
「はい。あなた様が――?」
「はい。あの、じつは、わたくしが――」
そこへ、さっき取り次ぎに出た十六、七の小女があらわれた。小女は、縁側の障子のかげに指をついて、いった。
「あの、磯屋五兵衛様がお妹さまをおつれになって、お見えになりましてございます」
五
お高は、反射的に、たちあがっていた。おせい様は、入り口の障子のほうに気をとられていた。お高は、そっとおせい様のうしろへまわって、
お高は磯五のうしろに、派手な色があるのを見た。それが、磯五の妹という女に相違なかった。その磯五の妹という若い女は障子のかげに隠れるようにして、はいることをためらっていた。が、すぐ、磯五に呼びこまれて、障子の
「たびたびお話しいたしましたが、今まで、ついかけちがって、おひき合わせもできませんでした。これが磯屋の店の黒幕、妹のお
そのお駒という女は、なるほど磯五の妹といった格の町家の女ふうに、堅気につくってはいるが、そして、おせい様と初の対面というので、せいぜいしとやかに構えてはいるけれど、お高は、その女に見覚えがあった。
それは、あの、式部小路の磯屋のまえの
初対面のあいさつをしている。
「きょうは、このお駒にもお近づきを願いかたがた、本人の口からお礼を申させようと思いましてね、急に思い立って、やって参りましたよ」
「御丁寧に、まあ、ほんとに、五兵衛さんのお妹さんだけあってお駒さんは、お美しいお方でいらっしゃいますこと」
「いつも兄をはじめ、商売のほうまで、いろいろと御厄介になりまして、ありがとうございます。それに、近いうちに、おめでたがございますそうで――」
磯五に劣らない、したたか者らしい声音である。おせい様は、おめでたといわれて、もじもじ磯五のほうを見て笑った。
「兄様が、せっかく親切にいってくださるものでございますから、こんなお
「いいえ、わたくしなんど、ほんとに何もできませんのでございますけれど、さいわい兄が万事に眼を届かせてくれますので、どうやら――」
お駒は、一にも二にも磯五を兄々と立てて、すっかりその妹になりすましている。
ふと、おせい様は、気がついて、座敷のなかを見まわした。
「おや、高音さまとやらおっしゃる、お従妹さんがおいでになっているのでございます。つい今しがたまで、ここにすわっておいででございましたよ。はて、どこへいらしったのでございましょう」
お高は、思いきって、つぎの間から出て行った。じろりとすばやく、磯五をにらんだ。
「こちらで、お掛け物を拝見しておりましたのでございますよ」
磯五の顔を、蒼いおどろきと、怒りが、走りすぎた。が、声は、思いがけないところで、従妹にあったという、愉快な、意外さを示して、ほがらかにひびいた。
「おお、これは、高音か。相変わらず、どこへでも出かけてくるようだな」
「はい。用さえあれば、どこへでも出かけて、何でもいいますよ」
「ははは、相変わらず元気で、面白いことをいいます」
磯五は、すごい
「従妹とやらが、あまり元気では、お困りになることがございましょう。おあいにくさまみたようでございますねえ。面白くないことを、たんとしゃべり散らす従妹でございますからねえ」
「これ、お駒も来ておるのだ。長らく会わないが、覚えてはいるだろうな」
「これが、妹さんとかいう、お駒さんという
「ははははは、いくつになっても、お前の茶目ぶりはなおらないとみえる。いよいよ面白い」
お高は、このうえ長居は無用と思った。おせい様にだけ、かるく挨拶して、座敷を出て、帰路についた。かみつくような、挑戦的な磯五の視線が、お高のうしろ姿を追っていた。お高も、出がけに磯五に、応戦的な
お高は、これで、磯五とすっかり敵になったことを知った。きょうから、あらためて、磯五という良人は、お高という妻の、正面の敵となったのだと、お高は思った。磯五も、そう思った。そしてそのあらそいは、ついに
お高が、
「まあ、
小婢が、こましゃくれた口で、そういっていた。
六
おせい様とは大の仲よしの
藁店の吉田屋は、おもてにも、瀬戸物一式をならべて売っている古い店だが、それより、諸大名のやしきへ、
中庭にむかった小座敷では、おせい様と磯五とお駒のあいだに、これから、くつろいだはなしがはじまろうとしていた。磯五は、お高のことはいま話題に
おせい様は、磯五の顔を見て、お高によって一時植えられた疑念など、けろりと忘れて、酔ったように上きげんなのだ。お茶を呼ぶつもりで若やいだ態度で手をたたいたりした。
その、手をたたく音を縁を進んでいたお民が聞いて、冗談好きのお民が、お茶屋の仲居をまねて、
「へえーい」
と長く引っぱって答えると、近いところで、うちの者でない人の声がしたので、おせい様は誰のいたずらであろうと、びっくりした。そこへお民が、あいそよくはいって行った。
「お呼びでございますか。というところでございますね。こんちは」
「あらあら、まあまあ、吉田屋のお民さんじゃあありませんか」
おせい様も、はしゃいだ声を出した。おせい様は、このお民に対してだけは、友達ずくに、すこし、ことばをくずすのだ。
「いやですよ。女中のまねなんぞしては、まあ、おはいりなさいよ。うちの人同様の人たちばかりですから、ちっとも構いませんよ」
お民は、にこやかに笑ってはいって来て、すわった。お民は、お店の女房らしい、渋い、美しい年増だ。ふところから、紙にはさんだ
「いえね、あした早く
といいながら、なにげなくお駒のほうを見ると、あらと驚いたお民の手から、きせるが落ちた。
「おや! この人は――?」
ぽかんと口をあけて、お駒とおせい様を、比較するように見た。
お駒は、今お民がはいってきたときから、あおい顔をして、まごまごしていたのだ。おせい様が、吉田屋のお民さんじゃあありませんかといったときは、のけぞるほど、ぎっくりおどろいたようすで、あっと小さく叫んで、あわてて立ち上がろうとさえしたくらいだ。そこらへ、隠れでもするつもりだったのだろう。こまかくふるえ出したのを、磯五がきっと眼顔でしかりつけて、やっと押しとめておいたくらいだ。
それが、今こうしてお民の眼をまともに受けると、お駒は、まるで石になったようだ。つめたく固まって、口もきけないのだ。おせい様も、びっくりしたようすだ。あわてて、いった。
「このお方は、日本橋の磯屋五兵衛さんの妹さんで、お駒さんという人ですよ」
「え? 何ですって? 磯屋さんの妹のお駒さんという人ですって?」
お民は、叫ぶようにおせい様にいって、それから、くるりとお駒へ向き直った。
「何だい、この狂言は。いやだねえ。お前はお
おおぜい奉公人を使って、気の強いお民だ。正面から、お駒を見すえて、きめつけた。すると、不思議なことには、今のいままで、磯屋の店をひとりで切りまわしている、五兵衛の妹お駒として、すっかりおさまっていたお駒が、今もいうとおり、凍ったようになってしまったと思うと、こんどは、顔を、真っ赤に、というよりむらさきにして、たちまちへなへなと折れてしまいそうに見えた。
おせい様は、何やらいっこうわからないながらも、磯五の手まえをおそれて、いそいで、お民をたしなめにかかった。
「お民さん、何をいうのですね。お安などと、とんでもない間違いをしては、いけませんよ。お民さんがとんでもない人違いのことをいうものですから、お駒さんがあんなに困って真っ赤になっていなさるじゃありませんか」
お民は、お駒から、眼を離さずに、せせら笑った。
「おせい様こそ、ばかな間違いをしているのですよ。きっと何か、食わせものに引っかかっているのですよ。半年ほど[#「半年ほど」はママ]まえのことですが、わたしゃこのお安の顔は、忘れっこありませんよ。どこで見かけても、一眼でわかりますよ。おせい様、まあ、このお駒さんという人を、よく見てやってくださいよ。これは、お安ですよ。わたしに見つかったものだから、あんなにしょげているじゃありませんか。
このお安は、うちの下女だったのですよ。いいえ、下女に来て、二、三日お目見
七
「吉田屋さんのお内儀さんでいらっしゃいますか。何かわたしを、お安とかいう女と取りちがえていらっしゃるようでございますが、わたしは、いまおせい様がおっしゃいましたとおり、この、ここにおります日本橋式部小路の太物商、磯屋五兵衛の妹、駒でございます。
人ちがいもお
「まあ、あきれた。これ、お安、お前は、うちへ住みこんだときも、その口で、わたしをちょろりとだましたんだったね」
「何でございますと? わたしは、その、お安とやらではございません。磯屋の妹の――」
「はい。わかっておりますよ。磯屋の妹のお駒さんに化けこんで――」
「まだおっしゃる。もう一度、お安などとおっしゃると、承知いたしません」
「ええ、ええ、何度でもいいますとも。お安だからお安だというのに、何かさしつかえでもあるのですかね」
「なんてまあ、強情なんでしょう!」
お駒のようすに、だんだん
「ええ、これは、吉田屋さまのお内儀でいらっしゃいますか。おうわさは、おせい様からも、しょっちゅう伺っております。手まえが、磯屋五兵衛でございます。ただいま伺いますと、何かとほうもないお人違いをなすっていらっしゃるようでございますが、まこと、これは手前の妹、駒でございまして、お話しのお安さんでもございませんければ、また、どちら様へも、奉公になぞ上がったことはありませんでございます。
もし
ただおろおろしていたおせい様も、これにいきおいを得て、種々口をそえて、お民に、その、間違いにきまっていることを、さとらせようとしている。
お駒は、くやしいといって、畳に突っ伏して、泣きじゃくっている。おせい様は、磯五の気を害することを専心おそれて、
「おせい様、わたしは、おまえさまの
おせい様をふり切るようにして、お民は、そそくさと帰って行った。
龍造寺主計は、どこの産ともわからない、諸国放浪の浪人だ。年のころは、三十五、六であろう。中肉中背のからだを、風雨と汗でよごれた旅装束につつんでいるのだ。ばかに長い刀をさしているせいか、
「おい」
「いらっしゃいまし。おかけなさいまし」
「そうしてはおられん。つかぬことをきくようだが、江戸で人をさがすのに、何かよい
一
吉田屋のお民が、お駒を、お目見得泥棒とののしって、席をけたてるようにしてかえっていったあとだ。磯五は、うつ伏しているお駒の背に手をかけて、おせい様にいった。
「ひとまず、これをつれて帰って、また参ります」
おせい様は、お民のことばで、磯五が感情を害しているに相違ないと、それをおそれているのだ。
「お駒さんは、気が
おせい様は、磯五のきげんを直そうとして、おろおろ声だ。磯五といっしょに、お駒のせなかをさすって、抱き起こした。お駒は、たもとで顔を隠していた。憤然とさきに立って部屋を出ながら、磯五がおせい様にいやみをいっていた。
「おかげで、いい恥をかきましたよ。人の妹をつかまえて下女奉公に出たことがあるの、おまけにぬすっとうを働いたの何のと、あの吉田屋のお内儀には、いずれとっくりこの返礼をするつもりです」
どなるような大声だから、おせい様はいっそうみじめに狼狽して、まだ泣きじゃくっているお駒を抱かんばかりにして玄関まで送り出た。履物をはきながら、磯五がいった。
「いたって気の弱い
「そうでございますよ」おせい様は、男の気を直そうと、一生懸命だ。「おとなしいお方だけに、くやしさも一しおでございますよ、ねえ――それはそうと、お前さま、ほんとに戻ってくるのでしょうね。待っていますからねえ」
「はい。お駒を店へ送り届けて、その足で引っかえしてまいります」
急に赧い顔をしたおせい様から、残っている色気が発散した。それは夕やけのようにはかないものだ。
「だまかすとききませんよ」
おせい様は、帰って行くふたりを、心配そうに見送った。いつまでも上がり口に立っていて、奥へはいらなかった。
お駒は、まだ顔をおおったまま磯五に注意されても、おせい様に挨拶もしないで、出て来た。
拝領町屋の横町をまがって、雑賀屋の寮が見えなくなると、磯五はぐいとお駒ちゃんの腕を握った。磯五は、どういうわけか、このお駒のことを、ふたりきりでいるときは、お駒ちゃんと、ちゃんづけにして呼ぶ習慣なのだ。
「ほんとか、あのことは」
お駒ちゃんは、長い
「みんなほんとですよ。ちょいと吉田屋へ住みこんで小さな仕事をしたのが、へまをやって、ばれたことがあるんですよ。いやなところへ、いやなやつが出て来たもんだねえ」
磯五は、ひとごとのようにいうお駒ちゃんの顔を、横眼ににらんで、ならんであるいた。おしろい焼けのしたお駒ちゃんの顔は、ことに
磯五はおせい様のことも、お高のことも、いまの厄介な問題もどうにかなるであろうと思った。
「ほんとに、おかしいったらありゃしないよ。でも、底が割れそうで、お前さん心配じゃないかい」
「なに、心配することはねえのさ。だが、あのとき泣くなんざあ、てめえが馬鹿だ」
「あれ、誰も泣きはしないよ。笑っていたのだよ」
「なおいけねえや」
「だって、おかしいじゃないか。あの、吉田屋のお
「殊勝らしく、泣いているように見えたから、いいようなものの、それが、てめえのかるはずみというものだ」
「悪かったらごめんなさいよ。だけどねえ、お前さんという人も、罪のふかい人だねえ、あのおせい様とかいう四十島田はお前さんにこれったけじゃあないか」お駒ちゃんは、歩きながら、じぶんの首へ手をやった。
「あんなに参っているとは、思わなかったよ。女同士だもの、眼いろでわからあね。
「何をいやがる。それもこれも、てめえに楽をさせようためのいわば商売じゃあねえか。あだやおろそかには思うめえぞ」
「はいはい。まことにありがとうございます――お前さんは、口がうまいからねえ。かなわないよ」
磯五とお駒ちゃんは、声をあわせて、笑った。そこは、
二
品川の八つ山下の茶店のおやじは、ふと立ちどまった、旅によごれた浪人風の
龍造寺主計という人は、こんなふうに、人を驚かしてばかりいるのだ。だから、人がおどろくのには、平気なのだ。
立ちどまったついでに、ぽんぽんからだの
「貴様は、物
茶店のおやじは、困ってしまった。きちがいかもしれないと思ったので、さからわないに限ると思った。
「物識りらしい面とは、こんな面がお眼にとまって恐れ入りましてございます。しかしお武家さま、江戸で、顔の広いお方と申しましても、どういうお方でございましょうか。
「いや。町人仲間で、顔の売れている人物のところへたよって行きたいのだ」
「それはそれは。して、どのような御用でございましょうか、それによりましては、このおやじめが、どなたか思い出さないとも限りませんで、へえ。なにぶん、この掛け茶屋などと申す
「よく申した。ぜひ一人思い出してくれい。用というのは、その人物を
ははあ、
しかし、若いころから、仇敵をさがして全国を放浪して、山河のほこりにまみれて、もうどうでもよくなって、こうして江戸へはいって、申しわけに、その顔のひろい人に頼んで捜してもらいながら、自分は、こづかい銭をもらって、一生ぶらぶら遊ぼうという
おやじは、めったなところを教えては、迷惑をかけるかもしれないと思った。
「はい。人をおさがしなさる。そのお人は、どういうお方でございましょうか」
「よく、いろんなことをきくやつだな。まず、
「あの、蠅のようなお方――」
「そうだ。貴様は、
「存じております」
「そのぎん蠅と同様に、しじゅう小判の集まるところにぶんぶんいうて飛んでおるやつだ」
おやじは、笑いだしていた。
「それはお武家さま、御無理でございますよ」
「なぜだ」
「なぜと申して、考えてもごろうじろ。きたないものに蠅がたかりますように、お金のあるところに人が集まるのは、当節の
おやじも、ひまなので、相手になっているのだが、これを聞くと、龍造寺主計はふわふわと鼻の穴から笑声を押し出して、
「なるほど。いっぽん参ったわい。貴様は、なかなか気骨があるぞ」
ひどく面白そうだ。おやじも、乗り出して来た。
「お武家さま、へっ、思いだしましたよ。ひとり、思い出しましたよ」
「そうか。思い出したか」
「思い出しましたよ――つまり、何でございましょう? ひろくお金を扱って、そのほうで、江戸のあきんど衆に顔の知れているお方、そういうお方が、御入要なんでございましょう?」
「そうだ、そうだ。そういう人物をたよって、行きたいのだ。その、貴様が思い出したというのは、名は何といい、いずくに住まっておるか」
「ようがす。そういうお方なら、江戸に有名なお方がございます。小石川でございます。小石川の上水端に金剛寺というお寺がございます」
「うむ。
「へえ。その金剛寺の裏手でございます」
「うむ」
「若松屋惣七さまとおっしゃるお方で、あのへんでおききになれば、すぐおわかりになりますでございます」
「さようか。かたじけない」
おやじのまえの腰掛けのうえに、ばらばらとたくさんの小
三
磯五が、拝領町屋のおせい様の家へ引っかえしたときおせい様は、おなじ座敷にすわって、ぼんやり庭を見ていた。磯五がはいってくるのを見ると、いそいそ迎えに立とうとした。磯五はてかてか光る顔を笑わせて、まあまあと手で制して、ぴったりおせい様のそばへ行ってすわった。おせい様は、娘のようにはじらいをふくんだ眼で、だまって磯五をみつめた。磯五が、なめらかな声で、いった。
「すこしおそくなりましたので、おせい様は、怒っていらっしゃる」
「いいえ、おこってなんぞおりませんわ。お駒さまはどうなさいました」
「店へ帰って、よくきいてみました。驚きました。あのことはほんとうです」
「ほんとう? ほんとうといいますと、あの、お民さんのおっしゃったことは、みんなほんとうなのでございますか」
「いいえ、みんなではありません。みんなほんとうのことでは、わたしの妹が、泥棒をしたことになるではありませんか。それではあんまりですよ、おせい様。そんなことをおっしゃると、五兵衛は、この可愛いおせい様を、お恨み申さなければなりませんよ」
「あれ、いやでございますよ、つめったりなすっては。ですから、早く、すっかり聞かせて、安心させてくださいましよ」
「すっかりお話しします。五兵衛は、おせい様には、何でも申し上げるのですから」
「そうですよ。それはよく知っていますよ」
「わたしもはじめて聞いたのですが、おせい様、お駒は、可哀そうなやつでございます。わたしの心がらから、おんば
「あの、いたいけなお駒さんがねえ。まあ、おかわいそうに。聞いただけで、おせいは、
「はい。そうおっしゃってくださるのは、おせい様だけです。わたしも、きょうというきょうだけは、男泣きに泣かされました――それで、あいつも、背に腹はかえられず、素性をかくして、下女奉公とまで身を落としたのだそうです」
「その住みこみなすった先が、吉田屋さんだったのですねえ。あそこは、大店で、人の住まいが荒そうですし、それにあの、お民さんというお人が、気はいい人なのですけれど、ああいうしゃきしゃきしたお人でございますから、お駒さまも、どんなつらい目をみなすったことか、お察しできますでございますよ」
「はい。それはもう、朝から晩まで、つらいことだらけだったそうで、それに、もともと下女に出る生まれではないものですから、いっそう骨身にこたえて、そのうえ氏育ちは、争われませんもので、本人はそのつもりでなくても、やれ、お上品ぶっているとか、いやにお高くとまっているとか、
いじめられ通しで、泣きのなみだで、それでもお
これもみんな、ほかに身寄り葉よりもない、たった一人の妹を、うっちゃっておく気はなくても、まあ、うっちゃっておいた、わたしの罪でございます。さっきこの話を、お駒の口から聞いて、兄さん、わたしゃくやしい、といわれましたときは、すまない、お駒、許してくれ、このとおりだと、思わず、このやくざな兄貴のわたしが、お駒のまえに下りましたよ」
四
「ほんとにねえ」おせい様は、しとやかに眼をぬぐった。
「いいえ、ですけれど、そんな馬鹿なことって、ありませんよ。これから、一っぱしり藁店へ出かけて行って、お民さんに談じこんでやりましょうよ」
たちかけるのである。磯五は、あわてた。
「いけません。そんなことをなすっては、いけません。何といっても、お駒が、吉田屋さんへ奉公に上がっていたことのあるのは、事実ですし、それに、過ぎ去ったことではあり、いまとなっては、
「それもそうですねえ。それでは、あの人が、伊万里とかから帰ってきてから、会って、よくいいましょうよ」
「わたしが、三年ぶりに江戸へ舞い戻りましたときは、お駒は、もとの磯屋さんに奉公しながら、仕込みのこつやなどを呑みこもうと、それとなく見ておりました。おかげをもちまして、わたしが磯屋五兵衛となりましたこんにち、あれの、そのときの下地が、たいそう役に立っているわけでございます」
「ほんとに、あなたといい、お駒さまといい、このおふたりの御兄妹ほど、そろいもそろって、世の中のあら
「何だか、わたしも、そんな気がいたしますよ。ふり返ってみますと、生まれてから、おせい様にお眼にかかるまでは、長いながい山みちをあえぎあえぎ登ってきたのだと、しきりに、そんな気がいたします」
磯五は、膝のうえに両手をさすって、うつむいてそういった。おせい様が、ほっと熱い息をした。それは、
おせい様は、わきを向いて、ほかのことをいった。感情の張り切った声が、かすれて、ふるえているのだ。
「こんど、お駒さんをここへお
磯五の顔が、おせい様の顔に、寄って行った。おせい様の胸に、すこし残っている火がいま、おせい様の眼から、燃えぬけているに相違なかった。その、ほらほらと燃えあがる眼に、磯五の白い顔が大きくうつった。この、涼しい
中庭のむこうの土蔵の影が、ながく伸びてきていて、座敷のなかは、うす暗かった。磯五は、起って行って障子をしめ切って来た。
お高は、若松屋惣七が、まだ帰ってきていなければいいと思って、いそいで
じぶんがおせい様と話しているところへ、磯五と、あのお駒という女がやって来たときに、思い切って、磯五が自分の良人であること、そして、お駒は、磯五の妹でも何でもないことをいってのけることができたら、両方の面皮をいっしょにはいで、それがいちばんよかったのだが、お高は、どうしてもそれができなかったのだが。
その前から、お高があんなにいったのに、おせい様が、ちっとも信じてくれようとしないから、お高に、その力が出なかったのだ。お高が、身分をうちあけて、生きた証拠を示さない以上、おせい様は、磯五のいうことを真に受けて、お高の言には、はじめから一顧をもあたえないにきまっている。だが、お高は、じぶんが磯五の妻であると、おせい様に知られることは恥ずかしくてたまらなかった。とてもいえないのだ。
おせい様と磯五のあいだが、ゆくところまでいっていることは、お高にも、想像できた。そのおせい様から、そこにそういう女房がいるのに、その夫は、わたしとこういうことになっていますという眼で見られることは、お高の、女としての誇りが耐えられなかった。このへんのこころもちを、磯五は、承知しているらしいのである。承知して、お高の口からばれることはないと、たかをくくっているに相違ないのだ。お高は、磯五ひとりに会って、おせい様を迷わせて、若松屋さまからお金を取り立てて巻きあげることだけは、よしてもらおうと思った。
お高は、出がけに帯のあいだへはさんで行った、おせい様の手紙を思い出した。早く現金をそろえて、日本橋式部小路の磯屋五兵衛へまわすようにとある、若松屋惣七にあてた督促状だ。お高は、帯のあいだへ手をやってみた。手紙は、そこにあった。その手紙を、どうしようかと思った。若松屋惣七さまに渡したものかどうかと迷った。
若松屋さまには見せたくない。見せられないと思ったが、考えてみると、この手紙ひとつじぶんの手で握りつぶしたところで、どうなるものでもないと気がついた。第一、若松屋惣七に、何ごとでも隠し立てしておくのが、お高は、くるしかった。もうお帰りになっていることであろうから、いっそすぐお眼にかけようと決心した。
五
お高は、うら口からはいって行った。そこだけは、雲のきれ目から、うす陽がさしていた。佐吉と滝蔵が、傘と
誰も、お高がかえってきたことに、気がつかないようすだ。みんなで大声に、たれかのうわさをしていた。旦那やじぶんのうわさをしているのだと、気まずい思いをさせると思って、お高は、うら庭へはいるとすぐ、声をかけた。
「みなさん、よくお精が出ますよ」
ふたりの
「おかえんなさい」
「旦那さまは?」
「まだお帰りではねえのです。
「あれ、お客さまというのは、どなた」
「名はいわねえのです。おっかねえさむれえですよ」
お高は、若松屋惣七の武士時代の友だちがたずねてきたのだろうと思って、不思議に思わなかった。炭屋の若い衆へ、笑いかけた。
「そうですよ。水をかけておいてくださいよ。火もちがちがいますからねえ」
「火もちがちがいますよ」
「粉炭は、便利ですから、いつもの
「こな炭は、便利でさ」
炭屋の若い者は、おなじことを繰りかえしていった。お高は、笑いながら、[#「笑いながら、」は底本では「笑いなが、ら」]家のなかへはいった。ちょっと自分の部屋へ寄って、顔をなおしてから、客が待っているという、中の間の座敷へ行った。そこは、先日、磯五がはじめてあらわれて、このごろのさわぎの発端となった、あの座敷だった。
お高が、縁側を進んで行って、敷居ぎわに手をつくと、そっちへ足を向けて、大の字なりに寝ころんでいた男が、むっくり起き上がって、あぐらをかいた。それは、
お高は、びっくりした。龍造寺主計も、不意に現われたお高を、まぶしそうにながめて、つづけさまに、
「つい
「いいえ、若松屋さまは、まだおかえりになりませんでございますけれど、御用は、わたくしが、伺っておきますように、しじゅういいつかっておりますでございます。わたくしも、ちょっと
いいながら、お高は、龍造寺主計を観察した。龍造寺主計は、
お高が、江戸で見慣れている武士とは、全然違った型なのだ。陽にやけた顔に、あばたがいっぱい浮き出ているのだが、お高は、何だか、男らしい立派な人だと思った。
先方が口を切るのを、お高は待った。龍造寺主計が、いい出していた。ふとい短い
「留守に上がりこんで、すみませぬ。先ほど江戸へ着いたばかりだ。さっそく若松屋惣七どのにお眼にかかりたいと存じて、推参いたした」
「あの、旦那さまのおしりあいの方でいらっしゃいましょうか」
「あんたは、こちらのお内儀かな?」
お高は、あかい顔をした。
「いいえ。旦那様はお眼がおわるいので筆役のようなことをいたしておりますものでございます」
「ほう、眼が悪い。それは御不自由な」
龍造寺主計は、
しばらく黙っていた。やがて、いった。
「いずれ戻らるることであろう。待ちましょう」
「はい。御迷惑でございませんければ、どうぞお待ちなすってくださいまし」
「うむ、待とう。が、考えてみると、待って、会ってみたところで、しようがないかもしれないのだ」
「はい。でも、それは、どういうわけでございますか」
「ひとつ、あんたにだけでも、聞いてもらおうか」
「はい。うかがわせていただきますでございます」
「まあ、おはいり。こっちへおはいり」
「いえ、こちらで結構でございます」
「さようか。おれは、旅をしておる者だ」
「はい」
「旅をしておると、さまざまな人間に会う。いやでもあうぞ」
「はい」
「その旅で一度会うたことのある人間を、いま、この江戸で、さがし出したいと思うのだ。むりかな」
「あら、いえ。ちっともごむりなことはございますまい」
「まあ、聞きたまえ。ひとつ、聞かせてやろう。剣を弾じて、うたうのだ」
六
そのとき、龍造寺主計の歌声がしていた。それは、詩吟のようでもあり、長歌のようでもあり、俗謡のようでもあった。おそらく、彼自身の独特の
「
それは、
すると爪にはじかれたうす刃は、かすかに、微妙なひびきをつたえる。こぶしでたたかれた刀身は、その
龍造寺主計は、そうして文字どおりに、剣を弾じているのだった。剣は、
龍造寺主計は、はじきながら、打ちながら、刀身の上下を押えて、震幅を加減し、うっとりと眼をつぶってまた歌い出していた。
「きんらい酒にあてられて、
お高は、笑いだしていた。
「ほんとうに、結構でございます」
龍造寺主計は、かたなの
「若松屋惣七どのはたずね人の助力など、なさらぬかな」
「それは、なさらないことは、ございませんが、どういう筋あいでございましょうか」
「ぜひわたしに手をかして、この江戸で、人をひとりさがし出してもらいたいのだ」
「さようでございますか。お身内の方でも、行方知れずになったのでございますか」
「いや。さようなわけではござらぬ。さがし出して、この刀に、血塗らねばならぬやつなのだ」
「はい。そうしますと、かたき討ちでございますか」
「
このやりとりのあいだも、龍造寺主計は、つるぎのつま弾きをやめないのだ。伴奏入りの会話なのだ。
「すると、どういうことなのでございましょうか」
「人殺しをした者です」
「それでは、御公儀へ、
「いやいや、公儀へ訴え出ても、むだだ。取りあげにならぬことは、わかっている。その者は、やいばで人を斬ったのでも、毒を盛って殺したのでもないのだ。わたしが、めぐりあわぬことには、そやつに、罰の下りようはないのだ」
お高は、相手の力づよいことばに、何となく、こころよい
龍造寺主計は、何ごとか思いついたらしい。刀をおいた彼は、無器用な手つきで、ふところをさぐって、はだの
「忘れるところであった。江戸へ参った記念に、何かためになるところへ、この
「子供衆でございますか。子供衆ならこのおもての金剛寺というお寺に、たくさんおりますでございますよ。あそこには、
「何という坊主だ」
「
「しからば、その坊主のもとへ、この金子を献じて参ろう。若松屋どのの帰りを待つあいだに、ちょっと行って来ましょう」
龍造寺主計は、手の小判をちゃらちゃらいわせて、
一
龍造寺主計は、思い立つとすぐ、うらの金剛寺の一空和尚のところへ金を納めに出て行った。
お高は、何という変わったお侍であろうと思った。そして、しじゅう近所の子供を集めて、子供たちといっしょに遊びながら学問を教えている、あの一空和尚のでっぷり
お高はふとそれを思い出して、不思議な気がした。お高の父は、深川の
が、そんな気がしただけで、すぐほかの考えごとにまぎれてしまった。
龍造寺主計という人物には、驚かされたけれど、江戸で、ある人間をさがし出して罰を加えるのだといった彼のことばには、お高は、たいして興味を感じていなかった。おおかた好きな女でもひどいことをした男があって恨みをいだいているようなことであろうと思った。
若松屋惣七は、どこへ行ったのか、まだ帰って来なかった。
お高は、名だけにしろ
龍造寺主計と対坐していたときのまま、敷居近くにすわって、ぼんやり考えこんでいた。
おもての金剛寺坂を、何かうたいながら、三味線をひいて行く、男と女の声がしていた。お高は、それを聞いて、流しの芸人夫婦を想描した。その雨をも風をも分け合っているすがたをお高はうらやましく感じた。何もかも知りあい話しあって、この世の中の重荷をいっしょにかついで行く相手のある人が、いちばんしあわせなのだと思った。
磯五のことが、心に浮かんだ。磯五という人は、女の口に口を当てて、
おせい様ばかりではない。あの妹に化けているお駒という女も、すっかり磯五のものになっているのだろうが、磯五の人柄には気がつかずに、女のほうから打ち込んでいるに相違ないのだ。お高は、磯五が、女の毒にあてられてからだがきかなくなればいいと思った。
そんなことより、お高としては、若松屋惣七をこの急場から、救いさえすればいいのだ。それには、どうしたらいいか。若松屋惣七は、まだあのおせい様の手紙を見ないのだから、おせい様が矢のように金の督促をするかげに、磯屋五兵衛が糸を引いていることは知らないのである。
これだけは知らせたくないと思って、お高は、こんなに苦心をしているのだが、ああしておせい様のほうが、だめになった以上、今度は、磯五ひとりに会って、まごころをこめて頼むよりほかはあるまい。まごころは必ず人を打って、人を動かすはずである。磯五とて、人間には相違ないのだから、ことによったら理解をして、おせい様を通して若松屋さまをいじめることを思いとまってくれるかもしれない。いや、きっと思いとまらせてみせる。
とお高が、頼みにならないことを頼みにして、やっと自分を励ましているときに、庭の草を踏んで来る
「旦那は、まだお帰りがねえようだが、おそいことですね」
「どちらへおまわりになったのか、わたしにも心あたりがないのですよ」
「それはそうと、いまどこかの
「おや、いやな話でございますねえ。わたしは男の人に呼び出されるような覚えはありませんよ」
「わっしもそう思って、めったなことがねえように断わったのですが、ちょっと帰って、またすぐ同じ口上をいって来るのです。二度も三度も来るのです」
「いやですよ。断わってくださいよ」
「何度断わっても、来てしようがねえのです」
「人聞きが悪いじゃあありませんか。何かわたしに、まともに来られない男の
「そうですよ。金剛寺さんの実朝様のお墓の前に待っているというのですよ」
金剛寺と聞いて、お高は、ことによると今出て行ったお侍ではないかと、思った。あの変人が、何をまた思いついて、
「行ってみようかしら」
「そうですか。守っ娘が待っているのです」
「行ってみようよ」
お高はたち上がった。滝蔵が、心配そうな顔をした。
「あっしが、そっと後をつけて行ってもようがすよ」
「大丈夫ですよ。あそこは、
二
「おや、お前さまは五兵衛さまではございませんか。いやでございますねえ。何ぞわたしに、急な用事でもできたのでございますか」
若松屋惣七方のうら手、小石川上水堀の
その実朝公の碑のまえに、人目を忍ぶように立っていたのは、磯五であった。磯五は、近くに遊んでいた、子守娘に駄賃をやって、こうしてお高を呼び出したのだ。子守は、お高をそこまで案内して、役目をはたして立ち去って行った。
磯五は、何にもいわずに、お高についてくるように眼くばせをして、先に先って[#「先に先って」はママ]あるき出した。碑の裏へまわって、松林のなかへはいって行った。お高はしぶしぶあとを踏んだ。
「何の御用か存じませんが、なぜうちへいらっしゃらずに、あんな
そこは老松と老杉の幹にかこまれた、ちょっとした開きだ。下は、茶色になった去年の雑草だ。むこうに本堂が見えるのだ。
ここに、
「あのめくら野郎に会いたくねえから、おめえにここまで出て来てもらったのだ」
磯五は、お高にうす笑いを落とした。お高は、自分のほうから、一人とひとりで磯五にぶつかっていこうとさっき決心したことを思い出して、これはいい機会だと思った。
「わたしのほうにも、いいたいことがありますでございます。ざっくばらんにいいますよ。おせい様をだまかすのはよしてくださいまし。あなたがおせい様をだまして、いっしょになるの何のとちゃらんぽらんをいうものですから、おせい様が、若松屋さんからお金を引き出そうとして、若松屋さまもわたしも、たいそう苦しめられておりますのでございます」
「他人の金を預かっておきながら、自用にまわしたりするのが悪いのだ」
「わたしはおせい様に、お前さまには女房があって、その女房は生きていますといいましたでございますよ」
「そんなことだろうと思って、きょう限り、おれのことにはかかりあってもらうめえと、それをいいに来ましたよ」
「お前さまこそ、きょう限り、おせい様をそそのかして若松屋さまからお金を取り立てることをよさなければ今度は、このわたしこそ磯五の女房でありますと、おせい様に打ちあけるつもりでございます」
「ははあ。それは面白い」
磯五は、せせらわらって「ぜひ打ちあけてもらおう」
お高は、あいた口がふさがらないように、磯五を見上げた。磯五は、うそぶいていた。
「おめえが何といったところで、おせい様は、おめえよりもおれを信じるのだ。なるほど、おめえがその女房だと名乗れば、何よりの証拠だから、おせい様もびっくりするだろう。悲しむだろう。が、いくらびっくりしても、悲しんでも、それかといって、そのときからおれがきれえになるわけのものでもねえ。かえって、いっしょになれないとわかれば、いっそうつのってくるのが、ああいう女のこころもちだ。高音、
「何が藪蛇でございます」
「薮蛇じゃあねえか。よく考えてみなさい。おめえがおせい様に身分を打ちあける。すると、おせい様の心になってみれば、おめえというものがあるばっかりに晴れておれと夫婦になるわけにゆかぬ。すりゃ、おせい様はおめえが憎くなる。
その憎い恋がたきのおめえが、おせい様の道に立って邪魔しながらじぶんでは、一方にあの若松屋とねんごろにしている――おせい様は、おめえに対する意地からでも、いっそう激しく督促して、若松屋をいためつけるに相違ねえ。これは誰に聞かせても、むりのねえところだろうと思うのだ」
「わたしは、何も、おせい様のお金のことばかり申すのではございません。お前さまがあのお方をたぶらかしているのが、悪いというのでございます」
「うんにゃ、そうじゃあねえ。お前は若松屋のほうさえ取り立てが延びれば、それでいいのだろう。ちゃんと面に書いてあらあ。好きな男のために、と。あははははは――おらそれが気に入らねえのだ」
三
「いったい何の御用でわたしをここまで呼び出したのでございます」
「おめえが拝領町屋へ出かけて行って、よけいなことを ようだから[#「 ようだから」はママ]、それをやめさせようと思って、急に出向いて来たのだ。わるいことはいわぬ。早々このことから手を引いたほうが、おめえのためだろうぜ」
「それこそよけいなお世話でございますよ。わたしは、お前さまのようなお人が、四方八方に迷惑をかけているのを、黙って見ているわけにはゆきませんでございますよ。手を引けなどと、よくもそんな虫のいいことがいえましたねえ」
「昔のよしみだ。なあ、高音、たがいに邪魔だけはしないことにしようじゃないか」
磯五がにっこりすると、ちらりと白い歯が走って、小指の先ほどのえくぼがあくのである。お高は、その顔を見ないように眼を伏せて、足もとの枯れ草をむしった。
「いやでございますよ。もうその手には乗りませんよ」
「一言いっとくぜ。後悔しねえようにな」
「おどかしはききませんよ」
と、いったものの、お高は、とうてい自分が、磯五の敵でないことを知った。手も足も出ないのだ。磯五は、先のさきまで見抜いてる。女のこころもちというものを、鏡にかけるように、すみずみまで知っているのである。
彼のいうとおり、たとえおせい様は、お高が磯五の女房であって、そのために磯五といっしょになれない。その点では、磯五にだまされていたと知っても、ちょいと何か磯五がうまいことをいいさえすれば、また、ちょろりとごまかされて、かえって磯五に同情を寄せるようなことになるだろう。そして、お高への
ではどうしたらいいか。どうもできない。お高は、とっさに自問自答した。
磯五が、例の油のような声でいっていた。
「とにかく、おせい様にいらぬことをいわねえようにしてもらおうと思って、おせい様のとこから帰るとすぐ、その足でここへ来たのだ。若松屋が、おせい様の金のことで四苦八苦していようが、いまいが、そんなことはおれの知ったことじゃない。おれはただ、おめえを、このことから手を引いたほうが利口だと納得させれあいいんだ。わかってくれたな」
「わかりませんよ。ちっともわかりませんよ。決して手を引きませんから、そのおつもりでいてくださいよ」
叫ぶようにいったお高だ。それには、泣き声のようなものがまじっていた。色のないくちびるを歯がかんで歯のあとがついているのだ。
お高は、
「お前さまのようなお人、もうもう顔を見るのもいやでございます。せいぜいおせい様なり、あの急ごしらえの妹さんのお駒とかいう
お高は、ちょっと
磯五は、衣かけの松のその衣かけの枝に、うしろざまに両肘をあずけてもたれかかったまま、立ち去ってゆくお高を見ていた。お高は、立ちどまって、腰をまげて、風にあおられる着物を押えていた。風を持てあまして、くるりと向きをかえた。磯五のほうを向いたのだ。磯五は、
お高は、
「高音、そうけんけんいわずと、ここへ帰って来なさい。まだ、話があるんだ」
風が、その離れたところから、お高の声を運んできた。
「そのおはなしというのは知っていますよ。わたしはお駒さんではありませんからねえ。お前さまが勝つかわたしが勝つか、これからは、はっきり敵味方に別れて、智恵くらべをしましょうよ。お前さまが勝てば、わたしが負けるのでございますし、わたしが勝てば、お前さまが負けるのですよ」
「そういうことになりますかな」
「そうでございますよ」
「何をわかりきったことをいうのだ。おい、高音、こっちへ来な」
磯五の顔が急に動物的にゆがんできた。お高は、磯五が何を考えているのかわかった。ふと磯五に
磯五は衣かけの松をくぐって、むこう側へ出ていた。そこは、
四
それを見ると、お高は、はっとした。いそいで磯五に背中を向けて、風にさからって走り出した。うしろで何かいう磯五の声がしていた。ばらばらと衣かけの松を離れて、追っかけてくる気はいであった。お高は、口をあけて風をのんで、
樹のあいだを縫って逃げるので、いきなり眼のまえにあらわれる立ち木を、すばやくかわすのが大変であった。お高がその樹々のあいだをすり抜けるときは、踊りの手ぶりのように見えた。すぐうしろに、磯五のあし音が迫ってきているような気がした。何度も、声をあげようかと思った。
実朝公の碑のまえから、もと来た参詣みちへころび出たところで、お高は精がつきて、地面へくずれようとした。話しながら通りかかっていた二人づれがあった。左右から手を伸ばして、お高をささえてくれた。
「ほう。お前は、さっきの若松屋の人ではないか。こんなところを駈けまわって、何をしているのです」
龍造寺主計が、面白そうにいった。ひとりは、龍造寺主計で、もう一人は、一空和尚であった。一空和尚は、まるい顔に、仕つけ糸のような細い眼を笑わせていた。でっぷりしたからだを、つんつるてんの衣で包んでる。
いつも若者のように元気な老僧だ。まっ赤な顔をして、笑ってばかりいるのだ。馬鹿みたいだが、たいへんに悟りをひらいた坊さまだということだ。ころもの
「
そして、手をあげて、すこし離れた
「あれは
龍造寺主計は、一空和尚のところへ来る学童のために金をおさめたのち、山門まで和尚に送られて、出るところであった。一空和尚は、龍造寺主計という人間が、すぐすきになったとみえて、ことわるのに、そこまでといって、ならんであるいて来たのだ。
龍造寺主計はあわてふためいているお高のようすを、ただごとではないと思った。やさしく抱き起こしてきいた。龍造寺主計は、女には、やさしいところがあるのだ。それは、いやみのあるやさしさではなくて、強いものが弱いものをいたわるというだけの、自然なやさしさだ。
「何ごとが起こったのか。わる者にでも追われましたか」
お高は、明るい世の中へ帰ったようで、うれしかった。着物のみだれを直しながら、しきりに、逃げてきたほうをふり返った。そこの樹のあいだから、今にも磯五が飛び出して来そうで、飛び出して来たら、こんどはこっちから、思いきりいいののしってやりましょうと思った。やっと
「あの、磯屋五兵衛さまが――」
と、いいかけた。龍造寺主計は、一空和尚の顔を見た。それから、お高へ眼をかえした。
「磯屋五兵衛と申すのは、何者かな。わたしは知らんぞ」
「わしも知らん」
一空和尚が、いった。お高は、ふたりが磯五を知っているわけはなかったと気がついて、いきなり名まえをいったじぶんが、おかしかった。が、何者かときかれて、返事に困った。何者かといえば、良人でございますというほかはないので、それは、いやであった。
「日本橋の呉服屋さんでございます」
「日本橋の呉服屋がどうしたのです。どうもわからんな」
「わしにも、わからん」
「いえ」お高は、このまますましたほうがいいと思った。おかしくなって、くっくと笑い出した。「何でもないのでございます。ちょっと――」
「いや、何でもないことはあるまい。ちょっと、どうしたというのか」
「はい。ちょっと――」
「その者はどこにおる」
「もうどこかへ行きましてございます」
「そんなことはあるまい。拙者が見届けて進ぜる。こっちへ来るがよい」
お高は、ためらった。もし磯五が、この荒っぽそうなお武家さまにつかまって、ひどい眼にあわされるようなことがあっては、可哀そうだと思った。かるく
「いえ。もうよろしいのでございます」
が、龍造寺主計に手をとられて、せきたてられてみると、もともと自分のことなので、また衣かけの松のほうへ引っかえして、龍造寺主計を案内しないわけにはゆかなかった。一空和尚も、ついて来た。お高は、磯五はもういないだろうと思った。いてくれなければいいと願った。
衣かけの松の見えるところまで来ると、お高は、立ちどまった。羽織を着直した磯五が、ぶらぶらこっちへ歩いてくるところであった。
「あれか」
「はい。あの人が、磯屋五兵衛さまでございます」
「ふうむ。あれが、な」
龍造寺主計は、感心したように、うめくようにいった。そして、ぼんやりお高の手を放して、足早に、磯五に近づいて行った。ぴたりと、磯五の前にとまった。
磯五は、ちょっと驚いたようだったが、平気で、龍造寺主計をみつめていた。龍造寺主計は、左手ですこし刀を押し出して、口をまげて、お高をかえり見た。それから、また、じっと磯五を見すえた。
「化けおったな、こいつ」
磯五は、顔いろひとつ変えなかった。お高のほうが驚倒した。お高は、龍造寺主計の腰にある刀が、今にも走り出そうな気がして、とっさに何もかも忘れて、ふたりのあいだへ割り込もうとした。
一空和尚が、にこにこ笑って、抱きとめた。
龍造寺主計が、声だけお高のほうへ向けた。
「会うたぞ。この男なのだ、さがしているのは。もう、若松屋に頼むことはない」
一
自分を忘れたお高だ。また、ふたりのあいだへ割り込もうとした。名のみの良人であるばかりか、いまは敵となっている磯屋五兵衛だ。が、この磯五の急場にあたって、お高のこころに残っている愛の破片が、お高をじっとさせておかなかったのだ。お高は、一空和尚の腕をふりほどいた。磯五をかばうように、龍造寺主計の眼下に立った。
「何ごとか存じませんでございますけれど」お高は、うわずった声だ。「ここは、御門内でございますよ。さっき御制札がございましたよねえ。何とございましたかしら。御門内にて、とんぼ獲ることならんぞよ――」
笑おうとした。笑えなかった。お高を見おろしている龍造寺主計の眼が、笑った。
「うむ。なるほど。そこで、この蜻蛉も、ゆるしてやれというのか」
磯五は、土いろの顔をこわばらせて、無言だ。お高は龍造寺主計へ、にっこりした。
「さようでございます。どうか、このとんぼを、逃がしておやりなすってくださいまし」
「とんぼは、面白い。たとえ蜻蛉一ぴきでも、寺内において殺生は遠慮せずばなりますまい。わかった。いずれ機会はある。ここでは斬らぬから安心しなさい。いや、これが、わたしが江戸へ捜しに参った当の男なので、顔を見たとき、むかむかとしたまでだ。大丈夫ここはこのまま逃がしてやる。うふふ、いかさま御門内じゃ。とんぼは獲らぬ。が、このとんぼめ、いまは何と名乗って、どこに住んでいると申したかな」
磯五は、もうけろりとして、龍造寺主計の顔をみつめたまま答えようとしないので、お高が、代わって答えた。
「日本橋式部小路の呉服太物商、磯屋五兵衛と申すとんぼでございます」
「あくまでとんぼか」龍造寺主計は、やわらかになった眼を、お高へ置いて「その磯屋五兵衛を許すのではない。お前のあつかいによって、とんぼを一匹ゆるしてつかわすのだ。しかし、上方で、こやつは何と申しておったか、ただいまちょっと失念いたしたが、むこうで会うたこともあるし、わしは、人の顔を見違うことはない。この顔だ。盛り場の人込みで
一空和尚が、はじめて口を出した。
「何だ。面白うもない。
吐き出すようにいって、本堂のむこうにある自分の
磯五は、
「もう若松屋惣七どのにお眼にかかって、たずね人に力ぞえをたのむ要もなくなった。運命が、若松屋殿の役目をしてくれた。日本橋の磯屋五兵衛なるものが、きやつであるとわかっておれば、あとは、いつでもよい。いつでもできる」
境内から
お高は、磯五と、その旅の
龍造寺主計は、自分のさがしている男は、公儀のおもてはそうでなくても、神仏の眼からは人殺しであるといった。きっとまた、ひたむきの女のこころとからだをもてあそんで、何か悪いことをしたのであろう。お高は、それにきまっていると思った。
若松屋惣七ほど、磯五の性格をつかんでいるわけではないが、あの人がよくないことをすれば、それは必ず異性に対してであると、じぶんの経験や、その後の磯五に関する見聞によって、お高は、信じ切っているのである。はじめから男を相手どって、それを敵にまわすような、さわやかな人物ではないのだ。
それが、いま磯五は、龍造寺主計というはっきりした敵を、この江戸に持つことになったのだ。お高は、とんぼとして助けられたきょうの磯五が、何だかみじめに思われてきた。今のように、男対男として、ほかの男のまえに立つと、ずうずうしいうちにも、ぽっちゃりとしてやさしい磯五が、妙に可哀そうに思われてきた。このさき、どうなるであろうかと思った。
龍造寺主計は、何か考えている。黙って、歩いている。お高は、そっと龍造寺主計の横顔を見た。そこにお高は、磯屋五兵衛とは極端に反対な人間を見た。やわらかい心臓を包んでいる強い線が、龍造寺主計だ。おなじ男で、こんなにも違うものであろうかと、お高は思った。
二
龍造寺主計は、それきり何もいわなかった。つれだって、金剛寺坂の屋敷へ帰ってみると、若松屋惣七はまだかえっていなかった。
龍造寺主計は、もう若松屋惣七に会う必要がなくなったから、待たなくともいいといったが、どこへも行くところがないので、お高の厚意で、若松屋方へ泊まることになった。お高は、佐吉に命じて、龍造寺主計のために、
佐吉に、龍造寺主計のめんどうをみさしておいて、じぶんは、居間へ帰った。しばらく起きていて、若松屋惣七のかえりを待ってみたが、帰りそうもないので、寝る支度をはじめた。
するりと着物を脱いだところへ、ふすまがあいたので、お高は、びっくりした。着物を前へかけて、その場へしゃがんだ。それは佐吉であった。佐吉は、白い肩を見せてすくんでいるお高を見ると、あわてて襖をしめた。
「何ですよ。そこでいってくださいよ」
佐吉は、外でいった。
「
「そうですよ」お高は、おかしかった。「出して上げてくださいよ」
佐吉の跫音が遠ざかってゆくと、まもなく、ひとりで酒をくみながら唄うらしい、龍造寺主計の声が、庭のやみに漂って聞こえてきた。
「きんらい酒にあてられて――」
お高は、床のなかで、小さな声をたてて笑った。
お高は、金策に出たきり帰らない、若松屋惣七のことを考えて、眠れなかった。じぶんの考えたことが、すべて失敗に終わったことも、思い出された。おせい様に、ほんとうの磯五を見せようとして、だめだったこと。若松屋惣七様からお金を取り立てることをよさせようとして、よさせられないこと。磯五に、ひとりでぶつかってもみたが、何にもならなかったこと。それからそれと、あたまが、冴えていった。
早く起きた。おっくうに思いながら、身じまいをすました。滝蔵が、膳を持ってきたが、
「旦那さまは?」
「ゆうべおそくお帰りになって、奥でおやすみですよ」
「あれ、なぜわたしを起こしてくださらなかったのだろうねえ」
「
「いやですねえ。どんなに眠っていても、起きたのにねえ」
いってから、お高は、赧い顔をした。佐吉も、ちょっと笑った。お高は、もうたち上がって、部屋を出かかっていた。
「まだお眼ざめではないでしょうけれど、ちょっといってみましょうよ」
「まだお眼ざめはねえのです」
お高は、奥の若松屋惣七の寝間へ行って、そっと障子をあけてみた。枕のうえに、死面のように蒼白い、若松屋惣七の寝顔があった。それは、憂苦のためにいっそう頬がこけて、けずったような、ほそ長い、するどい顔であった。
お高は、それに吸い寄せられるように、あし音を忍ばせてはいって行って、まくらもとにすわった。夜着のはしに手をかけたが、疲れて熟睡しているらしいので、起こす気になれなかった。すこし口をあけている顔をみつめていると、お高は、悲しくなってきた。お高は、またそっと部屋を出て、縁から庭
土が、しめっているのだ。うす陽が、梅の木を照らしているのだ。梅の木には、花があった。おそい
肩が重く意識されてきた。小雨だ。朝から、日照り雨が渡ってるのだ。一雨ごとのあたたかさが、来るのだ。そこにも、ここにも、春のにおいがある。お高は、鼻孔をふく雨をすいこんで、それをかいだ。
濡れるのもかまわず、その香をむさぼって、あるきまわっていると、離室の雨戸が繰られて、龍造寺主計の寝巻きすがたが、立った。
龍造寺主計は、やっこ
お高を見ると、そのまま縁側に腰をかけて、そばの板の間をたたいた。
「ここへ来て、掛けなさい。きのうの蜻蛉のはなしをして進ぜる」
三
「あの、いま磯屋五兵衛と名乗っている男のことだが驚かれましたかな」
「何を驚いたかとおっしゃるのでございますか」
「いや、わたしがねらっているのは、あの男だと知ってあんたは驚いたことであろうが、わたしもあんたのような無邪気な女が、あんな男と
「しりあいと申しましても、べつに、しりあいではございません」
「そんなことは、あるまい。あそこで、会っておったのだろうが」
「いいえ。そんな、決して、そんなことはございません」
「なければよいが、わしは、思ったとおりいう男だ。相識でない者を、なぜあんなにかばったのです」
「相識ではございませんが、ちょっと、用事がございまして――」
「それみなさい。何の用か知らぬが、あの男に近づくと、いいことはありませぬぞ」
「さようでございましょうか」
「これから、その証拠を話してあげようというのだ」
「はい」
「若松屋惣七どのは、帰られたかな」
「昨晩おそくおかえりになりましてございますが、まだおやすみなされていられますでございます」
「後刻、お眼にかかろう」
「はい」
「大阪のことでござった。声のいい、
「はい」
「若竹という名を、聞いたことがおありかな」
「いいえ」
「江戸までは、届かなんだかもしれん。京大阪では、たいそうな人気であった。何でも、生まれは江戸で、幼少のおりにあちらへまいったとのことであった。江戸の生家は、相当の家であったらしいが、竹女は、何もいわぬから、知れておりませぬ。
とにかく、上方で芸人として名を成した。一時は、大変なものであった。金も作った。が、そこへ男が現われて、竹女はその男へ、身も心も与えたのだ。この男こそ、義理も人情も人のまこともわきまえぬ、けだもののごときやつであった。それがあの磯屋五兵衛である。当時何と名乗っておったか、覚えておらぬが、顔は忘れぬ。あの男です。
あの男が、竹女のあとをつけまわして、金をまき上げた。夫婦約束までして、おんなの心を釣っておいた。きょうあすにでも、晴れの式をあげるようなことをいって、女をだましたのだ。
すると、もうこれ以上いつわっておけぬところまで来て、男が打ちあけたのです。じつは、じぶんには、江戸に妻があって、正式に夫婦になるわけにはいかぬという。そう聞かされても、竹女はあきらめきれずに、やはり、取る金を、右から左に男にやっておったものだが、そのうちに男は、江戸から遊びに来ておったおせい様とやらいう
「まあ――?」
「その磯屋五兵衛を、あんたのような
「あなた様は、その、若竹さまとやらおっしゃる方を、お好きだったのでございますか」
「うむ」
「それから、その男の方は、どうなすったのでございます」
「おせい様と江戸へ舞いもどったと、聞き及んだ」
「あの人が、磯屋のお店を買いとったお金は、そうしてできたのでございますか」
「若竹からは、大金を絞りおったぞ」
「そうして、あの人の手は、
「あんたは、あの男と、何か特別の関係ででもあるのかな」
「いいえ、そんなことはございません」
「そうか。そんならよいが――」
「あの人はいままた、そのおせい様から、お金をまき上げようとしているのでございます。おおかた、お金をまき上げたうえで、すてるのでございましょう」
「もとより、そうにきまっておる」
「それを、知っていて、黙って見ているよりほかしかたがないのでございます」
「わたしは、強いことは相当強いつもりだが、簡単な男である。話してくれぬことは、わからぬ」
「はい。いずれ、すっかりお話し申し上げますでござります」
四
若松屋惣七の居間で、人をよぶ惣七の声がしていた。彼は、いつのまにか起きて、寝間を出て、奥の茶室兼帳場へ来ていた。お高は、いそいそとはいって行って、手をついた。若松屋惣七は、かすんでいる眼を、お高へ向けた。
「お高か」
「はい。高でございます。久しくお眼にかかりませんでございました」
若松屋惣七は、庭の老梅の幹のような、ほそ長い、枯れた顔を、まっすぐに立てて、きちんと
「泊まり客があるそうだが――」
「旅のおさむらい様でございます。きのうお見えになって、そのままお泊まりになったのでございます。江戸の人をさがすにつけて、旦那さまのお力を借りたいとかおっしゃってでございましたが、磯五さんがわたくしに用があるといって、金剛寺まで呼び出して話をしているところへ来なすって、磯五さんを見ると、それが、その、捜していらっしゃる当の相手でございました。お強そうな、お立派なお武家さまでございます」
お高は、簡単に、いま聞いた、龍造寺主計が磯五をねらって出府したわけを、若松屋惣七に話した。
若松屋惣七は、
「いずれ、そういうことであろうと、思っておりました。お前の良人――とは呼びとうない。磯五だ。磯五とは、ゆうべおそく、拝領町屋のおせい様の家で会いましたが、じつにどうも
「はい。それははじめからわかっておりますことでございますが」いいかけて、お高は、はっとした。「すると旦那様は、おせい様があわててお取り立てをおはじめなすったうらに、磯五がおりますことを、もうご存じでいらっしゃいましょうね」
「
が、べつにたいして驚いたふうもなく、見えない眼を小雨の庭へ向けて、身じろぎもしないのだ。連日奔走ののちの虚脱した気もちにいるに相違ない。
お高は、いざり寄った。
「わたくしは、おせい様のお手紙で、前から存じておりましてございます。できることなら、おせい様に思いとどまっていただこうと存じまして、いろいろと骨を折りましてございましたが――」
「そういうことであろうと、思っておった。わたしはお前が帰ったあと、おせい様の家へ出かけて行って、膝詰め談判をしてみた。すべてむだであった。おせい様は、磯五と夫婦になる気でおる。女子というものは、愚なものだな。磯五に妻のあることを、わしは話してやったぞ」
「あら、わたくしのことを――?」
「いや、いや」若松屋惣七はしお辛い笑いだ。「お前という名は出さぬ」
「はい」お高は、ほっとして、
「わたくしも、そこまではいえませんでございましたが、きのうは、磯五さんがおどかしに参りましたので、わたくしのほうから、いってやりましてございます。おせい様を突ついて若松屋さまからお金を取り立てることをよさなければ、わたくしがおせい様に身分を明かすと申したのでございますが、磯五という人は、こういうことにかけましては鬼のように強いのでございます。何といいましても、平気なのでございます。
ほんとのことが、すっかりおせい様に知れたところで、おせい様はやはり、こちら様からお金を取って、磯屋へつぎこもうとするに相違ない。それは、わたしにも、どうすることもできないなどと、しゃあしゃあしたことを申しまして――」
「いや、そのとおりなのだ。おせい様自身、わたしにはっきりそういいました。おせい様は、すっかり、磯五と一心同体になっておる。よくもああ
そこで、今後は、おせい様のことは、いっさい磯五が後見するというのだ。このことも、磯五と話し合ってくれというのだ。そういって突っ放された。磯五となら、まとまるはなしも、まとまらぬにきまっておる。談合の要はない。若松屋も、もうあきらめました」
「あの、おあきらめなすったと、おっしゃいますと?」
「この若松屋の名と、両替の店を、
「では、どうあっても――」
お高の顔いろが変わった。眼がすぐ
「若松屋惣七殿ですか。龍造寺主計と申します」
声が、絹雨の縁側から上がってきた。背負ってきたふろしき包みからでも出したのだろう。龍造寺主計は、旅装束を着かえているのだ。
若松屋惣七が、声のするほうへ向かって、ちょっと衣紋をつくろっているうちに、龍造寺主計は、さっさと部屋へはいって来て、すわってしまった。
「若松屋惣七でございます」
若松屋惣七は、かるく頭をさげた。誰にむかっても、低くあたまを下げないのが、若松屋惣七なのだ。
「せっかくの御光来に、他行をしておりまして、失礼をいたしました」
「いや、わたしこそお留守に上がって泊まりこんで――」
龍造寺主計は、そういって、若松屋惣七とお高の顔を、見くらべた。
「何です。お取りこみな。お邪魔なら、また後刻――」
おどろいたようにいって、たちかけた。
水ぬるむころ
一
お高は、若松屋惣七が、どうしても若松屋の店を手放さなければならない。買い手の見込みも、ついている。それが、雑賀屋のおせい様へ金をそろえる唯一の
押えても、泣き声になってきた。
「どうしても、そうなさるよりほか、方策がないものでございましょうか」
若松屋惣七は、帰ろうとしている龍造寺主計をとどめながら、お高のほうへも答えようとした。が、龍造寺主計に、気を兼ねた。
「何だ。そんな内輪の話は、あとでしなさい。失礼ではないか」
龍造寺主計は、これを聞くと、部屋の
他人のことは、すなわち自分のことであると、いっさい自他無差別の一種の生活信条を持っている、この龍造寺主計である。黙って、お高と、若松屋惣七の
また、そこにそうしていても、妙に邪魔にならない存在なのだ。
若松屋惣七が、お高にいっていた。
「商売を売るより、ほかに途はつかないのだ。で、売ります。売って、からだ一つになって、わしは、掛川へ出かけてみようと思っておる。掛川へつぎこんだおせい様の金さえ、おせい様のほうへ返してしまえば、あの具足屋は、そっくりわたしのものになるわけだから、ひとつあれを育てて、何とか、芽のふくものなら、芽をふかしてみたい気もする」そして、思い出して、きいた。
「おせい様に会ったら、手紙を持たしてよこしたといっておったが、届かなかったか。わしは、まだ見ておらんぞ。どうせ、読まんでもわかっている用向きだが――」
お高は、すっかり気が抜けたようにたち上がって、自室の手文庫に入れておいた、[#「入れておいた、」は底本では「入れておいた。」]おせい様の書状を持って来て、何もかもあきらめたように、若松屋惣七の前へ押しやった。
「旦那様に内密で、勝手に計らいましたようで、まことにすみませんでございますが、できることなら、お耳に入れずに、わたくしの手で何とかいたしたいと存じまして――」
「わかっておる」
「ありがたかったぞ。が、しょせん、助からぬ命であるのが、この若松屋の店である。いやでも応でも、おせい様から預かった額だけは、磯屋五兵衛のほうへ払いこまねばならぬ」
磯屋五兵衛という名が出たのを聞いて、眠ったように、壁に頭をあずけて眼をつぶっていた龍造寺主計がむくりとしていた。
「磯屋五兵衛か。きやつまた、御当家へも、何か御迷惑をかけておりますかな」
若松屋惣七は、びっくりした。
「磯五をご存じかな」
「知っているも、おらぬも、拙者は、きやつを成敗せんがために、出府いたしたものでござる」
「ほう。成敗――」
「わけは、ただいま、それなる
が、若松屋惣七は、特別に興味をそそられたふうもない。何も、彼の興味をそそるものは、なくなっているに相違ないのだ。
お高へ、向き直った。しずかに、いった。
「雨が降れば、あとはまた日が照る。これは、世の定めです。いずれ、いいこともあろう。そういえば、きょうは、雨のようだな」
土を打つ細雨の音が、庭にしていた。澄んだ水のにおいが、つめたい微風にあおられて、流れこんできていた。それは、鼻の奥に痛いような、
三人は、それを味わうように、しばらく無言に陥った。
ふと、わがことのように、龍造寺主計が、壁ぎわから声を持った。龍造寺主計は、じれったそうに、舌打ちをするのだ。
「ちっ。のんきだな。聞いていれば、この若松屋を、ひと手に渡そうという、最後の場合ではないか。よほどこみ入った事情があるらしいことは、わたしにもわかるが、もうすこし、何とかして踏みこたえてみる気はないのかな。惜しい」
若松屋惣七の顔は、見るみる冷笑がひろがった。武士に、何がわかる。さむらいというものは、人を斬り殺すことを考えるか、もったいぶって見せかけて、それで、ただで衣食することを考えるか、していればいいのだ。
草のように蒼い若松屋惣七の顔が、龍造寺主計の声のしたほうを、さがした。儀礼と
「御厚志は、かたじけない」若松屋惣七は、
「知らぬことには、口出しをなさらぬがいい」
お高は、はっとして、龍造寺主計をふり向いた。が、お高の心配は、むだであった。
龍造寺主計は、剣術の
「眼が不自由であろう。お困りだな」
「大きにお世話です」
「あんたは、正直な人物だ。顔で、わかる」
「ふん」若松屋惣七は、お高を返り見た。「投げ出す気になったら、それこそ、正直なものだな。急にせいせいしたよ」
二
お高は、にわかに思いついたことがあるらしく、その、若松屋惣七のことばには答えずに、くるりと、壁の龍造寺主計へ、膝を向けた。
「わたくしから、すっかり申し上げますでございます」
必死の色だ。若松屋惣七が、
「お高、ゆきずりの客人に、よけいなことを話すまいぞ」
と、声を高めたのも、耳へはいらないのか、はいっても、無視したのか、お高は、なみだに濡れて異様にきらめく眼で、龍造寺主計をみつめて、いい出していた。
「じつは、あの磯五というお人が――」
龍造寺主計がさえぎった。
「その磯五だが、磯五は、あんたの何かではないのかな。どうも、全然かかわりのない仲とは思えん」
お高は、声をのんで、ちらと若松屋惣七を見た。磯五の妻であるとは、誰も知られたくなかったので、若松屋惣七が、そばから口を入れて、そう打ちあけはしないかと懸念したのだ。が、惣七がだまっているのでお高は安心した。惣七以外の人には、あくまでその秘密を押し通していこうと思った。
「いいえ。これからお話を申しあげるような、こちら様との取り引きを通して、存じ上げておりますだけでございます」
「さようか。それで安心いたした。何なりとうけたまわろう」
安心はおかしいと、惣七も、お高も思った。が、惣七は、もうお高にまかせて、黙りこんでいた。お高は、いっしんに先をいそいでいた。
できるだけ順序立てて、ひととおり今度のいきさつを話し終わった。
話し終わるのを待って、龍造寺主計が、質問をはじめた。それは奇妙な問いから、はじまった。若松屋惣七は、まるで他人のうわさでも聞くように終始もくもくとして、腕を組んでいた。
「お高――どの、といわれましたな。お高どのは、友だちというものがほしいと、思われることはないかな」
お高は、何という
「はい、親身に相談のできるお知りあいがあればよいと、しじゅう願っておりますでございます」そして、すぐつけたした。「旦那さまのほかに」
「うむ」龍造寺主計は、まじめとも冗談ともつかずゆっくりとうなずいて、「しからば、わたしを、その一人に考えてくだされい」
「はい。ありがとう存じます。それはもう、勝手ながら、自分だけでは、そう思わせていただいておりますでございます」
「膝とも談合と申すぞ.ましてともだちなら何をきいても、よいわけじゃな」
「はい。どうぞ何なりと――」
「では、きく」
「はい」
「かの磯五なる男が、この江戸でも、金を眼あてに女をたぶらかしていることは、おどろかぬ。先ほども話したとおり、若竹の件をはじめ、上方におったころから、そういう人物であった。おそらく昔から、そういう人物であったろう。が、その磯五のために、この若松屋が滅びんとしているとあっては、黙過できぬ。そこでだ。磯五の女房という女は、まだ生きているのかな」
「はい、生きておられますでございます」
「どこに」
「それは、申し上げられませんでございますが、でも、確かに、生きていらっしゃるのでございます。この江戸に」
「あんたは、その女を、知っているのか」
「はい。よく存じておりますでございます」
「若松屋さんも、承知か」
「磯五の内儀は、ご存じないようでございますが、その女が江戸におられますことは、ごぞんじでございます」
「どうしておる、その磯五の妻は」
「良人の磯五さんにすてられましてから、別人のように、かしこくおなりでございます」
「すると、以前は、馬鹿な女であったのかな」
「はい、何ひとつ世間さまのことを知らぬ、愚かなおなごでございました」
「さようか。わたしは、この若松屋惣七という人が好きである。いま会うたばかりだが、何年、何十年
三
龍造寺主計は、うすぎたない旅の浪人だが、龍造寺主計は、単に子供が好きだというだけで、久しぶりに江戸へ出た
事実、龍造寺主計は、
当否はとにかく、じぶんの生活をそう感じるようになった龍造寺主計には、全く
ときどきそういう心理におちることは、何をしていても、誰にでもあるものだが、龍造寺主計も、この無情の風を引きこんだのだといってもいい。ただ、龍造寺主計のは一時ではなくて、長くつづいた。それでも、しばらくは、藩中の変物で通っていた。
そのうちに、龍造寺主計は、
いま、お高からだんだんと話を聞いてみると、若松屋惣七を助けるためには、この、庄内藩の国家老の家に咲いた変わり花の龍造寺主計が、金を出してやればいいのである。龍造寺主計は、すぐ出してやろうと思った。ただその名義だ。やたらに金を出すというのでは、誇りの高い江戸の人間でしかも武家出である若松屋惣七だ。とても
それかといってこの若松屋の店を買いとって、それをすぐそのまま若松屋に返上して、金だけ用立てたようにするのも、見えすいているようで面白くないのだ。その金を出す形式について、龍造寺主計は、あたまを悩ました。
掛川の具足屋について、
それも、お高のはなしで判明した。若松屋惣七は、商人の柄になく、出さなくてもいいところへ金を出したりして、
「わたしも、ここらでいいかげん、ちょっと落ちついてみてもいいのだ」と、いった。「腰をすえて、若松屋惣七どののように、町人に
冗談でもなさそうだった。そして、つけ加えた。
「それで、若松屋が一時浮かぶ。わしの身も、まず固まる。とならば、両得である。武士というものがいやになっておる点にかけては、わたしも、若松屋に負けぬつもりだ。
しかし、その、きちがいになった東兵衛という男に、出した
龍造寺主計は、あははと笑った。
四
龍造寺主計は、そのままずるずるべったりに、若松屋惣七方の客となって、四、五日を過ごしたが、毎日のように出歩いていて、お高とも、惣七とも、その後会って、くわしい話を聞くというのでも、するというのでもなかった。
四、五日たって、ぶらりと、奥の惣七の居間へあらわれた。その龍造寺主計は、若松屋惣七のひそみにならって、一思いにさむらい稼業を廃業した龍造寺主計であった。あたまも、いつのまにか、町人ふうに結いなおしていた。着物も、どこでこしらえて来たのか、渋い
骨張ったからだにもやわらかみがついて見えた。こわいあばた面も、このあたらしい着つけにそんなに似つかわしくないこともないのだ。ひとかど商戦の古つわものらしく、かえって
本人も、べつに思い切って変わったというところも見えないのだ。けろりとして、部屋へはいって来て、若松屋惣七のまえにすわった。板についていて、ちっともおかしくはない。龍造寺主計自身も、ただ、さばさばした気もちだけで、じぶんのそうした転身など、気にとめていないようすだ。
若松屋惣七は、よく見えないから、早変わりをした相手に、おどろかされることもなかった。
龍造寺主計は、だしぬけにいった。
「この二、三日、掛川宿の具足屋のことを、考えておった。いままであんたがおろした
若松屋惣七は、眉ひとつ動かさなかった。
「龍造寺さまですかい。そんな金があるのですかい」
「やっと調達してまいった」
「それは、不思議なことですね。じつはきょうわたしは、この若松屋を売る手打ちをするつもりでおりましたよ。そのまぎわに、あなたという人が、金をもって助け船にあらわれるとは、まるで、作ったようなはなしでございますねえ」
「何でもいい。ぜひその具足屋へ、半口割りこませてもらいたいのだ。私は、
若松屋惣七は、まだ半信半疑のていだ。仮に、この龍造寺主計が、いまそれだけの現金を用意して来て、具足屋につぎ込もうとしているのは、たしかな事実であると知っても、若松屋惣七は、とび立つように礼などはいわなかったに相違ない。ふかく知らぬ人間に、また、深く識っている人間に対しても、決して飛び立つように礼などはいわぬ若松屋惣七なのだ。
うれしそうな顔も、しなかった。が、それだけの金がはいれば、それを磯五にたたきつけてやって、おせい様のほうをきれいにすまして、具足屋のほうも、急場をしのぐことができるのである。
若松屋惣七は、願ってもみたことのない転換が、紙一まいのところで降ってきたので、気をおちつけて、しっかり物ごとを見ようとして、内心努力していたのかもしれない。秋の小川のような、刻こく色のかわる影のふかいものが、そうそうと音をたてて、仮面のような惣七の顔を流れた。
龍造寺主計が、いった。
「承知なさったと、見た」
「具足屋も当分は苦しゅうございますぞ」
「苦しみましょう」
「今までの半金を出していただければ、こちらを済まして、なおあまりある。具足屋も、当座息がつけます」
「わたしは、さっそく掛川へ出向いてみたい」
「それはまた急なことで」
「おせい様と磯五は、いつ金をよこせといってきているのです」
「きょうあすにもという催促が、このところ、だいぶつづきました」
「早いほどよい。後刻、金をお渡し申そう」
若松屋惣七は、ぷすりとして、はじめて礼らしいことを述べた。
「いろいろ御厄介になります」
「何の」
ふたりは黙ったまま、ながいこと顔を合わせて、すわっていた。
若松屋惣七と、龍造寺主計と、二人の友情はこのときから燃え上がったのだ。深海をも、影ふかい谷をも、ふたりで歩き
おせい様の金のほうは、ひとまず片づいたのだろう。ひと月ほどして、東海道掛川宿の龍造寺主計から、急飛脚が、金剛寺坂の若松屋へ駈けこんだ。おおいに見込みがあると思うから、思いきり金を入れる、安心していいという文面だ。若松屋惣七は、もうすっかりそんな商人らしいことをいう龍造寺主計に、遠くから微笑を送った。
五
龍造寺主計が掛川へ発足する前の晩であった。お高は、若松屋の屋敷内の自分の部屋で、縫い物をしていた。何だか、妙にむしむしする日であった。それが、妙にむしむしする晩にかわろうとしていた。お高は縁の障子をあけ放して、そこからくる夕ぐれの光で、針をうごかしていた。金剛寺の鐘がかすかに空気をゆり動かして、きこえてきていた。金剛寺坂をさわいでゆく、子供たちの声もしていた。
お高は、かるい頭痛をおぼえていた。からだじゅうの肉が、骨からばらばらに離れて、落ちていくような気もちであった。このごろの心労が、お高の顔に、大きく書かれてあった。うすれてゆく陽の色が、ちょっと室内を赤くしたり、また、たちまち暗くしたりした。
おせい様の取り立てごとが一段落ついて、お高は、はじめてじぶんのことを考える余裕を持っていた。しかし、将来を思ってみても、こういう生活の連続のほか、何もないような気がした。すこしも、楽しいこころにはなり得なかった。
人がはいって来たので、そっちのほうへ向けたお高の顔は、
はいって来たのは、龍造寺主計であった。龍造寺主計は、お高を見ると、びっくりしたふうで、いった。
「どうなすった。顔いろがよくない」
「さようでございますか。じぶんでは、何ともございませんけれど」
「何ともなければよいが」龍造寺主計は、敷居ぎわに腰をおろして、縁へ足を投げ出した。「できましたか」
それは、お高の縫っているもののことであった。お高は、あした旅立つ龍造寺主計のために、
「もうすこしでございます。こんなに着がえがございますから、たびたびお着かえなさらなければいけませんよ。あなた様のように、一つをいつまでも着ていらっしゃるのは、毒でございますよ」
龍造寺主計は、そんなことをいうお高をそれとなしに見ていた。お高も、顔を上げて、眼があった。お高は、笑い出した。
「何がそんなに、おかしいのかな」
「あなた様の変わりようでございますよ。ちょっとのあいだに、どこからどこまで、すっかり町人ふうにおなりでございますねえ」
「このほうが、わしの気もちに合うのだ」
「お
「なあに。もう武士でないわしだから、何をしようと構わぬとあって、結句、よろこぶだろうよ」
「旦那様といい、龍造寺さまといい、どうして結構な御身分をすててすき好んで町人になぞおなりなさるのでございましょうねえ。何ですか、ふかい事情を知らない方は、酔狂のようにお思いになるでございましょうねえ」
「うむ。酔狂といえば、酔狂かもしれぬ。何しろ、気楽だからな」
しばらく、沈黙が占めた。そのあいだ、龍造寺主計は、めずらしそうに、部屋のあちこちを見まわしていた。感心したように、いった。
「やっぱり女のいる部屋は違うな。どことなく、女らしいところがある」
お高は、針を運ぶ手を休めなかった。
「さようでございますかねえ、これでも」
「それに、お高どのは、なかなか手まめで、たしなみがよいから、こういうおなごを嫁に持つ男は、しあわせだな」
「まあ、龍造寺さまは、おひと柄に似ず、お口がお
「いや、あんたに、大きな宿屋の
「こんにちは、いろいろとおほめをいただきまして――」
お高は、縫っているもので口をかくして、笑った。龍造寺主計は、まじめであった。
「わしは、あす、掛川へ参る」
「ほんと、なみたいていではございません。若松屋さまも、おかげさまで、立ちなおりましてございます」
「いや、わたしこそ、礼をいわねばならぬ。宿場の旅籠の亭主にしろ、何にしろ、わたしという年来の風来坊の腰がすわれば、このうえのことはない。みな、あんたが打ちあけて話してくれたおかげであると、思っておる」
「いいえ。そんなことはございませんが、でも、掛川のほうがうまくゆきますと、よろしゅうございますけれどねえ」
「うまくゆくも、ゆかぬもない。うまくやるようにするのだ。わたしと、若松屋惣七どのと知恵をあわせて」
「そのおことばひとつが、頼みでございます」
「うむ」龍造寺主計は、うなずいて、「若松屋惣七という人物は、知れば知るほど、このましい人物である」
「旦那さまと近しくなすっていらっしゃるお方は、みな様そうおっしゃいますでございますよ」
「いや、そればかりではない。なぜわたしが、若松屋惣七どのに肩を入れるか、あんたには、そのわけがおわかりかな」
「御気性が、おあいなさるのでございましょうよ」
「それもあろう。が、第一の理由は、これまでよくあんたのめんどうをみてきてくれたからだ」
お高は、ぱっと赧い顔になった。身をすくませるようにした。
龍造寺主計は、お高のほうへ、平気な顔をつき出していた。
「お高どの、あす
龍造寺主計は、お高と若松屋惣七との関係を、知らないのだ。まるで、
六
日本ばし式部小路の磯屋の店だ。いそやと書いた暖簾に陽がにおって、天水
ひるさがりだ。磯屋五兵衛が、奥の居間へはいって行くと、そこには、雑賀屋のおせい様のてまえ妹ということに触れこんであるお駒ちゃんが、膝がしらがのぞくほどだらしなくすわって、何か反物をいじくっていた。
はいって来た磯五を見ると、ふたつの
磯五はすぐ、あきらかに不愉快な顔をした。たたみを蹴るように、部屋じゅうをあるきまわって、お駒ちゃんがひろげている反物へ、眼をおとした。
「ちっ! へまばっかりやるじゃあねえか。あきれけえって、口もきけねえや」
かみつくようにいった。お駒ちゃんは、平気の平左だ。
「何がどうしたっていうのさ。いつもいつも、がみがみいうばっかりで、ほんとに、面白くない人って、ありやしないよ――いったい、この反物のどこが気に入らないっていうんだろうねえ」
「どこも、ここもありあしねえ。そっくり気に入らねえんだ」磯五は、何か、炎のような怒りに、つつまれてゆくように見えた。「そんなさばけもしねえものを、しこたま買いこみやがって、どうする気だ」
お駒ちゃんも、負けていなかった。
「そういえば、いま
「てめえの馬鹿にも、あきれたもんだ。それほどの
「それごらん。やっぱりお前さんが悪いんじゃないか」
「何てことをいやあがる。いい気なもんだなあ」
「だって、そうじゃないか。お前さんは、江戸むらさきといやしなかったかい」
「そうとも。江戸むらさきと注文したんだが、これが江戸紫なもんか」
「はばかりさま。立派な江戸むらさきですよ」
「ちょっ! 色の見さかい一つつきゃあしねえ」
「ふん、おあいにくさまですね。そんな色の見さかい一つつかないようなものを、何だってこの商売に引っぱりこんだんだろうねえ。あたしは、一度だって、じぶんのほうから来たいなんていったおぼえは、ありゃあしないよ。おまけに、そんな大悪の妹だなんて触れ込みで、人聞きがわるいやね。あたしゃ、お前さんの出よう一つで、いつだって願い下げにするんだから」
お駒ちゃんは、
「何だい、何といって頼んだか、まさかお忘れじゃあるまいね。都合のいいときばっかり頭を下げれば、それでいいというものじゃないよ」
口ではぽんぽんいうが、磯五を見上げるお駒ちゃんの眼は、大きくうるんでいるのだ。相手の顔に、ちょっとでも微笑の影がさし次第、すぐにも笑いかけて、この場をおさめようというところが、見えているのだ。
磯五は、そういうお駒ちゃんの眼を無視して、ますます
「第一、おいらあその、おめえの
「おや、これがかい」
お駒ちゃんは、あきれたように、じぶんの袖口をつんと引っぱって、左右の腕から、胸の前を、見まわし、見おろした。
「そうよ。もっと堅気につくってもらおうじゃないか。これは、れっきとした
「おや、そうかい。これが、れっきとした老舗なのかい。それは、それは、すまなかったねえ」
お駒ちゃんが、叫ぶように、そうゆがんだ声をあげたとき、するするとふすまがあいて、きょうはじめて住み込みに来た、お針
磯五のところへ、挨拶に顔を出したのだ。
「あら、まあ、旦那――」
おしんの口から、おどろきの声が、逃げた。
一
沈黙が、お高をとらえた。湯のような熱いものが、なみなみと彼女の胸にあふれた。それは、驚愕の感情だ。恐怖でさえあった。龍造寺主計がじぶんを恋するなどと、夢にも思わなかったことだ。同時にそうして無言でいるお高のこころに、やわらかい、あわれむようなおかしみが、一筋めらめらと燃え上がってきた。お高は、相手があしたたつといういま、それをいいにぶらりと自分の居間へやって来たのだと思うと、べつに悪い意味からではなく、ただちょっとふき出したくなった。
二つの考えが、その瞬間のお高を走り過ぎた。一つは、この龍造寺主計という人は、諸国を流浪して人にもまれているようでも、案外すれていないということであった。
もう一つの印象は、この人はいやしい生まれではなく、ことにその母親は、単純な美しいたましいの所有主であったろうということだ。じっさいお高は、龍造寺主計の生母を想像してみた。それほど、不思議なくらい天真
お高が困ってもじもじしても、龍造寺主計は平気だ。他人のことのように、つづけた。「聞きなさい。発足の前の晩にこんなことをいうのは、急に思いついたようで、おかしな男だと思わるるかもしれぬ。しかし決して思いつきではない。ただ、掛川へ行くまえに、あんたの心を聞いておきたいだけじゃ」
決して思いつきでないことはよくわかっております。お高はそういおうとしたが、龍造寺主計が続けて口を開きかけたので、ことばを控えた。
「江戸へ参って、当家へ来たとき、すぐにいえばよかったのだ。あんたを見るとすぐ、わしはあんたが好きになったのだから――といってあすの朝までに型ばかりでも婚礼の式をなどというのではない。ただ承知さえしてくれれば、わしのほうから若松屋どのに話をして、いずれその時節を待つつもりでおる。
とにかくわしは、こうしてあんたを奉公させておくに忍びんのじゃ。
お高は、適当のことばをさがすのに忙しかった。が、なかなかそれが発見されなかった。心が真ッ白になったような気もちだ。龍造寺主計のむきだしな口調には、何かしら力があるのだ、思い切って、声を押し出した。
「身にあまるおことばでございますけれど、どうぞ龍造寺さま、どうぞ、そのようなことはおっしゃらずにくださいまし」
「はて、すると、このわしを好きにはなれぬといわるるのかな」
「いいえ。けっしてそういうわけではございませぬ。失礼でございますが、わたくしは、龍造寺さまが好きでございます。大好きでございます。正直に申しますと、今まで、あなた様のような男らしい方にお眼にかかったことはないような気がいたしますのでございます。でも、夫婦になるなどと、そんな――」
「そんな気はないといわるるか」
「気があるないよりも、できませんのでございます」
龍造寺主計は、眼をみはった。
「何か、
「なにも仔細はございません」きっぱりいって、お高は、蒼い顔を上げた。「ただ、そのようなことは、考えてみたこともございませんもの」
「考えてみたことがなければいま考えてもらいたい。わたしは、返事があるまで、ここで待とう」
「まあ」お高は笑い出した。「そう右から左に、ごむりでございます」
「むりでもよい。一応よく思案なさい。わしは、だしぬけにいい出してあんたを驚かしたが、あんたは、わしという人間をまだよく知らんのだ。ゆっくりと勘考するがよい。はいという返辞でなくとも、先の望みさえ見せてくれれば、わしは、よろこび勇んで掛川の旅に出られる」
お高は、はげしく首を振った。
「いいえ、龍造寺さま。あなたの奥様にさせていただくなどと、高は、身分というものを心得ておりますでございます」
「これは異なことを。忘れてはいかん。わしは、もう武士ではないのだ。このとおり、町人である」
「それでも――それでは、はっきりお断わりさせていただきます。龍造寺さま、そればっかりはお許しくださいまし」
お高の心身を、にわかの悲しみがこめた。口や態度では示さなかったが、この龍造寺主計は、お高を愛すればこそ、若松屋惣七のために、ひいてはお高のために、ああして救いの手をさし伸べてくれたのである。また、お高というものが存在するがゆえに、こうさらりと両刀すてて、町人も町人、宿場の旅籠の亭主とまでなりさがって掛川くんだりへ行こうとしているのだ。
お高はじぶんの知らないうちに、大きな借金を背負わされているような気がした。しかも、この借りだけは、一生かかっても弁済することはできないのだ。磯屋五兵衛の妻となっているために縛られているからばかりではない。お高のこころとからだは、すでにそれを独占する所有主があるのだ。
二
「とにかく、考えておいてもらおう。掛川へ行っても、今度はそう長くはおらんつもりだ。どのみち、ひとまず江戸へ帰ってくる。そのとき返事を聞きましょう。いや、藪から棒にすまぬことをした。江戸では当節かような談判ははやらぬかもしれぬが、わしは、いままで一介の旅浪人であった。これから諸人を見習うて、もそっとおだやかに切り出すといたそう」
龍造寺主計はそういって、
このお方は、何もご存じないのだ。そして、自分はいま、なにごともいうことはできない。いったいどうして、このようなことになったのであろう? できない相談に望みをかけていられるのは、あまりに残酷である。
この立派な男性に、単なる厚意以上の何ものもあたえられないとは、そうでなくても、このごろのじぶんは、つづく悩みに打ちのめされているのに、と、お高が、龍造寺主計のために襦袢を縫う針の手をとめて、考えこんでいると、龍造寺主計の声は、なにごともなかったかのごとく、子供のように他意ないのだ。
「わしといっしょになると、旅に出なければならんと思うて、それで二の足を踏むのかもしれんが、さようなことはないぞ。旅は、どこへ参っても同じことじゃ。どこまで行ってもきりがないのだ。そのどこまで行ったとておなじことであるという一事を知るために、旅をするようなものである。
人間は、この一生の旅で、たくさんだ。何も、砂ほこりにまみれ、暑さ寒さとたたかい、風にさらされて歩み、星をながめて眠ることはないのじゃ。さながらおのが骨から肉を引き離し、われとわが命をけずるような苦行であるが、さて、その苦行を何年つづけても、どうなるものでもない。こころのやわらむということは、ないのである。と、今度こそは、龍造寺主計もさとりましたよ。町人として、掛川の仕事におちつくつもりでおる。すぐにとはいわぬ。このつぎ出府するまでに、もう一度考え直してはくれぬかな」
お高は、黙っていた。お高は、恩があるだけに、この無邪気な人の心臓を傷つけたくなかった。が、それと同時に、何か新しい借りに落ちこんだような気もちは、いっそうひろがって行くのだ。お高はいつも誰かしら男の人に、何らかの形で借りがあるように運命づけられているように、じぶんを感じた。
お高の恋する若松屋惣七を助けた龍造寺主計が、いまお高を恋しているのだ。が、いかに思われても、この借りだけは、返すことができない。お高は、苦しくなった。お高は、泣き出したかった。
「いいえ、龍造寺さま。考え直せとおっしゃっても、考え直すことがないのでございます。とうていおことばにしたがうことはできませんのでございます。どうか悪くお思いくださいませんように」
龍造寺主計は、べつに怒ったふうもなく、いきなりたち上がった。
「さようか。ぜひもない。しからば、友として、長くつきあってもらいたいな」
「はい。それはもう、あらためて高からお願い申しあげますでございます」
龍造寺主計は、縁から庭へおりようとして、ふりかえった。
「ひとつ、ききたいことがある」
「はい。何でございます」
「あんたは、若松屋惣七どのを、思っておらるるのではないかな。若松屋惣七殿と、いっしょにならるる気ではないかな」
お高は、思い切って、はいさようでございます。事情があって、今のいまというわけには参りませぬが、いずれは晴れてそういうことにと旦那様がおっしゃっていてくださいます、と、口に出かかったが、龍造寺主計の
うち消すよりほかないのだ。
「旦那様となど、そういうおはなしはすこしもございません。ございましても、わたくしは、いやでございます」
「さようか」
「あの、もうじき縫い上がりますでございますが、のちほど、お部屋のほうへお届けいたさせますでございます」
龍造寺主計は、お高が、あわてて話題をかえたことに、気がつかなかった。龍造寺主計は、若松屋惣七とお高を張りあおうと思っているわけではなかった。ただ正直な女が、正直な問いに、正直に答えられない理由はないと信じているのだった。
龍造寺主計は、お高の答えをそのままとって、お高は自分を好きなのと同じ程度に、若松屋惣七をも好きなのに過ぎない。じぶんと若松屋惣七は、お高に対して、高低のない立場にあるのだと解釈した。そして、何かしら、安心のようなものを感じた。それが龍造寺主計に、あたらしい希望を与えた。
正直な心は、他の正直なこころによって、いつかは、かならずひとつに結びつくものであると、運命的に楽観していたかった。そんなふうに考えるのが、その広い正直な心をもつ龍造寺主計だ。どんなことがあっても、早晩お高を妻に得ようと、倍の決心を固めて、元気よく庭のむこうの
もし、このときお高が、ほんとのことを打ちあけさえすれば、その後、幾多の悲痛と苦悩は、この三人のうえにこなかったかもしれない。が、お高にその強さがなかったばかりに、この夕方からの運命は、三人を
三
磯屋の奥は、土蔵づくりになっていて、うす暗かった。店と蔵をつなぐ渡り廊下まで来ると、磯五は、立ちどまった。客に応対する番頭や手代の声と、品物をかつぎ出す小僧たちの物音が、さわがしく聞こえてきていた。そこの廊下の下は、中庭になっていて、
磯五は、何かしらつめたさが背すじを走るような気がして、身ぶるいをした。そのまま、庭下駄をはいて、蔵について裏へまわろうとした。右手にお
お針には、近所の娘や、家持ち番頭の女房などが通ってきていた。
いまも四、五人の若い女が、座敷に仕立てものをひろげて裁ったり縫ったりしているのが、まえを通りかかった磯五に見えた。女たちは、主人を見かけると、いっせいに仕事をよして、手を突いて頭をさげた。磯五は、そのなかに、お針がしらのお
お市は、町内の
磯五は、このお市が
それも、そういうことを口に出したのでも、けぶりに見せたのでもないのだが、どうも磯五は、お市が邪魔になってきていた。このあいだからひまを出そうと考えていた。事実きょうは、お市の代わりにお針頭になる、おしんという女が、人の
磯五は、それを思い出して、
そうでなくても、やむを得ない場合のほか、女性を敵にまわさないように気をつけるのが、磯屋五兵衛のモットウであった。ともかく、こんにちの彼をして、この大店のあるじたらしめているゆえんのものは、この生活信条に負うところ少なくないのだった。
磯五は、だまって、そのお針部屋の前を通り過ぎて、奥庭から居間へ上がろうとしていた。
樹のかげに、女の着物がうごいたので、磯五は、足をとめた。それは、多勢いる小間使いのひとりで、見なれない若い女であった。若い女も、そうして近いところで磯五を見るのは初めてであったが、これが旦那様であろうと直感して、固くなって、そこへ出てきた。耳たぶを真っ赤にしている、うつくしい娘であった。磯五は、その顔をのぞくようにして、荒いことばを使った。
「こんなところで何をしているのだ」
「はい」娘は、おどおどした。「
「笹を? 笹は何にするのだ」
「はい。なにやらお煮物の下に敷くのだそうでございます」
「そんなら、笹は裏にある。こんなところへ来てはいけない。ここは、おもての者以外きてはならぬのだ」
「はい。昨日上がりましたばかりで、まだちっとも勝手が知れないものでございますから――」
「よろしい。行きなさい」
娘がおじぎをして去りかけると、ぱっちりした磯五の眼に、露骨な興味のいろがうかんだ。その視線は、逃げるように行く娘の足どりにからみついた。
「これこれ、お前は何というのかね」
庭木のむこうから、娘の白い顔が答えた。
「はい。
磯五は、うなずいて歩き出した。いま、樹のあいだに消えて行ったお美代のすがたが、網膜の底にのこっていた。お美代は、やせて、肩などまだ肉の乗らない、皮膚のいろのわるい娘むすめした女であった。しかしお美代の顔だちは、めずらしくととのったものであった。
磯五は、女の美醜を見さだめる点では、天才であった。石や
四
磯五が居間へはいって行くと、江戸紫というのに古代むらさきの染めを注文したお駒ちゃんが、京から届いてきたその
磯五が上方から帰ってこの磯五の店を買いとったとき、江戸に残しておいた妹がおちぶれているのを見つけて、助け出して店へ入れたというのである。そして、それ以来、店のことはいっさい妹のお駒ちゃんにまかせてある、というのだ。
みな信じて、誰も疑うものはないと磯五は思っていた。ただあのお針頭のお市だけは、にこにこしながら、何もかも知っているような気がするのだが、それも、そんな気がするだけで、確かにお市が見やぶっているとは、磯五にもいえないのだ。
しかし、妹を選ぶにあたって、お駒ちゃんを採用したことは間違いであったことは、磯五も気がついていた。
おせい様は、何と思おうと、磯五の口ひとつでどうともなるのだから、そのほうはいいとして、こんなあばずれを妹だなどといって背負いこむようになったのは、第一、あの金剛寺坂の高音がいうことをきかないからだ。高音さえ、こっちの頼みどおりに、妹役を引きうけて店へ来てくれれば、何もすき好んで、この箸にも棒にもかからないお駒などを
いかにいそいでいたとはいえ、どうしてあんなお駒などを妹に仕立てる気になったのであろう。お駒ちゃんは柄や色あいの考えなぞすこしもないのだ。まるっきり商売のあたまがないのだ。お駒ちゃんの持っているものは、悪口の舌だけで、それで家じゅうのものを追い使っている。見たところも、美しいはうつくしいが、何といっても下品で、とても山の手のいい客とは応対さえさせられないのである。
そんなことを考えると、磯五は自分を蹴とばしたくなった。が、磯五は、あくまで磯屋の黒幕になっていて、
染め物の色のことから、お駒ちゃんとあらそいになったのだった。磯五は、お駒ちゃんの膝からたたみのうえにひろがっている反物を、つま先で蹴りけり、いった。
「気をつけなくちゃあいけねえじゃねえか。妹とか何とかいわれて、図に乗るばかりが能じゃあねえんだ」
たちまち、お駒ちゃんの顔に、朱のいろがのぼった。
「何をいってるんだい。気をつけろだって。お前さんこそ、気をつけたがいいや。何だい、面白くもない。妹でもないものを妹だなんてつれまわして、あの四十島田をたらしこんでさ、いっしょになる気もないくせに、いっしょになるなるってお金をしぼっているのは、どこの誰だったっけね。あたしがこんなことをする気になったのは、お前さんとの約束があったからだよ」
お駒ちゃんの声は、だんだん大きくなるのだ。
「さあ、あの約束はどうしたんだい。それを聞こうじゃないか」
磯五は、美しい眉をしかめて、お駒ちゃんをみつめた。
「そんなことをここでいい出すものじゃない」
「いい出すのじゃないって」お駒ちゃんは、泣き声になってきた。「あたしが黙っていれば、お前さんはいつまでたっても知らん顔の半兵衛じゃないか。いやだよ。誰がそうそうおあずけを食わされているもんか」
そとに気をかねて、障子のほうを見た磯五の顔には、その
「忘れちゃいねえ。が、ここでそんなことをいわなくてもいいだろうというんだよ。おれもいそがしいからだだ。あんまりせっついてくれるな」
「おや、お前のような人でも、忙しいということがあるのかねえ。はい。さぞかしお忙しゅうございましょうとも。笑わせるよ。おおかた、後家さんにうまいこといってお金をしぼるのに忙しいんだろうよ」
五
手をふりあげた磯五だ。
「何をいやあがる! さ、もう勘弁ならねえから出てうせろ。出て行け、この宿なしの
お駒ちゃんも、すっかり地のお駒ちゃんにかえっていた。
「出てゆけだって。これあ面白い。出て行きましょうとも。ここを出たら、その足で、あたしゃ拝領町屋へ駈けこんで、あのおせい様とかいう色きちがいに、何からなにまでほんとのことをぶちまけてやるんだ。あたしがお前さんの妹かどうか、なんにも知らないものに、こうやっていいお
何だって? 宿なしのめす猫? へん、お前さんは何だい、立派な大あきんどでいらっしゃいますよ。日本橋の老舗磯屋の旦那でいらっしゃいますよ。うそつき! 詐欺師! 女たらし! ぶつならお打ち。強い人に弱い者は、弱いものにかぎって、強いんだってね」
お駒ちゃんが、そんなややこしいたんかを切って、磯五のほうへからだをにじり寄らせてくるものだから、磯五が困って、ふりかぶった
お駒ちゃんは、泪のいっぱいたまった眼で磯五を見上げてから、みだれていたじぶんの裾に気がついて、膝のまえを直した。磯五は、あわてて手をおろして、笑顔をつくっておしんを迎えた。おしんは、しとやかにはいってきて、磯五のまえにすわった。
おしんは、堅気のような、堅気でないような、ようすのいい年増であった。細ながい顔であったが、眼がおっとりしているので、鋭い感じを消していた。おしんは、はじめは気がつかないふうだったが、おじぎをして顔を上げたとき、磯五を見て、びっくりした声を出した。
「おや。あなたさまは麻布の馬場屋敷の旦那様ではございませんか」
磯五は、それを聞かないふりをした。
「わたしが磯屋五兵衛だ。これは妹のお駒です」
おしんは、ともかくお駒ちゃんのほうへ挨拶をしたが、お駒ちゃんは、ぽかんと口をあけて、磯五とおしんの顔を見くらべていた。
「お名前が変わっていますもんで、ちっとも存じませんでございました」おしんは、うれしそうにつづけた。
「もう三年になりますねえ。わたしは、馬場屋敷のそばにいて、しじゅうお内儀さまの高音様にお仕立てものをさせていただいておりましたおしんでございますよ。旦那様は、おしんをお忘れでございますか。いろいろ御厄介になりましたおしんでございますよ。
この磯屋のもち主が変わったということは伺いましたけれど、旦那様がおやりになっていらっしゃろうとは、存じませんでございましたよ。またこのたびはこちら様に働かしていただくようになりまして、やっぱり御縁があるのでございますねえ。不思議な気がいたしますよ。高音様はいかがでございますか」
磯五が、どうこの場をつくろったものであろうかと考えていると、お駒ちゃんが顔いろをかえて進み出てきたが、そのまえに、おしんがいい続けていた。
「そういえば、いつぞや高音さまにお眼にかかりましたことがございますよ。神田のほうで、でも、へんでございますねえ。旦那がこの商売をおはじめになったことは、高音さまは、何にもおっしゃいませんでしたよ」
お駒ちゃんが、はげしくふるえる声をはさんだ。
「この人には、おかみさんがあるの? こないだ神田であったんですって?」
「はい。お妹さんでいらしって、ご存じないのでございますか。高音さまとおっしゃるおうつくしい奥様がおありでございますよ」
「まあ! あきれかえった――」
何かわめき出しそうにするお駒ちゃんを、磯五は、いそいで部屋のそとへ押し出すようにした。
「お前は、気がたかぶっておる。部屋へ行って、やすみなさい」
そして、泣き声をもらすまいとしてくちびるをかんだお駒ちゃんが、廊下を立ち去って行くのを見すましてから、磯五は、むずかしい顔をして、おしんの待っている居間へ引っかえした。おしんは、あっけにとられて、磯五の顔を見あげていた。
磯五は、しずかにいった。
「妹のお駒なのだが、どうも
六
「はい。これは、いらっしゃい」磯五は、あらためて、おしんに挨拶をはじめた。
「なるほど、おしんだ。いやよくおぼえております。おしんという人が、お針頭に来てくれるということを聞いたときは、お前さんとは気がつかなかったが、こうして顔を見て、名乗られてみると、いかにもおしんさんだ。いやなに、高音のことで、いまちょっとごたごたがありましてな、お恥ずかしい次第だが、弱っております。何か気に入らんことがあって、高音が家を出たのです」
「まあ、道理で、久しぶりでお眼にかかったのに、高音さまが、旦那様のことをおっしゃらないので、妙だと思っておりましたが、そういうわけでございますか」
「何でも、じぶんの好きなように暮らすのだとかいいましてな、ただいま別居していますよ」
「それはそれは、お困りでございましょうねえ。あんなおとなしい高音様が、どうしてそんなお気になったのでございましょう。でも、おっつけ人でも立ててお帰りになることでございましょうよ」
「そう思って、待っているのだが、まあ、それはそれとして、用のはなしにかかりましょう」
仕事や給料のとりきめをしながら、磯五はあわただしく考えていた。
このおしんが、昔のじぶんを知っている以上、そしてまた、高音に会ったりしているのだから、この女を放しておいて、勝手にしゃべらせるのは、じぶんにとって危険でないことはない。しかし、いまいった高音の家出のつくり話を、おしんは信じるであろうか。ふたたび高音にあうことがあるであろうか。じぶんから、好奇心をもって、高音を探したりすることはないであろうか。
磯五は、いろいろに考えたすえ、こういう女は、手もとにおいて、しじゅう限を届かせてにらんでいるにかぎると思ったので、おしんを雇うことにきめた。が、おしんも、いままでいるところの始末をつけて出て来なければならないというので、急に住みこむというわけにはゆかなかった。十日や二十日は待つことに話しあいがついた。
ひとまず帰ることになって、おしんが、そのすんなりした
そのうちに、おしんが帰って行って、磯五は、砂のようなものの残っている重いこころのまま、気になるので、お駒の部屋となっている、土蔵の向こう側の小座敷へ行ってみた。
まん中の畳に、お駒ちゃんが
「ほんとに、ほんとに、お前さんという人は、女房のあることなんか、今のいままで隠しときやがって――こんなになったあたしを、どうしてくれるつもりだい。おせい様からお金さえとれば、そしてそのために、あたしが妹の面をかぶっていれば、いずれ晴れて女房にして、この
あたしゃだまされていたんだよ。お前さんは、女という女を、片っぱしからだましてまわるのが、
お駒ちゃんは、なみだに洗われた顔を見せた。そこには、めずらしく真剣なものがみなぎっていた。お駒ちゃんは、からだのどこかに痛いところでもあるように、歯をくいしばって、肩を前後にゆすぶっていた。磯五が、そばにしゃがんで、お駒ちゃんの肩に手をかけて、しずめようとした。
「お駒ちゃん、じっとして、おれのいうことを聞きな」
例の油っこい声なので、それは、お駒ちゃんのみならず、女のうえには、不思議な力を投げるものとみえる。お駒ちゃんは泣きやんで、小娘のように鼻をかみ出した。夢をみたようにぽかんとして、部屋の隅に眼を凝らしているのだ。
泣いている女は、磯五にとって、いちばんあつかいやすいのである。なみだをふいてやって、やさしいことばを耳へ吹きこみさえすれば、こんどはべつの感情で、彼女の胸をふくらませることができるというのである。磯五は、そのとおりに、お駒ちゃんの眼をわざとじゃけんにふいてやって、耳もとでささやいた。
「さあさあ、しっかりしろい。早合点するものじゃあねえよ」
七
「何だ、眼がまっかじゃあないか。可哀そうに」
「可哀そうにもないもんだ。自分が泣かせておいて」
「だから、それが、早合点だというのだ。いま来た、あの女は、おしんといって、新規にやとったお針頭だが、はじめのうち、とんでもねえ人ちがいをしやがって、いや、笑わせもんさ。麻布の馬場やしきだことの、高音とかいうおかみさんだことのと、めりはりの合わねえことばかりいっていたが、やっとあとでまちがいとわかってな、今度は、
「それでは、あの、お前さんに女房があるといったのは、あれは人違いだったのかえ」
「なんの。人ちがいなものか。おれには、立派な女房があるよ」
「あれ、また、どこまでうそで、どこから、ほんとなんだか――」
「なに、うそなもんか。これ、このとおり、ここにお駒ちゃんという、れっきとした女房があらあね」
「そんな見えすいたうれしがらせは、いやだよ。憎らしいねえ」
「うんにゃ。うれしがらせじゃあねえ。おらあほんに女房と思っているのは、お駒ちゃんだけなんだ」
「だけは心細いね。そんなにほかに、女房と思う女があられて、たまるもんかね」
「こいつあまいった。だからよ、だから機嫌を直して、さっさと支度をしねえな。忘れちゃいけないぜ。今夜はおれとおめえと、おせい様んところに晩めしに
「ごまかしっこなしにしようじゃないか。ほんとに、お前さんには、どこかにおかみさんがあるんじゃないかい。あたしゃどうも、そんな気がしてしようがないんだけれど」
「うたぐりぶけえなあ。おいらあ女房なんて、そんなものはありはしねえよ」
「だって、いま来た人が、このあいだ、神田とかで会ったというじゃないか」
「だから、それがどこの馬の骨が牛の骨と、すっかりこんぐらがっているんだってのに。あのおしんてえ女も、どうかしてらあな。おかげでおめえにゃ泣かれる。こんな馬鹿を見たことはねえや」
「それもこれも、みんなお前さんのふだんの心がけがよくないからだよ」お駒ちゃんは、おいおい機嫌がよくなってきたが、それでも、最後に、ちょっとまじめな顔をして、きいた。
「じゃあ何だね、お前さんには女房はないとおいいだね。約束どおりに、あたしといっしょになれるんだねえ」
「そうとも。いつもいっているように、おせい様から取れるものだけとって振り落としてしまえば、あとは、おれとおめえと、な、それをたのしみに、おれもこうやって、あの
磯五が、お駒ちゃんの肩に手をまわすと、それは、魔術のように作用するようにみえた。お駒ちゃんは、すぐにっこりして、磯五の顔に頬ずりしてきた。磯五は、ちらと顔をしかめた。
「さ、そうわかったら、あっちへ行って、早く着がえをしてくれ。磯五の妹という役をわすれねえで、堅気な
それから、まもなく、磯五とお駒ちゃんは、
「おいでくださらないのかと思いましたよ」
と、恨むようにいって、さっそく二人を奥の座敷へ案内した。そこには、燭台に灯がはいって、もう配膳するばっかりになっていた。おせい様は、得意げに、磯五を見ていった。
「いつかお話ししましたよねえ。あたらしい
縞の着物に、雑賀屋のしるし
それが、いま話に出た久助であった。
一
自分で料理をしてじぶんで給仕までしないと気がすまないという変わり者の久助だ。その久助が、料理の
おせい様は、その腕ききの奉公人をあたらしく得たことを誇るように、磯五の顔を見上げて笑った。その笑いは、見ようによっては悲しいようなまたうれしいようなわらいであった。
それは、磯五に対するおせい様の感情を、よく現わしていた。これからこの人と、こうして毎日三度の食膳に向かうようになるのだと思うと、何かよりかかるものができたようで、このごろのおせい様は、行く手の地平線がぽうっとあかるんできているような気がしていた。
このおせい様は、男の腕にやんわり寄りかかって世の中を送るようにできている女なのだ。が、それも、軽くやさしく寄りかかるのだから、男のほうでは、すこしも重荷にならないというタイプである。おせい様は、そういった女だった。
しかし、それは危険なことだ。おせい様のような女は間違いの
ふと気がつくと、ならんで座についているお駒ちゃんが、急に蒼い顔をして落ちつかないようすなので、磯五がお駒ちゃんにきいた。そのあいだ久助は、物慣れた手つきで、三人の膳部へそれぞれ皿を配っていた。
「どうかしたのかい。顔いろがよくないようだが――」
「何ともありません」お駒ちゃんの声は、かすれていた。
「ただすこし寒気がするだけでございます」
「どうぞお一つ」
と、いって、磯五の
「わたしもさっきからそう思っていたのですが、ほんとにお駒さんは、浮かないようすですねえ。寒気がするのは、いけませんですよ。
じっさい、浅い春らしい底冷えのする夜であった。おせい様がそういっているときも、そのおせい様のことばに合わせるように、さびしい風が、大きな音をたてて家をゆすぶって過ぎた。おせい様が、つづけた。
「あついお酒を召し上がると、あったかくなりますでございますよ」そして、部屋を出て行こうとしていた久助に、命じた。「特別に熱くして、一本持って来てくださいよ。大いそぎですよ」
まもなく久助は、命じられた
「お酒を持って来たら、お酌をしてさしあげるものですよ」
久助は不承無承に、徳利を持ってお駒ちゃんのさかづきにつごうとした。なかの酒が煮えくり返っているほど徳利があつくなっていたので、久助はあわてて下へおろして、耳へ手をやった。それから、ふところから手ぬぐいの畳んだのを出して、それを当てて徳利を持った。酒をつぎながらも、久助は眼を凝らして、お駒ちゃんの顔を見ていた。
お駒ちゃんは、つがれた酒を、ほとんど一息にのみほした。さかづきを置く手が、ぶるぶるふるえていた。それきり下を向いて黙りこんでしまった。
久助は、
磯五の酌はおせい様が引きうけて、器用に
世間ばなしがはじまって、この小宴は楽しいものになりそうだった。
二
久助のやり方がすべて気がきいているので、おせい様は磯五を見て、何度も満足そうにほほえんだ。それは、こういう拾いものをしたという、主人役としての小さな自慢であった。磯五もそれにほほえみ返していた。
お駒ちゃんだけが無言をつづけていた。いったいお駒ちゃんは、磯五とおせい様がいるところでは、いつもあんまり口をきかないのだ。つんとして黙っているか、しょんぼりほかのことを考えてるのだ。おせい様のようないい生活を知っている人のまえへ出ると、お駒ちゃんはひけ目を感じて、ただぼろを出さないように気をつけるだけが精いっぱいなのである。それが、ときによって、お駒ちゃんをいじらしく見せていた。
が今夜はそれとも違う。お駒ちゃんはやっぱり気持ちの悪そうな顔をして、黙りこんでいるのだ。
へんに思って、それとなく磯五が注意していると、お駒ちゃんはときどき眼を上げて久助を見るのだが、その視線が異様なのである。久助が銚子を持ってお駒ちゃんの前へ出て、
「一つお重ねなさいまし」
というと、お駒ちゃんは妙にびっくりして、恐ろしいような、苦いような顔つきをした。よっぽどどうかしている。つれて来なければよかったと磯五は思った。
膳が引かれると、おせい様とお駒ちゃんは顔を直しにほかの部屋へ出ていった。磯五はやかましいことをいって特別に入れさせているおせい様の
磯五はそれをひどく不思議なことのように思って、吹いてはながめ、吹いてはながめ、同じことをくり返していた。すこし酔っていた。
久助がはいって来て、残りの物を持ってさがって行こうとした。磯五が呼びとめた。
「おとっつぁんはいい腕だね。名は何というのかね」
「久助と申します」
「お、そうそう。久助、久助。そこで久助、おせい様から話してあるだろうと思うが、おれはおせい様と近いうちにいっしょになることになっている。まあ、主人同様にしてもらおう」
「はい。伺っております。わっしこそ、よろしくお願い申してえのです」
久助は、どこから見ても、
ちらと磯五を見た久助の眼に、何でえ、しゃらくせえ、といいたげな気持ちが走り過ぎたが、磯五は、すっかりいい気にたばこをふかしていて、気がつかなかった。ただ、おせい様は、日々の料理がやかましいので、本職の板場を入れたのだろうが、この久助という老人には、そういう職人にありがちな、
これなら、きっと長く勤まるだろう。いよいよ抱き込んでおかなければならないと思って、磯五は、お世辞をつかった。
「うまく食わせるじゃないか。見上げた腕前だぜ。前はどこにいたんだ」
「どこといって、べつに――以前は
「石町の大
「へえ」
「あすこならたいしたもんだ。こんな素人家へなんぞ来るのはもったいないぜ」
「あすこに十二年おりやした」
その石町の大提燈というのは、そのころ石町に、
「そうかい。どうしてやめたのかい」
「代が変わって、そりが合わねえから、面白くねえので思い切って引きやした。それから、ふか川のほうに、自前で店をやってみましたが、この
「そうかい。そりゃあまあ、いいことをしたよ。おめえなんざあ年のわりにぴんしゃんしてるけれど、これで、荒い仕事をするよりは、ここらへ住み込んで、
おせい様は、奉公人の出し入れがきらいで、長くいる者は眼をかけて、そりゃあ可愛がるのだ。おれもそうだ。お前もこれで、身のふり方がきまったというものだろう。ゆくところへゆくように、ちゃんと見届けてやるから、おめえも、ここで眼をつぶる気でな、しっかりやんな」
「ありがとうごぜえます」
「まあ、早く片づけて、ゆっくり休むがいいのさ」
磯五は、すっかりあるじ顔で、べらべらしゃべりつづけた。
三
久助がおじぎをして部屋を出て行くと磯五も、たち上がった。彼は、上きげんであった。いよいよこの
磯五は、家事のこまかいことにかけては、女のような才能があるのだった。大きな才のない者には、こういう小さな才があるものだ。磯五は、その代表的な人物だ。女以上に、あれこれと日常の末に気がつくたちだった。すぐに、この家もいいが、あそこはああしよう、これはこうしようと考えながら、二人の女たちを探して、廊下を歩いて行った。
不浄場に近いところに、小さな隠れ座敷のようなところがあった。そこは、女の客などが、ちょっと身じまいを直すための場所であった。くらい行燈がともっていて、そのかげに、おせい様とお駒ちゃんが、ぴったり寄りそってすわっていた。お駒ちゃんは、じっと眼をすえて、おせい様が何かいうのを、きいているところであった。
磯五はそこへふところ手をして、はいって行った。おせい様は、待っていたような、よろこばしそうな顔で磯五を迎えた。
「出て行ったきり、いつまでもお帰りがないから、どうしたかと思って、さがしに来たのですよ」磯五はお駒ちゃんを見て、いった。「気分は直ったかい。気分が直ったら、食べ立ちのようだが、そろそろおいとましようじゃないか」
「あなたは、まだいいじゃありませんか。わたしはいまお駒さんに、わたしに遠慮せずに早く帰ってお
「いいんですよ。もういいんですよ」お駒ちゃんは、そうあわて気味に口をはさんだ。幾分うるさそうな口調だった。
「ほっといてくださいよ」
お駒ちゃんは、ぞんざいなことばでなら、かなり雄弁家なのだ。が、すこしあらたまった口になると、容易に舌が動かないのだ。
おせい様は、今のように、お駒ちゃんに下品なところが見えると、兄の磯五がこの人を江戸に残して旅に出て、そのあとで下女奉公になぞ住み込んで歩いているうちに、こんなふうになったのであろうと思って、いまさらのように、兄の磯五をも妹のお駒ちゃんをも、気の毒に思うのだった。黙って磯五を見上げた。
磯五が、いった。
「きょうは店が忙しかったので、お駒ちゃんはくたびれているのですよ。なあ、お駒ちゃん、おせい様もせっかくああいってくださるんだから、先に失礼したらいいじゃないか。駕籠をそういってもらうから、支度をしなさい。わたしが、そこまで送って出て、駕籠へ乗せてあげる」
おせい様と二人きりになりたかったので、磯五がそういうと、お駒ちゃんはおとなしく帰る支度に立った。おせい様と磯五と、
磯五が
「妹だが、ちとからだが弱いんでな、騒がせてすまなかった」
「それはいけませんね」
久助はそういって、何かにやにやしながら手をもんだ。
四
高音というものが現に生きている以上、じぶんに妻のあることを、おせい様にも、そうそう隠してはおけまいと磯五は思った。おせい様は、高音からも若松屋惣七からも、そこまではいわれて、半信半疑でいるはずなのだ。そして、いつかは何らかの形ではっきり知れることとすれば、他人の口からわからせるよりも、いまのうちに自分が打ちあけたほうがおせい様も気をよくするだろうと思った。
どうせ磯五は、はじめから夫婦になる気はないのだし、夫婦になれないとわかっても、おせい様から金を引き出すほうには、いっこうさしさわりないと考えているのだから、いっそ今夜話してしまおうと思った。
ただ、あの若松屋の女番頭のお高というのがそれだと知れると、すこし細工がまずくなるのだけれど、お高はじぶんでいいっこないし、若松屋惣七という
磯五は、男女のことにかけては、いつも眼を大きくあけているのだ。その眼で見ると、高音と若松屋惣七は、大きに熱い仲であることがわかる。それはそれで、面白いことだと、磯五はにっこりして、おせい様の待っている奥の座敷へはいって行った。
おせい様は、灯をみつめてすわっていた。
磯五は、着ている洒落た着物に
おせい様は、その男ぶりをあがめるような眼つきで、磯五を見た。磯五は、それにはわざと知らん顔をして、おせい様の近くへ行ってすわった。やっと二人きりになったとき、相手の期待に反して、ときどきわざとよそよそしいふうを見せるのが、ますますその女をたまらなくさせるのだった。こうして、女のほうから追っかけて来るようにしむけるのが、磯五の手だった。
「どちらか湯治にお出かけになるというようなおはなしでしたが――」
磯五がいった。おせい様はそれに答えるまえに、お駒のことをきいた。おせい様は、真剣にお駒ちゃんのことを心配しているのだ。
「お帰りになりましたか。たいしたことでなければよろしゅうございますがねえ」
お駒ちゃんのことなど、もうけろりと忘れていた磯五は、びっくりした。
「何です、おせい様、誰のことです」
「あれ、いやでございますよ。お妹さんのお駒さんのことですよ」
「ああ、お駒ですか。よろしくと申して帰りました。いつもよくいい聞かせているのですが、あれも気の勝った女で、商売が忙しくなると、つい何から何まで、一人で引き受けてからだを動かさないと気がすまない
「ほんとに、お気をつけてあげなすってくださいましよ。わたしにとっても、たった一人の大事な妹でございますからねえ」
おせい様がしんみりそういうと、磯五も、しおらしくうなだれた。おせい様は磯五の問いを思い出した。
「もうすこしおあったかになったら、どこか近いところへ遊びに行きたいと思っていますよ。あなたもおいでなさいましよ」
「いや。いまは店の仕事が立てこんでいて、とても抜けられません。春の仕入れで、いそがしい盛りなのです」
磯五は、家業大事という顔をした。おせい様が、失望をうかべて、すねるように何かいい出そうとすると磯五が、つづけた。
「おせい様、とんでもないことがわかりました。びっくりなすっちゃいけませんよ。家内がまだ生きているんです」
「家内って――あなたのお内儀さんが?」
「そうですよ。知らせてくれた人があって、わたしもはじめて知って驚いているんですが――いや、仮にも女房ともあろうものが、そうして生きているくせに、今まで居どころも知らせないなんて、何ぼあんなやつでも、そんな義理知らずなことをしようとは、わたしも思わなかったものですから、てっきり死んだものとばっかり――」
「でもおなくなりなすったという
「それが、まちがいだったんです」
「それがね、ええまあ――」
おせい様は、ふっとすすり泣きでもはじめそうな、動揺した表情になった。磯五は、じぶんの膝のうえにおせい様の手を拾いあげた。むりにつくったおせい様の笑顔が、磯五の顔へ寄ってきた。その耳へ、磯五がささやいていた。油を落としたような、すべりのいい声だ。
「困りました。こんなに困ったことはございません。おせい様よりも、わたしのほうが苦しゅうございます。お察しくださいまし。決して、前から知っていて、あなたに隠していたわけではありませんが、そう思われはしないかと思うと――」
「そんなことは、思いませんよ。ご存じなかったのはあなたの罪ではございませんもの。そのお内儀さんにいろいろひどい眼に合わされて、お気の毒でしたねえ。こんないい方を、そんなに苦しめるなどと、何というわるい
「おせい様、それを伺って、安心いたしました。あんなやつでも、まだ女房となっている女が生きておるとすれば、わたしは、ご存じのとおり、こんな馬鹿堅いたちですから、今すぐおせい様にきていただくということは、こころもちが許しませんけれど、ねえ、おせい様、今までどおりに――」
「いままでどおりではいやでございますよ。今まで以上でございますよ」
磯五は、ちょっと部屋のそとへ気をくばって、だれもいないことを確かめると、そっとおせい様の肩に手をまわした。おせい様は、小むすめのように身をよじって、その磯五の腕のなかへとけこんで来た。長いことそうしていた。おせい様は、歯をかみ合わせて、懸命に声を飲んでいたが、なみだが磯五の膝へしたたった。磯五は、何かほかのことを考えながら、顔を上げて、障子の桟を読んでいた。
久助が戸締まりを見て歩く音が、ふたりを離れさせた。磯五はその夜この拝領町屋の家に泊まった。
五
当分、いや、一生夫婦となれそうもない男に真実を示してこそ、それは、
どこまでもこの人に実を尽くして行きましょう。女が、心から男を思う
それにしても、わたしたちの邪魔をして、この人をこんなに苦しめている、その、まだ生きている女房という女は、何というひどい人であろう。一眼顔を見てやりたいものだ――と、眠られないので、床のうえに起き上がったおせい様が、そばにぐっすり
もう家じゅう真っ暗になっていた。
手ぬぐいで頬かむりをした久助が、あし音を忍ばせてそっと裏口から家を出て行った。暗い夜空の下を、風が渡って、樹の枝がしきりに騒いでいた。枝が揺れさわぐと、やみのなかに黒い影がおどって、冷や飯
久助は、もう一度、手ぬぐいですっぽり顔をつつみ直して、音のしないように、おせい様の家にそって拝領町屋の通りへ出た。そこにも風があって、白い
久助がそこまで来て、その光のなかにはいって、合図のようにそこらを見まわすと、家の横の路地から、やはり手ぬぐいを吹き流しにかぶった女のすがたがあらわれて久助のそばへ寄って来た。
ふたりはならんで、黙って歩きだしていた。
父と
一
その灯のついている家のかげから出て来て、久助とならんで歩き出したのは、さっき拝領町屋の雑賀屋の寮から一足先に帰ったはずのお駒ちゃんであった。お駒ちゃんは手ぬぐいを吹き流しにかぶって、
しばらく黙って歩いた。そこは
「ほんとに、あきれたもんだよ。お
すると、板場の久助が、着物の上からお駒ちゃんの肘をとらえて、
「何だ、お父つぁんだと? なるほど、お父つぁんには相違ねえが、おれは、おめえのような女に、お父つぁんと呼ばれたくねえのだ。人聞きが悪い」
このお駒ちゃんと板さんの久助は、
「おそかったねえ。戸締まりでも見ていたのかい」
「そうよ。戸締まりをしていたのだ」久助は、娘に対して
「そうさねえ。どこへ行ったらいいだろうねえ。お父つぁんは、すぐ帰らなくてもいいの?」
「そう急ぐこともねえのだ。みんなもう寝ているだろう。裏の木戸をあけて来たから、いつでもへえれる。お駒、今夜はびっくりさせたぜ」
「あたいこそびっくりしたよ。久助という新しい板さんが来たということは聞いていたけれど、まさかお父つぁんとは思わなかったよ。歩きながら話そうじゃないか。まだそんなにおそくもないようだねえ」
父と娘は、また黙って四、五間歩いて行った。近くに銭湯があるとみえて、しまい湯を落とした湯気が、
お駒ちゃんは、宵の口におせい様に
向こうから三人づれの
「お駒、父に得心のいくように話してくれ。おめえはさっきおれに、あんなところで何をしているときいたがおれこそ、それをおめえにききてえのだ。あの
考えてもみるがいい。どこの世界に、おのが娘にへいつくばって給仕をする
「知らずに行ったら、出て来た変わり者の板さんというのがお父つぁんだったんだから、わたしも驚いたけれど、ああするよりほかないじゃないか」
「聞けあおめえはあの磯屋の旦那の妹てえ看板だそうだが、親のしらねえ兄というのがあってたまるか。おおよそ察しのつかねえこともねえが、いってえどういうわけだ。おめえという女はしたたか者になるに相違ねえと、おれあいい暮らしたもんだが、おふくろが先に眼をつぶって、おめえのこの
「そんなこといわないでおくれよ」お駒ちゃんの声はちょっとさびしそうだが、別に肉親の情愛がこもっているでもない。
「何も悪いことをしてるわけじゃあないんだもの。ほんとに、何も悪いことをしてるんじゃないよ」
「じゃあ、何をしてる。正直にいってみな。御大家のお嬢さんの
おれはおめえに、できるだけのことをして、嫁の口でもあったら、相当のところへ片づけようと、そればっかりを楽しみにこの
お駒ちゃんは、歩いている足もとを見て、微笑した。
「そんなことは、知っていますよ。それだって、
「ちっ、何てえいい草だ――」
「だって、お父つぁんもむりじゃあないか。あたいはこの二年間、何とかして身すぎをするのに精いっぱいだったんだからね」
「おめえの辛苦は、心柄というものだ。それより、
二
「うちにいたんじゃあしたいようにできないからさ。おんな
「やれやれ、あきれたもんだ。おいらも、河原者を娘に持とうたあ思わなかった。こちとらあしがねえ
なあお駒、いつもいうことだが、人間にあ二種あってな、人を使う身と、人様に使われる身と、これあおめえ、はっきり別れているんだぜ。そこがそれ、生まれというもんで、生まれながら人を使う上の方と、生まれながら人様に使われるおれたち
「何をいってるんだい。あたいは人に使われるなんて大きらいさ。性分だからしかたがないじゃないか」
「さ、それ、そのおめえの性分てえのが面白くねえ。まあ聞け、お駒。考えてもみるがいい。人に使われる身よりあ、人を使う身のほうがどんなにいいかしれやしねえと思うだろうが、そこが世の中でな、使われる身のほうが、使う身よりも、なんぼうか気やすで楽なのだ。
いい
そこへいくと、ことに
久助の話を聞いていると、下女奉公がこの世でいちばんやり甲斐のある仕事であり、出世の最好機会のように聞こえるのだ。お駒ちゃんはそれがおかしくってしようがなかったが、また、お父つぁんとしては、むりもないことだと思った。
自分でもいっているとおり、久助は世の中の人間をかっきり上下に二大別して、じぶんたちはその下のほうに属するもの、そしてこの区別と所属は絶対不可変のものときめて考えているのだった。それは、使用人の家として続いてきていて、いまこの久助の体内に流れている血のことばであった。
久助にとって、まじめに奉公をして、主人と、朋輩に可愛がられて、いくらか自由のきく晩年を持って飼いつぶしにされるよりほかに、人生はないのだった。それが最大の理想なのだった。他の生き方は、考えることさえもできなかった。だから、自分の家から、人に使われることをきらってこの区別を乱そうとする大それた冒険者がお駒という形で現われたということは、彼には驚異であり、悲嘆でさえあった。
久助はお駒ちゃんを瀬戸物問屋の吉田屋で立派な小間使いに仕立てて、やがて見込みのある番頭とでもいっしょにさせてもらって、自分は老後庖丁を離れてそれにかかろうと思っていたのだ。ところが、お目見得に行っているうちに、何かよくないことをしでかしたとかで、お駒ちゃんは吉田屋をお払い箱になったきり、家へも帰らず、そのままいなくなってしまったのだ。
これは二年前のことで、二年後の今夜、久助が雇われて行っている拝領町屋のおせい様の家へ、おせい様の
吉田屋のことをいい出されると、お駒ちゃんは困ったように笑って、
「だって、お父つぁん、あれはしかたがなかったんだもの。へんなことがあってねえ。他の女中が悪いことをして、あたいに濡れ
お前は、あの吉田屋を御殿のように思っているようだけれど、あんな家、奉公人には地獄だよ。でも、いくらそんなこといったって、お父つぁんは眼の色をかえて怒るにきまってるから、当分あたいのしたいようにしてみて、何とか眼鼻がつくまで、
「待ちな。その吉田屋さんで起こったへんなことてえのは何だ」
三
「あっ、そのこと。何でも、おかみさんの物がなくなって、あたいの
「とかいうんだとは、まるで
「そうさ。あたいはちっとも知らないことなんだもの。ほかの女中がそっと
「おめえは覚えのねえことだという
「でも、証しの立てようがないじゃないか。みんな向こうへついていて、おかみさんなんか、頭からあたいを泥棒あつかいにするんだもの。何が何だか、あたいにゃさっぱりわかりやしない。ほんとに、奇妙な話だねえ」
久助は、ぎっくりした。急に立ちどまって、
「お駒、ほんとにおめえは、おぼえのねえことなんだろうな」
うたがいが、久助の声に恐怖を持たせた。お駒ちゃんは、あっさり受け流した。
「何をいってるんだい。いやだよ、お父つぁん。お前までそんなこというのかい。何ぼ何だって、あたいは泥棒じゃありませんからね。みんな仲間の女中が仕組んだことさ。見えすいてるじゃないか。それだのに、あのお民ってお
久助は
「ほんとにおめえが盗ったのでなけりゃあ、それはそれでいいとして、それからどこで何をしていた。二年といやあ、決して短え月日じゃあねえ」
「そりゃお父つぁん。これでもいろんなことがあったよ。
「だが、今は芸人じゃあるめえ」
「こういうわけなの。お父つぁんは、何かあたいが悪いことをしてるように考えてるから、話しにくくってしようがないけど、べつにわるいことをしてるわけじゃあないんだよ。早くいえば、こうなのさ。あの磯屋の旦那の五兵衛さんて人に見込まれてねえ、ちょっと
暗いので、よく見えないのだが、久助は、お駒ちゃんの顔に眼をすえているらしかった。
「見込まれたって、おめえのどこがそんなにいいのかおれにあさっぱりわからねえ。顔かい」
「顔もいいけれど、からだがいいんだって」
「へっ、あきれたことをぬかすやつだ。恥を知るがいいや」
ほんとにあきれ返ったように、久助が吐き出すようにいうと、お駒ちゃんはげらげら笑い出して、
「妙な感違いをしないでおくれよ。からだといったって
「いま何をしているかって、それを聞いているんじゃあねえか」
「だから話しているんじゃないか、へんないきさつがあってねえ、でも、心配おしでないよ。悪いことじゃないんだから。あたいはいま磯屋の人間さ」
「ふん、妹でもねえものが、妹という触れ込みでな。これはいってえどういうわけだ」
「それはね」と、お駒ちゃんはごまかすように、「商売上、そうしておかないとぐあいのわるいことがあるからさ」
「てえげえ察しがつかあ。おいらの主人のおせい様をだまそうてんだろう。磯屋の旦那はおせい様といっしょになるんだってえじゃあねえか」
「そうだとさ」
お駒ちゃんはためらって答えた。
「そうだとさって、よく知らねえのか」
「よくは知らないやね。人のことだもの」
お駒ちゃんがいやな顔をすると、久助は、せせら笑いながら突っこんだ。
「人のことって、兄貴のことじゃあねえか。それあそうと、おめえが磯屋さんの妹ってえのが、おれにあまだ
「いいじゃないか。そんなことうるさくきかなくったって。おせい様は、呉服太物の商売には、
磯屋は、あたいがやっていて、五兵衛さんは後見ということに表向きなっているんだよ。ね、さ、もうわかったろう、お父つぁん」
四
「うんにゃ、わからねえ」
「何がわからないのさ」
「何だってそんなややっこしい細工をしておせい様を抱き込まなけあならねえか、そいつが合点がゆかねえ」
「そんなこと、あたいは知らないよ」
「なに、知らねえことがあるものか。同じ穴の
「そうかねえ。あたいにゃかかわりのないことなもんで、つい気がつかなかったし、考えてみたこともなかったよ」
「おめえはどういうもうけがあるんだ」
「もうけ? いやだよ。もうけなんかありゃあしないよ。頼まれたから、妹でございって顔をしてやっているだけさ」
「うそをつけ。おめえが、もうけのねえことをするわけはねえ。だが、もうけがあってもなくても、これあおめえ、今のうちに手を引いたほうが利口だろうぜ。お奉行所へ聞こえても、面白くあるめえと思うのだ。
「そうかねえ。かたりかね。あたいは何も、人様の迷惑になるようなことをしてるつもりじゃないんだけれど――」
「磯屋さんの妹という面をかぶっているのがよくねえや。おせい様にばれたら、どうなると思う? よし。おれからあの磯屋さんによく話し合ってみるとしよう」
「あれ、お父つぁん。そんなことしちゃいけないよ、何もかもぶちこわしじゃないか。何かってと出しゃばる人だねえ。年寄りらしくもない。お前の知ったこっちゃあないじゃないか。あたいが困るばっかりだよ。大事なことなんだからねえ。商売に」
「こりゃあ面白え。おせい様の金を巻き上げるのが磯屋さんの商売かい」
ひとりごとのようにいってから、久助は、つづけた。
「悪いことはいわねえ。いまのうちによしな。娘にそんなことをさせて、おれは黙って見ているわけにゆかねえのだ。磯屋さんは、おめえというものをだしに使って、いっしょになる気もねえのに、おせい様を釣っているに相違ねえ。よしな、よしな。そんなことに加勢をするのはよしな。
こんなことを続けていちゃあろくなことはねえぞ。そのうちにいい働き口でもみつけるまで、まあ、ぶらぶらしているがいいや。下女奉公が一ばんだ。な、いい家を探すのだ。きれいな家に、うまい物を食って、のんきにからだを動かしていせえすりゃあ、つとまってゆくところがあるめえものでもねえ。行儀見習いてえことも、おなごは忘れてならねえのだから――」
お駒ちゃんは、あたまをうしろへほうり投げるようなしぐさをして、はっきりした声だ。
「お父つぁん、いまよすわけにはゆかないんだよ。心配しないでおくれよ。大丈夫だからさ」
「何をいやあがる」久助は、高びしゃに「おめえよりおれのほうが、ものの分別があろうてえもんだ」
「それあそうだけれど、あたしだって、自分のことはじぶんでやってゆけるつもりだよ。これでも、今までさんざん苦労をしたんだからねえ。やっとここまできたんだから、こころもちはありがたいけれど、よけいな口出しをしないでおくれよ。さっきから何度もいうとおり、べつに悪いことをしてるわけじゃあないんだから――」
「そんならなぜ、今夜おせい様んところでおれの顔を見たとき、あんなに、気を失いそうにおどろいたのだ」
「思いがけなかったからさ」
「江戸は広いようでも、今夜のように、いつどこで誰に会わねえもんでもねえ。おめえは、あの磯屋の旦那と、ほかの
「いいえ、おせい様んとこほか、どこへも行きはしないよ。だから、お前さえ知らん顔していれば、それですむことじゃあないか。あたしもあんまりお前に会わないようにするしねえ――」
「会わねえということができるものか。おせい様んとこにいる限り、おれは、いやでも応でも、磯屋の妹になりすましてるおめえを、見ねえわけにあいかねえ。それがおれにあつれえのだ。磯屋さんは、近えうちに、おせい様と夫婦になるというこった。今夜なんかも、まるで御主人様のように、いろんなことをいっていなすったよ。
その磯屋さんの妹さんてえのだから、おめえも、おっつけおれの御主筋に当たってくる。てえっ、使う身と、使われる身と、親と娘と、それがそう、何もかもめちゃめちゃになっちゃあ、世の中のきまりてえものはどこにあるのだ。人間はみんな、身分を守ってゆけあ、間違えはねえ。な、お駒、
「あたいが磯屋さんの妹になっているのを、見たり聞いたりするのが、そんなに気になるんだったら」お駒ちゃんは、だんだん持ち前の強情な口調になっていた。
「お父つぁんこそ、どこかほかへ住み替えたらいいじゃないか。何も、おせい様んところばかりが、板の口でもなかろうと思うんだけれどねえ」
「何てえことをいうやつだ。いんや、おれはよさねえ。どんなことがあっても、おれは、おせい様んところを動かねえつもりだ。邪魔で、お気の毒さまみたようだが、おれは、おめえのすることに、眼を光らせていてえのだから――」
五
「そうかい。そんなら、まあ、すきなようにするがいいさ」
「おう。すきなようにするとも」
「あたいはもう帰るよ。磯屋さんも、もう帰って、きっと待っているんだろうから――」
「なに、磯屋は今夜、おせい様んところに泊まり込みだ」
「あれ! ほんとかい」
「ほんともうそもあるものか」と、いいかけた久助は、お駒ちゃんの顔いろが変わったのに気がついて、
「どうした、お駒。磯屋がどうしようと、おせい様がどうしようと、おめえがそうやっきになることはなかろうじゃねえか」
「あい何もやっきになってやしないがね――」
いいすてて、お駒ちゃんは、
「これ、お駒。この夜ふけに、女ひとりで歩いてけえれるわけのものじゃあねえ。おれがいま、夜駕籠をめっけて寄越すから――」
歯を食いしばっているらしいお駒ちゃんの声が、先のやみから流れてきた。
「いいよ。構わないでおくれよ。それより、お父つぁんは、あの五兵衛に気をつけていておくれよ。ほんとに、何をするか、よく気をつけていておくれよ。後生だからあいつに眼を光らせて――」
傷ついたまま追われている
久助は、長いこと
「そうだ。惚れてやがる。お駒のやつ、あの磯五てえ生っ
さくらが蕾を持つころまで、お高は、同じ金剛寺坂の家にいながら、毎夕かけ違ってばかりいて、若松屋惣七としみじみ話をかわすこともなく過ぎたのだった。
呼ばれて、奥の茶室へ行ってみると、このごろは他行がちの若松屋惣七が、この午後はめずらしく
仕事のことは、相変わらずお高が書状を披見して、返書を書いて片づけてきていた。いまはこれという取り引きもなく、わりに静かな日がつづいていた。
若松屋惣七が、自分と磯五とお高の問題をそのままにしておいて、いつまでたっても積極的な態度に出ようとしないのが、お高には、不幸といえば不幸であった。しかし、このあいまいな状態は、かえって若松屋惣七に対するお高の感情を培っているのだ。お高は、何をしていても、あたまが若松屋惣七のことでいっぱいなのを知っている。ゆっくり話し合わないけれど、いや、ゆっくり話し合わないからこそ、若松屋惣七は、お高の中で生きているのだ。
お高は、この情感を食べ物にして生活していた。女は、こういう情感で生きているとき、いちばん美しく見えるのだ。が、お高は一日のうちに、やせて見えたりふとって見えたり、さびしそうに見えたり、楽しそうに見えたりする女なのだ。
はいって来たお高は、そのさびしそうに見えるお高だ。若松屋惣七には、はっきりは見えないが、衣ずれのぐあいや何か、風のように立ってくる感じでわかるのだ。
「お高か。どうした。元気がないぞ」
若松屋惣七は、武士の前身を出して、しっかり肘を張って、きちんとそろえた膝を向けた。
「そうでございますか。じぶんで何ともございませんが――」
「忙しいか」
「いいえ。ひまでございます」
「気散じの旅にでも出ると、いいかもしれぬの」
「はい」
「居は気をうっすと申して、人間はときおり場所をかえぬと、気が
「さようでございますか」
若松屋惣七は、近いうちに、武士時代の友人がひとりみえるかもしれぬというようなことをいった。若松屋惣七は、思い出したようにきいた。
「亭主はどうした。近ごろ会うたか」
六
押しつけた声だ。若松屋惣七は、感情といっしょに声を押しつけるのだ。お高は、かなしそうな眼をした。
「亭主などと、そんな意地のわるいことおっしゃらないでくださいまし。何もかもご存じでいらっしゃるくせに――」
「ふん。また泣き出しそうな声だな。よく泣くぞ」
「会いませんでございます。一度たずねてまいりましたけれど、佐吉さんにお頼みして、追い帰してもらいましてございます」
「ここへ来たのか。ずうずうしいやつじゃな」
「はい。ずうずうしいやつでございます」
「何しに来たのか」
「何しに来ましたのか存じませんけれど、いつぞや神田のほうへ御用たしにまいりましたとき、もと十番の馬場やしきにおりましたころ、お針を頼んでおりましたおしんさんという
それで、あの磯五という人は、いろいろ暗いところのある人でございますから、何かまた、
「うるさいな」
「ほんとに、うるさくございます」
「が、まあ、会わんでよかった。今後も、あわぬがよいぞ」
「はい。掛川のほうから、何か飛脚でも参りましてございますか」
「おお参った。万事着々進んでおるようである。具足屋も、どうやら盛り返したらしい。すべて、かの龍造寺どののおかげじゃ」
「ほんとに――」
「いずれ、お前をつれて、掛川へ行ってみるつもりでおる」
「あの、掛川へ――」
一時に蒼くなったお高だ。お高はそこに行っている龍造寺主計のことを、思い出したのだ。お高が驚いたらしいので、龍造寺主計のお高に対する気もちを知らない若松屋惣七は、いっそうおどろいた。
「いやか」
「いいえ。旦那様とごいっしょでさえございましたら、高はどこへなりと、決していやだなどとは申しませんでございますが――」
「晴れて、旅でもしてみたいな」
「はい」
「わしは、近くひとりで、旅に出るかもしれぬ」
「あの、おひとりで」
「国平でも供につれようかの、眼の湯治に参るのじゃ」
お高が何かいい出しそうにすると、若松屋惣七は、うるさくなったらしく、気ぜわしく手を振った。
「あああっちへ行け。行け行けと申したら、早く行け」
お高は、若松屋惣七をよく知っているので、は、はい、といそいで答えて、ほほえみをうかべながら、逃げるように座をたった。
若松屋惣七は、
若松屋惣七は、町人らしい縞の着物にその杖をついて、江戸川を渡って、
若松屋惣七の変わったすがたに、行人の眼があつまっていた。彼は半
玄関の前へ出ても、案内を
「どなたでございますか」
それは、面長の上品な女であった。窓のそとに杖を突いて立っている若松屋惣七を見ると、
「
「おられますかな」
「おられますでございます」
若松屋惣七は、遠慮なく庭へ通って行った。女中は、家の中をいそぎ足に、その歌子という
「こっちへお上がりなさいましよ」
「うむ。ここで結構だ」
若松屋惣七は、上がろうとはしないで、縁側に腰をかけた。
「いけませんよ。そこでは何ですから、どうぞお上がりくださいまし」
歌子は、三十五、六の武家風の女なのだ。愛くるしい顔だちだが、からだつきは
一
歌子は、肩巾のひろい、色のあさ黒い女だ。せいが高くて、がっしりしている。
庭からまわって来た若松屋惣七を、にこやかに迎えた。若松屋惣七が武士を廃業する以前、ふたりは、
若松屋惣七は、しばらく歌子を訪れなかったので、あたりが、珍しいものに思われた。縁側に腰をおろして、しきりに庭を見わたしていた。
「旅に出たと聞いたが、いつ戻られたのか」若松屋惣七が、きいた。「江戸におったり、おらなんだり、
笑った。歌子も、その健康そうな顔を、ほほえませた。
「すこし
「ほほう。面白いことでもあったかな」
「はい、面白いといえば面白い。面白くないといえば面白くない――でも、ほこりっぽい江戸よりは、よっぽどましでございます。わたくしは、江戸がいやになると、すぐ旅に出ます。こんども、京都から南、山陽のほうをまわってみようかと思っております」
「気楽な身分だな」
「気楽ではないのですよ。退屈なのですよ」
「同じこった」
「そう。おなじことでしょうか」
ふたりは、声を合わせて笑った。
「で、いつたつのだ」
「京都のほうは、まだ先のことです。その前に、
「龍口寺とは、また奇特だな。えらい信心ではないか」
「信心も信心ですが、そういっては悪いけれど、遊山半分なのですよ。一度も、行ったことがありませんからねえ」
「ついでに、
「そうですよ。ごいっしょに参りましょう。江の島へ寄って、ゆっくり遊びましょう」
「しかし、おれのほうは、すぐ行くというわけには参らぬのだ。友だちが来ることになっているでな。あの、
「
「そうだ。お前も、知っているな。きやつが、
「それは、好都合でございます。わたくしのほうも、いまいった大久保の奥様が
「うむ。そういうことにしようか」
「そうしましょう。麦田様は、面白い方ですから、大久保の奥様も、およろこびになるでしょうし、旅は大勢のほうが、笑うことが多くて、ようございます」
「それは、そうだな」
若松屋惣七は、何か考えこんでいて、急にいたずら好きな口調を帯びてきた歌子の声に気がつかなかった。しばらくして、若松屋惣七がつづけた。
「紙魚亭は女ずきのするやつだ。お前も、長いこと彼に会わんであろう。
「はい」
歌子は、ちょっとしおれて見えた。若松屋惣七は、急に鋭い眼を向けた。
「お前は麦田と仲たがいになっておるようだが、何か、つまらぬ争いでもしたのか」
「いいえ。なぜそんなことをおききになります」
「いや。もしそうであったら、いっしょに旅するのもいかがなものかと思って――どうじゃ、気まずいであろうが」
「決してそんなことございません。ほんとに、麦田さまはいい方ですし――」
「もとはお前、一八郎さんと呼んでおったではないか」
「でも、おたがい年をとりますし、それにこう離れていますと、だんだん遠くなりますよ。それよりお眼のほうはいかがですか」
「悪くもならんが、よくもならん」
「困りますねえ」
「困る」
「そんなにおひとりで出歩いて、およろしいのですか」
「用があって、参った」
二
「はい。どういう御用でございましょう」
若松屋惣七は、ちょっと切り出しにくそうにした。相手が、あんまり事務的だからだ。若松屋惣七は、まぶしそうな眼を、歌子のほうへ上げた。
「女をひとりつれて参るが、会ってやってくれぬか」
「女の方――ええ、おあいしますとも」が、歌子はすこし不思議そうな顔をした。「でも、どういう方でございます」
「可哀そうな女なのだ。今後いろいろ、相談に乗ってやってもらいたい」
「それはもう、わたくしできますことなら、何でも――どなたでございます」
「うちの女番頭である」
「すると、あの、お高さんとかいう――」
「そうだ」
歌子の
若松屋惣七にははっきり見えないから、歌子は安心して、いやな顔を隠そうとしなかった。
「あわれな女でな、いつもひとりで、屋敷にくすぶっておる。気散じに話し合う友達をつくってやりたいと思うのだ。龍口寺まいりにも、加えてやりたいと思うが、どうであろう」
「結構でございましょう」
それきり歌子は、ぽつんと黙りこんだ。
「しかし」若松屋惣七が、いっていた。「どこまでも、女の雇い人であってみれば、わしから供を申しつけるというわけには参らぬ。ここはひとつ、お前から出たことにして、どうだ、誘ってみてはくれぬか」
「結構でございましょう」
「では、承知してくれたな」
「なぜそんなにおつれになりたいのでございます」
「保養をさせてやりたいのじゃ」
「まあ、親切な! ほんとに、親切なお主ですねえ」
「妙に思うかもしれんがあの女については、いずれお前にも話すが、いろいろ事情がある」
「そうでございましょうとも。いろいろ御事情がおありでしょうとも。あなたは、あのお高さんがお好きなんでしょう?」
「心のいい女だ。お前にも、決して迷惑をかけるようなことはない。心配せんでもいい」
「それはよくわかっております。そんな心配は致しません。でも、ずいぶんお気に入りのようですねえ」
「ふむ。まあ、気に入っておるな」
「奥様にあそばすお考えですか」
「そうもなるまい。そこが事情じゃ。ただあの心痛の多い女を残してわしひとり面白おかしく旅をする気になれんのだ。このごろは、誰しもちょっと江戸を離れて、田んぼ
「結構でございましょう。では、どういうことにいたしますか」
歌子は、さっぱりした女だ。若松屋惣七のお高に対するざっくばらんな愛を聞かされて、彼女自身ほがらかな気もちになりつつあるのだ。
若松屋惣七のいかめしい顔に、笑いがひろがった。
「都合がよければ、明晩ここへつれてまいる。お前とお高は、きっと仲のいい友達になるであろうと思う。わしが考えると、よく合うところがあるのだ」
「さようですか。それでは、わたくしも楽しみにしております。わたくしのほうは、いつおつれになっても構いませぬ」
「それとなく、龍口寺まいりのことを切り出してくれ。お高は、さびしがっているのだから、すこし厚意をみせてくれれば、すぐなつくことであろう。からだも、あまりよくないようである。何とかして、旅に出したいと思うのだ」
歌子は、もう晴ればれとした顔をしていた。
「承知いたしました。明晩おつれなさいまし」
女中が茶を運んで来て、ふたりは黙って茶を飲んだ。茶を飲みながら、若松屋惣七は、考えた。この歌子と、あの紙魚亭主人の麦田一八郎と、あれほど仲がよかったのが、どうしてこう遠いこころになったのであろう。去るもの日々にうとしというだけのことであろうか。似合いの夫婦である。今度の旅の機会に、何とかまとまればよいが。
歌子も、茶を飲みながら、考えていた。歌子は女らしい女といえなかった。こまかいことはわからないが、それでも、男のこころというものは、何という不思議なものであろうと思った。この頑固な従兄が、今になって一人の女に柔かい心を向けている。歌子は、それがおかしかった。
そのお高に、何かしら事情があるという。事情のある女なんか、よしたがいい。歌子は若松屋惣七のためにそう思った。歌子は、簡単な女なのだ。そう思って、若松屋惣七を見ると、庭におどる日光を感じた若松屋惣七の眼が、ひくひくまばたいていた。
三
朝、帳場になっている奥の茶室へ、お高が仕事のことで来て、すぐ出て行こうとすると若松屋惣七が、呼びとめた。
「わしの従妹の歌子というのが、お前に会いたいというておるのだが、今夜いっしょに行かぬか」
「どうぞお供させてくださいまし。でも、歌子様は、わたくしのようなものはおきらいでございますまいか。歌子さまとおっしゃいますのは、よく旦那様がお噂なさいます、あの、
「そうだ。近く片瀬の龍口寺へ
お高は、さっと暗い顔になった。若松屋惣七は、それを感じて、いそいで話をついだ。
「いろいろと申したところで、例の、お前が知られたくないと思っておることは、いいはせぬ。しかし、それも、考えてみると、皆に聞こえたところで、いっこうさしつかえないではないか。お前が、かの磯五という極道者につながれておるということは、何もお前の罪ではないのだからな」
「いえ。そればかりは、わたくし」お高の声は、苦痛と恥辱で、今にもこわれそうだ。「考えるのもいやなのでございますから、どんなことがありましても、人さまに知られたくはございません。そんなことをお話しなさるようでしたら、今夜歌子さまのお屋敷へ伺うことも、御辞退申し上げますでございます」
「うう、いや。それほどいやなものを、
お高と歌子の会談は、若松屋惣七が望んだ以上に成功であった。自分の女を、家族や親類の女に引きあわすのは、なかなかの難事業である。難事業であるといって、それをしないでいるために、そこにあらゆる誤解が発生して、多くの男は、それで手を焼くのだ。
若松屋惣七は、歌子が一目でお高に厚意をよせ出したらしいのに安心して、ひとまず先に帰ったのだった。
お高のうつくしさは、女の歌子をも惹きつけるに十分だったのだ。歌子は、じぶんがあまりきれいでないので、きれいな顔には、ふだんからあこがれのこころを寄せていた。それにお高は、その夜はことに美しく見えた。お高は、若い
若松屋惣七が帰ってから、歌子とお高は、奥の座敷にすわって、長いこと話しこんだ。お高の眼は、同性の歌子をさえ魅了する眼だった。お高が帰ることになったので、庭から出て
お高を見送って、引っかえすとき、歌子はつぶやいていた。あの女は惣七様を想っている。それはわかるけれど、いっしょになれない事情というのは、何だろう? 夜っぴて歌子は、そのことを考えた。が、どうしても想像できなかった。
惣七さまに、ほかの女のことで引っかかりがあろうとは考えられない。あれほど思いあっているようすなのだから、はやく立派に夫婦になればいいのに、それがそうはゆかないというわけが、歌子にはどうしてもわからなかった。よく気をつけて、二人を見ていることにしよう。そう思った。
お高が金剛寺坂の
「ほう。ちょっと違った顔を見ただけでも、お前は顔いろがようなったぞ」はいって来たお高を見て、若松屋惣七がいった。「すこし出て、人に会うがいいのだ。この屋敷に、女というてはお前ひとりだから、女同士の細かい話もならず、それで気がふさぐのだ。ちょいちょい歌子のところへ遊びに出かけるようにするがよい」
全く、見ちがえるようにいきいきしたお高になって、帰って来ていた。このころできた、口のまわりの小さな悲しい皺が消えて、眼が、敏活にきらめいていた。繊細な蒼白い顔に、血のいろがうかんでいた。
「歌子様は、ほんとに面白い方でございます。あしたも、夕御飯におよびくださいましたが――」
「そうか。それは行かねばならぬ。ぜひ行きなさい」
若松屋惣七は、従妹とお高が親しくなりそうなのをよろこんで、珍しく上機嫌だった。
四
あくる日、歌子の家の夕飯から帰って来ると、お高は興奮を隠して考えこんでいた。眼をかがやかして、家じゅう歩きまわった。下男部屋へ顔を出して、佐吉や国平や滝蔵などと二こと三こと話し合っては、けたたましい笑い声をたてた。そこへ、若松屋惣七が自分で呼びに来て、お高を奥へつれて行った。長い廊下を惣七につづいて歩きながら、お高がいった。
「旦那さま、歌子様が片瀬の龍口寺とやらへお詣りにお誘いくださいましてございます」
若松屋惣七の
「うむ片瀬へ? それは面白い。どうじゃ、おれのいったとおりであろう、どうもお前たちふたりは仲よしになるであろうと思ったのだ」
「はい、それはもう仲のよいお友達になりましてございますけれど、でも、歌子様のお客さまになって旅をいたしますのは気がねでございますから、おことわり申し上げましてございます」
「歌子の客というのは、どういうことかな」
「路銀をすっかりお持ちくださるとおっしゃるのでございます」
「路銀と申したところで、相州であるから知れたものだ。出すというなら、出させておいてよいではないか」
「いえ。それでは、わたくしの気が済みませんでございます」
「馬鹿堅いことをいうな。そんならおれが出してやろう」
「こちら様にはお仕事がございますし――」
「それも、おれがよいと申したら、それでよいではないか」
「でございますけれど――」
二人は、お高の部屋へ行って、むかい合ってすわった。若松屋惣七が、いいつづけた。
「お高、お前は何か、一日も江戸を明けられぬわけでもあるのかな」
「いいえ、そんなことはございませんが――」
「それならば、遊山かたがた
「でも、旦那様、お高は参られませんのでございます」
「なぜだ」
「なぜでも参られませんのでございます」
「だから、なぜだときいておるのだ」
お高は、しばらくうつむいていた。低い声でいった。
「旅をしては悪いのでございます」
「旅をして悪い――?」
「はい。旅をしては悪いからだなのでございます」
若松屋惣七は、その意味を考えて、うかがうようにお高のほうへ顔を向けた。
「そうか」
と、いった。お高は、膝で歩いて、若松屋惣七のほうへ寄って来ようとした。若松屋惣七が手を出してそれを助けたので、ふたりはすぐ畳のうえの影を一つにして、じっとなった。それきり、両方とも同じことを考えて、黙っていた。
お高を残して、四人で行くことになったけれど、くるはずの紙魚亭主人もまだ来ないし、大久保の奥様の風邪も思ったより長びいているので、龍口寺詣りのはなしは、そのままぐずぐずして、一時立ち消えの形だった。
じっさい、人に旅を思わせる好天気がつづいて、江戸の空は、
お高が、縁側へ古い手紙類を持ち出して、一応眼を通したのち、一つひとつ
「
「一空さん――」
お高は[#「お高は」は底本では「お高い」]、不意に思い出せないで、眉を寄せて、考えた。
「へえ。裏の金剛寺の一空和尚なのですよ」
「まあ、あの和尚さまが来たのですか。それで、わたくしに御用がおありだとおっしゃるの。上げてくださいよ。お座敷へお通し申しておくのですよ。えらい坊さまですから、失礼のないようにねえ」
一
「では、一空さまをこちらへ」
まもなく、まるい顔に細い眼を笑わせて禅師が、その部屋にお高と向かいあってすわっていた。
「だしぬけにまいって、お邪魔ではござらぬかな」
「いいえ。どういたしまして」
お高は、金剛寺の境内などで、両三度この坊さまを見かけたことはあったが、こうしてそばでしげしげと見るのは、はじめてであった。おかしい人だとばかり思っていたのが、何だかなつかしい人だと思った。こういう坊さまだからこそ、じぶんの費用で学房などをひらいて、近所の子供と仲よしになっているのだと思った。
「じつは、先日
洗耳房というのは、寺内に結んでいる一空和尚の庵室のことであった。そして、そこへ近隣の
お高は、龍造寺主計を思い出して、また妙に胸がはためいた。
「龍造寺様でございますか。あの方でしたら、東海道の掛川のほうへおいでになりましてございますよ」
「
一空さまは、ひとりでつづけた。
「あの金で、洗耳房を建て増ししてな、餓鬼どもの遊び部屋に当てごうたのじゃ」
餓鬼ども餓鬼どもと一空さまがいうのは、洗耳房へあつまってくる学童たちのことであった。学童たちは七、八つから十五、六の男女のこどもであった。おもに近所の子供らで、武士の子も、町人の子も、職人の
「きまった遊び場がないと、寺内でふざけまわってどうもそこここを汚損し、庭に出ては木石をいためるので本院の番僧はじめほかの房から苦情が出てかなわん。というて、
石や瓦が飛びそうな騒ぎとは何のことだろうとお高がきいてみると、何でも、金剛寺門前町に、このごろよろず屋というべき米、
そこで生活をおびやかされた土着の商人たちは、新店に対する憎悪と反感で結束して、ならずものなどを雇い今夜にも新店へなぐりこみをかけそうなうわさである。石や瓦の雨どころか、血の雨が降るかもしれないというので、この数日、付近は
「こういうわけじゃから、道路で遊ばせておくことはできん」子供好きの一空さまは、子供のことをいうときだけは、眼を光らせていた。
「そこへおりよく龍造寺どのの喜捨があったので、洗耳房へ遊び場を建て増ししたわけじゃ。あの仁をわしのところへよこしたのは、あんただということじゃから、本人がここに出ておらんならあんたでもよい。ちょっと来て、餓鬼どもがよろこんどるところを見てやってくれんか。それはえらい騒ぎをやりおる」
お高は洗耳房の子供たちがあたらしい遊び部屋で自由にはねまわっているところを見たい気がした。無邪気な童子のむれに接すれば、こころもちが晴ればれしていいだろうと思った。
「お供させていただきます」
「そうか。すぐ来てくださるか。それはありがたい」
「ちょっと着がえを――」
「いや、そのままでよい」
「いえ、でも
お高は帯を締めかえて出てくると、一空さまは何か考えて待っていたが、はいって来るお高をぼんやり見上げて、夢をみている人のような声できいた。
「あんたは
二
お高は、びっくりした。
「はい、母方の姓を柘植と申しました。でも似ているとおっしゃいますのは、わたしがどなたかに似ているのでございますか。そういえば、和尚さまも、俗名を柘植様とおっしゃったそうでございますね」
一空さまは、お高の顔に、改めて眼を凝らしていた。何を考えているのか、その自分の考えていることが信じられないというようすだ。やがて、苦痛の色が、雲のように一空さまの
お高は、へんに思った。一空さまのそばへ行ってすわった。
「どうなすったのでございます。一空さまは、うちの母をご存じでいらっしゃいますか。何かつながりに、なっていらっしゃるのでございますか」
一空さまの眼は、恐ろしいものを見てるようにさえ見えるのだ。一空さまが、きいた。
「お父うえのお名は、何といわれたかな」
「父は
憎悪と恐怖のいろが、一空さまの
「相良
という一空さまのことばにお高はいよいよ乗り出して、
「どうしてそうあなた様は、父や母のことをごぞんじなのでございますか」
「母者人の柘植ゆうと、生前近しくしておりました」
「親類の方ででもいらっしゃいますか」
「同じ柘植じゃ。遠縁の者です」
「でも、わたくしの顔が、そんなに母に似ておりましょうか」
「似ているとも。そっくりじゃわい」
「わたくしの顔から、母のことを思い出しなすったにしても、はじめ、妙なお顔をなさいましたねえ。いいえ、今でも、妙なお顔をなすっていらっしゃいますよ。どういうわけでございましょうか」
「ははは」一空さまは、へんなぐあいに笑ったきり、黙りこんでしまうのだ。やがて、やっと感情を押えたような、この人には珍しい、低いきまじめな声だ。
「古い思い出は、いつもしめっぽいものじゃて。おゆうさんは、[#「おゆうさんは、」は底本では「おゆうさんは。」]若死にだった」
おゆうというのは、お高の母であった。お高は一度に、
「どうぞ母のことをお聞かせなすってくださいまし」お高は、うつむいていた。「わたくしは、ちっとも覚えておりませんでございます」
「そうであろう。美しかったな。
「いいえ。一度も。母が死にましてから、父は人が変わったのであろうと思いますでございますよ。
「いつ
「父でございますか。もう六年になりますでございます」
「あとを困らんようにして、なくなられたであろうな」
禅宗の坊さまが、金のことをいうなど、お高は奇妙に感じた。が、やっとひとり娘の自分がつましく食べてゆけるだけ、それも、どうやらこうやら路頭に迷わないですむ程度だったと答えると、一空さまが、その父の相良寛十郎の
「そんなことはよろしいではございませんか。父の残しました家財や地所を、お金に換えまして、しばらく持っておりましてございますが、悪い人のために、そっくりなくしまして、それから、あちこち奉公に出ましたのち、ただいまはこの若松屋様に御厄介になっておりますのでございます」
一空さまは、急に思い出して、たち上がった。
「お、餓鬼どものことを忘れておった。さ、洗耳房へ参ろう。やんちゃども、待ちくたびれておるに相違ない」
三
風のひどい日だ。空がうなっているのだ。樹々は、髪を振り乱して泣き叫んでいる狂女のむれだ。眼に見えないうずまきが、玉のように往来をころがって行って、家々の
お高は、夢にいた。
しかし、その一空さまが、何か悲しい話を持っていそうなのが、お高を悲しくしていた。父の相良寛十郎と、母のおゆうと、この一空和尚とのあいだの古傷のようなものを、和尚は、隠しているらしいのだ。お高は、一空さまとならんで歩きながら、とりすがるようにして、そのことをきいてみた。
おゆうさんがなくなる前は、わしもしばらく遠のいておったから――一空さまは、そんな答えだったが、お高は、そうして母のことをきくと、一空さまが苦しそうに見えるので、よすことにした。ことによると、母と何かあって、そのためにこの人は、出家なぞなすったのではなかろうかと、気がついた。
だがこの
父については、一空さまもよろこんで話した。ふたりは、
一空さまが、風のあいだに、いっていた。
「大名のような暮らしをしたであろうがの、あんたと
「どういたしまして」お高は、おどろいた声だ。「なぜでございます」
「ふうむ。つかわんまでも、相良どのは、たいそうな金持ちであったはずじゃ」
「いいえ。ちっともお金持ちでなんぞございませんでしたよ。貧乏でございましたよ。古石場の屋敷なぞ、
わたくしも、父につれられて、あちこち旅をいたしましてねえ、また、父は、そのほうの眼が肥えておりましたので、家には、諸国の珍しい品がたんとございましたが、わたくしが、家を畳みますときに、みんな売り払いましてございますよ」
「するとあんたは、父親が
「妙なお話でございますねえ。父は、大分限者でも何でもございませんでしたよ。大分限者どころか、ずいぶん困りましたこともありましてございますよ」
「おゆうさんは、香が好きでな。日本中をはじめ、
「おっしゃることがすこしもわかりませんでございます。そんな香炉など、わたくしは、見たことも聞いたこともございませんですよ」
「相良どのが死なれたとき、大口の借銭でも遺されたかな」
「いいえ、そんな引っかかりは何もございませんでした。きれいなものでございました」
「はて! あと始末は誰がしたのじゃ。」
「深川の顔役さんで、
「ほかに、相良どのの在世中、出はいりして、家事向きの相談にあずかった者があろうが」
「いいえ。そういう方は、ひとりもございませんでしたよ。さっきから申しますとおり、江戸にいましたりいませんでしたり、それに
お高がそういうと、一空さまは、じつに不思議な話だといって、しきりに首をひねるのだ。容易に信じようとしないのだ。何がそんなに不思議なのかと、お高こそ、不思議でならなかった。
それから、一空さまは、相良寛十郎が死んだとは知らなかったこと、後妻を迎えはしなかったかのと、いろんなことをきいた。お高は、たった一年、父が南のほうへ旅に出たあいだ離れて暮らしただけで、ほかはいつもいっしょにいたのだから、じぶんの知らない妻や
一空さまが、あんまり
「合点がゆかぬ。どうも合点がゆかぬ」
「何がそう合点がゆかないのでございます」
お高が、一空さまの顔を見上げたとき、ふたりは、金剛寺門前町のごみごみした通りにさしかかっていた。
四
むこうに山門が見えている。風が、路上を狂奔している。かなりに広い通りだ。両側は、金剛寺をはじめこのへんの武家やしきで立っている小売りの店屋だ。米、味噌、醤油、酒、油、反物、筆墨、小間物、菓子、瀬戸物、
大したものはなくても、何でも用が足りる。この山の手での下町で、近所に重宝がられてきた小商人の町すじなのだ。ここだけで、さながら独立の一商業区域をつくっている。遠く神田
ことに、今夜は縁日が立つらしく、風の中で、地割りの相談をしている人がある。子供相手の面白焼きが地面に
といって、この風にもかかわらず、人通りは、いつもより多いようだ。それでいて、
出たりはいったりする女の顔まで、殺気走って、何かしら、押えつけている
何か大声に呼ばわりながら、走って来る人がある。町内の世話役らしい。あちこちの店から人が駈け出て来て、一団になって、なおも人を集めて行く。やがてそれらが通りの中ほどにある会所へどやどや上がって行ったのは、それから相談でもあるのであろう。
群衆が、そこの入り口にあふれて、ののしりさわいでいた。あらたにできた
お高は、それに気がついたが、さっきの続きで心がいっぱいなのだ。もう一度きいた。
「何がそう合点がいかないのでございます」
一空さまは、周囲の物騒な空気も意識しないようすだ。お高の声で、現実へ引きもどされた。
「何が合点がゆかぬといって、――それほど合点のゆかぬことはない。あんたの母者人のおゆうさんは、この江戸でも、一、二といわれる大財産を受け継いだのじゃ。が、あんたのいわれるように、相良どのが、そのような大金持ちでなかったとすれば、そのおゆうさんの大資産は、いったいどうなった? 誰が譲られたか。それとも、消えうせたか。じつに、合点のゆかぬはなしである」
お高は、
「きっと母がその財産とやらをつかってしまったのでございましょうよ。さもなければ、父が、海へでもほうったのでございましょうよ」
「わしは、ふざけておるのではない。海へ沈めようが山へ埋めようが、一代や二代でつかいきれる金ではないのだ。ことに、すっかりおゆうさんの名義で、だれも指一本触れられんようになっておった」
お高は笑い出してしまった。
「よくご存じでございますねえ。どうしてそんなにご存じなのでございますか」
すると、一空さまは、その、おゆうの
「もしさような金持ちでなかったら、おゆうさんは、わしの女房になったところじゃ」
わけがわからないので、お高が黙っていると、一空さまはひとりで、
「おゆうさんは、あんたの幾つのおりになくなられたかな」
「あたくしを生みなすって八月目に、おなくなりなすったのだそうでございます」
「不思議じゃ。あの大財産はどこへ行ったのじゃ。高価な香炉は、どうなったであろう。誰が継いでおるのか」
「聞いたこともありませんでございます」
「それが、不思議じゃ。じつに、異なことじやわい」
それきり、ふたりとも黙りこんでゆくと、金剛寺門前町をすこし
「あれじゃ。割りこんで参って、この騒動を起こしたのは」
一空さまが、指さした。
五
和泉屋は、間口の広い、立派な店である。米、味噌、醤油、酒、油、反物、筆墨、小間物、菓子、瀬戸物、履物類その他日用品一切が、きちんとならんでいる。そこらに売っているものは、何でもある。しかも、体裁がよく、品質もまさってるのだ。そのほか他店よりも値段がやすい。
それで客のはいらないわけはないのだが、店には大勢の番頭小僧のほか、客といってはひとつの人かげもない。品物と店員だけで、がらんとしてるのだ。買い手どころか、近よる人さえないのだ。手持ちぶさたに見える。襲撃に備えて、出入りの
「何とも、奇妙な話じゃ」
一空さまが、つぶやいていた。それは、お高の母のことのようでもあり、またこの和泉屋のことのようでもあった。
「何がそんなに奇妙なのでございましょう」
お高がきくと、
「いや、あんたは、何も知らんようだが、この和泉屋というよろず屋は、江戸中に三十何軒も出店があって、これもその一つじゃ。そもそも和泉屋というのは――」
いいかけたとき、そこは
「まず、洗耳房の餓鬼どもを見てもらおう。はなしは、あとでできる。ははははは、後でゆっくり話しましょう」
金剛寺内の洗耳房には七、八つから十五、六ぐらいの子供たちが手習いをしたり、読み方をさらったり、口論をしたり、とっ組み合いをしていたり、それはそれは大変な騒ぎであった。一空和尚の庵室なのだが、学房に当てているので、こどもたちのためにすっかり荒らされていた。
相当広い部屋に、笑い声や叫び声が飛びかわしていた。が、一空さまとお高がはいって行くと、騒動が一時にやんだ。みんな澄ました顔をして、机にむかいだした。ふたりの来たことに気がつかない二、三人の子供だけがいたずらをつづけていた。
一空さまが、これから、
子供たちは、一空さまの両手にぶら下がったり、丸ぐけを引っぱったり、背中によじ登ったりした。一空さまだけでは足らないで、お高にも、前後左右からまつわりついて来た。お高は、からだいっぱいに子供たちが
そこは、広びろとして、木のにおいのする
子供たちは、板敷きのうえにがやがや押しならんですわった。みんなすばしこく眼をうごかして、天井と壁と一空さまやお高の顔を、見くらべていた。
ほかにも、来ている
もう一人の中年の女の人は、やはり一空さまをあがめて、洗耳房に出入りして子供たちの世話をしている、お
一空さまは、子供たちに取りまかれて、あっちからもこっちからも引っぱられて、にこにこ笑っていた。針のように細い眼がいっそうほそくなって、すっかり見えなくなっていた。
お高は、その、耳がわんわんする中で、さっき一空さまがいった、父や母のことを考えていた。母のおゆうが、とてつもない分限者であったというのが、どうしても腑に落ちなかった。それかといって、一空さまがふざけているとも思えなかった。人違いではなかろうかと思った。
母のことは、顔も思い出せないし、何一つ
「この喜捨をしてくれた人は、旅に出ておられんから代わりに、その人にこの洗耳房のことを話してくれた姉さまをお連れした。今その姉さまから、何か話があるから――」
というのだ。一空さまは、笑って、お高を見た。子供たちも、大声をあげてよろこんで、お高のほうを見ている。お高は、どきまぎしたが、お由さんに促されて、にっこりしていい出した。
六
「皆さんのお友だちは、龍造寺主計様とおっしゃるおさむらい様でございます。お帰りになりましたら、皆さんがこんなによろこんだことを、すっかりお話し申しましょう。そして、一度おつれして、この立派なお部屋をごらんにいれましょう」
子供たちの歓声のなかで、お高は赧くなった。これで部屋びらきがすんで、仏具屋の二人も、お高に挨拶して帰って行った。お由さんがめんどうをみて、子供たちも、三々
「門前町で遊んでいてはいけません。道草を食うんではありませんよ。まっすぐお
そして、お高へささやいた。
「今夜あたり何がはじまるかわかりませんからねえ」
「和泉屋のことでございますか」
「そうですよ。あたしの来るときなんかも、通り全体がものものしいようすでしたよ」
「和泉屋には、ひとりもお客さんがはいっていませんでしたねえ」
「申し合わせて買いに行かないんですよ。買いに行く人があると、町内よってたかって半殺しにするというんですからねえ」
「まあ、こわい、そんなにむきになっていますんですかねえ[#「ですかねえ」は底本では「ですからねえ」]」
「だってあきんどの身になれは、同じ町内にあんな大きな商売
「むりがありませんよねえ」
「どっちへお帰りですか」
「すぐこの裏手の金剛寺坂でございますよ」
「では一度門前町へお出にならなければなりませんねえ。わたしも、門前町を突っ切るのですからそこまでごいっしょに参りましょうよ」
「ええ、ぜひごいっしょに参りましょう」
町が物騒なので、一空さまが、金剛寺門前町を通りすぎるところまで送って行くことになった。三人がおもてへ出ると、
わけもなく激昂した人々が、路上に、さっき一足先に帰った仏具屋の若い二人づれを擁して、悪口雑言を沸き立たせているのが、見えた。お由さんは、憤慨して、そっちへ走り出そうとした。
「まあ、何の
一空さまが、とめた。
「まあま、人は、寄りあうと、理解を失って群れさわぐものじゃ。うっちゃって置きなされ、それより、
お由さんは、口をとがらせていた。
「いくら商売に困るからって、先方も商売じゃありませんかねえ。良い品を安く売るのに、邪魔だてをされては、買うほうが困りますよ。ほんとに、あんまりなことをすると、かえって、ついていた人気も離れますよねえ」
「こっちは、良い品物を安く買えたほうがありがたいんでございますもの」
「しかし、この、昔からの金剛寺門前町の商人を、見殺しにするということもできんでの」
「それもそうですけれど、でも、わけのわからないならずもののような人を狩り集めて、通る人に迷惑をかけたりしては、せっかく味方についていた者まで、いやになりますでございますよ」
「とにかく、乱暴を働くのは、間違っておる」
「そんなことを大きな声でおっしゃると聞こえますよ」
話しながら、人を分けて歩いて行った。それはもう文字どおり、かき分けなければならないほどの人ごみになっていた。夕やみの落ちてくる街上に、赤く逆上した顔が、
いつのまにか、ぎっしり往来をうずめて、身うごきもならない人出だ。みんな血走った眼をして、顔じゅうを口にしてわめいているのだ。近くの武家屋敷から警備に出た
「餓鬼どもは、事なく通ったろうな」
「ええ。子供ははしっこいから、駈け抜けたでございましょうよ」
そこは、和泉屋の前であった。
多勢で大戸をおろす音が、戦争か何ぞのようにあわただしく聞こえていた。と思うと、一時に恐ろしい叫喚が生まれて、あっというまに、非常な力で、群衆が和泉屋へ殺到しだしたのだ。
それに押されて、お高は、骨が折れるかと思ったとき、つれのふたりが、人ごみに呑まれ去っているのを知った。
群集
一
それは、海の
「この金剛寺門前町を他町の者に荒らされて、黙っちゃいられねえ」
「昔からのおれたちの商売をどうしてくれるんだ」
「卸し同様の相場はずれの値で張り合って、この辺一帯の小あきんどの口をほそうてんだ。和泉屋は人殺しだ」
「そうだ。和泉屋は人殺しだ」
「やい、人殺し」
「和泉屋をたたきつぶせ」
「門前町から追ん出せ」
「
「店のやつらは
そこここにもみあいがはじまった。群集の一部は、素っ裸にねじり
お高は、夏の宵の蚊柱がくずれるように、ぶうんと音を発して飛びかわす
叫び声は、いっそう高くなった。顔いっぱいに口がひろがっている化け物のような人の顔が、お高の視野をうずめていた。お高は、やっとのことで、和泉屋の隣の
「まあまあ、若松屋のお高さま、どうも大変なことになりましてございますねえ」おかみさんはおどおどして、声がふるえていた。「飛ばっちりをくってはたまりませんから、なかへおはいりなさいましよ。もうすこし
おかみさんが夢中でぐんぐん引っぱるようにするので、お高はよっぽど、しばらくこの糸屋の店に避けていようかと思ったが、もしこの騒ぎから火事にでもなったときのことを思うと、一刻も早く金剛寺坂の家へ帰っていたかった。お高が、そういって辞退しているとき、めりめりと板の割れる音がして、はじけるような喚声が揚がった。
「やった、やった」
「戸をこわしたぞ」
「続いて押しこむんだ」
「和泉屋のやつは
糸屋のおかみさんは、おおこわいといって、お高を離れて店の奥へもぐりこんで行った。和泉屋では、いま飛びこんだ人たちが戸障子を蹴倒したり、商品をこわしたりする音が、ものすごく聞こえていた。
あとからあとからと押しかける群集で、暗くなりかけた路上は、身動きもならない。
どさっと濁った音をたてて、棒が人の頭上に落ちたり、うす
とめに出ていた金剛寺の学僧たちや、町内の世話役なども、手の下しようがなくて、怪我をしない用心をしながらただ見物していた。月番家主らしい羽織を着た老人が、縦横に人をわけて走りながら声をからしてどなっていた。
「火の用心だけあ頼むぜ。いいか。火の用心を忘れめえぞ」
誰も、耳をかすものはなかった。
二
混乱の上に、夕風が立った。暴動――それはもう暴動といってよかった――は、拡大する一方である。この、戦争のような地上に引きかえて、空は、残映から夜へ移ろうとして、濃紺と
薄暮が落ちてくるにつれて、お高は、だんだん恐怖を感じ出した。この騒ぎがいつまでもつづくようだったら、じぶんは一晩じゅう家へ帰れないで、ここに立ちつくさなければならないのだろうか。その不安だ。お高は、蒼い空気の中で、土を蹴って
すると、一時にあちこちにわめき声が起こった。いつのまにか一人の男が、和泉屋の屋根をはっているのだ。その男は、夜盗のような身軽さで、山形になっているてっぺんへ上って行った。群集は、はじめ仲間のひとりであろうと思って、下から歓喜の声を吹き揚げて声援した。男は、腰から、何か道具のような物を抜きとって、瓦をはがし出したので、群集はいっそうよろこんだ。
ところが、そうして
それは、眼まぐるしい速力で矢つぎばやに飛んでくるのだ。しかも、往来の、各ちがった方面へ落ちてくるので、群集は、本能的にあたまをかかえて散り出したものの、全く逃げ場がないのだ。見るまに、そこここに瓦に打たれて倒れたり、うずくまる者が出てきた。
地におちた瓦は、
それは、津浪がくずれかかるような、力強いひしめきであった。あとの路上は、瓦を脳天にくらった者の即死体や、肩を割られてうずくまった者のうめきや、それらの者をかかえて走ろうとする肉親の人や、逃げ遅れてうろうろする者の姿のほか、
お高は、火に油をそそいだように激昂の度を増した群集に、糸屋の軒下へ押しつけられて、呼吸が苦しくなった。胸わるさがこみあげてきて、眼まいを感じ出した。が、いまは誰も、ひとりの女なぞに構っている者はなかった。ののしりさわぐ声が、群集ぜんたいにどよめいていた。
「ふてえ野郎だ。誰だ」
「和泉屋の用心棒に相違ねえ」
「おれは初め、町内の者かと思った」
「おれもそう思った。屋根を登る恰好が似ていたから、火消しの
「そうよ。鉄っぺにそっくりだったなあ」
「何せ、この仕返しをせにゃならねえ」
「引きずりおろして、なぐり殺そうじゃねえか」
「おい、誰か上がれ、上がれ」
お高は、そういう話し声が、だんだん遠のいてゆくような気がした。ほの白い、幕のようなものにへだてられて、すべてが、夢の中へとけこんでゆく感じだ。無意識に、となりの人の腕をつかんでいた。
腕をつかまれた隣の人は、お高を見かえった。その人は、白い顔をした、二十五、六の武士であった。裕福とみえて、せいの高いからだを、凝った
「お女中、御同様とんだ難儀だの」
と、いった。そして、向こう側の、供らしい
まだ少年々々している武士の顔が、またお高のほうを向いた。
「手を放すには及ばぬ。しっかりつかまっているがよい。総じて、かような場合には、人の力にさかろうてはなりませぬ。流れに乗った気で、水のごとく、人の押すほうへ押されてゆくのだ」
あはははと笑った。お高は、気やすなお武家だとは思ったが、それかといって、さようでございますかと甘えて、また手を出して腕へつかまることはできなかった。はい、とこたえたつもりだったが、答えたのか答えなかったのか、自分でもわからなかった。彼女は、そこに人にはさまれて立ったまま、気をうしないかけていた。ただ、一空さまと、あの洗耳房の小母さんはどうしたであろうと、瞬間考えた。
三
ぞくっと、寒さが走って、気がついた。屋根からはまだ瓦が降りつづけていた。お高の周囲の人々も、大声にさわぐだけで、誰も、屋根へ上がって行こうとする者は、ないようすだった。
「これはいかん。これでは、いつまでたっても屋敷へ帰れぬ。夜が明けてしまう。まず、あの屋根の上の男を何とかせねば――」
というのが、お高に聞こえた。となりの、色の白い武士の声だった。彼は、そういって、なにか思案しているふうだったが、何事か思いついたとみえて、面白そうに笑って、仲間へささやいた。仲間は、びっくりして、あわてた大声を出した。
「いけません。殿様、そんなことをなすってはいけません」
「なあに。お前は、ここに待っておれ。すぐ帰る」
侍は、さらりと羽織をぬいで、面くらっている仲間の手へ押しつけて
ことばが、群集の上を、伝わってきた。
「おい、あの野郎は、
「なに、鷹匠町の勘か。道理でやりやがると思った」
「勘の畜生か。ちっ、ますます生かしちゃおけねえ」
お高は、そういう荒あらしいことばを聞きながら、思った。鷹匠町というのは、これからうぐいす
小石川はいったい寺や武家やしきが
また、
こういうふうに、縁日や祭礼もないことはない。町内で催し物があり、
この、金剛寺門前町と鷹匠町がそれで、昔から、
鷹匠町の者で、門前町へ来てなぐられずに帰ったものはない。こっちでも、誰か何か用があって鷹匠町へ行くときには、喧嘩支度で隊を組んで出かける。なかには、水さかずきをして行く。それほどでもないが、とにかくにらみ合って来た。
その敵方の鷹匠町に、ひとりとほうもなく勇敢なのがいて、これにだけは、門前町のあぶれ者も手を焼いていた。それが、湯屋の三助をしている勘であった。その勘が、いま和泉屋の屋根から瓦をほうっているというのだ。
瓦は、続々投げられている。すきをねらって、通りへ駈け出そうとするものも、ためらっているのだ。お高は、勘はきっと、和泉屋に頼まれたわけではないのであろう。こっそり群集にまぎれこんでいたのが、いつもの意趣晴らしに、和泉屋の屋根へあがって、ああいうことをしているに相違ない。
それにしても、この騒動とは何の関係もない他町の者が、ひどいことをすると、お高は思った。そして、こうして死人が出るほどの挑戦をされた以上、門前町の人も、黙ってはいまい。勘がただで済まないのはもちろん、ことによると、大挙して鷹匠町へ押し寄せるようなことになるかもしれない。
金剛寺のほとりに住むもののひとりとして、お高がひそかに義憤を発しながら、一方、いつ若松屋へ帰れることであろうと、いよいよ不安の念をふかめていると、群集の中から、すさまじい歓声が生まれた。
四
屋上に仁王立ちになって、まだ瓦を投げおろしていた勘が、ふいと足でもすべらしたものか、その瓦の一つのように、ずずずと屋根をなでて、地ひびきをたてて往来の真ん中へ落ちてきたのだ。そのまま起きあがらないから、腰でも抜かしたのだろうと人々が走り寄ってみると、みなびっくりしてしまった。勘は、右の肩から胸まで一
それにしても、いつ誰がどこから上がって行って斬ったのかだれにもわからなかった。一同はわいわい立ち騒いで和泉屋のことよりも、勘の一件が、問題の中心になってしまった。
さっきの若い武士は、いつのまにかお高のとなりへ帰って来ていた。不愉快そうな、むずかしい顔になっているのが、糸屋のもれ灯で見えた。黙って羽織の袖をとおして、仲間のそろえた履物を突っかけると、群集が、
侍が立ち去って行ったので、自分も行けるかもしれないと思って、お高は、歩き出した。
が、ぎょっとして足をとめた。また、通りの向こうに人々の叫び声が沸き立ったのだ。それにまじって、くつわの音がする。馬のいななきが聞こえる。ふりむいて見ると、山のような黒い物が、かぶさるように突進してくる。馬だ。十人ほどの役人が、騒ぎを聞いて馬で駈けつけて来たのだ。手っとり早くしずめるために、
ひずめにかけられてはたまらない。人は、算を乱して右往左往する、お高も、走った。が馬は早い。すぐうしろに、馬の鼻息を感じたとき、彼女は、じぶんとならんで逃げている一人の女の児に気がついた。とっさではあったが、何だか、きょう洗耳房で見たことのある児のような気がした。その児は、つとお高を離れて、路地へでも駈けこむつもりだったらしい。
お高の見たものは、馬の下になって
お高は、水のにおいをかいだ。
誰かが抱きかかえて、誰かが、彼女の口へ水を注いでいるのだ。
「ありがとうございました。ほんとに、もうようございます」
そういうと、不思議に、ほんとに何ともないような気がして、お高はたち上がろうとした。すこし、足がふらふらした。
ぼろぼろに着物をやぶいて、奮闘の
「おい、この
お高を指さして、立ちどまった。滝蔵が、お高に肩を貸そうとしていた。
「あぶねえところだったのです。わっちがお
「
「えらかったな、お高さん」
一空さまは、お高を誇って、ほそい眼をかがやかしているのだ。お高は、この坊さまは、世の中にたった一人のじぶんの親身なのだと思い出して、できることなら、いきなり取りすがって泣き出したかった。
金剛寺門前町には、まだ人出が引いていなかった。が、それは、一段落ついたあとのしずかさに、あった。近所の人々が、騒ぎのあとを見て歩いたり、いつまでも立ち話をつづけていたりして、なかなか家へはいらないのだった。
和泉屋の前は、引き出された商品のこわれが、こなごなに踏みつぶされて、足のやり場もないほど散らばっていた。おもての雨戸はすっかり破られて、
お高は、滝蔵に助けられて、そこを歩いて行った。一空さまは、門前町の端まで送って来て、そこで別れて、洗耳房へ帰って行った。白い月光の中に、通行人をあらためる町役人の
五
どこも、怪我をしてはいなかった。が、興奮のあとの疲労が、お高を病気のようにした。若松屋惣七がいろいろ心配をして、お高は、居間に床をとって寝かされていた。若松屋惣七は、じぶんで看病もした。
一空さまは、お高の英雄的行動をすっかり聞かされて来て、はいってくるなり、お高をほめちぎった。お高は、そのことをいわれるのが、くすぐったかった。話題をかえて、ゆうべはぐれてからの、一空さまのことをきいてみた。
「まあ、離れて見物しておった。面白かった」
一空さまは、そう冷々淡々と答えて笑った。が、すぐ真顔にかえって、つづけた。
「そんなことより、きょうはちと話したいことがあって来たのじゃ」
お高の熱心な視線が、一空さまの顔に凝った。お高は、一空さまはきっとまた母のおゆうのことを話しに来たのであろうと思った。
お高は、父の相良寛十郎が少しも母のことを話さなかったのみか、お高のほうからきいても、いつも避けるようにするのが、父の生きているころから、不服でもあり、不思議であった。今でも、そう感じていた。生母のことを詳しく知らないのが、情けなかった。誰かと、しみじみ母のことを話し合いたかった、だから、よく母を
ことに磯五といっしょになってからは、まもなくその磯五とこうして別居したり、あちこち奉公した末この若松屋へ来て、近ごろは、またその磯五があらわれてあんな事件がつづいたりして、昔はよく顔を知らない母を想って泣いたものだったが、ここしばらく、忘れるともなく、忘れていたのだ。
そこへ突然、母の遠縁に当たって、いろんな事情を知っているらしい、一空さまという人が現われたのだ。母の人間と、その生活と死とは、すべてこの人が話してくれるであろう。一空さまは、自分の知らない母の顔を見、声を聞き、手に触れ、そして母を恋した人なのだ。何と、信じられないほど不思議なことであろうと、お高は思った。
が、一空さまの用というのは、単純なことではなさそうである。やっと切り出した。
「うむ。おゆうさんのことじゃが、あんたにも、いや、柘植という
お高には、意味がはっきりしなかった。
「和泉屋と申しますと、ゆうべの騒ぎを起こした、あの和泉屋でございますか」
「さよう。あの和泉屋じゃが、あの和泉屋とは限らぬ。江戸の和泉屋である。いま、人に調べさせたのじゃが、江戸中に、和泉屋は十七軒ある。みな日常の雑貨をひさぐ万屋で、知らん者が多いようだが、ことごとく一つの店なのだ。つまり、和泉屋という看板をあげた家は、すべて一つ店で、分店が江戸中に散らばっておる。門前町に新規にあけて憎まれたのも、そのひとつじゃが、何とも盛んなものだな」
「けれど、その和泉屋が、母とどういうつながりがあるのでございましょう」
「どういうつながりもこういうつながりも、和泉屋は、おゆうさんのものだったのだ。おゆうさんのものだから、したがって、今はあんたのものじゃ」
お高は、いまに一空さまが、冗談だといって笑い出すであろう、そうしたら、いっしょに笑いましょうと思って、一空さまの笑い出すのを待った。が、いつまで待っても一空さまが笑い出さないので、お高は、ひとりで笑い出した。
「何のことでございますか、わたくしには、わかりませんでございますよ。十七軒のお店が、そっくりわたしのものでしたら、わたしは、江戸で名代の金持ちのはずでございますねえ」
一空さまは、にこりともしないのだ。
「そうじゃ、あんたは、江戸で名代の金もちなのだが、じぶんでそれを知らんようだから、わしは、しらせに来たのじゃよ」
「さようでございますか」お高は、どこまでも相手になろうとはしなかった。
「それはどうも、御親切にありがとうございます」
「わしのいうことを、信じなさい。いくらわしが酔狂だからというて、
お高は、眼をぱちくりして黙りこんだ。
一空さまの話では、父の相良寛十郎も、その、おゆうの和泉屋経営に一部の仕事を受け持ったというのだ。ところが、お高の知っている限りでは、父は商法などからはおよそ遠い人物で、そんなことがあったとは、どうしても考えられなかった。
無言でいると、なおも一空さまがいうには、和泉屋は、おゆうの財産のほんの一部分で、ほかにも、家作や地所などふんだんに持っていたというのだ。こうなると、まことにおゆうは江戸有数の富豪だったといえる。お高は、そのおゆうの娘なのだ。お高は、夢の中で夢をみているような、奇異な気もちになっていった。
六
お高の母の父は、
ところが、一空さまの語るところによると、この宗庵先生はただの町医ではなく、長崎で
こうして、あぶない橋を渡って大利を獲たばかりでなく、宗庵は、性来理財のみちに長じていた。江戸で、和泉屋をはじめ、その他種々の商売の黒幕となっていずれも利に利を重ね、隠然一つの黄金王国を形づくるにいたった。が、表面へ出ることを好まず、どこまでも蔭にあって金をうごかすだけだったから、江戸の商法の裏面に通じないものにとっては、宗庵は、やはり一介の町医宗庵でしかなかった。
つまり彼は、いまのことばでいう二重生活を送っていたのだ。巨富を擁しながら、眼立たぬよう眼立たぬようにと、まずしい医者にふさわしい暮らしをした。彼の住まいや日常など、じつに質素なものだった。ある人にとっては、
一空さまは、この柘植宗庵の
おゆうは、お高の母であることからも容易に想像できるように、美しい女であった。このおゆうが、若い日の一空さまにとって、彼の生涯にただひとつの恋の相手だったのだ。二人は、ひそかにいいかわしただけで、宗庵の許しを得ないうちに、宗庵が死んでしまった。
おゆうは、宗庵の築いた隠れたる黄金郷の
おゆうの財産は、あくまで秘密になっていたので、寛十郎も、金が眼当てで入りこんだものとは思われない。が、すぐ妻の莫大な資財に気のついた彼は、金が眼当てでおゆうに取り入ったのと同じ結果になった。一空さまにいわせれば、はじめから面白くない人物だったのだ。それが、未経験なおゆうの眼には、神様か仏さまのようにうつったというのだ。
お高は、じぶんが親しく見送った父のことを悪くいわれて、いい気もちはしなかったが、一空さまのこころもちも察して、黙っていた。黙っていると、一空さまはつづけて、寛十郎は完全におゆうを失望させたと話し出した。
「それはそれは、湯水のように金をつかったものじゃったよ。わしは、そのときはもう出家しておったが、そばで見てもはらはらさせられた。もっとも、いかに
二十年前の記憶がすっかり一空さまをとらえているのだ。お高は、知らなかった父母の生活を、眼のまえにくりひろげられて、知らなかったほうがよかったような気がした。両手で顔をおおって、それでも、全身を耳にして、一空さまの言をとらえようとしていた。
「一度などは、大金というべき額の金をさらって、姿をくらましたことがあった」
「あの、父が、でございますか」
お高は、金を持って逃げたと聞いて、すぐ磯五のことを思い出した。むかし母があったと同じ眼に、じぶんもあったのだ。
「さよう」一空さまが、答えていた。「金を持ち逃げして、
一空さまは、思い出したように
九老僧
一
そのころから、一空さまは諸国の禅林をまわって、相良寛十郎はもとより、おゆうとも音信不通であったというのだ。おゆうの死んだことは聞いたが、それ以後いっそう、寛十郎に対する一空さまの関心は消えて、ふたりのあいだにお高の高音というものが残されたことまで、今まで知らなかったというのだ。
が、あの莫大なおゆうの財産は、一空さまもときどき思い出して、どうなったであろうと思っていた。しかし、和泉屋がその一部であるという事実は、忘れるともなく忘れていたのだ。それがいま、金剛寺門前町に起こったあの現実の事件として、また、こうしておゆうの娘であるお高を発見したことによって、一空さまは、
黒い沈黙だ。やがて、一空さまがいった。
「あんたに伝わっておらんとすると、柘植宗庵のつくった大身代は、いったいどこへ行ったのじゃ」
「おおかたつかい果たしたのでございましょうよ」お高は、うつろな声だ。「誰かがねえ」
「そんなことはあり得ぬ。あれだけの身代がつぶれたとすれば、人のうわさにも上ったはずじゃ。ついぞ聞かぬ。また二人や三人がいかに馬鹿金をつこうたところで、そんなことでびくともする身代ではないのだ」
「さようでございますかねえ。そういたしますと、ほんとに妙なことでございますねえ」
「あんたの知らん兄弟でもあって、そっちに遺っておるのではないかな」
「でも、男の兄弟があるなどということは、聞いたこともありませんでございます」
「しかし、何かの理由で、あんたがものごころつかんうちからほかで育てたと考えれば、あんたの知らんのもむりはないということになる」
「それはそうでございますけれど、でも、父は一度も、そういうことを申したこともございませんし、
急に、一空さまの眼が、光ってきたように見えた。彼は、
「
お高が、思いだし思いだし、父相良寛十郎のおもかげを述べはじめた。
いったいに小づくりで、せいも低く、やせていた。貧相な
「どうも不思議じゃ。それでわかった」一空さまは、下くちびるをかみながら、いうのだ。
「何とも奇妙なことである。大いに
わしの識っとる寛十郎は、世にも美しい男であった。
反射的に、またもやお高は、磯五を思い出してぞっとしている――その相良寛十郎とあの磯屋五兵衛、同じような男が、今と昔にわたって、母とじぶんを苦しめている。
一空さまの声をぼんやり聞いていた。
「うむ。この話は、どこぞに大きな間違いがひそんでおるに相違ない。とにかく、同じ相良寛十郎でも、さっきからわしが話しておるのは、あんたが父と呼んでおる人物ではない。それだけはわかったが、ともにおゆうさんの良人で、同名異人とも思われず、はて――」
一空さまは、そこに解答があらわれているかのように、まじまじとお高の顔を見て、黙りこんだ。お高もそういう一空さまの顔から何かを得ようとするように、視線いっぱいに相手をみつめているのだ。
二
若松屋惣七と歌子と紙魚亭主人と大久保の奥様は、片瀬の龍口寺へお詣りに行く行くといって、まだ同勢がそろわないでそのままになっていた。お高は、からだの調子が、そういう二、三日がけの旅を許さないので、行かないことにした。
しかし、若葉の風が
佐吉はさしつかえがあったので、こんどは国平をつれて行くことにした。一空さまはその後たびたび話しに来て、この鬼子母神参りのことが出たら、それは気が晴れてよいからぜひ行くようにといった。そして、近くの
相良寛十郎と母のおゆうとおゆうの財産の行方については、二人とも、もうあまり話をしないようにしていた。いくら話し合っても、わかることではないからだった。ただ、お高が父として知っている相良寛十郎と、一空さまがおゆうの良人として識っている相良寛十郎とは、同じ名前であっても、全然別人であることだけは確かだった。それは、
一空さまは、一空さまで、考えがあるらしかった。お高には、互いに知らない兄弟があるに相違ない。それを探し出そうというのが、一空さまの
一空さま、手近なところで、和泉屋の内幕から調べていこうと考えていた。ほかにも手がかりの心当たりがないでもなかった。むかしの愛人の娘ではあり、ことに血がつながっているので、一空さまは、そうやっていろいろ努力することを、お高に対する義務であると考えていた。一空さまじしん興味のある探査でもあった。
二十七日は水いろにかわいたのであった。それでも、空には、春らしい濁りがあって、どうかすると、濡れた微風が街道を吹いてきて、お高の襟足をくすぐるのだ。
お高は、国平とならんで、
そう思って、こころをまぎらすためにとんきょうな国平が何か面白いことをいうたびに、飛び出すような笑いを笑って、ぶらぶら歩いた。
ここに納めてある尊像の出たところは、いま通り過ぎて来た
お高は、赤児と乳のことを思って、それを専念にお願い申してから、
一空さまがつけ手紙をくれた庄之助さんをたずねて水でも飲ましてもらおうと思ってだった。
三
庄之助さんは、元気な
お高は爐ばたにすわって、庄之助さんの入れてくれる渋茶を飲んだし、国平は、黒光りのする広い台所で、飯
まわりの田畑があまりきれいなので、お高が、そのことをいうと、庄之助さんは得意げに笑うのだ。
「地主さんがわかった人ですから、わたしどもも大助かりなのです。江戸の後家さまでおせい様というのです」
お高は、過去が一時に頭の上に落ちてきたように感じて、ぎょっとした。
「江戸のおせい様といって、それは雑賀屋のおせい様でございますか」
わかりきったことをきいた。庄之助さんがうなずくとお高は、暗い心になった。識っているのかときいた庄之助さんには、ただ聞いたことのある名だとだけ答えて、お高は、いそがしく考えていた。庄之助さんは、その、お高の変化には気がつかずに、手を伸ばして、裏手の田んぼの中に木に囲まれて建っている上品な構えの家を指さした。
「あれがおせい様の出寮でございますよ。おせい様はときどきおみえになりますです。今も、保養かたがた来ておいでですよ」
お高は、きょうのせっかくの行楽と、このいい景色にしみがついたように思われて、情けない気がした。おせい様がここの寮に来ているなら、磯五も来ているであろうと思った。そして、遠くないところに磯五がいると思うと、お高は、胸がわるくなるように感じて、すぐに国平を促して帰りたかった。
が、そうもいかなかった。お高は、国平が眠っているあいだ、そこらを歩いてくることにしてその庄之助さんの家を出た。人と話しながら、あたまの中でほかのことを考えるよりも、お高は
お高は畑の
お高は、引っ返したかったけれど、引っ返すよりは先へ行ったほうが早く街道筋へ出られるであろうと思って、そのまま進んで行った。お高は、
小川へ出た。冷たそうな水が、ゆるく流れているのだ。向こう側は、いっそうたけの高い藪原になって、驚くほど大きな
それは、立ち木の
橋のむこう岸に人影がさしたので、お高は、はっとした。あぶな絵のようなありさまの自分だから、それが男でなくて女であってくれればいいと思ったが、男であった。磯五であった。磯五は、そこの橋の上に立ち往生をして下から吹き上げる風のために面白いけしきになっている女を、お高とは知らずにゆっくりと見物しはじめたが、やがて気がついて驚いた声を放った。
「高音じゃアないか。何をそこで珍妙な芸当をしているのだ」
四
お高のことをもとの名の高音と呼ぶのは、磯五だけであった。お高は、磯五にあったのはいやであったが、いやでも、助けてもらわなければならなかった。磯五は、笑いながら向こう側から渡って来て、すぐお高の手を引いて助け帰った。
磯五は、商売物の洒落た衣類をつけて、いつもの
急に眼を上げて、お高は、磯五を見返した、にらむような眼であった。お高は、磯五にじろじろ見られるのが気になって、怒っているのだった。磯五は、そのお高の視線をしっかり受けとめて、例の、深いえくぼを見せて拝むような微笑になった。この微笑のためには死んでもいいと思った昔のじぶんを、お高は思い出していた。同時に、自分の
「こんなところで何をしているのだ」
磯五がきいた。
「何をしていてもいいじゃありませんか。鬼子母神さまへお詣りに来たのですよ。もう帰るのですよ」
そして、往来の見えるほうへ歩き出そうとした。
磯五は、声をたてて笑っていた。それは、忘れていたさわやかなひびきであった。不思議な魅力をもってお高の胸をついてくるものであった。ふとお高は、それにそそられているじぶんを意識した。こころに関係なく、肉体を走りすぎるおののきであった。忘れた磯五のにおいを、その笑い声がお高の中に呼び起こしたのだ。
お高は、蒼くなっている顔をふり向けた。吸われることを望んでいるように、くちびるがすこしひらいていた。
「おせい様はおめえが大好きなようだぜ」磯五が、いっていた。「遊びに寄りなよ。すぐそこの寮に来ているのだ」
「知っていますよ。知っていますけれど、顔出ししなければならないわけが、どこにあるのですか。あの、妹さんとかいう女ごろつきはどうしましたか。教えてくださいよ」
「お駒ちゃんか。お駒ちゃんは店の用で京へ行っているのだ。おれがつれて行って、おれだけ一足先に、五日前に
お高は、馬鹿ばかしいことをいうというように、黙って横を向いていた。何もいわずにいるときは、今でもどうかすると肉体的に
お高はいまもそれを感じて、さっきの一時の動揺からすっかりさめていた。そして、磯五がそれに気がつかなくてよかったと思った。磯五は、まだ同じことをいっていた。
「おしんはいま、おれんとこへお針頭に住み込んでいるのだ」
「そうですか。それは結構でございますねえ」
磯五はそれから、若松屋惣七のことをきいたり、おせい様のことを話したりしながら、お高といっしょに
「やはりおせい様からお金をしぼって、うまく立ちまわっておいでなのでしょうねえ」
お高が、いった。磯五は、ちょっとむっとしたふうだったが、すぐ
「そうよ。だが、ただ奪っているわけではねえのだ。ちゃんとお返しがしてあるのだ」
「お返しとはどういうお返しなんでしょう。いつからそんな
「なに、昔からだ」
それでお高に、磯五のいうお返しの意味がわかった。お高は、金が眼当てで後家さんをよろこばせている磯五によりも、そんなことを、かつてはいっしょにいたじぶんにしゃあしゃあとしていえる彼の恥知らず加減にあらためておどろきを大きくした。が、ざっくばらんにいえば、それは
「おせい様に話して、おめえのいるところへ迎えにやらせよう。九老僧の庄之助てえのはおせい様の小作だから、そこに休んでいるがいいのだ」
そこにいるとはいえないし、おせい様に会いたくないので、お高がおせい様に、知らせてくれるな、自分はいますぐ江戸へ帰るのだからと、頼むようにいっていると、磯五は、それを聞かずに、どんどん雑賀屋の寮のほうへ消えてしまっていた。
五
お高は、おせい様に見つかってはたまらないと思ったので、庄之助さんの家へ帰り次第、もう国平も起きたことであろうから、すぐ小石川へ
そこは、小川を離れて、両側は立ち木もなく陽の照りつけるところであった。
そう思ったとき、彼女は、まるで戸板か何ぞのように思い切りよく
長い道には、しばらく人影がなかった。やがて、向こうを突っ切っている
彼らは、お高を捜しに、ここまで出て来たところであった。磯五が、思いがけなくお高に会ったことを話すと、おせい様は、どうしてもお高を見つけて寮へ連れ帰ってもてなすのだといって、きかなかった。おせい様は、磯五の
それにしても、従妹と信じ切っていて、そのためこんなによくしてやろうとしているお高が、男の妻であると知れたなら、おせい様の怒りと悲しみはどんなであろうと、磯五は思った。それは決して、お駒ちゃんが妹でないことがばれたときぐらいではすまないのだ。またいいかげんなことをいってなだめすかすのに大骨を折らなければならないのだ。
おせい様とお高を会わせたくはないのだが、自分がお高を見かけたなぞとついいってしまったのだから、しかたがなかった。自分のいるところでなら、会わせても大したことはあるまいと思ったし、それに、あまりおせい様が熱心にいうので、二人で、まだお高がいるであろう方面へ、捜しに出たところだった。
おせい様と磯五が、お高のうえに屈みこんでみるとお高は死んだように白くぐったりとなっているので、おせい様は、あわてた声を出した。
「これはいけませんよ。くたびれているところへ陽に当たって、気が遠くなったのでございましょうが、ほんとに大変ですねえ。早くうちへかついで行って、お医者さまに来ていただきましょうよ」
「なに、そんなにしなくても、ちょっと頭でも冷やせばすぐよくなるのです」
磯五は、
「そんなことで直るものですか。この方はあなたのお従妹さんではありませんか。うちへおつれして介抱するのですよ」
そして、弱よわしいおせい様が、顔を真っ赤にして力んで、お高のからだを抱き起こそうとしているので、磯五も黙って見てはいられなかった。手を出さなければならなかった。
「いいのですよ、おせい様。わたしがかかえて行きますから。ほんとにおせい様は――」
磯五はそういいかけて、濡れた着物のようになっているお高を、
「親切なおせい様だ」
両足を引きずってずり落ちてゆくお高を揺すり上げながら、磯五は、雑賀屋の寮のほうへ歩いて行った。おせい様が手を貸して、お高の腋の下を持ち上げていた。
これでお高は、この雑司ヶ谷のおせい様の寮に当分世話になることであろうと磯五は思ったが、それは彼にとって、この上もなく迷惑なことであった。磯五は、この二人の女がいっしょにいるところを見るのが、不愉快であった。じぶんの
ひとつ、どうしても必要なことがあった。それは、お高がそこにいるあいだ、じぶんも予定を変更して寮に残っていなければならない――磯五は、そう思った。磯五は、その、死人のようになっているお高が、ほんとに死人であってくれればいいと思った。これは、磯五にも、はじめてきた考えであった。
彼は、その考えがあたまに上ると、びっくりとして蒼い顔になった。どこからか、生ぐさい血のにおいが漂ってくるような気がして、おせい様を見て、むりににっこりした。
一
一空さまは、鳥獣のような、自然に即した生活をしていた。それは、およそ贅沢から遠いものだった。壁とたたみと天井のほか何一つない洗耳房なのだ。金剛寺境内の樹木が、高塀のようにそれを囲んでる。
一空さまは、若松屋のお高が雑司ヶ谷の鬼子母神へお詣りに行った翌朝、房の縁に座を組んで、日光に顔を向けていた。いつでも、どこででも、独居していても人中でも、随意に
からりと晴れた日だ。土が光って、陽に夏のにおいがしてる。一空さまは眼をあげて、膝もとに置いてあった手紙を拾い上げた。一空さまの
一空さまは、金剛寺へ出入りする
出かけて行って、どう切り出したらいいか。一空さまは、それを考えていた。が、それはそのときのことにしようと決心して、はだしに高下駄を突っかけて金剛寺の
左側の大きな
一空さまは土間に立って、立ち働いている番頭手代を見まわした。そのうちのひとりに、ちょっと話したい用があるというと、それは
一空さまが、柘植の家がもとこの和泉屋の持ち主で、宗庵の死後、娘のおゆうが
おゆうの娘のお高というものが生きていて、貧しくしているので、お高のものであるべきおゆうの財産はいまどこへどう行っているのか、それを
すると、伊之吉が答えた。
それは簡単なはなしだった。
二
だいぶ昔のことで、伊之吉は人のうわさに聞いたに過ぎないのだけれど、おゆうは、良人の相良寛十郎と、ふたりのあいだの、生まれてまもない娘をつれて、上方のほうへ行っていて、そこで死んだというのだ。おゆうはなかなかのしっかり者であったが、寛十郎は、金をつかう以外に能のない、やくざな男であったらしいというのだ。
それは、一空さまの
なおよくきいてみると、伊之吉がいうには、おゆうが関西の土になってから、寛十郎も娘も完全に行方不明になって、それ以来、父と
「いや、まことに不思議な話じゃ」一空さまが、口をひらいた。
「わしが、おゆうさんの娘の高音という、いまはお高といっておるが、そのお高どのから聞いたところとは、かなり相違する点があります。が、しかし、それはそれとして、おゆうさんが死なれると同時に、柘植の者の姿が消えて、この和泉屋が、いつからともなく他人の手へ渡ったというだけのことならば、こんにちそのお高どのという、柘植家の立派な当主が現われた以上、この商売はやはり柘植の者として、お高どのの手へ帰すべきであると思われるが、いかがなものであろう。
円頂の身が、かような俗事に口を入るるは異なものじゃが、わしも柘植家の一人であり、おゆうさんとは、兄弟同然に親しくした間柄じゃから、柘植の家のために、またお高どののために、ここのところをはっきり聞きたいと思うのじゃが――」
伊之吉の返答は、いっそう意外なものであった。
それは、和泉屋は、この十年間ほどに躍進的に発展して、もとおゆうのもっていた和泉屋よりも、倍にも盛んなものになっている。したがって、いまおゆうの娘が現われたところで、現在の和泉屋全体がその手に返るということはないけれど、以前の和泉屋だけの株と、それから上がるもうけだけは、誰が何といおうと、当然そのお高という女のものでなければならない。実際また、いまこの和泉屋の総元締めをしている人が、珍しく堅い男で、柘植の
律儀な、筋の通った話である。
伊之吉は、語をつないで、
「良人の相良寛十郎さまも、おゆう様の財産からいくらかわけてもらったという評判でございました。
ほかの、おゆう様が初代の宗庵先生から受け継いだ柘植家のものは、そっくりその娘のお高さまへ
木場の甚というのは、お高の話にも出た、古石場の家で相良寛十郎が死んだときに、そのあと始末を引き受けて、いっさいがっさいやってくれたという人であった。この、お高が父と思いこんでいる、古石場で死んだ相良寛十郎なる人物が、ほんとのおゆうの良人の相良寛十郎であったかどうか――そこらのところも、その木場の甚にただせばわかるかもしれない。
とにかく、大変な金がお高を探して待っていて、それがいま、お高の手へころげ込もうとしている。金に興味のない一空さまだが、そう思うと、お高のために勇躍したこころになった。厚く伊之吉に礼を述べて、その不動新道の店を出た。
三
一空さまは、前置きとして、和泉屋の伊之吉に話したことをもう一度くり返したのち、自分がそのおゆうの娘のお高を発見したというと、木場の甚は、にやりと笑って、いった。
「いままで何人となく、柘植のおゆうさんの娘をみつけたといって人が来ましたが、みんな
そして、およしなさいましといわんばかりに、疑い深そうに一空さまを見た。一空さまは、むっとする感情を忘れている人なので、平気でつづけた。
一空さまが、その娘というのは、もとここの古石場に住んでいて、死んだとき、すべてお前さまの厄介になった、相良寛十郎の娘で高音というのだから、お前さまがほんとに以前からおゆうさんの娘を探していたのならば、とうに気がついて、預かっている柘植の財産を渡しているはずだというと、木場の甚は、しばらく考えていたが、やっと思い出して、
「ああ、そういえば、そういうこともございましたよ。
わたしは、宗庵先生とは御別懇に願い、また、おゆうさまからも財産の締めくくりを頼まれていたので、おゆうさまが
その方の名が相良寛十郎てえのですから、てっきり、おゆうさんの死後姿をくらましている良人の相良寛十郎さんに相違ねえ。ことに娘をひとりつれているという以上、もうそれに決まったと勢いこんで、わたしは自分で出かけて行って、その相良寛十郎てえ人の死顔をあらためたのです。
すると、名が同じなだけで、似ても似つかねえ別人でした。父がちがう以上、その娘という女も、おゆうさんの娘であるわけはねえから、わたしは、ちょっと娘にくやみを述べただけで、あとのことはすっかり
ああ、あの娘のこってすかい。あの娘のことなら覚えていますよ。なるほど、おやじが相良寛十郎という人だったから、柘植のおゆう様の娘御と思いなすったのもむりはねえが、あれは、縁もゆかりもねえ、全くの他人でございます。わっしどもの探している相良寛十郎さまなら、おゆう様のところでもよく会って、私もお顔を識っているのです。見間違うわけはねえのです。
娘さんは、
これで、お高が父として死に水まで取った相良寛十郎が、ほんとのおゆうの良人の相良寛十郎でないことだけは、一空さまの思ったとおり、ますます事実に相違なかったが、この木場の甚は、そのために、そうして、
世の中というものはこうして、ちょっとのことで、こうもくいちがうものであろうかと、一空さまは、実に不思議な
四
そのとき、木場の甚が、お高の姓が柘植であることを知りさえすれば、何の問題もなく、おゆうの財産はそっくりとうにお高の手へ移っていたのだ。一空さまが、あらためてそのことをいうと、木場の甚は、急に真剣になって膝を進めた。それから一空さまが、お高がおゆうの娘に相違ないことをいろいろな方面から証明すると、木場の甚もだんだん乗り気になってきて、
「わたしはこの
一空さまは、このごまかしものの多い世の中に、木場の甚の正直さを尊いものに思って、あらためて老人を見た。木場の甚は、いっていた。
「お話によると、私も見たことのある、あの古石場にいなすった娘さんが、わっしがこの年月捜してきたおゆう様の一粒種らしいが、もしそうなら、その娘さんこそは、日本一の果報者でございます」
「まあ、一度会うてみなされ。おゆうさんを知っていなさるなら、疑うどころの話ではない。おゆうさんに生き写しというてもよいから――さっき、にせ物が、柘植の娘じゃと名乗って、だいぶあちこちから出て来たというようなおことばであったが――」
「ああ。あっしが柘植の財産を預かって、引き継ぎ人を探していると聞いて、あちこちからさまざまのことをいい立てて、おゆう様の娘になりすましたやつが出てまいりました。なに、あっしはこの眼で、立ちどころに見破ってきたのです」
「柘植の財産というのは、大きなもののように、和泉屋の番頭も申しておったようだが――」
「和泉屋は、そのなかのほんの一つでございます。ほかにも地所家作をはじめ、いろいろございますですよ。それはそれは、大変な財産でございます。そこで何にも知らずにいて、これだけのものをごっそり手に入れる娘さんは、いくらもともと母から譲られた自分のものとはいえ、たしかに日本一の果報者に相違ねえと、あっしは申すので」
なるほど、それに相違ないのだった。一空さまは、小石川の金剛寺坂に、若松屋の雇い人になっているお高の現在を思い出して、いったいどういうことばでこの吉報を伝えたものであろうかと、
ただ、相良寛十郎のことが、どう考えても腑に落ちないのが、二人は気になってならないのだ。
おゆうの良人としての相良寛十郎は、一空さまも木場の甚も識っているので、人相
何者が何のために換え玉になっていたのであろう。ほんとの相良寛十郎は、いったいどこへ行ったのであろうか。彼にも、おゆうの財産の中からわけられるべきものが、木場の甚の手もとに待っているのに、あれほど金ずきの男が、どうしてそれを受け取りに姿を現わさないのであろうか。これには何かふかい秘密がなければならない。
一空さまと木場の甚は、顔を見合わせて、とにかく、木場の甚がお高に会ってみることに、はなしが決まった。
お高は、雑司ヶ谷へ行ったきり、まだ帰って来ていないのだ。国平だけがぼんやり帰って来て、お高さまはどこへ行ったか、じぶんが庄之助さんのところで酔いつぶれて
一空さまは、それは何とかしてお高の手へ届くであろうと、何しろ、大急ぎのことなので、ただ簡単にいきさつをしたためて、即日飛脚に持たせて九老僧の庄之助さんの家へまで走らせてみた。お高に、すぐ帰って来て、ふか川の木場の甚に会うようにというのだ。
この
五
飛脚は、はじめ庄之助さんの家へ行くと、そこで、お高が急病になって、地主のおせい様の寮へ引き取られていると聞いたので、すぐその足で、裏手の田んぼごしに樹立ちに囲まれて見える、その雑賀屋の寮というのへ駈けつけた。
この、飛脚が駈けつけて来るところをみつけたのが門口に立っていた磯屋五兵衛であった。
磯五は、ひとりで門ぎわに立って、考えていたのだ。考えながら、門と玄関のあいだをいったり来たりしていたのだ。夕方近かった。お高は、奥の八畳の間に床を敷いて寝かされて、おせい様が看病をしていた。
磯五はあれこれと思案すればするほど、いらいらしてたまらないのだ。何とかして早くおせい様から引き離して、江戸へ帰すようにするか、さもなければ――と、ここまで突きつめてくると、彼は、ただ、ぴくっと影のようなものにおびえるだけで、そこから先は、どうにも思案が進まないのだ。
そこへ飛脚が、一空さまからお高へあてた書面を持って来たので、磯五は、じぶんがお高のところへ持って行くといって、受け取った。そして、飛脚には、いくらかの
磯五は、その手紙の両面を
磯五は、二、三度読み返した。が、何のことかわからなかった。
ただ、木場の甚というのは誰であろうと思って、急用とあるのは、金のことではあるまいかと、一流の直感で、しきりにそんな気がした。小判は磯五のたましいなので、金のためには、どんなにでも強くなれる磯五なのだ。
磯五はいま、何となくその金のにおいをかいだような気がして、粒のそろった白い歯で紅い下くちびるをかんで真剣な顔つきになった。そして、封書をもとどおりにして、家へ持ってはいって、出会った女中の一人にお高のところへ届けさせた。
それから、自分が寝起きしている客間の渡り廊下が
「磯屋さま、お
磯五は、むっくり起き上がって茶をすすりながら、
「久助どんかい。おめえの奉公ぶりには、おせい様も感心していなすったよ。久助どんは、今じゃあ一番のお気に入りなのだ。まあ、ますますためを思って勤めてもらいてえ」
久助は、主人でもない磯五にそんなことをいわれて煙たそうに敷居ぎわにうずくまった。もじもじしていたが、やがてきいた。
「お妹さんは、このごろいかがでございますか」
自分の娘が、磯五の妹ということになっているので、久助は、皮肉な眼をかがやかして、磯五を見た。磯五は、そんなことは知らないし、急に妹などといわれたので、瞬間誰のことであろうと、不思議そうに考えた。が、すぐ、それはお駒ちゃんであったと気がついて、
「おう、そういえば、拝領町屋で、おめえがはじめてうまいものを食わせてくれたときに、お駒も
「さようですかい。それは結構でございます」
久助は、こころから安心したように、そういって立って行った。そのうしろ姿を見送って、磯五は、何だか気の許せないおやじだと思って、近いうちに、おせい様を
六
が、久助がお駒ちゃんの父親であることは、磯五にすぐわかってしまったのだ。
妻となっている高音と、絞れるだけさんざん絞っている後家さんのおせい様とが、こうして一つ屋根の下にいて、だんだん親しくなりつつあることは、両方から両方へ好ましくないことが伝わりそうで、磯五は、いてもたってもいられない気がするのだ。
で、久助が立ち去って行ったあと、磯五がもう一度、手まくらで横になろうとすると、その膝の近くに一通の書面が落ちているのだ。これは、いま久助が落として、気がつかずに行ったものに相違ない。それが、庭からの微風に吹かれて磯五のほうへ寄ってきたのだろう。何の気なく取り上げた磯五は、それがお駒より父さまへとしたものだったので、びっくりしたのだ。
手紙には、お駒ちゃん一流のたどたどしい字で、次つぎに磯五を驚かせるに足ることが書かれてあった。あのお駒ちゃんは、この久助の娘だったのだ。
お駒ちゃんは磯五を想っているばかりでなく、磯五もお駒ちゃんに約束して、ふたりは夫婦になることになっているというのだ。磯五は、おせい様から金をとるために、じぶんを妹に仕立てておせい様をいいようにしているものの、もしおせい様と深くなるようなことがあったらおせい様の家にいて、磯五との関係をみている久助が、気をつけて、いちいちしらせてくれという文面だ。磯五がおせい様といっしょになるようなことがあれば、じぶんは死ぬよりほかはない。そうも書いてあった。
かと思うとそのあとへ、磯五には内証だが、
磯五は、意外な引っかかりにおどろいて、じぶんの身辺が音をたててくずれてゆくような気がした。深夜のように暗い顔になって、手紙をふところへ呑んだ。が久助は、手紙を落としたことに気がつくと、こっそりこの部屋へ探しに来るに相違ないのだ。そのとき、じぶんがすべて読んだことをさとらせてやろうと思って、磯五は、また手紙を取り出して、わざと広げたまま、その座敷へ置き放しにして廊下へ出た。
それは、お駒ちゃんが、拝領町屋のほうへよこしたものらしいのだ。使い屋が持って来たのだろう――磯五は、そう考えて、それにしても、お駒と久助が
「お従妹さんはぐっすり
おせい様は、急に心配そうにいったが、磯五は、ほかのことを考えてるのだ。
「おせい様、わたしは久助の
「まあ、藪から棒に。でも、よろしゅうございますとも、そうなれば、久助も大喜びでございましょうよ」
「まだ本人にきいてはみないのですが――」
「ほんとに、お店のほうへおつれなさいましよ。そして」おせい様は、赧くなって、ためらった。「わたしたちがいっしょになるようなことになったら、また二人で使いましょうよ」
磯五は、白い花が咲くようににっこりして、おせい様の手を取って膝のうえにもてあそんだ。
「わかりませんでしょうね、お内儀さんの行方は」
おせい様が、いっていた。
磯五は、ほっと
「生きているというので、いろいろ捜してはいるのですが、皆目知れぬのですよ」
「お内儀さんはなくなったといい、生きていらっしゃるといい、どっちも人のうわさなのでございますからそれを確かめませんと、わたしたちは、晴れていっしょにはなれませんよねえ。困りましたねえ」
「困りました。ほんとに、こんなに困ったことはございません」
磯五のことばに、おせい様が
七
すこしよくなるとすぐ、お高は、小石川へ帰って、一空さまといっしょに、深川かなめ橋のそばの木場の甚をたずねて行った。待っていた木場の甚は、お高にいろいろのことをたずねたのち、だいたいこれが柘植のおゆうさまのひとり娘に相違ないとはわかったが、大きな財産に関することなので、こんどは自分のほうで手をまわしてなおよく調べているからといって、一応お高を引きとらせた。
もう半ば以上、木場の甚が預かっていた柘植家の財産がすっかりお高へくることになったようなものだが、こうして急にとほうもない女分限者になることになったものの、お高のこころは、すこしもはずまなかった。よろこびのあまり、夢を見ているような心もちになりそうなものだが、そうではなかった。ただ馬鹿ばかしい気がしているだけだった。自分は、今さらお金持ちになぞなるよりも、このままでいいと思っていた。
が若松屋惣七のことを思うと、それだけの資財を擁して、彼とともに楽しみうる生活を考えて、お高も、こころがおどった。若松屋惣七には何もいわずに、十日ほど、金剛寺坂の家にぶらぶらしていた。
まだからだはほんとうでなかったし、若松屋の仕事は、引き続いて暇だった。それに、お高は、おせい様とすっかり仲よしになって、江戸へ帰るときも、もし都合がついたら、すぐにも雑司ヶ谷の寮のほうへ帰って行く約束がしてあった。むこうのほうが、からだにいいことも事実であった。
磯五が行っているのはいやではあったが、磯五が、じぶんの行くことを好んでいないのを知っているので、かえって、出かけて行って困らせてやろうという気もちも、お高には、強かった。
若松屋惣七に話すと、若松屋惣七は快く出してくれた。もう
またちょっと鬼子母神さまへお詣りして、庄之助さん方へも声をかけた。あのときはまだよく咲きそろっていなかった金雀枝が今度来てみるといっぱいに黄色い粒つぶのついた枝をたらして、まるで絵の具を点てんと落としたように、ほかのみどりのうえに浮き出ていた。
お高は、
おせい様は、いそいそと迎えてくれた。思ったとおり、磯五はまだ
「おことばに甘えてまた押しかけて参りましてございます」
お高がいうと、おせい様は、
「ほんとに、そうしてお気が向いたときに、いつでもおいでになるのがようございますよ。磯五さんのお従妹さんですもの。ここは御自分のおうちとおぼし召して、何の遠慮もいらないのですよ」
「江戸のごみごみしたところから来ますと、ほんとにせいせいいたしますこと」
「ほんとでございますよ。江戸は、どんなに閑静なところでも、どうしてもごみごみした気もちがしますからねえ。こんどは長く泊まっていらっしゃいましよ」
おせい様は、お高に庭を見せるために、立って行って、半分しまっていた障子を開けひろげて来た。座に帰りながら、いった。
「このあいだみていただいたお医者さまがおっしゃるには、あなたは、近ごろひどくお
「はい。そう申しますと、先日小石川の金剛寺門前町に、和泉屋というよろず屋のことで騒ぎがありましたときに、子供衆を助けようとして、何でございますか、お役人さまの馬に蹴られましたような気もいたしますけれど――」
「ああ、それではきっとそれでございますよ。いけませんでございますねえ。すっかり御自分や今までのことを、お忘れになるようなことにならなければよいが、と、お医者は、たいそう気をもんでおいででございましたが――ねえ、お高さま、若松屋さんのほうはお暇をお取りになって、ずっとこちらで御養生なさいましよ。わたしは、あなたのためなら、どんなことでもして――」
おせい様の純情に打たれて、お高は、死のような顔いろだ。くちびるをかんで、思わず、ほそくうめいていた。無意識のうちに、決然とした態度になっていた。彫り物のように硬直したお高だ。
「わたくしはもうあなた様をおたぶらかし申すことはできません。わたくしは、磯屋の家内でございます」
白い
一
お高が、自分は磯五の女房であるとおせい様に打ち明けると、おせい様は、初めはほんとにしなかった。おせい様は、すわったまま、がっくりくずれて、真っ赤な顔になった。それから其っ蒼な顔になった。お高は、今までおせい様をあざむいていたことを詫びたが、おせい様は、そんなことはどうでもいいのだった。すっかり打ちのめされて、
お高は、大阪の若竹の一件をも話してやった。するとおせい様は、磯五の側にまわって、何やかやと磯五のために弁解しようとするのだ。お高がいっそう口をきわめて、磯五がうそつきであること、女たらしであること、金のほかに生きる目的のない人間であることなどをいい立てると、おせい様は、洗われたように白い顔だ。なみだを浮かべていうのだ。
「わたくしは、みんなに
「善人はみんな蔭で人に嗤われるものでございますよ。それでよいのでございますよ」
そこへ縁に影がさして、人がはいって来た。それは磯五であった。磯五は、女中が金魚売りから金魚を買ったといって、それを見に来ないかとおせい様を呼びに来たのであった。おせい様は、びくっとおびえたように黙っていた。お高が、大きな声でいった。
「わたくしですよ。お高でございますよ。また参りました。いまおせい様に、お前さんがあたくしの良人になっているとお話ししたところですよ」
おせい様は、じっと磯五を見上げた。磯五は、ちらっと二人の女の顔を見くらべて、にッと笑った。そしてふたりのあいだに割りこむようにすわった。お高が、同じことばを繰り返すと、磯五は、声をたてて笑った。笑いの途中で、おせい様の声がした。
「笑うことはございませんよ。何かおっしゃることはないのでございますか」
「何もありません。このお高のいるところでは、なにをいうのもいやなのです。おせい様一人にゆっくりお話ししてえのですよ」
おせい様は、座をはずしてくれというようにお高を見たが、おせい様と磯五と相対ずくになれば、またおせい様が磯五の弁巧にだまされるにきまっているから、お高は、わざと知らぬ顔をして動かなかった。
そのうちにおせい様に問い詰められて、磯五は、
磯五のいうのは、夫婦であることはほんとうだけれど、夫婦であって、こうして夫婦でない生活をしているのは、すべてお高が悪いからで、だから、つまり夫婦ではないというようなことだった。この黒を白といいくるめようとするようないい草が、磯五の口から出てくると不思議に道筋立って聞こえて、どうかすると、お高が受け
あとで磯五は、舌に油をくれて一切の間違いをお高にかぶせようとしたが、おせい様は、もうすっかり眼がさめていた。磯屋につぎこんだ金はつぎこんだ金として、これできれいに別れようではないかといい出した。磯五はお高のほうが勝手なことをして逃げたのだといい張って、自分は、お高の生きていることを知らなかっただけだから、べつにおせい様をだましたわけではないと、美しい顔にあらん限りの魅力を見せてもう一度おせい様をごまかそうと努力した。
おせい様は、うっかりそれに釣り込まれて信じようとしたが、すぐに思い返して、
「とにかく、この
磯五は、にこにこしていた。
「そうですか。それで、お高はどうするのですか」
「お高さんはわたしのお友だちですもの、当分ここに遊んでいてもらうつもりですよ」
立ち上がりながら、磯五がいった。
「いや、何といっても、あれはわっしの家内ですからやはりいっしょになりましょう。それが一番いいのです。そうして今度は、仲よくやってゆきましょう。どう考えてもこれが穏当ですよ」
それは、おせい様にとって、このうえない残酷なことばであった。磯五は、そこをねらって射ったようなものであった。磯五は、おせい様が泣き出しそうな顔になるのをちょっと見て、にっこりして座敷を出て行った。
おせい様は、あんな男に、自分のすべてをやったのだと思って、ひとりで泣いた。しかしそれは、何だか
秋のつぎには、冬がくるのだ。そして、それでおしまいなのだ。おせい様の冬には、春が待っていないのだ。おせい様は、また肩をふるわせて泣いた。泣くために泣くような泣き方であった。自分でもそう思って、いっそう激しく泣いた。
二
あくる朝早く、磯五は江戸へ帰った。駕籠が動き出しても、おせい様もお高も顔を見せなかった。磯五はかえって気楽な気もちだった。気楽な気もちは、ほかにも二つあった。一つは、おせい様が、磯屋の商売へ融通した
磯五は、軽い心もちではあったが、しゃくにはさわっていた。おせい様をたぶらかしつづけて、もっと金を吐き出させることができたのに、途中から
磯五は、駕籠に揺られながら、若い
式部小路の店へ着いて、すぐお駒ちゃんを呼ぼうとしたが、お駒ちゃんは留守であった。先日からお針頭に住みこんでいるおしんが来て、
「それでは、いつぞやの染めのこともあるし、私は一両日中に発足して、ちょっと京表のほうへ行って来ようと思うが――」
いっているところへ、お駒ちゃんが帰って来たとみえて、店のほうできいきいいう声が聞こえた。果たしてお駒ちゃんであった。お駒ちゃんは、
磯五は、苦い顔になって、すぐいった。
「おめえに眼をかけてくださる
「大家なんかと町人みたいにいわれちゃお刀が泣くよ」お駒ちゃんは、威勢よく答えかけたが、気がついて、びっくりした。「おや、いやだねえお前さん、どうしてそんなことを知っているの?」
「どうして知っていようと、大きにお世話だ。何でも知っているのだ。そうか、さむれえか」
「さむれえもさむれえ、
「芸人みてえな名だな」
「芸人みたいな名でも芸人ではないのですよ」
「部屋住みか」
「部屋住みだっていいのですよ」
「いくら部屋住みでも、
お駒ちゃんはたちまち紙のように白くなったが、久助とじぶんとのつながりがすっかり知れているらしいのであきらめて、ただもし磯五がその梅舎錦之助に、お駒が料理番の娘であることをばらすなら、じぶんはおせい様のところへ走って、磯五が、妹でも何でもない自分を妹に仕立てて、おせい様をだましていたことを打ちあけるとおどかすと、磯五が平気で、おせい様とのあいだはもうこわれてしまっているから、そんなことはどうでもいいというので、お駒ちゃんは、泣き出した。
三
お駒ちゃんはうれし泣きに、
「お駒ちゃん、おめえはいってえ何をいっているのだ」
「まあ! この人は。あれほどはっきり何度も何度も約束したくせに。その約束で、こういうことになったんじゃないか。まさかお前さんは、今になって
お駒ちゃんは、とっさに悲しみに沈んでいた。その悲しみは、女として真剣なものだったので、お駒ちゃんは、急に崇高に見えてきた。磯五は、お駒ちゃんの蒼い顔と、おろおろと開かれた両眼に見入って、そこに避けられない近い将来の
「おめえに隠しておくのはよくねえ。すっぱりいってしまおう。おいらはおめえと
そして、女房があるのだと打ち明けると、お駒ちゃんはなかなか信じなかったが、だんだん
磯五は、それを慰めるように、梅舎錦之助を持ち出して、その人といっしょになったらいいじゃないかといったが、お駒ちゃんは承知しなかった。磯五は、さらに笑いたいのを押えて、お駒ちゃんの肩にやさしく手を置いた。
「おいらの妹になりすましていたから、その立派なお侍とも近づきになれたんじゃねえか」
「いやだよ。勝手なことをいうもんじゃあないよ。さんざん人を
磯五はやっとお駒ちゃんをしずめて、お駒ちゃんが久助の娘であって、したがって磯五の妹でないことは、当分隠しておいたほうが、お駒ちゃんのためにいいだろう。そんなことが知れては梅舎錦之助の手前も面白くないだろうから、まあいつまでもおれの妹になっているがいいと安心させるようにいったが、お駒ちゃんは、そんなことはもうどうでもよかった。きっとこの仕返しをするからと何度もひとり言をつづけていた。
が、そのうちにうまいように磯五に丸められて、無意識のうちに、お駒ちゃんの悲嘆と怒りがおいおい消えつつあるとき、小僧に案内されてお高がはいって来た。
磯五は、そのほうがかえっていいと思って、実はこの従妹といっていたのが家内なのだとお駒ちゃんにいった。お駒ちゃんはあきれ返って、かんかんに怒って、お高と磯五にくってかかろうとしたが、磯五になだめられて、しおしお自分の部屋へ帰って行った。
お高は、磯五が雑司ヶ谷の雑賀屋の寮を出るとすぐ、あとを追うように江戸に帰って来たものに相違なかった。小さな
「よく来たな。ずいぶんこっぴどくやっつけやがったぜ」
四
「お前さまはあのくらいいわなければ性根へ通じませんのですよ」
「御挨拶だな」
「きょう用があって来たのですよ」
「ずっと雑司ヶ谷にいるはずじゃあなかったのか」
「いるはずだって、用があれは出て参りますでございますよ。このことでお眼にかかりに来たのです」
お高は、手の、小さな風呂敷包みをあけた。それはおせい様が若松屋惣七から資本を取って磯五へまわしたときに、磯五が、おせい様がいらないというのに、堅いところをみせようために、むり押しつけに入れておいた借用
そのほか、磯五は、おせい様から大小何口となく
それをそっくりまとめてお高が持って来ているのだから、磯五は、これは何のことであろうと顔色が変わった。
「お前さまの証文をみんな持って来ましたよ。おせい様がわたくしにすっかりお
「それでわざわざ持って来てくれたのか。すまなかったな。なに、それには及ばねえのだよ。そんなもの、おせい様の気を悪くしてまで、おれから頼んで入れておいた証文なのだから、
「おや、そうですかねえ。でも、見たところ立派な証文でございますよねえ」
「よこせ。破いてしまうのだ」
「いけませんよ」お高は、ちょっと磯五から離れて、証文の束を両手で握りしめた。「おせい様が相手ではありませんよ。わたしが相手なのですよ」
「それはお高、いってえ何のことだ」
「おせい様に代わって、わたしが、あなたにこの証文の片をつけてもらうのですよ。どこへ出しても、誰に見せても、このとおりちゃんとした証文でございますからねえ。はっきりした話ではございませんか。これだけおせい様からお前さまへまわしてあるお金を、わたしに返していただきたいのですよ」
「だが、しかし、それは、おせい様は、きれいに忘れるといったのだぜ」
「おせい様は忘れても、わたしは忘れませんよ。わたしが忘れても、証文は忘れませんよ」
「どうしろというのだ」
「おせい様から出ているお金を、ここへならべて返してくださいよ」
「そんなことができるか。あの金をみんな返せば、磯屋の店は半つぶれだ」
「返せないというのでありますわねえ」
「当たり
「そんならお金を返さなくていいから、その代わり離縁状を書いてくださいよ。離縁状と引き換えに、この証文をそちらへ上げましょうよ」
「ふむ。おめえのねらって来たのは、はじめから金じゃあなくて、その
磯五が、眼にとろりとした力をこめて、お高の顔をのぞきこむと、お高は、くらくらとしてそれにひき寄せられそうに見えたが、はっと気がついたように
「さあ、書いてくださいよ」
磯五は、黙っていた。黙ったまま、そっと眼を動かして、お高の手もとの証文の束をうかがった。やにわに、む! と小さくうめいて、獣のようにとびかかった。
五
お高は、子供が引っくり返るように、思い切りよく引っくり返っていた。磯五は、からだいっぱいにお高を押し倒して、証文をつかんだ。が、磯五の目的は、証文ばかりでないようで、証文を握っても、お高のうえをどこうとしなかったから、お高は真剣に狼狽した。
「いけません! 声を立てますよ」
お高が大きな息を吸うと、磯五のにおいが鼻の奥までしみこんできて、お高は、ちょっとうっとりしそうになった。自分をしかって、どさどさもがいていると、磯五はあきらめて、たち上がった。着物を直しながら、すっぱそうな笑いを落とした。
「冗談だ――」
「冗談でも、いけませんよ」
お高も、そこここ乱れたところをつくろっていた。磯五をそんなに近く感じたことがきまりが悪くて、顔が上げられない気もちだった。その膝の上へ、磯五の手から証文の束が投げ返された。
「冗談だ。こんなものはいらねえや」
「いらなければなお縁切り状を書いてくださいよ」
「よし。書いてやろう。が、高音、いま一度、考え直してみねえか」
「考え直すことはありませんよ。お前さまはわたしにとって、死んだ人ですからねえ」
「ここでおれと別れてどうしようというのだ。あの盲野郎のところへでも納まる気かい」
「そんなことは大きにお世話さまですよ。わたしはきれいにお前さまの女房でなくなって、自分の思うとおり、自ままにやってみたいのですよ」
「それもよかろう」
「そんなら、書いてくれますねえ」
「書きせえすれあいいのだろう」
「そうですよ。書きさえすれば、この証文をすっかりあなたに破かせてあげますよ」
「なに、破こうと思えば、いまふんだくったときに破くことができたのだ。もう一度ふんだくって、破いてもいいのだ。破いてしまえあ、それまでじゃあねえか」
「それはそうですよ。ではなぜ取り上げて破かないのですか」
「そこが磯五様のお情けというものだ」
「また何か悪だくみがあるのでございましょう。構いませんから早く離縁状を書いて、証文を取っかえっこしましょうよ」
磯五はさらさらと一札したためて、名前のところへ印形を押した。そして、お高に渡すにつけて証人がいるといって、お駒ちゃんを呼びこんだ。
お駒ちゃんは、まだ泣いていたとみえて、眼を真っ赤にして、
離縁状と交換に磯五の手に証文の束が渡されると、磯五は、にやにやしながら、それを片ッ端から
お高は、突ったっていた。ふらふらと磯五のほうへ泳いで行った。磯五が、何だ? という顔を上げたとき、その頬へ、お高の第一の拳が飛んで行った。
「何をするのだ」
「何をするも、かにをするもありませんよ。いつか若松屋惣七さまがわたしの証文を破いたとき、お前さまは若松屋惣七さまをあんなにおぶちになったではありませんか」
「うむ、そうか。それでいまおれを
お高の白い握りこぶしが、弱々しい
「ちっとも痛くないぜ」と、いった。
やぶいた証文をほうり上げたので、小さな紙片が、吹雪ぢりに散った。
何か恐ろしくなったお高が、いそいで部屋を出ようとすると、黙って見ていたお駒ちゃんがすがりついて来た。お駒ちゃんは、磯五の
ふたりの女をそのままにして、磯五は、血相変えて式部小路の店を出ていった。出かけに磯五は、居間の欄間にかかっている額の
すっかり緑いろの顔色になった磯五が、小石川の金剛寺坂へ急いで、若松屋の屋敷のある坂の中途にさしかかったところに、そこに、草のはえている広っぱがあって、付近の人が
一
加宮跡の雑草を踏んで、磯五は、若松屋惣七の眼前へ押しかかって行った。右手をふところへ入れているのは、中で、
「何しに来たのだ」若松屋惣七は、歯のあいだからうめいた。
「お高は、おらんぞ」
「お高に用があって来たんじゃあねえ。おめえに用があって来たのだ」
磯五は、そういって、懐中で短刀の柄を握りしめた。九寸五分の柄は、
「ふうむ、わしに用というのは」のんびりした声で、若松屋惣七がいっていた。「どういう用かな」
「おめえは、おいらの女房を横どりする気なのだろう。お高をそそのかして、おせい様の証文を持って来させて、それと引き換えに縁切り状を取らせたのは、みんな若松屋の細工だろう。お高は、いつかおれがおめえにしたように、おれにその証文を破かせて、かわりに、おいらのこの面へ手を当てたのだ」
「それは、それは、近ごろ大できでござった」
若松屋惣七が、しんから愉快そうに笑い出すと、磯五は、野犬がほえるようにわめいて、いきなり、若松屋惣七へ
磯五は、それを知らないから切りかかっていったのだが、若松屋惣七は、驚かないのだ。半ば
磯五が、女のように白い腕をふって斬りこんで行ったとき、若松屋惣七は
「あぶない、あぶない」
といった。
それは、磯五のことをあぶないといったのか、自分のことをあぶないといったのか、磯五にはわからなかったが、仕損じたことだけは確かなので、磯五はいらだった。
すぐ追い迫ろうとしたけれど、鼻の前へ来て生き物のようにびくびく微動している杖の先が、ひどく邪魔になった。その一本の曲がり木が、磯五には、
人が来てはだめだと気がついて、磯五は、片手で杖をつかんで、今度はしゃにむに突いて行った。しかし棒をつかもうとすると、その棒が激墜してきて、磯五のききうでを強打した。磯五は、その腕を抱きこむようにして、地べたにころがっていた。
短刀が、若松屋惣七のあしもとへ飛んで行って、若松屋惣七に拾われた。磯五は、
若松屋惣七が近づいてゆくと、もう一度
「何をそこで手荒なことをしているのだ――」
と、惣七に呼びかける声がして、武士とも町人とも思われない、十徳を着た若い男が、若松屋の屋敷のほうから金剛寺坂をおりて来て、加宮跡へはいって来ていた。きのう若松屋へ来て、滞在している、惣七の友だちの紙魚亭主人であった。
若松屋惣七は、磯五の短刀を抜き身のままふところへしまいこんで、まばゆそうな眼を、近づいて来ている紙魚亭主人へ向けていた。
二
四十七歳の
深川の世話役木場の甚の願訴によって、各町の自身番、会所、銭湯、髪結い床のような人眼の多い場所に貼り紙を許した。それは、柘植宗庵の娘おゆうの夫相良寛十郎の行方、またはその後の動静を知っているものがあったら、どんなことでもいいから木場の甚までしらせてくれば、厚く礼をするという文句であった。
磯五がこの貼り紙を見たのは、若松屋惣七に突っ放されて、逃げるように加宮跡から式部小路へ帰ろうとする途中、
磯五は、この貼り紙はいったい何であろう、きっと金のことにきまっている。いつかも雑司ヶ谷にいるお高のところへ一空という坊さまから手紙がきて、お高に、さっそくこの木場の甚に会うようにといって来たことがあるが、これは必ず同じ用向きに相違あるまいと思った。
磯五は、その足ですぐ深川
柘植宗庵から娘のおゆうに譲られた莫大な財産が、いまお高のものになろうとしていること、おゆうの死後、良人の相良寛十郎とまた
木場の甚はお高が柘植家の当主であり、したがって、じぶんが預かってきている財産の受け取り人であることに、何らの疑いをはさんでいるのではなかったが、何しろ大きな額なので、奉行所のしらべに対しても、念には念を入れなければならないのだった。お高の出生や、ほんとの相良寛十郎のこと、偽の相良寛十郎のこと、それらをよく知っている者を探し出す必要があるのだった。
「わたしも、そう考えていたところです」
磯五がいうと、木場の甚は、あのお高が人妻であると前に聞いたことがあったかどうかと、忙しく考えながら、
「そうですよ。お高さんが本人であることに
木場の甚は、磯五を慰めるような口調だ。磯五も、お高になり代わって、その証人の捜索を頼むようなことをいって、その日はそれで帰った。
磯五は、堀割りにそって、夕ぐれ近い熟した日光がぽかぽか当たっている深川の町をゆっくり歩きながら、からだ中の血が駈けまわるような気がした。あのお高が、とほうもない財産のあと取りになろうとしている、それは、この陽の光のように確かな事実なのだ。お高、じぶんの妻のお高は江戸で一、二の女分限者だったのだ。
すると磯五は、お高がもう自分の妻でなくなっていることに気がついて今度は、全身に血が凍るように感じた。あの縁切り状を書くのがもう一日おそければよかったのだ。何とかしなければならない。磯五は、なにかに追い立てられるように、せかせか歩き出していた。
三
お高は、雑司ヶ谷の雑賀屋の寮へ帰って来ていた。そのお高を見舞いに、若松屋惣七と、紙魚亭主人と歌子とが江戸から遊びに来ているのだ。
いつか、この一行に、大久保の奥様という人を加えて、片瀬の龍口寺へお詣りして、ついでに江の島を見物するはずだったけれど、待っていても、大久保の奥様の病気がよくならないし、そこへ紙魚亭主人が出府してきたので、急に三人で、雑司ヶ谷のおせい様の
陽ざかりの庭に、松の影が人かげのように見えていた。芝が、南蛮の敷き物のように青く、そこここに置いてある石は、かわいて白かった。座敷の縁に、庭から来て腰かけて、歌子は、そばに立っている紙魚亭主人と話していた。歌子は、いつもの簡粗な着物を着て、陽やけのした顔を仰向かせて笑っていた。紙魚亭は、松葉をくわえてしきりにかみながら、歌子を見おろしていた。
歌子がいっていた。歌子は若松屋惣七のことをあに様と呼んでいた。
「あに様は、あのお高さんという人を想っているのでございます。でも、むりもございませんよねえ。お高さんはあんなにきれいな、気だてのいい人で、かわいそうな目にあいなすったのですものねえ。今でも、いっしょになっているようなものでしょうけれど、ほんとに
歌子は、もっと何かいいそうにして、口をつぐんだ。樹立ちの蔭から、若松屋惣七とお高が現われて、庭のむこうを歩いているのが見えて、こっちが黙りこんで静かにしていると、風のぐあいで二人の話し声が聞こえてきた。
「高、歩いておると疲れはせぬかな」
「いいえ、ちっとも、疲れませんでございますよ」
歌子と紙魚亭主人は、ちらと顔を見合わせて笑った。そして、ふたりは、両方からすこしずつ近づきあって、また、聞くともなしに、向こうから風に乗って流れてくる若松屋惣七とお高の話に耳をやった。
「陽にやけぬよう、木の下をあるいてはどうじゃ」
「はい。でも、
「からだのぐあいはどうだな」
「はい。大変よろしゅうございます」
「高、お前はもう若松屋の仕事へは帰らぬ。帰りとうない。というようなことを申しておるそうだが、ほんとうか」
「――」
「黙っておってはわからぬ、ほんとうに若松屋へ帰らぬつもりか」
「はい。わがままのようでございますが、そのほうが旦那様のためにもわたくしのためにもよろしいように思われますでございます」
「どうしてだ」
とききながら、若松屋惣七は、加宮跡で磯五に斬りつけられたことや、そのとき磯五がいった、お高がおせい様の証文を持って来て、交換に、離縁状を取って行ったということやなどを確かめてみようかとも思ったが、それは、お高の気もちがもっとわかるまでいわないことにした。
しかし、証文を破いている磯五を、お高が、磯五がじぶんにしたように打って、そこは、お高が自分の仕返しをしてくれた形になっているのが、若松屋惣七は、愉快だった。で、お高を見ている彼の顔に、微笑がひろがった。
が、お高は磯五から縁切り状を取って、晴れてじぶんのところへ来られるからだになっているのに、そして、そうでなくても、どうしても自分のところへ来なければならない事情が、お高のからだにできているのに、なぜ今になってこんなことをいい出すのだろうと、すぐ暗い表情になった。
若松屋惣七は、佐吉だったか滝蔵だったか、金剛寺の一空さまからふと聞いてきた、お高に家を継ぐ金がはいろうとしているという、夢のような話を思い出して、それが、若松屋惣七をにっこりさせた。
「お前は近くたいそうな金持ちになるという評判だが、それで、もう若松屋へ帰らぬ決心をしたというわけかな」
「いいえ、そんなことはございません。お金持ちなどと、考えてもいやでございます。それも、いろんなむずかしいことがございまして、証人がいるとか何だとか、くさくさすることばかりでございます。お金も、くるかこないか、当てにならないのでございますよ」
「では、どうするつもりなのだ」
「どうするつもりって、何も考えておりませんでございます」
「その金が手にはいれば、一生食うに困らんというわけだな」
「はい」
「なぜもっと詳しく話してくれんのだ」
お高は、まだ決まりもしない財産のことを話すのがいやであった。気恥ずかしかった。話すのはいいが、財産がこなかった場合のことを考えると、うれしがっていてはずれたように思われるのが、たまらなかった。また、まだ手にしないうちから話しても、誰も信じてくれる人がないようにも思えた。彼女じしんまだぴったりと現実のものに考えられないことを、どうして人に、夢でないように伝えることができるであろうかとあやぶまれた。
で、いっさい黙っていることにしたのだが、若松屋惣七にだけは、だいたい話しておきたいような気もしたけれど、しかし、同じ理由からやはり黙っていることにした。
「いったい、いつはっきりわかるのか」
若松屋惣七が、馬鹿々々しそうにきいた。お高も、馬鹿々々しいような気がして、笑い出してしまった。
「まだ当分かかるようでございますよ」
「そうだろう。十年や二十年はかかるだろう」
若松屋惣七は、苦々しそうにいって、ぷいと横を向いた。若松屋惣七が不きげんになると、お高はやはり悲しい感じがした。
一
「ふうむ、その財産とやらを、わしに保管させてはくれぬかな」
若松屋惣七が、ちらと眼をいたずらめかしてそういうと、お高は、袂を顔へ持って行って笑うのだ。
「そんなことをおっしゃっても、わたくしのもののようで、まだわたくしのものではございませんもの。母の代からの世話人で深川の木場の甚という人が預かっていてくれるのでございます」
それから二人は、まだ長いあいだ、磯五のことなど話し合って、肩をならべて寮の
若松屋惣七がいった。
「どうも高はおれをおそれておるようだが、何もおそれることはないぞ。おれにしろ、お前にしろ、他人の迷惑にならぬ限り、おのが思うとおり暮らしてゆけばよいのだ」
お高は、自分でもわけのわからない涙が出てきていた。お高は、縁のあけ放してある座敷のほうへ近づいていたので、いそいでなみだをふいた。そのお高の眼に、
おせい様とああいうことになり、自分ともこうなっている磯五が、どうしてのめのめとこの雑司ヶ谷へ来ているのだろう? お高は、それが不思議なようで不思議でない気がした。それよりも、すぐおせい様のことが気づかわれた。磯五に対する若松屋惣七の憎悪も、この場合、心配であった。
「五兵衛さんが来ているようですけれど、どうぞ手荒なことはなさらないでくださいまし。おせい様を苦しめるようなものでございますから」
お高がささやくと、若松屋惣七の小鼻に皺が寄った。
「心配いたすな。どうしようともせぬ。が、おせい様は気の毒じゃな。悪いやつとはわかっても、まださっぱりあきらめきれずにおるのだろう」
「いいえ、あきらめていらっしゃることはあきらめていらっしゃるのですけれど、でも、眼に見ると、毒でございますよ。気が迷って、苦しくなりますでございますよねえ」
「うむ。そうじゃ。磯五め、何しにここへ来たのかな」
「ほんとに、何しに来たのでございましょう」
広い屋敷だ。若松屋惣七に別れて、お高がひとりでおせい様の部屋へはいって行くと、おせい様は、見たくもない磯五が、突然訪れて来たのに動揺を感じて、紙のように白い顔だ。といって、ああして慣れなれしく来ているものをたたき出してやるわけにもいかないので、おせい様は、みじめに困惑しているのだ。くちびるをおののかせてお高を見上げたきり、意味の不明な微笑で頬をゆがめた。
お高も、恥知らずといおうか、ずうずうしいといおうか、磯五という人間に、口もきけないほどいよいよあきれ返っていて、すぐには磯五のことを話題にできなかった。
「知らん顔していらっしゃいましよ。ああいう人には、それが一番いいのですよ」
お高がそういうと、おせい様は、泣き出しそうに口をそらして、それでもにっこりした。
お高は、心からおせい様をあわれに感じた。
二
おせい様の部屋を出て、庭に沿ってすこし行った渡り廊のかどに、磯五がにやにやして立っていた。知らんふりして通り過ぎるのも子供らしかったので、お高は、挨拶だけした。
「珍しい人が珍しいところに立っていますねえ。よく
「
「おや、誰が誰の亭主で、誰が誰の女房なのか、お前さまのいうことを教えてくださいよ」
「まぬけたことはいいっこなしにしようぜ。おいらがおめえの亭主で、お
「あれ、忘れてはいやでございますよ。縁切り状は何のために書いたのです」
すると磯五が、縁切り状? そんなものは夢にも知らないというので、お高は、あれ以来身につけて持ち歩いているあの離縁状を取り出して、磯五に突きつけてやるつもりで開こうとした。その瞬間に、磯五の手が伸びてきた。それは手品のように速い動作だった。磯五は、両腕を使った。片方の
お高は大声をあげようとしたが、口をふさがれているので、意味のわからないうめきになってしまった。磯五はすぐ、縁切り状を握った手を
ただ磯五の
一度は縁切り証文を書いたものの、あとになってみると、自分と別れるのがそんなにつらいのだろうか。あんなに、わりにあっさり書いてくれたものを、今になってどうしたというのだろう。そんなに自分を思っているというのかしら。
お高が馬鹿々々しい感じが先に立って争う気もちにもなれないでいると、磯五はお高のほうへ、礼でもいうようにちょっと笑顔をみせて、ゆったりした歩調で廊下を歩き去った。
お高は、若松屋惣七に、このいきさつを話さなかった。引ったくったほうも、ひったくられたほうも、どっちもどっちのような気がして話す心もちになれなかったのだ。
若松屋惣七と歌子と、岩槻から来た麦田一八郎の紙魚亭主人と、おせい様は、お客さまが好きであった。ことに、こうしてすこしでも江戸を離れていると、江戸の人をなつかしがっていつまでも引きとめておこうとした。が、そこへ、水の上へ油が一滴落ちたように、決してまじらない存在として、自分勝手に磯五が割り込んできて、がんばっているのには、悩まされた。
が、もともと
若松屋惣七と紙魚亭主人の一八郎とは、磯五の姿を見かけるたびに、よく眼をかわしてうなずき合っていた。若松屋惣七は、ぼんやりした網膜に磯五を追いながら、苦にがしげに口を曲げた。
「きやつはいずれ
そんなことをいって笑った。聞こえないから、磯五は、平気の平左だったが、聞こえても、おそらく平気だったろう。
三
そのうちすこしずつお高にわかってきたことは、磯五が、あのいまお高にこようとしている莫大な財産をかぎつけて、それでこう急に、しつこくそばを離れまいとしだしたのではないかという懸念であった。
どうして知るようになったのか、それが腑に落ちなかったが、もしあの財産のにおいをかいだものとすれば、お高を放すのが惜しくなって、ああして一度書いた縁切り状を奪い返したことも読めるのだ。内実はどうでも、表向き夫婦ということになっていれば、お高のものは磯五の自由になるに相違ないのだ。磯五のことだから、すくなくともそれまで、どんなことがあってもお高の身辺から身をひくまいとするにきまっているのだ。
お高は、何ゆえ早くここへ気がつかなかったろうと
が、一方そういったものでもなく、母の金は当然受け継いでおいて、磯五のほうこそいかなる方法でか振り切るべきではないかとも、考えられた。そしてそれには財産がきたらその中から、相当の
若松屋惣七とも、たびたび談合した。
「どういうことになるのか、わしにもわからぬ」
若松屋惣七は、珍しく悲痛な調子だ。若松屋惣七が悲痛な調子になると、よく見えない眼が白っぽくきらめいて、顔の傷がくっきり浮き立ってくるのだ。それがいつもお高の哀感をそそって、若松屋惣七の顔を見られなくするのだ。
お高は、この方はやっぱり自分を思っていてくださる。そして自分も、旦那様を愛しているのだ。愛しているとはっきり気がつかないほど、心の底の深いところから愛しているのだ。そんな気がして若松屋惣七の膝へ顔を投げて泣き入りたかったが、そうはしなかった。磯五との関係が白か黒かに決着がつくまでは、じぶんの感情も流れにまかせてはならないし、若松屋惣七のこころもちをも、これ以上突き詰めたものにしてはならないと、とっさに気がついたからだった。
お高は、おなかの子供のことさえなければ、何もかもそのままにして、自分一人でどこか遠い旅へでもたってしまいたかった。それは若松屋惣七の前にいると、じぶんも苦しいし、若松屋惣七をも苦しめるのが、それがまた苦しいので、いっそそんなことも考えられるのだったが、それは、お高が若松屋惣七を恋しているからで、ではといって、思い切ってそうし得ないのも、つまりは、同じ理由からだった。
「お金をやって手を切ってもらえれば、一番いいのでございますけれど、そのお金がくるのやらこないのやら」
「縁切りになっておると申したではないか」
お高ははっとして、その若松屋惣七のことばを無視しようと努めた。そして、
「いっそ死にでもしてくれますと――」
といいかけて、いっそうはっとして口をつぐんだ。あわてて、上眼づかいに若松屋惣七を見た。
若松屋惣七は、平然としていた。聞こえないようすなのだ。しかし聞こえないはずはない。若松屋惣七も、そのお高のことばを無視して、ぎょっとしたのを隠そうとしているらしかった。表情のない人なので、顔には何も出ていなかった。
しばらくしていった。
「わしとお前とのことは、どこまで行っても、同じであろう。近いようで遠い。な、それだけのことじゃ。これは、星が悪いのであろうとわしは思う」
若松屋惣七は、ここで珍しいことをした。大声を立てて笑ったのだ。その笑い声に消されて、お高の泣き声は、若松屋惣七には聞こえなかった。
四
若松屋惣七が、麦田一八郎にも頼んで、二人で磯五を看視して、お高に近づけないようにすること、そのうちには、お高の出生や生い立ちを知っている生きた証人も現われるだろうし、父として死んだ他人の相良寛十郎と、ほんものの相良寛十郎との
十日ほどして、磯五からのがれるために、おせい様は
お高と歌子が、そのぶらぶら旅にいっしょに行くことになった。若松屋惣七と麦田一八郎は、ひとまず金剛寺坂の家へ帰って、若松屋の仕事に一区切りつけて後始末をみてから、一足遅れて江戸をたつことになった。途中で追いつこうというのだった。女だけの三人旅でも、歌子という、武技にひいでた男まさりがついているから、安心であった。
若松屋惣七は、久しぶりに紙魚亭と歩いてもみたかったが、何よりも、掛川の具足屋に行っている龍造寺主計に会って、その後のようすを聞きもし、具足屋のふとりぐあいを見たかったので、これを機会に、五十三次をする気になったのだった。
ところが、あす発足という前の晩に、深川の木場の甚からお高のところへ飛脚が来て、探していた証人がみつかって、いよいよ柘植の財産の引き継ぎが決められなければならないから、大急ぎで来るようにという書面が届けられた。
ここまで話が進んでくると、木場の甚ばかりでなく、和泉屋の総本家のものとも会って、いろいろこみ入った相談にはいらなければならないのであった。それには、時を移さず、ふか川要橋の木場の甚の家へ駈けつけることが必要だ。
若松屋惣七は、さすがにお高のためによろこんで、すぐ江戸へ向かうようにせき立てた。おせい様といっしょに上方へ行けないのは残念でもあり、おせい様のことが気がかりでもあったが、しかし、歌子が同道するのだから、その点は心配しないでもよかった。
お高は雑賀屋の久助に送られて、夜道をかけて小石川へ帰った。その足で金剛寺の洗耳房に一空さまを訪れると、出て来た一空さまは、しばらく会わなかった自分の娘を迎えるように上きげんだった。それはいつものことだが、この一空さまの態度には、吉報といったようなものを包んでいるところがあった。一空さまの細い眼が、奥へ引っ込んで見えなくなっていた。
「江戸一、いや、日本一の女分限者の御光来じゃな」一空さまは、
「いやめでたいことじゃ。生きた証人が出て来ましたぞ。お前さまのことを、ようく知っておるのだ。おゆうさんと
それでも、お高が、喜んでいいのか悪いのか、ぽかんとあっけにとられた形でいると、一空さまは一人でのみ込んで、
「
街の手品師
一
神田鍛冶町二丁目、不動新道の和泉屋総本家の大旦那
午後の八つ半だ。ぼんやりした日光が、与兵衛の横顔を浮き上がらせて見せている。
この与兵衛は、和泉屋がまだ柘植家のものだったころから、店にいたのだが、当時は、丁稚と手代のあいだの、走り使いの小僧だったので、おゆうと相良寛十郎とのいきさつ、その後の仔細などすこしも知らないのだ。おそろしく眼先がきいて、それでいて太っ腹な男なので、
実際、近来の和泉屋がふとるばかりなのは、この与兵衛がふとらせてきたのだといっていい。
与兵衛はきょうはいらいらしている。二十人ばかり寄り合っている者たちを、にらむように見すえながら、伊之吉に話しかけた。
「柘植の娘のほうが、いよいよ眼鼻がついたらしい。どこまでが柘植の和泉屋で、どこからがその後の和泉屋か、そこらが分明せんことには、いざとなると、当方も話が進めにくいでな。どうも困ったことになった」
伊之吉は腕をくんで、黙って与兵衛を見ている。与兵衛が、つづけた。
「いま蔵やら荷置き場を、人をつけて見せてまわっていますが、そのうちここへも見えるでしょう」
「そういたしますと、もとの和泉屋の分だけは、その娘さんのほうへ返しますことに、もう決まったのでございましょうか」
「はい。きまりました。木場の甚さんが一応いろいろと疑って調べてみたのだが、確かに柘植のおゆうさんの娘御に相違ないというのだ。大変なことになりました。一時にとほうもない女分限者ができてしまった」与兵衛はにっこりして、
「お前は会ったことがあるのかね、そのお高という娘に」
「いいえ。何でも柘植の
「が、まあ柘植の金だけは、木場の親方のほうに積んであるのだから、いつ誰が出て来ても渡せることは、渡せるわけで、そのへんのことはいいのだが――」
「ほんとに固くしていられたので、柘植の者も大喜びでございましょう」
寄り合いの者たちはざわめいて、あちこちでこのお高のうわさをしているらしかった。そこへお高が、はいって来た。お高は、深川の木場の甚と、ほか二、三の人たちに取りまかれて、上気したような顔をみせていた。多勢の視線に困って、どこへすわっていいのかまごついているようすだった。
やがて、木場の甚と伊之吉があいだに立って、お高と与兵衛との話になったのだが、お高が柘植の当主として和泉屋の根を押えていることは既定の事実なので、与兵衛も何もいうことはないのだった。集まっている者たちに何もいうことのないのは、もちろんだった。
「さぞいろいろと苦労なすったことでございましょうが、これであなたも芽が吹き、おっかさんもあの世で安心しておいでなさることでございましょう」与兵衛は、こんなことをいうよりほかなかった。「このごろは
二
はい、と、いいえ、だけで受け答えして、さっきからうつむいていたお高が、急に顔を上げたのだ。
「こちらのお店とわたくしとは、これからどういうことになるのでございましょうか」
「どういうことと申しますと?」与兵衛が、木場の甚を見ながらお高にきき返して、「柘植のお
「はい。それから、早く申せば、わたくしの株、こちらのお店での役どころでございますけれど――」
「それはその――」
和泉屋与兵衛が、笑いにまぎらせてことばじりを濁そうとすると、木場の甚がそばから引き取って、代わりにこたえた。
「それはお高さん、おゆうさんのもっていたお金だけ取って身をひくか、それとも、そのまま和泉屋の
柘植の分の金だけふところに納めて和泉屋と関係を切るか、あるいは今までどおり投資しておいて、総支配の方針に関与するか、お高はどっちを取ることもできるので、お高はどういう返答をするであろうかと、集まっている一同がお高の口もとに視線を集めていると、お高は、白く光るような微笑をうかべていい出した。
「それでは、こちら様の商法にわたくしも口をきかせていただきますとして、さしずめ、総本家の皆さまにお願いがありますでございます」
お高が和泉屋経営の首脳部に割り込んでくるということは、お高を、あきないのことなどわからない
「ははあ、和泉屋のやり口に、何かお気づきの点がおありなので――?」
お高は、平気だ。いいたいとおりにいうので、こういうことには、お高は強いのだ。
「はい。出店をひとつしめていただきたいのでございます」
「なに、出店を一つしめろと――?」
「さようでございます。小石川の金剛寺門前町にこのあいだできました
皆が立ちさわいで、がやがやしているうちに、お高の声は、ちょっと甲だかに聞こえた。
「昔から小さな店がつづいてきているところへ、こんどこちらの万屋ができたのでございますから、地元の
可哀そうでございますよ。可哀そうでございますから、あの金剛寺門前町のお店だけは、人助けにしめてやってくださいましよ」
座が一時にしずかになって、眼という眼が与兵衛に向けられた。が、与兵衛は、長いこと答えなかった。そして、やっと答えたときには、それは、集まっている一同をはじめ、お高自身も半ば以上期待していたとおりの文句であった。そういうことはできないというのだった。商法は商法であって、慈悲やなさけではないというのだ。お高は、それ以上何もいわなかった。
木場の甚とつれ立って深川要橋の
「おどろきなすっちゃいけませんぜ」かわったことをしらせる人の、ゆっくりした口調で、「一空さまからいってきているのです。
三
「わたくしのおとっつぁん――」お高は、金魚のようにあえいで見えた。「わたくしのおとっつぁんの相良寛十郎は、親分さんが始末をしてくだすって、立派に死んでおりますでございます」
「さ、それがです。なるほど、お前さんが
何でも、ここに書いてあるところじゃあ、おゆうさんが死んだ後、相良さんは大阪でお前さんを養女にやったというのです。そのもらった人が、相良寛十郎になりすまして、実の娘としてお前さんを育てたということですよ」
一空さまが相良寛十郎を発見したのは、あの龍造寺主計の金で洗耳房に建て増しした子供の遊び場であった。
というのは、ときどきここへ子供の好きそうな芸人などを呼んで余興を催すのだが、きのうも、いま
無情を感じたというのだろう。そうでなくても、寛十郎には、性来、放浪癖といったようなものが強かった。おゆうの死後まもなく、まだ赤ん坊であったお高を、旅で会った、どこの何者とも知れない男の手に預けたまま、
そして泊まり合わせた旅の手品師と同行して、いつのまにか手品を習い覚え、同じ旅の手品師としてわずかに
お高のほうから、その日本一太郎の相良寛十郎をたずねたのだ。両国に近い、
日本一太郎は、端麗な顔をした弱よわしい老人だ。舞台とは別人のような、むずかしい顔をして、きちんとすわっていた。壁に、よごれきった派手な小袖と
はいって来たお高は、この日本一太郎を見ると、なつかしいはずなのが、ちっともなつかしくなかった。ただおかしかった。彼女にとって、日本一太郎はやっぱり日本一太郎だった。父の相良寛十郎ではなかった。父の相良寛十郎は、あの古石場で死んだ、静かな、学者肌の、陰気な、気の抜けたような、蒼白い――彼女が父と信じてきた相良寛十郎だった。
それでいいのだ。そのほかに父はないのだ。いらないのだ。たとえほんとの父でも、この相良寛十郎は、もう今は日本一太郎以外の何ものでもない――。
手品師の父、父というよりも、なくなった母の良人だ。お高は、珍妙な生物を見るような眼で老人を見た。
「おすわんなさい」
日本一太郎は笛みたいな声を出すのだ。
四
鋭い視線がお高をなでた。
「ははあ、高音さんかえ。おゆうにそっくりだな。わしにはあまり似ておらん」
お高は不思議な怒りを感じて、黙って、にらむように日本一太郎を見かえしていた。
それからいろいろと話になったのだが、お高が、じぶんが受けついだ柘植の財産のことを切り出して、父の分もあるのだし、それと、そのほかからもいくらでもとってもらいたいというと、父の日本一太郎は、金銭のことなど、もう実際何の興味もないようで、はじめから、てんで聞こうとしないのだ。それかといって、母や自分の過去を話すでもなく、ただ、いま受けている手品の種などを、ひとり言のようにしゃべりつづけているだけだ。
日本一太郎は、すこし頭の調子が狂っているのだ。そうわかっても、お高はべつに悲しくなかった。
金剛寺坂の若松屋惣七の屋敷へ行ってみると若松屋惣七と紙魚亭主人の麦田一八郎とが、
惣七は、あかるい縁に向かって、しきりに眼を洗っていた。派手な女の衣裳がうごいて、若松屋惣七の視野のなかへぼんやりはいってきたので、若松屋惣七はそれがお高であることを知った。
「高か」
「はい。高でございます。いつ雑賀屋からおもどりになりましたのでございます」
「おお。今のさきもどった」
「あの、麦田様も――」
「うむ。一八郎ももどった。
「して、旦那様はいつごろ御発足でございますか」
若松屋惣七と麦田も、あとから二人の女に追いついて、東海道を旅することになっているからだった。
「わからぬ」若松屋惣七は、陽のおもてを雲がはくように、急に不きげんになっていった。「お前にお前の用があるように、わしにもわしの用がある。磯五はどうした? ちょくちょく会っておるのだろう――」
お高は、父といいこの人といい、じぶんはやっぱりひとりなのだと
藤代町の宿
一
若松屋惣七は、お高に案内させて、両国の小屋に日本一太郎をたずねた。裏へまわって、楽屋番に小粒をつかませると、まもなく
三人は押し黙って両国橋を渡って
若松屋惣七と相良寛十郎は、何ということもなく、それからそれと話しているだけだった。ただ、相良寛十郎は、相良寛十郎と呼ばれることをいやがって、芸名の日本一太郎で呼んでくれといった。
お高は、食べることもせず、はなしにも口を出さず、このあいだからの気苦労と、進んできたからだのぐあいとで、疲れて見えていた。低い欄干のついている窓の下に、流れるようにつづく雑沓を見おろして、ぼんやりすわっていた。
そのうちに若松屋惣七も日本一太郎も、話材がなくなって口をつぐんでしまった。
「それではこれで失礼をいたします」日本一太郎は、舞台で口上を述べるときのように、四角張って手を突いて、若松屋惣七と、それから自分の娘のお高のほうへも、等分に
そういって、さっさとおりて帰ってしまった。若松屋惣七とお高も、しかたがないので、日本一太郎を送って、川半を出た。出てみると、もう日本一太郎は、あとも見ずに、急ぎ足にすたすた小屋のほうへ歩き去っていた。
若松屋惣七とお高は、途中で駕籠を拾おうということになって、
若松屋惣七は、平気だった。生まれのいいことを思わせる、押し出しのきく、立派な老人であると日本一太郎のことを思っていた。ただ何となく飽き足らないところがあるような気がして、それは何であろうかと、若松屋惣七は考えていた。しかし、変わった面白い人物であると好い印象を受けていた。
「よい
「どうかしているのでございますよ。昔のことを思い出したくないのでございましょうよ。わたくしなどとも会いたがっておりませんでございますもの」
「ふーむ。柘植家の金のことを知っておって、お前を捜し出そうともせず、今までどこで何をしていたものであろう」
「それはわたくしも、はっきりは存じませんでございます。一空様も木場の親方さんも、誰もご存じないのでございます。父も、何も申しませんのでございます」
「妙なはなしだな。みたところ、さほど金に
「何ゆえお前を人手に渡したか、そこらのところを話したかな?」
「はい。旅から旅へ歩くのに、
「して、お前をもらい受けた男が、相良寛十郎と名乗って、実の父になりすまして死んでいったわけは?」
「そのことは、父は何も申しませんでございます」
「ちとどうもくさい。ようすがおかしい」若松屋惣七は、うめくような声だ。「あの日本一太郎とやら、実の父御ではないかもしれぬ。どうやらわしは食わせもののような気がしてならぬのだ」
「でも」お高の
若松屋惣七は、口を固く結んで、何もいわないのだ。
かすんだ眼に異様なひかりがきて、土手をたどる杖が早くなった。片手を引いていたお高は、引かれるような恰好になって、いそいで出て、ならんだ。
二
雑賀屋のおせい様と歌子は、とうに上方へ発足したあとで、若松屋惣七と紙魚亭主人の麦田一八郎もすぐ追いかけて、途中でいっしょになって四人で旅することになっていたのだが、紙魚亭主人は、江戸から九里あまりほどある岩槻藩の
おまけに今度は、藩のほうへ暇を願って、若松屋惣七といっしょに東海道を下ってみようと思い立ったのだが、それが許されずに、江戸の兵庫頭の上屋敷から呼び出しがあって、すぐに国表へかえらなければならないことになった。
そこへ持ってきて、若松屋惣七にも、何やかや用事ができてきて予定どおり二人の女のあとを追って旅に出るわけにはいかなくなったので、その旨をしたためた書状を持って、ただちに金剛寺坂から飛脚が飛んで、おせい様と歌子を追いかけた。
途中で、心待ちに若松屋惣七と紙魚亭を待って、約束によって府中のこっちの
だまされたような不平な口ぶりで、歌子はそのまま
が、そのうちに若松屋惣七は、いよいよ掛川で具足屋をやっている龍造寺主計をたずねて、一人で旅に出ることになった。
「あすたとうと思う」
小雨の縁だ。若松屋惣七は、その、うっすらと小雨の吹きこむ縁側にあぐらをかいて足の爪を切りながら、うしろの敷居にしゃがんで障子にもたれていたお高を、ちょっとふり返った。お高は
お高は、若松屋惣七の屋敷を出て、どこかへ行ってしまうといって雑司ヶ谷の雑賀屋の寮から帰って来たくせに、まだこの金剛寺坂にずるずるべったりに厄介になっているのだ。しかし、もう若松屋の女番頭として、金勘定や帳簿を見ているわけではなく、いわば客分として、若松屋惣七のいうままに、
お高がこたえないので、若松屋惣七がつづけた。
「一日延ばしに延ばして参ったが、もう延ばせぬ。こんどこそは、行かずばなるまい。龍造寺殿は、あまりに行く行くというて行かぬので怒っておらるるかもしれぬぞ。とにかく、具足屋は立派に芽を吹きました。何から何まで、龍造寺殿のおかげじゃ。
お高は、やっといった。
「ごきげんようおいでなされませ」
「ふん。それだけの挨拶か」
「お達者で――」
「ははは、お前も、達者でくらすがよい。いや一年も二年も帰らぬようないいぐさだな。ナニすぐもどって参る」
「ほんとに一年も二年も、お眼にかかりませんつもりでございます。おかえりになりましても高とのことはもうこれきりでございます」
若松屋惣七は、見えない眼をぐっと見ひらいて、お高の顔を探した。
「なぜそんなことをいうのだ」
「なぜでも、もうお眼にかかりませんでございます」
「まだあの磯五のことが気になっているのだな、縁切り状を書いたとか、書かせたとか、磯五からもお前からも聞いたようにおぼえているが、あれは、つくりごとであったのだろう。うう、なに夫婦のあいだのことだ。何を申し合わせて他人をいつわろうと、それはそっちのこと。だまされた他人のおれが、愚かであったよ」
三
袂で顔と泣き声をおおったお高だ。ふらふらとたって、その、惣七の帳場になっている奥の茶室を出て行こうとした。
若松屋惣七の眼が、じろりと光って、お高を追った。
「どうするつもりなのだ」
お高は、手をかけた襖に顔を押し当てて、肩をふるわせてむせび泣いていた。
草をたたく雨の音がしていた。灰いろの重い雲が、庭の立ち樹のすぐ上にあるのだ。近くの枝から枝へ、濡れた鳥の声がするのだ。しいんと遠のいた江戸の
「拝領町屋のおせい様の家へ行って、当分おせい様といっしょにくらす考えでございます。おせい様はお可哀そうでございますよ。おせい様は、ああして歌子さまと旅には出たものの、あきらめ切れないで帰っておいでなすったのでございます」
「あきらめ切れずにと申して、磯五のことか」
「はい。おせい様はまた、あの五兵衛さんのことを
「女というものは不思議なものだな。また、かの磯五のごとき男が、女をつかんで離さぬ力も、考えてみれば、不思議な気がする。いや、どちらも不思議なことはないのかもしれぬが」
「おせい様が磯五のことを思い切れずにいるものですから、わたくしがおせい様のところへ行くと、おせい様を苦しめるようなもので、いつも、長くはいられないのでございます」
「そんなところへ行かんでもよいではないか。何ゆえさように食客のようなまねをして歩こうというのだ。金はどうしたのだ」
「ひとりでぼんやりしてはいられませんでございますもの。それに、あのお金はまだほんとに自分のもののような気がいたしませんでございます。手をつけるのがいやでございます」
「高」若松屋惣七は、伸び上がるようにして、声を低めた。
「掛川へ来ないか」
「掛川へ――」
お高は、おうむ返しにくりかえしながら、龍造寺主計の顔を思い出していた。龍造寺主計は、まだはるかにお高にこころを寄せているに相違ない。お高には、それが感じられるのだ。
お高は、若松屋惣七と龍造寺主計と、ふたりの男にはさまれることを思うと、とても掛川へ行く気にはなれなかった。行けば、この二人のあいだに、何か恐ろしい問題が起きそうな気がして、それは、どうしても避けることのできないものに思えた。
お高は、ひとり言のように答えていた。
「いいえ。掛川へ行くことはできませんでございます」
「掛川へ行けば、もうすこしものごとがはっきりいたすまで、柘植の財産に手をつけずに、やって行くことができるのだ。具足屋の仕事を手伝ってもらおう。龍造寺殿も、喜ばれるに相違ない」
その龍造寺主計が、
「お前も、磯五のことが気になって、江戸を離れられぬのかな」
「まあ、旦那様、そんなことはございません」
「そんなら、来い。掛川へ来い。あすいっしょに、というわけにもゆくまいから、あとから来い。そのように手はずをつけておいてやる」
お高は身をひるがえすように、若松屋惣七に向き直った。口をあけて、何かいおうとした。何かいおうとすると、じぶん以外のほかの意思のようなものが、ことばになって、その口を出たのであった。
「はい。それでは、あとから掛川へ参りますでございます」
が、お高は掛川へは行かなかった。やっぱりいざとなると行けないでぐずぐずしているうちに、日がたっていっそう行けないことになったのだ。
若松屋惣七は、もう掛川へ着いて、お高を待っているに相違なかった。
お高は佐吉を供につれて行くことになっていたので、佐吉は一日に二度も三度もお高の部屋へ顔を出して、いつ発足するつもりかとききに来た。お高は、行く気のないところへ、そういってこられるのが、苦しかった。それよりも、掛川で待っているであろう若松屋惣七と龍造寺主計のことを考えると、いっそう気が重くなって、そうやって逃げるように延ばしていることさえ、苦痛になった。
お高は、若松屋の留守の者にはゆき先を告げずに、そっと拝領町屋のおせい様の
四
駒留橋を渡って、藤代町の宿へ帰ろうとするところで、日本一太郎は、足をとめた。
若い女だ。色あいの派手な、しかしよごれ切った衣裳を着けて、腰を二つに折っているので、
それは、お駒ちゃんであった。お駒ちゃんは、つぶらな眼をそわそわと動かしたが、じぶんを見ている日本一太郎には気がつかずに、そのままみすぼらしい
老いた日本一太郎の顔に、よろこびの色がうかんで、彼は、足早に追いすがりながら、声をかけた。
「おい、お駒太夫じゃあねえかい」
お駒ちゃんは、悪いことをしていたところをみつかりでもしたように、ぎょっとして立ちどまって、ふり返った。
「あら、誰? おや、日本一のおじいさんじゃあないの」お駒ちゃんは狼狽して「いやだよ。へんなところで会ったねえ」
「そっちはへんなところかもしれねえが、こっちは何も、へんなところではねえのだ。おいらはいま、そこの両国の小屋にかかっていて、これからついそこの藤代町のとやを
「ほんとに久しぶりだねえ。あれから」
と、お駒ちゃんは遠いところを見るような眼になって「何年になるかしら」
「三年だ」
「早いものだねえ」
「早えものさ。三年は三年でもおれとおめえが、あの
「あいさ。世の中も変わったか知らないけど、あたしも変わったのさ。変わらないのは、おじいさんばかりだよ」
「こいつあ耳に痛えや。相変わらず
「おじいさんこそどうおしだえ」
「おいらか。おいらは――ま、おめえこれからどこへ行くのだ」
「どこへ行くといって、ここへ行きますという当てはないのだよ。ただこうやって町を歩いているのだもの」
日本一太郎が、はじめてお駒ちゃんのみすぼらしい
「女の子がきたないなりをしているときに、そんなに見るもんじゃないよ」
日本一太郎の端麗な老顔を、同情のいろが走りすぎて、お駒ちゃんを促して藤代町のほうへまがりながら、
「ちげえねえ。田川の一枚看板のお駒太夫が、そのぱっとしねえありさまはいってえどうしたというのだ」
お駒ちゃんは、負け惜しみのように、陽気らしく細かく笑って、
「話せば長いことながら、さ」
「いずれそんなところだろう。まあ、あとでゆっくり聞くとして、おめえ何かえ、いまあぶれているてえわけかえ」
「あい。早くいえばね」
「相変わらず、いやに
「まあ、そんなところかね」
「
「そうかい。じゃ、まあ、ついて行くことは行くけど、そんな
「どうだか、怪しいもんだぜ。お駒太夫が男ぎらいになったら、おいらは今一度、
「人聞きの悪いことをおいいでないよ。ほんとに男じゃあ今度ですっかり手を焼いたのさ。それはそうと、お前さんはまだ茶番のほうかい」
「そうそう。そういえば、田川では、おいらは茶番のまねみてえなことをやっていたっけな。おめえは
「また
「おいらはもとから手妻師なのだ。両国でも、手妻のほうをやっているよ」
「あたしも、いまになってみると、いっそ芝居のほうをやり通してくればよかったと思っているのさ。何やかや、おじいさんには、聞いてもらいたいことが山のようにあるんだよ」
二人はちょっとしんみりして、押し黙って、狭い藤代町の通りを歩いて行った。陽の弱よわしい夕方近いころで、通る人の影が、寒く長く
「ここだ」
昼の
一
「おめえ様は、くたびれていなさる」日本一太郎は、一なでなでるような視線で、おちぶれたお駒ちゃんのようすを見ながら、いった。「一しきり横になって、休んだがいいぜ」
が、お駒は、狭い二階の縁にぺちゃんとすわって、欄干に肘をかけて下の往来を見ながら、声だけ日本一太郎のほうへ向けて、
「あい。くたびれてはいるけど、あたしゃ昼寝られない性分でね。まあ、こうやってぼんやりさせていてもらおうよ。それより、あれから後のお前のはなしでも聞こうじゃないか」
「おれのはなしなんて、何もいうこたあねえ。判で押したように、きまりきったもんだ。おいらはどだい手妻つかいなんだから、ああして田川の一座がこわれてから、もとの東西東西にけえって諸国をうろついただけのことよ。
ゆきさきの食いものと女だ。なあ、それぞれ味が違うから、若えうちあ面白いが、おいらみてえに、こう
「そうかい。それはよかったねえ」お駒は、人間が変わったように、しんみりした女になっているのだ。そう思って、日本一太郎がじっとお駒をみつめていると、お駒はその心もちを読んでそれにこたえるように、つづけた。「あたしのようなはねあがり
「おめえのことだ。さぞ意気な筋だろうぜ。年寄りを相手に、色ばなしも乙なものだ。そもなれそめはから一段語ったらいいじゃあねえか。こっちから、酒さかな持ち出しで、きこうてんだ」
「いやなこった。ひる間あんまりしゃべると、夜
「こいつあよっぽど参っているのだな。昼寝られなくて、夜眠られなくて、それじゃあいつ
日本一太郎にこういわれて、お駒は、
「なに、そんなこともないのだが、眠るときまって夢を見るのだよ」
「さ、その夢が恐ろしいのだろう」
「夢は、恐ろしいことはないのだよ。その男とあっている夢だもの」
「夢は恐ろしくなくても、その同じ夢を見ることが、おそろしいのだろう。おめえが何といおうと、おめえの顔にそう書いてあるのだ」
お駒ちゃんはびっくりして、あわてて顔をふきとるような仕草をすると、日本一太郎は笑って、
「ふいたってとれやしねえ。おいらには、ちゃんとわかるのだ。おめえは、夜ひる眠ることもできずに、その男のまぼろしを抱いて、野良犬のように、江戸の
「そんなことはないのだよ」
「ないことがあるものか。鏡を見な鏡を。顔だって、からだだって、昔のお駒ちゃんの面影はありゃあしねえ。まるで、お駒ちゃんに似せた
お駒が、ぎょっとすると、日本一太郎は、彼の
「どこの何という者だ、その薄情男は」
追い詰められたような声が、お駒ちゃんの口を出た。
「日本橋式部小路の呉服屋で、磯屋五兵衛というのですよ。磯五というのですよ」
二
「なに、あの磯五さん――?」
日本一太郎は、おどろきを隠しようもなく、はっと顔いろをかえたが、それよりもお駒のほうがびっくりして、
「お前さまは磯五をご存じなのかえ」
ときくと、日本一太郎はすぐになにげなく装って、
「知らねえこともねえが、
何だかへんだとは思いながら、お駒ちゃんも、ふかく
「あい。その磯五さ」
吐き出すようにいって、また欄干越しに、下の藤代町の狭い往来をこね返している雑沓へ眼を落とそうとすると、
「お駒ちゃん、一
日本一太郎が、いった。そして、手ぬぐいを取ってたち上がると、お駒ちゃんもついて来た。
実の娘であるはずのお高に対しても、またそのめんどうをみている若松屋惣七に対しても、あれほど不愛想な態度をとって、恐ろしく変わり物に見えていた日本一太郎が、このお駒ちゃんにだけはこんなに打ちとけて
これはいったいどういうわけであろうか。この手品師の日本一太郎が、お高の父の相良寛十郎という御家人のなれの果てだというのだが、それならば、その相良寛十郎は、どういう人間なのだろうか。
お駒とは、むかし旅役者のむれに一座して、信濃路から
お駒ちゃんは、それが気になってたまらなかったが、相手が、磯五との関係はそれとなく隠しておきたいようすなので、ざっくばらんにきくわけにもいかなかった。そして、ざっくばらんにきくのでなければ、口うらを引くなどという器用なことはできないのが、お駒ちゃんなのだ。で、黙って日本一太郎について、その、ぎしぎしいう
安宿にふさわしいきたない風呂場だ。泊まり客もすくないし、まだ午後もそうおそくなっていないので、ほかにはいっている人はなかった。二人きりだった。
じめじめした板の間に着物をぬいで、木の引き戸をあけると、一坪ほどの、土の黒く固まった土間に、田舎びた五右衛門風呂がすえてあった。焚き口に火がとろとろ燃えて、けむりがいぶるので、浴室の内部には、天井から壁板から、長年の層で黒光りに光っていた。
三
お駒ちゃんが思い切りよく着物を脱ぐと、白い膚がいっぱいにひろがって見えた、お駒ちゃんは、女同士ではいっているように、日本一太郎のまえにあけすけな態度なのだ。男のように手ぬぐいを肩にのせて、乱暴に
日本一太郎は、そうしているお駒のうしろに取っつくようにして、背中を流し出した。
「あれ、いいのですよ」
「なに、男の
日本一太郎がそういって、構わず洗い出すとお駒ちゃんは、いやな顔をして、泣き出しそうな声になった。
「ほんとにいいのですよ。じぶんで洗えますから」
「なに、おいらは、じぶんがしてもらいてえことは、先に人にするのだ。ははははは、この代償に、おいらも一つ、おめえに背中を流してもらおうと思ってな」
日本一太郎が笑うと、お駒ちゃんもはじめて、お駒ちゃんらしい大きな声をたてて笑った。
「そうねえ。じゃあ、かわり番こに洗いっこしようよ」
「それがいいのだ。おめえといっしょに湯にへえるのも、楽屋風呂以来、久しぶりじゃあねえか」
「おふざけでないよ。楽屋風呂なんて、いっぱし役者めいた口をきくけれども、ぜんたい楽屋にお風呂のある小屋へなんか、掛かったことはなかったじゃあないか」
「ははははは、そういえば、まあ、それに
「おじいさん、これからどうするつもりさ。両国が済んだら」
「さ、そのことだが、おいらにはおいらで、これでも考えてることもあり、かかってる口もあるのだ。としよりだって男一匹だ。なあ。どうころんだところで、身の立たねえということはねえのだが、それより、おめえはこれからどうしてやってゆく気だ。まず、それから聞こうじゃあないか」
「それがあたしには、さっぱり目当てがないのさ。おさき真っ暗でねえ」
「おめえさえ居る気なら、おいらのところにいてもいいのだが」
「そうかい。でも、そうもゆくまいしねえ」
「おいらはいっこうかまわねえが、まあゆっくり考えてみるがいい。それあそうと、さっきちょっと話に出た、磯五とかいう呉服屋とおめえとの
お駒は、たどたどしいことばで、磯五との情事をはじめから話し出した。
磯五に頼まれて、おせい様をだますために、その妹になりすまして式部小路の家へはいりこんだことや、内儀に直すという約束で、磯五にすべてをあたえたことや、そのほか、お駒のはなしには、お高の名や、父の久助のことや、お針頭のおしんや、磯五がじぶんの眼のまえで関係して見せる小間使いのお美代や、いろんな女の名まえがたくさん出て、だいぶこんぐらがっているので、日本一太郎は、筋みちを理解するために、眉のあいだにふかい皺をつくって、気を詰めてきいていた。
四
風呂から上がると、お駒は日本一太郎の
お駒ちゃんが眠っているあいだ日本一太郎は、風呂場から持ち越した眉根の皺をそのままにして、何かしきりに考えこんでいるふうだったが、やがて何ごとか決心がついたとみえて、渋紙いろの顔にはじめて晴ればれとした色が
「眠れねえなんて、眠ったじゃあねえか」
「そうだねえ。眠ったようだねえ。すこしはとろとろとしたかしら」
「冗談じゃあねえぜ。あれを見な。もうとうに陽がかげって、お
「不思議なものだねえ。見なかったよ」
「そうだろう」日本一太郎は笑って、「ひとりでくよくよ考えているから、そいつが
「そうかもしれないねえ」
おき上がったお駒ちゃんが、からだに合わない日本一太郎の着物を持て余して、襟をかき合わせたり袖ぐちを引っぱったりしていると、日本一太郎は、語をつないで、
「さあ、ここにいることに心がきまったろう」
「いてもいいのだけれど、何かすることがないと、気づまりも気づまりだし、それに、からだが遊んでいると、どうしても余計なことを考えてねえ。やっぱりどこかへ行って、つてを探してもう一度芝居にもぐりこんで、田舎落ちでもしてみようかと思うよ。お前の顔を見たら、急にぼたん
「何をいやあがる」日本一太郎は、お駒の気を引き立てるように、わざと伝法に「むかしがなつかしいの何のと、そんな年齢でもないじゃあねえか。娘っこのくせに、
笑っていたお駒が、ふっとさびしそうに黙りこんだので、日本一太郎は、芝店か何ぞのようにやさしくいざり寄って肩に手をかけた。
「おいらのところへ来て、働いちゃあどうだ」
「お前のもとへかえ。何か仕事があるのかえ」
「あるのだ。あるからいうのだ」
「だけど、あたしゃ手品はできないもの――」
「なに、手品をしろというんじゃあねえ。おいらはいま、大きな祭の口を一つ受けようかと思っているんだ。五日ばかり境内に小屋を張って、日本一太郎の
おいらも、その先長えことではなし、一世一代に、手妻の一点張りで
そこで一つ考えてることがあって、それにあ女がひとりいるのだ。面と姿が人形のように
話しているうちに、日本一太郎はだんだん興奮してきて、がくがくあせり出しながら、お駒の肘をとって揺すぶるようにするのだ。かみつかんばかりにことばをつないで、
「実あさっき、おれあおめえのからだを見るために、ああしていっしょに湯にへえったのだが、あれならどうして、振り事でも所作でも、融通のきくいいからだだ。上背はたっぷりあり、
日本一太郎はお駒ちゃんのはだかを想描するようにうっとりと眼をつぶって、
「何にもむずかしいことはありゃあしねえ。おめえならすぐ覚えるのだ。ちょっと
おいらも、日本一太郎として、一度は江戸中の評判にもなってみてえのだ。日本一太郎――全く、自慢じゃあねえが、おいらの手品はにっぽん一だと、まあ自分じゃあ思っているのだ」
「それはそうだろうけど」お駒ちゃんは、乗り気と不安をちゃんぽんにした眼で「あたしはいったい何をするのさ」
「新作
「いやだよ。あたしゃ踊りなんかできやしないよ」
「やってもみねえで、のっけからできねえという法があるか。それがいけねえのだ。立ってみな。たって、おいらのいうとおり動いてみな」
「いやだねえ。馬鹿ばかしい。こうかえ」
お駒が笑いながらたち上がると、日本一太郎は壁から破れ三味線をおろしてきて、ぺん、ぺんと調子を合わせ出した。お駒を見上げて、眼を輝かしていった。
「ことによると江戸中の人気をさらうぜ、おいらとおめえと」
その、がたぴしいう藤代町の安宿の二階で、おじいさんの浴衣を着たお駒ちゃんに不思議な振り付けがはじまった。
一
重い荷物にでもなったようなぐあいにお高は、拝領町屋の雑賀屋のおせい様の家に、べったり腰をすえて厄介になっていた。お高は、しなければならないことが山ほどあるような気がして、気ぜわしない日を送っていたが、それより、考えなければならないで、考えないで延ばしておいたことを、今しっかり考えることのできるのがうれしかった。
うす陽の当たる縁で、お高はよくおせい様と
「ほんとにおせい様のおかげで助かりますでございますよ。いるところもないわたくしでございますからねえ」
お高がいうと、おせい様は、眼の隅からにらむようにして笑って、
「そんなことをおっしゃっても、あなたはお金があるのではございませんか」
「いくらお金があっても、あんなお金は使うのがいやでございますから、ないも同じでございますよ」
「それで、これからどうなさるおつもりでございますか」
「若松屋の旦那様は、あとから掛川へ来るようにとおっしゃって、おたちでございますけれど、行ったほうがいいか悪いか、わかりませんのでございます。おせい様がわたしでしたらどうなさいますか」
「それは大変むずかしいことをおききでございますねえ。ちょっと御返事ができませんでございますよ」
「そんなことはございませんよ。おせい様は、わたくしどものことは、何でもご存じでいらっしゃいますから」
「それに、お飾りの数を倍近くもくぐっているのでございますからねえ」おせい様は、しんみり笑い声をたてて、「でも、ひと様のことで御相談に乗る資格はございませんよ。自分がこんな馬鹿で、さんざん莫迦な目にあいながら、まだ――」
「磯屋のことを、おあきらめになれないのでございますか」
「あなたには、すみませんよねえ。かりにも良人となっている人を――」
「わたくしは、思い切って、掛川へまいりましょうかしら」
「いいえ。掛川へいらっしゃるのは、いけませんよ」
「なぜでございますか」
「なぜでもいけませんよ。男の方がおふたり行っていらしって、お二人ともあなたに――何というお侍様でしたかしら? いつかお話しなさいましたよねえ。若松屋さんにお金をお立て替えになって、その掛川の宿屋とかをお引き請けになって、それから、お寺様へ御喜捨なすって掛川へおいでになったという――」
「龍造寺主計さまでございますか」
「そうですよ。その龍造寺主計さまも、あなたを想っていらっしゃるといういつかのお話ではございませんか。で、ございますから、掛川へおいでになるのは、およしなさいましよ。一つ
お高が、
「お高様は、若松屋さまを、慕っておいでなのでございますか」
「はい」
「それで、磯五さんとは、ちゃんと切れていないのでございますねえ。まだ夫婦ということになっているのでございますねえ」
「はい。そうでございます。一度、縁切れ状まで書いてくれましたのに、わたくしが母のお金を受けつぐことを、どこからかかぎ出しまして、その離縁状もあとから引ったくって破いてしまいましてございます。どうしても別れると申しませんのでございます。
あの人は、お金が眼当てでございますからねえ。こうなれば、どんなことがありましても、名だけでも夫婦ということにしておきたいのでございますよ。あさましい人でございますよ」
二
「お高さま、そんならなお掛川へ行ってはいけませんよ。磯五さんという人があって、若松屋さんと
「でも、こうして離れていて、両方が可哀そうだとはおせい様は、お考えになりませんでございますか」
「それは、想いあっていて、そうして離れていらっしゃるのは、お可哀そうでございますけれど、でも、掛川へいらしっても、晴れて
それに、わたしは、その龍造寺何とか様とおっしゃるお侍が、掛川においでになるのが、心配で、何かあぶないことになりそうで、それで一つは、お高さまを掛川へ出してあげたくないのでございますよ。男の方は、どんなお友だちでも、
「さようでございますか」
「そうでございますとも。お高さまが若松屋さんを慕っておいでなさるんでしたら、いっそう掛川行きはおよしなさいましよ」
お高は、急にわっと泣き叫んで、おせい様の膝に突っ伏した。おせい様も、おろおろ声なのだ。おせい様は、泣いているお高を慰めていいか、そして、どうして慰むべきであろうかと考えているうちに、じぶんでも泣けてくるのだ。
「何も泣くことはありませんよ。世の中は、うつろなようでうつろではございませんよ。わたしは、お高さんが大好きでございますからねえ。あなたには、わたくしのような
おせい様の声は、すっかり涙にのまれて、聞こえたり、聞こえなかったりした。「人を思うことが、どんなに苦しいことか――この
お高さま、お高さまは、あの人のお
あの人は、あの人は――あの人はああなって、お高さまもいま掛川へおたちになってしまえば、わたしは、一人ぽっちでございますよ。掛川へなぞいらしってはいけませんよ」
おせい様とお高は、たがいにかき集めるように抱き合って、長いこと泣いた。二人の周囲から世の中が遠のいて、なみだとすすり泣きの声が、あるだけだった。
おせい様が、さきに鼻をかみ出して、じぶんの膝に押しつけているお高の顔を、両手にはさんで押し上げるようにした。おせい様は、洗われたような顔を、恥ずかしそうに笑わせていた。
「泣くのはいけませんでございますよ。くたびれますよ」
お高は、そのおせい様のことばがおかしくて、今度は急に、おなかをかかえて笑い出した。おせい様も、お高の手の甲を一打ちたたいて、陽気に笑い出していた。二人は、涙をふきながら長いこと笑いくずれていた。
三
日本橋式部小路の磯屋の奥ざしきで、磯五が、十七、八の女を膝にのせてたわむれていた。その女は、お美代といって、奥向きの仕事をする女中であった。お美代は、出入りの
はじめて来たとき、何であったか、何か菜をつむように台所から命じられて出て来て、中庭に迷いこんでまごまごしているところを磯五に見つかって叱られたことがあるので、磯五には、そのときから、印象に残っている女であった。
中庭は陽がよく当たらないので、露がおりたように、草がしめっていた。お美代は、磯五に
その夜ふけに磯五は、お美代に名ざして茶を持って来させたが、その磯五の寝部屋から、お美代は、朝になるまで帰らなかった。そして、朝になって奥から下げられて来たお美代は、すぐ泣いたり、すぐ笑ったり、つまらないことで赧い顔をして、そわそわしたり、そうかと思うと、しじゅうぼんやりしているお美代になっていた。夜中に、寝巻きの肩をふるわせて、奥と
お美代は、いつのまにか磯五を恋することを教えられていたのだ。
そのお美代を、磯五はいま膝にのせて、いろいろに膝をゆすぶって、笑っていた。
「そら! 船だぞ」
磯五が、子供にいうようにいって、そして、抱いている子供にするように、膝を大きく揺すると、お美代は昼日中主人とふざけていることを忘れて、鈴がころがるようなけたたましい声をたてて笑った。磯五はびっくりして、膝をゆすぶるのをよした。
「いけねえよ。
お美代は笑いを押しもどすように、口に袂を持って行ったが、膝をおりようとはしなかった。
「だって、旦那様が、あぶないことをなさるんですもの」
「なに、誰もあぶねえことなどしやしねえ」
「だって、落ちそうになるのですもの」
「落ちても、ころがっても、誰も見ていねえからいいのだよ」
「いけませんよ。あれ、いけませんよ。落っこちそうになりますよ。誰も見ていないといって、そこに旦那様がいらっしゃるじゃありませんか」
「おれは、いてもさしつかえねえのだ」
「いけませんよ」
「なぜいけねえのだ」
「なぜでもいけませんよ」
「なぜでもなぜいけねえのだ」
お美代は、そっとたち上がって、こんどは、磯五のほうを向いて、馬に乗るように磯五の膝にまたがって、いたずらそうに眼を笑わせた。
「さあ。ゆさぶってくださいよ。今度は大丈夫。落ちませんから」
「大丈夫落ちねえか」
「落ちませんよ」
磯五が、力を入れて膝をうごかすと、お美代は、きゃっきゃっと笑いこけながら、うしろへ倒れそうになって、それから、磯五の帯に手をかけてしっかりつかまり出した。
狭い部屋でふざけていて、笑い声と物音とが大きかったので、縁を近づいてくる
あし音は、部屋のまえでとまって、そこの障子がするすると開いた。
「大変なさわぎですねえ。地震かと思いましたよ」
それは、お針頭のおしんであった。おしんも磯五に負けて、よほど以前から、磯五のいうとおりになっているのであった。障子をあけたおしんは、草のように蒼い顔であった。眼が、うわずって、光っていた。おしんは、ばたばたとはいってくると、沈むようにお美代のまえにすわった。お美代は、とぶように磯五の膝からおりて、べったり畳に腰をつけていた。
突っかかるように、おしんがいっていた。
「この
お美代は、だまって、おしんの顔をみつめていた。おしんも、口をあけたてするだけで、無言で、相手をにらみつけた。
こまかい着物を着た年増と、派手な衣裳の娘と、それは、年とった
「日本一の師匠がおみえになりましたが」
「ああそうかい。会いましょう。居間のほうへ通しておきな」
磯五は、それを
出がけに、ふり返っていった。
「おしんも、何も悪くうたぐることはねえのだ。お美代は、まだ子供じゃあねえか」
「子供か子供でないか、よくご存じですねえ」
おしんはそういって、磯五を見上げたが、お美代は、眼をすえておしんを見守っているだけで、沈黙をつづけた。おしんも、そのお美代へすぐ眼を返して、また二人の女のにらみ合いになった。磯五は、そのえくぼの深い頬に皮肉のいろをうごかして、背中を向けて縁を立ち去って行った。
四
日本一太郎のいささか頭の調子の狂った幻想から生まれた手妻応用の振り事は、彼の人物そのままに、突拍子もないものだった。外題は、どっちにしようかと考えていたのが、新作
日本一太郎は、毎日毎晩、藤代町の木更津屋の二階で、お駒ちゃんを相手に猛烈な稽古をつけていった。稽古といっても、手品の部分は、日本一太郎のあたまの中にあることなので、お駒は、そのなかの踊りだけ受け持てばいいのだった。が、その踊りがまた大変なもので、踊りの心得のないお駒ちゃんには、骨が曲げられるような苦しみであった。
が、十日もすると、お駒ちゃんの差す手抜く手がすっかり板についてきて、そのたっぷりしたからだで、見事な線をつくり出すようになった。
それは、日本一太郎とお駒ちゃんと、両方の
「おめえの踊りは大したものだよ」
日本一太郎は、破れ三味線の手をやすめて、木更津屋の壁にもたれてうっとりとしながら、よくこういった。その壁は、雨もりのあとが不思議な模様のように見えていて、どうかすると、一寸法師のような形をした、灰いろの
「どうしてなかなか結構もんだ。
「できることを、できないといって隠すいわれもないじゃあないか。あたしゃ、みんなと同じで、一つできることなら二つも三つもできるといいたい性分なんだよ。ほんとに、踊りのおの字も知らなかったんだけれど、今じゃあ自分でも驚いているのさ。何だかこう雲にでも乗っているようで、ひとりでに手足が伸び縮みして動くんだよ」
「ひとりでにそれだけ踊れりゃあ、世話はねえ。大したもんだ。木場の甚さんにも話して、一小屋引き請けることになっているのだから、この分だと、いよいよ祭がきて
「お前のほうはそれでいいだろうけれど、あたしは、この自分の手踊りが心配でならないんだよ。せっかくの大きな
「なあに、そんなことはねえ。それどころか、ま黙って見ているがいい。おめえは今度の舞台で、江戸中の評判になるのだ。この日本一太郎がついているのだ。その日本一太郎が大丈夫金の
日本一太郎は、こういい残して、その藤代町の木更津屋を出ると、その足で式部小路の磯屋へやって来た。そして、磯五の居間へ通されて、ぼんやりした顔で待っているところへ、ふところ手をした磯五がのっそりはいって来たので、日本一太郎は、
挨拶もないのだ。それほどの仲なのだ。
「おう、磯五え」日本一太郎が、口の隅から押し出すようにいった。「お高坊のほうがうまくいって、おいらもおめえも、こんな安心なことはねえ。なあ、祝いごころで、ひとつ手妻ばかりの小屋をあげようと思うのだが、どうだ大将、見に来ねえか」
一
磯五は、お高に大金がこようとして、だいたい本人ということがわかっていても、お高の父として死んだ相良寛十郎という御家人がほんとのお高の父の相良寛十郎ではなくて、ほんとの父の相良寛十郎はまだ生きているらしいので、その実父が出てくると万事解決するといってみんなが、探しているということを、木場の甚から聞き出して、さまざまにあたまを悩ましたのだった。
というのは、お高は、名義のうえでは自分の妻ということになっているのだから、お高が、そんな大きな財産の
木場の甚をはじめ、その身内の若い者や、一空和尚が探しまわっているのだから、とても磯五が一人の手で探し当てることができるわけもなければ、またその方便もないのだった。
ところで、偽物を仕立てるといっても、木場の甚や一空和尚は、以前の相良寛十郎の顔を見知っているのででたらめのこともできない。そこで磯五は、何度も木場の甚のところへ通って、それとなく実の相良寛十郎の人相を聞いて、ふっと思い出したのが、むかし上方のほうを放浪していたときに、ちょっと出会ったことのある、日本一太郎という手妻使いの太夫である。
思い出してみると、他人の空似ということをいうが、木場の甚の話によって磯五の心にでき上がった相良寛十郎の面影とこの日本一太郎は、年恰好から顔つき物腰までそっくりだったので、あれならきっと木場の甚や一空和尚の首実検にあっても、何しろ長らく見ないことではあるし、きっと通ってお高の実父ということになりすまし、その結果、お高は難なく財産を受けつぐことになるであろうと、そこで、自分は幸い日本橋の
「それじゃあ、あっしが、その柘植のお高、もと高音といった女のおやじだと名乗って、面を出せばいいのですね」
「そうだ。いうまでもねえが、おれとは関係のねえことにして、木場の甚が、大岡様にお頼みして、自身番や寄合所に貼り紙がしてある。どこかでその貼り紙を見て、それで飛び出したことにしてもらいてえのだ」
「承知しやした。ものになるかならねえか、ひとつやってみやしょう」
で、案外、すらすらと引き請けてこの日本一太郎がお高の実父相良寛十郎であると名乗り出ると、案のじょう、木場の甚も一空さまも、磯五の思ったとおり、あまり似ているのですっかりほんものととって、それでもいろいろとためしてみる。
ところが、柘植の家のことや家出前後の事実は、磯五が、以前お高から、今また木場の甚から聞いたところをあらかじめ含めてあるし、また日本一太郎のいうところが奇妙にいちいち
すべてがうまくいって、お高はいま、莫大な女分限者である。磯五は、離れてはいても、そのお高の良人なのだ。そろそろ何だかんだと金を引き出してやろう。さもなければ少しまとまった金を分けさせて、それで正式に縁を切るようにしてやろうと、磯五はその機会を待っていろいろに考えながら、このごろは、上きげんの日が続いているのだ。そこへ、だしぬけに日本一太郎がやって来ての話である。
「お高のほうがうまくいって、おめえもおいらも、こんな安心なことはねえのだ。どうだい。こんどひとつ手品ばかりの小屋をあけようと思うのだが、なあ大将、景気づけに見に来てくれねえか」
磯五は、場所や
二
七月十三日は
手妻などというものは大道のものか、小屋に掛かってもほんのつけたりのもので、うどん粉のようなつなぎに過ぎなかったのが、はじめて一本立ちの興行をすることになったのだし、それに、さすらいの手品師日本一太郎老人にも、芸人としての
ことに江戸で有名な顔役の
「なあ、お駒ちゃん、おめえはこれで江戸中の人気をさらうのだぜ、みっちりやってもらおう」
「それは、わたしもこれで、芽を吹くか吹かないかの瀬戸ぎわだもの、みっちりやることはやっているけれど、江戸中の人気をさらうなんて、そんな見えすいたおだてはよしておくれよ」
「ところが、決しておだてでもお世辞でもねえのだ。おめえは自分の踊りっぷりがわからねえし、それに、おいらの頭ん中にある天人娘夢浮橋の
いや、芸人商売ばかりじゃねえ」と、日本一太郎は何か急にしんみり考えこんで、
「この世の中におさらばするかもしれねえのだ」
「何をいっているんだい」
天人娘夢浮橋の衣裳が届いてきたので、お駒ちゃんは、その、日本一太郎の考案になる、羽衣の天人のような着付けで、本式に稽古の身振りを励みながら、
「あたしの出るところは、ほんのちょっぴりなんだろう? 当てれば、日本一太郎というお前の名が上がるばかりさ。お前の名を上げてあげようと思って、あたしはこんなに稽古に力を入れているのさ。いやだよ。じぶんのことなんか考えてみたこともありあしない。第一、お前、この世の中におさらばするなんて縁起でもない。莫迦ばかしいこというもんじゃないよ」
「いんや、そうでねえ。おいらはもうこの
お駒は、日本一太郎がときどきへんなことをいったりすることのあるのを知っているので、そのときはそれきり黙りこんでしまった。
祭の迫った十日に、日本一太郎とお駒ちゃんは、その木更津屋の宿を引き払って、王子権現の境内に木場の甚の手で建てられていた小屋掛けのほうへ移って行った。楽屋にごたごたころがっている手品の道具のかげに、
両国で日本一太郎と同じ小屋にいた
三
あすふたをあけるという前の晩に、日本一太郎は妙に考えこんで、楽屋の太い丸太の柱にもたれかかって、ぼんやりお駒ちゃんを見上げていた。日本一太郎は、どっちかというとおしゃべり屋のほうなので、それがときおりこうしてふっと黙りこむと、ことさら
お駒ちゃんは、その辛気臭くしている日本一太郎がいやであったから、あしたを控えて、町のようすでも一まわり見て来ようと思って、裏ぐちの
「おめえは小屋にいなけりゃあいけない。いまたずねて来る人があるのだ」
「何をいっているんだい。あたしゃ王子に知りあいなんかありゃあしないよ」
「まあ、いいってことよ。お駒ちゃんはここに待っているのだ。おいらは、ちょっくら一まわり町のようすを見て来よう。あすを控えて、気にならねえこともねえのだ」
日本一太郎は、いまお駒ちゃんが考えていたことと同じことをいって、お駒ちゃんを梯子口から押しのけるようにして、じぶんは、
「その人が来たら、おいらは今まで待っていたが、行き違いに出て行ったといってくんねえ」
そして、境内の立ち樹のあいだを縫って、まだそこここ小屋掛けやら飾り付けやらに立ち働いている人影といっしょになって町のほうに消えてしまった。
お駒ちゃんは、いままで日本一太郎がよりかかっていた太い丸太の柱に返ってその根元にしゃがんで、襟に顎をしずめて、いったい知りあいの人といって誰が来るのであろうかとぼんやり考えていると、いま日本一太郎がおりて行った梯子を上がって、そこの上がり口の筵をはぐって磯五がはいって来た。
磯五は、そこに思いがけなく、完全にすて切っていたお駒ちゃんを発見して、びっくりした。それは面白くないやつに出会ったと思ったが、磯五は、多くの女と、こういう場合には慣れているので、すぐ、そのむずかしい空気を笑いほぐそうとするように、自信に満ちた、巧妙な表情をするのだ。大げさに驚いてみせて、それからにこにこした。
「お駒ちゃんじゃあねえか。お
「お前こそ何しに来たんだい。日本一の師匠は、今まで待っていたけれど、行き違いに出て行ったよ」
磯五は日本一太郎のことなどは興味もなさそうに、その、頭巾の下のほの白い顔をこころもち傾けて、
「どうしたい、おめえ、おれの心がわかってはいないのか」
「そばへ来ちゃいけないよ。あたしゃ、お前の心なんかわかりたかないんだからね――でも、さんざ
「何をいっているのだ。おめえはどう変わろうと、おいらの心はちっとも変わっちゃいないのだ」
「じゃなぜ、妹だとか何だとか
「誰もほうり出しゃしねえ。おめえのほうで、追ん出たんじゃあねえか」
「出なくちゃならないようにしたのは、いったいどこの誰だろうね。見せつけに、あのお美代やおしんなんかとふざけたりして――誰だって、見ちゃあいられませんからねえ」
「つまらねえことをいわずに――しかし、ここでおめえを見つけたのは、まだ縁があるというものだ」
「うふっ。相変わらず口がうまいよ。もうこりごり。よりをもどそうの何のと、味なことはいわないでおくれよ、あたしみたいな
四
「馬鹿! おめえは何か感違いをしているのだ。おいらは――」
「もうよしておくれよ。聞きたくもない」
「そっちは聞きたくなくても、こっちはいいてえのだなあ、お駒ちゃん、お
磯五が、
ふり
いまその夢の中の磯五が、白く笑って、もとよくしたように、お駒ちゃんの肩に手をまわそうとしたので、お駒ちゃんは溜息をついて自分のほうからすり寄ろうとしたのだが、そのとき、お駒ちゃんの見たもの、感じたものは、ぱちぱちと音をたててはぜて、そこら一面に燃えさかる、太い、赤い
その火の中で、お駒ちゃんは、
「あっ! 何をしやあがる」
それは、お駒ちゃんが、火のような自分の感情の中で、磯五の
磯五は、感心したようににやにやして立っていたが、やがて、お駒ちゃんの憎悪に満ちた眼を見ると、はっきり怒りを感じて、つかみかかって来ようとしたが、そのとき、若い者や一座の手品師などががやがやいいながらおもてから筵をはぐって客席へはいって来たようすなので、磯五は、そのまま、すべるように裏の梯子をおりて出て行った。
日本一太郎が帰って来たとき、お駒ちゃんはまだ、狂気のように大きな声をたて、誰もいない舞台うらにひとりで笑いこけていた。
王子権現の祭の日本一太郎の手品の小屋は、満員だ。手妻に娘手踊りを加えた、新案の演し物天人娘夢浮橋が当たりを取ったのだ。五色の曇の書き割りで舞台にちょっと天上の景色を見せるという趣向も、受けたのだ。がお駒ちゃんはほんとのことをいうと、あまり感心しなかった。こんなものよりも、その前に二、三度出た、日本一太郎の指先の手品に心から感心していた。
出幕になって、お駒ちゃんは、羽衣天人のような着つけで舞台に立った。気おくれがしたが、一生懸命に踊った。見物のほうは一面の顔で、その顔を見わけることはできなかった。白いもの、黒いもの、黄色いものが重なり合って、ぼやけているだけだ。
舞台からすぐ近くのところに、磯五が、お美代とおしんをつれて、左右にすわらせて見物しているのなどは、お駒ちゃんののぼせた眼にははいらなかった。何も見ず、何も感ぜずにただ踊った。からだいっぱいと心いっぱいで踊った。かすかに感嘆の声を聞いたようでもあった。
日本一太郎の
眠っていた漁師が起き上がった。お駒の天女と、日本一太郎の漁師と、ふたりもつれ合って踊りになった。漁師が追いかけると、天女は逃げるように舞った。戦うような、からむような仕ぐさだった。漁師の手が届きそうになると、天女はするりとかいくぐってかわした。そこで雲に作られた大きな板が一枚、ふわりとおりてきて、その
その大事なところへきたので、お駒ちゃんが踊りにまぎらして上を見ると、雲の板が降りかけていた。お駒ちゃんはちょっと身構えをして雲を待った。一瞬間だが、しんとしたなかに見物の息づかいと蝋燭のゆらぎが感じられた。その蝋燭の光がだんだん大きく明るくなるような気がして、お駒ちゃんがふと奇妙なことに思ったとき、見物席に波のような怒号が沸いた。男と女と老人と子供の声のまじった、山くずれのような
お駒ちゃんははっとして、われにかえったような気がした。ぱちぱちと木のはぜる音がお駒ちゃんのまわりにあった。大きな赤い舌が舞台と書き割りと壁の筵と板囲いと、そのなかの人を包んでなめまわろうとしていた。締めるような熱さが四方から迫ってきた。その中で、雲の板が切り落とすようにおりてきて、舞台を打って大きな音をたてた。
お駒ちゃんは本能的にとびのいて、楽屋へ逃げ込もうとした。押された見物が、きちがいの群れのように舞台に駈け上がって来ていた。お駒ちゃんは、眼と口を大きくひらいて叫ぼうとしたが、臭い熱い煙がはってきて、声にならなかった。お駒ちゃんは、二つに折れて舞台を走りながら、つぶやいていた。火はもう小屋全体に高くあがっていた。
投げ入れ
一
「ふんそうか」
「ふん、そうか」
忠相は、江戸南町奉行大岡越前守忠相だ。
やがて、あくびをした。
「そうか。死んだか」
といって、じろりと敷居ぎわを見た。そこに、黄びらに、木場と染め抜いた麻の
「はい。死にましてございます。
「その、びんざさらの火事でな」
「はい。王子権現境内の手妻使い、日本一太郎と申すものの掛け小屋に失火がございまして――」
「これこれ」忠相が、ちょっと声を高めると、次の間との襖を背に、ぼんやり控えて殿と木甚との
「これ、気をつけてものを申せ。失火とは火を失う。過失、失態などと申して、すなわちあやまちである。その見世物小屋の火事はあやまちであったというのか。証拠は、あるか」
木場の甚は、にっこりした。
「証拠は、ございません。しかし、つけ火にしちゃあすこし腑に落ちませんので」
「放火ならば、
「それは、ございましょう」
「わかり切った話じゃ。何が腑に落ちん」
「はい、つけ火でないといたしますと、あまり都合のいいときに燃え出しましたようで。はい、何のことはないまるで、磯屋五兵衛を焼き殺すために――」
「はて。だから、放火にきまっておる」
「つけ火といたしますれば、
「放火したものか。それは、わかっておる」
「はあ?」
「放火したものは、死んでおるぞ」
「は」
「法により、その放火した者の
「――」
木場の甚は、平伏していた。伊吹大作は、すこしずつ何かがわかりかけてきたように、眼をきらめかせて、横を向いているのだ。
二
政朝に
そのころ、ところどころへ名も住所も書いてない捨て文をして、法外のことがあるので、毎月、二日、十一日と日を限り、評定所の外の腰掛けに箱を出しておく。書き付けを持って来て、この箱へ入れるのだ。
時間は、昼間の九時間だ。箱のそとへ落としても何にもならない。悪人の仕置きに参考になる、証拠や反証でもいい。役人の私曲非分は、大いに歓迎する。
が、単にじぶんのためや、
投書はみな持って来て箱へ入れなければならない。訴人の名前、宿所は必ず明記すること。これのないものはお取り上げにならない。
続々と投書があつまるなかに、天下国家の政道に関するものも多いが、個人の隠れたる犯罪をあばいてくるものもすくなくない。その中に、以前からちょくちょく、日本橋式部小路の呉服太物商磯屋五兵衛を
一は、龍造寺主計と名乗る浪人から、二は、下谷拝領町屋雑賀屋の寮の料理人久助という者から、三は、小石川金剛寺内洗耳房の禅僧一空からであった。
三通とも、日本橋式部小路の呉服屋で、茶坊主上がりの磯屋五兵衛が、陰で色仕掛けで悪いことをしている事実に触れたもので、龍造寺主計は、彼が、庄内十四万石、酒井左衛門尉の国家老をつとめている弟の龍造寺兵庫介から金はふんだんに出るので、そのとき若松屋惣七が失敗して困っていた掛川宿の脇本陣具足屋に金を入れて、その経営を引きうけて江戸を発足するまえに目安箱へ入れたものであった。
それは、磯五が上方における若竹との旧悪から、おせい様をたぶらかして磯屋の店を手に入れたこと、それから若松屋惣七の両替ならびに
第二の久助の訴状は、じぶんの娘のお駒と磯五の関係、磯五とおせい様の仲、おせい様をいいようにして金をせしめようとしている磯五の手段など、それも、
第三の一空和尚のは、若松屋惣七方の女番頭お高という女が、名義上磯五の妻ということになって縛られていて、そのため再縁はもとより、思うままに暮らすこともできず困っているからなにとぞお上の力でその縁を切って、お高を自由にしてもらいたいという、やはり色事師らしい磯五の
目安箱は評定所
市井の
法は、法を用いざるをもって最上とし、取り締まりは、取り締まる必要のないように、ことを未前にふせぐのが、その任にあるものの分別である。忠相は、磯五のことが気になって、それとなく気をつけながら、おもて立った事件にならないうちに、何とか解決をつけようと試みたのだ。
忠相は、早くから、この式部小路と、金剛寺坂と拝領町屋をつないで、うごく推移に、眼を凝らしてきたのだ。じっと、遠くから見守っていたのだ。すべての小事件、すべての人の動き、それらはみな、いながらにして忠相の知るところだった。目前に鏡をかけて遠景を映して見るように、忠相は何もかも知っていたのだ。
そのために彼は、三人の人物を使ったのだった。ひとりは、
これは御用の役人といえば役人であったけれど、他の二人は、全く私人関係で、忠相に頼まれてうごいた人たちだった。ひとりは若松屋惣七の従妹の歌子で、もう一人は、若松屋惣七と歌子の親友である紙魚亭主人の麦田一八郎であった。
三
はじめ忠相は、若松屋惣七の身辺に近い者を求めて若松屋惣七の側から、惣七を通して、磯五を探ろうと考えて、若松屋惣七の縁辺を物色して、歌子を得たのだ。
歌子は、惣七の
ふたりは、そのために多勢で片瀬の龍口寺へお詣りしようとして、それはお流れになったけれど、そのかわり、雑司ヶ谷の雑賀屋の寮まで出かけたり歌子は、おせい様と同道して、東海道を由井宿まで旅したりした。
それがいちいち報告されて、忠相は、手の平を読むように、もう磯屋五兵衛をつかんでしまっていた。こうして磯五のまわりには、眼に見えない法の網が、日一日と細かく編まれつつあったのだ。
このやさきに、木場の甚の手に持ちあがったのが、和泉屋の一部を柘植の財産として柘植家の唯一の血筋であるお高に譲ろうとの一件だ。
和泉屋という
和泉屋からも、非公式に具申してきていたし、それよりも、木場の甚は、ふるくから深川の顔役で、
また奉行の忠相と、相対ずくで
だから、お高の実父の相良寛十郎という御家人がまだ生きているはずで、それが現われないのでお高のほうへ行くべきものが一時迷っているときに、木場の甚の願いを許して、江戸中の番所、寄会所、湯屋、髪結い床など人眼につきやすい場所に、あの、相良寛十郎のその後や
その貼り紙が出て、日本一太郎なる手妻使いの芸人が、じぶんこそそのお高の父の相良寛十郎であると名乗り出て、そのために、和泉屋の口をはじめ、お高に巨額の財産が移ったのだが、事実は、その日本一太郎は、磯五の思いつきで、磯五に頼まれて、父と称して出たというのだ。
磯五は、
「あの磯五てえ男も、利口なようで馬鹿なやつでございます」
木場の甚が、何かしんみりした口調でいい出していた。忠相は口をつぐんで、むう、むう、というような音を舌の上でころがしながら、じろりと木甚を見ただけで何もいわなかった。木場の甚がつづけた。
「あの日本一太郎を
「そうさな。愚かなやつであったな」
「あのまた、日本一も人が悪うございますよ。自分がお高の
「申しおる。お前が、前もって、かの日本一太郎を見つけ出して、そっと磯五とそういう話し合いになるように、日本一太郎のほうから磯五へ、それとなく
忠相がほほえむと、木場の甚も笑い出すのだ。
「どういたしまして。殿様こそお人がわるい。こうしてああして、磯屋に日本一を近づけるようにしろ。これでひとつ、磯五を取って押えるようにしようではないか――とおっしゃったのは、あれはいったいどこのどなたさまで!」
二人の笑いに伊吹大作も加わつて、そこへ、そよ風が吹いてきて、青葉のゆらぎがゆらゆらと部屋中にうごいた。
四
どうして火が起こったのかわからなかったが、はやい炎の舌だった。お駒が気がついたときは、日本一太郎の姿はどこにも見られなかった。
お駒のまわりには、赤い火の色と、ぱちぱちいう木の燃える音とがあるだけで、その中に、
じっさいそれは、日本一太郎が取り出してみせた、最も効果的な、もっとも幻想的な手品の一場面であった。お駒ちゃんは、今度の興行では必ず江戸の評判になって、一世一代の花を咲かせてみせるといった日本一太郎のことばを想い出して、一生懸命に舞台を駈けまわって火とけむりの下をくぐりながら、あの人はこのことをいったのであろうと薄気味わるい気がした。
火は高く上がって、どこからでも見えるようになっていた。王子権現の手妻小屋が火事という声は、かすかに煙の見える範囲へまでたちまちのうちにひろがった。遠く近く半鐘が鳴って火消しが集まりつつあった。場所が祭の雑沓なので、騒ぎは倍にも三倍にもなった。
お駒ちゃんは、その天人姿の
お駒ちゃんは
がお駒ちゃんは、いまその女たちのことをどうこう恨みがましく考えているのではなかった。ただ、お駒ちゃんがよく見ると、磯五がおしんとお美代をかかえているのではなくて、おしんとお美代が左右から磯五に取りすがって、磯五の進退の自由を奪っているのだ。
お駒ちゃんは、その二人の女へのくやしさなどはこの場合忘れていた。そんなことはどうでもよくて、三人を助けたかった。ことに磯五は、何とかして救い出したかった。何ともして助けなければならなかった。
ところがお駒ちゃんが夢中で舞台を飛びおりて、人をかき分けてやっと磯五のまえまで行くと、磯五とおしんとお美代と三人がいっしょにお駒ちゃんを見つけて、三つの口が同時に叫んだ。それは叫んだのではなくて、叫びも何もしなかったのを、お駒ちゃんにだけ、まるで三人が叫びでもしたように、大きな声で聞こえてきたのかもしれなかった。
磯五の声は、こう聞こえた。こう聞こえたような気がした。
「お駒! 苦しい。助けてくれ! おしんとお美代がおれを殺そうとしているのだ」
それと同時に聞こえた、あるいは聞こえたような気がしたおしんとお美代の声は、全くおなじ文句であった。
「お駒さん! 近寄っちゃいけません。近よらないでください。あたしたちは、ふたりとももっと苦しいんですよ。ですから、二人で相談して、いま、この火事を幸い、いっそ磯五さんを仲に、三人で心中するんですよ。無理心中ですよ。決して磯五さんを離しませんよ。ここで三人で死ぬんですから――」
お駒ちゃんは、せめて磯五だけでも助け出したい、助けなくてはと思って、その磯五にしがみついているおしんとお美代にかぶりついて行ったのだが、ふたりは、まるで女とは思えない力で磯五を抱き締めていて、お駒ちゃんにはどうすることもできなかった。
磯五は、ほう、ほうというような、
お駒ちゃんは、じぶんが死にそうになるので、磯五のかたわらを離れて小屋のそとへはい出したのだが、お駒ちゃんが最後に見たものは、おしんとお美代にがっしとおさえられて、火煙の中から柱のように首を伸ばしてもがいている磯五の顔であった。
五
「すると、その駒と申す
忠相がきくと、木場の甚はうなずいて、
「さようでございます。助かりましてございます。じぶんでは、まるで夢のようで、何事もとんと
「それは、よかった。いやしき女ながら、心がけのよいものである」
「さようでございます。焼け死んだのは三人でございます。男女の別も
「ふむ、その無理心中の三人であろう、女どもは、心柄とはいい条、可哀そうなことをいたしたな。日本一太郎はいかがいたした?」
「さ、その日本一太郎でございますが、
「探すな」
「はい」
忠相はふたたびほほえんで、
「それとも、探し出して、そちと突き合わせてやろうかの」
「は?」
「いや、よそう。そちが困るであろうから」
「へへへ、お殿様、御冗談で」
「冗談ではないぞ」
「御冗談ではございません、といたしますと?」
「いって聞かそうかの」
「どうぞ。
「日本一太郎は、死んだのじゃ。近く死ぬようなことを申しておったに相違ない。死んだことにしておけ」
「は」
「死んだほうがよいのじゃ。高とやら申す、その娘のためにも」
「なぜでございましょう」
「父らしゅうない父であったことを今さとって、恥じているからじゃよ。しいて愛情を殺して、娘にもよそよそしくしておったことであろう。娘の妨げにならんように、身を隠したかったに相違ないな。
死んだものじゃ。すておけ、すておけ。身を殺し、また、娘の悪夫を殺して俗に申す腐れ縁、それから娘を解き放したのじゃよ。見上げた分別じゃ。ほめてやれ。が、ほめてやりとうても、仏であったな。あははは、拝んでやれ」
木場の甚はにっこりして、その笑顔を隠すためのようにうつむいた。が、忠相は、すばやくみつけて、
「笑いおるな、そろそろ参るぞ。よいか。ここにひとり、
「へ」
「日本一太郎と計らって、はじめから筋を編んだな」
「――」
「まず、日本一太郎の手品というに眼をつけたな」
「――」
「つぎに祭である。もってこいじゃ。そのおやじは
「――」
「日本一太郎とは、はじめから手はずがついているのじゃが、待てよ、その日本一太郎は、昔しりあいの
いよいよ、おやじめと取り決めた計略を行なわんと、いっそうこころをおどらして、それとなく、娘の夫なる者にも来観を依頼する」
「――」
「その者は、
「恐れ入りましてございます」
「何も、そちが恐れ入ることはない」
「いえ、恐れ入りました」
「そうか。恐れ入ったか」
「恐れ入りました。が、二つほど手前にはまだわからぬところがございます」
「何がためにさような手品を考案いたしたか、また、何ものが都合よく火を失したか、この二点であろうがな」
「御意にございます」
「ついでじゃ。いって聞かそう。一に、その
木場の甚も、そばで黙ってきいてきた伊吹大作も、いつのまにか平伏しているのだ。
忠相は、庭の木もれ陽に眼を細くしながら、ひとり言のようにつづけて、
「が、火事は
うめくようにいった。木甚はいっそう平たくなって、
「申しわけございませぬ。やり過ぎましたでございましょうか」
「火事は、放け火であるぞ」
「はっ」
「放け火は重罪。家財没収、家は没落じゃ。磯屋五兵衛の遺産いっさい、家屋敷、有り金、蔵の品、すべて取り上げるがよい」
「あの、磯五が放け火を――」
「さようじゃ。小屋に火を放ったのは磯五である」
「はい――して、その、お召し上げになりました磯屋の財産は」
「出したところへ返るのじゃ。拝領町屋の雑賀屋とやら申したな」
「恐れ入りましてございます」
「貴様にも似合わん。きょうはよく恐れ入る日じゃな。いや、法を用いずして、よく法を達してくれた。四方八方、届いた計らいじゃ。近ごろの会心事、礼をいうぞ」
忠相は、そのまますっとたち上がると、そっと
これより以前に、若松屋惣七は、東海道の旅をつづけて、掛川宿に着いていた。小田原、府中、まりこ、岡部、ふじ枝、島田、大井川を渡って、そこからまた
若松屋惣七の駕籠が広い間口のまえにおりると陽がかんかん照って通行人がぞろぞろ歩いて犬が走っていた。
雲の峰
一
掛川は、人口もかなりあり、いかにも太田摂津守五万三十七石の城下らしい、どっしりと古びた町だ。具足屋は、龍造寺主計が来てから、すっかり面目を一新して、これだけの町の脇本陣の名にそむかない、立派な間口と、絶えない客足を誇っていた。駕籠がとまって若松屋惣七がおりるのを見ると、
が、駕籠が一つきりなのを見て、龍造寺主計は、ちょっと失望のいろをうかべて、
「お主だけか――」
と、いった。このことばの影には、お高はいっしょに来なかったのかという意味があったのだが、若松屋惣七は気がつかなかった。まして龍造寺主計の失望の色には、少しも気がつかなかった。
「うむ。しばらくでありましたな」
きげんよく笑って、立った。龍造寺主計もすぐ気がついて、瞬間のうちにその失望から立ち直って、いつもの快活な彼に返っていた。いま、お主だけか、と驚いたように聞いたことに引っかけて、
「お主だけか、ひとりではたいていではなかったであろう。眼は、もうよいのか」
「眼か。よいようでもあり、よくも悪くもならんでもあり――龍造寺殿の顔ぐらいははっきり見えるよ。ときに、だいぶ繁盛のようじゃな」
「来るくるといって来んもんだから、いかが致したかと思っておった。後刻ゆるゆるとそこここ見てもらいたいし、その後の商売の模様など、話はいろいろ積もっておる」
二人は、久しぶりに会った兄弟のような気もちに、とけ合って行っていた。龍造寺主計の案内で、若松屋惣七は、具足屋のうちからそとからそこここ見てまわって、その後の商売の模様などいろいろと話し合った。
帳面の上では非常なもうけになっているのだが、つい最近まで兄の借金が残っていて、そっちのほうへまわしていたため、このごろになって具足屋は、やっと龍造寺主計の
帳場の奥の部屋へ通ると、若松屋惣七はあらためて龍造寺主計に礼をいった。武士上がりで今は、
若松屋惣七が礼をいうと、そのときは龍造寺主計はすぐ武士に立ち返って、
「なあに、おれには何もできはせぬ。これもすべて、江戸の若松屋惣七がいよいよ真剣に乗り出したという評判が立ったからだ。いわばお主は、江戸にいて、この掛川の具足屋を生かしたのじゃ」
などとあっさり
「武道と商道は一致するものだな。どちらも気ひとつである。硬きがごとくして
とつるりと顔をなでて、もう何をいったか忘れたようにすまし返ったのだが、そのようすをぼんやり網膜へうつして、若松屋惣七は、相変わらずの龍造寺主計であるとにっこりした。
龍造寺主計の
経営の打ち合わせや、帳簿の引きあわせなど、そのために来た用事が、何日もつづいて尽きなかった。二人は、毎日帳場にすわって、話しこんだり、出入りの客に挨拶したりしていた。
よく雨が降った。雨雲を仰ぎながら、旅人の一団が前の街道を走り去ると、それを追って、白い
若松屋惣七は、遠く離れて、いっそうお高のことを真剣に思うようになった。龍造寺主計は、久しぶりに若松屋惣七を見て、そして、惣七といっしょに来るであろうと思っていただけに、またいっそうお高のことを思うようになった。ふたりは、ときどきぼんやり考えこんで黙りこんでいることがあった。
どっちか、先に沈黙に気がついたほうが、きいた。
「おぬし、何を考えている」
「お主こそ、何を考えておった」
二人とも、お高のことを考えていたとはいわずに、
「なに、ちょっと――」
と、同じことばを同時にいいあって、それから、いっしょに笑った。そして、ふっとまた黙りこくって、両方ともお高のことを考えた。
二
そのお高のことで、
この手紙を見ると、仕事もだいたい片づいたところだったので、若松屋惣七は、すぐ江戸へ帰ることになったが、龍造寺主計も、しばらく江戸を見ていないので、あとを東兵衛の妻女にまかせて、若松屋惣七といっしょにちょっと江戸へ出ようといい出した。若松屋惣七も、道づれにはなることだし、長らく田舎にくすぶってきた龍造寺主計に江戸を見せたい気も多かったので、二人はすぐに旅支度をととのえて出発した。
お高は、拝領町屋の雑賀屋のおせい様の家から、小石川金剛寺坂の若松屋惣七の留守宅へ帰ってきていた。晩春のような、だるい
磯五が焼け死んだことも、うれしいようであり、かなしいようであった。それは、自分があの
自分に財産がきてから、若松屋惣七が急によそよそしくしだして、とてもいっしょになる気もちなどはないらしく見えたからだった。財産のあるお高と夫婦になって、財産があるから夫婦になったのだと思われたくないという、若松屋惣七らしい意地だった。磯五という
お高は、誰の顔も見ないように、ほとんど一部屋に閉じこもって日を過ごした。心もちの苦しみが、からだの苦しみにまでなってきていた。その刺すような苦しみが、お高をはっきりと自意識にもどして、彼女は生き返ったような気がすることがあった。じぶんは今まで死んでいたのだと思うことがあった。
じっさい、お高は、この最近の磯五との交渉や、母のおゆうの遺産受け継ぎの問題などで、多くのいざこざを[#「いざこざを」は底本では「いざくざを」]重荷のように負わされていたのから解放されて、もとのさわやかなお高にさめつつあった。よみがえりつつあった。
恋だの愛だのという心臓はふさがって、いのちは糸のようにほそっても、大きな財産さえあれば、幸福である。それが何よりの慰めになるという人が、世の中にはすくなくないものだが、お高の場合は、そうでなかった。反対だった。
さびしい、しかし、生きいきした光を持ち出してきた眼を壁にすえて、
「もうじき身ふたつにおなりになるのさ」
膳を運んでくる国平が、供部屋へ帰って、佐吉と滝蔵にささやいたりした。
若松屋惣七と龍造寺主計が帰って来ると、お高は、長いことためらっていて、その、惣七の帳場になっている奥の茶室へはいって行かなかった。龍造寺主計が、あの初めて来たときのように、庭を隔てた
若松屋惣七は、着がえをすまして、よく見えない眼を庭へ向けているところだった。それは、お高がよく見慣れた座像であった。お高は、
若松屋惣七は、風のようなお高のにおいを感じて、その来る方向へからだを転じてすわり直した。お高を受けとめようとするように両手をひろげたが、お高は、すこし離れたところにくずれてしまって、その手の中へはころげ込まなかった。
「いま滝蔵から聞いた。ここに帰って来ておったのだそうだな」若松屋惣七は、
「旦那様は、わたくしになど、もうお会いくださるお気もないのでございましょうけれど――」
三
「そうでもない。会いたくないくらいなら、何もこういそいで掛川からもどって来ることはないのだ」
「では、おあいくだすっても、どういうことになさろうというお気は、ないのでございましょう。そうなのでございましょう」
「どういうことにするとは、どういうことだ。愚かな、わけのわからんことをいうものではない」
「具足屋のほうはいかがでございますか」
「芽を吹いたどころか、みごとな花が咲いて、やがて、たいした実がなろうぞ」
「龍造寺主計さまが、ごいっしょにお帰りになったようでございますねえ」
「うむ。用もないが、ま、久方ぶりに江戸見物というところである。あとでお眼にかかるがよい」
「――」
「からだのほうはどうか」
「はい」
「一空さんから来書があって、それで急にもどって来たのだが、磯五が焼死いたしたというではないか」
「はい。父の手妻小屋の火事で、おしんさんと、それからお美代とか申す女と、三人で焼け死にましてございます」
「天命じゃ。が、いささかさびしい気もするな」
「そのうえ、あの人が火をかけたことになりまして、南の大岡様のお計らいで、火つけあつかいでございます。地所、家作は申すに及ばず、蔵から店の品物まで、そっくりお取り上げになりまして、いっさい、おせい様へお下げになりますのだそうでございます。磯屋の店はつぶれましてございます。せいせいいたしました。それに、おせい様も、何やかやと磯五にとられましたものが皆手に返ることになりまして――」
「それは、何よりであった。ところで、磯五がそうなってみると、お前も自ままじゃの」
「――」
「自ままじゃの」
「はい」
「――」
「旦那様」
「――」
「なぜそこまでおっしゃって、そのままお黙りになっておしまいになるのでございます。わたくしは、何をそんな、お気にさわるようなことをいたしましたろう? あんまりでございます。あんまりむごうございます」
「むごい? このわしがむごいというのか」
「さようでございます。むごうございます。あんまりでございます。あんまりななされ方でございます。おうらみでございます」
「ふうむ、そのわけを聞こう」
「はい。磯五がなくなりまして、わたくしは、もう晴れてどうともできる身の上でございます。それなのに旦那様は、まるで他人のような口をおききあそばして――でございますけれど、わたくしは、何を申し上げているのでございましょう! じぶんながら、気でも違ったのではございましょうか。どうぞ、お聞き捨てくださいまし」
「そのことか。そのことなら、はっきり申す。断わる」
「おうちへお入れくださらないとおっしゃるのでございますか」
「そうじゃ。どうにもならん」
「わたくしが継ぎました母のお金のことでございますか」
「若松屋も、金持ちの若後家といっしょになったとは、いわれとうない」
「まあ、お金もちの若後家とおっしゃるのは、それはわたくしのことでございますか」
「さよう。まずそこらであろうな」
「お金持ちの若後家――おことばではございますが、あまりな面当てのようではございますまいか」
「面あてであっても、つら当てでなくても、それがほんとのところだ」
「――」
「金のある女など、きらいだ。いかにいわれても、どうにもならん。その、どうにもならんことに
「でも、お金などございましても、ございませんでも――」
「同じだといいたいのだろうが、おれの気もちが違うな。お前に金がきてから、お前は遠いところへ行ってしもうた。わしの手の届かん遠いところへ行ってしもうた」
「わたくしはちっともそういうつもりはございません。そんなところがすこしでも見えようとは、じぶんでは思いませんでございます。やはり旦那様は、お気がお変わりなすったのでございます。そういうことをおっしゃって、それをいいことに、わたくしをおしりぞけなさろうというのでございます。高には、よくわかっておりますでございます」
「なに! 黙れっ!」
四
何、黙れと若松屋惣七がすこし大きな声を出したとき、縁の障子のかげにちらと人かげがしていたが、若松屋惣七もお高も気がつかないで話をつづけた。縁の障子のかげにたたずんでいる人物は、龍造寺主計であった。
龍造寺主計は、別に立ち聞きするつもりで来たのではないが、そこまで来て、
で、そうやって聞いていて、彼は初めて、お高と若松屋惣七の関係と、若松屋惣七に対するお高の気もちを知ったのだ。龍造寺主計は、それを知っても、失望も怒りも感じないのだ。そういうよけいな感情は、長いあいだの放浪で、彼はすり切らしていて持ち合わせがないのだ。
ただ龍造寺主計は、すべてがはじめてわかったような気がした。じぶんが掛川へ行く前にお高に嫁に来てくれるようにといったことがあるが、あのときお高が困ったようなようすを見せて、断わりにくそうに断わったわけも、読めた。
龍造寺主計は、あれ以来掛川で奮闘して、お高を迎える日をたのしみにしていたのだし、今度出て来たのも、実のところはお高を見るために過ぎなかったのだが、若松屋惣七とお高の仲と、ことに惣七に寄せるお高のこころもちを知ると、龍造寺主計は、じぶんの気もちなどはすぐ忘れて、晴ればれすると同時に、お高への同情が、そのがっしりした胸に雲の峰のように沸き起こってきた。
それは、龍造寺主計において、自然すぎるほど自然な転化だった。そのお高に対する同情は、いま、お高の財産ゆえにお高の恋を退けようとしている惣七への憎しみでもあった。
この二つは、龍造寺主計にとって、同じ感情であった。そして、龍造寺主計のあたまの中で、同じ度合いと速力で進んだ。お高が可哀そうになればなるほど、若松屋惣七が憎らしくなった。
龍造寺主計は、この、自分でも不思議な義憤に悩んで、隠れていることを忘れて、障子のかげでしめった。それはさいわい室内の二人には聞こえなかったが、龍造寺主計は、あやうく声に出していうところだった。
「意地もよいが、わからんことをいわるる惣七どのじゃな」
部屋のはなし声はつづいていた。龍造寺主計は、板縁に
いっているのは、若松屋惣七の声だ。
「しきりにむごいというが、何もむごいことはあるまい。お前にも、わしの気もちはわかっておるはずだ。おれは、戦っているのだ。お前を求める心と、おれは戦っているのだ。金と若さと美しさがあって何でもできるお前が、このおれのような、近ごろは商売もふるわぬ金貸しに一生しばられて動きの取れんことになっていいという法はない。あはははははは、おれはこれでも、自分を知っておるつもりだよ」
「何をおっしゃるのでございます。旦那様は、高を苦しめ、高を
どうぞ、そんな添えものをごらんにならないで、高をごらんなすってくださいまし。ほんとうに
「いかん。そういうことはならぬ。お前とおれは、何というても、これぎりのものだよ。どうにもならぬのだ」
「旦那様は、世間のおもわくばかりお考えでございます。そんなことより、もっと――」
「いいや、どうにもならぬ」
若松屋惣七がいい切ったとき、縁の障子のかげから、龍造寺主計があらわれた。龍造寺主計は、血相を変えていた。龍造寺主計は、刀を抜いて持っていた。
「若松屋。聞いておるとじりじり致すわ。話のわからぬやつだな。何ゆえお高どのをいれぬのだ」
「龍造寺どのか。貴殿の知ったことではない」
若松屋惣七が顔を向けると、龍造寺主計は、気が短いのだ。かっとして、若松屋惣七の顔へ刀をふりおろしたのだ。刀は、惣七の
同時にお高は、庭のむこうに一空さまが立って、じぶんを呼んでいるような気がして、
「はい」
と叫んで、はだしで戸外へ駈け出ていた。駈け出しながら、そして子供のように泣きながら、お高がちょっとふり返ってみると、龍造寺主計は、刀をぶら下げて、顔をゆがめて、ぼんやり惣七を見おろして立っていた。若松屋惣七は、ひたいの傷を懐紙でおさえて、端然とすわっていた。
五
数寄屋橋ぎわ、南町奉行所の腰かけに、木場の甚が来ていた。お調番所へ名前を通して、ここで待っているのだ。呼び出しを受けて、続々
若松屋惣七、龍造寺主計、おせい様、一空和尚につれられたお高、お駒、お駒の父の久助などが急に召し出しを受けて、みな不審そうな顔をあつめて、黙りこんでいた。重々しい空気に押されて、ひそひそ話もできかねるのだ。
お高は、小石川の上水へ身を投げたのが、金剛寺門前町の和泉屋の者に助けられて、一空さまのところに届けられていたのだ。そこへ、南の奉行所から差し紙が来たので、一空さま差し添えで
ちらちらと若松屋惣七のほうを見ると、若松屋惣七は、血の黒く固まった眉間の傷を見せて、何か
龍造寺主計は、一番平然としていた。何事もなかったように、ちょいちょいお高を見て、その
おせい様は、お駒といっしょに、久助を左右からはさむように押しならんで、心細そうなようすだった。それとも[#「それとも」はママ]うつむいてめいめいの手をみつめていた。
一空さまと木場の甚が丁寧にあたまをさげ合った。お高も、それで気がついて、木場の甚に挨拶した。
むこうを、遊び人風の男につれられた若い女が、町内の
お高は、控え所の窓へ眼をやった。窓のそとには、白い空があった。雲の峰が立っていた。それは、すくすくと高い雲の峰であった。お高は、何の形に似ているかしらと思って見ているうちに、その雲の峰が非常にいい
ふと振り返ると、若松屋惣七も、その雲の峰を、不自由な眼をほそめてながめていた。その若松屋惣七の顔はこのごろになくゆったりした表情だった。お高のほうを顧みて、微笑したようであった。お高も、ほほえみ返そうとしたとき、ぎいとお白洲の
白洲には、白い砂が、高い窓の洩れ日に光っていた。つくばい同心が左右にしゃがみこんで、正面の高い座の下には、
「早くはいれ」
砂にすわって待っていると、奉行の
名や所の読み上げがすむと、忠相の調べは早かった。
事件は、おもて向きはお高の入水の一件だったが、忠相は、それを取り上げて、この紛糾のすべてを快刀乱麻的に解決しようとする
忠相は、片頬に笑みを浮かべながら、ひとり言のような調子で、ぱたぱたと片づけて行くのだ。
「龍造寺主計、吟味中ことばを改める。そちは、宿屋の亭主と申すが、宿屋の亭主が、大刀をふるって人の眉間を斬るか、宿屋の亭主か、武士か、どっちかになりきれ。すなわち、庄内藩へ帰参するか掛川の具足屋とやらへ帰るか、どちらに致す? 返答せい」
「それは、掛川へ帰らせていただきとう存じまする」
「うむ。よくよくさむらいがきらいじゃとみえるな。つぎにおせい、そちは、磯屋五兵衛の遺産いっさいを受けとったであろうな。何もかかりあいじゃ。磯五の命日をみてやれ。
さて、駒とやら申すはそちか。そちは、踊り振り事の類をもって身を立て得ると聞き及ぶが、当分、父久助とともに木場の甚方へ
皆の者、よくわかったな。よろしい。一同立ちませい――ああこりゃ、それなる盲人は何者じゃ? なに、若松屋惣七。いや、何者でもよい。眼が不自由では困ろう。誰か寝起きの世話をするものはあるか。うむ、これ、ちょうどよい。その高と申す
高、死んだ気になって、働け。よく惣七の世話をみるのじゃ。惣七はまた、高の身柄を受け取るのではない。高の中に宿っているおのれの世つぎを受け取るのじゃ。高はどうでもよかろうが、腹の子は、そちのものじゃ。致し方がないによって、高も、腹の子のいれものとして納めておけ。高の財産を管理して行くうえにも、そちの才腕と世つぎの子は、大切であろうぞ――立て」