釘抜藤吉捕物覚書

宙に浮く屍骸

林不忘




      一

 空はすでに朝。
 地はまだ夜。
 物売りの声も流れていない。
 深淵を逆さに刷くような、紺碧こんぺきのふかい雲形――きょう一日の小春日を約束して、早暁あかつきの微風は羽毛のごとくかぐわしい。
 明け六つごろだった。朝の早い町家並びでも、正月いっぱいはなんと言っても遊戯心地あそびごこち、休み半分、年季小僧も飯炊きも、そう早くから叩き起されもしないから、夜が明けたと言っても東の色だけで、江戸のまちまちには、まだ蒼茫たる暗黒やみのにおいが漂い残っていた。
 昼から夜になろうとするそや彼、たそがれの頃を、俗に逢魔おうまが刻といって、物のが立つ、通り魔が走るなどといいなしているが、それよりもいっそう不気味な時刻は、むしろこの、夜から昼に変ろうとする江戸の朝ぼらけ――大江戸といういらかの海が新しい一日の生活にその十二時の喜怒哀楽に眼覚めんとする今それは、眠っていた巨人が揺るぎ起きようとする姿にも似て、巷都まちを圧す静寂しじまの奥に、しんしんと底唸りをはらんでいるかに思われる。いわば、長夜の臥床ふしどからさめようとする直前、一段深く熟睡うまいに落ち込む瞬間がある。そうした払暁あさのひとときだった。
 この耳に蝋を注ぎ込んだようなしずけさを破って、
「桜見よとて名をつけて、まず朝ざくら夕ざくら――、」例の勘弁勘次の胴間声どうまごえが、合点長屋の露地に沸いた。「えい、えい、どうなと首尾して逢わしゃんせ、とくらあ。畜生め! 勘弁ならねえ。」
 綽名の由祖ゆらいの「勘弁ならねえ」を呶鳴り散らしている勘弁勘次――神田の伯母から歳暮くれに貰った、というと人聞がいいがじつは無断借用といったところが真実らしい、浅黄に紺の、味噌漉し縞縮緬の女物の紙入れを素膚すはだに、これだけは人柄の掴み絞りの三尺、亀島町の薬種問屋近江屋がお年玉に配ったあらの手拭いを首に結んで、ここ合点小路の目明し親分、釘抜藤吉身内の勘次は、いつものとおり、こうして朝っぱらから大元気だった。
 いい気もちそうに、しきりに声高に唄いつづけている。
「可愛がられた竹の子も、いまは抜かれて割られて、桶のたがに掛けられて締められた――ってのはどうでえ。勘弁ならねえや。ざまあ見やがれ。」
 起き出たばかりの勘次である。まだ眠っている露地うち、自宅の軒下に立って、こう独りで威張りながら、せっせと松注連まつしめ飾りを除り外しているのだった。
 嘉永二年、一月十五日。この日、はじめて無事の越年を祝って、家々の門松、しめ繩を払い、削り掛りを下げる。元日からきょうまでを松のうち、あるいは注連しめの内と称したわけで、また、この朝早くそれらのかざり物を焼き捨てる。二日の書初めを燃やす。これは往古むかし、漢土から爆竹の風が伝わって、左義長さぎちょうと言って代々行われた土俗が遺っているのである。おなじく十五日、貴賤小豆粥あずきがゆを炊くのは、平安の世のいわゆる餅粥の節供で、同時に毬杖ぎっちょうをもって女の腰を打つしきたりも、江戸をはじめ諸国に見られた。が、この本八丁堀三丁目をちょっと横に切れた合点長屋の藤吉部屋は、親分乾児の男三人、女気抜きの世帯だから、小豆粥は粥でも、杖でたたく柳の腰は持ち合わせがない。それでも、世間なみに松かざりだけは焼いておこうと、さてこそ珍しく勘次の早起きとなったのだが――「勘弁ならねえ」の喧嘩口調で、※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしるように取った型ばかりの門松や注連繩を、溝板を避けて露地の真ん中へ積み上げた勘次が、六尺近い身体を窮屈そうにしゃがませて、舌打ちとともに燧石ひうちの火を移そうとしていると――角の海老床、おもて通りの御小間物金座屋、あちこちで雨戸を繰る音。
 小蛇の舌のような炎が群立って、白いけむりが、人のいない露地をめる。
 と、その時である。あわただしい急足が合点小路へ駈け込んで来て、頭天あたまのてっぺんから噴き出すような声が、勘弁勘次の耳を打った。
「たっ、た、大変だ、大変だ! おっ、親分在宿うちかえ。」

      二

 江戸っ児のなかでも気の早い、いなせな渡世の寄り合っている八丁堀合点小路の奥の一棟――そのころ八丁堀合点長屋の釘抜藤吉といえば、広い八百八町にも二人と肩を並べる者のない凄腕の目明しであった。さる御家人の次男坊と生れた彼は、お定まりどおり、放蕩に身を持ち崩したあげくの果てが、七世までの勘当となり、しばらく草鞋を穿いて雲水の托鉢僧たくはつそうと洒落のめし日本全国津々浦々を放浪していたが、やがてお江戸ひざもとへ舞い戻って気負いの群からあたまをもたげ、今では押しも押されもしない十手捕繩の大親分――朱総しゅぶさ仲間の日の下開山かいざんとまでなっているのであった。脚が釘抜のように曲がっているところから、釘抜藤吉という異名を取っていたが、じっさいその顔のどこかに釘抜のような正確な、執拗な力強さが現れていた。小柄な、貧弱な体格の所有主であったが、腕にだけ不思議な金剛力があって、柱の釘をぐいと引いて抜くという江戸中一般の取り沙汰であった。これが、彼を釘抜と呼ばしめた真個ほんとうの原因であったかもしれないが、本人の藤吉は、その名をひそかに誇りにしているらしく、身内の者どもは、藤吉の鳩尾みぞおちに松葉のような、小さな釘抜の刺青ほりもののあることを知っていた。現代いまの言葉でいえば、異常に推理力の発達した男で、当時人心を寒からしめた壱岐いき殿坂の三人殺しや、浅草仲店の片腕事件などを綺麗に洗って名を売り出したばかりか、当時江戸中に散っていた大小の眼あかし岡っ引の連中は、たいがい一度は藤吉部屋で釜の下を吹いた覚えのある者で、また彼らの社会では、そうした経験が何よりの誇りであり、頭と腕に対するひとつの保証でもあった。で、繩張りの厳格な約束にもかかわらず、藤吉だけはどこの問題へでも無条件に口を出すことが暗黙のうちに許されていた。が、自分から進んで出て行くようなことは決してなかった。そのかわり頼まれればいつでも一肌脱いで、寝食を忘れるのがつねであった。つぎからつぎと各方面から難物が持ち込まれた。それを、多くの場合推理一つで、快刀乱麻の解決を与えてきていた。お堀の水に松の影が映らない日はあっても、釘抜の親分の白眼にらんだ犯人ほしに外れはないと、江戸の町まちに流行はやりの唄となって、無心の子守女さえお手玉の合の間に口ずさむほどの人気であった。
 ――「八丁堀合点長屋店人釘抜藤吉捕物覚書おぼえがき」という題で遺っている、大福帳のような体裁の、半紙を長く二つ折りにした横綴じの写本である。筆者は不明だが、釘抜藤吉の事件帖である。その筆初め「の字の刀痕のこと」の項に、親分藤吉の人物と名声をこう説明してあるのだ。それは以前、藤吉第一話のなかに書いたことだが、いまこうして、もう一度くり返しておくことも、あながち無駄ではあるまい。
 大声を上げて飛び込んで来たのは、町火消し組の頭常吉だった。
 竹片を突き刺して、火の通りをよくしていた勘弁勘次は、その竹を焚火のなかへ投げすてて、びっくり、腰を伸ばした。
「なんでえ。でっけえ声をしやがって――おお頭じゃあねえか。てえへんとは大いに変ると書く。めったに大変などと言うめえぞ。勘弁ならねえ。」
「勘さんか、」と組は肩で呼吸いきをして、「や、えれえことになった。大鍋だいなべのお美野さんがお前――。」
 言いかけたとき、立てつけの悪い藤吉方の格子戸を内部なかからがたぴし開けて、なんともいいようのない不思議な、眠そうな声が、水を撒くように冷たく、低く聞えて来た。
「かんかんのう、きうのれす、きうはきうれんれん、にいくわんさん、いんぴんたいたい、しいくわんさん……。」
 文化の末、大阪の荒木座で道楽者の素人芝居があって、その時人気を呼んだ唐人唄と称する与太ものなのだが、これが江戸へもはいって、未だちょいちょい流行っている。それはいいが、今その唐唄からうたをお経のようにおごそかに唱えながら現れたのは、藤吉第二の乾児――といっても二人きりなのだが、その二の乾児のとむらい彦、葬式彦兵衛だった。
 勘次があくまで鉄火者なのに引きかえて、この下っ引の葬式彦兵衛は、まるで絵に描いた幽霊のような存在で、しじゅう何かしらこの唐人唄のようなことを、ぶつくさ口の中でつぶやいているのみか、紙屑籠を肩に毎日江戸の巷を風に吹かれて歩くのが持前の道楽、有名な無口だまり家で、たいがいの用はにやりと笑って済ましておくが、そのかわり物を言う時には必要以上大きな声を発して辺りの人をびっくりさせた。そして、超人間的に感覚の発達した男だった。朝も晩も鉄砲籠を肩に、足に任せてほっつき廻っているので、大路小路の町名、露地抜け裏、江戸の地理にはことごとく通じていた。こうして屑拾いになりすまして種を上げる。犯人を尾ける。役得でもないがいろいろの落しものを拾って来る。時には善根顔ぜんこんがおに、病気の仔猫などを大事そうに抱えこんでくる。親分の釘抜藤吉はじめ、勘弁ならねえの勘弁勘次、この葬式彦兵衛、まことに変物揃いの合点長屋であった。
「大変とは大いに変る。こりゃあ理窟だ。」
 唐人唄を中止した彦兵衛、きょうも早朝から紙屑拾いに出かける気か、ざるを背に、長い竹箸を手に、ぶらりと出て来て、こう常吉と勘次へ半々に、挨拶でもなく、茶化すでもなく、いつもの無表情な顔でしきりに感心しているところで、やにわに家のなかから藤吉の声がした。
「大鍋のお美野さんがどうかしましたかい。」
 渋い太い、咽喉のかすれた巻舌である。釘抜藤吉、起きて聴いていたのだ。

      三

 宗右衛門橋から比丘尼びくに橋、いわゆる大根河岸に沿った一劃を白魚屋敷といって、ここに一般に大鍋と呼ばれている鍋屋という大きな旅籠がある。
 訴訟用で諸国から出府する者のための公事くじ宿と、普通の商人宿を兼ねていて、間口も広く、格式も相当高く、まず界隈での老舗しにせだったが三年前に亭主がくなって今は女主人お美野、これは、もと柳橋で鳴らしたおんなで、今年三十一、二の年増ざかり、美人も美人だしそれに、決して人を外らさないなかなかの腕っこき、女ひとりでこれだけの大屋台を背負って立って小揺ぎもさせないどころか、鍋屋は、このお美野の代になってからかえって発展したくらいだという。非常に身長せいの高い女で、よく言えばすらりとした、悪くいえば半鐘泥棒式の、しかし、前身が前身だけにいまだに凄いような阿娜者あだものだったが、このお美野にかぎって、若後家にもかかわらず、またこうした人出入りの激しい客稼業しょうばいにも似合わず、浮いたうわさなぞついぞ立ったことがないのだった。
 前夜、十四日の真夜中、うしの下刻とあるから八つ半、いまで言う午前三時ごろだった。
 この大鍋の階下したの一室に宿泊していた、武州小金井の穀屋の番頭で初太郎というのが、なにかしらほとほとと雨戸を叩く音で眼を覚ました――。
 と、言いさして、組の頭常吉は、まだ薄暗い合点長屋の土間口に押し並んだ藤吉、勘次、彦兵衛の顔を、探るように見廻している。事件出来しゅったいとみて、紙屑拾いに出かけようとしていた葬式彦も引き留められ、勘次は、あわてふためいている常吉を案内して広くもない玄関いりぐちへ通すと、破れ半纏をひっかけた藤吉親分が、鳩尾みぞおちの釘抜の文身ほりものをちらちらさせて、上りがまちにしゃがんでいたのだった。片方に荒塩を盛って房楊子を使いながら、
「朝あ結構冷えるのう。」と、じろり組を見上げて、「のう常さん、知ってのとおり、おらあ気が短えんだ。長話は願い下げよ。なんですかい、その、大鍋の泊り客で武州小金井の穀屋の番頭初太郎てえのが、夜中にひょっこり起き上がって、戸惑いでもしたってえのかい。」
 勘次も彦兵衛も、にやりと顔を笑わせたが、組の常吉は、冗談どころではないといったふうに大仰おおぎょうに手を振って、
「なんの、なんの――。」ちょっと声を低めた。「親分、愕きなさんなよ、戸惑いは戸惑いでも、お美野さんが彼の世へ戸惑いをなすった――。」
 えっ! とでも驚くかと思いのほか、藤吉の表情かおは依然として石のようである。大声を揚げたのは勘次だった。
「なにっ? お美野さんが――そ、そいつぁ勘弁ならねえ。彼の世へ戸惑いといやあ自害だろうが、してまた何の理由わけあって自害なんど――。」
「さ、それがよ、なに、戸惑いとは言ったものの、勘さんの前だが、自害ではねえのだ。」
「なにを言やがる。勘弁ならねえ。あの弁天様のようなお美野さんを手に掛けるやつが、日本じゅうにあるはずはねえんだ。」
 とむらい彦が、いつになく馬鹿叮嚀に口を挾んで、
「ま、お美野さんがおくなりになったとすりゃあ、ちょっくら蔵前へ走らせたでごぜえやしょうな。常磐津の名取りで文字若さんてえ女が、お美野さんの妹さんでね、三好代地みよしだいちに稽古場の看板を上げていなさるのだが――。」
「いや、人をやるもやらねえもねえ。」組は、想い出したように新たに狼狽しながら、「運よくその師匠の文字若さんが、四、五日前から鍋屋さんに泊り込みでね、あっしゃあ今の先、大鍋さんの若い者に叩き出されて駈けつけたんだが、文字若さんの命令いいつけで、すぐ、こちらの親分をお迎えにこうしてすっ飛んで来やしたのさ。素人のあっしなんか、どうにも勘考かんがえのつけようのねえ不思議な死にざまだあね。何て言ったってお前、お美野さんの屍骸がよ、その初太郎てえ野郎の眼の前で、こう宙乗りをやらかしたんでごわすからな――あうへっ! これだけは釘抜の親分も、どうやら手を焼きゃあしねえかと、ま、こいつああっしの、余計な心配かもしれねえが――。」
 すっくと起ち上った釘抜藤吉だった。五尺そこそこの矮躯わいくに紺の脚絆、一枚引っかけた盲目縞めくらじま長ばんてん、刀の下緒のような真田紐さなだひもを帯代りにちょっきり結んで、なるほど両脚が釘抜のように内側へ曲がっている。いわゆるがに股というなかで、もっとも猛烈な部に属する。慾目にも風采が上っているなどと言えないばかりか、正直のところ、まず珍々妙々なる老爺であった。
 藤吉は、鷲掴みにした手拭いをはだけた懐ろから覗かせて、ちょこちょこと土間に降り立った。話なかばだから、驚いたのは組だった。出口を塞ぐように立ちはだかって、
「親分、どちらへ――。」
 言いかけた彼は、二度びっくりしなければならなかった。つと振り向いた藤吉の顔である。別人のような活気が漲って、獲物をぎつけた猟犬の鋭さが、そのすがめの気味のある双眼に凝って、躍動して、放射している。その瞬間、組の頭常吉は、この藤吉の眼の光に、柄にもなく現世で一番美しい、そして一ばん恐しい物を見たような気がした。それは、人間の意力が高潮に達した時に発する、一種の火花のようなものかもしれなかった。

      四

「どこへ行く? べら棒め! 知れたこっちゃあねえか、大鍋へ出張って、ちっといじくってみべえか――勘、汝も来い。」
「あい。」
「彦、手前も気になるようならいてくるがいいや。」
「へえ。お供させていただきやす。」
「頭あ、ことの次第はみちみち承るとしよう。」
 勘次が、戸前の焚火に水をぶっかけてそのまま合点小路を立ち出でた。なんとも奇妙な同行四人である。まともな恰好をしているのは常吉だけで、取られつづけの博奕打ちのような藤吉親分、真っ黒な痩せた脛で味噌こし縞ちりめんの女物の裾を蹴散らかして行く勘次兄哥、どんな時も商売を忘れないで、紙屑、鼻緒、木ぎれ、さては襤褸ぼろでござれ何でござれ、歩きながら器用な長箸で摘んでは肩越しに竹籠へ抛り込んでゆく葬式彦兵衛――何のことはない、さながら判じ物のような百鬼朝行ちょうこうが、本八丁堀三丁目、二丁目、一丁目とまっすぐに、松屋町宗印屋敷を左手に弾正橋を渡ると、本材木町八丁目、竹川岸から大根河岸までは、京橋を越えてほんの一足だ。炭町、具足町ぐそくちょうの家々のひさしの朱いろの矢のように陽線ひかりが躍り染めて、冬の朝靄のなかに白く呼吸づく江戸の騒音が、聞こえ出していた。
 藤吉は途中組と並んで、ゆうべ白魚屋敷の大鍋こと鍋屋で行われた女将おかみお美野殺しの一件を、聴いているのかいないのか、それでもときどき相槌を打ちながら、片裾を掴み上げて足早やに急いでいる。

      五

 小夜嵐?――しきりに雨戸が鳴る音で眼をさました初太郎はしばらく家の中でじっと耳を澄ました。たしかに風も出ているようで、戸を洩る空気の揺らぎで枕行燈の火が小忙こぜわしく明暗の色を投げる。皿の底の残りすくなの油を吸う音が、どうかすると虫のように聞こえて、初太郎は、時刻を忘れて妙にしんみり秋だなあと思ったりした。
 小金井宿の穀屋の番頭初太郎は、その朝江戸へ出て来たばかりだった。卸し先に店じまいをする家があって、そのほうの掛け金の整理と二、三心当りのある新しい顧客とくいを開拓するために、一月は滞在の予定だった。で、江戸へ着くとすぐ、定宿の大鍋に草鞋を脱いだのだが、二、三日は寝て暮らして旅の疲れを休めるつもりで、その晩はすこし早目に枕に就いたのだった。
 それが、大分眠ったと思うころ、ぽっかり! 眼が覚めたので、初太郎は、もう朝になったのではないかという気がした。そう思うと、雨戸を鳴らす風も暁風あさかぜのように考えられるし、気のせいか戸の隙間に仄白い薄明りさえ感じられた。それにしては、世間が死のように静かなのが――初太郎はむっくり起き上った。宿のどてらを羽織って、小首を傾げながら縁側へ出た。
 縁側へ出た拍子に、がたんと大きく、雨戸が鳴った。端寄りの一枚である。どうしても風ではない。その雨戸の真ん中辺へ何か固い物が外部そとからぶつかった音に相違ないのだ。初太郎は手早く桟を下ろして、雨戸を引いた。とたんに、湿気を含んだ濃い闇黒やみが、どっと音して流れ込む。初太郎はぶるると身震いをしながら、庭の奥を見定めようとするように、軒下の闇黒に首を突き出した。が、遠くを見るまでもなかった。その、戸外へ伸ばした初太郎の鼻っ先に、だらりと二階から下っている人間――首吊――女らしい。そうだ、女の首吊だ。風に吹かれている。大きく揺れている。小刻みにふるえている。庇越しに、階上うえから細引で垂れ下がっているのだ。
「あおっ!」
 と、出そうとしても出ない声を出して、初太郎は風に突き飛ばされるように一瞬に部屋に転げ込んでいた。無意識だった。あたまから蒲団を被って、もう一度叫ぼうとした。声を成さなかった。初太郎の聞いたものは、自分の歯の細かくかち合う音だった。そしてそれは、まるで鍛冶屋の乱打ちのように、耳いっぱいに響いた。
 悪夢?――しかし夢ではない。初太郎はこわごわ床のうえに起き上って見ると、まぎれもない女の首吊が、雨戸のすぐ外に宙乗りして、一段黒く遮ぎっているのだ。風を受けて、前後左右にしずかに揺れている。そればかりか、凝視みつめているうちに首吊は、すう、すうと上から誰かが引き上げるように、五寸ぐらいずつ競りあがって往くではないか――。
 初太郎は、眼をこすった。見直すまでもなく、女だ。女の首吊だ。この鍋屋のお美野だ。
「うわあっ!」と、両手を頭のうえに振り廻して、初太郎は、ね仕掛けのように躍り上っていた。
「お女将さんだあ――!」
 ここは大鍋の別棟で、母家とは庭つづき、客が立て混まないかぎり、普段は家うちの者が寝泊りをするところとなっているのだが、その晩は混んでもいたし、それに、小金井の初太郎は以前まえまえからの定客なので、なかは内輪あつかいにその部屋を当てがわれたのだ。で、初太郎の真二階まうえは、女将お美野の寝床になっている。だからお美野は、じぶんの居間の縁側から、細引きで、階下の初太郎の縁のそとへ吊り下っているわけで、首吊は、初太郎のほうへ背中を向けているのだが、そのお美野の着ている荒い滝縞の丹前に、初太郎は覚えがあった。宵の口から風邪気味だといって、お美野は先刻帳場でもその丹前を羽織っていたことを、かれは思い出した。首吊の髪は、手拭いをぐるぐる巻きに結い込んでいる、俗にいういぼじり巻きである。頸に細引きがかかって、それでぶら下っているのだろうか、綱は、暗くて見えなかった。首吊は見るみる競り上るように、のし上るように、軒の下をまっすぐ棒のように揺れ昇って往く。丹前の裾から覗いている足は、素足だった。はだしの足が、二つ並んでぶらぶらして、それが雨戸に当ってああして音を立てたのだった。
 呆然と見守っていた初太郎は、気がつくと同時に廊下へ駈け出して、向側の部屋へ跳び込んでいた。寝る前に風呂場でちょっと顔が合っただけの、全然識らない人だったが、そんなことは言っていられなかった。突っ走るような初太郎の声で、四十余りのでっぷりした男が、すぐ蒲団を蹴って起きて来た。これは仙台様へ人足を入れている堺屋小三郎の小頭こがしらで宇之吉という、しじゅう国許と江戸表とを往復している鳶の者だった。初太郎が呆気にとられている宇之吉を、無言で自分の部屋へ引っ張って来て、雨戸の外に吊り上って行く首吊を見せると、宇之吉も、顔いろを変えた。
「お! これはお女将さんじゃあねえか。どうしたというんですい。」
「どうもこうも――、」初太郎は、口がきけなかった。「ふっと眼が覚めたら、あれが――あんなものがぶら下ってるんで。」
「はてな、なんにしても大変事だが、自分で縊れ死んだものなら首吊が競り上って行くという法はねえ。」宇之吉は考えて、「この二階うえがお女将さんの寝間でごわしたな。上ってみよう。」
 初太郎のいるすぐ外が、中廊下の往き止まりになっていてそこに、二階へ上る唯一つの梯子段がある。上るにも降りるにも、此段ここを通らなければならないのだ。二人は息せききって二段ずつ一跨ぎに駈け上った。二階も同じ造りである。切込みの角行燈が、ぽつんと人影のない長廊下を照らして、どの部屋も眠っているらしく、しいんとしている。取っつきのお美野の寝間には、有明行燈の灯がぼうっと障子にかすんで、何の異状もありそうに思えない。が、時を移さず踏み込んだ二人は、室内の様子を一眼見るより、二度ぎょっとして立ちすくんでしまった。今のいま外にぶら下っていたお美野が部屋の真ん中の寝乱れた床の傍に、仰向けに倒れている。闇黒に揺れていた荒い滝縞の丹前を踏みはだけて、白い膝がしらを覗かせ、素足の足に苦悶の力が籠もって、指がのけ反っているのだ。首に巻いた細引が、蛇のように畳の上を這って、一端は、違い手の小柱に固く結んであった。室には、ほかに誰も人はいないのである。
 初太郎と宇之吉は、首吊をそのままに、申し合わせたように縁の欄干てすりへ駈け寄って下を覗いた。階下と同じ場所の雨戸が一枚繰られてあるほか、つい今し方までそこに垂れ下っていたお美野の死体は、二人が駈け上って来る間に、何者かの手によってこうした室内の中央まんなかに引き上げられて、下に見えるものは、初太郎の部屋から、開いている雨戸一枚の幅に黄色く流れ出て庭上にわに倒れている行燈の焔影だけである。何ごともなかったように、夜は深沈と朝への歩みをつづけるばかり――。
 あらためるまでもなく、お美野は扼死やくししている。あるいは絞殺されている。どっちにしろ、死体がひとりでに宙に浮いて、綱を引いて上って来ることは考えられない。お美野のからだは、宇之吉と初太郎が階段を飛び渡って走る短時間――ほんの秒刻のあいだに、急ぎ誰かが室内へ引っ張り上げたものに相違ないが――すると、その人間はどこへ行ったか?
 階下で宙に垂れ下っている死体を見て、それから階段を一足踏びに上って来る時、この部屋を開けて出る物音もせず、長い廊下に人っ子ひとりいなかった一事は、初太郎も宇之吉も、太鼓のような判を押すことができる。他にどこも消えるところはないのだから、それなら、屍骸はやはり自力で引き競ってきたのだろうか――。
 それとも、またこの室内へやに何者か潜んでいて――無言で顔を見合っていた宇之吉と初太郎は、はっとわれに返ったように、互いに警戒し合いながら、押入れの奥、念のために寝床の中まで掻き廻してみたが、広くもない部屋、ほかに隠れ場所はない。どこにも、お美野のほか人のいた気配さえないのである。
 その時、ふたりの動きで夢を破られたお美野の妹の文字若が何ごとが起ったのかと睡そうな顔で二階へ上って来た。

      六

「へえ、ただいま申し上げたような、そういうわけでございます、へえ。」
 語り終って、ぴょこりと頭を低げた小金井穀屋の番頭初太郎を、釘抜藤吉の針のような視線が、っと見据えていた。
 大根河岸は、露を載せた野菜の荷足にたりとその場で売買いする市場とで、ようやく喧嘩のようにざわめき出していた。その人混みを割って旅籠屋の大鍋へ着いた藤吉の一行は、すぐ、死体の引きずり上げられた階上のお美野の寝所へ通って、初太郎、宇之吉、文字若の証言はなしを、こうして藤吉は、先刻から黙りこくって聞いていたのだった。
 迎えに来た組の頭常吉のはなし半ばに鍋屋へ到着したので、中途から、発見者たる初太郎自身が後を引き継いで、この一伍一什いちぶしじゅうを話したのである。
 釘抜藤吉は、それが熟思する時の習癖くせで、ちょこなんと胡坐あぐらを組んで眼を開けたり瞑ったりしながら、しきりに畳の毛波けば※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしっている。何かまったくほかのことを考えているようなようすだった。勘弁勘次も神妙に口をつぐんで、若いだけに殺された姉よりも美しい文字若の顔を、お得意の「勘弁ならねえ」もれ果てていやにうっとり眺め入っている。葬式彦だけはけろりかんとこれだけは片時も離さない屑籠を背にてすりに腰かけてはだけたお美野の裾前を覗き込むように、例の「かんかんのう、きうのれす――」でも低声こごえに唄っているのだろう。小さく、口が動いていた。
 人気第一の客稼業である。女将が変な死に方をしたなどと知れ渡って宿泊人を驚かせても面白くないし、客足にもかかわる。そこは気丈夫な文字若がとっさに適宜の采配を揮って、まだ一切厳秘にしてあるのだが、口さがない女中どもの舌だけはめようがなく、もういい加減拡まったとみえて近所の人々、泊り客などのおどろいた顔が、遠くの庭隅、廊下のあちこちに群れ集ってこそこそささやき合っているのを、組の常吉が青竹を持った若い者を引き伴れてものものしく食い止めている。陽はすでに高く母家の屋根から顔を出して、今日も正月正月した、麗かなお江戸の一日であろう。消え残りの朝霧が、霜囲いした松の枝に引っかかっているように思われて、騒然たる河岸のどよめき、畳町、五郎兵衛町あたりを流して行く呼び売りの声々、漂って来る味噌汁の香、すがすがしい朝の風情たたずまいのなかに、ここ大鍋のお美野の寝間にだけは、解きようもない不可思議を孕んで不気味な沈黙が、冷たくめ渡っていた。
 と、この場合、奇抜なことが起った。釘抜藤吉が、大きな欠伸をしたのだ。
「ああうあ、と!」彼は、後頭部を抱いて傍若無人に伸びをしながら、「旦那衆はどうしたい。べらぼうに遅いじゃあねえか。」
「ほんとに、お役人様は、どうなすったのでございましょう。遅うございますねえ。」
 不時の姉の死に、取り乱すだけ取り乱した後の、脱けたような放心状態にいる文字若だった。鈴のような眼を真っ赤に泣き腫らして、屍骸ほとけの傍に坐わっていた。だこの見える細い指で、死人の顔を覆った白布を直しながら応えた。まくらもとに供えた茶碗の水に線香の香りがほのかに這っての字を続けたように揺らいでいる――。
「いっそ気が揉めますでございますよ。でも、町内の自身番から、お届け願ったのでございますから、すこし手間取れましょうが、追っつけお見えになりましょう。」
 藤吉は、文字若へにっこりした。
「師匠、凶死だからのう、おめえも諦めが悪かろうが、ものは考えよう一つだってことよ、まあ、それがお美野さんの定命だったと、思いなせえ。あんまり嘆いて、ひょっとお前が寝つきでもしようもんなら、姉妹ふたりで他に見る者のねえこの大鍋の身上は、それこそ大変ことだからのう。」
「はい。御親切にありがとう存じます。あたしゃこの階下の宇之吉さんの向う隣りの部屋に寝んでいたのでございますが、なんですか、あんまり二階の姉の部屋で雑音ものおとが致しますので、変に思って上って来て見ますと、まあ、親分さん、姉がこの有様――どうぞ、仇敵を――姉ひとり妹一人の大事な人でありましたものを、ほんとに親分さん、お力で仇敵を取って下さいますようお願い申し上げます。」
「うむ。」藤吉は首肯うなずいて初太郎へ、「お前ら二人とも、この外の軒先のきさきに、お美野さんが吊る下ってるのを見たてえのだな。それが、ふたりが二階へ上って来る間に、部屋の真ん中に引き上げられていた――。」
「そのとおりでございます。」
 初太郎と宇之吉が、ごくりと生唾を飲み込んで、一緒に合点合点をすると、藤吉の笑い声が、やにわに彦兵衛へ向けられた。
「やい、彦。屍骸が自力で、綱を伝わって上ったとよ。あんまり聞かねえ話さのう。」

      七
「けっ! 面白くもねえ、大方二階から、綱を手繰ったやつがあるんだんべ。」
「きまってらあな。」勘弁勘次が口を尖らせて、「引っ張り上げておいて、縁から庭へ飛んで逃亡ずらかったんですぜ、ねえ親分。」
「ま一度ちょっくら、仏を拝ませておくんなせえ。」
 藤吉はそう言って、お美野の死体の傍ににじり寄ると、はじめ一応た時と同じように、ちょっと申訳にちらと頸筋を拭いて手をやってみたのち、それから、死体の首に結んであった細引きを両手にしごきながら、何か、考えていたことを確かめ得たものか急に藤吉、水を噴くように上を向いて笑い出した、晴ればれとした、小児のような微笑わらいである。いつまでも笑い続けているから、一同が呆気にとられていると、藤吉は、
「けちな小細工だあな。世話あねえ、綺麗にれやがった。いま犯人を揚げて見せる。みんな随いて来い。」
 と、やにわに起ち上るや否、戸外に面した縁側の干台に腰掛けている彦兵衛へ駈け寄って、いきなり耳を掴んだ。
「彦っ!」
「お、痛えや、親分。他人ひと所有ものだと思って――。」
「ここを見ろ。」指さす干台の一点に細引きでこすったようなかすかな跡がある。しかも、その下の縁に、麻の擦り切れたものらしい白い埃り状の糸屑が、ほんのすこし落ち散っているのだ。
「黙って聞け。」
 耳を引っ張って、藤吉は何ごとか囁き込む。にやり微笑わらって委細承知した彦兵衛、一足先に部屋を出て、急ぎ梯子段を下りて行く音。
「さあ、そこの番つく初太郎どんに宇之吉さんとやら。御苦労かけてすまねえが、なに、係り合いだ。ちょっくら階下の初太郎どんの部屋まで降りてもらいますべえか。」と藤吉は文字若を顧みて、「師匠、仇敵が取れるぜ。」
「あれ、親分さん、ほんとでございますか。」文字若はもう顔色を変えている。「おなぶりなすっては嫌でございますよ。」
「うふふ、せっかく、狂言しべえの幕の割れるところだ。面白えから付いて来なせえ。」
 おろおろしている宇之吉初太郎の両人を、六尺近い腕力家の勘弁勘次に守らせ、それに、今すぐ謎の下手人のわかると聞いて勇みと憎悪に顔色を蒼くしながらよろこばし気にいそいそ起って来る文字若――四人を伴れて、藤吉は、その真下の初太郎の部屋へ降りて来た。
 部屋へはいると同時に、急な変化が藤吉の態度に現れた。その釘抜のような脚で大股に、かれは縁の外側の敷居――雨戸の敷居――の戸袋寄りのところ、ゆうべ初太郎がそこを開けてお美野の死体が宙乗りしているのを見たという、その一枚分の敷居へ、つかつかと進むと、もう藤吉は、一分前とは別人のように、笑いの影など顔のどこにも見られなかった。
 四人の眼前で、藤吉、不思議なことをはじめている。
 最初は指で、敷居の縁をしきりにこすって見ている。
 つぎに、敷居のそばにぴったり坐り込んで、今度はふところから一、二枚の懐紙を取り出してそれで縁を拭き出したのだ。
 何がなんだかわけがわからないで、四人はぼんやり凝視めていると敷居の縁を拭いた紙が黄色く染まって光っているのを、藤吉はとみこう見したのち鼻へ持って行って、
「ふむ、胡麻ごまだな――。」文字若を振り返った、「まだ新しいところを見ると、昨日あたり、ここの敷居へ胡麻油を引かなかったか、師匠、お前は知らねえかえ。」
「そう言えば、古い家で建付けが狂っているので戸滑りが悪いとか言って、きのう姉が、じぶんで油壺を持ち歩いて方々の敷居に落して廻っていたようですよ。」
「違えねえ。」
 頷いた藤吉は、ちらと勘次に眼配せして退路の障子ぎわを断たせると、ずいと三人の前に立ちはだかって、冷徹な低声だった。
「おうっ、三人とも足を見せてくんな、足をよ。」
 唐突にこの奇抜な注文――びっくりしているところ、藤吉はすぐに畳みかけて、
「宙乗りしていた屍骸の足は、たしかに素足だったのう。間違えあるめえのう。」
「とんでもない! 見間違いなど、決してそんなことはございません。はい、わたしもこの宇之吉さんも、はっきり見たんでございますから――へえ、素足でございました。立派にはだしでございました。へえ。」
「そうけえ。その素足の件で、おいらあちっとべえ不審をったことがあるんだ。おお、揃って素足になってみな。」
「素足になるんでございますか、私ども三人が。」
 おずおず訊き返した初太郎を、藤吉は噛みつくように呶鳴って、
「くでえや! 足袋を脱げ!」
「あっしゃあこのとおり、初めから足袋なんか穿いていやせんが、」宇之吉はまごまごしながら、「この素足を、いってえどうするんでごぜえます。」
「まあ、待っていなせえ――おう、師匠、ついでだ。お前の足も一つ拝ませてもらおうじゃあねえか。」
「ひょんな親分さん! こんな汚ない足でおよろしければ、お安い御用でございますよ。いくらでも御覧なすって――。」
「どうしてどうして、勘の言い草じゃあねえが、弁財天といわれる師匠の足だ。めったに拝見できるもんじゃあねえ。これも岡っ引の役徳で、稼業しょうべえ冥利よなあ、師匠。」
「あれ、あんなことを。たんとおからかいなさいましよ。」
 裾を押さえてしゃがんだ文字若は、恥るように笑いながら、足袋を脱いだ。初太郎も、先に足袋を脱いで控えている。
 藤吉は黙って、自分の前を示した。
「三人並んで、ここへ足を投げ出しておくんなせえ。おいらあちょっと考えることがあって、足の裏を見てえんだ。」

      八

 文字若を中に、初太郎と宇之吉が左右に、三人は言われるとおり畳に腰を下ろして、行儀の悪い子供のように、素足を揃えて長く藤吉の方へ突き出した。
「こうでごぜえやすか。」
「何ですか、よっぽど変な御探索でございますねえ。」
 実際それは、いかにも奇異な光景だった。大の男ふたりと若い女が、どうなることかと恐しそうに並んで、素の足を投げ出している。文字若の足からは湯文字が溢れて、雪を欺くようなはだ、象牙細工のような指、ほんのり紅をさした爪の色――恥らいを含んで足さきをすぼめた文字若は、絶えず微笑ほほえみを続けていた。
 犬のように両手を突いた藤吉である。初太郎と宇之吉の足はざっと見たばかりで、かれの眼は、吸われるように文字若の足の裏に据って、動かない、舐めんばかりに顔を寄せて見入っている。文字若は、嬌態しなを作って、足を引っこめようとした。
「ありゃあ、いやですよ、親分さん。」
「まあ、待て。」その足首に藤吉の手がかかった。「変てこれんじゃあねえか。え、こう、弁天様の足のうらにゃ、胡麻の油が付いてるものけえ。」
 さっ!――と、文字若の顔から血の気が引いて、藤吉の手を蹴り解いて※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)あがき起とうとした刹那、
「親分、おっしゃったとおりありやしたよ。」
 のそりと彦兵衛がはいって来た。手に、お美野が着て死んでいたのと同じ荒い滝縞の丹前、一連の細引きを持って――、
「彦、そいつあ、師匠の部屋から捜し出して来たか。でかしたぞ――これさ師匠、もう駄目だぜ。種あ上った。直に申し上げりゃあ、お上に御慈悲もあろうてえもんだ。」
 くるり着物の裾を捲くってしゃがみ込もうとする藤吉から、文字若は、白紙のような顔になって飛び退すさっていた。
 ばた、ばた、ばた!――と二、三歩、歩を返して障子に手がかかる。階下へ、文字若、本性の鉄火性をあらわして逃げ伸びようとする。そこを、待ち構えていたように勘次が両腕の中にさらえ込んだ。
「放して! 放せったら放しやがれ!」
「いいてことよ。勘弁ならねえ。じっとしていなせえ。」
 巨きな勘次が、しっかりと――多分必要以上にしっかりと――なよなよした文字若のからだを抱き締めて、ただにやにや立っている。とたんに、障子の外に多勢の跫音が来て、組の常吉の声がした。
「お役人様がお見えになりやした。」
「そら、勘的、」藤吉は笑って、「惜しかろうが旦那衆にお渡し申せ。」
 間もなく出張の同心加藤吉之丞の一行に文字若の身柄を引き渡した藤吉は、勘次彦兵衛の二人を連れて、もと来た道を八丁堀合点長屋への帰路にあった。
 門松、注連繩しめなわを焼く煙りが紫いろに辻々を色彩いろどって、初春はるらしい風が、かけつらねた絣の暖簾のれんたわむれる。のどかな江戸街上、今の鍋屋の陰惨な事件をそっくり忘れたかのように、釘抜藤吉は、のんびりとした表情かおだった。
「えらく企らんだものですね。」急ぎ足に追いつきながら、葬式彦が言った。「いずれ、たった一人の姉をねむらして、身代を乗っ取ろうてえくれえの女だから――。」
「うむ。」藤吉はもう興味もなさそうに、「なにさ、屍骸が自分で動くわけあねえからの。」
 勘次が、感心した。
「なるほどね。」
「それが自分で競り上ったってえからにゃあ、屍骸は美野でねえはずだ。不審な事件たまほど、手がけてみりゃあお茶の子さいさいよ。なあ彦。」
「大きにさようでげす。」
「おらあ組の話を聞いただけで、現場へ行き着く前から、まずこの辺と当りをつけていたんだ。それがお前、お美野さんの頸部くびを見りゃあ案の定、ありゃ細引きで縊れたもんじゃあねえ。もっと幅のある、こうっと、手拭いででも絞めたもんだ。手口は一眼でわからあな。常からりの合わねえ姉妹だ。それにあの師匠は淫乱よのう。男に貢ぐ金につけえて、お美野さんへ毎度の無心と来る。ねつけられて害意を起すのは、ま、あの女ならありそうなこった。」
「するてえと、」勘弁勘次は、首を捻りひねり、「お美野さんがてるところへ飛び込んで、手拭いで締めて、首に細引きを結んで、その端を違い手へゆわえつけて――。」
「そうよ。いいか、二階の干台の綱の跡と麻屑を考え合わせてみろ。」
 藤吉の説明は――姉を締め殺した文字若は、それだけ細工を施した死体をそのままに、自分は両肩に綱を廻し、その上から、前もって用意しておいた、姉と同じ丹前を羽織って姉の美野になりすまし、二階のてすりを潜らした綱の一端を手に、軒下にぶら下って――。
「そこで、足で雨戸を蹴って初太郎を起こしたんだ。」
「ははあ、髪まで同じいぼじり巻きだから、こりゃあ誰でもお美野さんだと――。」
「面を見せねえように、うしろ向きに下がっていたてえことを忘れちゃいけねえ。おまけに、手を手繰って屍骸がのし上がると見せかける。初太郎と宇之吉が胆をつぶして二階へ駈け上っている間に、悪才わるざいの利く阿魔あまじゃあねえか。おのれは、すとんと初太郎の部屋の縁へ降り立って、帯を解いてよ、二階の干台に長く二本に掛けてあるやつをするする引き下ろしてこっそり自室へやへ飛び帰ったに違えねえ。このとおり泥を吐くから見ていな――すっかり衣裳をあらためて、初太郎宇之吉が姉の屍骸を見つけた頃合いを見計らい、眠呆ねぼけづらをつくって二階へ上って行ったのよ。だが、階下の縁へ飛び下りた拍子に、足の裏に敷居の胡麻油が付こうたあ、はっはっは、彦、この落ちあどうでえ、これこそ真実ほんとに、とんだことから足がついたってもんだぜ。」





底本:「一人三人全集1[#「1」はローマ数字、1-13-21]時代捕物釘抜藤吉捕物覚書」河出書房新社
   1970(昭和45)年1月15日初版発行
入力:川山隆
校正:松永正敏
2008年5月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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