一
ひどい風だ。大川の流れが、
本所、一つ目の橋を渡りきった右手に、墓地のような、角石の立ち並んだ空地が、半島状に、ほそ長く河に突き出ている。
柳が、枝を振り乱して、陰惨な夜景だった。三月もなかば過ぎだというのに、今夜は、ばかに寒い。それに、雨を持っているらしく、濡れた空気なのだ。
その、往来からずっと離れて、水のなかへ出張っている岸に二階建のささやかな一軒家が、暴風に踏みこたえて、戸障子が悲鳴を揚げていた。
腰高の油障子に、
水戸様の石揚場なのである。
番所の
番小屋のおやじ
「
ひとりごとを言いいい、糸のさきを噛んだ。
いきなり惣平次が、白髪あたまを振った。
「えれえ風だ。吹きゃあがる。吹きゃあがる。風のまにまに――とくらあ。どうでえ庄太、この手は。
「庄太、しょた、しょた、五人のなかで――。」
庄太郎は、「酔うた、酔た、酔た」をもじって、
そして、炭のように黒いであろう戸外の闇を、ちょっと聴くような眼つきになって、
「なあに――。」
「おっと! こりゃあ! いや、風にもいろいろあってな、吹けよ、川風、上れよ、すだれ、の風なんざあ粋だが――おい、庄太、手前、砂利舟は、しっかり
惣平次は、いま打った駒で、取り返しのつかなくなった
が、庄太郎は、二十三の青年らしい、ほがらかな微笑をひろげていた。
「うふっ!
ごろっと、後頭部へ両手をまくらに、引っくり返った。
「出直せ、出なおせ。」
「この風だ。今夜はお見えになるまいて。」
盤の駒をあつめながら、惣平次が、いった。
おこうが、
「
針を休めて、訊くと、
「なんぼあの旦那が物好でも、こんな大風の晩に出歩くこたあねえからな。」惣平次は、将棋に負けたので、八つ当り気味に、「おらあ好かねえよ。稼業たあ言い条、こんな石場の突鼻に住んでるなんざあ、気の利かねえはなしだ。まるでお前、なんのこたあねえ。千川っぷちの渡守りみてえなもんじゃあねえか。御近所さまがあるじゃあなし、何があったって早速の間にゃあ合やしねえ。ああ嫌だ、嫌だ。この年齢になって石場の番人なんて、
おこうは取り合わずに、
「また愚痴がはじまったね。まあ、いいじゃないか。もう一ぺん将棋をおさしよ。今度はお前さんが勝つだろうから、それで機嫌を直すんだね。」
息子の庄太郎が、むっくり起き上って、
「ほんとだ。
急にしんみりと、おこうは、涙ぐんで
「庄太が、まあ、あんなたのもしい口をきくじゃあないか。いい若い者で、悪遊びに一つ出るじゃあなし、――あたしゃなんだか、泣かされましたよ。」
「やい、庄公。」惣平次も気を取り直して、「こりゃあおやじが悪かった。てめえのような評判の孝行息子を持ちながら、
「だからさ、庄太ひとりを柱と頼んで、末をたのしみにこつこつやって行けばいいんだよ。なにもぐずぐず言うことはないじゃないか――ほんとに、よく飽きずに吹くねえ。屋根を持ってかれやしないかしら。」
庄太郎が、小さく叫んで、腰を浮かした。
「あ、来たようだぜ、誰か――久住さんに違えねえ。」
石のあいだを縫って、跫音が、近づいて来ていた。建付けのわるい土間の戸が、外部から
「皆さん、御在宿かな?」
番小屋を訪れるにしては、しかつめらしい声だ。しかも、武家の
「久住さんだ――。」
惣平次が、そそくさと起って、迎えに出た。おこうは手早く縫いものを片付けて、庄太郎が、炉の火に、
「いや、吹くわ。吹くわ。それに、墨を流したような闇黒じゃ――こんな晩にお邪魔に上らんでも、と、大分これでも二の足を踏みましたが、またしばらく江戸を明けるでな、思いきって、出かけて来ましたわい。おう、おう燃えとる。ありがたい。戸外は、寒うての。」
久住は、大小を
そして、激しく咳き入った。
二
この、水戸様の石揚場で、「お石場番所」を預かっているおやじ、惣平次夫婦は、若いころ江戸へ出て来たが、九州
笹の関は、中川修理太夫の領内で、したがって、藩士の久住希十郎とは、
海で育った惣平次とは、話が合うのだった。
今度は、わりに長く江戸にとどまっていて、神田
いつも親子三人を前に、いろいろ話しこんで行く。海の冒険談、そういったものが主で、江戸育ちの庄太郎には、珍しかった。
それが、急に、もうじき豊後へ
「また海へお出になるのでございましょうね。このたびは、どちらへ?
「いや、」久住は、首を傾げて、「南蛮まで
木の
潮焼けしたとでもいうのか、恐ろしい赤毛である。
風が、いきおいを増した。
おこうが、あり合わせの物に、燗をつけて出すと、久住は、惣平次と
例によって
尽きない。
「なにしろ、二十年も、焼津船にお乗りになっていなさるのだからな。」惣平次が、おこうをかえり見た。
「はじめてお舟蔵へ上られたころから、存じあげているのだが、いまの庄公より年下の二十歳の
「まあ、それにしても、よく御無事でおっとめなすって――。」
母親のことばを、庄太は、そばから奪うように、
「おいらも、琉球へ行ってみてえな。ぶらっと見物して来るんだ。」
「話に聞けば、面白い土地のように思われるかもしれんが、なに、江戸に勝るところはござらぬよ。」
久住は、さかずきを置いて、にわかに酒が苦くなったように、ちょっと眉を寄せた。
何か思い出して、惣平次が、膝を進めた。
「お? そう言えば、いつかちょっとお話しなすった竜の手――
「竜の手、か。いや、何でもござらぬ。」
顔の前で手を振って、炉のけむりを避けながら、
「何でもござらぬ。」
繰り返した。
おこうが、
「竜の手――? 何でございます。」
「まあ、いわば手品――手品でもないが、
聞手の三人は、乗り出して、久住の顔を見た。黙って、久住は、杯を取り上げた。
惣平次が、銚子を取り上げて、満たした。
「見たところは――。」
と、言って、久住は、ふところへ手を入れた。
「ただの、細長い、魚の
何か取り出して、親子の眼の前へさし出した。おこうは、ぎょっとして、気味悪そうに反ったが、庄太郎が受け取って、掌の上で転がして
「これがその竜の手――竜手さまですかい。」
惣平次が、息子の手から取って、
「何の変哲もねえように見えるが、どういうんでございますね。」
とみこうみして、火から遠い畳の上へ、置いた。
久住の、すこし
「
久住の様子が、いかにも真面目なので、三人は、笑えなかった。
口のまわりを硬張らせて、くすぐったそうな表情をした。
真剣を装って、庄太郎が訊いた。
「竜の手って、ほんとに、あの、竜の手なんですかい。」
「さよう。竜手様は、竜の手でござる。」
「竜に、手があるかなあ――。」
久住は、答えなかった。
庄太郎は、露骨に、
「一人につき三つだけ、何でも願いごとをかなえて下さる。ふん、どうです。旦那は、何か三つ、お願いにならねえんですかい。」
三
たしなめるような眼で、庄太郎を見据えた久住は、
「いかにもわしは、わしの分を、三つだけお願い申した――そして、かなえられました。」
重々しく答えて、白い
「ほんとに、三つお願いになって、三つとも、聞き入れられたのでござりますか。」
「さよう。」
「ほかに誰か、願った人は――。」
「拙者の
風が、渡って、沈黙のあいだをつないだ。大川の水音が、壁のすぐ向うに、聞えていた。
「ふうむ。」惣平次は腕を組んで、「三つしか願えぬなら、旦那には、もう用のない品でござりますな。いかがでございましょう。わたくしめに、お譲り下さりませんでしょうか。」
久住は、その、不思議な形をした、
「焼いたがいい。」
あわてた惣平次が、
「お捨てになるなら、いただいておきましょう。」
手で、素早く掴んで、じぶんの膝へ投げ取ると、久住は、じっと深い眼をして、その惣平次と竜手様を見較べながら、
「わしは、もういらぬ。が、あんたも、お取りなさらぬがいい。悪いことは、言わぬ。お焼きなされ。」
「願いごとをするには、どうすればよろしいので――。」
惣平次が、訊いた。
「竜手様を、右手に、高く捧げて、大声に願を
もう一度、調べるように、手の竜手様を眺めている惣平次へ、久住は、つづけて、
「願うなら、何か尋常な、
「お大名になりたいなどと――。」
親子三人は、声を合わせて笑ったが、久住は、苦渋な顔で、
明朝早く出発して、豊後への帰国の途につく――そういって、大小をうしろ気味に差した久住は、いつもよりすこし早めに、風に
送り出して、三人が炉ばたへ帰ると、
「
大の字に引っくり返って、
「竜手様さまと来らあ! 竜の手だとよ、うふっ、利いた風なことを言っても、田舎ざむれえなんて、下らねえ物を持ち廻りやがって
惣平次は、懐中の竜手さまを取り出して、しげしげと見てみたが、
「こうっ、と。おいらは、何を願うべえかな。」
ふざけ半分の、わざと真面目な顔で、おこうを見た。
庄太郎[#「庄太郎」は底本では「床太郎」]が、代って、
「百両!――父、百両の
惣平次は、照れたように微笑って、その、竜の手という、汚ない乾物のようなものを、右手に高くさし上げた。
そして、おこうと庄太郎が、急に、謹んだような顔を並べている前で、大声に、呶鳴った。
「竜手様へ、なにとぞわしに、百両の金を下せえまし。お願え申しやす――。」
言い終らぬうちに、惣平次は、竜手様を投げ捨てて、躍り上って叫んだ。
「わあっ! 動いた! うごいた! 竜手様が動いた!」
びっくり駈け寄った妻と息子へ、蒼くなった顔を向けて、
「おい、動いたぜ、おれの手の中で。」
と、不気味げに、自分の手から、畳に転がっている竜手様へ、眼を落した。
「おれが願え事を唱えると、蛇みてえに曲って、手に巻きつこうとしたんだ。」
「だが、父、百両の金は、まだ湧いて来ねえじゃねえか。」庄太郎は、どこまでも嘲笑的に、「へん、こんなこって百両儲かりゃあ、世の中に貧乏するやつあねえや。畳の隙からでも、小判がぞろぞろ這い出すところを、見てえもんだ。竜の手などと、人を喰ってるにもほどがあらあ。」
「気のせいですよ、お爺さん。そんなからからの乾ものが、ひとりで動くわけがないじゃありませんか。」
「まま、いいや。」惣平次は、口びるまで白くしていた。「動くわけのねえ物がうごいたんで、ちょいとびっくりしたんだ。おいらの気のせいってことにしておくべえ。」
夜が更けて、狭い家のなかに、斬るような寒気が、迫って来ていた。烈風は、いっそう速度をあつめて、戸外に積み上げた石を撫でる
三人は、消えかかった炉の火を囲んで、しばらく黙りこくっていたが、やがて、日常の家事のはなしになって
要するに、一時の座興である。
寝につくことになって、老夫婦は、二階へ上る。庄太郎は、階下の炉ばたに、自分の床を敷き出す。
竜手様は、部屋の隅の、茶箪笥の上へ置いて。
「父よ、おめえの床ん中に、百両の金が温まってるだろうぜ、ははははは。」
惣平次は、妙にむっつりして、にこりともせず二階へ消えた。
四
日光が、風を払って、翌朝は、けろりとした快晴だった。
お石場にも、朝から、陽がかんかん照りつけて、捨て置きの切り石の影は、むらさきだった。
雑草が、土のにおいに
そんな日だった。
前夜の、理由のない恐怖と妖異感は、陽光が溶かし去っていた。階下の茶箪笥の上の竜手様は、金いろの朝日のなかで、むしろ滑稽に見えた。
手垢と
朝飯の食卓だった。
庄太郎は、この一つ目からすぐ傍の、
おこうが、味噌汁をよそいながら、
「つぎの仕事は、もう当りがおつきかえ。」
「親方のほうに、話して来ているようだ。」
惣平次も、口いっぱいの飯の中から、
「庄公はまだ、瓦職とは言っても、下から瓦を運ぶ組だろう。なかなか屋根へは上げてくれめえ。もっとも、高えところへ上って、瓦を置くようになりゃあ一人前だが――。」
「冗談いっちゃあいけねえ。今度の仕事から、どんどん上へあがって、瓦を並べていらあ。おらあ何だとよ、手筋がいいとよ。親方が、そ言ってた。」
「そうか。この野郎、そいつあ鼻が高えぞ。しかし職人の中で、この瓦職なんざあ豪気なもんよな。殿様が下をお通りになっても、こう、上から見おろして――まったく、家のてっぺんの仕事だからな。床柱を削る
惣平次が、おこうを見ると、おこうは、誇らし気な眼を、庄太郎へやった。
「うんにゃ、おいらなんざあ、駈け出しだから――。」
庄太郎は、得意に、微笑して、丈夫な音を立てて沢庵を噛んでいた。
おこうが、惣平次に、
「十日ばかり、ぱっとしない日が続いたねえ。お洗濯がたまって、
「手隙を見て、おれが乾してやろう。」
もう起ち上って、庄太郎は、
「
「ひまでもねえが、この二、三日、お石舟のお触れもねえから、揚げ石もあるめえと思うのだよ。」
「まあ、石場で、日向ぼっこでもしていなせえ。晩、帰りに、
思い出して、おこうが言った。
「ゆうべのように風の強い晩などは、なんでもないようでも、やっぱり、心持ちがどうかしているとみえるねえ。馬鹿らしいことを、ちょっと真に受けたりして――。」
惣平次が、訊いた。
「何だ。」
「竜の手さ。竜手さま、とか――。」
「あはははは、おらあ、すっかり忘れていた。」茶箪笥を振り返って、「百両、百両――。」
「そうだ。」庄太郎も、半分戸ぐちを出ながら、「
妻と息子と、二人にひやかされて、惣平次は、人のよさそうな
「だが、この天気だ、久住さんも、およろこびで
と、また、竜手様へ視線を向けると、庄太郎は、
「ははははは、そのことよ。気長に待ちねえ。じゃ、行って来るぜ。」
踊るように弾む若いからだが、石場を通り抜けて、一つ目橋の袂から、往来へ出て行った。
おこうは食事のあと片付け、それから、家の中のこまごました女の仕事に、取りかかる。ひとまわりお石場を掃いて来て、惣平次は、陽の射し込む土間に足を投げ出して、手網の
もうあの、竜手様のことなど、老夫婦のあたまのどこにもなかった。
庄太郎は、弁当を持って行って、
正午だ。惣平次とおこうが、さし向かいで、茶漬けを流し込む。
食休みに、雑談になって、おこうが、
「お前さんどう考えているか知らないけれど、庄太郎に、もうそろそろねえ――。」
「嫁の心配かえ。」
「早すぎるってことはありませんよ。心掛けておかなければ、ほかのことと違って、こればかりは、急に、おいそれとは、ねえ。」
「そうだ――しかし、早えもんだなあ。昨日
「ほんとにねえ。それにつけても、庄太郎は働き者だけに、いっそう早く身を固めてやったほうがよくはないかと、わたしゃ思いますよ――おや! なんでしょう?」
突然、石場を飛んで来る二、三人の乱れた跫音が、耳を打った。
ふり向く間もなかった。
開け放しの土間ぐちを、人影が埋めて、走りつづけて来たらしく、迫った呼吸が、家じゅうにひびいた。
庄太郎の親方の、瓦長、瓦師長五郎と、二、三人の弟子だ。うしろから、用人らしい老人の侍が割り込んで来ようとしていた。
呑みかけの茶碗をほうり出して、惣平次は、突っ立った。おこうも、上り
「何でござります、何事が起りました。」
長五郎は、鉢巻を脱って、ぐいと額の汗を拭いながら、やっと、声を
「何とも、誰の
惣平次夫婦は、唾を飲んで、奇妙に無関心に、黙っていた。
弟子の一人が、興奮した声だ。
「おらあ見ていたんだが、足が辷って、真っ逆さまに落ちたもんだ。下にまた、間の悪いことにゃあ、こんなでっけえ飛石が――。」
おこうの眼が、一時に
「あの、庄公が――庄太が――!」
「お気の毒で――、」長五郎は、ぴょこりと頭を下げた。「何と言ったらいいか、挨拶が出ねえ――。」
膝が折れて、惣平次は、がたがたと、そこの履物を掴んだ。
押し退けて、駈け出そうとした。
長五郎の背後から出て来た侍が、前に立った。
「察する、が、取り乱してはならぬ。これ、取り乱してはならぬ!」
「大怪我、大怪我、でござりますか、庄公は。」
「うむ。まず、怪我は大きい。」
惣平次の両手が、侍の袴を掻いた。
「苦しんで、おりますか、苦しんで。」
「苦しんでは、おらぬ。」
「ああよかった。それでは、たいしたことはないので――。」
「もう、苦しんではおらぬ。」静かに、「極楽――。」
「ははあ――。」と、意味が、はっきり頭へ来ると、惣平次は、上り口に腰をおろした。宙を見詰めたまま、そっと、老妻の手を取った。
ふと、長いしずけさが落ちた。
「ひとり息子でした。」惣平次の口唇が、動いた。「孝行者で――。」
誰も、何とも言わなかった。
侍が、咳をして、
「わしは、逸見家の用人だが、屋敷の仕事中に亡くなったのじゃからと、
おこうと惣平次は、ぽかんと顔を見合っていた。
「一職人に対して、前例のないことじゃが、」用人は、つづけて、「百両の
「え?」
惣平次が、訊き返した。
「
長五郎が口を添えると、
「百両! ううむ、百両、か。」
と、呻いて、突如、真っ黒な恐怖が、むずと惣平次を掴んだ。
咽喉の裂けるようなおこうの叫びが、惣平次には、聞えなかった。かれは、気を失って、ぐったりと円く、土間へ崩れた。
五
水戸様お石場番所の番人の倅で、瓦職の庄太郎というのが、仕事先の、逸見若狭守お屋敷の屋根から、誤って滑り落ちて、飛び石で
――と、風のように聞き込んだ八丁堀合点長屋の岡っ引釘抜藤吉が、乾児の勘弁勘次にも葬式彦兵衛にも告げずに、たった一人で、その、本所一つ目の、岬のようになっているお石揚場の一軒家へ出かけて行ったのは、ちょうど、庄太郎の初七日の晩だった。
いかにも、奇体な話だ。
ただ、直接老夫婦の口から、詳しく聴いておきたいと、そう思ってやって来た藤吉だったが、
「御免なさい。あっしは、八丁堀の者ですが――。」
戸を開けるとすぐ、異妖に悲痛な気持ちに打たれて、藤吉は、声を呑んでしまった。
あの晩と同じに、炉に火が燃えて、煙の向うから、別人のように
「八丁堀のお方が、何しにお見えなすった。」
「じつあ、ちょいと、見せてもらいてえ物がありやしてね。その――。」
竜の手、とは言わなかったが、老人は、すぐそれと感づいたに違いない。嫌な顔をして、黙った。
藤吉は、構わず、上り込んで、部屋の隅の壁に
仏壇に、新しい白木の位牌が飾ってある。燈明の灯が、隙間風に、横に長かった。
惣平次とおこうは、炉を挾んで対坐したまま、黙して、石のように動かない。勝手に上り込んで、影のように壁ぎわに腕を組んでいる、見慣れない、不思議な客――いや、その藤吉親分を、ふしぎな客と感ずるよりも、藤吉の存在それ自身が、二人の意識に入っていないらしいのだ。
「あの部屋で、三人じっと
後で藤吉が、述懐した。
本所の南、五本松の
あんまり急な出来事なので、庄太郎の死を、現実に受け取ることは、なかなかできなかった。いまにも、あの元気な顔で、最後の朝、出がけに言ったように、安房屋の煮豆でも提げて、ぶらぶら
とにかく、これでお
そして、庄公は
と、固く、思いこんでいるようすなのだ。
が、日を経るにつれて、この、考えてみると
おこうも惣平次も、言葉を交さなかった。口をきかなかった。何も、いうことを有たないのだった。日が、長かった。夜は、もっと長かった。
やがて、初七日の今夜だった。
通夜をするような心持ちで、壁を背に、じっと坐している藤吉に、細い、低い、押し潰れた声が、聞えて来た。
また、おこうが、
「寒い。二階へ上って、寝ろよ。」
惣平次が、言った。
「つめたい石の下で、庄坊こそ、どんなに寒いことか――。」
おこうは、こう言って、泣き声を新たにした。が、すぐに止んで、藤吉の見ているまえで、おこうの小さなからだが、すうっと伸びて起った。
「手じゃ!」人間の声らしくない声なのだ。「竜の手じゃ! ほれ、ほれ、竜手様――。」
藤吉よりも、惣平次が、
「どこに、どこに
炉を廻って、
「貸して下さいよ、竜手様を。」おこうは、もう平静にかえっていた。「棄てやしますまいね。」
「押入れの奥に、投げ込んである。なぜだ。どうするんだ。」
泣き笑いが、おこうの全身を走り過ぎると、ふっと彼女は、不自然な、真面目な顔だった。
「思いついたことが、あるんですよ。なぜ早く、気がつかなかったろう――お前さんも、ぼんやりしてるじゃないか。嫌だよ、ちょいと!」
急に、若やいだ態度で、おこうは、娘のように、甘えた手を振り上げて、打つ真似をした。ぎょっとして、惣平次が、一歩退った。
「何を、なにを思いついたと――。」
「あれ、もう二つの願いさ。三つ叶えてもらえるんだろう? あと二つ残ってるじゃあないか。」
「竜手様のことか。馬鹿な! 止せ! あの一つで、おれは、おれは――もうたくさんだ。」
「そうじゃないんだよ。わからない人だねえ。」
おこうは、奇怪に、少女めいた声音になって、しなだれかかるように、
「もう一つだけ、願ってみようよ。よう、もう一つだけさ。はやく、竜手様をお出し! さ、庄公が、今すぐ立派に生き返りますようにって、ね、願うんですよ。」
暗い隅から、藤吉は、光った眼を上げて、
ひっそりと、沈黙がつづいた。
「何をいう――気でも違ったのか。」
「お出し! 竜手様をお出しってば! しっかり、お願いするんだよ。たった今、庄太郎が生きかえって来ますように――。」
惣平次は、手を、妻の肩へやって、優しく、
「寝な。な、寝なよ、二階へ上って、よ。」
おこうが、激しく振り切って、老夫婦は、二人でよろめいた。
「おこう、お前は、どうかしているな。」
「どうもしてやしませんよ。初めの願いが叶ったのだから、二番目の願いも、聞き届けられるにきまってるじゃないか。竜手さまを持っておいでというのに、どうして持って来ない。ようし! どうあっても、願わないか。」
眼が、血走って来た。白髪が、
はじめて気がついたように、ちらと藤吉を見て、惣平次は、平らな声を出そうとつとめた。
「いいか。死んでから、何日経ったと思う――。」
「お願いするんだよ。竜手様へお願いするんだよ。なぜ願わないか。」
おこうは、惣平次へ武者振りついて、異常な力で、押入れのほうへ引きずった。
二人の影が、もつれて、天井に、壁に、大きく拡がって、揺れた。
老いた人々の、
「惣平! 出せ! 出して、願うんだ。」
思わず出た、藤吉の声だった。
六
偶然ではあろう。竜手様という、竜の手が、海蛇の乾物か、とにかく、伝説的な品ものを手に入れて、それに、いたずら半分の試しごころから、百両の金を祈った翌日、ちょっとした自分の不注意で、庄太郎があんなことになったのは、つまり、そういう巡り合わせだったのだろう。
その逸見家の香奠が、百両だったばっかりに、ちょうど、この願いが届くために、百両のかたに庄太郎の生命を奪られたようなことになって、そこに、言いようのない怪異が生じるものの、所詮は、偶然――すべてが、再び、そういう廻りあわせだったのだ、と、藤吉は、信じたかった。
不可思議――どうしても、人間の力で説明がつかないなどということは、この人間の世の中に、あり得ない。
一見、まことに不可思議な事件であっても、それはみな、一言の下に明かにすることができる――「偶然事」という簡単な言語で。
否、不可思議な出来事であれば、あるほど、その連鎖に、偶然の力が色濃く働いていて、いっそう解決は容易なのである。
釘抜藤吉は、
が、この竜手様の一件だけは、その最後まで考え合わせると、ただ単なる偶然として、片づけ去ることのできないものがあるように、思われてならない。
「薄っ気味の悪い不思議だて――。」後あとまで、藤吉はよくこう呟いて、首を捻ったと言う。不思議ということばを、釘抜藤吉は、はじめて口にしたのだった。
偶然を、藤吉親分は、巡り合わせと呼んでいたが、そのめぐりあわせだけでは説き得ない、割りきれないものが、
惣平次は、しなだれて、押入れを開けた。奥へ這い込むようにして、しばらく押入れ中ごそごそ言わせていたが、やがて、
額部が、汗に冷たく、盲目のように、空に両手を泳がせて、部屋の真ん中に立った。
おこうの顔も、米のように、白く変っていた。いま何よりも惣平次の恐れている、いつものおこうのようでない表情が、眉から眼の間に漂って、すっかり、相違いがしていた。
「願いなさい!」
強い声だ。おこうが、命令したのだ。藤吉もわれ知らず起って、炉の火の投げる
「ばかばかしい――。」
惣平次が、呻くと、おこうは、蒼白く笑って、
「お前さんこそ、そのばかばかしいことで、庄太郎を殺したんじゃないか。お前さんが、百両の代に殺した庄吉を、生き返らせるんですよ。さ、願いなさい!」
竜手様を持った惣平次の
「どうぞ、庄太郎が生きかえって来ますように――。」
「今すぐ!」
「今すぐ!」
竜手様は、畳へ落ちて、小さくもんどりを打った。それを見つめながら、惣平次も、気が抜けたように、べたんと坐っていた。
おこうは、異様に燃える眼を、土間の戸口へ据えて、男のように、立ちはだかったままだった。
三人を包んで、深夜の
つと、おこうが、しっかりした足取りで、部屋を横切った。そして、石場に面した
湿った闇黒が、音を立てて流れ込んで来て、藤吉は、屋棟を過ぎる風の音を、聞いた。
いつの間にか、黒い風が出ていた。
七日前の晩と同じ、ひどい
冷えた肩を硬張らせた惣平次は、その、
諦めたらしく、おこうが窓を締めて、炉ばたへ引っ返そうとした時である。
野猿梯子が、ぎしと
戸を、そとから叩く音がするのだ。三人の顔が、合った。いっしょに、戸のほうを向いて、おこうが、
「何でしょう――。」
惣平次は、ちら、ちらと、藤吉へ眼を走らせて、
「鼠だ。」
戸を叩く音が、高くなった。
「庄太郎です! 庄公が来た、おう! 庄公が来た。」
おこうが、叫んで、
「おうお、庄太かい。いま開けるよ。今あけるよ。」
割れるように戸を叩く音が、家じゅうに響いた。すると、惣平次は、その怪しい場面が、たまらなくなって来たのだ。頭部を砕いた庄太郎が、墓へ埋めたままの姿で、いまここへはいって来ようとしている、竜手様に呼ばれて――。惣平次は、わが子ながら、その妖怪庄太郎の帰宅が、恨めしかった。厭わしかった。入れてはならない。そんな気がして、また、藤吉を見やると、藤吉の視線も、いつになく
おこうの手が、戸にかかって、がたぴし開こうとしている。そとに立って、戸を叩いている「物」の、白い着衣――
戸にしがみついて、また、一、二寸引き開けた。同時に、どんと一つ、戸外から、大きく戸が叩かれた。
戸は、開こうとしている。惣平次は、六畳を這い廻って、手探りに、竜手様を捜しているのだ。戸が開くまでに、右手に握りさえすれば――あった! 戸が、あいた。
「さあさ、庄太郎や、おはいり、寒かったろうねえ。」
このおこうの声を消して、惣平次が、竜手様をかざして、三つめの、最後の願いを呶鳴った。
「庄太が元の墓場へ帰りますようにッ!」
藤吉は戸へ走って覗いたが、重い風が飛び込んで来て、炉の火を