釘抜藤吉捕物覚書

影人形

林不忘




      一

 三十間堀の色物席柳江亭りゅうこうていの軒に、懸け行燈が油紙に包まれて、雨に煙っていた。
 珍しいものが掛っていて、席桟敷は大入り満員なのだった。人いきれとたばこで、むっとする空気の向うに、高座の、ちょうど落語はなし家の坐る、左右に、脚の長いついの燭台の灯が、薄暗く揺れて、観客のぎっしり詰まった場内を、影の多いものに見せていた。
 扇子を使いたい暑さだったが、誰も身動きするものもなかった。その年は夏が早いのか、五月だというのに、人の集まるところでは、もう、どうかすると、こうしてじっとしていても汗ばむくらいだった。
 軍談、落語、音曲、あやつり人形、声色こわいろ、物真似、浄瑠璃じょうるり、八人芸、浮かれ節、影絵など、大もの揃いで、賑やかな席である。ことに、越後の山奥とかから出て来たという、力持ちの大石武右衛門が人気を呼んで、このところ柳江亭は連夜木戸打止めの盛況だった。
 いま高座に出ているのは、若いが達者な、はなし家の浮世亭円枝えんしである。刷毛目の立った微塵縞みじんじまの膝に両手を重ねて、
「ええ、手前どものほうでたびたび申し上げますのがお道楽のおうわさで――。」
 はじめている。
 客はみな、今に来る笑いを待ち構えるような顔で、円枝の口元を見詰めながら聞き入っていた。
 うしろのほうの通路に近く、柱を背負ってすわっているのが釘抜藤吉だった。万筋まんすじ唐桟とうざんのふところへ両腕を引っ込めて、だらしなくはだけた襟元から出した手で顎を支えて眠ってでもいるのか、それとも、何かほかのことを考えているのかもしれない。固く眼をつぶってしきりに渋い顔を傾けているのである。
 機嫌の悪い時は、苦虫を噛みつぶしたように、何日も口をきかないのが藤吉親分の癖だった。乾児こぶんの勘弁勘次や葬式とむらい彦兵衛は、その辺のこつをよく心得ていて、いつも藤吉の口が重くなると触らぬ神に崇りなしと傍へも寄らないように、そっとして置くのだった。そして、そういう場合、藤吉は必ず誰にも知らせずに、大きな事件を手がけているので、しじゅう何かひそかに考えごとをしているふうだった。勘次も彦兵衛も、長年の経験からそれを承知していて、いざ親分の思案がまとまって話があるまでは、何も訊かないことにしていた。
「彦、来い。寄席よせでも覗くべえ。」
 ただこう言って、彦兵衛ひとりを伴に雨の中を、ぶらりと、八丁堀の合点長屋を出て来た釘抜藤吉だった。もちろん木戸御免である。親分の顔にあわてた男衆が、人を分けていい席へ案内しようとするのに、ここで結構と頤をしゃくって、さっさとその柱の根へ胡坐あぐらをかいたのだった。
 それきり眼を閉じて、高座へはすこしの注意も払っていない様子だった。どうせ例の気まぐれだろうが、それにしても、何のためにわざわざ傘をさして寄席へでかけて来たのか、さっぱりわからないと彦兵衛は思った。
 気のせいか、今夜は別して、いまにも何か変ったことが起りそうに、藤吉親分が緊張して見えるのだった。ふだんあか黒い顔が蒼く締まって死人のように、澄んで、沈んでいた。白髪まじりの細いもとどりを載せた、横へ広い大きな頭部を振って、黄色い、骨だらけの手で、じゃりじゃり音をさせて角張った顔の無精髯を撫で廻している。金壺眼かなつぼまなこ、行儀の悪い鼻、釘抜のようにがっしり飛び出た頬骨、無愛想にへの字を作っている口、今に始まったことではないが、どう見てもあんまり人好きのする容貌ではなかった。
「日の本は、岩戸かぐらの昔より、女ならでは夜の明けぬ国。」高座から、円枝の声が流れて来ている。「お色気のみなもとはてえと、御婦人だそうでげして――。」
 藤吉は、眼をひらいた。すがめを光らせて、周囲まわりの人々を見た。苦笑とも欠伸あくびともつかず、口をあけた。煙草で染まった大きな乱杭歯らんぐいばが見える。
 思い切ったように、とむらい彦兵衛が、
「親分、お眠そうじゃあごわせんか。帰りやしょうか。」
「なあに――。」
「円枝は、若えから無理もねえが、うるせえ話しぶりでごぜえますね。」
「そうかの。」
 円枝が引っ込むと、一渡り鳴物がざわめいて、評判の五人力、越後上りの大石武右衛門というのが、現れた。
 葬式彦は、自分が紙屑のような、貧弱な体格の所有主もちぬしなので、大男だの力持ちなどというと、人一倍興味を感ずるものとみえる。すぐに長い頸を伸ばして、高座に見入り出した。
 普通人の掌ほどの紋のついた、柿色の肩衣かたぎぬみたいなものを着て、高座いっぱいに見えるほど、山のように控えているのが、武右衛門である。が、この第一印象が去ってから、よく眺めると、角力すもうとりのちょっと大きいぐらいのもので、からだそれ自身は、そんなに驚くに当らないのだった。
「武右衛門え、江戸見物に出て来ねえか、ちゅうことで、おう、見物させてくれるなら、行くべえ。なあんて、突ん出て来たのが、お前さま、江戸さ来てみたら、ああに、見物するでねえだ。見物されるだ――。」
 こんな口上を述べて笑わせながら、肩衣かたぎねねる。着物の袖を滑らす。肌脱ぎになった。
 なるほど、見事な筋肉である。

      二

 湯呑みを握り潰す。火箸を糸のように曲げる。にぎり拳で板へ五寸釘を打ちこむ。それを歯で抜く、種も仕掛けもない。力ひとつなのである。肩や腕の肉が、こぶのように盛り上る。這うように動く。見物は讃嘆の声を呑んで、見守っている。われに返ったように、ざわめく。彦兵衛もいつの間にか乗り出して、細い身体を硬張こわばらせて凝視みつめていた。まったく、力業師として、ちょっとこの右に出る者はあるまいと思われる大石武右衛門だった。
「あんなのにかぎって、ころっとまいるものだ。」
 突然、藤吉が言った。人が感心すると、けなしたくなるのが藤吉の病いである。不機嫌なときは、右と言えば左と、何によらず皮肉に出るものだ。義理にも微笑わらうどころか、誰に対してもお愛想一ついうでなし、もしそんな時何か事件でもあろうものなら、藤吉親分ともあろうものが、鉄瓶が吹きこぼれたほどの、どんな詰らないことでも、初めからすぐ、こりゃあ難物だ、おいらの手に負えねえ、と投げ出したような口振りだった。ところが、それが、そういう口の下から、訳なく解決されて行くのが常だった。こうした藤吉の癖は、彦兵衛は百も知り抜いていて、いっこう気にしないことにしていた。じっさい、藤吉の悲観的態度は、態度だけで、格別何も意味しているものではないのだった。
 だから今も、大石武右衛門はすぐ死ぬだろうなどと、人のことを不吉な、口の悪いことを言っても、彦兵衛は驚きもしなかった。
 かすかに、にこりと顔を歪めただけで、相手にならなかった。武右衛門の演技が進むにつれて、藤吉以外の観客の全部は、注意のすべてを高座へ吸われて行った。あられのような拍手が、湧いたり消えたりした。
 彦が、
「あんなけだものを捕るなあ、骨でがしょうな。捕繩なんざあ、何本でも、固めて引っ切っちまいますぜ。」
 藤吉は、聞こえないふうだった。武右衛門がひっ込んで行くと、娘手踊りと銘打った梅の家連中というのが代って、三人の若い女が、高座いっぱいに踊りはじめた。いよいよ詰らなさそうに、藤吉は、場内のあちこちを見まわしていた。
 楽屋に通ずる、高座の横の戸があいて、あわてた顔の出方でかたのひとりが、現れた。壁ぎわの板廊下を木戸口のほうへ急いだかと思うと、すぐ席主の幸七を呼んで引っ返して来た。何かささやいていて、幸七の顔いろも変っている。誰かを探すように客席を見ていたが、すぐ藤吉を認めて、幸七は、小腰をかがめて近づいて来た。低声に、
「親分、とんでもねえことが起りましたようで、恐れ入りますが、ちょっと楽屋のほうへ――。」
「おいらに用かね?」相変らず藤吉は、物憂そうな眼だった。「喧嘩かい。」
「いえ、ちょうどいいところに親分さんがいらしって下すって、助かりましてございますよ。なんですか、誰かられたんだそうで――。」
 まわりの者の耳に入れまいとするので、聞き取りにくい声だったが、藤吉も、そこで訊き返してはいられなかった。眼で、彦兵衛に合図をすると、黙って起ち上った。待っていた出方の男と幸七を先に立てて、高座の傍から、楽屋へはいって行った。
 右端の一段高いところが、芸人たちが出番を待つ部屋になっていて、取っつきに、裸蝋燭が一本とろとろ燃えていた。それについて、細長い板敷きの廊下がまっすぐ、裏口まで通っている。蝋燭の光が、むこうへ行くほど大きく拡がって、閉めきった部屋の障子がぽうっと白んでいるきりで、足許だけが明るく、宵闇のようなほの暗さが、全体をめていた。
 高座から、唄や三味線につれて踊る梅の家連中の女たちの畳を擦る音や、足踏みが聞こえて来るばかりで、楽屋は、しいんとしていた。誰もいない様子だった。
 が、若い衆が案内して、その狭い廊下を進んで行くと、真ん中辺からすこし向うへ寄った薄ぐらいところに、何か黒い大きなかたまりのようなものが倒れているのが、だんだんはっきり眼にはいってきた。そこへ行く途中、横隣の部屋の障子がすこし開いていて、出の仕度のできたあやつり人形の小屋台が置いてあるのが見えた。それは、文机ふづくえほどの大きさで、上から糸で人形を垂らして、舞台になるものだった。今夜あとから出ることになっている、有名な竹久紋之助の人形というのは、これだなと思って、藤吉は通り過ぎて行った。
「ほかの者はみんなどうしたんだ。」
 藤吉はそう言って、屍骸の上にかがみ込んだ。屍骸――もうそれは、屍骸に相違なかったが、あの、いま高座を退さがって来たばかりの力持ち、大石武右衛門の屍骸だった。
 そうら、見ろ、だから言わねえこっちゃあねえ。図体ずうてえけえやつはこんなもんだ――といいたげに、藤吉の皮肉な苦笑が彦兵衛をふり返ったが、この藤吉のまぐれ当りの誇りどころか、彦兵衛は、われを忘れたように、武右衛門の死体におどろきの眼をみはっていた。
「どうしたい、誰もいねえじゃあねえか。」
 藤吉が繰り返すと、出方の男衆が引き取って、
「へえ。まだ誰にも知らせねえんで――見つけるとすぐ、おもてへ飛んで行って旦那にだけお報せしました。」
 旦那というのは、席主の幸七のことだった。
「そうかい。もう手遅れかもしれねえが。」と、藤吉は、依然として面白くもなさそうな顔を幸七へ向けて、「すまねえが、おいらがよしというまで、誰ひとりこの席亭を出ねえようにしてもらいてえ。」
「お易い御用でございます。どうも厄介なことになったものだ。嫌な噂が立っちゃあ、客足が遠のきますから、どうか親分さん、あんまりぱっとならねえように、よろしくお願いいたします。」
「ああ、いいとも。誰か殺した者があるとすりゃあ、こちとらあそいつを逮捕しよっぴけばいいんで、まあ万事内々に早いところやりましょう。」
 幸七は足止めの手配に、芸人の出入りする裏口のほうへ急いで行った。

      三

 藤吉は屍体の上にしゃがんで調べにかかった。武右衛門は、高座の帰りに、そのままの衣装で死んでいて、顔がほとんど紫いろに変って眼が飛び出ていた。頸部くびに一条綱のあとがあって、鉛色に皺が寄っていた。
「締め殺されたんだ。」呻くように藤吉が言った。「それとも縊れ死んだのか――。」
「何か、細紐のようなものででも――。」
 彦兵衛が口を挾むと、
「いや、皺の寄り具合えから見ると、こうと、糸を束ねたような物だな。三味線の糸でも――。」
 武右衛門の咽喉を辿っていた手を離して藤吉は、発見者の男衆へ向き直った。
「そこで、お前の名だが、何と言いなさるかね。」
「藤吉。」
「え?」
「藤吉てんで。」
 にやにやする彦兵衛をちらと見て、藤吉は、
「藤吉さんか。」
「へえ。出方の藤吉と申しやす。へえ。」
「うむ。藤吉さん、おらあ八丁堀の者だが――。」
「ええもう、よく存じ上げております。親分と同じ名前で恐れ入りやすが――。」
「そんなこたあどうでもいい。見つけた次第を細かに話してもらおうじゃねえか。」
「いえね、後に出る人の顔が揃ったかどうか見ようと思いましてね、楽屋番の八兵衛に訊くつもりで、おもてからここへはいってまいりますと、御覧のとおり薄っ暗いんでよく見えませんでしたが、こっち側の部屋に、いま、あの操り人形の舞台の置いてある向う側で、太夫の竹久紋之助さんと、おこよさんが何かしきりに話し込んでいました。細長い一本廊下ですから、よく見通しがききます。ほかには誰も、人は見えませんでした。その時、こいつあお笑いになるかもしれねえが、そこの障子に、ひらりと影が映ったのを見たんで――ちょうど普通の大きさの人間の影でございました。踊るように、ちょっと写ってすぐ消えましたが、あっしゃあ誰かと思って近づいてみますと、だれも人はいねえで、この屍骸しげえ――武右衛門さんが倒れていたのでございます。酔興すいきょうにも程がある。大きなやつが、こんな通り路に寝て、邪魔になるじゃあねえか。おい、武右衛門さん――声を掛けて揺すぶってみたんですが、なんだか様子が変だから、席主の旦那を呼びに木戸へ引っ返したんでございます。」
 藤吉は口を結んで、鼻から息を吹いた。
「そうかい。よくわかった。が、あんまり役にゃあ立ちそうもねえ話だの。」彦兵衛を振りかえって、
「御同役、まあ、ちょっくらこけえらをえでみるとしょうか。」
 そして、ふっと沈黙に落ちて、あたりを見廻した。狭い板廊の両端に、一方は今来たおもての席、他は裏ぐちへのふたつの戸があって、右側は部屋の障子、左側は壁――出るにもはいるにも、その二つの戸のどっちかを通らなければならない。裏のほうで、芸人たちの世話をする男たちの話が、まだ何も知らないらしく、暢気に笑いさざめいて聞こえていた。
 廊下の入口を見返ると、前に言ったように、大きな裸蝋燭がじいじいと燃えつづけて、その黄色い光線が、幅の広い角度を取ってぼんやり部屋の障子を照らし出している。自然に作り出される光の魔術とでも言おうか、細い個所の一方にだけひかりが動いているので、ちょっと不思議に見えるほど、その蝋燭の灯が、壁に、天井に、複雑に交錯しているのだった。これならば、遠くまで、わりにはっきりと影を投げたことであろうと、藤吉は思った。
 彼は、ゆっくり頭をかきながら、
「なあ、藤吉どん。ここんところをもう一度聞こうじゃあねえか。いいか――おまはんが、この客席おもての戸からはいって来る。部屋の障子がすこしあいて、人形太夫の紋之助さんと――女は、何と言ったっけな?」
 いつの間にか、帰って来ていた幸七が、口を入れて、
「おこよさんと言いましてね、紋之助さんの三味線引きでございます。」
「うむ。そのおこよさんと紋之助が話し込んでいて、ここに、今のとおりに武右衛門が死んで倒れていた。他には誰もいなかった――と、こう言いなさるんだね?」
「へえ、さようでございます。その時、この障子に映ってる大きな影を見ましたんで。」
「人がいねえのに、影だけ見えたのか。」
「そうなんで。」
「紋之助さんとおこよは何をしていた。」
「何とも思わねえから、気をつけて見たわけではありませんが、なんでも、操り舞台の仕度をしながら、紋之助さんが何か一生懸命に口真似で話し込んでいました。大方、高座の打ち合わせをしていたのでございましょう。」
「影は、こう、急いでうつったと言いなすったね。」
「へえ。急ぎにも何にも、障子にひらひらと写ったかと思うと、すぐ消えてしまいました。」
「どんな影か、思い出せねえか。」
「どんな影といって――、」出方の藤吉は首すじを撫で撫で、「着物を着て、袴をつけたような、ふくれ返った人間の影でしたが――。」
「ううむ。袴をはいていた、と。」
 藤吉は、不遠慮に欠伸あくびをした。

      四

「なに? 袴をはいていた?」幸七が、大きな声で、出方へ、
「おめえ夢でも見たんだろう。誰も、はかまをはいた者なんか、楽屋にいやしねえじゃねえか。」
「戸外から忍び込んだに違えねえ。」
 彦兵衛の前に、出方の藤吉は口を尖らせて、
「しかし、影だけで、人はたしかにいませんでしたよ。」
「そりゃあお前。」藤吉である。
「この武右衛門さんの影じゃあなかったのかな。」
「冗談じゃあねえ。」
 出方の藤吉は、自分の証言を守るために一生懸命になっていた。
「そん時ぁもう、武右衛門さんはこのとおりここに倒れていたんで。」
「じゃあ、その影のことを、もそっと詳しく話してみな。」
「へえ。ようがすとも!――と言ったところで、なにしろとっさの出来事だったんで、どうもぼんやりしたお話で困りやすが、なんですよ親分さん、影はね、傴僂せむしのようでしたよ。」
「せむし――?」
「ええ。大きな髪を結って、手に何か持っていやした。」
「何を持っていた。」
「何だか知らねえが、糸のような物を持っているのが見えたんで――。」
 みな黙って、交る代る顔を見合っていた。割れるような拍手が聞こえて来て、つづいてまた唄と三味線がはじまって、しいんとなった。
「無理もねえ。」藤吉は、しずかに、「影じゃあそんなところまでわかるわけはねえからの。ことに、ちょっと間、ちらと眼にうつっただけじゃあ、これは、細けえことは訊くほうが唐変木とうへんぼくよなあ。」
「しかし親分、どうして人がいねえで、影だけ見えたんでごわしょう。」
「さあ、そのことよ――。」
「紋之助とおこよは、」彦が部屋を覗いて、「いねえ。どこへ行った――?」
 幸七が答えた。
「この裏に、高座へ出る前に衣裳を直す部屋がありましてね、出の時刻が迫ると、みなそこへはいりますから――呼んで来ましょうか。」
「いや、いい。」藤吉が停めた。
「その化粧部屋へは、廊下を通らずに行かれるんですかい。」
「はい。ここへ下りずに、向うの唐紙をあけるとすぐのところでございます。」
「武右衛門は、高座から来て間もなく、この廊下を通りながら殺られたんだね。」
「へえ。高座を下りる。ここまで来かかる。ほんのちょっとの間のことで。」
「おこよと紋之助さんは、稽古の話に気を取られていて、障子のそとの廊下で武右衛門が倒れるのを知らずにいた――。」
「そりゃあ親分、ちょうど出の代り、梅の家連が高座へ上った時分で、ここは一番おはやしの鳴物がやかましく聞こえるところだから、ちっとやそっとの騒ぎは耳にはいりませんよ。まして、話に夢中のようだったからね。」
「そりゃあそうだな。こうっと、高座を下りて来る。すぐに殺られる。廊下に人がいねえで、影だけ映っていた――。」
「紋之助さんとおこよさんは、あっしが席主の旦那を呼びに引っ返して、いま親分と一緒にここへ来るあいだに、何も知らねえで化粧部屋へはいったものでごわしょう。」
「そうだろう。訊いてみりゃあわかる。」
「すると、誰もいねえ廊下で、」彦兵衛がむすぶように、「武右衛門は絞め殺されたわけですね。」
「まあ、そんなことにならあ。」
 裏口へ通ずる廊下のむこう端に、驚愕に色を失った銀兵衛おやじの蒼い顔が、怖る恐る覗いた。銀兵衛は、楽屋口を預かる下足番で、枯木のような小柄な老人である。
「おい、銀!」幸七が、呼び込んだ。
「誰も出て行きゃあしめえな。」
「へえ、そうお達しだから、裏を閉めてしまいました。」
「馬鹿野郎、締めちゃあ仕様がねえじゃないか。もう追っつけ伯朝師匠が乗り込むころだが、来たって、はいれやしめえ。」
「なあに、心配しなさんな。」藤吉は、珍しく笑って、「犯人ほしせえ挙げりゃあすぐにも開けてやらあな。」
 そして、銀兵衛へ、「こう、爺つぁん、お前、武右衛門の死んだこたあ今聞いたのか。」
 出方の藤吉が、幸七へあわただしく囁いて、
「つぎは浮かれ節の花坊主だが、知らせてようがすね。」
 藤吉が、聞き咎めた。
「芸人衆は、ちっとも見えねえようだが、どこに詰めているんだ。」
「この部屋もそのためにあるんですが、高座のすぐ裏なもんですから、出の近い人が待つだけで、皆ずっと向うの座敷のほうにごろごろしております。さっき申し上げた化粧部屋の、また彼方なんで。」
「そうか。道理で、ちっとも姿を見せねえと思った。武右衛門も、そこへ帰ろうとしてここを通っていたんだな。」
 と藤吉が眼を返すと、銀兵衛がつづけて言った。
「すこしも存じませんでございました。旦那が廻って来て、誰も出しちゃあいけねえというんで、初めて知りましたようなわけで――。」
「おめえは裏口を離れずにいたんだな。」
「へえ。芸人衆のお履物を預かっておりやすんで。」
「この廊下を通って、誰か出て行った者があったろう、なあ爺つぁん。」
 銀兵衛は、きょとんとして、首を振った。
「いいえ裏ぐちは一つですが、どなたも。」

      五

 ふふんと藤吉は、小鼻をふくらませて黙りこんだが、すぐ顔を上げて、銀兵衛に、向うへ行けという合図をした。
「ほんとに誰も、出て行った者はごぜえません。あっしは、裏ぐちにすわりっきりで、円枝さんの下駄の鼻緒が切れたんで立ててあげておりましたが――。」
 楽屋番の銀兵衛がもう一度そう繰り返したが、藤吉は、聞いていそうもない様子だった。じぶんの胸元を覗き込むようにうつむいて、かれはしきりに爪を噛んでいるのだ。
 大石武右衛門は、見るとおりに、それこそ牡牛を三匹合わせたほどの、大兵肥満の男である。それに、いまこの柳江亭の人気を一身にあつめている、前代未聞の力業師なのだ。その大石武右衛門が高座を下りて、一本の蝋燭の光を背中に浴びながら狭いまっすぐな廊下を通って溜りのほうへ帰って行こうとしていると、途中で、何者かが武右衛門の頸部へ綱を捲きつけて、――あっという間に、見事にこの大漢おおおとこを絞殺したのだった。
 信じられない。この力持ちが、そうやすやすと絞め殺されようとは、これは、八丁堀合点長屋の親分釘抜藤吉でなくても、常識のある人間なら、誰しも受け取れないところである。しかも、その時、高座のすぐ裏、細廊下の横隣りの、一段高くなっている出を待つ部屋に、人形つかいの竹久紋之助と三味線引きのおこよが、二人で話し込んでいただけで、見とおしのきく廊下には人っ児ひとりいなかったというのだ。これは、事件のすぐあと、つまり武右衛門が倒れて間もなく、恐らくは、一、二、三、四、五、六――とは数えないうちに、客席から廊下へはいって来た出方の藤吉の証言である。そして、今また、楽屋口で芸人の下足番をしている銀兵衛が、これに裏書きするように、誰も廊下を通って裏へ出て行ったものはないと断言しているのだ。ことに、不思議なのは、廊下へはいって来ると一拍子に、出方の藤吉の見たという、障子に躍って消えた影である――。
 人はいないのに、高座の上り口にある蝋燭の灯りを受けて、その影法師だけが、障子にうつっていたという。
 たしかに、はっきり見たと出方の藤吉は主張するのだが、それは、普通人の大きさの人かげで、厚い着物を着て、袴をはいたように、ふくれ返って見えた。大きな髷に結って、傴僂せむしのようだったとも言っている。何か糸のようなものを持っていたと、男衆藤吉はいうのだが、すべては、はっと思った一瞬間の印象で、閃めくように障子をかすめて消えたのだから、もとより、こまかに話すとなると、至極漠然たるもので、夢の想い出の又聞きのようなことになるのだった。
 ぱちんと指を鳴らす――その間の出来事だったに相違ない。
 が、それにしても、あんなに膂力りょりょくすぐれた大石武右衛門が、こんなに簡単に殺されるなどということが、あり得るだろうか。頸部を巻いて絞めたのは、どうも三味線の糸を五、六本かためてったようなものらしいと、藤吉は、局所の皮膚のねじれ工合いなどから判断したのだが、それならいっそう、そんな糸で首を絞めつけたぐらいで、あの武右衛門が即死しようとは、どうしても呑み込めないのである。が、ものにははずみということがあるから、一歩譲って、そんなことで絞殺されたものとしても、あの武右衛門である。いくらとっさの不意打ちとは言え、相手が悪鬼魔神でないかぎり、武右衛門も、争ったに相違ない。いや、たとえしばらくでも、文字どおり死力を尽して抵抗したにきまっている。この狭い廊下で、鯨のような武右衛門が生への本能に促されて何ものかと格闘した。相当暴れた――ものと想像していい。大男が、死ぬまえの※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)もがきである。どんなにか必死の、どたばた騒ぎだったことと思われるのだが、それが、この、廊下に面した部屋に、出の仕度を急いでいた紋之助とおこよに聞こえなかったというのは、尠くとも、ふたりがちっとも気づかなかったというのは、いくら、出方の藤吉や席主幸七の言うように、ちょうどその時武右衛門と代り合って娘手踊りの梅の家連が高座へ上ったばかりで、ここは鳴物のもっともやかましく響く場所なので耳にはいらなかったのだろうとの説明があっても、釘抜の親分には、これがずんと胸に納まるというわけには、いささか往かなかったのだった。
 そう言えば、腑に落ちないことだらけである。
 高座で力業を演じていた武右衛門を、藤吉は、あんなのにかぎって妙にころりと死ぬものだと言ったが、それが、まさにそのとおりに、まるで藤吉の言葉に従わなければならなかったように、高座を下りると同時に、ここにこうして死んだのも言いようのない不思議ではあったが、これはもちろん、単なる偶然に過ぎないので、しかしそれを、藤吉のにらみに帰して、親分の眼はこうまできくのかと、薄気味悪く呆気に取られているところに、とむらい彦兵衛の藤吉に対する信頼と誇りが見られるのだった。
 藤吉は、すこし間がわるい。内心笑いながら、さながら言い当てたように、彦兵衛の顔を大得意に見せているのである。
 が、いつしか彼も、そんなことで呑気のんきに構えてはいられなくなった。
 二二んが四、二三が六――これならなんでもないが、この武右衛門の死は、二二んが五、二三が七でもあり、八でもあろうという、異中の異である。理外の理である。
 釘抜藤吉も、とくと思案しなければならなかった。
 思案に落ちると、かれは爪を噛む習癖くせがある。
 で、いま藤吉は、こうしてしきりに爪を噛んでいるのだ。

      六

 高座からは、梅の家連の踊りの足ぶみ、手拍子が、お囃しの音とともに、賑やかに聞こえて来ている。
 四、五人が、細い廊下に重なり合って武右衛門の屍骸を覗き込んで、みな集っていた。
 戸外そとは、初夏の夜の霧雨が、濃くなって行くらしい。
 近くの紀伊の国橋のはしげたを鳴らして、重い荷を積んだ大八車の通り過ぎて行く音が、どうかするとかみなりのように大きく長く、つづいていた。
 銀兵衛が立ち去って行くと、藤吉は、席主の幸七と葬式彦兵衛を伴れて、高座の上り口近い、はだか蝋燭の立っている戸のそばまで、引っ返した。
 戸の隙間から高座を覗くと、列なって踊っている女たちのうしろ姿が見える。
 藤吉は、何か言おうとして幸七をふりかえったが、その時、右隣の、出番の近い芸人たちが待ち合わせることになっている小部屋に、文楽のような、人形師紋之助の操り屋台が置いてあるそのそばに、ひそひそ心配そうに話し合って、話し家の円枝と、紋之助の三味のおこよとが、しょんぼり立っているのが藤吉の眼にはいった。
 おこよは、生え際の美しい、眼のぱっちりした、まだ娘むすめした顔である。
 二人とも、藤吉の視線を受けて、何も言わない先に、昂奮して蒼くなっている額を持って来た。
 こわごわ藤吉のほうへ屈んで、円枝が、
「武右衛門さんに、変り事があったようでげすが、べつにたいしたことは――。」
 狭い咽喉を出るような、かすれた低声こごえだ。いつも高座で人を笑わせているところばかりを見ているだけに、またおどけたことを吐くのが稼業で、の奇妙な顔が身上しんじょうになっているので、この男がこうして真面目なのは、なんとも不気味で、ほとんどもの凄いような感じさえするのだった。
「おうさ。」藤吉親分の、無表情な応答こたえである。「別にたいしたこたあねえやな。ちょいと、絞め殺されただけよ。全体、場ふさぎな図体をしやあがって、からだらしがねえじゃあねえか。なあ、円枝師匠、ははははは。」
「じょ、冗談じゃあねえ、親分」円枝は、どぎまぎして、それでも、嬉しそうに、「若いものを持ち上げなさるのは、罪でさ。あっしは、まだ師匠なんて言われる身分じゃあございません。」
 言いながら、ちらとおこよを顧みた円枝の眼に、押さえきれない誇らしい影のあるのを看て取った藤吉は、これは、円枝はこの女に大分心を動かしているな、ことによると、このふたりのあいだに――と、ひそかに結びつけて当りをつけながら、何気なく藤吉が言葉を向けたのは、うしろにいる席主の幸七へだった。
「この梅の家の踊りてえのは、もうじきすむんじゃあねえのかえ。」
「へえ、もう下りますころで。」
「屍骸を見せずに、この部屋から、むこうの溜りへ帰すようにしな。廊下を通らしちゃあいけねえ。」
 そういっているところへ、高座の上り口が開いて、眼のまえに華やかな色彩いろが揺れ動いたかと思うと、梅の家の女たちが四、五人、がやがや言って廊下へ降りて来た。
「おい、つぎは花さんだ。」幸七が、高座を明かせまいとして、芸人たちの溜りのほうへ声を高めた。
「花さんは、何をしてる――。」
「おやおや、ものを食うひまもありゃあしない。」
 楽屋で弥助をつまんでいた浮かれ節の花坊主が、口いっぱいに頬張ってもごもごさせながら、
「はい。おん前に候。ごめん下さいまし。」
 藤吉たちのあいだをすり抜けて、高座へ出て行った。頭をあおあおと丸めて、古代むらさきのしぼりのあらい縮緬の羽織をずり落ちそうに、真っ赤な裏をちらちら見せている。
「ええ――かわりあいまして、かわり栄えもございません。毎度お耳お古いところで恐れ入りますが、おあとには、おめあてが続々繰り込んでおりますので、手前はやはり、うきよぶしを二つ三つ、なあんて、いい気なもので、さあ――。」
 花坊主の声が、高座うらの藤吉の耳にも、遠くもったものに聞こえて来る。
 廊下を行こうとした梅の家連の女たちは、幸七に引き止められて、追われるように、すぐ横側の部屋へ上った。
 何ごとが起ったのか――と、不審げにしている若い女たちのまえに、藤吉が立った。
 が、そこの廊下に、あの武右衛門が仰向になって横たわっていることが、誰からともなくすぐ伝わったとみえて、急に、女どもの白い顔に、恐怖が来た。
 藤吉は、その、一列にならんでいる梅の家連中を、覗って、例のすがめで、右から左へ、左から右へ、二、三度じっと、撫でるように見渡していたが、やがて、口の隅から呟くように、
「踊りてえものは、難かしゅうごわしょうな。」
 一応、調べられる――と思っていたのが、藪から棒に、この問いだったので、女たちは、変に拍子抜けがして、いそいで互いに顔を見合った。金魚のように、長い袂をゆすって、笑いかけた女もあった。ひとり、少し年長としかさらしいのが、
「はあ。でも、親分さんなどは、お器用でいらっしゃいますから――。」
「はい。おいらだってこれで、まんざらでもねえのさ。」
 こういって藤吉は、やにわに、妙な恰好に両足を動かして、踊りの身振りのようなことをして見せた。
 梅の家連は、武右衛門の死を忘れて、きゃっきゃっと笑いこけて奥へ駈けこんで行くし、幸七も、ぷっとふきだしたが、本人の藤吉と彦兵衛だけは、にこりともしなかった。

      七

「円枝さんは、先に引っ込んだ。おこよさんは、ここで、紋之助師匠と話しこんでいなすったのだね。」
 藤吉は、まだそこにぼんやり立っていた円枝とおこよへ、声をかけた。
 円枝が、きょとんとして、答えた。
「へえ。あっしは、武右衛門さんに高座を渡して、ずっとこの裏の溜りで馬鹿っ話をしておりました。すぐ帰るつもりだったんですが、来る途中、下駄の緒を切らしてしまって、楽屋番の銀おやじがすげていてくれるんですけれど、それがなかなか立たねえので――今も、待っているところでございます。」
 おこよは、静かな眼を藤吉の顔に据えて、しとやかにうなずいた。
「おまはんに訊くが」と、藤吉はおこよへ、「廊下に、誰も見かけなかったかね?」
「はい。武右衛門さんが高座を下りて、この前を通って行ったきりで――。」
「そりゃあわかってらあな。」
「しばらくして、藤吉どん――出方の藤どんが、おもてから来たようでしたが、そのとき、師匠と一しょに、わたしはこのつぎの間の化粧部屋へはいりましたので、後のことは――。」
「いまはじめて武右衛門の――騒ぎを知りなすった?」
「さようでございます。」
 おこよと円枝が、一緒に答えると、藤吉はじっと口びるを咬んでいたが、
「竹久の師匠は――?」
「溜りに、出を待っております。」
「ほかに、この辺に人はいなかったといいなさる。」
「はい。どなたも見かけませんでございました。」
「おう、円枝さんえ。」藤吉は、不意に声を落して、顔を突き出した。「隠しちゃあいけねえ。おっと、あわてるこたあねえのだ。おまはん、武右衛門とは、普段から仲が悪かったろうな。」
 急に蒼褪あおざめた円枝が、無言で、口を開けたり閉じたりしていると、おこよが言葉を挾んで、
「それは親分さん、あたしから申し上げます。武右衛門さんも、そりゃあ好い人でしたけれど、うるさくあたしにつきまとって、あんまりくどいんで、それに、あたしが嫌がってることを知ってるもんですから、なにかにつけ、円枝さんが買って出てあたしを守護まもって下すったんです。」
「とんだ惚気のろけだ。」苦笑が、藤吉の口を曲げた、「ここらあたりと狙って、ちょっと一本ちこんでみたんだが、おこよさんの口ぶりじゃあ、どうやら金の字だったようだのう。」
 にやりと、彦兵衛をかえり見ると、とむらい彦は、立ったまま寒そうに貧乏揺ぎをしながら、
「親分、あんな大の男が、どうしてああちょろっと絞め殺されたのか、それがあっしにゃあ、まだわからねえ。」
「べら棒め、おいらにもわからねえことが、彦づらに解ってたまるけえ。」
「だがね、親分。こりゃあ、絞め殺されたというよりあ、首に紐を巻かれて、はっとしてあわてる拍子に、自分で縊れ死んだ――んじゃあねえか、と、まあ、こいつああっしの勘考だが――。」
「でかしたぞ、彦。じつあおいらも、そこいらのところと――つまり、武右衛門は、いわば自力で縊ったようなものと、とうから踏んでいるのだ。が、誰が、どうやって、廊下を通ってる武右衛門の頸部へ、紐を巻いたか――。」
「影の仕業しわざだね、親分。」
「そうよ。影の仕業よ。でその影あ――。」
「そこだて――。」
 彦兵衛が、しっくり腕を組むと、藤吉は、珍しくにこにこして、
「彦、一足だ。よく考えてみな。おいらにゃあもう、およその当りはついてるんだ、ふははははは。」
 銀兵衛や梅の家連の報せで、芸人の溜りから人が出て来て、楽屋うらは、騒ぎになりかけていた。
 操り人形の名人として知られている竹久紋之助も、いつの間にかその部屋へはいって来ていて、おこよと円枝のうしろに、気むずかしそうな、老いた顔が見えていた。
 余程の老齢らしく、柿色の肩衣をつけたからだも、腰がまがり気味に、油紙のような皮膚、枯木のような顔――弱い、いたいたしい老名人だった。
 紋之助を見つけた藤吉の眼が、やさしく微笑した。
「竹久の師匠じゃあごわせんか。」
 おこよが、びっくり振り向いて、
「あら、ほんとに――。」
「どうもとんだことで――お役目御苦労に存じます。」
 慇懃いんぎんに藤吉へ挨拶して、幾分迷惑そうに、紋之助老人は、前へ出た。
 藤吉が、
「ねえ、師匠、障子に影だけ見えて、それで、肝腎の人はいなかったというんで――この、二方口の廊下の、いってえどこへ消えたもんでげわしょうのう。」
「なあるほど。奇怪なこともあればあるもので――。」
「それより、首っ玉に紐を巻かれながら、どうして武右衛門さんは、相手を掴みつぶしてしまわなかったか――それが不思議でならねえ。」
「いや、まったく、ね。」
「なにしろ、あの力でがしょう――。」
「あの力だ――。」
「手が、届かなかったのかな。」
 独りごとのように言って、藤吉は、高座の上り口の蝋燭を、じいっと見つめていた。
 紋之助は、首を捻っただけで、答えなかった。

      八

「親分さん、もう死体を取り片づけても、ようがすかね。」
 男衆の藤吉が、訊きに来ても、藤吉は黙って、蝋燭の灯を見つづけながら、かすかにうなずいたきりだった。
 すぐに、多勢の手で、重い武右衛門の死体を運ぶらしく、騒がしい人声と物音が、障子のそとの廊下に起って、遠ざかって行った。
 紋之助は、じっとそれに聞き入るように、耳を澄ましているふうだった。
 高座から、花坊主の唄う浮世節の節廻しが、いきに、艶っぽく洩れて来ていた。
 藤吉が、おこよを片隅へ、さし招いた。
 二人は、人形舞台の向うに立って、低声だった。
「おめえさんは、師匠の何かね。」
「何と申して、」おこよは、意外な面持ちで、「三味でございます――。」
 紋之助老人が、聞きつけて、
「三味だけじゃあねえんで。私の人形の片手でございますよ。紋之助の人形は、おこよの糸に乗ってこそ、はじめてお客様の御意を取り結びます、はい。」
「あら、そんなこと――。」
 おこよは、初心うぶらしく、顔を赧くして打ち消しながら、紋之助を見た眼を、藤吉へ返した。
「竹久の大師匠の芸でございますもの。あたしの三味いとは、邪魔をするだけ――。」
「おこよさん、」藤吉は、ちょっと改まった。「おいらあ、こんな厄介な探索は初めてだ。手も足も出ねえありさまだが、どうですい、あの武右衛門てえ野郎のことを、もそっと聞かしちゃあくれめえかの。」
「武右衛門さんのことって、あたしは何も知りませんけれど、なんでも、みなさんと仲が悪かったようでございますよ。もう仏ですから、あしざまに言うのはなんですけれど、ほんとに、厭なお人でござんした。」
「ふうむ、どうしてまた、そんなにきらわれたんで――。」
「どうしてと申して、」と、おこよはちょっと逡巡ためらったが、「女好きで、そのうえ、自分は大の色男のつもりで――うるさいったらないんです。」
「あの男は、今度越後の山奥とかから出て来て、ここで初めて顔が合ったんじゃあねえのかえ。」
「仲間のたねを割るようですけれど、死んだ人ですから構いません。いいえ、今度はじめて出て来たどころか、いままで何年となく、上方かみがたからあちこち巡業まわっていた人ですよ。わたしたちも、ずいぶん方々で会いましてございます。」
「そうかい。そんなことだろうと思ってた。」
 藤吉が考え込むと、おこよは、問わず語りにつづけて、
「円枝さんとも、よく旅で一座しましたが――。」
「ふうむ。その円枝さんとは、武右衛門がおめえに色眼を使うんで、たびたび鞘当てがあったことだろうの。」
 おこよは、うつむいた。紋之助師匠が、すこしむっとしたような口調で、
「あんまり詰らないことを、お訊きにならないように――。」
「あっしが訊くと思うと、腹が立つ。」藤吉は、にっこりして、
「が、役立やくだちが訊かせると思うと、こいつあどうも、腹が立ったところで、しようがねえ。まあ、師匠、そんなようなもんだ。」
「でも――、」おこよは、ぎょっとしたように、顔を上げた。
「あの時、円枝さんはずっと隣りにいて、それに、あの方は、人殺しをするような、そんな――そんな野暮ったい――。」
「親分さん――、」紋之助と話していた円枝も、向うから口を入れた。「あっしを疑うなんて、そりゃあんまりひでえや。あっしは親分――。」
「おう、そこにいたのか。まあさ、おまはんは黙っていな。」
「黙っていろも、ことによりますよ。人気商売だ。人殺しだなんて言われちゃあ――。」
 客席おもてに、笑い声が湧いて、すぐに消えた。藤吉は、再び不機嫌な表情いろに返って、周囲の人の顔から顔へと、無意味に見える視線を、しきりに走らせていた。
 出が近づいて、紋之助とおこよは、人形を取り出して、あやつり舞台の上に、並べている。狂言は、芹生せりふの里寺子屋の段、源蔵、戸浪、菅秀才、村の子供たち、その親多勢、玄蕃げんば、松王――多くの、いずれも精巧を極めた人形である。
 人形の関節、胴、首など、要所要所に糸がついていた、紋之助が、神に近い至芸しげいで、上から糸を操る――正に天下一の竹久紋之助の人形だ。
「竹久紋之助といえる名人あり。人形いけるがごとくに遣い、この太夫に、三味線はこよ女、いずれも古今に名誉の人、二人立揃いてつとめられし世に双絶の見物と、称誉せられしはこれなり。人形使い方のことは、そのもと三議一統の書より起り、陰陽自然の事に帰す。深長に至りては、草紙のうえの沙汰に及ばずといえども、その大概を和歌につづりて、覚え易からしむること左の如し。
踏み出しは、男ひだりに女右、これ陰陽の差別なりけり
当惑は額を撫でて屈み目に、身をそむけるが定まりし法
驚きは、顔しりぞけて肩を出し、拳を宙に置くものぞかし
笑う時、男は肩を添る也、女は袖をあててうつむく。」
 その他、これら人形の表現法と基本動作を歌にして示したのが五十三首あって、古来喧ましい竹久家の名人芸だった。

      九

 人形を見ていて藤吉は、そんなことを考えていたわけではない。この時、かれの頭脳あたまはほかにあって、忙しく働いていたのである。
 出方の藤吉の眼は、とっさのことではあり、それに、相方あいかたが、ぼんやりした影法師なので間違っているかもしれないが、とにかく、その、障子にうつった影は――傴僂だったという。が、言うまでもなく、楽屋にせむしは、ひとりもいないのである。
 藤吉は、うっとりしたような眼で、彦兵衛を招いてささやいた。
「誰と誰てえことは言わねえが、おらあ一応五人の人間を疑ってみたんだ。が、考えてその四人まで身証みしょうがはっきりして取り除くとすると――最後あとの一人が犯人てえことは、なあ彦、動かねえところだろうじゃあねえか。」
「へえ、その五人目てえのは、誰なんで。」
 葬式彦は、わかったような、わからないような顔をする。
「まあ、くなってことよ。」
 その釘抜のような顔を運んで、藤吉は、ぴょこりと廊下へ降りた。そして、にわかに鋭い眼になって、一方から蝋燭の光の来る、細い廊下の上下を見渡した。
 うしろからだけ光線を浴びた藤吉の影が、障子をいっぱいに埋めて、黒く塗り潰したように見える。藤吉は、二、三歩、障子のほうへ進んでみた。
 光から遠ざかると、それだけ影が大きくなる――そして、それだけ影が薄くなる。茫っと、拡がるのだ。
 と、その藤吉をぼんやり見守っていた彦兵衛の耳に、不思議な音が聞こえて来た。
 どうやら、藤吉が、笑いを抑さえているらしいのである。が、すぐ、
「なあ、彦。」と、振り向いた藤吉は、もう笑ってはいなかった。「おらあ十手渡世が嫌になった――。」
 また始まった! こう親分が、悲観的な口調を洩らすところをみると、さては謎が解けた、と思って、彦兵衛が微笑を噛み殺していると、藤吉は続けて、
「おいらは、あたまがどうかしてらあ。今のいままで、こんなことに気がつかねえたあ、われながら、情なくて、あいそが尽きるじゃあねえか。」
 拍手の音が聞こえて、浮世節が終ったらしく、花坊主が降りて来そうな気はいだった。つぎは、呼びものの一つの紋之助の人形である。すると、眼が覚めたように活気づいた釘抜藤吉だった。
 いきなり、その、出の時が迫って来たので、高座のほうへ廊下を進もうとする紋之助老人の前に、立ち塞がった。
 幸七、出方の藤吉、円枝、梅の家連の女たち、楽屋番の銀兵衛ほかの芸人などが、愕いた顔を、そのまわりに持って来る。
 人々に囲まれて、おこよは、紋之助を庇おうとするように、前へ出た。
 しずかに、藤吉が、言っていた。
「師匠。」
 静かに、紋之助が、答えた。
「何でございます。」
「やったね、師匠。」
「ほほう、何のことで――。」
 ちょっと、間があった。
 紋之助は、痩せた肩を聳かして、真正面から、藤吉を見据えた。
「おそれいりますが、おめがね違いです。」
「とは言わせねえぜ。じつああっしが――と、ちょくに出な、直に。」
 口を開いたのは、おこよだった。
「親分さん、何をつまらない冗談をおっしゃるんです。」血が滲みそうに、切れ長の眼尻が、上っていた。
「師匠は、鼠一匹殺さないお人で、それに、こんなお年寄りじゃあありませんか。釘抜藤吉とも言われる方が、すこしは眼をあけて人を見ていただきましょう。」
「親分、師匠はこの部屋で、おこよさんと何か手真似で話をしていて、」出方の藤吉も、気の毒そうに、「廊下にゃいなかったんですぜ。」
「おうさ。その手真似のことよ。」と、藤吉は、おこよへ笑って、「その時師匠は、鴨居かもい越しに、障子のそとへ人形を垂らして見ずに糸を使っちゃあいなかったかな。」
「ええ。そうやって、糸の使いをいろいろ苦心しながら、わたしに指の動かし方を話して聞かせていらっしゃいましたが――。」
 一同の眼が、障子の上を振り仰ぐと、なるほど、鴨居のすかしがあけられて、開きが作られてある。
 藤吉は、笑い出していた。
「早く言やあ、右にも左にも、下にも、犯人のらかるところがねえとすりゃあ。上から飛んで逃げたにきまってらあな。」
 紋之助もにこにこして、
「この年寄りが、あんなところを上ったり下りたり、それに、私にあの力持ちの武右衛門さんが殺せるものですか。馬鹿も、休みやすみ――。」
 いきなり、藤吉の手が伸びて、操り舞台のうえの人形の一つを、掴み上げた。それは、ものものしい頭髪と服装なりの、松王丸の人形だった。
「師匠にゃあその力がなくても、師匠の指には、いや、名人の操る糸の先には、金剛力があるのだ。部屋から、鴨居のそとへこの松王の人形を垂らして、これに三味の糸の束ねたのを持たして、操り糸を通す名人の指の先で、軽業師武右衛門を絞めたに相違ねえ――やい、野郎ども、退け!」
 藤吉は、人々を押し退けて空地あきを作りながら、「見ねえ、この灯りを背負って、おいらの影は、あんなに大きく映らあ。藤吉どんの見たのあ、人間の影じゃあねえんだ。そら、こりゃあどうだ――。」
 武右衛門の倒れた個所の障子に、松王丸の人形の影をうつすと、小さな人形が光線の関係で普通人の大きさに拡がり、頭が大きく、着物の裾がひらいて袴のように見え、それに、背を曲げて、いかさま傴僂のようである。
 紋之助は、うつむいて小さな声だった。
「おこよをおもちゃにしようとして、狙っている様子でしたから、いっそのことと思って――。」
 藤吉が、気の毒そうな表情かおになったとき、人々のうしろから太い声がして、
「しかし、人形が首に糸を巻いたぐらいで死んだのは――藤吉親分のまえだが、わたしは、こう思いますね。ぼんやり歩いているところへ、くび筋に変な物が下りて来て、うしろから抱きつかれたんではっとした。とたんに、咽喉へ紐が来たんで、あわてて取ろうとする。なかなか人形の力なんかで、あの力持ちが死ぬわけはない。これは、驚いて※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)もがいた拍子に、われとわが大力で自分の首を締めつけて呼吸がとまったんでごわすから、たまげたのと、除ろうとする腕力うでのはずみとで、ねえ、親分、武右衛門さんは、結局つまり、自滅ということになりゃあしませんかい。どうもわたしは、そんな気がしてならねえんだが――。」
 いま楽屋入りして、騒動を聞いたばかりの、真打ちの軍談師伯朝だった。
 古今の名人竹久紋之助を、その純情の罪から救いたい一心で、哀願が、伯朝の顔いっぱいに書かれてあった。
 これが、藤吉にも、何とかして助けたいと、ひそかに望んでいた機会となったに相違ない。
「おや、こりゃあ横網の大師匠ですかい。」
 と、眼でうなずきながら――紋之助の肩に手をかけている葬式彦兵衛を、やにわにかれは、大声に呶鳴りつけた。
「やい、彦! 手を放せ。紋之助師匠とおこよさんの高座じゃあねえかッ!」





底本:「一人三人全集1[#「1」はローマ数字、1-13-21]時代捕物釘抜藤吉捕物覚書」河出書房新社
   1970(昭和45)年1月15日初版発行
入力:川山隆
校正:松永正敏
2008年5月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について