一
「勘の野郎を起すほどのことでもあるめえ。」
合点長屋の土間へ降り立った釘抜藤吉は、まだ明けやらぬ薄暗がりのなかで、足の指先に駒下駄の緒を
「なんでえ、まるっきり
中っ腹の勘次はよくこう言っては、癪半分の冷笑を浴びせかけた。そんな場合、彦兵衛は口許だけで笑いながら、いつも、
「俺らか、俺らあただのちゃらっぽこ。」
と唄の文句のように、言い言いしていた。このちゃらっぽこが果して勘次の推測どおり、唐の
「親――親分え、
女手のない気易さに、こんな時は藤吉自身が格子元の下駄脱ぎへ降りて来て、立付けの悪い戸をがたぴし開けるのがきまりになっていた。
「はい、はい、徳撰さんのどなたですい? はい、今開けやすよ、はい、はい。」
寝巻きの上へどてらを羽織ったまま、上り框と沓脱ぎへ片足ずつ載せた藤吉は、商売柄こうした場合悪い顔もできずに、手がかりのよくない千本格子を力任せに引き開けようとした。音もなくいつの間にか、背後に彦兵衛が立っていた。両手を懐中から顎のところへ覗かせて、彼は寝呆けたようににやにやしていたが、
「親分。」
と唸るように言った。
「何だ?」
「お寝間へお帰んなせえよ。徳撰の用はあっしが聞取りをやらかすとしよう。」
「まあ、いいやな。」
と、一尺ほどまた力を入れて右へ引いた戸の隙間から、頭へ雪の
「朝っぱらからお騒がせ申してすみません。」と腰から取った手拭いで顔を拭きながら、仙太郎が言った。出入り先の徳撰の店でたびたび顔を合しているので、この若者の
「誰かと思やあ、仙どんじゃねえか、まあ、落着きなせえ、何ごとが起りましたい?」
「親分、大変でごぜえますよ。」
と仙太郎はおずおず藤吉の顔を見上げた。
「ただ大変じゃわからねえ。物盗りかい、それともなんかの間違えから出入りでもあったというのかい。ま背後の板戸を締めてもらって、あらまし事の次第を承わるとしようじゃねえか。」
言われたとおりに背手に戸を閉めきった仙太郎はまた改めて、
「親分。」
と声を潜めた。この若者の大仰らしさにいささか度胆を抜かれた形の藤吉と彦兵衛は、今は眠さもどこへやら少しおかしそうな顔をして首を竦めていたがそれでも藤吉だけは、
「何ですい?」
と思いきり調子を落して相手に釣り出しをかけることだけは忘れなかった。冷え渡った大江戸の朝の静寂が、ひしひしと土間に立った三人の
「親分、旦那が昨夜首を吊りましただよ。」
「仙さん、お前寝る前にとろの古いんでも
「夢じゃありましねえ。」
「と言うと?」藤吉は思わずきっとなった。
「ああに、夢なら夢でも
「だが、仙さん、お待ちなせえ。」
と彦兵衛はいつになく口数が多かった。
「あっしが昨夜お店の前を通った時にゃあ、旦那は帳場傍の大火鉢に両手を
「止せやい。」
と藤吉が噛んで吐き出すように言った。
「その顔に死相でも出ていたと言うんだろう。」
「ところが。」と彦兵衛も負けていなかった。
「死相どころか、
「そこで。」
と藤吉は彦兵衛のこの経文みたいな証言を無視して、こまかに肩を震わせている仙太郎へ向き直った。
「お届けはすみましたかい。」
ごくりと唾を呑み込みながら、仙太郎は子供のように
満潮と一緒に大根河岸へ上ってくる
「そうして、なんですかい?」
帯を結び直しながら藤吉が訊き返した。
「旦那方はもうお見えになりましたかい?」
ここへ来るより番屋の方が近いから、役人たちも今ごろは出張しているであろうと答えて、藤吉らもすぐ後を追っかけるという
勘次の鼾だけが味噌を摺るように聞えていた。藤吉と彦兵衛は意味ありげに顔を見合ってしばらく上框に立っていたが無言の
「勘の奴は寝かしておけ。」
と独語のように彼は言った。微笑と共に、彦兵衛は規則正しく雷のような音の響いてくる納戸の方をちらと見返りながら歪んだ
「彦。」
と藤吉が顧みた。
「うるせえこったのう。が、夜の明ける前にゃ一つ形をつけるとしようぜ。」
「お役目御苦労。」
と彦兵衛は笑った。
「
二
永代の空低く薄雲が漂っていた。
彦兵衛一人を伴れた釘抜藤吉は、そのまま八丁堀を岡崎町へ切れると松平越中守殿の下屋敷の前から、紫いろに霞んでいる紅葉橋を渡って本姫木町七丁目を飛ぶように、通り三丁目に近い具足町の葉茶屋徳撰の
「五つごろまでに
一枚取り外した大戸の前に、夜来の粉雪を踏んで足跡の乱れているのを見ると、多年の経験から事件の難物らしいのを直感した藤吉は、こう呟きながら、その戸のなかへはいり込んだ。燭台と大提灯の灯影にものものしく多勢の人かげが動いているのが、闇に馴れない彼の眼にもはっきりと映った。
「これは、これは、八丁堀の親分。ようこそ――と言いてえが、どうもとんだことで、さ、さ、ずっと――なにさ、
こう言いながらそそくさと出て来たのは町火消の
「旦那衆はもうお見えになりましたかい。」
番太郎が途草を食っているわけでもあるまいが、どうしたものか、検視の役人はまだ出張して来ないという常吉の答えを背後に聞き流して、湿っぽい大店の土間を、台所の
不時の出来事のために気も転倒している家中の人々は、寒そうに懐手をした二人を見ても、挨拶どころか眼にも入らないように見受けられた。何か大声に怒鳴りながら店と奥とを往ったり来たりしている白鼠を、あれが大番頭の喜兵衛だなと藤吉は横目に睨んで行った。近い親類の者も駈けつけたらしく、広い家のなかはごった返していた。何か不審の筋でもあるとすれば、調べをつけるのにこの騒動は
白壁の蔵に近く、木造の一棟が縊死のあった茶の置場であった。さっきの仙太郎が蒼い顔をして入口に立ち番をしていた。近所や出入りの者がまだ内外に立ち騒いでいたが、折柄はいって来た三人を見ると、申し合わせたように皆口を
「徳撰。」と筆太に墨の入った提灯の明りに照らし出されて、天井の梁から一本の綱に下がっているのは、紛れもない
生前お関取りとまで
「合点長屋の親分でげすかえ。ま、ちょっくら上って一杯
とでも言い出しそうに思われた。それが一つのおかしみのようにさえ感じられて、前へ廻って屍体を見上げたまま、藤吉はいつまでも黙りこくって立っていた。昨夜見た時はぴんぴんしていた人のこの有様に、諸行無常生者必滅とでも感じたものか、
「見込みが外れて、
と言いかけた常吉の言葉を取って、
「何ぞほかに自滅の
と藤吉は眠そうに装って相手の顔色を窺った。
「さあ――。」と常吉は頭を掻いた。
「なにしろ、お
藤吉は聞耳を立てた。
「それが、その奥州路の探し物ってなあ何だね。まさか、飛んだ
「すると、まだ親分は徳松さんの一件を御存じねえと言うんですかい。」
と常吉は呆れて見せた。
「初耳ですね。」と藤吉は
「いったいその徳松さんてのはどこのどなたですい?」
「話せば永いことながら――。」
根が呑気な常吉はこうした場合にもこんなことを言いながら、少し調子づいて藤吉の顔を見詰めた。それを遮るように藤吉は手を振った。
「ま、後から聞きやしょう。
と、彼は傍に立っている彦兵衛を返り見た。
「お
言いながら屍骸の真下にある宇治の茶箱を顎で指した。恐らくこれを台にして死の
無言のまま彦兵衛は箱の上に立って、両手を綱の結び目へ掛けた。二、三歩後へ退って二人はそれを見上げていた。力を込めているらしいものの、綱はなかなか解けなかった。屍体の両脚を横抱きにして、藤吉は下からそっと持ち上げてやった。死人の顔と摺れ合って、油気のない頭髪が額へかかってくるのをうるさそうにかきのけながら、彦兵衛は不服らしく言った。
「畜生、なんてまた堅えたまを拵えたもんだろう。」
その時だった。
「解けねえか。よし、
と、藤吉の言葉の終らない内に大きな音を立てて、箱が毀れると、痩せた彦兵衛の身体が火箸のように二人の足許へ転がり落ちた。思わず手を離した藤吉の鼻さきで、あたかも冷笑するかのように、縊死人の身体が小さく揺れた。箱の
「吹けば飛ぶような
「自滅じゃねえぜ、親分。」
と言う彦兵衛を、
「やかましいやい。」
ときめつけておいて藤吉は、
「今見たようなわけで、わしにはちっとばかし合点の行かねえところがある。旦那方が来ちゃ面倒だ。
三
店の者は大番頭の喜兵衛以下飯焚きの老爺まで全部で十四人の大家内だった。が、彦兵衛の
「旦那方、御苦労さまでごぜえます。」
折柄来合わせた町奉行の同心の下役にこう挨拶すると、頭の常吉を土蔵の前へ呼び出して、藤吉は改めて、徳松一件の続きへ耳を傾けた。
二十何年か前のことだった。そのころの下町の大店なぞによくある話で、女房のおさえが病身なままに、主人の撰十は小間使のお冬に手をつけて、徳松という男の子を生ませたのであった。なにがしかの手切金を持たせて、母子もろともお冬の実家奥州仙台は石の巻へ帰したのだったが、それからというもの、雨につけ風につけ、老いたる撰十の思い出すのはその徳松の生立ちであった。ただ一代で具足町の名物とまで、店が売り出してくるにつれ、妻の子種のないところからいっそうこの不幸な息子のことが偲ばれるのであった。この徳村撰十という人物は、ただの商人ばかりではなく、茶の湯俳諧の道にも相当に知られていて、その方面でも広く武家屋敷や旗下の隠居所なぞへ顔を出していた。彼のこの趣味も
「それで、その、なんですかい。」と藤吉は常吉の話のすむのを待って口を入れた。
「その徳松さんとかってえ子供衆は、今だに
「子供と言ったところで、いまごろはあの荷方の仙太郎さんくらいに――。」
と答えようとする常吉を無視して、ちょうどそこへ水を汲みに来た女中の傍へ、藤吉は足早に進み寄って何ごとか訊ねていたが小声で彦兵衛を呼んでその耳へ吹き込んだ。
「おい、一っ走り馬喰町の吉野屋まで行って、清二郎という越後の
頷首いた彦兵衛の姿が、台所の薄暗がりを通して
「旦那、こりゃあどうも
「そうか、おれもなんだか怪しいと思っていたところだ。」
と鬚のあとの青々とした若い組下の同心が、負けない気らしく少し反り返って答えた。
「手間は取りませんよ。なに、今すぐ眼鼻をつけて御覧に入れます。」
苦々しそうにこう言い切ると、そのまま藤吉は店へ上り込んで、茶室めいた奥座敷へ通ずる濡縁の端へ、大番頭の喜兵衛を呼び出した。二本棒のころからこの
「その時お店は
と眼を細めて彼は喜兵衛の顔を見守った。葉茶屋と言っても
「その清二郎さんという反物屋は、この三年奥州の方を廻って来たということですが、
「へい、なんでもそんなことを言って、仙台の鯛味噌を一樽店の者たちへ
「なるほど。」
と藤吉は腕を
「あの小屋へ左手の路地からもへえれますね。」
「大分垣が破れていますから、潜ろうと思えば――。」
という番頭の言葉をしまいまで待たず、
「旦那は
「どこにも庭下駄が見えねえのはどういうわけでごぜえます?」
「おや!」
と喜兵衛は小さく叫んで庭中を見渡した。
「はははは。」と藤吉は笑った。
「庭下駄は置場にありやすよ。裏っ返しや横ちょになって、隅と隅とに飛んでいるのを、あっしゃあしかと
「さあ――。」
と番頭はしばらく考えた後、
「まず一人はございますな。」
「喜兵衛さん。」
と改まって藤吉は声を潜ませた。
「お店から一人繩付きが出ますぜ。」
「えっ。」
喜兵衛は顔の色を変えた。
「いやさ。」と藤吉は微笑した。
「旦那の
「あっ!」
と喜兵衛は大声を揚げた。もう白々と明るくなった中庭の隅に、煙りのように黒い影が動いたのだった。
「あれですかい。」
と藤吉は笑った。
「今の脅し文句も、じつは、あのお方にお聞かせ申そうの
庭の影は這うように
「おい、仙どん。」
藤吉は呼びかけた。
「お前そこにいたのか。」
猿のような鳴声と共に、ひらりと仙太郎は庭隅から路地へ飛び出した。
「野郎、待てっ。」
「親分。」
と、葬式彦兵衛が縁側に立っていた。
「吉野屋へ行って来やしたよ。」
「いたか。」
垣根越しに仙太郎の後を眼で追いながら、こう藤吉はどなるように訊いた。
「清の奴め青い面して震えていやがったが、浅草橋の
「でかした。」
と一言いいながら、藤吉は縁へ駈け上った。
「彦、仙公の野郎が風を食いやがった。路地を出て左へ切れたから稲荷橋を渡るに違えねえ。まだ遠くへも走るめえが、手前一つ引っくくってくるか。」
「ほい来た。」
と彦兵衛は鼻の頭を擦り上げて、
「どこまでずらかりやがっても、おいらあ奴の
「はっはっは、また道楽を始めやがった。さっさとしねえと大穴開けるぞ。」
「じゃ、お跡を嗅ぎ嗅ぎお
ぐいと裾を
「彦。」
藤吉の鋭い声が彼を追った。
「いいか、小当りに当って下手にごてりやがったら、かまうことあねえ、ちっとばかり痛めてやれ。」
「この模様じゃ泥合戦は承知の上さ。」
呟きながら彦兵衛は振り返った。
「して、これから、親分は?」
「知れたことよ、郡代前へ出向いて行って上布屋をうんと引っ
四
羽毛のような雪を浮かべて
が、一切の罪状は、それより先に越後上布の清二郎が藤吉の吟味で泥を吐いていた。
三年前に徳撰の店へ寄った時、今度は北へ足を向けるというのを幸いと、日陰者の一子徳松の行方捜査を、撰十はくれぐれも清二郎に頼んだのであった。それもただ仙台石の巻のお冬徳松の母子としかわかっていないので、この探索は何の功をも奏すはずがなかった。で、三年越しに江戸の土を踏んだ清二郎は、失望を
星月夜の宮城の原で、盆の上のもの言いから、取上婆さんのお冬の
初めの内こそ
いよいよ話が決まるまでは、奉公人の眼はできるだけ避けたがよかろうと、
後は簡単だった。
度を失っている清二郎に手伝わせて、重い撰十の屍骸を天井から吊る下げ、踏台として足の下に宇治の茶箱を置き、すっかり覚悟の縊死と見せかけようと企んだのである。
「それにしても親分。」
町役人の番屋から出て来るや否や、番頭の喜兵衛は藤吉の袖を引いた。
「初めから仙太郎と睨みをつけた親分さんの御眼力には、毎度のことながらなんともはや――。」
「なあに。」と藤吉は人のよさそうな笑いを口許に浮べて、
「あっしのところへ注進に来た時に、いつになく皺くちゃの手拭いを下げていたのが、ちらとあっしの眼について、それがどうも気になってならねえような
「そうおっしゃられてみると、なるほど仙太郎はいつも手拭いをきちんと四つに畳んで腰にしておりましたのですよ。」
「それに、お前さん。」
と藤吉は並んで歩みを運びながら、
「お関取りの足場にしちゃ、あの茶箱は少し弱すぎまさあね。」
「踏台から足がついたってね、どうだい、親分、この落ちは?」
と彦兵衛が背後で笑声を立てた。
「笑いごっちゃねえ、間抜め、お取り込みを知らねえのか。」
と藤吉は叱りつけた。そしてまた
「が、喜兵衛さん、ま、なんと言ってもあの綱の結び目が仙の野郎の運のつきとでも言うんでしょう。ありゃあ水神結びってね、早船乗りの
もう解け出した雪の道を、八丁堀の合点長屋へ帰って来た藤吉彦兵衛の二人は、狭い流し元で朝飯の支度をしていた勘弁勘次の途法もない胴間声で、格子戸を開けるとすぐまず驚かされた。
「すまねえ。」
と勘次は火吹竹片手にどなった。
「今し方頭の常公が来て話して行ったが、親分、徳撰じゃえれえ騒動だってえじゃありませんか。知らぬが仏でこちとらあ白河夜船さ、すみません。ま、勘弁してくんねえ。それで
「世話あねえやな。」
釘抜藤吉は豪快に笑った。
「朝めし前たあこのことよ。なあ、彦。」
が、七輪に
「ちぇっ。」と彼は舌打ちした。
「勘兄哥の番の日にゃあ、きまって