一
がらり、
「おうっ、親分は来てやしねえかえ、釘抜の親分はいねえかよ。」
濛々と湯気の
「なんでえ、いけ騒々しい。
「や、そう言う声は勘さん。」甚八は奥の湯槽を
「藪から棒に変事たあ何でえ。」
言いさす勘次を、
「勘、わりゃあすっ込んでろ。」
と
「変事とは変ったこと、何ですい?」
首きり湯に漬ったまま、出て来ようともしないから、
「見たか聞いたか金山地獄で、ここじゃあ話にならねえのさ。岡崎町の
「あいよ。」藤吉はうだった声。「人殺しか、
「桔梗屋の前だ。あっしゃあ帰って待ってますぜ。」
格子戸を
「あっ、勘弁ならねえ。行っちめえやがった。」
こう呟いて勘次が振り返った時、藤吉はもう
「烏の行水、勘、早えが勝ちだぞ。」
「おう、親分、お上りでごぜえますかえ。」
「うん。ああ言って来たんだ。出張らざなるめえ。」
顔見識りの朝湯仲間、あっちこっちから声をかけるなかを黙りこくった八丁堀合点長屋の目明し釘抜藤吉、
「冷てえ雨だの。」
「あい、
慶応二年の春とは名だけ、細い雨脚が針と光って今にも白く固まろうとする朝寒、
京の紅染めの向うを張って「鴨川の水でもいけぬ色があり」と当時江戸っ児が鼻を高くしていた式部好みの江戸紫、この紫染めを一枚看板にする紺屋を一般にむらさき屋と呼んで、
通りへ出た。
と見る、桔梗屋の店頭、一団の
今は小走りに駈けながら、人々の視線を追ってその集まる一点へ
「勘の字、見ろ!」
「何ですい、ありゃあ?」
立ち停まった二人を
「親分、早速の御足労、かたじけねえ。」
「お出を待ってね、あれ、あのとおり、何一つ手をつけねえで放っときやした。八丁堀を前に控えてこの手口、なんと親分、てえっ、
と、慌てて開いた
十二月と二月の八日はそれぞれに事始事納の儀とあって、前夜から家々に
甚八と常吉とがいっしょに口を開こうとした。言葉が
周囲の群集は呼吸を凝らして、竹のうえの首と藤吉を
押し潰したような
と、つかつかと進んだ藤吉、天水桶のこっちから腕を伸ばして竹を掴んだかと思うと、社前で鈴でも振るように二、三度揺すぶった。前屈み、左に
「甚さん。」
藤吉が振り返った。
「
「あっしだ。」常吉が答える。「半時ほど前だから卯の上刻だ、親分も知ってなさるだろうが
「何のこたあねえ、首人形だ。」
勘弁勘次が口を出した。すると弥次馬の中から、
「違えねえや。京名物は首人形とござい。」
と言う声がした。藤吉が見ると、色の浅黒い、
藤吉、別に気にも留めないと言ったようす。
「誰でえ、首は?」
「あ、それがさ。」と藤吉は耳の背後をかいて、
「桔梗屋さんと
「おうっ。」見物の遊人がまたしても
じろりと藤吉が男を見やる。勘次が囁いた。
「親分、あの野郎、勘弁ならねえ。」
「まあま、ええってことよ。」藤吉は笑った。「それよりゃ桔梗屋だ、いや、この首だ。」と藤吉を振り返って、
「のう、
「あい。」
常吉と勘次、ただちに竹を外しにかかる。藤吉はずいと桔梗屋の店へ通った。
二
主人八郎兵衛と番頭、度を失って挨拶も忘れたものか、
女子ども、と言ったところで内儀は先年死んでお糸という独り娘、固いというもっぱらの噂、これと下女と飯焚婆の三人は奥で
「ま、御免なせえ。春早々縁起でもねえ物を背負い込まされて、とんだ災難でごぜえす。が、こちとらの訊くだけのこたあ底を割っておもらいしてえんだ。なあ、俺も不浄が
腰を下した藤吉、それから硬く軟かく、表から裏から、四人の男を詮議してみたが、要するに無駄だった。四つの口は、首には全然覚えのないこと、昨夜はたしかに笊を挾んでおいたのが、今朝常吉に起されて見たらどこの何者とも知れない彼の首がかかっていた、したがって何がなにやらいっさい解せないとの一点張り、何ら探索の手懸りとも観るべきものは獲られなかった。
「
物堅い桔梗屋八郎兵衛、四角く畏った。
「意趣返しなぞとは思いも寄りません。何一つ含まれるようなことはございませんで、へえ。」
「お糸さんはいく歳だったけのう?」
「取って十七でございます。」
「式部小町、評判だぜ。」
「お蔭様で
「岡目八目、こうっ、大丈夫けえ?」
「ええええ、その方はもう――じつはまだ祝言前ですからお
「婿? 耳寄りだな。誰ですい?」
「
「うん、うん、弥吉どん、あの、色の白え、背の高え――そう言えば見えねえが、他行かえ。」
「へえ、十日ほど前に、浦和の実家へ仏事にやりましたが、もう今日明日は戻る時分と――。」
言っているところへ、
「旦那様、ただ今!」あわただしく駈け込んで来た若い男。手甲脚絆に草鞋に合羽、振分の小荷物が薄汚れて、
「お店の前――な、何がありましたえ? く、首とかなんとか――私もちらと見ましたが、ど、ど、どうしたわけでござんすいったい?」
「おう、弥吉、よう早う帰りました。今もな、八丁堀の親分と、お前の噂をしていた矢先。」
「弥吉どん、お戻り。」
「弥吉どん、お戻り。」
「はいはい、偉くお世話になりました――これはこれは親分さま、いらっしゃいまし――旦那さま、浦和からくれぐれもよろしくと申しました。これは浦和名産五
「おうお、なにからなにまでよく届きます。糸かい、首の騒ぎで気分を悪うしてな、頭痛がするとか言うて奥に
「お糸さんは、」藤吉が口を出した。「首を見たのけえ?」
「いいえ親分、見るどころか、それと聞いたら気味悪がってもう半病人、娘ごころ、気の弱いのに無理はござんすまい。」
「そうよなあ。」
「親分、一件を下ろしたぜ。」
「そうか。よし。」
皆が一度に弥吉に首の
桔梗屋の青竹獄門、ぱっと拡がったから耐らない。雨の日の
「いよう、合点長屋あっ!」
「大釘抜っ!」
「親分千両!」
藤吉の姿にいろんな声がかかる。見渡したところ、早や先刻の遊人は立去ったらしかった。
「ちっ、閑人が多すぎらあな。」
呟いた藤吉、勘次の手から竹付きの首を受け取ったものの、
手早く洗って引き揚げた首、勘次の差しかける傘に隠れて、藤吉が検する。
「や、白髪じゃねえか。」呻いた藤吉、ぐいと濡髪を
「はあて、知れたこと。女出入りさ。」
「おう、そこいらだんべ。この
「ありゃあ耳に入るはず。」
「だが勘、昨夜の今朝だぞ。」
「これだけの人たちだ、心当りの者あ自身突ん出て来やしょう。」
「うん。それもねえところ見りゃあこの首あ遠国の者かな――が、江戸も広えや、のう。」
「あいさ、斬口あ?」
「
「若えな。」
「うん。二十二三――四五、とは出めえ。細頸――小男だな。勘、聞け、好えか、二十二三の若白髪、優型で眉毛のねえ――これが首の主だ、どうでえ、野郎、ぴんと来るか。」
「いっこう来やせんね。」
「だらしがねえな。」薄笑いが藤吉の口尻に浮ぶ。「首は宜え。が、胴体がどうした?」
「どこにどうしてござろうやら、さ。」
「そのことよ。俺にも
「へっ、
「はっははは、御同様だ。勘、掘じくれ。」
突如藤吉の指さす方、天水桶の傍に、紫の煮出し殻を四角の箱から開けたまま
が、掘じくるまではなかった。何か出て来るかもしれないと勘次が
「堅気じゃねえな。」
にやりとした藤吉、に組に首を持たしてひとまず番所へ預けにやった後、殻を払った
弥造を肩へ立てて、藤吉、勘次を引具して店について裏へ廻った。
何人とも解らない首が縁もゆかりもない家の軒に懸っていた。こんなことがあり得ようか。
顔を滅多斬りにしたのは果して遺恨だけか、または首の身許の知れるのを
竹を外し、笊を取り、首を刺してまた竹を立てておいたものであろうが、それなら、その笊はどこにある? 首のない屍骸はどうした? ここで斬ったのか、外から持って来たものか。吾妻屋とある香袋は、首の主と引っ懸りがあるか。庇の下で細工をする時、犯人の身内からずれて紫殻の中へ落ち込んだのか、あるいは
雨がすべての跡を消して、軒下の模様からは何ものも掴めなかった。八丁堀合点長屋を前に挑みかかるようなこの兇状、藤吉、自身の名に対しても
裏の染場、その蔭に空地、向うに一棟、小さな物置場が建っている。
「勘、きな臭えぞ。」
「さては、火元が近えかな。」
踏み込んだ二人の鼻を、埃の気がむっと打つ。見まわす土間、狭いから一
甕の底に俵や菰が敷いてある。撥ね退けるとなにやらばらばらと飛び出た。
「やっ! 梅干の種だ!」
這うようになおも辺りを見れば、飯粒の
「親分、ちょっくら!」
入口の勘次、声を忍ばせた。はっとした藤吉、あわてて笑いを引っ込めると、扉の蔭に駈け寄って勘次の肩越し、戸外を窺った。
人眼が怖いか裏口から、横町へ抜ける細道伝いに娘お糸が今しも
「好い女子だなあ――勘弁ならねえ。」
と
「勘、尾けろ。」
「へ?
「そうよ。とちるめえぞ。」
「へっへ、言うにや及ぶ。糸桜、てんだ。」
「なにをっ?」
「糸ざくら蕾も雨に濡れにけり、かな。」
「ちゃんちゃらおかしいや。抜かるな。」
「合点承知之助。」
勘弁勘次、影のようにお糸の跡を踏んだ。
合点長屋へ帰ろうとして、藤吉がふと見ると、縁起直しのつもりであろう、弥吉と小僧が尻をからげて、清水で桔梗屋の前構えをせっせと洗っていた。
陽が水溜りに映えて、そのころから晴れになった。
三
ちょうど二月、守田座には本所の師匠の書卸し「
この
早朝から道楽の紙屑拾いに出て行った藤吉部屋の二の乾児の
ふんと鼻で笑った藤吉、そうかとも言わずに退屈そうな手枕、深々と
「お、親分え、大事だ。勘弁ならねえ。」
路地の中途から呶鳴って、勘弁勘次が毬のように転げ込んで来たのは、それから一時ほど後だった。
お糸のあとを慕った勘次、岡崎町の桔梗屋を出で、堀長門から
「婆や、あの人は?」
と言うのが聞えた。すると
「あら、お糸さま、昨夜お会いなすったばかりなのに、ほほほほ――あの人が今ごろここにおいでなさるもんですかねえ。まあ、お上りなさいましよ。」
往き過ぎた勘次、四、五軒向うの八里半丸焼きの店へ寄って訊いてみると、老婆の名はおりき、若いころから永らく桔梗屋に奉公していたお糸の乳母だとある。さてこそ独り胸に
「いつまで経っても婆アも娘も出て来ねえ。あっしもつい
坐りざま背後へ撥ねた裾前、二つきちんと並んだ裸の膝小僧へ両手を置いて、勘次はここで声を落した。
壁と言ったところでほんの
土の中から人間の指が出ていたのである。
紫色の拇指が普請場の壁から覗いていたのだから、勘次は慌てた。もうおりきやお糸どころの騒ぎではない。お長屋頭へ駈け込んで人手を借りて壊れた壁土を剥いでみると、中から出て来たのは縮緬ぞっきの粋作り、小柄な男の
そこへに組の常吉が普請の用で来合わせたので、共々調べて訊いてみたところが、どうも昨日はここまで土を塗ってなかったという。して見ると、ゆうべのうちに殺っておいて首と胴とを
「常さんがお長屋に居残って
「勘兄哥、そりゃあお前、采女の馬場だと?」黙っていた彦がこの時眼を光らせた。「縮緬ずくめの装束? ふうん。」
「ふうんもねえや。知れたことよ。
「嵐翫之丞。」
「嵐家なら、屋号は?」
「岡島屋、豊島屋、葉村屋、伊丹屋に――。」
「うん?」
「吾妻屋。」
「それ見ろ。」
彦兵衛は眼をぱちくり、首の件を知らないから呑み込めずにいると、役者のことは初耳ながらも、勘次はなるほどと小手を叩いて、
「首の出所は知れやした。が親分、犯人は?」と思わず乗り出す。
釘抜藤吉は哄笑した。
狭い棟割が揺れをほどの大声だった。そしてやはり寝たままで、
「ほしゃあお前、勘の前だが、日が暮れりゃあ出べえさ。」
と突っ放すように言い捨てたが、ちょっと真顔になって、「勘、お糸は?」
「あい、まだおりきの家に。」
「そうけえ。」と藤吉は眼を
四
夜に入って冴え渡った寒空、濃い
四つ半ごろ、岡崎町の桔梗屋の表戸を
乳母おりきは暇を取って一軒持った後までもしげしげ桔梗屋へ出入りを続けていたし、お糸とは気心も合うかして、母親のない淋しさからお糸がおりき方に寝泊りして来ることも珍しくないどころか、事実、お糸は、月のうちを半々に岡崎町と采女の馬場に
「おお、寒ぶ!」
肩を
「雪になるかもしれませんね。」
男はだんまり、猫背を丸めて随いて来る。
「雪になるかもしれませんね。」
弥吉は繰り返した。
采女の馬場、左がおりきの住居、右側は西尾長屋の普請場、人通りもぱったり絶えて、高い足場の蔭だから鼻を摘まれてもわからないほどの暗さ。石川屋敷の方角で消え入るような犬の遠吠え――。
と、この時、
「う、う、う、う――う。」
普請場の闇黒から、低い囁き。
弥吉の足がその場に停まった。追いついた男、
「や、あ、あれは!」
「う、う、う。」
と今度は一段高く、たしかに壁の中からだ。
呼吸弾ませて立竦んでいた弥吉、
「ひゃあっ!」
と
「ひとごろしいっ!」
と細く尾を引いて、
「う、恨むぞ――取り殺さいでか――。」
陰に
「ゆうべお前に殺された嵐翫之丞の亡霊だ。」壁土のなかから言う。「よくも、よくも、私を、わたしの首を――うう、怨めしやあ!」
「あっ! 御免なさい。」
弥吉、そこへぴったり手を突いた。
傍らの闇黒が動いた。藤吉親分が起っていた。
「彦、」と壁へ向って、「出て来い。上出来だ。首のねえ幽霊が、それだけ口ききゃあ世話あねえやな――のう、弥吉どん。」
「あっ!」
「これさ、弥吉どん、お前のような人鬼でも
「――――」
平伏した弥吉を取り巻いて、桔梗屋へ迎えに行った大男勘次と、今ごそごそ壁の中から出て来た亡者役の彦兵衛とが、むっつり見下している。藤吉はうずくまった。
「弥吉どん。やい。弥吉、わりゃあ何だな、お糸と役者の乳繰
「親分さま。」弥吉が白い顔を上げた。「ま、何ということをおっしゃります。あなた様も御存じのとおり、私はこの十日ほどお店を明けて浦和へ帰っておりました。戻ったのが今朝のこと、なんで昨夜江戸のここでその役者とやらを殺し得ましょう。親分様としたことがとんでもないお
「うん、そうか。こいつあ俺らが悪かったな、だがの、弥吉どん、何だってお前は詫びたんだ?」
「詫びたとは?」
「詫びたじゃねえか。つい今し方、壁の中の彦っぺに、御免なさい、って手を突いたじゃあねえか。よ、ありゃあいったいどういう訳合でござんすえ?」
「そんなこと、申しましたかしら――。」
「なにをっ! こう、手前俺を誰だと思ってるんだ、合点長屋の藤吉だぞ。」
「よっく存じております。」
「存じていたら手数かけずと申し上げろっ。」
「しかし親分、そ、そりゃあ御無理というもの、まったく私は浦和のほうに――。」
「そうよ。」藤吉はにやりと笑って、「十日に浦和へ行って、四、五日前に帰って来た。」
「えっ!」
「土産物担いで帰って来た。がお店へはいらねえで、裏の空小屋へ忍び込んだ。」
「だ、誰が、ど、どうしてそんなことが!」
「まあさ、黙って聞けってことよ。用意の冷飯、梅干、鰹節を齧って、お前、小屋に寝起きしてたな。」
「――――」
「江戸にゃあいねえと見せかけて、これ、
「――――」
「
「あっ!」
一声叫んだ弥吉、逃げられるだけは逃げるつもり、両手を振って躍り上った。が、かくあるべしと待っていた勘次、丸太ん棒のような腕を伸ばして襟髪取ってぐっと押さえた大盤石、弥吉、元の土に尻餅を突いて、やにわにげらげら笑い出した。
「どうだ。」覗き込んだ藤吉、「はっはっは、土性っ骨あ据ったか。」
「おそれいりました――ついては親分、今度は私から訊かして下せえまし。」
「おう、何なと訊きな。」
「
「それはな、」と藤吉も今は砕けて、「お前が今朝帰って来た時、俺らといういわば客人がいるにもかかわらず、ろくすっぽ仁義も済まねえうちから、へえお土産って荷を出した。なあ浦和名物五家宝、結構だがちっとべえぷんと来らあな、
「なるほど、一言もございません。」
「あとから小屋の籠城っぷり、はっははは、
「お引立てを願います。」
往生際の綺麗さを賞めてやってもよかった。
芝居茶屋で見染め合ったお糸翫之丞の浮いた仲、金に転んで宿を貸していた乳母のおりき、嗅ぎつけて嫉妬の業火に燃え立ったのが片恋の許婚弥吉であった。その
証拠の品はことごとく自分の懐中へ移したのが、香袋だけは、竹へ首を刺し立てる時に、抜け落ちて、紫殻の中に
聞いてみればまんざら無理からぬ心中だが、凶事は凶事、大罪人に用いる
紫繩の弥吉、憮然として前後を固める合点長屋の親分乾児立去ろうとするそのあとに、鬼火を利かした小道具、燈芯やら油を含んだ綿やらが、普請場の壁下に風に吹かれて散らかっていた。
歩き出した弥吉、振り向いて、血を吐くように叫んだ。
「お糸さまあっ!」
おりきの家の格子戸が勢よく開いて、何も知らずに、
「だって、ほほほ、いけ好かない婆や、今呼ぶ声がしたんだもの――あら、嫌だねえ、空耳かしら。」