それだからと
云って、
僕は
彼女をこましゃくれた女だとは思いたくなかった。
結婚して何日目かに「いったい、君の年はいくつなの」と
訊いてみて
愕いた事であったが、二十三
歳だと云うのに、まだ
肩上げをした
長閑なところがあった。
――その
頃、僕
達は
郊外の墓場の裏に居を定めていたので、初めの程は二人共
妙に
森閑とした気持ちになって、よく
幽霊の
夢か何かを見たものだ。
「ねえ、墓場と云うものは案外美しいところなのね」
朝。彼女は一
坪ばかりの台所で関西風な
芋粥をつくりながらこんな事を云った。
「結局、墓場は墓場だけのものさ、別に君の云うほどそんなに美しくもないねえ」
「
随分あなたは
白々としたもの云いをする人だ……そんな事云わぬものだわ」
こうして、背後から彼女の台所姿を見ていると、
鼠のような気がしてならない。だが、彼女は
素朴な心から時に、僕にこう云う
うたをつくって見せる事があった。
帰ってみたら
誰も居なかった
ひっそりした障子を開けると
片脚の鶴が
一人でくるくる舞っていた
坐るところがないので
私も片脚の鶴と一緒に
部屋の中を舞いながら遊ぶのだ。
「で、まだ君は心の中が
寂しいとでも云うのかね」
僕は心の中ではこの詩に感服していながら、ちょっとここのところが
こざかしいと云えば云える腹立たしさで、彼女をジロリと
睨んだ。
「ううん、墓の中の
提灯を見ていたら、ふとこんな気持ちになったンですよ。……別に本当の事なンか出やしないわ。だって、こんなの、まるで河の
ほとりに立って何か
唄っているようなの……ねえ、その気持ち
判るでしょう」
「判らないねえ、僕は
うたよみじゃないから……」
「そう、そうなの……」
本当を云えば、初め、僕は彼女を愛しているのでも何でもなかったのだ。彼女だって、僕と一緒になるなんぞ夢にも思わなかったろうし、結婚の夜の彼女が、「済まないわ……」と一言
漏した言葉があった。どんな意味で云ったのか、僕だけの解釈では、僕以外の誰かに、済まなさを感じていたのであろう。――僕は彼女を知る前に、一人の少女を愛していた。骨格が
鋭く、
眼は
三白眼に近い。名は
百合子と云った。歩く時は、いつも男の肩に寄り
添っていなければ気が済まないらしく、それがこの少女の
魅力でもあった。
「とうとうお
菊さんと結婚なすったンですってね。三吉さんもなかなか
隅におけない」
黄昏の街の
途上で会った時、百合子はチラと責めるように僕を
視てこう云ったが、歩きながら、例のように百合子は肩をさし寄せて、
香料の
匂いを運んで来る。だが、おかしい事には再会するまでのあの切なさも、ふと行きずりにこうして
並んでみると、
夫婦になってからもなお遠く
離れて歩く菊子の方が、僕には変に新しい魅力となって来ているのに気がつくのであった。
結婚して
苔に
湧く水のような愛情を、僕達夫婦は言わず語らず感じあっていたのだが、それでもまだ、長い間の習慣は
抜けきらないもので、金が一銭もなくなると、彼女はおかしな
風呂敷包みをつくっては墓場の道を走って行く。で、僕は
ひょうげて、まるで下宿屋か何かの女でも呼ぶように「お菊さアん」と窓から呼ぶのだ。すると、白く
振り返った彼女は、
一生懸命に笑った顔で、「お使いよオ」と答える。
「お使いなンかいいんだ。帰っておいでよ」
「だって、あンた
苺を食べたくないの? それを買いに行くの……」
何か眼の中が熱くなって来て、墓場の上に
紅い
粒々がパッと散って行くほど、僕は僕の
不甲斐なさを彼女に見せつけられたようだ。で、僕はたまらなくなって素足のまま墓場の道へ走って出た。
「
馬鹿!
俺はそんなにしてまで苺なンぞを食いたかないンだよッ! お帰り、帰ったらいいだろう……」
彼女は風呂敷包みを、まるでアンパンか何かのように子供らしく背後に
隠して、
しぶとく立っていた。その
しぶとさが余計胸の中に来ると、僕は彼女の
髪をひきつかんで、まるで、泥魚のように、地べたに引きずって帰って来た。
「君が、こんな
一人合点をするから、前の男達も君を
殴ったのだろう。僕だって、小刀の一ツも投げたくなるよ。――
炭俵に入れられて、一日
揚板の下へ
押し
込められた事があったッて君は云っていた事があったが、前の男の気持ちだって、何だか僕にはだんだん
解って来たよ」
彼女は
涙もこぼさないでしおれていた。風呂敷の中からメリンスの
鯨帯と、結婚の時に着ていた
胴抜きの
長襦袢が出て来た。
「こんなもの置きに行ったって仕方がないじゃないかッ」
ふと彼女を
視ると、僕の学生時代のモスの
兵児帯を探し出して
締めているのだ。何だか
擽ったいものが身内を走ったが、僕は故意にシンケンな表情をかまえていた。
「君が腹の満ちた
恰好で、一ツのものを夫に
与えるのは、それア
昔の美談だよ。一ツしかなかったら、二ツに割って食べればいいだろう、何もなかったら、二人で
飢えるさ」
これは、素敵にいい言葉であった。僕は僕自身のこの言葉にひどく
英雄的になったが、彼女には、それがどんなにか
侘しく
応えたのであろう。急に、まるで
河童の子のように眼のところまで両手を上げて、しくしく声をたてて泣き始めたのだ。
この泣き方は実に面白い。まるで、
閨を共にする男へなんぞの
色気は、
大嵐の中へ
吹き飛ばしたかのように、自分一人で涙を楽しんでいる風なのだ。子供のように、泣きながら
泥の上を引きずられて来た
汚れた手で、足の裏を時々ガリガリやりながら思い出したようにシャックリをする。そのシャックリの
語尾はまるで羊が鳴いているようにメーと聞えた。
「何だ! 子供みたいに、もうこれから、こんな余計な算段は
止めた方がいいよ、判ったかね」
僕は窓にぶらさがっている
濡れタオルを彼女に取ってやって、
一人窓の外の花の
咲いた
桐の
梢を見上げた。
実に青々とした空であった。僕は、何でもいいからつくづく働きたいと思った。働いてこの
蟹の穴のような小さな家庭を
培って行きたいと思った。僕は急に、久し振りに
履歴書をまた書きたくなって、
硯に
白湯を入れ、桐の窓辺に机を寄せて、いっときタンザしてみた。うつむいていると、
美濃紙が
薄く白いので、窓の外の雲の姿や桐の梢の
紫の花の色まで
沁みて写りそうであった。
もはや、行きつくところまで行った風景でもある。彼女はもう泣く事にも
飽いたのか、五月の
冷々とした
畳の上にうつぶせになって、小さい
赤蟻を一
匹一匹指で追っては殺していた。
「ねエ、私、お
裁縫の看板でも出したいけれど……」
「へえ、君に裁縫が出来るのかね」
「大した事は出来ないけれど、
袴も
かさねも習ったには習ったんだから……」
「だって君、習った事と商売とは
違うよ――まア、待っているさ、毎日俺も街へ
出掛けているんだから、何とか方法はあるだろう。――学校を出て、すぐ五六拾円にはなるだろうと思えばただ
大学は出たもののだよ、そうだろう……」
「ええだけど、知った人に
縫わしてもらったっていいでしょう……」
「知った人ッて
皆貧乏じゃないか」
「森本ちぬ子さんはどうでしょうか。あの人は、とても
羽振りのいい芸術家のところへお
嫁にいらっしったッて云う事ですわ」
「馬鹿! 食えなかったら、食えないで仕方がないよ」
それより、僕は机に向って、何か就職の口はないかと遠い友人に手紙を書いた。今となって職業の好みもなく、また、
田舎住いでも幸福だと云った意味を長々と
展べて。彼女にも安心の行くように音読してさえ聞かせてやった。
「物事は当って
砕けろさ。俺達だけじゃないよ、こんな生活は山のようにあるんだから
恐れる事はないだろう」
二人は、もう畳の上に
坐って話している事が
憂鬱になったので、僕は彼女に
戸締りを命じて
帽子とステッキを持った。彼女は、紅色の鯨帯をくるくると流して自分の
腰に結び始めた。
壁の小さい柱鏡に
疲れた僕の顔と、
頬のふくれた彼女の顔が並んだ。僕は
沁々とした気持ちで彼女の抜き
衿を女学生のように
詰めさせてやった。
戸締りをして戸外へ出ると、二人は云いあわしたように胸を
拡げて息をしながら、青麦のそろった
畑道を歩いた。秋になると、この道は落葉で判らなくなる道であった。いつか、まだ独身者であった時の百合子との散歩を僕はふと考えたものであったが、僕の後からゆっくり歩いて来ている彼女は、
紙雛のように
両袖を胸に合わせて眼を細めて空を見ているではないか。――
「二人位並んで歩けるよ、さあおいで」
それでも、彼女はまるで
隣人同士のように
遠慮してしまって、なかなか歩を
揃えようとはしなかった。
「いいねえ。ほら
雲雀が
啼いているよ」
「…………」
「どうしたんだい?」
「私、馬鹿なんでしょうか、
風景がちっとも眼に
這入らないで、今だに一生懸命で戸締りをしているようなの、私時々体が二ツにも三ツにも別れて勝手な事しているンですよ」
「君が、僕の背中ばかり見ているからさ、さア、先になって行ってごらん、
厭でも美しい景色が見えるから……」
彼女を先へ歩かせると、今度は僕の方がたまらなかった。
赤緒の
下駄と云えば、
馬糞のようにチビた
奴をはいている。だが、
雑巾をよくあててあるらしく古びた割合に木目が
透きとおっていた。
「唄でもうたわない?」
「ええ……唱歌なんてもの皆忘れてしまった……こんな時唄う歌なんてむずかしいわねえ」
僕達は
小川の上のやや
丘になった
灌木の下に足を投げ出して二人が知っている「古里」の唄をうたい始めた。
雲雀が高く上っている。若葉が風にまるでほどけて行くようであった。僕は
眠たくなって、ゴロリと横になると、帽子を顔にかぶせて眼をとじた。
瞼の部屋の中は
真暗だが、
渦のような七色のものがくるくる舞っている。僕のそばから離れて行ったのか、彼女が
柔い草を
踏んで向うへ遠ざかるのが頭へ
響いて来た。
「オイ、あんまり遠くに行っちゃア
駄目だよ」
帽子の中からそう云ったまましばらく、僕はうたたねしてしまったらしい。――ふと眼が
覚めると彼女は、遠くの
合歓の花の下で、紅の帯をといて、小川の水で顔や手足を洗っていた。
遠くから見ていると、その姿がまるで子守女のように見える。
長い間、帽子の下で眼をとじていたせいか、起きあがった時は夕方のように
四囲が薄暗いものに見えた。僕は
袂の底から、くしゃくしゃになった
煙草を一本出して火を点じた。さわやかな初夏の
憶いが風になって僕の袂をふくらます。
合歓の木の下の彼女は、やがて帯を結んで
堤へ上って来た。
「何だいその白い風呂敷は……」
彼女は
癖のように、その風呂敷を背中に隠して、ニヤニヤ笑いながら「
摘草したのよ」と云った。
あんまり食べられそうな草がたくさんあるからと云うのだ。彼女の拡げた風呂敷の中には、
ひずるや
たんぽぽや、
すいばのようなものまで這入っている。白い風呂敷と思ったのは、彼女の
さらしの襦袢なのであった。「だから、僕は安心して貧乏が出来るんだね」とも口に出して云いたいほど、彼女は二十三歳にしては、ひどく
世帯くさいのだ。
夜は、これらの摘草を
茹でて
食卓に並べた。色は水々しかったが、筋が歯にからんで、
ひずるの
噛み
工合などはまるで
蒟蒻のようであった。
墓場の向うの
火葬場には、相変らず毎日人を焼く
煙がもくもくと
埃色に空に舞いあがっている。――僕はもう職業を求めるために街へ出たり、履歴書など書く事は徒労だと思い始めた。僕が頭を下げて行った先々の人間達は、いわゆるフォイエルバッハの
大邸宅と名づけられるような、中では
茅屋にある場合と違った考えを人達はしているものだ、で、全くもってムザンでありすぎる。――朝眼覚めて口を洗い、ゴロリと横になって、人を焼く煙を
眺めている僕のかたわらに、おぼつかない手付でもって縫いものをしている彼女がいる。髪の毛には
網のように白い埃が
溜っていて、それを眼にした僕の口の中には、何か火の玉をくくんだように切ないものがあった。
彼女はきっと「私、いい縫物屋を知っていますから
頼んであげましょう」とでも云って、この着物の仕事を森本ちぬ子から取って来たのに違いない。
「ねえ、この間平井さんの
奥さんに会ったら、早くちぬ子さんに着物を返した方がいいわ、縫物屋へ持って行くッて云って、菊さんは質屋へ置いてしまって、とても困ってるッて云いふらしてるのよ、なんて教えて
下すッたんだけど、まさか、こんな洗い
した着物五拾銭も借さないでしょうのに、私とても
淋しくなってしまった」
僕は
沈黙っていた。彼女がその着物をちぬ子の家から持って来てもはや十日あまりにもなるのだが、一心になって毎日こつこつ縫っている彼女に向って、何を僕が
咎めだてする事が出来るだろう。
「でも、もうこれで出来上ったのだから、持って行こう……」
彼女は、出来上った着物を
畳んで
座蒲団の下に
敷いた。
「出来上ったンなら早く持っておいで、友情のない奴の品物なンぞ見るのも
不愉快だ」
僕は一々彼女に向ってああしては悪い、こうしては悪いなどと云う事に
草臥れ始め、自分のキリキリした神経もこの
頃では少しばかり持てあまし気味でいるのだ。
履歴書も四五十通以上は書いたろう、あらゆる友人を
頼って
迷惑な手紙も随分書いたが、頼んだ友人達自身が
何等の職もなく弱っている者が多かった。
彼女は着物を風呂敷に包むと、
悪戯ッ子らしく眼をクルクルさせて僕の両手を引っぱり、台所へ連れて行くのだ。「ねえ、私、ちぬ子さんにいいお
土産を持って行こうと思うのよ」そう云って彼女が台所の流し場を指差したのを見ると、西洋種の紅い
豆の花や、
束の大きい矢車草がぞっぷりと水につけられていた。
「おお
綺麗だなア……」
「綺麗でしょう……」
「どうしたンだい、こんなゼイタクな花束を?」
「ううん……新墓へ行って
盗って来ちゃったのよ。私、もったいないと思うたわよ。だって随分あるの、お金持ちのお墓なんて十円位も花束があがっててよ……」
「で、お土産に利用するのかい、仏も
浮べないねえ……」
「だって美しい花だものほしいわ」
彼女は、その花束を如何にも花屋から買ったかのように紙に包んで、風呂敷をかかえ
日向の道へ小犬のように出て行った。
僕は起きあがって窓ッぷちへ腰を掛けて墓の道を眺めた。墓を囲んだ
杉や
榎が燃えるような芽を出している。僕にはなぜか苦しすぎる風景であった。夜が待ち遠しい位だ。早く夜になってくれるといい。部屋の中に
空箱のように風が沁みて行ったが、生きている喜びも何も感じられないほど、すべてが貧弱なもので、二
畳と八畳きりの座敷の中には、この僕一人が道具らしい存在だ。
歪んだ机の上には、訳しかけのプウシュキンの射的の
草稿が黄いろくなったままだが、もうこんなものも売りに歩く自信もなくなりかけた。僕はふと誰かの話を憶い出した。バルザックのプチイ・ブルジョアを半年かけて訳して、六百枚あまりが百円にもならなかったと云う侘しさを。半年の情熱をかたむけて訳したその人の気持ちはこれまた侘しすぎる以上だろう。
――僕は一二年前の大学生活の中に、かつて一度も生活の不安を感じた事はなかったはずだったが、いや、生活の事を考えるのが恐ろしかったのかも知れない、薄暗い
珈琲店の片隅で考える事は
愚にもつかない外遊の空想などばかりであった。
僕はまた、壁の帽子をかぶって、彼女の厭がるステッキを持った。墓の中の散歩をこころみるべく、僕もまた彼女の去った墓の道へ出てみた。熱ばんでたまらないと云った風に、
雀達が、ころころ地べたを転がるように飛んでいる。なるほど、彼女が云ったように、新墓には草のように花がそなえてあった。もう
萎えかけたのなどもある。三十歳、十五歳、十九歳、皆、若い仏達であった。その中で一ツ僕の眼をとらえた紀意大善姉と書いてある墓標があった。墓標の裏には、レニエエか何かの「
浮世には思い出もあらず」と記してあったが、この言葉は今の僕の心をひどく温めてくれるものがあった。二十八歳としてあるが、どんな女性だったのだろうか……僕と同じ
年齢で亡くなった、この新墓の主の墓標の言葉に、僕は全く
口笛さえ吹きたくなったほど気持ちが軽くなった。
「浮世には思い出もあらず」何とすがすがしく云い放ったものであろう。灰色の墓原の向うにこの僕の心に合わせて、誰か口笛を吹いて通る者がある。
帽子の
釘に一緒にぶらさげた電気に灯がはいると、彼女は風呂敷を米で
針坊主のようにふくらまして帰って来た。
「五拾銭
貰って来たのよ。ちぬ子さんたらあんまり
上手じゃないわねえッて云うの」
「あいツ、お前の縫った着物を着たら体が
腫れあがって来るだろうさ、――ところで、
今日墓の中でいい言葉をみつけて来たよ」
「どんな言葉?」
「いいや、別にあらたまるほどじゃないが、明日、またどッかへ花を持って行くところはないかね。グラジオラスやチウリップがたくさんあったよ、その墓の主なら咎めだてはしないだろう――『浮世には思い出もあらず』と書いてあったのさ」
「
浮世には思い出もあらず、変に気取った奴ね、私だったら『うらめしい』と書いてもらうわ」
「ええッ、
うらめしいか、なるほどねえ」
こましゃくれた奴だ。彼女は米さえ買って来ると唱歌が上手になる。一坪の
厨は活気を
呈して
鰯を焼く匂いが僕の
生唾を
誘った。
たった五十銭の収入で
驚くべき生活のヒヤクだ。僕もあわただしく机へ向った。今は黄いろくなって古びたりと云えど、プウシュキンの訳に手を入れてみるべきだ。彼女は十日かかって五十銭の収入を得て来ている。そうして彼女の唱歌は実に
可憐だ。――僕は
膝を正して字引を
繰ったが、字引の冷たさは、僕をまた白々しいものにする。字引を売って、魚に変えた方がましだ。鰯の匂いは、
懐かしい匂いであった。
「さア食べましょう。実に久し振りに、実に実に……私アーメンと云いたくなるわ。あなたのよく云う食べるだけなのかい人間って奴はッて云うのを止めましょう。さあいらっしゃいよ」
玄関の食卓には、墓場から盗って来たのであろう
桃色の
芍薬が一輪コップに差してあった。二人は
夢中で食べた。実に美しくつつましい
食慾である。彼女は犬のように満ちたりた眼をしている。
「今日はねえ、帰りにまた平井さんのところへ寄ったの、あなた夜番ッて職業厭かしら」
「夜番?」
「ええ夜番なのよ」
「夜番ッて?」
「とてもお金持ちのお
邸ですって、女ばかりなンで書生さんが欲しいンだとかで、平井さんが、三吉君どうだろうッて云うのよ。食べて三十円ッて、ちょっといいと思ったから……」
「二人で行けるのかい?」
「そこまで聞かなかったわ、……本当ねえ」
「何だ、それじゃアつまらないじゃないか、……俺は何だってするよ。もうこうなったら、机の前にタンザしている気持ちなンかないンだから」
彼女は口いっぱい飯を頬ばったまま引っこみのつかないような顔で、大粒な涙をこぼし始めた。実際、広い屋根屋根の下にはこうした人生の片言があっちにもこっちにもあるのだろう。
「そいで、三十円くれると云うのは本当の事なのかね?」
飯を頬ばっているので、彼女はコックリをしてみせる。
僕は字引を街で金に
替えて、平井の
紹介状を
懐に、その郊外の邸へ行ってみた。武者窓でもつけたら、
侍が出て来そうな、古風な
土塀をめぐらした大邸宅で、邸を囲んで
爽々たる大樹が
繁っていた。ピアノの音が流れて来る。もうそれだけでも、変に
臆病になってしまって僕は何度か
大名風な門前を行ったり来たりしたが、ふとまた「浮世には思い出もあらず」の言葉に、急に血潮が熱くなるような思いで、僕は足音高く案内を
乞うた。
出て来たのは十六七ばかりの桃割れの少女であったが変につんつるてんな着物を着ている。僕はまず応接間に通され、ここで約一時間位も待たされた。――ユトリオ張りの油絵が一枚、なげしに
朱い
槍一本、六角型の窓の向うには、水の止まっている大きな
噴水があった。その噴水のまわりには、
薊の花が
叢のように咲いていた。
「素敵だなア!」何となく
感歎してしまえる
静寂であった。やがて、僕は未亡人だと云うこの家の主の部屋へ案内されたのだが、いったい女中が何人居るのか僕はまるでリレーのように次から次の女中へと
渡されて、夫人の部屋の外まで来た時は、
逃げ出したいほど、何かもやもやした気味わるさを感じた。夫人は、二人の看護婦に寄り添われて、厚いむらさきの蒲団のうえに坐っていた。
「山田は、信州の生れだそうですね」
僕は一も二もなく参ってしまった。夫人も信州の生れだと云うので、ここでは、信州の山の話が出た。
「今日は部屋をずっと見て
廻って、なるべく早く来るようにして下さい」
給料の話と、妻の話を持ち出そうとすると、もう看護婦が会釈するのだ。――お
伽話にだってこの様な大名生活はないだろう。彼女に見せてやったなら、どんな事を云うであろうか。老女中が次々と五十
幾ツかの部屋を見せてくれた。十九歳を
頭に
令嬢が四人、女中が十八人、事務員が二人の全く女ばかりの大世帯で、男と云えば風呂
焚きの
爺さんと末の
坊ちゃんだけだと云う事であった。
この二ノ宮と云うのは、天下の二ノ宮と云われた
生糸商人で、一時は全く
旭日の勢いにあったと云う一家だと云う事だ。さすがに、風格も堂々としていて、五十幾ツかの部屋を見終った時の僕の頭の中には、ただ壁だけがぐるぐる廻っていた。
老女中は、僕を玄関へ送り出すと、「お荷物を早くお送りなさいまし、女手が多いのですから片づけといて上げます」僕は僕の部屋になるのだと云う書生部屋もさっき見た。高窓が一ツに壁上には、判読するに困難な字が掛けてあった。あの洗い流したように古びた畳の色など、僕にはもう
縁なき
衆生であるかも知れぬ。
「前にいた書生さんは、この高窓からばかりカチカチカカチなんて
拍子木を打つんでしょう、そりゃアおかしい人でしたよ。自分が
恐いんで近所の
野良犬を五六匹も集めたりしていたンですの……」
僕は、無意味な壁ばかりを見て歩いた事をひどく
後悔した。人の住まっていない無数の壁を警護するために、彼女と離れて別れてまで
暮す心はない。では、どうして食って行くのだ。「浮世には思い出もあらず」また墓標の裏の言葉が胸を
突いて出た。――我々置き去りにされたインテリはいったいどうすればいいのだ。人生はまるで今日見たあの壁の中みたいじゃないか、あッちを向いても、こっちを向いても、壁々、壁だ、壁なのだ。
いったいどうしろと云うのだ。
「もしもし終点でございますよ」眼だけが
空洞のように
呆んやりみひらいている僕の肩を
叩いて
車掌が気味悪そうに云った。
今までに、青年らしい楽しみも希望も随分考えて来たが、僕の青春には、ただ「浮世には思い出もあらず」と云う言葉だけが残っただけだ。
彼女は灯もつけずに庭にいた。
「みみずを
掘っているの……」
手には
空鑵をさげて、黒い土をほじくっていた。みみずは百
匁掘れば、
いくらになるとか、またどこかで聞いて来たのだろう。
僕は部屋へ這入って電気をつけた。机の上には、何かまた彼女の落書が書いてある。「一、魚の序文。二、魚は食べたし金はなし。三、魚は愛するものに
非ず食するものなり。四、めじまぐろ、
鯖、
鰈、いしもち、
小鯛。」
彼女は
猫のように魚の好きな女であった。どんな小骨の多い魚でも、身のあるところをけっして
逃さなかった。――僕は字引を金に替えた奴の残りを袂の底に探ってみた。まだ五十銭も残っていた。この金を、どうして楽しませてやったらいいだろう。
「おい、みみずは取れたかい?」
「まだまだ、
今朝からなンだけど、たった四匹よウ。めめず屋の
小父さんの話ではねえ、ここは昔
沼だったンだからたくさんめめずが居るって云うンだけど、なかなか居ないわア」
「いくらになるンだい?」
「十八銭よオ……」
「おい、十日で十八銭じゃないのかい?」
「着物縫うより、こちらがよっぽどいいわ。土の匂いッてちょっといいわよ。……待っていらっしゃい。今手を洗って行くから……」
彼女が手を洗って来ると、僕は茶ぶ台の上に五拾銭玉一ツと五銭玉一ツを並べた。
「まア! お腹
空いてンだからあんまりおどかさないでよ」
そんでも
嬉しそうであった。彼女は急にせわしそうに、台所に立って行くと、
馬穴をさげて
井戸端へ水を
汲みに出た。茶ぶ台に置かれた空鑵の中には、四匹のみみずが、青く
伸びたり紅く縮まったりしている。
夜。
雨が降りだしたのか、窓の外の桐の葉がザワザワ鳴っている。彼女は机に
凭れて何か書いている。
「そいでね、その二ノ宮ッて家は、まるで壁ばっかりなんだよ。君だったら何と云うかなア、庭ときたら手入れは行きとどいているが、まるで
廃園さ、君だったら大根植えるといいと云い出すかも知れないね。だが、あんな壁ばっかりじゃアやりきれないよ。空一ツ満足に見えないンだからねえ暗くて……」
「空の見える気持ちが、そンな人達、誰かに覗かれるようでこわいンでしょうねえ」
「でも、なかなか堂々たる邸だよ、大きい樹に囲まれていて、ピアノの音がしていて……」
「ちっともうらやましかないわ」
「うん、ちっともうらやましかないさ」
彼女はもう平然と僕の兵児帯を締めている。初めの頃のおどおどした気持ちも抜けてもうこの頃では、まるで十四五の
娘のように、朗らかであった。
「だけど、俺達は
乞食のようにお
椀を一生持って暮らさなきゃならない理由ッてないよ」
「それやアそうよ。だけど、ねえ、捨石になれる
悟りでも開かン事には、やっぱり、一生お椀の口かも知れないもの」
雨が時々、障子に
汐のようにしぶいて来る。僕は墓場の言葉を憶い出していた。
彼女は、子供のように、河のほとりで唄うような気持ちだと云うあの淋し気な声で、「一、魚の序文。二、魚は食べたし金は無し。三、魚は愛するものに非ず食するものなり……」と音読するのであった。
(昭和八年四月)