摩周湖紀行

――北海道の旅より――

林芙美子




 宗谷そうや本線の瀧川たきがはと云ふ古い驛に降りた。黄昏で、しかも初めての土地で一人の知人もなかつた。隨分と用意深かく、行く先々の樣子は、旅行案内で調らべておくのだけれども、途中で氣が變つてしまつて、根室ねむろ本線へ這入つてみたくなり、乘りかへ驛の瀧川と云ふ處に、周章あわてゝ降りてしまつた。ホームを歩きながら私は驛夫をつかまへて、此町ではどのやうな宿屋がよいかと云ふことを聞かなければならない。樺太以降東京まで直行のつもりでゐたので、最早私の懷もとぼしい。
 町は寒かつた。毛織のスーツが結構間にあつた。
 此町では三浦華園と云ふのがいゝだらうと驛夫に聞いた。荷物を三浦華園の宿引きに頼んで、私は暮れそめた瀧川の町を歩いて宿へ行つた。官吏とか商人とかゞ、足だまりに寄つて行きさうな小さい町である。宿へ着くと私は頭の先きから足元まで出迎へた女達に見られなければならない。
 女で、しかも一人旅は不思議なことなのであらう。風呂に這入り夕食の膳を前にしたけれど、何としても佗しく、一合の酒を頼んだ。酒は二杯ばかりを唇にすると、最早胸につかへて苦しく、床をとらして眠つたが、床へ這入つたで急に眼がさえて來て眠れなかつた。
 黄昏に降りた不用意な旅人のために、根室へ行く汽車もなくて、ふかくにも私は瀧川で一泊しなければならなくなつたのだけれど、これも仕方ない。枕元の水差しの盆の上には、此一夜泊りの客の爲に、小さい列車時間表が置いてあつた。裏をめくると、明治三十八年出版運命よりとして國木田獨歩の一章が書いてある。
 ――「何處までお出ですか」突然一人の男が余に聲を掛けた「空知太まで行くつもりです」
「さうですか、それでは空知太にお出になつたら、三浦屋と云ふ旅人宿に泊つて御覽なさい」――
 獨歩が此三浦屋に泊つたのかどうかは判らないけれども、愛なく情なく見るもの荒凉寂寞たると嘆じた獨歩の一人旅を偶々面白く思つた。私も御同樣だ。明治三十八年と云へば私の生れたときだ。まだその頃の空知の國はもつと未開の地であつたに違ひない。
 天井の燈を消して枕元のスタンドをつけた。何か本を讀んで此愛なく情なく荒凉寂寞たる自分の氣持ちに應へたかつたけれど、何も讀む氣がしない。夜更けて嬌聲を聞いたけれど、女中が迎へに來て云ふには、「うちではカフヱーもやつてゐるんで厶いますが、お厭でなかつたらいらつしやいませんか」その嬌聲は女給達の聲であつた。
 妙に疲れてゐたので、そのまゝカフヱーにも行かないで枕元の燈火をつけたまゝ私は深く眠つてしまつた。
 翌朝は不幸なことに曇つてゐた。九時十五分の汽車で根室線に這入る。
 空知の風景は私には苦しすぎる位廣かつた。北海道の地圖は少しばかりコチヨウして小さくしてありはせぬかと思ふほど宏大で、空よりも平野が廣い。途中空知のぼんもじりより沛然たる雨で、澤梨さんなしの白い花が虹のやうに光つて見えた。黒くなつて畑を耕してゐる人達の、汗だらけの努力を、沁々として感謝せずにはゐられない。
 朝から汽車へ乘りづめ、しかも此根室線には急行がないので、一驛一驛私は野原の中の驛々にお目にかゝれる。
 釧路くしろへ着いたのが八時頃で、驛を出ると、外國の港へでも降りたやうに潮霧がすがたちこめてゐた。雨と潮霧で私のメガネはたちまちくもつてしまふ。帶廣から乘り合はせた、轉任の鐵道員の家族が、町を歩いて行つた方が面白いですよと云つて、雨の中を子供を連れた家族達が私を案内してくれた。
 山形屋と云ふのに宿を取る。古くて汐くさいはたご屋であつたが、部屋には熊の毛皮が敷いてあつた。――町を歩いてゐても、宿へ着いても、三分おきに鳴つてゐる霧笛の音は、夜着いた土地であるだけに何となく淋しい。遠くで霧笛を聽くと夕燒けの中で牛が鳴いてゐるやうな氣がする。こゝでは朝日新聞の伊藤氏に紹介状を貰つて來てゐたけれど、伊藤氏には逢ひにもゆかずに、默つて宿屋へ着いてしまつた。宿では、無職と書いて怪しまれた。女中は老けた女で何となく固い。判で押したやうな宿屋の遲い夕飯を食べて、熊の毛皮の上に體を伸ばしてみる。まるで熊の背中に馬乘りになつてゐるやうでをかしい。手紙を書いてゐると、今日乘つた列車の食堂車に働いてゐた十六ばかりの二人の少女が、同じ宿に泊りあはせたからと遊びに來た。給仕服をぬぐと二人とも美しいので愕く。明日はまた十時の汽車で函館へ歸へるのだと云つてゐた。茶を淹れたり菓子を擴げたりして、何とない行きずりの語らひを愉しむ。月給が三拾圓で兩親がそろつてゐるとも云つてゐた。
 風呂からあがると寢床が敷いてあつたが、熊の毛皮がこはくて、私は次の間へ寢床を引つぱつて行く、寢てゐると霧笛の音で眼がさえる。家が古いので妙におくびやうになる。夜更けて梅雨のやうな重たい雨が降つてゐた。

 六月十六日。
 北海道へ渡つて久しぶりに青い伸々とした空を見た。伊藤氏に電話して朝食をとる。土地へ行けばその土地の事を少しばかりくはしく聞いておかなければならないので、私は根室への列車の中で作つた私の旅のスケヂユールと地圖を擴げて用意をしておく。
 伊藤周吉氏はなかなかいゝひとであつた。
 お遇ひするが早いか、とにかく此宿屋を出ようではありせんか、こゝへ來たら「角大」と云ふ啄木の唄に出て來る女のひとの營むでゐる宿屋がありますと云つて、自動車を頼むでこられた。旅先きで貰つた紹介状ではあつたが、旅の情と云ふものは仲々身に沁みるものがある。
 山形屋の拂ひを濟ませて道路へ出ると、宿の前がさいはての驛であつた。山形屋へ泊つたこともいゝではありませんかと、いまは肥料倉庫のやうなさいはての舊驛を眼前にして、私は啄木の唄をまるで自らの唄のやうにくちずさんでゐた。
「さいはての驛に降り立ち雪あかり、淋しき町に歩ゆみ入りにき」さいはての驛の前は道が泥々してゐて、雪の頃のすがれたやうな風景を眼の裏に思ひ出す事もできた。

 啄木の唄つた女のひとは昔小奴と云つたが、いまは近江じんさんと云つて、角大と云ふ宿屋を營なんでゐた。新しくて大きい旅館で、舊市街と新市街の間のやうなところにあつた。おじんさんは四十五歳だと云つてゐた。小奴と云ふ女のひとを現在眼の前にすると、啄木もそんなに老けてはゐない年頃だつたと思ふ。生きてゐたら、たしか五十歳位ででもあらう。誰でもひとゝほりは聞くであらう啄木との情話よりも、啄木が優しい人であつたと云ふ、何でもない※(「插」のつくりの縦画が下に突き出す、第4水準2-13-28)話を、私は大事にきいた。おじんさんは大柄で骨ばつた人であつたが、世の常の宿屋の主のやうにぎすぎすしたところがなかつた。美しい娘さんの寫眞を持つて來て、亡くなつてしまつたのだと嘆いてゐたけれど、誰でもが聞くだらう啄木の思ひ出話よりも、娘の話をするおじんさんは、何となく私には好ましかつた。
 私は此宿屋で、釧路の町の色々な人達に遇つた。先住民族遺跡を研究してゐる吉田仁磨と云ふひとや、野尻と云ふ歌よみの人や、その他にも藤井と云ふ婦人記者の人なぞ、さうして樣々な町の歴史を此熱心な人達から聞いたのであつたが、雜記帳を持つて筆記をして歩くやうな氣持ちになる事を恐れ、私は一人で此地方の湖めぐりをしようと思ひたつた。晝飯をおじんさんに馳走になり、早々旅館を辭して、阿寒あかん地帶の中の一番氣むづかしい湖へコースをとつた。

 釧路の町は快晴で、天氣がいゝのか霧笛も鳴つてゐない。
 途中、啄木が勤めてゐたと云ふ釧路新聞社の前をとほつた。赤いレンガ建で、明治四十年頃の建物として相當新らしかつたのであらうが、いまは古色蒼然としてしまつて、何となくおさなびてゐてよかつた。
 霧笛を鳴らしてゐる知人岬と云ふ所にも行つてみた。岬の丘に登ると、太平洋炭鑛埋立地が南の防波堤に續き、まるで海を二ツに切つたやうに見える。樺太からふとでオホーツクの灰色の海ばかり見てゐた私には、釧路の海はるり色に光つてゐて天氣のいゝせいか一望にして港の中が眼にはいつて來る。
 朱い煙突を持つた浚渫船が起重機から泥を吐きながら、まるで大雨のやうな音をたてゝ動いてゐた。内地の風景と違つてどこかに底冷たさがある。
 港には船が澤山はいつてゐた。厚岸あつけしの海では海軍の演習があると云ふので此釧路の海も賑ふだらうと人々が話しあつてゐた。

 釧路の驛へ行くと、午後三時半の網走あばしり行きがあつたので、その汽車へ乘る。こゝでは角大旅館で遇つた藤井と云ふ若い婦人記者のひとが私と旅を共にすると云つて合財袋を持つて一緒の列車に乘つて來たが、いゝ人達の親切は斷りの仕樣もない。
 窓外は茫寞たる谷地で柏の木が多い。標茶しべちやの驛あたりより驟雨になつた。車内では川湯温泉の驛長さんが乘り合はしてゐて、色々な旅の話に興じた。
摩周ましうの湖は、すぐ霧がかゝつてしまうので、運がよくないとなかなか見られませんよ」
 今日はとても見られまいとの話で、弟子屈てしかが温泉に泊ることにする。
 弟子屈の山小屋のやうな小さい驛へ着くと、起伏のある部落の家々には早や灯がはいり、土を掘りかへすやうなすさまじい雨であつた。泥まみれなハイヤに荷物も何もいつしよくたに乘りこんで、伊藤氏に紹介された近水ホテルに行く。田上義也と云ふひとの建築になるとかでライト式だと云ふことである。だが山の温泉宿としては少々薄々とした建物でアパートのやうな氣がしないでもなかつた。私は洋室がきらひなので、日本の部屋へ案内をして貰ふ。いゝ部屋のつくりであつた。温泉へ着いて日本の部屋位有難いものはない。女中達は物靜かで優しかつた。
 何よりも沛然と降る雨を眺め、雷のすさまじい音をきくのは、ぴしぴししたきびしいものを感じて爽かである。眼の下を小さい釧路川の上流がゆるく走つてゐる。雨の霽れ間を縫つてひぐらしがよく鳴いた。
 私はだが不幸な旅人であるらしい。此樣な風景を見ても、私の心は先きへ先きへと走つて、同行の女性にも氣の毒なほど默りこくつてゐる。
 二人で温泉へはいる。
 湯舟は川へ突き出てゐて、赤いレンガを疊んだ圓い浴槽であつた。河の流れが黄昏れた大きい硝子窓に寫つてゐる。これで四圍に鬱蒼とした深い樹林があつたら素的だらうと思つた。ホテルの戸外は土地が若いせいか荒地にある感じで、此河だけがよかつた。ホテルの經營者遠藤清一氏は、軈て庭にも野菜や花を植ゑると云つてゐられたけれど、むしろあの庭には白樺やにれの木の亭々としてゐる方がふさはしいと思へる。
 湯から上ると、窓をあけて明日登ると云ふ摩周の山々を見た。ピラオ山や雄阿寒岳をあかんだけ雌阿寒岳めあかんだけが、薄墨のやうにそれらの峰が遠く見える。その山の上に星も月もさえてゐた。月はまだ細かつた。東京を出て何日になるだらうと、不圖、そんなことを考へる。手紙の外は何も書かず、讀まず、その手紙もまるで日記ばかりで、その日その日の心を書きおくるだけで、不思議な位に空虚だつた。
 床につくと、婦人記者のひとは色々自分の身上話を始めたが、私の想ひは、遠く外の事ばかりに心が走つてゐた。雨は何時までも止まなかつた。

 翌朝眼が覺めた時は、河も向う岸も滴るやうな新緑で、山の木立の影さへはつきり見えるかのやうに晴れてゐた。障子をあけて此美しい空に茫然とした。
 すぐ山へ行く支度にかゝると、ホテルの遠藤氏が御案内しませうと云つて來られた。かへつて恐縮な氣持ちであつたけれど、快よく、三人で宿を出る。便利なことに摩周の湖までハイヤが通ると云ふことで、私達は自動車くるまで山へむかつた。
 此地帶は、山うるしや、どろの木、白樺、柏、澤梨さんなしゑんじゆのやうな樹木が多くて、緑の色は内地より淺い。
 摩周山は海拔三百五十米位で、湖の深さは二百米ばかりあるとか聞いた。摩周山の中腹から見える湖の姿はぽつんと鏡を置いたやうであつた。此鏡のやうな湖心にはカムイシユと云ふ黒子のやうな島があり、まるで浮いてゐるやうであつた。去來する雲の姿が露西亞ロシアの映畫のやうに明るく見えて、波一ツない靜けさである。湖の向うには摩周の劔のやうな頂上が雲の中へ隱れてゐるやうに見えた。湖岸は降りてゆくにむづかしい絶壁で、遠く地底に眺める湖だけに暗く秀いでゝゐる。紅鱒やザリガニを放つてあると云ふことだが、あんまり波がないので、死んだ湖のやうに見える。足元は熊笹と白樺の若木で、風が下から吹きあげて來た。
 此邊いつたいを阿寒地帶と云つて、私の立つてゐる熊笹の丘から雌雄の阿寒岳の峰や、斜里しやり漂津しべつの重なつた山々の姿がパノラマのやうに眼に這入つて來る。
雲のよ
雲の海かよ渦卷く霧に
煙る摩周湖七彩八變化
かはる姿のとなこ
おもしろや。
 これは摩周湖小唄とでも云ふのであらうが、この唄では摩周の湖も氣の毒すぎる。私は北海道へ來て、興味を持つてゐる湖はこの摩周と、帶廣の奧の然別しかりべつ湖であつた。摩周湖は自分の空想した湖よりも神々しかつた。渚に人を寄せつけない孤立した湖だけに、地味で雄大であつた。晴れ間に姿を現はしてゐる間はまことに束の間で、何時も霧か雲で姿を隱してゐると云ふことである。
 摩周の湖へ出るには、釧路から舌辛したから驛へ出て、阿寒湖めぐりをして、摩周湖へ着くのが風景がいゝらしい。――私達は、それより山を降りて、北見の國境近い屈斜路湖くつしやろこへ向かつた。
 山を降りると、もう天候が氣むづかしくなつて、雨氣をふくんだ風が沿道の森林の梢を氣味惡く圓く吹きあげて行く。
 屈斜路湖は周圍四十七粁で、まるで海のやうにも見える。まづ南方の方から這入つて行つた。此邊の御料地にはポントウ、オサツペ、エントコマツプ、サツテキナイなぞの部落があつて、途中の和琴小學校では運動會があつた。運動場の木柵には馬もつないであつた。校舍をめぐらした紅白の鯨幕が風をはらんで獅子舞ひのやうに見えた。白い運動着の先生はメガホンを眼にあてたりしてゐた。校舍はぽつんと荒地の中にあつて、その小さい校舍の横には運動會相手の菓子屋が小さい店を張つてゐた。
 私達は、此小部落を通つて和琴わこと半島へ這入つて行つた。渚には茹で玉子やせんべいを商ふ茶店が一軒あつた。茶店の前には野天の自然風呂があつて、岩と岩との割目に出來た浴槽にひたつて、部落のお神さんや子供達が茹でられたやうに紅い皮膚をして聲高く世間話をしてゐた。自然で何の工作もしてないだけに、私は夜の此天然温泉の風景も思ひ描く。月の明るい夜なぞどんなにいゝだらうかと思つた。岩の上には黄色の湯花がたまり、まるで菖蒲池に水浴してゐるやうにも見える。私は子供のやうに手をつつこんで見た。私のそばで背中を洗つてゐたお神さんは「今日は天氣のせゐか、えらい熱い湯で、ぢつとはいつてをられん」と云つてゐた。湯の湧口に掘立小屋があつて、そこには型ばかりの脱衣場もあつた。
 此湖は、摩周湖のやうに孤獨氣でないだけに、派手で、渚の平地には、所々小さい温泉旅館があつた。南はチセヌプリ、イワタヌシの山岳に圍まれ、その後方に、コトニプリ、オサツペヌプリ、サマツケヌプリの山々が流れてゐる。
 湖が廣いので一望に眺めることが出來ない。渚はまるで海のやうで砂地はどこを掘つても湯があふれた。水ぎはの波の色は糸を引いたやうな黄色い湯花の波で、不思議な景色だ。
 和琴半島と云つても小さな半島で、大町桂月がつけたのだと聞いた。
 歸途は屈斜路湖の沿岸をめぐつて、川湯の部落へ向つた。途中、私達は硫黄山へも登つた。這ひ松や、白い花を萬朶と咲かせたいそつゝじのお花畑へ出た。いそつゝじの花は頬をよせると、ふくいくとした匂ひをはなつて、姿に似ず何時までも匂ひが浸みて來る。此お花畑は硫黄山麓十五六萬アールに亙つてゐる。
 硫黄山には樹木が一本もなかつた。それなのに、中腹の柵の中には保安林と書いてあつた。どつとんどつとんまるで動いてゐるモーターの上を歩いてゐるやうなすさまじい活火山で、登りながら、硫氣を噴出してゐる氣孔の上へ石を投げると、面白い程その石がミヂンに碎け散るのであつた。銀製の指輪が眞黒になつた。山肌は白と黄とエメラルドグリンの苔で、何だか菓子でつくつた山へ登るやうであつた。山裾には硫黄の工場があつた。明治十九年頃、安田一家がこゝに硫黄採取事業を經營して、標茶しべちやの驛まで運搬したものだと云ふことだ。
 川湯温泉は、弟子屈でしかが温泉より一つ向ふの驛で、網走へむかつた方である。部落中にふくいくとしたいそつゝじの花が咲いて、淺い枯れたやうな河床から湯が吹きこぼれてゐた。弟子屈への車中で、この川湯の驛長さんに遇つたのを思ひだしたが、あいにく雨が降り始めた。こゝには土産物を賣る店と自動車屋が二三軒ある。
 黄いろいジヤケツを着た若い運轉手は「これは大雨になりさうですぜ」と、急いでハンドルをきり川湯から弟子屈への暗い森の中の沿道を、四十哩の速度を出して走らせた。
 昨日よりもひどい雷で、雷光が走るとすぐ頭の上にすさまじい雷鳴がした。烏が幾十羽となく吃驚したやうに森の中へ逃げこんでゐる。雨に滴を拂らつて逃げまどふ烏の姿を私は何時までもふりかへつて見た。
「人の子にとつては、生れないこと、烈しい日の光を見ないことが、萬事にまさつてよいことである。しかしもし生れゝば、出來るだけ早くハイデースの門を過ぎ、厚い大地の衣の下に横はるに若くはない」
 どう云ふ聯想か、私は北の果の森林の中で、しかも耳の破れるやうな雷鳴の中に、ブチアーの中のデスペラアトな一章を思ひ出した。だが、ついに元氣だ。私は常に雜談をして自分を考へない。旅空で瞑想をしてみたところで、所詮は底ぬけに小心者で、粕ばかりで何もない空虚な躯をもてあましてゐるにしかすぎない。
 宿へ落ちつくと、婦人記者氏は人生について話しかけて來たけれど、私は此女性よりも本當はおとつてゐる。お菓子を頬ばつてゐるか眠るか雜談をしてゐるか。
 温泉は一番愉しい。私は黄昏までに三度も躯を洗つた。
 音樂が聽きたかつたが何もなかつた。
 この宿へつひに二泊。

 早朝四時半に起きて、釧路へ歸る仕度だ。
 窓をあけると、もう蜩がなきたてゝゐる。
 五時半の汽車で釧路へ向ふ。三等切符を二枚買つた。切符を切つてくれた驛長さんは、此二人の女連れに、
「もうお歸りですか」と云つた。
 釧路へは八時頃着いた。驛に荷物をあづけて、驛の前の飮食店に這入る。私の横には陸軍の將校が一人辨當をたべてゐた。私も辨當がほしくなつて、うどんだの辨當だのを注文した。旅なれないと見えて婦人記者氏も疲れてゐる樣である。
 辨當をすませて伊藤氏宅へ行つた。美しいおくさんや、小ちやい坊ちやんや孃ちやんに遇ふ。伊藤氏へあいさつをして私は釧路をたつて帶廣へ行かうと思つた。
 晝間の汽車にはまだ間があるので、支廳へ行き、先住民族の古跡を歩いて釧路の郊外にある春採湖はるとりこへ行つてみる。
 春採湖は、摩周湖や屈斜路湖と違つて、ひどくアイヌ的で、ひなびてゐて賑やかな湖であつた。
 私は此一月あまりの北への旅で、何だか、湖と平野と沼地と森林ばかりを見て暮らしてゐるやうだ。陽氣になりつゝある。知らない土地で遇ふ人達は案外肥つた方ですねと云つてくれる。十一貫の小さい私が、一貫目もふえたのだから、どつかへ肉がついたのだらう。平野と湖を眺め暮らし、宿屋では牛乳と鮭と蕗ばかり。この一ヶ月は、私を樂天家にしてくれたのかも知れない。生きてゐることは愉しいことだ。

 釧路は午後一時半の汽車でたつた。また例の遲い列車で、來た時の驛々に一ツ一ツお目にかゝる事になる。狩勝峠は雨であつた。
 帶廣には五時頃着いた。平原の町らしく晴々して、アカシアの並木が深い葉を垂れてゐた。釧路から伊藤氏が電話をかけておいて下すつたのか、こゝでは奧原と云ふ人の出迎へを受けた。
 驛前の北海館と云ふのに這入る。
 旅館へはいると、ぽつんと一人になつた氣持ちで伸々とする。宿の前はすぐ驛への通りで、果物屋や、十錢スタンドがあつた。夕飯前に、私は一人で帶廣の町を歩いてみる。がらんとした淋しい町であつた。
 私は如何にも古くから此町には住んでゐるかのやうな容子で、町を歩いた。案外古本屋が多い。宿ではまた眠られないだらうと、一軒の古本屋にはいり、色々な本を手にしてみた。大正七年出來の白樺の森と云ふのを三拾錢でもとめた。裝幀はリーチ氏のもので、口繪にはロダンの作品の寫眞が二三はいつてゐる。「或る小さき影」「巴里のゴロツキの顏」「ロダン夫人の塑像」なぞ、その外、ジオーンやラムの素描の繪がはいり何とも愉しかつた。
 私は夕飯をぼそぼそ食べながら、その本を展げて讀んだ。有島武郎の小さき者へが載つてゐる。志賀直哉氏の網走までなぞ、實に面白く讀んだ。
 夜はまた雨だ。
 その雨の中を奧原氏が、町でも歩いてみませんかとたづねて來られた。
「あなたをお迎へに出て歸つてみたら、留守に、小樽へ轉任の通知が來てゐて愕きました」
「まあ、それはよかつたですね。では町にでも出てお祝ひでもしませう」
 長雨になりさうな、しとしとした雨の町を歩いて、轉任でコオフンしてゐられるらしい奧原氏の爲に、さゝやかな料理店を探したが、結局二人とも雨で困じ果てゝ、喫茶店へアイスクリームを飮みにはいる。こゝでは北大の校歌のレコードをかけてゐたが、それは何かいゝ氣持だつた。
 根室線へ這入つてから、滿足に天氣の日がない。明日は早朝然別湖しかりべつこへ行かなければならないのだが、雨では途が絶えると云ふことであつた。
 奧原氏に別れて、宿へ歸つたのが九時前。雨だつたら、砂糖大根ビード工場に行つてみよう。私は平野も湖も見飽きましたと、友達に書きおくりながら、何故か湖を追つて歩いてゐるやうだ。元氣でゐなくてはいけない。
 枕元には、明日行く然別湖のあらゆる姿態をした繪葉書が私を慰さめてくれる。
 夜更けに女中が、よく水のあがつた鈴蘭の花を持つて來てくれた。此女中は札幌にさへも行つた事がないと云つてゐた。
 然別湖はまだ洋燈ランプですよと、女中がいゝところだと云つてゐた。宿屋は一軒しかないさうだ。私はとぼしくなつた財布をひらいて、その宿屋はそんなに高くはないでせうねとたづねた。安かつたら二三日は泊りたいものである。





底本:「現代日本紀行文学全集 北日本編」ほるぷ出版
   1976(昭和51)年8月1日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:花田泰治郎
2005年8月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです




●表記について