幸福の彼方

林芙美子




     一

 西陽の射してゐる洗濯屋の狭い二階で、絹子ははじめて信一に逢つた。
 十二月にはいつてから、珍らしく火鉢もいらないやうな暖かい日であつた。信一は始終ハンカチで額を拭いてゐた。
 絹子は時々そつと信一の表情を眺めてゐる。
 長らくの病院生活で、色は白かつたけれども少しもくつたくのないやうな顔をしてゐて、耳朶の豊かなひとであつた。顎が四角な感じだつたけれども、西陽を眩しさうにして、時々壁の方へ向ける信一の横顔が、絹子には何だか昔から知つてゐるひとででもあるかのやうに親しみのある表情だつた。
 信一はきちんと背広を着て窓のところへ坐つてゐた。仲人格の吉尾が、禿げた頭を振りながら不器用な手つきで寿司や茶を運んで来た。
「絹子さん、寿司を一つ、信一さんにつけてあげて下さい」
 さう云つて、吉尾は用事でもあるのか、また階下へ降りて行つてしまつた。寿司の上をにぶい羽音をたてて大きい蝿が一匹飛んでゐる。絹子はそつとその蝿を追ひながら、素直に寿司皿のそばへにじり寄つて行つて小皿へ寿司をつけると、その皿をそつと信一の膝の上へのせた。信一は皿を両手に取つて赧くなつてゐる。絹子はまた割箸を割つてそれを黙つたまま信一の手へ握らせたのだけれども、信一はあわててその箸を押しいただいてゐた。
 ふつと触れあつた指の感触に、絹子は胸に焼けるやうな熱さを感じてゐた。
 信一を好きだと思つた。
 何がどうだと云ふやうな、きちんとした説明のしやうのない、みなぎるやうな強い愛情のこころが湧いて来た。
 信一は皿を膝に置いたまま黙つてゐる。
 硝子戸越しにビール会社の高い煙突が見えた。絹子は黙つてゐるのが苦しかつたので、小皿へ醤油を少しばかりついで、信一の持つてゐる寿司皿の寿司の一つ一つへ丁寧に醤油を塗つた。
「いや、どうも有難う‥‥」
 醤油の香りで、一寸下を向いた信一はまた赧くなつてもじもじしてゐた。絹子は信一をいいひとだと思つてゐる。何かいい話をしなければならないと思つた。さうして心のなかには色々な事を考へるのだけれども、何を話してよいのか、少しも話題がまとまらない。
 信一は薄い色眼鏡をかけてゐたので、一寸眼の悪いひととは思へないほど元気さうだつた。絹子は一生懸命で、
「村井さんは何がお好きですか?」
 と訊いてみた。
「何ですか? 食べるものなら、僕は何でも食べます」
「さうですか、でも、一番、お好きなものは何ですの?」
「さア、一番好きなもの‥‥僕はうどんが好きだな‥‥」
 絹子は、
「まア」
 と云つてくすくす笑つた。自分もうどんは大好きだつたし、二宮の家にゐた頃は、お嬢さまもうどんが好きで、絹子がほとんど毎日のやうにうどんを薄味で煮たものであつた。
 うどんと云はれて、急に御前崎の白い濤の音が耳もとへ近々ときこえてくるやうであつた。絹子と信一は同郷人で、信一は絹子とは七ツ違ひの二十八である。去年戦場から片眼をうしなつて戻つて来たのであつた。

     二

 ささやかな見合が済むと、一週間もたたないで二人は結婚の式を挙げた。千種町の駅に近いところに家を持つた。家を持つとすぐ、留守を吉尾に頼んで二人は御前崎の郷里へ帰つて行つた。
 信一の家は半農半漁の家で貧しい暮しではあつたが、父も兄夫婦も非常によいひとであつた。信一の母は信一の幼い時に亡くなつたのださうである。
 或晩、信一は絹子へこんな事を云つた。
「僕はね、家が貧しかつたから、中学を出たら一郡に秀でた金持になりたいと云ふのが理想だつたンだよ。――だけど、とうとう学資もつづかず中学を中途でやめてしまつて名古屋の陶器会社へ陶工にはいつてしまつた。そして、今度の戦争に征き片眼を失つて戻つて来た‥‥運命だとは思ふが、まア、命びろひをしたのも不思議な運命だし、君と一緒になつたのもこれも不思議な運命だね‥‥」
 信一は遠い昔をおもひ出したやうに炬燵に顔を伏せてゐた。濤の音がごうごうと響いてきこえた。
 信一の実家では子沢山で家が狭いので、近所の灯台のそばの茶店の一室を借りておいてくれたので、信一達はここで気兼のない日を過した。
 夜になると灯台の灯が遠くの海面を黄金色に染めてゐる。ぎらぎらするやうな白い光芒が暗い空の上で芒の穂のやうにゆらめく時がある。雨の晩の灯台の灯も綺麗だつた。

 絹子は村の高等小学を出ると、すぐ名古屋へ出て、親類の吉尾の世話で綿布問屋の二宮家へ女中奉公に住みこんでゐたのであつた。
 お嬢さまづきだつたので、絹子は何の苦労もなしに二十一まで暮してきたのだけれども、お嬢さんが、今年の春東京へ縁づいて行つてしまふと、絹子は二宮家を去つて親類の吉尾の家へやつかいになつてゐたのであつた。
 絹子は美しくはなかつたけれども、愛嬌のいい娘で、大柄でのんびりしてゐるのが人に好意を持たれた。絹子は二宮家にゐた間に、二度ほど縁談があり、一度は無理矢理に見合をさせられた事があつたけれども、絹子はその男を好かなかつた。相手はメリヤス商人で、もう相当女遊びもした男らしく、絹子にむかつても、はじめからいやらしいことを云つて黄いろくなつた歯を出して煙草ばかり吸つてゐた。
 絹子は厭だつたのですぐその縁談は断つて貰つた。
 絹子は結婚と云ふものが、こんなに浅薄なものなのかと厭で厭でならなかつた。そのくせ何かしら、自分の体は熱く燃えさかるやうな苦しさに落ちてゆく日もある。
 吉尾から信一の話を持つて来られた時には、絹子はほんとうはあまり気乗りがしてゐなかつたと云つていい。一度見合ひをしてこりてもゐたし、商人とか職工とかは絹子はあまり好きではなかつたのだ。会社員のやうな処へ嫁に行きたいのが絹子の理想だつたのだけれども戦場から片眼を失つて来てゐるひとと云ふことに何となく心をさそはれて、絹子は信一に逢つてみたのである。
 始めて逢つた時もいいひとだとは思つたけれども、結婚をしてみると、信一は思ひやりの深いよいひとであつた。
 絹子は、朝、眼が覚めるとすぐ大きい声で歌をうたふ信一がをかしくて仕方がなかつた。
 信一はきまつて子供の歌ふやうな歌を毎朝うたつた。

     三

 今日も昼の御飯が済むと、灯台の横から二人はコンクリートの段々を降りて汀の方へ歩いて行つた。寒い日ではあつたけれどもあまり風もなく四囲は森閑としてゐる。海老を取りに行く船が、沖へ網を張りに行つてゐた。
 起伏のゆるい砂の上には白い網が干してある。信一と絹子は網をしまふ藁小屋の壁へ凭れて砂の上へ坐つた。四囲が静かなので濤の音が肚の底にひびくやうだつた。鉛色の海を吹いて来る空気には薬臭いやうな汐の匂ひがしてゐた。
「うんと、この空気を吸つて帰りませうね」
 絹子が子供らしい事を云つた。信一は濤の音でもきいてゐるのか暫く黙つてゐたが、ふつと思ひ出したやうに、眉を動かして絹子の方へ向いた。
「煙草をつけてあげませうか?」
 絹子がハンカチの包みの中から煙草とマツチを出して、煙草を信一の膝へ置いた。
「ねえ、僕は一度、君にたづねてみようと思つたけれど、――吉尾さんは、いつたい僕のことをどんな風に云つたのかねえ?」
「どんな風つて‥‥」
「いや、僕の身の上のことに就いてさ‥‥」
「身の上つて、どんな事でせう‥‥」
「吉尾さんは、何だか、僕のことをかばつて、君には何にも話してゐないやうだね‥‥」
「だつて、どんな事を訊くンですの‥‥別に あなたの身の上の事なんか、いまさらどうでもいいぢやありませんか‥‥」
「いや、訊いてゐないとするとよくはないさ‥‥」
 絹子は何のことだらうと思ひながらマツチをすつた。青い火が指先きに熱かつた。信一はうまさうに煙草を吸つた。白い煙がすぐ海の方へ消えて行く。
「僕に子供があることを吉尾さんは話したかな」
 絹子は、
「えツ」
 と息を呑んで信一の顔をみつめた。
「それごらん、――吉尾さんは、そのことを君に話さなかつたンだね?」
 信一はさう云つて、黙つて立ちあがると、一人で汀の方へゆつくりゆつくり歩いて行つた。絹子は暫くその後姿を眺めてゐたけれども、何だか信一が嘘をついてゐるやうで仕方がなかつた。でも、子供があると云へば、信一の部屋にはたしかに子供の写真があつたと思へる。机の上だつたかしら、壁だつたかしら、絹子は信一が一度結婚したひとだとは考へてもゐなかつたので、そんな写真には不注意だつたのかも知れない。ちらと眼をかすめた子供の写真は、女の子の顔のやうだつた。
 絹子は信一の後を追つて、すぐ走つてゆきたかつたのだけれども、何となく信一をそのまま放つておきたい気持になつてゐた。
 あのひとに子供がある‥‥どうしても絹子には信じられなかつた。褞袍を着てインバネスを着て杖をついてゐる後姿がたよりなくふらふらしてゐた。
 絹子は煙草やマツチをハンカチに包んで立ちあがると、寒い海風のなかをよろよろと信一の方へ歩いて行つた。信一は小さい声で口笛を吹いてゐた。
「いやよ、そんなに一人で歩いて行つたりして‥‥」
 藁小屋のそばにゐる時は、そんなに寒いとも思はなかつたけれども、汀の方へ出てみるとはつと息がとまりさうな寒い風が吹いてゐた。
「風邪をひくといけないから戻りませう」
 絹子が信一のインバネスの袖をつかんで小さい声で云つた。誰もゐない浜辺は沙漠のやうに荒涼としてゐる。浜辺近くそそり立つてゐる丘の上には白い灯台が曇つた空へくつきりと浮き立つてゐる。絹子は、信一にたとへ子供があつた処で、それが何だらうと思つた。
 信一も、絹子に袖を握られたまま素直にもとの藁小屋の方へ戻つて来てくれた。

     四

 信一は二十二の時に名古屋へ出て、陶器会社の事務員に勤めてゐたのだ。輸出向きの陶器を製造する処で、非常に忙しい会社だつたが、信一は一年ばかりもすると少しばかりの貯金も出来たので、郷里から妻を貰つた。小柄なおしやべりな女だつたが、子供が生れると間もなく、この妻は子供を置いて信一の友達と満洲へ逃げて行つてしまつたのだ。
 信一は妻に去られて、子供をかかへて困つてしまつた。朝起きるとすぐ子供の世話をして近所へあづけて会社へ通はなければならない。夕方はあづけさきから子供を受取つて帰る、この日課が一年近くも続いたであらう。信一は子供が可愛くて仕方がなかつた。牛乳だけで、そだてる子供の肉体は、いつたいに弱いのが多いと云ふ新聞記事を見ると、信一は、人蔘やほうれん草をうでて、それをうらごしで漉しては牛乳と混ぜて飲ましてみた。時には乱暴にも、煮干をすり鉢ですつて、牛乳に混ぜて飲ましたりする事もある。だけど子供は不思議にぐんぐん大きくなり、近所のひとからは村井さんのとこの優良児さんと云ふやうなあだ名がついたりしてきた。
 むつきの世話から、着物のつくろひまで信一は一人でしなければならなかつた。幸福なことには一度も医者いらずな子供で、ちよつと腹工合を悪くしても、信一が帰つて診てやればすぐ子供の病気はよくなるのである。
 出征する時分には子供はもうはやはふやうになつてゐたけれど、今度だけは近所へあづけてゆくわけにもゆかないので、信一は子供を里子に出すことにして出征したのであつた。
 里子に出してしまへば、或ひはもうこのまま子供とは生き別れになるかも知れないと信一は思つてゐた。ひよいとして、自分は生命ながらへて戻つて来るとしても、子供は生きてはゐないだらうと思はれるのであつた。牛乳や、重湯でそだてることさへも大変な手数であるところへ、信一の子供は世間いつぱんの育児法と違つて、人蔘や、ほうれん草や、りんごの絞り汁を食べさせなければならない。信一は貯金を全部おろしてそれを子供へつけてやつた。御前崎の田舎へあづける工夫も考へないではなかつたけれども、兄は四人も子供を持つてゐたので信一はかへつて他人の家へ里子に出す事にしたのである。

 三年目に戦争から戻つて来ても、子供は丈夫にそだつてゐた。信一が逢ひに行つても、子供は信一の黒い眼鏡を恐がつて仲々なついては来ないのである。――里子の家でも、信一の子供を自分の子供のやうに可愛がつてゐてくれたせゐか、子供をかへしてくれと云はれるのが辛いと云つてお神さんが泣いて信一にうつたへるのであつた。
 信一は絹子と結婚してからも子供の事が忘れられなかつた。忘れようと思へば思ふほど、子供とたつた二人で辛い生活をしたかつての日の事を思ひ出すのである。去つた妻の事は少しも思ひ出さないのに、別れた子供の事だけは、夢のなかでも涙をこぼすくらゐに恋しくてならなかつた。
 人蔘を買つて来て、夜おそくそれをうでながら、子供と二人で遊んだ。子供は少しも泣かない丈夫さで、畳に放つておいてももぐもぐと唇をうごかして一人で寝転んだまま遊んでゐてくれた。
 うでた人蔘をすり鉢ですつて、牛乳でどろどろにのばして、その瓶を赤ん坊のそばへ持つて行つてやると、赤ん坊は可愛い足をばたばたさせてよろこんだものだ。
 信一は、きやつきやつと一人で笑つてゐる赤ん坊のそばで少しばかり酒をのむのが無上の愉しみであつた。うでのこりの人蔘に醤油をつけて酒の肴にしたりした。
 戦場へ出てゐても、信一は子供の写真を見ると、嗚咽[#「嗚咽」は底本では「鳴咽」]が出るほど哀しく切なかつた。女々しいほど子供に逢ひたくて仕方がなかつたのだ。黄梅の激しい戦ひの時であつた、信一は小学校の窓からそつと敵の状勢を眺めてゐた。立つてゐてはいまにあぶないよ。お父さんあぶないですよツと、さかんに、空中で赤ン坊の柔らかい手が自分の方へ泳いで来るやうに見えた。戦争最中には赤ん坊の事なぞは忘れてしまつてゐるはずだのに、さかんに赤ん坊の姿が激しく弾の飛んで来る空中に浮んでゐる。
 信一はどんどん撃つた。
 子供の手なぞは払ひのけながら、窓へ顔を出してどんどん撃つたが、急に頭の上へ何かどかんと落ちかかる音がしたかと思ふと、信一は顔面を熱い刀で切られたやうな感じがした。
 暗い穴のなかへ体がめり込むやうだつた。
 赤ん坊の泣き声が烈しく耳についてゐるやうであつたが、そのまま信一は気が遠くなつてしまつてゐたのだ。
 子供の柔らかい声が渦のやうに地の底から響いてくる。その音に誘はれるやうに信一はぐんぐん地の底へ落ちこんで行つた。
 内地の病院へ戻つて来ると、満洲へ行つてゐたはずの妻がひよつこり病院へ尋ねて来た。信一は腹立ちで口もきけなかつた。信一が黙つてゐるので、妻は最後に子供のゐる処を教へてくれと云つた。信一は妻に対してはもう何の気持もなかつたけれども、子供の事を云はれると妙に腹が立つて来て仕方がなかつた。

     五

「仏門の言葉に、煩悩は無尽なり、誓つて之を断たんことを願ふと云ふ言葉があるが、僕はいま、この子供の事だけはどうしても煩悩を断ちがたいのだ‥‥これをしつかりと絹子さんに話して、よかつたら来て貰つて下さいと、僕はくれぐれも吉尾さんへ云つておいたンだ‥‥世間の人は、傷ついて戻つて来た表面の僕だけに同情をしてくれて、何も彼も本当のものを隠して一時をとりつくろつてくれるンだけれど、――僕は、そんな事は将来に到つて、お互の不幸だと思ふ‥‥。と云つて、君と結婚してしまつていまさら、こんな事でどうにもならないけれど‥‥それにしても、結婚のはじめに、僕は本当は、君にこの話を、僕の口からもう一度しておかうと思つた。吉尾さんが、ひよいとしたら、君に云はないかも知れないとは思はないでもなかつたンだけど‥‥でも、僕も何だか弱い気持になつてゐて、君がほしくて仕方がなかつたンだらう‥‥。君はこの気持をわらふだらうが、これが人間の心と云ふものさ‥‥寿司に醤油をつけてくれたのが、僕はとてもうれしかつた。醤油の匂ひが涙の出るほどなつかしかつた‥‥」
 信一は話してしまふと吻としたやうに、砂をつかんでゐた手から、湿つて熱くなつた砂を膝の上へこぼしてゐる。
 絹子は海の上へいつぱい黒い烏が舞ひおりてゐるやうな錯覚にとらはれてゐた。私の良人にはかつて妻があり子供がある‥‥。信一の家へ着いた晩に、信一と兄が何かひそひそ話しあつてゐたことがあつたけれども‥‥絹子は、自分の前途が薄暗くなつたやうな気がしないでもない。
 絹子は暫く海の向ふをみつめてゐた。
 子供と二人で二階住ひをして、人蔘やほうれん草で赤ん坊をそだててゐたと云ふ信一の佗しい生活の暗さは、現在眼の前にゐる信一には少しもうかがへなかつた。
「ねえ‥‥」
「うん‥‥」
 うんと応へてくれた信一の言葉の中にはにじみ出るやうな温かいものがある。絹子はどうすればいいのか判らなかつた。十六の年から奉公をしてゐて、大家の奥ふかい処に勤めてゐたせゐか、絹子は自分が一足飛びに不幸な渕へ立つたやうな気がしないでもないのである。
「赤ちやんはいくつなの?」
「もう四ツだ。歌をうたふよ」
「逢ひたいでせう?」
「うん‥‥」
「奥さまはこつちなンでせう?」
「さア、何処にゐるンだか知らないねえ‥‥そんなものはどうでもいいさ‥‥」
「だつて‥‥」
「君は、僕と結婚した事を後悔してるンぢやないだらうね‥‥」
「‥‥」
 絹子はそつとハンカチをといて、また煙草とマツチを出した。「光」の箱からチヨークのやうな煙草を一本出して信一の唇に咥へさしてやると、信一は急に熱い手で絹子の指をつかんで、人差指だの、中指、薬指、小指と順々に絹子の爪を自分の歯で噛んでいつた。
 絹子は溢れるやうな涙で、咽喉がぐうつと押されさうだつた。

     六

 二人が御前崎から名古屋へ帰つて来たのは一週間ぶりである。
 暮れ近い街の姿は戦時といへども流石に忙しさうな気配をみせてゐた。
 二人の新居は四軒長屋の一番はじの家で、まだ建つたばかりなので木の香が四囲にただようてゐた。芯の柔らかい畳だつたけれども、それでも畳がぎゆうぎゆうと鳴つた。
 二人はまるで長い間連れ添つた夫婦のやうに、何も彼も打ちとけあつてゐる。
 信一は昔の陶器会社へ勤めをもつやうになつた。そして会社では薄呆んやりした片眼の視力をたよりに毎日ろくろを廻して働いてゐた。
 絹子が結婚をした知らせを二宮へ知らせてやると、東京のお嬢さんから美しい小さい鏡台が贈りとどけられた。さうして添へられた手紙の中には、絹さんのやうな幸福なひとはないと思ふ、自分は結婚して始めて、実家にゐた時の何十倍と云ふ苦労をしてゐます。もう、再び娘にもどる事は出来ないけれども、あの時がなつかしいと思ひますと云ふ事が書いてあつた。美しいお嬢さんではあつたけれども、結婚した相手のひとは、仲々の道楽家で、お嬢さんもやつれてしまはれたと店のひとが絹子に話してゐた。
 二階が六畳一間に、階下が六畳に四畳半に三畳。それに小さい風呂場もついてゐたし、狭いながらも小菊の咲いてゐる庭もある。
 千種町の駅も近かつたし、この辺は割合物価も安かつた。
 絹子は自分一人で信一の子供に逢ひに行つてみようと思つた。信一が何も云はないだけに信一の淋しさが自分の胸に響いて来たし、御前崎の砂浜でのことがはつきりと胸に浮んで来るのである。
 子供は大曾根と云ふところの雑貨屋にあづけてあつた。
 絹子が一人で大曾根まで子供に逢ひに行つてみたいと云ふと、信一も一緒に行かうと云ひ出して、二人は暮れの迫つた或る日曜日に、電車へ乗つて大曾根町へ行つた。電車の中は割合空いてゐた。絹子と信一の腰をかけてゐる前には、三人の子供を連れた夫婦が腰をかけてゐた。一番上の子は中学生らしく、胸に金釦のいつぱいついた外套を着てゐる。中は小学校六年生ぐらゐ、下は二年生ぐらゐででもあらうか、三人の男の子達は、父と母の間に腰をかけて熱田神宮へお参りをした話をしてゐた。父親は四十五六歳ぐらゐの年配で、肩から写真機をぶらさげたまま腕組みをして眠りこけてゐた。母親はよく肥えた柄の大きい婦人で、股を開いたやうにして窓へそり身になつて凭れてゐる。小さい子供が、吊革へぶらさがつたりするのを、時々たしなめては叱つてゐたが、子供達は時々母親の首へ手をかけては何か向ふへ着いてからのことをねだつてゐる風である。見てゐて、ほほゑましくなる風景であつた。絹子は、背中に汗がにじむやうな、くすぐつたいものを感じた。自分達の将来も、あの人達のやうに幸福にうまくゆくかしらと考へるのである。
 信一は、窓外の方へ顔をむけてうつらうつらしてゐた。
 絹子は前の親子を眺めてゐるのは愉しかつた。
 眠つてゐた良人は、眼をつぶつたままの姿で、ぽけつとから鼻紙を出すと、大きい音をさせて鼻をかんだ。鼻をかんでからも、丁寧に鼻を拭いて、その鼻紙を眼をつぶつたまま自分の膝のところへ持つてゆくと、横あひから肥えた妻君が逞しい腕を子供の膝ごしににゆつと突き出してその鼻紙を取つて自分の袂へ入れてしまつた。
 絹子はまるで、自分がした事を人に見られてでもゐるかのやうに赧くなりながら微笑してゐた。御主人は、鼻紙を妻君に渡してしまふと、また、手を膝の上へだらりとさげてよく眠つてゐる。子供達は走つてゆく窓外を眺めながら、きやつきやつとふざけあつてゐた。太つた妻君は股を開いたままの姿勢で、如何にも、三人の子供の母らしい貫禄をみせて悠々としてゐた。
 絹子はふつと、信一の方へ首を向けた。明るい世間へ出ると、何かに卑下してしまつてゐる、そんな淋し気な信一の姿を見ると、絹子は、自分の眼の前にゐる奥さんのやうに、雄々しく信一をかばつて、これからも末長く生活してゆかなければならないと思ふのであつた。この信一を捨てていつてしまつた女のひとへ激しく報いる為にも‥‥。
 絹子は自分もやがて幾人かの子供を産んで、あの女の人のやうに股を拡げて腰をかける日のことを考へるとほほ笑ましい気持であつた。その姿が少しもいやらしくは見えなかつたしかへつて三人の母として頼もしさへ見えた。絹子は自分もそつと下駄を離してそり身になつてみたけれども、若い絹子にはそれは何だか妙なものである。絹子は、無性にをかしくなつて来て、肩で信一の体を二三度強く押しつけた。何も知らない信一は窓外の方を向いたまま唇辺でくすくす笑つてゐるやうであつた。





底本:「林芙美子全集 第十五巻」文泉堂出版
   1977(昭和52)年4月20日発行
入力:林 幸雄
校正:花田泰治郎
2005年6月27日作成
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●表記について